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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK

 

 カナヤマ 日本歴史 辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 と 』。

 No.0823。

 

 

メ ニュー (目次)  #jpmenu     

■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

□ 日本史 辞典 (総合)    

□     ≪ 江戸幕府・将軍 ≫

       ≪ 徳川将軍家・当主 ≫

       ≪ 江戸時代の徳川本

         家(宗家)・当主 ≫

 

       ● 将軍就任順、事柄順。

          □ 徳川氏 画像アルバム 

            No.1

〇 とく   徳川 家康。 

             (とくがわ いえやす)。

         (⇒ 徳川 家康)。

         (将軍在任 :1603年〜1605年)。

         (生没年:1542年〜1616年)。

          ○ 江戸幕府の創立者、初代将軍。

         ○ 三河国の国人(こくじん)出身の

                     戦国大名。

          ○ 三河国・岡崎城主の松平広忠

             子。

          ○ 徳川 本家(宗家)当主 (当主:

          1566年〜1605年)。

〇 とく  徳川 秀忠 

            (とくがわ ひでただ)。

         (将軍在任:1605年〜1623年)。

         (生没年:1579年〜1632年)。

          ○ 江戸幕府・第2代将軍。

          ○ 初代将軍・家康(いえやす)の子。

〇 とく  徳川 家光 

            (とくがわ いえみつ)。

         (将軍在任:1623年〜1651年)。

         (生没年:1604年〜1651年)。

          ○ 江戸幕府・第3代将軍。

          ○ 第2代将軍・秀忠(ひでただ)の子。

〇 とく  徳川 家綱 

            (とくがわ いえつな)。

         (将軍在任:1651年〜1680年)。

         (生没年:1641年〜1680年)。

          ○ 江戸幕府・第4代将軍。

          ○ 第3代将軍・家光(いえみつ)の子。

〇 とく  徳川 綱吉 

            (とくがわ つなよし)。

         (将軍在任:1680年〜1709年)。 

         (生没年:1646年〜1709年)。

          ○ 江戸幕府・第5代将軍。

          ○ 館林徳川家出身で、第3代

          将軍・家光(いえみつ)の 子。

〇 とく  徳川 家宣 

            (とくがわ いえのぶ)。

         (将軍在任:1709年〜1712年)。

         (生没年:1662年〜1712年)。

          ○ 江戸幕府・第6代将軍。

          ○ 甲府徳川家出身で、第3代

          将軍・家光(いえみつ)の孫。

〇 とく  徳川 家継 

            (とくがわ いえつぐ)。

         (将軍在任:1713年〜1716年)。 

         (生没年:1709年〜1716年)。

          ○ 江戸幕府・第7代将軍。

          ○ 第6代将軍・家宣(いえのぶ)の子。

〇 とく  徳川 吉宗 

           (とくがわ よしむね)。

         (将軍在任:1716年〜1745年)。

         (生没年:1684年〜1751年)。

          ○ 江戸幕府・第8代将軍。

          ○ 紀州徳川家出身で、初代将

         軍・家康(いえ やす)の曾孫(ひまご)

〇 とく  徳川 家重

                        (とくがわ いえしげ)。

         (将軍在任:1745年〜1760年)。 

         (生没年:1711年〜1761年)。

          ○ 江戸幕府・第9代将軍。

          ○ 第8代将軍・吉宗(よしむね)の子。

〇 とく  徳川 家治 

                         (とくがわ いえはる)。

         (将軍在任:1760年〜1786年)。 

         (生没年:1737年〜1786年)。

          ○ 江戸幕府・第10代将軍。

          ○ 第9代将軍・家重(いえしげ)の子。

〇 とく  徳川 家斉

                        (とくがわ いえなり)。

         (将軍在任:1787年〜1837年)。

         (生没年:1773年〜1841年)。

         ○ 江戸幕府・第11代将軍。

          ○ 一橋徳川家出身で、第8代

         将軍・吉宗の曾孫(ひまご)

〇 とく  徳川 家慶

            (とくがわ いえよし)。

            (将軍在任:1837年〜1853年)。

         (生没年:1793年〜1853年)。

          ○ 江戸幕府・第12代将軍。

          ○ 第11代将軍・家斉(いえなり)

             の子。

〇 とく  徳川 家定

            (とくがわ いえさだ) 。

            (将軍在任:1853年〜1858年)。

         (生没年:1824年〜1858年)。

          ○ 江戸幕府・第13代将軍。

          ○ 第12代将軍・家慶(いえよし)

             の子。

〇 とく  徳川 家茂

           (とくがわ いえもち)。

         (将軍在任:1858年〜1866年)。

         (生没年:1846年〜1866年)。

          ○ 江戸幕府・第14代将軍。

          ○ 紀州徳川家出身で、第11

         代将軍・家斉(いえなり)の孫。

〇 とく  徳川 慶喜 

            (とくがわ よしのぶ)。

            (= 一橋(ひとつばし)慶喜)。 

            (将軍在任:1866年〜1867年)。 

         (生没年:1837年〜1913年)。 

          ○ 江戸幕府・第15代将軍。

          ○ 水戸徳川家・一橋徳川家出

         身で、水戸藩主・徳川斉昭(なり

          あき)の子。

          ○ 徳川 本家(宗家)当主(当主:

          1866年〜1868年。

 

 

〇 とく  江戸幕府・将軍

〇 とく  徳川 家康

〇 とく  徳川政権

〇 とく  徳川氏(家)

〇 とく  徳川本家(宗家)

〇 とく  江戸時代の徳川本家

       (宗 家)

〇 とく  徳川将軍家

〇 とく  徳川将軍家 ・当主

〇 とく  徳川本家(宗家)の

       当主以外の人々

〇 とく  徳川分家の人々

 

 

□ 日本史 辞典 の 「と」 基本見出し語

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■  『 現在は、過去の成果であり、

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◆ 日本史辞典

 

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#tokugawahidetada

 

■ 徳川 秀忠 

    (とくがわ ひでただ)。

 

■ 徳川 秀忠。 

■ 名称 : 徳川 秀忠 (とくがわ ひでただ)。

■ 生没年 : 1579年〜1632年。 

■ 徳川秀忠は、

   江戸幕府(= 徳川幕府)の、第2代将軍

   (将軍在任 :1605年〜1623年)である。

■ 徳川秀忠は、

   江戸幕府(= 徳川幕府)の初代将軍・徳川

   家康(いえやす)の子 である。

■ 徳川秀忠は、

   浅井(あざい)3姉妹の1人で嫉妬深い、

   お江(おごう、お江与)の3番目の夫である。

 徳川家康の詳細な内容に関しては、

  「徳川 家康 ガイドブック」を参照してください。

 江戸幕府の詳細な内容に関しては、

  「江戸幕府 関連出来事」を参照してください。

 徳川本家(宗家)、徳川将軍家に関しいて

  は、 「徳川 本家(宗家)徳川将軍家」を

  参照してください

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11636。

 

□ 徳川氏 画像アルバム No.1

□ 徳川氏 画像アルバム No.1

□ 徳川秀忠の宝塔 (増上寺・徳川

   家霊廟内)

 

■ 徳川秀忠。

  ■ 徳川秀忠 (とくがわ ひでただ、生没年:

  1579年〜1632年) は、 江戸幕府の、

  第2代将軍 (将軍在任、1605〜1623年 

  である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川 秀忠・江戸幕府の第2代将軍就任。

  ● 1605年(慶長10年)に、徳川 秀忠 (と

    くがわ ひでただ、台徳院、生没年:1579

    年〜1632年)は、 江戸幕府(= 徳川幕

    府)の、2代将軍 (将軍在任:1605年

    〜1623年)に就任する。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川秀忠は、 江戸幕府(= 徳川幕府) の

   初代将軍の徳川家康(とくがわ いえやす)

   の子である

 

  ■ 徳川秀忠の将軍就任後、 江戸幕府の実

  権は、初めは、大御所(おおごしょ、隠居後の

  前将軍)の徳川家康の手にあった。 

    徳川秀忠は、 徳川家康死去後、江戸幕府

  の実権を得る。

 

  ■ 徳川秀忠は、 禁中並公家諸法度(きんち

  ゅうならびにくげしょはっと)・武家諸法度(ぶ

  けしょはっと)の制定、 キリシタン禁制の強化、

  貿易地の制限 など草創期の江戸幕府の権力

  の確立に努めた。

 

■ 徳川秀忠の一族。

  ■ 徳川秀忠の父は、 徳川家康である。

 

  ■ 秀忠の乳母(うば)は、大姥局(おおばのつ

    ぼね)である。

 

  ■ 秀忠とお江(おごう、2番目の正室・夫人)の

    間に、 徳川家光(いえみつ、後の江戸幕府・

    第3代将軍) と 徳川忠長(ただなが)の2

    人の男子がいた。 

 

  ■ 秀忠とお志津(おしづ、側室・夫人)との間

    に、保科正之 (ほしなまゆさき、会津藩祖) 

    という1人の男子がいた。

 

  ■ 徳川秀忠は、 江戸幕府の第2代将軍で、 

    将軍の在任期間は、 1605年から1623  

    年までであった。 

       徳川秀忠は、将軍の退任後(隠居後)も、 

    「大御所」(おおごしょ)として、 院政をひき、 

    死去する1632年まで、 江戸幕府の 政治の

    実権を握っ ていた。

 

■ 徳川 秀忠の夫人と子供。

  ■ 秀忠には、生涯に、正室夫人2人と側室夫

    人2人がいた。

 

  ● 秀忠の1番目の正室夫人は、小姫(おひめ、

    織田信雄の長女)で、離縁した。

 

  ● 秀忠の2番目の正室夫人は、 お江 (おご

    う、(ごう)、お江与(おえよ)、崇源院(すう

    げんいん))である。 秀忠・お江の二人は、

    円満で、秀忠は、お江(おごう)との間に、

    2男5女をもうける。 

 

  ● 秀忠の側室夫人は、 長丸(ちょうまる)を

    生んだ側室夫人 (名不詳、「幕府祚胤伝) 

    と、 保科正之を生んだ、お志津 (おしづ、

    お静 、「武蔵国一ノ宮氷川神社の安産祈願

    文」) である。 

      

  ■ 徳川秀忠の夫人は、 正室夫人2人  と、 

    側室夫人2人である。

  ● 徳川 秀忠の1番目の正室・夫人は、 小姫  

    (おひめ、織田信雄の長女) である。

    1584年頃より秀吉の養女となっていた、小

    姫は、1590年に、 秀忠と婚儀を結ぶ(政

    略結婚で)。 小姫の実父の織田信雄と豊臣

    秀吉が不和になったため、 秀忠は、同年、

    小姫と、離縁する。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ● 徳川 秀忠の2番目の正室・夫人は、  15

    95年(文禄4年)に(政略結婚で)婚儀を

    結んだ、お江  (おごう、(ごう )、お江与

    (おえよ) 、崇源院(すうげんいん)) である。  

       秀忠は、お江(おごう)とは 円満で、 

    お江との間に、2男5女をもうける。

 

  ● 側室夫人は、 長丸(ちょうまる)を生んだ

    側室夫人(名不詳) と、 保科正之を生ん

    だ、お 静(おしず、お志津、浄光院)である。

       正室夫人のお江は、 嫉妬(しっと)深

    く、側室夫人の生母と子に危害を加える可

    能性があるので、秀忠は、お 静と幸松(

    科正之を 、お江と離し、別の場所に住まわ

    せた。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川秀忠の実子は、 長丸(ちょうまる、長

  男、早世)、徳川家光(とくがわいえみつ、次男)、 

  徳川忠長(とくがわただなが、三男)、 保科正之

  (ほしなまさゆき、四男)、 千姫(せんひめ、長

  女)、 珠姫(たまひめ、次女)、 勝姫(かつひめ、

  三女)、 初姫(はつひめ、四女)、 徳川忠長(と

  くがわただなが、三男)、 和子(まさこ、かずこ、

  徳川和子、五女) である。

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

  ■ 徳川秀忠の実子は、 

   生まれた順番で並べると、 

  (1) 千姫(せんひめ、長女、1597−1666年)、 

  (2) 珠姫(たまひめ、次女、1599−1622年)、 

  (3) 勝姫(かつひめ、三女、1601−1672年)、 

  (4) 長丸(ちょうまる、早世、1601-1602年、

     長男)、 

  (5) 初姫(はつひめ、四女、1602−1630年)、 

  (6) 徳川家光(とくがわいえみつ、次男、1604

     −1651年)、 

  (7) 徳川忠長(とくがわただなが、三男、1606

     −1633年)、 

  (8) 和子(かずこ、まさこ、五女、1607−16

     78年)、

  (9) 保科正之 (ほしなまさゆき、四男、1611

     −72年) 

  である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 長丸 (早世、1601-1602年、長男)は、 

    徳川秀忠の長男で、 生後数か月で、亡くな 

    る (「幕府祚胤伝)。 生母は、不明で、 身

    分の低い侍女か、または、正室夫人のお江

    (おごう)と言われている。

 

  ■ お江(おごう)は、 浅井3姉妹(あざいさん

    しまい)の1人で、徳川秀忠は、3番目の夫

    である。

       お江は、 1番目の夫とは離縁し、2番目

    の夫とは死別する。

      徳川秀忠は、 年上の姉さん女房の、お

    江(おごう)との間に、2男5女をもうける。

    ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

  ■ 徳川秀忠 と お江 (おごう、秀忠正室夫人)

    との間に、 徳川家光(いえみつ、後の江戸幕

    府・3代将軍) と 徳川忠長(ただなが)の2人

    の男子がいた。 

 

  ■ お江 (おごう、お江与、崇源院)は、 近江

    (おうみ、滋賀県)の戦国大名、浅井長政 と 

    織田信の妹 ・お市 との間に生まれ娘 (三

    女) であり、 豊臣秀吉の側室夫人の茶々

    (淀殿)の実妹で ある。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川秀忠 と お 静 (おしず、お志津、浄

    光院、秀忠側室夫人) との間に、1人の男子 

    がいた。 その男子とは、会津藩・初代藩主 

    (会津藩祖、会津・松平家初代当主)の保科

    正之 (ほしな まさゆき)である。  

       保科正之は、 優秀で、将軍を補佐し、

    初期の江戸幕府を支える。

 

 

♪♪ 徳川秀忠が登場する、興味深い

    関連ドラマ、映画、ドキュメンタリ

    ー。 

 

★ 徳川秀忠が登場する、興味深い関

   連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれていま

   す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』。

    (NHKテレビの2011年大河ドラマ) 

  ■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山

    時代、江戸時代初期を描く。

  ■ 徳川家康、徳川秀忠、お江(おごう)、

    長丸、徳川家光春日局、徳川忠長

    保科正之、大姥局(おおばのつぼね)

    などを描く。

 

  ● 徳川 秀忠を演じた俳優名 : 向井 理

     (むかい おさむ)。

  ● 秀忠夫人で、秀忠次男・竹千代(徳川

    家光)、秀忠三男・国松(徳川忠長)をを

    出産した、お江(おごう)を演じ た女優名

    : 上野 樹里 (うえの じゅり)。

  ● 秀忠夫人で、秀忠長男の長丸(早世)を

    出産した「なつ(仮称)」を演じた女優名: 

    朝倉 あき (あさくら あき)。

  ● 秀忠夫人の子で、後に会津藩初代藩主

    となる、幼少の保 科幸松(保科正之)を

    演じた俳優名 : 小林 海人。

 

■ 『 天下騒乱〜徳川三代の陰謀  

     (てんかそうらんとくがわさんだいのい

      んぼう) 』。 

   (テレビ東京・2006年制作テレビドラマ)。 

  ■ 江戸時代前期を描く。

  ■ 徳川家康、徳川秀忠、お江(おごう)、

    徳川家光春日局、徳川忠長、和子(か

    ずこ、まさこ)、柳生宗矩、柳生十兵衛、

    などを描く。

    

  ● 徳川秀忠を演じた俳優名: 山下 真司。

 

■ 『 大奥・第一章 

     (おおおく だいいっしょう) 』

    (フジテレビ・2004・2005年

     制作テレビドラマ)。

  ■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山

    時代、江戸時代前期を描く。

  ■ 徳川家康、徳川秀忠、お江(おごう)、

    徳川家光春日局、徳川忠長、大姥

    局(おおばのつぼね)などを描く。

    

  ● 徳川 秀忠を演じた俳優名 : 

    渡辺いっけい。

 

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#tokugawaiemitsu

 

■ 徳川 家光  

    (とくがわ いえみつ)。

 

■ 徳川 家光。 

■ 名称 : 徳川 家光 (とくがわ いえみつ)。

● 幼名は、竹千代。

■ 生没年 : 1604年〜1651年。 

■ 江戸幕府の、第3代将軍 

  (将軍在任、1623〜1651年)。 

■ 2代将軍・秀忠( ひでただ)の子。

■ 江戸幕府の基礎を築いた将軍。

■ 徳川宗家(本家)、徳川将軍家の全体について

  は、 「徳川宗家 (本家)・徳川将軍家」を参照し

  てください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11632。

 

□ 徳川氏 画像アルバム No.1

□ 徳川家光が登場する、興味 深い、

   ドラマ、映画

 

 

■ 徳川家光。

  ■ 徳川 家光 (生没年:1604〜1651年) 

    は、 江戸幕府(= 徳川幕府)の、第3代将軍 

    (将軍在任 :1623年〜1651年) である。 

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川 家光・江戸幕府の第 3代将軍就任。

  ● 1623年(元和9年)に、徳川 家光 (とく

    がわ いえみつ、大猷院(だいゆういん)、

    生没年:1604年〜1651年) は、 江戸

    幕府(= 徳川幕府)の3代将軍  (将軍

    在任:1623年〜1651年)に就任する。

    

  ■ 徳川家光は、 江戸幕府・初代将軍の、徳

    川家康(とくがわいえやす)の孫で、 江戸幕

    府・第2代将軍の、徳川秀忠(とくがわひで

    ただ)の 子である。

 

 

■ 徳川家光。

■ 徳川家光は、 松平信綱(まつだいらのぶつな)

  らの補佐を得て、 江戸幕府の職制、参勤交代

  制(さんきんこうたいせい)などの諸制度を整備

  し、 田畑永代売買禁止令 (でんばたえいだい

  ばいばいきんしれい)などを発し、島原の乱後、

  鎖国を断行し、 幕藩体制を確立した。

     

 

■ 徳川家光の父 は、 徳川秀忠  である

■ 徳川家光の生母。

    徳川家光の実母(生母) は、 お江(おごう、

  小督、お江与、崇源院) である。

■ 徳川家光の乳母(うば)。

    徳川家光の乳母(うば)は、 お福(おふく、

  日局(かすがのつぼね)) である。

 

■ 徳川家光の夫人。

    徳川 家光の夫人 は、 正室夫人の 、孝子

  (たかこ)、 側室夫人の、お楽(おらく、宝樹院)、 

  お玉(おたま、桂昌院)、 お夏(おなつ、順性院)な 

  どである。

 TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 徳川家光の兄弟姉妹。

    徳川家光の兄弟姉妹は、 異父姉妹は、完子

  (さだこ)、 同父母兄弟姉妹は、 千姫(せんひ 

  め)、 珠姫(たまひめ)、 勝姫(かつひめ)、 初

  姫(はつひめ)、 徳川忠長(とくがわただなが)、 

  和子(まさこ、かずこ、徳川和子)、 異母兄弟は、  

  長丸、保科正之(ほしなまさゆき)  である。

 TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 徳川家光をささえた人々。

    徳川家光の乳母(うば、めのと)のお福(春日

  局) や、 柳生 宗矩 (やぎゅう むねのり、柳生

  但馬守(たじまのかみ)、幕府惣目付(大目付)、

  生没年1571−1646年) や、 松平 信綱(ま

  つだいら のぶつな、松平伊豆守(いずのかみ)、

  生没年1596−1662年) が、 徳川家光を支

  えた。

 TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 徳川家光の乳母(うば)のお福(春日局)。

■ 家光の乳母(うば)の、お福(春日局(おふく、春

  日局(かすがのつぼね)) は、 1582年に本能

  寺の変智光秀(あけちみつひで)の重臣であ

  ったため秀吉に捕えられ処刑さ れた斎藤 利三

  (としみつ)の娘 であった。

     父の死後、 母方の親戚にあたる京(都)の

  公家の三条西家(さんじょうにしけ)で養育され、 

  その後、関ヶ原の戦いで主君・小早川秀秋を説得

  して東軍に寝返らせた秀秋の家臣であった稲葉

  正成(いなば まさなり)の夫人 になる。

     お福(春日局)の公家の教養 と お福(春日

  局)の夫・稲葉正成の戦功が評価されて、 160

  4年(慶長9年)に、 徳川家康が、 お福(春日局)

  を、 徳川家光(竹千代)の乳母(うば)に任命した。

 

■ 2代将軍・徳川秀忠 と  正室・お江(おごう) の

  夫妻が、 竹千代(家光)の弟の 国松 (くにまつ、

  徳川忠長(ただなが))  を溺愛(できあい)してい

  ため、 竹千代(たけちよ、徳川家光)の乳母のお

  福(春日局) は、 次期3代将軍が国松になるこ

  とを恐れ、 1615年(元和 (げんな)元年)に、駿

  府城にいる大御所の徳川家康を訪れ、 家康に竹

  千代を世継ぎとして確定させるように、直訴(じき

  そ)した。

      その後、 竹千代(家光)が、 世継ぎとして確

  定し、 徳川家光は、 江戸幕府の3代将軍 となっ

  た。

 

■ 徳川 家光の、夫人と子供。

■ 徳川 家光の、夫人 は、 正室夫人の 、孝子(た

  かこ)、 側室夫人の、お楽(おらく、宝樹院)、 

  お玉(おたま、桂昌院)、 お夏(おなつ、順性院) 

  などである。

 

■ 3代将軍の徳川家光 は、 元々、あまり女性に

  は興味がなく、 正室夫人の孝子(たかこ)とは

  うまくいかず、 気がすすまず乗る気でなかった

  が、 お福(春日局) が町でスカウトした体の丈

  夫な町娘を勧(すす)められ、 娶(めと)らされ

  て、 将軍の世継ぎを確保した。 

 

■ 体の丈夫な町娘の、お楽(おらく、宝樹院)、お

  玉(おたま、桂昌院)、 お夏(おなつ、順性院)

  の3人 が、 3代将軍の徳川家光との間に、

  3人の男子を産み、 後に、病気などで早世す

  ることもなく、 無事に元服(成人)した。 

     お楽(おらく、宝樹院)が、 後に4代将軍・

  徳川家綱(いえつな)となる男子・竹千代 (家光

  長男) を産み、 お夏(おなつ、順性院)が、 後

  に6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)の父・徳川綱

  重(つなしげ)となる男子・長松 (家光三男) を

  産み、 お玉(おたま、桂昌院)が、 後に5代将

  軍・徳川綱吉(つなよし)となる男子・徳松 (家

  光四男) を産む。 

 

● お楽(おらく、宝樹院) は、 家光側室夫人で、 

  4代将軍・徳川家綱(いえつな)の生母 となる。

● お夏(おなつ、順性院) は、 家光側室夫人で、 

  徳川綱重 (つなしげ)の生母となり、 6代将軍・

  徳川家宣(いえのぶ)祖母 となる。

● お玉(おたま、桂昌院) は、 家光側室・夫人で、 

  5代将軍・徳川綱吉(つなよし)の生母 となる。

 

 

■ 江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の子。

    徳川秀忠の実子は、  長丸(ちょうまる、長男、

  早世)、 徳川家光(とくがわいえみつ、次男)、 

  徳川忠長(とくがわただなが、三男)、 保科正之

  (ほしなまさゆき、四男)、 千姫(せんひめ、長女)、 

  珠姫(たまひめ、次女)、 勝姫(かつひめ、三女)、 

  初姫(はつひめ、四女)、 和子(まさこ、かずこ、

  徳川和子五女) である。

 

 

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♪♪ 徳川家光 が登場する、興味深いドキ

    ュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 徳川家光 が登場する、興味深いドラマ、

   映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれていま

   す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 。 

      (NHKテレビ・2011年 大河ドラマ) 

● 幼少の徳川竹千代(たけちよ、徳川家光)を

  演じた俳優名 : 水原 光太 (みずはら 

  こうた)。

● 成人の徳川家光を演じた俳優名 : 木咲 

  直人。

● 徳川家光の正室夫人の孝子(たかこ)を演

  じた俳優名 : 葛西 幸菜。

 

■ 『 天下騒乱〜徳川三代の陰謀 

      (てんかそうらん〜とくがわさんだいのい

     んぼう) 』。 

   (テレビ東京・2006年制作テレビ

    ドラマ)。 

● 徳川家光を演じた俳優名 : 池内 博之。

 

■ 『 大奥・第一章 (おおおく だいいっ

      しょう) 』 。 

   (フジテレビ・2004・2005年制作

   テレビドラマ)。

● 徳川家光を演じた俳優名 :  西島 秀俊。

 

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#tokugawaietsuna

 

■ 徳川 家綱  

      ( とくがわ いえつな)

 

■ 徳川 家綱

■ 名称 : 徳川 家綱 (とくがわ いえつな)。

■ 生没年 : 1641年〜1680年

■ 江戸幕府の、第4代将軍

  (将軍在任、1651〜1680年)。

■ 3代将軍・家光(いえみつ)の子。

■  病弱。

■ 徳川宗家(本家)、徳川将軍家の全体について

  は、 「徳川宗家 (本家)・徳川将軍家」を参照し

  てください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 42314。

 

■ 徳川 家綱。

  ■ 徳川 家綱 (とくがわ いえつな、生没年:

    1641年〜1680年)は、 江戸幕府(= 徳

    川幕府)の、第4代将軍 (将軍在任 :1651

    年〜1680年 である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川 家綱・江戸幕府の第4代将軍就任。

  ● 1651年(慶安4年)に、徳川 家綱 (とく

    がわ いえつな、厳有院、生没年:1641年

    〜1680年) は、 江戸幕府(= 徳川幕府)

    の4代将軍 (将軍在任:1651年〜16

    80年)に就任する。

 

  ■ 徳川 家綱は、 江戸幕府の第3代将軍・

    徳川家光(いえみつ)の子である。

 

 

■ 徳川 家綱。

■ 徳川 家綱の生母は、 3代将軍・徳川家光の側

  室夫人のお楽(おらく、宝樹院) である。

 

■ 徳川 家綱 は、 病弱 であった。

    徳川 家綱 は、 幼少で将軍となり、病身で

  あったので、 松平信綱(まつだいらのぶつな)、

  保科正之(ほしなまさゆき)、酒井忠清らが政治

  を補佐し、 老中を中心とする幕府政治の基礎

  が確立する。

 

■ 徳川 家綱の治世は、 文治政治(ぶんちせい

  じ)への転換期に当たり、 殉死の禁などが行わ

  れた。

 

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#tokugawatsunayoshi

 

■ 徳川 綱吉  

    (とくがわ つなよし)。

 

■ 徳川 綱吉。 

■ 名称 : 徳川 綱吉 (とくがわ つなよし)。

■ 生没年 : 1646年〜1709年。 

■ 徳川 綱吉は、

  江戸幕府の、第5代将軍 (将軍在任:

  1680年〜1709年) である。

■ 徳川 綱吉は、

  江戸幕府・第3代将軍・徳川家光(いえみつ)

  の子である。

■ 徳川 綱吉は、日本人の意識改革を実行し

  た将軍。 

  ● 徳川 綱吉は、ヒトを含め生き物への憐

  (あわ)れみを説き、弱者保護、人権尊重、

  動物愛護の精神を日本人に植え付け、「や

  さしく親切な心」を日本人に植えつけた政治

  家である。

 徳川 綱吉は、

  特に犬を大切にしたため、犬公方 (いぬく

  ぼう)とも呼ばれる。

■ 徳川本家(宗家)、徳川将軍家の全体につ

  いては、 「徳川本家(宗家)徳川将軍家

  を参照してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11635。

 

□ 徳川 綱吉が登場する、興味深い、

   ドキュメンタリー、ドラマ、映画

 

 

■ 徳川 綱吉。

  ■ 徳川 綱吉・江戸幕府・第5代将軍

  ● 徳川 綱吉 (とくがわ つなよし)、生没年:

  1646年〜1709年)は、 江戸幕府の 第5代

  将軍 (将軍在任 :1680〜1709年である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川 綱吉・江戸幕府の第5代将軍就任。

  ● 1680年(延宝8年)に、徳川 綱吉 (とく

    がわ つなよし、生没年:1646年〜1709

    年)は、 江戸幕府(= 徳川幕府)の5代

    将軍 (将軍在任:1680年〜1709年)

    に就任する。

 

  ■ 徳川 綱吉館林徳川家出身・徳川家光

    の子。

  ● 徳川 綱吉は、 館林徳川家出身であり、

    江戸幕府の第3代将軍・徳川家光(とくが

    わいえみつ)の子である。

 

  ■ 徳川綱吉の治世に、 元禄文化が現出

    する。

 

 

 将軍絶対・独裁政権を打ち立てた

   徳川綱吉。

  ■ 徳川綱吉は、 将軍絶対・独裁政権を打

  ち立てる。

  ● 徳川綱吉の側用人起用。

     徳川綱吉は、 1680年の江戸幕府の第

  5代将軍就任後、 側用人(そばようにん)とい

  う自分の側近を通じて、自分の意見を日本の

  政治に反映させるシステムをつくる。 

     前の江戸幕府第4代将軍の徳川家綱(い

  えつな)の時代では、 日本の政治の実権は

  江戸幕府の老中(ろうじゅう)が握っていた。

     徳川綱吉は、 将軍と老中との間に、側

  用人(そばようにん)という秘書官を置き、自分

  の意向は側用人に伝え、老中の意見を側用人

  に伝えさせ、老中を遠ざけ、老中の力を削(そ)

  ぐシステムを作る。

     側用人を置くことにより、徳川綱吉は、 

  軍主導の政治を行えるようになる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 徳川綱吉の政策。

  ■ 徳川綱吉は、 江戸幕府の法令の改定を

   積極的に行う。

  ● 徳川綱吉は、 武家諸法度(ぶけしょはっ

  と)の改定を行う。

    武家諸法度(ぶけしょはっと)とは、 徳川

  氏の江戸幕府が代々発令してきた、大名の

  行動規範である。

     徳川綱吉が改定した武家諸法度を、天和

  令(てんなれい)の武家諸法度という。

     徳川綱吉が改定した天和令の武家諸法度

  は、武から文への移行を図(はか)った武家諸

  法度であった。 礼儀や秩序を重んじた。 武家

  諸法度の文頭に、「文武忠孝を励(はげ)まし、

  礼儀を正すべき事」と記されている。

     徳川綱吉は、武力を背景にして行われる

  「武断政治」(ぶだんせいじ)から、学問や教育

  などによる文治政治(ぶんじせいじ)への転換

  をめざす。

     徳川綱吉が改定した天和令(てんなれい)

  の武家諸法度に基づいて発令されたものが、

  「生類憐みの令」(しょうるいあわれみのれい) 

  である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川 綱吉は、 文治政治(ぶんじせいじ)

   により幕政を指導する。

  ● 徳川 綱吉は、儒教(じゅきょう)を綱吉政権

  の基本理念としてとり入れる。 徳川 綱吉の政

  策には、儒教の精神が反映されている。

     徳川 綱吉は、 儒学の朱子学を官学化し、

  儒教の学問所を設立し、湯島聖堂(ゆしませい

  どう、1690年創建)を建て、儒教を教えさせ、

  封建教学の殿堂とした。

     儒学(じゅがく)とは、儒教を修得する学問

  である。

 

■ 儒教。

  ■ 日本の江戸時代前期に、江戸幕府が、日本

  を秩序だった社会に作り変えていくときに、儒教

  が大きな役割を果たし、その後、儒教は、江戸時

  代の人々の基本理念の1つとなった思想である。

 

  ● 儒教とは、 五倫五常(ごりんごじょう)の教

  えであり、五常(ごじょう)という道徳を修(おさ)

  めることで五倫(ごりん)という関係を維持するこ

  とであり、 5つの徳をみがくことにより5つの人

  間関係を守ることである。

     五常(ごじょう)とは、 5つの徳であり、仁

  (じん、博愛)、義(ぎ、道理)、礼(れい、礼儀)、

  智(ち、知性)、信(しん、信用)である。

     五倫(ごりん)とは、 5つの人間関係であ

  り、 父子の親(ふしのしん)、 君臣の義(くん

  しのぎ)、 夫婦の別(ふうふのべつ)、 長幼の

  序(ちょうようのじょ)、 朋友の信(ほうゆうのし

  ん)である。

 

 

■ 徳川綱吉の政策。

  ■ 徳川 綱吉は、 生類憐みの令(しょうるい

  われみのれい)を発し、 日本人の意識改

  革を実行した。 

     徳川 綱吉は、弱者保護、人権尊重、動

  物愛護の精神を日本人に植え付けた、政治家 

  であり、 「やさしく親切な心」を日本人に植えつ

  け、ヒトを含め生き物への憐(あわ)れみを説

  いた将軍である。 犬公方(いぬくぼう)とも呼

  ばれた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川 綱吉は、 治世の初め、堀田正俊を

  大老にし、治績(ちせき)をあげ、天和の治と

  呼ばれる。

    徳川 綱吉は、 晩年は、政治に飽(あ)きて

  側用人の柳沢吉保に政治を任せ、また、荻原

  重秀の議により、元禄金銀貨(質の悪い)を乱

  発し、インフレを招く。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川綱吉は、 江戸幕府の公金・約700

  億円を使い、日本中の多くの寺社仏閣を整備

  し(再建・修復)し、 多額の費用で人命救済・

  動物保護の施設をつくり、また、幕府財政改

  善のため貨幣改鋳(改悪)を行い、大量の金

  銭が日本中に出回り、 日本の経済は、好景

  気、インフレ状態となり、華やかな元禄時代を

  出現させる。

 

  ■ 徳川綱吉が出した諸法令・政策により、

  日本は、 治安の改善が進み、庶民にはゆと

  りが生まれ、好景 気・インフレ状態となり、 

  平和で豊かな時代となり、華やかな元禄時代

  を出現させる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 徳川綱吉の忠臣・柳沢 吉保。

  ■ 柳沢 吉保 (やなぎさわ よしやす)は、 

  江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉の側用人の

  1人であり、 徳川綱吉の悪評引受役であっ

  た。

  ■ 柳沢 吉保 (やなぎさわよしやす)は、江戸

  幕府・第5代将軍・徳川綱吉の側用人の1人で

  あり、 綱吉の信頼する家臣であった。

     柳沢吉保は、 徳川綱吉の悪評引受役と し

  て、 綱吉の行った政策の不評部分を自分がし

  た事にして、 綱吉の代わりに非難をあびる対

  象となった。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 徳川綱吉の一族。

  ■ 綱吉の父は、 江戸(徳川)幕府の第3代

   将軍・徳川家光である。

 

  ■ 綱吉の母は、 江戸(徳川)幕府の第3代

  将軍・徳川家光の側室の夫人、お玉 (おた

  ま、桂昌 院(けいしょういん))である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川 綱吉は、 綱吉の父が、江戸幕府の

  第3代将軍・徳川家光であり、 綱吉の生母が、

  江戸幕府の第3代将軍 ・徳川家光の側室夫人

  のお玉 (おたま、桂昌院、京(都)の八百屋の

  娘) である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 徳川綱吉の、生命尊重の「生類憐み

   の令」。

  ■ 「生類憐れの令」 (しょうるいあわれみの

  れい)とは、 江戸幕府・第5代将軍徳川綱吉

  が1685年から20年以上にかけて、約135

  回に分けて発令した御触書(おふれがき)の総

  称である。

     「生類憐れの令」は、 江戸幕府・第5代将

  軍徳川綱吉統治中の、1685年(貞享(じょうき

  ょう)2年)7月に最初に出され、 それ以後、

  綱吉の死去した1709年(宝永(ほうえい)6年)

  までの間に出された、人間・動物の生命尊重関

    係の多数の法令(お触れ)の総称である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 「生類憐みの令」で、処罰された者は、24年

  で、たった約70件であった。 約70件の処罰

  者では、下級武士が多かった。

 

  ■ 徳川 綱吉は、 日本人の意識改革を実行し

  た将軍であり、 弱者保護、人権尊重、動物愛護

  の精神を日本人に植え付け、 「やしく親切な心」

  を日本人に植えつけた政治家であった。

  ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

  ■ 絶対的権力を持つ将軍の、徳川 綱吉は、

  っている人間・動物を見つけたら、救済する法令

  をつくり、日本全国で、実行させた。 これにより、

  それまで放置された、病人、身障者、老人、孤

  児、行き倒れの旅人等の保護が、日本全国で行

  われ、 日本人の意識も、切り替わっていった。

 

  ■ 徳川綱吉は、 「生類憐みの令」 (しょうる

  いあわれみのれい、江戸幕府5代将軍・徳川綱

  吉が出した、人間・動物の生命尊重関係の多数

  の法令(お触れ)の総称) を出し、  ヒトを含め

  生き物への憐(あわ)れみを説いた、江戸幕府の 

  将軍である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川 綱吉は、 人々に犬食いの風習をやめ

  させ (一般の人は当時犬を食べていたので)、 

  江戸で野犬に人々が襲われるのを防ぐため、 

  江戸の中野に野犬の収容施設をつくり、多数の

  犬を収容した。

  

  ■ 徳川 綱吉は、生命、人権尊重を打ち出し、

  一般庶民の死体放置、捨て子、弱者切捨て、人

  間同士での殺し合い、武器をとり喧嘩・殺傷をす

  る、殺伐(さつばつ)とした弱肉強食の戦国時 代

  の考え方を全面否定し、 弱者保護、平和共存を

  打ち出し、政策に反映させる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川 綱吉は、 生命・人命尊重を唱え、 

  「生類憐みの令」 (しょうるいあわれみのれい、

  人間・動物の生命尊重関係の多数の法令(お

  触れ)の総称) を出した将軍である。

 

  ● 徳川 綱吉のこの政策により、 日本の民衆

  (人々)の思考は、 人間や動物の殺傷を好み、

  保護しない、生命軽視の、戦国時代の風潮・傾

  向から、 人間や動物の殺傷を嫌い、保護する、

  生命重視の風潮・傾向へと変わる。

   ● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

  ■ 徳川 綱吉は、 江戸の町で、人に危害を加

  える、野犬をすべて、江戸の中野に収容し、「お

  犬屋敷」をつくる。 また、一般庶民の、犬食い

  の習慣をやめさせる。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 徳川綱吉死後の綱吉善政の否定。

  ■ 徳川 綱吉の24年間の治世(江戸幕府・第

  5代将軍在任 :1680年〜1709年)の晩年で、

  大きな天災や火災が起こり、当時の人々は、為

  政者が悪いと考え、 更に、1709年の徳川 綱

  吉の死去後、江戸幕府・第6代将軍・徳川家宣

  や第7代将軍・徳川家継の時代に、徳川家宣・

  家継の政治を支えた、儒学者・新井白石(あら

  いはくせき)が、将軍・徳川家宣・家継の治世

  を褒(ほ)め称えるため、 前政権の徳川 綱吉

  の政治を批判し、ネガティブ・キャンペーン(自

  らの現在の政治を肯定し、前の政治を否定す

  ること)を行い、徳川綱吉は、悪政者の汚名を

  きせられ、 綱吉は、その後江戸時代の人々

  に悪政者のイメージをもたれ、 そのまま、現代

  まで悪政者のイメージが持たれ続ける。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

◆ 徳川綱吉の失策。

  ■ 徳川 綱吉には、失策もあった。

      その失策の1つが、赤穂事件である。

 

■ 徳川綱吉と赤穂事件。

  ■ 徳川 綱吉は、 1701年の自分の失策 (

  野内匠頭長矩への即日切腹、赤穂浅野家改易

  の言い渡し)により 1702年の赤穂浪士討ち

  入り事 件を招いてしまう。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川 綱吉の失策により、赤穂事件が起こる。

  ● 江戸幕府第5代将軍の、徳川 綱吉(とくがわ

  なよし)は、 身分が低かった生母の桂昌院

  (けいしょういん)に、 高位を得させるため、 

  1701年に、朝廷の使者(勅使(ちょくし))を江

  戸城に迎える。 

     そのときの朝廷の使者(勅使)の接待役が、 

  赤穂藩主(あこうはんしゅ)の浅野内匠頭(長矩)

  (あさのたくみのかみ(ながのり)、1665〜170

  1年) であり、 その接待役を監督指導したの

  が、高家筆頭(こうけひっとう、江戸幕府の儀式

  指導係筆頭)の吉良上野介(義央)(きらこうず

  けのすけ(よしなか)) であった。

 

  ● ところが、 1701年(元禄14年)3月14日

  に、 江戸城内の松之廊下(まつのろうか)で、 

  浅野内匠頭(長矩)が、 遺恨(いこん)で、吉良

  上野介(義央)を斬りつけ、 勅使接待を台無し

  にされ、 綱吉の母の桂昌院が高位を得るチャ

  ンスが延びてしまい、 神経質な徳川綱吉は、

  激怒して、 喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)

  を無視し、 ろくに調べもせず、 吉良上野介は

  お咎(とが)めなしとし(罪なしとし)、 一方的に、

  浅野内匠頭(長矩)に即日切腹を言い渡し、 失

  策を行ってしまった。 これが、後に、1702年

  (元禄15年)12月の赤穂浪士の吉良邸討ち入

  りを招いてしまう。

 

  ● 徳川 綱吉は、 人間同士での殺し合い、武

  器をとり喧嘩・殺傷をする、殺伐(さつばつ)とし

  た弱肉強食の戦国時代の風潮を終わらせたい

  と願っていたため、 将軍の命令に従わず敵討

  ち(かたきうち)をした赤穂浪士を許せなかった

  が、 自分の失策から招いた事件でもあり、 主

  君に忠義をつくした赤穂浪士を斬首 (ざんしゅ、

  罪人として首を切ること) にするわけにもいか

  ず、 徳川 綱吉は、悩み、結局、1703年(元禄

  16年)2月に、赤穂浪士に、名誉ある死である

  切腹をさせ、 事を収めた。

  ● TKKI カナヤマ著 日本歴史の驚異の出

   来事。

 

 

#tokugawatsunayoshi-appearingscenes

 

♪♪ 徳川 綱吉が登場する、興味深

       い、ドキュメンタリー、ドラマ、映

    画。

 

★ 徳川 綱吉が登場する、興味 深い

     ドキ ュメンタリー。 

 

■ 尾上松也の古地図で謎解き 

   にっぽん探究 『 なぜ名君・徳川

   綱吉に「犬公方」の汚名 』。 

   (BS11テレビ・2016年9月28日 ・本放

    送の歴史ドキュメンタリー番組)。

  ■ 江戸幕府5代将軍・徳川綱吉や綱吉の

   生母・桂昌院(お玉)を述べる。

  ● 徳川綱吉の政治改革や善政を述べる。

  ● 徳川綱吉の生類憐みの令について述

   べる。

  ● 儒教や儒学について述べる。

 

■ 歴史秘話ヒスとリア 『 大奥 シン

  デレラ・ストーリー〜将軍の母・ 

  桂昌院 元祖「玉の輿」物語〜 』。 

   (NHKテレビ・2012年(H24)2月8日 ・

   本放送の歴史ドキュメンタリー番組)。

  ■ 江戸幕府5代将軍・徳川綱吉とその

   生母・桂昌院(お玉)を述べる。

 

★ 徳川 綱吉が登場する、興味深い、

    ドラマ、映画。

  ● (注意) ドラマ、映画は、フィクションです。 

   歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれていま

   す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 大奥・華の乱 (おおおく・はなの

     らん) 』。

    (フジテレビ・2005年制作テレビドラマ)。

    (脚本:浅野妙子(あさのたえこ))。

  ■ 江戸時代の第4代将軍家綱、第5代将

   軍綱吉の時代 と 第5代将軍の時代の

   大奥を描いたドラマ。

  ■ 江戸幕府の第5代将軍・徳川綱吉を描く。

  ■ 第5代将軍の生母である、晩年のお玉

   (桂昌院)が登場する。

 

  ● 徳川綱吉を演じた俳優名 : 谷原章介。

  ● 桂昌院(お玉)を演じた俳優名 : 

    江波杏子。

  ● 内山理名、藤原紀香、小池栄子、高岡

   早紀、中山忍などの美人女優が出演。

 

■ 『 忠臣蔵 瑤泉院の陰謀 

     (ちゅうしんぐら ようぜいいんの

     いんぼう) 』。 

    (テレビ東京・2007年制作・テレビ

     ドラマ)。

  ■ 江戸幕府の第5代将軍・徳川綱吉が

   登場する。

 

  ● 徳川綱吉を演じた俳優名: 津川雅彦。

 

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#tokugawaienobu

 

■ 徳川 家宣  

      ( とくがわ いえのぶ)

 

■ 徳川 家宣。

■ 名称 : 徳川 家宣 (とくがわ いえのぶ)。

■ 生没年 : 1662〜1712年

■ 江戸幕府の 、第6代将軍

  (将軍在任、1709〜1712年)。

■ 3代将軍・家光(いえみつ)の孫。

■ 徳川家宣には、 正室夫人の天英院、 側室

  夫人で7代将軍・家継・生母の月光院 がいた。

■ 徳川宗家(本家)、徳川将軍家の全体について

  は、 「徳川宗家 (本家)・徳川将軍家」を参照し

  てください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 42314。

 

 

■ 徳川家宣。

  ■ 徳川家宣 (とくがわ いえのぶ、生没年:16

    62年〜1712年) は、 江戸幕府(= 徳川

    幕府)の、第6代将軍 (将軍在任 :1709年

    〜1712年 である。

  ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川 家宣・江戸幕府の第 6代将軍就任。

  ● 1709年(宝永6年)に、徳川 家宣 (とくが

    わ いえのぶ、文昭院、生没年:1662年〜

    1712年) は、 江戸幕府(= 徳川幕府)の  

    6代将軍 (将軍在任:1709年〜1712

    年)に就任する。

 

  ■ 徳川 家宣は、 甲府徳川家 (こうふとくが

    わけ)出身であり、  江戸幕府の第3代将

    軍・徳川家光(いえみつ)の孫である。

 

 

■ 徳川家宣。

■ 徳川家宣は、 甲府徳川氏から将軍職に就(つ)

  く。

■ 徳川家宣は、 間部詮房(まなべあきふさ)を

  側用人にし、 新井白石(あらいはくせき)を登

  用して、 幕政を改革する。

    徳川家宣は、 生類憐みの令 (しょうるいあ

  われみのれい) を廃止した。

    徳川家宣は、 新井白石をつかい、儒教的文

  治政治(ぶんちせいじ)を推進する。

 

■ 徳川家宣の夫人。

    徳川 家宣の正室夫人は、天英院(てんえい

  いん)である。 天英院は、 8代将軍に徳川吉

  宗(よしむね)を指名をした女性である。

    徳川 家宣の側室夫人の1人に、月光院(げっ

  こういん)がいた。 月光院は、 7代将軍・家継

  (いえつぐ)の生母 である。

  

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#tokugawaietsugu

 

■ 徳川 家継  

      ( とくがわ いえつぐ)

 

■ 徳川 家継。

■ 名称 : 徳川 家継 (とくがわ いえつぐ)。

■ 生没年 : 1709〜1716年

■ 江戸幕府の 、第7代将軍

  (将軍在任、1713〜1716年)。

■ 6代将軍・家宣(いえのぶ)の子。

■ 幼少将軍で、 生母は、月光院

■ 間部 詮房 (まなべ あきふさ) と、 新井

  白石(あらいはくせき) が政治を補佐する。

■ 徳川宗家(本家)、徳川将軍家の全体について

  は、 「徳川宗家 (本家)・徳川将軍家」を参照し

  てください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 42314。

 

 

 

■ 徳川家継。

  ■ 徳川家継 (とくがわ いえつぐ、生没年:170

    9〜1716年) は、 江戸幕府(= 徳川幕府)

    の、第7代将軍 (将軍在任、1713〜1716年 

    である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川 家継・江戸幕府の第 7代将軍就任。

  ● 1713年(正徳3年)に、徳川 家継 (とくが

    わ いえつぐ、有章院、生没年:1709年〜

    1716年)  は、 江戸幕府(= 徳川幕府)の  

    7代将軍(将軍在任:1713年〜1716年)

    に就任する。

 

  ■ 徳川 家継は、 江戸幕府の第6代将軍・

    川家宣(いえのぶ)の子である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 徳川家継。

■ 徳川 家継 は、 幼少将軍であった。 

     徳川 家継は、 幼少で将軍に就(つ)き、間

  部詮房(まなべあきふさ、月光院の恋人)や新井

  白石(あらいはくせき)が、政治を補佐した。

     間部 詮房 (まなべ あきふさ、1667〜17

  20年) は、 6代将軍・家宣(いえのぶ)と7代

  将軍・家継(いえつぐ)の側用人 (そばようにん、

  老中との取次ぎ役) であった。 

     間部 詮房 は、能楽師(のうがくし)の出身

  で、 江戸幕府・第6代将軍・徳川家宣の寵臣で

  あり、 側用人であった。

     家宣死去後は、 間部 詮房は、 江戸幕府・

  第7代将軍の徳川家継(いえつぐ、幼少将軍)の

  側用人 となり、 家継の世話役であり、 7代将

  軍・家継生母・月光院の恋人であり、 7代将軍・

  家継の治世(1713〜16年 )に、 国政(幕政)

  に政治上大きな発言権をもった。

    しかし、 1716年に、徳川吉宗が8代将軍

  になると、 間部 詮房は、側用人を辞し、 越後

  国(えちごのくに、新潟県)村山に移封となった。

 

■ 徳川 家継は、 1716年に死去し、 徳川秀忠

  の系統が絶え、 前将軍(6代将軍)・正室夫人

  の天英院の指名により、 紀伊徳川氏から徳川

  吉宗が将軍を継(つ)いだ。

 

■ 徳川 家継の生母 は、 徳川 家宣の側室夫人

  の、月光院(げっ こういん) である。 

     現将軍(7代将軍)・生母の月光院は、 17

  13年より大奥を支配していたが、 月光院の側

  近の御年寄り(おとしより、大奥幹部)の絵島(え

  じま)が、 1714年に絵島生島事件(えじまいく

  しまじけん)を起こし、月光院は面目を失い、権

  威を失墜(しっつい)し、 前将軍(6代将軍)・正

  室夫人の天英院(てんえいいん)が、1714年か

  ら1716年まで、 大奥を支配する。

  

 

★ 徳川 家継 が登場する、興味深い、ドラ

   マ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれていま

   す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 大奥 』。 

   (日本の東映・2006年制作映画)。

● 江戸時代中期の大奥。

● 7代将軍家継(いえつぐ)時代 と その時代 

  の大奥を描いた映画。

● 仲間由紀恵、高島礼子、井川遥、浅野ゆう子 

  出演。

 

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#tokugawayoshimune

 

■ 徳川 吉宗  

       (とくがわ よしむね)。

 

■ 徳川 吉宗。  

■ 名称 : 徳川 吉宗 (とくがわ よしむね)。

■ 生没年 : 1684年〜1751年

■ 江戸幕府の 、第8代将軍

  (将軍在任、1716〜1745年)。

■ 紀伊徳川氏の一族で、 初代将軍・家康(いえ

  やす)の曾孫(ひまご)。

■ 徳川宗家(本家)、徳川将軍家の全体について

  は、 「徳川宗家(本家)」「徳川将軍家」を参照し

  てください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 42314。

 

 

■ 徳川吉宗。

  ■ 徳川吉宗 (とくがわ よしむね、生没年:

    1684年〜1751年) は、 江戸幕府(=

    徳川幕府)の、第8代 (将軍在任 :

    1716年〜1745年 である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川 吉宗・江戸幕府の第 8代将軍就任。

  ● 1716年(享保元年)に、徳川 吉宗 (とく

    がわ よしむね、有徳院、生没年:1684年

    〜1751年)  は、 江戸幕府(= 徳川幕府)

    の8代将軍  (将軍在任:1716年〜17

    45年)に就任する。

 

  ■ 徳川 吉宗は、徳川氏分家の徳川御三家

    紀伊藩・藩主であり、 紀州徳川家 (きしゅ

    うとくがわけ、紀伊徳川氏の一族)出身であ

    り、 江戸幕府の初代将軍・徳川家康(いえ

    やす)の曾孫(ひまご)である。

 

 

■ 徳川吉宗。

■ 徳川吉宗 は、 新井白石の文治政治を排し、

  武芸や実学を奨励(しょうれい)し、 大岡忠相

  (おおおかただすけ)、青木昆陽(おあきこんよ

  う)らを用いて、享保(きょうほう)の改革を行っ

  た。

 

 徳川 吉宗 は、 享保(きょうほ う)の改革を実

   施し、 幕府の財政再建に成功する。

 徳川 吉宗 は、  破綻(はたん)しかけていた

  幕府の財政の建て直 しに成功し、 名君と呼ば 

  れ、 幕府中興の祖 と呼ばれた。

 徳川 吉宗は、 享保(きょうほ う)の改革として、 

  目安箱の設置、税制改革、町火消の創設、米価

  安定、大奥人員削減 など を実施し、 倹約を

  奨励し、自身、木綿の服を着たと言われている。

 

■ フィクションの世界では、 江戸中期、 徳川吉

  宗 は、 庶民の中に入り、 庶民の味方をする

  名将軍として、 ドラマ、映画で、活躍する。

 

■ 徳川分家・御三家の1つ、紀州(きしゅう)徳川

  家出身。 

     紀州藩藩主から、江戸幕府の将軍職を継ぐ。

■ 江戸中期の、将軍、 冷徹な権謀術数の政治

  家。

■ 父は、紀伊藩(紀州藩)2代藩主・徳川光貞で、

  母は、於由利(おより、浄円院)。

■ 享保( きょうほう)の改革を実施。

● 幕府の財政再建に成功する。

■ 紀伊藩(紀州藩)から連れてきた監察役の側近

  の家臣を、江戸幕府の「お庭番」とする。

■ フィクションの世界では、 徳川吉宗は、 庶民

  の中に入り、庶民の味方をする名将軍として、

  ドラマ、映画で、活躍する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 徳川 吉宗 (とくがわ よしむね、生没年 16

  84〜1751年) は、 紀伊徳川家出身で、紀 

  州藩藩主から、江戸幕府の将軍職を継ぐ。

■ 徳川 吉宗 は、 江戸中期の、将軍で、策謀家

  で、 冷徹な権謀術数の政治家であった。

 

 

■ 徳川 吉宗の父は、 紀伊藩(紀州藩)2代藩主・

  徳川光貞で、 吉宗の母は、 於由利の方(おゆ

  りのかた、浄円院) である。

● 徳川 吉宗の母の於由利 は、紀州藩の和歌山

  城の奥方の湯殿番 (湯殿(お風呂場)で男性の

  背中にお湯を流す役目の女性)で、 徳川光貞

  の目にとまり、 湯殿(お風呂場)でお手がつい

  たと伝えられている。 吉宗は、「御湯殿の子」

  (おゆどののこ)と呼ばれる。  

● 徳川 吉宗の母の素性は不明で、 農民の娘、

  または、 忍者集団の娘、または、 隠密集団(全

  国行脚の祈祷集団)の娘 と言われている。

● 徳川吉宗は、 母の身分に問題があったため、

  幼年は家老の元で育てられ、 やがて城中へ

  引き取られた。

 

■ 徳川家の分家の「御三卿」。

■ 将軍後継者争いを回避するために創設された徳

  川分家の御三卿」(ごさんきょう)

    徳川吉宗は、 言語不明瞭で暗愚(あんぐ)な

  長男の徳川家重(いえしげ)を、次期将軍に指名

  したが、 幕府内には、 聡明(そうめい)な次男の

  徳川宗武(むねたけ)や四男の徳川宗尹(むねた

  だ)を次期将軍に推(お)す動きもあるので、徳川

  吉宗 は、 将軍後継者争いを回避するため、 次

  男の徳川宗武に田安家(たやすけ)を創設させ、 

  四男の徳川宗尹に一橋家(ひとつばしけ)を創設

  させる。

     また、徳川吉宗死後、徳川家重(いえしげ)は、

  家重の子・重好(しげよし)に清水家(しみずけ)を

  創設される。

    8代将軍・徳川吉宗、9代将軍・徳川家重の治

  世に、 徳川吉宗の子孫の、3つの徳川分家が創

  設される。 これを「御三卿」(ごさんきょう)という。

     結果的に、後に、徳川宗家(本家)・徳川将軍

  家に将軍候補がいない場合は、 徳川御三家

  他に、徳川御三卿の3つの徳川分家からも、将

  軍候補を出すこととなった。

  (例) 御三卿の一橋家第2代当主・徳川(一橋)治

  済の子の家斉(いえなり)が、 徳川宗家(本家)・

  徳川将軍家の第11代将軍・当主の徳川家斉とな

  る。

 

 

■ 徳川吉宗の将軍就任。

■ 非常に運のよかった徳川吉宗。

(1) 徳川 吉宗は、 紀伊藩(紀州藩)の四男(次

  兄が早世しているため三男と数えられることも

  ある)であり、 部屋住みであったが、 偶然に

  も、兄達が、死去したため、紀州藩主となった。

(2) また、 偶然にも、 有力な8代将軍候補の

  尾張藩主・徳川吉通 が(食中毒で)死去したた

  め、徳川 吉宗は、 8代将軍候補の一人となっ

  た。

● 2代将軍徳川秀忠の男系男子子孫の館林藩主・

  松平清武という人物がいたが、他家に養子に出

  た者であり高齢で実子の男子がいないという理

  由で8代将軍候補の選考対象から外され、 松

  平清武自身も、将軍職になる野心もあまりなか

  った。

 

(3) 大奥で大きな権力をもっていた天英院(てんえ

   いいん、6代将軍・正室夫人)の指名により、徳

   川 吉宗は、 江戸幕府の第8代将軍となった。

● 7代将軍・徳川家継(いえつぐ)が幼少で病弱な

   ため、 江戸幕府では、8代将軍継嗣問題が起

   こり、 7代将軍・徳川家継の生母・月光院(げ

   っこういん) は、 江戸幕府の大奥で大きな権

   力をもち、 8代将軍候補として、尾張藩主の

   徳川継友 (徳川吉通死後尾張藩主となった) 

   を支持していた。 

      一方、月光院と対立する天英院 は、 8代

   将軍候補として、 紀州藩主の徳川吉宗を支持

   していた。 

      しかし、 月光院は、 絵島生島事件(えじま

   いくしまじけん)で面目を失い大奥でその権力を

   低下させ、 代わって、天英院が大奥で大きな権

   力をもち、 天英院が、 7代将軍家継・後見人

   (次期将軍)として、 紀州藩主の徳川吉宗を指

   名した。 

      そして、家継病死後、 徳川吉宗が、8代将

   軍となった。

 

■ 徳川吉宗が8代将軍就任後、 美麗で31歳の

  若さの月光院は、 かって吉宗の政敵ではあった

  が吉宗に近づき、 吉宗と情を交わす仲となった 

  (「続三王外記」より)。

 

 

■ 「お庭番」。

■ 徳川 吉宗 は、 紀州藩から連れてきた監察

  役の側近の家臣を、 江戸幕府の「お庭番」 と

  した。

● 徳川 吉宗 は、 江戸幕府に、将軍直属の監

  察官である「お庭番」という役職を創設し、 

  伊藩(紀州藩)で吉宗の政治に反抗する紀州藩

  士を監視し取り締まっていた監察役の側近の家

  臣を、紀伊藩(紀州藩)から連れてきて、 その

  「お庭番」に就任させた。

     8代将軍・吉宗以後、「お庭番」は、15代

   将軍・慶喜まで、 江戸幕府の組織として、存

   続した。

 

 

♪♪ 徳川吉宗が登場する、興味深い

    ドキュメンタリー、映画、ドラマ。 

 

★ 徳川吉宗が登場する、興味深い

   ドキュメンタリー。 

 

■ その時歴史が動いた 『 大奥 悲

  しみの果てに 〜 徳川家宣正室 

  天英院 熙子の生涯〜 』。 

  (NHKテレビ・2006年(H18)4月・本放送の

   ドキュメンタリー番組)。

 

★ 徳川吉宗が登場する、興味深い

   関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれていま

   す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 暴れん坊将軍 』 I〜XII、スペ

  シャル 

   (テレビ朝日・1978〜2008年制作連続テ

   レビドラマ)。

● 徳川吉宗を演じた俳優名 : 松平 健 。

 

■ 『 徳川風雲録 八代将軍吉宗 

    (とくがわふううんろく はちだいしょうぐん

   よしむね) 』。 

    (テレビ東京・2008年制作テレビ

    ドラマ)。 

● 徳川吉宗を演じた俳優名 : 中村 雅俊 。

 

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#tokugawaieshige

 

■ 徳川 家重  

      ( とくがわ いえしげ)

 

■ 徳川 家重。

■ 名称 : 徳川 家重 (とくがわ いえしげ)。

■ 生没年 : 1711〜1761年

■ 江戸幕府の 、第9代将軍

  (将軍在任、1745〜1760年)。

■ 8代将軍・吉宗(よしむね)の長子。

■ 大奥に入り浸りの生活を送る。

■ 徳川宗家(本家)、徳川将軍家の全体について

  は、 「徳川 本家 (宗家)」「徳川将軍家」を参照し

  てください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 42314。

 

 

■ 徳川家重。

  ■ 徳川家重 (とくがわ いえしげ、生没年:

    1711年〜1761年) は、 江戸幕府(= 徳

    川幕府)の、第9代 (将軍在任 :1745

    年〜1760年である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川 家重・江戸幕府の第 9代将軍就任。

  ● 1745年(延享2年)に、徳川 家重 (とくが

    わ いえしげ、惇信(しゅんしんいん)、生没年:

    1711年〜1761年) は、 江戸幕府(= 徳川

    幕府)の9代将軍  (将軍在任:1745年〜

    1760年)に就任する。

 

  ■ 徳川 家重は、 江戸幕府の第8代将軍・

    徳川吉宗(よしむね)の子である。

 

 

■ 徳川家重。

■ 徳川 家重 は、 内向的な性格で、言語障害

  があり、表の政治では側近を介して発言し、ま

  た、 大奥に入り浸(びた)りの生活を送る。

 

■ 徳川 家重は、 酒色(しゅしょく)にふけり、

  用人・大岡忠光(おおおかただみつ)を重用(ち

  ょうようし)し、 政治を顧(かえり)みず、 幕政

  は弛緩(しかん)した。

 

 

■ 徳川「御三卿」。

■ 将軍後継者争いを回避するために創設された徳

  川分家の御三卿」(ごさんきょう)

    徳川吉宗は、 言語不明瞭で暗愚(あんぐ)な

  長男の徳川家重(いえしげ)を、次期将軍に指名

  したが、 幕府内には、 聡明(そうめい)な次男の

  徳川宗武(むねたけ)や四男の徳川宗尹(むねた

  だ)を次期将軍に推(お)す動きもあったので、 

  川吉宗 は、 将軍後継者争いを回避するため、

  次男の徳川宗武に田安家(たやすけ)をを創設さ

  せ、 四男の徳川宗尹に一橋家(ひとつばしけ)を

  創設させる。

     また、徳川吉宗死後、徳川家重(いえしげ)は、

  家重の子・重好(しげよし)に清水家(しみずけ)を

  創設される。

    8代将軍・徳川吉宗、9代将軍・徳川家重の治

  世に、 徳川吉宗の子孫の、3つの徳川分家が創

  設される。 これを「御三卿」(ごさんきょう)という。

     結果的に、後に、徳川宗家(本家)に将軍候

  補がいない場合は、 徳川「御三家」の他に、徳川

  「御三卿」の3つの徳川分家からも、 将軍候補を

  出すこととなった。

 

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#tokugawaieharu

 

■ 徳川 家治  

      ( とくがわ いえはる)

 

■ 徳川 家治。

■ 名称 : 徳川 家治 (とくがわ いえはる)。

■ 生没年 : 1737〜1786年

■ 江戸幕府の 、第10代将軍

  (将軍在任、1760〜1786年)。

■ 9代将軍・家重(いえしげ)の子。

■ 徳川宗家(本家)、徳川将軍家の全体について

  は、 「徳川宗家 (本家)・徳川将軍家」を参照し

  てください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 42241。

 

 

■ 徳川家治。

  ■ 徳川家治 (とくがわ いえはる、生没年:

    1737〜1786年) は、 江戸幕府(= 徳

    川幕府)の、第10代将軍  (将軍在任 :

    1760年〜1786年である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川 家治・江戸幕府の第 10代将軍就任。

  ● 1760年(宝暦10年)に、徳川 家治 (と

    くがわ いえはる、淩明院(りょうめいいん)、

    生没年:1737年〜1786年 は、 江戸

    幕府(= 徳川幕府)の10代将軍 (将軍

    在任:1760年〜1786年)に就任する。

              

  ■ 徳川 家治は、 江戸幕府の第9代将軍・

    徳川家重 (とくがわ いえしげ)の子である。

 

 

■ 徳川家治。

■ 徳川 家治 は、 田沼意次(たぬまおきつぐ)や

  田沼意知の父子に政治を行わせ、 田沼時代を

  現出させた。

 

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#tokugawaienari

 

■ 徳川 家斉  

    (とくがわ いえなり)。

 

■ 徳川 家斉。 

■ 名称 : 徳川 家斉 (とくがわ いえなり)。

■ 生没年 : 1773年〜1841年

■ 江戸幕府の 、第11代将軍

  (将軍在任、1787〜1837年)。

■ 一橋家の一族で、8代将軍・吉宗の 曾孫

  (ひまご)

■ 徳川家斉は、たくさんの子をつくり、日本

  の諸大名のファミリー化を図る。

■ 徳川家斉は、側室夫人40人、子供53人

  をもつ。

■ 正室夫人は、 広大院 (こうだいいん、

  近衛寔子(ただこ)) であり、 外様大名

  の島津藩主の姫である。 

■ 徳川宗家(本家)、徳川将軍家の全体に

  ついては、 「徳川 本家 (宗家)」、「徳川将

  軍家」を参照し てください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11236。

 

 

■ 徳川家斉。

■ 徳川家斉は、 たくさんの子をつくり、各大

  名家へ男子は養子に、女子は正室夫人にして、

  日本の諸大名のファミリー化を図り、 江戸幕

  府の権力を高め、日本全国に将軍の命令をよ

  り通しやすいようにしようとした。

 

■ 徳川家斉。

  ■ 徳川家斉 (とくがわ いえなり、生没年:17

    73年〜1841年) は、 江戸幕府(= 徳川

    幕府)の、第11代将軍 (将軍在任 :1787

    年〜1837年 である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川 家斉・江戸幕府の第 11代将軍就任。

  ● 1787年(文明7年)に、徳川 家斉 (とくが

    わ いえなり、文院(ぶんきょういん)、生没

    年:1773年〜1841年) は、 江戸幕府(=

    徳川幕府)の11代将軍(将軍在任:17

    87年〜1837年)に就任する。

 

  ■ 徳川 家斉は、 徳川氏分家の徳川御三 卿

    (とくがわごさんきょう)の、一橋徳川家(ひと

    つばしとくがわけ、一橋徳川氏の一族)出身

    であり、 江戸幕府の第8代将軍・徳川吉宗

    の曾孫(ひまご)である。

 

 

■ 徳川家斉。

■ 徳川 家斉 (生没年:1773〜1841年)は、 江

  戸幕府の第11代将軍 で、 将軍の在任期間は、 

  長期であり、1787年から1837年まで である。

 

■ 徳川 家斉 は、 徳川氏御三卿(ごさんきょう)の

  1つの、一橋徳川家より、将軍となる。

 

■ 徳川分家・御三卿の1つ、一橋家出身。

■ 徳川 家斉 は、 徳川分家の徳川御三卿の一橋

  家の一族で、 江戸幕府・8代将軍・徳川吉宗

  曾孫(ひまご) である。

 

■ 1887年から7年間、松平定信(まつだいらさ

  だのぶ、寛政の改革・実施者)を老中に任命し、

   政治を補佐させる。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 徳川家斉は、 田沼意次(たぬまおきつぐ)を

  退(しりぞ)け、 松平定信(まつだいらさだのぶ)

  を登用して、 寛政(かんせい)の改革を行う。

     徳川家斉は、 定信引退後は、 自ら政務を

  行ったが、諸政はゆるむ。

    徳川家斉の時世に、化政文化が現出した。

    徳川家斉は、隠居後も、大御所(おおごしょ、

  隠居後の前将軍)として、幕政の実権を握った。

    徳川家斉の治世に、 ロシア船の来航などが

  あり、 1825年に、海防のため、異国船打払令

  (いこくせんうちはらいれい)が出された。

 

 

◆ 最多の妻子を持った将軍。

■ 徳川 家斉は、 たくさんの子をつくり、各大

  名家へ男子は養子に、女子は正室にして、

  日本の諸大名のファミリー化を図り、幕府の、

  権力を高め将軍の命令をより通しやすいよ

  うにしようとした。

■ 徳川 家斉は、 好色で、妻子が非常に多く、  

  江戸幕府の将軍の中で、 最多の妻子を持った

  将軍 である。 

● 徳川 家斉は、 妻子が非常に多数で、 正室

  夫人の他に、約40人の側室夫人ををもち、 

  側室夫人との間に、約53人の子供をもうけた。

● しかし、 家斉の子供53人のうち、成人(元

  服)まで生きたのは、 約半数である。   

  病気等で子供の半数が、成人(元服)前に

  死去(早世)している。

 

■ 徳川家斉の妻子にかかる費用。

     徳川家斉の妻子にかかる費用は、初めは、

  江戸幕府(徳川政権)の財政基盤を揺るがした

  が、貨幣改鋳で、資金を捻出(ねんしゅつ)する。

     大奥生活費、子養育費、各大名への養子・

  輿入(こしいれ、嫁入り)費、寺社参拝費などの、

  家斉の多数の妻子にかかる多額な費用は、

  貨幣改鋳で、資金を捻出することができた。 

     貨幣改鋳とは、今までの市中に出回る質

  の良い小判、分朱金銀貨の金銀の分量を削減

  し、新たに質の悪い小判、分朱金銀貨を発行し、

  その差益を江戸幕府財政の財源の1つとした。

 

 

◆ 広大院。

■ 徳川 家斉の正室夫人は、 8代島津藩主・島津

  重豪(しげひで) の娘の、広大院(こうだいいん、

  茂姫) である。

● 広大院は、 誕生時、篤姫(あつひめ)と称し、3歳

  頃より茂姫と称し、その後、近衛家の養子となり、

  近衛寔子(このえただこ)と称し、夫の家斉死去後、 

  落飾して、広大院と称した。

● 江戸幕府の将軍の正室夫人は、 5摂家(せっけ)

  か宮家の姫というのが慣例であったが、 茂姫(広

  大院)は、 家斉が将軍に決まる前に、 家斉の正室

  夫人として婚約していたため、 大名の姫、しかも、

  外様大名の島津藩主の姫を、 江戸幕府の将軍の

  正室夫人(御台所(みだい どころ))  とすることに

  なった。

 

 

◆ お美代。

■ お美代(おみよ)は、 美人であり、 江戸幕府・第11

  代将軍・徳川家斉(いえなり)の側室夫人 である。

 

● 将軍・徳川家斉(いえなり)には、 正室夫人の他に、

  約40人の側室夫人がいて、そして、約53人の子供

  がいた。 お美代は、その中で、徳川家斉に特に寵

  愛された側室夫人 であった。

 

■ 家斉の治世に、 家斉の側室夫人の一人である、お

  美代の方(おみよのかた)が、 幕府の大奥で、大き

  な権力を持ち、 実父・日啓(にっけい)が住職をつ

  とめる感応寺に、 多くの大奥の奥女中(女官)が参

  拝、代参(だいさん)し、 風紀の乱れが公然化した。 

● 詳細は、 「大奥ガイドブック」の家斉の時代を参

  照して下さい。

 

● お美代と家斉の間には、溶姫(ようひめ)という娘が

  いた。

     家斉の命(命令)により、 娘の溶姫は、加賀藩

  藩主(加賀藩主・前田斉泰) に嫁いた。

     溶姫が嫁ぐときに徳川家斉その記念(祝い)

  に造らせた門が、 (現在、東京大学に残る)赤門

  (あかもん)である。

● 一人の美しい町娘の壮大な陰謀。

      更に、お美代は、 次期12代将軍に、加賀藩

   に嫁いだ自分の子の溶姫(ようひめ)が生んだ男子

   (前田慶寧)をすえようと考え、 幕府の3人の老中

   と謀(はか)って、将軍・家斉の遺言書を偽造した。 

   しかし、その件が発覚してしまった。 そして、お美

   代は、 お美代の子の溶姫の嫁ぎ先の加賀藩に、

   「お預け」となった。

             

 

♪♪ 徳川家斉 が登場する、興味深い

   関連ドラマ、映画、ドキュメンタリー。 

 

★ 徳川家斉が 登場する、興味深い関

  連ドキュメンタリー。 

 

■ 謎解き!江戸のススメ 

  『 11代将軍 徳川家斉 』。 

   (TBSテレビ・2014年(平成26年)8月4日・

   本放送・ドキュメンタリー)。

● 徳川家斉の生涯を詳細に述べる。

 

★ 徳川家斉が 登場する、興味深い関

  連ドラマ・映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれていま

   す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 第一部 〜最凶の女〜 』。 

   (フジテレビ・2016年1月22日・

    本放送テレビドラマ)。

■ 江戸幕府の第11代将軍・徳川家斉(いえなり)

   時代 と その時代の大奥 を描いたドラマ。

 

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#tokugawaieyoshi

 

■ 徳川 家慶  

      (とくがわ いえよし)

 

■ 徳川 家慶。

■ 名称 : 徳川 家慶 (とくがわ いえよし)。

■ 生没年 : 1793〜1853年

■ 江戸幕府の 、第12代将軍

  (将軍在任、1837〜1853年)。

■ 11代将軍・家斉(いえなり)の子。

■ 徳川宗家(本家)、徳川将軍家の全体について

  は、 「徳川 本家 (宗家)」、「徳川将軍家」を参照

  してください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 42241。

 

 

■ 徳川 家慶。

  ■ 徳川 家慶 (とくがわ いえよし、生没年:

    1793年〜1853年) は、 江戸幕府(= 徳

    川幕府)の、第12代将軍 (将軍在任:1837

    年〜1853年 である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川 家慶・江戸幕府の第 12代将軍就任。

  ● 1837年(天保8年)に、徳川 家慶 (とくが

    わ いえよし、慎徳院、生没年:1793年〜

    1853年は、 江戸幕府(= 徳川幕府)の

    12代将軍 (将軍在任:1837年〜1853

    年)に就任する。

 

  ■ 徳川 家慶は、 江戸幕府の第11代将軍・

    徳川家斉(とくがわ いえなり)の子である。

 

 

■ 徳川 家慶。

■ 徳川 家慶 は、 父・家斉(いえなり)時代の弊

  政(へいせい)を改め、 老中・水野忠邦(みずの

  ただくに)に天保の改革(てんぽうのかいかく)を

  行わせた。

    徳川 家慶 は、ペリー来航(らいこう)の直後

  に没した。

 

 

♪♪ 徳川家慶 が登場する、興味深いドキ

    ュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 徳川家慶 が登場する、興味深いドラマ、

   映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれていま

   す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 篤姫 (あつひめ) 』 。 

    (NHKテレビ・2008年大河ドラマ)。

 

■ 『 大奥・幕末の女たち 』。 

    (フジテレビ・2003、2004年制作

    テレビドラマ)。

 

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#tokugawaiesada

 

■ 徳川 家定  

     (とくがわ いえさだ)。

 

■ 徳川 家定。

■ 名称 : 徳川 家定 (とくがわ いえさだ)。

■ 生没年 : 1824〜1858年

■ 江戸幕府の 、第13代将軍

  (将軍在任、1853〜1858年)。

■ 12代将軍・家慶(いえよし)の子。

■ 徳川宗家(本家)、徳川将軍家の全体について

  は、 「徳川宗家 (本家)・徳川将軍家」を参照し

  てください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 42241。

 

 

■ 徳川 家定。

  ■ 徳川 家定 (とくがわ いえさだ、生没年:

    1824年〜1858年)は、 江戸幕府(= 徳

    川幕府)の、第13代将軍 (将軍在任 :18

    53年〜1858年 である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川 家定・江戸幕府の第 13代将軍就任。

  ● 1853年(嘉永6年)に、徳川 家定 (とくが

    わ いえさだ、温院(おんきょういん)、生没

    年:1824年〜1858年) は、 江戸幕府

    (= 徳川幕府)の13代将軍 (将軍在任:

    1853年〜1858年)に就任する。

 

  ■ 徳川 家定は、 江戸幕府の第12代将軍・

    徳川家慶 (とくがわ いえよし)の子である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

 

■ 徳川 家定。

■ 徳川 家定 (生没年 1824〜1858年) は、 

  江戸幕府の第13代将軍 で、 将軍の在任期

  間は、1853年から1858年まで で ある。 

 

● 家定は、病弱で、奇行多し。

● 家定の生母(せいぼ、生みの親) は、本寿院 

  (ほんじゅいん) である。

● 家定の乳母(うば、育ての親) は、 歌橋 (う

  たはし) である。

● 家定の正室夫人は、 篤姫(あつひめ) (= 於

  一(おかつ)、島津 篤子 (しまづ あつこ)、近衛

  敬子(このえ すみこ)、天璋院(てんしょういん))

  である。 

● 家定の側室夫人は、 お志賀(おしが) である。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 家定 は、 1853年のアメリカのベリー艦隊来

  航以後、 欧米列強の対日武力威嚇を受け、 幕

  閣に難題を対処させ、 開国や貿易開始を行う。

● 家定 は、(幕府老中首座・阿部正弘の判断で)

  1854〜55年、欧米列強と和親条約を結び、日

  本を開国し、 (幕府大老・井伊直弼の判断で)

  1858年、 欧米列強と、日米修好通商条約を始

  め、不平等な安政の5カ国条約を結び、 外国と

  の貿易を開始する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 将軍・徳川家定を補佐した人物。

■ 13代将軍徳川家定(いえさだ)の治世(時代) 

  (将軍在任1853〜58)。

● 13代将軍徳川家定を補佐した中心人物 

  (幕政の中心となった人物) は、 

・ 1853〜55年の間は    老中首座・阿部 正弘 

                    (あべ まさひろ)。 

・ 1855〜58年の間は    老中首座・堀田 正睦 

                    (ほった まさよし)。

・ 1858年4月〜7月の間は 大老・井伊直弼 

                    (いい なおすけ)。

 

 

♪♪ 徳川家定 が登場する、興味深いドキ

    ュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 徳川家定 が登場する、興味深いドラマ、

   映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれていま

   す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 篤姫 (あつひめ) 』 。 

    (NHKテレビ・2008年大河ドラマ)。

● 徳川家定を演じた俳優名 : 堺雅人。

 

■ 『 大奥・幕末の女たち 』。 

    (フジテレビ・2003、2004年制作

    テレビドラマ)。

● 徳川家定を演じた俳優名 : 北村一輝。  

 

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#tokugawaiemochi

 

■ 徳川 家茂  

     (とくがわ いえもち)。

 

■ 徳川 家茂。

■ 名称 : 徳川 家茂 (とくがわ いえもち)。

■ 生没年 : 1846〜1866年

■ 江戸幕府の 、第14代将軍

  (将軍在任、1858〜1866年)。

■ 紀伊徳川氏の一族で、11代将軍・家斉(いえ

  なり)の孫(まご)。

■ 徳川宗家(本家)、徳川将軍家の全体について

  は、 「徳川宗家 (本家)・徳川将軍家」を参照し

  てください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 42241。

 

□ 徳川家茂の宝塔 (増上寺・徳川家

   霊廟内)

□ 徳川 家茂 が登場する、興味深い、

   ドキュ メンタリー、 ドラマ、映画

 

 

■ 徳川 家茂。

  ■ 徳川 家茂 (とくがわ いえもち、生没年:

   1846年〜1866年) は、 江戸幕府(= 徳

   川幕府)の、第14代将軍 (将軍在任 :18

   58年〜1866年 である。

   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川 家茂・江戸幕府の第 14代将軍就任。

  ● 1858年(安政5年)に、徳川 家茂 (とく

    がわ いえもち、昭徳院、生没年:1846年

    〜1866年)は、 江戸幕府(= 徳川幕府) 

    14代将軍 (将軍在任:1858年〜

    1866年)に就任する。

 

  ■ 徳川 家茂は、 徳川氏分家の徳川御三家

    の、紀州徳川家(紀伊徳川氏の一族)出身

    であり、 江戸幕府の第11代 将軍・徳川家

    (いえなり)の孫である。

 

 

■ 徳川 家茂。

■ 徳川分家の徳川御三家の1つ、紀伊(きい、

  紀州(きしゅう))徳川家出身。 

● 紀伊藩主(紀州藩主 )としての前の名前 は、 

  徳川慶福(よしとみ)。

■ 家茂の養母 は、 天璋院 (てんしょういん) 

  (= 天璋院・篤姫)。

■ 家茂の正室 は、 和宮 (かずのみや)。

■ 家茂の実母 は、 実成院 (じつじょういん)。

■ 1866年7月、 第2次長州征討(幕長戦争)

  の出陣中、大阪城で、 病死する。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

■ 家茂は、 日本の開国、貿易開始後の混乱、紛

    争などの難題を幕閣に対処させる。  安政の大

  獄、 桜田門外の変、 (安政5か国条約の)条約

  勅許問題、 長州征討 などの紛争に苦慮する。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

■ 徳川家茂(いえもち) は、紀州(きしゅう)徳川家

  出身 で、 紀州藩主としての前の名前 は、 徳

  川慶福(よしとみ) である。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 徳川 家茂 (生没年 1846〜1866年) は、 

  江戸幕府の第14代将軍 で、 将軍の在任期

  間は、1858年から1866年まで で ある。 

 

■ 初め、1858年、大老・井伊直弼 (いいなおす

  け) に お飾り将軍として、擁立される。 

    しかし、1860年の井伊直弼死後、 政治を

  自由に決断する。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

■ 徳川 家茂 の養母 は、 天璋院 (てんしょう

  いん) (= 天璋院・篤姫) で、 家茂の正室夫人 

    は、 和宮 (かずのみや)、 家茂の実母 は、  

   実成院  (じっせいいん、じつじょういん) である。

 

 

■ 家茂は、 1863年(文久3年)に、 229年振

  (ぶ)りに、 江戸幕府・将軍として、上洛(じょう

  らく)する (京(都)へ行く)。

 

■ 家茂は、 公武合体政策のため、1862年に朝

  廷の皇女・和宮(かずのみや)と結婚、 その後、

  幕政改革を行い、公武合体による難局打開をは

  かったが、1866年 大阪城で病没する。

● 1866年7月に、第2次長州征伐(幕長戦争18

  66.6月〜7月)の出陣中、大阪城で、病死する。 

  享年21歳。

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

■ 脚気衝心。

● 徳川 家茂( とくがわ いえもち)は、 脚気衝心(か

  っけしょうしん)で、 享年21歳で死去している。 

     徳川家茂の夫人和宮(かずのみや)の死因

  も、 気衝心(脚気による心不全)とされている。

 

● 脚気衝心(かっけしょうしん) (脚気による心不

  全) は、 ビタミンB1(チアミン)不足が原因で、 

  江戸時代、幕末、明治時代の当時、 現代日本の

  ような栄養学の知識はなく、 富裕層や高貴な身

  分の人 は、 一般庶民と違い、白米を食べて、 

  ビタミンB1を含む玄米を食べず、 ビタミンB1(チ

  アミン)不足となり、 脚気衝心(かっけしょうしん)

  (脚気による心不全)を起こし、死亡することが多

  かった。

● TKKI カナヤマ著 生物学辞典。

 

 

■ 将軍・徳川家茂を補佐した人物。

■ 14代将軍徳川家茂(いえもち)の治世(時代) 

  (将軍在任1858〜66)。

● 14代将軍徳川家茂を補佐した中心人物 

   ( 幕政の中心となった人物 ) は、

 1858〜60年の間は 大老・井伊 直弼 (いいなおす

                け) である。 

 1860〜62年の間は 老中・安藤 信正 (あんどうのぶ

                 まさ)、 である。 

 1862〜64年の間は 一橋家・徳川 慶喜 (とくがわよ

                 しのぶ)、 前越前藩主・徳川田

                安家出身・松平慶永(まつだいら

                よしなが)である。 

 1864〜66年の間は 老中・板倉勝静(かつきよ)、

                老中・小笠原長行(ながゆき)、

                奉行・小栗 忠順(おぐり ただまさ)、

                である。 

● TKKI カナヤマ著 日本史 辞典。

 

 

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♪♪ 徳川家茂(いえもち)登場する興味深

    い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 徳川家茂(いえもち)が登場する興味深い、

   ドラマ、映画 。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれていま

   す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 。 

   (NHKテレビ・2010年大河ドラマ)。

● 徳川家茂を演じた俳優 : 中村 隼人 

  (なかむら はやと)。

 

■ 『 篤姫 (あつひめ) 』 。 

   (NHKテレビ・2008年大河ドラマ)。

● 徳川家茂を演じた俳優名 : 松田 翔太

  (しょうた)。

 

■ 『 大奥・幕末の女たち 』。 

    (フジテレビ・2003、2004年制作

    テレビドラマ)。 

● 徳川家茂を演じた俳優名 : 葛山信吾、 

  神木隆之介。

 

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#tokugawayoshinobu

 

■ 徳川 慶喜  

     (とくがわ よしのぶ)。

 

■ 徳川 慶喜 。

■ 名称 : 徳川 慶喜 (とくがわ よしのぶ)。 

● 別名 : 一橋 慶喜 (ひとつばし よしのぶ)。

■ 生没年 : 1837〜1913年

■ 江戸幕府の 、第15代将軍

  (将軍在任、1866〜1867年)。

■ 水戸徳川氏の一族で、水戸藩主・徳川斉昭(な

  りあき)の子。

■ 徳川宗家(本家)当主、1866〜1868年。

■ 徳川宗家(本家)、徳川将軍家の全体について

  は、 「徳川宗家 (本家)・徳川将軍家」を参照し

  てください。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 42241。

 

□ 徳川 慶喜 画像 NO.1

         

 

■ 徳川 慶喜。

  ■ 徳川 慶喜 (とくがわ よしのぶ、生没年:

    1837年〜1913年) は、 江戸幕府(=

      徳川幕府)の、第15代将軍 (将軍在任:

    1866年〜1867年 である。

    ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

  ■ 徳川 慶喜・江戸幕府の第 15代将軍就任。

  ● 1866年(慶応2年)に、徳川 慶喜 (とくが

    わ よしのぶ、= 一橋(ひとつばし)慶喜、神道

    に改宗・仏教の院号なし、生没年:1837年

    〜1913年)は、 江戸幕府(= 徳川幕府)の

    15代将軍 (将軍在任:1866年〜1867

    年)に就任する。

 

  ■ 徳川 慶喜は、 徳川氏分家の、水戸徳川家

    出身、一橋徳川家出身であり、 徳川御三家

    (ごさんけ)の水戸徳川家(水戸徳川氏の

    一族)の水戸藩藩主・徳川斉昭(なりあき)

    子であり、 徳川御三卿(ごさんきょう)の 一橋

    徳川家に養子に入る。

 

  ■ 徳川 慶喜は、 徳川本家(宗家)当主(当主:

    1866年〜1868年)である。

 

 

■ 徳川 慶喜。

■ 徳川 慶喜は、 水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)

  の7男として生まれ、一橋家の養子となり、一橋

  家から江戸幕府の将軍となる。

■ 1866年、江戸幕府・15代将軍 (1866.12

  月〜1867.12月)となる。

■ 二心殿 (にしんどの)。

■ 徳川宗家当主 (当主在任1866〜1868年)。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

■ 徳川分家の徳川御三家の1つ、水戸徳川家出身。

● 水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の7男。 

  一橋家を継ぐ (一橋家に養子にいく)。

● 徳川家御三卿(ごさんきょう)の1つ、 一橋家

  出身。 

● 1862年、江戸幕府・14代将軍徳川家茂(いえ

  もち)の将軍後見職(1862〜64年)となり、家

  茂を補佐。

 

 

■ 徳川 慶喜 (とくがわ よしのぶ、生没年1837

  〜1913年) は、 江戸幕府の第15代将軍で、 

  将軍の在任期間は、1866年から1867年まで 

  で、 江戸幕府の最後の将軍 であった。 

 

■ 徳川 慶喜は、当時、「二心殿」(にしんどの)と

  呼ばれた。

     徳川 慶喜は、 聡明で先が見え、心変わり

  が多かったため (現代風に言うとコロコロと考

  えを変え)、 「二心殿」 と呼ばれた。 

    幕末、幕府の中心勢力となった徳川 慶喜

  は、常に保身をはかり、 徹底抗戦などせず、

  戦いが不利と見るとさっと身を引くなどし、 そ

  のおかげで、幕末・明治初期、内戦が巨大規

  模とならず、国内が荒廃することなく、明治期

  の日本の近代国家建設への道が開けた。

 

■ 一橋 慶喜(ひとつばし よしのぶ)は、 14代

  将軍継嗣(けいし)問題で、1858年(安政5年)

  に、紀州藩主・徳川慶福(よしとみ、徳川家茂

  (いえもち))に敗れ、 1859年(安政6年)に

  大老・井伊直弼(なおすけ)に蟄居謹慎(ちっ

  きょきんしん)を命じられた。 

 

■ 1860年(万延(まんえん)元年)3月の井伊

  大老暗殺後、 1862年(文久2年)7月より

  幕府14代将軍・徳川家茂(いえもち)の将軍

  後見職(しょうぐんこうけんしょく、1862〜

  64年)となり、 家茂を補佐する。

 

■ 1866年(慶応2年)7月の家茂病死後、一

    橋慶喜 は、1966年12月に、徳川慶喜とし

  て、 幕府15代将軍(1866.12月〜1867.

  12月) となり、将軍就任後も、難局に対処し

  て、 幕政改革に努めたが、1867年(慶応3

  年)10月に大政奉還(たいせいほうかん)を

  行い、 1867年12月の王政復古で、 江戸

  幕府 は、消滅した。

 

■ 慶喜 (よしのぶ) は、 水戸藩主徳川斉昭

  (なりあき)の子(7男)で、 御三卿(ごさんき

  ょう)の1つ、一橋家へ養子に入り、 徳川・一

  橋家の当主となり、 一橋慶喜 と称した。

● 江戸時代、 武家では、 長子(長男)相続で

  あり、 その家の長男が死去または養子に出

  ない限り、 長男以外の男子は、「冷や飯食い、

  部屋住み」か、 他家へ養子に出る以外に、

  生きる術(すべ) がなかった。

      慶喜は、 他家 (水戸徳川家より徳川

  御三卿の一橋家)へ養子に出る道を選んだ。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 慶喜は、 1862〜64年の間、 14代将軍

  徳川家茂(いえもち)を補佐した。

■ 慶喜は、 1866年将軍就任後、 難局に対

  処し、 幕政改革に努める。

 

 

■ 大政奉還。

● 1867年に、 慶喜は、 大政奉還(たいせい

  ほうかん、政権返還)を行い、 公議政体論に

  基づく徳川家主導(中心)の諸藩の連合政権を

  めざしたが、 王政復古が実現してしまい、 失

  敗する。

● 薩長(薩摩と長州)が武力倒幕路線に進むこ

  とを予期した徳川慶喜 は、 1867年(慶応3

  年)10月14日に、 政権返上を睦仁天皇(む

  つひとてんのう、明治天皇)に上奏(じょうそう)

  し、 翌日勅許(ちょっきょ)された (大政奉還)。  

    慶喜は、 当時の朝廷に行政能力が無いと

  判断し、 列侯会議を主導する形での徳川政権

  存続を模索していたと言われている。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

● 公議政体論 とは、 天皇の下に、徳川家(江

  戸幕府の将軍)を議長とする列藩会議の政体を

  樹立しようとする主張 である。

 

 

■ 将軍・徳川慶喜を補佐した人物。

■ 15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)の治世(時代) 

  (将軍在任1866〜67)。

● 15代将軍徳川慶喜を補佐した中心人物 

  (幕政の中心となった人物) は、

  1866〜67年の間 ⇒ 老中・板倉勝静(かつきよ)、

                  老中・小笠原長行(ながみち)、

                  奉行・小栗 忠順(おぐり ただまさ)。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

■ 大政奉還後の徳川慶喜(よしのぶ)の治世(時代)

 (徳川宗家当主在任1867〜68)。

● 大政奉還後、江戸城無血開城(徳川幕府崩壊)

  までの徳川慶喜を補佐した中心人物 (徳川宗

  家の中心となった人物) は、

  1867〜68年の間 ⇒ 老中・板倉勝静(かつきよ)、

                  老中・小笠原長行(ながみち)、

                  幕臣・勝 海舟(かつ かいしゅう)。 

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。

 

 

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♪♪ 徳川慶喜(一橋慶喜) が登場する興味

    深い、ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

 徳川慶喜(一橋慶喜) が登場する興味

   い、ドラマ、映画。

● (注意) ドラマ、映画は、 フィクション です。 

   歴史のドラマ、映画は、史実(歴史上の事実) 

   と 架空の出来事が 混じって描かれていま

   す。 また、 現代風にアレンジしてあります。

 

■ 『 龍馬伝 (りょうまでん) 』 。 

   (NHKテレビ・2010年大河ドラマ)。

● 徳川慶喜(一橋慶喜)を演じた俳優 : 

  田中 哲司 (たなか てつし)。

 

■ 『 篤姫 (あつひめ) 』 。  

   (NHKテレビ・2008年大河ドラマ)。

● 徳川慶喜を演じた俳優名 : 平 岳大。

 

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』

 

 

以  上