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ひとりごと2002年8月


 8/29(木)『鶴見川のタマちゃん』


 多摩川に迷い込んでいたアゴヒゲアザラシのタマちゃんが、台風による増水をきっかけに姿を消し、あろうことか鶴見川に引っ越してきました。鶴見川は私の家から目と鼻の先で、子供の頃から親しんできた川なのです。見物人も1000〜2000人くらい来たそうで、ちょっとしたタマちゃんフィーバーとなってるようです。

 でも、今回の報道で気になったことがふたつありました。

 ひとつは、タマちゃんを報道する番組の中で「鶴見川の水質は(日本)全国の河川の中でワースト3です」という表現がよく出てきました。この「ワースト3」という表現は言葉足らずで誤解をうみやすいのでやめてほしいと思うのです。実は「ワースト3」の前に『国土交通省(旧建設省)で管理している川の中で』という前置きが抜けているんです。川には国、県、市町村と管理しているところが違ってて、『国土交通省(旧建設省)で管理している川』は全国で109水系なのです。国で管理しているたった109本の川の中でのワースト3位というのが事実で、前置きが無く、ただ、「鶴見川は全国の河川のワースト3です」と放送されてしまうと、日本全国の川の中と勘違いされるので、その点を報道は明確にしないといけません。日本全国の川の中には、鶴見川よりずっと汚い川はいっぱいあるんです。鶴見川の流域に住んでいる私は鶴見川が誤解されるのが我慢できません。

 でも、汚いと報道されてしまったからには、それを逆に利用すればいいわけで、タマちゃんをきっかけにして鶴見川をきれいな川にすればいいんですよね。

 気になった点のもうひとつは、おととい、国土交通省の扇大臣が鶴見川のタマちゃんについて、このまま静観するのか保護のかという質問に対して、「天然ですからね、自分で川が汚いと思ったら海へ帰るでしょう」というようなことを発言していた。ワイドショーなので、この発言の前後が見られなくて真意はわかりませんが、私にはどこか無責任な印象を受けました。鶴見川を管理しているのは国土交通省なんだから、少なくとも「鶴見川は現在、きれいな川とは言えませんが、今後、タマちゃんが住んでも心配のないように、きれいな川にしたいと思います」ぐらいのことを言ってくれればいいのに、「自分で川が汚いと思ったら海へ帰るでしょう」というような、投げやりではいけないと思います。

 みなさんの家庭の排水はどこかの川につながっているはずです。料理で使った油を直接流したりせずに、環境問題についてもう一度考えなおして、近い将来、日本全国、どこの川でもタマちゃんが住めるようなきれいな川をみんなでつくりましょう。



 8/27(火)『ソ〜レ、ソレソレ、お祭りだ〜い』


 ひさしぶりに地元神社の夏祭りに出かけました。

 お祭りって楽しいっスねぇ、この歳になっても心がウキウキしてしまいます。
 「輪投げ」「射的」「くじ」「金魚すくい」「スマートボール」「ヨーヨー」「スーパーボールすくい」「お好み焼き」「焼きそば」「お面」「ハッカパイプ」「カメ(みどり亀)すくい」、時代が変わろうとも夜店はほとんど変わらないのがうれしいですね。私の子供時代になかったのが「バナナチョコ」「光りもののアクセサリー」「ビニール人形(巨大)」「串焼きステーキ(カルビ)」で、くじでも金魚すくいでも1回100円が相場でしたが、現在は300円がほとんどです。

 浴衣を着た女の子たちは光るブレスレットをして可愛らしく、しばし自分の若かりし頃の思い出に浸ってしまいました。中学生の頃はクラスメートの女子の浴衣姿をからかったり、惚れ直したりしたっけなあ…。(*^_^*)

 小学生の頃は祭りに青春の全てをかけていました。昼、夕方、夜と1日3回も遊びに行って(その頃はくじ引きが好きだった)、店のおじさんと仲良くなったりしました。大人になった今でも、なじみの店をたくさん持っているのも、子供の頃からそういう正確があったんですね、今初めて気が付きました。

 祭りの終った翌朝、6時半の町内会のラジオ体操後、神社に遊びに行ってみると、すでに露店はひとつもなくガラ〜ンとしてて「あれ、昨日のお祭りは夢だったのかな?」なんて気分になったことがあります。で、よく見ると、ところどころに夜店の景品の小さな素焼きの人形や射的のコルクが落ちてて、それを拾って持ち帰ったおぼえがあります。

 夏休みっていいなあ、子供っていいなあ。 何もかもがみな懐かしい。


みなさん夏休みは満喫できましたか?
涼しくなったので風邪をひかないように。

 8/25(日)『蝉の抜け殻』


 子供の頃は夏休みというと昆虫網を持って一日中、セミだバッタだと追いかけていました。そして「昆虫採集セット」を買って、注射器にピンク色の液体(殺虫剤)とみどり色の液体(防腐剤)を入れて注射し、手作りの標本箱を作っていたものです。

 7月末にミカンの木が倒れていたので持ち上げたら、ゴマダラカミキリが飛び出してきた。駐車場に落ちてキイキイ鳴いてたので車に踏まれてはイケないと思い、梅の木にとまらせてあげた。ミカンの木には今、クロアゲハが産卵に来ている。うちにはミカンの木とサンショウの木もあるのでアゲハ類がよくやって来る。クロアゲハは卵を生みつけるとノウゼンカツラの花の密を吸って飛んでいった。

 庭には芝生がなく土のままなのでセミの抜け殻が多い。たいていは木の幹や枝、周辺の雑草の葉の陰に残っているものだが、驚いたのは、玄関の軒先に逆さまにつかまった状態の抜け殻を見つけたのである(写真参照)。セミは6年間幼虫として地中で暮らし、7年目の夏にようやく地表に出て脱皮をする(羽化)が、脱皮をして飛べるようになるまで羽をかわかす間がセミにとっていちばん危険な状態らしい、だから外敵に襲われない場所を選んで脱皮をするらしいが、玄関の軒先は鳥からは見えないだろうが壁の色は白だし目立つ。やっと土からはい上がって、寝ぼけ眼でわざわざ軒先まで登ったのだろうか、根性あるというかボケたやつだと思う。

 ここにきてやっとヒグラシが鳴き出した。けど、近年めっきり少なくなって残念である。というのは夕暮れに鳴くあのカナカナカナという声にはとても癒されるからです。

 そうそう、先に紹介した「昆虫採集セット」だが、以前は夏休みの定番のアイテムだったのに、今ではどこにも売っていないそうだ。またひとつ懐かしい文化(?)が消えてしまったようです。残念だなあ。

軒下の抜け殻
「よくここまで登ったなあ」

同 アップ


 8/22(木)『伊香保温泉と徳富文学館』


 夏休みに仕事の慰労をかねて群馬県の伊香保温泉に行ってきました。

 伊香保は古くから文人に愛された温泉場であり、全国にその名を知らしめたのは明治の文豪・徳富蘆花(とくとみろか)です。蘆花は伊香保温泉を舞台にした小説「不如帰(ほととぎす)」を書き国民新聞に連載しました。伊香保を愛した彼は病で倒れた後もこの地で療養し、人生の最後もここで迎えたそうです。伊香保にはその徳富蘆花の文学館があり、同姓のこともあって以前から行ってみたいと思っていた場所でした。
 「徳富蘆花記念文学館」には、蘆花の初版本や遺品が展示され、生涯を終えることになった旅館の別荘、千明仁泉亭(ちぎらじんせんてい)が移築されています。記念館としては比較的小さいものですが、その素朴さがかえって押しつけがましくなくて良かったです。以前、私のルーツ(家系)を調べたことがあったのですが、残念ながら文豪・徳富蘆花、徳富蘇峰(そほう)兄弟との接点はありませんでした。しかし、めずらしい名字でもあり、知り合いの中には徳富姓の家族は遠い過去にどこかでつながっているんだと言う人もいます。

 伊香保というと特にそのシンボル的な存在として『石段通り』があります。山上の神社まで約300メートルの間に360段あり、階段の両側には民芸品店、饅頭、射的、銭湯、旅館などが建ち並びます。石段には源泉から送られてきた湯を各旅館に分配する『小間口』があり、その様子をガラス越しに見ることができます。
 また、湯元には源泉を飲むための『飲泉所』があり、飲めばアレルギーや通風、肥満症に効果があるそうで、飲泉好きの私は早速、試飲したのですが、それはまれにみるまずさ。草津の湯はレモンの皮ような酸味があるが、伊香保温泉には無くて、ぬるっとした生臭いいやな味でした。思わずおえっと吐き出しそうになってしまった。

 伊香保温泉は室町時代から湯治場として知られ、東京から車で2時間余りという近さ、しかも旅館は山の斜面に雛壇のように並び、ほとんどの宿から遠くの山や下界の雄大な景色が見下せます。街はそれほど大きくなく、派手すぎず地味すぎず、萩原朔太郎は「静かな華やかさ」と評したそうです。先にもふれたのですが伊香保を訪れた文人達は多く、上記人物の他に、田山花袋、土屋文明、与謝野晶子、夏目漱石、島崎藤村、斉藤茂吉、若山牧水、それに大正ロマンの画家・竹久夢二など錚々たるメンバーです。大正時代の文人40人による随筆集『伊香保みやげ』が蘆花記念文学館で売っており、たまには仕事を忘れてゆっくりと文学と温泉に浸るのもいかがでしょうか。

「徳富蘆花記念文学館」 入館料 大人300円
 随筆集「伊香保みやげ」(伊香保書院)1800円

伊香保の写真を見る伊香保写真


 8/20(火)『お宝紹介2「日本沈没・ノストラダムスコレクション」』


 お宝紹介コーナー第2弾は『日本沈没・ノストラダムスコレクション』です。

 中学時代、はじめて観た一般映画が「日本沈没」でした(それまでは東宝怪獣映画か東映アニメばかり)。

 日本が沈むという奇抜な発想と日本人論、人間を描いたストーリーと崩壊スペクタクルに感動した。その勢いでベストセラーになった小松左京の原作本を読み、テレビはもとより「頭痛にノーシン」提供のラジオドラマ「日本沈没」(ニッポン放送)も毎日聞き、鑑賞するだけにとどまらず、原作をもとにして漫画を描いたり、しまいには自主映画(8ミリ)まで作るしまつ。青春の全てを「日本沈没」にかけていた状態でした。現在、私が映像業界に身を寄せているのも「日本沈没」と出会ったからかもしれません。
 私だけではなく同世代の映画人は「日本沈没」の影響を受けているようで、以前発売されたテレビ版「日本沈没」DVDのオーディオコメンタリーに、エヴァンゲリオンの庵野秀明監督と平成ガメラシリーズの樋口真嗣特撮監督も、自身の「日本沈没」の影響について熱く語っています。

 さて、「日本沈没」の成功に続けて東宝は、五島勉のベストセラーの映画化「ノストラダムスの大予言」を翌年公開します。公開された1974年は、公害問題(天気予報で毎日『光化学スモッグ情報』を流していた恐ろしい時代だ)、オイルショック、ユリゲラーの超能力に「エクソシスト」のオカルトブームなど、世界の終末を思わせる事件や事故の多かった年です。

 映画「ノストラダムスの大予言」は、内容に『差別』を伴った表現が多く、ビデオ・LDの発売禁止、テレビの放送もできず、現在ではほとんど観ることが出来ません。その上、肝心の1999年7月に何も起こらず空振りに終わってしまい、今では『トンデモ本』でバカにされるくらいで、その存在はほとんど消えようとしています。

 ということで、(どういうことだ?)当時の劇場パンフレットとチラシ、そして貴重な(?)シングルレコードを持っているのでご披露します。先日ある中古レコードショップで確認したら、「ノストラダムスの大予言」のレコードに5,000円の値がついていました。私のお宝です。

パンフレット・コレクションを見るパンフ

 関連記事 お宝紹介1「ウルトラQのシナリオ」




 8/17(土)『飲み比べシリーズ4「残暑にガラナ」』


 『ガラナ』とは南米アマゾン川流域に生息する木で、その実を蒸留して炭酸飲料にしたのが『ガラナ飲料』です。ガラナにはカフェインとカテキンが多く含まれ、疲労回復などに効果があるそうです。

 関東には『ガラナジュース』は売られていないのでピンとこない人が多いと思いますが、北海道をふるさとに持つ知人によると、北海道でガラナはポピュラーな飲料水で、子供は日常飲んでいると言います。なぜ、ガラナは北海道でしか販売されていないのでしょうか。

 日本でガラナ飲料の生産が始まったのは昭和33年頃のこと。当時はまだ「コカ・コーラ」は日本に輸入されていませんでした。しかし、やがて輸入解禁となるであろう「コカ・コーラ」への対抗馬として開発・生産されたのが、この「ガラナ飲料」だったのです。その後、コーラが輸入解禁となり、圧倒的なシェアを獲得するにつれてガラナ飲料はしだいに飲まれなくなっていしまいました。が、北海道だけは内地(本州)に比べてコーラの上陸が遅れたためにガラナ飲料がすっかり定着してしまったということです。<ガラナのページ「Guarana PAPA」より&amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;gt;

 そこで、国産ガラナのふたつ、『コアップ・ガラナ』と『メッツ・ガラナ』を関東で手に入る場所を探しました。


 まず、ガラナの代表格『コアップ・ガラナ』は、有楽町駅前の交通会館1階「北海道どさんこプラザ」にあります。ここは北海道の産地直送ショップで、ガラス瓶のレトロなものから、ペットボトル、缶ジュースまで3タイプそろってます。

 また、意外なことに、私の地元、横浜市鶴見区に販売元があり、その前の自販機に350ml缶が売られています。袋を持って買いだめしようとしていたら、偶然、管理人の加藤さん(?)に出会い、箱で買うなら安くするよとさそわれ、350ml缶24本入りひと箱 2160円(l缶90円)で売ってくれました。関東のガラナ好きの人なら、ぜひ車で行って箱買いしましょう。
 <場所は横浜市鶴見区向井町3−76、加藤ビル>


 一方、キリンの『メッツ・ガラナ』は、羽田空港B1Fの「JR北海道・四季彩館」という道産品店で売られています。『メッツ・ガラナ』は『コアップ・ガラナ』より炭酸が強く、メッツ独特の甘い仕上がりになっています。1999年には夏季限定として関東のキリン自動販売機で売られていました。私はその時にハマって、当時ガラナばかり飲んでいたのです。


 『ガラナ』、その芳醇な香りと独特な味とともに健康によい。この残暑の厳しい折りに一度ご賞味下さい。

 関連記事 2002.7/1『美味、ロナウドの"ガラナジュース"』

 **参考にしたホームページ**
  <ガラナのページ「Guarana PAPA」> ガラナ情報、飲み比べなど
    http://www.guarana.gr.jp/sato/papa/guarana/index.html

  <ガラナのページ「Guaranaガラナ」> 購入場所の情報が充実している
    http://shibuya.cool.ne.jp/guarana/


  関連記事 2001/8/29『沖縄ジュース飲み比べ』


巨人がヤクルトに勝ってM32が点灯ですと。

 8/14(水)『デジタルシネマについて』


 『デジタルシネマ』という言葉があるのをご存じでしょうか。

 映画が誕生して100年、今まで映画はフィルムで撮影されて上映されてきました。ところが、ここ数年のデジタル技術の発展に伴って、フィルムをいっさい使わないで撮られた映画が増えてきたのです。それが『デジタルシネマ』なのです。

 「スターウォーズ・エピソード2」もそのひとつで、デジタルカメラで撮影された(デジタル・ビデオテープに記録される)データだと現像作業がなく、編集も合成もそのままコンピューターに取り込むことができるので、高品質で作業も楽にできるのです。ということで、デジタル作品ならばデジタル上映で観なければ意味がないということで、「SWエピソード2」はDLPシネマ(日比谷スカラ座)で鑑賞してきました。

 DLPとは、Digital Light Processing 略で、デジタル映画のデータをHD(ハードディスク)に保存して、プロジェクターでスクリーンに投影して上映する方式です。私は今回初めてなので、家庭用の液晶プロジェクターのように走査線でも見えるのでは、と心配していたが、そんなことは全然なく、とっってもきれいな映像で、DLPだと知らなければ気付かずに観てしまうくらい自然なものでした。

 フィルムの場合、完成した作品「マスターネガ」はオリジナルとして倉庫に保管され、上映プリントは、マスターネガからコピーしたネガ(デュープネガ)を作り、そこから劇場用プリントを焼くことになります。しかも、世界中で上映するため、何百本と焼くことになり、ネガ傷やフィルムの穴(パーファレーション)にガタがくるので、人気作品は更にデュープネガを作ることもある。だから、日本に来る作品はマスターネガをマザー(母)とするならば、その子供の子供、「孫」ぐらいになり、オリジナルから比べると、鮮明度が落ち、色調も変化してしまうのは仕方がないことでした。洋画の場合、画面に粒子が目立っていたのはそのためなのです。
 ところが、デジタルシネマだといくらコピーしても劣化がないため、DLP上映で観る限り、撮影したオリジナルデータのままの画質で、つまりルーカスがOK出した彩度や色調と同じものを観ることが出来るのです。これは映画界にとって画期的なことなんですよ。

 デジタルシネマにして良い点をまとめると以下のようになります。

 1. デジタル撮影にすると、フィルム代と現像代の節約になる。制作費が安くできる。
 2. 編集もコンピュータで行い作業が楽、編集のやりなおしも瞬時に出来、
   しかも何回もやりなおしができる。作業が楽。
 3. デジタルデータなのでCGとの合成に良い。作業が楽でコストダウン。
 4. 上映用のプリントを作る必要が無くなり、時間とコストダウン、しかも画質の劣化もない。
 5. フィルムの場合、上映するプリントを劇場に配送する必要がある。洋画の場合、
   アメリカから日本に空輸し全国各地に輸送していたが、デジタルになるとBS衛星を使って、
   電波で送るのでコストダウン。(現在、東京・品川のNTTで受ける施設がある)
 6. 上映はデータを使うので、字幕版・吹替え版のフィルムの掛け替えをする必要がなくなった。
 7. 販売用のビデオやDVDも完成品のマスターと同じクオリティで、しかもダイレクトコピー
   なので美しい。

 というように良い面ばかりです。

 映画のデジタル化は2年ほど前から急激に進んでおり、撮影からのフルデジタル作品は、日本でも「エコエコアザラク3」「千と千尋の神隠し」「リリィ・シュシュのすべて」などがあります。今後もますます増えるでしょう。

 仕事柄、現像所の人と親交があるが、このまま映画のデジタル化が進むと、近い将来にはフィルムが無くなる日も来るでしょうね。なんとも寂しいことです。


お盆休み、とはいえ、連日の酷暑ではね。(;^_^A アセ

 8/12(月)『映画「SWエピソード2」』


 スターウォーズ「エピソード1」がお面白くなかったため、期待しない分、結構面白かったです。いつになく笑えたし中盤からラストへは手に汗を握り、時間を感じずに一気に観せられてしまいました。2時間22分、見せ場てんこ盛りのバトル映画です!

 ただ、正直言って単体の映画としては今一歩かもしれません。それは、ご都合主義的な展開があって決してうまい脚本とはいえないからです。細部についてごちゃごちゃ言っても仕方ないので、ひとつだけ言いたいのは、今回、話しの肝になっているアナキンとパドメ(アミダラ)の禁断の恋については、時間を割いてる割には、どれほど許されない恋なのかが伝ってこないため、アナキンの苦しみに共感できず、ラストの結婚式で心が揺さぶられるところまではいかなかった。スターウォーズ・サーガを淡々と紹介したいだけならそれでもいいんだけど、それじゃあ映画として面白くありませんものね。もうひと頑張りという感じでした。

 しかし! それらの欠点をカバーして有り余るほどの興奮があり、結果としては充分満足したのです。数々のアクションシーンは手に汗を握ったし、観ている観客の想像を超える独創的な映像世界や、ジャンゴ・フェット、C3-POなどのサブキャラクターに魅力があり、特にC3-POの首のすげ替えは、古くからの基本的なギャグなんだけどツボにはまってつい笑わされてしまった。最高はクライマックスのヨーダとドゥー・クー伯爵の対決シーン、「念力じゃなくて素手で勝負しろ」(こんな感じのセリフ)でチャンバラがはじまるんだけど、ここのヨーダがすごい! 猿回しの猿よろしく、くるくる空中回転しちゃって、お前、さっきまで杖ついてたんだろうが!と、つっこみたくなるほどだった。エテ公じゃないんだから、それはもう驚きを越えて笑ってしまうほどです。

 もうひとつ喜ばしいことは、旧三部作で馴染みのキャラクターが登場してきて古くからのファンにとっては懐かしく感慨深いものがあった。惑星タトウィーンでルークが育ったオーウェン叔父夫婦(似ている)が現れた時はじわっとこみあげるものがあったし、ラストで最新兵器の3D図面が出てきたりしてキャッホー。その点に喜びを感じないとこの映画の面白さは半減するでしょう。

 先に言ったとおり「エピソード1」を観てSWと縁を切ろうと思っていた私ですが、脚本の弱さはあったものの、見終わって劇場を出る時はルンルン気分になり、「俺も何だかんだと言いながら『スターウォーズ魂』が残ってたんだなあ」などと感心してニヤついてました。


 評価 78点
 点数付けるのがむずかしい。良いところもあれば悪いところもある。でも、総じて良しとするか。お話しそのものは60点なんだが、ユアン・マクレガー扮するベン・ケノービに3点、胸がポックンポックン(by 由利徹)のナタリー・ポートマンに5点、くるくるヨーダに10点をあげたい!!

 さて、次回はいよいよ伝説のクローン大戦争の山場。今回以上の映像がはたして作れるのだろうか。そして、ついにアナキンが頭をボコボコにされてマスクを被り、帝国軍の誕生とともにダース・ベイダーのテーマが高らかに鳴り響く!! 血沸き肉踊る展開に期待しよう。



 8/10(土)『映画「スチュアートリトル2」』


 待ちに待った「スチュアートリトル2」を観ました。

 人間の言葉を話すネズミのスチュアート、兄ジョージが作った模型ヨットを操縦して活躍した「スチュアートリトル(1)」の続編です。今回は模型飛行機に乗り、初恋の鳥マーガロを救うために画面狭しと飛び回る。

 目新しいストーリーではないものの、小道具の使い方や売りかいなど話しがよくできているのでGOODです。マーガロが落ちてきてからは、俄然テンポがよくなりグイグイ画面に引き込まれる。ゴミ運搬船に乗って絶体絶命のピンチを抜け出すところは、前に張った伏線が効いて感激ものです。

 いつも感心するのがスチュアートのCG。毛並みのツヤからクリッとしたつぶらな瞳の映り込みまで超リアル。表情も豊かで、特にスチュアートが悲しそうな顔をすると、本当に悲しそうで、もらい泣きしてしまうほど。あの表情は、チャップリンか「蝶の舌」の子供以来だ。(笑)

 ただひとつだけ気に入らないのは、スチュアートが擬人化しすぎてしまったこと。前回はもっとネズミらしくて可愛らしかったが、今回は手足が長くなって、5本の指も長くて、まるで子供の身体にネズミの頭をすげ替えたみたいで陳腐。オープニングでベッドから起きたスチュアートがパジャマの上着を脱いで上半身裸になる場面があるんだけど、その姿はオヤジそのもの。妙に人間臭くって気持ち悪かった。私の連れなんて、その姿に中年男の色気を感じてしまったそうだ。オイオイ

 映画が終わって劇場を後にする時、女の子が「ああ面白かった!」と言ったひとことが、この映画のすべてを語っていると思います。

 点数90点
 スチュアートファンとしては擬人化しすぎはマイナス点。だが、いじらしいマーガロ、やさしいリトル一家など登場するキャラクターがすばらしい。そうそう、忘れてはならないのがネコのスノーベル。わきで笑わせてくれて助演男優賞ものだった。これは子供たちに見せてあげたい映画です。 <夏休み上映中>

  関連記事2001.5/9『「スチュアート・リトル」観ました』



 8/7(水)『住基ネットとは?』


 いよいよ5日にはじまった「住民基本台帳ネットワーク」、略して『住基ネット』。

 すべての国民に11ケタの番号(住民票コード)をつけてネットワークで結び、全国どこからでも住民票を簡単に取り出せるようにするシステムです。

 『住基ネット』にして、ぶっちゃげ何が得なの?というと、

 雇用保険などの申請をする際、11ケタの番号だけで住民票を添付する必要がなくなったということと、全国どこの役所からでも住民票を取得できるようになったことだ。でも、住民票なんてパスポートや引っ越しくらいで一生のうちにそんなに必要じゃないよね。そんなもののために国はわざわざ多額の資金をつぎ込んでやるほど意味深いものなんだろうか。そうとも思えない。

 みんなが心配している情報の保護という点で大丈夫なのか?というと、

 当面、番号が盗まれたとしても犯罪に直結するようなことはないらしい。もし、住民票コードを盗まれたとしても、番号の変更ができるようだ。ただ、当面と書いたのは、将来、アメリカのように、現金のやりとりや、病院への通院記録、さらにはホテルのチェックイン時、レンタルビデオの管理など(これヤバいじゃん?)、生活のすべての情報に関与してくると、個人情報が一度に盗まれる可能性もあるし、現金と絡んでくると、『なりすまし犯罪』が心配される。実際、アメリカでは本人になりかわりって貯金を引き出すなどの『なりすまし犯罪』が問題になっているらしい。

 そのうち役所から住民票コード書類が届くはずだ。私の住んでいる横浜市の場合は、本人に選択権があるようなので、どうするかは申請書が届いた時に考えることにしよう。


『住基ネット』がはじまりました、住民票なんてそんなに頻繁に必要でないし、
何かねえ。

 8/5(月)『ゴッホのひまわり』


 夏真っ盛り、夏と言えば「ひまわり」!

 以前は「ひまわり」と言ったら茶色い種になる部分(管状花)が真ん中に大きくあって、そのまわりを黄色い花びらが覆っているお決まりの種類しかなかった。ところが画家ゴッホが描く「ひまわり」は、日本のひまわりと違って、茶色い種の部分が小さく、黄色い花びらがたくさんある八重咲きで、どこか違和感を感たものです。

 先日、近所の公園に咲いている「ひまわり」を見て驚いた。それはゴッホの絵に描いてある茶色の種の部分が小さい、まぎれもなく『ゴッホのひまわり』だったのです。

 ゴッホはアルルという町で黄色い家を借りて住んでいました。ある時、友人のゴーギャンを迎えるために部屋をひまわりの絵で埋め尽くそうと考えて制作したのが、ひまわりの絵を描くきっかけとなったのです。ゴッホの描いたひまわりの正式な品種名はわからないが、最近、園芸ショップで、その名も「ゴッホのひまわり」と言う種が売られているそうです。公園のひまわりも、もしかしたらそうかもしれない。


ゴッホ似のひまわり(品種はサンゴールド?)


 8/3(土)『映画「遊び」増村保造監督作品』


 京橋のフィルムセンターで増村保造監督の「遊び」を観た。

 町工場で働く16歳の少女(関根恵子)が、ふとしたことをきっかけに18歳のチンピラ青年(大門正明)と出会う。青年はやくざの兄貴(蟹江敬三)に初めてスケをコマシたと自慢する。兄貴は少女を気に入り、風俗で働かせるために肉体関係を強要する。が、青年は、彼女の生い立ちや素直さに胸打たれ、兄貴を裏切って少女と一緒に逃亡するのだった…。

 原作は野坂昭如の「心中弁天島」。だからラストでふたりは心中するのだと思いきや、さにあらず。服を脱いで下着姿になった二人が、沈みかけたボートをバタ足で押すという驚きの結末だった。おそらく心中を象徴的に描いたのだろうが、そこにはまったく悲壮感がない。それよりも希望を持って前進する明るいイメージに感じてしまった。でも、よくよく考えてみると、二人にとって心中とは信じ合って決めた道を二人で実行するのだから、むしろ互いの気持ちがひとつになれる行為であり、二人にとっては幸福なことで悲壮感はないという解釈だろう。

 この映画を観終えた時は、粗野で利己的で情緒に欠け、暴力、裸体、大声で怒鳴るようなセリフ、70年代のしょんべん臭いBGM(失礼)など、すべてにおいて生理的に合わなかった。はっきり言って嫌悪感さえあった。ところが、この「ひとりごと」に感想を書こうとしてあれこれ考えるうちに、気持ちが変化し、今では好きになってしまっている。(こんなこと初めての経験だ)

 この作品は1970年に制作され、ゴーゴー、チンピラ、やくざ、キャバレーなど、70年の退廃した青春像を描いている。世間の多くの家庭はまだ貧乏で、貧富の差が激しい時代だ。町工場で働く少女(役名がない)には、飲んだくれで借金を残して死んだ父がいて、カリエスで寝たきりの姉がいて、彼女は家族のために工場の寮に入って働き、給料の多くを母に仕送りしている孤独な毎日を送っている。しかも自分の周りにはキャバレー勤めや犯されて泣き寝入りする友人に囲まれ、自分だけはそうなりたくないと必死に拒んでいる真面目な女の子である。一方、チンピラ青年も、内弁慶で勇気がなく、チンピラをしているにもかかわらず未だ童貞という、これまた見かけとは違っての大善人。この善人のふたりが汚れきった世間に惑わされず、したがって順応できずに逃避の道をたどってしまう。ひたむきと言えばあまりにもひたむきな二人に胸が痛むのだった。

 ここ数年、増村保造監督作品が見直され、各地で回顧上映がされている。しかも、いずれも人気があり満員だという。それはなぜだろうか、増村作品の主人公は男でも女でも意志を持った強い人間である。ひたすらに自分を信じて生き、愛に対して積極的である(私の知る限り、必ず女性の方からくちづけを迫っている)。強い意志を持った人間は、時には粗野で利己的で情緒性に欠けるものだ。が、粗野であろうとも情熱と信念を持って突き進む姿は、そうでない者よりも圧倒的に美しい。日本人は、その歴史と文化から犠牲的精神を美とし、義理を立て、自らの欲望を抑制して生きている。増村の描く主人公は、そんな古めかしいこり固まった日本的な”美”と違い、束縛から解き放たれた"むき身の人間"そのものを描いている。今回の主人公の二人も、世間や社会、組織の常識に流されない無垢の人間であり、無垢の人間を描いているからこそ、増村保造監督作品は時代に左右されず、時を超えて支持されている所以ではないだろうか。

 「遊び」をはじめて観た時は、粗野で利己的で情緒に欠け、暴力、裸体、大声で怒鳴るようなセリフ、70年代のしょんべん臭いBGM(失礼)など、嫌悪感があったが、それは作品のデテールに目を奪われすぎて本質を見誤っていたのだった。(反省)


この暑さ、体調も悪くなるよ。

 8/1(木)『電話の掛け間違い』


 最近、電話の掛け間違いが多い。いや、かかってくる間違いじゃなくて、自分がかけ間違えてしまうんだ。

 電話も電卓も0から9までのキーが基本で出来ているが、キーの配列が違うの気が付いてます?

 仕事で電卓を使っていると、手が電卓のキーの配列を覚えているんですね。だから、電話を掛けようとすると、手が勝手に電卓の感覚で押してしまうのです。具体的に言うと「7」を押すつもりが実際には「1」を押してしまうんです。

 どうして電話と電卓とキーの配列が違うのでしょうか?(そこがイケない)

 聞いたところによると、目線に合わせて配列が違うそうです。どちらも自分の目に近い方に「1」が来るように並んでいる。公衆電話を思い出して下さい。電話は基本的に見降ろす位置に置いてあるでしょ、だから「1」が上で「9」が下に来る。ところが電卓は机の上にあって、目線は電卓の手前から見てるでしょ。だから手前側(下)に「1」がきて奥に「9」が並ぶわけです。キーボードのテンキーも同じ。だから卓上に置いてある電話は手前が「9」で奥が「1」となり、電卓とは逆になるんです。

 紛らわしいでしょ。もしキー配列が全〜部同じならブラインドタッチで電話も掛けられるようになるのにね。そこでアイデア商品を考えました。キー配列が電卓と同じ電話器というのはどうだろう?

 ブラインドタッチでかけられる電話だ。いいと思うんだけどな。



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ここに書かれている内容は徳富の個人的な感想によるものです。
特に悪意はありませんし、下心もありませんので、ご了承下さい。


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