2017.6.14
わが航空半生記
[第2話 日本国内航空の設立]
矢島 征二
- 日本国内航空の発足
1964年(昭和39年)4月15日、日本国内航空が発足した。 この時まで我が国には日本航空と全日空以外に、地方路線を運航する中小航空会社が実に6社も存在した。 北海道を地盤とする北日本航空、羽田を主基地に東京〜大分〜鹿児島線と鹿児島空港から種子島線を運航する富士航空、羽田から伊豆諸島路線を運航する藤田航空、名古屋小牧空港を基地とする中日本航空、伊丹空港から主として水上機を運航する日東航空、広島空港(現空港ではなく以前の市内空港)を基地として西日本地区で営業する東亜航空である。 ところがどの会社も経営困難に陥っていて先行きが懸念され、そこで國が指導して統合を図ることになった。
それで北日本航空、富士航空及び日東航空の三社が合併して日本国内航空となり、藤田航空と中日本航空は全日空に吸収合併されたが、東亜航空は路線網が他社と離れていたせいか、そのまま事業を継続することになった。 ここから日本の国内航空業界はいわゆる航空三社時代に入ったのである。 航空三社とは日本航空、全日空及び日本国内航空であるが、会社の実力から言えば私は航空2.5社と見ていた。 勿論0.5社とは我が日本国内航空である。 会社の本社が羽田になったので、私も丘珠勤務から羽田勤務となり、住まいも札幌市栄町-いまなら北40条東八丁目あたり-の栄小学校の隣り、烈烈布神社の横のアパートから、住み慣れた横浜市戸塚に引っ越した。
日本国内航空機の外部塗装は、胴体に紺色と細い赤色の帯が入り、垂直尾翼の下に紺色の2本の帯があってその上にJDAの社章とJDAの文字が入った。 JDAの社章は、私に言わせると赤色の「玉乗りしている羽根をもったおっとせい」マークである。 最初の社章の案は金色であったが、実際に塗装してみるとあまり目立たないので、現場での協議の結果赤色になった。 日本国内航空になって、実に路線機だけでも多様な飛行機を抱えるようになった。
日本国内航空発足時の路線機
航空会社 |
航空機型式 |
機数 |
備考 |
北日本航空 |
CV-240 DC-3 |
5 2 |
双発レシプロ・プロペラ機(40席) 双発レシプロ・プロペラ機(30席) |
富士航空 |
CV-240 de Havilland 114 Heron(ヘロン) |
2 1 |
双発レシプロ・プロペラ機(40席) 4発レシプロ・プロペラ機(16席) |
日東航空 |
CV-240 Grumman G-44 Super Widgeon Grumman G-73 Mallard(マラード) |
2 1 5 |
双発レシプロ・プロペラ機(40席) 水陸両用飛行艇(5席) 水陸両用飛行艇(10-13席) |
第 1 表
結果として5機種16機と言う大世帯になった。 珍しいのは飛行艇もあったことで、戦後の日本に於ける水上機による定期航空は-正確には定期的運航と言うべきであろう-日東航空1社だけである。 飛行艇を使用したのは、目的地に飛行場のない伊丹〜白浜線や新居浜、別府線を運航する為で、伊丹は陸上機として離発着したが、他の地点では海面に離発着していた。 私の生涯に於ける水上機利用は2回である。
1度目は1960年(昭和35年)ごろと記憶しているが、日東航空のオッター機で徳島から大阪まで飛んだが、徳島市の吉野川から離水し、伊丹空港では車輪を出して陸上機として着陸した。 オッター機は今も日本でも飛んでいるツイン・オッター機の前身であるが、レシプロ・エンジンの単発水上機、いわゆる下駄履きと言う双フロートの飛行機である。 何しろ車輪付きのフロート付きだから、伊丹では長いはしごを使って降りたものである。 日東航空では「オッター」では「落ちた」に通じるからとして、「アッター」と呼んでいたが、三社合併時には既に退役していた。
日本国内航空で運用していたDe Havilland 114ヘロン機は英国製の細い胴体の固定脚機で、客席が16席の比較的小型の飛行機であるが4発機と言う飛行機である。 それでも英国王室専用機にもなっている。
日本国内航空はこの飛行機を新潟〜佐渡線と鹿児島〜種子島線に使用していた。 この飛行機のプロペラに耐空性改善通報が発行されたので、その実施のために新潟空港と鹿児島空港へ出張したことがある。
それは1964年(昭和39年)6月の新潟大地震の直後で、上越線の再開第一列車で新潟に行ったが、駅前のビルが倒壊しており、空港もターミナル・ビルは地盤沈下してロビーは1m以上の浸水があり、エプロンも広い池のようになっていた。 飛行機はその池の向こうだったので、駐在整備士が廃材で作ったいかだで出迎えてくれた。 その次の日から空港修理のため閉港することになっていたが直前の最終便が満員で乗れないので、北陸本線の再開第一列車に乗って一晩がかりで大阪へ行き、そこからマラード飛行艇で別府経由鹿児島に行った。 飛行艇に乗ったのはこのマラード機の一回だけである。 その時、伊丹〜新居浜〜別府線に乗り新居浜には海上に着水したが、別府では別府湾が荒れていたため大分空港へ陸上機として着陸した。
着水はすこしショックがあり、速度が落ちると窓には波がかぶった記憶が有る。 そこへ浮き桟橋が引かれて来て乗客の乗降を行っていた。 別府は湾内に着水する予定だったが波が荒いとのことで、大分空港-現在の大分空港ではなく大分市内にあった-に着陸した。 そこから会社の東京〜大分〜鹿児島行きに乗って鹿児島に行った。 鹿児島空港も現在のものではなく、市内の鴨池と言う海岸近くにあって、代理店の女子職員によるブラスバンドが出迎えてくれた。
日本国内航空の主力機は、米国コンベア社のCV-240コンベアライナーで9機保有していたが、中古機をかき集めたのでエンジンのプラット・アンド・ホイットニーR2800も3型式もあり、機体の仕様も元の所有会社のままでバラパラであった。 CV-240は米国でDC-3の後継機として、1040年代後半から使用された40席旅客機である。 この時に同じ目的で開発されたのがマーチン2-0-2で、日本では戦後の民間航空界最初の大事故、日本航空の「もくせい号」の伊豆大島三原山への墜落で良く知られている。
またCV-240はYS-11の下敷きとなって飛行機で、YS-11の設計担当者が良く調査に来たものである。 CV-240は胴体を延長してCV-340/440になっているが、全日空がCV-440を運航していたことがある。 CV-440は日本航空の使用していたDC-4より早く、それに客室与圧装置がついていたので、全日空機では機内放送で「下に見えるのは日航機で、今追い越すところです」と放送したと言う話もあった。 CV-240にも客室与圧装置はついていたが、整備がうまくできず不作動のまま飛ぶことの方が多かったように記憶している。 日本国内航空でも整備部技術課勤務となった。 当初は飛行機全体の整備技術担当であったが、会社が大きくなるに伴う組織改正で、仕事が次第に分割されて最後は原動機技術課として動力装置関係だけの担当になった。 普通は経験を積むにつれ業務範囲は広がると思うが、私に関してはだんだんと仕事の範囲が狭くなっている。
2.新人の養成
日本国内航空発足時の整備技術課の課員で実際の整備経験があるのは私だけで、後は大学か高専卒の新人だけであった。 それで彼らを急速養成する必要があったので、私は一案を思いついた。 CV-240は2,500時間でオーバーホールするが、作業は日本航空整備(株)に委託していた。 それでオーバーホールに入るたびに新人を一人づつ担当に指名し、整備会社との連絡調整や実施する改修の仕様書作成等を全てまかせることにした。 その間、私は一切口出しせず、条件は納期を守らせることと、オーバーホール後の試験飛行には必ず立会同乗することだけとした。 担当になった者は、みな工事期間中は連日会社に泊り込んでの力の入れようで、それでCV-240全機のオーバーホールは無事に完了し、そして優秀な技術者が誕生した。
今考えると、会社の整備技術陣は殆どが20才代の未経験者であったが、日本航空に教わりながらもなんとか飛行機を飛ばせて来た。 多分相当危なっかしいこともあったのかもしれないが、我らの貴重な経験が急速に積み上げられたことは間違いない。 良くあのように若者に会社経営の重要な一部をまかせてくれたものと、今では感謝したい気持ちである。 今はそんなことは考えられなさそうであるが、あのときは我々も若かったが日本の航空業界も若かったのである。
- 航空大不況
日本国内航空はなんとか発足してアップアップしながらも運航していた。 ところが1966年(昭和41年)に、誰もが夢想すらしなかった事態が発生した。 それは連続航空事故である。 第一回は全日空の「羽田沖事故」である。 2月4日全日空の札幌発東京行きのボーイング727が羽田沖に墜落し、搭乗していた133人全員が死亡した。 その記憶も生々しい凡そひと月後の3月4日夜、羽田に着陸しようとしていたカナダ太平洋航空のDC-8が着陸に失敗し、滑走路34端手前に着地炎上し、64人が死亡した。 この時私は羽田の整備場地区で残業しており、消防車のサイレンの音に気がついて車に乗って見に行ったが、この夜は霧が深く、霧のなかで炎が上がっているのがぼんやりと見えたことを今もまざまざと思い出す。
その次の日、3月5日の午後のことで勤務中であったが、英国海外航空のボーイング707が富士山近くで墜落したとのニュースが入った。 昨日の今日なので、誰もが「うそー」と思ったが、これも本当でこの飛行機は乱気流に巻き込まれて空中分解して墜落した事故であった。 この一連の事故が引き金になったのでは無いかと思うが、これから航空需要は激減し、未曾有の航空不況が始まった。 日本国内航空でも私の歴史の中でもたった一回の人員整理があり、希望退職が募集されて
多くの同僚が会社を去った。 余談になるがこの時退社した一人、 H.N君のお嬢さんが近年テレビで見るH.N嬢と言う女優ではないかと思っている。
私自身はどう考えたのか記憶は無いのだが、多分やめたところで先の見通しがある訳は無いので、そのままずるずると会社に居残ったことになる。
4.ジェット機の導入
日本国内航空発足時は幹線には参入できて居らず、ローカル線だけの運航で羽田の発着枠も確か36離発着しか無かったと記憶している。 これは後まで尾を引き、國の支援でようやく会社が保っているような時期が長く続いた。 しかし、形の上では日本航空や全日空と伍するようになったので、ジェット旅客機を導入しようと言うことになり、フランス製のシュド・カラベルを導入する方向で動き始めた。
カラベルはエンジンを胴体後部に取り付けた双発ジェット機である。 このエンジン配置の最初の飛行機で、ダグラスDC-9やBAC-111などが模倣している。 カラベルにはパリ〜ジュネーブ間で乗ったことがある。 会社経営を巡っては大株主である日本航空と東急電鉄の間で綱引きがあったらしく、カラベル導入について日本航空から横やりがはいり、カラベル3機導入は日本航空が使用しているコンベアCV-880が1機(JA8030)に変わってしまった。 それで日本国内航空は、日本航空の傘の下から抜け出す機会を失ってしまった。
私とカラベルの関係は後述のフランス出張の時、休日にエア・フランス(Air France)のカラベル機でパリからスイスのジュネーブを往復したことがある。 往路はエンジンのすぐ近くの席だったので、ロールス・ロイス・エイヴォン・エンジンのインレット・ガイド・ベーンが動くのが見えた。 ついでに書くと、別の休日にロンドンに行ったが、その時は英国欧州航空(BEA)ホーカー・シドレー・トライデント機に乗り、また別の機会にはアムステルダムに行ったが、この時はKLMオランダ航空のロッキード・エレクトラ機に乗れた。
CV-880(JA8030)は1965年(昭和40年)1月に入手し、「銀座号」と名付けられた。 CV-880はCV-240と同じくコンベア社が開発した4発ジェット旅客機(124席)で、日本航空も8機導入しているので、整備も運航整備以外は日本航空へ委託することになった。 私は日本航空との連絡員としてジェット整備課の技術担当に任命され、日本航空運航整備部整備技術課内に机をおいていた。 1966年(昭和41年)の冬だったと思うが、千歳空港で着陸時に滑走路から逸脱してNo.3と4エンジンを損傷した。 その救援も日本航空に依頼したが、私はその連絡員として千歳空港で二晩徹夜した。 勿論私自身は実際の作業はやれないので、夜食の差し入れなどに奔走したものである。 CV-880に続いて当時日本の航空会社の共通機材であったボーイング727を3機(JA8314,8315,8318)、1966年(昭和41年)1月から導入したが、大型ジェットの運航は会社の大赤字の原因になったらしく、早々に日本航空に全機をリースして日本国内航空はプロペラ機専業会社に戻った。 なおボーイング727、JA8315が日本赤軍にハイジャックされた「よど号」である。
5.フランス出張
日本国内航空に於けるCV-880/B727は短命に終ったが、会社に於ける私の将来を大きく変える遠因となった。 当時の大型機は機長、副操縦士の他に航空機関士の乗務を義務づけられていた。 航空機関士は整備士の業務と相当に重なるので、社内の整備員から採用することが一般的に行われており、日本国内航空でもCV-880導入時に航空機関士要員を社内募集した。 乗員になれば給料もぐっと増えるし、なんと言っても格好が良い。 それで当然私も応募したのだが、筆記試験であっさりと落ちてしまった。 それも仕方がないやと思っていたが、あまり日も経たないうちに突然フランス出張を命じられた。 日本国内航空の前身のひとつである日東航空が、フランスのノール262と言う28席の双発ターボプロップ旅客機3機を発注していた。
この飛行機はターボメカ・バスタンと言うターボプロップ・エンジンを装備しており、実に独創的なシステムを持っていた。 1950年代以降のプロペラ機にはオートフェザーと言う機能を備えている。
これはエンジンが故障して出力が落ちると自動的にプロペラ・ブレードのピッチを90度ちかくまであげてプロベラが空転しないようにしてエンジンの破壊が進行しないようにするシステムである。 通常はエンジン出力の低下を感知して作動する。 ところがノール262はエンジンナセルにプロペラからの空気流の圧力を測定するピトー管がついている。 それで測定する空気圧と飛行機の速度計が計測する空気圧と比較する。 エンジンが正常に回転していれば、プロペラ後流の空気圧の方が速度計の空気圧より大きいが、エンジンが故障すると同じになり、そこで自動的にプロペラがフェザーになる。 ノール262は高翼で胴体側面の主脚収納バルジなど、近年日本にも導入されたATR42/72の原型と言っても良いであろう。
会社は既に1、2、号機を領収して伊丹空港を基地として伊丹〜徳島線や伊丹〜富山〜新潟と私が北前船航路と名付けた路線を運航していたが、3号機はまだ製作中なのでその工程検査を命じられたのである。
それで1965年(昭和40年)3月末にたった一人で500$だけ旅費として受け取って、日本航空のDC-8でパリへ向かった。 当時、日本は外貨保有が少なく、海外旅行については通商産業省から出国一回につき最高500$が割り当てられていた。 この頃フランスの航空機製造会社は国営のシュドとノールの2社があり、私はフランス中部にあるノールのブールジュ工場に出張した。 ブールジュは人口5万人くらいの田舎の町で、丘の上にサン・テチエンヌ大聖堂と言うパリのノートル・ダム寺院に匹敵する寺院が目立つくらいであった。 ところが、帰国後この町は西暦前にはアウァリクムと言うガリア人の集落で、かのユリウス・カエサルの「ガリア戦記」にも出て来るローマ軍とガリア人との古戦場であることを知った。 ただ現地ではジャンヌ・ダルクの時代にはフランスの宮廷が置かれていたことを、町の博物館を見て知った。
ここノールのブールジュ工場でわがノール262は製作中であったが、機体としては大体出来ており、装備品の取り付けと試験の段階であった。 それも別に組み立てラインがあるわけでなく、大きな格納庫にぽつんと1機置かれて作業していた。 なお隣ではフランス/ドイツの共同開発になる軍用輸送機トランザールの試作機が試験中であった。 私の本業の工程検査であるが、毎日大きく工程が進行することでは無いので、出勤直後と退社前に飛行機を一回りしてあとは居眠りばかりしていた。 フランスの工場は勤務時間が午前7時〜午後4時で昼休みが1時間ある。 昼食は日本のように弁当持ちではなく、皆自宅に帰って取るようになっていて会社の送迎バスも動いていた。 その間会社は門が閉められて誰も会社内に入れないという徹底ぶりであった。 私はというと、何も文句を付けないからgood guyだと言われて、昼食時には飛行場の「グラン・ペルーズ」と言うレストランに行き、黙って座ればノール持ちで当日の定食が出てくることになった。 定食とは言っても簡素ながらフル・コースで1合くらいワインもついている。 価格は払ったことは無いが、邦貨換算で1,300円くらいであった。 私レベルの当時の標準的月給は2万円くらいだから、大変高価な昼食であった。 日本では当時肉等は年に数回たべられれば良いくらいだったから、このカルチュアーショックは大きかった。 午後は大抵良い気分になっていて、昼寝ばかりしていた。 実は文句は言わなかったのでなく、言えなかったのである。 フランス語は勿論のこと、工業高校では英語は主要科目ではなく、会話等出来る訳は無かった。 しかしフランス、ヒトリボッチなので、工程検査で不具合があると字引ひきひき英語で不具合の是正を要求するのだが、それを検査課の次長ペローさんがフランス語に訳していたようである。 ペローさんとは今もクリスマス・カードを交換している。 一度どうしても会議をする必要が生じたので、ノールは工場内から二人なんとか英語が話せるものを探して来て会議したことがある。 その一人、ブルボン君は私同年輩なのですぐに親しくなり、休日には彼のシトロエン2CVにのってあちこち行ったが、オルレアンにジャンヌ・ダルク祭を見に行ったのは楽しい思い出である。 30数年後にこの工場を訪問する機会があったが、昔私の机のあったところで、ATR72の中央翼が製造されていた。
しかし、日本では当時YS-11の開発が進行中でその障害となりそうな外国機の輸入には外貨割当がされず、それでこの飛行機の受領がいつできるか判らないので、5月に入ったところで帰国した。
これが私の始めての外国旅行である。 それから多分10年以上も経ってから、私のフランス行きの経緯を聞いた。 かの航空機関士の筆記試験では私が一番だったが、私が整備技術課を抜けたら課が保たないと言うことで、試験結果に関わらず落第させたのだそうである。 しかし、それではあまり可哀想だからと言うことで、フランス出張させることになったというのである。 戦後の日本の航空業界は飛行機もエンジンも殆どが米国製なものだから、航空会社で海外出張といえば、米国行きを意味した。 当時は欧州製の飛行機なぞ殆ど相手にされなかった。 最も全日空は英国製のバイカウントとオランダ製のF-27フレンドシップを導入しているが、それはこのクラスの飛行機は米国では生産していなかったからである。
それで航空会社の飛行機の選択基準は、米国機にあった。 ところが私のような欧州の航空工業しか知らない異端者が生まれた。 それはすぐには何の影響ももたらさなかったが、ずっと後になっての話であるが日本国内航空の後身、東亜国内航空が欧州製のエアバスA300の導入はまさに此処から始まったのである。
6.YS-11の導入
話は戻るが日本国内航空がなんとか自立できるようになったのは、ジェット機の日本航空移管によるリース料収入と及びYS-11導入、それに日本航空から深夜便を譲ってもらったことにある。 深夜便は羽田〜伊丹のムーンライト便と羽田〜千歳のオーロラ便である。 この運航で飛行機の稼働は飛躍的に上がり、月間平均300時間以上で、大まかに言えば24時間、日本国内航空の飛行機の飛んでいない時間帯は無かったくらいである。 しかし、私はYS-11が導入された時はジェット機担当だったので、YS-11導入時の苦労は知らない。 しかしジェット機が日本航空へ移管されたので、また会社に復帰し原動機技術課に配属になった。 ここで取り扱ったのはYS-11のロールス・ロイスのダート・エンジンと後でDC-9が導入されてからはプラット・アンド・ホイットニーJT8Dエンジンである。 ダート・エンジンでは減速歯車軸の表面剥離に悩まされた。 たまたまオーバーホールを委託していた三菱重工の担当者が、三組ある歯車セットのうちで上部の歯車軸に不具合が多く、黒く焼けたようになっていることに気がついた。 それでメーカーのロールス・ロイスにこの部分の潤滑油の量を増やしたらどうかと提案したところ、回答は「Waste of money(無駄遣い)」と言ってきた。 それから凡そ1年後ロールス・ロイスの技術者が来社して、私が提案したような潤滑油量を増加する改修を説明した。 それで私は前に「Waste of money(無駄遣い)」と言ったではないかと抗議すると、「実はあの回答は私が書いたものだが、申し訳ない」と謝って来た。 以後この不具合は無くなった。
ダート・エンジンの弱点の一つは、高い気温の時に出力の低下が大きいことである。 そのために離陸時には水とメチル・アルコールの混合液を吹き込んで、吸入空気温度を下げるようになっていた。
ある夏の日、花巻に行くチャーター便にあてがわれた機体が、水・メタノール噴射をすると出力が大きく変動するという不具合が見つかった。 ところが予備の飛行機が無いのでどうしてもこの機体を使いたいと言うことになったが、そこで機長はそれなら整備技術者を同乗させろと言いだし、私が乗ることになった。
羽田で離陸滑走すると確かに出力計がふらふらと大きく振れる。 それでもやめようとは言えないので「大丈夫、大丈夫、パワーは出ているではないの、ゴーゴー」とあおって花巻に飛んだ。 ところが花巻空港が天候不良で青森空港に行くことになった。 機長は「俺は青森は始めてなんだ」と言い、副操縦士も始めてという。 ADFアプローチで青森空港の滑走路の横に出た。 但し滑走路は副操縦士側で機長からは見えない。 それで副操縦士が滑走路を横に見てそのOKとの合図で、飛行機は180度ターンしたが、少し早めだったようで片足から着地した。 ともあれ、無事に乗客をおろして帰京した。 夜自宅に電話がかかって来て、どうしても不具合が直らないのでエンジン交換するとの連絡があった。 後日三菱重工で分解したところ、2段ある吸入空気圧縮の為の遠心式インペラーのうち高圧インペラーの羽根の一部が欠けているのが見つかった。 このため空気圧縮がうまく行かず、出力低下の不具合となったのである。 そして結果として世界中のダート・エンジンの高圧インペラーを交換するという大事になってしまい、たまたまダート・エンジンの大故障の第一号に乗り合わせたと言う希有な体験となった。
JT8Dエンジンについて、オーストラリアのカンタス航空がホストになって、シドニーで運航者会議が開催されたので出席したことがある。 会議は二日間であったが英語の会議でなにが話されているのかさっぱり判らず、ただその中で「ジャイタイアイ」と言う言葉が良く出て来たが何のことか判らなかった。 会議の終了間近になって「ジャイタイアイ」とはJT8Dをオーストラリアなまりで発音していたことが判った。 JT8Dの会議で主題の名前すら聞き取れていないので、結局この会議では何も判らなかったことになる。
幸い議事録が配布されたので、それで出張報告を作り上げることが出来た。
7.「ばんだい号」墜落事故
YS-11の運航も軌道に乗った1971年(昭和46年)7月、丘珠空港を17時31分に離陸して函館に向かったJA
8764「ばんだい号」は函館空港上空通過後消息を絶った。 次の日の夕刻になって函館市西方の横津岳に激突し搭乗者68人は全員死亡しているのが発見された。 何故普通の飛行経路外を飛んでいたのか最後迄判っていない。 会社からは当然大勢が函館に行ったが、私は行かなかった。 それは墜落してしまった飛行機の面倒を見るよりも、今も飛んでいる飛行機の方が大事と思ったからである。 それで「ばんだい号」事故に対しては傍観者で終った。 後で考えたのだが、私の42年間の航空会社勤務で人身事故に直接タッチしたことはない。 多少複雑な想いはあるが、やはりそんな事故は見なくて良かったと思っている。
8.ダート・エンジンの水洗い
YS-11の運航については、運航している他社とも技術情報の交換をしており、沖縄の南西航空-今の日本トランスオーシャン航空-には技術援助もしていた。 南西航空でYS-11の運航が始まって暫くしてから、ダート・エンジンのアルミニウム製の圧縮機ケーシングの内面に激しい腐食が発見された。 南西空港の主基地である那覇空港は海辺の空港であり、冬期には東シナ海からの波しぶきで駐機している飛行機が潮で真っ白になるくらいである。 当然そのしぶきをエンジンが吸い込むことは理解出来る。 その対策として同僚の樋口君が海外ではエンジン内部の水洗いと言う方法があるとの情報を仕入れて来た。 それで実験してみようと南西航空に出向き、エンジンをスターターで回して乱暴ではあったが機体洗滌用のホースで空気取り入れ口から水を流し込んだ。 そして溢れ出て来た水をなめた所確かにしょっぱかった。 それから最終的には専用器具も作って定期的に洗うようにしたら、不具合は無くなった。 それで創立記念日に表彰されて金一封をもらった。
9.安全と安心
飛行機の安全は何よりも大事であるとは、航空会社の一員はみな肝に銘じている。 しかし、それだけでは足りないということをしみじみと感じたことが有る。 何時のことか正確なときは覚えていないが、YS-11、JA8643が函館空港で離陸時に滑走路を飛び出して擱座した事故が発生した。 それでひと月くらい函館空港につめて、事故機から使える部品の取り外し作業を行い、破損した機体は旧北日本航空の格納庫に収容して作業が終った。 飛行機は滑走路からはみ出した時に主脚がもげたので、右主翼の主桁は大きく破損していて、当時は主桁が破損したら飛行機は全損というのが常識であった。 そう思っていたのだが一年くらい経って、飛行機が足りないのでそれを修理しようと言うことになった。 機体は主翼と胴体尾部を取り外して船で運ばれ、今のモノレール羽田整備場駅の辺りで陸揚げして、羽田の格納庫に据えられた。
修理の技術担当には主翼修理はK.Y君、胴体修理は私、艤装関係はH.O君が指名され、構造修理の指導は日本航空技術部から山川さんと言う方に委嘱することになった。山川さんは見るからに好々爺と言える方で、戦前からの航空技術者と言うことであった。 その時はどう言う経歴の方か知らなかったが、後に旧日本陸軍の試作戦闘機、立川式キ94の設計に携わっていた方と判った。 我々は孫くらいの年代であったが、懇切丁寧に指導してくれて得るものは大きかった。 機体構造の修理の為に、主翼を製作している川崎重工業の岐阜工場や胴体を製作している三菱重工業大江工場に調査に赴き、必要な部分の構造部品を分けてもらった。 二ヶ月くらいかけて修復したが、その間の大半は会社に泊まり込んでいた。 無事修復が終わり、他の機体と変わりなく1989年(昭和64年)まで運航して海外に売却された。 後で会社の経理担当に聞いたが、この飛行機には事故の時殆ど全損に近い保険金が支払われていたが、修復したので帳簿上一億円くらいの得になったとのことである。 この修理中に、YS-11が鹿児島空港で尾部を滑走路に接触するという事故が発生した。 YS-11は横から見る胴体の形状は、操縦室後方から平行な中部胴体が続き、客室の後ろの貨物室の後面が圧力隔壁に成って、そこからは下面が跳ね上がるように伸びて、上側は緩く下さがりに伸びて尾端でまとまる。 その圧力隔壁の所が、着陸時に機首上げ姿勢になると一番下になるのである。 それでパイロットが機首をあげすぎて着地しようとすると、主脚より先に胴体のこの部分が先に接地してしまう。
鹿児島空港の事故はパイロットの訓練中に発生した。 羽田に一報が入り、私も山川さんと一緒に救援のため鹿児島に行った。鹿児島で機体を見ると、まさに問題の部分をぶつけており、そこの丸い胴体フレームが歪んで割れて、圧力隔壁も歪んでいた。 それでも与圧を使わなければ空輸はできるだろうということになった。 見ていたら山川さんは整備員に指示して、太いアルミニウムのアングル材を外側からリベット付けしている。 ところが取り付けている胴体部分は、強度部材ではなくぺらぺらの外皮なのである。
慌てて「あれではまったく強度になりませんよ」と山川さん言ったところ、「でもパイロットが安心するからね」と言われた。 そう言われてはっとした。 「そうだ。 安全だけではなく安心も必要なんだ」。
以後これは私の座右の銘になっている。 それで空輸するバイロットにこのアングル材の取付けを見せたら、確かに納得してくれた。 羽田に空輸する時、天気も良くたまたま桜島も噴煙をあげていなかったので、火口の周りをぐるっと一周した。 見下ろした火口を今でも覚えている。 確かにいくら安全と言ったところで、それは必ずしも目に見えたり、感じられたりするものではない。 ましてお客様はそれを確かめられる訳はない。 そうなれば、航空会社は安全に加えてお客様が目で見たり、感じられるような安心も必要なのである。 安全が欲しくて飛行機に乗るお客はいない。 それでも誰もが安心して飛行機を利用したいと思っていると違いない。 以上