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Chronology. 私 製 ・ 戸 板 康 二 年 譜( Page 4 of 6 )


* 前年に日本演劇社を退社してフリーの書き手としての活動が始まり、順風満帆に仕事をこなしている昭和26年から、推理小説作家としての活動が始まる前年の昭和32年まで。


(March 2010)


    

1915-19381939-19431944-1950| 1951-1957| 1958-19781979-1993


1951/S26[35歳〜36歳]

1月3日、歌舞伎座、開場式。三津五郎の翁、時蔵の千歳、猿之助の三番叟にて「寿式三番叟」。

1月5日、新装の歌舞伎座にて初興行。昼の部が吉右衛門『二条城の清正』、夜の部に『籠釣瓶』。

1月、「幕間別冊 歌舞伎玉手箱」(和敬書店、昭和26年1月発行)に「伴大五郎」名義で『車引殺人事件』を寄稿。推理作家としてのデビュウ作『車引殺人事件』(「宝石」昭和33年7月号掲載)の原型。

3月に『源氏物語』の上演。はじめて王朝の風俗をした人物の芝居が舞台にのったことに際し、「スクリーン・ステージ」に掲載の劇評の末尾に《次回は『なよたけ』を企画する位の勇気をもつて貰いたい》と添える。発売日の翌日、まず「松竹の蜂野氏」から戸板に電話が入り、続いて社長秘書の平田都が来訪し、ユリイカ版の戯曲集を託す。次の日の朝、大谷竹次郎直々の電話が入り、6月の新橋演舞場で『なよたけ』上演決定の旨を告げられ、配役についての意見を求められた。
【中村哲郎『歌舞伎の近代』(岩波書店、2006年6月)=「37 加藤道夫『なよたけ』】〈この場合、老大谷の反応の敏速さ、決断力や実行力にも目を瞠るが、それよりも私は、ひとりの戸板康二という若い批評家の胸に、歌舞伎による『なよたけ』上演の“夢”が、いち早く宿っていた事実のほうが、遥かに重要な事柄のように思える。/なぜなら、当時、新劇側で戯曲『なよたけ』の存在を知るものは少なくなかったのに対し、これを歌舞伎側で知る者は多くなかった筈で、戸板康二こそは、その数少ない一人だった。/戸板青年の背後には、新劇人や三田系の文学者たちとの交友、折口信夫の門下としての古代研究への関心、加えるに、衆に勝れた歌舞伎への強い愛情があり、そうした全人的な教養やセンスや蓄積が、この歌舞伎での『なよたけ』上演という、きわめて斬新な発想を生んだのだと言える。……〉

4月、「劇評別冊」『六世中村歌右衛門』に三島由紀夫との対談、「歌右衛門の美しさ」が掲載。

6月3日、池田弥三郎とともに青葉号に乗り、那須の殺生石にて折口信夫と合流。午後、那須岳に登り、大丸塚に泊る。

6月10日、『続・歌舞伎への招待』(暮しの手帖社)刊行。書誌データ

7月1日、東京新聞文化部編『藝談』(東和社)刊。岡村夫二装幀。中村吉右衛門、坂東三津五郎、市川猿之助を戸板が担当。

8月5日、池田弥三郎、伊馬春部とともに箱根に滞在の折口信夫を訪ねる。6日、例の会。7日、戸板帰京。この滞在中に、歌舞伎に関する折口信夫の文章をまとめた本の編集を終える。書名は当初『歌舞伎見物左衛門』の予定が、28年3月に『かぶき讃』として出版されることとなった。

12月、『歌舞伎手帖』(創元社)刊行。書誌データ

三島由紀夫、12月25日から朝日新聞社特別通信員の資格で海外旅行に出発(翌年5月に帰国)。その海外旅行を知らずに、同日朝、三島を訪問する。

12月28日、うららかな暮の日、池田弥三郎、二子玉川の自邸に折口信夫を招き、戸板、伊馬、岡野が同席。池田の母と姉夫婦が天ぷらをふるまった。

12月30日、熱海大洞台の志賀直哉宅を訪問、「芸術新潮」誌上の志賀直哉の歌舞伎の思い出話の聞き手として。志賀直哉は七代目團蔵の高く評価していたという。記事は「歌舞伎放談」というタイトルで掲載、没後の全集第七巻に収録される。
【志賀直哉=わが交遊記】〈志賀さんの日記を見ると、伺った日に、「疲労あり、歯ぐき痛み気分悪し、一寸ひるね」とあって、その日の午後に伺ったが、志賀さんは、終始きわめて機嫌よく、話されたと思う。ところで、その次の年の一月一日の日記をたまたま見たら、ちょうど速記が出来たので、新潮社がそれを志賀さんの所に届けて、目を通していただいたことがわかる。しかし、前のほうにまず、夫人から電話があって、「戸板康二原稿を持つて来るといふ」と書かれ、そのすこしあとに、「芝居の原稿を持つて来たのは戸板ではなく、新潮社の知らぬ記者だった。待たしてみる」とある。戸板が来たら、また芝居の話をしようと思っていたのだがという感じが、うぬぼれではないが、何となく行間にうかがわれる。〉

この年、河出書房にて全五巻《演劇講座》の企画・編集。岸田國士の指名で、加藤道夫、中村真一郎、福田恆存、戸板康二の四人が編集委員をつとめた。


1952/S27[36歳〜37歳]

3月25日、『歌舞伎』(岩波写真文庫)、刊行。書誌データ

8月21日、池田弥三郎、伊馬春部とともに軽井沢へ。避暑をしている折口信夫を訪問。翌22日、四人の弟子がついていき上林の塵表閣に泊り、古い弟子と合わせて総勢六人で会食。初めて馬肉を食べる。その夜、ひとりで大浴場に行くと、先客がおり、よく見ると、大岡昇平だった。24日単身帰京。

8月25日、文化財研究所の専任に三隅治雄を折口が推し、池田弥三郎が後見役のように研究員として控えることが本決まりになる。池田弥三郎、折口に「戸板は私が文部省に関係することに不賛成らしい」と言うと、折口は「戸板は単純に役人が嫌いなのだろう」と笑う。

9月5日、『劇場の椅子』(創元社)刊行。書誌データ
★ 劇場の椅子に腰をおろす何時間かが、毎月の予定表の中に繰り入れられる。こうなればこの小さな空間は、自分にとっては、やはり人生の重要部分を占めるものにちがいない。だからそれだけに、この場所にいる自分を大切にしたいと思う。大切にしたいということは、その椅子にいて見る演劇がいいものでありたいという期待でもあり、舞台に演じられる芸術のすぐれた点を謙虚にとり入れることの出来る自分でありたいという念願でもある。(あとがき/昭和二十七年七月)

10月初旬、折口の「飛鳥之夢」が新橋演舞場で東おどりで上演されるにあたって、池田弥三郎が折口に「戸板は花柳界の楽屋に出入りするのをいさぎよしとせず、『飛鳥之夢』の東おどりでの上演に冷淡だ」と言うと、折口「戸板はわれわれとはあそびの気分が遠いから」と言う。

11月15日、『今日の歌舞伎』(創元社)刊行。書誌データ
回想の戦中戦後】〈ぼくは、昭和二十一年に、朝日の劇評を数回書かせてもらった。学芸部で映画記者をしていた井沢淳氏から依頼されたのである。ただし行数が少なくて、ふけば飛ぶような記事であった。その後、昭和二十四年から、一時中断したが、ずっと東京新聞に、歌舞伎、新派をはじめとする大劇場の劇評を書いてきた。前身の都新聞以来、伊原青々園、岡鬼太郎そのあとを安藤鶴夫が書いていた欄を担当しているわけだから、伝統ある場所での仕事だ。戦後間もないころ日刊紙や週刊紙に書いた劇評は、東京創元社から昭和二十七年に出してもらった「今日の歌舞伎」に収めてある。いまよみ返すと、りっぱな役者が揃っているのに、今更のようにおどろく。当時、幕内の古老に、川尻清潭、遠藤為春という二人がいて、ぼくたちに、明治の九代目團十郎や五代目菊五郎の芸について、しきりに話す。羨ましいが、「はアそうですか」といって、耳を傾けるほかない。この二人の古老を、安藤鶴夫が「団菊じじい」とひそかに呼んだが、そろそろ、こっちが「菊吉じじい」になってしまった。〉

11月21日、折口信夫、池田弥三郎、伊馬春部、戸板の3人に、東おどりにつき五万円わたす。池田、三分の一に分ける。池田弥三郎、新橋南葩堂主人が荷風の偏奇館跡の住居を手放すと聞き、折口宅にどうかと、角川源義とともに見に行く。

12月23日、加藤道夫が前夜自殺したという報を受ける。翌24日、通夜で若林の自宅へゆく。25日の葬儀、日本演劇協会代表として、戸板が弔辞をよむ。


1953/S28[37歳〜38歳]

1月1日、出石の折口信夫に年賀に行く。最後の年賀になった。

1月15日、『新劇史の人々』(角川新書)刊行。書誌データ

2月、折口信夫著『かぶき讃』が、創元社より刊行される。戸板と池田弥三郎と伊馬春馬が編集を担当したが、折口はあまり口を出さず主として戸板が編集の骨を折った。「人の本を読むようなつもりで自分の本を読むのは初めての経験で、楽しかった」と折口語る。
【池田弥三郎『かぶき讃』追い書き】〈戦争によって不慮に倒れた中村魁車を悼む文章「街衢の戦死者」が、当時戸板が編集長をしていた「日本演劇」に載ったのが口火となって、先生はその後、わり合いに自由なお気持ちで、芝居関係の原稿をお書きになるようになった。戸板康二という編集者によって、日本の演劇ジャーナリズムは、初めて先生を発見したのである。〉

2月、『劇場の椅子』『今日の歌舞伎』に対して、第3回芸術選奨文部大臣賞文学評論部門受賞。

3月25日、新橋演舞場にて芸術選奨文部大臣賞受賞記念のパーティー開催。折口信夫より祝電届く(「オイハヒマヲシアグ ケフノクワイシウミナサマニオレイデ ンタツネコフ」ヲリクチ)。

翌26日、非常に盛況だったと池田弥三郎が折口信夫に報告。折口は「戦後の歌舞伎復興の助力者としての功績は、十分認めてやるべきだ。歌舞伎には理論があるということを若い人たちに与えたのは戸板だからね。戸板は単に思いつきで言ってるのではない。ただ文章のつじつまが合いすぎるのだ。歌舞妓は戸板は好きだが、新劇は藁人形だね。それほど好きではなさそうだ。愛情が足りない。両立しないものを両方してるのだから、戸板も骨だね」と言う。

4月、『わが歌舞伎』(河出市民文庫)、刊行。書誌データ

4月18日、折口信夫の「とりふねの会」をやめると言い出したことに対し、池田弥三郎、戸板邸来訪。同席の利倉幸一が驚くほどの大激論となる。話が終らず、そのままよその飲み屋へ。結局、池田の「年をとった先生を寂がらせるはないではないか」との言葉にしたがうことに。

4月27日、『かぶき讃』の編集をねぎらうという名目で、折口信夫、戸板、池田弥三郎、伊馬春部、岡野をともなって、川奈ホテルへ行く。川奈ホテルは進駐軍に撤収されていて、前年大倉喜七郎の手に戻っていた。ロビーで皆めずらしがってテレビを見た。

6月13日、角川の雑誌『俳句』の八月号に載せるため、麹町の福田家にて、折口信夫と久保田万太郎の座談会が催され、戸板が司会を引き受ける。「ほろびゆくものに」というタイトルで、折口信夫の最後の座談会になった。のち『折口信夫対話2』(角川選書)に収録。

7月2日、池田弥三郎、伊馬春部らとともに、箱根行きを間近に控えた折口信夫と会食。これが出石での会食の最後になった。

7月25日、「三島由紀夫作品集」(全6巻)、新潮社より刊行開始。昭和29年4月完結。『あの人この人』所収「三島由紀夫の哄笑」によると、戸板が初めて立食パーティを経験したのがこの作品集刊行の折とある(要確認)。東京會舘にて《吉田健一氏が片手でウィスキーのグラスをじつに器用に二本指で持っているのを見て、ロンドンに留学した人はちがうなあと思った》とある。

7月25日、『歌舞伎教室』(ポプラ社)、刊行。書誌データ

8月5日から、折口信夫の箱根行き。例年参加していた戸板は都合がつかず不参加。池田弥三郎の三泊四日の滞在の間、折口が火の消えるように弱りつつあるのを感じたが、かなり自由に話もした。折口、「歌舞妓を学生がやりたがってもちっともふしぎではない。戸板は少し早く世間に出たので、今はとめてる側にいるが、今が学生上がりの頃なら自分もやってるだろう。そういう学生でも、運動の選手からみれば、もう少し生活を持ってるはずだ。戸板が怒るのは、今の学生がしたいことをしているのに対する羨望かな。今の連中は得してると私だって思うくらいだもの。戸板だってしたいのだろう。学生の歌舞妓のいいことは、その生活をのばして行っても、役者にはなれないということ。その程度の楽しみはさしてもいいだろう。」、「戸板は創作は安易だ。でもよくまあそこまで行った。高等学校だと思っていたら、今の戸板はもう大学にはりこんで来た。それはよかったが、まだ歌舞妓を学問化する立場や態度を、自分のものにしきっていない。ひょいと逃げて行くところがある。しかし劇評は誰もそれを職業化してもいないし、それだけで世の中になってもいない。戸板だけがそれをしている。」。

8月29日、容態の悪化した折口信夫が帰京、池田弥三郎と加藤守男が病院で待ち、診察を受ける。結果は絶望的だった。池田弥三郎、大井駅前に戸板を呼び出し、中華料理店で伊馬春部と3人で話す。

8月30日、出石の折口信夫を見舞う。半睡半醒の折口は、戸板に「新聞の批評が……」とか「いい芝居ありますか」というようなことを言った。折口は翌日、慶応病院に入院。

9月3日、折口信夫没。戸板康二、三日間にわたった葬儀の一切をまかされ、取り仕切った。

初七日の日に、折口信夫の書庫に入ると、小道具のカンザシが大切にしまってあるのを見つける。十五代目羽左衛門が『扇屋熊谷』の小萩から敦盛に引抜くときにキッカケで抜いたカンザシで、この役に限って客席にほうる。偶然、客席の折口の膝の上に落ちたもので、大切に保管していたらしい。

11月14日、歌舞伎座にて、吉右衛門の『盛綱陣屋』の映画の撮影が行われる。 小宮豊隆から手伝ってくれと頼まれ、戸板が台本を執筆した。撮影終了後、小宮に「波野の部屋へ行こう」と言われ、楽屋に部屋着のまま疲れ果てて仰向けに寝ている吉右衛門を目撃する。

12月5日、歌舞伎座にて三島由紀夫の戯曲『地獄変』、吉右衛門劇団により初演(久保田万太郎演出)。三島は『地獄変』を書き上げた時、戸板の自宅を訪れ、書斎で朗々と本読みをする。初日、三島は川端康成と並んで観劇。

12月15日、『舞台の誘惑』(河出新書)刊行。書誌データ

12月25日、『芝居名所一幕見 舞台の上の東京』(白水社)刊行。書誌データ
【「舞台の上の名所」=ロビーの対話】〈産経新聞の東京版に、依嘱されて「芝居名所一幕見」という連載記事を書いたことがある。東京中を社の車で走りまわり、歌舞伎や新派の舞台に出て来る場所に行って写真を撮し、現在のその場所の状況を記事にして、芝居の写真とならべて出した。まだそのころは、戦災の名ごりが残っている反面、オリンピック以前だから、日本橋の真上に高速道路をつくるような暴挙は行われていなかった。もともと大正12年の関東大震災で、下町はすっかり変わったのだが、その震災と空襲を免れた運のいい町には、なつかしい昔の、江戸とはいえないまでも、明治の東京のにおいがあったように思う。これは白水社からまとめて本にしてもらったが、内容見本に、久保田万太郎、河竹繁俊両先生の報条を頂いたのは、望外の喜びだった。〉


1954/S29[38歳〜39歳]

3月4日、岸田国士没。

3月20日、『歌舞伎ダイジェスト』(暮しの手帖社)刊行。書誌データ

3月、『明治文化史 第九巻 音楽演芸編』(洋々社)刊行。
【「小宮豊隆の吉右衛門」=あの人この人】〈漱石文中の人物というのは、ついひと時代前と思ってしまい、私には遠い存在だった小宮さんと思いがけなく、大変親しく話し、一緒に仕事をすることになったのは奇縁であった。それは三宅周太郎さんの時にも書いたが「明治文化史」という本の出版が開国百年記念に計画され、その音楽・演芸編を小宮さんが監修するに当って、歌舞伎について私が書くように指名されたからである。毎月クラブ関東で、会議を開き、すこしずつ出来てゆく原稿の内容を報告したりするわけだが、もう古稀に近い年だったとはいえ、つたつやとした顔色で、温容そのものであった。もともと好男子であった。大江良太郎さんは「小宮さんを見ていると、何となく小山内(薫)さんを思い出すんだ」といっていた。〉

9月、構成を担当した、松竹の教育映画『歌舞伎の話』(監督:小林桂三郎)完成。

9月5日、吉右衛門歿。

昭和29年5月号で休刊していた「三田文学」を10月号より復刊。戦後第3次三田文学である。内村直也、北原武夫、佐藤朔、丸岡明、村野四郎、山本健吉とともに戸板康二も編集委員に加わる。編集担当は山川方夫、田久保英夫、桂芳久の3人、編集発行人は奥野信太郎だった。
【坂上弘「並木通り留守番記」=『三田の文人』】〈その後私も編集会議に連れて行かれるようになった。七人の委員と、山川たちが集って編集内容や運営のことを決める会議だが、出雲橋の長谷川の二階が多かった。欠席者は少なかった。壮年の文学者たちの熱気が細長い座敷にこもっていた。北原武夫と丸岡明は、意見の対立することが多かった。北原の口調はどもっていて文芸時評そのままで、作家としての素質がない、とか、文体がない、と断定的だったし、丸岡明は無茶をいうなという表情で笑っていた。山本健吉は口ぐせのブッキシュという評語で新人にきびしかった。戸板康二は豊富な話に必ずだじゃれが入っていて皆がたのしんだ。内村直也と村野四郎は会社重役という二足のわらじの落着きがあった。佐藤朔は権威をもって質問にこたえていた。〉

10月15日、『演劇の魅力』(河出新書)刊行。書誌データ

11月、三島由紀夫、新歌舞伎『鰯売恋曳網』を「演劇界」に発表。同月、歌舞伎座で初演された。発表前に、三島、戸板に意見を請い、1箇所だけ訂正。「情と見えし旅人は、これは人買い人拐い」の「情とみえし」の箇所。

12月4日、歌舞伎座にて永山武臣より、川尻清潭が東大に入院したと聞く。

12月6日、明治座へ行く前に、川尻清潭を見舞う。ベッドで歌舞伎座の筋書き手にしている川尻清潭は「忠臣蔵はいかがです?」と言い、先代段四郎の平右衛門のことを話した。戸板が川尻清潭より聞き書きした芸談ノート、759番目が最後となった。

12月14日、39歳の誕生日。新橋演舞場のロビーにて三宅周太郎から、川尻清潭の死を聞く。


1955/S30[39歳〜40歳]

1月、「銀座百点」創刊。

2月、『演劇人の横顔』(白水社)刊行。書誌データ

3月10日、奥野信太郎編『三田にひらめく三色旗』(鱒書房)刊。戸板の「演劇に生きる人々」収録。

3月30日、三島由紀夫『花ざかりの森』他六篇(角川文庫)刊。戸板が三島に請われて解説を執筆した。「若書き」を「落書き」と誤植される。三島は戸板への葉書に《あとがきを読んで、感謝を新たにしました。角川のスロモーのおかげで、こんなに引延して御迷惑をおかけしたことを、私からもお詫びいたします。その上誤植で、折角「若書き」と書いて下さったのが、「落書き」となってゐて。却って真相に近く、大笑ひしました。かういう誤植の功もあります》と書いた。また同じ葉書に、少し前に試写会で会ったときのことを《あのデボラ・カーは素敵でした。》と書き添える(「三島由紀夫断簡」)。『情事の終り』のことか?

7月1日、『歌舞伎十八番』(中央公論社)刊行。書誌データ

7月30日、『日本の俳優 歌舞伎役者のすべて』(創元社)刊行。書誌データ
★ ……口絵は、巻頭の写楽以外に、五十枚の写真を収めた。その大部分は、恩師故折口信夫先生の遺品である。先生が亡られてから、書庫に保存されていた大正期の「芝居ゑはがき」を発見し、先生が好まれた歌舞伎の傾向もよく理解できたのだが、その中から本文の説明不十分な箇所を補足する意味で、選んで載せたわけである。(あとがき/昭和三十年六月)

「銀座百点」8月号より、久保田万太郎、池田弥三郎、戸板というメンバーで、「演劇合評会」始まる。10月号より円地文子が加わる。毎月いろいろなゲストを招いて四方山話をするコーナー。

8月13日、内田誠(=大磯町大磯920)没。死因は脳軟化症。

8月26日、「春蘭」第1巻第3号(10月1日発行)の《水中亭追悼号》に掲載の「内田さんのこと」を擱筆。戸板が追悼号の編集の相談にのり、執筆者の人選などをうけおった。

8月27日、三越名人会見物、文楽「かんしゃく」。そのあと、レストランアマンドに集合し、久保田万太郎、古川緑波、伊馬春部らと同席。万太郎、しきりに緑波に、紅葉の「夏小袖」をやらせたいと言う。

9月1日、帝国ホテルにて、初代吉右衛門一周忌。安藤鶴夫と同じテーブルに腰かけた。話が中途で立ち去った安藤鶴夫に、その夜、速達で抗議の手紙を出す。後日、四谷若葉町の安藤邸へ出かけ、安藤鶴夫、「速達というのは正岡容さんがよく出すんだよ」とポツリと言う。その安藤宅で榎本滋民に初対面。

秋に猿之助一座が北京・上海・広州で公演することになり、オブザーバーとして浜村米蔵とともに戸板も同行することが決定。日本演劇協会会長の立場の久保田万太郎の要請によるものだった。了承した数日後に浜村米蔵から電話があり神田の藪で蕎麦を食べる。中国行きに消極的な浜村を説得する。

10月1日、「春蘭」第1巻第3号《水中亭追悼号》刊。秦豊吉「内田水中亭」、小島政二郎「水中亭利用話」、渋沢秀雄「桐一葉」、宮田重雄「水中亭菩薩」、岡田八千代「内田誠さん」、戸板康二「内田さんのこと」。伊藤鴎二「おもひで」、大場白水郎「俳句の上の水中亭」。

10月30日、麹町一番町のクラブ関東で内田誠告別式。追悼会という趣。戸板は中国旅行のため、不参加。

10月30日、二代目猿之助(猿翁)の公演に浜村米蔵らと同行して、中国へ出発。以後、生涯に13回の海外旅行。上海で数日過ごした折に、子供のころ、大正8年から12年まで住んでいた、かつての「日本租界」へ行き、むかし馬車や人力車で通った記憶が鮮明に甦る。

11月15日、『劇場の青春』(河出新書)刊行。書誌データ

この年、演劇学会が大阪で催された折に訪れた京都で、河竹登志夫と肥後橋の京屋という宿に泊る。先代雀右衛門の未亡人が営んでいた宿。
【河竹登志夫「戸板康二さんを悼む」三田文学1993年春号】〈寝るとき、戸板さんが言った。「僕はあした早立ちして、吉野へ行こうとおもう。あなたはゆっくり寝ていらっしゃい。いや、僕は旅に出るとね、寝てるのがもったいなくて、早起きして歩きまわるんで」。翌朝私が九時ごろやっと目をさますと、もう戸板さんはとうに出発して、いなかった。〉


1956/S31[40歳〜41歳]

この年の初頭、創元社の《世界推理小説全集》刊行に際しての宣伝の小冊子の記事として座談会が企画される。江戸川乱歩、花森安治、戸板康二の鼎談だった。このときが少年時代に愛読していた乱歩との初対面。帰りに、乱歩に誘われて、読売新聞社近くのボンヌ−ルという店へ。美少年数人がおり、乱歩は「女の子よりいいでしょう」といった。

3月、『牛島肇遺稿』(牛島雷八発行、私家版)刊行。戸板の序文「牛島肇君」収録。牛島肇は内田誠が戦前開催していた句会「良夜会」の会員。戸板の明治製菓退社後、内田誠は彼を片腕にする。[木+慮]芽亭の号で「春燈」の常連。胸の病のため夭折。

4月10日、『六代目菊五郎』(演劇出版社)刊行。書誌データ
★ ……書き進めているうちに、僕がいかに菊五郎という人を好きだったと、今更のように思わずにはいられなかった。そういう、好きな人のことを書くのは、楽しい。しかし、それだけに、息苦しくもあった。去年の八月利倉さんの来訪があった直後、書きはじめたのが、中国行きで中断し、結局十二月の末までかかってしまった。そしてその第一稿にもう一度手を入れたりしたので、あとがきをやっと書く運びとなったのは、この一月の二十二日だったのである。足かけ六ヵ月のあいだ、毎日必ず菊五郎のことを考える時間があった。こういう経験も僕にははじめてである。一人の芸術家について、二百五十枚以上書いたのも、無論今までにないことであった。(あとがき/昭和三十一年一月)

4月25日、『歌舞伎俳優』(河出新書写真篇)刊行。書誌データ

5月、『明治文化史』の英語版(旺文社)刊行。

5月1日、戸板康二宅で池田弥三郎、加藤守雄と「新文明」6月号に載せる鼎談「今月の話題」を収録(同年3月号より連載開始)。

10月より、藤本真澄の人選で十返肇、筈見恒夫とともに東宝映画砧撮影所の企画顧問となる。この年より46年までの15年間、毎週水曜日、監督やプロデューサーと食後一時間ほどの懇談会に参加。

10月20日、『歌舞伎全書第二巻 戯曲編』(東京創元社)刊行。書誌データ

11月6日、久保田万太郎が中国を訪問することになり羽田をたつので見送りにゆく。夕刻、随行する久保田耕一と目黒の陸橋の上で待ち合わせ、タクシーで湯島へ。

11月25日、『歌舞伎全書第一巻 演劇編』(東京創元社)刊行。書誌データ

11月30日、『素顔の演劇人』(白水社)刊行。書誌データ

12月8日、『演劇・北京―東京』(村山書店)刊行。書誌データ

12月25日、『歌舞伎全書第三巻 俳優編』(東京創元社)刊行。書誌データ

12月27日、第一回銀座百店会忘年句会、銀座八丁目の金兵衛にて開催。翌年の「銀座百点」2月号に句会の記事掲載。永井龍男、久保田万太郎、安藤鶴夫、奥野信太郎、清水一、円地文子、小絲源太郎、車谷弘、池田弥三郎、大江良太郎、秋山安三郎、中村汀女、戸板の14人出席。


1957/S32[41歳〜42歳]

2月20日、早暁、久保田万太郎より「耕一が死にました。逆縁になりました。すぐ来て下さい」と電話がかかり、この時はじめて、万太郎が湯島より移り住んでいた赤坂伝馬町の家を訪れた。

2月、「横の会」に参加。(石原慎太郎、浅利慶太、三島由紀夫、福田恆存、中村真一郎、長岡輝子、黛敏郎、山本健吉、芥川比呂志、武田泰淳、谷川俊太郎)。

3月5日、三島由紀夫著『鹿鳴館』(東京創元社)刊。「ブリタニキュス」文学座初演のこの日、劇場のロビーにて万年筆で見返しに署名をしてもらう。

4月1日、「銀座百点」4月号、演劇合評会のゲストは三島由紀夫。

6月30日、久保田万太郎『浅草風土記』(角川文庫)刊。戸板が書名を考えた。

7月、川島雄三『幕末太陽伝』封切り。試写で観た筈見恒夫が東宝の砧の食堂で、「一刻も早く、これは見なさい」と言うのを聞く。

8月3日、渋谷とん平にて、ひさびさに戸板、伊馬春部、古川緑波の三人で顔を合わせた。戸板は、古い宝塚の白井鉄造の歌「サルタンバンク」「ローズパリ」などをしきりに歌う。

10月、久保田万太郎、文化勲章に内定。

11月15日、戸板製作、東宝映画『女殺し油地獄』公開。

11月27日、安部豊没。

12月14日、『忠臣蔵』(創元社)刊行。書誌データ
【「忠臣蔵の因縁」=ハンカチの鼠】〈その書評のなかで、安藤鶴夫氏が書いたものには「ふと初版発行を奥付でみたら、討入りとおなじ12月14日とある。著者のしゃれっ気であろうが、ひどくそれがほほえましかった」とあって、創元社とぼくの内緒の道楽が見ぬかれていた。しかし、じつは、わざとあとがきにもふれなかったのだが、この12月14日には、もうひとつの意味があったのである。ぼくの誕生日が、この日なのだ。父の話では、討入りの日に生れたので、はじめは良雄とつけようかと思ったが、考えて康の字を選んだのだという。良雄でなくて、よかったと思う。〉




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