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エッセイ>わ・た・し・の時間

「時は金?」

今日はいきなり「もしも」の話しから始まります。もしもある日、あなたの周りから時計がすべてなくなってしまったら…。

まず、いつも通りの時間に朝起きられるか心配でおちおち寝ていられません。仕事に出かける人はゆっくり新聞も読んでいられませんよね。いつもの電車に間に合うかを確認する方法もなく駅へ急ぎます。ある人は約束の場所に約束通りの時間に行けるのか不安になり、劇場にでかける人も開演時間に間に合うか気が気じゃありません。

私たちは、なぜこれほどまでに時間を気にするのでしょうか。それはすべて「人に迷惑をかける」「信用を失う」、要するに人や社会との関係性からですよね。


待つのも楽し

しかし、この日本でも江戸時代ごろまで「時間」の観念は一分一秒という「点」ではなく、「日没ごろ」など、幅のある「帯」だったと聞いたことがあります。待ち合わせをしても、ある時間にぴったり全員がそろうなどということもなく、一人また一人と加わる。先に来た人は、あとの人を待ちながら四方山話に花が咲いたことでしょう。なんだか大らかな時代ですね。

そう考えると、今私たちが生きる「現代」の側面が見えてくるような気がします。ここ数十年の、一分一秒を惜しんで働き続けた効率優先の考え方。もちろん今さら江戸時代に戻ることは不可能です。システム化された社会では「帯」の時間は存在しません。

それでも発想を換えてたとえば人を待つときなど、「帯」の時間で遊ぶチャンスと考えてみてはどうでしょう。イライラが消えて、心が優しく豊かになるような気がしませんか。


名古屋リビング新聞2001年10
「わ・た・しの時間」