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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK

 

 カナヤマ 日本歴史 辞典 

 日本語版 

 見出し語 『 く 』。

 No.4542。

 

 

メ ニュー (目次)  #jpmenu     

■ 次の項目を選び、クリックして下さい。    

□ 日本史 辞典 (総合)

□      ● 事項順。

〇 くろ   黒田 官兵衛

             (くろだ かんべえ)。 《人名》。

          (= 黒田 孝高、黒田 如水(じょすい)

          小寺 官兵衛、小寺 孝高(こでら よし

             たか))。

          (1546〜1604年)。

             □ 天才軍師。

           ○ 戦国時代、安土桃山時代、江

          戸時代初期の軍師、武将、戦国

          大名、(一時期)キリシタン大名。

             □ 1567年頃〜1579年、 

          小寺政職(こでらまさもと)の家老、 小

          寺氏の姫路城の城代。

          □ 1579〜98年、

                     豊臣秀吉(羽柴秀吉)の参謀、側

          近として活躍する。 

          □ 1600年、「天下分け目の戦

          い」で徳川方に味方して、九州で

                  石田方と戦い活躍する。

           □ 〈氏名の変遷〉 (幼名) 万吉

           ⇒(成人後〜) 小寺孝高(こでら よ

           したか)、小寺官兵衛 ⇒(1579年

           頃〜) 黒田孝高、黒田官兵衛 ⇒

          (1589年〜) 黒田如水(じょすい )

               ○ 誕生〜成人(元服)、万吉(まんきち)と

             称す。

               ○ 成人後〜1579年頃、小寺孝高(こでら

             よしたか)、または、小寺官兵衛と称す。

             ○ 1579年頃〜1589年、黒田孝高(くろ

              だよしたか)、または、黒田官兵衛と称す。

             ○ 1589年〜1604年、黒田 如水(くろだ

             じょすい)と称す。

             ●  黒田 官兵衛は、 誕生から成人(元

             服)まで、万吉(まんきち)と称し、 成人後

             から1579年頃まで、小寺孝高(こでらよし

             たか)、または、小寺官兵衛と称し、 15

             79年頃から1589年まで、黒田孝高(くろ

              だよしたか)、または、黒田官兵衛と称 し、 

             1589年から1604年まで、黒田 如水(く

             ろだ じょすい)と称す。

             ●  黒田 官兵衛 (くろだ かんべえ、黒田

             孝高(よしたか)、黒田如水(じょすい)、

             小寺孝高(こでらよし たか)、小寺官兵衛、

             1546ー1604年)は、 天才軍師 である。

             ●  黒田 官兵衛は、 室町時代後期(戦

             国時代)、安土桃山時代、江戸時代初期

             の武将、軍師である。

             ●  黒田 官兵衛は、 1567年頃から15

             79年まで、 小寺政職(こでらまさもと) の

             家老、小寺氏の姫路城の城代であった。

             ●  黒田 官兵衛は、1579年から1598

             年まで、豊臣秀吉(羽柴秀吉)の参謀、 側

             近として活躍する。 

             ●  黒田 官兵衛は、1600年に、「天下

             分け目の戦い」で徳川方に味方して、九

             州で石田方と戦 い、活躍する。

〇 くろ   黒田 官兵衛 関連出来事

       (年代順・詳細)

             (くろだ かんべえ かんれんできごと 

             (ねんだいじゅん・しょうさい))。 

〇 くろ   黒田 重隆。

             (くろだ しげたか)。 《人名》。

             ○ 黒田官兵衛(孝高)の祖父。

             ○ 目薬の製造・販売人で、姫

          路の土豪で、小寺政職(こでらま

          さもと)の家臣となる。

              ● 黒田 重隆 (くろだ しげたか)は、

             田官兵衛(孝高、如水)の祖父であり、 

             薬の製造・販売人で、姫路の土豪であり、

             小寺政職(こでらまさもと)の家臣となる。

          (⇒ 黒田 職隆

        黒田 官兵衛)。

〇 くろ   黒田 職隆 (くろだ もとたか)。

          (= 小寺職隆、黒田宗円(隠居後

             の号))。

          (1524 ー1585年)。 

             ○ 黒田官兵衛(孝高)の父。

             ○ 小寺政職(こでらまさもと)の家

          老、小寺氏の姫路城の城代。

              ● 黒田 職隆 (くろだ もとたか、= 小寺職

             隆、黒田宗円(隠居後の号)、1524 ー15

             85年は、 黒田官兵衛(孝高)の父であり、

             小寺政職(こでらまさもと)の家老、 小寺氏

             の姫路城の城代であった。

〇 くろ   黒田長政

             (くろだ ながまさ)。 《人名》。

          (1568 ー1623年)。 

             ○ 黒田官兵衛(孝高)の子。

          ○ 「天下分け目の戦い」で徳川

          方に味方して戦い、関ヶ原の戦

          いで東軍の部将として戦い活躍

          する。

             ○ (江戸時代) 福岡藩藩主、

          藩祖。

              ● 黒田 長政 (くろだ ながまさ、1568 ー

             1623年は、 黒田官兵衛(孝高、如水)

             の子であり、 「天下分け目の戦い」で徳川

             方に味方して戦い、関ヶ原の戦いで 東軍の

             部将として戦い、活躍する。

              ● 黒田 長政は、 江戸時代に、福岡藩

             藩主、藩 祖である。

 

 

□ 日本史 辞典 の 「く」 基本見出し語の 先頭

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    未来は、現在の成果である。 

 

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◆ 日本史辞典

 

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#ku

 

#kurodakanbei

 

■ 黒田 官兵衛 

     (くろだ かんべえ)

 

■ 黒田 官兵衛。

■ 生没年 : 1546年〜1604年。

■ 名称 : 黒田 官兵衛 (くろだ かんべえ)。

 別名 : 万吉(まんきち)、 小寺孝高 (こで

  ら よしたか)、 小寺官兵衛 (こでら かんべえ)、 

  黒田 孝高 (くろだ よしたか)、 黒田如水 (く

  ろだ じょすい)。

■ 天才軍師。 信義(しんぎ)の人。

■ 播磨国 (はりまのくに、兵庫県南部、播州

  (ばんしゅう)) 出身 の武将。 

■ 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時

  江戸時代初期 の武将、大名。

■ 小寺政職(こでらまさもと)、 織田信長 豊臣

  秀吉に仕 (つか)え、  徳川家康に味方した。

■ 小寺政職の家老で、小寺氏の姫路城の城代。

■ 豊臣秀吉(羽柴秀吉) 軍師、参謀、側近、部

  将として活躍した。

■ 九州北東部の、豊前国中津(ぶぜんのくになか

  つ) 12万石を領した (豊臣秀吉により受け取

  り)。 

■ 子には、 黒田 長政 (くろだ ながまさ、1568

  〜1623年) がいる。

■ 天下分け目の戦い」で徳川方に味方して、九

  州で石田方と戦い活躍する。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典 51434。

 

□ 黒田 官兵衛 (総合)

□ 黒田氏 (黒田一族)

□ 黒田 官兵衛 関連出来事

   (年代順 ・詳細)

 □ 黒田 官兵衛・播磨・本拠地時代

   (1546年〜1587年)。

 □ 黒田 官兵衛・豊前・本拠地時代

   (1587年〜1600年)。

 □ 黒田 官兵衛・筑前・本拠地時代

   (1600年〜1604年)。

□ 黒田 官兵衛 関連ドキュメンタリー、

   ドラマ、映画

 

 

#kurodakanbei-general

 

■ 黒田 官兵衛 (総合)。

     

■ 黒田 官兵衛(孝高)(くろだかんべえ(よしたか)、

  1546〜1604年) は、 室町時代後期(戦国

  時代)、安土桃山時江戸時代初期の武将、

  大名 である。

     黒田 官兵衛は、 播磨国(はりまのくに、

  州(ばんしゅう)、兵庫県南部)出身の武将であ

  った。

     黒田 官兵衛(孝高)は、 小寺政職(こでら

  まさもと、1517〜82年)、 織田信長 豊臣

  秀吉に仕 (つか)え、 徳川家康に味方した。  

    黒田 官兵衛 は、豊臣秀吉より、1587年

  に、 豊前国(ぶぜんのくに、福岡県東部・大分

  県北部)・中津12万石に封じられ(を与えら)、

  中津城主となる。 

 

■ 黒田 官兵衛(孝高)は、 天才軍師で、 信義の

  人 として知られている。

    信義(しんぎ)とは、 約束を守り、務(つと)め

  を果(は)たすことである。 黒田 官兵衛(孝高)

  は、 戦国時代、安土桃山時代、江戸時代初期

  に、 裏切りが多かった乱世の世にあって、 信

  義を通し、 当時の多くの武将から信頼・信用を

  得た。 

 

■ 黒田 官兵衛 (くろだ かんべえ) の別名は、 

  黒田 孝高 (くろだ よしたか) である。  

     黒田は、一族名で、 官兵衛や孝高は、個人

  名で、官兵衛は、通称で、孝高(いみな 、

  公式名、実名) である。 

     前近代日本では、上層階層の男性は、2種

  類以上の個人名を持ち、日常では「通称」を使

  用し公式の場合のみ「諱(いみな)」を使用した。 

     後世に、近現代日本では、便宜上、「通称」

  と「諱(いみな)」を組み込んだ 、本来はおかしな

  表記ではあるが、黒田 官兵衛孝 高」という氏

  名の呼称が使用される場合がある。 当時及び

  前近代日本では、そのような氏名の呼称は使用

  されなかった。

● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 黒田 官兵衛(孝高)の一族。

    黒田 官兵衛(孝高)の父は、 黒田職隆(くろ

  だもとたか、小寺職隆)で、 黒田 官兵衛(孝高)

  の祖父は、黒田重隆(くろだしげたか) で、2人

  とも小寺政職(こでらまさもと)の家臣であった。

    黒田 官兵衛(孝高)の母は、 小寺政職の養

  女で、 明石宗和(あかしむねかず)の娘である。 

    黒田 官兵衛(孝高)の正室夫人は、 光(てる・

  みつ、幸円、櫛形 光)で、 小寺政職(こでらまさ

  もと)の姪(めい)で、 姫路の北東にある志方

    (しかた)城・城主の櫛橋伊定(くしはしこれさだ)

    の娘である。

    黒田 官兵衛(孝高)の実子は、 黒田長政

  (幼名:松寿丸(しょうじゅまる))、 熊之助 で

  ある。

 

■ 黒田官兵衛(孝高)の祖父は、 黒田 重隆(くろ

  だ しげたか)であり、 目薬の製造・販売人で、

  姫路の土豪 (どごう)で、 小寺政職(こでらまさ

  もと)の家臣となる

 

■ 黒田官兵衛(孝高)の父は、 黒田職隆(くろだ

  もとたか、生没年:1524〜1585年) であり、 

  武将で、 小寺政職(こでらまさもと)の家老で、

  小寺氏の姫路城の城代 であった。

 

 

■ 黒田 官兵衛(孝高)(くろだかんべえ(よしたか))

  は、 築城の名手で、 居住した中津城や福岡城

  の他に、 姫路城、 旧大阪城(秀吉が建て、後

  破壊された城)、 名護屋城(なごやじょう、九州・

  肥前国、朝鮮の役で使用)、 広島城、 讃岐(さ

  ぬき)高松城、 な ど豊臣秀吉政権下の主要な築

  城に関わり、縄張りや助言を行った。

 

■ 黒田 官兵衛(孝高)は、 倹約家として知られ、

  蓄財に励んだ。

    しかし、黒田 官兵衛(孝高)は、 兵を集め

  る時には、 金を惜しまず、 1600年頃の

  下分け目の戦い」 の時には、 1600年7〜9

  月に、 蓄財してた支度金を使って、九州で、

  約9000人の速成軍をつくった。

 

■ 黒田 官兵衛(孝高)の才知を知っていた、

  臣秀吉徳川家康は、 天下の座を奪われる、

  脅かされる と恐れていたことは確かである。

     フクションの歴史小説やドラマ等では、 

  黒田官兵衛(孝高)が、 天下を狙って、様々 

  な行動をとったと描かれることが多い。

     しかし、一次的史料で見る限り、 黒田

  官兵衛が、 天下を取ろうという野心を持って

  いたかどうかは不明である。 

 

■ 豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、 黒田 官兵衛(孝

  高)の才知を高く評価すると同時に、 己の天

  下の座を脅(おびや)か されかねない と恐れ

  ていた。

     豊臣秀吉(羽柴秀吉)が、 多くの功績を立

  てた黒田 官兵衛(孝高)に対し、福島正則

  藤清正などの秀吉の子飼いの大名に比べて、

  約12万石の小封(しょうほう、小さな知行)しか

  与えなかったのは、それを示している。 豊臣

  秀吉(羽柴秀吉)は、 100万石のような大き

  な知行を与えると、 黒田 官兵衛(孝高)が天

  下を奪ってしまうと豊臣秀吉(羽柴秀 吉)は恐

  れた。

 

■ 黒田 官兵衛(孝高)(くろだかんべえ(よしたか)) 

  と 竹中半兵 衛(重治)(たけなかはんべえ(しげ

  はる)) は、 織田信長配下の、羽柴秀吉(豊臣

  秀吉) に仕(つか)える参謀(軍師)であり、 心

  の通じ合う友 であった。

     織田信長に対する荒木村重(あらきむらし

  げ)謀反の時、 荒木の有岡城(ありおかじょう)

  に説得に行った、黒田 官兵衛(孝高)が戻らず、 

  織田信長は、 主家の小寺政職(こでらまさもと)

  と共に、荒木 方に寝返ったと判断し、人質として

  預けられていた黒田 官兵衛(孝高)の子・松寿

  丸 (しょうじゅまる、後の黒田長政)  の殺害を

  命じた。

    しかし、竹中半兵衛(重治)(たけなかはんべ

  え(しげはる))とその家族は、身の危険を顧

  みず、 密かに松寿丸を匿(かくま)った。 また、

  竹中半兵衛兵(重治)は、 生前に、黒田父子を

  案じる手紙を残していた。

     黒田 官兵衛は、荒木の有岡城から救出さ

  れた時、 竹中半兵衛兵(重治)は、病気で既に

  亡(な)くなっていた。 

     黒田 官兵衛(孝高)は、 竹中半兵衛(重

  治)への感謝の気持ちを忘れず、 その後、 竹

  中の家族を援助した。 竹中半兵衛兵(重治)の

  子・竹中重門の元服(げんぷく、成人)の際 は、 

  黒田 官兵衛(孝高)は、 烏帽子親(えぼしおや)

  を務(つと)めた。

  

■ 1577年から1598年まで、黒田 官兵衛(孝高) 

  は、 豊臣秀吉(羽柴秀吉)の参謀、側近、軍師、

  部将 として活躍した。

    1577年から1582年まで、 黒田 官兵衛

  (孝高)は、 織田軍の羽柴秀吉(豊臣秀吉)の

  与力 (羽柴秀吉(豊臣秀吉)付きの参謀、側近

  軍師、部将) として活躍した。

    1582年から1598年まで、黒田 官兵衛(孝

  高)は、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍 の参謀、側近

  軍師、部将 として活躍し た。

 

■ 黒田 官兵衛の別称。

    黒田 官兵衛 (くろだ かんべえ、生没年:15

  46〜1604年)の、別名は、万吉(まんきち、幼

  名、1546〜1562年頃)、 小寺孝高  (元服

  (成人)後、 こでらよしたか、1562年頃〜157 

  9年、初め、孝隆、後、孝高)、小寺官兵衛 (元

  服(成人)後、こでらかんべい、1562年頃〜15

  79年)、 黒田孝高 (くろだよしたか、1579〜

  1589年)、 黒田 官兵衛 (くろだかんべい、

  1579〜1589年)、 黒田如水 (くろだじょす

  い、1589〜1604年、如水軒(号)及び如水円

  清(法名)) などという。

      1583年頃から1587年まで、黒田 官兵

  衛(孝高)は、 一時期、 ドン・シメオン、黒田シメ

  オンとも称した (キリシタン大名として、キリスト

  教・カトリック洗礼名・SIMEON を称した)。 

     黒田 官兵衛(孝高)の子には、 黒田 長政 

  (くろだ ながまさ、1568〜1623年) がいた。

     1579年頃から、黒田氏は、小寺氏の名字

   をやめ、 黒田の名字を用いる。

      1545年に、小寺政職(こでらまさもと)は、

   黒田 官兵衛(孝高)の父・黒田職隆を、家老職

   とし、姫路城代とし、小寺の名字を与える。これ

   以後は、黒田氏は、小寺を名乗ることとなった。

     1579年に、織田信長の命(命令)により、

   信長に反抗した小寺(こでら)の名字を改めさせ

   られ、 元の黒田を名乗ることとなった。

 

■ 黒田 官兵衛の氏名の変遷。

 黒田 官兵衛 (くろだかんべい) の個人名の、

   幼名は万吉で、 元服(成人後)の(いみな、

  公式名)は、 孝高(よしたか)で、 通称(つう

  しょう、字(あざな))は、官兵衛(かんべい)で

  隠居時の(ごう)は、如水軒で、  出家時の

  (ほうみょう)は、「如水円清」であ る。

 黒田 官兵衛(孝高)の一族名は、 1545年か

  ら1579年まで、「小寺」(こでら)であり、 157

  9年から1604年まで、「黒田」(くろだ)  である。

    成人後から1579年まで、 黒田 官兵衛(孝

  高)は、 小寺孝高(こでらよしたか)または小寺

  官兵衛と称した。 

    1579年から1589年まで、 黒田 官兵衛

  (孝高)は、 黒田 孝高(くろだ よしたか)また

  は黒田 官兵衛と称した。

    1583年頃から1587年まで、黒田 官兵

  衛(孝高)は、 一時期、 ドン・シメオン、黒田シ

  メオンとも称した (キリシタン大名として、キリ

  スト教・カトリック洗礼名・SIMEON を称した)。 

    1589年から1604年まで、 黒田 官兵衛

  (孝高)は、 黒田 如水 (くろだじょすい) と呼

  ばれた (1589年に隠居の身となり1589年

  から1593年まで「如水軒」と号し (如水とは

  「私は流れる水の如(ごと)し」の意)、 1593

  年に出家して、1593年から1604年まで「如

  水円清」と称した)。 

     但し、本人は、「黒田 如水」とは称さず、後

  世の人が、そう呼んだ。 俗世の名字の黒田と

  隠居後の号「如水軒」や法名の「如水円清」を組

  み合わせることは、本来はおかしなことであるが、 

  後世の人がそう呼ぶようになった。

 

  

■ 小寺政職(こでらまさもと、1517〜82年)は、

  黒田 官兵衛の最初の主君である。

    小寺政職は、 赤松分家の小寺氏の当主で、

  御着城(ごちゃくじょう、兵庫県姫路市東部)の

  城主で、 播磨国(はりまのくに、兵庫県)の豪

  族(ごうぞく、有力者) で、戦国大名であった。

    小寺氏は、 御着城を本城 とし、姫路城

  支城としていた。 支城の姫路城に、家老の黒

  田氏を城代として派遣していた。

    黒田 官兵衛(孝高)は、 小寺氏の家老の

  1人 であった。

 

■ 姫路城は、 1545〜80年に、小寺氏家老の

  黒田(くろだ)氏 (黒田職隆(もとたか)・黒田官

  兵衛(かんべい)・父子)が、城代(じょうだい)を

  務めた城 である。

    姫路城は、 播磨国(はりまのくに、兵庫県南

  部)の守護・赤松氏の属城(ぞくじょう)で、 戦国

  代、安土桃山時代に、  赤松氏分家の小寺(こで

  ら)氏の城 であった。

     戦国時代、安土桃山時代の1545〜80年

  に、 姫路城 は、 小寺氏家老の黒田職隆(くろ

  だもとたか)が、 1545〜67年頃に、城代を務

  めた城で あり、 また、 小寺氏家老の黒田官兵

  (孝高)が、 1567年頃〜1580年に、城代

  (じょうだい)を務めた城 である。 

     1580年に姫路城は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)

  城主となり、  中国地方遠征の根拠地として

  増築する。

 

■ 黒田 官兵衛(孝高)は、 1577年に、長男の

  松寿丸(しょうじゅまる、後の黒田長政)を、 人

  質として織田信長の元へ送る。 その後、 157

  7年に、 黒田 官兵衛(孝高)は、 居城の姫路

  を、織田軍の羽柴(豊臣)秀吉に提供し、 自

  らは二の丸に住み、秀吉の参謀として活躍する。

     1578年7月に、荒木村重(あらきむらしげ)

  が織田信長に対し謀反(むほん)を起こし (有岡

  城の戦い(1578年7月〜1579年10月)、 黒

  田 官兵衛(孝高)は、 荒木村重を翻意 (ほんい)

  させるため (謀反をやめ織田氏に再びつかせる

  ため)、 1578年11月頃、荒木村重の有岡城

  (ありおかじょう)に乗り込んだが、成功せず、 約

  1年間、幽閉される。 

     荒木村重は、同盟関係にある小寺政職(こで

  らまさもと)の手前、 黒田官兵衛(孝高)を捕らえ

  て牢獄(ろうごく)に閉じ込めてしまった。 約1年

  後、黒田 官兵衛(孝高)は、 荒木村重の有岡城

  が落城し、救出される。

 

■ 黒田 官兵衛(孝高) は、 豊臣秀吉の家臣であ

  ったが、豊臣秀吉没後、 1600年頃の「天下分け

  目の戦」 (徳川方と石田方の戦い、関が原の戦

  その 他の戦い) では、 徳川方に味方し、九州

    で、石田方の大名と戦い活躍する。

     黒田 官兵衛の跡継ぎの黒田長政も、「天下

  分け目の戦い」で徳川方に味方して戦い、関ヶ原

  の戦いで東軍の部将として戦い活躍する。

 

 

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■ 黒田氏 (黒田一族)。

  黒田官兵衛(孝高) (くろだかんべえ(よしか

  た)、1546〜1604年) の祖父の黒田重隆

  (くろだしげたか)の時 、 播磨国 (はりまのく

  に、兵庫県南部)・姫路に移り、 家伝の目薬を

  製造、販売し、 やがて土豪(どごう)として成

  長した。

    小寺政職 (こでらまさもと 、1517〜82年)

  は、 黒田重隆(しげたか)・黒田職隆(もとたか)

  の親子(黒田 官兵衛の祖父と父)の能力を認め、

  家臣とした。

     黒田官兵衛の父の黒田職隆(くろだもとた

  か)は、小寺政職の敵の香川重道を討ち取り、 

  その功績により、 1545年に、小寺政職は、黒

  田氏の黒田職隆を家老に列し (家老職に引き

  上げ)、 黒田職隆に小寺政職の養女(明石宗

  和の娘)を娶(めと)らせ、 小寺の名字を与え、 

  姫路城を任(まか)せ姫路城の城代にした。 

     1545年から1579年頃まで、黒田氏は、

   小寺(こでら)と名乗る。

     また、小寺政職(こでらまさもと)は、黒田氏

  に、橘紋(たちばなもん)の家紋を与えた。 

     1567年頃に、小寺政職は、 黒田 官兵衛

  には、で、 姫路の北東にある志方(しかた)城・

  城主の櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘であり、

  小寺政職の従姪の、光(てる・みつ、櫛橋 光)を

  正室夫人とさせた。

     1567年頃に、黒田 官兵衛(小寺孝高)は、 

  父・黒田職隆(小寺職隆)から家督(かとく)と家老

  職を継(つ)ぎ、 姫路の北東にある志方(しかた)

  城・城主の櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘であ

  り、小寺政職の従姪の、光 (てる、櫛橋 光(くし

  はし てる・みつ、生没年:1553〜1627年) を

  正室夫人に迎(むか)え、 姫路城代となる。  

    1567年頃に、 黒田 官兵衛(孝高)の父・黒

  田職隆 (もとたか、小寺職隆、1524〜1585

  年) は、 隠居後、黒田宗円と称し、姫路城の南

  東に位置する、国府山城(こうやまじょう)に移る。

     1576年に、播磨(はりま、兵庫県南部)は、

  東から織田氏、 西から毛利氏 の大勢力が迫っ

  てきた。 小寺政職は、 家老の黒田 官兵衛(孝

  高)の進言により織田氏に味方した。 

     しかし、小寺政職は、1578年の、別所長治

  (べっしょながはる)の離反 (三木合戦(みきが

  っせん、1578〜80年)) や 織田氏重臣の荒

  木村重の織田氏への謀反(1578〜79年))に

  同調し、 毛利氏に通じて織田氏に敵対したため、 

  小寺政職は、 1580年に織田軍 に居城の御着

  城(ごちゃくじょう)を攻撃され落城し、 毛利氏の

  もとへ落ち延びた。

    黒田 官兵衛の父の黒田職隆(くろだもとたか、

  隠居後、黒田宗円)は、 小寺政職が御着城(ご

  ちゃくじょう)から逃亡後、 小寺政職の子を密か

  に引き取って養育した。 

 

■ 黒田 官兵衛(孝高)(くろだかんべえ(よしたか))

  (1546〜1604年) は、  九州北東部に、 豊

  前国(ぶぜんのくに)中津12万石を領した。

    黒田 官兵衛(孝高) は、豊臣秀吉より、15

  87年に、豊前国 (ぶぜんのくに、福岡県東部

  中津12万石に封じられ、豊前国中津の領主と

  なった。 

    黒田 官兵衛(孝高)は、 1589年に隠居し、

  1589年に、黒田 官兵衛・長男の黒田 長政が、

  豊前国中津12万石の領主となる。

    その後、1600年頃の「天下分け目の戦い

  (徳川方と石田方の戦い、関が原の戦いその他

  の戦い) で、 黒田 官兵衛・長政父子は、徳川

  方に味方して戦い活躍した。

     戦後、1600年に、戦功により、徳川家康よ

  り、 黒田 官兵衛(孝高)の跡継ぎの黒田長政

  が、 筑前 国(ちくぜんのくに、福岡県北部)・福

  岡52万に封じられ、 筑前国福岡の領主(大名)

  となり、 初代福岡藩主となった。 

     以後代々、江戸時代、明治時代初期に、黒

  田氏が福岡藩主となった。

     黒田氏を領主(藩主)とする、筑前国(ちく

  ぜんのくに)福岡藩は、 1600年より1871年

  まで続いた。 

     1871年の廃藩置県で、武家の黒田氏は、

  終わる。

     廃藩置県後、 旧外様大名の黒田氏(家)

  は、1884年(明治17年)に侯爵(こうしゃく)に

  列せられた (侯爵となり、華族(かぞく)に列し

   た)。

 

 

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◆ 黒田 官兵衛 関連出来事

  (年代順・詳細)。

 

#kurodakanbei-theharimaperiod

 

■ 黒田 官兵衛・播磨・本拠地時代

   (1546年〜1587年)。

 

 1546年(天文15年)に、黒田 官兵衛(孝高)

  (くろだかんべえ(よしたか)、)(1546〜1604

  年)は、 黒田職隆(小寺職隆)の長男として、

  姫路に生まれる。 幼名は、万吉(まんきち)と言

  う。

    黒田 官兵衛(孝高)(万吉)の父・黒田職隆

  (くろだもとたか、小寺職隆(こでらもとたか)、生

  没年1524〜1585年)は、 小寺政職(こでら

  まさもと)の家老であり、 小寺氏の姫路城の城

  代であり、 黒田 官兵衛(孝高)(万吉)の生母

  は、 小寺政職の養女で明石宗和(むねかず)

  の娘であった。

 

■ 1558年から1569年まで、 播磨(はりま、兵

  庫県南部)では、 赤松氏宗家(あかまつしそう

  け、赤松氏本家)の置塩城(おきしお・おじお じ

  ょう)城主の赤松義祐(あかまつよしすけ) と、 

  龍野・ 赤松氏の龍野城城主・赤松政秀(あかま

  まさひで、生没年:生年不詳〜1570年) が、

  対立した。

 

 1559年(永禄2年)に、 黒田 官兵衛(孝高) 

  (万吉、1546〜1604年)は、母を亡(な)くす。

 

 1561年頃に、黒田 官兵衛(孝高)(万吉)は、

  元服する。 小寺孝高(こでらよしたか)と名乗

  る。

 

 1562年(永禄5年)に、黒田 官兵衛(孝高)

  (小寺官兵衛(孝高))は、 小寺政職(こでらま

  さもと)の近習(きんじゅう)となる。

 

 1562年(永禄5年)に、黒田 官兵衛(孝高)

  (小寺官兵衛(孝高))は、 父・黒田職隆(くろ

  だもとたか、小寺職隆)と共に、土豪を征伐

  (せいばつ)し、初陣(ういじん)を飾る。

 

 1564年(永禄7年)より、赤松義祐(あかまつ

  よしすけ)方の、小寺政職の家臣・黒田職隆(黒

  田 官兵衛(孝高)の父) は、 赤松政秀 (あか

  まつまさひで生没年:生年 不詳〜1570年)

  と対立する。

 

■ 1564年(永禄7年)に、西播磨・室津の浦上政

  宗は、赤松政秀に襲撃されて滅んだ。

    西播磨の海側に領地をもつ、浦上政宗・清宗

  親子は、 赤松義祐(あかまつよしすけ)方の、

  播磨中部の小寺政職(こでらまさも と)に手を組

  め、小寺政職の家臣・黒田職隆の娘と婚儀を結

  ぶこととなった。 

    西播磨に勢力をもつ赤松政秀は、危機感を

  抱き、 1564年(永禄7年)1月11日に、 浦上

  清宗と黒田職隆の娘の婚礼当日に、 赤松義祐

  方の、浦上政宗・清宗(うらがみまさむね・きよむ

  ね)親子の守る、室津城(むろつじょう)に、夜襲

  を仕掛け、 浦上政宗・清宗親子と小寺政職の家

  臣・黒田職隆の娘・志織を討ち、 浦上政宗の海

  沿いの室津近辺領土を奪取した。

 

 1567年頃に、黒田 官兵衛(孝高)(小寺官兵衛

  (孝高))は、父・黒田職隆(小寺職隆)から家督(か

  とく)と家老職を継(つ)ぎ、 小寺政職(こでらまさ

  もと)の従姪で姫路の北東にある志方(しかた)城・

  城主の櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘の光 (て

  る、櫛形 光(くしはし てる・みつ、生没年:1553

  〜1627年) を正室夫人に迎(むか)え、 姫路

  城代(にめじじょうだい)となる。  

     1567年頃に、 黒田 官兵衛(孝高)の父・

  黒田職隆(もとたか、小寺職隆、1524〜15 85

  年)は、 隠居後、黒田宗円と称し、姫路城の 南

  東に位置する、国府山城(こうやまじょう)に移る。

 

■ 1568年(永禄11年)に、 黒田 官兵衛(孝高)

  の正室夫人の光 (てる、櫛形 光(くしはし てる・

  みつ、生没年:1553〜1627年) は、 黒田長

  政 (松寿丸)を産み、 黒田 官兵衛(孝高)(小

  寺官兵衛(孝高))の長男の、  黒田長政 (くろ

  だ ながまさ、1568〜1623年、幼名:松寿丸

  (しょうじゅまる)) が生まれる。 

 

■ 1568年(永禄11年)以後、 備前・天神山城主

  の浦上宗景 (うらがみむねかげ、生没年不詳)

  は、 播磨の西方の隣国の備前(びぜん、岡山県

  南東部)を支配していた。 

     しかし、 1575年(天正3年)に、浦上宗景  

  は、毛利氏と結んだ、浦上宗景の重臣の、宇喜

  多直家(うきたなおいえ、1529〜81年)に打ち

  破られ、領国の備前を失う (天神山城の戦い)。

 

 1569年(永禄12年)8〜9月に、に、 赤松政

  が、 赤松 義祐(あかまつよしすけ)方の、小寺

  政職の支城・姫路城に、 約3000人の兵で攻 め

  込んでくる、青山・土器山の戦いが起こる。 

     父の黒田職隆(小寺職隆)は、危機に陥って

  いた黒田 官兵衛(孝高)(小寺孝高)救援のため、

  出馬して、勝利に貢献する。

     1569年(永禄12年)8〜9月に、赤松 政秀

  は、 青山・土器山の戦い(あおやま・かわらけや

  まのたたかい) で、 赤松義祐方の、小寺氏家臣

  の黒田職隆(もとたか)・黒田官兵衛(孝高(よした

  か))親子の守る、小寺氏支城の、姫路城の攻略

  を約3000人の兵で、狙うが、 失敗する。

     赤松政秀は、1569年(永禄12年)8月に、

  約3000人の兵で、姫路城を狙うが、青山で待ち

  伏せをうけ、龍野へ敗走する (青山の戦い)。

     赤松 政秀は、1569年(永禄12年)9月に、

  約3000人の兵で、姫路城を狙うが、 土器山(か

  わらけやま)に陣を張った黒田軍に夜襲を仕掛け、

  追い詰めるが、翌日の昼には、政秀軍の陣を張る

  小丸山まで後退し、小丸山の本陣を奇襲されて、

  龍野へ敗走する (土器山の戦い)。

 

■ 1569年(永禄12年)11月に、 青山・土器山の

  戦い(あおやま・かわらけやまのたたかい)での敗

  退を知った、赤松義祐(あかまつよしすけ)方の(赤

  松義祐の援軍の)、備前・天神山城主の浦上宗景 

  (うらがみむねかげ、生没年不詳) は、 西播磨

  の赤松政秀の領土に侵入し、 赤松 政秀は、降伏

  し、所領を削られ、 龍野・赤松氏は、 西播磨に

  おける覇権を失う。 

    ここに、赤松義祐と赤松 政秀の対立は、赤松

  義祐の勝利で、終わる。

 

■ 1570年代に、播磨(はりま、兵庫県南部)は、

  東から織田氏、西から毛利氏の大勢力が迫って

  きた。 

 

■ 1570年(元亀元年)9月に、一向宗(いっこう

  しゅう、本願寺)の石山本願寺は、 織田信長と

  の戦い(1570〜80年の石山戦争(合戦)) を

  始める。

 

■ 1575年(天正3年)に、 毛利氏と結んだ、浦

  上宗景の重臣の、宇喜多直家(うきたなおいえ、

  1529〜81年)は、備前を支配していた、浦上

  宗景(うらがみむねか げ、生没年不詳)を打ち

  破り、追放し、 播磨の西方の隣国の、備前(び

  ぜん、岡山県東南部)を領国とする (天神山城

  の戦い)。

 

 1575年(天正3年)7月に、黒田 官兵衛(孝

  高)(小寺官兵衛(孝高))は、 羽柴 秀吉(豊臣

  秀吉)の取次ぎにより、織田信長と 岐阜城(ぎふ

  じょう)で謁見(えっけん)した。

 

 1575年(天正3年)に、 黒田 官兵衛(孝高)

  (小寺官兵衛(孝高))は、織田信長の才能を高

  く評価し、 主君の小寺政職(こでらまさもと)に、 

  織田氏への臣従を進言した。

    小寺政職は、 家老の黒田 官兵衛(孝高)

  (小寺孝高)の進言により織田氏に味方した。

 

 1576年(天正4年)に、 黒田 官兵衛(孝高)

  (小寺官兵衛(孝高))は、 播磨(はりま、兵庫県

  南部)の3人の有力武将の、小寺政職(こでらま

  さもと)、赤松広秀(あかまつひろひで、赤松政秀

  の嫡子)、 別所長治(べっしょながはる)を、 京

  (都)で、織田信長に 謁見(えっけん)させる。

 

 1576年(天正4年)5月に、 約5000人の兵

  の毛利軍が、播磨に攻め込んでくる。 

     黒田 官兵衛(孝高)(小寺孝高)は、 播磨

  国・姫路の南西にある英賀の湊(あがのみなと)

  に上陸した、毛利家武将・浦 宗勝(うら むねか

  つ)が率いる、毛利軍を、  約500人の兵で退

  (しりぞ)ける (英賀(あが)合戦)。

 

 1576年(天正4年)7月に、織田水軍は、石山

  本願寺に兵糧弾薬を運び込むために援軍として

  現れた毛利水軍と戦い、敗れる (第1次木津川

  口の戦い)。

 

■ 1577年(天正5年)に、 黒田 官兵衛(孝高)

  (小寺官兵衛(孝高)) は、  長男の松寿丸

  (しょうじゅまる、後の黒田 長政)を、人質とし

  て織田信長の 元へ送る。 

 

 1577年(天正5年)10月に、織田信長は、

  羽柴秀吉(豊臣秀吉)を、 播磨(はりま、兵庫

  県南部)に進駐させた。

     播磨の、黒田 官兵衛(孝高)(小寺孝高)

  は、 一族を父・黒田職隆(小寺職隆)の隠居

  城の国府山城に移らせ、 居城の姫路城を、織

  田軍の羽柴秀吉(豊臣秀吉)に提供し、 自らは

  二の丸に住む。 

    1577年頃から、黒田 官兵衛(孝高)は、

  吉の参謀、側近、軍師、部将、として活躍する。

    羽柴秀吉(豊臣秀吉)の織田軍は、 播磨周

  辺地域の但馬国(たじまのくに、兵庫県北部)の

  竹田城(11月) や 播磨国(はりまのくに、兵

  庫県南部)の上月(こうづき)城や佐用(さよう)

  城(12月) を落城させ、攻略していった。

 

■ 三木合戦。

    1578年(天正6年)3月に、別所長治(べっ

  しょながはる)が、 周辺豪族を引き込んで、 織

  田氏に反旗を翻(ひるが)し、離反し、 三木合戦

  (みきかっせん、1578〜80年)が始まる。 

 

■ 1578年(天正6年)3月に、別所長治(べっしょ

  ながはる)が毛利氏に味方し、 織田信長に反旗

  を翻(ひるがえ)す。

     櫛橋 光(くしはしてる、黒田官兵衛(孝高)夫

  人)の父・櫛橋伊定(くしはしこれさだ)は、 それ

  に追随し、 織田方に敵対することとなった。 15

  78年7月より、 櫛橋伊定の居城の志方城(し か

  たじょう)は、 織田方の織田信雄の軍に包囲され、

  出撃したが、被害が大きく、 1578年8月に、城

  の兵の命(いのち)の保障と引き換えに、自害す

  る。 そのとき、櫛橋 光の兄弟たちは、許されて、

  黒田氏に仕える。

 

■ 1578年(天正6年)7月に、 羽柴秀吉(豊臣秀

  )の織田軍本隊は、織田信長の指示に従い、播

  磨西端の上月城(こうづきじょう)を放棄し、 姫路

  北西の、書写山(しょしゃざん)まで撤退(てったい)

  した。

  

■ 1578年(天正6年)10月に、 荒木村重が、 石

  山本願寺と手を結んで、織田信長に対し謀反を起

  こす (有岡城の戦い (1578年10月〜1579年

  10月))。

 

■ 小寺氏の離反(反逆)。

    1578年11月頃から、 黒田 官兵衛(孝高)

  (小寺孝高)の主君の小寺政職(こでらまさもと)

  は、 別所 長治(べっしょながはる)の離反 (三

  木合戦(みきがっせん、1578〜80年)) や 織

  田氏重臣の荒木村重(あらきむらしげ)の織田氏

  への 謀反(1578〜79年))に同調し、 毛利氏

  に通じて織田氏に敵対した。

 

■ 1578年(天正6年)11月に、織田水軍は、毛利

  水軍を撃破する (第2次木津川口の戦い)。

     織田信長は、 水軍の九鬼嘉隆(くきよしたか)

  の考案した鉄甲船(舟の上部を鉄板で覆(おお)っ

  た舟)を6隻建造し、 毛利水軍と戦った。

 

■ 1578年(天正6年)に、小寺政職が、 織田信長

  に反旗を翻(ひるが)す荒木村重に呼応した際に、

  黒田 官兵衛(孝高)は、荒木村重 を説得するため、

  有岡城に乗り込んだが、幽閉される(捕縛され牢に

  入れられる)。 

     1578年11月頃、 黒田 官兵衛(孝高)(小

  寺孝高)は、 荒木村重(あらきむらしげ)を翻意

  (ほんい)させるため (謀反をやめ織田氏に再び

  つかせるため)、 荒木村重の有岡城(ありおかじ

  ょう)に乗り込んだが、 成功せず、 約1年間、幽

  閉(ゆうへい)される。 

     荒木村重は、 同盟関係にある小寺政職(こ

  でらまさもと)の手前、 黒田 官兵衛(孝高)(小寺

  孝高)を捕らえて牢獄(ろうごく)に閉じ込めてしま

  った。 

     幽閉されて(捕縛され牢に入れられて)約1年

  後、  黒田 官兵衛(孝高)(小寺孝高)は、1579

  年(天正7年)10月に、荒木村重の有岡城が落城

  し、救出される。

 

 1578年(天正6年)に、 黒田 官兵衛(孝高)

  (くろだかんべえ(よしたか))(小寺孝高)が 摂

  津有岡城・城主の荒木村重に幽閉される (捕

  縛され牢に入れられる)。 

     黒田 官兵衛(孝高)(小寺孝高)の父の黒田

  職隆(くろだもとたか、小寺職隆)は、 子の黒田

  官兵衛(孝高)(小寺孝高)が救出されるまでの間、 

  姫路城に入り、黒田家当主の座に戻り、 織田信

  に離反した小寺政職には味方せず、 変わらず

  織田信に味方する姿勢を示す。

 

■ 1579年(天正7年)10月に、 織田軍により、

  荒木村重の有岡城が落城し、黒田 官兵衛(孝高)

  (小寺孝高)は、救出される。

 

■ 1579年(天正7年)10月に、 宇喜多直家(うき

  たなおいえ、1529〜81年)は、毛利氏と手を切

  って織田信長に臣従する。

     黒田官兵衛は、以前より、宇喜多直家に、織

  田信長への臣従を進言していたが、やっと、157

  9年(天正7年)10月に、直家は、信長に臣従す

  る。

 

■ 三木城兵糧攻め」(三木のひ殺し)。 

  秀吉軍の播磨の三木城の兵糧攻め

    1580年(天正8年)1月に、 羽柴秀吉(

  臣秀吉)の織 田軍は、 約2年間の難攻の末、 

  播磨(はりま、兵庫県南部)の、別所長治 (べっ

  しょながはる)の三木城(みきじょう)を落とした。 

     三木合戦 (みきがっせん、1578〜80年)

  は、 兵糧攻め(ひょうりょうぜめ) であった。

  「三木のひ殺し」 (みきのひごろし) と言われ

  た。

 

■ 1580年(天正8年)3月に、一向宗(いっこうし

  ゅう、本願寺)の石山本願寺の顕如(けんにょ)

  は、織田信長と講和を結ぶ (1570〜80年の

  石山戦争(合戦)が終わる)。 信長に降伏した。

  

■ 1580年(天正8年)に、黒田 官兵衛(孝高)

  (小寺孝高)の主君の小寺政職(こでらまさもと)

  も討伐され、武家の小寺氏が滅びる。 

     小寺政職は、 織田信忠の織田軍に居城

  御着城(ごちゃくじょう)を攻撃され落城し、毛

  利氏のもとへ落ち延びた。

 

■ 1580年頃に、 織田家家臣で羽柴秀吉(豊臣

  秀吉)の与力となった、黒田 官兵衛(孝高)(小

  寺孝高)は、 名字に黒田を用い、黒田孝高(く

  ろだよしたか) と称するようになった。

 

■ 1580(天正8年)年9月に、黒田 官兵衛(孝高)

  は、織田信長より、 播磨国福井庄(網干周辺)

  1万石を与えられる。

 

■ 「鳥取城兵糧攻め」鳥取の渇え殺し)。

  秀吉軍の因幡の鳥取城兵糧攻め。  

    1581年(天正9年)6月に、 羽柴秀吉(

  臣秀吉)の織 田軍は、 第2次鳥取城攻めを行

  い、 兵糧攻め(ひょうりょうぜめ)で、3ヶ月で降

  伏させた。

     黒田 官兵衛(孝高)は、 鳥取城の城中の

  備蓄米が少ないのを見抜き、 羽柴秀吉(豊臣

  秀吉)に兵糧攻めを献策し、  兵糧攻めを実行し、

  成功させたと言われている。  因幡(いなば、鳥

  取県東部)の、鳥取城内は、飢餓(きが)で悲惨

  な状況に追い込まれた。 この兵糧攻めは、「鳥

  取の渇え殺し」  (とっとりのかつえごろし)と言

  われた。

 

■ 1582年(天正10年)に、 織田信長の計らい

  で、 宇喜多直(うきたなおいえ、1529〜81

  年)死後、 直家・次男の宇喜多秀家が、幼少な

  がら備前の本領を安堵(あんど)され、宇喜多家

  の家督を継ぐ。 叔父の宇喜多忠家が秀家の代

  理として軍を率い、宇喜多直家の重臣が秀家を

  補佐した。

 

■ 1582年(天正10年)に、黒田 官兵衛(孝高)

  の正室夫人の光 (てる、櫛形 光(くしはし てる・

  みつ、生没年:1553〜1627年)は、 黒田 官

  兵衛の次男の 黒田熊之助 (1582〜97年)を

  産む。

 

■ 「高松城水攻め」 

  秀吉軍の備中高松城水攻め。  

    1582年(天正10年)に、羽柴秀吉(豊臣秀

  )の織田軍は、 毛利氏の部将・清水宗治(し

  みずむねはる)が守る備中・高松城(びっちゅう・

  たかまつじょう)の攻略を行っていた。

     羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、巨大な堤防を築

  いて水攻めにしたが水をうまくせき止められな

  かった。 黒田 官兵衛(孝高) は、 船に土嚢

  (どのう)を積んで底に穴を開け沈めるように 献

  策し成功させた と言われている。 

    高松城攻めの最中に、1582年(天正10年)

  6月2日に本能寺の変が起こり 、 織田信長

  明智光秀により殺されたことを知った、黒田 官

  兵衛(孝高)は、 羽柴秀吉(臣秀吉)に対し

  て、毛利輝元と和睦(わぼく)し、明智光秀を討

  (う)つように献策し、中国大返し(ちゅうごくお

  おがえし)を成功させた と言われている。

 

■ 1582年(天正10年)6月27日に、清洲城で、

  織田氏の重臣が、清洲会議(きよすかいぎ)を開

  き、 織田信長・信忠死後の、織田氏の後継者や

  遺領配分を決定した。

    秀吉・軍師の黒田官兵衛(孝高)(くろだかん

  べい(よしたか))の献策により、 羽柴秀吉(

  臣秀吉)は、 幼年の三法師( さんぼうし、 さんぽ

  うし、織田秀信)を擁立した。 

    それにより、 柴田勝家の影響力が低下し、 

  代わりに、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、  織田氏

  の重臣筆頭の地位を占めるようになった。 

 

■ 1583年頃に、 黒田 官兵衛(孝高) は、

  リスト教 ・カトリックに入信する。  シメオン

  (SIMEON)という洗礼名をもつキリシタン大

  名 (1583年頃〜1587年、ドン・シメオン、

  黒田シメオン) となる。

    しかし、 秀吉の側近の黒田 官兵衛(孝高)

  は、 豊臣秀吉の1587年(天正15年)のバテ

  レン追放令に率先して従う (ルイス・フロイス

  の「日本史」 より)。

 

■ 1584年(天正12年)に、黒田 官兵衛(孝高)

  (くろだかんべえ(よしたか))(黒田シメオン、ド

  ン・シメオン) は、 播磨国山崎・篠の丸城・5

  万石を、 羽柴秀吉(豊臣秀吉)より 、 与えられ

  る。

 

■ 1585年(天正13年)羽柴秀吉(豊臣秀吉

  の四国攻 めでは、黒田 官兵衛(孝高)(黒田

  シメオン、ドン・シメオン)は、 軍艦として加わり、

  四国に上陸し、 敵将・長宗我部 元親の策略を

  打ち破り、 四国の諸城を陥落させていった。 

  長宗我部軍は、降伏した。

 

■ 1585年(天正13年)8月に、 黒田 官兵衛

  (孝高)(黒田シメオン、ドン・シメオン)の父・黒

  田職隆 (くろだもとたか、生没年1524〜15

  85年)が、 享年62歳で、死去する。

 

■ 1586年(天正14年)から1587年(天正15

  年)までの豊臣秀吉の九州攻めでは、 黒田

  官兵衛(孝高)(黒田シメオン、ドン・シメオン)は、 

  軍艦として加わり、九州に上陸し、 九州の諸城

  を陥落させ南下し、 島津義久(しまづよしひさ)

  の軍勢を破り、戦勝に貢献する。

 

 1587年(天正15年)に、豊臣秀吉は、島津氏

  を討って、九州を平定する。

 

 

#kurodakanbei-thebuzenperiod

 

■ 黒田 官兵衛・豊前・本拠地時代

   (1587年〜1600年)。

 

 1587年(天正15年)に、黒田 官兵衛(孝高)

  は、豊臣秀吉より、 豊前国(ぶぜんのくに、福

  岡県東部・大分県北部)・中津12万石に封じら

  れ(を与えられ)、中津城主となる。 

     1587年(天正15年)に、 秀吉の九州平

  定後、 黒田 官兵衛(孝高)(ドン・シメオン、黒

  田シメオン)(1546〜1604年)は、 豊臣秀吉

  より、 豊 前国 (ぶぜんのくに、福岡県東部・大

  分県北部)・中津12万石に封(ほう)じられ、中

  津城主となり、 九州北東部の、豊前国中津(な

  かつ)の領主となった。 

    

 1587年(天正15年)に、秀吉の側近の黒田 官

  兵衛(孝高)(黒田シメオン、ドン・シメオン)は、

  臣秀吉の1587年のバテレン追放令に率先して

  従う (ルイス・フロイスの「日本史」より)。

 

 1589年(天正17年)に、黒田 官兵衛(孝高)

  (くろだかんべえ(よしたか))(1546〜1604年)

  は、 隠居し、  「如水軒」(号)と称し、黒田如水

  (くろだじょすい)となり、 1589年に、黒田 官兵

  衛の嫡男・跡継ぎの黒田 長が、豊 前国中津

  12万石の領主となる。

    天下(日本)を支配するようになった、豊臣秀

  は、 黒田 官兵衛(孝高)の才知を高く評価す

  ると同時に、 天下をとれる才能をもつ、黒田 官

  兵衛(孝高)に、 己の天下の座を脅(おびや)か

  されかねないと恐れ、危険を感じるようになった

  め、 黒田 官兵衛(孝高)は、 黒田家を取り潰

  される前に、 「如水軒」(号、私は流れる水の如

  しの意)と称し、 息子に家督を譲り、 隠居した

  と言われている。

 

 1589年(天正17年)に家督を黒田長政に譲っ

  た後も、黒 田官兵衛(孝高)(黒田如水、如水軒)

  は、 豊臣秀吉の側近として仕(つか)えた。

 

 1590年 (天正18年)の小田原征伐(せいば

  つ)では、 黒田官兵衛(孝高)(黒田如水、如水

  軒)は、小田原城に入って、 北条氏政・氏直(う

  じまさ・うじなお)父子を説得して、 無血開城さ

  せる功績を立てた。

 

 1592年(天正20年、文禄元年)から1593年

  (文禄2年)まで、 文禄の役(ぶんろくのえき)で

  は、 黒田 官兵衛((孝高)黒田如水、如水軒)は、

  軍艦として参加する。

 

 1593年(文禄2年)に、黒田 官兵衛(孝高)(く

  ろだかんべえ(よしたか))(黒田如水、如水軒)は、

  「如水円清」(法名) と称して、出家する。

 

 1597年(慶長2年)に、慶長の役(けいちょうの

  えき)で、 黒田 官兵衛(孝高)(黒田如水、如水

  円清)は、 軍艦、部将として参加する。

 

■ 1597年(慶長2年)に、黒田 官兵衛(孝高)の

  子の、黒田熊之助は、慶長の役の最中に、 父

  の黒田官兵衛(孝高)や兄の黒田長政を追って、 

  朝鮮半島に渡海しようと試み、暴風雨に遭い、遭

  難死する。

 

 1598年(慶長3年)8月に、 黒田 官兵衛(孝

  高)(黒田如水、如水円清)が仕えた、豊臣秀吉

  が死去する。

 

 1599年(慶長4年)1月に、 「大阪城中壁書」

  に違反した徳川家康 と 前田利家石田三成

  ら奉行衆が対立すると、 黒田 官兵衛(孝高)

  (黒田如水、如水円清)は、 蜂須賀家政や藤堂

  高虎らと共に、 徳川家康方に参じる。

 

 1599年(慶長4年)3月に、 前田利家が、病死

  すると、黒田長政ら七将が、石田三成襲撃事件を

  起こす。 徳川家康の仲裁で、石田三成は、佐和

  山城(さわやまじょう)に退去する。

 

 1600年(慶長5年)6月に、 豊臣家大老の

  川家康が、 会津の上杉景勝討伐を諸大名に命

  じる。 6月に、 黒田官兵衛(孝高)(黒田如水、

  如水円清)の跡継ぎの黒田長政は、 徳川家康

  の養女(栄姫(えいひめ))と再婚し、 家康と共

  に出陣する。

 

 1600年(慶長5年)7月に、石田三成らが、

  川家康の 非をとなえて、挙兵する。

 

■ 1600年(慶長5年)に、天下分け目の戦い

  (徳川方と石田方の戦い、関が原の戦いその他

  の戦い)の勃発時に、大阪に残っていた、光(て

  る、櫛形 光 (くしはし てる・みつ、生没年:15

  53〜1627年)は、 黒田長政夫人・栄姫(え

  いひめ)や黒田家家臣と共に、 石田方の監視

  が緩(ゆる)んだ隙(すき)を見計らって、 大阪

  の屋敷から抜け出し、 船で、黒田氏居城の豊

  前国中津城(ぶせんのくになかつじょう)まで、 

  脱出した。

 

 1600年(慶長5年)7月に、 豊前国(ぶぜん

  のくに、福岡県東部)の中津(なかつ)の領地に

  帰国し、前もって徳川家康方に味方するという

  密約を結んでいた黒田官兵衛(孝高)(黒田如

  水、如水円清)は、 石田三成らの 挙兵の知ら

  せを受け取ると、 中津城の金蔵(きんぞう)を

  開き、支度金を用意した。 そして、7月から9

  月までの間に、黒田官兵衛(孝高)(黒田如水、

  如水円清)は、 支度 金を出すと聞き及んで領

  内外から集まってきた牢人(浪人)、農民などで、

  約9000人の速成軍を作り上げた。

 

 1600年(慶長5年)の9月から11月まで、 

  田官兵衛(孝高)(黒田如水、如水円清)は、

  成軍を率いて、 九州各地を転戦して、 九州北

  部・中部を占領した。

    1600年(慶長5年)11月に、黒田官兵衛(孝

  高)(黒田如水、如水円清)は、 徳川家康から停

  戦命令を受け、 占領した九州北部・中部を徳川

  家康に渡し、軍を退りぞき、解散した。

 

 1600年(慶長5年)の「天下分け目の戦い」(徳  

  川方と石田方の戦い、関が原の戦いその他の戦

  い) では、 黒田官兵衛(孝高)・黒田長政父子

  は、徳川方に味方して戦う。

    黒田 官兵衛(孝高)(黒田如水、如水円清)

  は、 「天下分け目の戦い」で徳川方に味方して

  戦い、1600年(慶長5年)に、九州で石田方と戦

  い活躍する。

     黒田 官兵衛(孝高)(黒田如水、如水円清)

  の跡継ぎの黒田長政は、  「天下分け目の戦い」

  で徳川方に味方して戦い、 1600年(慶長5年)

  に、関ヶ原の戦いで東軍の部将として石田方と戦

  い活躍する。

 

 

#kurodakanbei-thechikuzenperiod

 

■ 黒田 官兵衛・筑前・本拠地時代

   (1600年〜1604年)。

 1600年(慶長5年)の「天下分け目の戦い」 

  (徳川方と石田方の戦い、関が原の戦いその他

  の戦い) で、 黒田 官兵衛(孝高)・黒田長政

  父子は、 徳川方に味方して戦う。

     戦後、戦功により、 1600年(慶長5年)に、

  徳川家康り、 黒田官兵衛(孝高)(黒田如水、

  如水円清)の子の黒田長政が、 筑前国 (ちく

  ぜんのくに、福岡県北部)・福岡52万石に封(ほ

  う)じられ(を与えられ)、福岡城主となり、 筑前

  国福岡52万の領主(大名)となり、 初代福岡藩

  主となった。 

    以後代々、江戸時代を通じて、黒田氏が福岡

  藩主となった。

 

 1600年(慶長5年)の黒田氏の筑前国(ちくぜ

  んのくに、福岡県北部)に加増移封後は、 黒田

  官兵衛(孝高)(黒田如水、如水円清)は、 中央

  の政治に関与することもなく、 隠居生活を送る。

 

■ 1602年(慶長7年)に、 黒田官兵衛(孝高 )

  の正室夫人の光 (てる、櫛形 光(くしはし てる・

  みつ、生没年:1553〜1627年)は、出家して、 

  照福院(しょうふくいん) と称し、 その後、福岡・

  應寺など の寺院を建立した。

 

 1604年(慶長9年)に、黒田官兵衛(孝高)(黒

  田如水、如水円清)は、 京都伏見の福岡藩邸

  にて、死去する。 享年59歳であった。

   

 

#kurodakanbei-appearingscenes

 

♪♪ 黒田 官兵衛(孝高)(くろだかんべえ

   (よしたか)) が登場する興味深い、

   ドキュメンタリー、ドラマ、映画。

 

★ 黒田 官兵衛(孝高) が登場する

     興味深い関連ドキュメンタリー。

 

■ ザ・プロファイラー 『 黒田 官兵

   衛 』 

   (NHK・2014年1月1日・本放送・歴史ド

   キュメンタリー)。 

 

 

★ 黒田 官兵衛が登場する、興味深

  い関連ドラマ、映画。 

● (注意) ドラマ、映画は、フィクション です。 

  歴史のドラマ、映画は、 史実(歴史上の事

  実) と 架空の出来事 が混じって描かれ

  ています。 また、 現代風にアレンジしてあ

    ります。

 

■ 『 軍師 官兵衛 (ぐんし かんべえ) 』。 

   (NHKテレビ・2014年大河ドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

 

● 黒田 官兵衛 (くろだ かんべえ、豊臣秀吉

  の軍師) を演じた俳優名 :

  岡田 准一 (おかだ じゅんいち)。

     ○ 万吉 (まんきち、幼少期の黒田 官兵

  衛) を演じた俳優名 :

  若山 耀人 (わかやま きらと)。

 

● いわ (黒田 官兵衛の生母) を演じた女

  優名:

  戸田 菜穂 ( とだ なほ)。

● 光 (てる、黒田 官兵衛の正室夫人、櫛橋

  左京亮の娘) を演じた女優名:

  中谷 美紀 (なかたに みき)。

● 黒田 長政 (くろだ ながまさ、成人時、黒

  田 官兵衛の嫡男) を演じる俳優 : 

  松坂 桃李 (まつざか とおり)。

     ○ 松寿丸 (しょうじゅまる、少年期の黒田

  長政) を演じた俳優名 :

  若山 耀人 (わかやま きらと)。

● 糸 (いと、黒田 長政の1番目の正室夫人、

  蜂須賀小六の娘) を演じた女優名 :

  高畑 充希 ( たかはた みつき)。

● 栄 (えい、黒田 長政の2番目の正室夫人、

  徳川家康の母方の姪(めい)) を演じた女

  優名 :

  吉本 実憂 ( よしもと みゆ)。

● 黒田 職隆 (くろだ もとたか、黒田 官兵衛

  の父) を演じた俳優 : 

  柴田 恭兵 (しばた きょうへい)。

● 黒田 重隆 (くろだ しげたか、黒田 官兵衛

  の祖父) を演じた俳優  : 

  竜 雷太 (りゅう らいた)。

 

● 母里 太兵衛 (もり たへい、黒田 官兵衛

  の重臣、槍の名手、黒田節のモデル) を

  演じた俳優名 : 

  速水 もこみち (はやみ もこみち)。

● 井上 九郎右衛門 (いのうえ くろうえもん、

  黒田 官兵衛の重臣) を演じ た俳優名 : 

  高橋 一生 (たかはし いっせい)。

● 栗山 善助 (くりやま ぜんすけ、黒田 官

  兵衛の重臣) を演じた俳優名 : 

  濱田 岳 (はまだ がく)。

● 後藤 又兵衛 (ことう またべえ、黒田 長

  政の重臣) を演じた俳優名 : 

  塚本 高史 (つかもと たかし)。

 

● 小寺 政職 (こでら まさもと、黒田 官兵衛

  の最初の主君、御着城(ごちゃくじょう)城主) 

  を演じた俳優名 : 

  片岡 鶴太郎 (かたおか つるたろう)。

● お紺 (おこん、小寺 政職の正室夫人) を

  演じた女優名 :

  高岡 早紀 ( たかおか さき)。

 

● 櫛橋 左京亮 (くしはし さきょうのすけ、黒

  田 官兵衛の正室夫人・光(てる)の父、小寺

     政職のいとこ・重臣、播磨・志方城(はりま・

  しかたじょう)城主) を演じた俳優 : 

  益岡 徹 (ますおか とおる)。

● 櫛橋 左京進 (くしはし さきょうのしん、櫛

  橋 左京亮の嫡男、小寺 政職の家臣) を

  演じた俳優 : 

   金子 ノブアキ ( かねこ のぶあき)。

● 力 (りき、櫛橋 左京亮の娘、上月景貞・

  夫人) を演じた女優名 :

  酒井 若菜 ( さかい わかな)。

 

● 荒木 村重 (あらき むらしげ、摂津(せっ

  つ)・地侍出身の摂津・国主、黒田 官兵衛

  を幽閉した摂津・有岡城主) を演じた俳

  優 : 

  田中 哲司 (たな てつし)。

● だし (荒木 村重の正室夫人、美人、村重・

  有岡城脱出後・捕えられ処刑) を演じた女

  優名 :

  桐谷 美玲 ( きりたに みれい)。

 

● 高山 右近 (たかやま うこん、悲劇のキリ

  シタン大名) を演じた俳優 : 

  生田 斗真 (いくた とうま)。

 

● 豊臣 秀吉 (とよとみ ひでよし、羽柴(はし

    ば)秀吉、木下藤吉郎)  を演じた俳優名 :

  竹中 直人 (たけなか なおと)。

● おね (ねね、豊臣秀吉の正室夫人) を

  演じた女優名:

  黒木 瞳 ( くろき ひとみ)。

● 豊臣 秀長 (とよとみ ひでなが、羽柴(木

  下)小一郎) を演じた俳優名 :

  嘉島 典俊。

● 豊臣 秀次 (とよとみ ひでつぐ、豊臣 秀吉

  の姉の子(甥)、豊臣政権・2代目関白) を

  演じた俳優名 :

  中尾 明慶。

 

● 小西 行長 (こにし ゆきなが) を演じた

  俳優名 :

  忍成 修吾。

● 加藤 清正 (かとう きよまさ) を演じた

  俳優名 :

  阿部 進之介。

● 福島 正則 (ふくしま まさのり) を演じた

  俳優名 :

  石黒 英雄。

 

● 蜂須賀 小六 (はちすか ころく、豊臣秀吉

  の腹心) を演じた俳優名 :

  ピエール 瀧 (ぴえーる たき)。

● 淀 (茶々) (よど (ちゃちゃ)、豊臣秀吉の

  側室夫人) を演じた女優名:

  二階堂 ふみ ( にかいどう ふみ)。

● 石田 三成 (いしだ みつなり、豊臣政権の

  官僚) を演じた俳優名 :

  田中 圭 (たなか けい)。

 

● 織田 信長 (おだ のぶなが) を演じた俳

  優名 : 

  江口 洋介 (えぐち ようすけ)。

● お濃 (おのう、濃姫、織田 信長・正室夫

  人) を演じた女優名:

  内田 有紀 ( うちだ ゆき)。

 

● 丹波 長秀 (にわ ながひで) を演じた俳

  優名 : 

  勝野 洋 (かつの ひろし)。

● 柴田 勝家 (しばた かついえ) を演じた

  俳優名 : 

  近藤 芳正 (こんどう よしまさ)。

● 明智 光秀 (あけち みつひで) を演じた

  俳優名 : 

  春風亭 小朝 (しゅんぷうてい こあさ)。

 

● 毛利輝元 (もうり てるもと、毛利家当主) 

  を演じた俳優 :

  三浦 孝太。

● 小早川 隆景 (こばやかわ たかかげ) を

  演じた俳優 :

  鶴見 辰吾 (つるみ しんご)。

● 吉川 元春 (きっかわ もとはる) を

  演じた俳優 :

  吉見 一豊。

● 安国寺 恵瓊 (あんこくじ えけい、毛利家

  の外交役) を演じた俳優 :

  山路 和弘 (やまじ かずひろ)。

 

● 徳川 家康 (とくがわ いえやす)を演じた

  俳優名 : 

    寺尾 聰 (てらお あきら)。

● 井伊 直政 (いい なおまさ) を演じた俳

  優名 : 

    東 幹久 (あずま みきひさ)。

 

● 竹中 半兵衛 (たけなか はんべえ、羽柴

  秀吉(豊臣秀吉)の軍師、黒田 官兵衛の

  友) を演じた俳優名 : 

  谷原 章介 (たにはら しょうすけ)。

 

● 千利休(千宗易) (せんのりきゅう(せんの

  そうえき)) を演じた俳優名 : 

  伊武 雅刀 (いぶ まさとう)。

 

● 足利 義昭 (あしかが よしあき、室町幕府・

  第15代将軍) を演じた俳優名 : 

  吹越 満 (ふきこし みつる)。

 

● 顕如 (けんにょ、織田信長の敵、本願寺

  (一向宗)法主) を演じた俳優名 : 

  眞島 秀和 (ましま ひでかず)。

 

● 山中 鹿介 (やまなか しかのすけ、尼子家

  の旧家臣で尼子家再興をめざした) を演じ

  た俳優名 : 

  別所 哲也 (べっしょ てつや)。

 

● 清水 宗治 (しみず むねはる、毛利家家臣、

  備中・高松城城主) を演じた俳優名 : 

  宇梶 剛士 (うかじ たかし)。

 

● 宇喜多 直家 (うきた なおいえ、備前・美作

  (びぜん・みまさか)の国主(こくしゅ)) を演

  じた俳優名 : 

  陣内 孝則 (じんない たかのり)。

 

 

■ 『 戦国疾風伝 (せんごくしっぷうで

   ん) 二人の軍師〜秀吉に天 下

   を獲らせた男たち 』 

    (日本の2011年テレビ東京・放映テレ

    ビドラマ)。 

 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代、

  江戸時代初期を描いたドラマ。

 戦国・安土桃山時代を描いたドラマ。

   黒田 官兵衛(孝高(よしたか))、竹中 半兵

  衛(重治(しげはる))の2人の軍師を中心に、

  描く。

 

● 黒田 官兵衛を演じた俳優名 :

  高橋 克典 (たかはし かつのり)。

 

● 竹中 半兵衛を演じた俳優名 :

  山本 耕史。 

● 豊臣 秀吉(羽柴秀吉)を演じた俳優名 : 

  西田 敏行

● ねね(豊臣 秀吉夫人)を演じた女優名 : 

  余 貴美子。

● 織田信長を演じた俳優名 : 

  加藤 雅也。

● 黒田 官兵衛の父・黒田宗円(職隆)を演

  じた俳優名 : 

  橋爪 功。

● 黒田 官兵衛の正室夫人・光(てる、櫛橋

  光)を演じた女優名 : 

  奥貫 薫。

● 黒田 官兵衛の子・松寿丸(黒田長政)を

  演じた俳優名 : 

  尾崎 右宗。

● 黒田長政夫人のお栄を演じた女優名 : 

   月華。

● 櫛橋伊定を演じた俳優名 : 

  あおい 輝彦。

● 小寺政職(こでらまさもと)を演じた俳優

  名 : 

  品川 徹。

● 荒木村重を演じた俳優名 : 

  山田 純大。

● 蜂須賀小六正勝を演じた俳優名 : 

  北見 敏之。

● 木下小一郎秀長を演じた俳優名 : 

  中本 賢。

● 徳川家康を演じた俳優名 : 

  松平 定知。

 

 

■ 『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜 』 

   (日本の2011年 NHK大河ドラマ) 

● 黒田 官兵衛を演じる俳優名 :  柴 俊夫

   (しば としお)。

 

■ 『 天地人 (てんちじん) 』 

   (日本のNHK2009年大河ドラマ)。

 

■ 『 寧々〜おんな太閤記 (ねね 

   おんなたいこうき) 』 

   (日本の2009年製作テレビ東京・テレビ

   ドラマ)。 

 

■ 『 功名が辻 (こうみょうがつじ) 』 

   (日本のNHK2006年大河ドラマ)。

 

■ 『 利家とまつ〜加賀百万石物

   語〜 』 

   (NHK2002年大河ドラマ)。

 

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』

 

 

以  上