2017.8.1
わが航空半生記
[第4話 A300の導入から定年退職まで]
矢島 征二
1.新機種選定
(1)機種選定の考え方
私がA300を推奨したのはANA/JALとの直接対決を避ける考えからであったが、Dornier 228や後述のSaab340Bの採用も、同
じく両社が進出しない小需要地方路線への進出を狙った結果である。 航空会社内では機種選定は会社の死命を制するとは言われるが、殆どのものがその意味する所を十分理解していたとは思えない。 機種選定に当たっては、せいぜい故障が少なく安全な飛行機を選定すると言った程度の認識であり、航空機のキャラクターよりも具体的な型式選定に関心があった。 しかし機種選定で重要なのは、航空機の型式ではなくキャラクターにある。 例えれば、国際線運航会社はDornier 228を選択することはしないし、地域航空会社はジャンボ・ジェット機を導入しない。 Dornier 228とBoeing 747の違いは、型式の違いと言うより本質的なキャラクターの違いであり、型式の違いはそれほど事業範囲には影響しないが、キャラクターの違いは事業範囲を決定する。 日本ではJALがDC-10、ANAがL-1011と同じキャラクターであるが型式の違う航空機を夫々導入したが、投入した路線は両社とも類似している。
JASの場合、A300とDC-10のどちらを採用するかと言うことは、単に航空機の優劣の差よりも投入出来る路線が、即ち会社の事業内容が変わってくる。 但し当時は会社の誰も機種選定をそうは見ておらず、老舗航空機メーカーであるダグラスのDC-10だから、後発会社のA300よりは信頼出来そうと言った程度の認識であった。 A300の採用は、会社を国内幹線でANA/JALと正面戦争するのでなく、主として地方路線のいわばニッチ路線に向かわせた。 しかし私にそんな戦略的思考があってA300を選択したと言うよりも、市場の隙間を狙っているうちにそうなったのが本当の所である。 当時、私にANA/JALとの直接対決せず、ニッチの分野で生き残りを図ろうと言う無意識な意図があったとしても、それを会社の事業戦略として取り上げて貰おうとまでは考えが及ばなかった。 従って期待した機種選定は出来たが、それをどのような事業戦略により運用すべきか、社内に理解させようと言う努力をすることは念頭になかった。 今思えば、我が痛恨の一事であるが、それも私自身の認識不足にあることを認めなければならない。
(2) DHC-8-Q400の採用
会社の事業戦略不在は、JACのDHC-8-Q400の採用にも見られる。 会社にとってJACのYS-11の後継機は大問題であった。 JACの路線構成と路線の需要規模からして、候補機は当然ターボプロプ機であるDHC-8-Q400とATR72があげられるが、比較的短距離路線の多いJACにはATR72の方が適当と私は考えていた。 ちなみに当時の1998年度(平成10年度)のJACの提供座席平均区間距離は354kmであった。 DHC-8-Q400は巡航速度650km/hrの高速が売り物だが、平均区間距離が354km程度では高速巡航速度を発揮出来る路線はそう多くはない。 現在のダイヤを見ると、区間距離579kmの鹿児島〜沖永良部線に両機種が投入されているが、Q400の所要時間が1時間15分、ATR42のそれは1時間30分である。 それから推測すると平均的路線では殆ど差は出ないと考えるし、それに他社との競合路線では無いのだから所要時間を気にする必要はない。 反面、高速であることは燃料消費量の多い大馬力エンジンを装備していると言うことであり、機体価格も運航費もQ400の方が高くなる。 しかし私が機種選定業務から外れた後、経営企画室の後任が選定作業を行ったが、結果としてDHC-8-Q400を選定した。 その後社長にその経緯を聞ける機会があったが、経営企画室は今やジェットの時代だとYS-11の後継機としてリージョナル・ジェット採用に走り出したが、事業計画を試算した所採算が取れる見込みが立たなかったそうである。 しかし、それまで次はジェット機導入が既定路線のように言っていたので今更ターポプロップ機のATR72とも言い出せず、「ジェット機の高速性とターポプロップ機の経済性」と言うQ400のキャッチフレーズに飛びついた結果とのことであった。 Q400には1,200m滑走路で運用可能なのかと言う疑問が提起されたが、海外のフライト・シュミレーターを借用して実験した結果なんとか行けそうと言うことになり、実際に沖永良部と与論の1,200m滑走路からも運用している。
なおANAは、同機は三宅島の1,200m滑走路では運用出来ないとして、羽田〜三宅島線から撤退し、現在同路線は新中央航空が運航している。 私は社長にQ400の採用を再考出来ないかと聞いたが、既に親会社の東急電鉄に報告しているので引き返せないとのことであった。 それから20年以上経って、JACにATR42が就航したのは感無量である。 新機種選定には、会社事業のなかでどのような位置づけとするのか、どの路線に投入するのか、事業戦略が先になければならない。 ただジェット時代だからジェット機、或はそれに近似する飛行機をともかく入れてみようなんて言うのは、言語道断と思うのである。
3.レインボー・カラーの採用
A300の採用決定の後に、たまたま埼玉県の入間飛行場で航空ショーが開催された。 以前は日本でも何回か航空ショーが開催されており、第一回は確か名古屋の小牧空港で、それから埼玉県入間飛行場と岐阜県各務ケ原飛行場でも開催されている。 日本の航空ショーは全て航空自衛隊の全面支援のもとに自衛隊基地で開催されていたが、航空自衛隊の負担が大きかったらしく、今後、場所提供はするが人員の応援はできないとなったらしい。 ところが日本の航空工業界は業界だけでは出来ないと言って航空ショーはとりやめて、今は4年ごとに「航空機器展」として開催しているが、実機の無い航空展など気の抜けたビールのような感じである。 最近の業界紙の記事を見ると、2018年に計画している次回は展示規模も従来の半減となり、一般公開はやらない方針とある。 これからは航空工業の振興に期待すると言う声が聞こえる割には工業界の及び腰が感じられ、我が国の航空工業界のやる気に疑いがでてくる。
さて話は戻って入間飛行場での航空ショーであるが、エアバス社は社有機のA300を送り込んで来たので、
これ幸いとこの機体を利用して何回か招待飛行を行った。 大分に行ったときは、招待客に大分で昼食を提供したのでその間、機体は駐機していた。 ところが地元の有力者が数十人見学に来ていて、なんとか乗せてくれないかと言うのである。 エアバス側に相談したところ P.B機長は快諾してくれたが、客室乗務員は契約上のせられないと言う。 それで乗客は50人以下なので、私が客室乗務員代行を勤めて飛んだ記憶がある。 また私は見ていないが、P.B機長は入間飛行場ではぞっとするような低空飛行をやり、それで航空局から以降そのような飛行の厳禁を言い渡されたそうである。
話は大分後になるが、パリ・エアショーを見に行ったことがある。 この時はATR社の P.D機長が面倒を見てくれた。 P.D機長は元エア・フランスの機長でTDAのA300、1号機の空輸に乗って来てパイロットの教官を勤めたのだそうである。 「そうである」と言うのはその時には私は会って居らず、ATR社の営業の一員として来日してからの付き合いである。 その時P.D機長機長の自宅で、フランス空軍のテスト・バイロット学校の同窓生であったP.B)機長を紹介された。 次の日、P.B機長機長はエアバス社が試作中であったA300を母体とした大型輸送機、「ベルーガ」の展示飛行を操縦して飛んだので、見えないとは思うが皆で手を振った覚えがある。 この輸送機は、エアバス社が欧州各地で分割製造されている機体構造を輸送する為の特製大型輸送機で、その機首の形が白いるか-ベルーガ-に似ているのでそう呼ばれている。
余談になるが、テスト・パイロットと言うのは、どこかエアライン・パイロットと違う。 BAC-111がデモ飛行に来日した時、操縦室に乗せてもらったことがある。 出発に際しては航空会社の手順では、副操縦士がチェックリストを読み上げ、機長が操作、確認するようにしているが、BAC-111では機長と副操縦士は会話を交わすことも無く、それぞれがあちこちを操作していつの間にか動き出していた。
ANAがバイカウント828を導入したときの話であるが、購入機の領収迄のつなぎに香港航空のバイカウント744が2機リースされた。 その一号機の羽田到着時に空港の上空を低空飛行したが、たまたま私が羽田整備場の道路を歩いていた時に頭上を通過した。 驚いたことに4発エンジンの内3発が停止していた。 BAC社のレセプションで、パイロットに昔、この飛行について話したところ、「あれは俺がやったんだ」との答であった。 話を戻すが入間航空ショーに来たA300デモ機の外部塗装が、その後のTDAのレインボー・カラーとなった外部塗装である。 デモ飛行に先立ってエアバス社に頼んで、デモ機に「東亜国内航空」の社名のデカルを貼らせてもらった。 これが評判になり、それで会社はエアバス社に頼んでその塗装を使わせてもらうことにした。 但し、垂直尾翼の「A300」の文字は「TDA」に入れ替えた。 デモ機の「東亜国内航空」の名前は帰る時には剥がすことにしていたが、エアバス社はそのままで帰って行った。 それでお礼代わりにデモ機へはTDAが給油したことにした。 普通デモ機の燃料補給は、航空機メーカーが燃料業者と直接契約で購入するのだが、スポット契約なので単価は結構高価になる。 一方、航空会社は長期大量契約なので購入単価はずっと安いので、エアバス社は相当燃料費を節約出来た筈である。
このレインボー・カラーはその後DC-9とYS-11にも応用されたが、最近のニュースによれば今年の5月にJACのレインボー・カラーのDHC-8-Q400が退役し、これでレインボー・カラーは全て姿を消したことになる。 しかし、レインボー・カラーがTDAのイメージアップに多大な貢献をしたことは間違いない。
時期としては少し戻るが、オイル・ショックに対応して社内に役員による「省エネルギー委員会」が設立された。 そしてその主導で全社的に省エネ運動を推進することになり、機種選定委員会の休眠で暇になっていた私が事務局になった。 2年くらい活動して石油危機も緩和されて来たので省エネ運動の成果を総括したところ も億円単位の節約があったことが分かった。 社長は大変喜ばれて「こんなときはお汁粉を出すもんだ」と言われた。 多分学生時代の寒稽古のことでも思い出したらしいが、これが問題になった。
あの発言は単にお話として言ったものか、それとも本当にお汁粉を出せと言うことなのか。 それがどうも本当にお汁粉を出せと言うことらしいとなった。 それでお汁粉をどう作るかと言うことになったが、知恵者がいて佐藤食品と言う会社がインスタントお汁粉を販売していると紹介してくれた。 そこで佐藤食品に来てもらったところ、アルミ箔製のどんぶりにお汁粉が入っていて、そのまま火にかけて加熱すると熱いお汁粉ができあがるものがあった。 それで蓋にはA300の写真を載せた特製品を社員及び支店の代理店職員分購入したが、確か5百万円くらいになったと思う。 通常、航空会社では機種選定は社内でもごく一部のものしか関与せず、殆どの社員は結果を新聞で知るのが普通であるが、この機会にA300については積極的に社内周知を図ることにした。 そこで私は広報室員とチームを組んで全支店にお汁粉を届け、当時はビデオなど無いので8ミリ映写機でA300のプロモーション・フィルムの上映会を開催した。 それで社員はみなA300導入に実感が湧いて、これもA300が強い社内支持を得た理由の一つだったと思う。
4.Saab340Bの導入
JACは創立後順調に発展して主基地も奄美から鹿児島に移し、JASからYS-11の移管を受けて運航を始めたが、JACのパイロットがYS-11の資格拡張試験に合格しないものが続出すると言う問題が生じた。
たまたま社長と社外のパイロットと雑談する機会があったので、Dornier 228のような小型機からYS-11まで一足飛びに移るのは難しいのでは無いかと聞いてみた。 それはあり得ると言うことなので、私はDornier 228とYS-11の間に中間機を入れたらどうかと考えた。 以前、YS-11の空輸の時に操縦桿を持たせてもらったことがあり、それで私は素人なりに、YS-11の操縦は難しいのではないかと思っていた。 水平にまっすぐ飛ぶだけでもそのうちに傾いたりするので、慌てて直そうと操縦桿を動かすが機体は一向に反応しない。 それで操縦桿を大きく動かすと、ようやく機体はぐっと姿勢を戻すので、慌ててその動きを止めようと反対に操縦桿を動かすがうまく収まらない。 その遅れ具合が素人では掴めない。 ところが私にはジェット旅客機の操縦経験もある。 それはかのソ連のペレストロイカの結果、ウラジオストックにも外国機の乗り入れ出来ることになり、JASもチャーター便を飛ばそうと、その打合せに1991年(平成3年)6月にウラジオストックのアエロフロートを訪問した。 日本からは新潟からアエロフロート機でハバロフスク経由ウラジオストックに行ったが、往路の機種は覚えていない。 ウラジオストック空港は軍用基地の一部利用であり、林を抜ける誘導路を通ると民間機エブロンに入るが、そこから軍用基地はまったく見えない。
それでもアエロフロート職員が車で飛行場を見学させてくれた時、当時のソ連空軍の新鋭爆撃機バックファイアがずらりと並んでいるのを見た。 ウラジオストックでは、多分以前は共産党幹部の保養施設ではないかと思うが、塀で囲まれた広い林間に点在する別荘のような施設の一軒に泊めてくれた。 なにしろ広間は30帖敷きくらいで寝室は多分6室以上あったようだが、そこにたった二人で泊まったのであまりの広さに落ち着かなかった。 打合せも終って帰る時に、アエロフロートはハバロフスクまでYAK40の臨時便を出してくれた。 YAK40と言うのは28人乗りの3発小型ジェット旅客機と言う正にソ連式の飛行機である。 乗客は我々チームの5人と母子連れ一組だけであった。 巡航に入ったら操縦室からお呼びがかかったので行ってみると、副操縦士席に座らされて操縦桿を持てと言う。 それで5分間くらいと思うが、直線水平飛行ではあるがジェット機を操縦した。 YAKと言うのは戦闘機の設計で有名なヤコーブレフの略号であるが、そのせいか飛行機が大変敏感に操縦桿の動きに反応し、YS-11とは雲泥の差があると感じた。
さて私の提案した中間機種とは30席級機であり、候補にはDHC-8-100とSaab340Bがあった。 実績はDHC-8-100の方があったが、私は別の面に目を付けた。 当時は上級事業用操縦士と言う資格があって、この資格では最大離陸重量が13.65t以下の航空機の機長を勤められる。 それでSaab340Bなら機長は上級事業用操縦士で良いが、DHC-8-100は最大離陸重量が15tなので定期運送用操縦士でなければならない。
一般的認識では、当然上級事業用操縦士より定期運送用操縦士の方が高度の技量を要求されると考えるし、本音を言えばパイロットの給料も安く出来ると考えた。 そんな考えからSaab340Bの採用を社長に進言したところ、社長は「これを取り上げると社内では、矢島の気違いに乗せられたと言うだろうな」と苦笑いしていたが、それでも調査に出張することは認めてくれた。 それで運航技術担当取締役と一緒に、まず米国はダラスでアメリカン・イーグルでの運航状況を視察し、それからスウェーデンのSaab社を視察した。 現地でJACの浜田社長と合流して視察した結果、これで行けると言うことになってSaab340Bが導入された。 ただ、Saab340Bには飛行機の大きさの割に離着陸性能が良くないと言う弱点がある。 それで1,200m滑走路では、夏期には満席運航出来ないとの指摘が運航部門からなされた。
それで社長から呼ばれて私のそれ迄の話とは違うではないかと言われたので、運航部門のデータを検証した。 その結果、運航部門は各空港の条件を大気温度35度C、無風、滑走路勾配は上り勾配としている。 これは現実的条件ではないと思い、奄美諸島内5空港の午前10時、正午、及び午後3時の気象データを3年分調べた。 その結果奄美諸島の空港は海風の影響があるので、夏期に於いても30度Cを超える日は年に数日しか無く、それもせいぜい32度くらいである。 運航部門の計算した条件は、現実にはあり得ない。
また無風状態ならなぜ上り勾配に向かって離陸しなければならないのか。 島の空港の滑走路は比較的勾配がきついので、下り勾配で離陸すると離陸可能重量が相当に変わってくる。 運航部門の条件は理論的に考えられる最悪条件を設定した現実的ではないので、それで私は現実的な気象条件と下り勾配で計算し直して全て満席で離陸が可能と社長に報告したが、運航部門は何もクレームを申し立てて来なかったし、実運航でも問題は聞いていない。 但し、Saab340Bの離着陸性能には他社からも問題提起されたらしく、1998年(平成10年)から導入されたHACの機体はSaab340B-WTとして翼幅が1.35m延長して翼面積を拡張されたもので、離陸性能は改善されている。 最終的にSaab340BはJACに11機、HACに3機導入された。
何故このような進言が社長に直接出来たのかと言うと、それは私の特殊な立場にある。 前述した事情で、私は定常業務を持たされていなかった。 そして当時、技術職は事務職より低く見られた風土があった。
要するに技術職と言うのは、専門馬鹿であって専門分野のこと以外はまったく判っていない連中であると言うのである。 しかし、航空会社にとって航空機の知識は欠かせず、私は当時本社在籍のただ一人の技術系なので何時の間にか社長付き技術担当補佐官のような役割で、航空機の技術問題に関しては社長に直接進言する機会が持てるようになっていた。 ついでに言うと、ある友人の言うところによれば、本社に於けるただ一人の高卒の管理職であったそうである。
5.北海道エアシステム(HAC)の設立
Saab340Bの導入準備が終ると私はまた暇になったので、ぼんやりと次は北海道で何か出来ないかと思い始めた。 何しろ北日本航空時代はわが青春そのものであり、それで北海道への愛着心は強かった。
そんな時に、たまたま商社の日商岩井が開催したレセプションで北海道庁のK.M氏を紹介された。
当時の北海道知事は横路 孝弘氏であったが、氏の選挙公約の一つに北海道には札幌中心の航空網しかないので、札幌以外の都市圏を直接接続する航空路線開設の構想があり、それで K.M氏が特命担当になっていたらしい。 それで K.M氏と話しあって、いろいろな試案を作って議論した。 ところがJASの方では採算性の悪い地方路線にわざわざ買って出ることはないと反対の声が強かったが、北海道は横路知事や後任の堀 達也知事も熱心に取り組んでくれたので、JASも渋々ながらHAC設立を認めることになった。
それでHAC創立迄凡そ10年もかかったが、こちらは暇つぶしでの取り組みだから時間が経つのは何の苦にもならなかった。 それで1997年(平成9年)5月26日に、社内に経営企画室事業管理部コミューター設立準備室が設置され、私はそこに配属された。 そして1997年(平成9年)9月30日にHACは発足し、私には同日つけでHACへ出向し、営業担当部長の辞令がでた。 しかし、私は整備と経営企画しか業務経験が無い。 たまたまJASの社長に会った時に「君は何をやっているのか」と聞かれたので、「営業担当部長です」と答えたところあきれた顔をされた。 HACでの仕事の初めは航空運送事業の許可申請で、それを一人でやった。 また営業担当部長として客室乗務員一期生の採用試験もやったが、私が客室乗務員に関係したのは、JDA発足の時に客室乗務員一期生に航空機一般の講義をして以来である。 私は制服の選定など客室乗務員関係の開業準備作業は出来るだけ客室乗務員一期生に一任したが、彼女らには好評だったらしい。 航空運送事業の許可申請にあたっては、当時の法規では事業は黒字でなければならないのが難題であった。鉛筆なめなめ事業計画案を工夫してようやく収支とんとんまでこぎ着けて、それで勘弁して貰った。
当時はJASと新千歳空港内のHAC本社の間を始終往復していたので、事業許可申請書類の大部分は自宅で徹夜して作った。 そうしてようやく事業許可が取得でき、1998年(平成10年)3月28日HACの第一便が出発した。 しかし、その2週間前にJAS復帰の辞令がでていたので、ターミナル・ビルの窓から一人で第一便の出発を見送った。 今思うと、HACの開業直前でクビになったのには、思い当たるところがないではない。 HACの初代社長もJASからの出向であったが、経理出身のせいか出費には厳しかった。 また会社創立の予算も潤沢ではなかったので、そうせざるを得なかった面もある。
しかし、いくら出費を押さえようとしても、開業にはお金がかかる。 それである時に私もついに切れてしまい、「そんなにお金をだしたくないなら、会社設立をやめれば1円もかからない」と怒鳴ってしまった。 そんな所にも原因があったのかも知れないと、今では思うのである。
一方、北海道は必要3機の内2機を無償供与してくれた上、開業費の半分、凡そ5億円を補助してくれた。HACが開業10年以上も赤字問題がなかったのは、この手厚い助成の結果である。 K.M氏とはHACの開業後事業が安定したら、4号機以降を導入してスケール・メリットで対処しようと話し合っていたが、その後私はHACに無縁になり、そのせいかどうか分からないがHACは未だに3機体制のままである。
しかし私としては北海道には感謝しかない。 HACでの最後の思い出は、サハリン・チャーターである。
たまたま札幌で知り合ったサハリン・ツァーの地上手配をやっている旅行代理店のM.S氏に、実績作りの為にHACの飛行機を使ってサハリン・チャーターをやってくれないかと頼んだところ、快諾してくれた。 そして、私にも「言い出しっぺ」だからと言ってチャーター便に招待してくれたのでユジノ・サハリンスクに行ったが、今でも忘れられない思い出の一つである。
6.幻のYS-33
ここ迄書いた所で一つ大きなことを忘れていたことに気がついたので、順不同になるが追加することにする。
この時の関係者では多分私が一番若かったので、もしかすると私以外に覚えている人がもういないかもしれない。 それはYS-33のことである。 YS-33と言うとYS-11を連想させるが、まさにそれはYS-11の後継機のことである。 YS-11の就航後に主催が日本航空機製造なのか、日本航空機開発協会であったのか記憶はないが、どちらかの主催でYS-11後継機仕様に関する検討会議が開催された。 航空会社からはANAとTDAが参加しているが、JALの参加の記憶は無いので、YS-11運航会社として我々が参加したのかもしれない。 TDAの代表としては私が出席したが、議題はYS-11後継機、仮称YS-33をどのような仕様の航空機とするかと言うことである。 記憶している限りでは3発のジェット旅客機が想定され、その大きさが議論の対象になった。 私はTDAがYS-11の次に入れることを想定して110席程度を主張したが、ANAはBoeing 727-100(131席)や737-200(126席)をすでに導入していたので、エンジンとしては当時開発を計画していたR.R Trentエンジンが想定されていたが、多分15,000lbs級であったと思う。 ところがロールス・ロイス社はRB211エンジンの開発費の高騰により、1971年に倒産し会社は国有化されたので、このTrentの開発は着手されないで終ってしまった。 エンジンを無くしたYS-33計画はそれで立ち消えになった。 YS-11に後継ブログラムが出来なかったのは、こうした事情によるものである。 しかしTrentの名は、RB211の発展型につけられて現在の大推力エンジンの代表の一つに成って居る。 なお航空自衛隊の輸送機、C-1は日本航空機製造の設計である。
7.定年退職
JASへ復帰したら次は熊本の天草エアラインに応援に行くとの噂もあったが、そんなこともなく1999年(平成11年)2月28日の定年退職まで国際営業部付きで時間をつぶしていた。 定年退職の日も普通に出社し、午後になったので周囲に挨拶したところ、部内がビックリして慌てて花束を買いに行ってくれ、それを抱えて会社を去った。 数ヶ月後に開いてくれた送別会で始めてその経緯を聞いた。 当時は管理職の定年退職者は2年位嘱託として再雇用するのが通例のようになっていたが、私に関しては2月もぎりぎりになる迄、人事部ですら私の処遇がどうなるのか分からなかったのだそうである。 「なにしろ矢島さんは社長人事だったからね。」と言われたが、本人はそんなことはまったく感じていなかった。 1957年(昭和32年)4月1日、日本航空整備(株)に入社し、1962年(昭和37年)6月20日退社、6月21日北日本航空(株)に入社、それから社名は北日本航空、日本国内航空、東亜国内航空、日本エアシステムと変わったけれど、基本的に同じ会社で働いたことになる。 通算41年11ヶ月も航空運送業界に籍を置いたことになるが、そのうち半分以上も定常業務を持たなかったと言うのは、サラリーマンとしては珍しいのでは無いかと思っている。
それで思い出したのだが、社長にこう言ったことがある。 「メーカーであれば生産しているものが自動車であっても家電であっても、会社の次の商品を開発する研究部門を持っている。 航空会社でも次の商品づくりの為の研究機関が必要ではないか」。 もしかするとそれも留意して遊ばせてくれたのかも知れないと思っている。 航空業界に入ったのも時の成り行きでそうなったので自発的ではなかったのだが結果良しである。 周囲の人達にも恵まれて、随分と助けられて今思えば楽しい年月であった。 好きな飛行機とも直接関係出来たし、地域航空2社の創立にも関与出来た。 副次的には世界一周旅行3回(東回り2回、西回り1回)と言う記録も残った。 吐噶喇航空は夢に終わり、定年退職後縁あって佐渡空港からの路線開設も応援したが成果を得るに至らなかったけれど、もはや思い残すことはないとも言えるが、今後も航空の発展に微力ながら応援して行きたいと思っている。
8.補遺-搭乗航空機
航空界に41年以上もいると、その間に搭乗した飛行機の数も多い。 型式数-例えばB0eing 727-100、
727-200-で勘定すると今日迄に87形式に乗っている。 そこから珍しそうなのをピックアップして見よう。 一番小さいのはAeronca 65HPと言う二人乗りの軽飛行機で、当時あった神奈川県藤沢飛行場で日本飛行連盟の人に乗せてもらって江ノ島上空を一周した。 次に小さい飛行機は丘珠空港で乗ったPiper Coltで、本来は2席なので後ろの荷物スペースに潜り込んで飛んだ。 一番大きい飛行機はAirbus A380で、これには乗って見たくてルフトハンザでフランクフルトまで往復した。 ルフトハンザのA380には、垂直尾翼の前縁にカメラがついていて、それで機体を見下ろす形で内側エンジンまで見える。 飛行中にはそこから飛行機雲が発生するのが見えたのが印象に残っている。
ソ連/ロシア機はYAK40、TU154及びTU204の3型式搭乗しているが、どれも室内内装があか抜けない印象が残っている。 珍しい飛行機では、10機しか製造されなかったDassault Mercureと言う150人乗りの双発ジェット旅客機があるが、フランスの国内線航空会社エア・インターが運航していてパリ〜ツールーズを乗った。 日本にはBAe Jetstream 31は入って来たけれど、その大型版BAe Jetstream 41は日本では乗る機会が無かった飛行機である。 それがネパールのカトマンズ空港でエベレスト観光飛行として乗る機会があった。 同機は1+2の3列座席配置であるが、窓際席だけに乗客を乗せたので、往復のどちらかでエベレストを間近に見る機会が出来る。 ターボプロップ機だから上から見下ろすのでなく真横から見るようになるが、大変迫力のある眺望であった。
航空自衛隊のC-1輸送機に千歳飛行場から入間飛行場まで乗ったのも珍しい体験と言えそうである。 千歳飛行場の待合室は、飛行場が米軍管理だったころの日本航空の待合室がそのまま使われていた。 機内は電車のロングシートのようなカンバス製座席が4列になっており、搭乗者は4列になって後部の貨物投下口から入ってそのまま座った。 軍用輸送機だから内張などなく、操縦索の動くのが見えて面白かった。
BN-2A Trilanderは3発プロペラ機と言う第二次大戦後は珍しい飛行機であるが、センター・エンジンが機首ではなくDC-10のように垂直尾翼に組み込まれている奇形機である。 これには調布飛行場での招待飛行に乗せてもらった。 ロッキード・エレクトラにはKLMでパリ〜アムステルダムに乗ったが、胴体の太いことに印象が残っている。 このエレクトラを軍用対潜哨戒機に改造したP-3が、毎日のように我が家の上空を飛んでいる。 水上機はDHC-3 OtterとGrumman Mallardの2機種に乗っている。 DHC-3はいわゆる下駄履きの飛行機で、どちらも大阪の日東航空が導入したものである。
ANAのViscount 828は、振動が少なく座席テーブルにタバコがたてられると言われていたので、伊丹〜羽田間で乗った時に試したら看板に偽り無く実際に立てられた。 米国でデンバーからアスペンまで、アスペン航空のBAe146と言う4発ジェット旅客機(70席)の操縦席に乗せてもらったことがある。 アスペン空港は谷の底の行き詰まりにある空港で、滑走路は一方から進入し、離陸は進入経路を逆に辿る一方通行の空港であった。 離陸しても操縦室の前面窓からは空は見えず山の斜面しか見えない。 山肌を這いずるように上昇して、やっと空が見えた時にほっとした記憶がある。 日本と違うと思ったのは、このような地形では絶対に飛行場が建設されることは無いと思うが米国では建設されており、航法援助施設はアスペン航空がTACANを設置してそれで誘導しているとのことであった。
ヘリコプターは3形式に乗っている。 最初は横浜にあったドリームランドと言う遊園地の遊覧飛行でHillerに乗った。 次は北海道の滝上町でシバザクラを空から見るためにAerospatiale AS350に乗り、3回目は南アフリカのザンビアでビクトリア滝を見るのにBell 206Lに乗った。
飛行機としては鉄道の蒸気機関車のような風格があると思っているので、レシプロ・エンジン機の方に愛着がある。 ジェット・エンジンではエンジン始動も外からでは分からないが、レシブロ・エンジンでは一つの儀式である。 まずスターターでブロペラを2回転させ、円滑に回転すれば点火スイッチをいれ、ブライマースイッチを気温等を考えて加減しながら操作して始動用燃料を流し込むと、一つ二つとシリンダーが着火し、そして全シリンダーが着火するとエンジンは轟音をあげて回転し始める。 排気管からはどっと煙が吹き出す。 この手順の複雑さがたまらない。 JALのDC-7Cに乗って羽田に向けて降下している時に、事情は分からないがバイロットがエンジン出力をあげたので排気管から紫色の炎がエンジン・ナセルの後端より更に後ろ迄伸びたのを見たことがあるが、それは壮観だった。
もはや乗れる機会はないが乗って見たかった飛行機を挙げると、それはロッキード・コンステレーションである。 あのくねったような胴体、3枚垂直尾翼、素晴らしい形である。 その軍用型である米空軍のC121を羽田で操縦席を覗いた覚えがあるが、DC-6や-7のようなダグラス機は航空機関士席が正副パイロットの間のジャンプシートであるのと違って、航空機関士専用の大きな計器盤と座席があるのが印象深かった。
コンコルドも飛んだら素敵だろうと思うが、今やはかない望みである。
さて、これからどんな航空機に巡り会うのか楽しみにしつつ、我が航空半生記を終ることにする。
以上