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Chronology. 私 製 ・ 戸 板 康 二 年 譜 ( Page 6 of 6 )


* 最後のページは1979年の大病から1993年1月の死まで。喉頭がんを患い声帯を削除、声を喪って64歳の誕生日を迎えた戸板康二は「寒澄や生きて今年の誕生日」という俳句を残しました。
* 大病を機に戦後長らく続けていた「東京新聞」の劇評をやめたり、「銀座百点」の座談会「銀座サロン」をおりたりもしましたが、昭和52年から書きはじめた「ちょっといい話」からつながる人物エッセイなど、その文筆はますます軽やかにつややかさを増し、円熟してゆきました。
* 句集を刊行したりと、生涯にわたって親しんだ俳句の関する著作も目をひきます。最後に朱を入れた本は『俳句・私の一句』。後記に「今こうして生きている幸せをしみじみ感じる」と記した二日後の朝、新聞を取りに行った折に倒れ、77年の生涯を閉じました。三回忌に際して、『「ちょっといい話」で綴る戸板康二伝』が私家版として刊行されています。


(April 2010)


    

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1979/S54[63歳〜64歳]

1月、堀口大学の米寿祝賀会に招かれてこれに出席、一度挨拶する機会を得る。昭和7年に慶應予科に入った当時、級友の誰もが堀口大学の訳したコクトオの詩「耳」を知っていたという。

1月、戸板康二案、宮尾しげを画「落語かるた」、新泉社より刊行(1800円)。『いろはかるた随筆』書誌データ 所収の「落語かるた」を商品化したもの。

春頃から咽の不調を自覚。

3月27日、博品館劇場でジャン・コクトオの『双頭の鷹』観劇後に立ち寄った、新橋の行きつけの酒場トントンで、七尾伶子らに、冬にひいた風邪で痛めた喉だけがいまだになおらないと話す。

4月9日、喉の痛みのため、七尾伶子紹介で医師の診察を受ける。「名刺がわりです」と医師に『ちょっといい話』を贈る。

5月4日、国立劇場で TNP の『タルチュフ』を見る。入院前最後の観劇となる。四カ月半、劇場に足を踏み入れることのない日々を過ごすこととなり、観劇の日程がここまで空白になったのはもの心ついて以来初めてだった。

5月5日、テレビ朝日系列「土曜ワイド劇場」にて、『名探偵雅楽登場 車引殺人事件つづいて鷺娘殺人事件』放映。主演の中村雅楽役は中村勘三郎。近藤正臣、山城新伍、波野久里子、大出俊出演。吉田剛脚本、齋藤武市監督。

5月9日、池田弥三郎の尽力で、慶應病院に入院。入院前日、三越で天麩羅ソバを食べる。
【「わが日常」=目の前の彼女】〈三十代、四十代とおなじような日課を重ねたが、告白すると、ある日「寺小屋」の首実検がおわったと思ったら、松王丸の衣装が変っていたので愕然とした。眠ったりするようでは、どこかで無理をしているにちがいない。とっくり考えようと思っている時、生まれてはじめて入院生活をすることになった。〉

東京新聞に帝劇の『暖簾』の劇評を書いたあとに入院となり、昭和24年4月以来毎月東京新聞に書き続けてきた劇評がひとまず終了。新聞の仕事からは病を機に離れることになった。

5月15日、青蛙房の岡本経一に『回想の戦中戦後』書誌データの著者校正のゲラを渡す。

6月1日から5日まで手術前の一時帰宅。「婦人公論」(のちに『物語近代日本女優史』として刊行)と「歴史と人物」(のちに『わが交遊記』)の原稿を書いたり、テレビで江川登板の読売ジャイアンツが敗れるのを観戦したりする。

6月3日、文化放送で「ちょっといい話」放送。加藤武と金原亭馬生が本を読むのを自宅で聞く。

6月5日、散髪をして、弟の山口健夫と会食。

6月8日、下咽頭癌手術を行い声帯を削除。手術は8時間に及び、63年間慣れ親しんだ声を失う。

6月15日、『六代目菊五郎』(講談社文庫)刊。書誌データ

6月25日、『回想の戦中戦後』(青蛙房)刊。書誌データ

6月、『浪子のハンカチ』(角川書店)刊。書誌データ

7月4日、食道をつなぐ二度目の大手術。

73日間におよぶ入院生活を終え、7月26日に退院。

7月、『女優のいる食卓』改訂版(三月書房)刊。書誌データ

退院後、初の外出先は、勘三郎が2度目の雅楽役に挑んだ『奈落殺人事件』の完成試写。(放映は翌年1月)

9月22日歌舞伎座、病後最初の観劇。『千本桜』の「すし屋」を監事室で観る。勘三郎初役のいがみの権太、芝翫の椎盛。

病後最初に書いた原稿は、10月1日に没した水谷八重子の追悼文で「東京新聞」に掲載された。

10月に入ってから徐々に、外出が増えてくる。病院にリハビリに行った帰りに、芝居を見たり、三越名人会の打ち合わせに出席したりしている。

10月16日、博品館劇場にてアキコ・カンダの『タケル』観劇。その帰りに、行き付けだった新橋のレストラン「園」で病後初の外食。

11月8日、病院の帰りに更科とトントンに寄る。

11月13日、行きつけだった四谷の酒場、Fに病後初めて顔を出す。この夜、店のメモに「筆談の洒落もどかしき夜寒かな」という俳句を残す。
【「わが日常」=目の前の彼女】〈いま思うと、一昨年の夏から冬にかけて、ぼくの回復が、食事で言うと、オモユからカユ、カユから常食というふうに、すこしずつ変わって行った期間、自然、三十数年続けて来た生活を一度御破算にして、改めて自分の生き方を見なおすことがあったように思われる。したり顔な人生訓みたいに聞こえるのはいやだから、注意して書くが、ぼくの場合は、よんどころない事情で、停電の数カ月があったから、結果としてそうなったので、思索だの反省だの、意識したわけではない。元気になったら、やっぱりしばいに行き、書店に行き、友人のたむろする酒場に行き、それからたいへんいいタイミングで、京都に行った。そして、どの場所でも、生きててよかったという喜び、古歌を引用すれば「生けるしるしあり」の思いがあった。いろいろ不如意なことが多かったあいだに、自分をそうなるまでにささえたのは、しかし、読むたのしみと、ものを書く日常があったからだと思っている。〉

12月14日、64回目の誕生日を迎える。寒澄や生きて今年の誕生日。
【山口瞳「銀座 鉢巻岡田の鮟鱇鍋」=『行きつけの店』】〈あるとき、テーブルで、やはり鮟鱇鍋で飲んでいるときに、妙齢を少し越した着物の美人の客が三、四人で来て、一階の小間に入った。ほどなく、戸板康二先生が来られて、ちょっとぎこちない感じで、私に、やっ、と会釈されて、その小間に消えた。私は、女中にメモ用紙を貰い、俳句を書いて、戸板先生に届けてくれるように頼んだ。すぐに戸板先生から、返書の意味の俳句がもどってきた。そんなヤリトリが三度ばかり重った。私の俳句は、ご病気いかがですか? お酒を飲めるようになったんですかという御挨拶と質問を兼ねたようなものだった。それだけで、もう、私の胸は一杯になっていた。よくぞ、まあ、御無事でという思いがあった。やがて、戸板先生から、最後の俳句が返って来た。「寒 澄 や 生 き て 今 年 の 誕 生 日」。私は目の前の鮟鱇鍋が見えなくなった。涙滂沱とはこのことだった。その日が戸板先生の誕生日だったのである。私は、誕生日に、こんな美人たちと一緒に飲める先生のことを祝福しないではいられなかった。「もう駄目だ……」岡田の鮟鱇鍋をお終いに雑炊にしないで帰ったのは、これ一度きりである。〉

12月25日、行きつけの酒場だった新橋のトントンが閉店。トントンは新橋の駅から徒歩五分のところにあり、名付け親は池田弥三郎と飯沢匡だと言われる。奥野信太郎、名取洋之助、十返肇、向田邦子、岡部冬彦、山口瞳などが常連として名を連ねていた。戸板は飯沢匡に連れられて来たのが最初、以来長らくの常連にしていた。


1980/S55[64歳〜65歳]

1月5日、テレビ朝日系列「土曜ワイド劇場」にて、『名探偵雅楽再び登場! お染め宙吊り殺人事件つづいて奈落殺人事件』放映。主演の中村雅楽役は中村勘三郎。近藤正臣、淡島千景、中村勘九郎、早乙女愛出演。吉田剛脚本、齋藤武市監督。

3月18日、東京やなぎ句会に出席。「病後はじめて人前に出た」と日記に記した日。上野広小路の西洋レストラン・ドリームにて。鈴本に近い、扇橋ひいきの店らしかった。「みんなが心配そうに同情したりせず、前と同じに歓迎してくれたのが、何よりも嬉しかった」。

4月25日、金子信雄『新・口八丁手庖丁』(作品社)刊。序文を寄せる。

5月3日、テレビ朝日系列「土曜ワイド劇場」にて、『名探偵雅楽三度登場! 幽霊劇場殺人事件』放映。主演の中村雅楽役は中村勘三郎。近藤正臣、林与一、高橋洋子、山城新伍出演。吉田剛脚本、齋藤武市監督。

5月、『歌舞伎輪講』(小学館)刊。書誌データ

5月20日、『物語近代日本女優史』(中央公論社)刊。書誌データ

7月、『新ちょっといい話』(文藝春秋)刊。書誌データ

8月15日、『芸能めがねふき』(三月書房)刊。書誌データ

8月25日、『わが交遊記』(三月書房)刊。書誌データ

9月10日、『團蔵入水』(講談社)刊。書誌データ

10月、『すばらしいセリフ』(駸々堂出版)刊。書誌データ

10月24日、アキコ・カンダ『おんなを踊る』(駸々堂出版)刊。序文を寄せる。

12月、『写真 歌舞伎歳時記 秋冬』(講談社文庫)刊。書誌データ


1981/S56[65歳〜66歳]

2月、『写真 歌舞伎歳時記 春夏』(講談社文庫)刊。書誌データ

3月17日、「東京やなぎ句会」第143回月例句会に出席。会場は赤坂の乃なみ。発声器を持参する。発声機に慣れるための訓練に三一書房の『古典落語大系』を最も多く使用したと語る。次回の第144回月例句会より、四谷のそば屋「満留賀」の二階にある四谷倶楽部がレギュラー会場となる。

4月、『対談戦後新劇史』(早川書房)刊。書誌データ

4月、マールイ公演(於:自由劇場)、久保田万太郎作『弥太五郎源七』を観世栄夫と共同演出。
【『髪結新三』細見=戸板康二劇評集】〈この1月に久保田万太郎の『弥太五郎源七』を劇団マールイの公演で、ぼくは演出しているのだが、勝奴がいかにも猪口才なやつに書かれていて、あるいは『桜の園』のヤーシャを作者は持って来たのではないかと思った。〉
【「万太郎の私戯曲」=見た芝居・読んだ本】〈昭和四年、四十歳の作であるが、「大寺学校」初演の翌年で、作家としては充実していた時代といえよう。そういう時に、万太郎が逆境に沈んでいる人物を主役にして、「髪結新三」の後日を書いたのは、ほろびゆくもの、傾くものへの感慨が、前年歿した小山内薫の一周忌も来ないうちに築地小劇場が解散したことだの、放送局が新しい芸術分野を開拓しようとしている時に万太郎自身はまだそういう潮に乗るまでには至らないことだの、早くいえばある時期の泉鏡花と同じように不遇だったためだと思う。……もうひとつ、新三を殺してから立ち寄った居酒屋のあるじが、勘当したつもりでいた息子が厚木まで帰っていて目明しをしているという話を、さもいまいましそうにしながら、内心うれしくて仕方がないというところがある。この老いたる父親と出奔した倅との関係は、六年前に小山内薫の書いた「息子」に影響されていると思った。パニョルの「マリウス」のセザールと倅との関係ともそっくりだが、同じ昭和四年に書かれたフランスの新作を、万太郎が読んではいないだろう。〉

10月15日、『團十郎切腹事件』(講談社文庫)刊。書誌データ

10月、『見た芝居・読んだ本』(あずさ書房)刊。書誌データ

11月20日、『思い出の劇場』(青蛙房)刊。書誌データ


1982/S57[66歳〜67歳]

1月25日、『目の前の彼女』(三月書房)刊。書誌データ

3月17日、「東京やなぎ句会」第155回月例句会に出席。会場は四谷倶楽部。

5月20日、『目黒の狂女 中村雅楽推理手帖』(講談社)刊。書誌データ

7月5日、池田弥三郎没。

7月24日、『しぶや酔虎伝―とん平35年の歩み』(「とん平」35周年記念文集刊行会、牧羊社)刊。戸板の「とん平の日々」(『回想の戦中戦後』の抜粋)収録。

7月25日、『黒い鳥』(集英社文庫)刊。書誌データ

8月、アキコ・カンダのリサイタル(於:俳優座劇場)、矢代静一作『妖かし』の演出。

8月15日、『グリーン車の子供』(講談社文庫)刊。書誌データ

8月25日、『ちょっといい話』(文春文庫)刊。書誌データ

8月25日、『ハンカチの鼠』(旺文社文庫)刊。書誌データ

9月25日、『女優のいる食卓』(旺文社文庫)刊。書誌データ

10月25日、『夜ふけのカルタ』(旺文社文庫)刊。書誌データ


1983/S58[67歳〜68歳]

5月6日、久保田万太郎没後20年、慶應義塾の文学部主催の講演会が催され、そのあと、赤れんがの旧図書館で立食パーティー。

5月9日、寺山修司の葬儀がいとなまれる。中原淳一の葬儀もあり、六本木の教会を中座して青山に向かう。

8月25日、『久保田万太郎』(文春文庫)刊。書誌データ

9月15日、『松風の記憶』(講談社文庫)刊。書誌データ

9月20日、『淀君の謎 中村雅楽推理手帖』(講談社)刊。書誌データ

10月、『名セリフ言語学』(駸々堂出版)刊。書誌データ

10月、『物語近代日本女優史』(中公文庫)刊。書誌データ

11月21日、川口松太郎著『久保田万太郎と私』(講談社)刊。


1984/S59[68歳〜69歳]

1月24日、川口松太郎より呼び出され、赤坂の重箱(先代は万太郎の『火事息子』のモデル)にて会食。久保田万太郎の評伝を書いた戸板と、前年に『久保田万太郎と私』を上梓した川口とで故人を偲びたいということで卓上に万太郎の写真を立てて、会食となった。万太郎の遺族と阿木翁助、吉原松葉屋とバー小唄の女将らが招かれた。

2月、『新々ちょっといい話』(文藝春秋)刊。書誌データ

3月17日、伊馬春部没。

3月25日、『新ちょっといい話』(文春文庫)刊。書誌データ

3月25日、『演劇走馬燈』(三月書房)刊。書誌データ

4月17日、「東京やなぎ句会」第179回月例句会に出席。会場は四谷倶楽部。

7月20日、『旅の衣は』(駸々堂出版)刊。書誌データ

9月、アキコ・カンダのリサイタル(於:俳優座劇場)、『マグダラのマリア』の作・演出。

9月、『泣きどころ人物誌』(文藝春秋)刊。書誌データ

10月、岡村文弥の中国曲観賞団の顧問として、中国訪問。

11月20日、『思い出す顔』(講談社)刊。書誌データ


1985/S60[69歳〜70歳]

1月29日、関容子『勘三郎楽屋ばなし』出版記念会が帝国ホテル本館・富士の間で開催(午後6時より)。関容子と勘三郎を主賓にした盛大な会の宴半ばに、川口松太郎、宇野信夫、戸板の3人が壇上に立ち、まず、司会者が戸板の主賓へ寄せた手紙を朗読し、宇野が勘三郎に花束を贈呈したあと、川口のみが祝辞を述べる。同年6月に没する川口が公の場に姿を見せた最後となった。のちに、戸板は『あの人この人』所収の「川口松太郎の人情」に《この時は車椅子だったと思う》と記す。

5月30日、銀座百店会創立30周年記念祝賀会、新橋演舞場にて開催され、これに出席。

6月5日、『歌舞伎題名絵とき』(駸々堂出版)刊。書誌データ

6月25日、『あどけない女優』(文春文庫)刊。書誌データ

9月、『劇場の迷子 中村雅楽推理手帖』(講談社)刊。書誌データ

9月15日、『おととしの恋人』(三月書房)刊。書誌データ

10月17日、「東京やなぎ句会」第196回月例句会に出席。マガジンハウス社長の清水達夫とともにゲストとして出席。会場は四谷倶楽部。

12月14日、古稀を記念して初の句集、『句集 花すこし』(三月書房)を刊行。書誌データ

12月14日、東京會館にて「戸板康二先生の古稀を祝う会」開催。下戸の小沢昭一、「お祝いに一世一代で飲んでお目にかける」と一杯のビールを壇上で一気飲み。


1986/S61[70歳〜71歳]

1月25日、『松井須磨子』(文春文庫)刊。書誌データ

3月15日、梅若忌。戦後初めて向島の木母寺を訪れた。学生の頃は百花園に行く途中、たびたび行ったことがあった。

3月25日、『これだけは見ておきたい桜』(新潮社とんぼの本)刊。戸板の「桜花満開の景」収録。雑誌「芸術新潮」1985年4月号に掲載された記事の再録。

4月10日、『新々ちょっといい話』(文春文庫)刊。書誌データ

7月15日、龍岡晋『切山椒 附久保田万太郎作品用語解』(慶應義塾三田文学ライブラリー)刊。戸板康二のよる後記。序文は阿木翁助。

9月16日、『楽屋のことば』(駸々堂出版)刊。書誌データ

10月、中国旅行の際、西安を初めて訪れる。

11月、福武書店より『新輯内田百間全集』刊行開始。第20巻月報に戸板康二「ある種の音楽に似て」掲載。

11月3日、浅草寺境内にて九代目團十郎の「暫」の銅像の除幕式。式のあと、「演劇界」の小宮暁子編集長と三社様に詣でた。


1987/S62[71歳〜72歳]

1月30日、第3回東京都文化賞受賞。

3月17日、「東京やなぎ句会」第213回月例句会に出席。会場は四谷倶楽部。

4月、河原崎権十郎の『紫扇まくあいばなし』刊行。その記念パーティーで武智鐵二に会う。武智は「一度ゆっくり、昔ばなしでもしたいですね」としみじみ言った。それが武智との最後とのこと。

5月10日、「東京やなぎ句会」の桑名吟行にゲストとして参加。病後はじめて発声機を使って人前で挨拶。鏡花の『歌行燈』の湊屋のモデルで地内に久保田万太郎の「獺や灯をぬすまれて明け易き」という句碑が立っている船津屋で夕食後句会となった。
万太郎俳句評釈】〈食後、みんなで夜の街を歩いた時、適当な間隔に、五月闇があって、何となく嬉しくなった。そして、「歌行燈」の書かれた明治末期と同じ雰囲気が残っているのが、東京からゆくと、羨ましい気持にもさせられた。〉

6月15日、『女形余情』(三月書房)刊。書誌データ

6月、『塗りつぶした顔』(河出文庫)刊。書誌データ

7月、野中マリ子企画公演(於:ジャンジャン)、『ひとり息子――桜の園・その後のシャルロッタ』の作、西田昭市とともに共同演出。

7月、『新版京洛舞台風土記』(駸々堂出版)刊。書誌データ

7月、『句会で会った人』(富士見書房)刊。書誌データ

8月4日、『才女の喪服』(河出文庫)刊。書誌データ

11月10日、『泣きどころ人物誌』(文春文庫)刊。書誌データ

12月17日、「東京やなぎ句会」第222回月例句会に出席。会場は四谷倶楽部。


1988/S63[72歳〜73歳]

1月、『魚河岸ひとの町 本橋成一写真集』(晶文社刊)。特別エッセイ「わたしの魚河岸」寄稿。

1月10日、『浪子のハンカチ』(河出文庫)刊。書誌データ

3月、所用で京都に行った折に、初めて西の郊外の勝持寺を訪れる。岡部伊都子のエッセイで長らくの憧れの寺だった。本堂の前の「西行桜」の立札、西行の歌にうたわれた枝垂れ桜を見る。「ひっそりと西行桜枝を垂れ」と文藝手帖に書き留める。

4月10日に瀬戸大橋が開通。この年の金丸座の歌舞伎見物のときは、大橋が渉れるようになって二週間後、車を走らせて橋をゆき、岡山まで戻った。

5月10日、『見た芝居・読んだ本』(文春文庫)刊。書誌データ

5月10日、『忘れじの美女』(三月書房)刊。書誌データ

6月、『歌舞伎役名由来』(駸々堂出版)刊。書誌データ

「小説現代」7月号掲載の「探している本」という連載コラムで、増田龍雨の本を探していることを記す。山本容朗が郵送で贈呈。それを受けてすぐに礼状と明治屋から紅白の葡萄酒を郵送。

夏、白内障の手術で、板橋の日大病院に二週間入院。

11月30日から12月7まで、岡本文弥を団長に「中国曲芸鑑賞訪華団」二十余名の一行に夫妻で参加。


1989/S64・H01[73歳〜74歳]

1月、小林一三の三十三回忌が、宝塚大劇場で故人を偲ぶ会として催され、これに出席。

4月14日、『食卓の微笑』(日本経済新聞社)刊。書誌データ

4月25日、『慶応ボーイ』(河出書房新社)刊。書誌データ

5月、尾上松緑の『松緑芸話』刊行。寄贈を受け、丁寧に読み、礼状をそえて長い手紙を書く。それからまもなく、松緑の訃報に接する。戸板より二歳年上で、ほぼ同世代だった。戦後に、梅幸、九朗右衛門、又五郎との4人が、毎月劇評家仲間を招いていろいろ話し合う会を開いており、松緑とは学校友だちのような感じで会っていたとのこと。

5月28日、林えり子の招待で信州の山荘を夫妻で訪れる。不動堂に参詣したあと、その寺の前の料亭で鯉料理を食べた。

7月、友人と誘い合わせて、夫妻で革命二百年にわくフランスを訪問。

8月、『句集 袖机』(三月書房)刊。書誌データ

8月17日、「東京やなぎ句会」第242回月例句会に中村伸郎とともにゲストとして出席。会場は四谷倶楽部。

11月1日、『夢に思ひも 石井順三追悼文集』(石井順三追悼集刊行委員会発行)刊。戸板康二「なつかしい石井さん」を寄稿。


1990/H02[74歳〜75歳]

2月5日、『香りの記憶』(新潮社)刊。戸板の「歌舞伎・舞台の香り」を収録。

5月、『季題体験』(富士見書房)刊。書誌データ

8月15日、『うつくしい木乃伊』(河出書房新社)刊。書誌データ

8月15日、『みごとな幕切れ』(三月書房)刊。書誌データ

9月17日、「東京やなぎ句会」第255回月例句会にゲストとして出席。会場は四谷倶楽部。

11月、『ことば・しぐさ・心もち』(TBSブリタリカ)刊。書誌データ

11月、『家元の女弟子』(文藝春秋)刊。書誌データ

11月、『女形のすべて』(駸々堂出版)刊。書誌データ

11月、慶應義塾大学文学部開設百年記念「三田の文人展」実行委員会編『三田の文人』(丸善)刊。戸板は「三田と歌舞伎」という一文を寄せた。


1991/H03[75歳〜76歳]

6月1日、『戸板康二劇評集』(演劇出版社)刊。書誌データ

10月、『人物柱ごよみ』(文藝春秋)刊。書誌データ

11月19日、芸術院新会員に内定。

12月15日、『日本の名随筆 芝居』(作品社)刊。書誌データ


1992/H04[76歳〜77歳]

4月18日、丸ノ内のパレスホテルにて「三田文学」の懇親会。前年暮れに芸術院の新会員に選ばれた戸板康二、佐藤朔、江藤淳の三人がともに慶應義塾の出身であったことから、そのお祝いも兼ねて開催されたもの。

7月30日、『折口信夫 回想と写真紀行』(岩崎美術社)刊。芸能学会の機関誌「芸能」に159回にわたって連載されたものを1冊にまとめたもの。戸板の「春日若宮の御祭」「花祭」「雪祭」の3篇を寄稿。

9月、『ぜいたく列伝』(文藝春秋)刊。書誌データ

9月17日、「東京やなぎ句会」第279回月例句会にゲストとして出席。会場は四谷倶楽部。戸板康二、最後の出席となった。

10月、『万太郎俳句評釈』(富士見書房)刊。書誌データ

10月末、神楽坂の日本出版倶楽部にて『折口信夫 回想と写真紀行』の出版記念会開催。同席していた佐藤文夫に筆談でメモを渡す。《私が女学校の教師をしている時、折口先生がものをよそに書くのに、本名はまずいから香実(「コウジツ」とルビ)にせよといわれたが、じつは先生のイタズラで、戸板は四谷怪談なのでカサネにした》。

12月、『句集 良夜』(三月書房)刊。書誌データ

12月14日、「芸術院会員と喜寿を祝う」という内輪の会が東京會館で催される。出席者全員に『句集 良夜』と「戸板康二著書一覧」という和綴の冊子が配られた。

12月16日、銀座の竹葉亭本店にて開催の「銀座百点」忘年句会に出席。

12月23日、両国の回向院の隣にあるシアターΧで清水邦夫の新作「冬の馬」のマチネーを観る。そこで渡辺保と会う。前月に国立劇場が出した『田中凉月歌舞伎囃子一代記』(田中凉月・小林責著)について、「面白いねえ」と言って目を細くした。
【渡辺保「両国回向院前」悲劇喜劇1993年4月号】〈芝居がはねて、表で待っていると、ちょっとお茶を飲もうといわれた。これはめずらしい。しかし休日の夕暮、両国回向院前にはめぼしい喫茶店もない。歩けば見付かるだろうが、土地不案内だし、冬の寒空のなかを先生をそう歩かせてもいけないと思って、とりあえず目についたファースト・フードに入った。別に格別の用件があるわけもなく、なんとなく人恋しいような雰囲気でいらっしゃった。いろいろお話をしたあと、とっぷりと暮れた回向院の前からタクシーに乗った。私の家を廻ってくださるというのである。私が青山で先におりて、先生を乗せた車を見送った。車のあかいテール・ランプが冬の夕闇ににじんで遠く消えていった。それが三十年もおつき合いした先生との最後になった。〉


1993/H05[77歳]

1月4日、最後の歌舞伎座観劇。

1月5日、国立劇場観劇。死の2日後に発売された「演劇界」2月号にこの日に所見の劇評が掲載される。

1月21日、『俳句・私の一句』書誌データの著者校正に朱を入れる。《今こうして生きている幸せをしみじみ感じる》と「後記」に記した。

1月21日付けの《晴、ひる前、前田外科 さしたる異状なし 血圧130-85 四時半えり子の車で山の上ホテル 岡本文弥歌集「味噌・人・文字」出版と百寿祝の会に当世子と出席 一五〇人近い盛会、》、これが終戦の日より48年間書き続けた日記の絶筆となった。

1月22日。午後6時より、銀座のはち巻岡田にて会食。前年12月14日の「芸術院会員と喜寿を祝う」内輪の会の裏方をつとめた者への慰労として。矢野誠一、金子信雄、阿部達児など計七人の出席。一番早いペースで食事を続け、健啖ぶりを見せる。午後9時に散会、帰宅後は、楽しかった会食の様子を夫人に語り、大相撲の結果をテレビでチェックして、早々と就寝したという。
【矢野誠一『戸板康二の歳月』】〈招かれたひとりであった私は、午後六時という約束の時刻よりちょっとはやく銀座に着いて、ちょうど松屋の手前のところで古い知人とはちあわせた。どこかでお茶をのむほどの時間は許されず、そのまま立ちばなしで近況など伝えあっていたのだが、そのとき銀座通りごしに教文館から出て来る戸板康二先生の姿が目にはいった。洒落たハンチングを頭にのせて、はち巻岡田の方角にゆっくりと歩をはこぶ先生の姿は、灯点しどきの銀座の街にとてもよく似合った。〉

1月23日、急逝。起床後、毎朝の習慣のとおりに、八時過ぎに玄関を開けて新聞受けから朝刊を取りに行った。そのまま戻らないのを不審に思った夫人が様子を見に行くと、廊下にうずくまるように倒れていて、介抱したが反応はない。救急車で昭和医大附属病院に運ばれ、そのまま死亡。

1月26日、品川霊源寺にて通夜。

1月27日、密葬。

2月6日、青山祭儀場にて本葬。快晴だった。葬儀委員長は松竹の永山会長、芸術院院長の犬丸直と、串田孫一、河竹登志夫、南悠子が弔辞をよむ。

3月7日、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山総持寺に葬られる。戒名はなし。墓碑には「戸板康二 平成五年一月二三日没 行年七十七才」とのみ記された。

5月、『俳句・私の一句』(主婦の友社)刊。書誌データ

5月17日から6月5日まで、慶應義塾大学三田図書館にて「戸板康二追悼展」開催。

6月、『あの人この人 昭和人物誌』(文藝春秋)刊。書誌データ
【矢野誠一『戸板康二の歳月』】〈急逝したとき「オール読物」に連載中だった「昭和人物誌」は、一九九三年三月号の「久保栄の潔癖」が絶筆となるはずだった。ところが先生の葬儀も終って、夫人が机の引出しを整理していたらば、「東山千栄子の挨拶」と「渥美清太郎の歌舞伎」の二篇が出てきたのである。ふた月分のものまで書きあげていたことになる。「望外のこと」ととして、「オール読物」の四月号と五月号に掲載されたのち、その年の六月に『あの人この人 昭和人物誌』として文藝春秋から刊行されたのである。尾崎宏次が、「これは戸板論のひとつの糸口である」として、「死を覚悟していての執筆ではなく、書くこと自体のおもしろさにのって書きためていたのだろう」と推察しているが、書くことへの興味は、死の訪れるまで少しもあくことがなかった。戸板康二は、現役の作家として、そのピークで倒れたのである。〉

11月26日から12月5日まで、六本木俳優座劇場にて、、新演劇人クラブ・マールイ主催で「戸板康二追悼公演」として、戸板康二『肥った女』と久保田万太郎『釣堀にて』上演。『肥った女』は丹阿弥谷津子主演、『釣堀にて』の直七役は金子信雄。金子信雄はこれが生前最後の舞台になった。また、11月26日発行の「マールイ通信」(タブロイド版計4ページ」に、渡辺保、矢野誠一、金子信雄、丹阿弥谷津子が追悼文を寄せる。

11月10日、『家元の女弟子』(文春文庫)刊。書誌データ

11月30日、『歌舞伎ちょっといい話』(主婦の友社)刊。書誌データ


1994/H06[一周忌]

1月23日、一周忌。『六段の子守唄』(三月書房)刊行。書誌データ

10月15日、『最後のちょっといい話』(文春文庫)刊。書誌データ


1995/H07[三回忌]

1月3日から3月12日まで、国立劇場資料展示室にて《戸板康二氏寄贈 幕末・明治の芝居絵》展開催。戸板康二所蔵の芝居絵が国立劇場に220点寄贈されており、三回忌にあたって80点を公開し、寄贈資料を紹介。

1月19日、東京会館にて、戸板康二先生を偲ぶ会が催され、100名近い人々が集い遺影の前で思い出話をさかせた。当日欠席していた金子信雄が翌日死去。

1月23日、三回忌。戸板当世子編『「ちょっといい話」で綴る戸板康二伝』目次が編まれた。




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