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KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK.
カナヤマ 日本歴史 辞典
日本語版
見出し語 『 と 』。
No.0825。
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□ 日本史 辞典 (総合)。
□ と ≪徳川氏分家の人々≫。
● 事柄順。
No.1。
〇 とく 徳川御三家。
(とくがわごさんけ) 。 《徳川氏》。
(= 御三家) 。
(17〜19世紀)。
○ 徳川御三家は、
徳川氏の分家である。
○ 徳川御三家は、
徳川氏の御三家(尾張徳川
家(尾張藩)、紀州徳川家
(紀州藩)、水戸徳川家(水
戸藩)である。
■ 徳川御三家 (とくがわごさ
んけ)とは、別名では、御三家とい
い、 徳川氏の分家であり、 徳川
氏の尾張徳川家(尾張藩)、紀州
(紀伊)徳川家(紀州藩)、水戸徳
川家(水戸藩)である。
■ 徳川御三家(= 御三家)は、
初代将軍・徳川家康以後、 江戸
幕府(徳川氏本家(宗家))の将軍
を助け、将軍に子がない時には継
嗣(けいし、後継者)を出すとの配
慮から設立される。
〇 とく 徳川御三卿。
(とくがわごさんきょう)。 《徳川氏》。
(= 御三卿) 。
(18〜19世紀)。
○ 徳川御三卿は、
徳川氏の分家である。
○ 徳川御三卿は、
徳川氏の御三卿(田安家、
一橋家、清水家)である。
■ 徳川御三卿 (とくがわごさん
きょう)とは、別名では、御三卿と
いい、 徳川氏の分家であり、 徳
川氏の田安家、一橋家、清水家で
ある。
■ 徳川御三卿(= 御三卿)は、
第8代将軍・徳川吉宗以後、 江戸
幕府(徳川氏本家(宗家))の将軍
を助け、将軍に子がない時には継
嗣(けいし、後継者)を出すとの配
慮から設立される。 徳川氏の御
三家を抑える意図をもつ。
〇 とく 徳川 光圀。
(とくがわ みつくに)。
(= 水戸黄門、水戸 光圀)。
○ 水戸藩・第2代藩主。
○ 大日本史編纂を行う(始める)。
〇 とく 徳川 斉昭。
(とくがわ なりあき)。
○ 水戸藩第9代藩主。
〇 とく 江戸幕府・将軍。
〇 とく 徳川 家康。
〇 とく 徳川政権。
〇 とく 徳川氏(家)。
〇 とく 徳川本家(宗家)。
〇 とく 徳川将軍家。
〇 とく 徳川将軍家 ・当主。
〇 とく 徳川本家(宗家)の
〇 とく 徳川分家の人々。
■ 『 現在は、過去の成果であり、
未来は、現在の成果である。 』
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◆ 日本史辞典
● 見出し語は、グリーンでマークされています。
■ 徳川御三卿
(とくがわごさんきょう)。
(= 御三卿)。
■ 徳川御三卿。
■ 名称 : 徳川御三卿
(とくがわごさんきょう)。
● 別名 : 御三卿 (ごさんきょう)。
■ 時期 : 江戸時代。 18〜19世紀。
■ 《徳川氏》。
■ 徳川御三卿は、
徳川氏の分家である。
■ 徳川御三卿は、
徳川氏の御三卿(田安家、一橋家、清水家)
である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11636。
■ 徳川御三卿。
■ 徳川御三卿 (とくがわごさんき
ょう)とは、別名では、御三卿と
いい、 徳川氏の分家であり、徳
川氏の田安家、一橋家、清水家で
ある。
■ 徳川御三卿(= 御三卿)は、
第8代将軍・徳川吉宗以後、 江戸
幕府(徳川氏本家(宗家))の将軍
を助け、将軍に子がない時には継
嗣(けいし、後継者)を出すとの配
慮から設立される。 徳川氏の御
三家を抑える意図をもつ。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 徳川御三卿。
■ 徳川家の分家。 徳川将軍家(徳川宗家)の
分家。
■ 徳川本家(徳川宗家)の徳川吉宗の系統から
分立した分家。
■ 田安家(たやすけ)、 一橋家(ひとつばしけ)、
清水家 (しみずけ)。
■ 徳川御三卿 (とくがわごさんきょう)は、 徳川
家の御三卿 で、 徳川家の分家 である。
■ 徳川御三卿 (とくがわごさんきょう) は、 徳川将軍家(徳川宗家)
の分家 で、 徳川宗家(徳川本家)の徳川吉宗の系統から分立した
分家 である。
■ 徳川御三卿 とは、 田安家(たやすけ)、 一橋家(ひとつばしけ)、
清水家(しみずけ) である。
■ 徳川御三卿 とは、 江戸時代に、 江戸幕府8代将軍の徳川吉宗
(よしむね)から分立した家系の、田安家 (たやすけ)、一橋家 (ひと
つばしけ)、 清水家 (しみずけ) の3つの分家 を言う。
● 江戸幕府 は、 徳川本家(徳川将軍家)に子がないときは、 徳川分
家の徳川御三卿や徳川御三家から、 「血統」と「家格」で、 後継将軍を
だすことになっていた。
● 徳川2代将軍から徳川7代将軍までの治世では、 徳川本家(徳川将
軍家)に後嗣(後継ぎ)が絶えた時は、 尾張徳川家 か 紀伊(紀州)徳
川家 から後継将軍(徳川本家当主)を出すことになっていた。
● 徳川8代将軍から徳川15代将軍までの治世では、 徳川本家(徳川
将軍家)に後嗣(後継ぎ)が絶えた時は、 徳川御三卿 か 尾張徳川家
か 紀伊(紀州)徳川家 から後継将軍(徳川本家当主)を出すことになっ
ていた。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 徳川御三卿 は、 家格は、徳川御三家より下だが、 徳川将軍家
(徳川宗家)を継ぐ資格を持っていた。
● 江戸幕府の創始者の徳川家康より、年月がたち、徳川将軍家(徳川
宗家)と徳川御三家との関係が疎遠になってきたので、 徳川将軍家
(徳川宗家)の血族関係を強固にするため、 8代将軍の徳川吉宗以
後に、3分家が起こされた。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
◆ 田安家
■ 田安家 (たやすけ) は、8代将軍・徳川吉宗の第2子、 徳川宗武
(むねたけ) が、始祖。
● 徳川宗武(田安宗武)の3男が、 松平定信 (まつだいらさだのぶ)
で、 11代将軍・徳川家斉(いえなり)の治世に、 寛政(かんせい)の
改革を行った。
● 田安家出身の前越前藩主、松平慶永(よしなが) が、 幕府の政事
総裁職 (1862〜64年) となる。
● 1868年、徳川慶喜(よしのぶ)が、隠居謹慎した際 (江戸城無血
開城で、徳川幕府崩壊後)、 1868年、徳川家達 (いえたつ、幼名:
田安亀之助) が、田安家から入り、徳川宗家を相続する。 駿府を居
城に70万石を領有する。
◆ 一橋家。
■ 一橋家 (ひとつばしけ) は、 8代将軍・徳川吉宗の第4子、 徳
川宗尹(むねただ) が、始祖 である。
● 11代将軍・徳川家斉(いえなり)、15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)
を出す。
◆ 清水家。
■ 清水家 (しみずけ) は、 9代将軍・徳川家重(いえしげ)の第2子、
徳川重好(しげよし) が、 始祖 である。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ 徳川御三家
(とくがわごさんけ)。
(= 御三家)。
■ 徳川御三家。
■ 名称 : 徳川御三家 (とくがわごさんけ)。
● 別名 : 御三家 (ごさんけ)。
■ 時期 : 江戸時代。 17〜19世紀。
■ 《徳川氏》。
■ 徳川御三家は、
徳川氏の分家である。
■ 徳川御三家は、
徳川氏の御三家(尾張徳川家(尾張藩)、
紀州徳川家(紀州藩)、水戸徳川家(水
戸藩)である。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 11635。
■ 徳川御三家。
■ 徳川御三家 (とくがわごさんけ)
とは、別名では、御三家といい、
徳川氏の分家であり、 徳川
氏の尾張徳川家(尾張藩)、紀州
(紀伊)徳川家(紀州藩)、水戸徳
川家(水戸藩)である。
■ 徳川御三家(= 御三家)は、
初代将軍・徳川家康以後、 江戸
幕府(徳川氏本家(宗家))の将軍
を助け、将軍に子がない時には継
嗣(けいし、後継者)を出すとの配
慮から設立される。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 徳川御三家。
■ 徳川家の分家。 徳川将軍家(徳川宗家)の分家。
■ 徳川本家(徳川宗家)の徳川家康から分立した分家。
■ 尾張徳川家、 紀伊(紀州)徳川家、 水戸徳川家。
■ 徳川御三家 (とくがわごさんけ) は、 徳川家の御三家で、 徳川
家の分家 である。
■ 徳川御三家 は、 徳川将軍家(徳川宗家)の分家 であり、徳川宗
家(徳川本家)の徳川家康から分立した3つの分家 である。
■ 徳川御三家 とは、 尾張徳川家、 紀伊(紀州)徳川家、 水戸徳
川家 である。
■ 尾張徳川家が、尾張藩を領有し、 紀伊(紀州)徳川家が、紀州藩を
領有し、 水戸 徳川家が、水戸藩を、領有し、 これら3藩を、親藩と呼
んだ。
■ 徳川御三家 とは、 江戸時代に、 江戸幕府初代将軍の徳川家康
(いえやす)から分立した家系の、尾張(おわり)徳川家、 紀伊(きい、
紀州)徳川家、 水戸(みと)徳川家の3家 をいう。
● 江戸幕府 は、 徳川本家(徳川将軍家)に子がないときは、 徳川
分家の徳川御三卿や徳川御三家から、 「血統」と「家格」で、 後継将
軍をだすことになっていた。
● 徳川2代将軍から徳川7代将軍までの治世では、 徳川本家(徳川
将軍家)に後嗣(後継ぎ)が絶えた時は、 尾張徳川家 か 紀伊(紀
州)徳川家 から後継将軍(徳川本家当主)を出すことになっていた。
● 徳川8代将軍から徳川15代将軍までの治世では、 徳川本家(徳
川将軍家)に後嗣(後継ぎ)が絶えた時は、 徳川御三卿 か 尾張徳
川家 か 紀伊(紀州)徳川家 から後継将軍(徳川本家当主)を出す
ことになっていた。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 尾張(おわり)徳川家 は、初代将軍・徳川家康の子、 徳川義直
(よしなお) が、 尾張藩の藩祖(始祖) である。
● 14代将軍・徳川家茂(いえもち)を出す。
■ 紀伊(きい)徳川家 は、 初代将軍・徳川家康の子、 徳川頼宣
(よりのぶ)が、 紀州藩の藩祖(始祖) である。
● 8代将軍・徳川吉宗(よしむね)を出す。
■ 水戸(みと)徳川家 は、 初代将軍・徳川家康の子、 徳川頼房
(よりふさ) が、 水戸藩の藩祖(始祖) である。
● 15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)を出す。
徳川慶喜の場合は、 水戸徳川家より徳川御三卿の一橋家に養子
に入り、一橋家の当主・一橋慶喜となり、その後、15代将軍となった。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ 徳川 斉昭
(とくがわ なりあき)。
■ 徳川 斉昭 。
■ 生没年 1800年〜1860年。
■ 名前 : 徳川 斉昭 (とくがわ なりあき)。
■ 第9代水戸藩主 (在任 1829〜44年)。
● 藩主辞任後も、 水戸藩の実権を握る(1844
〜60年)。
■ 幕政参与(幕府の政治顧問、1853〜57年)。
■ 徳川 慶喜 (よしのぶ、一橋慶喜、徳川斉昭
の7男) の父。
■ 7代水戸藩主徳川治紀 (はるとし) の3男。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 8代水戸藩主徳川斉脩 (なりのぶ、治紀の
長男、藩主在任1816〜29) の弟。
■ 10代水戸藩主徳川慶篤 (よしあつ、藩主
在任1844〜68、斉昭の長男、よかろう様)
の父。
■ 攘夷派、尊皇派(勤皇派)、一橋派の大名。
● 攘夷 (じょうい) とは、 外国を武力で追い
払う ことである。
■ 徳川 斉昭 (とくがわ なりあき、生没年 1800〜60年) は、 徳
川の御三家の1つ、水戸藩の第9代水戸藩主 (藩主在任1829〜44
年) で、藩主辞任後も、 水戸藩の実権(1844〜60年) を握る。
■ 水戸藩の第9代水戸藩主の、徳川 斉昭 (藩主在任1829〜44年)
は、 7代水戸藩主徳川治紀 (はるとし) の3男で、 8代水戸藩主徳
川斉脩 (なりのぶ、治紀の長男、藩主在任1816〜29) の弟で、
10代水戸藩主徳川慶篤 ( よしあつ、藩主在任1844〜68、斉昭の
長男、よかろう様 ) の父 である。
■ 徳川 斉昭 は、 徳川 慶喜 (よしのぶ、一橋慶喜、徳川斉昭の7男)
の父 である。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 徳川 斉昭 は、 攘夷派、尊皇派(勤皇派)、一橋派の大名 であった。
攘夷 (じょうい) とは、 外国を武力で追い払う ことである。
■ 徳川 斉昭 は、 幕政参与 (幕府の政治顧問、1853〜57年) で
あった。
■ 徳川 斉昭(なりあき) は、 強く 尊王、攘夷を主張した。
● 斉昭 は、烈公で、 幕末を荒々しい気性で生き抜いた人物 である。
● 斉昭 は、生涯、 男女合わせて、 37人の子供をもうけた。
〇 斉昭 は、女色に淫(いん)する(おぼれる)傾向があり、 問題も起
こしました。 唐橋(兄嫁・峰姫の近臣)事件、 線姫(長男の嫁)事件。
〇 良く言えば、英雄、色を好む、 悪く言えば、女癖(おんなぐせ)が激
しかった と言える。
● 子供が多かったおかげで、自分の子供を、徳川家、藩主、公家など
の名家へ嫁がせたり、養子に入れたりして、 幕末 や 明治維新時
(1841〜77)、 水戸徳川家出身者は、 大きな勢力となった。
■ 10代水戸藩主慶篤 (よしあつ、斉昭の長男、よかろう様、藩主18
44〜68) の父で、前水戸藩主である 徳川 斉昭 (なりあき) は、
1853年のペリー来航後、1853年、 幕政参与となり、 1857年まで、
幕政に参画し、 尊王派、攘夷派の中心人物として、 国事に奔走(ほ
んそう)した。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
● 斉昭 (なりあき) は、当時、 日本の尊王派、攘夷派の人々に非常
に人気があり、 尊王派、攘夷派のカルスマ的存在 であった。
● 斉昭 (なりあき) は、1853年、 江戸幕府の老中首座・阿部正弘
(あべまさひろ)の要請により、 幕政参与となります。 1853から18
57年まで、 幕政参与(幕府の政治顧問)という立場で、 幕政に参加
した。
● 幕府の老中も、 斉昭の発言を無視できなかった。 1857年、江戸
幕府の老中・阿部正弘の死後、 幕政参与を辞した。
■ 一橋派で攘夷派の、斉昭 (なりあき) は、 将軍継嗣問題、 修好
通商条約締結問題、条約勅許問題、で、 南紀派で開国派の、井伊直
弼 (いいなおすけ) と激しく対立した。
● 将軍継嗣問題 (じょうぐんけいしもんだい) とは、江戸幕府の次期
14代将軍を誰にするかという問題 である。
● 修好通商条約締結問題 とは、 武力威嚇をする欧米列強と不平
等な修好条約を結ぶという問題 である 。
● 条約勅許問題 とは、安政の5カ国条約(修好通商条約)を、1858
年(安政5年)に、 天皇(朝廷)の許可なく、 欧米列強と結んだという
問題 である。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
@ 1858年(安政5年) 4月に、井伊 直弼(なおすけ) が、江戸幕府の
大老に就任した。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
A 将軍継嗣問題 では、 南紀派の幕府大老・井伊直弼 (いいなおす
け)の推する、紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)が、 1858年(安政5年)
5月に次期(14代)将軍に決定し、徳川家茂(いえもち)と改名して、18
58年(安政5年)10月に、 江戸幕府の14代将軍となった。
● 一橋派の斉昭 は、 自分の息子の一橋慶喜を、江戸幕府の次期14
代将軍にするのに失敗した。
B 修好通商条約締結問題 では、 開国派の井伊直弼が、 1858年
(安政5年)6月に日米修好通商条約を結び、 そして、1858年(安政
5年)に、 5か国の欧米列強と不平等な安政の5カ国条約 (修好通商
条約) を結んだ。
● 攘夷派の斉昭 は、 幕府大老・井伊直弼が 欧米列強と不平等な
修好通商条約を結ぶのを阻止できなかった。
C 条約勅許問題 では、 開国派の井伊直弼が、安政の5カ国条約(修
好通商条約)を、1858年(安政5年)に、 天皇(朝廷)の許可なく、欧
米列強の諸外国と結んだ。
● 攘夷派の斉昭 は、 幕府大老・井伊直弼が 欧米列強と、修好通商
条約を、 天皇(朝廷)の許可なく、 結ぶのを阻止できなかった。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
D 斉昭 は、他の一橋派や攘夷派の大名、幕臣と共に、不平等な安政
の5カ国条約を勅許なしに締結したことを、 大老・井伊直弼に抗議し
た。 しかし、斉昭 は、 大老・井伊直弼に、 1859年(安政6年)
に、江戸城無断登城 を理由に、 隠居謹慎処分(永蟄居(えいちきょ))
となり、処罰された (安政の大獄、井伊の政策の反対派の一掃、18
58〜59年) 。
E 斉昭 は、1860年(万延(まんえん)元年) 8月、蟄居(ちっきょ)
処分が解けぬまま、 心筋梗塞(しんきんこうそく)で、 急死した。
享年(きょうねん)、 61歳であった。
♪♪ 徳川斉昭(なりあき) が登場する、面白く、興味
深い、ドラマ、映画。
■ 『 篤姫 (あつひめ) 』 (NHK2008年大河ドラマ)。
● 徳川斉昭を演じた俳優名 : 江守 徹。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
■ 徳川光圀
(とくがわみつくに)。
(水戸黄門) (水戸光圀)
■ 徳川光圀。
■ 生没年 : 1628年(寛永5年) 〜 1700年(元禄13年)。
■ 名称 : 徳川 光圀 (とくがわ みつくに)。 別名 : 水戸光圀
(みと みつくに)、 徳川光国、 水戸黄門。
● 元服(成人)して、1636年より、徳川光国 と称し、 1679年より、
徳川光圀 と称する。
● また、1690年、権中納言となり、 「水戸黄門」 (黄門は中納言
と言う意味) とも呼ばれようになる。
■ 水戸藩第2代藩主 (藩主在任1661〜79年)。
■ 水戸藩・藩祖(初代藩主)・徳川頼房の三男。
■ 江戸(徳川)幕府の初代将軍・家康の孫(まご)。
■ 徳川 光圀 は、 徳川一門の長老として、 5代将軍綱吉期に、 幕
政に影響力をもった。
■ 水戸徳川家の藩主 は、 2代目藩主・光圀から9代藩主・斉昭まで、
将軍の補佐役となる。 俗に、「(天下の)副将軍」 と呼ばれる。
■ グルメ(美食家)として有名である。
■ 学者肌で非常に好奇心の強い人物である。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 徳川 光圀 (とくがわ みつくに) は、生没年は 1628年(寛永5年)
〜 1700年(元禄13年) で、 別名は、 水戸光圀 (みと みつく
に)、 徳川光国、 水戸黄門 と呼ばれた。
● 徳川 光圀 は、 元服(成人)して、1636年より、徳川光国 と称し、
1679年より、 徳川光圀 と称する。
● また、徳川 光圀 は、1690年、権中納言となり、 「水戸黄門」
(黄門は中納言と言う意味) とも呼ばれようになる。
■ 徳川 光圀 は、 江戸(徳川)幕府の初代将軍・家康の孫(まご) で、
水戸藩・藩祖(初代藩主)・徳川頼房の三男 で、 水戸藩第2代藩主
(藩主在任1661〜79年) であった。
■ 徳川 光圀 は、 徳川一門の長老として、 5代将軍綱吉期に、 幕
政に影響力をもった。
■ 水戸徳川家の藩主 は、 2代目藩主・光圀から9代藩主・斉昭まで、
将軍の補佐役となる。 俗に、「(天下の)副将軍」 と呼ばれる。
■ 徳川 光圀 は、 グルメ(美食家)として有名である。
■ 徳川 光圀 は、 学者肌で非常に好奇心の強い人物である。
■ 徳川光圀 は、 少年時代は刀を振り回したりして不良な振る舞い
をおこなっていて、 また、 吉原遊廓(よしわらゆうかく)通いも頻繁に
していた。 しかし、光圀が18歳の時、 司馬遷の「史記」を読んで感
銘を受け、 これにより、 学問に精を出すことになる。
■ 徳川 光圀 は、 古典研究や文化財の保護活動など数々の文化事
業を行った。
■ 徳川 光圀 は、 文化事業による藩財政悪化が指摘され、 水戸藩
の領民へ超重税を強いたと言われ、 水戸学のめざした「愛民」の理想
から逸脱(いつだつ)した側面もあり、 名君と評することはできない。
■ 徳川 光圀 は、 当時、徳川家随一の博識の人物であった。
■ 徳川 光圀 は、 「大日本史」編纂(へんさん)事業を開始する。
■ 徳川光圀(水戸黄門)死後、 水戸徳川家は、 江戸時代、明治時
代中期まで継続して「大日本史」編纂事業を続け、 1906年(明治
39年)、 徳川圀順 が 「大日本史」を完成させる (全397巻)。
■ 徳川光圀(水戸黄門) は、 佐々介三郎(さっさすけさぶろう、助さ
ん(すけさん)) や 安積覚兵衛(あさかかくべい、格さん(かくさん))の
協力を得て、 チームワークで、 大日本史の編纂を行った。
● 諸国漫遊の旅をした(日本中各地を旅した)のは、 助さん(すけさ
ん、佐々介三郎) のみであり、 一方、 水戸黄門 (徳川光圀) は、
諸国漫遊の旅はせず、 水戸領内を、ぶらり散歩する程度であった。
■ 史実(歴史的事実)としては、 徳川 光圀 は、 水戸藩内 と、江
戸市中 と、 江戸と水戸藩との往復路、 鎌倉、 以外はほとんど出
向いていない。
■ フィクションの世界では、 創作の「水戸黄門」では、 徳川 光圀 は、
江戸時代後期以後、 現代まで、 隠居姿で日本全国を旅する 「水
戸黄門」 として、 親しまれている。
● 江戸時代前期から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立していた
が、 江戸時代後期以後、 白髪で頭巾姿で諸国を行脚して、 お上
(おかみ)の横暴から民百姓の味方をする黄門漫遊記というフィクショ
ンが確立する。 現在でも、 「水戸黄門」というテレビ・ドラマで親しま
れている。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 徳川 光圀 は、 学者肌で非常に好奇心の強い人物である。
■ 徳川 光圀 は、 古典研究や文化財の保護活動など数々の文化事
業を行った。
■ 徳川 光圀 は、 「大日本史」編纂(へんさん)事業を開始する。
● 徳川光圀死後、 江戸時代、明治時代中期までずっと事業は続き、
1906年(明治39年)、徳川圀順 が「大日本史」を完成させる。
● 徳川 光圀存命中に、 介(すけ)さん、 格(かく)さん は、光圀の指
示で、 大日本史の編集に携わった人物である。
■ 徳川 光圀 は、 光圀が主導した多方面の文化事業が評価される一
方で、 為政者として、文化事業による藩財政悪化が指摘され、水戸藩
の領民への負担があり、そのため農民の逃散が絶えなかった。 光圀
為政時代に、年貢比率が八公二民の超重税を強いたと言われ、 水戸
学のめざした「愛民」の理想から逸脱(いつだつ)した側面もあり、 名
君と評することはできない。
■ 徳川光圀(水戸黄門) は、 佐々介三郎 (さっさすけさぶろう、儒
学者、 ドラマ・映画の「水戸黄門」の助さん(すけさん、佐々木助三
郎)のモデル)) や 安積覚兵衛 (あさかかくべい、儒学者、 ドラマ
・映画の「水戸黄門」の格さん(かくさん、渥美格之進)のモデル)) な
どの協力を得て、 チームワークで、 大日本史の編纂を行った。
● 諸国漫遊の旅をした(日本中各地を旅した)のは、 助さん(すけさ
ん、佐々介三郎) のみであり、 一方、 水戸黄門 (徳川光圀) は、
水戸領内をぶらり散歩する程度であった。
■ 佐々介三郎 (助さん) や 安積覚兵衛 (格さん) は、 大日本
史の編集に携わった人物である。
佐々介三郎(助さん)が集めた史料を、 安積覚兵衛(格さん)がまと
めた。
● 徳川 光圀(水戸黄門)存命中に、 光圀の指示で、 佐々介三郎
(さっさすけさぶろう、儒学者、 ドラマ・映画の「水戸黄門」の助さん
(すけさん、佐々木助三郎)のモデル)) は、 日本中各地を旅し、
「大日本史」編纂の史料を集め、 水戸にいた安積覚兵衛 (あさかか
くべい、儒学者、 ドラマ・映画の「水戸黄門」の格さん(かくさん、渥美
格之進)のモデル) が、 水戸で、 佐々介三郎 (助さん)が持ち帰
ったその史料をまとめた。
■ 徳川光圀(水戸黄門)死後、 水戸徳川家は、 江戸時代、明治時
代中期まで継続して「大日本史」編纂事業を続け、 1906年(明治
39年)、 徳川圀順 が 「大日本史」を完成させる (全397巻)。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 徳川光圀(水戸黄門)の指示で、 小八兵衛 (こはちべい、テレビド
ラマ「水戸黄門」の風車の弥七(かざぐるまのやしち)のモデル) は、
水戸領内での治安維持 や 近隣諸国の動向を探った。
● 盗賊であった、小八兵衛 (風車の弥七) は、 盗賊をして捕まり
死罪になるところを、 徳川 光圀により罪を許され、救われた。
● 小八兵衛 (風車の弥七) は、 盗賊から足を洗い、 光圀のため
に働くようになった。 小八兵衛(風車の弥七) は、 光圀の指示で、
水戸領内での治安維持にあたって犯罪を少なくしたり、 近隣諸国の
動向を探ったりした (「桃蹊雑話(とうけいざつわ)」より)。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典。
■ 徳川 光圀は、 水戸藩第2代藩主 (藩主在任1661〜79年) で
ある。
■ 徳川 光圀 は、 徳川一門の長老として、 5代将軍綱吉期に、幕
政に影響力をもった。
■ 徳川 光圀 (とくがわ みつくに)は、 生没年は、 1628年(寛永5
年) 〜1700年(元禄13年) で、 別名は、 水戸光圀 (みと み
つくに)、 徳川光国、 水戸黄門 とも呼ばれる。
● 徳川 光圀は、 元服(成人)して、1636年より、徳川光国 と称し、
1679年より、 徳川光圀 と称する。
■ 水戸黄門 とは、 「水戸中納言」 の漢風名称 である。
● 徳川 光圀は、 また、 1690年、権中納言となり、 水戸黄門
(黄門は中国語名で、中納言という意味) 」 とも呼ばれる。 「水戸
黄門」 とは、 水戸藩主で、中納言または権中納言の官位をうけた
「水戸中納言」 の漢風名称である。 「水戸中納言」 (水戸藩の中
納言) は、 何人も居るが、 一般に、「水戸黄門」と言えば、 徳川
光圀 をさす。
■ 水戸徳川家の地位。
● 水戸徳川家からは、 将軍を出さず、 将軍の補佐役として、 参
勤交代を行わず、 江戸に常駐(定府)する。
● 常に将軍の元に居る事から、 水戸徳川藩主 は、俗に、「(天下
の)副将軍」 と呼ばれる。 江戸時代、 初代藩主・徳川頼房(よりふ
さ)、2代目藩主・徳川光圀(みつくに) から 9代藩主・徳川斉昭(な
りあき)、10代藩主・徳川慶篤(よしあつ) まで、 水戸徳川家から将
軍職に就く者はいなかった。
● 徳川斉昭の7男、徳川慶喜(よしのぶ) は、 一橋家に出され(一
橋家の養子となり)、 一橋家から将軍職(15代将軍)に就いたので、
系譜上は、 水戸徳川家から直接に就いたわけではない。
■ 徳川 光圀 は、 グルメ(美食家) として有名である。
● ラーメン、餃子(ぎょうざ)、チーズをはじめ、 その他色々の食べ物
を、日本史上初めて、試食した。 また、鮭(さけ)の皮(かわ)が大好
物であった。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
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♪♪ 徳川光圀(水戸光圀、水戸黄門)
が登場する、面白く、興味深い関連
ドキュメンタリー、ドラマ、映画。
● (注意) ドラマ、映画 は、フィクションであり、
歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事実)
と 架空の出来事 が、 混じって、描かれてい
ます。 また、現代風にアレンジしてあります。
★ 徳川光圀(水戸光圀、水戸黄門)
が登場する、面白く、興味深いドキ
ュメンタリー。
■ 歴史秘話ヒストリア 『 いつまで
も若々しく! 〜徳川家康と水戸
黄門 華麗なる健康ライフ〜 』
(2012年(平成24年)10月3日・本放送
NHKテレビ・ドキュメンタリー番組)。
■ 歴史秘話ヒストリア 『 いつだって
好奇心〜水戸黄門 知られざる熱中
人生〜 』 ( NHK2009年(H21年)5月
27日・本放送テレビ・ドキュメンタリー番組、
第8回)。
★ フィクションの物語 「水戸黄門(水
戸光圀、徳川光圀)の諸国漫遊記」
が登場する、 面白く、興味深い関
連ドラマ、映画。
■ 『 水戸黄門 』 (TBSテレビ・連続テレ
ビドラマ)。
□ 日本史 辞典 の先頭ページへ 。
『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』
以 上。