Rock Listner's Guide To Jazz Music

【まとめと本音のページ】



ごくまっとうなオーディオ道

オーディオに関心を持ち始めると、高額製品ほど音が良くなるとまずは考える。確かにスピーカーについては当てはまることが多く、スピーカーに比べれば取るに足らない程度に違いしか出ないにしてもアンプもそういう傾向はある。しかし、スピーカーについて言えばそのキャラクターは本当に千差万別。音のきめ細かさ、周波数帯域の広さや特に低音の再生力などは価格が反映されやすい傾向にあるとはいえ、総体としては製品固有の鳴り方のクセというものがあり、リスナーはその個性を聴いていることになる。音を決める要素の大半はその個性溢れるスピーカーであることに疑いはない(個人的な意見としては、スピーカー80%、アンプ10%、部屋とスピーカーのセッティングで10%というのが音の支配率。本当は部屋の影響はかなり大きいが部屋を自由に変えることができる人はほぼ皆無、生活をしている部屋のセッティングでできることは限られているため音質要因の比率を小さく見ている)。

一方でオーディオに関心を持つほどの人なら、自覚していなくとも「こう鳴ってほしい」という好みを持っているはず。従ってオーディオを追求するにあたって目指すところは、生涯にわたって付き合えるくらい好みに合ったスピーカーと出会うことだと言える。どのオーディオ指南書にも「第一にスピーカー」と書かれているのに、スピーカー選びがオーディオ・ライフのほぼすべてだと思っている人は意外と少ない。もちろん、そこまで納得できるスピーカーに出会うことは容易ではく、入念な調査は必要だし、いろいろと試聴しなくてはならないし、そもそも自分が求めている鳴り方のイメージがわかっているつもりで、実はわかっていないような人は試聴しても正しい判断ができずに遠回りをしてしまう(それも楽しみのひとつではあるけれど)。

私事で恐縮ながら、今使っているJBL Project 1000 Arrayは、自分にとって生涯付き合えるスピーカーだと思っているほど気に入っている。試聴でハイエンド・クラスの他のモデルも聴いても、家に帰ってから「まあウチはこのくらいでしょうがないか」とあきらめの感情を抱いたことがない。緻密な音像再生力はあらゆる音を滑らかに聴かせ、曇りのない見通しの良さ、重低音の再生力という細かい特徴もさることながら、全体として明快で押しが強い鳴り方が実に好み通り。導入当初から気に入っていたのも確かではあるけれど、5年ほど使ってみてまったく飽きがこないどころか、聴けば聴くほど満足度が増している。強いて難を言うならば、14畳のリビングでは持て余してしまって、近所迷惑を考えると思い切り鳴らせない、つまり部屋とのバランスという意味では明らかにオーバークオリティであるということくらいである。しかし、フルに鳴らせなくとも満足をもたらすだけの基本性能が確かにある。

自分の住環境でそう思えるスピーカーに出会えれば、オーディオの道は少なくとも80%は終わっている。あとは、そのスピーカーをより自分好みに鳴らしてくれるアンプを選べば良い。そしてできる範囲でスピーカーや部屋のセッティングを詰めるだけだ。CDプレイヤー、ネットワークプレイヤー、パソコンをはじめとするデジタル系の再生装置は、十分すぎるほどのクオリティがあるから、はっきり言って何を選らんでも大差ない。

このプロセスを経てしまえば、「個人の好み」であるオーディオ道はここで完結することになるはずである。

余談1:ちなみに、アンプについては強い個性を持っているものならともかく、多くのアンプはブラインドでは聴き分けが難しい。それがたとえ5万円と100万円との比較であったとしても。某サイトの方がオーディオマニアを集めて小さいホールを貸し切って実験したところ、ローエンドのアンプとセパレート・アンプを自分でセレクターを切り替えて聴き比べるとわかったような気になるものの、他人に操作してもらうと驚くほど違いに自信を持てなかったということを吐露していらした。ここ自分のサイトでもアンプのページでは大げさに書いているものの、違いはごく僅かだと実は思っている。一方でソースによって分かり易いものと分かり難いものがあり、分かり難いソースだけを聴いて違いがまったくないと言い切るのもまた少し行き過ぎた意見だと思う。

余談2:最近はハイレゾ音源が注目されているが、某雑誌の付録に付いていたサンプル音源で、16bit/44.1kHzと24bit/96kHzを聴き比べたらまったく違いがわからなかった。あまり聴き慣れていない軽めの交響曲だったということもあったにせよ、何度試してもわからない。所有している他のDVDオーディオ・ソフトに収められているハイレゾ音源はCDとは明らかに違うと感じていたので、これは少し意外だった。しかし、どうやらハイレゾ化するときにはマスタリングやミックスをやり直しているケースが多いようで、しかもあまり目立つ形で公表していないことが多い。DVDオーディオの音質向上は、ハイレゾ化よりもリマスタリングなどの効果の方が大きいのではないかというのが現時点での僕の意見です。


オーディオマニアの害

ところがオーディオマニアはこだわる。「こだわる」という言葉は職人的に何かを極めるかのようなポジティヴな意味で捉えている人が少なくないようだが、広辞苑によると「気にしなくてもよいような些細なことにとらわれる」となっており、むしろネガティヴな意味合いが強い。

オーディオマニアのこだわりというのはまさに本来の言葉の意味合い通りであるように思える。ケーブル(スピーカー、RCA、電源、光、同軸、LAN、USB、HDMI)、インシュレーター、電源タップなどでどんどん音質が変わるとマニアは言う。全部高級品に変えれば、おもちゃのピアノがスタインウェイの音に変わってしまうんじゃないかというほどの勢いでその変化ぶりを嬉々として吹聴する。僕はアクセサリーで音質が向上したと感じたことなど一度もない。アクセサリーはまさに「こだわり」だと思える(アナログレコードの振動対策は確実に効果があったが)。

また、多くのマニアから反論が出るのを承知で言うと、デジタルを音源とする再生系装置もどれも出てくる音はほとんど変わらない。他の項目でも書いた通り、15,000円のパイオニアのユニバーサル・プレイヤーと140万円のゴールドムンドの中身がほぼ一緒であることがそれを証明していると思うし、僕の経験でもパイオニアと定価60万円のLINN IKEMIの音に違いを確信できるような差異はなかった。無論、オーディオは価格がすべてではない。でも、これだけの価格差があるのなら、好き嫌いは別にして何か違いがあって当然ではないだろうか。違いがあればその人なりに優劣を判断すればいいんだけれど、特徴的差異云々ではなくそもそも違いなんてない。あったとしても、その差は人間が外的要因やその時の気分で感じ方が変わる幅よりも極々小さなものでしかない。また、CDプレイヤーに内蔵されているものも含めれば6種類以上のDACを聴いてきたことになるんだけれど、音の違いがもっとも感じ取れるであろうSTAXのヘッドフォンでモニターしても違いがわからない。昔は大切と言われていた音の入り口ですらこうなのだから、オーディオマニアを喜ばせるミステリアスな要素、ジッターの影響で人が知覚できるほどの差があるとは思えない。

こう書くと、「お前は耳が悪い」とオーディオマニアは言うに違いない。しかし、そう言っている人が客観的事実に基づいて音質の違いを証明したという情報は見たことがない。そもそも、CDプレイヤーやDACによって音量出力レベルはまちまちで、いくらアンプのボリュームで調整したとしても客観的事実に基づいた同じ音量を素人リスナーが担保することは事実上不可能。音量の違いで音の聴こえ方が変わることはほとんどの人が知っているはずなのに、再生装置の出力レベルの違いによる音質評価の影響に触れる人間は皆無。自分の都合の悪いことからは目を背け、いびつさの塊であり自分を客観視できないオーディオマニアに細かい音質の違いなどわかるはずがない。

オーディオのレビューの危ういところは、違いを感じた、と言ってしまえば感じることができる感性を持っているかのように振る舞えるところでである。要は言ったもん勝ち。違いがわかる男になるには、そう言ってしまえば良いだけ。こんなに胡散臭いことがまかり通っているのは怪しい新興宗教とオーディオ製品くらいのものである。

人の感覚の曖昧さについても触れてみよう。オーディオ同様、非常に主観的かつ感覚的に評価されるもののひとつにワインがある。ボルドー大学のワイン醸造研究所では受講生に暗闇で試飲させるカリキュラムがあって、そこではなんと赤ワインと白ワインを間違える人が続出するという。先入観から来る人間の感覚がいかに曖昧かを経験させ、白、赤、ロゼの味わいを一義的に決めつけることの危険性を思い知らせるのがそのカリキュラムの狙いとのこと。

オーディオでも大同小異だろう。はじめからどの製品を使用しているか、どの部品を交換したかを知って試聴している以上、先入観は絶対に排除できない。○○というメーカーの製品ならこういう音質だろうという先入観、高額な製品を聴いているから良い点があるだろうという先入観を排除できる人間はまずいない。

このように人というのは先入観に囚われ、思い込みをする。音を聴いているときにそういう要素が働いているかも、という疑いを自分に向けられない人は既に客観性を失ってしまっている。客観的になろうと努めても周辺の情報で感じ方が左右される曖昧な生き物なのが人間なのだから、その自覚のない人にいくら自分の感性は間違いないのだ、と言われても重みがまったくない。

また、オーディオマニアは理論を並べ立てて音が「変わる」「良くなった」とありがたがる。屁理屈だったり怪しい理論だったりするものが多く、それを信じて疑っていない人がいるのが非常に痛々しい。また、正しい理論だったとしてもそれが人にとって感じ取れるほどの違いをもたらすものなのだろうか、という思考が働いていない人もかなりいる。震度ゼロというのをご存じだろうか? 震度計では確かに揺れていることが計測されているにもかかわらず、人は揺れを感じない程度の揺れのことである。「音の震度ゼロ」だってあるに決まっている。だけど、オーディオマニアという人種は震度ゼロが存在するなどと夢にも思っていない。そして机上の理論という外的要因による思い込みで「変わった」「良くなった」と大喜びしてしまう。

オーディオというのはかくも曖昧なものであり、使っている人の思い込みでどうにでもなるという悲しいプロダクトでもある。そして、作り手でもそれを利用して商売しているところまである。繰り返しになるけれど、こんなに人の弱みに付け込んでお金を払わせるのは怪しい新興宗教とオーディオくらいのものである。

ここでは、そういう妄想で楽しむことを否定したいわけではない。しかし、妄想に取り付かれた人ほどその自覚がなく、やたらとネットに書きたがるところが問題である。独自の妄想オーディオ理論を振りかざし、自分こそがオーディオをわかっているというしたり顔をして書いている人が、あきれるほど沢山いる。更に、そういう妄想的な聴き方がオーディオを楽しむ作法であり嗜みであるという空気まで発散させている。こういう屈折した人たちの情報は、これから純粋にいい音で音楽を聴きたいという人にとって害でしかない。何しろそれぞれが思い込みを語るので話に一貫性がなく、それでいて言っていることが独断的かつ妄想的である。オーディオに関心を持ったはいいが、そんな異常な世界であることに気づいた人は、それ以上立ち入ることなく去ってしまうに違いない。更に、マニア同士が言い争い始めると、いかに高い機材を持っているかという金持ち自慢になることが多く、低俗を絵に描いたようなやりとりが展開されるため、やはりこんな世界には入りたくないとまともな感覚の人なら思うだろう。中級クラスのオーディオが廃れたのは、オーディオマニアの世界が異常であることに気づき、その世界に入りたがらない人が多かったからではないかと僕は思う。つまり、オーディオマニアはオーディオの楽しさを捻じ曲げ、本来は楽しいはずのオーディオを異常なものにして、マーケットと縮小させ、良い音で音楽を聴きたいという純粋な人を排除していると僕は思う。リーズナブルでなかなかの音を聴かせる製品とブランドは、得てして高級イメージのないものが多いが、マニアはこういうものを強く否定し、これからいい音で聴きたいというビギナーは「そんなに金をかけなければいけないのか」とを拒絶され嫌気がさしてオーディオへの興味を失ってしまう。これがオーディオの世界にとって害でなくて一体何が害だと言うんだろう。


鰯の頭も信心から?

ここに一冊の本がある。麻倉怜士氏の著書「オーディオの作法」。「本書は初心者以上マニア未満をターゲットとする」という書き出しで始まっているこの本、確かに基本的な作法が書いてあって初心者に参考になる部分があるのだが、これが本当にマニア未満向けなのかと思える記述が少なくない。

電源で100倍の音質差が出る・・・多くのページを割いてそう断言している。電源は確かに良いに越したことはないだろう。しかし、家庭の電源環境はまちまちで周囲に工場でもない限り劣悪な電源である可能性は低いんじゃないだろうか。多少乱れた波形の電源だったとしてもそのほとんどはオーディオ機器内部の整流回路で吸収されてしまうことはないんだろうか。それに一般家庭で電源にこだわると住居の電源構造まで見直さないといけない。それができないならウン十万以上もかけて波形を整える電源装置を導入するか。そして、アンプなどの電源ケーブルには数万円くらいのものを使用する。そこまでして、一般家庭のリビングに設置して近所迷惑にならない音量で聴くオーディオの音質がどの程度良くなるというのだろう。もしそんなに劇的に変わるののなら巷には数えきれないほどの喜びの書き込みがネットに溢れているはずだが、明確に効果を語ったものを見かけることはほとんどなく、むしろ「変わるけど良くなるか悪くなるかはやってみないとわからない」という評価を見かけるほどその効果は疑わしい。

制振・・・この本ではCDプレイヤーにおいて、読み取り時のエラー訂正によって電源に負荷をかけるために音質に影響が出ることに何度か触れている。さらにCDプレイヤーの振動制御が極めて重要であると多くのページを割いて説明している。理由はそのエラー訂正の電源への影響を少なくするためで、対策することによって「ガラリと変わる」らしい。しかし、普通に使っていてそんなに頻繁にエラー訂正が行われているものなんだろうか。仮にそうだったとして音質に影響が出るほど電源に負荷を与えるもなんだろうか。そしてもっとも疑問なのは著者が主張しているプレイヤーの振動を抑えることで読み取り精度が劇的に上がるなんてことがあり得るんだろうか。もしあり得るのなら、そして効果が大きいのならCDプレイヤーのメーカーはなぜ脚や筐体の防振に最初からもっとコストをかけないのだろうか。振動を抑制するのなら、プレイヤー内部にメモリー(いまどきCD1枚分のメモリーのコストなど1000円にも満たない)を持たせてそこに一旦データを取り込んで再生させればエラー訂正の電源への影響を完全に排除できるのにそういうシステムが主流にならないのはなぜなんだろうか。しかも、CDプレイヤーを支えるインシュレーターの素材によって音が激変、木のものを使うと音の温かみが出るとまで断言。エラーの修正の度合いによってそのように有機的かつエモーショナルに変化するロジックを説明してもらいたいものですが、そういう都合の悪いことは書かれていない。

フェルティング・・・この著者の造語で、機器とラックの間、スピーカーと床の間などの隙間にフェルトのようなものを挿入することでデジタル・オーディオ特有の固さを和らげると写真付きで紹介している。効果云々も疑問ながら、人目につくオーディオをこんなに見苦しい状態にすることは僕にはできない。オーディオ・マニアは外見をまったく気にしないことを象徴した無粋な作法。

CDを洗う・・・CDを購入したら水で洗う。「そうするとしないとでは大違い」と主張。汚れたCDを洗うのではない。新品のCDを洗う。製造時に付着したわずかな油脂を取り除くことで音がまろやかになるらしい。油が水で落ちるという発想からしてもう不思議。メンテナンスとして洗剤を使った洗浄も推奨しているけれど、そんなに熱心に洗ったらどんなに気を遣っても微細とはいえディスクに傷が付くリスクがあるはずで、それは気にしなくても良いのだろうか。

CD 2度がけ・・・一度、プレイヤーにCDを読み込ませてイジェクト、もう一度入れなおして再生させると「誰でもハッキリわかるほど音質が向上する」「CDプレイヤーの実力を倍くらいにアップさせてくれる」とのたまう。そこまで断言しておいて、その根拠はある種のメモリー効果という仮説を紹介するだけとトーンが急降下。しかもこの方法、3度やると一気に音が悪くなるという。

この本、オカルトチックな話題になると「プロの世界では常識」「プロやマニアにはよく知られている」という根拠のない、また他人の評価で効果を語っているのも特徴的。また、「ジャズの基本中の基本がピアノ・トリオ」(未だかつてピアノ・トリオがジャズの中心となってシーンをリードしたり主流だったりしたことはない)などという迷言が飛び出すなど、音楽のことも良くわかっていないところが随所に見られ「オーディオ・マニア=音楽を良く理解している」ではないことも改めてわかってしまう。

別に揚げ足を取りたいわけでも糾弾したいわけでもない。この本以外でも似たようなことが書かれているオーディオ雑誌や本が少なからず巷に溢れているのは、オーディオマニアというのはこういう眉唾モノのお作法が大好きだということを意味していて、その恰好のサンプルとして紹介してみたにすぎない。ネット上では「CDプレイヤーの置き方で音が良くなった」「搬入直後でまだ音が馴染んでいない」(高級ワインと勘違い?)などと語る人も少なくなく、このような妄想に取り憑かれたオーディオマニアは日本全国津々浦々、数多く存在している。


マニアというよりもオタク

世の中には「行き過ぎた人」というのがいる。「見境がない」「分別がない」と言い換えてもいいかもしれない。そういう人たちを表す言葉は、マニアというそれらしい表現を通り越した「オタク」という蔑称的ニュアンスを持つ言葉の方が相応しい。

例えば、ジャズ・オタク(ジャズオタ)、クラシック・オタク(クラオタ)という人種がいる。その音楽が好きになり、追求するようになったはいいが、いつしか自分の立ち位置がわからなくなり、本質を見失い、見失ったというその自覚がない人たちだ。そして、自分こそがそれを一番わかっていると思い、そこに満足感を得ている。そして初心者を見つけると、頼まれてもいないのに自分の価値観を押し付けてくるという特性もある。ジャズもクラシックも、音楽に興味がない人から見ると、ハードルが高く、教養的なイメージを持たれている。それらに詳しいことは知的であるかのように見られることもあるため、それを分かっている(と思っている)自分が「違いの分かる男」だと思うようになってしまう(そう、なぜか男ばかり)。そして誰でも知っているジャンルであるが故に、知識があると人の格が上がったかのような間違った思い上がりを助長させてしまう。

実は自分も昔はジャズやクラシックを聴く人にそんなイメージを持って、ロックという大衆音楽しか聴いていなかったためにコンプレックスを持っていた。両方聴くようになった今、そんなコンプレックスはまったくなくなり、両方とも気軽に楽しめるものだとわかってきた。すると、オタクの言動が目に付くようになる。「○○がイイなんて言っているようじゃあまだわかってない」「あれはジャズじゃない」などと言ったり、ライヴではリズムに合わせて周囲の迷惑構わず目お閉じて体を揺すっていたりするジャズオタ。「なのである調」「断言調」に倒置法を織り交ぜて威厳ぶった文章で「良い/ダメ」と好みだけで偉そうな論評を書き込み、ほんの小さな物音を立てただけでその人を睨み付けて演奏が終わろうとする瞬間に立ち上がってブラボーと叫ぶクラオタ。共に独りよがりで知性のカケラも感じられない。アマゾンのレビューなどで、そういう独りよがりのものが見受けられるのはジャズとクラシック共通の特徴と言えるかもしれない。そしてそういう人たちが本当に音楽の良さを理解してるとはとても思えない。ただ、好きになったものに少し詳しくなった自分に酔っているだけでしかない。ジャズやクラシックに詳しいとしたり顔で自慢するような人はだいたいその程度のレベルにすぎない。

オーディオ(オーオタ)も同じこと。本来は音楽をより深く楽しむという豊かな趣味、しかしそれに詳しくなることで知識人になったかのような思い上がりをする。自分こそがよく知っている、詳しいという物言いをして、独りよがりな視野の狭い人が、オーディオのことをよく分かっているわけがない。

自分を客観視できない人が一流になることはまずない。オタクは自分を客観視できない人間の象徴であり、その器の小さささは見ていて実に痛々しい。


オタクはビンボー臭い

例えば同じオーディオ機器で同じCDを再生しても、明るい昼間に聴くのと夜に明かりを落として聴くのとでは感じ方が変わってくるというのは殆どの人が経験したことがあるはず。つまり人間は無意識のうちにあらゆる情報を周囲から受け止めていて、同じ音なはずなのに聴こえ方が変わるほど影響される曖昧な生き物だということ。オーディオ・アクセサリーも「換えた」という情報が感じ方を変えさせるのは当たり前のこと。しかも、「換えたから変わる」という期待をもって接すればより感じ方が変わるというもの。「メンタル面をチューニングして気持ちよく音楽を聴く」というのはアリだと思うが、あくまでもモノや奇怪な作法の効果であると信じて疑わず、そしてそれをそのまま吹聴してしまうのがオーディオマニア、いやオタクの悲しい性。

すべての音源を自分の理想の音で鳴らすオーディオなんてものは価格を度外視したとしてもこの世に存在しないから、財力の限りを尽くしてオーディオに投資しても不満な点を探し出せばキリがない。必要以上に高価な素材を奢ったオーディオ・アクセサリーのほとんどはマニアを食い物にしたイカサマ商品だと僕は思う。

えっ?そんなことを言ったらオーディオの夢がなくなる?ほとんど意味のないアクセサリーや作法が夢だなんて僕には思えない。そんなことに時間とお金と労力を費やすくらいなら、今までに聴いたことがない音楽との出会いを求めて時間とお金を費やす方がよほど夢に溢れているし、そんなことくらい、自分を見失ったオーディオマニア以外なら誰でもわかっている。

あえて言おう。綺麗になりたいという女性の心理を利用した通販の「美容に利く」グッズにも似た、少しでも音質を向上させたいというオーディオマニアの心をくすぐる眉唾モノのアクセサリー、妄信的な作法に喜々としているのは「ビンボー臭い」。経済的にビンボーだと言っているわけではない。それどころか、わずかに変わる(必ずしも「良くなる」ではない)、あるいは効果があるのかないのかわからないアクセサリーにウン万円、あるいはウン十万円も投資できるひとはむしろリッチだと言える。でも心を豊かにしてくれる趣味であるはずのオーディオで、ほとんど意味のないことに熱中し、それを吹聴するという行為は「ビンボー臭い」。そういう楽しみが間違っているとまでは言わないが、音楽を聴くための装置としてのオーディオとはもう別の世界の本末転倒な接し方になっているということは言える。他項目で「オーディオはその人さえ気に入っていればそれで充分」と書いているが、それはその人が主体的に音楽を聴いて音を判断している場合(大半はそうであるはずなのだが)についての話で、妄想によるものや無意味な理論に支配されている人が構築したオーディオ講釈は空虚でしかない。


結局は心の豊かさ次第

故長岡鉄男氏は「手段が目的になることを趣味という」と言ったらしい。なるほど、クルマのドライブ好きは移動するのが目的なのではなく、クルマの運転という手段が目的になっているから趣味なんだという言い方ができる。そういう意味で、音楽をより楽しむ手段であるはずのオーディオそのものを目的として楽しむことは立派な趣味と言ってもいいかもしれない。

一方で先日、某オーディオ雑誌の投稿でこんなやりとりがあった。読者からの「ブラインド・テストをしてください」という要望に対して「料理の味が、店、見栄え、値段も評価の要素になるように、オーディオもブランドや値段は大事な要素です」と、ある意味誠実に回答をしていた。でも、例えば「なだ万」や「レ セゾン」の味は、そのへんにある大衆レストランとは違って、良い食材と一流の料理人の手によってしか作れない味であることを食通でなくてもほとんどの人が感じ取れる。しかし、60万円のCDプレイヤーが5万円のソレよりも、5万円のケーブルが1000円のソレよりも高級な音と感じ取れる人がさてどれだけいるだろうか?10倍以上の投資をしても、あるのかないのかわからない程度の違いに過ぎないにもかかわらず、それを有難がる。言い換えるとそれは、本来のモノの良さを判断する能力がなくブランドや値段でモノを判断していることを意味している。自らオーディオマニアを名乗ったり、ピュアオーディオという言葉にどこか誇り高いものを感じたりしている人はその傾向が強く、ブランドや値段でモノを判断することを趣味だと胸を張って言っているところは、そしてそれにも気づいてもいないところは実に痛々しい。ここまで来ると「手段が目的になるのが趣味」という言葉はもはや詭弁にしか聞こえなくなってくる。

尚、オーディオの楽しみを自然体で語っている人のWebサイトやブログには多種多様なネタを綴るものが少なくない一方で、偏狭的オーディオマニアのサイトでは、オーディオにとって最も密接かつ重要な関係にある音楽を語る人ですら皆無に等しいという現実も示唆的である。センスのかけらもない服装で堂々と雑誌の写真に収まっているオーディオ評論家が実に多いのは、オーディオ以外に関心がない生き方をしているからではないかとすら思えてしまう。モノ作りの職人が他に関心を持たずにその道を邁進するというのならいざ知らず、何も作り出さないオーディオという受身な趣味にしか打ち込めるものがないというのも随分寂しい生き方ではないか。

オーディオ趣味の楽しみ方は音楽への愛情の深さや心の豊かさまでをも反映している僕はそう思う。