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Chronology. 私 製 ・ 戸 板 康 二 年 譜 ( Page 5 of 6 )


* 昭和33年、江戸川乱歩のすすめで探偵小説を執筆、直木賞を受賞し小説の世界でも一家を成すにいたる。そして、劇作など、演劇の作り手としての活動が始まり、ますます活躍の場を広げています。


(January 2011)


    

1915-19381939-19431944-19501951-1957| 1958-1978| 1979-1993


1958/S33[42歳〜43歳]

3月31日、筈見恒夫父子と金沢へ行った晩、天神橋近くの遊廓が大変賑わっているのに遭遇。遊里閉鎖の最後の晩だった。筈見が「ゆきたいが、子供を宿屋に一人置いてゆくわけにもいかないしな」とつぶやく。

4月29日、「十一日会」という演劇人グループのパーティーにて、江戸川乱歩と同席。乱歩より「何かあなた、書きませんか、小説を」といわれ、「ひとつだけそれでは書かせてください」と答える。翌30日の夕刻、乱歩より「ゆうべの約束をお忘れなく」の速達が届き、三日くらいかけて『車引殺人事件』、42枚の原稿を執筆。戸板康二初の推理小説。中村雅楽シリーズはこのあと30年以上にわたって書き続けられることとなる。

5月20日、『芝居名所一幕見 東京篇』(白水社)刊行。書誌データ

5月24日、『卓上舞臺』(村山書店)刊行。書誌データ

5月25日、『芝居名所一幕見 諸国篇』(白水社)刊行。書誌データ
【「舞台の上の名所」=ロビーの対話】〈鉄道弘済会の雑誌「あすなろ」で、芝居名所を全国にわたって書いてみないかといって来たので、喜んで応じた。何しろ二等の急行をふくめた全線パスを貸してくれるというのが、ありがたかった。第一、乗車券を買う手数の要らないのが助かる。そのパスで方々歩いて、一年ほど連載した。これは「芝居名所一幕見」という前著の諸国篇として、再版の東京篇とともに、白水社で、また刊行してもらった。〉

6月1日、三島由紀夫の結婚披露パーティーに出席。会場は麻布鳥居坂の国際文化会館、午後4時開催でカクテル・パーティー形式。六月の風の爽やかな日で、来会者は緑の美しい庭に降りてグラスを手にして談笑した。

6月6日、筈見恒夫急逝。田園調布の家に十返肇とともに弔問に駆け付ける。その帰り渋谷百軒店の「ジュエ」に立ち寄り、そのときの体験をもとに後年、『酒場の扉』という短篇を書く。

6月、『車引殺人事件』掲載の「宝石」7月号が発売。好評をもってむかえられ、以後、定期的に「宝石」に中村雅楽の推理小説が掲載される。
【「わらじ一足の心」=ハンカチの鼠】〈雅楽のイメージは、20年ほど前の喜多村緑郎の生活感覚を、歌舞伎役者の中にもちこんでいるが、雅楽自身の話しっぷりには、今思うと、学問の師である折口信夫先生の口吻が、なんとなく出てしまっているように思う。〉
【「作品ノート」=雅楽探偵譚1】〈雅楽の謎ときのしゃべり方には、岡本綺堂の「半七捕物帳」の三河町の半七の口ぶりも、どこか借りてはいるが、ぼくが親しく昔の芝居の話を聞かせてもらった、歌舞伎界の古老川尻清潭さんの調子も、はいっているようである。〉

9月15日、『街の背番号』(青蛙房)刊行。書誌データ

9月20日、奥野信太郎編『東京味覚地図』(河出書房新社)刊。戸板は「新橋」を執筆。

11月、『歌舞伎歳時記』(知性社)刊行。書誌データ

12月17日(水)、4時より新橋倶楽部にて、三宅周太郎の藍綬褒章受賞祝賀会。


1959/S34[43歳〜44歳]

清水将夫宛の年賀状に「臘梅やヴェルシーニンの広き肩」という俳句を書くと、「これから毎年ぼくの役を次の年の正月、俳句にして下さい」と返事が来る。以来、清水が逝く年の昭和50年まで毎年、年賀状に俳句を添えることとなった。

4月30日、永井荷風没。

6月25日、『車引殺人事件』(河出書房新社)刊行。書誌データ

7月27日、『車引殺人事件』の出版記念会が、赤坂の「阿比留」で開かれる。江戸川乱歩、久保田万太郎、奥野信太郎、十返肇、安藤鶴夫など、ごく内輪の親しい人々十数名で開かれた。
【「十返肇の文壇白書 ピンからキリまで」より】〈さきほど、戸板康二氏を囲む会というのが催された。演劇批評家の戸板氏が、江戸川乱歩の依嘱を受けて、「宝石」に書いていた一連の推理小説が、こんど「車引殺人事件」と題して上梓されたのを祝う意味である。集まったのは、ごく親しい二十名足らずで、いわゆる「文壇人」は少なく、久保田万太郎、江戸川乱歩、奥野信太郎、安藤鶴夫、伊馬春部、尾崎宏次、池田弥三郎そのほかである。いまは周知のように、推理小説畑は、専門家のものよりも、有馬頼義、菊村到、松本清張など純文学作家畑の手になるものが大当たりを受けているわけだが、これに新たに演劇批評家が一枚加わった次第だ。「車引殺人事件」は、なるほど素人の余技らしい物足りなさもあれば、当夜久保田氏がいわれたように、「優等生の作文」みたいな点もあろう。お得意の歌舞伎の世界に取材したとはいえ、これだけ推理小説を書いたのは、たいへんなことで、これは近ごろピンの部に属する。〉

8月20日、渥美清太郎没。

秋、寺山修司と初めて会う。寺山がラジオドラマ「中村一郎」で民放祭大賞を贈られたとき、審査員をしていて、その授賞式の会場にて。

「宝石」12月号に、『團十郎切腹事件』掲載。この小説で直木賞を受賞することとなる。
【「作品ノート」=雅楽探偵譚1】〈この作品の創作動機は、他愛もないことである。京都から帰りに、列車の食堂車に行って食事をした。そのあいだに名古屋を通過している。席に戻ると、さっき隣にかけていたのと、ちがう紳士がいた。つまり、京都で乗った時、隣にいた乗客が名古屋で下車して、そのあとに、名古屋から別人が乗ったのであろう。その時、ふと、この人が先刻のと同じ人で、ぼくが食堂車に行っているあいだに変装したのではないかと思った。あるいは、変装したのだったらおもしろいなと考えた。こんな異常な空想を抱いたのは、前の乗客にはなかったヒゲと眼鏡のせいかもしれない。それから、車窓を見ながら行くと、大磯の近くに、旧東海道の松並木がある。それを見ているうちに、八代目團十郎の旅を思いつき、その死の絵ときを、こしらえてみようと決心した。〉
【「回想・新派十二人」=みごとな幕切れ】〈(市川)翠扇とはよく会った。新派が九州に行っている時、たまたま久留米の劇場に出たので見にゆき、その夜同じ宿に泊った。家に昔から伝わる八代目團十郎自刃の話を、食卓で聞いた。私の小説「團十郎切腹事件」は、それがヒントになっているような気がする。〉

12月より翌年5月まで、東京新聞夕刊に『松風の記憶』、180回連載。戸板康二唯一の新聞小説。毎日3枚を一週間まとめて書いて渡し、こんな作家は初めてだと担当者に喜ばれた。これを書いている途中の翌年1月、直木賞の受賞が決まった。

12月20日、『歌舞伎鑑賞入門』(創元社)刊行。書誌データ


1960/S35[44歳〜45歳]

1月21日、前年12月号の「宝石」掲載の『團十郎切腹事件』で、第42回直木賞の受賞が決定。司馬遼太郎と同時受賞だった。

1月26日、三益愛子と榎本健一の「テアトロ賞」受賞の祝賀パーティー出席のため東京會舘を訪れる。会場に入ると、200人もの客に次々と「おめでとう!」と逆に直木賞受賞の祝いの言葉をかけられる。

「別冊文藝春秋」3月号に『不当な解雇』掲載。直木賞を贈られた直後、「別冊文藝春秋」に受賞後第一作を頼まれ構想を練っていた頃、新宿歌舞伎町で寺山修司とバッタリ会った。そのとき、ふと目に入った私立探偵所の看板を見た寺山の発言から思いついたもの。

2月13日、渋谷とん平にて、戸板康二の直木賞受賞祝いの会。戸板主賓の隣に古川緑波が座り、南部僑一郎、岡部竜なども顔を出していた。

2月25日、『團十郎切腹事件』(河出書房新社)刊行。書誌データ

3月21日、「フジテレビ直木賞シリーズ」として『團十郎切腹事件』がドラマ化され放映。脚色西川清之、演出小川秀夫。雅楽に扮したのは、中村芝鶴。「ハイカラなナイトガウンを着ていたのが嬉しかった」と戸板はのちに記す。他の配役は、竹野記者:山内明、江川刑事:外野村晋、層雲堂:織田政雄、八代目團十郎:守田勘弥、嵐瑠璃五郎:中村吉十郎、弥蔵:中村又五郎。

4月、『車引殺人事件』が菊五郎劇団で劇化され、新宿第一劇場にて上演。雅楽に扮したのは尾上鯉三郎。
【「新歌舞伎座」=思い出の劇場】〈『勘平の死』のときの綺堂のまねをして、プログラムに桔梗は無用ですなどと、うれしがって云ったものだ。劇中劇の『車引』の三つ子は、九朗右衛門が梅王丸で、竹野記者と二役だった。三人とも赤の襦袢にしてもらった。〉

8月14日、NHK の「音楽夢クラブ」の公開録音が北海道帯広市であり、これに参加。翌日、飯沢匡、高木東六、八木アナウンサーらと襟裳岬へ行く。東京の友人へ絵はがきを書くことになり、敗戦からちょうど15年だということに気づき感無量に。

8月、『松風の記憶』(中央公論社)刊行。書誌データ

秋、京都へ出かけ、日暮れどき、ひさしぶりに清水寺を訪れる。もとは自由に参拝できた本堂が有料になっていて驚く。石段を降りて音羽の滝に向かう途中、初対面の女性と同道し、五条坂の上で別れる。このときの体験をのち、「小説新潮」同年11月号初出の『滝に誘う女』に反映させる。

9月13日、文藝春秋主催の「文壇句会」に初参加。会場は赤坂の山王内の山の茶屋。句座にいたのは16人、この日は久保田万太郎が1位で、戸板は10位だった。

11月20日、『日本推理小説大系 第10巻』刊行。書誌データ

11月、『奈落殺人事件』(文藝春秋)刊行。書誌データ

12月3日、文藝春秋主催の「冬の文壇句会」に二回目の参加。会場はいつもの赤坂の山の茶屋。戸板は2位、一等は吉屋信子。このとき、木山捷平初参加。


1961/S36[45歳〜46歳]

1月8日、「私だけが知っている」第160回の放送。戸板作『金印』。

1月10日、『古典日本文学全集第26巻 歌舞伎名作集』(筑摩書房)刊行。書誌データ

2月、東宝、松竹から八代目幸四郎を座長格にして、総勢24人の歌舞伎俳優を引き抜く。この歌舞伎についての委員会が東宝にでき、戸板もメンバーに加わった。

2月15日、池田弥三郎の初のエッセイ集『枝豆は生意気だ』、河出書房新社より刊行。戸板が装幀を担当。

2月、『対談日本新劇史』(青蛙房)刊行。書誌データ

2月、東京宝塚劇場にて、日本演劇協会の「演劇人祭」開催。会員の「紅白芸能試合」なる番組が挿入、司会は徳川夢声。このとき、壇上で村上元三とふたりで「すみれの花の咲く頃」を歌う。

3月1日、山の茶屋にて「春の文壇句会」。戸板が最高点をとり一位となる。《ネクタイの縞やはらかき弥生かな》《パンの耳皿に残れる日永かな》

4月下旬、安藤鶴夫、尾崎宏次と仕事を兼ねての京都行き。祗王寺では梢の高い花がまっさかり、その足で仁和寺にまわる。

5月、『歌手の視力』(桃源社)刊行。書誌データ

5月25日、朝日新聞社編『東京だより』刊。朝日新聞日曜版にて前年4月から掲載された「東京だより」を1冊にまとめたもの。執筆者は門田勲、芝木好子、曽野綾子、花森安治、戸板の5名。戸板が執筆を担当したのは、「3人の女優」「新派の女 東京の女」「都下前進座村」「俳優座の俳優学校」「ナイター」「女剣劇」「うたごえの店」「講道館」「科学警察研究所」「縁日」。

6月1日、山の茶屋にて「夏の文壇句会」。
【「夏の文壇句会」別冊文藝春秋第76号】〈戸板康二「こんにちは」徳川夢声「締切は6時ですからね。5時までは少しお喋りしましょう。(笑い)」渋沢秀雄「あなたの隣りへ坐ったのは失敗でしたかな。(笑い)」徳川「騒音の元凶宮田画伯がまだこないから静かですよ。(笑い)」渋沢「宮田画伯のくる前に少し作っておきましょうよ。どうせできなくなるから。」徳川「この前、戸板さんが最高でしょう。」中里恒子「ええ。その前も……。」徳川「3回連勝しなければいけませんよ。横綱になるには、年寄として申し上げますがね。(笑い)」〉

6月、『才女の喪服』(中央公論社)刊行。書誌データ

6月、『第三の演出者』(桃源社)刊行。書誌データ

9月12日、山の茶屋にて「秋の文壇句会」。戸板、またもや1等となる。

10月、関西を代表する演劇雑誌だった「幕間」(和敬書店)が終刊。

10月、明治座で宇野信夫脚色の『宮本武蔵』が新国劇によって上演された際、劇場の宣伝部長・平塚広雄から戸板に「宇野さんが一度ゆっくり話したいといっているが、いかがです」と電話がある。「お目にかかります」とよろこんで出かけ、宇野信夫と人形町でふぐを食べた。戸板がふぐを食べた初めての晩だった。

11月、『現代長篇推理小説全集 第16巻』(東都書房)刊行。書誌データ

12月1日、山の茶屋にて「冬の文壇句会」。
【「冬の文壇句会」別冊文藝春秋第78号】〈(戸板康二氏、静かに襖を開けて、ダマってお辞儀)、北条誠「来たよ、いやなのが来たよ、しずしずと。(笑い)」宮田重雄「いまの入り方は相撲の土俵入りに似ていたナ。(笑い)」北条「知らせなきゃいいんだよ、戸板さんだの、五所さんは。(笑い)」宮田「それで、『郵便局は怪しからん』といえばいいんだ。(笑い)」北条「通知はこんどオレが出すよ。玉ちゃん(玉川一郎氏)や田村泰次郎には忘れずに出さなきゃ。(笑い)」久保田万太郎「こんちは。」鴨下晁湖「もうよろしいですか。」久保田「これから悪くなるんです。『初刷り』と『り』の字をおくるのは、国語審議会……。(笑い)」〉

12月18日、日本演劇協会が NET(現・テレビ朝日)にて新年に放送する句会の録画。司会はフランキー堺、審査員が久保田万太郎、あとは男性と女性が同数、男性が、北條秀司、菅原卓、内村直也、安藤鶴夫、村上元三、秋山安三郎、戸板、徳川夢声、女性はみな女優。このとき、万太郎がフランキー堺の姿を見て即興で「法学士堺なにがしの年賀かな」という句をつくる。


1962/S37[46歳〜47歳]

「演劇界」昭和37年1月号より「人物・演芸画報」の連載開始(以後、6年間にわたって連載)。その際に「役に立つかもしれない」と、荷風の個人雑誌である「文明」と「花月」の復刻版を久保田万太郎より贈られる。「演芸画報人物誌」は昭和45年1月に青蛙房より『演芸画報・人物誌』として刊行書誌データ

2月25日、『わが人物手帖』(白凰社)刊行。書誌データ

3月1日、山の茶屋にて「春の文壇句会」。

3月、『ラッキー・シート』(河出書房新社)刊行。書誌データ

5月30日、山の茶屋にて「夏の文壇句会」。これに出席。この日、安藤鶴夫初出席。席題は薄暑、虹、蛍、冷蔵庫、桐の花。

8月31日、山の茶屋にて「秋の文壇句会」。これに出席。

9月28日(金曜日)、NET テレビ「ミステリーベスト21」にて、戸板原作『いえの芸』放送(脚色:大垣肇、監督:近藤竜太郎)。キャストは薄田研二(高島仁)、松浦浪路(桑名はつ子)、佐伯徹(能本)、柏木優子(日高まち子)ほか。

10月10日、大場白水郎急逝。

「宝石」11月号、「ある作家の周囲」にて戸板康二掲載。

11月、『ハンカチの鼠』(三月書房)刊行。書誌データ

11月7日、銀座の「辻留」で久保田万太郎が誕生日を自祝して、親しい人を招いた席で、死後の著作権一切を慶應義塾に贈与する意志を表明する。当時慶應の理事だった池田弥三郎が事務手続きを遂行。

12月、「小説現代」創刊。

12月17日、久保田万太郎の最後の伴侶、三隅一子が慶應病院にて永眠。

12月23日、三隅一子の初七日が、赤坂の鰻屋、重箱でおこなわれ、これに出席。六十名ほどの参会者。
【龍岡晋『切山椒』】〈三隅さんの初七日の日、いつもの顔ぶれの他、文楽、円生、小さん、小文治なども来て、「重箱」の座敷いっぱいにあふれていた。めずらしく先生、みんなの間を酒をつぎ乍ら、廻っていた。ぼくたち五、六人は、別の小座敷で無礼講の勝手にやっていた。やがて先生、ぼくたちのところにもあらわれた。「うまいところにいるね」「えゝ、こゝは仲間部屋ですから、さあ、さあ」で話がだいぶはずんだ。「さ、ここらでまた向うへ行かなくちゃ」「また、いらっしゃい、あっちはつまんないですよ」「ウム、二番を煎じておけ」〉

12月27日、銀座百店会の忘年句会、会場は金田中。三隅の死後初めて公の場に出た久保田万太郎が、「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」とよむ。


1963/S38[47歳〜48歳]

1月6日、赤坂の久保田万太郎を訪れると、万太郎は疲れて眠っていて、文学座の小池朝雄と加藤武が茶の間にいた。1時間ほどして NHK での仕事のため戸板が中座。一緒に帰ろうとした二人に「先生が起きた時に、誰もいないといけないから」と言って、もう少しいてもらうように頼む。あとで、直接万太郎から NHK に「二人にいてくれるように、いってもらって、ありがとう。救われました」と電話が入る。こんな電話はあとにも先にももらったことがなかったので、戸板に強い印象を残した。

1月14日、「毎日新聞」が文学座分裂の第一報。芥川比呂志を中心に29名が文学座を去り、福田恆存のもとで新劇団「雲」を結成。三島由紀夫が文学座再建のため理事に就任。
最後のちょっといい話】〈文学座の中堅男女優が昭和三十八年に大挙脱退した。ショックを受けていた杉村春子に、小津安二郎監督と里見とんが電報をくれた。「オレガツイテル トン ボクモツイテル オヅ」〉
久保田万太郎=「その劇壇」】〈万太郎は、その前月、同棲していた三隅一子の死に遭い、ほとんど途方にくれていた。そして慶応に入院して歯を治療している時に分裂の報を聞いた。万太郎は劇団が大きくなるのを喜ばなかったようだ。分裂の直後にぼくはそのような言葉を聞いている。〉

1月、芸術座の芝居を観た帰りに、泰明小学校前の店で兎の土鈴を買い求める。以後、自身の干支にちなんだ兎の玩具のコレクションが始まる。

3月2日、銀座6丁目の料亭金田中にて「銀座百点」の座談会が催され、その席で万太郎が「雛の夜の雛の料理や金田中」という句を披露。この回のゲストは志賀直哉だった。
万太郎俳句評釈】〈雛の料理が何であったか。私はこういう会食の時の献立を書きとめることをめったにしないのだが、この日の日記に、◎宵節句とのことで、つき出し(二色玉子の菱餅、いかの雲丹和え、菜の花と桃の花を添える)椀(はまぐり、素麺)さしみ(鯛、まぐろ)焼き物(鱒、海老鬼がら焼)壷焼(さざえ)酢の物(鳥貝、わけぎ)二つ目の椀(わかめ、竹の子)五目めし、果物(ポンカン)菓子(桜餅) とくわしく書いている。おそらく、万太郎が「雛の料理」の句を作ったというので、手帖にそっと記しておいたのかと、考えられる。〉

3月、久保田万太郎出席最後の「文壇句会」。この日、瀬戸内晴美が初出席、車谷弘が瀬戸内を「木山捷平門下の逸材です」と紹介。

3月、『いえの藝』(文藝春秋新社)刊行。書誌データ

3月、NHK テレビ「私だけが知っている」放送終了。7年に渡った放送の後半3年間、戸板がレギュラーとして隔週出演、徳川夢声と顔を合わせることとなった。

3月20日、『芝居国・風土記』(青蛙房)刊行。書誌データ

5月6日、久保田万太郎、梅原龍三郎に招かれた席で、赤貝を誤嚥し事故死。その日の夜、俳優座劇場で俳優座の『不安な結婚』の序幕を見ていた時に、劇団の高沢辰郎より「久保田万太郎先生がお亡くなりになったそうです」と耳打ちされ、すぐに外に出た。

5月6日と7日、久保田万太郎の自宅での通夜が続く。

5月8日、久保田万太郎、荼毘に附したあとの正式の通夜が築地本願寺で営まれる。

5月9日、久保田万太郎の葬儀・告別式が挙行。

6月、「夏の文壇句会」開催、久保田万太郎の追悼句会となる。席題は短夜、鰻、冷奴、祭、朝顔、樹蔭。このとき網野菊が出席。水道橋能楽堂でたまたま隣り合わせたことがあり、そのときは挨拶しそこねていた。

8月8日、池田弥三郎が広島県福山市仙酔島の旅館で火事に遭い、九死に一生を得る。戸板康二から借りていた、河盛好蔵の『巴里物語』もその火事で焼いてしまった。後日、戸板に詫びると、戸板は「パリ燃ゆ、だね」と言って笑った。【池田弥三郎『銀座十二章』あとがき】。

8月28日、十返肇、4月から入院していた国立がんセンターにて永眠。

8月30日、午後2時より十返肇の告別式、雑司ヶ谷斎場にて。山本健吉、池島信平、田村泰次郎に続いて、戸板が、次いで吉行淳之介が弔辞を読んだ。このあと、戸板は木山捷平、有馬頼尊とタクシー同乗、赤坂へ。山の茶屋にて「秋の文壇句会」。

9月から10月にかけて、日本演劇視察団の一員に加わり、ソビエト、ポーランド、チェコを訪れ、芝居や関連施設を訪問。メンバーは岸輝子、東山千栄子、村瀬幸子、杉村春子、波乃久里子。長岡輝子の6人の女優と、金子信雄、永井智雄の俳優2名、、倉橋健、戸板、毎日新聞の日下令光というメンバー。視察団がウィーンで解散したあと、パリ、ロンドン、ミラノ、アテネにも足をのばす。

9月10日、ソ連のオルジョニキーゼ号で横浜を出帆。ハバロフスクを皮きりに、モスクワ、レニングラード、キエフ、ワルシャワ、ベルリン、プラハと芝居を見て歩き、プラハでグループは解散。その後、各自自由行動。戸板、杉村、長岡の三人はパリ、ロンドン、ミラノ、ローマ、アテネまで行動をともにして、各地の芝居を見て歩く。

10月のパリ滞在中に、エディット・ピアフが死亡、その直後コクトオが急死する。

11月18日、杉村春子と長岡輝子が帰国。機内で杉村が長岡に「私たちはいつか三島さんと別れるかもしれないわね」と語る。20日、三島の戯曲「喜びの琴」文学座総会で「思想上の理由」で上演中止が決まる。11月25日、三島由紀夫が戌井市郎に電話で文学座脱退の意向を伝える。

12月、『女優の愛と死』(河出書房新社)刊行。書誌データ


1964/S39[48歳〜49歳]

1月10日(金)、NLT結成。岩田豊雄、三島由紀夫が顧問、矢代静一、松浦竹夫が企画委員となる。文学座を脱退した青野平義、奥野匡、荻c子、賀原夏子、北見治一、丹阿弥谷津子、寺崎嘉浩、真咲美岐、南美江、宮内順子、水野晴康が創立同人。

2月28日、山の茶屋にて「春の文壇句会」開催。
【「別冊文藝春秋」第87号】〈(定刻前、木山捷平氏出席)戸板康二「こんばんは。」木山捷平「このごろは寒くてね。年のせいかな、バカに寒い。」戸板「おいくつになられたんですか」木山「還暦ですよ、ことし。」(五所平乃助氏、網野菊氏出席)網野「旅行、おもしろうございましたでしょう。」戸板「はア、おもしろかったですよ。芝居ばかり見てきました。ソビエトという国は明るい国ですね。ハバロフスクなんて所は、『異国の丘』というような歌の印象で、すごく荒涼たる所かと思ったら、明るい町で、盛岡みたいな感じでしたよ。帰ってきて、そういうことをいうと、『洗脳された、洗脳された』といわれるけれども」木山「ロシアの女は愉快でしょう。」〉

5月21日、山の茶屋にて「夏の文壇句会」開催。これに出席。

8月24日、東海道の新幹線に試乗する機会をもった。

8月26日、その日で永久に姿を消す佃の渡しに乗る。翌日、佃大橋の開通。
【「くるまとふね」=女優のいる食卓】〈オリンピックを前に、高速道路ができたり、ビルが建ったり、自分が生まれ育った町の風景が急変した経験を持つ都民の数は多かろう。しかし、そういう変化に先立って古い町の消えてゆくのを惜別するという思いを佃の渡しの場合のように、みんながみんな、率直にそして、露骨に示したかどうかは疑問だ。……渡船を毎日の生活と密着させていた人々の、切実な思いが、この日、船にも渡し場にも、渡し場を持つ隅田川両岸の町にも溢れているのを見て、感動した。僕らの生れ合せた時代ほど、大きな転換期はないだろう。〉
【『続高見順日記』第四巻】〈昭和三十九年八月二十七日/江戸のなごり「佃の渡し」が今日から廃止、かわりに佃大橋。この渡しは戦時中よくこれで月島に渡って、深川の方へ散歩に行ったものだ。死んだ井上立士君と魚河岸のてんぷら屋でてんぷらを食って、そして佃の渡しに散歩の足をのばした。会話は戦争でだんだん小説が窮屈になることに関する暗いものが多かった。〉

11月28日、東京会館で北條秀司全集完成祝賀のパーティー。花柳章太郎が片山春子の扮装で「猩々」を舞った。その40日のち、花柳急逝。

11月30日、山の茶屋にて「新春文壇句会」開催。これに出席。戸板康二、1等となる。《まぎれなき大和の寺の障子かな》

12月20日、戸板原案、東宝映画『花のお江戸の無責任』封切。


1965/S40[49歳〜50歳]

1月、訪中演劇代表団の一人として北京や上海へ。

七草の日に、旅先の北京で、花柳章太郎の訃報を聞く。この月、花柳は新橋演舞場で、久保田万太郎による脚本、『大つごもり』のみねを演じていた。戸板康二が編集長をしていた『日本演劇』最終号に掲載されたのが『大つごもり』の脚本で、花柳は新派の役者の中でもっとも戸板と深い交流があった。

2月1日、『歌舞伎(カラーブックス72)』(保育社)刊行。書誌データ

4月23日、TBS ラジオ「母を語る」(午前9時45分〜10時)に出演。各界の著名人が母親の思い出を語るラジオ番組。

6月18日、渡辺保の処女評論集『歌舞伎に女優を』、牧書店より刊行。
【渡辺保「心の中の師」=『舞台という神話』】〈『歌舞伎に女優を』の中には、「果して新しき花は存在するのか」という戸板康二論がある。私にとっては、あの『わが歌舞伎』で私に決定的な影響を与えた劇評家の存在に対する私の基本的な態度を整理しないかぎり、一人前の劇評家として自立することができないだろうという予感があった。息子が一人前の大人になるために父親を一人の男としてみるようになるのと同じである。そう思って書いたものだけに、戸板先生自身に読まれたくないという気持とどうしても読んで頂きたいという気持と半々であった。ここでもさんざん迷った揚句、私は『歌舞伎に女優を』をもってはじめて先生のお宅に伺った。今でも先生のお宅の御門前に立つとあの日おそるおそる呼鈴を押したことが思出されて、足がすくむ。先生はお留守だったが、数日後に御懇切なお手紙を頂いた。〉

7月、東京新聞が内田百間の連載対談を企画、「最初に戸板康二君に会いたい」との百間の指名で連載第一回目に対談が実現。「スヰート」以来、20年ぶりの対面となった。対談はステーション・ホテル、食事のメニュウは百間自身がお気に入りを選ぶ。「東京新聞」に9月17日から23日まで7回連載された。初出タイトルは「百鬼園新涼談義」。
『最後のちょっといい話』】〈内田百間は、昭和十四年から数年間、私が編集していた明治製菓の「スヰート」という PR 誌のために、毎号寄稿してくれた。そういう雑誌にふさわしい主題の四枚か五枚のエッセイである。それを、電話で出来たといわれると、日本郵船ビルの一室に、受け取りに、いつも行っていた。長い間、百間と会う機会がないまま、戦後になり、たまたま東京新聞が私と対談する機会を作ったので、久しぶりにステーションビルで会食した。その時、百間はいきなり、こう言った。「昔貴君が原稿を取りに来た時、私の前でその原稿を開いて読みました。ああいうことはするものではありません。その間の、私の身にもなって下さい」〉
【平岩八郎「百鬼園大人の生と死」】〈いつか東京新聞で戸板康二氏と対談してもらった時も、速記に目を通されるのに二ヶ月あまりもかかるほどであった。百間さんの生活に埒のあかぬところのあったことはいうまでもないが、これほど文章に推敲に推敲を重ね、鎮骨彫心される作家も他に例を知らない。〉

7月29日、江戸川乱歩没。翌日、谷崎潤一郎没。「偶然とはいえ、私にはいろいろな意味で共通項の数えられる二人の巨匠を続けて失ったという感慨があった」。
【武田百合子『富士日記』】〈七月二十九日(木)晴れ/……新聞をひろげたら、江戸川乱歩の死がのっていた。女学生のころを、ずーっと通して、私の一番愛読した本。古本屋で探しては、試験中のことも忘れはてて読み耽った。黒地に金粉をなすりつけたような表紙の××××だらけの本。東京の江戸川乱歩邸?(きっと東京にあるにちがいない)の方に向って遥拝。……夕飯の支度をしていると、トランジスタラジオのジャズの合間に、大和の警官射殺犯人が車を奪って逃走、東京の渋谷の鉄砲店に逃げ込み、店にいた人を楯にして警官と射ち合いの最中で、見物人が四人負傷し、山の手線がとまっている、としゃべっている。森田さんの車が、犯人の逃走した道順をたどって渋谷にさしかかる時刻である。「ラジオで『ビルから見る東京の夕方の空は紫色で美しい』といっているよ」と、夕焼を見乍ら、花子小声で言う。東京は、はるかかなたの、ふしぎに美しいもののように、なつかしいもののように、連続射殺事件のニュースを聞きながら思う。〉
【小林信彦「黒澤映画の大きな影響」=『人生は五十一から』】〈黒澤明が最後のモノクロ作品「赤ひげ」を完成したのは1965年(昭和40年)、55歳の時である。この年の夏には谷崎潤一郎が亡くなり、三島由紀夫は〈谷崎王朝の終り〉と書いた。高度成長の仕掛人、池田勇人が没し、江戸川乱歩を含めて何人かの作家が亡くなった。身体の不自由な古今亭志ん生はほとんど高座に現れなくなっていた。この辺りで一つの時代、文化が終った、と、ぼくは考えている。〉

8月、『歌舞伎』(NHK ブックス)刊行。書誌データ

この年の秋より数年間、慶應の文学部美学科の講義をしに毎週一回三田に通う。演劇史と演劇概論を交互に講義。

9月20日、山本嘉次郎『カウドウヤ水路』(筑摩書房)の出版記念会に出席。森岩雄、徳川夢声、高峰秀子という、『カウドウヤ水路』の中の人物が発起して催した会だった。

10月15日、 歌舞伎がパリのオデオン座に出演しているのを見る。この日は初日でAプロの上演、『車引』『俊寛』『娘道成寺』。オーケストラ・ストールからうと二段上のバルコンのうしろに座って見た。後日のBプロは『忠臣蔵』大序三・四段目と『鏡獅子』。その折に、サンジェルマンデプレを梅幸・九朗右衛門兄弟と散歩。

パリのあとロンドンへ。チャリングクロス大通りのフェニックスで『イワーノフ』を見た。

10月、『歌舞伎ダイジェスト』(暮しの手帖社)刊。書誌データ

11月7日、浅草神社にて久保田万太郎句碑(竹馬やいろはにほへとちりぢりに)の除幕式。翌年執筆が始まった『久保田万太郎』は、この除幕式の光景から筆をおこしている。


1966/S41[50歳〜51歳]

早川書房が演劇雑誌「悲劇喜劇」を1月号より復刊。監修者に岩田豊雄(獅子文六)を置き、編集同人は社主の早川清、尾崎宏次、戸板康二が連なる。84年3月まで同人をつとめることになる。

「文学界」2月号より翌年4月号まで計15回、『久保田万太郎』を連載。「悲劇喜劇」編集プランの席で、岩田豊雄から「久保田万太郎を書く以上、批判も書かねば」と言われる。

4月12日(水)、映画『憂国』、アートシアター系の新宿文化、日劇文化で封切。ルイス・ブニュエル『小間使の日記』が併映。

5月、小宮豊隆没。杉並清水町の家へ弔問へ行き、小泉信三、円地文子とともに密葬の棺を見送る。小泉信三の車に円地文子とともに同乗、小泉信三は助手席からずっと後ろを向いて、小宮豊隆が初代吉右衛門の家に電話をかけては会食に呼び出した話をする。円地文子と戸板康二は新宿3丁目で車を降りて、一緒に新宿文化劇場で映画『憂国』を見て別れる。数日後、小泉信三急逝。

「小説現代」6月号から「酒中日記」に戸板康二登場。「酒中日記」は、「小説現代」の編集者大村彦次郎が、戸板の小説『半ドア』(初出:「小説現代」昭和38年9月号)からヒントを得た企画だった。

6月4日、二ヵ月前に舞台を引退して四国の巡礼の旅に出かけた八代目市川團蔵、瀬戸内海に投身自殺。東横ホールにて、三代目延若の『盛綱陣屋』を見たあと訃報に接する。後日、小豆島に取材旅行に出かけ、実録小説『團蔵入水』に結実。

6月30日、ビートルズの日本公演を武道館へ聞きにゆく。休憩時間に芥川比呂志が、「まわりが全部少女なので、心細くて」とクスクス笑った。遠藤周作が週刊誌のルポに、二人に会ったと記したあと「三田の先輩は、みんな物好きですなア」と書いた。会場には三島由紀夫も来ていた。

6月、『女優のいる食卓』(三月書房)刊行。書誌データ

9月、サルトル来日。三田の三井倶楽部でのレセプションで対面し、その翌日、歌舞伎座に案内し、勘弥と梅幸の演じていた『かさね』の通し(宇野信夫脚色)を見る。白井浩司も同席。楽屋で梅幸が息子に頼まれたとサルトルの訳本を差し出し署名を頼み、梅幸は自分のブロマイドに署名。

9月27日、「新演劇人クラブ・マールイ」発足。金子信雄、戸板康二に加えて、穴沢喜美男、伊馬春部、大木靖、観世栄夫、天野二郎、尾上九郎右衛門、丹阿弥谷津子が同人として名を連ねる。

9月30日、銀座のはち巻岡田にて遠藤為春と対談。テーマは「明治・大正の芝居」、11月刊行の『明治史劇集』の月報に一部掲載。のち、芸能学会誌「芸能」昭和45年3月号と4月号に全文掲載。

11月1日、国立劇場会場記念式典。国立劇場初開場。廊下にて、戸板に「鴈治郎の時平がいいですね」と、三島由紀夫わざわざ言いに来る。

11月、『明治文学全集第85巻 明治史劇集』(筑摩書房)刊行。書誌データ


1967/S42[51歳〜52歳]

1月、マールイにより、『女優愛と死』が霜川遠志の脚色、大木靖の演出にて紀伊国屋ホールで上演される。須磨子を演じた丹阿弥谷津子はその演技で芸術祭奨励賞を受賞。

2月14日、三宅周太郎歿。前年11月中旬に京都の宿からかけた電話が最後となった。病気のことは一言もいわず、「国立劇場の菅原はどうですか」と熱っぽく戸板に尋ねた。

7月5日、『歌舞伎人物入門 劇中に見る人物像』(池田書店)刊行。書誌データ

夏、山口瞳が、明神下の「神田川本店」で、古今亭志ん生の大津絵を聴く会を開催。江國滋と矢野誠一が世話人という格好で連なった。会費5000円で20人ほどが集まった。戸板もそのひとり。そのとき志ん生は大津絵「冬の夜に」を唄い、落語『羽衣』を披露。

9月、『舞台歳時記』(東京美術)刊行。書誌データ

11月25日、『久保田万太郎』(文藝春秋)刊行。書誌データ


1968/S43[52歳〜53歳]

1月9日、芸術座の『腕くらべ』を奥野信太郎と観劇。

1月15日、奥野信太郎没。「芸能」誌上の奥野信太郎との連載対談「見たもの聞いたもの」で合評しないうちに世を去る。

1月30日、『酒の立見席』(サンアド)刊行。書誌データ

2月10日、『日本の伝統第5巻 歌舞伎』(淡交社)刊行。書誌データ

2月末、淡路島を訪れる。東京で十数年ぶりの大雪を経験した直後の旅だった。

3月25日、新宿〈秋田〉で開催の「十返会」に出席。「十返会」とは十返肇を偲ぶために毎年十返の誕生日に開催されていたもの。この年は、丹羽文雄、伊藤整、藤本眞澄、巌谷大四、船山馨、青山光二、源氏鶏太、藤原審爾、野口冨士男ほか各社編集者らが出席。この頃、講談社より『十返肇著作集』の刊行が決まり、野口冨士男が編集の労をとることになる。

5月15日(水)、東京12チャンネル「人に歴史あり」第1回放送。「池島信平・雑誌文化の裏方」と題して池島信平を特集、ゲストの扇谷正造、田辺茂一、故坂口安吾夫人の坂口三千代、故高見順夫人の高見秋子に加え、芥川賞・直木賞の受賞作家約50人がスタジオに集結し、戸板もこれに参加。司会の八木治郎のマイクに、池島には編集者、社長、歴史学者の3つの顔がある、と語っている。

5月25日(土)NHK 教育テレビの「歌舞伎(その虚構と魅力)」(午後8時から9時)も三島由紀夫と杉山誠が出演、戸板が司会を勤める。

6月5日から14日まで、新演劇人クラブ・マールイ第4回公演として、戸板康二原作・霜川遠志脚色『女優愛と死』が国立小劇場で再演される。

6月12日放送の東京12チャンネル「人に歴史あり」は尾上梅幸特集。串田孫一とともにゲストとしてこれに出演。

10月30日、「ベルくらぶ」色紙に、幸田文、林謙一とともに3人で署名。

12月8日、銀座レンガ屋にて、鷲尾洋三『忘れ得ぬ人』出版記念会。出席者約40名。司会は遠藤周作。石坂洋次郎、山本健吉、戸板がスピーチ。井伏鱒二、永井龍男、野口冨士男らが出席。


1969/S44[53歳〜54歳]

1月18日より31日まで、三島由紀夫「わが友ヒットラー」劇団浪漫劇場第一回公演で初演(紀伊国屋ホール)。上演パンフレット掲載の「演劇放談立上げ公演に因んで」と題された座談会に出席。三島は劇団側のホストとして大変気を使っている様子だった。

1月29日から2月7日まで、新演劇人クラブ《マールイ》第5回公演として、戸板康二作・演出『マリー・アントワネット ―フランス革命大悲劇―』上演(於:朝日生命ホール)。

4月、「銀座百点」の句会、「歌行燈」の桑名にて催される。毎日新聞の狩野近雄、安藤鶴夫、車谷弘の四人で会う。船津屋に泊った翌朝、朝食に湯豆腐を食べつつ、安藤鶴夫とゆっくり話す。これが、安藤鶴夫との最後となる。

5月6日、久保田万太郎七回忌。日本橋三越にて、三田文学ライブラリー主催の久保田万太郎展が開催された(5月11日まで)。翌7日、三越劇場にて「久保田万太郎を偲ぶ会」開催。これにちなんで、久保田万太郎がかつて住んでいた場所を歩いた記事を執筆、「三田評論」7月号に「久保田万太郎先生の跡」として掲載。のち、『五月のリサイタル』に「久保田万太郎遺跡」として収録。
【大江良太郎『家』】〈展覧会の引伸し写真で、姿の変った旧居を見、私もなつかしくなって、梅雨入りの日曜、晴れ間の午後に、ひとり田端駅で下車した。左手売店うしろの狭い石段道を日暮里のほうへ向って登り、ひと廻りすると、道はまた線路に添う。国鉄東台アパート、田端公園アパート、光電舎田端倉庫と、むかし広い庭を持つ閑静な住宅地だった筑波台も、今では、時の流れの変貌をしている。開成学園第二運動場まで歩をはこべば、行き過ぎてしまう。私は、引返して、二ツ、三ツ、田端駅構内を眼下に見下ろす横町を左に入り、捜しまわった。実は、光電舎田端倉庫に目星をつけ、その周辺を見まわした。どうも、私の記憶とピッタリしない。道灌山学園教育研究所と亀田製作所との間の道を曲がったら、石井柏亭先生の石門跡を思わせるところがあった。私は、立ち止まって、ノートを出した。と、少し奥まった住宅の前で、垣根に水を打っていた会社勤めらしい人に声をかけられた。「何処か、お探しですか?」「はァ、随分古い話ですが、此処に石井柏亭先生がお住みだったということを、お聞きでは……」「聞いて居ります。大きな石の門があったとか……」「そうです。そして、その隣りが久保田万太郎先生の……」「そうですってね。植木屋さんから、その話も聞きました。」これで私は、裏づけされたような気になった。道灌山学園の宿舎のような家が、久保田先生の旧居跡と、私には、判断されてならなかった。となると、光電舎田端倉庫とは、横丁一ツ違うことになる。勿論、角屋敷だが、現在の町名、西日暮里四の十六……。このことについては、戸板君とも会って、私見を述べながら、いろいろと語った。同君もまだ、筑波台の家を知らなかったのだから……。〉

5月13日、『百人の舞台俳優』(淡交社、昭和44)刊行。書誌データ

夏、大村彦次郎、「小説現代」の編集長に就任。

7月26日に公開の、日米合作映画『緯度0大作戦』の試写を見る。

8月5日日曜日、東横劇場にて文学座公演『欲望という名の電車』観劇。

9月9日、安藤鶴夫、急逝。

安藤鶴夫の死の直後に「小説現代」より安藤鶴夫伝の執筆を依頼されるも辞退。

10月22日、岩田豊雄(獅子文六)の文化勲章受賞の朗報の翌日、赤坂の「津つ井」の別館にて、岩田豊雄喜寿自祝の会を催し、二十数人が招かれ、これに出席。

11月、『歌舞伎十八番』(中央公論社)刊行。書誌データ

11月23日、福岡の RKB 毎日制作のドラマ『結婚式』が放映。脚本田中澄江、原作佐多稲子。佐多稲子の夫役で実の娘の結婚式に立ち会う大学教授の役として生まれて初めて俳優として出演。

12月13日、本郷のマールイの稽古場の公演で、岸田国士の『命を弄ぶふたり』を見た直後、打ち上げパーティーの途中で、岩田豊雄(獅子文六)の急逝が伝えられる。享年76歳、前月に文化勲章を受賞したばかりだった。東京新聞から電話がかかり、劇団の事務所で追悼文を2枚書く。やがて、悪寒と発熱がして、翌14日は一日中床にもぐる。戸板康二の54歳の誕生日だった。


1970/S45[54歳〜55歳]

1月25日、『演芸画報・人物誌』(青蛙房)刊行。書誌データ

6月7日、「対談 劇作家の椅子13/三島由紀夫・尾崎宏次」、雑誌「悲劇喜劇」7月号に掲載。
【尾崎宏次「編集同人としての十九年」悲劇喜劇1993年4月号】〈劇作家との対談を二人で分担して連載していたときのことである。順ぐりにやってきて、この次は三島由紀夫との対談をしようというときに、戸板君はつよく辞退した。私は喜んでやるものとばかり思っていた。理由を戸板君は言わなかったので、私が引き受けてやった。「ぼくはもう書くものがなくなった」と三島が発言したのは、この時の対談であった。あの自殺行為に走ったのはそれから半年のちのことである。戸板君はあのころ三島と疎遠になっていたのだろうか。未だにわからない。〉

6月、『歌舞伎』英語版(ウェザーヒル)刊行。書誌データ

8月、『劇場歳時記』(読売新聞社)刊行。書誌データ

9月27日、「やなぎ句会」に初出席。会場は十二社のとんかつ屋の志な川、第21回目の月例句会だった。自宅のある洗足にちなむ「洗亭」という俳号は、このとき初めて用いられた。
【「やなぎ句会」会報より】〈久しぶりのゲストは戸板康二氏。その号を洗亭。十二社は夏祭りの夜だった。この日は待ちに待った洗亭の駄洒落と芸界ゴシップを聞く会。連絡の手違いで句会と思っていたのは一人洗亭のみなのだが、やなぎ句会同人はそのペースにまきこまれてウッカリ作句。この心構えの差が点数に表われた。……それにしても洗亭に優勝カップを持ち去られ、さらに「私の句会はやなぎ句会だけ」などいわせておいていいものか。以後、こういうゲストを紹介した幹事は除名処分にすることを動議する。(並木橋・筆)〉

10月、帝国ホテルの方から出てきたガード下で三島由紀夫に遭遇。「これからゴーゴーをおどりにゆくんです」と三島は言った。これが三島との最後になった。

11月25日、毎日芸術賞の演劇部舞踊部門の審査会の予定があり、定刻に新聞社の受付にゆくと、学芸部の記者が興奮した口調で、三島由紀夫が防衛庁で演説をしているので審査会を延期したいと告げる。戸板は、毎日映画社の友人のデスクの前のテレビで事の推移を見る。1時間ほどして審査会が始まったが、皆ショックでソワソワしていた。


1971/S46[55歳〜56歳]

春、新橋駅のガード下で徳川夢声に遭遇。
【『夢声自伝』講談社文庫解説】〈徳川さんと最後に会ったのは、新橋駅のガードの下で、足もとがすこし危なっかしく見えたが、「やア、いかがです」という声は、元気だった。亡くなられる年の春である。その時も、本を一冊抱え、レーンコートを着ていた。徳川さんというと、まずレーンコート姿を思い出す。〉

4月、ナンシーの第八回世界演劇祭のため渡仏。久しぶりに寺山修司と話す機会を持った。このあとパリで金子信雄と合流し、エルバ島へ。

4月、『夜ふけのカルタ』(三月書房)刊行。書誌データ

8月1日、徳川夢声死去。
【「徳川夢声の話術」=あの人この人】〈夢声さんが亡くなった日の夜、NHK テレビで、生前縁のあった人たちが追悼の座談会をして、私が司会を命ぜられた。「トンチ教室」で、「さしつさされつ」という課題に答えるようにという時、むろん、「酒」以外のことをいうのだが、夢声さんが憮然とした顔でこう答えた。「蜂のけんか」。この話で一同がドッと哄笑した。すると、ディレクターが紙が私のところに届いた。読んだら、「すこし、しめやかに」〉

8月26日、やなぎ句会に出席。第62回月例句会、会場はホテルオークラ。

10月、講談社より『内田百聞全集』刊行開始。第1巻の月報に戸板康二「一円八十六銭」掲載。

10月12日から17日まで、日本橋三越劇場にて、新演劇人クラブ・マールイ公演として、戸板作『風車宮―エルバ島のナポレオン』上演。天野二郎演出。主演のナポレオンを金子信雄が演じる。子役としてアキコ・カンダの令息、神田邦彦が出演する。天野二郎(アキコ・カンダの『智恵子抄』の演出者)の紹介による。アキコ・カンダと知り合うきっかけとなり、翌々年アキコ・カンダのために舞踊劇を書きおろす。

12月、『團十郎切腹事件』改訂版(河出書房新社)刊行。書誌データ

12月24日放送の東京12チャンネル「人に歴史あり」は池田弥三郎特集。ゲストとしてこれに出演。


1972/S47[56歳〜57歳]

1月、テアトルエコー『マリリン・モンロー』上演、脚本を執筆。

5月、『マリリン・モンロー 戸板康二戯曲集』(三一書房)刊。書誌データ

7月8日、『現代推理小説大系第10巻』(講談社)刊。書誌データ

8月25日、『折口信夫坐談』(中央公論社)刊。書誌データ

11月13日、『元禄小袖からミニスカートまで』(サンケイ出版局)刊行。書誌データ

12月24日、『いろはかるた随筆』(丸ノ内出版)刊。書誌データ


1973/S48[57歳〜58歳]

1月、『京洛舞台風土記』(駸々堂出版)刊。書誌データ

5月、マールイ公演にて、宇野信夫作『ひと夜』を金子信雄と共同演出。
【「宇野信夫の巷談」=あの人この人】〈宇野さんの「ひと夜」を本郷赤門近くの稽古場での試演会に上演した時、私が演出することになった。金子信雄主演の義道、おとよという牛屋で働いていた前歴のある色っぽい女には NHK 放送劇団の里見京子さんに出てもらった。宇野さんが最初の顔寄せのあとで、自身本読みをしたが、じつに巧みであった。出演者たちは、あんな風にしゃべられるかしらと、溜め息をついていたくらいだ。私はこの芝居で義道が信者に据えるほうろく灸と同じものがあると聞いて、谷中の寺に金子君と行ったり、その足で吉原大門の前の中江という馬肉屋に食べに行って、おとよに似た職場の女中の姿を観察したりした。宇野さんの芝居に対しては、そんな「勉強」がしてみたくなったのである。これも、私には新鮮な体験だった。〉

夏、文化代表団として、中国に行く。土岐善麿が団長、北京、上海、杭州を歩く。瀬戸内晴美も一員に。このとき、文化大革命のあと、四人組が飛ぶ鳥をおとす勢いを誇った時代だった。

夏、講談社の大村彦次郎、「小説現代」から「群像」の編集長へ異動。大村が異動の挨拶をした折、戸板は「中間小説誌から文芸誌に移るのは、西独から東独へ移るようなもんですよ」と言う。
【大村彦次郎『文壇うたかた物語』】〈「群像」へ移るとすぐに、オイル・ショックに見舞われた。用紙が不足して、雑誌の減頁がおこなわれる、という噂が伝わってきた。町ではガソリン・スタンドが閉鎖され、トイレット・ペーパーを並んで買う主婦の行列風景が、あちこちに見られるようになってきた。ひとつの時代が、目に見えるようなかたちで、確実に終わったような気がした。〉

秋、水戸で偕楽園を見物、車で鹿島神宮、電波研究所をまわり、潮来の宿に泊まり、翌日は水郷を船で周遊、香取神宮に参拝し、帰京。

8月、アキコ・カンダの第7回リサイタルの台本執筆の依頼を引き受ける。

10月1日、慶應義塾国文学研究会『三田の折口信夫』刊。戸板は「三田の芝居合評会」寄稿。昭和22年に池田弥三郎と共同執筆した記念劇『九十年』の台本も収録。

10月19日、アキコ・カンダのリサイタルの台本の題材をマリーアントワネットに決定。演出も戸板が引き受けることが決定。

10月5日、『尾上菊五郎』(毎日新聞社)刊。書誌データ

11月、新橋第一ホテルにて、「戸板康二著作(喜寿)七十七冊を祝う会」開催。

12月、マールイ公演『肥った女』作。演出は大木靖。
【殿山泰司『JAMJAM 日記』】〈試写のあと都営6号線で千石まで行き三百人劇場で劇団マールイの公演を見る。腹ペコやがな。近所にタベモノ屋もない。やむなく地下の売店でコーヒーや。久保田万太郎・作「十三夜」では昔の東京弁にオレはすぎし遠い日を思い、戸板康二・作「肥った女」にはヒクヒクと笑った。〉

12月9日、『カラー歌舞伎の魅力』(淡交社)刊。書誌データ


1974/S49[58歳〜59歳]

2月1日、アキコ・カンダ第7回リサイタル、第1回スタッフ打ち合わせ。

4月14日、大江良太郎、急逝。その死の少し前に、戸板と大江は、郷土芸能として有名な西音馬内の盆踊りを見に行ったばかりで、そのときも終始芝居の話をし続けていた。

4月28日、アキコ・カンダ第7回リサイタル、『コンシェルジュリ・マリー・アントワネットの回想』の台本の第一稿が完成。

4月29日、「やなぎ句会」第62回月例句会に出席。会場は代々木上原の尊鬼(神吉拓郎)宅にて。なお、「やなぎ句会」は6月の第64回月例句会から「東京やなぎ句会」に改称。

5月に京都に行く。日曜日、観世会館の例会で『邯鄲』があると知り、見物に出かける。

5月から6月にかけて、アキコ・カンダ第7回リサイタルの選曲作業。音楽監督の湯浅康を交えて3人で、湯浅の推薦する150曲からしぼる作業。

7月29日、アキコ・カンダ第7回リサイタルのスチールを篠山紀信が撮影。戸板も立ち会う。

8月から9月にかけて、アキコ・カンダ、一日おきに稽古をする。9月16日にほぼ完成。戸板康二の決定稿も完成し、10月28日の本番に向けて、稽古を続ける。

アキコ・カンダ第7回リサイタル、『コンシェルジュリ・マリー・アントワネットの回想』の台本・演出。10月28日・29日に芸術座、11月19日・29日にヤクルトホールにて上演。

11月、フォービアン・バワーズが来日、三ヶ月滞在する。NHK の朝のテレビで通訳なしで(日本語で)対談する。

12月25日、『役者の伝説』(駸々堂出版)刊。書誌データ


1975/S50[59歳〜60歳]

2月2日、歌舞伎座の廊下でフォービアン・バワーズに会う。「いつ帰国します」と尋ねると「2月3日に帰ります。節分ですから、ちょうどよろしい。鬼畜米英、鬼は外です」と答えた。そのあと、新橋演舞場の夜の部を観劇、『重の井』が終わって外に出ると、またもやバワーズに遭遇。

3月21日放送の東京12チャンネル「人に歴史あり」は橘家円蔵特集。ゲストとしてこれに出演。

5月2日放送の東京12チャンネル「人に歴史あり」にて、「私は劇場の椅子」と題して戸板康二特集が組まれる。ゲストとして尾上梅幸、池田弥三郎、金子信雄、村松英子が出演する。
【「伊馬春部のカメラ」=あの人この人】〈私は一度、東京12チャンネル(今のテレビ東京)のテレビの「人に歴史あり」に出たことがある。八木治郎というアナウンサーの司会で、私とゆかりのある人が数人出てくれる番組だが、その放映をたまたま出先で知った伊馬さんは、わざわざ或る酒亭にはいり、事情を説明してチャンネルを合せてもらい、見てくれたという。そういう伊馬さんは、私が出ている「私だけが知っている」の放映の時、テレビをカメラにおさめて送ってくれたりもした。すべて、善意に充ちているのだから、文句をいったら申し訳ない話だが、少々わずらわしい気のする時もあった。〉

5月、三越劇場『聖女伝説・一九七四年のジャンヌ・ダルク』の作。演出は水田晴康。

7月、『午後六時十五分』(三月書房)刊。書誌データ

7月4日放送の東京12チャンネル「人に歴史あり」は尾上梅幸特集。ゲストとしてこれに出演。なお尾上梅幸特集は同番組では2回目(前回は昭和43年6月12日放送)。

夏、宝塚大劇場へ『ベルサイユのばら』第一部を見に行く。食事をしたあと、旧温泉と言われる町を歩いて昔をなつかしむ。

8月29日放送の東京12チャンネル「人に歴史あり」は春風亭柳橋特集。ゲストとしてこれに出演。

10月5日、『女形』(駸々堂ユニコンカラー双書)刊。書誌データ

12月、アキコ・カンダのリサイタル(於:渋谷ジャンジャン)、『 "アキコ・カンダが踊る四人の女" クララ』の作・演出。


1976/S51[60歳〜61歳]

2月中旬、TBS の「モーニングジャンボ」(鈴木治彦司会)の「わが心の歌」というコーナーに出演(生放送)。宝塚の話を散々したあとで「すみれの花の咲くころ」を熱唱。「すみれの花の咲くころ」を歌う姿が公共の電波に流れたのは15年前にも1度あり、日本演劇人協会の演劇人祭で東京宝塚劇場の壇上で村上元三と二人で歌ったことがあって、テレビでも中継されたが、あいにく大相撲夏場所の千秋楽とかぶってしまったという。同じ演劇祭に徳川夢声も出演。
【池田弥三郎『わが戦後』】〈彼は先日、TBS の朝の番組で、「すみれの花の咲く頃」を歌った。聴き終わってすぐに、わたしはスタジオか控え室の本人には電話をかけずに、自宅にかけて、夫人を呼び出した。わたしは万感をこめて、バリトンで「ねえ」と言った。夫人も複雑な思いをこめて、アルトで笑った。〉

3月4日、『美少年の死』(広論社)刊。書誌データ

3月26日放送の東京12チャンネル「人に歴史あり」は中村勘三郎特集。ゲストとしてこれに出演。

3月29日、宝塚歌劇雪組公演初日、『ベルサイユのばら』を観劇。

4月の最後の週に京都を訪れた際、大津に一泊する。

5月25日、東京宝塚劇場にて、葦原邦子の「宝塚を歌う」と題された催しを聴く。37年前の同日に葦原邦子が宝塚を引退しているのにちなんでの催し。

8月10日、篠山紀信写真集『DANCER アキコ・カンダの世界』(世界文化社)刊。戸板康二が序文を執筆。アートディレクターは田中一光。

8月の最後の週に、車で下諏訪へ。

10月、第24回菊池寛賞を受賞。功績は「歌舞伎を劇通の専有から解放し、一般大衆の親しめるものとした公正かつ啓蒙的な執筆活動」。

10月から11月、アキコ・カンダのリサイタル、梅原猛作『万葉のおんな―柿本人麻呂外伝』の企画・演出。

10月、『グリーン車の子供』(徳間書店)刊。書誌データ

11月、『歌舞伎事はじめ』(実業之日本社)刊。書誌データ

12月10日、『塗りつぶした顔』(双葉社)刊。書誌データ

12月20日、『いろはかるた』(駸々堂ユニコンカラー双書)刊。書誌データ


1977/S52[61歳〜62歳]

3月2日、カール・ベーム指揮ウィーンフィル来日公演初日を聴く。君が代が演奏される。幕間にロビーで村上元三と顔を合わせ「いい君が代だったね」と興奮。この日のプログラムはベートーヴェンの交響曲第4番と第7番だった。

3月11日から19日まで、マールイ公演(於:三百人劇場)、宇野信夫作『寂しき理髪師』の企画。
【「宇野信夫の巷談」=あの人この人】〈宇野さんはついに、マールイのために「寂しき理髪師」という芝居を書き下ろしてくれた。昭和52年の3月だったが、今まで随筆にしている宇野さんの周辺の奇人の一人である床屋の主人の何とも哀愁のある生き方を描いて、現代の世話狂言としてすぐれた作品である。この時、結婚相談所の所長という役で出てもらったのが殿山泰司さんだが、この役者も、ポスターに頼んだ滝田ゆうさんの下町俯瞰図の意匠も、宇野さんは喜ばれた。〉
【殿山泰司『JAMJAM 日記』】〈きょうマチネーと夜の舞台をやって、劇団〈マールイ〉3月公演千秋楽の幕は下りた。おめでとう!! いろいろと老いぼれ役者のメンドウを見てくれた劇団の若き友よアリガトウ!! 化粧前を片付けながらオレは――映画はヒトリではできない、おおぜいの人間がいる、だけどそこには孤独の影がある。芝居はヒトリでもできる、だけど孤独ではない、そうかア、観客がいるからなんだ――なんて、ひどく当り前のことを考えたりした。どうかしとるな。やっぱり老残役太郎なんだオレは、クククク!! 午後10時からケイコ場で和気アイアイと打ち上げパーティーが始まる。宇野信夫、戸板康二、伊馬春部、諸先生の言葉があった。 また舞台をやりたくなったなア。いけねエいけねエ、だからオレはこの公演のパンフレットに書いたんだ。「芝居の魅力に、舞台の空間に捕獲されるのがオレはコワイのだ」と。〉

3月17日、芸術院賞に内定。
【「東京新聞」昭和52年3月18日付朝刊】〈芸術院賞に決まった劇評家の戸板康二さんは、この日も劇場の客席だった。東京・駒込の小劇場で出演者たちにお祝いの言葉をかけられ恐縮する戸板さん。「芝居の仕事をやっていて、国家からごほうびをいただくなんて、思いもかけないことで――」と感想も戸惑いがちだ。劇評家、劇作家、直木賞受賞の推理作家と多彩な活躍で昨年、日本推理作家協会賞、菊池寛賞の二つの賞を受賞。しかし、慶応の学生時代から40年余りも手がけてきた劇評の仕事に一番愛着が強い。「演劇評論と劇評は別、評論家は見ないでも書けるが、私の場合は別、客席で見ることが仕事ですからね。もちろん、これからも続けますよ」。〉

4月、『孤独な女優』(講談社)刊。書誌データ

4月25日、『五月のリサイタル』(三月書房)刊。書誌データ

5月、三越劇場『モナリザの微笑』の作。演出は観世栄夫。

6月、銀座の酒亭、はせ川閉店。43年の歴史に終止符を打つ。最後の晩の酒宴に戸板も出席。この日の様子が、「銀座百点」の記事に紹介される。

6月6日、皇居にて芸術院賞の授賞式が催される。昭和天皇の「役者は誰を尊敬しているか」との質問に「立場上申し上げられません」と答えて満場の爆笑を誘う。

6月10日、『松風の記憶(新書版)』(徳間書店)刊。書誌データ

6月30日、『鑑賞日本古典文学 浄瑠璃・歌舞伎』(角川書店)刊。書誌データ

8月30日、『夢の町 桑原甲子雄東京写真集』(晶文社)刊。巻末に「写真を見ながら」と題された桑原甲子雄と戸板康二の対談を収録。

「小説現代」9月号の「酒中日記」は戸板康二、二回目の登場。

9月、銀座吉井画廊にて、《文壇俳句展》開催。車谷弘の芸術選奨を祝って催された、文壇俳句の色紙の展示会。戸板の企画だった。

9月30日、『雅楽探偵譚1 團十郎切腹事件』(立風書房)刊。書誌データ

9月30日、名橋「日本橋」保存会より『記念誌 日本橋』発行(非売品)。日本橋に関する史料を昭和50年代という時点で作成しようという計画で数年間あたためられていた企画だった。戸板が編集責任者をつとめ、第五章「演劇・文学の日本橋」の執筆もした。[097]

10月、東西の俳優が『忠臣蔵』を競演。道頓堀の中座の『忠臣蔵』も見に行く。芝居がはねてから、小泉喜美子、三田純市、矢野誠一らと、宗右衛門町へ行って食事をする。

10月、『雅楽探偵譚2 奈落殺人事件』(立風書房)刊。書誌データ

10月から11月、アキコ・カンダのリサイタル、梅原猛作『三井の晩鐘』の演出。

12月15日、『小説江戸歌舞伎秘話』(講談社文庫)刊。書誌データ

12月18日、「東京やなぎ句会」第104回月例句会に出席。会場はホテルニュージャパン。


1978/S53[62歳〜63歳]

1月10日、『歌舞伎十八番』(中公文庫)刊。書誌データ

1月、『ちょっといい話』(文藝春秋)刊。書誌データ

2月25日、『ロビーの対話』(三月書房)刊。書誌データ

2月、『あどけない女優』(新評社)刊。書誌データ

4月、『新東京百景 木版画集』(平凡社)刊。昭和3年から7年にかけて作られた「新東京百景」と題された100枚の版画(恩地孝四郎、諏訪兼紀、川上澄生ら「卓上社」同人の8人による創作版画)を地区別に眺めつつその時代の東京を回想した解説文を寄せる。100枚の版画の掲載順序はその戸板康二の解説に従って配列されている。

夏に、文藝春秋の講演旅行で二本松と米沢へ行く。山口瞳と同行し、見事に掘った雅印を持参しているのを見る。山口瞳、「ひとつ印を彫らせてもらいます」と後日、「洗印」と彫られた印を戸板に届けた(国立の本田定弘の製作)。終生愛用することに。

9月10日、『折口信夫坐談』(中公文庫)刊。書誌データ

10月、芸術祭主催公演『小町』の作・演出(於:国立小劇場)、主演はアキコ・カンダ。

11月、『歌舞伎この百年』(毎日新聞社)刊。書誌データ

11月23日、「東京やなぎ句会」第115回月例句会に、中村伸郎とともにゲストとして出席。会場はホテルニュージャパン。

12月、『むかしの歌』(講談社)刊。書誌データ




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