青木タカオの「ちょっくら・おん・まい・でいず」 今月に戻る
過去ログ「ブクロの頃」日記付き'02.3月〜
参考資料「ブクロ写真」


 vol.1「一本のテープからの始まり」3/16

 「アオキくん、これ聴いてごらんよ。きっと好きだと思うよ。」

 '80年の秋から池袋で唄い始めて一年ほどたった頃、知り合った友達が一本のカセットテープを僕に貸してくれた。

 それは弾き語りのライブを収録したテープで、僕と同じようにハーモニカを吹き、生ギターを鳴らし唄っていた。ボブ・ディランが好きなのもよくわかった。

 僕はずっと、ディランと同じように唄おうとしていたけれど、彼はシャウトして唄うわけではなく、日本語の響きに沿って、歌を作っていた。そしてなんといっても歌詞が生きていた。

 その一本のテープは自主制作で作られた豊田勇造の「走れアルマジロ」のレコードだ。

 メロディーに日本語の歌詞がちゃんと響きあい、日本語の歌として完成していた。それも英語よりも気持ちがいいほどだ。ずっと、訳詞で唄ったりしていた僕にとっては、目が覚める思いだった。そして一週間後には、そのほとんどの歌を口ずさんでいた。

 (いいなぁ、これだよ!!)

 それは僕にとって、歌づくりの夜明けだった。日本語の響きの良さを実感したのだ。もう訳詞に頼ることはないと知った。

 新しい歌を作ってみた。自分の言葉でよかったのだ。そして三曲ほど出来た。次の週の池袋から、僕はその三曲だけを唄った。いままで作ってた歌。今まで訳して来たウディのすべての歌。そしてディランの歌。古いアメリカのフォークソングももう唄わなかった。

 僕も極端だけれど、唄いたい歌はまた作ればいい。そう思ったのだ。それからの僕はどんどん新しい歌を作っていった。一週間で二曲から三曲ほど、作っていった。 


 vol.2「歌作り」3/21

 僕は自分のことを思い出した。

 ずっと好きだった物。好きだった歌。好きな言葉。好きなリズム。好きなメロディー・・。

 外国の歌を訳していた頃は、原曲の英語の響きをどうにか日本語で出せないかなと思っていた。そしていつも日本語って不自由だなと思っていた。

 ・・そんなことはない・・。持っているもの以外のものを使おうとするから、無理が出てくるわけで、一度全部をOFFにして、また歌を作り出してみた。

 「歌ってなんだろう」とか思いながら、言葉もメロディーも出てくるままにした。歌作りは楽しい限りだった。あまり歌詞では使わないような言葉もどんどん使っていった。それは僕の中にある歌の自然な響きに思えたからだった。

 日曜の池袋でも、唄っていると人が集まりだした。'81年は、僕がもう一度が生まれた年のようだ。

 「洗面所のカガミ」

蛇口をひねれば、水だ水だ
少し腰を 折り曲げて
まくるは袖口 右と左に
セッケン水なら アワだアワ
 今日は機械の大掃除
 茶色い水が洗面器
キュルキュルって言ってるよ
キュルキュルって言ってるよ

ギュとひねっても しずくはポトポト
ピシャンピシャンと 手首ではじき
作業スボンのももはタオルか
手のひら手のこうと こすりつける
 んんっとセキをして
 顔を上げたら
四角いカガミと目があった
四角いカガミと目があった

誰かと思えば お久しぶりで
そういうお宅は アオキさん
あいかわらずのおんなじお顔で
ホッペにゃ油のしみつけて
 髪の毛なんかはボサボサで
 ハナは黒いがカッコイイぞ
なかなかその服お似合いで
なかなかその服お似合いで

そのまま飛び出た工場のあいだの
工場と工場の細い道
作業服着た女のコたちが
かたまりながら歩ってく
 いいなあなんて思っちゃう
 思うだけではダメだった
お天とさんさえ 真っ茶々
お天とさんさえ 真っ茶々


 vol.3「うたの里イベント」3/25

 '81年の初夏、僕は池袋の友達に誘われて、狭山の方で行われた泊まりがけの「うたの里」のイベントに参加した。

 「うたの里」のことは詳しくは知らなかったのだけれど、みんなで歌えるフォークソングの流れを受け継ぐものだった。'81年は狭山青年の家で行われ、約50人ほど集まり、大きなスペースに大段幕につけ、それぞれに唄をうたいあい、夜は夜で泊まりがけで、いろいろと語り合った。

 池袋で知り合った友達は「みんなで唄う歌」というものの素晴らしさを知っていて、何回か「うたの里」のイベントにも参加していた。 「うたの里」の会場に到着すると友達は「よーっ、元気?」と言って、一年振りに会えた再会を嬉しそうにしていた。僕はまったくの初めてなので、なかなか仲間には入れないでいた。

 ・・だいたい歌の友達なんて、東京に来てからいなかったのだ。

 イベントは始まる。暗い中、白黒フィルムで唄う憧れのウディ・ガスリーの姿を初めて見た。淡々と唄うその姿ははっきりと僕のまぶたに焼き付いた。ボブ・ディランが唄うフォークフェスティバルの映像もあったように思う。とても貴重な映像だ。

 そのウディ・ガスリーのフィルムを借りてきていたのは、フォークミュージック研究家でもある、矢沢 保で、矢沢さんはそのフィルムを両国フォークロアセンターから借りてきたと言っていた。

 そしてフィルム上映をはさんでのコンサート。その歌は'60年代後半に日本で生まれた民衆の歌を、今風に唄った歌が多かった。呼びかけは「♪ぼくたーちの・・」という感じか。

 僕自身もアメリカンフォークの父、ウディ・ガスリーのことをとても尊敬していたし、それは民衆の歌と呼ばれているものだ。もちろん 古いアメリカのフォークソングは大好きだ。でもきっと、僕はウディ自身のことがもっと好きなんだな。

 歌も終わり、夜の更けるころ、大きな部屋にみんなで集まり、輪になり、ギターに合わせて歌を始めた。それはなんとも自然で良かった。こんな時間をずっと探していたんだ。

 みんなはとても楽しそうに仲間になり、そしてまた来年の再会を楽しみにしているようだった。

 矢沢さんは僕をそのうち両国フォークロアセンターに連れてってくれる約束をしてくれた。そこはいろんな人も歌っているところだという。

 東京に来てからまだ僕は、歌の友達をまったく作れないでいた。「うたの里」に来てみたけれど、なんだかしっくりはこなかった。顔なじみにはなれたけれど、友達にはなれなかったかもしれない。 

 矢沢さんの言ってた両国フォークロアセンターは、いろんな人が唄うライブハウスでもあるという。

 (どんな歌をライブハウスではみんな歌っているのだろう?)

 僕はライブハウスにも一度行ってみたいと思った。


 vol.4「フォークロアセンターでの出会い(1)」3/29

 ・・「さて、ライブハウスって、行ってみようかな」

 '81年の10月頃、僕は街の情報誌「シティーロード」を四畳半の部屋で開いていた。

 数ある東京のライブハウスの中で、さてどこの誰のライブに行ったらいいものか、まったくわからなかった。僕の聞きたいと思える歌を歌っている人はどこにいるのだろう。

 情報誌のライブハウス欄を眺めてみる。いろいろあるけれど「フォーク」の文字のついている「両国フォークロアセンター」が目に入った。

 ・・ここではフォークを歌っているにちがいない・・・そして、スケジュールを見てみると「大谷ひろゆき」という人が月に二回もライブをやっていた。きっとお店のお気に入りなんだろうなぁ、と思った僕は、大谷君のライブに日に両国へと向かった。

 ライブハウスに行くのも初めてならば、誰かのライブに行くというのも初めてだった。

 両国の駅を降りて、そして大通りを渡り、角の中華屋のところを曲がり大きな問屋さんの横を向けて、橋を渡ったところの蕎麦屋さんの右に小さな小さな「フォーロアセンター」の看板が出ていた。ドアを開けると階段があり、そこに靴が並べられてあった。

 (これがライブハウスかぁ。。)そう思いながら二階へと登ってゆく。左側にある手すり。そこから見えたものは8畳ほどの畳の部屋が二つつながっていた。真ん中に続けて並べてある背の低い机と、いっぱいの座布団。

 もうお客さんはけっこう来ていた。15人くらいかな。座布団に座りオレンジジュースを注文。マスターは鼻ヒゲを少しだけ生やし、丸顔で40才代くらいに見えた。

 和室がふたつあり、奥の部屋の方ではみんな親しそうに話していた。大谷君もその中にいるらしいが、さて、どの人が大谷君なのか。それもわからない。

 トイレに行くときに、歌詞ノートが開かれているのを見た。そこには「ボビーに捧げる歌」とタイトルが書かれていた。(んっ、ボビーに捧げる歌?)。それと同じタイトルの歌を僕も作っていたのだ。もしかしたらボブ・ディランが好きな人かもしれない。

 フォークロアセンターのステージはカーテンと、マイクが立っているだけだった。そして後の壁じゅうに張られている数々のライブをここで唄った人たちの名前。僕が田舎にいた頃、ずっと聞いていたフォークの人たちの名前がずらりとあった。その色褪せた紙の色がなんとも雰囲気を出していた。

 やがて時間になり大谷君が、青い農協の帽子をかぶりながら、照れながら登場して来た。

 一曲目は「インスタントガール」だったかな。プープカプカーと吹くハーモニカ。やっぱりボブ・ディランが好きなようだった。なんだか、みんなにすごく受けていた。

 そして二曲目はたしか「南に行こう」。古めかしい足踏みのリズムで唄われるその歌。「おーんぼろ列車が走ってゆく、おおーきなミミズが走ってゆくー、日本列島はいつくばっーて、南へゆこうー」そう嬉しそうに唄う大谷君。そして懐かしく響いてくるハーモニカ。

 僕は向かって左側のちょっと奥で、聞いていた。そのときの気持ちは今でもよく憶えている。「南に行こう」という歌は傑作なのは、すぐにわかった。ずっと聞いてきた日本のフォークのレコードが僕にとってはすべてだったけれど、その歌は名作のようにもう完成されていた。

 今、目の前で歌っている大谷君が、まるで懐かしいひとつの風景に見えた。

 淡々に歌とハーモニカを吹くその姿は、僕の中でなぜか「戦艦大和」とシンクロしていた。(つづく)


 vol.5「フォークロアセンターでの出会い(2)」4/1

 '81年10月。初めて行ったその日の大谷君のライブはどの曲も良かった。青い農協の帽子をかぶり「僕わぁ」とか話しながら怪獣カードの話題とか出していた。次々と唄われる歌はバラエティーで、どれもツボをついていた。特に歌詞が良かった。

 ライブが終わると、フォークロアセンターでは、座り机をはさんで自己紹介のようなことをすることになっていた。マスターだけが立っていて、レコードをかけたり外したり・・。

 僕は階段側の手すりのそばに座っていて、その斜め右のところにドカジャンパーを着たあんちゃんサングラス風メガネの男性が、なんだか嬉しそうにしていた。「これがなかなかいいのよー」と言いながら一本のテープをマスターにかけてもらっていた。

 「♪グッバイーといいながらー、グッパイーが追いかけてー」

 そこで流れて来た唄もなかなか個性的で面白い唄だった。僕は隣にいた男性に声をかけた。

 「これ誰が唄っているんですか? 」「これ、ですか? これ僕なんですよ」

 「いいですねー」そう言うとかなり照れていた。「あっ、お宅も歌を唄ってるんですか?」「ええ」「どんな感じの?」・・

 と、話は続いて、僕はギターで一曲唄うことになった。どうせならマイクで。。

 最近作った「スッテンテンの青いシャツ」「赤いサンダル」を歌った。そして日曜に池袋で歌っていることも伝えた。そのあとなぜかみんなで一曲づつ唄うことになったのだった。

 順番は忘れたけれど、ドカジャンパーの人は日本語の「ハイウェイスター」。黒縁メガネの人が後の部屋から出てきて、ブタがいっぱいやって来る歌をひょうひょうと歌った。長い髪の男性は、かなりむずかしい歌詞の歌を歌った。一番右前にいた、黒ジャンパーのいかつい表情の人は、マンホールで待ってるよとか言う歌を歌った。さらに後の部屋のもっと奥からメガネの女のコが出てきて、フォーク風の歌を歌った。そして一回りしたあと、僕のとなりの男性が照れながらもすごい声で歌った。

 それは今でも親しい付き合いのある、健さん、山下くん、永尾くん、橘高さん、あかねちゃん、石川浩司くんだった。

 僕は橘高さんに、「あの歌はどういう意味なんですか?」と尋ねたら、「わかんなくていいですよ」とぶっきらぼうに答えてくれた。

 夜の10時すぎくらいになって、みんなでまた階段を下りて外に出た。橋を渡るところで僕は、隣を歩いていた永尾くんに声をかけた。

 「どんな歌とかきくんですか?」「はぁ、、プログレとか。。」

 両国駅までの道。やって来た道をもう一度戻ってゆく。大きな問屋さんのところを過ぎて、角の中華屋さんのところで大通りを渡り、そして両国駅へ。友達になったような、なれなかったような。でもみんなで一緒にホームに立って、一緒の総武線に乗って行った。

 今日は大きな一日だった。僕が会いたかった歌の友達にちゃんと会えたのだ。初めてのライブハウス。ライブハウスっていいな。でも僕には池袋で歌うことの方が大きなことだった。その大きなことに僕はまたしばらくの間は吸い込まれていった・・。

 その日のフォークロアセンターでのみんなの歌を、ドカジャンパーの健さんが偶然にも録音していて一本のテープにまとめた。それがみんなにダビングされていき、後日の再会につながってゆくことになるのだった。


 vol.6「ヒッチハイクの男」4/5

 朝日春吉(はるよし)という男が、'82年の春、池袋にやって来た。

 僕がいつものようにロータリーのところで歌っていると、ジーンズ姿で長い髪を後に束ねた男に声をかけられた。

 「いや嬉しいよ。君みたいな人が東京にいるとは思わなかったな」

 きけば、ヒッチハイクで長崎から来たのだという、彼はシンガーソングライターの友部正人や豊田勇造らの一連のフォークの人々が好きで、僕が彼らの歌を歌っていて、びっくりしたらしい。年令は同い年だった。

 僕らの年代ではなかなか古い日本フォークの人たちが好きな友人とはなかなかに会えないでいたので、同い年というのはとても嬉しかった。彼もまた歌えるというのでギターを渡すと、彼は立ち上がり、西武の駅ビルの壁じゅうにこだまするくらいの大声で、ボブ・ディランの「アイ・シャルビー・リリースト」を空に向かって歌った。

 その歌う表情と姿は仁王のような印象さえあった。しかし、のびのびとしたその声はとても気持ち良さそうだった。

 後日、彼が僕のアパートに訪ねてくるという日、ちょっと出かけて帰って来てドアを開けてみると、朝日君は、勝手に入って部屋の真ん中であぐらをかいていた。それもバンツ姿で、ビールを飲んで・・。

 「いやぁ、部屋のドアが開いていたからさぁ」

 彼はまだ東京に来たばかりだったけれど、ビルの窓拭きの臨時のアルバイトをして収入を得ていた。そこで出会ったいろんな人たち。その話をしているとだんだんと声が大きくなって来た。

 「今の大学生は、軟弱なんだよ!!」

 僕に向かって、大声で彼は怒り続けた。

 そんなふうに毎週のように彼は僕のアパートに訪ねて来た。大塚から目白まで歩いて来ていた。彼の一週間というのは出会いの連続で、いろんな男、そして女性と知り合ったことを、彼は教えてくれた。その話と来たら、もう・・。

 僕は友達にも朝日君を紹介した。三味線づくりの高橋さん、そしてカメラの鈴木さん。それは出会いという感じだった。朝日君のキャラクターは大胆だったけれど、何か大事な時間が流れているように思わせるところがあった。

 そんな朝日君も、ひと月ほど東京にいた後、とうとう長崎に帰ることになった。その前日、いつものように僕のアパートに訪ねて来た。

 彼の東京でのひと月の出来事は、とても充実していて、僕にとってはうらやましい限りだった。

 「青木君とはずっと友達でいたいな」

 そして夜の11時を過ぎた頃、部屋を出て二人で、池袋まで歩いていった。そして池袋駅の地下道に座って話していると、朝日君は人の流れの中、突然に大声で「アイ・シャルピー・リリースト」を歌い出したのだ。

 それは、朝日君のこの東京へのメッセージだったのだろう。

 僕らはまた歩き出し、池袋のビックリガードのところまでやって来た。ここでさようならだ。朝日君は「じゃあ!!」と言って手を振った。なにげなく歩き出した彼だったけれど、これからまた、ヒッチハイクで長崎に帰ってゆくのだ。

 20年前の春、池袋の地下道で「アイ・シャルビー・リリースト」を大声で歌った男がいた。


 vol.7「はじめから友達のひと」4/9

 ・・その人は、ただ通りかかっただけなのかもしれない。その人は、何かボランティアで野外活動していたのかもしれない。その人は、フォーク同好会に入っていたのかもしれない。その人は、地下食堂街で、チーズドックを売っていたのかもしれない。その人は、友達の友達だったかもしれない・・。

 '81年の冬から次の年の春にかけて、僕は新しい歌が大量に出来て、池袋でも新しい人の輪が出来るようになっていた。そこを通り、どこかに向かう人も多かっただろう。僕のことを見かけたことのある人たちが、ちょっとしたきっかけで立ち止まり友達になることも多かった。

 その人は、日曜の朝の西武の前をなんだか行ったり来たりしていた。自然派な服装できめた小柄な二人の女性。歌う僕の隣に座り、二三曲聞いたあと、何の迷いもなく話かけてきてくれた。

 ふたりは保母さんの学校に行っていると言う。たしかボランティアで、なんとかって話してくれたようにおぼえている。日曜の午前の池袋に用があったようだ。パーマのかかった髪のそのひとりの女性は赤いタータンチェックのオーバーだったかな。

 次の週もまた来てくれた二人。パーマのかかった髪のそのひとりの女性は自分も歌を作っているんですと教えてくれた。「えっ、歌ってよ」と言うと、何か布の袋のリュックのようなものの中から、ノートを取り出した。

 「あれ、こんなところにソングブックが・・」

 照れながら歌ってくれたのは、山村さん。のちに「とっちゃん」と呼ばれる人だ。そして一緒の友達は「岩屋さん」。二人はそれから毎週のように池袋に来てくれた。

 明るい午後の日差し。歌っている僕の目の前に、白いコックさん服を着ているひとりの若者がタバコをふかしながら立っていた。

 「あのう、この同じ場所に冬、もっと太った人が歌ってませんでしたか?」

 「ここで歌っているのは僕しかいないから、僕じゃないかな。冬はいっぱい着こんで来ていたから太って見えたのかな」

 その若者は、駅の地下食堂街で原宿ドックを作るアルバイトをしているという。くりくりっとした短い髪が印象的だ。今は昼休み中なのだと言う。

 「じゃあ、また」

 その若者もまた親しげに話しかけて来てくれた。名前は「カブラギ」君だ。のちにみんなから「カブちゃん」と呼ばれるようになる友達だ。彼もまた毎週、昼には僕の所に来てくれるようになった。

 はじめから友達のひと。そこに何か看板があるように、そこに待ち合わせのビルがあるように、僕の所に寄ってくれた。そしてやがて来る出会いは少しずつ池袋の街に近づいていた。


 vol.8「新潟まで歩こうと思ったこと」4/12

 そんな憧れもあった。

 二度目の東京に出てくるとき、僕はギターを持って、歩いてゆこうと真冬の新潟の家を出た。

 それはボブ・ディランがウディ・ガスリーに憧れてミネソタからニューヨークへヒッチハイクで向かったエピソードのせいだった。ボブ・ディランのファンならぱ、一度は憧れて、自分でもそうしてみたいと思える出来事だ。

 僕も僕なりに考えて、その冬の日に新潟の家を出て、東京まで歩いてこようとしたのだった。しかし、あまりの雪のために途中の山で引き返してしまった。何もかも濡れてしまったのだ。

 それから二年後、'82年の五月に連休を利用して、今度は東京から新潟まで歩こうと決めた。なんだかそれをしておかないと、僕の東京が始まらないような気がしていたのだ。言っても、300キロを歩くことはどんなことなのか想像もつかなかった。

 まず一番に大事なことは、ぜったい歩くんだという決意を固めることだった。そこで僕は、池袋で唄っているときに、みんなに「5月に新潟まで歩きます」と、言い続けた。池袋だけではない。会社の人や友達にも言って約束した。

 ・・これだけ約束すれば、きっと僕は歩くだろう・・

 そのために、勤めていた会社の休みを増やしてもらったり、地図帳を買ったりと、少しずつ準備は進めていった。どうしてもどうしても歩きたかったからだ。

 歩くのに必要なものは多い。一度目のように失敗して引き返したくはなかった。寝袋を買ったり、雨具を買ったり、シューズを買ったりして、四畳半の部屋のすみに僕はひとつずつ並べていった。


 vol.9「その四月のブクロで」4/15

 二度目の始まりはここにあった。

 '82年の四月、そしてその日曜日の池袋。歩行者天国の上の空はとても良く晴れていた。

 僕はいつものように、東口の駅前のロータリーでギターを抱え座っていた。なんだか新曲も次々と出来て、大きな人の輪もたえずあって、のどを枯らしながらも、嬉しい気持ちでおもうぞんぶん唄っていた。

 そんな大きな人の輪のちょっと離れた右側の方に、いつか見たことのある青年が立っているのが見えた。それは半年まえに両国フォークロアセンターにライブを聞きにいった大谷君だった。

 「あれぇ、大谷くーん!!」

 「アオキさんやろう?」

 そのとき、すごくびっくりして、指をさしながら大谷君のとなりで、顔を見合わせた小柄な青年がいた。

 「おっ、知久!!」「あれ? 大谷さん」

 その声は僕のところまで響いた。

 ふたりは待ち合わせをしたわけではなく、偶然隣どうしで僕の唄を聞いていたのだった。そのとき僕はまだ知久君を知らなかった。

 「ねぇ、ねえ、何か唄ってよー」と、僕は二人を手で呼んでギターを手渡した。

 「♪お日様のー 機嫌がいい日 ふたりで旅に出るんだー」

 たしか大谷君はこの唄を歌ったんじゃないかな。忘れてしまった。髪を長めにした知久君の方は何を歌っただろう。三曲くらいずつで、交代していった。

 その頃は、まだ街で歌うというのは、あまりない事だったので、体験的にはかなり新鮮だったろう。

 やがて、夕方になり人の輪もとだえ、僕らと友達だけとなった。半年前、両国フォークロアセンターにライブを聞きに行った大谷君。そして同じようにフォークロアでも歌い、あのときのみんなとも知り合いだった、まだ高校生の知久君。

 初めて会う知久君は、目がギョロっとして、話かけると大きくニコッとして、ぼてんとした服で、とろとろっと歩いていた。

 どうして僕のここがわかったのかなぁと、たずねてみると、半年前フォークロアセンターで自己紹介の代わりにみんなが歌った夜を、友達(菱沼健さん)がたまたま録音してて、テープにしたのだという。そのテープにしっかりと、「池袋で唄ってます」って入っていたらしい。

 その健さんと知久くんは、家が近所で学校の先輩と後輩の仲なのだと言う。いろいろなつながりがあった。偶然のつながりもあったようだ。

 「うん、次のライブに行くよ」

 僕は一番近いフォークロアのライブに行く約束をした。それは誰でも歌える「フォークロア・フート」と呼ばれる日だったかもしれない。その日からはるばると、たった今まで時間はつながっている。

 よく晴れた池袋のいい一日だった。


 vol.10「フォークロアフート」4/18

 「フートで会おうよ、フートで」

 両国フォークロアセンターでは月に二回、誰でもが歌える「フォークロアフート」の日があった。ギターや楽器を持ち寄り、ドリンク代のみで、歌い人はひとり三曲ずつ唄ってゆくのだ。

 フォークロアセンターは、畳の部屋のライブハウスで、真ん中のテーブルを挟んで終わってから自己紹介タイムになり、友達にもすぐなりやすい雰囲気があった。

 そんなフォークロアフートに僕が最初に行った日は、たしか池袋で、大谷君と知久君に会ったあとの次の週だったようにおぼえている。なぜそうおぼえているかというと、帰り道とホームでの会話をおぼえているからだ。

 夜6時半すぎくらいから、両国フォークロアセンターの右のドアをガタンと開いて、ひとりひとり階段を登ってくる。登ってゆくとそこには、ギターをそばに置いた先客たちがいる。

 知っている人もいるかもしれない、知らない人かもしれないが、座布団の席に座ったらとりあえず、挨拶をする。

 「あっ、どうも・・」

 歌い手が4人くらい集まった頃、フォークロアのマスターが奥の部屋と境のところの、アンプの前にゆれながら立って、ちょっとライトの影になりながら、ぼそぼそっと話し出して、歌う順番を決めてゆく。

 その日は僕もいて、大谷君もいて、知久君も座っていた。フォークロアフートは情報誌ではいつも「出演者募集」と書かれていて、とりあえずどこかで歌いたいと思っている、上京したての弾き語りの人たちは、みな来てしまうようだ。

 大谷君は、フォークロアで定期的に歌いはじめてからも、せっせとフートに通っていた。そこにやってきて大谷君と知り合い、気に入ったらライブに足を運び、またそこで他のみんなとも会える。

 北千住の「甚六屋」というライブハウスでも、同じように誰でもが歌える日があった。大谷君はそこにもよく通っていたらしい。知久君は健さんと一緒に甚六屋の歌える日に行き、そこに大谷さんがいたって確か言っていた。

 さて、両国フォークロアセンターでのフートは、一人三曲ずつで進んでゆく。三曲というのは、自分のリパートリーでもバラエティーに選べて、ある程度じゅうぶんだ。その三曲選びはなかなか楽しい。その人が見えてくる。

 歌い終わったら自己紹介タイムになり、夜10時ごろまで、マスターも含めていろんな話をする。そしてだいたいは友達になれるようだ。両国駅までの帰り道もなかなかにいい。

 池袋で再会した大谷君。そしてその時に会った知久君。その日からまだ一週間ほどしかたっていなかったけれど、フォークロアで歌った帰り、両国駅のホームで僕らはこんなことを言った。

 「なんだかお互いの歌をいっぱいきいて、ずっと前からの知り合いみたいね」「ほんとだよー」

 '82年の四月、フォークロアセンターには大谷君のライブでまたすぐに行くのだった。


 vol.11「新潟まで歩こうと思ったこと(2)」4/21

 '82年4月29日、大谷・知久・石川・永尾による『とりあえず出逢おうよ』ライブが、北千住のライブハウス「甚六屋」で行われていた頃、僕は連休を利用して東京から実家のある新潟は柏崎まで歩こうと、目白にあるアパートを出て池袋の東口へ歩いて向かっていた。

 一週間。一週間で300キロを歩くのだ。何のため? それは2年前の冬、新潟から東京へ歩こうとしたとき、途中の雪山が越えられず戻ってしまったからだ。

 今度こそと思っていた僕はひと月もふた月も前からいろいろと準備を始めていた。

 道路地図に寝袋、雨具にスポーツシューズ、雨に濡れてもいいギター、健康保険証、今月分の家賃もあらかじめ払い、目覚まし時計はオフにしたのを確かめ、みんなに出すハガキも7枚もって、そして懐中電灯、ギターの替え弦、すべての準備は出来て、僕は自分の部屋の中から買ったばかりのスポーツシューズをはいて、アパートから、そのまま歩き出した。

 池袋の東口、西武デパートのシャッターの前にやってくると、みんなもう待っててくれていた。池袋で知り合った友達たち。そのみんなにも何ヶ月も前から「新潟まで歩くよ」って言ってあり、見送りに来てくれたのだ。

 ヒゲのカネマキさん、そして写真を撮ってくれている鈴木のおじさん、そしてクネシタ君に大島君、クサワケさん。。いつものようにウディの歌を歌い、お得意のナンバーを歌ったあと、みんなで西口の大通りのところまで一緒につきあってくれることになった。

 まず、詩集売りのおばちゃんのところに寄り、そのあと、もう9時を過ぎようかという夜道を、缶ジュースを飲みながらみんなで話しながら歩いてゆく。こんな時間も明日にはもう遠く感じてしまうことだろう。

 大通りまでもうすぐという所の、工事現場の下かどこかで僕は最後に歌を一曲歌った。何の歌だったのだろう。「ウディに捧げる歌」か「ディポーティー」か・・。

 そして僕は大通りの信号機のところでみんなに手を振った。それは「青」になったからだ。

 「じゃあ、行くよ」

 みんなも通りの向こうで、いつまでも手を振っていた。(ありがとう、ありがとう・・)

 それは300キロの歩き旅の始まりだった。


 vol.12「新潟まで歩こうと思ったこと(3)」4/24

 池袋の夜の別れのあと、僕は川越の方へ向かって歩いていった。

 300キロの向こうで待っている新潟。一週間で歩こうというのだから、一日に約50キロをめどに行けばいい。とりあえずの一日目の夜、和光市のあたりのどこかの畑の近くの小屋の隙間を見つけ、今夜の宿とすることにした。

 寝袋はある。あとはどこでも寝る勇気だけだ。ひろびろとした夜。ひと眠りをすれば、きっともう朝になってしまうだろう。そうしたらまた歩き出せばいいのだ。

 初めて寝袋に入ってみた自分がいた。これが旅の気分ってやつだろうか。孤独な気持ちもあり、たぶんぐっすりとは眠れなかっただろう。春の朝は早い。寝袋をしまおうとすると、寝袋の下の方がびっしょりに濡れていた。

 ・・おかしいなぁ、なぜだろう・・

 一番安い寝袋を買ったのは失敗だったのか。綿入りの寝袋は、水分の吸引性能が強くないと知るのは、それからずっとあとのこと。

 夜が明けてまた歩き出した。川越街道を登っていった。いい天気だった。途中の畑道では、ツバメたちが低空飛行をしていた。1時間に5キロのペース。とても調子はいい。

 夜になり、東松山で三味線づくりの修行をしている高橋さんのところに、やっと着いた。近くのコンビニエンスの駐車場で待ち合わせた。手を振りやって来る高橋さん。予定どうりに今夜会えて嬉しい。

 旅の途中で会う人は、流れてゆく時間の中にやって来る。どの場面もとても軽い。そして、ちょっとしたことでも可笑しい。

 笑いあいながら、高橋さんは、僕の足をもんでくれるという。

 「これでも陸上部にいたんだぞい」

 ヤッケ姿のまま僕は駐車場にうつぶせになり、高橋さんは足をもんでくれた。

 「うわぁ、痛いよう」

 そんな楽しい二日目の夜だった。この先自分が、足の痛みにどれだけ苦しむかは、そのときの僕にはまったく予想もできなかった。


 vol.13「新潟まで歩こうと思ったこと(4)」4/27

 どこかに座り、僕はまた地図帳ばかり見ていた。

 意気揚々と目白のアパートを出て、歩き出した新潟までの歩き旅だったが、二日目あたりからだんだん予定どうりには歩けなくなっていった。

 新しいシューズを買ったというせいもあるけれど、すぐに足に豆が出来てしまったのだ。50キロ以上歩いた頃には、足の指はほとんど水ぶくれになり、それがつぶれたりして、ぴりぴりとしみていた。

 (痛いよー)

 国道17号線をずっと登ってゆき、熊谷を抜け本庄市へ。足の豆もつぶれて痛かったけれど、今度は足そのものが、痛くなってしてしまった。それは、足の豆をかばって無理な感じで歩いたからだろう。今度はひざが痛い。

 やっぱり歩き旅をするのなら、何ヶ月も前から歩くトレーニングをした方が良かった。さすがに気持ちだけでは、いろいろと無理が出てきた。

 ひざが痛くなって、痛い方のひざかばって歩いていたら、今度は逆の足の腰のあたりが痛くなってきた。次々と痛い場所が移動してきた。

 (まだ、二日・三日目だと言うのに・・)

 そのうち僕は足をひきずって歩くようになってしまった。時は四月の終わり、ゴールデンウイーク中なので、国道は車で渋滞していて、そんな僕の歩く姿を見て、運転手さんたちは何人も「乗ってけよー」と、声を掛けてくれた。

 「ありがとう!! でも今、新潟まで歩ってるんだよ」「そうか、じゃあがんばれよ!! 」

 そんな会話の中、僕はまた国道の路肩に座り、地図帳を見ていた。

 (3+2+2+3+2+3+2・・)

 予定では一時間に5キロは歩かないとだめなのに、ぜんぜん進まない。このままは、一週間で新潟に着くことも出来ない。そんな絶望的な気持ちの中、自分の体で不思議な変化が出てきた。

 痛い足の場所が一日たつと、その足の場所が、痛すぎるのか感覚が麻痺して、痛くなくなってくるのだ。なるほど体は不思議な作りになっているなと実感した。もうそれにかけるしかなかっった。

 しかしその箇所が痛くなくなると、また別の場所が・・。

 国道17号線は、まだまだ続いていた。天候は恵まれ暑いほどだ。僕は自販機で、ジュースを飲みながら、ただただ歩くことだけに集中していった。

 もう国道17号線しか、目に入って来なくなってしまっていた。


 vol.14「新潟まで歩こうと思ったこと(5)」4/30

 雨の中、国道17号線は山道になり、曲がりくねりながら三国峠に向かっていた。

 オレンジ色のポンチョ風ヤッケに雨ズボン、頭にはタオル、そして背中にはバック。そのスタイルで僕は、とうとう新潟まで半分歩いてきたのだ。

 それにしても、ゴールデンウィーク中というのは失敗した。次々とひっきりなしでやってくる自動車とは、10センチくらいですれちがってゆく。それも山道になると泥も多く、何度か転んでしまった。・・これは危ないな。

 そしてやってきた三国トンネル。だいたい国道のトンネルを歩いて行こうとする人はいないだろう。背中に懐中電灯をつけて僕はトンネルに入って行った。雨のせいもあり、足もとがすべる。すれちがう自動車の前ですべったらもういっかんの終わりだ。僕は仁王様のような表情で、やっとのことでトンネルを抜けた。

 トンネルを抜けると、そこは苗場スキー場だった。ずっと自動販売機も店もなかったので、とりあえず何か食べたかった。もう夜。スキーの時期ではないのでほとんどの店はしめられていて、何でも屋さんみたいな店が一軒やっていた。

 「やっと何か食べられそうだ」

 今日は何度も転んだので、ヤッケも雨ズボンも泥がついていた。僕は雨の中ヤッケを脱ぎ、雨ズボンを脱ぎ、頭の汚れたタオルをナイロン袋に詰めて、そしてお店の中に入っていった。すると、おじさんとおばさんがレジのところで新聞を読んでいた。

 「何かパンはありますか?」「もう終わったねー」「では何かインスタントで食べられるものは?」「別にないねー」「そうですか、どうもすいませんでした」

 外に出たら、なぜか泣けてしまった。今夜は何も食べられない。そう思いながら、全部しまっている、店のある通りを歩いてゆくと、一軒「びっくりラーメン」という店が開いていて、僕はナイロン袋を手にもったまま入った。超大盛りのラーメンを食べるとただになるらしくて、壁には写真が多く貼ってあった。

 僕は味噌ラーメンを注文した。隣では大学生らしきグループが、わいわい騒ぎながら、スープを残したまま出て行ってしまった。外はまだ雨が降っている。今日はなんとかなったけれど、明日は大きな「二居トンネル」を抜けなければならない。きっと道は泥でいっぱいですべってしまうだろう。

 なんだかこれが「最期の味噌ラーメン」のような気がしたら、なんだか泣けてきてしまった。ぼろぼろと涙がスープに落ちていった。この気持ちはこのときだけのものだったろう。

 その夜は、幼稚園のガスボンベのある物置で横になった。雨はどんどん強く降り続けている。僕は明日が晴れるように、空の神にお願いした。僕は雨の音を聞きながら、小さい頃からのいろんな事を想い出した。いろんなことがあった。明日で僕も終わりかもしれない。

 次の雨、目が覚めると外はまだどしゃぶりのままだった。 


 vol.15「新潟まで歩こうと思ったこと(6)」5/3

  どしゃぶりの朝、僕は覚悟を決めて、また新潟への道を歩き出した。三国峠の国道17号線。滑りやすい泥を踏みながら、やって来る車と勝負するかのような昨日だった。

 (ああ、今日はどうなってしまうんだろう・・)

 せめて雨が上がってくれればと思いながら、朝5時の国道を歩き出した。しかし歩き出してすぐに僕は思いがけないことを発見した。それは、昨夜から今朝の大雨のおかげで、道路の泥が流されていたのだった。それに、道路が濡れているおかげで、靴の裏もすべらない。大丈夫、昨日のようにすべらずに歩いてゆくことが出来る。

 (こんなこともあるんだな・・)そう思いながら、とうとう大きな「二居トンネル」の前までやって来た。昨日はトンネルの中、何度も泥ですべりそうになり、車の多さも重なり、危ない場面の連続だった。そしてこの「二居トンネル」はとても抜けられないと思えたのだ。もしもすべって、その時に車が来たのなら・・。 

 僕は20分もトンネルの前で悩んだあげく、覚悟を決めて入っていった。すると昨日のときとは違い、やっぱり大雨のせいで泥が流されていた、靴はすべらない。それに、朝一番で、それもどしゃぶりのせいもあるのだろう。車はまだときどきしか通らない。

 なにもかもラッキーだった。昨夜あけだけ恨んだ大雨も、こうしてみると、すべてラッキーだったのだ。なんとかなりそうだ。僕は早足ながらも、しっかりと靴で踏みながらどんどんと進んでいった。

 2キロほど、まるで奇跡のような時間を感じながらどんどんとトンネルの中を歩き進み、とうとう光がカスカに見えはじめた。とうとう出口にやって来たのだ。僕は出口の100メートル前から走りはじめた。自分の名前を呼びながらトンネルを通り抜けた。

 誰も知らないこんな朝。国道17号線の三国峠で、もうずっと前の五月に。

 トンネルを抜けてもまだ雨。僕の中では大きなトンネルをやっぱり抜けたのだろうか。それからは足も進み、30キロも進めなくなった一日の歩き距離も、50キロにまだ伸びた。足も痛いはずだったけれど、もう何もかも麻痺していて歩き続けられた。

 そして、ゴールデンウィークの終わり、5月5日の日の午後、僕はとうとう故郷の柏崎に入った。どんどんと近づいて来る自分の家。僕は家のある場所を一度通りすぎ、200メートルほど行った場所にある海へと向かった。日本海が見えてくる。いよいよもって、今回の歩き旅の最後だ。

 見えて来たなじみの海と海岸。一週間の歩き旅の間にはいろんな事があった。レストランの物置で寝ている僕を発見して、椅子でベットを作ってくれ、ラーメンまで作って泊めてくれた夜勤警備のおじさん、ありがとう。おかげで歩き切ることが出来たよ。

 泥のついた姿のままで、僕は実家のドアを開けた。東京から歩いて来たことは黙っていた。いつもどうりの夕御飯。そのあったかくて白い色。家があるってなんていいんだろう。

 ちょっとして僕は畳の上に横になった。とてもとても疲れていた。自分の体の重さを感じることが出来た。体にある疲れが畳にしみてゆくのがよくわかった。そして深く深く眠った。(新潟まで歩こうと思ったこと・おわり)


 vol.16「歌う楽しみ」5/7

 「どうして、街で歌っているの?」と、そうきかれることが多い。その問いに対しては「街で歌いたいから」と答えるしかない。

 池袋の街のそこにやって来て、ギターケースからギターを出して歌う始める。舗道をどこかへ歩いてゆく人がいるように、僕も歩いてゆくように歌い始める。

 (この人は何なのだろう)と、思って、立ち止まる人もいる。歌を聞こうと思って、立ち止まる人もいる。その立ち止まるということもまた、歌うということと同じことだ。

 お金ももらっているわけでもなく、ボランティアという気持ちでもない。自分表現という気持ちよりは、歌おうとしている、その歌の方に寄せる気持ちの方が大きい。

 「誰も立ち止まる人もいないのに歌うなんて、自己満足だよ」と言う人もいるだろう。

 基本的に、どんな歌を歌ってもいいのだ。どんな風に歌ってもいい。それについて何か、評価されるためではない。もちろん自作の歌以外の曲も歌う。その歌を街で歌いたいのだ。

 その歌を今、全国で歌っているのは自分だけかもしれない。訳してきた歌、見つけてきた歌、今歌いたい歌、街で歌うということは、ひとつの開かれた場所であり、出会いは無限大にあるのだ。

 '80年9月に池袋に歌いにやって来たときは、それなりに思い詰めていたが、二年ほどたつと、気持ちは軽くなった。

 外で歌う理由はいくらでもある。歌の数だけ、その理由はあるだろう。そう思えるようになった。


 vol.17「それからの池袋」5/11

 '82年5月、新潟まで歩いてきたあとの日曜日、みんな池袋にやって来てくれた。

 僕は即興で、25分くらいのストーリーソングを作って歌った。そのあと、大谷君もまた即興で歌を作って「青木さんは足で日本海で握手をしてきた」と歌ってくれた。

 知ってる人もみんな会いに来てくれ、歩き旅をがんばったかいがあった。写真の鈴木さんも本当に嬉しそうだった。

 それからの池袋。。

 四月の中旬に、ここで偶然に大谷君と知久君に会ってから、ふたりは毎週、池袋に会いに来てくれて、歌も唄ってくれた。僕がしばらく歌い、ギターを渡して三曲くらいずつ歌ってくれるという感じだ。だいたい夕方すぎに二人はやって来てくれた。そしてフォークロアセンターで知り合ったみんなも集まってくれるようになった。

 日曜日、どこかに出かけた後、池袋に寄ってくれるというパターン。

 「今日はどこに行ってきたの?」「いやぁ、映画観てきたよー」

 そして夜8時頃まで遅くまで、いろいろ話したり歌ったり、踊ったり。

 フォークロアセンターで知り合ったみんなのライブが平日にあるときには、僕はかならず出かけるようにもなった。大谷君、知久君、石川浩司君と、順繰りにライブがあり、週に一度くらいは必ず出かけた。両国フォークロアセンター、北千住「甚六屋」がメインだった。

 ライブハウス通い、そして池袋。週に二度は必ず会ってる仲間たち。歌とバカ笑いの日々。僕の生活は一変した。



 vol.18
「甚六屋」
5/14

 気が付けば、一週間の予定は、友達のライブのある日が中心になっていた。

 仕事が終わるのが5時半、それからライブハウスへと向かう。お決まりの場所は「両国フォークロアセンター」と北千住「甚六屋」。スタートは7時か7時半。直接向かうにしても、夕飯が食べられるか微妙な時間だ。

 北千住の「甚六屋」は、けっこう遠かった。まず目白から西日暮里へ。乗り換えてそして北千住へ。電車の本数も少なくいつも満員だった。

 北千住といえば、飲み屋さん街が印象的だ。駅前を出て左へ曲がるとそこは細い路地になっていて、これからお店を開こうとしている飲み屋さんのおばさんとかに声を掛けられながら、その路地を抜けてゆくのだ。なんともいえない雰囲気のある通りだった。

 路地を抜けるとそこは大通りになっていて、大きな歩道橋を渡り、また少し歩いてビルの三階へと階段で登ってゆく。

 そこが「甚六屋」。

 ドアを開けると、今日の出演者のみんなと、先に来ている友達が集まって話している。笑っている横顔が見える。やって来た僕に気付いた大谷君が、嬉しそう手を振る。なんだかはるばると来て会えたみたい。

 甚六屋は壁に沿って小さな座布団が並べられてあり、その真ん中も椅子が並べられていた。約40人ほど座れたかな。マスターはチリチリになってる長い髪と、小さなメガネが印象的な・・・さん。(すいません、ド忘れしました)。黒いパンクなTシャツがよく似合っていた。

 基本的にはみんな、弾き語りのライブで、とても聞きやすい雰囲気があった。「甚六屋」という名前だからだろうか。北千住という場所のせいもあったのだろうか。歌に集中して聞くことが出来た。それは、いくつかの偶然だけが起こす、ひとつの奇跡だったのかもしれない。

 よかったなぁ、甚六屋・・。そんなことを今言ってもしかたのないことだけれど。。

 なんだか、甚六屋で歌ったり聞いたことのあるみんなの体のどこかに、「甚六屋」の小さな文字が刻まれているようだ。

 '80年代、ライブハウス「甚六屋」の話が出ると、みんなあの西日暮里での乗り換えや、いろんなことを途中で思ったことが思い出深く残っている様子だった。

 「甚六屋かぁー」

 その響きの中に、すべてがある。


 vol.19「第二部のみんな」5/18

 '82年に入ってからは、なんだか池袋も盛り上がって、僕の他にも、いろいろな人が歌ってくれた。

 朝の10時に僕が来て歌っているうちに、夕方にかけて友達がひとりひとり来てくれた。大谷君、知久君、そして知り合いの歌うたいのみんな。ギターを持ってて、たまたま通りかかり歌ってくれる人もいた。

 人が集まっている中、ギター渡して、二曲三曲と歌ってもらう。そんなふうに過ぎてゆく池袋の一日。

 そんなオリジナルな歌を歌ってくれる友達もいて、かたわらで普通に聞いていてくれていた友達もいた。夜8時頃になって、僕も含めて、そろそろ終わろうと、東口のロータリーを後にすると、いつのまにかそこに残り歌い始めるみんなもいた。

 ここからが第二部の始まりだ。

 彼らはギターを持ち寄り、そして好きな歌を歌っていた。長渕剛の歌、アリスの歌、佐野元春の歌、吉田拓郎の歌。女のコたちはタンバリンとか叩いていた。まるでこの時をずっと待っていたかのように。みんなで歌に燃えていた。

 僕は友達と喫茶店に行き、もう夜も遅くなった頃、また駅へと向かった。するとまだロータリーでは、盛り上がっていて、その声は西武デパートに響いていた。

 「おお、第二部のみんなは、まだがんばっているね!!」

 遠目に眺めてみると、ふだんまったくギターなんて弾きそうもなかった彼が、一生懸命ギターをかき鳴らして歌っているのが見えた。

 (あれ、アイツ、いつのまに・・)

 もうひとつのドラマがそこでも始まっていたのだった。


 vol.20「とっちゃんの誕生」5/18

 友達は友達を呼んできてくれる。

 '82年の春、僕がいつもどうり池袋で歌っていると、よく寄ってくれていた山村さんと岩屋さんがやって来た。保母さんをめざしていた二人とは、ひと冬を越してとても仲良くなっていた。そして春、僕の他に、大谷君や知久君がブクロで待っていた。

 池袋東口の横断歩道の真ん中のロータリー。そこには地下のデパートにつながる階段の入口があり、僕らはその壁にもたれるようにして座り、歌っていた。そして聞いてくれてるみんなは、目の前で膝を抱えて座ってくれていたり、また壁にもたれながら聞いてくれていたり・・。

 新しい仲間の歌を、膝を抱えて聞いていた、山村さんと岩屋さん。大谷君の歌、知久君の歌も気に入ってくれたようだった。そして次のライブに誘われ、出かけた二人。たぶん両国フォークロアセンターだっただろう。

 そこで待っていたのは、石川浩司君、健さん、橘高さん、あかねちゃん、永尾君、山下君、他のみんなたち。そしてまた次の池袋で誰かしらと、会えたりしたのだ。

 僕は今でもよく憶えている。ブクロでの演奏が終わり、横断歩道を駅方向に渡ろうとしていたとき、石川浩司くんが、山村さんに声をかけたのだ。出会ってすぐの頃だ。

 「山村さん、名前は?」と、石川浩司君。

 「えっ、としえ・・」と、照れながら山村さん。

 「じゃあ、とっちゃんだ!!」と、発見したように石川浩司君。

 「えーっ、そんなぁ」と、とっちゃん。

 その会話のすぐ後に、ギターケースを背中にした僕がいたのです。

 それはまぎれもなく「とっちやん」の誕生の瞬間だった。

 それからしばらくして、とっちゃんの友人でもあり、池袋の東口ロータリーが帰り道でもあった、クニちゃんとも知り合った。最初は、とっちゃんに会いにロータリーに寄ってくれたのだ。

 とっちゃんも、クニちゃんもほぼ毎週、ロータリーで会えるようになった。そしてとっちゃんは、ほとんどのみんなのライブに来るようになった。

 「やぁ、とっちゃん!!」

 いろんな磁石がきっとある。真ん中には歌があり、僕がいた、みんなもいた、大谷君もいた。


 vol.21「その頃の感じ」5/26

 '80年頃から、東京のロックのライブハウスでは、ちょっとしたムーブメントが起きていた。

 今でいうところのインディーズの走りというか、自分たちでレコードを自主で作り、新宿ロフトを中心にしてロックの新しい波がやって来ていた。それは、情報誌のライブハウス欄を見ているだけでも、伝わってきた。

 同じページに載っている弾き語り中心のライブハウス欄を僕は眺めていたわけだけれど、時代的には、もう生ギターというのは、古いというイメージになりつつあった。

 お茶の水の楽器屋さん街に行っても、生ギターよりもエレキギターの方どちからというと中心になりつつあった。

 ・・6・7年前ならば、生ギターでいっぱいだったろう。

 僕が中学・高校ととても好きだったフォークの人のライブに、東京に来てからよく出かけた。あの頃は、僕の憧れだった人のライブ。しかし、どうしたことだろうと思えるほど、お客さんがまばらだった。弾き語りのみんなには、厳しい時代に入っていたようだ。

 そんな中、僕らはとても元気だった。みんな18才から20才くらいで、やっとこれからが活動の本番というときだったのだ。やって来た東京の状況がどうであれ、ブームが去ったあとがどうであれ、何もかもこれからだったからだ。

 ライブハウスで歌う僕ら。石川君、大谷君、知久君・・。みんな一風変わった感じだ。共演の弾き語りの人は、たいがいは流行り風。ニューミュージック世代のなごりというか。。

 (この人たち何?・・)。そんな共演者のお客さんたちの声がいつも聞こえてくるようだった。

 でも、僕らはとても元気だった。ライブがあるたびに、同じ歌い手のメンバーだったとはいえ仲間もいつもいた。いろんな馬鹿さあふれるチラシを作ったり、変なダンスで踊ってみたり、僕らなりの一生懸命さでがんばっていたと思う。

 がんばっていたけれど、どうも孤立している感じもあった。

 (こんなものなのかなぁ・・)

 僕らの活動は、ひとりずつ、友だちを見つけてゆくという地味なものだった。


 vol.22「地下のはじまり」5/29

 '82年の夏、友部正人と豊田勇造のライブが新宿ロフトであった。ロフトへ向かう途中の道すがら、友達の山下由と会った。

 「アレ? 山下くん!!」

 大谷君とは、待ち合わせをしてあったのだけれど、山下君も来るとは意外だった。一番前から、3列目くらいの席に僕と大谷君ととっちゃんで座ってライブを観た。山下君はちょっと離れていた。

 そして、ライブ終了時に、山下君は回りの人に、チラシを渡していった。その渡し方はまるで踊るようだった。全員に渡しているようではなく、てあたりしだい近くの人に配っていたという感じだった。

 僕らは渡されたそのチラシを見た。それは一種類ではなく、三種類ほど作られていた。貝のイラストが描かれているもの。線画の人が真ん中に描かれているもの、、。

 それは、オールナイトでライブをやるというものだった。もちろん僕も大谷君も出演することになっていた。企画は山下由と石川浩司くんが中心。場所は、新大久保のオフオフ新宿スタジオ・ジャム2。出演者をみると、約20名ほどになっている。知り合った友達全員という感じだ。

 チラシでは山下君が出演者全員に、キャラクターニックネームをかってに付けて紹介していた。大谷君は「日本海の海坊主」とか書かれていた。

 とにもかくにも、こうやって友達が集まって自主企画でライブをすることになったのだった。おもに両国フォークロアセンターと北千住の甚六屋で歌い集まった気の合うマイナーシンガーたちだ。

 '82年7月10日、土曜日の夜、僕もまた新大久保のスタジオ・ジャム2に向かった。そこは通り沿いにあり、地下に降りてゆくスペースだ。ふだんはダンススタジオを使用していて、正面の壁はすべてカガミ張りになっていた。音響と言うほどのものはなく、菱沼の健さんさんが、音響機材を持ち込んでのライブだった。

 大きな扉の入口で靴を脱いで中に入ってゆく、板敷きに座り、適当に食べたり飲んだり。。そうやって オールナイトライブは始まった。ひとり三・四曲だったかな。

 出演は、僕の他に、石川浩司くん、大谷くん、岡部知子さん、尾上文さん、橘高さん、とっちゃん、中村さん(今の十兵衛さん)、永尾くん、中山悦郎くん、菱沼の健さん、広瀬麻里子さん、山下由、山下純一、サザンカンフォートというメンバーだった。

 中村さんと尾上文さんは友達で、友人たちと連れだってやって来た。一行様と言う感じだった。尾上文さんの歌を初めて僕は聞いた。

 「♪ワイワイおじさーん、空の上♪」。なんだか僕らよりもアカぬけていたように見えた。そしてカッコよかった。

 僕がよく憶えているのは、中村さんが「ミスターボージャングルス」を歌っているとき、山下君が出て来て、変な踊りをしたことだ。そうやって、オールナイトライブは、たっぷりとした時間とともに朝まで続いた。

 まだこのときは「地下生活者の夜」の名前はなかった。ただ山下君が「Subterraneans」(地下生活者)というコピーの冊子を作った。そしてのちに「地下生活者の夜、第0話」と呼ばれるようになるのだった。


 vol.23「地下生活者の夜」6/1

 「地下生活者の夜」シリーズのライブが始まったのは、'82年の11月からだった。

 場所は、みんなでのオールナイトライブが7月にあった、同じ新宿オフオフスタジオジャム2。企画は山下由と石川浩司が中心。「第1話」の出演は橘高さん、知久君、そして笹山くん率いるアフタースクールバンドだった。(スタジオジャム2というのは、ライブハウスの「JAM」とは別)

 '82年11月7日の日曜日。夜6時30から。日曜日は僕は池袋で歌っているので、終わりかけになってからかけつけた。

 スタジオジャム2は、新大久保にあり、ダンススタジオとして普段は使われていた。地下に降りてゆくと、大きな引き戸の扉があり、そこで靴を脱ぐ。中は板敷きで、80人くらいは座れた。壁はカガミ張り。大きな白い布があったので、それを床に敷いた。左奥には事務室があり、そこが控え室になった。

 事務室に大きなライトがあったので、勝手に取り付けてスポットライトにした。音響は、菱沼の健さん。そして信じられないことだが、ダンス練習用にビデオカメラがもともと置いてあり、僕らは贅沢にも使わせてもらった。

 そして歌う、橘高さん、そして知久君・・。自主企画なので、ライブハウスとは違い、マイナー魂があふれていた。ここから何かが始まったという感じだ。

 「地下生活者の夜」という名前は、いかにもマイナーでアンダーグランドのイメージだが、もともとはビート作家のジヤック・ケルワックの「Subterraneans」という小説のタイトルが、もとにあるのだろう。

 ・・(興味のあるひとは文庫本「地下街の人々/J.ケロアック」が出ているので、その冒頭をぜひ読んでみてほしい。地下に暮らしているという意味ではないので、みんなあっと驚くと思う。)

 そのへんの意味合いが隠れて見えないところが「地下生活者の夜」のネーミングの良さのようだ。

 とにかく、この地下生活者というマイナーの象徴のような名前と共に、自主企画のライブが始まったのだった。月一回、最初の日曜日の夜、ちょうど地下のスタジオで。

 ライブの日に合わせて、みんなでコピーで綴じた冊子を作ることにもなった。「官報・地下生活者会議」だ。編集長は石川浩司。みんなで原稿というものを書いたのだ。前日にまとめられ、当日にコピーされた。ホチキス止めの冊子だ。

 第二話はひと月後の12月5日、日曜日。出演は、大谷君、山下由、POX BOX 、佐藤弦の自主映画「教室」だった。その様子がビデオカメラで撮られているのは奇跡に近いと思う。

 それからはるばると、まだ地下生活者の夜ライブは続いている。この2003年の5月で第151話になった。もちろん「会議」も151号出ている。


 vol.24「やって来た古賀ちん」6/4

 '82年の暮れ。その日は、高田の馬場のライブハウス「いとでんわ」での、大谷君のライブだった。

 そこには、黄土色のジャケットを着て、長崎から僕を訪ねて来た青年がいた。

 「青木さんですか? あのう、朝日君の紹介で来た古賀です!!」

 朝日君とは、昨年の夏、池袋で知り合った、あのヒッチハイクの男だ。ちょっと前に僕のところに電話があり、古賀君という男が訪ねて行くのでよろしくと言われていた。

 「ああ、青木です。まあまあ、座って、、」

 「あのう、朝日君が青木さんを訪ねてゆけば、大丈夫だって言われて来ました」

  そして始まった、大谷君のライブ。古賀君は一番後の席に座っていた。そして大谷君のトークに大笑いしていた。

 「アッハッハー、いいぞうー!!」

 なかなか、東京では、こんな風に声を掛ける人も身近にいなかった。

 「もっと、やれー!!」

 (古賀君かあ・・、ダイナミックな人だなあ。それとも、これが長崎の人なのか?)

 その夜から、古賀君は僕の部屋に泊まることになった。

 しかし、古賀君が僕らと接点を持ったのは、実はこれが初めてではないのだった。その前の年か、その年の春か、古賀君は東京にヒッチハイクで、一度来ているのだった。

 江古田の「マーキー」というライブハウスで、友部正人のライブがあり、そのオープニングアクトで歌った男性に「あのー、今夜泊めてもらえますか?」と、頼んだそうだ。

 そして、こころよく、アパートに泊めてあげた、たまたまの人が、友人の石川浩司くんだったのだ。

 「まさか、あの時の人がねぇ。また、こうして、友達になるなんて不思議だよ」と石川浩司くん。

 ・・これが縁というものだろうか? そして古賀君は、僕らの中で、だんだんと古賀パワーを徐々に見せてゆくことになるのだった。

 次の週の池袋で、古賀君は東京に来る前に作ったという新曲を、歌ってくれた。

  ♪♪♪♪♪♪♪

 旅に出たいと思う
 住みなれた町を、出たいと思う
 出たら、あいつの町に行って、
 あいつの歌、聞いてみたいな

 すわりこんで、目をつぶって
 耳をかたむけ、聞いてごらん
 あの声が、あの歌が、聞こえてくるだろう
 俺の町へ

 もうすぐ行けると思う
 夜汽車にゆられ、トラックにゆられ
 その日が来るまで待ってておくれ
 池袋の町で待ってておくれ

 すわりこんで、目をつぶって
 耳をかたむけ、聞いてごらん
 あの声が、あの歌が、聞こえてくるだろう
 俺の町へ

 ・・・・・

 しばらくは古賀君はとても大人しかった。あの最初の日の元気さはどこに行ったのだろうと思えるほどだ。

 やがて、古賀君は、高円寺にアパートを借りることになった。それは伝説の「河内荘」時代の始まりだ。

 '82年、古賀ちんと呼ばれた男が、こうして東京にやって来た。


 vol.25「雨の街なら」6/8

 日曜日の池袋、もちろん雨の日もあった。

 雨の日は、ロータリーで歌うわけにもゆかず、歌い始めた西武デパートの入口のすみで、歌っていた。

 さすがに雨の日ともなると、友達もほとんど来ない。週によっては、僕一人のときになるときもあった。夜7時も近くなると、もうそろそろ終わりにしようと、最後の歌に向かって、頭の中で曲を並べはじめる。

 雨に日に歌うのは、淋しい気持ちもあったけれど、ひとりぼっちのぶんだけ、自分の好きな歌を歌うことも出来た。雨の出て来る歌を集めて歌ったりした。

 ひとりで終わりにする池袋の夜。これからただアパートに帰るだけなのだ。それはそれで日曜の一日ではあるし、いつもは歌わない歌を最後に歌うことも多かった。

 (もう、一曲歌っていこうかな・・)

 もしかしたら、友達が来るかなって思ってしまうのだった。

♪♪♪♪♪♪

 「雨の街なら」

雨の街なら 人気もなくて
ひとり歌いは、とってもさみしかったよ
暗い歩道に 声だけのびてって
車のあたりで、消えていった

 止まってくれた 足があった
 見上げてアイツが傘の中
 濡れたズボンをまくり上げてた
 アイツの姿が、嬉しかった・・



「新曲できたかい?」「もちろんあるよ」
「今日作ったんだよ、聞いてくれるかい?」
アイツはタバコを、むりやり消すと
濡れた地べたに、座りこんだ

 しゃがんでアイツは、やっぱり友達だった
 オイラの方まで傘を、さしてくれた
 のぞきこむよな、その目のうしろで
 アイツの背中が、濡れていった・・



「お腹がすいたね、なんか食べにいかないかい?
 もう7時半だし、終わりしてさ」
僕がギターをしまうと、アイツは傘をひらいた
入れてもらって二人、道に出たよ

 ひとつ傘の中、男がふたりで肩寄せあって
 水たまりを飛びこえて、かけていった
 僕に会いに、雨の街まで来てくれた、アイツに
 歌を書こうと、ずっと思いながら

 僕に会いに、雨の街まで来てくれた、アイツに
 歌を書こうと、ずっと思いながら・・


 vol.26「官報・地下生活者会議」6/11

 「モシモシ!!」

 土曜の夜。電話が鳴り、とってみると、低音の聞き慣れた男の声がする。

 「あのう・・、会議の原稿を・・」。声の主は、ミニコミ「地下生活者会議」の編集長、石川浩司君だ。

 「えっ、もうそんな日? そっか、いつまで?」「まあ、今夜中なら・・」

 『地下生活者の夜』のライブは、'82年からしばらくは、毎月第一日曜日に、新大久保のスタジオジャム2で行われていた。そして、ライブ当日に、コピーでミニコミを同時発行していたのだ。もちろん手書きの原稿。

 名前は『官報・地下生活者会議』。ライブ当日の日曜日にコピー。そして発行。ライブを見て、おみやげのように持って帰って読む、会議はこの上なく楽しい。

 さて、まだ今日は土曜日。石川浩司君のアパートが、原稿の届け所だ。編集長の石川君も今頃は、原稿を書き続けているだろう。

 僕はレポート用紙を、広げて何か原稿を書こうとする。それが、いざ書こうとすると、なかなかにアイデアが出て来ない。横になってみたり、散歩に出かけてみたり、アイスを食べてみたり。。しかし、タイトルさえ出てこない。そのうち、夜の11時頃になってしまう。

 「しょうがないなぁ、、行くか!!」

 そして僕は、原稿セットを持って中央線の高円寺へと向かう。そして石川浩司君のアパート「三岳荘」へ。

 階段を登ってゆくと、もうみんなの声が聞こえてくる。誰かが、大笑いしてる様子だ。

 ガラガラガラッと、横に扉を開けると、もうおなじみのメンバーたちがそろっている。大谷君、山下君、とっちゃん、そして・・。みんな、原稿を持ってきたり、これから書こうとしているところなのだ。勉強机に座っている、石川浩司君が、僕に声を掛ける。

 「おっ、青木さん、原稿は?」「いや、まだこれから・・」

 石川浩司君のアパートは四畳半で、壁じゅうに、漫画のコミックが並んでいた。そして「魔法の部屋」と、すでに呼ばれていた。

 その狭い部屋の中で、何人もの男たちが、ごろごろっとしているのだ。まずだいたい、居場所がない。

 「じゃあ、ちょっと、原稿書きに出かけてくるわ」

 僕は、レポート用紙にペンという、原稿セットを持って、夜の高円寺の駅前へと出かけて行く。朝までやってる喫茶店が、何軒かあったのだ。喫茶「ローズ」だったけな、、、。忘れてしまった。

 薄暗い喫茶店。フクロウが何かの黄色いランプ。その明かりを眺めながら、僕はレポート用紙に向かう。実はまだタイトルも書いてないのだ。しかし、タイトルのアイデアが出れば、あとはスラスラと書き上げてしまう。まあ、一枚二枚だけれど。最後にイラストを描いて終わり。

 石川浩司君のアパートに戻る。まださっきのみんなはそのままだ。何かしら原稿を書いている。ひとコマずつ、描き渡す「リレーマンガ」とか、作っていた。

 「おっ、青木さん、お帰り!!」「ねえ、修正液とかある?」

 そして、チョコチョコっと手直しして、原稿は完成だ。「ありがとー、じゃあ、表紙も書いてよ」「ムリムリ」

 まだ始発には、時間がある。僕はなんとか、台所の方に足を伸ばして、横になって仮眠をする。

 石川浩司君は、寝ないで原稿を作っていた。

 「いやぁ、大変だよ。だいたい今夜、俺、出演だしな!!」。いつもそんなことを言っていたような。

 今日は日曜日。会議をコピーセンターでコピーして、ギターを抱え、他、いろいろ抱えた、石川浩司君が会場に到着する。ドサッと置かれる、いろいろな荷物と、大量のコピー用紙。

 「ひぇー、疲れたー」

 「おつかれさん、ダンナ!!」そう声をかけるのは、先に来ている音響の健さんだ。

 そして、コピー用紙にみんなでむらがるようにして、会議折りをする。それからホチキス止め。薄かったり、厚かったり。。

 やっと、ここで「官報・地下生活者会議」は出来がるのだった。


 vol.27「大戸屋通い」6/14

 今は2003年。今は'82年。

 池袋東口、国鉄出口のロータリーの先、路地をちょっと入ったところに、駅前大衆食堂の「大戸屋」がある。'82年のときも、今も、いつもにぎわっている。

 日曜日、池袋に歌いに来て、夕方ちかくになりお腹がすいてくると、歌える友達にギターを預けて、よく大戸屋に食べに行った。ロータリーからすぐそばにあったからだ。量がありどの定食も安い。特に「大戸屋定食」といわれるメニューは圧倒的にお得だった。

 階段で二階に上がり、レジのところで注文。小さな食券のレシートをくれて、それを座ったテーブルの上に並べておく、店は広いので、どこにでも座れた。

 「何、注文したの?」

 そう言って、友達のレシートを眺める。それは、お決まりのシーンだ。

 店内には「大戸屋」の由来が書かれている。『昭和33年に、50円大衆食堂として、池袋に・・』とか書かれていた。そのころは今のように、店舗数も多くなく、たしか池袋、高田馬場、吉祥寺・他くらいだったように記憶している。

 厨房は一階にあり、出来た定食は、二階へ、音を立てて昇降式の謎のスペースから登ってきていた。

 「はーい、カレーライスー、焼き魚定食!!」そんな声が響く。

 友達に「おい、来たよ」とか言って待ってると、違うテープルに運ばれていってしまう。

 そんなふうに待つ、時間の楽しさ、、。

 今でこそ大戸屋は、オシャレな店というふうだけれど、そのころは和風の大衆的な定食屋という感じだった。

 「メシでも食べに行きましょうよ」と言って、さっき知り合った人に声をかけて、入るにはもってこいの場所だ。そこで僕は多くの人と一緒に食事をした。外には、メニューのサンプルがあり、選びやすかったせいもあった。

 「アオキさん、いっつも大戸屋定食だね」

 気軽さで言ったら「大戸屋」は、どんな喫茶店よりも入りやすく、なじめる店だった。'82年ごろから、ほぼ毎週のように、友達と入っては定食を食べていた。

 ・・「おっ、いらっしゃい!!」

 池袋店には、背が高く、丸顔で、鼻ひげがトレードマークのおじさんがいた。店長さんだったかもしれない。とにかく印象的で、いかにも定食屋のオヤジという感じ。大戸屋、池袋店といえば、すぐにあのオヤジさんの顔が浮かんでくるほどだ。

 すぐそこのロータリーで唄っている僕のことは、なんとなく知っていただろう。

 何年くらいたったころかな、あるときいつもように、ギターを抱え、友達と大戸屋の二階へとのぼってゆくと、店が一変していた。店員さんたちは、エプロンに白シャツ、そして蝶ネクタイをしているではないか? よく見れば、店もオシャレになっているようだ。

 「あれえ? どうしちゃったの?」

 丸顔のオヤジさんは、「見てのとうりだよ」と、言うふうな表情をした。だって、ちょっと前までは、居酒屋ふうな服装だったのに、これじゃレストランのようだ。

 そのうち、レディース、アイスクリームサービスの時間もいつのまにか出来ていた。まあ、それはそれでいい感じだった。相変わらず、店をしきり、忙しくしている丸顔のおじさん。しばらくしたら、その蝶ネクタイ姿も、慣れてきてしまった。

 数年後、その丸顔のおじさんは、池袋店からいなくなってしまった。店を変わったのかな。とても淋しかった。大戸屋の象徴のようだった人。

 さびしかったけれど、やっぱり大戸屋は、いつも人でにぎわっていた。

 僕の大戸屋通い。

 居酒屋ふうの服装で、いつも迎えてくれた、あの丸顔のおじさんのことを憶えている人は、かなりいるはずだ。かなりいるはずだけれど、それはもう語られるだけになった。

 もし願いが叶うのならば、あの日の大戸屋の二階に昇ってゆき、あの丸顔のおじさんから、友達と食券を買ってみたい。

 「大戸屋定食、一枚!!」

 ・・実は、今もどこかの大戸屋にいたりしてね。


 vol.28「唄・歌・うた」6/14

 こんな気持ち、どう言ったらいいのだろう。

 '81年にフォークロアのみんなと出会って、それから、ライブに行くようになり、僕の生活は一変した。それは、生活という面ではそんなに変わらないのかもしれない。違うのは、そこに流れている歌が出来たのだ。

 口ずさむヒット曲。それは、今、テレビで流行っている歌ではなくて、友達の歌ばかりだ。でも、僕にとっては、かなりヒットしている。大谷君の歌、知久君の歌、山下君の歌、石川浩司くんの歌、中村さんの歌・・、数えればきりがない。。

 それは、坂道の途中だったかもしれない。それは、夕暮れの街だったかもしれない。それは、ファーストフードを横に見ているときだったかもしれない。海が隣にあったかもしれない。。僕は友達の歌を口ずさみながら、こんなに幸せでいいのかと思った。

 次々と生まれてくる、みんなの新曲。まるでそれは、ヒットチャートをのぼってゆくようだった。

 ・・僕らのトップテン。僕らのベストテン。僕らのヒットスタジオ・・。

 (こんなに名曲なのに、なぜ、僕らだけなんだろう?)

 その日、道を歩きながら、空じゅうにみんなの唄が流れ続けているのを見た。

 僕は、宝石のように幸せな気持ちだった。でも、それと同じくらいさみしさも一緒にあった。


 vol.29「美術学校のみんな」6/20

 「絵の学校に行ってます」と、自己紹介されると僕は、今でも胸がじーんと来てしまう。

 小さい頃は音楽が一番苦手だった。しかし、同じ芸術のジャンルなのに、絵はとても得意だったし成績も良かった。

 そんな僕は東京に出て来て、好きな展覧会によく出かけていた。

 池袋で歌っていると、絵や写真をやってる人とも、多く知り合いになった。新潟にいた頃は、友達も含めて、絵をやろうと決めている人とも会えなくて淋しかった。東京はさすがにちがう。絵の専門学校もあるし、展覧会やギャラリーも多い。

 僕の小さい頃の夢は、絵を描くことだった。将来は絵を描きたいなとずっと思っていた。しかし途中から歌作りに夢中になった。でも画家と呼ばれる人たちに、憧れがあり、がんばって欲しい気持ちでいっぱいだった。そこには絵の道があるのだ。

 絵が描ける人っていうのは、落ち着いた空気があり、独特なものがあった。僕はすっかり絵を描くことにはあきらめがついていたけれど、小さい頃、絵描きになろうと思っていた気持ちには変わりがなく、なんだかとても身近に感じてしまうのだった。

 '82年の夏を過ぎたくらいの日曜日、西武の前で歌っていると、黒いシャツに黒いスリムのジーンズをはいた青年が、目の前に座り、タバコを吸いながらじっと聞いていた。そして話しかけてきてくれた。

 彼はとても落ち着いていて、絵の専門学校に行っているという。名前は板波君。自分でも歌えると言って、ギターで歌ってくれた。たしか泉谷しげるの「春夏秋冬」だったと思う。そして友達になった。

 僕が豊田勇造のことが好きだとわかると、「今度、豊田勇造と友部正人のライブがあるから一緒にゆきせんか?」と誘ってくれた。

 彼の通っている絵の専門学校に、島田篤志さんと言う先輩がいて、友部さんと友達らしくそのライブに一緒に行く約束をしているのだと言う。

 その日、明大前のギッドアイラックホールに僕は出かけた。板波君がいて、そして少し遅れて先輩の島田さんがやって来た。大きな布の袋を肩から下げていた。紹介され少し話すと、島田さんは池袋に住んでいて、僕のことは良く知っているという。

 「池袋に住んでるせいもあるけれど、よく、聞きにいってました」

 へえー、それは知らなかった。ボブ・ディランが好きなのだとも言った。なんだか気が合いそうだった。

 ライブか終わって、板波君とも別れ、僕と島田さんだけになった。帰り、島田さんは池袋、僕の家は目白で隣駅だった。

 「別に、今夜用事もないから、少し青木君のところに寄ってもいい? 」「うん!!」

 そして僕のアパートでその夜、遅くまでいろんな話を島田さんと話をした。友部さんの話、ボブ・ディランの話、絵の話・・。

 絵の話が出来たので、とても嬉しかった。そして話していると、同い年であることもわかった。島田さんじゃなくて、島田君だ。

 かなり遅かったけれど、島田君は、歩いて家に帰っていった。ちょっと歩くけれど、まあ、ひと駅なのだ。

 「じゃあ、青木君、また!!」「うん、また来てよ」

 そして島田君は、それから毎週のように、池袋の僕のところに寄ってくれた。そこで、みんなもまた待っていた。 

 そこから、また始まる物語・・。

 島田君は、家も近かったせいもあり、そこから僕の一番近い友達になった。

 ◇

 今も、美術書のある専門店に行くと、いつも、美術学校のみんなの事を思い出してしまう。

 そこに通っている人たちは、ずっと変わらないものを持っているような気がする。それは僕の思い込みかもしれない。

 そのどの人も、応援したい気持ちでいっぱいになる。そしてアパートで夜遅くまで、話をしてみたい。


vol.30「高円寺へ」6/23

 長崎からやってきた古賀君は、'83年のはじめには、杉並区高円寺にアパートを借りた。

 高円寺北三丁目、河内荘1号室。四畳半。床屋さんが大家さんの通り沿いのアパートだ。

 高円寺北にはもうすでに、一丁目には、石川浩司君が三岳荘に住んでいた。四畳半。

 古賀君が高円寺に引越して、僕らもとても遊びに行きやすくなった。順路としては、まず三岳荘。そしてからっぽだと、そのまま北三丁目の河内荘へと、足は向かったのだ。

 河内荘のそばまでくると、ギターを弾く音が聞こえてくる。古賀君が弾いているのだ。

 ・・コンコン!!

 「はい、古賀です」「青木です」「ア、アオキさん、どうぞ」

 古賀君の部屋は、来るたびに、何かしら本やレコードが増えていた。ライブが近いという古賀君は、さっと立ち上がり、歌い始める。

 「アオキさん、聞いてくださいよ。♪もーう、あるくー、ことなんかやめーて、道ばたに座り込み、誰かがとおーるまでー・・」

 「おいおい、古賀ちん、そんなにでっかい声出して大丈夫かよー」「だいじょうぶっすよ」

 古賀君は、特別にうまいインスタントコーヒーというのを僕に出してくれた。

 そして、伝説にもなっている甘い古賀カレーを作ってくれた。

 その道沿いの古賀くんのアパートの窓には次のライブのチラシ貼ってあった。いい宣伝だなと感心した。

 それから高円寺には、とっちゃん、大谷君、知久君、杉本伸二君、あかねちゃん・・、他、どんどんアパートを借りていった。僕は目白駅から歩いて15分のアパートに住んでいて、夜、高円寺に出かけるということは、街に出かけるような気持ちになった。

 いつも、楽しかった。みんなで集まっては、南口の居酒屋「鬼無里」で飲んだ。みんなは高円寺に住んでいるので、終電を気にすることもないけれど、僕はぎりぎりで目白に帰らなければならない。

 高円寺駅、12時28分だったかな。

 そして新宿で、乗り換えて山手線で目白へ。そこからまた15分歩くのだ。目白通りの15分

 その15分の間、僕は今日のいろいろなことを思い出していた。高円寺でのみんなの会話を日記を書くように、ひとつひとつ記憶にとどめていった。


 vol.31「つついギター工房」6/26

 目白の僕のアパートのほんとすぐそばに、ギター修理工房があった。

 名前は「つついギター工房」(現在は香川県にあり)。ギター修理も受付ているので、僕は訪ねて行った。

 筒井さんは、専門はクラシック・フラメンコギター制作だが、フォークギターや、他、弦楽器一般も扱っていた。東京に来てからもう数本ギターも買い、また拾ってしまったギターも数本あったが、そのうちの何本かは修理をしたいと思っていたのだ。

 拾ってしまったギターは、もう古いものばかりで、実際に弾くには無理があった。しかし、鳴る音は、大変に魅力的だった。

 「あのう、このギターなんですけど・・」

 1960年代、それもまだ日本にフォークギターが生まれる前くらいの時代のギターだ。修理するにはちょっと程度がひどい。。

 ギターをポロンと鳴らしてみる筒井さん。「なるほど・・」そう言ってうなずく。

 「ギターっていうのは、いろんな状況があって、こわれる前というのが、よく鳴るというのは、ありえる話ですよね」

 「直りますかね・・」「まあ、なんとかなると思いますよ」

 ギターのネックの削り、指板の交換、ブリッジの修正、糸巻の修正、ボデイの直し、骨棒の制作、エンドピンの付け、音調整、他。修理というには、あまりに直しすぎだ。料金だってかかる。

 筒井さんは実に丁寧に、僕のわがままな願いをきいてくれた。しかし、その基準は音がもとになっていて、音が変わってしまう場合は、僕の方が折れた。修理期間は約二ヶ月ほどかかるという。

 そして待つこと二ヶ月。一本の電話がかかってくる。

 「お世話になってますー。つついですーお預かりしていたギターの方、修理完了いたしましたので、いつでも取りにいらしてくださいー」

 ・・出来た・・。僕はすぐさま、靴をはいて、すぐ近くの筒井さんのところに出かけ、インタホンを押す。

 「はいはい、出来てますよー。いやぁ、けっこう大変でした」

 弾いてみると、音程もバッチリだ。それもきれいに仕上げられてあった。無理難題をやってくれたのだ。

 「こんなものだと、思いますよ」

 筒井さんは、あまり眠っていないようだった。いろいろと忙しいのだという。

 「清算お願いします」。僕は覚悟を決めて、けっこうなお金を持ってきてあった。

 「では、これで」「あれ、これでいいんですか?」

 そこに書かれてある金額は僕の予想よりも、かなり安かった。それは筒井さんの気持ちも入っていたのだろう。

 僕は目白に住んでいたとき、次々と5本以上のギターを修理をお願いした。僕の無理なお願いをそのたびに聞いてくれた筒井さん。

 筒井さん自身のオリジナルフラメンコギターがあり、筒井さんは僕にも弾かせてくれた。

 「どうですか? とっても明るい音がするでしょう。もうちょっとで、もうちょっとで、世界で一番、二番の明るい音なんですけどね」

 「へえー、そうですか」。僕はギターを傷つけないように、弾いてみる。しかし、フラメンコギターは専門ではないので、その良さがもうひとつ実感できない、実感出来なくて残念だった。

 「いつか、オリジナルギター造ってもらっていいですか?」

 「いいですねー。楽しみにしてますよ」 

 僕は本気でお金がたまったら、自分のオリジナルギターを造ろうときめていた。夢は広がっていた。僕にとって筒井さんは日本一、いや世界一の修理屋さんだった。

 そんな贅沢な時間が、僕のアパートからすぐ近くで待っていた。


 vol.32「七分後に会えるでしょう」6/26

 そろそろかなと思っていると、電話が鳴る。

 「もしもし、青木さん? 目白駅に着いたよー」

 「うん、わかった。そのまま、目白通りを歩いて来てー、7分後に会うから」

 僕のアパートは西武線の駅からは近かったけれど、目白駅からは歩いて15分の場所にあった。訪ねて来る友達は、たいがいは、目白駅から電話をしてくるのだった。

 目白通りを僕もまた、駅に向かって歩いてゆく。15分の道だけれど、真ん中で会うのならば、7分で会うことができる。ちょうどスーパーマーケットのピーコックのあたりだ。

 「おーい」

 目白通りの向こうから、もう見えてくる友達の姿。

 「ほら、あっという間でしょ」

 予想通りピーコックの前で会えたあと、一緒にまた7分歩いてゆく。目白通りの僕のアパートの近所へようこそ。いつも通っている、コンビニエンスストアーに寄って、飲み物とお菓子を買う。信号を渡り、そこにある古物屋さんに寄り、ジーンズショップの店頭の安売りをのぞいて、そして角を曲がってすぐのアパートへ。

 一階は中華屋さん。それは、僕のアパートの自慢だ。

 サクッサクッサクッサクッ・・、中華屋さんの横、アパートのドアまで草の道を踏んで、そして二階への階段を登ってゆく、、。

 早川荘二階7号室。鍵をあけ、茶色いドアを開く。ここです。

 そしてまずコーヒーを一杯。

 ・・コーヒーを二杯。

 この部屋にしかないレコードをかけよう。ご自慢のアンプ、テープデッキを回そう。ギターだって弾いて欲しい。。ここから始まった僕の部屋にようこそ。僕の部屋を案内しよう。僕の近所を案内しよう。

 駅から遠いなんて、言わないでまた来て欲しい。7分後に会えるでしょう。


 vol.33「もうひとつの旅」7/4

 しばらくしたら、僕にも歌の創作スランプがやって来た。

 フォークロアセンターでみんなと知り合い、歌の影響も受け、生活も変わり友達も多くなった。新曲の方もどんどん生まれていたけれど、だんだん創作に壁を感じるようになった。

 こんなことは初めてだった。

 初めてだったけれど、どうにもならないので、僕はちょっと充電期間に入ろうと決めた。そんなとき、一人の古い詩人と出会い、僕の目が覚めた。

 会社での仕事中に、その人の詩の一編を読み、夜には詩集を買いに出かけた。その人は生活や散歩道のすべてを詩にしていた。とてもわかりやすく、僕の心にも届く言葉だった。

 いろんな人の影響を受けて来たけれど、無理せずに、もう一度、僕自身を見つけようと思えたのだ。

 僕は朝一番から、僕を始めることにした。そこにあるもの全部は「うた」なんだと信じることにした。小さなカードを持ち歩き、目にとまったことを書きためていった。夕方には散歩に出かけ、世界を歌うように歩いた。

 ・・ほんとだよ。

 今まであまり読んでこなかった詩の本を、文庫本で集め、できるかぎり読み続けた。明治・大正・昭和・外国の詩・日本の俳句。その時期、あまり歌は出来なかったけれど、僕は詩の本を毎日読み、散歩を続けた。そのうち必ずまた歌が作れるようになると、信じていたからだ。

 もしその時期がなかったら、今の僕もいないだろうと思う。そのうちこんな歌も出来た。

「もしも君が僕の部屋に訪ねて来たとき、明かりがついてて僕が居なかったなら!!」

 もしも君が僕の部屋に訪ねて来たとき、
          明かりがついていて、僕が居なかったなら
 部屋の外で待ってるのもなんだから、
          外をうろついている僕を探しに来なよ
   君ならいったいどこを探してみるだろう
   夜遅くまでやってるストアーで、
   立ち読みをしている人たちを探していそうだけど

 きっと僕は公園か、そこいらの道で
          ブツブツ何か言いながら、歩いているよ

 もしも君が来た日が、うんと晴れた夜なら
          近くの駐車場で、僕はあおむけに寝てるかも
 もしも風が、ビュービュー吹いてる夜なら
          歩道橋の上で何かわめいているかも
    でも、だいたいそこいらに僕は必ずいるから
    君の一番大好きな、缶ジュースでも一つ買い
    散歩がてらに探しに来なよ

 もしも君が僕の部屋に訪ねて来たとき、
          明かりがついていて、僕が居なかったなら

    一番最初はいつも落合公園、
    もしもそこで君に会えたなら、案内してあげるよ
    僕の散歩コースを

 そこら中で見かける友達を紹介したいし、
           その道のどこかに僕がいるって知ってて

 もしも君が僕の部屋に訪ねて来たとき、
           明かりがついてて、僕が居なかったなら。。


 vol.34「池袋テープ」7/7

 '82年から僕は池袋で録音したテープをまとめて、自主テープとして出し始めた。

 今、聴いてみると、なんとも恥ずかしい。でも、その頃の雰囲気が一番伝わっているのかもしれない。曲を残しておきたいと気持ちよりは、出来た唄をとりあえず、まとめて次に進みたかったのだ。

 録音は簡単だ。目の前に小さなテープレコーダーを置いてスイッチを入れるだけだ。それをただ編集して出来上がりだ。そして'85年くらいまでに僕は五本テープを作った。

 「無断欠勤のバラッド」「作業服がやって来た」「あの兄さん大好きだ」「三人帰り」「午後4時から」

 2003年、この中で今でも唄っている歌は、一曲もない。一曲もないけれど、さびしい気持ちにはならない。どの歌も全部好きだ。好きだけれども、歌えないというだけなのだ

 あの頃は、しゃべるように歌が出来た。だからおしゃべりに近いのかもしれない。

 テープを作るには、ダビングをしなくてはならなくて、僕はそのたびに自分のテープを聴いた。だから、とっても思い出多い。テープを出すたびに買ってくれたみんな、ありがとう。

 この一年の間に、これらのテープを聴いた人はたぶん、世界で一人もいないだろう。

 カセットテープの窓の右から左へと、テープが回ってゆく。A面からB面、B面からA面。何度行ったり来たりしても、やっぱり同じ、カセットテープ。カセットテープは暇になると、自分のテープを回して、自分の歌を聴く。

 池袋でテープを回して録音したように、テープを再生すると、池袋の夜がよみがえる。そこにいた僕。そこにいたみんな。そこにいたカセットテープ。


 vol.35「ブクロの頃」7/10ラスト

 そして日曜日がまたやって来て、僕は池袋に出かける準備をする。

 準備と言っても、池袋用のバックをひとつ肩に乗せるだけだ。

 '80年の秋から始めた池袋での歌うたいは、'84頃からは、午後4時をめどに唄いに出かけた。そして夜遅くまで、歌っていることが多かった。以前は、朝10時にやって来て、声を枯らして唄い続けていた。

 僕自身、路上で唄うということには、あまり抵抗がなくなり、無理せず気楽に歌えるようになっていた。友達だって、たまたま日曜に池袋に寄ってくれたら歌を聴いてくれればいい。

 路上で唄う楽しさは、何と言っても曲順が自由だということだ。一曲唄い、そのときの気持ちで次の歌を選んでゆく。自分の歌、友達の歌、外国の歌も含めて。

 池袋の東口ロータリーの前は広場になっていて、回りを囲むように、座れるベンチになっている。僕はよく、時間が出来るとそこを一回りした。そうすると、そのときの自分が何を悩んでいることがよくわかった。考えごとをするには、そこは最適だった。

 そしてまたギターを持ち、歌い出す。願いはいつでも歌になった。

 ・・それは誰に向かって歌っていたのか。

 ブクロの頃。それはいつも悩み、歌っていた時期の頃だ。そして歌の旅も続けていた。東京に来て生活を始めて、いろんな影響を受けながら自分を見つけていった。

 その頃から日記を書いていたけれど、いつも一週間先の自分が想像つかなかった。毎日あれやこれやと自分にとっての大ニュースがあり、自分なりに進化していたのだ。映画を観ては、影響を受け、ライブを見ては影響されていた。

 よく考えるとそれは今も変わっていない。そして今もブクロで唄い始めた頃の生活が続いているように思う。ときどきはぼんやりとして繰り返しの生活になってしまうけれど、そんなときは、僕の中のブクロの頃が呼ぶ。  (「ブクロの頃」終了)


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