← Top


Chronology. 私 製 ・ 戸 板 康 二 年 譜 1939 - 1943( Page 2 of 6 )


* 昭和13年に「三田文学」を通して久保田万太郎の知遇を受け、翌14年、明治製菓の宣伝部員となり、直属の上司内田誠の薫陶を大いに受けることとなりました。戦時下の宣伝部廃止のあおりで昭和18年に退社、翌19年の日本演劇社入社までの一年間は女学校で教鞭をとっています。演劇ジャーナリストの前夜の日々。
(June 2010)

1915-1938| 1939-1943| 1944-19501951-19571958-19781979-1993

1939/S14[23歳〜24歳]

2月24日、午後6時、銀座・交詢ビル・慶應倶楽部別室にて、「三田文学紅茶会」開催。1月にフランスから帰朝した二宮孝顕による「最近フランス文壇事情」と題した講演が開催。会費は食事代込みで1円。

4月、明治製菓の販売営業部門を担当する株式会社明治商店に入社。父方の祖父が蔵前工業(東京工大の前身)の一期生で明菓の当時会長だった相馬半治と同学で親しかった関係からのコネ入社だった。菓子部宣伝係に配属され隔月刊の「スヰート」の編集に携わる。初任給は65円。
【銀座サロン「この父にして」山口三郎・戸板康二・円地文子・車谷弘=『銀座百点』昭和47年7月号】〈あたしは電線業界におりましたから、よく周囲から、「いったい君、倅を慶応の文科なんかに入れて、学校の先生にでもするつもりか」なんて、言われたもんですよ。しかしあたしは、本人が文科をやりたいというんだから、やればいいと思っていました。そして、学校を出たらすぐに会社に入ったほうがいいだろうと思っていました。その頃、明治製菓の内田誠さんが随筆を書いたり、本を書いたりしていたでしょう。その内田さんのところへいきたいというんですね。それで明治製菓へやったわけなんです。〉

4月18日より5月7日まで築地小劇場にて、久板栄二郎作『神聖家族』、新協劇団公演を観劇。劇中の会話に「心斎橋の明菓の売店で会おう」という台詞があったので上司に報告すると「お礼に行って来てくれ」と言われる。角砂糖と瓶詰を持って四谷坂町の久板栄二郎のアパートを訪れる。四谷の丘の斜面に建っていた坂町別館(坂町65)というアパートで当時平野謙も住んでいた。

4月28日、学生時代に自由に書斎に出入りし、所蔵の演劇書を読ませてもらった藤木秀吉が急逝。玄関で受付をしていると、弔問に訪れた河竹繁俊と初対面。「あ、君が戸板さんですか」といった。

戸板の明治製菓入社と時を同じくして同月、内田百間が日本郵船会社の嘱託に「三顧の礼」をもって迎えられる。辰野隆の推薦。郵船入社が決まると、百間は頭髪を整えアゴヒゲを剃り、鼻下の八字ヒゲを整えた。仕事は「書類に目を通して、添削する。廻ってきた文書を直す」。部屋は郵船ビル6階の634号で、「六四三」なので「夢獅山房」と称した。この部屋に戸板は「スヰート」の原稿を受け取りに何度も訪れることになる。京橋の明治製菓本社から鍛冶橋通りを歩いて、郵船ビルはすぐ近くであった。

5月3日、藤木秀吉の初七日。戸板は藤木の書斎にて、藤木の友人の茂野吉之介らに、「武蔵屋本」蒐集に関する藤木によるノートを見せる。彼らは直ちに遺稿出版を決意し、「故人の若き書斎の友」である戸板に編纂を依頼。

5月20日、「スヰート」第14巻第2号発刊。

6月17日、三田国文学研究会第1回採訪旅行に参加。山北から道祖神を中心に採集して大雄山の宿坊に宿る。その夜、御供式の祭儀を見学。18日、酒匂川を超えて曾我村に入り、曾我伝説のあとを訪ねて鴨宮に出た。

7月15日、「スヰート」第14巻第3号発刊。

「三田文学」8月号の消息欄に、「荏原区中延町一〇九五」へ転居した旨記載あり。

9月5日、串田孫一の父・串田萬蔵没(享年72歳)。その通夜の席に皆が集まった折に、串田の叔父・今村信吉が同人雑誌をやろうと提案、「冬夏」として翌年7月より毎月発行、16号まで続いた。戸板も同人として参加することに。

9月6日、「スヰート」第14巻第4号発刊。

この年の仲秋の名月より、毎月一回、内田誠宅での句会「良夜会」に参加。内田は水中亭という号を用い、自分の手で作った「いとう句会」にも頻繁に出席していた。

9月20日、内田百間、明治製菓講堂の「東京明治倶楽部講演会」にて講演。演題は「目と耳の境界」。速記は『百間座談』(三省堂、昭和16年)に収録された。

10月7日、「いとう句会」出席。この日の「渋沢家庭園」でのスナップ写真が『回想の戦中戦後』書誌データの図版にある。内田誠とともに5回ほど戸板も「いとう句会」に出席した。いとう旅館での句会には出ておらず、大森の内田水中亭の家で催されたときと、田園調布の渋沢秀雄の家での句会のときに出席。高田保、宮田重雄、徳川夢声、渋沢秀雄といった、日本を代表するユーモリストの話術を目の当たりにすることとなる。

句会にときどき出るようになってから持った歳時記が、三省堂の虚子編『新歳時記』。若葉いろの表紙に「花鳥諷詠」と型押しされていた。用紙がライスペーパーで軽くて携帯に便利だった。

11月25日、「スヰート」第14巻第5号発刊 この号の表紙が長谷川りん二郎《薔薇》。昭和30年代初頭に洲之内徹が入手、今は宮城県美術館に所蔵されている。

この年の暮れ、明治製菓の同僚と日光へ。湯本でスキー。板は借りたが、帽子や服、靴はわざわざ誂えて、勇んで出かけた。が、以後、スキーに行くことは二度となかった。


1940/S15[24歳〜25歳]

1月25日、「スヰート」第15巻第1号発刊。

2月、久保田万太郎が里見とんの『鶴亀』を劇化して、明治座にて新生新派が上演。内田誠に誘われ見物に同行し、帰りに劇場の隣の料亭に寄る。そういう場所に行った初めての日とのこと。その時、万太郎が花柳章太郎のブロマイドの裏に「春燈下病まつたくいえしとふ」「春燈下こころよく酔つてしまひけり」という句集に載らない即吟を書き込んだ。
【柳永二郎『絵番附・新派劇談』所収「新派劇略年表」】〈明治座に、新生新派にて、大嶽康子原作・水木洋子脚色「病院船」里見とん原作・久保田万太郎脚色「鶴亀」八木隆一郎作「希望峰」川口松太郎作「築地明石町」上演さる。里見先生の「鶴亀」は、原作の小説を読んで、花柳に老婆をさせることを楽しみに私が提案した。ところが久保田先生の脚色が出来て、巡業先の名古屋で本読みをしたのだが、本台に坐って読んだものが拙くて、面白くなかった。劇団から大江総務が使いにたって、その意を伝えたら、“君達は芝居が判らない”と先生に叱られた。恥かしいが先生の演出で上演された舞台は、まったく楽しい、しみじみしたものになった。〉

春、「スヰート」の原稿依頼のため、内田誠とともに成城の柳田國男を訪問。「食物誌」執筆をもくろんでいた内田誠は食物の話を次から次へと柳田に質問し、その際、柳田が古典全集の『本朝食鑑』を勧める。内田誠は興奮して、その帰途神保町に寄り、『本朝食鑑』を2冊購い、1冊を戸板に渡す。

この年のうららかに晴れた春の昼下がり、京橋界隈にて、肩こりを治すという効用で有名な漢方薬の店の前に「大阪鰻谷、吉田栄三様」と宛名のついた木箱が積まれてあるのを目撃する。
【三宅周太郎「続文楽物語」(昭和15年初夏稿)=『続文楽の研究』】〈近年東京へ興行に来た時、栄三が足いたや腰いたに悩むのを知って或る人が、これを塗って見てくれといって、もらったのがこの膏薬の「百草根」だった。つけて見ると意外によくきく。そこで栄三は大阪へ帰ってからも、直接それを東京の京橋の発売元から取り寄せた。そして同じ苦痛に悩む文楽の人に分けてやった。……一方、私は私で京橋の「明治製菓」に勤めているT君が、私の近所の薬屋から、近頃時々大阪の文楽の人形の栄三氏の家へ、大きな箱の荷物を送っていますが、あれは一体何でしょうといったのを思い出した。〉

3月10日、内田誠『水中亭句集』(春蘭発行所)刊。戸板が校正を担当。

3月25日、「スヰート」第15巻第2号発刊。

4月14日、「いとう句会」第76回例会に出席。会場は田園調布の渋沢秀雄邸。「茗化」の号で投句。
【『春泥』第1号(昭和15年6月25日発行)より】〈花の多い美しい田園調布街、そこで渋沢氏の御好意で花見句会を催した。二時から集つて附近散策、一切矚目吟といふことにした。朝からの雨も午後には止み、夜になつては晴れた。広い芝生の上にはビール、縁側には三溝氏寄贈の今時珍しいジヨニウオーカ、夕食は竹葉の出張の美味、これでは句の方は…と思つたが、おつとどうしてご覧の通りの名句ばかり、御主人渋亭氏も御満足であつた。〉

4月25日、従妹である山口当世子との結婚披露宴。会場は糖業会館。媒酌は内田誠。折口信夫が祝辞を述べる。他に、久保田万太郎、水木京太、波多郁太郎、池田弥三郎らが出席。

荏原区小山町六〇四に新居を構える(改正後の住所:品川区荏原七丁目)。生涯ここに住んだ。
【「品川区と私」=六段の子守唄】〈住宅街と商店街とが交錯するうちの周辺では、荏原、小山、旗の台の町名が、だんだら縞に並走するのでややこしい。そのため誰でも尋ねられると、私鉄東急最寄りの駅名で答えるようだ。私は「洗足の住人です」という。私の家は、洗足の高台にあり、坂を下りてすこしゆくと、中原街道に出る。この大通りは、戦中戦後、自転車で通ったから、格別の感じがある。空襲があって交通機関が混乱した日は、当時勤めていた築地の出版社まで、自転車で行った。必死の思いで走った。二十代だから、健脚であった。〉

戸板が世帯をもったと聞いて、内田誠に連れられて参加した句会で同席していた邦枝完二より、戸板に葉書が届く。「鏡台に映す卯の花くたしかな」という句が添えられていた。

4月28日、藤木秀吉の一周忌。遺稿集『武蔵屋本考』刊。初七日に藤木秀吉の親友、茂野吉之助が戸板に委嘱し、戸板が編集を担当。藤木秀吉は、丸善の系統の武蔵屋が明治20年代に復刻した近松の浄瑠璃の活字本のコレクションを何年もかかった末に完成させた。

5月、「日本電報」5月号掲載の「銀座と広告今昔」と題された座談会に出席。

5月、明治製菓の美術部の例会で「薔薇」という題の油絵を出品。この絵を光村印刷で原色版の絵葉書にしてもらう。美術部は宣伝部員や図案部員が主なメンバーで、山本鼎に油絵の指導を受けており、戸板も道具を買って何枚かの油絵を描いた。

6月15日、「スヰート」第15巻第3号発刊。

6月25日、「春泥」第1号刊(春泥社)。内田誠の命で戸板が編集の労をとった。昭和12年12月に大場白水郎の出していた「春蘭」に合併して休刊となった「春泥」が「春蘭」の休刊を受けて復活したもの。

7月、串田孫一を中心にした同人誌「冬夏」創刊。この月より毎月刊行、16号まで刊行が続くものの、戦時中の統廃合で廃刊となる。同人として戸板も参加。発行所は神田の十字屋書店(主人は酒井嘉七)。印刷所は博英社、そこの息子の塚田仁が始めた出版社が冬至書林で、戸板の初めての著書『俳優論』の版元となった。

8月20日、「スヰート」第15巻第4号発刊。

8月30日、「春泥」第2号刊(春泥社)。

秋、文部省の圧力により六大学野球秋季リーグ戦が1回戦総当たりに短縮。当時文部省の体育局長をしていた小笠原道生は内田誠夫人の兄にあたる。
【「『スヰート』と『三田文学』」=思い出す顔】〈慶応のチームのために夢中になり、身びいきのつよい発言を、シーズンになると毎号自分が編集していた「三田文学」に書くのがおもしろいといって、菊池寛氏が「話の屑籠」(文藝春秋連載)に書いた。和木清三郎氏は、小笠原という役人がにくらしくて仕方がなかったようだ。ある日、明菓の売店に来て、内田さんとぼくとで、和木さんとコーヒーを飲んでしゃべっていると、和木さんが突然、口汚く小笠原さんの悪口をならべたてた。ぼくはハラハラして聞いていた。あんまりいうので、内田さんもたまりかねて「小笠原はぼくの義兄ですよ」といった。一瞬ギョッとして、和木さんは黙ったが、「ちょうどいい。内田さんから、ぼくのいったことを伝えて下さい」といった。これには、恐れ入った。〉

10月17日、小村雪岱急逝。その4日前に「スヰート」の紀元2600年記念号の菊の表紙を受け取りに訪問したばかりだった。
最後のちょっといい話】〈里見とんが小村雪岱の法事のあとで案内された料理屋の卓上に出て来た、薄作りの刺身を見るなり、「フグじゃァないだろうね」と心配そうに尋ねたのを、おぼえている。昭和15年のことである。ちなみに、里見の短編には、フグに中毒する男を書いた名作がある。〉

10月30日、「春泥」第3号刊(春泥社)。

内田誠の命で、小村雪岱の唯一の門人山本武夫とともに、雪岱の遺蔵した本を売りたてる手伝いをする。2年後には、山本武夫とともに雪岱の遺文集『日本橋檜物町』の編集をした。仕事仲間の山本武夫に、後年戸板の小説の挿絵をかいてもらうというまわりあわせになった。

11月、「報道技術研究会」結成(昭和20年8月15日解散)。

12月30日、「春泥」第4号刊(春泥社)。小村雪岱の追悼号。「春泥」はこの号をもって休刊となる。


1941/S16[25歳〜26歳]

1月中旬、休暇をとって、折口門下の学生について行き、三河の花祭を見物に行く。折口信夫に「私も参ります」と挨拶した折「いろいろ面倒を見てやんなさい」と言われたが、実は初めての見学だった。豊根村の奥の山内という集落の花宿までの行程は、東海道線で豊橋へ行き、私鉄で天竜峡まで乗り、あとは村まで歩くというもの。

1月25日、「スヰート」第15巻第1号発刊。

2月1日、神田佐藤新興生活会館を会場に、鳥船(とりふね)の例会。会後、折口は三田の会員全員(7名)に「心意気が悪い」という理由で退会を命じる。この日たまたま戸板は欠席しており、池田弥三郎にのちのちまで「戸板はいつも要領のいい男だ」と言われる。

3月6日、折口信夫、三田鳥船会員を集め、復帰を許す。

3月20日、内田誠の随筆集『遊魚集』(小山書店)刊。編集を戸板が担当。そのお礼に、内田誠より岡鹿之助の四号のカトレアの絵をもらった。「スヰート」表紙の原画で内田が自費で買っていたもの。父の客間に飾ったが、昭和20年5月の空襲で焼けてしまった。

「スヰート」4月号に久保田万太郎の随筆「Waffle」掲載。

5月、内田誠の句集、『影青集(いんちんしゅう)』(私家版)刊。「昭和15年作 百十句」とある。

6月、創立十周年祝賀会が新橋演舞場で催され、会社からお祝の品を届けがてらこれに出席。国民服を来た羽左衛門が、万歳の音頭をとり、独特の手つきで双手をあげると、パッと明るい雰囲気が拡散、外はあいにくの大雨の日だったが、日本晴れを思わせた。

7月5日、「スヰート」第16巻第3号発刊。

7月14日、『樋口一葉全集 第二巻』刊。久保田万太郎が編集と担当した第二巻は「小説2」。万太郎に頼まれて、戸板が頭注を手伝った。予期していなかった稿料をもらい、本を購入。

7月15日、池田弥三郎出征。

池田弥三郎の出征後、それまで池田が住んでいた仙石山のアパートへ、加藤守雄とともに池田の部屋の整理へ行く。

8月、森永製菓が時局を考え宣伝部を廃止する。広告の名門だった森永が率先して広告の中止を決意した恰好となった。

9月20日から同月23日まで、資生堂ギャラリーにて「小村雪岱追悼展覧会」開催。その展覧会準備委員として、島源四郎(大衆作家)、田坂柏雲(画家)、山本武夫(資生堂)、川村秀活(松竹)、長瀬直諒、内田誠、戸板康二の計七名。故人の知人・友人など十数名の画家の作品を展示即売、売上を雪岱の霊前に供えた。安田靫彦、鏑木清方、伊東深水、山川秀峰、結城素明、西澤笛畆、岩田専太郎、木村荘八、石井鶴三、前田青邨、その他十数名の作品が展示された。

10月1日、「スヰート」第16巻第4号発刊。

10月10日より同月13日まで、資生堂二階にて「小村雪岱遺作展覧会」開催。展覧会準備委員会の顔ぶれは前月の追悼展覧会と同じ。この展覧会の際に撮った写真に万太郎の愛した吉原の芸者いく代の姿があり、彼女が昭和20年の東京大空襲で亡くなった折に万太郎は「花曇かるく一膳食べにけり」という句を作った。

10月、柳田國男邸を訪問したところ、長岡隆一郎が柳田邦男にゾルゲ事件のことを知らせにきた場面を目撃する。

12月8日、太平洋戦争の勃発。明治製菓は「製菓」とは名のみで「海苔、茶、ビタミン剤、ホルモン剤を売る会社」になってしまい、宣伝部も菓子の宣伝どころではなくなる。久保田万太郎に海苔の句を依頼にいって、「新海苔の艶はなやげる封を切る」という句をもらったりも。 
【「スヰート」と「三田文学」=思い出す顔】〈そういう広告をのせて「スヰート」でもあるまい。しかし、それでも何とか、続刊していたが、十二月八日の開戦と同時に、呼び出されて大政翼賛会にゆくと、三輪隣という美術評論家が文化担当の役人になっていて、「『スヰート』は、ボードレールがいちばん美しい英語だといった言葉です。こういう敵性語は変えてください」といった。〉

12月9日、明治製菓の持っていた自動車を大政翼賛会に提供することになり、その際に、大政翼賛会にいた花森安治と初対面。花森安治とともに、銀座と上野に行き、戦争にのぞむ気がまえを説く花森安治の演説を聞いた。昼の休憩時間、歌舞伎座へ。楽屋の頭取部屋へ行く必要があり「報道」という腕章をつけて奈落を通り抜けようとしたとき、「野崎村」のお染の扮装をした当時芝翫の歌右衛門に遭遇。ハッと息をのむ美しさだった。

12月28日、田園調布の渋沢秀雄邸にて催された「いとう句会」に出席。


1942/S17[26歳〜27歳]

1月7日、池田大伍没(享年57)。風邪から急性肺炎を併発して、築地4丁目の自宅でにわかに没した。

2月1日、「スヰート」第17巻第1号発刊。

2月18日、徳川夢声、「スヰート」用の原稿「源氏巻」を執筆(『夢声戦争日記』より)。第17巻第2号に掲載される。

3月、内田誠の句会「良夜会」の中断のあと、再び大森の内田邸で句会をすることになる。「踏青会」と名付けられた。

4月15日、「スヰート」第17巻第2号発刊。

4月24日、築地本願寺で、三田の友人、安田晃(朝日新聞社特派員)の社葬。

5月27日、内田誠が蝸牛庵へ幸田露伴を訪れる。斑鳩寺の話から鳥の名前について露伴が話した際、内田誠の名刺の裏に漢字を書いて示す。おすそ分けとして、その名刺を内田誠からもらって、以来大切に架蔵。

9月、「演芸画報」に初寄稿。9月号に《明治座見物記》掲載。安部豊が広告の紙型を取りに明治製菓宣伝部を訪れた際に、戸板が応対。昭和9年夏に公募論文に応募して当選した話をすると、「いやァ、そうですか」と言った。そして、安部は戸板に劇評を依頼、計3回寄稿することになった(2回目は昭和18年1月号の「家庭劇を見て」、3回目は昭和18年6月号掲載の「五月の歌舞伎座」)。

11月、小村雪岱の遺文集『日本橋檜物町』、高見沢木版社より刊行。山本武夫とともに編集を担当した。

12月1日、「スヰート」第17巻第5号発刊。

12月18日、『俳優論』(冬至書林)刊。書誌データ
【串田孫一『文房具56話』】〈私が懇意にしていた印刷所には、「筆や」という大きな看板がかかっていた。それが正式の印刷所の名称ではないが、みんな「筆や」という不思議な名前で呼び慣れていた。私とほぼ同年代の若主人は、おだてたわけではないが、出版に関心が高まって、冬至書林という名前をつけ、私たちの話で、式場隆三郎さんの本を出したり、戸板康二君の最初の本である『俳優論』もここで出版した。私も『牧歌』という限定百部の本をそこで造った。〉
【「わが処女出版」=演劇・北京―東京】〈冬至書林は神保町の印刷所が多少道楽気もあってはじめた本屋で、戦死した塚田仁君という長男が名義人になっていた。空っ風の吹く十二月某日、生れてはじめての本が出来上って、届けられたが、ワクワクしながら開いて見てゆくと、一ケ所だけページが前後して刷りちがえられていた。乱丁ではなくて、活版の際のミスなのだ。傍にいた加藤守雄が「君のはじめての本じゃないか。刷り直してもらい給え」というので、弱気だった僕は神田まで出かけて行った。塚田の親父さんは、二三分考えていたが「ようがす」とたった一言いい、徹夜してその部分を切り取って貼り込んでくれた。初版の『俳優論』は120ページの辺り、コバ(裁断面)が不ぞろいである。〉


1943/S18[27歳〜28歳]

1月26日、三田国文学研究会謝恩会。折口信夫がこの席上で、戸板の『俳優論』の発刊を祝う。

2月10日付けで、株式会社明治商店宣伝課(内田誠課長)が廃止となった。戸板は川崎工場の倉庫納品係に配転。

3月1日、慶應義塾文学部会会報「文林」第9号刊。巻末に掲載の名簿の戸板の住所は《京荏原区荏原七ノ六〇四》となっている。

3月10日、「スヰート」第18巻第1号発刊。この号をもって終刊となり、時局を鑑みて次号より「栄養之友」と改題して内容を一新。
【「ああ改題」=女優のいる食卓】〈大政翼賛会というのがあって、戦時体制を強化する国内工作をおこなっていた。ある日ぼくは東京会館を占領していたこの役所に呼ばれた。Mという役人から、「スヰート」は英語ですから、自発的に改題をしてくださいといわれた。おそかれ早かれ、そう申し渡されるだろうとは思っていたが、やはりドキッとした。さびしい気がした。しかし、M氏の説明は、おもしろかった。「スヰート」は、シャルル・ボードレールが、英語の中で最も美しい言葉だといったものです。そういう、美しい英語はどうもね」こういったものである。会社に行って内田さんに報告した。「しかたがないね、泣く子と地頭には勝たれない」内田さんは、憮然としながら、つぶやいた。それから、日本語の雑誌名を研究した。社内からも公募したが、「甘味」というのが圧倒的に多かった。だが、内田さんは、「スヰートがいけないというので、それを直訳するなんて知恵がない」と採用しない。何度も会議を開き、みんながもうくたびれてしまって、最後に決まったのが、およそ平凡通俗な題である。「栄養の友」というのだ。いささか、やけっぱちであった。〉

3月、折口信夫『日本芸能史六講』(三教書院)刊。石井順三とともに、戸板が編集と校正にあたった。

4月13日、折口信夫を会長とする芸能学会が設立、第一相互階上の東洋軒にて創立総会。戸板は石井順三、大山功とともに幹事に就任。月刊雑誌「芸能」創刊(昭和10年12月創刊の「舞踊芸術」を改題、昭和18年5月創刊)。これに『丸本歌舞伎』(昭和24年発行)に収めることになる評論を発表。

6月、報道技術研究会『宣伝技術』(生活社)刊。この頃、戸板も報道技術研究会に参加した模様。
【山名文夫『体験的デザイン史』】〈……そのころ報研は同時に各界の人を特別会員にむかえ組織の強化をはかったが、技術面でも、文章の担当として戸板康二氏、江間章子氏をむかえている。演劇評論家、作家として知られる戸板氏は、当時は明治製菓のコピーライターであった。詩人の江間氏にはすでに令名があった。〉

6月15日、「スヰート」が「栄養之友」と改題して、第1号発刊。同年、3号にして休刊となる。

6月25日、「印刷報道研究(「プレスアルト」を昭和18年5月発行号より改題)」第65号刊。「企画と編集者の頁」に明治薬品会社の「開業医家向宣伝絵葉書」についての解説を寄せる。戸板の肩書は「明治製菓会社宣伝部員にして報道技術研究会々員」。
《このゑはがきは、明治薬品株式会社が、製品合成ホルモン「メイホルモン」の存在を、全国産婦人科及内科の開業医各位に認識していただくために、昭和十八年四月作成したものです。企画をたてたのが二月で、品物の性質上、余り宣伝の色彩が露骨になってはと考え、むしろ何気なく「メイホルモン」の文字を一部に入れた、薬と関係のない画若しくは写真で行く事とし、結局世界の「母と子」集にしようと思いついたのでした。しかし之は「大東亜共栄圏の母と子」と改める事になり、画にする事と決定、画の制作を報道技術研究会に委託、同会に於て六人の違った方の手によって六枚の「母と子」が出来上がりました。……》

8月、明治製菓川崎工場を円満退社。今までの編集生活とあまりにも勝手が異なり、折口信夫をたずねて、山水高等女学校(現・桐朋女子)の紹介を受け、退社を決心。

9月より、京王線仙川の山水高等女学校(現・桐朋女子)に勤めることに。3年松組を担任、国語を教える。日本演劇社に入社するまでの丸一年間、高校教師となる。一年間の教師生活であったが、後年、エッセイなどに教師時代のたのしいエピソードをちょくちょく記している。

教師時代の戸板は、折口信夫が命名した戸板香実という筆名を用いた。ほかに高島悠太郎という筆名も用いる。

10月に、日本演劇社が成立。情報局が四つの演劇雑誌を統合して作った出版社で、初代社長の岡鬼太郎死去(10月29日)により久保田万太郎が社長に就任、業務部長は安部豊、企画部長は渥美清太郎。日本演劇社の業務は、「演芸画報」と「東宝」を合併した歌舞伎の雑誌「演劇界」と、「国民演劇」と「演劇」を合併した新劇の研究誌「日本演劇」、二つの雑誌の定期刊行。戸板康二は、創刊以来二つの雑誌を書店で買っていた。当時は一読者に過ぎなかった日本演劇社に翌年、久保田万太郎の紹介で入社することになる。

秋、山水高等女学校3年生の修学旅行の引率で日光に一泊旅行。ひとりの生徒が心臓発作をおこし大騒ぎになる。別のクラスの担任の体操の女性教師が暗然とする戸板を元気づける。この女性が俳人の森澄雄の細君で、三十数年後、劇場でばったり会う。

10月、串田孫一に葉書を書く。
【串田孫一『日記』】〈10月25日、戸板康二君から葉書が届く。彼は今女学校で教えているが、考査をしてみると、軍人の家の娘が余り出来ないので呆れている。それを教えている自分の責任のように思うと、二度がっかりしたと書いてある。そして例によって最後に一句。行く秋の赤鉛筆ちびにけり〉

10月30日より9日間、帝劇にて『三笑』上演。芸文座の初公演だった。里見とん演出、森岩雄プロデュース、主演は滝沢修。戸板が戦争中見た芝居のなかでもことに忘れられない舞台だったとのちに回想。
【『高見順日記 第二巻 下』】〈十一月四日。武者小路氏の「三笑」、芸文座のために書き下ろしたもの。武者小路氏らしい芝居だが、コクのないものだった。「愛慾」「その妹」の登場人物が出てくる。「愛慾」を築地小劇場で見たのは、ついこの間と思ったが、すでに十五年経っている。感慨無量。客は満員だった。築地小劇場のガラガラだったことを思う。〉

12月15日、「栄養之友」第3号刊。戸板の「のっぺいと鴨」掲載。春日若宮の御祭の折の食味について綴った随筆。戦前の明治製菓の広報誌はこの号をもって終刊となる。




1915-1938| 1939-1943| 1944-19501951-19571958-19781979-1993


    


← Top