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Chronology. 私 製 ・ 戸 板 康 二 年 譜 ( Page 3 of 6 )


* 日本演劇社に入社し演劇ジャーナリストとなったのが敗戦直前の昭和19年。演劇雑誌の編集に携わることで、戦中戦後の歌舞伎、新劇の激動の時代をつぶさに見る。そして、『わが歌舞伎』『歌舞伎への招待』といった書物で、演劇批評の書き手として燦然と世に出る。以来、戦後の歌舞伎評論の第一線として活躍することとなりました。


(July 2011)


    

1915-19381939-1943| 1944-1950| 1951-19571958-19781979-1993
1944/S19[28歳〜29歳]

3月、上演時間二時間半という制限が交付される。明治座で幸四郎一座が『大楠公』を演じ、東京新聞から劇評をたのまれ、戸板香実という筆名を用いたが、文末には「本名は康二」となっていた。

3月26日、江東楽天地清昌閣にて、貞丈を囲んだ「冬夏」の会。出席者は戸板、串田孫一、大草實、中川幸永、酒井嘉七、今村信吉の6人。貞丈に幕末の話を55分話してもらったあと雑談。清昌閣のおかみさんが、器にドロップを山盛りにこともなげに出し、一同驚く。
【「悲食記」=ハンカチの鼠】〈銀座の喫茶店は大半閉業、たまに開店していても「甘味ぬき喫茶」という、砂糖っ気なしのしがない時代、江東楽天地の貸席で、親しい仲間が会を催した。むろん弁当持ち寄りで、構内のお稲荷様の拝殿に、サツマ芋が5、6本無造作に供えてあるのを見て溜息をついた始末だから、あまり気勢の上らぬ集りだった。そのうちに、貸席の女あるじが、平たい盆に半紙を敷いた上に、五色のドロップをゴッソリ山盛りにして運んで来たので、みんなが顔を見合わせた。「夢ではないか」という表情だけは、ぼくはこの時におぼえたのである。もちろんドロップは食べもしたが、それぞれ家へ持ち帰って、近親にも分けたい。忽ち一山がなくなったと思うと、ニコニコしながら女あるじが、ブリキの缶を持ってあらわれ、「おかわり」をしてくれたのだから、念が入っている。この時、串田孫一君も居合わせたのだから、ぼくの白昼夢ではないことは、たしかだ。どうして、ドロップがその家にあったのかは、ついに分からずじまいだが、昭和19年以降、菓子と名のつくものは、よほど特別な事情がなければ、一般市民の口には入らなかった。〉

4月12日、七代目三笑亭可楽、階段から落ちて急死。戸板はたまたまこの日の昼、大塚の鈴本で可楽の「猫久」を聴いていた。

6月頃、久保田万太郎に電話で田園調布に呼び出され、渋谷秀雄宅で催される句会に出席する万太郎と雨の並木道を傘を並べて歩いた。歩きながら、万太郎は「戸板君は、あの女学校に、松杉を植えるつもりですか」といい、日本演劇社に入社して「日本演劇」の編集長になるように勧める。この話は戸板康二を強く誘惑、その場で「よろしくお願いします」と答えた。

7月に日本演劇社に入社。『日本演劇』の編集には第8巻第2号(8月1日発行)より従事。

7月5日、『日本演劇』第8巻第2号掲載の「劇壇非常措置以後」と題した座談会が開催される。その会場であった交詢社の5階の廊下にて、利倉幸一と初めて対面。早めに行った戸板は会場に誰もいないので廊下のソファで待っていたら、カーキ色の服にゲートルを巻いた利倉が登場し、煙草の火を貸したあとに名刺をもらった。

10月、明治座、『布引滝』の義賢最期と実盛、『権八』。義賢は仁左衛門、実盛は羽左衛門。無人芝居なのに、これまでに数度見た『布引滝』の格調が見事に保たれていた。これが羽左衛門を見た最後になった。

10月、暁星のフランス語講座で講演、タイトルは「フランス文学のわが劇壇に与えたる影響」。

11月1日、交詢社にて久保田万太郎と大山功とで食事をしたかえり、空襲警報が出た。

11月20日(月曜日)、報道技術研究会に出勤。報道技術研究会では「マレー戦記」のグラフ誌をつくる仕事に従事していた模様。コピーを担当。終戦近くに完成したものの、敗戦のため日の目を見ず。
【『戦争と宣伝技術者たち』所収「報研日誌」】〈特攻隊写真展示は二班に分かれて原案の作製を急ぐことになり、今日その案が、戸板・今泉・関・新井と四案できた。それを検討の結果、構成には今泉・栗田・大橋の三氏が当ることになり、二二日に持ち寄って検討する……〉

暮れ、毎年の恒例により、日本演劇社の管轄官庁である情報局の役人との食事会。日比谷の三信ビルの東洋軒にて、塩気がかすかにある重湯のようなスープと薄いパン、塩辛い魚を蒸した料理といったメニュウ。暖房もなく、わびしく悲しい昼食会だった。


1945/S20[29歳〜30歳]

1月2日、日本演劇社で新年の初顔合わせ。業務部長の安部豊、企画部長の渥美清太郎が前年暮れの食事会に関する口論を始め、久保田万太郎は「浅草の焼跡を見に行こう」と戸板康二を連れて外にでる。その行きがけの路上で六代目菊五郎に遭遇。
回想の戦中戦後】〈倉皇と久保田さんは、ぼくを連れて、社を出た。風船爆弾工場になっていて興行はしていなかったが、歌舞伎座も、まだ焼けていない。その向い側の銀座松竹という映画館の前まで来ると、向うから大きなマスクをかけ、カーキ色の偉丈夫が供を二、三連れて歩いて来る。「万ちゃん」と呼びかけた。「マスクをとって下さい」と久保田さんが、やや甲高い声でいった。「ぼくだよ」とマスクをとると、六代目尾上菊五郎だった。「ことし、何かやろうよ」といって、菊五郎は澄んだ目でキッと見ると、これから出演する新橋演舞場の方角へ歩きだした。ぼくは、しばらく、呆然としていた。〉

1月、明治座の吉右衛門の『石切』を松竹の内田得三、安藤鶴夫と三人で観劇。鉄かぶとと弁当持参の臨戦体勢の観劇だった。戸外に出ると月夜で、森本薫と杉村春子が楽しそうに歩いてゆくのを目撃。

空襲で電車が不通になると、自転車で築地まで出勤。
回想の戦中戦後】〈目蒲線の洗足から目黒に出て、山手線で有楽町まで来て、それから歩くという、いつものコースのかわりに、自転車では中原街道から五反田に出、御殿山から品川、そしてまっすぐ国道一号線を新橋、昭和通りにまがって、三原橋で右折するのである。そういう出勤を十回ぐらいしたので、東京の坂ののぼりくだりを、ぼくは痛切に体験している。〉

荏原の自宅から自転車で20分ほどの大井出石町の折口信夫宅へつとめて訪問。
折口信夫坐談】〈先生とも、いつ別れるかしれぬ危惧と不安をもつ私は、先生が話される片言隻句を、できるだけ丹念に、記録しておこうと思い、先生の前でさえ、手帳を出して書きとめた。そして帰宅すると、学生時代に買い溜めていた講義筆記用の伊東屋の縦罫のノートに書いていった。その記録は、昭和20年春から、23年の5月に及んでいる。〉

2月9日、午前10時より、報道技術研究会にて小野田政(フィリピンの前線から帰還の報道班員)から話を聞く会開催、これに出席。30人近く集る。

3月10日、東京大空襲。翌日、出石の折口信夫を見舞う。

安部豊とともに、築地小劇場の焼け跡を見に行く。その足で芝翫(のちの歌右衛門)のところへ見舞へ。芝翫が国民服で出て来るのを見て戦争をしみじみ感じる。

3月28日、大空襲のあと山形の新庄へ移った串田孫一に葉書を書く。戸板の油絵「薔薇」の絵葉書を使用。《小生の所でも年よりや母を田舎へやる事になったので残留する父の為に若い者両名合併、昨日から表記のところへ移りました。本は全部前の家へあずけて来たのです、(尤もいよいよという時にこれも要るこれも要るで五十冊ばかりやはりもって来て了いましたが)ゆくゆくは家内も田舎へ送るつもりですが当分東京にいます》と記す。明治製菓にいた頃、宣伝部員や図案部員が中心の美術部に所属しており、その際に山本鼎の指導で油絵を何枚か描いた。部員の展覧会の際に光村印刷で絵葉書にしてもらい、戸板の作品「薔薇」も絵葉書にしてもらった。串田孫一は日記に、《この葉書は絵葉書で、彼の、「薔薇」という題の油絵で、明治倶楽部美術部、昭和16年5月例会に出品したもので、その頃に貰った記憶がある》と記す。

4月のはじめに、召集令状が来る。四谷の文学座稽古場へ久保田万太郎に挨拶に行く。久保田万太郎と森本薫と杉村春子が戸板をねぎらう。

4月10日、前月に山形県新庄市に疎開した串田孫一に手紙を書く。「とうとう小生も『勇躍』する日が来ました。近日参ります。芥川が教鞭をとつてゐた町です。目下身體の具合はまことによく、多分、若干お役に立てませう。東京は花が八分咲き、但し連日寒くてまだ火燵をしまはずに居ます……」

4月11日、東横映画劇場で、文学座『女の一生』初日を観る。
新々ちょっといい話】〈戦局が深刻になった昭和二十年四月十一日、渋谷東横で文学座の「女の一生」が初日をあけた。映画館を借りての公演だが、開場のころ、地下の雑炊食堂に行列ができていた。演出者の久保田万太郎が、その群集をなるたけ見まいとしながら、劇団の戌井市郎に低い声でいった。「とにかく時間が来たら、あけなければいけないだろう」。戌井さんが気の乗らない顔で、「そうですねえ」といった。いく人客がはいるか、不安なのだ。しかし入口をあけた時、行列の人々は劇場になだれこんだ。万太郎と戌井さんが、だまって握手をした。目が光っていた。続演五百七十九ステージ、第一回の日の話である。〉

4月15日、横須賀の海兵団に入るが、レントゲンにかげがあり、6日目に帰される。

串田孫一に手紙を書く。「海の見える町に八日ゐて不思議に帰つて来ました。貴重にして且終生忘れがたい <旅> です。……ぼうつとしてゐますのでとりあへずおしらせと御見舞をかねて一筆します。……短くて長い邯鄲の夢の意味が何かわかったやうな気がします。庭の櫻はそれでもすっかり葉になりきつています。では叉。」

岩佐東一郎が「交書会」を始める。5月に第1回開催。規則は「書物5冊以上とハガキ2枚持参のこと」、交書会とは「書物交換の意もあり、書痴交友の意もある」。この会合に戸板も何度か参加。岩佐東一郎の家は出石で折口信夫の近くであったので、よく遊びに行った。岩佐の編集していた「文芸汎論」に原稿を寄せたこともあったという。岩佐は正岡容と親しくその奇行を時折耳にした。

5月6日、十五代目羽左衛門死す。久保田万太郎の追悼句は「おもかげをしのぶ六日のあやめかな」。奇しくも18年後の同日に万太郎は急死した。
折口信夫坐談】〈5月6日、十五代目市村羽左衛門が信州湯田中の「万屋」で死んだ。何かあると、それを理由に、先生のところへ行った。この日、先生の前で、羽左衛門の話が、無性にしたかった。「羽左衛門も栄養不足で死んだのかしら」。先生は、「栄養失調」とはいわなかった。「あんたが書いた羽左衛門のことを、あんたの歎きを考えながら、読み返したよ」私の『俳優論』が、先生のそばにあった。……〉
【名優=劇場の椅子】〈「日本演劇」の編集者として、僕は警報のしきりに出る日に、麻布で焼けて都下久留米村に移っておられた楠山(正雄)さんを訪ね、「羽左衛門論」の執筆を願った。麦生の青い色が、混雑を極めた電車の窓から目にしみて見えたのを、おぼえている。僕は羽左衛門の気風を思わせる新緑だなと思いながらそれを見た。〉

5月23日夜、借りていた『本朝話人伝』を返すため、放送局へ野村無名庵を訪れる。野村はこの日桂文楽の「小言幸兵衛」を解説、文楽は国民服にゲートルを巻き防空頭巾をかぶって放送局に来た。副聴室で放送を最後まで聴く。その翌々日の空襲で、野村無名庵は亡くなった。

5月25日、東京で最後の焼夷弾攻撃。このときの空襲で父の家が焼け、日記や本などが燃えてしまった。

5月26日、串田孫一に手紙を書く。《廿四日から「都合により」表記(伯父の家)へ一同引移りました。前の家の直ぐ隣りの通りです。みんなそれでも無事、元気ですから御安神下さい。書物その他当分の仕事にも困らないのが幸せでした。もうこれからは海水浴をしている時に夕立が降ってもあわてないでいいというのと同じ心境です。いずれはいつぞや来て頂いた拙宅荏原七丁目に行くつもりですが、今人に貸してあるのでとりあえず表記に居ます。》と記す。

6月16日、串田孫一に手紙を書く。川尻清潭のアパートで芸談を採取していることと、空襲で焼いてしまった團蔵藝談を東京堂で買いなおしたことなどをを記す。《このところ二度ほど川尻氏をたづねいはゆる全盛期のカブキの裏の秘話を無数にききノートを肥しました。焼野原の真中にふしぎと一軒だけポツンとのこつたアパートに唐桟のモンペを着て平然と團十郎の声色をつかつてきかせてくれる江戸っ子がゐる事はなかなか愉快です。》

7月23日、数日前に池田弥三郎の家に留守を見舞った報告のため、三田へ折口信夫を訪れる。お供して田町まで歩き、電車で大森へ。折口はこのとき戸板に、中村魁車論を書き始めたと話す。のちに「日本演劇」に掲載されることとなる「街衢の戦死者」である。

7月26日、「日本演劇」の編集長として情報局の会合に出席。折口信夫が毅然と軍部の人間に発言する姿を目撃。

8月、ソ連が参戦。久保田万太郎が「神風にも見放され、赤の他人のソビエトに可愛がらりょうはずがない」とつぶやくのを聞く。常磐津『角兵衛』の「親きょうだいにも見放され、赤の他人の傾城に可愛がらりょうはずがない」のもじり。

8月15日、敗戦。昼前に自転車で、出石町の折口信夫を訪問。折口信夫は「くやしいことになりそうだね」「なんといっても、金がないのと、学問がたりないので、こんなことになったのだと」と言った。それから自宅に帰り、正午の玉音放送を聞く。

8月15日より再び日記を付け始め、死の二日前まで記入が続くこととなる。大学ノートを買ってベタに並べて書いていた。日記をつけるようになったのは大学入学後、池田弥三郎のすすめで五年使える大判の日記帳を使用、この日記帳は三冊目になろうというときに空襲で焼けてしまった。

8月18日、芝明舟町の川尻清潭を訪問。戦争中からたびたび訪ねて芸談をとっており、この日もいつもの芸談を聴く。川尻清潭はずっと以前から「敗戦国は哀れですね」とつぶやいていたという。荷風の『断腸亭日乗』でも戦争を嘲った川尻清潭による句を見ることができる。

8月21日、大日本興行会に行き、興行会の見通しを尋ね、午後、日本出版会に行き、そこで芸能雑誌に優先的に紙をまわすことになったから「演劇界」を復刊しなさいと言われる。細々と「日本演劇」だけを作っていた社にとっては朗報だった。

8月30日、社にて編集会議、久保田万太郎も出席して、「演劇界」復刊の最終プランが決まる。

9月9日、山形県新庄市に滞在中の串田孫一に手紙を書く。《雑誌も紙を沢山もらえる事になり、今までより忙しくなって来ました。一時二ヶ月に一冊出ていたのが、これから毎月二冊出るのですから、四倍の忙しさになったわけで、戦争中ねじがゆるんでいたのをまき直さなければなりません。》と記す。

9月上旬に、「日本演劇」のこの年の6号・7号を合併した雑誌が出来上っており、「演劇界」は10月上旬に出来上り、復刊第一号となる。

9月26日、「日本演劇」の原稿の依頼のため、出石の折口信夫を訪れる。

10月、帝国劇場にて、水上瀧太郎原作『銀座復興』、『鏡獅子』上演。六代目菊五郎が出演。
回想の戦中戦後】〈「鏡獅子」の幕がおりた時、菊五郎が緞帳の外に出て来て、「困ることがあったら、マックにたのみましょう」といって、左の方を指さした。帝劇の左隣りの第一生命ビルに、GHQ があり、総司令官のマックアーサー元帥がいたのである。 〉

10月7日、戦後最初の「とりふね」の会。

10月8日、串田孫一に手紙を書く。荒小屋を訪ねたい意向を伝える。戸板康二の荒小屋訪問は翌年5月に実現。《帝劇の「銀座復興」は舞台げい古を見に行き菊五郎を大いに「研究」して来ました。菊之助がかつらをとっただけのふしぎな姿でやって来て久しぶりにいろいろ話しました。先達て伊東へ慰問の芝居に行ったら宇垣がそこの療養所にいてたずねて来たと話していました。》とも記す。

10月11日、出石で折口信夫より400字詰め70枚の原稿を受け取る。タイトルは『街衢の戦死者』、3月に大阪で空襲で亡くなった中村魁車に関するもの。

10月13日、串田孫一に手紙を書く。《月は方々に芝居の雑誌が雨後の筍の如く出来、それに「個人として」原稿をたのまれ、いきおいいろんな芝居を見て歩く必要に迫られ閉口しています。十五、十六の二日間は芸能会という所の主催で評論家数名が浅草の芝居を一軒のこらず見て、座談会を開くというのですが、当節のカロリーでは、このような荒行は無理かと思います。「演劇人」という同人雑誌が出来、金主ならぬ紙主(この言葉は小生発明)があらわれ一月から発行の予定。小生も同人になりました。(作家六、評論家四)他に「東宝」「劇場」「演劇」など出ます。「日本演劇」も独占事業でなくなった結果、かなり商品的特色を強要される事になりました。少し苦手です。》と記す。

10月18日、串田孫一に手紙を書く。折口の魁車論を記事に出す喜びを記す。《十月号は折口さんに中村魁車論というもの七十枚かいて貰いました。魁車の事を中心として実は上方歌舞伎の演技論で大した珍品です。編集者として近頃で愉快な事でした。新秋来何か書きたい気分勃興、今観客論をかきかけています。》

10月24日、串田孫一に手紙を書く。《校了の予定がやっぱりおくれて卅日頃になりますので、御邪魔に出るのは十一月上旬という事になります。御上京の予定でもあってそれとぶつかと相すまぬと思いますが、ともかく右申上げておきます。いずれ拝眉の節、匆々(全文)》

10月30日、出石の折口信夫を訪れ、「日本演劇」の『街衢の戦死者』の校正刷りを持っていく。折口は「魁車のことを書いているうちに気が乗ったので、今、仁左衛門のことを書いている」と戸板に話す。

11月、東京劇場の昼の部の『菅原伝授手習鑑』の「伝授場」と「寺子屋」が、中日過ぎに CIE から中止を命じられ、夜の『佐倉義民伝』を昼の部に出すことに。占領下、危機に瀕した歌舞伎の最初のショックだった。松竹は CIE に上演リストを提出し内容を説明せねばならず、二回目は渥美清太郎、水木京太、戸板康二が CIE へ出かける。一連の会議の結果、上演可能か否か三つのランクが決定され興行会社に送付された。

11月1日の夜、折口信夫より『街衢の戦死者』の校正を受け取る。

11月2日、日本文化中央連盟で新劇懇談会があり、これに出席。新劇人の久しぶりの顔合わせ。

11月17日、「三田文学」の講演会、折口信夫が「長屋の遊び」という話をするのを聞く。串田孫一手紙を書く。荒小屋の串田訪問はなかなか実現しない。《あいにく先月末から切符を買うのが一層面倒になったのと、いつか来て頂いたあの家を追い立てられたのと(とりあえず隣の家―二間―へ入りましたが)で、今だに参上出来ずに居りますが、今村さんからのハガキに依るとお加減が悪いとか、とうとう一ヶ月も予定よりおそくなりましたが、果して中旬以後切符買えても、お邪魔に出てよいやらと気にしています。》。

11月18日、出石で「とりふね」歌会。

11月21日、国学院の院友会舘で「とりふね」の会。

12月、永井謙太郎らと「戯曲座」を結成(事務所:荏原区東中延2-443)。翌21年4月旗揚げ公演の予定、と昭和21年2月26日付「読売新聞」朝刊に広告が出る。

12月1日、出石の折口信夫を訪れる。出来上ったばかりの「日本演劇」の10・11月合併号を持ってゆく。

12月4日、毎日新聞が主催する保険協会で、新劇人の懇談会。この日、初めて久保栄の姿を見る。

12月9日、「とりふね」の会。この日の折口信夫は警句が冴えて辛辣だった。

12月10日、串田孫一に手紙を書く。《同時に用事があとからあとから出来、ことに「演劇年鑑」の編集委員になったので、ただでさえ雑用の多い人間、一層用がふえ閉口してます。今月はそれでまだ芝居もロクにみていません。尤も前進座以外はみないでもいいような芝居なのがモッケの幸いですが。「日本演劇」一部別送、折口さんの長篇よんで下さい。来年は又二回かいてくれるそうです。芝居の雑誌ホカに「演劇人」「東宝」「劇場」と出ます。初めのは同人雑誌で僕もその一人。》と記す。敗戦後の演劇雑誌創刊ラッシュで多忙な毎日。

12月15日朝、手に入ったばかりの舶来のチーズを持って、出石の折口信夫を訪れる。

12月21日、串田孫一に手紙を書く。永井荷風の『踊子』『勲章』について述べる。《神田へ時々出ますがやみ市ばかりで本やには本は何もありません。いまだに「予科練への道」だの「マライの風土」だのといううれのこりの本を山のように積んでいる神経はよくわかりません。本やではなく紙やです。たまに大道に素人が店を出して自家本をうっています。その中に時々掘り出しものがあります。「展望」と「新生」の荷風のものよみました。前者は「踊子」(百枚)後者は「勲章」。「踊子」は「ひかげの花」以上の不思議な筆力で、今様春水とでもいいたいもの。刺激がつよすぎる気がしました。「勲章」の話は川尻清潭翁からきいていた話の方が面白かったようです。》。

12月26・27日、有楽座でチェーホフの『桜の園』上演。
回想の戦中戦後】〈築地小劇場以来、新劇の当たり狂言といわれた「桜の園」を、築地にいた俳優が中心となって演じるのだから、ファンは狂喜し、満員の客席には熱気があふれた。「演劇界」では、築地の支配人をしていた松田粂太郎氏に「"桜の園" の廊下」という原稿を書いてもらった。初日に早目に有楽街にゆくと、楽屋入り前の東山千栄子と村瀬幸子が立ち話をしていた。この二人の女優の素顔から、ぼくの戦後の新劇史がはじまったと思っている。〉

12月31日、折口信夫の門口まで晦日の挨拶。年賀は遠慮する。


1946/S21[30歳〜31歳]

1月、演劇雑誌「劇場」第一号刊行。編集長は水木京太(昭和23年7月急逝)。戦後、新しい演劇雑誌が次々と刊行され、演劇ジャーナリズムが活発に。情報局という官庁が背後にあった、戸板康二の属する日本演劇社の状況も戦後変わってきて、財政的に苦しくなっており、ほかの雑誌に書くことで生活が助けられるという側面もあった。前年の末に築地の竹亭にて「劇場」の発起人を招いての会食があり、久保田万太郎とともにこれに参加。戸板康二もたびたび寄稿することになる。

1月14日、串田孫一に手紙を書く。《正月は芝居へも行かずコタツで小説をよんだり随筆をよんだりしてくらしました。島木健作の「再建」、広津の「芸術の味」「北京襍記」などいずれも暮の古書会で入手、天下唯一自筆本の去年の句集(日あたり)も拵えました。毎年ささやかなたのしみをします、句集六年目です。今年は唐紙を貰ったのでうれしかった。》と記す。

1月16日、出石の折口信夫を訪れる。

1月19日、池田弥三郎が復員。
【池田弥三郎「戸板康二についての雑感」=『わが戦後』】〈帰って来たとき、兄の家が新富町にあって、それが焼け残り、家族はそこに集まっていた。すぐに大井出石町の折口先生のところへ、帰還のことを電話で知らせ、それから、築地三丁目の角の、これも焼け残った木造の雑居ビルの二階にあった、日本演劇社の戸板康二に知らせた。彼はすぐに新富町に来てくれた。かけつけて来てくれた、という感じであった。……こんな状態から、「わが戦後」は始まったのであった。わたしはひと晩、戸板に泊まりがけで来てもらって、順序立てて年表式に、わたしの出征以後の、日本のこと、社会のこと、人々のことなど、話してもらった。きせるみたいに、中抜きの経験になってしまった出征中のわたし自身を取り戻そうとしたのであった。〉

2月3日、出石で「とりふね」の会。

2月11日、出石の折口信夫へ「演劇界」を持参。折口は「表紙がいい」とほめるが、写真版が悪くて「この『吃又』は仁木弾正みたいだ」と言う。串田孫一に手紙を書く。《「アラン」の広告拝見しました。串田君が大和村にいるような気がしました。段々貧乏暇なしになりそうで困っています。先月から「戦争と平和」を毎日よんで居ますが、自分も何とかして自分の「戦争と平和」をかかなければうそだと思いました。戦争中の事を反省し、したしいものが別れるとき「お大切に」といい交した習慣なぞを今では却ってなつかしく思います。/三月の終りに旧宅へ帰れそうです。そうしたら是非来ていただきたく思います。今月時事新報の劇評をかく事になり四日続けて芝居を見ました。バカらしい努力でした。御大切に。(全文)》。

2月18日、池田弥三郎の婚礼。出石へ折口信夫を迎えにゆき、一緒に新富町の池田家へ向かう。

3月6日、串田孫一に手紙を書く。《世相は目まぐるしく「旧円中はいろいろありがとう存じました」などと漫才が洒落をいっているそうですが、神田は三月二日の日行ってみると、大道の素人本やが岩波文庫星一つ十五円見当でうっている始末でおどろきました。こうしてみると、例の岩佐家の交書会などうそのような廉さです。その後あの会では谷崎の「初昔きのふけふ」、ジイドの「女の学校」など手に入れました。そちらは雑誌はかえますか。「新生」の三月号に荷風が去年の元日から六月廿日までの日記を出しています。終戦後みたあらゆるものの最高を行くものといえましょう。一寸驚きます。荷風は永遠の青春をもっている人と怖しくなりました。ほかに近頃の小説では「人間」の里見とんの「姥捨」がまとまったものではないかとおもいます。》と記す。

3月16日、十二代目仁左衛門が自宅で妻、幼児、女中とともに、付き人をしていた男に惨殺される。このとき、たまたま三浦三崎に泊っていて、朝刊でこのニュースを知り大きな衝撃を受ける。のち、実録小説『殺された仁左衛門』を書く。

3月20日、池田弥三郎とともに出石町の折口信夫を訪問。その二日前に上京した復員直後の伊馬春部の三人に、病臥中の折口が、創作戯曲を書いて持ち寄って読む会を始めようと提案。

3月24日、串田孫一来訪。串田孫一の日記に《日曜日、風は強いが上天気。昼頃から戸板康二君を山口さんの家に訪ねて、よく喋る。北千束の古本屋で、フレッシャーの建築史を五十円で買う。原稿料の入る見込が立ったのでこんな高い本を買ってしまう。帰り上馬の佐佐木宅へ寄ったが、風が強く、そのためらしいが停電していた。》とある。

3月31日、「とりふね」の会。折口はまだ全快していない様子。

4月1日、国学院に行き恵比寿駅まで折口信夫と一緒に歩く。折口は「演劇界」に載った大江良太郎の「桜の園」の批評がわかりやすくてよかった、と話す。

4月1日、茅ヶ崎の六代目菊五郎の家が火事で全焼。
新々ちょっといい話】〈……その知らせがあった時、劇場の支配人が顔色を変えて伝えると、菊五郎はニヤニヤ笑って、「だめだよ、きょうは四月一日だよ」といった。ほかにも、それを聞いて見舞う者がいたが、そのたんびに、とり合わない。夜、湘南電車で茅ヶ崎まで帰った。駅前の、自転車をあずけてある茶店にはいって行くと、その店のあるじが、「どうも大変なことになりまして」という。菊五郎が鼻で笑って、つぶやいた。「みんな、ぐるになって、いやがる」〉

4月4日、串田孫一に手紙を書く。《貴君が来られてから一週間目にハガキが届きました。このハガキがそちらに届く頃は、この調子だと、表記の所へ小生移ってからかもしれません。とにかく四月八日にむこうへかえります。一年間あけていた間にヨコスカへ行ったり、火事にあったり、戦争が了ったり、マア邯鄲夢の枕以上の出来事でした。(で、センゾク→煎粟亭とこれから呼ぶ事にします。)粟ができあがって目がさめても一向かわりばえもしませんが、自分の家へやっとかえれるという事は愉快です。家内がこの間籐椅子に座ぶとんをおくのを忘れて冷えなかったかと大へん心配しています。(全文)》

4月11日、串田孫一に手紙を書く。《八日に旧居へかえりました。今度はゆっくりと客人を迎える事が出来ます。もっとも当分下に人がはいっているので二階住いですが、今月一杯です。》と記す。岩佐東一郎の交書会で『コンゴ紀行』の文庫版を入手したことも記す。

4月13日、串田孫一に手紙を書く。《前略 柳田國男さんの「火の昔」を洗足の本やで売っていたので買っておきました。「雪国の春」(創元選書)も再版が出ましたが、御入用ですか。如何。五月の十日前後に御地へ行ければ御邪魔したいと思っています。御都合いかがでしょう。冬至の塚田老人その後の消息御存知でしたら御しらせ下さい。怱々(全文)》

4月15日、東劇の一室で「演劇界」のための『助六』の座談会を催す。顔ぶれは、折口信夫、遠藤為春、市川三升、内田誠。出石まで折口信夫を迎えに行った。

4月16日、折口信夫とその門弟の伊馬春部、池田弥三郎、戸板康二らによる「例の会」という創作戯曲をもちよる会が始まり、第一回の会合が開かれる。

4月19日、新富町の池田弥三郎を訪ね雑談。雑談中に折口信夫の使いで吉野正男来訪、河村半之助の急逝を知らせる。河村半之助は故波多郁太郎と仲のよい先輩後輩同士の間柄だった。3人でさっそく慶応病院へ向かう。

4月29日、串田孫一に手紙を書く。次月の新庄訪問が決定する。《五月は久しぶりの大カブキで「助六」が出ます 歌舞伎の残映という感じです/このところ演劇ペンクラブの事で忙しい思いをしました/先日神田に出た次手に十字やへ寄りひさしぶりにで未亡人にあいました 松岡さんの「漱石の漢詩」がやっと司令部OKをとったと喜んでました 出版もしたし店もやりたしらしいのですがいろいろ多難の趣きです/最近「新潮」の高見順の自伝小説と、「三田文学」の北原武夫の「マタイ伝」がよんだものの中ではよく、他ではやはり荷風の日記でしょう/帰還文人といってもジャーナリスティックに有名でない人々ですが 五人ばかり集り座談会をして世相を論じ面白う御座いました/その中で戦争中の文学の創作として何がいいかという事になりましたが 新人中堅に何一つ名品がないのには驚きました/之はお話したかもしれませんが 折口さんの説では谷崎の「さゝめゆき」と久保田さんの「波しぶき」だろうというのです/小山書店の本で中島敦の「李陵」という本はいい本でした》

5月10日、京都の和敬書店(社主:関逸雄)より、歌舞伎雑誌「幕間」刊行(昭和36年9月号終刊)。戸板康二は同年9月号よりたびたび寄稿。また、同社から『わが歌舞伎』(昭和23年1月)、『続わが歌舞伎』(昭和24年12月)、『丸本歌舞伎』(昭和24年3月)の計3冊を刊行。なお、『丸本歌舞伎』の残部は、装釘のみ変えて『歌舞伎名作鑑賞 丸本歌舞伎』として刊行された(昭和26年4月)。

5月11日、交詢社で、折口信夫、久保田万太郎と会う。折口が、久保田万太郎に国学院で講義をするように懇請。

5月13日、疎開先の山形県新庄市に滞在していた串田孫一を訪問。串田孫一、日記に《夜過ぎの汽車で戸板康二君がやって来た。早くから新庄駅で待っていた。どのあたりに乗っているか分らないので、ホームに入らずにいると、彼は改札口を第一番に出て来た。改札口に立っている私を見付けて飛び降りたのではないかと思う。よくやって来てくれた。今は雪道ではないから少しはいいが遠いので驚くのではないかと思い、新庄ホテル、ここが一時間借をしていた庄司留之助の家、それから長い田圃の間の街道を歩き、雪の頃の容子を説明したり、まわりの山の、私の知っている限りの名前を指さして教え、太田の踏切から農家ばかりの道を来る。顔見知が私に挨拶をしながら、東京から来たらしいことが分るらしい戸板君をじろじろ見る。/父上が玩具の会社の社長になったそうで、和美と光弘に独楽をいろいろ貰う。母も嬉しそうにして、一家で東京の容子を聞く。私は支那の墨と本、それに白い塩のお土産。》と記す。
【串田孫一「得難い表情」悲劇喜劇1993年4月号】〈まだ二人とも子供の頃に、泊りがけで遊びに来て、枕を並べて眠った時のことを想い出し、目を覚ませば、ずっと一緒に生活しているように取りとめもなく話をしていた。そして四日目の夕刻の汽車で、米を入れ、芹でそれを隠した火消壷を下げて帰って行った。「全く桃源の里から帰ってきた男のやうな気持」という礼状を受取り、そこには「荒小屋半歌仙」も書いてあった。〉

5月14日、串田孫一、日記に《弁当を作り、小泉山へ行く。/私もここにそろそろ一年近くいながら、こんな遠足のようなことをしていなかった。嬉しいような寂しいような気持に時々なる。》と記す。

5月15日、串田孫一、日記に《新庄の町。城跡へ行く。彼は火消壷を見付けて買う。東京の疲れも出たのだろうか、よく寝る。そして目を覚ませば、もう長く一緒に生活している者のように取りとめもなく、話をする。》と記す。

5月16日、戸板帰京。串田孫一、日記に《戸板君は予定もあり、いつまでも引止めて置く訳にも行かず、夕刻の汽車で帰って行った。火消壷に米を入れる。天気がよかったので悦んでいた。私もその間机に向うこともなく、持って来てくれた本や雑誌を読み、彼と一緒にこの三日間は早寝をした。/私はその間も時々『荒小屋記』のことが気になっていたが、彼にはその話はしなかった。私の『荒小屋記』はどうしても事実をそのまま書いて行くことは出来ない。家もこの家の通りには書きたくないから、架空の改築をする。そしてそれらは舞台であって、主題は飽くまでも精神的なものに止めて置かなければならない。考えてばかりいずにそろそろ本腰で取掛ることにしよう。/だが、一方では、その精神的なものが如何にも貧弱であることが分っているので、取掛っても直ぐに暗礁に乗り上げてしまうだろう。どうも躊躇の方が正しい。怠惰ではない。》と記す。

5月17日、串田孫一に礼状を書く。「荒小屋半歌仙」を記す。号は「山椒亭」。《すっかり御厚遇に甘え心残りなく満腹させていただきよく眠り 全く桃源の里から帰って来た男のような気持で上野につきました。あれから汽車にのりこみちゃんと坐れ一晩又熟睡出来、本当に好都合でした。滞在中皆様の御心づくし且つ貴君には何度も駅まで行っていただき、殊に指定券までとって来ていただいて何といっていいかわからない程感謝して居ります。東京は雨が二日程降ったそうですが、ずーっと快晴に恵まれたのもありがたく思われました。又かえりにあのような御土産、何よりのものをいただき、家内も大喜びしております。芹は早速ゆでて、頂きます。(尚途中何もやかましい事もありませんでした。)/とにかく去年の秋からの宿望を達し得た事の喜び、元気な皆様に御目にかかれた喜び、その他口にいいつくせぬもろもろの喜びをこめて御礼状といたします。/汽車の中でいたずらに荒小屋半歌仙こしらえました。乞御笑覧》

5月18日、出石の折口邸にて第2回「例の会」開催。

5月19日、出石の折口邸にて「とりふね」の会。

5月22日、串田孫一に手紙を書く。《東劇の菊五郎は揚巻とくわんぺら門兵衛とい二役早替りなどという道楽っ気が祟って血圧二百となり、あわてて揚巻だけ時蔵に代って貰ったりしています。自分の年というものを考えて貰いたいと思います。尤も六十をこした菊五郎だから、良寛もよかったのでしょう。東劇の批評某誌に九枚、「演劇界」に二十枚かかせられ、ちがう事を書くのに大苦しみました。/別便で新庄にも売っていた「演劇人」第一号と、久保田万太郎俳句雑誌「春泥」4号とを送ります。「演劇人」の観客論を御高評願いたいと思います。小生の友人で銀座のシニセの息子、典型的な町っ子ですが、これをよんで、自分の事をコキオロシたといって怒っていました。少なくともこんな事かかれると、自分はいいが、自分のおふくろやおやじが可哀想になるというのです。貴兄の率直な批評を是非願います。/今月一杯で小宅の下の人も引きうつり、あと、一人だけ残っている家の娘さんを置く事になりました。畠を耕し、塀を直し、屋根の手入れをし、壁をつくろい、唐紙を貼り直すというような仕事で六月は忙しいでしょう。》

5月30日、久保田万太郎、国学院にて初講義。『たけくらべ』について。交詢社より、戸板康二、万太郎のお供をする。

6月、東京劇場にて、77歳の七代目幸四郎が『勧進帳』の弁慶を演じる。春頃には、前年11月からの歌舞伎に対する拘束が緩和されていた。バワーズという歌舞伎に詳しい副官が、演劇担当係官を志望、前年の基準リストを御破算にした結果だった。『助六』の上演もあり、日本演劇社の人間として菊五郎の舞台稽古を見学することに。

6月3日、串田孫一に手紙を書く。《「演劇人」の2号出たので別送します。今度のは、小説になりそうな題材なのを、こんな風にしかかけなかったので、つくづく自分の筆の力を寂しく思いました。之も御批評下さい。同封の小さな新聞には新生新派の批評がのってます。いわゆるジャーナリストのわざくれと思って頂きます。/「饗宴」見ました。表紙は大正ですね。それから目次のくみ方が、もちろん意識してでしょうが、ひどく野暮で、悪口をいうなら、同窓会の雑誌です。/きのう岩佐家古書会あり、堀口大學の「三人女」や何か相当贅沢な本が出ました。小生思うに、昭和七八年頃の堀口、鈴木といった書物クレフトの作った工芸品のような本を見ると、この人たちの精神は、傲慢というかともかく奢りを極めたものだといいたくなります。》

6月4日、東劇の舞台稽古見学。菊五郎が『助六』を若手役者に手取り足とり教えるさまを目の当たりにした。
【「助六」=歌舞伎ダイジェスト】〈海老蔵は助六で、急に芸がのびた。彼にとって最初の「学年試験」だった。その舞台稽古の日に、菊五郎が一所懸命に手をとって教えていた。そのうちに、彼は揚巻を教え、白酒売を教え、門兵衛を教え、揚句の果に、自分の演った事もない意休まで教えていた。菊五郎の肩の線が、其の都度、立役になったり、女形になったり和事になったりする魔術のようなはたらきを、僕は呆然と見とれた。〉

6月10日、串田孫一に絵入りのハガキを書く。菊五郎の舞台稽古を見学した興奮について記す。《先日はいい原稿をいただきありがとう御坐いました。七月号にのせます。七月十五日頃出来の予定、左様御承知願います。六月四日の日東京劇場に行って若手の「助六」のぶたいげい古を見ました。海老蔵の助六が花道でおどっていると菊五郎がその真下からにらみつけて見てました。之はそのゑです。似てませんが手前にいるの六代目、花道の向うでにやにやしているのが浪野のおやじです。菊五郎はこの日助六を教え揚巻[を]教え白酒うりを教え白玉を教えじれっ[た]くなって舞台へ飛び上って自分でやっ[て]見せますと、それがすべてその役を彷[彿]させるのです。いい勉強をしました。今の若手は菊五郎のような人のいる間にうんといろんな事を教っておくべきだと思いました。いずれにしても、僕は大へんこの日昂奮して帰りました。》

6月21日、出石の折口信夫を訪れる。

6月29日、交詢社にて、好学社より刊行される久保田万太郎全集監修者の集い。小宮豊隆、里見とん、三宅正太郎、山下新太郎、編集委員の大江良太郎、安藤鶴夫、久保田耕一、戸板が集まった。ほかに、万太郎と好学社の人びと。そのあと、水天宮の吾妻徳穂が経営している店で会食。その際、日本橋高女で講演をしていた折口信夫を迎えに行く。折口、大江良太郎を水木京太と間違える。

6月30日、「とりふね」の会。所用あり中座。

7月6日、串田孫一に手紙を書く。《小生も出版の話あり、旧稿(俳優論以後)をまとめようかと思っています。之はちゃんとしたエッセイ集にしたいと思っています。尤もまだ先方とハッキリ話をきめたわけではありませんが。》、《小生はいわゆる田舎芝居を知らないのですが、観客論の筆者として之ではいけないと思い、機会を見てせめて上州か信州辺りへ見学へ行きたいと考えている次第です。漱石全集が桜菊書院という所から出ましたが、印刷が悪いので甚だ興ざめ、一方岩波でももとの決定版の紙型をつかって全集を出そうという話あり、何でも漱石死後三十年たったので、もう著作権問題は解消したのだという事ですが、それにしても森田草平、内田百間、久米正雄、夏目伸六が、小宮、松岡等と対峙しているのは兄弟相セメグようで不快です。特に久米と松岡の対立なぞはね。久保田全集の仕事もあり、いろいろとこの所忙しくすごして居ります。先夜久保田さんが、里見、折口、小宮、山下(新太郎)、三宅(正太郎)五先生を招いて小生等も出席しましたが、諸先生の酔態で大変学問をしました。これはおあいした時ゆっくり(口頭を以て)話したく思っています。》といった近況を伝える。

7月13日、第3回「例の会」開催。

7月22日、「日本演劇」を持って、出石の折口信夫を訪れる。折口より『憂々たり車上の優人』の原稿を受け取る。

7月23日、串田孫一に手紙を書く。串田孫一の原稿のお礼、「日本演劇」を送る。《「日本演劇」十六日に発送しましたが届きましたか。カットは貴兄のページに限らず全部山椒亭匿名です。》。

7月27日、折口信夫より、久保田万太郎全集月報の原稿を受け取る。

7月31日、串田孫一に手紙を書く。「頭が疲れた」ので山中湖で2泊したという近況と合わせて、『わが歌舞伎』出版決定について記す。《所で小生のエッセイ集を出してくれる本やがありまとめて原稿渡しました。スクラップブックをやいたので、そろえるのに一騒動でした。幸いにOKがとれたら秋には出ると思います。今度は「わが歌舞伎」という題にしました。やはり装幀だけは、ハイカラにしてくれとたのんでおきました。内容は前に「舞踊芸術」にかいた「丸本物巡礼」が二〇〇枚近くあり、他に俳優論、観客論と、大衆文芸の「見得の話」を入れました。そのうち「演劇雑記帳」(冬夏の「夜空」のシリーズ)もまとめたいと思っています。之は「観客手帖」という題は何うでしょうか。今この方は二百五十枚程あります。題は「演劇雑記帳」とどっちがいいか、御高教願います。》。

8月、武智鉄二が京阪の劇評家と『観照』という雑誌を出す(昭和27年9月終刊)。安藤鶴夫とともに戸板康二も同人に誘われる。

8月15日、折口信夫を訪れる。「日本演劇」の『車上の優人』の校正を受け取る。

8月17日、箱根の折口信夫の山荘叢隠居に泊りがけで行く。「例の会」開催。

8月20日、串田孫一来訪。串田孫一、日記に《荏原の戸板康二君の家を訪ねる。昼を御馳走になる。家をさがして貰うこと、虫のいい話だが頼む。そして東京へ出て来たら、店は持たずに古本屋になって、当座の生活費を稼ごうと思うと言うと賛成だった。古本屋をしていれば、いい本が次第に集まりそうだし、彼にも手伝って貰う。一緒に銀座へ出る。彼は無料の券を持っていたので、カールトンという店で、氷菓とココアを飲む。実にうまく贅沢をした想いがする。》と記す。

8月24日、串田孫一に手紙を書く。和敬書店が「少しインチキくさい」旨記す。《先日はいつもながらソウソウにて失礼しました。御上京の御決心大歓迎です。スターズアンドストライプス紙上には米、砂糖のクレディットも決ったという話ですし、もう安心でしょう。やはり(本当のイミの)文化人は東京にいるのがいいのだと思います。御宅の事は心がけています。新聞の三行広告に売家というのが毎日一口か二口出て居り、十五万円二十万円という所です。御希望の Detail がわかったら尚のり出します。/「わがカブキ」は出版やが少しインチキくさいので足ぶみしてます。では又。》

8月31日、串田孫一が東京に戻るにあたって、彼の家さがしについて速達を出す。《前略 目黒の柿の木坂に十五万円のうちがあるというので行って見ました。渋谷から出る東横線都立高校下車歩いて七八分の所です。木造二階建三七坪二五(下二九、二五、上八、〇)間数は七間下が四半、六、八、三、洋八、上が六、四半で、外まわりだけとりあえず見て来ましたが、いわゆる中流住宅ですが日当りよく、環境は大へんいいのです。……》

9月3日、串田孫一に手紙を出す。前日に今村信吉が来訪。串田孫一の家探しが本格化する。

9月5日、「幕間」9月号(第1巻第5号)刊行。戸板の同誌の初寄稿(「東京劇場だより 八月」)。串田への7月31日付の手紙に『わが歌舞伎』出版決定についてのくだりがあり、8月24日付書簡には和敬書店が「少しインチキくさい」旨が報告されている。同誌への寄稿以来と『わが歌舞伎』刊行依頼はほぼ同時だったことがみてとれる。

9月8日、岩佐東一郎の家へ「交書会」に出かけて留守の間に串田孫一来訪。

9月9日、串田孫一の家さがしを手伝う。一緒に下見に出かける。串田孫一に、日記に《その家を出ると戸板君も行成、「きたねえかみさんだねえ」と言った。戸板君は弟さんがフィリピンから帰って来るというので品川へ出迎えに行く。私は途中まで一緒に来て高輪の姉を訪ねる。彼と電車を待っている間、煙草に火をつけ、『三田文学』に載った彼の友人の小説の筋を聞いているうちに、うっかり涙を流しそうになった。私は近いうちにその小説を読んでみて、戸板君が如何に巧みにその話をしたか、その辺を確かめたいと思った。……》と記す。

9月10日、弟の山口健夫がフィリピンより復員。夜の品川駅へ迎えに行く。私鉄の終電車が出てしまっていて、五反田から洗足まで中原街道を歩いた。良夜と呼ぶにふさわしい月の晩だった。(串田孫一の日記によると、弟の復員は前日の9日になっている。要確認)

9月12日、串田孫一、築地の日本演劇社へ戸板を訪ね、吉祥寺の家に決まったことを報告。

9月14日、三島由紀夫と初対面。東京劇場、昼・夜の部観劇(『鳴神』『春日竜神』『十六夜清心』『かごや』『土蜘』『京人形』『三社祭』『加賀鳶』)の折に旗一兵が二人を引き合わせる。三島はいきなり「戸板さんは七代目宗十郎をどう思いますか」と聞き、「いいんじゃないですか」と答えると「私は大好きなんですよ」と言った。戸板は以前から、安藤鶴夫から「三島という天才的な若い作家がいるそうだ」と聞いていた。

9月15日、串田孫一に手紙を書く。串田孫一の家が決まったことをよろこぶ。《いい家がきまって皆様なぞ御よろこびの事と存じます。小生もホッとしました。牟礼の貴君の書斎に通してもらう日をたのしみにしています。「座右寶」4号出ますが非常にいいので途中紛失の惧れあり、あずかっておく事にさせて下さい。「どん底」は皆上手いのですが、薄ぐらくて忌な芝居です。「土蜘」や「三社祭」の方がやはりいいといったら笑う人もいるでしょうが。》

9月末、串田孫一、新庄を引き払って東京に戻る。

10月26日朝、出石の折口信夫を訪れる。

11月4日、国学院大学祭で、折口信夫の『芹川行幸』に池田弥三郎とともに出演。折口はみかどの声だけ陰で言う。
【「折口信夫」=わが交遊記】〈先生が自分の脚本「芹川行幸」の実演の時、舞台のかげから帝の声だけをいったのを、国学院の講堂で聞いた。湖月抄の朗読を思い出したが、それはどこか、五代目中村歌右衛門の口跡に似ていたようである。〉

11月6日、三田の国文学研究会に出席。折口信夫が、前月の歌舞伎を見た学生たちに演目について話す。手習鑑について。国文学研究会が芝居合評会になり、以後しばらく続く。

11月8日(金)、東京劇場で三島由紀夫に会う。旗一兵も居合わせる。

11月22日(金)、三島由紀夫に会う。

11月25日夜、折口信夫に、東劇の切符を届ける。

11月28日、折口信夫、「苦楽」に依頼された羽左衛門論のため、故人をよく知る遠藤為春、波多海蔵、池田金太郎より話を聞こうと言い、新富町の池田家で集う。戸板、池田弥三郎、小野英一、伊馬春部も陪席。このときの筆記をのち「芸能」昭和39年4・5月号に掲載。

12月4日、三田の国文学研究会開催。11月の東劇の演目について。折口は菊五郎が初役で伊左衛門を演じた『吉田屋』について話す。

12月5日、三越劇場が開場、初めての興行は吉右衛門一座。雑誌の仕事で足繁く通う。歌舞伎にとっても新劇にとっても三越劇場「第一次」の六年間は大きな意味を持つ。

12月6日、箱根で「とりふね」の会。久保田万太郎の結婚披露に出席のため、戸板は8日朝に帰京。折口より万太郎宛の色紙を託される。「としくれてよきつてごとをきくものか、うらやましくてたのしかりけり」と書かれてあった。

12月8日、下高輪の三田旅館にて、久保田万太郎の結婚披露宴。喜多村緑郎、里見とん、川口松太郎、大場白水郎、小林秀雄ほか20名ほどが列席の盛んな会だった。

12月11日(水)、午前11時より午後8時まで、三島由紀夫と新宿第一劇場にて観劇(「いもり酒」「玄冶店」「橋弁慶」「小来栖の長兵衛」「一つ家」「紅葉狩」「明烏花濡衣」「刺青奇偶」)。「いもり酒」が復活し、宗十郎が橋立を演じるので三島を誘った。終演後、新聞社の人を交えて会食。戸板も同席? 
【「戦後歌舞伎ベスト・テン」=劇場の青春】〈この人の片はづしは、この役ひとつではないが、戦後の初見のものとして挙げておく。新宿第一劇場がまだ芝居をかけていた時代、21年12月の所演であった。女之助と夕しでを上手の屋台に入れてからあとの所が特にうまく、又面白い演出であった。女方としてのゆるぎない安定感を見せたものとして、目に残っている。これが72歳の宗十郎だったと考えると、一層感慨が深い。〉

12月26日、出石の折口信夫邸にて、第7回「例の会」開催。

12月28日(土)、三島由紀夫、午後に「宗十郎のことなど――俳優論」を書き始める。新宿第一劇場観劇時に戸板が依頼した原稿。


1947/S22[31歳〜32歳]

1月、好学社より、『久保田万太郎全集』刊行開始(全18巻、25年1月に完結)。ほとんどの著書を焼かずに持っていた龍岡晋より久保田万太郎の著書を借り底本とする。その折龍岡晋と初対面。

1月1日、出石の折口信夫へ年賀の挨拶に訪れる。折口より「ふけやくになるまでいきし佐野川のごとくあらむとわれはおもはず」という歌をもらう。
【「折口先生の芝居の歌」=見た芝居・読んだ本】〈晩年の歌である。「佐野川」とは、市松模様の佐野川市松ではなく、宝暦の女形、佐野川万菊であろう。はじめ美しい役者だったのに、後年役柄を変え、老年期には、むざんにも、老け役をつとめた。これは、見ようによって、残酷ものがたりである。先生は、そんな佐野川のような余生を送るのはまっぴらだと思っていらしたにちがいない。苦渋のない歌のようだが、内容的には、先生の心境を吐露した、読んでいてつらい歌ともいえる。ぼくはこの歌を半折に書いていただいて、時々その軸を掛けている。〉

1月6日(月)、三島由紀夫、前夜から執筆の「宗十郎のことなど――俳優論」17枚を擱筆、9時半に家を出て、日本演劇社に届けに行くも、戸板不在。東劇観劇後の午後、ふたたび訪ねるも不在。

1月9日(木)、東京劇場にいる戸板康二を三島が訪問。「宗十郎のことなど――俳優論」を手渡す。この際に、帯谷瑛之介を介して原稿を見せられた安藤鶴夫が激賞。

1月23日(木)、大学のあとに三島が日本演劇社を訪れるも戸板は不在。

1月26日、出石の折口信夫を訪れる。

1月27日、「苦楽」のことで、三田の折口信夫を訪れる。

1月29日、三田の国文学研究会開催。東劇の春芝居、吉右衛門の『金閣寺』の東吉、『引窓』の十次兵衛について、折口が話す。

2月2日、出石の折口信夫邸にて第8回「例の会」開催。

2月8日、小島政二郎より「長いものには巻かれろ」という言葉の意味を「折口先生にうかがってください」と言われる。12日朝、出石の折口信夫を訪れる。折口、言下に「蛇だろう」と答える。

2月16日、「とりふね」の会。

3月6日、出石の折口信夫を訪れる。「日本演劇」「演劇界」の1・2月合併号を持ってゆく。『菅原』の通しの話をする。

3月9日、出石で「とりふね」の会。

3月11日、「垂教会」の準備のため、出石の折口信夫を訪れる。

3月13日、交詢社にて「垂教会」開催。遠藤為春、波多海蔵、池田金太郎、小野春吉を招いた、むかしの芝居の話を聴く会。戸板が司会をつとめる。折口信夫、「教を垂れていただく会です」と言う。四氏は口をそろえて、「とんでもない、酔興会と書いた方がいい」と言う。明治の名優の話に終始する。この会の速記は、のち「芸能」昭和39年10・11月号に掲載。

3月16日、折口信夫、池田弥三郎に「戸板に今日会ったので、あんたが講師になったことを話した。戸板のことも口まで出たがよした。それとなくあんたから言っておいてくれ。このごろお酒を飲み歩いているようだが、作者ならそういう生活も生きてくるが、戸板は評論家なんだから」と言う。

3月26日、出石の折口信夫を訪れる。

3月27日、三島由紀夫が「幕間」を買ったあと、日本演劇社を訪れるも戸板不在。

「日本演劇」4月号に三島由紀夫『沢村宗十郎について』掲載。

4月1日夜、池田弥三郎とともに出石の折口信夫を訪れる。「例の会」と国文学科の芝居についての打ち合わせ。

4月9日(水)、東京劇場観劇(「花競劇錦絵」「高時」「色彩間苅豆」「神霊矢口渡」「供奴」「帯屋」「大森彦七」「帯屋」「天衣紛上野初花」「乗合船」)。第二部の「帯屋」より、第一部を家族と観劇していた三島由紀夫とともに見る。

4月15日、出石で第9回「例の会」開催。

4月23日(水)、三島由紀夫のもとに日本演劇社より稿料146円入金。

4月24日、出石で国文学科の芝居の筋をたてる。

4月27日、出石で「とりふね」の会。

5月2日、三田の国文学研究会。久保田万太郎も出席。戸板は万太郎の『月』の一部を朗読。万太郎に、訛るのでびっくりしたと言われショックを受ける。戸板のはむしろ標準語に近い東京弁であった。席上の折口は四年生の学生たちに1円ずつ渡して何でもいいから買って来いと命じる。このことを後日、久保田万太郎が「機知」という随筆にした。

5月8日、慶應義塾の教室で国文学研究会の公開講座。折口信夫が「手習鑑をめぐる諸問題」という話をする。戸板と池田弥三郎合作の記念劇『九十年』の脚本を朗読。

5月12日朝、出石の折口信夫を訪れ、「月刊スクリーン・ステージ」の原稿、『菅原評判記』の原稿を受け取る。

5月20日、三田の折口信夫を訪れる。久保田万太郎に託された『あきくさばなし』を届ける。

6月5日、三田で国文学研究会開催。折口信夫を囲んで、『菅原』の通しの合評会。

6月12日、三田で『合邦』の本文研究会。戸板と池田弥三郎合作の記念劇『九十年』の本読み。

6月、演劇雑誌「役者」刊行(16号で廃刊)。戸板康二も原稿を書く。通りがかりに木挽町の事務所をちょくちょくのぞく。川口子太郎をホストにしたサロンという趣で、武智鉄二や志野葉太郎がいたりした。

6月、キネマ旬報社により「月刊スクリーン・ステージ」刊行。それまでは週刊誌の「スクリーン・アンド・ステージ」が出ていた。戸板は社外嘱託という形で手伝っていた。

7月1日、三田演説館で戸板と池田弥三郎合作の記念劇『九十年』の稽古に立ち合う。西村亨が福沢諭吉に扮する。

7月1日(水)、三島由紀夫に「スクリーン・ステージ」の原稿を依頼する。

7月2日(木)、住友の就職試験の帰りに三島由紀夫が日本演劇社に立ち寄る。「宗十郎覚書」の原稿を手渡す。

7月6日、出石で「とりふね」の会開催。

7月9日、東劇の昼夜を、折口信夫、久保田万太郎夫妻、吉井勇、伊馬春部、池田弥三郎とともに観劇。

7月10日、三田で『九十年』の稽古。

7月11日、有楽町の保険協会で国文学科としての慶應義塾90年記念の催し。戸板と池田弥三郎合作の記念劇『九十年』上演。折口信夫の『翻訳劇以後』という講演。この日配付されたプログラムに戸板は「福沢先生の芝居」を執筆。(『三田の折口信夫』所収)

7月12日、三田「コロンバン」で前日の慰労会。

7月16日(水)、三島由紀夫のもとへ「スクリーン・ステージ」の稿料200円入金。

7月22日(火)、三島由紀夫のもとへ戸板康二から手紙が届く。

7月28日朝、出石へ。

7月28日、三島由紀夫が東京劇場で観劇(「鈴が森」「合邦」「夏祭」)。三代目梅玉の合邦を見た直後に、日本演劇社付けで戸板康二に長い手紙を書く(「三島由紀夫断簡」)。

8月4日、折口信夫宅へ雑誌2つ持参。

8月7日、午後、三島由紀夫が日本演劇社の戸板康二を訪問。久保田万太郎が「あたくし近頃うとくなりまして」と言う。

8月、戦後はじめての関西行き。雑誌「幕間」が愛読者の会で、南座で上演中の『夏祭』に絡んだ企画を催し、これに参加。会場の三条の毎日会館で久しぶりに三宅周太郎に会う。

混雑した列車で京都に到着、駅の外に出ると、戦災のあとの残る東京に比べると京都は別世界だった。南座の芝居のあと、疲れたのでヒロポンを服用、胸が苦しくなり、楽屋で休ませてもらうということもあった。ヒロポンは久保田万太郎に教わって何度か服用していたが、この時でやめた。

七泊八日の滞在中、西陣の吉田という家に泊めてもらう。京都では、大徳寺、二条城、広隆寺、嵐山、天竜寺、祖国寺、御所と夢見心地で歩き回り、東京での塵労の疲れがさわやかにとれてゆく思いを味わう。このときから京都への傾倒が始まり、以後、生涯にわたって、京都に親しんだ。毎年、三、四回訪れる。

8月26日、箱根に滞在の折、折口信夫、池田弥三郎に「戸板もこのごろは新聞記者なみの生活になっているようだ。もっと凝集するところをこしらえないといけない。生活もはっていようしね。」と言う。

9月6日、出石の折口信夫を訪れ、京都へ行った話をする。

9月19日、折口信夫、東劇を見物。「演劇界」を届ける。

9月25日、三島由紀夫が戸板康二に手紙を書く(翌日投函?)。

9月28日夜、出石の折口信夫を訪れる。『死者の書』『日本文学の発生序説』をもらう。

10月4日(土)、三島由紀夫が1時から7時15分まで三越劇場で歌舞伎を見る(「十種香」「其小唄夢廓」「毛谷村」「馬盥」「菊畑」「三人形花色彩」)。帰宅後の夜に戸板康二に手紙を書く(芝居の感想?)。

10月20日発行の「スクリーン・ステージ」に戸板が依頼した三島由紀夫『宗十郎覚書』掲載。

10月23日(木)、午後日本演劇社を訪れた三島由紀夫に俳優論を依頼。

10月25日(土)、三島由紀夫、午前中に戸板康二に依頼された俳優論として『宗十郎論』を執筆。午後から外出。

10月26日(日)、三島由紀夫、終日『宗十郎論』を執筆(この宗十郎論の寄稿先は?)。

11月4日(火)、三島由紀夫が戸板のもとに七段目のレコードを持参。

11月8日、逗子の好学社長川口芳太郎邸で久保田万太郎全集顧問招待。折口信夫、高橋誠一郎、里見とん、志賀直哉、山下新太郎らが集まる。戸板が帰りに折口を出石まで送る。

11月11日、交詢社で国文科送別会。

11月14日、東劇で観劇の折口信夫へ、川尻清潭の『芸』と「悲劇喜劇」創刊号を届ける。

11月21日、三越劇場で観劇の折口信夫のところへ、「演劇界」の座談会の日取りを聞きに行く。そのまま、『浜松風』と『しゃべり』を再見。

11月27日、三田の国文学研究会で『忠臣蔵』の合評。

11月28日、出石まで折口信夫を迎えに行き、茅場町の「天華」で「演劇界」の座談会。他に、久保田万太郎、川尻清潭らが出席。

11月29日夜、出石で折口信夫『短歌啓蒙』のお祝い。折口に、東劇に皇后と皇太后が観劇に来た話をする。

12月24日、出石の折口信夫を訪ねる。足が腫れていたため久し振りの来訪となった。

12月27日、池田弥三郎、伊馬春部らとともに、折口信夫に横浜の「華勝楼」で御馳走になる。

12月28日、ひさしぶりに第10回「例の会」開催。


1948/S23[32歳〜33歳]

1月1日、出石の折口信夫へ年賀にゆく。前日届いたばかりの『わが歌舞伎』を渡す。折口は「よかったね」と言う。

1月10日、『わが歌舞伎』(和敬書店)刊行。書誌データ

1月12日、池田弥三郎とともに折口信夫を訪れ、東劇春芝居の批評を聞く。

2月1日、東京劇場初日。『千本桜』の通しでは、海老蔵三兄弟が各段の主役を演じる。これもバワーズの企画で実現した興行だった。舞台稽古で菊五郎が監事室で出す注文を川尻清潭に書き取ってもらい、「菊五郎駄目帳」として「日本演劇」の記事にした。
【「義経千本桜」私感=歌舞伎の周囲】〈海老蔵、染五郎、松緑の三兄弟、それと梅幸、芝翫の、この五人は、大切な存在である。そして、その大切な存在を意義あらしめるためには、菊五郎、吉右衛門の目が黒いうちに、大役を次々と与え、奔命に疲れさせるのがいい。歌舞伎に限っては、全く一刻が千金というほど貴重なのである。〉

2月3日朝、出石の折口信夫を訪れ、お供して東劇へ行き、池田弥三郎とともに、『千本桜』観劇。

2月5日、三田の国文学研究会にてで東劇の『千本桜』の合評会開催。

2月18日(水)、三島由紀夫が「ジャン・コクトオへの手紙――『悲恋』について」擱筆。この原稿に際して、戸板に「スクリーン・ステージ」に載せてもらえないかという旨の葉書を書く(「キネマ旬報」4月下旬号に掲載)。《こちらはやっと勤め人生活も軌道に乗り、毎日帰宅してから仕事も捗り、おかげ様で元気一杯暮してをります》と書き添える(三島の大蔵省初登庁は前年12月24日)。

2月24日朝、出石へ行き、折口信夫のお供をして東劇へ。

2月28日、熱海まで折口信夫のお供をする。「観光ホテル」に泊る。翌日、折口は伊東へ、弟子たちは帰京。

春、新橋の掘に沿ってあるいていると、偶然花森安治に再会。そのまん前の日吉ビルに「衣裳研究所」を開いてスタイルブックを発行してた花森安治は、近々新しい雑誌、すなわち「暮しの手帖」を出すつもりで、創刊号から歌舞伎についての解説風のエッセイを書かないかともちかける。その足で、戸板は「衣裳研究所」編集部に立ち寄った。同じ建物に「苦楽」の編集部があった。

3月3日、出石の折口信夫へお礼に行く。折口は旅から戻っておらず、できたばかりの『演劇年鑑』を置いて帰る。

3月15日、出石の折口信夫宅にて東劇の芝居の合評会。他に、池田弥三郎、伊馬春部が来る。

3月29日、毎日会館のセントポールクラブで催された友右衛門の婚礼披露に出席。媒酌人の菊五郎が、モーニングを白襟の紋付羽織袴のように着て、新郎新婦紹介のときに実にいい笑顔を見せたのを目撃する。

6月20日放送の『市民の時間』で利倉幸一と対談、テーマは「六月の新劇について」。これが、初めて電波にのった戸板康二の声。

7月、「美しい暮しの手帖」連載の「歌舞伎ダイジェスト」最初の原稿、『助六』を書く。

7月、東劇で菊五郎が「伊勢音頭」の貢を初役でつとめる。大正12年9月の市村座で初役の予定が震災で流れていた。昭和31年4月刊行の『六代目菊五郎』に《この十年のあいだでは、菊五郎のこの「伊勢音頭」の時ほど、じりじりした経験はない》と記す。大の菊五郎贔屓であった三宅三郎に批評を依頼し、「日本演劇」8月号巻頭に掲載する。戸板は、三宅三郎の「貢と震災と妹」という随筆をかねてより愛読していた。

8月、演劇雑誌「花道」刊行。「役者」の編集をしていた斉藤竹治が創刊。川尻清潭が肩を入れた雑誌だった。

8月11日から14日まで箱根滞在。久しぶりに「例の会」開催。

9月20日、NHK ラジオで浜村米蔵と梅幸とで鼎談の予定があったのだが、梅幸が怪我をして三越劇場の『天下茶屋』の伊織を休演することになって欠席、結局浜村米蔵との対談になった。その二日後、鵠沼の梅幸を見舞う。

11月、「日本演劇」11月号に三島由紀夫の劇評『宗十郎の「蘭蝶」』掲載(末尾に「10月5日所見」とある。

11月30日、『歌舞伎の周囲』(角川書店)刊行。書誌データ
★ 「俳優論」以降書いた歌舞伎に関するエッセイの中から、えらんで、「歌舞伎の周囲」とした。短いものばかりで、今更のように演劇ジャーナリズムの中で為事に追われていると、腰をどっしりすえた労作など容易に出来ないと思い、又それは自分の懶惰でもあると思い、さびしかった。……僕はこの本のために、原稿を整理しながら、自分の勉強不足を痛感した。まだまだ書物を沢山読まなければならない、修行もしなければならない、そう痛感した。書物とは歌舞伎の書物ではなく歌舞伎以外の書物である。そして、修行とは観客としてではなく、人間としてのそれである。……(あとがき/昭和二十三年初夏)

12月、京都行き。このとき芝翫(のちの歌右衛門)と対面。1時間ほど話した記録を「幕間」昭和24年2月号に「芝翫と語る」として掲載された。帰る晩に和敬書店の2階で、関逸雄より木村伊兵衛による菊五郎の写真を見せてもらう。和敬書店『六代目尾上菊五郎舞台写真集』は翌年11月に刊行。


1949/S24[33歳〜34歳]

1月、三田文学会に「戸川秋骨賞」が設定され、選考委員のひとりに折口信夫が就任。

1月27日、七代目松本幸四郎没。31日、東劇にて劇場喪。菊五郎と吉右衛門の焼香を目撃する。

2月、雑誌「読書倶楽部」2月号にて三島由紀夫と往復書評。戸板は三島の『盗賊』を、三島は戸板の『歌舞伎の周囲』を書評。

2月3日、三越劇場初日(「鳴神」「油地獄」)。この公演を観劇した直後に三島由紀夫が戸板康二に葉書を出す。友右衛門の絶間姫について、《この人は帽子をつけるお姫様役なら必ずよいようです。芝翫が帽子をつけるとこれほどの色気が出ません。》と書く(「三島由紀夫断簡」)。

2月24日、折口信夫の『恋の座』の出版祝いが銀座禿天にて開催。版元は「新文明」の和木清三郎で、戸板、池田弥三郎のほかに、町田義一郎、今宮新、中村精、島田久吉が集った。

2月24日、三島由紀夫『火宅』を俳優座創作劇研究会が有楽町の毎日ホールで初演。演出:青山杉作、出演:千田是也、村瀬幸子。この上演の際、久保田万太郎に叱られた旨、三島が戸板に葉書を書く。《この間久保田先生に、「あなたは芝居といふものを馬鹿にしてゐる」と叱られ、しょげてしまひました。「芝居は僕のはけ口です」と申上げたので、ますます叱られました。僕は高村光太郎が彫刻家として、「詩は私の安全弁」と言ってゐる、あの言ひ方のつもりで言ったのです》(「三島由紀夫断簡」)。

3月2日、七代目沢村宗十郎没。

3月5日、『丸本歌舞伎』(和敬書店)刊行。書誌データ
★ ……丸本歌舞伎という芝居は、演出の面白さを見るべきものだ。且して演出の変遷は俳優の工風に由来し、俳優の工風はつねに観客の気分に迎合しているものだから、結局、型の研究は、観客の歴史と表裏一体であるともいえる。観客の総意を代表しているとは必ずしもいいきれないがその時代の嗜好をいつも反映している筈の評判記を中心にして、観客史を他日書いてみたいと、僕は思っている。……(あとがき/昭和二十三年初夏)

3月11日、芝の美術倶楽部で、『丸本歌舞伎』出版記念会が催される。発案は折口信夫、発起人は久保田万太郎と折口信夫、「例の会」と安藤鶴夫が世話人となった。七十余名が集う。折口信夫が「平気平三困切石」という題で『石切梶原』のパロディを執筆。小野英一が主演、六郎太夫が池田弥三郎、梢を川口子太郎、大庭が利倉幸一、俣野を大木豊、剣菱の呑助を安藤鶴夫が演じる。
【三島由紀夫「折口信夫氏のこと―折口信夫追悼」三田文学昭和28年11月号】〈その氏が、日本神話(氏が日本の民俗信仰の特殊性から「神話」という語を避けられたが)の憂愁と死の面にのみ敏感で、笑ひの面にはうとい方のように思つてゐた私は、ある年、戸板康二氏の出版記念会で、折口氏作の石切梶原のパロディの仁輪加に爆笑を禁じ得ず、改めて氏の生ひ立ちの中に、洒脱濶達な上方文芸の伝統のあることを痛感して、一驚を喫したのであった。〉
【「先生独特の表現」=折口信夫坐談】〈昭和二十四年に、先生はぼくの出版記念会を発企して下さった上、当日の余興にといって、「平気平三困切石」という脚本まで頂いた。全集廿四巻所収、歌舞伎の「石切梶原」の書きかえである。いま一般にパロディーと呼ぶ、戯画化であるが、先生の着想は故郷大阪のにわかが源なので、活動写真の技師がフィルムを逆廻転させた趣向ではじまる一幕は、上方にわかと全く同じようなサゲで終わっている。〉

このときの『丸本歌舞伎』の出版記念会は戸板康二にとってはじめての出版記念会だった。この日に出席した丸岡明と三島由紀夫と角川源義は、散会後に4人で連れ立って午前二時まで神田を彷徨したあと、丸岡明紹介の喫茶店の二階で雑魚寝をしたことが、奥野信太郎著『女妖啼笑』に書かれている。

4月より、毎月東京新聞に劇評を寄稿(4月10日掲載)。昭和54年5月に病を得るまでの30年間、東京新聞に毎月戸板の劇評が掲載された。

4月6日、東京新聞最初の劇評のため、東京劇場の二日目を観劇。菊五郎の『加賀鳶』の道玄、『寺子屋』の松王丸を見る。翌朝、劇評を社の使いに渡したあと、日本演劇社に出勤し、そこで、前夜菊五郎が倒れたというニュースを聞く。菊五郎は再起することなく7月に死亡したため、奇しくも菊五郎最後の舞台に立ち会うこととなった。『加賀鳶』質店の道玄が女按摩のお兼と下手に入っていく後ろ姿が菊五郎の見納めとなった。

5月、『わが歌舞伎』と『丸本歌舞伎』で第一回戸川秋骨賞を受賞。戸板の受賞に寄せた久保田万太郎の句が「夏逸る玉菜のいのち抱きけり」。

5月2日、新富町の池田弥三郎宅にて、坂東三津五郎、渡嘉敷守良を主賓に、折口信夫主催の酔狂会開催。川尻清潭、遠藤為春、伊馬春部、小野英一らとともに出席。

5月8日、NHK ラジオ『日曜娯楽版』にコント作家として参加していて、その第1回「社会科学早わかり」放送。「日曜娯楽版」としては第84回目の放送だった。

7月7日、5日より旅行中の折口信夫が朝、池田弥三郎に「雑誌の編集者としては、露骨に悪口が書かれているものは、書かれている人の友情から言って、掲載しないのが本当だ。林屋辰三郎氏が私のことをいろいろ書いたのを持って来たが、戸板はそれを『日本演劇』に出さなかった。それは戸板の私に対する友情だ。私が昔のようにシャキシャキしてるのなら別だが、そうでないのに、私をいじめるのはね……。」と言う。5月より舞台を休演の菊五郎がいよいよ危ないのではないかと、その旅行中の誰もが心の中で思っていた。

7月10日、六代目菊五郎死す。日曜日で、自分の劇評が出ているはずの夕刊を駅に買いに行って、その死を知った。

7月11日、六代目菊五郎の弔問。午前11時に竹心庵に行き、出棺の瞬間に立ち会い、その死に顔を見た。NHK の録音ニュースのマイクに向かって、梅幸と二人で1分ずつ、名優の死について話す。

7月11日、折口信夫、旅行の後半に入って金沢へ向う車中で菊五郎の死を知る。折口、車中より戸板にハガキを書く。「繊細なる人 必ずも死なざらむ。青田にきゆる 白鷺ひとつ」。

夏に、「演劇界」の編集の実務に携わっていた町田仁が日本演劇社を退社。三田を出たてで編集者となった町田はもともと歌舞伎には興味がなかったので無理があった。「日本演劇」編集長だった戸板が「演劇界」の面倒もみることになった。

8月15日、折口信夫、池田弥三郎、伊原宇三郎とともに、箱根に滞在。戸板は17日に帰京。伊原宇三郎が折口信夫の肖像画をかく。

8月20日、御成門の美術倶楽部にて、安藤鶴夫著『落語鑑賞』の出版記念会。二階の広間に高座が出来て、桂文楽の落語二席あり。文楽の前に幹事として戸板と久保田万太郎が挨拶。

12月1日、『続・わが歌舞伎』(和敬書店)刊行。書誌データ

12月22日、三田で塾長招待の夕食会。野田宇太郎の演説の最中に久保田万太郎が「違う違う」と突然言い、野田が激昂するという騒動が起こり、戸板は万太郎とともに会を中座。ちなみに、戸板が明治製菓に勤務していた頃、野田宇太郎は小山書店の「新風土」の編集者で、戸板も「余白」「羽左衛門の手」といった原稿を寄せている。
最後のちょっといい話】〈久保田万太郎が三田文学の懇親会に出ていると、『文学散歩』という本を書き、近代文学史にくわしい野田宇太郎がスピーチで、「三田文学」という雑誌の歴史を話しはじめた。それはいいとして、創刊の年月を云いまちがえたら、久保田が「ちがう、ちがう」と声をかけた。野田は憤然として、「人がしゃべっている時に失礼じゃないか」と叫んだ。九州人だから血気さかんである。当然座が白けた。高橋誠一郎が「まアまア」となだめたが、印象的だったのは、佐藤春夫が暖炉の方に向き、背中を見せて立っていた姿である。その肩の線に「二人ともおとな気ない」という文字がのっていた。〉
【勝本清一郎「万太郎における躁と欝」-『こころの遠近』所収】〈……私は戦後、三田山上で何度か催された三田文学会の会合の席上で、久保田さんが九州男児・野田宇太郎君からなぐられようとした事件のあったことを思い起した。久保田さんが二面性の病質者であることに九州男児は我慢ができなかったのであろう。その時に身体の至極きゃしゃな高橋誠一郎先生が間につと入って、御自分の身で久保田さんをかばわれたことが印象的である。単に明哲保身の人でない高橋先生の本音と、その高橋先生の友情に値するだけの久保田さんの世話女房風な身のこなしを感じて私はうれしかった。〉

12月30日、久保田万太郎の還暦を祝う「還暦カーニバル」なる催し、三越劇場にて開催。素人芝居の『鈴ヶ森』が出て、万太郎が白井権八に扮するのを見る。
新々ちょっといい話】〈久保田万太郎の還暦を祝う会が、昭和24年の11月に三越劇場で催された。そのころ、万太郎は君子夫人と再婚した直後で、「鈴ヶ森」の白井権八に扮した。幡随院長兵衛は、やはり11月生まれ(明治24年11月23日)の久米正雄であった。駕の中から権八に声をかけるセリフで、久米が「お若えの」といってから、ちょっと黙ってしまったので、絶句したのかと思ったら、ニッコリ笑って続けた。「いやさ、お若えのを最近もらったお人、お待ちなせえやし」〉


1950/S25[34歳〜35歳]

1月5日、『歌舞伎への招待』(衣裳研究所)刊行。書誌データ
【平凡社刊『歌舞伎事典』より】〈かぶきへのしょうたい 歌舞伎への招待 歌舞伎鑑賞のための入門書。正・続二冊。戸板康二著。昭和二五年、二六年刊。正篇では花道、女方、荒事など舞台を構成する諸要素を、続篇では役柄を通して、歌舞伎のもつ美の感覚と楽しさが書かれている。在来の、見巧者の故事来歴風、あるいは学者の講義風な入門書と異なり、博識と教養に裏づけられた感性と演劇的知性による独特の文明的視野で歌舞伎がとらえられ、この種の著作に画期的な変革をもたらした。(野口達三・筆)〉

1月15日・22日、NHK ラジオ『日曜娯楽版』にて、「映画年代記」放送。戸板康二作のコントととしては第4回、執筆に際して、荻窪の徳川夢声を訪問して、いろいろ教わった。

3月10日、三越にて、『キティ颱風』合評座談会開催。出席者は福田恆存、尾崎宏次、三島由紀夫、芥川比呂志。戸板が司会をつとめる。「日本演劇」最終号の昭和25年4月号に掲載。

4月、演劇雑誌「劇評」、第一書店より刊行(9年続く)。第一書店は歌舞伎座の真ん前にあった本屋さん。当時もう1軒、演劇書を扱うお店が新橋にあり、その南葩堂の主人は難波治吉、もと文学座員で久保田万太郎の弟子。荷風を崇拝していて戦後偏奇館跡を買って一時住んだりも。日本演劇社の末期に融資、重役に。

昭和19年の9月号より編集に携わってきた「日本演劇」、4月号(第8巻4号)で休刊となる。

5月頃、日本演劇社を退社した模様、演劇評論家として独立、フリーの立場になる。「演劇界」休刊の前に、一片の葉書を出して日本演劇社を退いたという証言が「花道」昭和27年1月発行《歌舞伎人物評判》所収の「歌舞伎雑誌の編集者たち」(種の舎みのる)にあり、《心ある人は、原稿を頼んでおき、出るとも出ないとも言わず、もちろん稿料を不問に附して、さきへ演劇社退社の通知を出したことに対し、かげで不満に思っている。》という一節がある。

5月1日、「演劇界」第8巻第5号発行。日本演劇社刊の「演劇界」の最終号となる(第一次「演劇界」)。

7月5日、『演劇五十年』(時事通信社)刊行。書誌データ

8月1日、三島由紀夫、渋谷区松濤より目黒区緑が丘二三二三番地(現・緑ヶ丘1丁目17番24号)に転居。隣には戸板と同じ折口信夫門下の伊馬春部が住んでいた。戸板はこの家をたびたび訪れた。書斎には入ったことがなく、いつも玄関脇の洋間で、ソファの上に縫いぐるみのライオンがのっていた。
【三島由紀夫の哄笑=あの人この人】〈伊馬氏は冗談に、都立大学駅から南下した坂の谷間を上って行った角にいる三島君のことを、「角三島のゆき奴姐さん」と呼んでいた。パーティーで同席すると、隣人の二人は同車して帰って行ったが、私と三島君の時は、その手前の洗足にいる私をおろしてくれる時もあり、会場の場所によっては、私が三島君をおろす場合もあった。そんな車中の会話は、おもに人物論であり、辛辣な毒舌を淡々として述べるのだった。〉

9月14日、療養中の牛島肇(明治製菓の元同僚の友人)が戸板から日本演劇社を退社した旨の刷りものの葉書を受け取る。

9月16日、岸田国士を中心に、文学立体化運動を目指して「雲の会」結成。三越劇場で最初の会合を開く。「雲の会」には戸板も参加。「雲の会」がバックアップした雑誌が白水社の「演劇」で、戸板はここに『新劇史の人々』の母胎になる原稿を連載。
【わが交友記=回想の戦中戦後】〈雲の会があったために、文壇の人たちが、戯曲を書く機縁が生まれたのはたしかである。福田、三島はすでに書いていたが、その後椎名麟三、石川淳、中村光夫、大岡昇平、石原慎太郎、武田泰淳といった作家の作品が、舞台にのる。これは岸田さんの播いた種子に咲いた花というべきであろう。岸田さんがなくなってからも、いろいろな分野の人間が、たまに寄り合って芝居の話をしようという気持があり、椎野英之が幹事で、赤坂の阿比留、有楽町のレバノンとかで時折り会を持った。「横の会」と称した。神西清さんが、そうした席で、じつにおもしろいことをいったし、福田氏、三島君の問答も機知に富んでいた。〉

11月1日、利倉幸一により「演劇界」が復刊され、今日まで刊行が続いている(第二次「演劇界」)。

11月27日、東京劇場千秋楽。この日をもって歌舞伎興行の役目を終える(翌月より映画館に転向)。吉右衛門、勘三郎、芝翫らによる「山の段」上演。

12月25日、『歌舞伎の話』(角川新書)刊行。書誌データ

12月26日、「例の会」で折口、池田弥三郎、伊馬春部らと修善寺に泊る。




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