白樺八青(しらかば・やお)オフィシャルウェブサイト〜風の通る部屋〜 

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「こだわり」

数年前だったでしょうか、美意識のひとつの基準として「こだわり」という言葉をよく耳にしました。辞書を見ると「つまらないことに気持ちがとらわれる」など、この言葉にはもともとあまりいい意味がないようです。しかし、こだわりの料理、こだわりの農業、こだわりの建築、…こう表現されると、いかにも時流に流されないスタイルに、妥協を強いられ続けた現代人があこがれたのもうなずける気がします。

とはいえ、この言葉が一時期ほどの勢いを失ったのはなぜでしょう。こだわるということはいつまでもそのことが頭から離れない。妥協を許さず壊してはまた作る。エスカレートすれば、一種の強迫観念に襲われてしまいます。理想を追求していくことが自分自身を不自由にしていくなんて皮肉なことですね。


木を見るよりも森

一方、私の知る工芸作家は、こだわりを捨て去ることを旨としています。芸術家には珍しいと思ったら、クリエイティブな人の多くがそうなのです。「こうじゃなきゃいけない」という考えは、彼らにはほとんどありません。まさに偶然や直感の世界でイキイキと創作しているのです。そして、木を見るよりも森、大きなあるいは広い視野が必ずあります。山から流れ着いた何百年前の小石、一年一年刻まれた年輪の意味、美と醜だって隣合わせ、鉄もいつか土に帰る…。

こだわることで全体が見えなくなり、大事なことを見失ってしまうことがあります。心に巣くう「悩み」と一緒です。大切なことは、何百年いえ何億年レベルの時間の流れを常に心に留めることではないか、と思い当たりました。


「名古屋リビング新聞」2002年01月
『わ・た・しの時間』