青木タカオの「ちょっくら・おん・まい・でいず」  今月に戻る
過去ログ「ネパール編」日記付き'01.6月

「カトマンドゥ一泊目」6/1

 服はもう全部、汗がしみていた。

 山越えの後、ネパール・カトマンドウに着いた僕らは、一番有名なホテル「カトマンドゥ・ゲスト・ハウス」に向かった。ずいぶんと疲れたので、一泊くらいはのんびりする事にしたのだ。そしてここから僕らは、別々になる約束をしていた。

 友達の方は、まだ体調が戻らなくて、歩くことも大変そうだった。何か美味しいものを食べようと、日本食レストランまで、リクシャーに乗ってでかけた。僕は「カツ丼」友達は「おかゆと梅干し」を注文した。久しぶりに食べる日本食は、ハートにしみる。友達はまだ、ご飯の方はのどには通らないが、梅干しを すっぱいすっぱいと言って食べていた。早く元気になって欲しいなぁ。

 また宿まで、リクシャーで戻り、友だちはすぐにベットに横になった。何か欲しいものはないかってきくと、ビタミンBとCが欲しいって言う。あと果汁入りのジュースもあったらって言う。僕はカウンターの人に薬局をたずねて、カトマンドゥの街へと出かけた。

 ネパール語と英語の看板が混ざっている道。これからは英語が大事になるんだなぁと実感する。「ハロー」と声をかければ、どの店の人もちゃんと答えてくれる。何軒かまわって、ビタミンBとCを手に入れる。カトマンドゥの人はみんなツーリストに親切なようだ。さぁ、次は果汁入りジュース。

 宿の友達は、ほんと美味しそうに、オレンジジュースを飲んだ。一緒に神戸から船に乗って、ひと月。旅慣れた彼がいて、ここまで来られたのだ。明日からは、それぞれの旅になるだろう。ベットで休みながら、彼は旅の情報をいろいろと教えてくれた。飛行機の値段とか、世界の首都くらいはおぼえておくとよいとか。役立つ言葉とか・・。

 夕方になって僕はひとり、明日の宿を決めに出かけた。さあ、これからは一人でなにもかもやらなくてはいけない。一泊、15ルピー(約100円)のドミトリーを決める。チベットで会った、バンちゃんのおすすめの宿だ。バンちゃんの事は、もちろんよく知っていると言う。それにしても安い。

 何日か振りでぐっすりと眠れた、次の日の朝。カウンターに降りれば、花を生けている。「グット・モーニン!!」やっぱりいいホテルなんだなぁ。少しは元気になった友達と、一緒にブレックファーストを食べに出かけた。25ルピーの朝食を食べるって言う。

 「えーっ、高いよー」と僕が答えると、友達は「貧乏旅行することが、最高ってわけじゃないんだよ。贅沢できるときは、贅沢した方がいいよ」って、彼なりにきつく言う。そう言われてみれば、そうなのだ。ネパールはインドの物価の半分。ここで体に 栄養を付けないといけない。

 宿に戻って、僕らはチェック・アウトした。交差点までリクシャーに揺られていったあと「じゃあ、また」軽く手を振った僕ら。その軽さが、カトマンドゥの街に、とても似合っていた。5/31 今日は地下のライブ。たっぷりと唄を聞く。どの唄も、豊かだ。ゥウクレレの響きは、やさしくて奥が深いって実感する。練習しないとだめなんだろうなぁ。

「タメルの道で」6/2

 「カトマンドゥは天国だね」チベットで、ツーリスト達に言われていた、そのカトマンドゥの街。きっとそれは、このタメルの道のことだろう。

 ダルバール広場からタメル地区につながるこの一本の道。レストランあり、みやげ物屋さんありで、とても賑わっている。出かけると言ったら、どうしてもやっぱり、このタメルの道に来てしまう。

 そしてここを歩くと、たいがいのツーリストに会えることを知った。ひとり旅になって一日目、このタメルの道を歩いていると、まず、ばったり薬屋の前で、ジャーマンのベンと出会った。「ヤーッ!!」

 大きく手を振ってくれるベン。僕に会うなり、貸していた500円くらいのお金をすぐに返してくれた。カトマンドゥまでのバスは大変だったという。ベンは他のツーリストと一緒で、僕のことを「とってもいい奴なんだ」と紹介してくれた。またベンとは、いくらでも会えそうな予感がした。

 この一本の道には、なんでもあった。なんだか全部が、みやげ物屋さんのような雰囲気がある。そしてレストランも多く、何不自由のない道だ。路地に面して、ドリンクがオープンで買えるカウンターがあり、そこでいつも僕は、ペプシコーラを飲む。ネパールに入ってから、このキーンと冷えたコーラを何本飲んだだろう。それも300mlの大きいタイプの瓶ってところが嬉しい。

 フラフラと漂うように、タメルの道を歩いてゆくと、あの中国の成都の空港で一緒だった、香港のカップルに会った。彼らは一足早く、チベットからカトマンドゥに来ていて、ここで会えたらってお互い言っていたのだ。ふたりはとても仲がよく、今もやっぱり腕を組んでいた。

 なんだかすごく嬉しい。彼らは僕にとって、初めての友達になれた他の国のツーリストなのだ。聞けば、あと2時間くらいで、ここカトマンドゥを出て、香港行きの飛行機に乗るらしい。彼らは、住所を教えてくれて、ぜひ香港に来て下さいって言う。偶然に会える不思議が、ここカトマンドゥにはあるようだ。

 宿に帰ろうとすると、急に雨が降り出して、まったく身動きがとれなくなってしまった。それも大雨。しかたなく雨やどりをする。ネパールの青年と一緒に40分くらい待ってみた。タメルの道はすぐに大きな水たまりが出来てしまう。いつまでたっても雨はやまない。

 結局、ちょっと小降りになった所で、僕は宿まで走った。着いた時には、もう全身ずぶ濡れ。部屋で着替えをしているとき、一緒に雨やどりした、あのネパールの青年に話しかければ良かったと後悔した。6/1 バイト先の墨田区でお世話になっている安いステーキ屋さんのペッパーランチが、住んでる高円寺にオープンした。この店は、たぶん1号店から、僕は通っていた。本社が墨田区なのだ。チェーン店になるのは知っていたけれど、高円寺にできるとはなぁ・・。いろんなサービスの進化を知っているだけに、なんだか嬉しくなった。

「ダルバール広場」6/3

 誰もが、すぐにその場所を見つけるだろう。

 その昔、日本のゴダイゴが、ここでコンサートをしたと言う。お店の人は「ゴダイゴ、ゴダイゴ」って言う。友達もカセットテープで、ゴダイゴを持って来ていて、この旅の間、何度もその「カトマンドゥ」を聞いた。

 友達は「カトマンドウにゆくと、ホントこの感じなんだよ」って言う。僕は「ヘェー」ってきいていたけれど、実際、ここに来てみると、歌を口ずさんでいる自分がいた。

 ダルバール広場は、旧王宮のあった所で、とても大きい。今も寺院に囲まれていて、エキゾチックと言う言葉がぴったりだ。子供たちが遊びめぐり、布を敷いた露店が出ている。ここを中心に、カトマンドゥの街が広がっていた。一日に一回は、ここにみんな来るのではないだろうか。

 寺院の階段の所は、腰をかけるには、最高の場所だ。一日そこにいてもいいくらい、あきないで座っていられる。いろんな物売り商売の人もやってくる。観光案内しますって言う人、トレッキングしませんかって言う人。日本語で、「みみかきします。とてもすばらしいです。250Rs」と書かれている手帖を見せるおじさん。なんだかガイドブックどうりで笑ってしまう。

 「コンニチワ・・」ひとりのネパーリの彼が、日本語で話しかけてきた。「ワタシ、ニホンゴナラッテイマス、ハナシテモイイデスカ?」トピーではない普通のつば付き帽子をかぶっている彼は、僕のと隣りに座って、やさしい口調で日本語で話す。彼は、とっても日本に行きたいらしい。日本の女性はきれいだと言う。

 僕は日本語を教えるかたわら、ネパールの事についてもいろいろと教えてもらった。言葉が通じるってなんていいんだろうって思う。ネパールではホント、お金がたまらなくて、とても日本には行けないってって言う。そして日本に行ったら、いっぱいお金をためるのだと言う。彼の給料がいくらかを知って、僕はびっくりしてしまった。(なるほどなぁ・・)

 もちろん日本のツーリストとも知り合える。ネパールの子供たちとも会える。ここダルバール広場は、いい意味で、出逢いの場所だった。今では、もうちょっとしつこい人もいるかもしれないけれど・・。

 僕の泊まっている宿は、タメル地区とは反対の場所にあり、かならずこのダルバール広場を通って行く。ひと休みしては、また出かける。そして帰ってきては、またここに座る。テーマソングは、コダイゴの「カトマンドゥ」だ。その歌は、今も聞こえているだろうか? 6/2 今日は、やっと土曜日。一日、ぼんやりと横になってしまう。今週は、イベントがあったりして疲れてしまった。土曜日があるのは嬉しい。明日から始めよう。

「ユー・アー・ラッキー」6/4

 そんな物語もある。

 またいつものように、僕はダルバール広場の寺院のところに座って、英語の勉強をしていた。と言っても、のんびりと単語本を見ているだけ。

 「ハロー」昨日も来た、ネパールの青年たちが、僕に話しかける。彼らとは、いつのまにか仲良くなってしまった。簡単な英語だけれど、充分に伝わりあう。どこにいても話題は、そんなには変わらない。ワッハッハと笑いあえているって事は、冗談も言えてるって事なんだろう。

 「アイ・ウイッシュ・イート・モモ!! グット・テイスト。ユー・ノウ?」「イエース!!」そんなわけで、ネパール料理の「モモ」(羊の肉の蒸し餃子) の美味しい店に、行きたいって頼んだのだ。すると、ひとりの青年が「カモーン」と言って、僕を案内してくれた。

 ダルバール広場の奥の細い路地の、また細い路地を曲がって、また細い路地を曲がって、ある一軒の店の前に行った。「ヒアー」まるで、日本で言うところの、小さな居酒屋さんのよう。もうここまで来ると、陽も届いてこない。中をのぞくと、低い木のテーブルがいくつか並んでいた。

 なんだか、彼におごってあげなくてはいけない雰囲気になってしまっているので、一緒に「モモ」の食べられる店に入った。意外と混んでいて、狭い店はほぼ満席だった。湯気が上がっている厨房。カウンターには、ネパール語で書かれている、黒板の文字。僕は彼に任せて、一皿、注文してもらう。

 「モモ」はゆでた餃子というところ。ステンレスのお皿に一口サイズで20ヶ。7Rsだった。7Rsは約50円。ステンレスのスプーンで、すくって食べる。彼は、あっという間にひと皿食べてしまった。「ワン・モア?」そして僕も、もう一皿食べた。食べやすくて、どんどん食べられる。ホクホク・・。

 ここは彼の言うように、隠れた「モモ」の美味しい店だと、僕でもわかった。ここは観光客の人は、ぜったい来ないような路地なのだ。なんだか、とても良かった。また狭い路地を彼の後について、いくつも曲がりながら、普通の通りにやっと出た。「オーケー・サンキュー」それじゃあと言う感じで、僕は最後にちょっとした冗談を言った。

 「ユー・アー・ラッキー!!」すると、指をさしている僕に向かって、彼もすぐさま言った。「ユー・アー・ラッキー!!」「ユー・アー・ラッキー!!」何度か繰り返して言っているうちに、お互い可笑しくなってしまった。そんな友達のそんな物語。6/3 上野に、クラシックコンサートを見に行く。アンケート用紙にいろいろと書いてみたいんだけれど、気の利いたことが書けない。ひと言で終わってしまう。早く演奏の事とか書いてみたいなぁ

「寝袋を売りに行った」6/5

 タメルの道には、SELLアンドBUYの店が何軒もあり、今日はいろいろと、売ったり買ったりしようと計画を立てた。

 まずは寝袋を売りに行った。日本で買ったときは、軽くていいなぁとか思っていたのだけれど、なんだか軽すぎて、寝てる気がしないのだ。ふつうの綿の寝袋に替えて、その差額で防水の靴を買おう。寝袋のホントの値段が1500Rs 。ありったけのほめ言葉を用意して、交渉してみたけれど、どの店も一様に600〜700Rsだと言う。

 なんだかんだとやっていると、ひとりの男が「もっと高く買ってやるから来い」って言う。ついてゆくとそこは、旅行会社だった。「これは、新しくて、小さくて、いいものだからレンタルで使いたい。1000Rsでどうだろう?」「オーケー!!」そして今度は綿の寝袋を500Rsで買う。まあ、こんなものかなぁ・・。

 その差額で、僕は防水の靴を買いに行った。やっぱり欲しい靴は高い。「アリカテ・サスト・マ・ディノス!!」(安くしてください) と言ってみるものの、手を振られてしまう。「この靴は丈夫か? 一年はいても壊れないか?」ときくと、店の人は「ホワッツ?」と言って、靴の裏を見せてくれた。そこには「MADE IN JAPAN」と書かれていた。

 新しい靴をはいて、片手に古い靴を持っていたら、ダルバール広場で、ひとりの兄さんに声をかけられた。この持っている靴を売って欲しいと言う。すぐさま彼はお金を出して、古い靴を買っていった。200Rs。やったー。

 なんだか、僕も調子に乗ってきて、今度は、いらないガイドブックを、何冊か売りにいった。「この本は、みんな欲しがる」とか言ってみたけれど、ダメ。それでも何食かぶんくらいにはなった。でも、その後すぐ、トルコ語の辞書を買ってしまった。

 夕方になって、また僕は宿の近くのレストラン「KAY KAY'S」へ行った。「ハロー」そして昨日と同じ場所に座る。なんだか旅慣れたツーリストみたいだ。今日の事とか、いろいろ考える。トルコ語の辞書は、今買って失敗したかなぁ。重たくなるだけだけだった。トルコに入るのは、まだヶ月も先だったのだ。6/4 なんだか暑い。いつものように、梅雨前の暑さだ。毎年そうだなぁ。心から喜べない。まっ、いっか。みぞれでも食べようかな。

「ストウンハウスロッジ」6/6

 街で知り合った長期旅行の彼は、ストウンハウスロッジに泊まっていると言う。そこはカトマンドゥでは、日本のツーリストの溜まり場になっていた。

 ずっと中国で一緒だった友達も、ストウンに泊まっているときいていたので、僕もちょっと顔を出してみる事にした。その宿に泊まっているのは、ほとんど日本の長期旅行者で、大部屋のどこかに集まって、わいわいとやっていた。

 しばらくすると、友達が帰ってきた。あれだけカトマンドゥに着いたときは、グロッキーだった彼もすっかり元気になっていた。「ヨゥ。元気ですか?」それはこっちのセリフだった。僕の売ったり買ったりの話を聞いて、「やるじゃん」と言ってくれた。

  ドミーにいると、ホントみんな賑やかに話していた。僕が今、泊まっている所は、大部屋に僕ひとりで、いつも静かだ。このドミーは、チベットの時のような、ひっそりとした感じはなく、常に笑いに満ちていた。話を聞けば、みんなそれぞれにすごい旅をしてきている奴らばっかりだった。

 岐阜から来たと言う牧野さんは、アズキ色のダイナミックな線の入った、ネパールズボンをはいて、ガハハと笑っていた。街で今日買ってきたと言う、でんでん太鼓のオモチャを鳴らしながら、インドはいいよってすすめてくれる。

 それからみんなでトランプをした。好きなカセットテープをかけながら、集中しての、勝負。サザンがかかった。チューリップがかかった。コダイゴがかかった。知っている歌がかかると、みんなで合唱する。特にゴダイゴの「カトマンドゥ」の時は、一番盛り上がった。

 「♪カミン・トゥギェザァー・イン・カトマンドゥー。カミン・・」「あがりヤァー!!」牧野さんの大声が響く。そんなふうに熱中して、あっというまに5時間もたってしまった。もうすっかり夜だ。それからみんなで、タメルの道に出て食事に出た。

 みんなで食事をするってやっぱりいいものだ。僕は、ひとりの静かに喋る髭の大阪のツーリストと仲良くなった。僕の予定と彼の予定を合わせてみると、インドのバラナシで会えるはずだった。旅の予定は、いつも未定だけれど、楽しみがひとつ増えて嬉しい。

 食事の後、今度はデザートにアイスクリームを食べに行った。タメルの道をゆうゆうと歩いてゆく僕ら。9月の夜は、ちょうどよく暑い。こんな幸せもある。みんながストウンハウスロッジに戻るという時、僕も自分の宿に戻ろうとさよならを言った。

 「あれ? ストウンに泊まっているじゃないんだ・・」そうなんです。僕はたったひとりのドミトリーに、ひとり戻っていった。6/5 寝不足のまま、朝の電車に乗ったら、これまた信じられないくらいに眠い。ついウトウトとしていると、次々に、いろんな声が幻聴で聞こえてくる。それもひっきりなしに。恐怖に近かった。長い長い30分だった。

「象のディッペカリ」6/7

 カトマンドゥからバスで30分のところにパタンという町があり、そこに動物園があった。

 そこはネパールで唯一の動物園で、土日には賑わうと言う。僕は平日の午前中に出かけたので、のんびりとゆっくりと回れた。このひろびろとした感じは、たぶん世界中の動物園が一緒だろう。

 ハイエナ君が、あっちにいったりこっちに行ったりと、その場所で回っている。どきどきは目が合う。ハイエナはなんとも、せつない動物だった。その腰の曲がり具合は、どこからやって来たのだろう。

 草のある所で、一頭のカラフルな象が、傷の手当てを受けていた。そばには子供たちがいて、僕も一緒になって見ていた。硬い皮膚はところどころには、穴が開いていて、そこに大きな注射を打たれ、綿を詰め込まれていた。象はじっとしている。それが必要だと言うことを知っているようだ。

 ふと見る、その横の看板には、「象に乗れます」と書かれていた。20Rs。入園料が、50パイサだから、40倍だ。でも、100円なので、乗ってみようと決めた。声を掛けると、午後1時から乗れるのだという。あと3時間も待たなければならない。まあ、こんな機会は、もうないかもしれないので、待ってみることにした。

 池のところで、英語の勉強したりして、時間を過ごす。ネパールの子供たちがやって来たりして遊んだりもしたけれど、3時間はさすがに長かった。そして、午後一時。「OK!!」と言うので、心の準備をする。「おまえはここで待っていろ」と、そう言われて、待っていると、ゆっくりと向こうから、カラフルな色布を背中に乗せて、さっきの象がやって来た。

 今日が日曜日なら、次々と乗る人がいるのだろう。でも今日は僕だけのようだ。僕ひとりのために、象がやって来る。すべり台のような所にのぼり、そこから象の背中に乗った。象使いと一緒。ザブトンの上に座り、20分の象の旅に出発した。

 象の背中の上は、とても高い。そしてとても座り心地もいい。まるで動く座布団だ。僕は目をつぶり、昔の人の気持ちになってみる。だんたん心が大胆になってくる。悠々として、進んでゆく。ここは象の上。

 動物園を一周したいるとき、子供たちが僕を見つめる。なんだかうらやましいと言う感じだ。もうここは開き直って、楽しむしかない。「ハロー !!」僕はバカなツーリストを演じてみた。「ハロー!!」しかたがないんだよ。俺はお金のある日本人なんだ。嬉しそうに手を振ってみる。

 20分の象の旅の後、また前のすべり台のところに戻ってきた。ありがとう。象くん。貴重な体験が出来たよ。僕はすごく満足した。帰り、受付のおじさんに象のことをきいてみた。あの象はもう75才だと言う。そして名前は「ディッペカリ」と言った。その響きはいかにも象の名前の響きがあった。その名前を言ったときのおじさんの顔が忘れられない。

 「ディッペカリかぁ・・」僕はずっと、その象の事を考えた。昨日や今日の事を象は覚えているのだろうか? 象の日々は神秘に満ちているような気がした。(さよならディッペカリ・・) やさしい気持ちになって僕は、動物園を後にした。6/6 帰り道歩いていると、カラスが人の中、トコトコと歩いていた。そのカラスの視線の先を追うと、高いビルの上に二羽のカラスが並んで鳴いていた。やがて飛び立って、道のカラスの上の電灯の上に来て、鳴きづけている。 (ああ、わかった!!) まだ、うまく飛べないカラスが道路に落ちてしまったのだ。どうするんだろう? 頭のいいカラスだから、何か案でもあるのだろう。

「牧野さんの話」6/8

 宿では、いろんな旅行者からいろんな話を聞く。

 タメルの道にある、ストウンハウスロッジにて僕は、ダイナミックに笑う長期旅行の牧野さんの話を聞いた。それは僕の旅の中で一番おもしろかった話だ。彼は一年前に岐阜からロンドンに着き、ヨーロッパから中近東を抜けてインドへ、そしてここネパールに来ていた。

 国境を越えるときは、手前の駅で降りて、いつもバスか歩きで越えてきたという。その方が、列車代がかからないらしい。ある時は、25キロも歩き、またある時は、銃を持った男達に囲まれた。そしてこれはシリアでの話。

 今はどうなっているか、わからないが、その頃シリアでは、入国の際、ツーリストは強制的に100$のシリアマネーへの両替があったという。しかしホテルでは、シリアのお金が使えない。貧乏旅行の彼が普通に旅行してて、100$分のシリアマネーは、とても使いきれるわけがなかった。そして事件は起きた。

 牧野さんは、ホテルのチェックアウトの時に、20ドルの小切手を切り、宿代の5ドルを払うことになった。翌日の朝には、お釣15ドルをもらう約束をしたという。しかし翌日、ホテルの男は、全部シリアのお金で払ってきた。「話がちがう!!」と交渉すると、半分だけドルにするという。頭に来た牧野さんは、ホテルのマネージャーの所に行った。

 ちょうどそのとき、マネージャーは他のツーリストと英語で話していた。その話が終わるのを待って声をかけると、マネージャーは「私は英語を忘れた」と言ったという。もうドタマに来た彼は、部屋に戻り、木の机と毛布を抱きかかえ、「もう、金はいらん。そのかわりこれをもってゆく!!」と言い残し、ホテルを出てゆこうとした。さすがにそれは止められて、そのうち警察がやって来た。

 警察では、大口論が始まった。「おまえたちはシリアのルールばかり強調するが、世界のルールを知らんのか!!」さすがに警察の方も、牧野さんの言ってることは理解した。だが、お金の方は、シリアとドルの半分ずつでくれた。どうやらそれはそれで仕方のなかったことらしい。牧野さんも、やっと落ち着いてきて(俺もバカ騒ぎしたな・・) と思いながら、ホテルを後にしようとした。その時だ。ホテルのフロントが、ひとこと言ったという。

 「普通のツーリストは5分でわかるところの話を、おまえはなんだかんだと大騒ぎして、朝から晩までかかってやっと理解した」この捨てゼリフに、牧野さんはさすがにむかっ腹が立った。そしてひとつの言葉が浮かんで来た。

「シリアが俺を怒らせた!!」それから二週間、牧野さんはホテルに泊まらずに、空屋でこっそり寝袋で寝たという。時は2月。寝袋だけではまだ寒い。しかたなくまたトルコに戻った牧野さんは、体調を崩して、吐くは下痢をするはで大変だったという。これが牧野さんの話・・。

 僕を含めた何人かで、牧野さんの話を聞いていたが、ホントのめり込んでしまった。おもしろい話だった。「シリアが俺を怒らせた!!」それは彼らしい最高のフレーズだった。6/7 おばあさんが管理人を寮をたずねると、テレビがついているのに、不在だ。なんどもなんども大声で読んでみたけれど、返事がない。工場のおばさんに入っていってもらうと、やっぱり昼寝をしていた。おばあさんは出てきて、こう言った。「テレビを付けていたから、聞こえなかった・・ 」そういう問題か? と思ったが、そういう問題らしい。

「カトマンドゥのお祭り」6/9

 僕のいた9月。なにやらカトマンドゥの街が、にぎわい始めた。まったく情報のなかった僕は、それがお祭りだと、しばらくして気がついた。

 ♪チャンチャチャ〜ン、チャンチャチャンチヤ〜ン・・。路地に散歩に出かけると、開け放たれた家の中で、演奏が始まっていた。なんとも耳残りのいいメロディーだ。通り過ぎながら、チラッとのぞいてみると、町内会の人と思われるみんなが、楽器を弾いていた。

 (いいメロディだなぁ・・) 路地をどんどん進んでゆくと、また他の場所でも、演奏が聞こえてくる。僕も曲をすっかり覚えてしまった。なんとも印象的な、 味わいのある曲だ。歩いてゆくカトマンドゥの道が、ひとつの色で染められ、ここはネパールなんだと強く思えた。街全体が、メロディに包まれていた。

 ダルバール広場では、何百人という人が集まり「ダサイン」と言う、行事が行われていた。なんとなくそんな予感がしたのだのだけれど、それは、牛や山羊を捧げると言うものだった。あっけなくもそれは終わり、僕の目に残った。

 お祭りの路地をまた歩いてゆく。曲を演奏している部屋を通り過ぎるとき、ひとり子供が、大人たちに混じって、床置きアコーディオンを教えてもらいながら弾いている姿を見た。その表情は真剣だった。

 街に流れるそのメロディーは、心のどこかに懐かしく流れているメロデイのようだ。何か胸騒ぎがしてくる、独特の雰囲気がある。男の子が、どこかに急ぐように、路地を斜めに過ぎて行った。お祭りなのだ。1Rs、2Rs・・。そんな軽さがあった。まるで曲のまじった空気にように・・。6/8 昨日、急に湯沸かしが出なくなった。修理しようと、水道のねじをゆるめたら、水漏れになった。元栓をしめると、元栓から漏れだした。おまけに、完全に止まらない。パソコンでは、マウスが壊れてしまった。マウスがだめだとお手上げだ。こんな日がある。

「抜けていった子供と僕ら」6/10

 「オーイ!!」ダルバール広場に座っていると、同じ宿に泊まっている、日本のツーリストの彼女の姿が見えた。

 宿で初めて会った夜、彼女は僕の部屋のトラブルについて、フロントの人と言いあってくれた事があったのだ。「イン・ドミー。ワン・ジャパニーズボーイ・ホワイ・キャント・ムーブ・シングル!!」僕はその声を、ひとりドミーの部屋できいて、なんだか泣けてしまった。

 ダルバール広場に座って、初めていろんな事を彼女と話した。僕と同じように、神戸から上海に着いての旅なんだと言う。もう六ヶ月目。またこれからインドに戻り、トルコ・イラン・シリアと回り、北欧を巡った後、シベリア鉄道に乗って、中国に行く予定らしい。

 中国にちょっと行って来ると言って、家を出てきて、二ヶ月も手紙を書かなかったら、親から、激怒の手紙を受け取ったと言う。そしてこれが最後の海外旅行のつもりでいるらしい。それも僕と同じだった。いろんな街の印象を話したら、僕も彼女も、上海が良かったという。いろんな人と話したけれど、上海が良かったと言ってくれたのは、彼女が初めてだった。

 話を聞いてゆくと、やっぱりねと言う事が多かった。ダルバール広場でしばらく話したあと、僕らはマルトールの道に出かけた。そこは、地味だけれども人々の暮らしが見えてくる路地だった。「ほんといい道やわぁ・・」彼女は、ネパールの子供たちの写真をうまく撮っていた。やっぱり女の人は子供たちとコンタクトをとるのがうまいなぁ。

 マルトールの道を一緒に歩いていると、そこに猿の像が花で飾られてあった。近くのお店の人に名前をたずねると「ハヌマン」と教えてくれた。二人で見ていると、ひとりの男の子がやって来て、その像のひたいにさわり、自分のひたいにその水を付けた。僕らが「ハヌマン!!」って言うと、その男の子はニコッと笑い、そして裸足のまま僕らを抜けていった。6/9 今日は一日、水道の事で、いろいろとあたふたしてしまった。不動産屋の紹介してくれた水道屋が休みなのだ。結局、自分で直すことになってしまった。水道の仕事をしているのに、漏水がこんなに大変だとは知らなかった。

「バクタプルの少年」6/11

 バクタプルは古い町だった。バスに揺られて到着すると、そこは車の通りも少なく、子供らが道で遊び、煉瓦造りの家々が並んでいた。

 二人の男の子が声をかけてきて、町を案内してくれると言う。なんだか楽しそうなので、一緒についてゆく事にした。最初は、土壺づくりの家に行った。そこには、とても優しそうな、青年がひとりいて、足でろくろを回していた。T シャツに半ズボン。まだ少年という印象だ。

 彼にガイドブックの写真を見せると、とても嬉しそうにして、友達を呼んで一緒に見ていた。その姿は素直そのものと言う感じ。そのうち親父さんがやって来て、土壺のフタをろくろで作って見せてくれた。

 帰り際、僕が青年にポストカードをあげると、親父さんは、のどを押さえて「ペプシコーラ、ペプシコーラ!!」って言う。しょうがないので、2Rsあげてしまう。家を出るとき、あの青年は、いつまでも柔らかく手を振ってくれていた。

 それからまた、さっきの二人の子供と路地を歩いていった。紙に彼らの名前をカタカナで書いてあげると、とても喜んで、俺も俺もと次々と書いていった。目のクリッとした、ひとりはプロザパティだった。そして呼んできた友達の名前もまた、プロザパティだった。

 バス停まで帰る途中、野原で凧あげをやっていたので僕もやらせてもらった。日本の凧とは違い、なかなか難しかった。そんな楽しい帰り、バス停の所で、二人の少年は、僕に「マネー、マネー」って言う。なんだか淋しいな。コーラをおごってあげたのだけれど、嬉しそうではなかった。また「マネー、マネー」って言う。ゴメンナ・・。

 古いバクタプルの町は、とても肌にあったので、また何日かして僕は出かけた。今日はゆっくりと路地を歩いて行った。ひとりでチャーを飲んで、そこのおじさんと「ティー」の発音の事でお腹を抱えて笑った。おじさんは「チー」としか言えないのだった。

 道を歩いていると、この前の目のクリッとした少年のプロザパティーが僕を見つけた。「待ってて」と仕草をしたかと思うと、お堂のある広場の方へ、全速力で駆けていった。その速さが胸に痛かった。この前のもう一人の友達を呼びに行ったのだ。でも見つからなかったらしい。そしてプロザパティは一人で見送ってくれた。プロザパティーよさようなら。この前は、あんなふうに別れたけれど、今日はまた会えてよかった。

 もう夕暮れ。金色がまぶしいくらいに差している。バス停のところで、カトマンドゥ行きのバスを待っていると、ひとりの男の子が、てんびん棒を肩に乗せ、ワラをいっぱいに積んで、裸足でヨロヨロと歩いて行った。まだ8才くらいだろう。その姿は、金色の光の中、まぶしく輝いていた。僕は忘れるものかと目をこらして見た。6/10 洗濯。100円ショップで買った、洗剤の調子が悪いのか、なんだかすぐ雨の臭いになってしまう。それでまた洗濯。なんかバカみたい。洗い方が悪いのかなぁ。

「KAYKAY'S・レストラン」6/12

 カトマンドゥの町歩きの楽しみは、何といってもレストラン探しだ。

 まあ、レストランと言っても名前だけで、それは「ツーリストの方、いらっしゃい」という意味になるだろう。どの店に入っても、目が飛び出るような値段になる事はない。200円もあれば、ちょっとしたな食事ができた。

 「ここは、いいよ」って、他のツーリストが教えてくれる店もある。それもいい。でも自分で見つける店ほど、ひとり旅では嬉しいものだ。僕は、泊まっている宿の近くにお気に入りのレストランを見つけた。それは「KAYKAY' S」だ。

 ちょっと暗い店内、レジの丸顔のおじさんが「ハロー」って、静かに声を掛けてくれる。細長い店内は、とても落ち着いた雰囲気。何かを考えるにはいい感じだ。そしてゆっくりの食事。初めて食べたカレーは、こんなにおいしいカレーがあるのかと思えるほどだった。

 また夕方になる。カトマンドゥの街を一応は、レストランを探して歩いてみる。でも結局、「KAYKAY'S」に向かってしまう。ドアを開けると、丸顔のレジのおじさんが「ハロー」って言う。日本語に直せば、「いらっしゃい」と言うより「やぁ、元気?」に近いだろう。

 いつも入って真ん中ミギのテーブルに座る。ここが好きだ。ふと見る斜め前の席には、昨日もそこにいたヨーロッパのツーリストが座っている。彼もこの店が好きな様子。どれを食べても美味しい、そんなレストランだった。

 「今日は、バクタプルに行ってきたよ」そんなふうに報告するのも、また楽しい。KAYKAY'S は、いつもそんなには混んではいない。ここに来ると落ち着く。そして、のんびりといろいろと考える。一歩外に出れば、せわしない道が待っている。それはそれで好きなのだけれど・・ 。

 僕はほぼ毎日、KAYKAY'Sレストランにかよった。普通だったら、かよい過ぎかなと思うけれど、KAYKAY'Sには、毎日かよいたくさせるものがあった。それに、店の名前が、とても気に入っていたのだ。6/11 今日はなんだか、早く家を出て、電車に乗った。いつもなら寝ている時間だ。6時55分。僕のデジタルの腕時計のアラームが鳴り出した。あせってなかなか止められない。みんなわかったかなぁ。

「カトマンドゥ・ナイト」6/13

 明日には、僕はもうカトマンドゥを離れてしまう。そう、湖のあるポカラに行くのだ。

 歩き慣れたタメルの道を、また今日も歩く。もうすっかり店もおぼえてしまった。角のスタンドでまた、ビンのコーラを飲む。古本屋に寄ったり、一本隣りの路地に入ったり・・。そして、どこに行ってもこの道に戻ってくる。

 広い通りの向こうに、ジャーマンのベンが、いつものジーンズ姿で、歩いているのが見えた。「ベーン!!」僕が大声で名前を呼んでみると、ベンは立ち止まり、あっちこっちを見回している。「ベーン !!」もう一回呼ぶと、やっと僕に気付いてくれて、手を振ってくれた。「ハロー、ベン!!  グッド・エブリデイ?」「イエース、イエース!!」いつもどうりの髭の顔で笑ってくれた。ああ、道向こうで見回していた、ベンの姿が忘れられない・・。

 泊まっていたホテルの、息子が「グット、ストリート!!」と教えてくれたマルトールの道にも毎日かよった。彼の言ったとおり、そこは、ツーリストのほとんど来ていない。ネパールの親子が手をつないで、一緒に歩いてゆく。チャーを一杯飲むのにも、なんとなく一苦労だ。でも、そこがいい。

 タメルの道とマルトールの道の間にある、ダルバール広場。ここに寄らなくては、始まらない。お寺の階段に座って、英語の勉強をしていると、また声を掛けてくるネパーリの若者たち、そしてへんてこ商売の男たち・・。ここにはずっと変わらない毎日があるだろう。

 ツーリストの宿から続く路地には、みやげもの屋さんが並び、水たまりをよけて裸足のツーリストも通る。日本の旅行者で、すっかりネパーリになっている人もいた。その人たちは言葉は少ない。そして道にすっかりなじんでいた。と、思うと、ネパーリのトピーをかぶり、ヒゲを蓄えて、ホテルの木の椅子に座り、腕を組んで「何でもきいてくれよ」って言う人もいる。みんなが、それぞれのカトマンドゥを楽しんでいるのだ。

 そんなカトマンドゥは今夜、満月だった。明日の夜には、僕はポカラに居るだろう。夜の10時頃まで、僕はダルバール広場に、ずっと座っていた。時間が満ちてくるのがわかった。いい夜だ。

 ラストのカトマンドゥ・ナイト。みんなそれぞれの宿で今頃は、休んでいるのだろう。僕はゴタイゴの「カトマンドゥ」を唄いながら、自分の宿の方に向かって、ゆっくりと腰を上げた。6/12 パソコンの前に座って、何かを拾おうと、カーペットに手を伸ばしたら、そのまま頭からゆっくり転んでしまった。自分でも可笑しいくらいに、デングリガエリをしてしまった。首が痛い。 

「ポカラ行きのバス」6/14

 旅立ちの朝、ポカラ行きのバスセンターの前で待っていたが、ぜんぜん他のツーリストが来ない。

 おかしいなと思っていると、店の人が来たので、事情を聞いてみた。すると「トゥデイ・ノー・バス。バット・ノープロブレム。カム・ヒアー」と言う。なんとなく嫌な予感はあった。先日「バスの日付を変えてほしい」と言われたのだが、僕が「その日でないとダメ」と言ったら「オーライ」としかたなくトラベルの男が言っていたのだ。まいったなぁ。

 連れていかれた所は、民営でやっていバスの所だった。けっこうオンボロなそのバスはもうギュウギュウだった。僕は80Rsで、デラックスバスを予約してたのに・・。ひと休みのチャータイムの後、みんな屋根に登りだした。もう仕方がないので、僕もバスの屋根に登った。旅だし、まぁいいかなっと思ったのだ。

 とっても良く晴れた今日。さて、行こうか。荷物が積まれている中、僕らを屋根に乗せ、バスは走って行く。またもうすぐ日差しが強くなり、暑くなりそうだ。俺は大丈夫か? ポカラまでは12時間かかるのだ。でもなんとなく、冒険映画のようだ。風が気持ちがいい。バスのスピードを肌で感じる。

 だんだん暑くなってきて、なんだかぐったりしてきた。それもとても眠い。僕は荷物を枕にひと眠りした。しかしどうも体勢が悪い。カラダのあちこちが痛い。東京の友達の事を思ったり、旅の出来事を思ったり、いくつものイメージがやって来ては、遠くなってゆく。

 そのうち、バスは緑でいっぱいの道に出た。それも崖のような道ばかりだ。これがカトマンドゥとポカラをつなぐ道なのだろうか。ちょっとまちがえたら落ちてしまうではないか。村がときどき見えてくる。みんなバスが通るたびに、「ハローハロー」っ言う。みんな山の生活者という感じだ。バスが通ることも楽しみのひとつなのだろう。

 子供たちは、枝をバスにぶつけるのが好きだ。その横にいた母親が、ぶつけた枝を拾い上げ、叱るのかなと思ったら、自分で、バスにぶつけた。そのタイミングが可笑しかった。道には牛がのんびりとしたいる。クラクションをバスは鳴らすけれど、牛は気がつかない。しかたなくバスは、その鼻先のギリギリを通って行く。それでも牛は気が付かない様子だ。

 木の枝が大きく伸びている道を通るときは、バスの屋根の上のみんなで腰をかがめる。「ヒュー」とか言って声を掛ける。なんだか遊園地のようで楽しい。僕の腕の中では、すっかり眠ってしまったネパーリの子供がいた。東京のみんなよ。僕は今、ポカラ行きのバスの屋根の上にいます。とても日差しが暑い。なにしろここには屋根がないのですから・・。6/13 たまたま寄ったクリーニング屋さんで、グリーンスタンプを見た。今もあるんだなぁと思う。小学生の頃、スタンプを集めて、いろんな物を交換した。ドッチボールとかね。しかし、今はいったいどの位の交換率なんだろう。その前に、今、どの位の人がグリーンスタンプを知っているだろう。

「ギター野郎登場」6/15

 ポカラまでの途中、バスの屋根に揺られながら、山々のみどりの中を抜けて行った。大変にいい天気で、すっかり眠っては、また起きて、眠って・・。

 木の枝が来るたびに頭を下げながら、ゆっくりと曲がる山道。やがて村が見えてくると、バスは止まる。座席の方は、すっかり満席なので、乗ってくるみんなは屋根に登ってくる。みんなお金を払っていたかは見忘れた。そんなバスの乗り降りの中、ギターを片手に持ったひとりの青年が、バスの前にふらふらっと歩いていて、ギターを振ってバスに合図を送っていた。

 (アイツ、ギターを持っているよ・・) ネパールに入って初めて見たギターであり、それも、赤いグラーデーションの付いた、安そうだけれど渋いギターだった。その青年はバンダナを頭に巻いていて、アメリカン青年という印象だ。そしてよっこらとバスの屋根に登ってきた。

 ジーンズに赤いTシャツ。そして首には、象牙の付いたネックレス。生ヒゲのついたその顔立ちは、アメリカのシンガー「ブルース・スブリングスティーン」によく似ていた。ギター好きな僕は、まるで友達でも乗ってきたような気持ちになってしまった。

 風は気持ちよく吹き、バスは次の村に向かってゆく。しばらくして僕は、彼に声をかけてギターを貸してもらった。彼はこころよく貸してくれた。久しぶりに触るギター。チューニングをしていると、なんと1弦が切れてしまった。これは悪い事をした。ここでは、ギターの弦もなかなか手に入らないだろうに・・。でも彼は優しく微笑んで「オッケー、オッケー」と言う。

 しかしよく見ると、はじめから弦は切れていて、うまくつないであったのだ。もしかしたらフッァションギターだったのかもしれない。僕は弦をつなげる秘策を知っていたので、なんとか弦をうまく張り直してみた。なかなか大変だった。弦の切れたままでは、彼に申し訳ない。

 弦を張っている間、ネパーリの彼は、ずっとニコニコしていた。目と目と合えば、それに答えてくれていた。僕もまたギター好きな事をわかっているようだった。そしてギターは復活した。ゆるめのチューニングにはなったけれど、一曲・二曲弾いてみた。嬉しい。ここでギターが弾けたなんて。

 ギターの彼は、村をひとつふたつバスに乗って、そして屋根からまた降りていった。山道に立っている彼。何度も何度も僕に手を振っていた。あんまり英語はしゃべれない彼であったが、気持ちはとてもよくお互いにわかった。世界共通、ギター好きには何か伝わりあうものがきっとある。

 弦が切れたときは、どうなるかと思ったけれど、彼のギターが直って本当によかった。本当によかった。6/14 今日はグットマンライブ。新曲をなんとか8時までに作り上げなければならない。いつもどうり、リハで唄いながら、歌詞をまとめてゆく。やっぱりこれが一番、歌にはいい。メロディーもどんどん変わる。毎回、こんな感じだ。完全に作り上げてきてもいつもそうだ。リハには何かある。 

「ドント・ルック・ウオッチ・ポカラ・イズ・ノー・タイム」6/16

 12時間のバスの後、やっとポカラに着いた。ここにはフェア湖があり、ポカラと言う意味も「池」と言う意味だそうだ。

 ツーリストと乗り合って、レイクサイドまでタクシーで行き、僕は宿探しを始めた。湖の周りをマップどおりに歩いてゆくけれど、どうしても辿り着けない。変だ。地元の人に何人も道をきいた。なんとマップの方が古くて、うまく着けなかったのだ。気が付くまで2時間もかかってしまった。

 湖沿いのツーリスト街を歩いていると、ひとりのネパーリに声を掛けられた。「おまえはダルマハウスを探しているのか」と言う。そこには、日本ツーリストが多くいるそうだ。案内してもらい、そこに決めた。英語の話せないおばさんが受け答えしてくれた。20Rs。一泊150円くらい。

 お腹も減っていたので、青年にグットなレストランを紹介してもらった。そこは湖沿いにもちろんあり、「チベット食堂」とへたに日本語で書かれたいた。ひとりの少年が、「いらっしゃーい」って手招きをしている。まったくもう。いいなぁ。

 中に入ると、そこはどこかの古道具屋さんのよう。ネパールのいろんな飾り物があり、段差のあるテーブルと椅子は、まるで教室のイメージ。チャーハンを注文する。ふーっ。やっと落ち着いた。

 ポカラ。ここ湖の近くは、カトマンドゥとは、またちがった楽しみ方があるよう。街のざわめきはないものの、のんびりと出来そうだ。何時になったかなと、ふと腕時計を見たら、僕のななめ前のテーブルにいた、西洋ツーリストの男が僕にこう言った。

 「ドント・ルック・ウオッチ・ポカラ・イズ・ノータイム」腕時計はないよって仕草をする彼。悪気はないと思うし、ジョークだとは思うが、僕を日本人だと思って・・。まあ、いいか。どうも、ポカラには時間がないらしい。僕もしばらくここに居たら、そんなふうに他のツーリストに言ってしまうのだろうか。そんなバカな!!

 ここポカラには彼のようなツーリストも多いだろう。なんとなくそんな予感がする。レストランからの帰り道、湖に沿って歩いてみた。もう陽は暮れようとしている。草っぱらに、一頭の牛が横になっているのを見る。野良牛でもあるまいし、いったいどうして、あんなところにいるのだろう。帰り道を忘れてしまったのか?

 ずっと、夕暮れの終わりを眺めている牛君よ、何を思っているのだろう。ポカラには、本当に時間がないのかもしれない。6/15 自転車で走っていると、その真ん中の三角のフレームの中をスズメが、二羽飛び抜けていった。まるでサーカスみたい。スズメって実力があるんだなぁ。

「ネパールバックを買う」6/17

 おととい買った、チベットバックは、一日で肩ひもが取れてしまった。

 チベットバックといっても、白い布に、チベットの絵柄がついているだけだったが・・。やっぱり、丈夫なネパールバックを買うことに決めた。旅の友達が僕に「そのうち、ネパールバックを買うよ」ってずっと言ってたが、とうとうその日が来たようだ。

 自転車を借りて、街のバック屋さん巡りに出かけた。そう言えば、旅の途中で出会った長期旅行の人は、なんだかみんな肩掛け式のネパールバックをしていたなぁ・・。10軒以上見てみるけれど、さてどれがいいのやら。みんな同じに見えてしまう。

 そんな中、店の上の方に吊り下げられていた、ちょっと変わった茶色いネパールバックを見つけた。お店の人は「これかい? これは高いよ。いいヤツだから」っ言う。手で触ってみると、動物の毛で編まれたバックだった。「ヤク」って言う、毛の長い高山の牛だと言う。これはいい。

 ひと目見て気に入ってしまった。値段をきけば、70Rsだ。70Rsと言えば、宿三日分だ。他のバックの二倍以上の値段。まあ、普通は紐で編んだヤツだから、しかたないけれど。お店の人は「このバックはいい。そしてどこにもない。スペシャルだ」って言う。

 もう、買う事がわかっていたせいか、ずんぶんとねばったが、5Rsしか負けたもらえなかった。5Rsと言ったら、ほとんど同じ値段だ。なめられちゃったなぁ。でも、このバックは確かにいい。丈夫そうだし、色もいい。深緑色の肩掛け紐がよく似合っていた。

 裏面からの続きの部分が、表に回って、二つの紐が、それを止めているだけのバックだ。薄さ3センチ、防水でもない。ただ、とてもフィット感がいいのだ。軽くどこかに出かけるときには最高だ。そして何と言っても、旅の気分にさせてくれる雰囲気があった。そして軽さ、それがいい。

 宿に帰って、さっそくメモ帖とペンと財布だけを入れて、散歩に出かけてみる。新しい自分の始まりのようだった。気に入ったバックと言うのはいい。靴もまた丈夫なトレッキングシューズだ。完璧だぁ〜とか思いながら、また歩いてゆく。なんだか風景に浮かんでいるような気分。

 ああ、とうとう僕もネパールバックを買ってしまった。それもよし。このスペシャルなバックに負けないような旅をしなくちゃね。今日は、この旅で一番軽い一日になった。6/16 夢を見る。その夢に出てきた人に会って、夢の事を話すが、相手にされない。笑われてしまう。そのうちこれは、夢を見ているんだと気がつく。俺はどうすればいいの?

「フェア湖ぞい、レストラン」6/18

 フェア湖ぞいには、多くのレストランが並んでいて、僕はどんなもんかなって、メニュー看板を眺めていた。

「ハロー・ユー・カムカム・プリーズ!!」

 店の兄さんがやって来て、外で見てないで、入って下さいって言った。もう夕食を済ませていたので、「ノーノー」と仕草をすると、「プリーズ・トゥモロー・モーニング!! ウイ・アー・ウエイティング・フォア・ユー!!」って言う。

 なんだかとても、人の良さそうな兄さんだったので、僕は次の朝早く出かけて、そのレストランに行った。お兄さんは、よく覚えていて、「ウエルカム・ウエルカム」って、テーブルに案内してくれた。まだ誰もいない。さっそうとメニューをもってくるお兄さん。

 なんとブレックファーストは四種類もあり、僕は「アメリカンブレックファースト」を注文した。「イエース!!」お兄さんは、朝から元気だ。まずは、果汁100パーセントのリンゴジュースを持ってきてくれた。窓からはフェア湖が見えている。今日も、広々と青いなぁ。東京のみんなは元気だろうか。そんな朝の思い事・・。

 やがて、お兄さんは「出来ましたよ」って顔で、ジュージューと音が立てて、アメリカンブレックファーストを運んで来た。目玉焼きが2ヶ、ポテトを固めたもの、ボイルしたトマトが2ヶ、牛のステーキ、ポテトチップ、それにバターを塗ったトーストが四枚。食後には、コーヒー紅茶かホットレモンも出ると言う。これで26Rs。日本円で180円くらいだ。

 「すごいなぁ!!」日本でも、あまりステーキなんて食べたことの無かった僕は感動してしまった。朝から、なんて贅沢なんだろう。パワー抜群だ。それにしても、これがブレックファーストか?

 レストランのお兄さんは、食後のホットレモンを持ってきてくれる。ああ、ホットレモン・・。それも砂糖入り。なんだか脳から溶けてゆきそうだ。さて、今日はみんなにポストカードを書こう。なんとかこの気分を伝えたいと思った。6/17 朝一番で、ヒットシングルを何とか見つけようと、自転車で回る。24時間だったはずのレンタル屋が閉まっている。コンビニのCDコーナーにもない。そうだ、音楽ダウンロードの機械があったはずだ。探してみるけれどない。ナゼ・・? まあ、あと2時間もすれば、店屋さんは、開くんだけれどね。

「戻ってきた歌」6/19

 ここポカラに来てから、朝起きても何もする事がない。

 そして昼は昼で、散歩に出たり、レストランに行って話したりするくらいで、あの騒がしいカトマンドゥの街にいた頃が、なんだか遠い日々のようだ。

 僕は、ちょっと前から、ギターで歌える歌詞をノートに書き始めていた。おぼえているはずなのに、書き出してみると、虫食いのように、歌詞がところどころ隙間ができてしまう。そして一日かけて、ゆっくりと思い出す。思い出せなくても、また一晩眠れば、虫食いの歌詞は埋まっていった。

 外に出かけるとき、ギターはないものの、日本から持ってきたハーモニカを、ポケットに入れて歩くようになった。ここポカラでは、たくさんの広い原っぱがあり、鼻唄も歌い放題だ。ハーモニカもいくらでも吹けた。フェア湖にボートで出かけて、湖の上でひとりハーモニカの練習をしたりした。なんだかどんどんうまくなってゆく。

 街まで自転車で出かけたとき、その道の途中で、ギターを担いでいるネパールの若者に偶然会った。「ハロー」もちろん僕は声をかけて、ちょっとだけギターを弾かせてもらった。一曲だけだったけれど、どんどん人が集まって、とってもいい拍手をもらう。「ベリグット!!」そう言われると嬉しいものだ。

 そしてポカラでの日々は、だんだん唄うたいの日々に変わっていった。僕の何かに小さな火が付いてしまった。ギターなしで唄を歌うのも、慣れるとなかなかに楽しい。のどもまたひとつの楽器だと、つくづくわかった。歌詞ノートにもどんどんレパートリーが増えてゆく。

 フェア湖ぞいの夜道、途中でレストランが一軒もなくなり、ただの道だけになる所があった。僕はハーモニカで「上を向いて歩こう」をしみじみと吹いてみる。この唄は、カトマンドゥにいた頃からよく口ずさんできた唄だ。満月に近い月。今の気持ちにぴったりのメロディー。

 ひとり旅になってから、また唄が戻ってきた。淋しいのも、いい事だと思った。6/18 今日は失敗して、財布にお金が無くなってしまった。ある小銭で、パンを買ったりしたら、10円玉がなくなってしまった。これでは電話がかけられない。やばいなぁとか思いながら、外歩きのアルバイトをする。テレホンカードの残り度数は「1」それだけが頼りだった。

「朝のハチミツ売り」6/20

 ハチミツがこんなにおいしいとは知らなかった・・。

 それは、夏の晴れた日の午前中の事だ。壺を頭に乗せたおじさんが、宿にやって来た。「ハニー、ハニー!!」って言う。どうやらハチミツらしい。宿のマスターの息子も、僕に「グットグット」と言って、すすめてくれる。

 「カップ、カップ」そうか、カップに入れてくれるんだな。「オーケー」僕のカップに金色のハチミツが、とろりと注がれる。10Rs。安い!! 70円くらい。宿の息子も、他の人もみんな買っていた。

 さて、どんな味だろう。スプーン一杯なめてみる。「うまい!!」それは、日本で知ってるハチミツの味ではなかった。たぶん取れたてなのだろう。サラッとしてて、甘さもちょうどいい。パンを買ってきて、付けて食べてみる。これがまた、美味しくて、何枚でも食べられるのだ。

 「もう、毎日コレだな!!」日本で市販されているハチミツの味しか知らなかったら、こんなに美味しいとは、ずっと気が付かないかもしれない。僕は一口ごとに「うまい、うまい」と言って食べた。

 それまで何度も、お腹をすぐに壊していたのに、その日を境に、とても調子よくなった。これは絶対、ハチミツのおかげだと信じた。ハチミツには殺菌効果もあると言うじゃないか。僕はとても元気になった。旅とお腹とハチミツ・・。わかった、これだ!!

 ハチミツ売りのおじさんは、そのあとなかなか現れなかった。宿の息子は「また来るよ」って笑う。早く来て欲しい。リヤカーにハチミツカップを積んだおじさんから、仕方なく買ったハチミツは、なんだか味がちがう。それはどういう事だろう。きっとそれぞれに美味しさがあるのだ。

 あの壺を頭に乗せたおじさんよ、はやく来ておくれ。毎日、待ってるんだよ。あの朝のハチミツ売りよ。6/19 CDをレンタルしてきて、家のドアの前で、CDごと落としてしまい、みごとにケースが割れてしまった。シールとか貼ってあるので、交換はできない。ちょっと気が重い。新しいケースも入れて出かける。友達と会い、なんだか酔ってしまった。勢いで、そのままCD レンタル屋へ。「割れたんです。このケースもらって下さい!!」「あ、はい。ありがとうございます」なんか変。でも、いっか。

「ネパーリネイム・インデラバウラ」6/21

 ハーモニカの練習をするために、フェア湖まで吹きに行っているうちに、子供たちが集まってきた。

 はじめは遠くから見ていたが、面白そうだと思ったのだろう。いつのまにか近くに来ていた。そして仲良くなったのだ。

 「アオーキ!!」そう呼ぶひとりの少年がいた。それは泊まっている宿(ダルマハウス)の息子だった。彼は、僕の事を気に入っている様子で、僕の姿を見るたびに、嬉しそうにしていた。とっても素直そうないい表情をしていて、日本にいたら、好青年になるだろうと思った。そして僕のようにギターを弾きそうな感じだった。

 僕を取り囲み、わいわいとするみんな。その少年たちの中で、ひとりだけ年上のチベットの青年がいた。顔にニキビの跡があり、ちょっとずんぐりとした青年。彼は英語が喋れて、僕になんでも話しかけてきた。フェア湖にゆくたびに、彼を先頭にみんなの輪が近くに来た。

 僕はハーモニカで「上を向いて歩こう」を吹いてみる。「ベリ・フェイマス・ジャパーニーズソーング!!」なんだかいつも吹いていたので、自分でも惚れぼれするくらいにうまい。チベットの青年は僕の隣りに来ては、それからいつもしばらく話をする。他のみんなはフェア湖の野っぱらで駆け回り遊んでいた。

 ある日の事だ、ネパーリネイムを僕にくれると言う。名前は「インデラバウラ・プロザパティー」になった。「メロ・ナム・インデラバウラ・ホ」と言ってみると、みんなお腹を抱えて笑う。どうやら僕はだまされているようだ。その時から僕の名前はすっかり「インデラバウラ」になってしまった。

 次の日、レイクサイドの道を歩いていると、通りかかった車から、「インデラバウラー」と呼ぶのが聞こえた。(あれぇー、おかしいなぁ・・) それだけではない。いたる所で、そう呼ばれ始めたのだ。早い。伝わるのが早すぎる・・。

 宿に戻れば、ダルマハウスの少年が僕を見つけては、「インデラバウラー」と嬉しそうに、声をかけてくる。ポカラに来て、10日目。とうとうネパーリネイムをもらってしまった。それにしても・・。6/20 朝の電車の中、今はやりの小さなパソコン(モバイル)を使って、いろいろと作業をしている人を見た。ペンとか使っている。「インターネット」を見ている様子だ。時代は進化するんだなぁと感心していると、その人は、ただゲームをやっていたのだった。感心して損した気分。

「ホンコン彼女の言い分」6/22

 泊まっている、ダルマハウスの近くのレストランに寄ったとき、二人の香港ツーリストの女性に声をかけられた。

 「ホワイ・ドント・カミン・ズイス・レストラン。ユー・ワーク・ズイスロード・エブリディ。ホワイ?」僕は毎日この道を通るのに、このレストランにどうして寄らないのかって言う。おかしな質問だ。でも、彼女らにとっては、当然のことのようだ。

 ずいぶんと年上そうな、彼女らは、僕にいろいろと質問してくる。道を日本人のツーリストが通ると、「おまえは、あの日本人に、なぜ声をかけない?」と言う。僕が「もし彼らと、どこかで会っていて、知り合いならば声をかける」と答えれば、「それはおかしい!!」と言う。

 「では、あいつは友達か?」その彼は、僕と二ヶ月間、一緒に旅をした友達だった。「ヒー・イズ・マイ・フレンド。ウイアー・トラベルド・トゥー・マンセズ」香港の二人の女性は、もう怒った顔になり、なぜ、声をかけないのか!! と言う。「アイ・キャント・アンダースタンド・ユー!!」

 そして「ネパールポカラまで来て、なぜ山登り(トレッキング) をしないのか?」とも、きいて来た。「あんなに楽しいのに、私にはわからないわ!!」とも言う。(なるほど・・。香港の人達にとっては、大自然はひとつの憧れなのかもしれないなぁ)僕は「わからない」と答えるつもりで、「アイ・ドント・ノウ」と答えてしまった。すると、二人は「アイ・ドント・ノウ? オーケー・グンナイト!!」そして席を立って行ってしまった。なんだか、勘違いされたようだった。ふーっ、疲れたー。

 その日からだ。僕がレストランの前を通るたびに、二人の香港の彼女たちが、「一緒に食事をしよう!!」と大声で誘ってくるのだ。それが毎日、毎日なので、僕は「今日は、忙しい」とか言って、断るようになってしまった。そして、ある日、道に立ちはだかって、香港の彼女が僕に怒った。

 「おまえは、毎日、私たちが食事に誘っているのに、断り続けている。おまえは、悪いヤツだ!!」って言う。もう、たいへんに怒っている。レストランのボーイが、間に入ってくれて、なんとか冷静になってくれた。彼女の気持ちを怒らせたのは、ホントのようだ。

 「オーケー・ハバァ・グット・ジャーニー」そう言って、握手をしてくる彼女。これもまたよしか。どうしたら良かったのだろう。6/21 なんだか眠れなくって、朝まで、原稿とか書いたりしていた。でかける直前、目覚ましをかけて、少しだけ眠った。その眠りの深かったこと・・。夢も見た。なにか長編ストーリーのはじまりだった。そして目覚まし。夢から現実 という言葉があるが、今日は、現実から現実のようだった。

「フェア湖のチベタン青年」6/23

 また今日も、フェア湖に行ってハーモニカを吹く。そして、あの子供たちが来てくれる。

 「ニンジャ・ニンジャ!! 」その中のひとりの少年は、ブルース・リーが大好きで、なぜか僕を見ると「ニンジャ」と言って、空手のアクションをする。おかしな奴だ。あいかわらず僕は「インデラバウラ」と呼ばれている。 

 「ハロー」子供たちの、中心にいるチベット青年が、そんな彼らと一緒に現れ、僕の隣りに座る。毎日会っているうちに、とても仲良くなった。今日は、今のネパールの状況について話してくれた。ネパールでは、労働力と賃金のつりあいがとれていないらしい。

 観光客を相手にガイドをして、多くのお金をもらっている人。そして山のトレッキングの時、ポーター(荷物運び)をして、わずかなお金をもらっている人。ポーターの仕事は、大変で、危険なのだと言う。チベットの彼は、そんな彼らの姿を、カイドで儲けている人たちに見せてやりたいと強く言った。そしてツーリスト全員に、その事を伝えたいとも言った。

 そんなある日、インド人の家族が、ボートに乗りに来た事があった。チベタン青年は、「インド人は嫌いだ」と言った。「なぜ?」ってきくと、インドの教科書には、ヒマラヤは、インドの北にあると書いてあって、ネパールをインドの続きだと思っているんだと言う。

 「インドはインド、ネパールはネパール。ヒマラヤはネパールのものだ!!」チベタン青年は、そう力を込めて訴える。僕の知りあいの旅人も、インドとネパールは隣どうしの国なのに、どうして、こんなに表情が違うんだろうと言っていた。僕はまだ、インドに行ったことがなんので、なんとも言えないのだけれど・・。

 「ハロー・マイフレンド!!」チベタン青年は、いつのまにか僕を、そう呼んでくれていた。6/22 友達のライブを見に、武蔵小金井まで、出かける。場所がわからない。わからないけれど歩いてゆくと、そこにあった。いつもこんなふうに店を探していて、いいんだろうか? でも、必要だ。ぜったぃ。

「SWISSレストランのみんな達」6/24

 「明日の朝に、待ってるよ!!」と約束した次の日から、僕はその「SWISS レストラン」に通うことになった。

 レイクサイドを歩いていて、僕に声をかけてきた。そのレストランの男「スィグデル」。彼はホントに人なつっこい男だった。僕がインドに行くと言ったら、兄がチケットセンターをやっているからと、昼休みレストランを抜け出して、一緒に自転車で、僕のために街まで行ってくれた。

 とても痩せているスイグデル。その自転車をこいでゆく後ろ姿は、なんだかぎこちなく、やっぱりネパーリの男なんだなと実感した。言葉ではうまく言えないけれど・・。時間がないらしくて、急いでこいでゆくスィグデルよ、ありがとう。

 同じレストランには、もうひとり、18才くらいのウエイターが働いていた。とても頭の切れる好青年だ。英語はもちろんペラペラ、そしていろんな国の言葉も使えて、冗談も言ったりする。僕の姿を見ると、いつも「オガンキですかぁ〜。マイド!!」と日本語を言ってくれる。礼儀正しく、記憶力もいい。

 彼がもし日本に来るならば、きっとエリートになっているだろうなといつも思った。ここネパールのポカラのレストランに居るのは、なんだかもったいない気がする。僕は、彼のまた違う人生について考えてみる。でも、ホットレモンを飲んでいるうちに、考えが変わった。やっぱりそんな彼は、ここネパールの宝なのだろう。

 とても人当たりのいいその二人の他に、奥の方には、のんびりとした感じの男の人がいた。彼は僕を気に入っているらしくて、食事にゆくとテーブル方まで、かならず顔を見せてくれた。こっそり僕にお菓子をくれたりもしてくれた。僕もホントはその彼が一番気に入っていた。

 夜、レストラン近くを歩いていたら、「ハロー」と声が聞こえた。振り向くと、SWISSレストランの、そののんびりとした彼だった。いつもレストランで会う感じとは違い、色鮮やかなトピー帽をかぶり、ひとりの素敵なネパーリの男性という感じだ。

 彼はくだもの屋さんの椅子に座り、一日の事を話しているところだった。僕も一緒に座り、あれこれと話した。レストランでは、ほとんど話せなかったけれど、こうして側にいると、なんだかとても気があって、考えていることも似ているのだった。僕も彼の事が好きだし、彼もまた同じ気持ちなのがよくわかった。

 ついでなので、僕はそのくだもの屋さんで、大好きなリンゴを買った。また明日、SWISSレストランで会おう。手を振りあったあと、ひとりフェア湖近くの柵に寄りかかり、暗い中に座りこんでリンゴをかじった。道向こうでは、まだレストランの灯りがこうこうと闇に光っている。そこでは、多くのツーリストたちがにぎやかに話しているのだろう。

 僕はなんだか不思議なひとりぼっちだった。リンゴは甘酢っぱく、こころに沁みた。6/23 大きなビデオ屋さんで、洋画がを探してみる。監督別、俳優別、ジャンル別・・。ぜんぜん見つからない。映画を観る前に目が、疲れちゃうよ。どうにかして欲しい。

「今日は山羊を見る」6/25

 ここポカラに来てから、ハーモニカを吹いたりして毎日が過ぎてゆくのだった。

 どのくらい暇かと言うと、自転車に乗って、2時間以上かけて鍾乳洞に遊びにゆくほど暇なのだ。どこにあるかわからなかった、その「マヘンドラ・グッファ」。僕は、その言葉だけを頼りに鍾乳洞にたどり着いた。

 (ここが、そうかぁ・・) 中に入ってゆくと、期待したほどではなくって、とほほの気分。遊びに来た、ネパーリの女の子が、ネパールの言葉で「おーい!!」と呼んでいる。僕はきっと、この声を聞きにきたのだ。そしてまた、おっちら自転車をこいで帰る。

 どのくらい暇かと言うと、自転車に乗って、飛行場に行って、飛行機が飛ぶのをずっと待てるほど暇なのだ。そこは野っぱらの滑走路で、小さな飛行機が待機していた。やがて時間が来て、その飛行機は、ヨロヨロとしながらも、なんとか空に飛び立った。ホントに飛んで、びっくりした。だんだん小さく、空に消えていった。

 どのくらい暇かと言うと、フェア湖のそば、野っぱらに一日、寝っころがって、英単語を憶えられるほど暇なのだ。その日は、小高い丘に行って、発音をしながら本を開いていた。そこでは、親山羊と二匹の子山羊が、ずっと草を食べていた。

 僕がそばにいるのに、山羊たちは、まったく気にしていない様子だ。もう、笑っちゃうくらい、ずっと草を食べている。「メヘヘー」話かけてみるけれど、子山羊は答えてはくれない。しょうがない、英単語でも言ってみるか。

 今日は、一日、山羊を見ててしまった。山羊はずっと草を食べていた。英単語もちょっとは憶えたかな。もう日も暮れそうなので、どこかのレストランにでも行こう。じゃあね、山羊君たち・・。

 チベットレストランに行き、のんびりとする。一日、陽に当たっていたので、体はまだ暖かい。ふと見る、斜め前のヨーロッパのツーリストは、本のように分厚いノートに何か書いていた。それも大きいサイズだ。まるで、その姿は、ポカラのシェークスピアみたい。多分、それは日記だった。ずっと書き続けている彼。

 (なーに、書いているのだろうなぁ・・) トイレに立ったとき、僕はその日記と思われるノートをチラリと見た。それは大きな文字で、びっしりと書かれていた。僕のほうの日記は、「今日は一日、山羊を見た」で終わりそうだ。6/24 映画「ノートルダムのせむし男」を観る。アイソニー・クインが主演。脚本がとても良く出来ていてびっくりしてしまった。それに「せむし男」がはまっていた。もう一本、昔の「ノートルダムのせむし男」も出ている。今度借りて来て、見比べてみよう。こんな気持ちは初めてだ。

「トゥモロー・イズ・ロング・タイム」6/26

 こんな事もあるものだった。

  カトマンドゥで別れたはずの、ずっと一緒だった友と、ポカラで偶然にも部屋が隣同士になった。「おゃ、青木さん!!」「あれぇ!!」数ある宿の中、またここで会えるなんて・・。これも旅というものだろうか。

 フルムーン。ここポカラでは、満月がとてもいい演出をする。レイクサイドのレストランでは、色とりどりの電球が、闇に輝いて、幸せの景色を作っていた。僕はひとりホットレモンを飲んで、なんだか時間が満ちてくるのを感じていた。

 あともう少ししたら、また旅に出なくてはいけない。とうとうインドインするのだ。ポカラでは、ツーリストの友達があまり出来なかった。こんなフルムーンのレストランは、誰かと来るには最高だろう。僕はなんだかひとりぼっちだった。テープルの水滴で、好きな人の似顔絵とか描いてみる。あはは。

 宿まで帰る途中、近くのレストランの外付けの小さなスピーカーから、聞きなじみのある声と、歌が流れていた。(うそだろう・・) それは、僕の好きなシンガー「ボブ・ディラン」の海賊盤にしか入っていない歌だった。♪トゥモロー・イズ・ローング・タイム・・

 「明日は遠く」という歌だった。それは、旅を続けるひとりの男が、「なんて明日が遠いんだろう。この旅の向こうに君が待っていてくれたなら・・」と歌う。僕にとっても、特別な歌だった。夜道に流れている、そのメロディー。こんなところで聞けるなんて・・。

 僕は、そのレストランに寄った。たぶんツーリストの誰かが、テープを置いていったのだろう。ウエイターの彼に、テープについて尋ね、「アイ・ライク・ボブ・ディラン!!」と伝えた。するとウエイターの彼は「アイム・トゥー!!」と言って、僕を抱きしめてくれた。みんなきっと淋しいのだ。また会えた人がいる、また会えた歌がある。6/25 「ノートルダムのせむし男」の白黒時代の映画を見る。'39年のアメリカ映画だ。先日観た「ノートルダムのせむし男」と結末がちがう。こっちが本当か。それにしても、こんなにイメージが違うなんて・・。でも、それなりに楽しめて観られた。

「チベットの彼女の告白」6/27

 もうポカラでの日々も、今日で終わりという日、いつものようにフェア湖までハーモニカを吹きに行った。

 仲良くなったなったボート番の彼が、最後だからただで乗ってもいいと言う。しかし僕が漕ぎ手で、彼が乗り手だった。僕のハーモニカが気に入ったらしくて、ボートに乗っている間じゅうずっと、プカプカ吹いていた。こんなハーモニカはポカラにはないので売ってくれと言う。

 「ハーモニカは友達だから売れないよ」って答えると、「じゃあ、ただで欲しい!!」って言う。それも出来ないと言うと、「では日本に帰ったら送ってくれ」と頼んできた。僕は断ってばかりで辛かった。

 また野っぱらに戻り、ハーモニカを吹いていると、今度は三人の若いチベットの女のコが僕の所に来て、草の上に座った。三人は、近くの道の、おみやげ売りの女のコたち。

 「インデラバウラ〜・・」なんと、僕のあだ名を知っていた。「ハンデラバウラ〜、シー・ラブズ・ユー」そう言われた彼女は、あまり英語が話せないらしくて、真ん中の彼女に、言ってもらっている。「シー・ラブズ・ユー !!」そして、もうひとりの彼女も一緒に答える。「イエス・イエス・イエス・イエス!!」

 当の彼女は照れていている。そして「インデラバウラ〜」と、なまめいた声でささやく。三人ともみんな可愛い。三つ編みの髪が似合っている。18才くらいだ。僕の事をどこで見ていたのだろう。ハーモニカをいつも吹いていただけで、どこかのさすらいのミュージシャンのようだったのかなぁ。

 真ん中の彼女だけが、少し英語を喋れたので、まるで通訳のように僕と話す。知っているのか知らないのか、明日、僕はポカラを出て行ってしまう。「シー・ラブズ・ユー」とか言われても、僕はどうすればいいの? ハーモニカを吹いたりして、時間を過ごしたあと、彼女たちは、またおみやげ売りに戻って行った。

 僕はそれから、フェア湖の子供達と遊んだりした。日が暮れるにはまだ早い頃、ちょっと遠くに、さっきの三人のチベットの彼女たちの姿が見えた。なんだか手招きをしている。「インデラバウラー!!」そう呼ぶ声は、とても明るい響きがあった。6/26 今日からまた月末の休みに入った。いい天気だ。布団とか干してみる。クーラーはないので、窓を開けて、風を入れる。もう、きっと梅雨は終わった。また夏だ。きっとそうだ。梅雨の日々に絶えられる自信がない。

「ラストデイ・ポカラ」6/28

 「ハロー・マイ・フレンド!!」チベタン青年が今日もニッコリと笑う。

 ポカララストの今日、フェア湖の野っぱらに来れば、もう彼は待っててくれた。僕が明日、インドに向かう事は知っていて、僕にひとつ頼み事があるらしい。彼は紙とえんぴつを出して、日本語で手紙を書いて欲しいと言う。

 相手は、この前一緒にトレッキングをした、日本の大学の先生のお姉さんだと言う。彼は一行一行ごとに頭をひねり、真剣に考えて、僕に伝えた。内容は「もし余っているものがあれば。何か送って下さい。私の学校できっと役にたちます」というものだった。僕は綺麗に清書して、彼に渡した。

 子供たちもみんなのぞきこんで、「綺麗な文字だ。綺麗な文字だ」ってほめてくれる。チベタン青年も満足そうだ。そうだ今日もみんなはハーモニカを聞き来てくれたのだ。さあ、吹かなくっちゃ。みんなも好きな歌「上を向いて歩こう」を吹きながら、今日は歌詞を英語に直してみた。

 「ロンリー・ナイト。ハピネス・イズ・オン・ザ・クラウド」・・。みんな「へえーっ」顔をして聞いている。ああ、こうして囲まれていると、なんだか本当に時が満ちてきて、次の街に行く時なんだなぁと感じた。ネパーリネイム「インデラバウラ」をもらってから、なんだかすっかり仲良くなった。こんなに快い別れもあるんだと知った。

 もう日が暮れかかって来たので、僕はそろそろ行くことにした。子供たちは一人ずつ帰って行き、そして、二人の子供が残った。僕もまたフェア湖の野っぱらを、ハーモニカを吹きながら歩いていった。右と左には、一人ずつのネパーリの子供。まるでいつかのシーンのようだ。

 振り向くとフェア湖は、きれいな夕焼けに色になっている。ラストデイ・ポカラ。また新しい旅人がやって来るだろう。6/27 レコーディングのためのリハをする。ちょっとは前よりうまく歌えるかな?とか思っていたが、なんだか、うまく歌おうとしている自分に気が付いた。ああ、良かった。

「トピーはネパーリの心」6/29

 そしてまた夜明け前、僕は宿を出て、インド行きのバス停へと向かった。

 ゆっくりと曲がってゆく細い道。もちろん誰もいない。でも闇の中、何かピンク色の生き物が向こうからやって来る。よく見れば大きなブタだ。ブーブーと鳴くその声は悲哀を帯びていた。食べ物を探している。すれちがったのに、僕の事はまったく気が付いていない。なんだか恐い。

 インド行きのバスはやって来た。片方だけのライトしか付いていない。デラックスバスって言っていたのに、またオンボロバスだ。客が集まるまで、出発しないと言う。ヨーロッパのツーリストが、文句を言って、やっと90分遅れで出発する。窓からは、雲ひとつないマチャプチャレの山が見えている。まるで一枚の絵のよう。さよならマチャプチャレ。さよならポカラ。

 やがてバスは満員になったけれど、なんと坂の所で動かなくなってしまった。また90分ストップ。運転手はあきらめて、やって来た他のバス二台に分けてくれた。乗り込んだバスもまたいっぱいで、また屋根の上に登ることになってしまった。ああ、移動の度にこんなことばっかりだ。

 枝が頭に来るたびに、首を下げてよけてゆく。ポカラ行きに続いて二回目なので、慣れたものだった。一緒のヨーロッパのツーリストは僕と同じ、デラックスバスのチケットを買った仲間だ。新しく乗り込んでくるお客もまた、屋根に乗ってくる。運転手はそのたびに屋根まで登ってきて、一人一人に集金してゆく。ここの運転手はハードな仕事だ。

 バスの屋根に揺られながら、今日までの旅の事を考える。もう旅に出て二ヶ月だ。ネパールにいたひと月でも、こんなに長かったのだから、インドの四ヶ月間はどの位長くなるのだろう。東京のみんなよ、僕は今、インド行きのバスの屋根にいます。

 ボーダー近くになって、これからはポリスがうるさいと言うので、屋根のツーリストも乗り込めって言う。ぎゅうぎゅうのバスの中は、さすがに国境近くなので、インドの人も数多く乗っていた。インドの人はなんだか迫力がある。ネパールの人は、色鮮やかな帽子のトピーをかぶっているので、すぐわかる。

 ひとりのネパーリの子供が、なにやらひとりのネパーリのおじさんに声をかけていた。おじさんはわかったと言う顔をして、他のネパーリの人たちに声をかけている。おじさんたちはネパーリの子供を抱きかかえると、満員の席の中、人から人にひざの上を渡して、窓のところまで連れていった。彼は、バスに酔ってしまったのだ。

 その手際の良さ。窓から顔を出して、坊やがおじさんに背中をさすられているその姿を見ていて、なんだか泣きそうになってしまった。ネパーリの人の気持ちがひとつになっていたようだ。トピー帽はきっとネパーリの心なのだろう。バスはもうすぐ国境に着こうとしていた。6/28 午前中に新宿に出かけて、帰り地下のカレー屋に寄った。まだ普通はopenしていない時間だ。ここは24時間でやっているのだろうか? 壁には、雑誌でうまい店に選ばれたとか書かれている。降りてゆくと、そこはまるで70年代の頃のような雰囲気だ。おばさんと若い女性がやっていた。食券を買ってから、一分後には、もう皿に盛られていた。チキンカレー。意外とおいしい。でもチキンがなんだか冷たいのは、いったいどうしたんだろう? 僕はなんだか本当に70年代に来たようだった。

「そして、インディアヘ」6/30

 ここはまだネパールの朝、僕はざわめいている道へ出て、インド国境へと歩いて行くことにした。

 国境越えのスタンプを押してもらい、とうとうインドに入る。国境を越えたとたんに、なんだか道の感じが違う。なにしろみんなインド人ばかりだ。ひと休みついでに、チャイを一杯、飲んでみる。ネパールのチャーと同じと思っていたら、もっと濃くて甘い。(この感じかぁ・・)

 バラナシ行きのバスは、今度こそデラックスバスだった。もう、このパスに乗ってしまえば、ガンジス河の聖地「ベナレス」に着いてしまう。屋根の上に荷物をあげようとすれば、青年が「荷物を屋根に上げますから、2ルピー下さい。みんなもそうしています」と言う。すっかり信じてお金を渡してしまったが、バスの中でよく考えたら、そんなことあるわけがなかった。

 (また、だまされた・・) 昨日は昨日で、両替で、お札の枚数が合わなかったし、ボールペンも胸から消えてしまった。そしてバスは出発する。今夜には、バラナシに着くだろう。窓から見えているインデアの景色。とても大きな樹が道々にはえている。日本だったら、どの樹も保護樹林になっているだろうと思われる大きさだ。日本では見かけない樹だ。(何の樹だろう? 菩提樹か・・)

 ネパールをバスで走っていたときは、子供たちがみんなバスに手を振っていたけれど、インドでは、子供たちは手を振ったしない。途中の停車場所で、降りてみれば、物売り子供がやって来る。バナナ売りだ。「いらない」って言っているのに、30回くらい声をかけるのだ。その根性はさすがだった。

 ピーナッツ売りの兄さんが、僕にピーナッツを三つ・四つくれた。僕が「でも、買わないよ」って言うと、彼は「それもいいさ!!」っていう表情で、首を肩の方に少し傾けた。インドでは、それが了解のサインだと聞いていたけれど、なんとなくわかった。

 午後の日差しの中、バスの窓からは、興味深い景色が見えてくる。そのどれもがまちがいなく、インドの風景なのだ。そして人々が見えてくる。白い布のような服を着た、かっぷくのいいおじさんがいる。ネパールでは見かけなかった、いかにもインド人と呼ばれる感じだ。

 日は暮れて、そして夜になり、隣りの人の話では、もうすぐバラナシに着くと言う。景色がだんだんと街に入ってゆく。なんだか胸がどきどきする。たぶん一生に一度のインドへ期待と不安だろう。そしてバラナシの中心へと入ってゆく。さすがに大きな街だ。やがてバスターミナルに到着した。

 窓の外を見てみると、何十台という、自転車リキシャーマン達が、腕を上げ、声を上げていた。さあ、インドの旅が始まりだ。6/29 今日は一日、外に出てお茶を飲んだり、食べたり、飲んだりする。どんどんお金が財布から出てゆくが、列車のチケットのように、なにか使い放題になるような、一日券が出ないものだろうか?

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