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Chronology. 私 製 ・ 戸 板 康 二 年 譜 1915 - 1938( Page 1 of 6 )


* 大正4年の誕生から慶應義塾国文科を卒業し、三田の学生生活を終える昭和13年まで(誕生から23歳まで)。震災を機に九段の暁星小学校へ転校、暁星中学を経て、慶應予科に入学。弱冠19歳の昭和10年、「三田文学」に劇評の執筆を開始することで、文筆生活のスタートをきっています。
* 慶應国文科での師は折口信夫、大学院在籍時に久保田万太郎と出会い、久保田万太郎人脈の一員となりました。
* 山の手の大正ッ子として、芝居好きの父に連れられて幼い頃から歌舞伎に親しんだ戸板康二は大の宝塚ファンでもあり、三田に通うころは、つとめて新劇を見るようになっています。また、慶應予科入学後の5年間、父の転勤で実家が阪神間となり、長期休暇のたびに「帰省」することで「阪神間モダン」をも体験することになりました。
* 慶應予科在学時に阪神間で父の紹介で出会った人物、藤木秀吉は若き戸板康二に膨大な蔵書を解放しています。藤木秀吉、折口信夫、久保田万太郎を受けて学生生活を終え、昭和14年に明治製菓に入社します。
(January 2011)

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1915-1919/T04-T18[0歳〜4歳]

12月14日、父山口三郎(23歳)と母ひさ(21歳)の長男として、東京市芝三田四国町2番17号(現・港区芝3丁目34番地付近)に生まれる。

母ひさは戸板裁縫女学校を創設した戸板関子(明治2年、仙台藩天文学者戸板善内と喜代の間に生まれる。戸板善内は明治2年10月10日没。母喜代は大正7年7月23日没)の娘。最初に生まれた子供を戸板家の養子にする約束になっていたため、7歳のときに改姓して祖母の戸籍に入ることとなる。「山口康夫」が「戸板」に改姓の折に、姓名判断でよくないということで、「康夫」から「康二」に改名。1923年(大正12年)7月9日、「戸板康二」となった。
松井須磨子】〈仙台から出て来た祖母が明治三十五年に、芝公園山内の、今の東京タワーの近くではじめた "お針の学校" がやや規模をひろげて、芝園橋を渡った左側の空き地に建てた木造の学校がぼくの生れた場所でもある。この学校の初期の生徒に、松井須磨子がいた。小学校にぼくが入る頃、松井須磨子はもう死んでいたが、須磨子という女の記憶は、祖母やその周囲にいて子どもの頃のぼくに話しかける女の教員たちのあいだに、まだなまなましく生きていただろうと想像される。〉

下町育ちの父・山口三郎は、明治座や中洲の真砂座など歌舞伎はもとより、自由劇場や文芸協会など当時台頭していた新演劇にも熱心な無類の芝居好きだった。山口三郎の父で戸板の祖父の山口貴雄が農商務省の役人だった頃、一家は日本橋浜町在住。山口三郎は有馬小学校で石田幹之助と同級で、慶應普通部では後に戸板が親炙する久保田万太郎と同級だった。
【石田幹之助「大川端の思い出」】〈私は明治二十八年の春から三十八年の夏まで、幼年時代から小学校の頃、続いて中学一、二年時分まで日本橋蠣殻町の大川の河岸っぷちで過しました。大川の流れが新大橋の稍々下流で中洲の島に突き当り、ここで二つに分れ本流は島の南側を流れて箱崎の外側を廻り永代の方へ行きます。支流の方は浜町側の菖蒲河岸の岸を洗い、男橋・女橋の下をくぐって私の家の前を通り、永久橋から湊橋の方へと流れて行きます。だから大川もずっと裾の方であり、而も支流に臨んだ川べりに住んでいたものの、まあ大川端で育ったと云っていいでしょう。……中洲は静かな処で真ン中に真砂座があり、その近くには芝居茶屋や料亭が散在しているだけで、一頃のように待合で埋っているような一郭ではありませんでした。尤も芝居の北側、菖蒲河岸に面した方には矢場(揚弓場)が十二、三軒軒を並べ、白首が二、三人づつ居て客の袖を引いていました。まあ大体小山内さんの書かれた『大川端』に現れた中洲が凡そその自分の様子を描き出しているでしょう。……真砂座はその頃新派の根城で河合武雄・伊井蓉峰なんかが『乳兄弟』とか『恋の淵』なんていうものを上演して大入繁昌を極めていたようです。然し歌舞伎もやっていたので先代の中車が八百蔵時代にその中心であったようで、河合のおやじの大谷馬十なども中々名優でした。時局物・時事物も上演していたので、材を北清事変に取ったものや八甲田山雪中行軍の惨事など新派の俳優がやったものです。〉

伯父の山口一は、府立一中で辰野隆、谷崎潤一郎と同級だった。戸板は後年、渋谷の飲み屋の「とん平」で辰野隆と親しく交流することとなり、その際、数十年ぶりの旧友再会の現場に立ち会う。
【谷崎潤一郎「いわゆる痴呆の芸術について」】〈辰野や私がまだ東京の府立一中に通っていた時代、明治も三十年台頃は、山の手と下町の風俗の差がはっきりしていて、山の手の家庭では概して歌舞伎芝居や浄瑠璃等の町人芸術を卑しむ風があり、子女に悪影響を及ぼすものとして、そういうものを見たり聞いたりすることを禁じる向きがあったので、辰野のような山の手っ児は、義太夫に限らず、すべての江戸時代の音曲を軽蔑していた。〉

戸板関子の夫は武田芳三郎という沼津の人。ユニテリアン教会の牧師をやめて、妻の女学校の後見人になったときに戸板家に入夫。戸板の両親も洗礼を受けていて、クリスマスが年中行事にあった。25日には礼拝に行った。

三田四国町に生まれ、その次に代々木山谷の家に引越した。戸板の記憶は代々木山谷の家をかすかに覚えている程度。代々木山谷にいたのと同時期に、明治神宮が造営。


1920/T09[4歳〜5歳]

1月、父、勤務先の藤倉電線の上海出張所開設のため、上海に渡る。父が単身で渡ったあとで、家族があとからゆき、一家は、日本租界北四川路マグノリアテレス13号に居を定めた。


1921/T10[5歳〜6歳]

1月、上海の家にて、弟山口健夫が生まれる。


1922/T11[6歳〜7歳]

3月11日、上野公園にて第一次世界大戦終結を記念する「平和博覧会」開幕。ここを訪れたのが、子供の頃の最初の上野の記憶だった。

4月、上海日本人小学校に入学。

5月26日、祖父戸板芳三郎没。


1923/T12[7歳〜8歳]

5月、父三郎と帰国、芝山内の金地院内(現・港区芝公園3丁目)に住み、御成門の愛宕小学校に編入。同級の寺島誠三がのちの七代目梅幸で、当時丑之助という名前で芝居に出演しており、戸板も市村座や新橋演舞場で何度もその舞台を見ていた。

5月、新富座の桟敷にて、生涯最初の芝居見物。『大森彦七』、『熊谷出陣』、『一心太助』を一家で法事の帰りに見物。
【「歌舞伎と私」=『劇評』昭和28年1月号】〈元来私の家は、商家ではなく、家もつねに「山の手」に属する土地にしかいたことはありません。ですから、家庭の雰囲気は、三味線の音などとは無縁のものでした。芝居は子供の時分から見せてもらっていましたが、特定の「連中」でゆくようなこともなかったのです。私の育った頃としては、他に児童劇だのオペラだの、そういうものも随分見ました。その中では、ビアズレーの描いた絵に惹かれて、見に行った「サロメ」という映画に最も刺激されたようです。子供心に「サロメ」と歌舞伎と、どこか共通する点があるのを感じました〉

7月9日、祖母戸板家に養子に入り、山口から戸板に改姓。姓名判断の結果「康夫」から「康二」に改名することになり、戸籍名が「戸板康二」に。

小学校2年のとき、中学生の従兄の伊藤寿一に連れられて、初めて浅草を訪れる。山の手育ちの戸板にとっては別世界だった。電気館で、アメリカの喜劇三本立て、チャップリンやキートンを見た。震災で崩壊することになる凌雲閣、十二階と言われていた煉瓦の塔がそびえていた。

9月1日、関東大震災。祖母の建てた鎌倉の別荘に行っていた臨月の母ひさが圧死してしまう。戸板は二学期の始業式で10時頃家に帰り従兄弟たちと遊んでいて、ピアノの前で「シャボン玉」の歌を歌っていた。間もなく天地もゆらぐ大音響がして大震災に。夜になると下町の焼ける火が東京の空を赤くしたという。 震災で愛宕小学校が焼失、祖母の戸板裁縫女学校のすぐ裏の芝小学校の二部授業に一時期通う。

六つ下の弟に母親がいなくなったので、鎌倉で母が死んだときにも居合わせていた女中、中丸とのが弟の面倒をみる。父が再婚する昭和2年まで戸板家にいたのち、戸板女学校に反物を見せに来る住吉屋という呉服屋の番頭と結婚。中丸とのは会津の人だが歌舞伎をよく知っていて、芝居の台詞をよく口走っていた。


1924/T13[8歳〜9歳]

1月、関西にいた祖父の家に遊びに行き、大阪の中座にて、五代目歌右衛門を初めて観る。『勧進帳』の義経と『実録先代萩』の浅岡だった。

4月、九段にあるカトリック系の暁星小学校3年B組に編入、同級に串田孫一がいた。A組には同じく愛宕小学校より梅幸が編入している。

夏、信州沓掛のグリーンホテルのホールにて、松旭斎天勝の奇術を見る。最前列に座っていた戸板少年が舞台の上に引っ張りだされた。

10月、本郷座を昼夜つづけて観劇。昼が『桐一葉』の通し、夜が『九段目』『勧進帳』。由良之助と富樫を演じた中車の、一種異様な古典的風貌が子供心に目に残った。また、この舞台が羽左衛門を見た初めての舞台だった(『桐一葉』の木村長門守)。小学生の戸板の目に、当時51歳の羽左衛門は青年俳優のように映じた。黒書院の場で、花道を長袴で出て来る姿が印象に濃い。
【「本郷座」=思い出の劇場】〈本郷座は、湯島の切通しから来た大通りと大学赤門前に通じる大通りの交差する三丁目を頂点とした三角形の底辺ともいうべき、斜めになった道に面し、お茶の水のほうからはいった左側にあった。町の区画からいえば変則的に建てられた位置が特殊である。先年モスクワの芸術座に行った時、この劇場のある場所が、本郷座を思い出させた。〉

小学生の頃に乗って通っていた電車が外濠線という都電で、赤坂見附から弁慶橋のかかっている濠に沿って走り、紀尾井町のトンネルをくづって四谷見附に出、それから市ヶ谷見附、新見附、牛込見附を通り、飯田橋が終点だった。この電車の窓から見る水景は格別だった。

この年のクリスマス、有楽町の電気倶楽部のホールでのお伽芝居を見る。「カチカチ山」のウサギに扮していたのが岡田嘉子。たぬきに扮していたのは、後年ムーラン・ルージュの作家になった斉藤豊吉だった。


1925/T14[9歳〜10歳]

1月、市村座で、四年前に袂を分った菊五郎と吉右衛門が顔あわせの興行。観客の熱狂ぶりは興奮の極致で、『一谷』の陣門から組打、中幕が『三社祭』、二番目が『四千両』だった。愛宕小学校以来の旧友の丑之助が遠見の敦盛に扮するのを見る。

3月、家族で帝劇へ。イタリアのカーピ・オペラ来日公演、『椿姫』を観劇。
【「帝国劇場」=思い出の劇場】〈そういう時は、二階席で見ているから、幕間にロビーに出て散歩したり、バルコニーから皇居の濠を眺めたり、外国の劇場に行っているような気分に浸れる。しかし、学生の小づかいで三階席にいて、二階を見おろすと、一応階段があっても、物々しく遮断するモールの網が張ってあったりして、ある時期、何とも階級差別が濃い劇場だった。帝劇は戦争中、しまいに情報局の別室になってしまった。舞台や平土間はそのままで、それをとりまく通路が、事務机をならべて部屋になっていた。部や課の名前を忘れたが、仕事の打ち合せに行ったことがある。〉

暁星小学校の4年から6年まで、妻を失った父三郎と豊多摩郡渋谷町大字渋谷宇居村(現・渋谷区広尾)に住む。

5月、帝劇にて観劇。宗十郎補導の興行、大村嘉代子の『柳橋夜話』、同時に、太郎冠者の喜劇『ドッチャダンネ』上演。廊下で、この芝居と同じ名前のパン菓子が売っていた。

夏、弟が擬似赤痢で慶應病院に入院した際、隣りの病室に弟と同じ年頃の少女が入院。菊五郎の娘の、のちに勘三郎夫人となる久恵だった。少女に付き添っていたばあやが、「演芸画報」を持ち出して「ホラ、お父さんがいる」と指差しているのを目撃。後日、病室を見舞う菊五郎に遭遇。そのとき、菊五郎は弟をあやして、付き添いの者に「ねえ、奥さん、胃の薬はホシ(星製薬)のが、よござんすよ」と言った。

暁星の帰りに三田四国町に寄り、戸板裁縫学校で教えていた女流書家の阿部梅荘に習字を習う。

この年、初めて少女歌劇を見る。「釆女礼讃」(小野晴通作)だった。以後、生涯にわたって宝塚に親しんだ。


1926/T15・S01[10歳〜11歳]

1月、市村座で、十一代目仁左衛門による『道明寺』と『寺子屋』、菊池寛の『入れ札』を見た。松嶋屋の松王丸は、首実検のとき「でかした小太、いやさ源蔵」といったりする奔放な型だった。

4月、家じゅうで上野へ花見に行った帰りに、市村座にて観劇。源之助が女長兵衛に扮した『鈴ヶ森』を見る。権八は河井武雄だった。黙阿弥の『桜餅』が当時の男女蔵、惣太が友右衛門。座席券は銀座のプレイガイドで購入、その月の興行案内が正方形の紙に印刷され、鼓の形で放射状にレイアウトされていた。
【「市村座」=思い出の劇場】〈市村座は、下谷二長町、町名の由来は、猿若町二丁目から来ているのだろう。芝のほうから乗って行った市電を黒門町で降り、東のほうに右折して三町ほど行くと、この劇場があった。御成街道といわれた大通りには、いもりの黒焼の本舗があった。終演後、再び大通りまで出るのだが、今とちがって、そのへん一帯は、すでに漆黒の闇だった。ふり返ると、さっきまでいた劇場のあたりが、夢まぼろしのようにふしぎな明るさを感じさせている。芝居とくるわが、徳川時代に不夜城といわれた感じを、市村座の思い出の中で、よみがえらせることが、ぼくにはできるのだ。そのころの東京には夜空があったわけである。〉

夏休みに神戸にいた祖父の家に行っているとき、伯父に連れられて初めて京都を訪れる。その際、比叡山にも登った。出町柳から麓までケーブルカーで行き、そのあとロープウェイで根本中堂の近くまで行くという経路。


1927/S02[11歳〜12歳]

父の再婚を機に、渋谷から九段へ引越。小学校6年のときから四年間、九段(当時・麹町区富士見町)に住む。当時、かなり広い原っぱと空き地があって、子供たちはそこで凧をあげたり、独楽をまわしたり、隠れん坊をしたりして遊んでいた。
【「九段の季節」=劇場の椅子】〈学校が暁星で、うちも富士見町にあったので、大祭の時はジンタが風に送られて、朝から夕方まで聞えていた。花火が揚って、中から角力取りの人形が、ふうわりふうわりと飛んで、神田の方へ流れて爼橋の辺りに落ちた。どうも、そういう印象が、しかし、僕には、春の大祭りのこととしてのみ残っている。葉桜の頃である。からっと晴れずに、そのくせ花火が揚った時だけ、空が青く見えるというような幻覚があったりするのだ。九段に住んでいた何年かのあいだに、この祭の時にかかるものの中には変転があった。のちにそれがすっかり取り払われて殺風景なパノラマがとって代るまで、小屋掛けの長い歴史の総じまいを、ここでしてみせたかのように、あらゆる種類の見世物が、その五・六年の短期間に、姿を見せ、あわただしく消えて行った。僕はそれを殆ど全部見て歩いたのである。……大正に生れた僕が、子供心にも忘れぬ、震災前の風月のアイスクリームの味が、もう二度とかえって来ないように、この九段の葉桜のかげの掛け小屋のイメージもなつかしいものの一つである。九段の季節。ニコライ堂がいつも遠く見えていた九段には、「煤煙」の主人公でなくても、生涯深い記憶がある。〉

義理の母の叔父にあたるのが、「うらぶる」という筆名を持つ口語歌人、鳴海要吉。その親友だった秋田雨雀にのちに会った際(雲の会編集の「演劇」の連載記事「新劇史の人々」の松井須磨子の取材のときが初対面)、鳴海うらぶるが親類だと話すと、秋田はニコニコした。

両親がクリスチャンで、富士見の教会の日曜学校に通ったが、信者にはならなかった。

7月24日、芥川龍之介自殺。
【「わが読書遍歴」=演劇・北京―東京】〈岩波文庫が出はじめたのが昭和二年で、僕の小学六年の夏である。千葉県の上総湊という町に行っていた。ある日そば屋に使いにやられて待っている時に、店先の新聞を見たら。芥川龍之介自殺の記事が出ていた。その「芥」という字が読めなかったように思うのだが、その芥川を早く読む興味をそれで持ち、いろいろな意味の影響を受けた。岩波文庫と芥川とが、中学から大学まで、いつでも僕の座右にあったが、まじめに社会のことを考えるようになって、反射的に志賀直哉に心惹かれ、芥川とは一時離れた時代もある。……〉

6年B組の担任であった中村玉次郎(俳号:玉城)の指導のもと、学校で俳句をつくる。季語と切れ字について教わりめいめいが俳句のようなものを原稿用紙に書いた。以後、生涯にわたって、俳句とつきあうこととなった。

小学6年のクリスマスに、麻布富士見町の徳川邸のパーティーに招かれる。義親の次男の義龍が暁星の同級にいて、数人の級友を招待した。公爵家の一同が和洋合奏で「越後獅子」を演奏した。


1928/S03[12歳〜13歳]

2月、本郷座にて、荷風の『すみだ川』上演。寿美蔵の長吉、松蔦のお糸。「演芸画報」で台本を読んでから見に行った。

暁星中学に進学。

中学に入って、自分のこづかいでも芝居にゆくようになる。同級生に歌舞伎の好きな友人が何人かいて、休み時間に「このあいだ、歌舞伎座で『め組の喧嘩』を見たが、羽左衛門はいいね」などといった会話を交わす。

中学に入って、能にもゆくようになる。連れていってくれた父親は観世流の先生に謡を習っていて、本を片手に、舞台を六分、文字を四分ぐらいの割合で観ていたという。

夏、逗子の避暑先で、藤浦富太郎一家と知り合い、20数年後に再会、藤浦の晩年、目をかけてもらう。


1929/S04[13歳〜14歳]

1月14日、祖母戸板せき没、59歳だった。戸板少年は暁星の帰りに頻繁に芝の祖母の家を訪れていた。戸板学園の校長である祖母の座敷からは課外授業のお琴の音色がよく聞こえていたという。その音色の傍ら昼寝をしていた戸板に祖母は「何しろこの子は、六段を子守唄にしていたんだから」と言った。

夏休み、両親と塩原のあと、福島県の飯坂という湯治場へ。ここで「少年倶楽部」を買いに一人で外出した折に、同じ暁星の一年生に遭遇。


1930/S05[14歳〜15歳]

中学3年の頃から、見た芝居の劇評を用罫紙に書き、同級で同じように歌舞伎を毎月見ている友人の書いた文章と見せ合ったり、ということをするようになった。

中学3年のときに国語と作文を教わった長谷川誠一が児童文学の研究家でしじゅう秋田雨雀を訪問していて、以後その消息をたびたびハガキで伝え聞くこととなった。

また、中学3年のときにフランス語を習ったのが、佐藤正彰。戦後、久保田万太郎と立ち寄った「はせ川」にて、中島健蔵と一緒だった佐藤正彰に再会する。


1931/S06[15歳〜16歳]

中学4年の夏、葉山の先の芦名という海岸に滞在。この年流行っていたのが「巴里の屋根の下」で、どの家でもそのレコードを流していて、この曲は夏のさかりの海岸の風景の記憶と結びついた。


1932/S07[16歳〜17歳]

暁星中学4年を修了した時、慶應の文科を受験。その次の日の夜、歌舞伎座に行って、十五代目羽左衛門、六代目菊五郎、五代目福助の一座で『加賀鳶』の通しを見た。

慶應義塾大学予科に入学。一年の時の担任は石丸重治という英文学者。英文学を戸川秋骨、中国文学は西川寧、経済学は西脇順三郎、国文学は佐藤信彦、横山重といった先生に教わる。予科在学中に塾長が林毅陸から小泉信三に交代。
新ちょっといい話】〈慶応の予科の時に、英文学史を教わったのが、戸川秋骨さんだった。戸川さんのお嬢さんにエマさんがいること、その名前がエマーソンからとったことを、学生は知っていた。講義が年代を追って進行、次の週はいよいよエマーソンが出てくるという時に、学生が、そのことを質問しようと話し合っていた。その週、戸川さんは順々に話してゆき、やがて、「エマーソンは飛ばします」といった。〉
【「見所で会った人々」=みごとな幕切れ】〈戸川秋骨さんは、喜多六平太をつねに教室で絶賛した。「能へ行きなさい」とはいわなかったが、その講義を聴いたいく人かの学生が、能をみはじめたのを、おぼえている。〉

慶応に入学当初は、飯田橋から省線に乗って東京駅で乗り換えて田町で下車、という経路で三田に通っていた。

歌舞伎研究会に入って、池田大伍、渥美清太郎、松居松翁、岡鬼太郎、三宅周太郎、三宅三郎、小谷青楓、伊坂梅雪、中村芝鶴、片岡我當らの話を聞く機会を持った。当時の略していう「歌舞研」は経済学部の学生が圧倒的に多く、文学部は四期上の加賀山直三と同期の内山精一ぐらい。戸板も本科に行ってからは退会したとのこと。

大学に入ってから、歌舞伎だけでなく、つとめて新劇を見るようにもした。
【「歌舞伎と私」=劇場の青春】〈大学生になってからは、努力して新劇を見るように一方ではしていた。第一、歌舞伎をつづけて三日も見ると、あとは、反動的に、音楽をききにゆくとか、フランス映画を見にゆくとかせずにはいられなかった。何か平衡を求める感覚があって、そうして偏った天秤の別の側に重りをのせると、初めて生活が正常に復したような気がする。こういう心持ちは現在もつづいているのである。〉

予科1年のときのフランス語の演習で、アナトール・フランスの『エピキュールの園』を読む。辰野隆の訳本を買いに、麹町一番町にあった長谷川巳之吉の第一書房を訪れる。

7月、新宿の新歌舞伎座(のちの第一劇場)で青年歌舞伎の興行が始まり、ほとんど毎興行見に行く。

夏、父親が大阪へ転勤。しばらく洗足の祖父の家に寄宿。年3回の休暇のたびに帰省する。おかげで大阪のいい役者のいい芝居を見ることができた。
【「大阪」=旅の衣は】〈ぼくは昭和7年から12年まで、父が大阪にいたので、大学生だったこの5年間、年に3度帰省した。家は阪神間の住吉だったが、そんなわけで大阪にくわしい。宇野浩二が新風土記叢書に書き下ろした「大阪」を手にしながら、油照りの街をさまよい歩いたこともあるし、同じく夏の夜文楽座の帰りに、小西来山のまねをして、四つ橋を4つ渡って涼んだ思い出も、なつかしい。その時、聴いたのは、竹本土佐大夫の「寺子屋」という一日替りのうちの、珍しい演目だった。〉

10月、時事新報が大東京版を作る。東京が15区から35区になり郊外を都に合併したのを記念した各紙東京版のはしり。裏の1ページが全面芸能記事となっていて、渥美清太郎が精力的に編集していた。

10月31日、日本青年館にて山上各会連盟創立記念会。歌舞伎研究会は「寿曽我対面」の脚本朗読をする。川口子太郎の五郎と志野葉太郎の大磯の虎。戸板はで二人の同期生とともに大名のセリフを担当。この朗読に際しては、岡鬼太郎より親しく指導を受けた。

当時「能楽鑑賞の会」ができて能の観客層が広まっていて、戸板も、水道橋、大曲、厩橋、目黒、染井と、いろいろな能舞台に足を運んだ。七代目三津五郎をよく見かけたとのこと。端然と腰をおろし、またたきもせずに凝視していたという。これが松羽目物を得意にしていた役者の姿であった。「船弁慶」がほかの役者と一味違っていた。


1933/S08[17歳〜18歳]

春、明治座で、二代目延若の『すし屋』を見る。「花道までいって、すし桶のことを思い出して、戻ってゆく足どりなんか、権太の足はこういうものかと思わせ、ホクホクしながら見た」。

しばらく祖父の洗足の家に寄宿していたが、やがて芝公園の山内の下宿で一人暮しを始める。下宿のすぐ下に川尻清潭が住んでいて、その徳川時代の役者のような顔をした和服姿を時々見かけた。交流が始まるのは、昭和19年に演劇記者になってからのこと。休みの日には洗足の家へ行き、東京日日新聞、読売、都などの劇評を切り抜いて、スクラップブックをつくった。
新々ちょっといい話】〈慶応の予科にいたころ、父親が大阪に転勤したので、ぼくはひとりで暮すことになった。自分でさがしたアパートが六本木にあって、階下がレコード店である。朝から晩まで、発売されたばかりの「東京音頭」を、大きな音量でかけていて、やかましくて仕方がない。三日ほどいて、そこを逃げ出して、芝公園山内の素人下宿に移った。どうも「東京音頭」という曲は、それ以来、好きになれない。そういう話をしたら、相手から反問された。「東京音頭」がきらいで、よくヤクルトが応援できますね」〉
【野口冨士男『他人の春』】〈満州事変ははじまっていたものの、一般的にいえば戦時という国民意識はきわめて稀薄で、昭和八年ごろの世相――特に東京でのそれには、一種の盆踊りであった「東京音頭」をいたるところの広場で踊り狂って空巣ねらいの標的にされていたという現象ひとつ採ってみても明らかなように、虚無的と言っていいほど空っぽな明るさがひろがっていた時期だったという見方も成り立つ。〉

7月、所属していた歌舞伎研究会の催しで、三田大ホールで松居松翁追悼講演会開催。岡鬼太郎、岡本綺堂を招いた。二人が控え室で静かに語り合っているのを見る。和服の綺堂と洋服の鬼太郎、二人の雰囲気はよく似ていて、まぎれもなく明治の人であった、とのちに回想。その控え室の二人のところへ河合武雄が案内されて入ってきて、河合を見て二人が「やァ」と言ったのを目撃。壇上の河合は、松葉に対して切々となつかしそうに話した。

10月、慶應の歌舞伎研究会の催しで、三田通りの明治製菓の売店の三階の小さな部屋に毎月、いろいろな演劇人を招いてお話を伺っており、そこに三宅周太郎が来た。その月の歌舞伎座で上演された『天下茶屋』の十五代目羽左衛門の伊織を三宅周太郎がほめると、学生が、先年の七代目宗十郎のほうがよかったと反論。三宅周太郎は苦笑しつつ「主観の相違です」と言う。


1934/S09[18歳〜19歳]

1月、東京宝塚劇場開場。演目はグランドレヴュー『花詩集』。当時男役のスタートして人気を二分していた小夜福子と葦原邦子が登場。

2月5日、慶應歌舞伎研究会発行「三田歌舞伎研究」第1号刊。編集兼発行人として川口裕通(東京市京橋区槇町三ノ五)。岡本綺堂、池田大伍、石割松太郎、上沼道之助の論考を掲載。

2月、「ひと」第1号刊行(編集兼発行:池田金太郎、発行所:銀座天金内天釣居、昭和9年2月に第1号)。池田弥三郎による個人誌で「三田国文科生による手習い草紙」と称していた。戸板もたびたび寄稿していた模様。
【対談「リトル・マガジンについて」戸板康二+巌谷大四(「風景」昭和46年2月号)】〈いま思い出したんですけど、銀座の天金が「ひと」という雑誌を、昭和12、13年ごろに創刊して、5、6年出していましたかね。これは天金のお客にただで配っていたんだけど、天金の広告は裏表紙に出ているだけで、あとは当時の店主の弟の池田大伍さんが「元曲論」を書いたり、それから天金に所蔵されている、仮名垣魯文が翻案した「ハムレット」が載ったり、池田弥三郎がこれを編集して、ぼくなんかが末席を汚してね。これなんかリトル・マガジンのある種のタイプだと思う。これはぼくのところに全冊そろっていたけど、池田君のところで焼けて一冊もなくなったというので、向うにあげました。〉

父の友人の藤木秀吉が住吉の隣の御影に住んでいて、招かれて書斎に通され、演劇書が漏れなく揃っているという本棚を目の当たりにする。藤木氏はこの年の秋に東京へ転勤、牛込新小川町に越すことに。
日本の名随筆 芝居 あとがき】〈慶応の学生になって間もなく、父の親しい実業家の家に招かれて行き、その書斎を見て目がまわりそうになった。広い部屋の三隅に天井までの書棚があり、そのほとんどが古今東西の演劇書なのだ。劇場に通いながら、小遣いで少しずつ買い求めた私の本の中に、あるはずのない貴重な明治以来の珍本がずらりと並び、中には初めて存在を知った稀覯書もある。それが縁で、大学を出るまで、家人が不在でも自由に読みに来るようにといわれた。私にとってその人は、学恩の大先輩だと思っている。〉

4月、慶應義塾大学予科3年に進学。仏文科に進学する気になったところを池田弥三郎に「折口信夫という先生がいるのに、その講義を聴かないなんて、もったいないじゃないか」と言われ、国文科進学を決意。一年先輩の池田弥三郎と知り合ったのは、銀座の日動画廊の喫茶室で予科の同級生に紹介されたのがきっかけ。終生の友人となる。

6月、東京劇場にて、六代目菊五郎、『暗闇の丑松』初演。俳優学校生徒の出演が前後にあって、校長自身が『丑松』と『鏡獅子』で渾身の演技。菊五郎の最高はこのときの『鏡獅子』だとのちに記す。

7月15日、慶應歌舞伎研究会発行「三田歌舞伎研究」第2号刊。編集兼発行人として福田二也(東京市麻布区霞町十九)。編集同人のひとりとして戸板の名が掲載。岡鬼太郎、木村荘八、水木京太の論考を収録。

「演芸画報」8月号に、菊五郎論の公募に応募した原稿が選ばれ「歌舞伎を滅す勿れ」というタイトルで掲載。稿料として3円の小為替が届き、創元社から出たばかりの谷崎潤一郎『春琴抄』の漆塗りの表紙の本を神戸のそごうで購入。表紙に赤うるしの板を貼った装幀、普通は黒うるし、赤は試作した珍品だったと後に知った。

秋、藤木秀吉、関西を引き上げて東京へ戻る。牛込新小川町に居を構え、戸板は始終寄せてもらい、留守中も自由に本を読ませてもらう。のち、大森へ移ったの際に蔵書を書斎に並べるのを手伝った。大森が藤木の終の棲家となった。

10月26日、麻布龍土軒にて「三田文学紅茶会」開催。これに出席?
【「三田文学紅茶会記」=『三田文学』昭和9年12月号】〈毎度にぎやかな銀座のまん真ん中明治製菓の楼上に催していた紅茶会を持っていた先と云うのが、名にし負う麻布一連隊前下車レストラン龍土軒なのである。足の不便に、ヘキエキして、参会者は意外に少ないのではないか――? 入口に頑張った幹事たるもの若干の不安を感じていたが、定刻六時になると、井汲清治、三宅三郎両氏を先頭に集るメンメン併せて三十三人、当夜の紅一点は、多少肥り過ぎの嫌いがないでもないが、岡本かの子女史であった。……〉

11月、「ひと」第5号発行。

築地座公演で、初めて田村秋子の舞台を見た。戸板が新劇を見たのは慶応の学生になってからなので、小山内薫のいた築地小劇場時代は見ていなかった。

予科3年のとき、先輩に連れられて、銀座のはせ川にゆき、初めて酒杯を手にする。三十間掘の水明りが窓から店のなかを明るくしていたこの酒亭に、戦後、万太郎と何度も訪れることとなった。

この年から翌年にかけて、岩波書店より2度目の全集である『芥川龍之介全集』全10巻刊行。購読し、毎巻隅から隅まで1行も残らず読んだ。


1935/S10[19歳〜20歳]

1月、「ひと」第6号発行。

1月24日午後6時より、東京駅裏口通りの「八重洲園」にて、新年会を兼ねた「三田文学紅茶会」開催。

この年の初め、和木清三郎が木挽町の豊玉ビルに事務所を構える(京橋区木挽町5の4)。和木は毎日午後に在所。三田文学の編集校正作業をここで行う。三田文学関係者がしばしば来訪し、戸板も訪れた。

2月18日、朝日新聞紙上の永井荷風の文章で、岡鬼太郎の花柳小説がいかにすぐれたものであるかを書いてあるのを見る。古書展でさっそく、『紅筆草紙』『あづま唄』『江戸紫』を入手。荷風のように、これらの作品を正しく鑑賞する経験も実感もない、とあまり没入できず。
【森銑三『読書日記』】〈『東京朝日新聞』に永井荷風氏の「明治大正の花柳小説」といふ随筆出づ。時好の波に乗らで、書きたきことを書くといふ態度好もし。内容は岡鬼太郎氏の作品の推称なり。〉

2月22日、松坂屋前の銀座小松食堂にて、「三田文学紅茶会」開催。

3月、「ひと」第7号発行。

3月2日、岡本綺堂『ランプの下にて 明治劇談』( 岡倉書房)刊。三田通りの丸善で入荷したばかりの一冊を買って帰り、むさぼるように読んで幸福きわまりない時間を過ごす。

3月25日、慶應歌舞伎研究会発行「三田歌舞伎研究」第3号刊。編集兼発行人として福田二也(東京市麻布区霞町十九)。池田大伍、渥美清太郎、鏑木清方の論考を収録。

3月26日、銀座小松食堂3階にて、「三田文学紅茶会」開催。

4月、国文学科に進学。折口信夫門下となる。10年先輩の波多郁太郎が戸板に「折口先生とは、芝居の話ばかりしている」と話す。
【「折口信夫」=わが交遊記】〈本科になった一年生の昭和十年四月六日にはじめてノートが、残っている。読み進んでゆくと、はじめのうちは、先生のいったことを要約して書きとっているらしい形跡がある。それを、先生のいいまわし、そのままとるようにと教えてくれたのは、一年先輩の池田弥三郎君であった。……先生の講義は、日本中の大学の先生を集めて話すのに適した高度の内容で、学生は十分に享受できなかったともいえるが、今思うと、含蓄が一般の講義の数十倍もあり、じつに贅沢な、ゆたかな話ばかりであった。薄いアドレスブックのような革表紙の手帖に、主題をメモして、それを時々見ながら、頭にうかんで来ることを、次から次へと話してゆく。そんな講義だった。……夏になると、先生は扇を開いて、あおぎながら話したが、その扇を開いたまま、胸の前に格好よく持って、身を斜めにしたりした。どうも、それは、先生の好きだった田圃の太夫(四代目沢村源之助)の芸風と関連があるらしいことを、後年知った。〉
【「茶の間で」=折口信夫坐談】〈ぼくは先生の芸能史の講義を、一年しか聞けなかった。学校にいる頃、先輩の波多郁太郎さんのノートを借りてきて筆写したりしている頃は、いつの日にかは、先生の考え方が、論の根拠になっているものまで含めて理解できるときもあろうかというような、青年の客気もどこかにあったのだが、あの広い幅と深い奥行とをもつ、全体系のどの部分が、実感としてつかめているかと今考えれば、まことにおぼつかないのである。〉

4月24日水曜日、折口信夫研究会。午前時間割発表、次いで研究会、歓迎会。会場は三田の明治製菓。同日午後1時より「三田文学十周年記念講演会」が慶應義塾にて開催されている。

折口信夫研究会は、昭和3年以来およそ連続してきた文学史を昨年度で打ち切り、この年は「国文学史通論」。藤村作『国文学史総説』をテキストととした。午後の演習は、1学期は祝詞、2学期は万葉集八。源氏全講会は横笛より。金曜日は芸能史はやすんで、国文学概論。演習は古今集春の歌、枕草子。研究会では謡曲。このうち、概論と古今集は折口信夫全集ノート編に収録されている。

4月末、「三田文学」5月号《復活十周年記念号》刊。戸板の劇評「追善興行の歌舞伎座」掲載。以後、毎号見開き2ページに原稿が掲載されることになり、「三田文学」誌上の劇評の書き手として、世に出ることとなった。せめて二等の席をとろうとして、日蔭町の古本屋へ本を売って費用をまかなったりもした。

「三田文学」に劇評を書き出したころ、池田大伍より、劇評というのは元来ほめるべきものなのだよという言葉を聞いた。「大変身にしみている」と後年、『演芸画報・人物誌』に記す。

6月、「ひと」第8号発行。

7月31日から一週間、日本青年館にて柳田國男の還暦を記念する日本民俗学の講習会が開催。午前中は毎日2人ずつの講師、14人による学術講演が行われ、午後は、柳田が司会の一人として参加して全国から参加した民俗学徒による座談会が開催、夜は特種研究の集まりがあるというハードスケジュール。戸板もなにがしかに参加したか?

夏休み、独文科の友人、安田晃の堺の家を訪れる。そのとき、初めて鯉の洗いを食べた。

9月、「ひと」第9号発行。

10月29日、折口教室の面々、万葉旅行へ出発。戸板は不参加。見送りにゆく。
【池田弥三郎『わが幻の歌びとたち』「波多日記とその背景」】〈三田の、第三回の万葉旅行である。当時、現役の一年であった戸板康二は、月末から月はなへかけての旅行では、芝居を見る都合から言って、具合が悪いので、この折には参加しなかった。――彼は、折口の身近にあった者としては、珍しく、今日まで、まだ一度も万葉旅行を経験していない。――波多はそういう点、折口門下生としての評価がきびしくて、後に、折口からわたしが直接に言われて「とりふね」の歌会に戸板を連れて行ったところ、わたしのさしでがましい行動として、はっきりと不快を表明した。……〉

11月、「ひと」第10号発行。


1936/S11[20歳〜21歳]

1月、「ひと」第11号発行。

1月10日、慶應歌舞伎研究会の機関誌「三田歌舞伎研究」第4号刊。池田大伍「歌舞伎脚本の味わひ方に就て」、守随憲治「『慰み』の説」、三宅周太郎「歌舞伎の将来」。編集後記に《吾々は、現在の歌舞伎劇の状態にあきたらない気持から、何とかして、一つのまとまつた形での、処方薬を作り度いと思つてゐる。……歌舞伎を八方から打診して、一つの方針を編み出すまで、吾々は努力を惜しむまい。(戸板)》と記す。

1月19日、三宅周太郎を訪問。
【三宅周太郎「四日間の日記」(「三田文学」(昭和11年3月号)=『続演劇巡礼』】〈一月十九日/日曜日。午前十一時、私用のため外出しようとすると三田の学生雑誌「歌舞伎研究」の戸板康二君外一名が、わざわざ訪ねてくれた。その新年号へ原稿を書いたのでそのお礼のためだ。折角来てくれたのに、生憎時間の先約があるため、上がっても貰えず、玄関で少しばかり話をしたのみで別れる。あいそがなくてすまぬ気がしたが何とも仕方がない。併し、戸板君の話によると、歌舞伎研究会々員の学生は目下二十五名だという。文科より経済科その他の科の人がぐっと多いらしい。が、一時は数名しかなかったのに、二十五名は沢山になったものと思う。皆で会費を出し、雑誌を出したり、会をしたりしているわけで、本当の熱情がなくては全く出来ぬ仕事だと思う。序に、戸板君は、冬の休みに神戸地方の家へ帰っていたと云う。同地方は小生の郷里に近い。流石に自分も故郷へは何年帰らぬことだろうとしんみりする。やがてからっ風に吹かれつつ外へ出る。自分の郷里の地方にこんな冷たい風はない。…住み難い東京で、このからっ風以上の風に吹きまくられつつ、長年暮らしている自分の俤を考えたりする。戸板君との会話で、実に何年かぶりで「故郷」というようなことを思い出した。センチ自嘲。〉

2月14日と21日、「国文学研究会」として、正規の授業とは別のゼミナールとして折口信夫が芝居の話をする会が催され、『新薄雪物語』がとりあげられる。明治座で新薄雪の通しが上演されたときで、戸板は帝国文庫で原作の浄瑠璃を読んでから三田へ。指名され、戸板が除幕の清水寺の舞台面を黒板に描く。折口はこれを機会に「感想文のある観察――うす雪物語を出て――」を書いた。

2月22日か24日、午後6時より明治生命地階「マーブル」にて三田文学紅茶会開催。
【戸板康二「あの頃」- 『風景』昭和39年8月号】〈ぼくがはじめて原稿を活字にしてもらったのは、和木清三郎氏が編集していた時代の「三田文学」である。まだ水上瀧太郎氏が健在で、その番町の邸で若い作家たちを集めて会合が開かれていた頃である。もっとも、ぼくはその会には出なかった。しかし、別に隔月ぐらいに麻布の竜土軒や丸の内のマーブルで開催される紅茶会には、大先輩水木京太氏につれてゆかれた。メイン・テーブルには、岡本かの子、高田保というような来賓もいて賑やかな会だったが、昭和11年1月のマーブルの会は、いまだに忘れられない。その頃学生狩りと称して喫茶店にいる学生を検挙する話が話題になり、今に大へんなことが起る、こんな会も開けなくなると誰かが発言して、みんな暗い顔をした。その翌月2・26事件がおこり、日本は戦争に突入した。そして「三田文学」に小説を書いていたぼくと同期の塩川政一氏、田中孝雄も、末松太郎も、戦死してしまったのである。 〉
【十返一「文芸時評」- 『三田文学』昭和11年4月号】〈先夜、三田文学紅茶会に出席したら、席上、間宮茂輔氏が「三田の人達は真剣に文学をやっているのかどうか疑わしい」という演説をした。例えば後藤逸郎氏の「瑛子の場合」や、南川潤氏の「美俗」にしても、取り扱われる世界は、ダンスホール等の消費的なところであり、出て来る人物は何れもプチブル性がしみこんで、それでいて相当自惚れの強い男女である。こういうものばかり書くから、前記のような質疑が出るのではあるが、然し、書く世界が何であれ、作者自身が文学に対する態度は、必ずしも軽薄であるとはいえない。……〉

2月26日、二・二六事件。朝からの大雪のこの日、折口信夫の「万葉集」の試験の日だったので、10時少し前に三田に行った。三田通りに面した正面の坂をあがる右側に当時丸善の支店があり、学校へゆくたびにそこに入って棚を見るのが習慣だった。店員が「大臣になっても、そんな目にあっちゃァね」と言っていて、なんのことはよくわからず教室にたどりついてみると、かなり詳しく朝に起こった事件を知っている学生がいて、事件の詳細を知った。大伴家持の歌の語釈を答案用紙に書きながら何とも整理できない感覚を味わう。雪の日の三田の山の冷たい風の感触。

3月20日、「ひと」第12号発行。戸板と波多郁太郎との共同執筆「雛祭りの由来」掲載(「阿寺持方」名義)。池田家架蔵の手書き本を翻刻した、仮名垣魯文『葉武列土倭錦絵』掲載。戸板が校正を手伝う。

4月、国文科本科2年に進学。慶應義塾では昭和9年度より予科を日吉に移したため、いわゆる「三田育ち」はこの年の新入生が最後となった。

6月7日日曜日、池田弥三郎、加藤守雄とともに、波多郁太郎を訪れる。池田が波多に『続々歌舞伎年代記』をゆずる。

6月20日土曜日、「鳥船」に初参加。折口信夫の直接のお声がかりで、池田弥三郎に連れられていく。蕨駅1時半集合、大田窪幸楽にて、即詠歌会。9時終了。

6月24日、加藤守雄とともに池田弥三郎を訪れる。波多郁太郎もやってきて、本の整理をする。

6月、「ひと」第13号発行。

8月9日、東北にたつ旨、波多郁太郎に手紙を出す。

9月13日日曜日、観世能楽堂にて折口教室の面々、山形県黒川能を見学。式三番、難波、俊寛、葵上、土蜘蛛。狂言、末広、瓜盗人。9時半終演。

9月29日、波多郁太郎に「花道の話」という原稿を送る。(「ひと」掲載?)

10月17日土曜日、折口教室の面々で旅行。8時30分上野発、高崎下車、上信電鉄に乗り換え、一の宮下車。貫前神社参拝。妙義山山麓菱屋旅館泊。途中、磯辺を通り、首塚を見る。妙義神社参拝。翌18日日曜日、一の宮から車で迎えに来てもらい、八塩温泉へ。4時ごろまで休み、寄居まで自動車、池袋に7時着。新宿で夕食後帰宅。

10月24日土曜日、とりふね旅行に参加。上諏訪へ。富ケ丘温泉。26日月曜日、午前6時10分に新宿着、解散。

10月、「ひと」第14号発行。

11月6日金曜日、源氏空蝉の講義。波多郁太郎に手紙を書く。

11月15日、「ひと」第15号刊。釈迢空(折口信夫)の『すえずの彼方』掲載。同誌は国文学研究会幹事藤崎信幸の兄がエジプトで事故死したのを追悼して、藤沢信幸に贈呈した追悼号。戸板の随筆(「沓掛」)収録。

11月26日、慶應義塾文学部会会報「文林」第1号刊。戸板の原稿、「尾上菊五郎 ―劇友A・Y氏へ―」掲載(末尾に脱稿日として「一九三六・一〇・八」とある)。奥付けの「編輯者」は安田晃で、戸板の独文学科の友人。彼の懇請で寄稿したものと思われる。

12月11日、「ひと」忘年会。常連の執筆者(「鳥船」8人衆)を池田弥三郎の父、池田金太郎が自宅に招いて催された。

12月25日、「ひと」第16号(1月号)ができあがる。最終号のひとつ前の号で、波多郁太郎と連名で戸板も原稿を寄せている(「たたりもっけ」)。


1937/S12[21歳〜22歳]

1月19日(火曜日)、日本民俗学講座開催(丸ビル8階集会室)。これに出席? 柳田國男が陣頭にたっての民俗学の街頭への進出であり、折口信夫が第一期以来常連の講師をつとめていた。1年間にわたって火曜日に約30回講義があった。 

1月24日(日曜日)、波多郁太郎を訪問。ゆっくり話す。大阪で買った折口信夫の講演筆記「古代の研究」を譲る。波多、「これは珍しい」と日記に記す。

1月26日(火曜日)、丸ビルにて開催の民俗学講座に出席(柳田國男「童神論」、岡正雄「民俗学序説」)。「御祭り」の写真を波多郁太郎に渡す。

2月19日、京橋大根河岸「初音」にて、三田国文科卒業生送別会。学生の幹事に戸板康二、送別される卒業生に加藤守雄、池田弥三郎ら。

3月、池田弥三郎、加藤守雄ら、三田を卒業。

3月ごろ、4年いた芝栄町のアパートを出て、仙石山アパート(芝区神谷町十八番地)へ移った模様。3月末の九州旅行を終えた池田弥三郎が戸板を訪問し、簡素で清潔な様子に惹かれその場で契約、すぐに入居。その後、加藤守雄、伊馬春部、小野英一といった親しい仲間が次々と仙石山のアパートに入居することとなる。ガス、水道、風呂付きで、六畳一間が19円だった。戸板はやがて荏原に家を見つけて引っ越し、そんなに長くはいなかった様子だが、詳細は不明。

4月、国文科本科3年に進学。

4月、木村富子『花影流水』(中央演劇社)刊。「演芸画報」大正15年10月号から12回分載の、源之助の芸談「青岳夜話」(筆記安部豊)を木村富子が自費で刊行したもの。この本を買いに、千束町の木村家まで行き、木村富子を一度だけ見る機会を得る。

4月20日、「ひと」第17号発行。結果的にこれをもって終刊となる。(編集兼発行:池田金太郎、発行所:銀座天金内天釣居、昭和9年2月に第1号)

4月30日、『鳥船年刊歌集』第7集刊。第6集までは普通の雑誌形態だったのが、この号より四六判の単行本形式になり「三田八人衆」の短歌が初めて掲載された。

6月20日日曜日、仙石山アパートにて波多郁太郎、池田弥三郎とともに、『玉葉・風雅読本』『藤原為兼読本』を読む。折口から「鑑賞短歌大系」(学芸社発行全30巻予定、折口信夫・北原白秋編纂。4巻のみ刊行)のうち「玉葉風雅篇」と「為兼篇」を鳥船三田同人にて編纂するようお達しがあったため。のち、この仕事は、玉葉集から歌の選択が完了し折口の校閲を終えたところで頓挫した。

6月27日、折口信夫のおともで、池田弥三郎、加藤守雄とともに能登へ小旅行。池田が「折口とのもっとも印象に残る旅」とのち記す。帰京した日、「支那事変」勃発の号外が東京の町に散っていた。

7月1日、慶應義塾文学部会会報「文林」第2号刊。巻末に掲載の名簿の戸板の住所は《現:荏原区中延町一〇九五 帰:神戸市外住吉村畔倉山口三郎方》となっている。

旅行途上、折口信夫と弟子たち、池田弥三郎、伊馬鵜平らと和倉温泉に立ち寄る。折口、中野の波多郁太郎へ一同寄書のハガキを出す(7月4日着)。戸板「どうやらお伴を無事にさせて戴いて居ります。」

7月25日、波多郁太郎を訪れ、東北旅行プランの相談。

8月22日日曜日、波多郁太郎を訪問、東北旅行の日記を持参。写真玩具を渡す。

9月末、池田弥三郎、加藤守雄と3人で、伊豆湯ヶが島にて「玉葉集」「風雅集」の仕事に没頭。

10月に入り、6月から続いていた注釈作業が沙汰止みになる。「鑑賞短歌大系」は9月に予定されていた第3回配本がなされないまま、版元が業務を停止。

10月20日水曜日、三田研究会で「本朝廿四孝」が取り上げられる。折口、摂津大掾の録音を蓄音機で聞かせる。

12月1日水曜日、研究会にて戸板の卒業論文(近松研究)の発表、折口の批評あり。

12月5日日曜日、国文科研究会旅行。午前8時45分上野発、我孫子下車。子ノ権現に詣り、湖畔の茶店で会食。舟を出したが強風で難儀。柏まで歩き、柴又帝釈天に詣る。上野で解散。
【「鍋」=折口信夫坐談】〈本科で先生の講義を聞いて三年生になると、国文科の幹事役がぼくにまわってきた。三田では、ときどき先生に引率されて日曜日に遠足をする習慣があったが、ぼくが幹事になると早々、我孫子に一日遊ぶプランができた。びっくりしたのは、みんなが行く前に、当日食事をする家の検分に行けといわれたことである。一人で、一週前の日曜日に、手賀沼のほとりのうなぎ屋に出かけて、先生からあずかった金で、試食してきた。そんなことが、ぼくの社会科の勉強だったともいえる。〉

この年、三十数版を重ねていた改造社の『俳諧歳時記』5冊を購入。これが初めて買った歳時記だった。「学生にとっては、この1冊が数十回の講義に匹敵するほどの内容を思わせた」。


1938/S13[22歳〜23歳]

1月22日、3月に折口信夫が NHK で万葉集の座談会を放送するにあたって、これに出演する者たちが伊豆修善寺1泊旅行へ。戸板も参加。

3月、慶応義塾大学国文科を卒業(論文「近松門左衛門論」)。そのまま半年大学院に残る。

3月27日、放送「学者にものを訊く」で「万葉集に就いて」放映(夜7時半より1時間)。折口が原稿を書き、三田の教え子とともに出演。戸板は出演せず、放送の筆記を担当。その筆記は池田弥三郎『わが幻の歌びとたち』に収録。

6月16日、久保田万太郎と初対面。「三田文学」が8月号から「三田劇談会」という劇評座談会の連載を開始、メンバーは三宅周太郎、水木京太、大江良太郎、和木清三郎、司会が久保田万太郎。その第1回が三田小山町の久保田邸で開かれて、万太郎の話術の巧妙さにびっくりした。戸板は打ち合わせのために少し早めに訪れた。
【「久保田万太郎」=わが交遊記】〈久保田さんは、ぼくの父と普通部の同級生である。父にいわれて、すこし早目に行き「山口三郎は私の父でございます」と挨拶すると、大変おどろき、しばらくの沈黙ののちに、「親子二代にわたって芝居の話をするなんて愉快じゃありません」と切り口上でいった。しかし、横をプイと向いた顔が苦笑していたので、ぼくは、ほんとうに愉快じゃないのではないと理解した。段々わかるのだが、照れ屋の久保田さんは、いつもこんな風に照れ隠しをするのだ。これで怒ったりするのは、読みが浅いのである。〉
【「父の銀座」=五月のリサイタル】〈劇談会の何回目かに、「忠臣蔵」を合評したが、六段目の話の時に、「私は死んだ鶴之助という役者の、槍で腹を切る勘平をみていますよ。いまの鶴之助(注、先代富十郎)の親父になるのかな、じいさんになるのかな? 腹を切ったあとへ二人侍が帰って来たと覚えています。何でもその槍がいえ伝来か何かの穂先だけのやつでしてね。戸板君のお父さんは知っているかもしれませんよ。われわれとおんなじに、始終宮戸座の立見に行った仲間ですから」という久保田先生の談話が、速記に残っている。〉

6月19日日曜日、5時半より戸板の家に三田の八人衆の集い。卒業祝の御馳走。

6月20日月曜日、三田謝恩会。6月が一学期の終わりなので学生が先生に対して謝恩をするという主旨の会を毎年催しており、この年は戸板が幹事をつとめ、新宿第一劇場にて前進座六月興行を見物。

6月25日土曜日、折口教室で3月の放送の記念の信州旅行。3月の放送「学者に聴く」の放送料を折口が一括預かって、旅行資金とした。

7月1日、慶應義塾文学部会会報「文林」第4号刊。巻末に掲載の名簿の戸板の住所は《目黒区洗足一三一二》となっている。

7月29日、藤木秀吉が神保町の大野書店で武蔵屋本の『津國女夫池』(明治28年10月26日出版)を見つける。藤木の武蔵屋本コレクションの最後の1冊だった。午前11時に帰宅し、葉山にいる戸板に葉書を書いて知らせる。この日の句日記は「古本屋の店先きの風涼しけれ」。

8月1日より一週間にわたって、鳥船で「夏期鍛練隊」として、毎日5首ずつハガキに歌を書いて送ることが義務づけられる。当日の消印でなくてはいけなかったので、皆相当苦しむ。

9月、大学院をやめ、翌年4月の明治製菓入社まで、父の勤める藤倉電線でアルバイトをする。藤倉電線の社長の松本留吉の伝記の執筆の手伝いに従事。翌年刊行される(『松本留吉』松本留吉翁伝記編纂委員会編 )。

12月の歌舞伎座で『高時』『茨木』『露時雨』『娘道成寺』の四つの演目の主人公を勤めた菊五郎が「兼ねる番附」を刷って、「菊重扇面影(きくがさね・おおぎのいろどり)」と題して頒布しようとするも、羽左衛門が難色を示したため、松竹が中止。戸板は、結局配布されなかった幻の番附をたまたま所有。

12月15日から18日にかけて開催の奈良の春日若宮の御祭の見物へ出かける。16日午後に折口信夫紹介の旅館「わかくさ」に到着。国文学研究会で折口がこの祭りの話をした折に「戸板はぜひ見ておいたほうがいい」と直々に指名。父の会社でのアルバイトを休ませてもらって、ひさしぶりの一人旅となった。

この年の某月、紹介もなしに東中野(中野区文園町二十番地)の三田村鳶魚の話をきく会の「満月会」に列席させてもらう。三田村鳶魚の風貌をわずかに知る機会となった。





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