2017.7.11
わが航空半生記
[第3話 日本エアコミューターの設立]
矢島 征二
1.エアバス機種選定委員会の発足と中断
1971年(昭和46年)5月15日に広島空港を基地とする東亜航空と合併して、東亜国内航空(TDA)が発足した。
そして1974年(昭和49年)になって、会社もワイド・ボディ・ジェットを導入しようと言うことになり、機種選定委員会を設置することになったらしい。 「なったらしい」と言うのは、私のような一整備技術員では会社の経営方針に直接触れることは全くないからである。 そして、その事務局要員に誰か適当なのはいないかと言うことになったようで、それで当時本社にいた親友の N.M君が整備の矢島が良いと推薦したところ、専務取締役の個人的面接を経て9月に経営管理室へ異動して新機種調査担当になった。 それで役員で構成される機種選定委員会を設置し、実際の調査は各部が分担して行い、私がそれを纏めることになった。
候補機はダグラスDC-10、ロッキードL-1011及びエアバスA300であったが、その当時からDC-10と言う下馬評が高かった。 既にDC-9を導入していたのだから、DC-10に進むのは自然な流れと言えた。
それで私は上司に、もしDC-10にしたいと言う経営の意図があるならその方向で纏めましょうと提案したが、三機種はまったく同等に扱って良いとの返事であった。 当時の社内の空気は、米国機の使用経験が無いので欧州機にはまったく評価が低く、A300自体もまだ数十機しか売れずに苦戦していた。 アメリカのイースタン航空へ気に入ったらリース料を払えば良いと言う前例のないような条件でリースした話もあった位であった。 会社の機種選定委員会は三機種並列で選定作業を始めたのだが、作業を開始してひと月も経たないうちに選定作業は中止になった。 1974年(昭和49年)10月の第一次オイル・ショックである。
今は新機種選定どころではないと委員会は休眠状態に入り、それで私は仕事を無くしてしまった。
そこで考えついたのは、短期間ではあったが航空機メーカーともパイプが出来たので、それを利用して自費で航空機メーカー見学をしようと考えた。 この頃はPan American World Airways(PAA)が健在であり、航空会社同士の慣習で相互に予約不可の条件で割引券を発行していた。 それでこの制度を利用して航空機メーカー見学に行こうと言うことである。 それで世界一周の切符を購入したが、75%引きで価格は当時凡そ15万円であった。 N.M君も行きたいと言い出したので、二人で1975年(昭和50年)1月に凡そ2週間の休暇を取って出発した。 その行程は羽田〜ホノルル経由〜ロスアンゼルス(ダグラス社見学)〜ロンドン経由アムステルダム(フォッカー社見学)〜パリ経由ツールーズ(エアバス社見学)〜ボルドー経由ロンドン(ロールスロイス社及びBAC社見学)、ロンドンからはパリ〜ローマ〜カイロ〜ベイルート〜テヘラン〜ニューデリー〜バンコック経由で香港に到着、そこで一泊して無事に帰国した。 一番記憶に残っているのは、英国ブリストルのフィルトン工場見学で、コンコルドの英国側の一番機を見たことである。 巨大なオリンパス・エンジン、細長い客室、それに操縦席も土管に潜ったような感じがするくらい細長くて、フライト・エンジニア・パネルの大きさには驚かされた。 またフィルトン飛行場の滑走路が目で見て判る程、大きくうねっていたのが印象深かった。 またツールーズのエアバスの組立工場の壁に、狭胴機とA300の胴体直径の大きさの違いを示した展示は今も覚えている。
2.日本エアコミューターの設立
(1)日本エアコミューターの設立の経緯
機種選定事務の仕事が中断されてやることが無くなったので、その後は会社に送られて来る外国の航空雑誌を見て、興味の湧くような記事を翻訳して回覧していたが、誰も関心は持たなかったようである。 私について言えば、米国のコミューター航空に関する記事が興味を引いた。
その当時会社は奄美諸島内路線をYS-11で運航していたが、需要に対して機材が大き過ぎて採算に苦しんでいた。 それに区間距離が短く、一番長い奄美大島〜与論線でも258km、一番短い奄美大島〜喜界島線は80kmで天気が良ければ奄美大島空港から喜界島空港迄離陸から着陸迄飛行機を見ることができたくらいである。 その対策をぼんやりと考えていたが、たまたま新潟〜佐渡航路を運航する佐渡汽船がジェットフォイルを導入したので、神奈川県三浦半島の三崎で招待航海を行った。 それに搭乗したがその高性能ぶりには大変感銘を受け、ジェットフォイルで奄美諸島内路線を運航することを検討してみた。 その結果は早くても船は船であって最低でも2隻は必要であり、それに定員300人乗りでは大き過ぎた。 それでジェットフォイル案は断念することにし、小型機運航による案を考えて見た。 1981年(昭和56年)頃のことである。
当時の米国のコミューター航空の運航は、米国連邦航空庁発行の規則、Part135 Appendix Aによることになって居た。 Part 135は元々10席以上20席未満の航空機を使用するエア・タキシーと航空機使用事業に対する規則であったが、それに定期旅客輸送に必要に事項をAppendix Aとして追加制定し、それで10-19席の航空機による定期運送事業ができるようになった。 それを米国では当時はコミューターと呼んだが、今ではリージョナル-地域航空と呼ばれるようになっている。 当時日本ではこのような運航は、「不定期航空運送事業の二地点間旅客輸送等」と呼ばれ、航空局長通達による規則が適用されていた。 この規則でも日本版コミューター航空が運営出来ない訳ではないが、実は大変な資格要件がついていた。 それは航空機使用事業の経営経験が2年以上あることが要求されていたことである。 本来この二地点間旅客輸送は既存の航空機使用事業者が実施することを前提としていたので、その限りでは問題ないのだが新設会社はすぐには参入出来ない。 それで奄美諸島内路線を運航する小型機定期運航会社を創立しようとすれば、路線事業開始迄2年間はセスナか何かで航空機使用事業を運営しなければならなかった。 そんなことでは何時新航空会社が開業出来るか判らない。 それで米国大使館からPart 135を入手して翻訳し、更に日本の航空法の条項との対照表を作り、「米国ではこの規則でコミューターが飛んでいる。 日本でも米国で使われているのと同じ飛行機を使用する。 まして大気に違いはない。 故に米国の規則に準拠すれば米国と同等の安全性は確保出来るはずである。 勿論米国の規則と日本の航空法が相違する事項については、日本の航空法を適用する」と説明して、新設航空会社でも二地点間旅客輸送がすぐ出来るように陳情に行った。 それまで役所に対しては業者としてはご無理ご最もと言う姿勢が一般的であって、こうすべきだなんて言いに行くことは殆どなかった。 それで私もこの提案に航空局側の激しい反論を予期していたのだが、案に相違して黙って聞いてくれた。 そして驚いたことに提出資料の追加要求が続出し、多分20部くらいは出たと思う。
そして1983年(昭和58年)6月に実質的に我々の提案をそのまま認めて「二地点間旅客輸送の承認要件」が改訂され、これで日本エアコミューター設立への道が開け、1983年(昭和58年)7月1日に日本エアコミューター株式会社(JAC)が創立された。 新会社が設立出来ることになって、TDA社内で社名をいろいろ議論したが諸案のなかで運航本部の内海さんの発案と記憶しているが、そこから「エアコミューター」と言う言葉が出て来た。 米国では小型機による定期航空を「コミューター」と呼んでいたが、それは本来「通勤者」と言う意味である。 「エアコミューター」とは「コミューター(通勤者)」では違和感があるので、それに「エア」をつけた和製英語である。 しかし我々の感覚にはぴったり来たので、社名は「日本エアコミューター株式会社」とすることになった。 初代社長は経営管理室でのこのプロジェクトの上司、 濱田 博さんであり、JACの基礎を築いたのは濱田社長である。
(2)要員の確保
会社設立に当たって一番問題になるのは、パイロットや整備士などの技術者の確保である。 それでTDAの定年退職者を宛てることを想定して、航空局に当時定期航空に従事するバイロットは60才未満であったのを、63才くらい迄延長することを認めて貰いたいと陳情した。 この過程で判ったのだが、日本の航空法にはパイロットの定年のことなど何も書かれていない。 それがどうして60才定年になったのかというと、米国の規則に準拠して航空会社の運航規程で決められていたのである。 それで私は航空局にJACの運航規程の定年を63才で認めてくれるよう陳情した。 航空法に決まっていないのだから、知らん顔してJACの運航規程を認めてくれと言ったのである。 ところが想像すらしていなかった幸運が舞い込んで来た。
それまで鹿児島空港を基地として、アイランダーやトライランダーを運航していた日本内外航空が廃業すると言うのである。 楽器会社のヤマハは薩南諸島に「はいむるぶし」と言うリゾート施設を経営しており、そこへの旅客輸送のために子会社として日本内外航空を設立、運営していた。 しかしこの時にリゾート施設を廃業することになり、それに伴って日本内外航空も清算することになった。 この好機会を捕らえて、JACは日本内外航空のパイロット、運航管理者及び整備士を全員採用することで、要員問題は一挙に解決してしまった。 私も現金なものでそれでパイロットの定年延長の陳情は放置してしまったのだが、JACの運航規程の認可の時にわが陳情の行方が判った。 航空局は申請した運航規程のパイロットの60才定年を、なんと63才に修正して認可してくれたのである。 いま定期航空のパイロットの定年は65才であるが、この加齢制度はJACがその糸口をつけたのは間違いない。
(3) Dornier228-200の採用
JACを設立して、さてどの飛行機にするかと言うことになった。 たまたまその時にDornier228-200が鹿児島にデモ飛行に来日した。 これは幸いと飛行機を良く見せてもらって、私としてはすっかり気に入ってしまった。 何しろ当時最新鋭19席機で、アビオニクスなどはYS-11より遥かに新型である。
それで代理店のニチメンに頼んで奄美大島に飛んでもらい、地元有力者を対象に試乗会をやって貰った。
要するに地元工作をやったのである。 当時リストアップされた候補機は、Dornier 228-200、de Havilland DHC-6-300ツイン・オッター、ブラジルのEMB110、それとオーストラリアのノーマド機であった。
TDA社内の空気は、こんな路線にはツイン・オッターの中古機で十分と言うのが大勢であったが、それでは長続きしないと思い、Dornier 228の新造機を採用するよう工作に乗り出した。 まずノーマド機は15席と少し小さく低速なので、19席機の場合よりも1機は多く必要になるので、それを理由に失格とした。
次のEMB110は必要着陸滑走路長がドライ状態でも1,200mなので、ウェットともなれば1,200m滑走路の多い奄美諸島での運航は不適として失格させることにした。 ところがここで予想もしなかった障害が出て来た。 EMB110の代理店はソニーの子会社であった。 そこでソニーはEMB110を落とすなら、TDAと同じ企業グループに属する東急エージェンシーへ委託している広告宣伝業務を引き上げるというのである。 それで親会社の東急グループから圧力が懸かり、私も困って安全に妥協は無いとがんばったが、EMB110の代理店は、それでは親会社のソニーの 大賀社長に直接説明してくれと言うのである。 それで私は役員に連れられて、ソニー本社に行って大賀社長に会った。 そしてるる説明した所、話は判ったが私から落として良いとは言えないので、TDAの判断で進めてもかまわないと言ってくれた。 しかし条件がある、A300のフライト・シミュレーターに乗せてくれと言う。 それならお易い御用と私は乗員訓練所長に頼んで機会を作って貰った。 当日、大賀社長は乗員訓練所長の指導で1時間ばかりシミュレーターに搭乗したが、本当に楽しそうであった。 大賀社長は声楽家としても一流と聞いていたが、社有のビジネス・ジェット機も自身で操縦する熟練パイロットでもあった。 シミュレーター試乗が終った後、羽田東急ホテルでお茶をご馳走になった。 残るはツイン・オッターである。 それで社長に将来発展の為と、地元へTDAの姿勢を示す為に新型機が必要であると説明し、それではDornier228で行こうということになった。 Dornier228がDHC-6より巡航速度が90km/hrも早いのも理由になった。 しかし、社長は私の事業計画の3機体制を、2機体制に縮小して許可した。 理由はこのブロジェクトに反対している「専務の顔を立てて2機にせいや」と言うことであった。 ところが専務は戦後の航空再開以降小型機会社の経営にも参加していた経歴があるので、マスコミはてっきりJAC構想は専務の発想と誤解していたようである。 そうなるとかの専務もそれまではJAC設立には反対であったのが、報道のインタビューには自身の発想であるかのように
上司の奄美大島出身の茂さんから、ハイビスカスの花をあしらいたいとの強い要望があり、それでDornier社にイメージを伝えて3案のスケッチを考えてもらった。 それら3案からどれを選ぶかという段階になると、関係者が夫々の意見を言い合ってまとまらない。 それで私が3案を持って確か46人程いた本社の女子職員だけのアンケートを取り、その圧倒的支持を得たものを持って役員の承認を取り付けた。 胴体には赤い線が入り、垂直尾翼には真っ赤なハイビスカスの花が描かれていた。 日大の木村 政教授がお褒めの言葉を述べていたと後で聞いた。
その時の話で気づいたのだが、社名も英語で書かれていて日本語の表示はなく、日本のローカル航空機と言うより海外のリゾート地の航空会社のように見えたそうである。
(4) JACの発足
また奄美路線の運航をTDAからJACに転換するための地元に対する工作は、私の上司である奄美大島出身の 茂静雄さんが担当したが、なにしろ地元出身なので当時の14市町村をうまく纏めてくれた。 その結果奄美の市町村が、今もJACの40%の株主である。 この浜田さんと 茂さんのお二人無くしてJACの設立は無かったと断言出来る。 私は殆ど表に出ることは無く、例えば創立記念パーティの記念写真にも私は写っていない。 会場の出口で招待客にお土産を渡すのに忙しかったからである。
しかし何故奄美の市町村がJACに参加しているのに鹿児島県は入っていないのか。 それにも理由がある。 当時はまだ国鉄が存在していたが経営困難に陥って居り、各地で国鉄線区の第三セクター化の働きかけがあった。 鹿児島県では国鉄は肥薩線の第三セクター化を押し進めようとしていた。 しかし鹿児島県は、もしJACに参加するとそれが前例とされて肥薩線の第三セクター化に抵抗出来なくなると考え、JACへの参加は見送ったのである。 それでもまったく知らん顔をしたのではなく、県管理の空港-県下の離島空港は全て県管理-に於いてYS-11以下の航空機の着陸料を安くしてくれた。 浜田社長の試算によれば、その減額量はJACの赤字より大きくTDAに寄与したので、TDAグループとしてはプラスになったそうである。
会社が発足して営業開始前にご披露招待飛行をすることになった。 しかし奄美諸島路線は奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部、及び与論の5空港がある。 奄美大島空港で披露招待飛行をやれば会社としては楽であったが、私は各空港で招待飛行をやる、いわば巡回サーカスをやろうと提案した。 空港の待合室に簡単なつまみとビールくらい用意して、それで乾杯と言うことで勘弁してもらおうと言うことである。
それが面白いと言うことになって、まず与論空港へ飛んだ。 ところが待合室の片隅で乾杯と言う目論みはつぶされていた。 地元はテントまで用意して、ずらりとお酒とつまみを用意して待っていたのである。
与論には「与論献奉」と言う習慣がある。 それは島外からの客を迎えるにあたり、直径が1尺以上はある大杯で乾杯させるのである。 それもビールなんてものではなく、かの奄美焼酎である。 TDA/JAC側代表としてお前がやれということになって、仕方なくTDAへのご愛顧を感謝し、JACへの支援をお願いすると口上を述べて、大杯を飲み干した。 どのくらいの量だったか、ともかくへべれけに酔ったことは間違いない。 そんな調子で各島を巡回し好評のうちに幕を閉じた。
(4)その後のDornier 228
JACは、本機を退役後は大分空港にあったTDAの乗員訓練所の格納庫に収容していた。 多分私の定年退職後2年くらい後のことであるが、その頃福岡に設立された壱岐国際航空という会社がこれらの飛行機を購入したいと言うことになり、それで福岡のベンチャー・キャピタルが肩代わりして3機を纏めて購入した。 それでこれらの機体に改めて耐空証明を取得するために、それ迄の整備記録を整理して必要な整備作業を拾いだす必要が生じた。 しかし壱岐国際航空には適当な人材がいなかったらしく、日本整備協会に相談したところDornier機ならTDAを定年退職した矢島が一番事情を知っている筈だからと言われて、私のところに連絡して来た。 それで私がアルバイトとして引き受け、大村飛行場にあったJALフライト・アカデミーの一室を借りて10日くらいかけて整備記録を整理した。 その後、Dornier 228は壱岐国際航空で2ヶ月くらい使用されたようであるが、結局フィリピンに売却されたと聞いた。
それでDornier 228は日本ではおしまいかと思っていたが、今も別の機体ではあるが新中央航空の伊豆諸島路線で活躍しており、これらの機体は800m滑走路運航が可能になっている。 是非とももう一度は乗って見たいと思っている。 なお今はドルニエ社の製造ではなく、製造権はスイスのRUAG社に移っている。
(5)離島航空への思い入れ
この機会に何故私がそれ程離島航空に入れこむのか、今迄外部には話したことは無かったのだがこれが最後だから書いておこうと思う。 ずっと以前になるが、図書館で西日本新聞社発行の「吐噶喇 海と人と」と言う本を借りて読んだ。 そこで読んだ二つのエピソード、それが私の地域航空に対する原点になった。
吐噶喇列島とは屋久島と奄美大島の間に連なる小さな島からなる列島である。 人口は全島で数百人くらいしかいない。 行政上は吐噶喇列島全体が三島村となっているが、村役場は鹿児島市内にある。 日本で役場が自身の行政地域にないのは、ここと同じく鹿児島県の十島村だけである。 こんなところへの交通手段は商業的には成立しないので、村営船の三島丸が巡回している。 十島村も同じである。
エピソードの一つは、ある島で小学校を出たばかりの女の子が、たまたま古い新聞を見たことから始まる。
その新聞には大阪での求人広告が掲載されていて、それを読んだ女の子はそこへ行って就職しようと考えたが、親に話しても許してもらえそうも無いので、三島丸で密航して行こうと夜、船に忍び込むのである。
船には夜間見張りの為に島の老人が乗っていて、すぐに女の子は見つかってしまう。 そこからが我々の想像を超す展開となる。 老人は女の子が島に残っても将来は無いと思い、密航を見逃すのである。 幸い大阪で就職して数年働いた後で島に帰るのだか、私には女の子の気持ちもさることながら、目をつぶった老人の心中を察すると涙が出て来た。
もう一つのエピソードは、鹿児島の漁師の話である。 島の漁師の一人が台風が接近して来ると言う天気予報をきいて、今のうちに魚を取っておこうと漁に出る。 そこで鹿児島から島の周辺に漁に来た漁師が大けがをしているのに出会うのである。 しかし、島には医師はいない、台風は近づいて来る、それでどうするか。 島の漁師は台風の中を走ってでも、鹿児島に送るしかないと考えた。 そして暴風の中、ひたすら走って真夜中に山川港にたどり着くのである。 これには後日談があって、鹿児島の漁師はその船で島に行き、船を贈呈するのである。 こんなところこそコミューターが必要なところだと思い、なんとか吐噶喇航空を作りたいと思った。 ところが吐噶喇列島には当時諏訪之瀬島に800mの飛行場があるだけであり、それでわが想いは奄美諸島に向かった。 もはや実現は不可能なのであるが、今でも吐噶喇航空に対する想いは残っている。
3.エアバス機種選定委員会の再開
(1) A300の選定
1978年(昭和53年)と思うが機種選定委員会が再開され、DC-10とA300を候補機として機種選定作業が始まり、最終的にエアバスA300B2Kが選定された。 以前に候補機であったロッキードL-10011が抜けているのは、それ迄の間にロッキード事件の発覚という大事件があり、これでL-1011は候補から外すことになった。 L-1011は全日空が既に採用しており、技術的にはDC-10より進んでいると思っていたが、ロッキード事件によるイメージの低下が致命傷になった。 L-1011は当時装備エンジンのロールス・ロイスRB211は故障が多くて、全日空でも3基装備しているエンジンのうち二発も同時に停止する不具合が確か2回はあったように記憶している。 ところが今大出力エンジンの最有力であるロールス・ロイス・トレント・エンジンは、RB211の発展型であるから判らないものである。
A300には、比較的短距離路線向けのA300B2と中距離向けのA300B4の2形式がある。 ところが南アフリカ共和国の南アフリカ航空がA300B2を選択したが、主基地のヨハネスブルグ空港が標高1,694mと高いので、B4に装備されていた前縁フラップをB2に移植して離着陸性能を向上させたB2Kを導入した。
これは短い滑走路の多い日本には適当であると私は考えた。
DC-10ではJALと同じ機体になり、飛行機の性能上、幹線運航を目指さなければならないが、そうなると競争力ではANA/JALにはどうしてもかなわないと考えた。 それでJAL/ANAとの直接競争を避けるには、TDA単独運航路線出の運航を目指さなければならず、それは2,000m級滑走路空港への就航であると考えた。A300の最初の運航は1981年(昭和56年)3月1日からの羽田〜鹿児島線で、それから2000m滑走空港を使用する羽田〜旭川線と羽田〜大分線に投入したが、その狙いは当りANA/JALと直接競合せず、大幅な需要増が実現した。 さらに1989年(昭和64年)12月から釧路空港の滑走路が2,100mに延長されたので、この路線にも投入しようとパイロット訓練が開始された。 その時に計器着陸の問題が発覚した。 A300はカテゴリーV自動着陸できる性能を持っており、その経路上で何か異常を見つけると自動的に降下を中止して上昇するようになっている。 釧路空港は日本の空港に多い山の上を削って作る、いわば航空母艦型の空港である。 このような空港は滑走路の手前は深い谷のようになっていることが多い。
釧路空港でA300が自動着陸で降下して滑走路手前の谷の上にさしかかると、地表からの高度を測定する電波高度計は、突然指示高度が増加する。 それで飛行機はすぐに着陸復航に入ってしてしまい、着陸出来なくなってしまう。 このようなことは、それまでどこも経験していなかった。 対策として滑走路端から表面の平らな鉄橋を谷の上にかけて、電波高度計は鉄橋からの高度を測定するようにして問題は解決した。
最近広島空港を利用する機会があったが、この空港も釧路空港のような地形で、滑走路端から高い鉄橋が伸びているのが見えた。
着陸を何らかの理由で中止することを「着陸復航」と言うが、エアバス調査団としてツールーズに行った時、A300の自動着陸の実演を滑走路脇で見る機会があった。 機体が着陸姿勢に入って着陸復航決心高度に達した時着陸復航を始めるが、大きな機体であるからすぐ上昇するのではなく、更に少し沈んでからおもむろに上昇し始めるのであるが、最低高度の時はタイヤと滑走路表面の間は2mくらいしかないように見えた。
また調査団の旅行中に、期せずしてカテゴリーV自動着陸を体験出来た。 パリからロンドン・ヒースロー空港までエア・フランスのA300を利用したが、ロンドン空港に着陸するので雲の中を降下している時に雲から教会の塔が突き出しているのが見え、次の瞬間にドンと着陸した。 そこで始めて霧を通して横に地面が見えたが、タキシング中も時々翼端が霧で見えないくらいであった。 まざまざと自動着陸のすごさを知ったのだが、この日は我々の便の着陸を最後に終日空港が閉鎖された。 それでロンドン空港の混雑は凄まじく、夕方になってようやくマイアミ行きの米国ナショナル航空のDC-10に搭乗したのだが、離陸出来たのは真夜中であった。 それで地上の飛行機内で機内食を食べて、映画を見ると言う希有の体験をした。
結果としてTDAはA300を選択したのだが、今考えるとDC-10がサッカーで言うオウン・ゴールしたのも大きな原因となったように思う。 それはトルコ航空のパリ郊外での墜落、アメリカン航空のシカゴ空港に於けるエンジン脱落事故、ユナイテッド航空の貨物室扉飛散などの事故が続出したので、DC-10の採用を大声で言いにくい環境になっていた。 また当時EC-欧州共同体、今のEU-と日本間では日本の輸出超過であり、外交問題になっていた。 それでそれに便乗しようとECがA300購入の圧力をかけるよう工作した。 当時英国のサッチャー首相が来日した時に、日本がA300を購入するよう要求したのはその結果の一つである。 それで私は外務省に進行状況を説明のため呼ばれたこともあった。
実は日本では話題にならなかったが、A300選定の正式発表前に、たまたま欧州へ出張中であった親会社東急電鉄の五島社長がTDAのA300採用決定を発表しているのである。 これも多分私の東急筋への工作の結果であったと思う。 A300が導入されてその成績が良いことが実証されると、社内の空気は一変した。
なんと誰もが初めからA300を推薦していたと言うのである。 正式決定前に、外部の人から「TDA社内の空気は百人中99人がDC-10ですよ」と言われていたくらいだったのに、「勝てば官軍」を実感した。
(2)DC-10のその後
前章に述べたように、A300が DC-10を押しのけて採用されたのは、両機は同列に扱って良いとの指示から始まったのであったが、大分後になってDC-10の名前が最初に浮上していた経緯がわかった。 会社はすでにDC-9を導入、運用していたが、DC-9の発注時にワイド・ボディ機の導入を検討するときには候補としてあげると意思表示していたらしい。 候補機として取り上げるのは何も問題ないと思うのだが、当時の関係者は社内にちゃんと言わなかったらしい。 それと当時の燃料問題や路線開設認可の見通しもあって、A300に空気が流れてしまったと思っている。 しかし、結果としてある程度内部コンセンサスのあったDC-10をはねのけてしまった形となって、その直接担当者にとばっちりが来たということのようである。 JACが開業したので私が奄美から帰京した時に待っていたのは、整備部門でも姨捨山的存在とされていた整備工場設備課への転属であった。
設備課に転属してすぐに航空局の安全検査があったが、その結果は散々であった。 どうしてそれまで無事に安全検査に合格していたのか不思議に思って聞いたら、前任者は一人で検査対象になりそうな所だけを繕っていたらしい。 こんなやり方ではいけないと思い、手持ち工具の完全リストと基地配備表を整備し組織的に維持・管理するように改めたが、次の安全検査では航空局検査官からJALやANAより整理されているとのお褒めをいただいた。 設備課に3年半、それから半年整備訓練所教務課勤務をしたところで、A300選定当時の常務が社長に就任したので、それこそ即日に本社復帰となった。
それでも結局DC-10は2機が1988年(昭和63年)に導入され、ホノルル線やシンガポール線に就航し、2000年(平成12年)に退役した。 しかしその後もDC-10問題は尾を引いている。 1988年(昭和53年)に社名が東亜国内航空(TDA)から日本エアシステム(JAS)に変更された。 会社も国際線も飛ぶようになったので、「国内」と言う社名はふさわしくないと言う理由からで、この時社長から個人的に意見を聞かれた。 日本エアシステムの他に東京航空などの名前も挙がっていたが、私はスカンジナビアン・エアラインズ・システム(SAS)の名前が念頭にあったので「日本エアシステム」の方がスケールが大きく感じられるのでは無いかと答えた。 私の意見も利いたのかどうか分からないが、社名は「日本エアシステム」に改名された。
話を戻して1987年(昭和62年)と思うが、JASもA300も使用して10年も経ったので後継機の選定を行うことになり、機種選定委員会が設立されA300-600とBoeing767-300を候補機として検討を始まった。
当時、私は技師長室と言う閑職におり、この機種選定には関わっておらずただ横から見ていたのだが、その時ダグラス筋からJASがDC-10を発注したと言う噂が流れた。 機種選定中なのに候補に挙がっていない飛行機が発注されたというのが本当なら穏当ではない。 それで技師長室内と言っても平社員は私を含めて3人しかいないが-には機種選定問題は話題にもするなと箝口令を敷いた。 これは一時週刊誌記事にもなり、結局DC-10発注問題は一旦沙汰やみとなった。 しかしどう言う訳か、技師長室が余計な噂を流したからだと言うことになったらしく技師長室は取り潰しになり、私には経営企画室の無任所壁際調査役の辞令が出て、それでまた自由研究の毎日になった。 その時の成果がSaab340Bの導入と北海道エアシステム(HAC)の設立である。 以上