7−D わが航空半生記

                                           2017.2.11

                        わが航空半生記

                   [1話 航空事始め]    

                                                             矢島 征二

1.始めに

どう言う訳か自分の記録を残すのは嫌いで、学校の宿題を除いては日記などつけたことはないし、旅行に行っても写真に写るのは好きではない。 私は42年間にわたって航空運送業界で働いて来た。 正確には1957(昭和32)41日から1999(平成11)228日迄である。 

太平洋戦争後、日本の民間航空は禁止されたが、1951(昭和26)1月に解禁され現在に続いているので、戦後の民間航空復興期間の大半を過ごして来たことになる。 この間営業一筋とか整備専門ではなく、多様な仕事をやって来た。 それはたまたま窓際ならぬ「壁際調査役」見たいになってしまい、実に20年くらいの間担当する定常業務を持たされずに、仕方がないから自分勝手にあれこれ勉強していたと言うのが実態である。 しかし、会社が導入する航空機の調査を長年担当していたので、門前の小僧的に航空業界の動向に接していたと思う。 最近親しい友人から、多分そんな体験した人は他には居ないだろうから記録として残したらと言われたのが本稿のきっかけである。 とりとめのない話になりそうだが、取りかかることにする。

2.航空との接触

最初に生まれを紹介しておこう。 生まれたのは1939(昭和14)216日、神奈川県横浜市保土ヶ谷区天王町と言うところで、今で言うと相模鉄道で始発の横浜駅から三つ目の天王町駅の上り線プラットフォームになっているあたりである。 名前はその時代を反映して「征二」と言う名前になったらしい。

住んで三代目、生まれでは二代目の浜っ子である。 矢島のルーツの地は、群馬県太田市付近らしく今でも「矢島」と言う地名が残っている。 太平記に新田義貞の家来に矢島某なる武士がでてくるが、もしかすると先祖の一人かもしれない。 ここはかの中島飛行機(今の富士重工)創業の地であるので、こじつければ航空に縁があったと言えそうである。 また現在は横浜市戸塚区に住んでいるが、航空再開後すぐの時期に東海道線戸塚駅の近くの工場で、「東洋工業」と言う会社がTT-10と言う練習機の試作と米国製のフレッチャーFD-25と言う地上攻撃機の組立を行っていた。 試験飛行は当時まだ存在した藤沢飛行場で行ったようである。 実に戸塚は日本の航空工業再開の地とも言えると思うが、どちらも売れなくて1-2機しか作らなかったようで、これらの飛行機は今も東京都立航空工業高等専門学校に保存されている。

私の最初に飛行機を認識したのは、米国のボーイングB29爆撃機である。 1945(昭和20)315日のB-29の大空襲で家は焼かれた。 夜間空襲の時に照空灯(当時は防空灯と言っていた)の光の中のシルエットになったものを見た記憶がある。 近くに高射砲陣地があったが、当たったのは見たことがない。 終戦後、B-291945(昭和20)529日に撮った横浜市保土ヶ谷区を上空から写した写真を見る機会があったが、この写真をずっと拡大したならば、道端の木陰に母と隠れて空を見上げている私が写っているはずである。 また、厚木飛行場が近かったせいか、戦闘機が空中戦をしているのを見た記憶もうっすらとある。 しかし、そこからは航空とはまったく縁が無かった。 1951(昭和26)ころから日本でも「世界の航空機」とか今も残っている「航空情報」などの航空雑誌が出版されるようになった。 世界の航空機」は初号から最終号まで、「航空情報」は初号から持っていたが、今はみんな整理してしまった。

生まれも育ちも港町横浜なので、神奈川県立神奈川工業高校機械科を卒業して就職口を探すにあたっては、いまの「みなとみらい」地区にあった造船所が希望であり、航空などは全く念頭になかったが、求人に来た会社の一つに、「日本航空整備株式会社」と言うのがあった。 募集時期が早く応募可能人数が多かったので、学校としても入社試験の予行演習に行って来いと言うことになり、それで願書を提出した。 

当時は飛行機に乗れる機会があるとは夢にも思わなかったし、航空業界など殆どの人は関心がなかった。

後で述べる地方の航空会社では「飛行機乗り殺すには刃物はいらぬ。 雨の十日もね、降ればよい、ダンチョネ」なんて歌があったくらいである。 軽い気持ちで受験したのだが合格して航空業界に足を踏み入れることになった。 当時日本航空は保有機の整備に米国の航空会社ノースウェスト航空の指導を受けており、国策会社の日本航空に外国航空会社が直接関与するのはうまくないと考えたようで、それで整備部門は日本航空整備と言う別会社になって居た。 ただし私が退社後に日本航空と日本航空整備は合併し、現在に至っている。 初任給は月額9,000円だったが、日本航空の羽田〜大阪間の運賃が6,000円なので、月給では羽田〜大阪を往復できなかった。 しかし、そこは良くしたもので、勤続優待として年に何回か無料で搭乗する制度が有り、それを使って初めて乗ったのが、1957(昭和32)7月に羽田〜千歳(当時はまだ新千歳空港はない)間で、札幌から石北本線で網走に行って来た。 当時の千歳飛行場は米軍管理であり、旅客ターミナル(と言っても木造のバスの待合室の少し大きいくらいの平屋)は今の航空自衛隊の基地内(当時は米軍基地)にあったが、1997(平成9)頃はまだ残っていて航空自衛隊の定期便待合室になっていた。 これが今に続く北海道との付き合い始めである。

3.プロペラ工場勤務

日本航空整備に入社が決まると、入社前年の10月頃にトレーニング・マニアルが大量に送られて来て自習せよとの通知があった。 そして1957(昭和32)4月に入社したが、二日目には自習した内容について試験が行われ、3ヶ月間の入社教育後、技術部検査課発動機検査係ブロベラ検査班配属となった。 

プロペラ検査班には検査員が一人おり、私はその補助員になった。 現場は発動機部艤装課ブロペラ係で、奇遇であったのは艤装課長が我が母校、神奈川工高の大先輩であったことである。 この大先輩とは後述する北日本航空で再会することになる。 当時の日本航空の保有機はすべてレシプロ・エンジンの4発プロペラ旅客機で、国内線用はダグラスDC-4、国際線用のダグラスDC-6Bであった。 それから1957(昭和32)12月に国際線用として4発プロペラ旅客機、ダグラスDC-7Cが入って来た。 

当時ブロペラは3,000時間使用するとオーバーホール(総分解手入れ)をするので、プロペラ工場の仕事は結構忙しかった。 プロペラは3機種とも米国ハミルトン・スタンダード社製の油圧作動の可変ピッチ式プロペラであった。 近代的なブロペラは、プロペラの回転速度と飛行機の速度に合わせてプロペラ翼(ブレード)の取付角が変わるようになっており、そのブレードの取付角を動かす動力として、油圧で動かす油圧式のほかに電気モーターで動かす電気式や、プロペラについた錘にかかる遠心力を利用するカウンターウェイト式などがある。 プロペラの型式はDC-4のものは23E50DC-6B43E60DC-7C34E60である。 ちなみにこの型式番号の読み方は、最初の2桁数字の1桁目は油圧作動機構の型式、2桁目はブレードの数、三桁目のアルファベットはプロペラ・プレードのSAEナンバーによる根元の太さ、最後の二桁の数字はプロペラを取り付けるエンジンのプロペラ軸スプラインのSAE規格を表している。

オーバーホールに於ける検査の仕事は、分解された部品の寸度測定と磁気及び浸透探傷を行う分解検査と、組立時のバランス検査と作動試験立ち合いである。 完成後は作業記録を纏めて予備品証明申請の準備をする。 航空局への予備品証明申請は日本航空の検査課がやることになっていた。

また日本航空整備は外部からの受注もやっており、それで日本ヘリコプター輸送(1957年に全日本空輸になった)、北日本航空、富士航空、東亜航空等の仕事も受注したので、検査係として日本の定期航空使用機の大半のプロペラと関係していたことになる。 確か1959(昭和34)と覚えているが、プロペラ検査班の上司が配転になり、どう言う訳かその後の検査班は若干20才の私一人でやることになった。 ただ航空工場整備士の資格を取れる年齢にもなっていなかったので、航空日誌への署名は現場の有資格者にお願いしていた。

しかし在職中1962(昭和37)314日付けで工場整備士(プロペラ)の資格は取得した。 第71号の工場整備士である。 なおその後日本国内航空時代の1965年に工場整備士(機体)の資格も取得した。

余談になるが、プロペラ検査をしていた時、発動機工場付きの日本航空の検査員である「坂本さん」と言うおじいさんが良くだべりに来た。 大分後になって「悲劇の翼 A-26」と言う本で「坂本さん」の正体を知った。 1944(昭和19)72日から4日にかけて朝日新聞社の社有機A-26が長距離周回飛行を行い、戦時中なので公認にはならなかったが、16,435km57時間1118分という世界新記録を樹立した。 その時の乗員の一人に、機関士として「坂本定治」氏の名前があった。

プロペラ工場在任中に体験したエピソードを三つ紹介する。 

(1) DC-4の伊丹空港におけるオーバーラン

1962(昭和37)930日にJA6011日本航空DC-4榛名号が伊丹空港でオーバーランした。 ブレードのひんまがったプロペラが搬入されてきて驚いた記憶がある。 今では想像もできないが、当時は伊丹空港周辺も畑だったそうで、さつまいも畑を掘り起こした以外の被害は無かったらしい。

(2) DC-7Cのウェーキ島不時着

二つ目はDC-7Cのウエーキ島不時着事故であるが機番は覚えていない。 当時、日本航空はDC-7Cを東京〜ロスアンゼルス線とサンフランシスコ線に投入していた。 DC-6Bの時代は、羽田〜ウエーキ島〜ホノルル〜ロスアンゼルスであったが、DC-7Cは航続距離が長かったので、ウェーキ島での給油が不要になって通常は上空通過としていた。 DC-7Cの特徴の一つは米国ライト社のR-3350エンジンである。 R-3350エンジンは前述のB-29のエンジンでもあるが、DC-7Cに装備されているエンジンは、出力増加のためパワー・リカバリー・タービン(PRT)を三つ追加されたR-3350TCと言うものであった。 エンジンの排気ガスは相当にエネルギーを持っているので、その活用法として推力排気管、排気タービン過給機とこのPRTがある。 推力排気管は排気管の形を工夫して排気のロケット効果を狙ったもので、旧日本海軍の零戦も後期型はこれを取り付けていた。 排気タービン過給機は第二次大戦中に主に軍用機に装備されたもので、排気ガス回すタービンで吸入空気を圧縮し、主として高空性能の改善を狙ったものである。 PRTR-3350にだけ採用されたもので、R-3350TC(ターボコンパウンド)と呼ばれ、一つのエンジンに3基装備されていた。 ただし排気タービンを利用するが過給ではなく、その動力を直接エンジンのクランクシャフトに伝達して出力を増加させる仕組みになっていた。 ある日、日本航空のDC-7Cホノルル行きがウェーキ島の近くでPRT1基が飛散し、その破片が確か3番と4番のブロペラに損害を与え、それでウェーキ島へ不時着したのである。 取下ろされて搬入されたプロペラのブレードは半分か2/3くらいしか残っておらず、その検査報告を作成して提出した記憶がある。 

(3)ダウティ・ロートル社プロペラの整備受注

三つ目は英国ダウティ・ロートル社のプロペラ整備の受注である。 全日空の当初のフリートはダグラスDC-3であり、最盛期には14機運航していた。 DC-3と言っても民間型のDC-3はそれほど大量生産されておらず、大部分は軍用型のC-47あたりからの民間転用だと思う。 その理由は全日空が購入してからすぐに取下ろされて、搬入されたプロペラを見たからである。 DC-3のプロペラはDC-4と同じハミルトン・スタンダード23E50で、ブレードが6353A-18と言うほっそりした形のものであったが、追加購入したDC-3のプロペラには、6477A-0と言う幅広のブレードがついていた。 その後戦争映画で見たのだが、空挺部隊の使用するC-47にはこの幅広ブレードのプロペラがついている。 軍用型はグライダーを曳航することがあるので、速度より牽引力を重視したものらしかった。 しかし全日空は機材の近代化のため1959(昭和34)に双発プロペラ旅客機コンベアCV-4404機導入し、日本航空のDC-4より早い速度を売り物にした。 さらに幹線用機材として1960(昭和35)に英国製ビッカース・バイカウントVC-828(67)4発ターボプロップ旅客機が、ローカル線用には1961(昭和36)にはオランダ製フォッカーF-27(44)双発ターボプロップ旅客機を導入された。 バイカウントについては購入機の就航に先立って少し小型のVC-744(52)がリース導入された。 リース機が羽田へ到着した時、着陸前に空港上空を低空飛行し、たまたま羽田整備上地区の道路で見上げた時、エンジンは1発だけが運転されて残りの三つのプロペラは空転しているのを見て驚いた記憶がある。 これには後日談があり、BAC-111がデモ飛行に来た時のパーティでBACのパイロットにその話をしたら、「あれは俺がやったんだ」との返事に二人で乾杯した。 

ここで本題に戻るが、両機のプロペラは英国のダウティ・ロートル社のプロペラが装備されており、日本航空整備が工場整備を受託した。 それで私がこれら二型式のプロペラのオーバーホール・マニアルを翻訳して、日本語版オーバーホールの作業手順書を作ったが、通常の検査業務の合間にしかやれないので、数ヶ月間毎月7-80時間くらい残業した。 それでロートルのプロペラには思い出深いものがある。

4.北日本航空時代

(1)北日本航空株式会社入社

北日本航空、富士航空と東亜航空は皆40席の双発プロペラ機、コンベアCV-240の中古機を導入しており、そのプロベラの修理を日本航空整備プロペラ工場が受託したので、これらの会社の人と知り合うことになった。 そのうち北日本航空は北海道札幌市の丘珠飛行場が主基地であったが、プロペラは直径が4m近くあるので、整備のために日本航空整備のプロペラ工場への運搬に苦慮していた。 また保有機のうちの3機はハミルトン・スタンダード43E60ブロペラが装備されていたが、2機にはカーチスの電気式プロペラが装備されており、航空局の発行する耐空性改善通報で確か300時間間隔くらいでブレードの磁気探傷が要求されて、それが大変な負担になっていた。 それで北海道にプロペラを分解、組立だけはできる施設を作ろうと考え、その要員候補として私の名が挙がったらしい。 それでいまで言うとヘッド・ハンティングにかかったのだが、何しろこちらは尻軽なところが有るのですぐに承諾し、北日本航空に入社することになった。 

それで日本航空整備を退社したのが1962(昭和37)620日、北日本航空入社は621日である。

それで札幌へ赴任することになったが、鉄道で札幌まで行ったのではなく、北日本航空は秋田迄飛んでいたので、秋田まで鉄道で行きそこからは北日本航空の定期便に乗って札幌は丘珠飛行場へ到着した。 秋田空港へ行って札幌からの飛行機が到着し、いざ搭乗となったとき満席であることが判った。 どうするのかと思ったら、このコンベア240は操縦室の後ろが床上貨物室になっていたので、そこに有った木箱に座って丘珠迄飛んだ。 ここまでが北日本航空入社迄の顛末である。

入社してすぐに給料日になったが、退社時間になっても給料が届かない。 待つうちに7時くらいになってようやく市内の本社から給料袋が届いた記憶が有る。どうも当日の売り上げを入れていたらしい。

そんな滑り出しであったが、ずっと後になって北日本航空OB会をやった時の話では、それでも北日本航空では給料欠配は一度もなかったそうである。 始めてもらった給料は確か凡そ3万円くらいで、日本航空整備のときの1.5倍くらいになっていたが、これは係長待遇と工場整備士の資格に手当がついたためである。 

後日、新聞で知ったが、当時北海道庁の課長補佐が18千円くらいとのことなので、破格の厚遇であった。

北日本航空は北海道庁が主導して設立した第三セクターのような会社で、当時の社長は道庁商工部長だった高岡氏であった。 役員や管理職は戦前の経験者が多く、運航整備担当常務の美濃勇一氏は日本最初の2万飛行時間達成の大ベテランであり、私の直上の上司T.N氏は逓信省乗員訓練所卒業の航空機関士で、満州航空に勤務していたそうである。 また会社の当時の保有機はセスナ1701(この機体は登別温泉の奥、オロフレ峠付近に衝突して失われた)、セスナ1951機、エアロ・コマンダー680E1機、ダグラスDC-3(30)2機及びコンベアCV-240(40)5機の10機体体制であった。 小型機を持っていたのは、航空測量や写真撮影の仕事をしていたからである。 DC-31機、JA5058は米国ハワイアン航空から購入したもので、窓を二つずつつなげたバノラマミック・ウインドウと言う見晴らしの良い機体であった。 同機は太平洋戦争の開戦時にホノルルに居たので、日本海軍の機関銃弾の後を修理したと言う後が残っていた。 DC-3はどちらも老朽機で乱気流にあった後には、あちこちの腐食したリペットがとんだものである。 CV-2402機が米国のモホーク航空から、3機はウェスターン航空から購入したもので、モホーク航空から購入した機体が問題のカーチス・ブロペラであった。 しかし、私の入社後カーチス・プロペラは日本航空整備でハミルトン・スタンダードのものに換装された。

(2)  北日本航空技術課検査課時代

北日本航空に入社したが、プロペラ工場を設立する話は無くなっているので、整備部技術検査課技術係に配属された。 それで何の仕事をすれば良いのかと聞いたら、技術係は今出来たばかりだから何をやるかは君が決めろと言われ、それで自分の配属先の分掌規定を作って技術係員第1号になった。

北日本航空はその後冨士航空、日東航空と合併して日本国内航空となったが、北日本航空が存続会社になったので、その後東亜航空と合併して東亜国内航空になり、更に社名変更して日本エアシステムになって2016(平成4)に吸収合併されて消滅するまでの整備技術部門の創立者と自負している。

北日本航空技術検査課は検査係と技術係の2係であり、当時機体の定時点検は函館空港に建設した格納庫で行っていたので検査係は函館整備所勤務であったが、技術係は整備部の本拠である丘珠飛行場勤務であった。

今も丘珠飛行場の旅客ターミナルビルの正面左に格納庫があるが、そのところに北日本航空の格納庫があった。 今ある格納庫は北日本航空が建設したものが雪で倒壊した後の立て替えである。

仕事は大別すると三つになる。 一つは点検、修理、改修などの技術指示書の作成であり、二つ目は函館空港で行われていた定時点検時に実施される技術指示書の指導のため、機体の定時点検時は大抵函館に詰めていた。 三つ目は取り下ろした装備品等の修理や機体のオーバーホールは日本航空整備に委託していたのでその打ち合わせや立ち合いである。 それで大雑把に言うと、ひと月を3分して丘珠、函館、羽田と動いていた。 ところが結果としての丘珠勤務は1962(昭和37)6月から1964(昭和39)3月迄の22ヶ月でしかなかった。 1963(昭和38)に北日本航空は事実上倒産したらしく、それで日本航空の子会社になり、社長は日本航空から出向してきたが平社員の私には関係のないことであった。 その後1964(昭和39)41日に北日本航空、富士航空及び日東航空の3社合併により日本国内航空になって、羽田へ転勤になった。 

(3)丘珠飛行場での運航

丘珠飛行場は今と同じ陸上自衛隊基地の間借りである。 しかし、エプロンは今の半分くらいの広さで、建物は格納庫と木造2階建ての旅客ターミナル兼北日本航空運航部/営業所となっていた。 滑走路長も現在より少し短かったと思う。 それに航行援助施設は何も無く、有視界飛行でしか運航できなかった。 

当時の無線航行援助施設は主としてADFであるが設置数もそんなに多くなかったらしく、ラジオ放送局の電波も利用していた。 それで飛行中にADFから大相撲の実況を聞き、結果を機内放送したこともあった。 路線は釧路と函館線が通年運航で、女満別線と稚内線は春から秋迄飛んで冬期は運休した。

冬が近くなると、女満別と稚内に整備員が出張して貯蔵していた予備燃料を使いきるため、手回しポンプで飛行機に補給した。 丘珠飛行場は札幌市内と違い日本海気候であり、札幌市内は晴れていても丘珠は吹雪ということもしばしばあった。 それで丘珠へ帰る便が丘珠悪天候で着陸できなくなると、千歳飛行場へ臨時着陸することになる。 千歳飛行場には北日本航空職員は居ないので、そうなると会社の旅客送迎バスにのって千歳迄急行したものである。 それは大変なことなので、多少無理しても丘珠に着陸することもあった。 記憶にあるのは、突然吹雪になり着陸しようとする飛行機から滑走路が見えにくくなったが、なんとか着陸させようと送迎バスを滑走路端に2台配置してヘッドライトを飛行機に向けて点灯し、飛行機はそこをめがけて進入、着陸したこともあった。 その時はエプロンに入って来た飛行機が吹雪でかすんで見えた。

(3)  一等航空整備士の資格取得

北日本航空時代に一等航空整備士(CV-240)を取得した。 この資格試験の実技試験には飛行機のエンジン試運転がある。 技術係勤務ではエンジン試運転の機会は無いが、レシプロ・エンジンの飛行機は毎朝試運転を行うことになっている。 それで毎朝早出して(勿論残業手当はつかない)エンジン試運転の時に練習させてもらった。 いよいよ試験の日となった。 CV-240は着陸滑走距離を短くするためにプロペラを逆推力とする仕組みを持っており、それにはエンジンの出力レバー(スロットル・レバー)をアイドルの位置に戻し、別のリバース・ハンドルを引いてスロットル・レバーを更に後ろに引くとプロペラはリバースになる。

会社のCV-240には2種類あって、JA508750885092はスロットル・レバーをアイドル位置で一旦止まるようになっているが、JA50685069にはそのデテントがない。 ところがあいにくと実技試験に使用されたのは後者の機体であった。 試験はエンジン試運転に入り、リバースとすることになった。 私は「リバース」と呼称してスロットル・レバーを戻したが、慣れていないのでアイドルの位置が良く判らず、音が静かになったのでエンジンを見たらプロペラが止まっている。 慌てて再始動してなんとか試験は終わった。 航空局試験官は、迷ったらしいが私の職歴からしてエンジン試運転の経験は少ないので、その辺を情状酌量してくれたのではないかと思っている。

それで私は1963(昭和38)716日付けで一等航空整備士(CV-240)462号になったが、飛行機のエンジン試運転をする機会は二度となかった。

当時の日本の民間航空は、国内幹線と国際線運航会社として日本航空、国内幹線とローカル線運航会社としての全日空に加えて、ローカル航空6社として北から北日本航空(札幌)、富士航空(東京)、中日本航空(名古屋)、日東航空(大阪)、東亜航空(広島)及び長崎航空(長崎)があった。 どこも経営困難になりかけていたので、國の主導でローカル航空会社の再編成が行われることになった。 北日本航空、富士航空及び日東航空の三社合併で日本国内航空に、中日本航空と長崎航空は全日空に吸収され、東亜航空は全日空の支援のもとに存続することになった。 1964(昭和39)415日、北日本航空は消滅し日本国内航空として発足し、私は羽田に転勤になった。

北日本航空時代の思い出は、CV-240を使用しての1963(昭和38)の年末貨物便運航である。 元と言えばだれかが冬期には機材が余っているので、それを利用して年末に貨物輸送出来ないかと言う発案をした。 それで日本航空の技術部に教えを乞うて、CV-2401機を貨物機に改装することにした。 改装は旅客座席を全部取り外し、座席取り付け金具を利用して、鉄骨枠でかこんだ厚いベニヤ板3枚を客室に並べて取り付け、その上に貨物を積んでネットで固定するようにした。 その設計を私ひとりでやり、航空局の認可もとって改装して、無事貨物専用機として新巻鮭とたらこを羽田迄運んだ。 ところが私自身はこの運航は見ていない。 改装準備の過労で倒れて札幌市立病院に入院していたのである。 1週間くらい入院して勤務に戻ったが、すぐに目がおかしくなり病院に行ったら、これも過労でこのままでは失明の危険もあるので絶対安静と言われ、一月くらい会社を休んで寝ていたが、その間に東京への転勤辞令があり3月にまた横浜に逆戻りし、北海道で骨を埋めるのかと思っていた夢は終った。 

(4)  飛行の思い出

北日本航空の時代はまだ航行援助施設も少なく、有視界飛行も多かった。 それでパイロットの技量にたよる部分も多かったと思う。 そんなことについてのエピソードもある。

函館から丘珠迄フェリーするCV-240に搭乗したことが度々あった。 あるときのそのようなフェリーに便乗して函館を離陸して脚上げレバーを動かしたが、足は上がらない。 操縦室の床の窓からみたら前脚につけた地上で不時に脚が引き込むことを防止する安全ピンがついたままになっている。 整備員が取り忘れたのである。 機長は子供の誕生日で急いで帰りたかったので脚下げのままで丘珠迄帰ったことがある。 

別の機会のフェリーで、函館を離陸してから機長は航空日誌に記載するために操縦を副操縦士にまかせた。 副操縦士はしっかりと計器盤を見つめたまま操縦桿を握っている。 私はジャンプ・シートに座って前を見ていると、前面に樽前山が見えた。 函館から丘珠へ飛ぶには樽前山は左に見るが正面に見えることはない。 即ち副操縦士は方位を90度くらい間違えているのである。 でも整備員の私が操縦士にどこへ飛ぶのですかとは聞けず、早く頭を上げて前を見てくれないかなと祈るような気持ちでいた。 手に汗を握っていたら、機長が顔を上げて怒鳴った。 「どこへ行くんだ!」。そして飛行機をぐっと右に傾けて正しい方向に向けた。 

着陸後機長が私に「怖かったろう」と声をかけてくれたが、私は「いいえ。寝ていたので」と答えた。 

こうして書いてみると結構きつい暮らしだったのかも知れないが、当時はそんなことはちっとも感じなかったし、今思い出すと、良く二十歳代の若造に責任の重い仕事を任せてくれたものと感心する。 それで私の会社生活の中で上司からこまごまと指示されて仕事をした経験は殆どない。 殆どが目的だけを指示されて実際のやり方は自分で考えた。 私も若かったが、時代も若かった。 青春の良き思い出として今も強く残っている。 そして、その思い出が30年も経って北海道エアシステムの創立に繋がって行くのである。

以上(2話に続く)