7−F HACチャーター

2015.04.30

HACチャーター乗りまくり2日間

コミュータービジネス研究所 

代  表 矢 島 征  二

1.HACチャーター乗りまくりの発端

 航空業界からは16年前に定年退職しているが、在職中に同好の仲間と「コミユータービジネス研究所」なる名前だけは大げさな航空同好会を結成して、今も時々勉強会と称して空港見学等をやっている。 

 それで業界の動向から取り残されないように、概ね月に1回くらいのペースで東京は新橋駅に近い航空会館にある日本航空協会の図書室に、業界紙やその他の情報資料を見に行くことにしている。

 そこへ2月に行った時、業界紙を見て「HACチャーター乗りまくり2日間」なるツァーが企画されていることを知った。 それで早速インターネットで調べたら、JALeトラベルプラザと言う旅行社がHAC(北海道エアシステム)の飛行機をチャーターして北海道内を一日飛び回るツァーであることが判った。

 ことHACのこととなれば無関心では居られない。 なにしろHACの設立は、筆者が構想段階から北海道庁とタイアップして運動し、それこそ10年かけて実現させたプロジェクトである。 

 この運動が実って1997930日に日本エアシステム(JAS)と北海道の合弁事業として株式会社北海道エアシステム(HAC)が発足した。 筆者は当時在職していたJASからHACに出向し、事業免許申請を申請書類作りから当時の運輸省航空局への説明も行い、凡そ6ヶ月かけて認可を受けることが出来た。

 当時の航空法では事業申請には事業目論見書を添付する必要があり、それで事業が成立する採算性があることの説明が要求されていた。 それは航空会社が設立しても赤字続きですぐ廃業に成っては問題であると言うことから決められたことと思うが、実はこれが難関である。

 HACは北海道とJASが共同で設立したいわゆる第三セクター会社である。 日本の地域航空会社と言える航空会社は6社あるが、東京都下の伊豆諸島路線を運航している新中央航空を除いた5社は第三セクター会社である。 新中央航空にしても機材購入には東京都の手厚い助成がある。 第三セクター会社として設立される理由は、地域が路線開設を希望しても需要の少ない地方路線であると需要が少ない、採算性がない等の理由で大手航空会社が開設してくれない、それで地域が地域航空会社を設立して路線を開設、運航しようとするのだが、民間では引き受け手が無いので、どうしても地域の地方自治体が主導しなければ実現できず、結果として第三セクター会社の設立と成る。 HACの場合、JASは会社としては前向きでは無かったが、周辺事情に押し込まれてHAC設立に参加することになった。 元々採算が取れないから第三セクター会社に成ったのだが、申請書類では収支試算は黒字にしなければ成らず、いわばでっち上げ書類を作る苦労をしたことを覚えている。  そして19983月に運航を開始して、現在に至っている。 

 但しJAS20044月に日本航空(JAL)と合併したので、HACは自動的にJASの子会社からJALの子会社となった。 その後もHACは需要の伸び不良に起因する経営不振に苦しんでいたが、2011年にはJALは事実上HAC経営から手を引き、HACJALグループから離脱した。 

 それからHACは北海道が主導して運営されていたが、諸般の事情により201410月からJALグループに復帰することになり、現在に至っている。 それで、今回のツァーの案内書類によれば正式には(HAC JALグループ化記念「HACチャーター乗りまくり2日間」)と言う。 長々と経緯を述べたが、それではいよいよツァーに出発することにする。

2.ツァーの出発

 このツァーはいわば「飛行機おたく」向けのツァーである。 参加者はなんと30名、女性も二人参加していた。 話を聞いていても、航空に関する熱意や知識は半端ではない。 それで飛行機さえ見られれば他のことに文句は言わない。 鉄道マニア、鉄ちゃんと共通する雰囲気がある。 それを見越してか旅行社主催のツァーとしては結構手抜きがある。

 出発は426日だが、集合場所はなんと15:30-16:15までに丘珠空港集合とのことであった。

 東京〜札幌まではJALのチケットがついているが、一人一人が勝手にJAL505便に乗って10:00に新千歳空港に到着する。 筆者もそれで10:00に新千歳空港に到着したが、この時点ではツアーの仲間は誰か判らない。 集合迄に時間があったので、途中の北広島駅で下車してあらかじめ連絡を取っておいた前述のHAC設立の頼もしい相方であったM氏と久方ぶりの再会を果たすことが出来た。

 それからツァーの案内に従って札幌駅から地下鉄で「栄町」に行き、更にバスに乗って丘珠空港まで行くのであるが、いい加減くたびれたのでタクシーで丘珠空港に行った。 ここで参加受付があり、それで総勢30人であることが判った。 HACの所有機Saab 340B WT36席だから、参加者に旅行社側の係員がついて36名と言うことなのであろう。 多少早めに到着したので、筆者のHAC在職時に一緒に勤務していたものが2名まだ在籍しているはずなので聞いてみたら、たまたま7名採用した第一期客室乗務員のSさと会えることが出来た。 現在は常務から降りて営業企画を担当されているようである。  

 懐かしい顔に会えて嬉しかったが、もう一人のW君は日曜日なので出勤して居らず会えなかった。 

 さてツァーの第一日は10名ずつの3班に分かれてのHACの施設見学で始まった。 まずカウンターのバックオフィスに入り、運航管理課で運航管理業務の説明を受ける。 それから格納庫に行きJA01HC-HACの第1号機-と部品庫を見学した。 見学後は今夜の宿泊先、市内すすきのの東急REIホテルに各自で移動することに成っていたが、地下鉄の「栄町」駅まではタクシーで送ってくれたので、それからは各自で地下鉄にのってホテルまで移動した。 ホテルでは夕食会をかねてHAC関係者による「トークショー」が開催された。 お名前は記録しそびれてしまったが、機長、副操縦士、客室乗務員各1名と整備部長が出席して、質疑応答がなされた。 機長は長い飛行経験のなかで遭遇した珍しい景色やら飛行体験等なかなか興味深い話であった。 アルコールも入ったところで、いろいろな航空グッズやら地元ワインなどの抽選会もあって、なかなか盛り上がって楽しい一夕となった。 筆者はJALのハワイ就航50周年記念復刻フライトバッグをゲットで来た。 このバッグのオリジナルは当時搭乗客全員に配られたと思うが、その当時の飛行機はダグラス DC-6Bだったはずで、ホノルル直行が出来ず途中のウェーキ島に給油着陸していた。 当時としては信頼性の高い飛行機で、筆者は19574月から19626月迄JALのブロペラ工場(当時は整備は別会社)で検査員をしていたので、そのブロペラには想い出がある。 第一日目は以上でおわりである。

3.チャーター乗りまくり

(1)丘珠〜利尻

 二日目はいよいよ本番の「チャーター乗りまくり」である。 丘珠空港に8:15に集合なので緊張して起床し、7時前にホテルを出た。 前日通り地下鉄「栄町」駅で降りて、今度はバスにのって空港に行った。

 バスは丘珠大通りを通って空港に行くが、この通りは片側2車線のまさに大通りである。 筆者がこの通りの東八丁目に住んでいた50年前は、片側1車線の砂利道であった。 当時、この通りと石狩街道の交差点近くの銭湯に良く行ったが、帰りは寒くて走ったら買ったばかりの下駄が割れてしまったことがあった。

 丘珠空港のターミナルビルはこじんまりしているが、感じが良い。 2階には地域の歴史の写真などが展示されており、懐かしい風景にも巡り会える。

 今日の乗機はJA03HCHAC3号機である。 この飛行機は垂直尾翼を殆ど全面赤く塗装した近年迄の標準的JAL塗装である。 個人的にはJA01HCの緑色のHAC塗装の方が好きである。

 HACJALグループ入りでこれからの塗装は現在のJAL塗装である鶴丸塗装に成るのかなと思う。 

 鶴丸マークはDC-6Bから胴体操縦室後方についていたらしいが、筆者にはDC-8の尾翼についていたのが印象強い。 確か当時の社長柳田誠二郎氏夫人のデザインであると聞いた。 

 9時頃に搭乗して出発する。 座席は6C、右側の窓側でここが非常脱出口になっている。 それで搭乗券には「非常口座席のお客様へ」と言う紙が添付されて、それには非常時に対処する手順が示されている。 

 勿論今回の飛行ではこの説明書が役立つことは無かった。 それで思い出したのだが昔ノースウェスト機でマニラへ飛んだことがある。 その時も非常脱出口の前の座席で、離陸前に客室乗務員が非常時の扉の開け方を教えてくれた。 なかなか良いことだと思ったので、その後たまたま会社が安全に関する論文の募集を行ったのでこの体験を書いて出したら、何とトップ当選になった。 それでご褒美に中国広州観光に行って来たので強い記憶がある。

 話が横にそれてしまったが、飛行機は離陸して海岸に沿って北上した。 機長のアナウンスでは左側に増毛の町が見えるそうだが、右側では暑寒別の山しか見えないがそれはそれで楽しいものである。 この山にはヒグマが多いらしくて、50年前に札幌に住んでいたときに、会社の同僚が暑寒別でとったと言う熊肉を持って来てくれたので焼き肉にして食べた記憶があるが、味は覚えていない。

 サロベツ原野の辺りで左折?して、利尻島に向かう。 利尻空港ははじめてで、今回の参加の理由は利尻と奥尻空港が見られるというのも参加理由のうちに入っている。 凡そ50分の飛行で利尻空港に着陸して機外に出たら外気温が11度くらいとかで結構寒く感じた。 空港から見る利尻富士はまだ冬姿で実に雄大である。  

 ターミナルビルに入ったら利尻町観光協会の方達が出迎えてくれて、おみやげまで下さったのは感激である。 それにご当地ユルキャラのりっぷくんも出迎えてくれる。 お話を聞いたら6月がベストシーズンとのことなので、来年の6月には来ようと心に決める。

(2)利尻〜釧路

 利尻空港に1時間くらいいて、次は釧路に飛ぶ。 座席は01A、左側一列の一番前の席で、乗降口のすぐ後ろである。 おかげで折り畳みタラップ付きの客室扉がたたまれて、巧妙に格納されるのが良く見えた。

さすがの筆者もこの扉の作動を良く見たのは始めてであった。 またこの座席は客室入り口をはさんでの客室乗務員とのご対面シートである。 離着陸時に客室乗務員が着席すると、殆ど向かい合わせのようになるので、嬉しいような気恥ずかしいような席である。 思い出すとJASのエアバスA300-B2Kの三番客室扉のところにもそのような座席配置があったと記憶している。 

 さて飛行計画では旭川経由で飛ぶことにしていたそうだが、レーダー誘導で直行ルートを飛ぶことになったと機長のアナウンスがあった。 それで飛行機は大雪山の旭岳の北側を通るとのことである。 どれが旭岳かは判らなかったが、真っ白な山頂が印象深かった。 このごろは航空管制も状況により可能ならばなるべく短距離で飛べるように誘導しているようである。 70分くらいで釧路空港に着陸し機外に出ると、むっとするような暑さである。 釧路には毎年12月に来ているが、季節柄寒いことしか記憶がなく、夏はこんなに暑いのかと驚く。 報道によればその日は異例の気象だそうで、帯広では30度を超えたとのことであった。

 釧路空港では凡そ2時間のステイで、昼食は手抜きツァーらしく各自が空港内で取ることに成っている。 

 それで空港のレストランで昼食をとって、後は食休みにロビーの椅子で軽い昼寝をとった。

(3)釧路〜奥尻

 釧路からは奥尻空港迄直行である。 こんなルートの定期路線が開設されることはなさそうだから、これはチャーター便の良さである。 座席は4C、右側の前から4番目の席で、すぐ真横がエンジンナセルなので外の景色はナセルと胴体の間の真下だけを覗き込むような格好になる。 しかしプロペラの回転は良く見え、プロペラのピッチが変わると黒く見えるプロペラ翼の幅が変わって見える。 このプロペラは英国のダウティの製品であり、黒いのは複合材でできているからであろう。 昔のプロペラは大抵アルミ合金製だったので白っぽく見えた。 ちなみにANAの運航していたバイカウントもフレンドシップもダウティのプロペラであったが、ブロペラ翼-ブレードと呼ぶ-アルミ合金製であった。 これらのプロペラをJALのプロペラ工場がオーバーホールすることになり、マニアルを翻訳して手順書を作ったのは、何を隠そうかく言う筆者であった。 飛行ルートはこのレッグもレーダー誘導が出来たとのことで、新千歳空港の北側を通って、支笏湖の上を通って噴火湾に出て函館付近で右折?して奥尻空港に進む。 

 そこで思い出したのだが、昔コンベア240-今や知っている人も少数であろうが、40人乗りのレシプロ双発旅客機-で函館から丘珠までのフェリーにのったことがある。 巡航高度になったら操縦は副操縦士に代わって機長はログブックを開いて何か記入し始めた。 ところがジャンプシートから前を見ていると真っ正面に樽前山の特長のある姿が見える。 丘珠に行くのに樽前山は左に見えて、正面に見ることはないはずである。 どうしたのかなと副操縦士を見ると、目は計器盤だけを見て外は見ていない。 樽前山はどんどん近づいてくるので、早く気がついてくれないかなとは思うが、操縦士に「前を見て下さい」とも言えない。 

 その時機長が顔を上げた。 「どこへ行くんだ」と一喝、ステアリングホイールを右に大きく傾けたので飛行機は北に方向を転換して、その後は何事もなく丘珠空港に着陸した。 到着後「怖かったろう」と機長に言われて「いいえ寝ていたので」と誤摩化したが、結構肝を冷やしたものである。 

 奥尻空港は島の南端の海岸に沿って設置されている。 飛行機は滑走路に沿って海に向かって高度を下げ、大分先に行った所で180度旋回して滑走路に進入する。 それで飛行機は暫く滑走路に並行して飛ぶが、どの辺りで旋回するかの判断が必要になる。 もう50年くらい昔のことになるが、こんな飛び方をしたことがある。 YS-11で羽田から花巻に飛んだのだがあいにく花巻空港が視界不良で、当時出来たばかりの青森空港に向かうことに成ったが、操縦室で機長と副操縦士の話を聞いていると、二人ともまだ青森空港へは行ったことがないと言う。 青森空港へはADFアプローチで滑走路を右側に見る形で進入した。 ある程度滑走路を行き過ぎたところでUターンして着陸するので、副操縦士が右側を見ながら誘導する。 「まだか」「まだです」「OKです」と成って飛行機は大きく右旋回したが、少し早過ぎて滑走路端を通過するときでもまだ右に傾いたままで、激しく姿勢を直して着陸した。

 又話が横路にそれたが約80分飛行で奥尻空港には無事着陸、機外は利尻空港程ではなかったが大分気温は低い感じがした。 奥尻空港はHACが函館から一日に一便しかとんでいないので、午後3時過ぎのこの時間は閑散としていた。 以前から丘珠〜奥尻線を開設したらその方の需要が多いのではないかと思うが、どうだろうか。 空港ロビーには大きな奥尻観光案内図があったので紹介する。

(4)奥尻〜函館

ここで約1時間ステイしていよいよラスト・レッグ、座席は右側7Cである。 時間は30分と今回の飛行での最短区間である。 この座席からはナセル後部ばかりが大きく見えてあまり楽しい座席とは言えないが仕方がない。 飛行機は空港の北側から進入して、なぜか空港の横の海上でホールディングパターンのような飛び方をしたが、理由は判らない。 こんな飛び方に会うと以前に発生したYS-11磐梯号の墜落事故を思い出してしまう。 ともあれ函館空港に無事着陸、「HACチャーター乗りまくり」は終った。 

 函館空港には想い出がある。 滑走路がまだ1200mの時分であるが、1975年だったか1月にYS-11-JA8643が雪でスリップして滑走路から飛び出してかく座したことがある。 幸い人身事故は無かった。 筆者も救援要員として千歳経由で空港に入ったが、機体は左主翼の主桁も折れており、当時函館に格納庫を持っていたのでそこに収容した。 損傷もひどくて直りそうにも見えなかったので部品取りすることに成って、その作業で一ヶ月ばかり滞在したことがある。 この話には後日談があって、2年くらい経ってからこの機体を修理しようと言うことになり、主翼、尾翼を取り外して羽田整備上迄海路で運搬して、半年くらいかかったが修理して運航へ復帰させた。

 函館空港で係の方からこのフライトの乗務員の写真とサインの入った搭乗証明書を頂いて解散、このツァーは終了したのでJAL588便で帰京した。

3.ツァーを終って

二日間のツアーは終ってみるとあっと言う間であったが大変満足したと言うのが実感である。  考えてみると今迄いろいろな遊覧飛行はあったが、このような周遊飛行はなかったと思う。 いうなればJR九州の「ななつぼし」列車の航空版のようなツァーである。 話にきく「ななつぽし」の豪華さには及びもつかないが、一日であれだけ北海道を広く見られる機会はそうはあるまい。 北海道の広さを改めて実感するとともに、その美しさも感じるのである。 今回の趣向は航空マニアに的を絞っているが、航空マニアの広さも改めて感じている。 筆者に取っての航空はビジネスであったので、こう言う楽しみ方は考えたことはなかった。 しかし、今回のツァーで新たに目が開けたような気がする。 それでいろいろとアイデアが湧いてくる。 まず今回のような航空マニア向けも良いが、「ななつぼし」のやり方にならって、空港ごとに周辺の観光を加えたり、各地のグルメの旅にしたら、別の客層が開拓出来そうな気がする。

 それには費用が今回のよりも高くなるだろうが、このごろは高くても楽しい旅をと言う傾向も見られる。 

 何しろせいぜい一回に30人くらいの集客だから、なんとか集まるのではないかと思う。 航空会社側の機材準備も問題であるが、今回の場合を見るとHACの定期便ダイヤは110便に絞って機材を捻出している。 

 保有3機では区間の組み合わせにもよるが、一日15便くらいは可能なので、まさに1機分を落として今回のチャーターにあてているのが判る。 定期便の需要動向を見合わせて、定期便との最良の組み合わせ、収益が最大になる組み合わせも模索するのが良いのであろう。 

 今回の機材はSaab340Bと座席列が3列であるが、場合によっては窓側だけの座席使用にすることも研究すべきことだと思う。 ネパールのカトマンズからのエベレスト遊覧飛行も3列座席29席のBAeジェットストリームを使用している航空会社があるが、その場合乗客は窓側席分だけに留めている。 

 それからHACのことではないが、新中央航空の保有しているドルニエ228を使用したこのようなツァーを企画するものはいないかとも思う。 ドルニエは非与圧機で19席でしかないが、2列座席なので15人は窓側座席が取れそうである。 この飛行機は低く飛ぶので下の景色を見るのには最適である。 

 花の季節、紅葉の季節など空から見る景色はどんなものだろうか。 日本エアコミューター創業の時に飛んだ珊瑚礁の海の美しさは忘れられない。 

 繰り返すが今回のツァーで新しい飛行機の使い方を知ったような気がする。 飛行機を移動機関としてだけでなく、今回のような楽しい乗り方ができれば嬉しく思うのである。 今はLCCばかりが安い移動手段として脚光を浴びるが、昔、飛行機はあこがれの象徴的存在であった。 

 それで最後に飛行機があこがれの象徴に復帰することを祈念して、石川啄木の詩「飛行機」の一節をもって、この稿を締めくくることにする。

見よ、今日も、かの蒼空に

飛行機の高く飛べるを。

以上