青木タカオの「ちょっくら・おん・まい・でいず」  今月に戻る
過去ログ「インド編・ケーララへ」日記付き'01.8月

 

「サンタナロッジの日々」8/1

 港町のプリー。ここサンタナロッジの日々はまだまだ続く。

 海から戻って来て、いつものように屋上に登ると、今夜宿を出る二人が、ロッジのおばあさんにお祈りとお話しをもらっていた。そのお祈りとお話しはとても真剣で、正座をしている二人もまた真面目に聞き、そしてもう泣きそうになっていた。二人とも、ここサンタナロッジに、ひと月、ふた月と居た旅人なのだ。

 夜7時、リキシャマンを呼んで、ふたりの見送りとなった。ロッジの人はジャスミンの花を、それぞれにあげていた。ここではみんなが、家族のよう。胸に残っている、いくつかの思い出は、もう一度出てゆくときに響くのだろう。そしてふたりはリキシャに揺られて行った。

 宿に残ったツーリストは、僕も含めて三人となった。日本語が話せるクンナ君と、夜は大クイズ大会になった。それはそれはとても楽しく、いい時間が流れた。

 その夜はクンナ君も屋上に来て、一緒に星を見た。人が少なくなったサンタナロッジだが、何も変わらない。クンナ君は、日本に行きたいって言っていた。7/31 今日は地下ライブ。リハと本番がこんなにちがうものかと思った。本番には、何か違うパワーがある。大谷氏は、今日はじめてドラムの藤原さんと合わせていたが、本番はばっちり。いいライブだった。

「小猿のマヌゥと犬のトラ」8/2

 サンタナロッジでは、小猿のマヌーと、黒いトラと言う犬を飼っていた。

 マヌゥは30cmくらいのまだホントに小さな猿で、二メートルほどのクサリと一緒に枝をいったり来たりしていた。ロッジの人は「マヌゥ〜」と言葉の最後を少し上げぎみに呼ぶ。それがなんとも小猿らしい響き。

 名前を呼ぶと、マヌゥは肩のあたりに飛びついてきて、とても可愛い。クリッとした目と小さな顔が、すぐそばにくる。「マヌゥ」と呼びながら抱きしめると、ウンコをプチュとしてしまう。「うわーっ」と手を離そうとすると、さらにウンコをプチュとしてしまう。

 そしてトラ。トラはとてもおとなしいオスの犬だ。いつもロッジの入口の椅子の上にいて、どんなになぜても、なに怒るわけではなかった。綱はついていないけれど、トラにはひとつの安心があった。自分でどこかに行き、自分でちゃんと帰ってきて、入口の椅子にいた。

 ある時トラは、帰って来なかった。宿のクンナ君にきくと、トラはオス犬だから、外でケンカしたりしながら、遠くまで行っているのだという。でも、必ず帰って来るよと笑う。そのとおりトラは体に傷をいっぱい付けて、いつのまにかまた椅子にいた。

 「トラ。トラ」何も変わっていないように、そこにいるトラは、外ではケンカをしているのだ。体にいくつも傷を付けたまま、そっと目をつぶっている。外で戦っているおまえの姿を見たら、僕の胸は張り裂けちゃいそうだ。こんなに大人しいおまえなのに、やっぱりオスなのだね。

 サンタナロッジにいた二週間の間。理由もなく、眠れない夜もあった。そんなとき僕は、入口のベンチ椅子で眠っているトラのそばに行った。夜中なのに、普通にしているトラ。そばにいると、自然と落ち着いてくる。そして何事もなかったように僕は眠れた。ありがとうトラ・・。

 僕の部屋は、小猿マヌゥの隣りにあり、朝はいつも、マヌゥの声で、そして起こされるのだった。8/1 今日、下町にある、中学校に寄った。夏休みで誰もいない。僕は職員室へと向かう。廊下には、世界の名画が、数多く飾られていた。それも色が褪せている。こんな廊下を、夏休みに歩くのはいい。絵に話しかけられそうだ。

「クンナ君の話」8/3

 薄暗い土間のテーブルに座って、クンナ君は、辞書を引いて何か勉強をしていた。

 「クンナ君。お勉強?」よく見れば、使っている辞書のAとBあたりが、無くなっているのだ。「その辞書、始めが欠けてて、引くのに困ったりしないの?」「コレ? これ犬が食べちゃったネ。でも大丈夫。困らない困らないネ」

 クンナ君は、日本語で何でも教えてくれた。それと同じように、僕らの言葉や、話も聞きながらどんどん憶えていった。日本のツーリストと話しながら、全部憶えたんだろうなぁ。

 みんなで一緒にテレビの映画を観たとき、大笑いをして楽しんだ。インドの映画は、信じられないような展開が多い。なぜか急に、歌い出してしまうのだ。猿も出て来るし、何でも出てくる。

 猿と言えば、インドでは「ハヌマン」の神で有名だけれど、それは「ラーマヤナ」と言うストーリーの主人公だ。僕はクンナ君に、ラーマヤナの話をしてもらった。短くって言ったのに、たっぷりと楽しそうに話してくれた。ラーマヤナの話の中に出てくる主人公たちは、今ではみんな神様みたいになっていると言う。

 そこで、神様の事をもっと尋ねてみると、クンナ君は教えてくれた。「プッダも、伝えられてゆくうちに、だんだん神様みたいになっていったネ。それと同じように、だんだんとガンディーも神様みたいになってゆくネ。神様なんてそんなものネ」

 (なるほど・・。よくわかった) インドの神様はみんな、個性的なヒーローで、身近に感じるアイドルのようなんだなって知る。それはとてもいい事だ。クンナ君はまた、続けてこうも言った。

 「まだ、あなたの映画は終わってないネ」その通りだ。クンナ君。8/2 いつも使っている、ICレコーダーが壊れていて、ここ最近録音した、メモが消えてしまった。と言うか何も録音されていなかったのだ。その中身が、まったく思い出せない。困った。もともとメモしておくことが問題なのか。こんなことを書いている。

「お気に入りの道とここ」8/4

 宿から海に出るその途中の道には、露店のバザールがずっと続いていた。

 その風景はなんとものんびりしていて、何度歩いても、ステキな旅の気分を味わうことが出来た。僕は通るたびに、ヤシの実ジュースを飲んだ。おやじさんは、毎朝、いくつか並べて待っている。一応は、どれがいいか選んでみるけれど、ホントのところはさっぱりわからなかった。でもいい。

 そしてまたいつものフィッシャーマンの浜辺に来て、僕は座る。10センチくらいの魚を何千匹も、網からふるい落としている漁師たち。みんなみんなふんどしひとつで、がんばっている。そんな景色を毎日毎日眺めているこの場所に、自分もまたいることに気が付いた。

 僕はどの町に行っても、自分の好きな道と、好きな場所を見つけるんだなぁとわかった。そして毎日、その場所に行くのが好きなのだ。プリーでも、この場所に来てはもう10日以上座っている。僕にはこういう癖があるんだな。思い返せば、旅に出てからずっとそうだった。

 ここに座っていても、いろんなことに出会える。一匹の腰の悪い犬が、ずっと歩いてきて、ふと立ち止まったかと思ったら、遠くの先を眺め、そして振り返り、また今来た道を戻っていった。それはそれはとても哀愁があった。おまけにその体はケンカの傷あとだらけなのだ。

 そして今度は、またずっと向こうから、頭の上に大きなものを乗せ、三人くらいずつかたまって、海沿いを歩いてくる姿が見えた。だんだんと近づいて来て、それがフテッシャーマンの女の人と女の子だとわかった。頭に乗せているのは、木の枝で、自分の体よりも大きくて、重そうだった。でもその足どりは軽く、大人も子供も関係なく、とても早いのだった。

 夕日に照らされながら、彼女らは進んでゆく。まるで絵葉書のシーンでも見ているようだった。前にも感じた事だけれど、僕はこのシーンに慣れたくないなって強く思った。

 その日の帰り道、宿までの道を迷ってしまい。僕はフィッシャーマンの家々の道を通り抜けて来た。不思議な不思議な時間がそこにあった。8/3 線路沿いにあるプラモデルの模型店のショーウインドウに、ギターを抱えたトッポジィージョがあった。それは首ふりになっていた。電車通るたびに、顔がゆらゆらと動く。まるで歌っているみたいだ。でもせつない。

「クンナ・サヨウナラ」8/5

 いつもと同じ、いつもの朝が来て、僕はいよいよ港町のプリーを出る日となった。

 朝食に出てくる、サンタナロッジの自家製ヨーグルトとバナナ。隣りでは、小猿のマヌーが騒いでいる。お昼過ぎには、ここを出なくてはならないので、忙しくなりそうだ。

 どしゃぶりのあの日。ここに初めて着いた朝に、まず見せてもらった宿のサンタナノートに、とうとう自分も書き込むときが来てしまった。屋上に行き、しっかりとイラスト入りで僕も、書き加えた。タイトルは「プリーと60パイサ」ここに来て、読んでいた文庫本「月と六ペンス」をもじって付けたのだ。

 ちゃんと書けたので、僕はとっても嬉しくなってしまった。ホントはもう一度、浜道バザールとあのフッシャーマン達のいる海に寄っていきたい。でもとても、そんな余裕がなかった。しかたなく今日までの日記を、書き上げることにした。

 なんとか日記も書き終わったところで、お昼となり、頼んでおいた鯛つきの食事をする。おいしかったのだけれど、もう時間がないので、よく味わえなかった。急いで荷物をまとめ、リキシャマンを呼んでもらい、とうとうホントにここを出るときが来てしまった。

 マディア。ポクナ。サンタナさん。そしておばあさん。小猿のマヌー。犬のトラ。みんなにひととおり別れを言って、もう外で待っているリキシャに乗り込む。ああ、なんてせわしないんだろう。クンナ君がそばに来てくれて、リキシャのそばで、手を合わせて「ナマステ」を真顔でしてくれた。僕もまた、こころから「ナマステ」をして答える。そしてリキシャは走り出し、サンタナロッジは遠くなっていった。

 (クンナ・サヨウナラ・・) あの日のどしゃぶりの道を、またリキシャに揺られてゆく。今日は、いい天気だ。とてもよく晴れたプリーの旅立ちの日。8/4 友達は、夜眠れないって言う。僕は、24時間いつでも、横になって眠れそうだ。それはひとつの幸せなのかもしれない。

「 アイム・オールドマン」8/6

 時間ぎりぎりで、プリーから列車に乗り、僕はインドの真ん中下のあたり、ハイダラバードに向かった。

 これから二日間、列車を楽しみながらゆこう。今、乗っているのは普通列車で、なんとも陽気なおじさんと一緒になった。オリッサの言葉で、どんどん話しかけてきて、僕が「わからないよ」ってジェスチャーで答えると、そのおじさんは茶色い歯でガハハって笑う。

 まるで喜劇役者としか思えないような、そのおじさんは、僕の持っているものを手に取っては「アイム・オールドマン・プリーズ・ギブ・ミー」って言う。僕が「何いっているんだよ」って顔をすると、またガハハハって笑うのだ。なんとも憎めないおじさんだ。

 そして、前の座席には、偶然にもポリスマンが座っていた。立派なひげで、僕の持ち物を、命令口調で「見せなさい」と言ってくる。デジタルの腕時計をじっと見たあと、「売ってくれ」って言う。「ダメダメ」

 クルダロードの駅のホームで、ハイダラバード行きの列車を、5時間も待つ事になってしまった。日本語の詩集を一冊持ってくはれば良かったとつくづく思う。日本を出るときは、こんなに日本語の本が恋しくなるとは思わなかった。そんなこんな、いろいろ考えていると、ひとりの男に声をかけられた。

 「おまえは、プリーのサンタナロッジから来ただろう?」そして「クンナ、クンナ」と言って、自分の腰のあたりに手のひらを付けた。(そうかぁ。有名なんだなぁ・・) でもクンナ君は、今年もう18才で、大きいのだ。今朝会ったクンナ君の事がとても懐かしく思えてしまった。

 予定どうり、急行列車はやって来て、無事に乗り込めた。あとは、明日の夜、ハイダラバードに着くだけだ。寝台に横になり、のんびりと長い夜を、物思いで過ごした。旅に出てからのいろんな事を考えてみた。思い切って、出て来てよかったと心から思った。本当は90パーセント、旅に行かない予定だったのだ。8/5 今日もリハ。ひろーいスタジオで、兄弟の練習。個人練習は一時間500円。本当なら、3500円くらいのスタジオだ。絶対入らないようなスタジオに入れるのも、個人練習の楽しみだ。お金も時間も得した気分。

「ハイダラバードの人達」8/7

 (こんなこともあるんだな・・)

 夜、ハイダラバードに向かう列車の中、広い車両に僕ひとりになってしまった。窓の外に顔を出して、好きな歌を歌ってみた。とても気持ちがいい。こんな幸せもある。

 続く闇の中から見えてきた、街の明かり。ハイダラバードだ。ずっと畑ばかりの風景だったので、街が見えてくると、なんだ嬉しくなって来る。田舎も好きだけれど、街にはそれなりに、こころときめくものがある。何かありそうな気がしてくる。

 プリーを出て30時間。やっと、新しい街、ハイダラバードに着いた。ホテルを四軒くらい回ったのだけれど、どこも満員。結局、すごくオンボロなロッジに泊まることになった。15Rs。たぶんこの辺では、一番安いと思われた。壁もぼろぼろ、ベットには、ネズミのかじったあとが付いていた。まあ、困るわけではないので、今夜はもうぐっすり眠る。ツーリストと、ひとりも会わない夜もまたいい。

 ハテダラバード二日目。街を歩いてみると、みんなじろじろこっちを見てくる。少し立ち止まれば、すぐに声を掛けられた。駅に行って切符を買おうとすれば、やっぱり次々に声をかけられ、いろいろと説明してくれた。それは心からの親切でしてくれているのがよくわかった。駅員さんもとても親切で、全部イヤミがなく、紳士的だ。そしてあっさりしている。

 宿の近くの少し大きな食堂に入ると、やっぱりここでも、人なつこそうな兄さんたちが、次々声をかけてくる。僕は椅子に座り注文。でも大好きな、骨好きチキンの焼きめしはないって言うので、席を立とうとしたら、一人の兄さんが僕の髪をなでて「まあいいから、座ってろ」って言う。

 なんだか遊ばれているような気がしたけれど、いい奴らにはちがいなかった。立て続けに、いろいろと質問してくる。でもそれは、友情のしるしのようだ。この街の人たちは、みんなどうしゃったんだろうか。場所がちがうとこんなにも人も変わってくるのか。不思議な街にまた来てしまった。8/6 夜、近くのおじいさんが一人でやってるリハーサルスタジオ行った。まずインタホーンで、おじいさんを呼んでから、スタジオに入る所だ。一時間ほど歌って帰ろうとすると、そこに夏休みのお知らせが貼ってあった。「あれぇ、今日休みじゃん」おじいさんは言う「そう、でも居たからいいよ」

「チャール・ミーナールとメッカ・マスジット」8/8

 ここハイダラバードの半分の人が、ムスリムだと言う。

 いままでのインドの街と人がちがうように感じるのは、きっとそのせいなんだろうなと、だんだん気付いてきた。イスラム教の人達はとてもフレンドリーだ。たった一日この街にいても、それはすぐにわかる。

 高い四方の柱がそびえ立っている、チャール・ミーナールのイスラムの建築。そして並ぶように、同じ通りにある、メッカ・マスジットのモスク。そこはハイダラバードでも有名なイスラムの場所だ。たっぷり歩いて、今日はその通りに会いにいった。

 途中、何人もに道をきいたのだけれど、どの人も嫌がらずにちゃんと答えてくれた。チャールミーナールの少し手前に市場のような道があったので、少し寄ってみた。子供も大人も声を上げて売っている。みんな商売上手のようだ。

 何人もに声をかけられるけれど、そのどれもしつこくなく。サラッとしている。通りかかる自転車に乗った子供も僕に声をかけてくる。それは僕にひとつのイメージをくれた。ここハイダラバードには、幸せの風が吹いているんだと・・。僕自身もだんだんと、その風を受けて、幸せになってゆくようだった。

 チャール・ミーナールとメッカ・マスジット。このイスラムの通りで、かわした言葉や会話。ここには何か、ひとつの良い事があって、それをお互いに確かめ合っているようだ。そして、最後の言葉はいつも「アチャー」そして「グット!!」ひとつの幸せが残るように話している。

 「おまえはどこに住んでいる?」「駅の近くのホテル」 「それはよい事だ」そんな会話の中、この賑わいのある通りもまた日が暮れてくる。僕の姿もまたぼんやりとしてきて、まるで誰でもないかのようだ。この街に来てから、まったくツーリストに出会わない。僕は今、本当の一人旅をしているようだった。8/7 マンダラ2での「夏の森」ライブにて。「兄弟」での出演。今日は、歌詞のよく聞こえてきた夜だ。山下君の言葉がひとつひとつ伝わってくる。僕もまた、一行も気持ちが抜けることなく、唄えた。そんな魔法の夜だった。

「いくつかのハロー」8/9

 初めての街、そして初めての道。ムスリムの多い、ここハイダラバードは、どこに行っても、ひとつの優しさが重なっているように見えた。

 帰る途中、石を刻むお店があったので、珍しいので外からのぞいてみた。何人もの職人さんが文字を彫っている中、小さな男の子もカンカン石を削っていた。店の奥にいたムスリム帽の主人が「ハロー」と言って、僕になにやら話かけて来た。少年はとても照れながら、チラチラっと僕を見ている。なんて言っていたか、だいだいわかる。その少年の顔と奥の主人の顔が忘れられない。

 宿に近くなったところの大通りの舗道の向こうで、ひとりの杖をついた老人が、片手を大きく挙げて「ハロー」と僕を呼んでいた。何か用なのかなと思って、そばに行くと、おじさんの服はボロボロだった。英語で話しかけてみるけれど、さっぱり通じない。(そうか・・、ハローと言いたかったのだな・・) すぐに理解して「オーケー!! グッパーイ」と言ってすぐに別れたけれど、おじさんは、手を挙げてまだ嬉しそうだ。僕もまた嬉しかった。

 なんだかオレンジが食べたくなって、探しに出かけた。うまく果物の露店に会えなくて、3キロくらい歩いてしまった。途中で、道路工事をしている人たちに出会った。その大部分の働き手は女性で、どこかの地方から来たのか、体中に、輝くメダルきが付けられてキラキラと光っていた。

 (すごい服だなぁ・・)驚いて眺めていると、その女性陣が、ニコニコと笑いながら「ハロー」と言って、何やら僕に叫んでいる。なんて言っているのかなぁ。彼女たちはとても陽気な人たちに思えた。

 いくつかの「ハロー」。この街にいると、自分が客という感じがして来ない。きっとそれは、この街に降りたときから始まっていたのだ。8/8 今日は休み。友達に昨日、おみやげを渡し忘れたので、電車に乗り、会いに行く。実はその前に、「そのうちに・・」とパソコンにメールを打ってあったのだ。でも気持ちが変わって会いに出かけた。それでよかった。さっき打ったメールの立場がなんとも良い。

「そんなひとつの事件」8/10

 お金がからんでくる事件は、なんとも恐い。僕もインドで一度だけこんな事があった。

 僕の泊まっているホテルは、ベニア板一枚で、つながっているような、小さな簡易ホテルのような安宿だった。細い廊下をはさんで、20部屋くらい並んであった。

 夜11時頃、部屋で休んでいると、ドアをノブをガチャガチャ回す音がした。男が何かわめいている。さっぱり理解できない。部屋でもまちがえたのだろうか?英語で答えてみるけれど、まったく通じない。そのうちに今度は、隣りの部屋の壁の上の金網から顔を出して、さらにわめいている。隣りの部屋の男だったのだ。その血相は普通ではなかった。

 何かテーブルの所を指さしている。そこには僕の財布があった。何かお金がらみの事を言っているのだろう。とりあえず僕は助けを求めることにした。ドアを開けるわけにもいかないので、テーブルの登りドアの上から、大声で人を呼んでみた。隣りの男は、さらに何か大声で叫んでいる。

 やがて、部屋のみんなが出てきて、隣りの男は、一方的に押さえこまれてしまった。なんだかふとった偉い人も登場してきて、僕に対して謝れって言う。そして形だけの土下座をして、そのまま荷物と一緒にホテルのレセプションに連れていかれた。外に出ても、男は何かわめいて、ひともんちゃくやっていた。

 いったい何を言っていたのだろう。僕は周りの人にいろいろきいてみるけれど、誰ひとり理由を教えてくれない。ただ「ドランク、ドランク」って答えるばかりだった。でも彼は酔ってはいなかった。彼が去ったあとも、まだ廊下では、なにやらみんなが話していた。

 たぶんお金がからんでいた事は確かだろう。そこには、いくつかの教訓があった。インドには紳士的な人もいれば、こんな感じの人もいる。そしてひとりひとりは、みんなとつながっているのだ。インドは危ないっていうけれど、どこにいっても大丈夫な気がしてきた。8/9 なんて大きな一日。バイトの帰りに、ポンペイ展に入って、その生活の豊かさに感動してしまった。ポスターのコピー。「21世紀は、私たちと同じくらい豊かですか?」のコピーが、展覧会全体を意味あるものにしていた。そし帰ってきてから、このエッセイの登場した。サンタナロッジのクンナ君と電話で話すことができた。これもインターネットの不思議だ。偶然にも形が出来ている。まるで、駄菓子屋のくじ引きみたい。

「むりやりのスイッ・ダウン」8/11

 ハイダラバードの街を歩いて、一週間。

 一週間いても、ほとんどツーリストと会わないというのは不思議なことだった。どこに行っても、こころよく迎えてくれるこの街に、なぜ来ないんだろう。僕は自由に泳ぐ魚のように、あっちに行ったりこっちに行ったり、ハイダラバードを楽しんでいた。

 初めに入った、宿の近くのレストランには、毎日のように通った。味付けの濃いチャーハンは、何回食べても美味しかった。広い店内、そして僕が来ると「ウエルカム!! 」と言って、いつものお兄さんが、迎えてくれた。それは僕だけでなく、誰に対しても、そうなのだろう。

 街を歩いてゆくと、また「ハロー」の声が聞こえてくる。そこはミルク屋さんだった。普通のミルクとは違い、少しだけあずき色なのだ。注文して飲んでみると、今までに飲んだことのないくらいに、美味しい。たぶんバターかなにか入っているのだろう。

 (ああ・・、うまい!!) その場に立って、その味に感動していると、ひとりのインド人が僕の肩を両手でつかんで、椅子に所に連れていって、「スイッ・ダウン!! 」と言って、むりやり座らせてくれた。でも、それはまったく嫌みがなく。友情さえ感じてしまった。

 目の前では使い走りの小僧が、僕らのやりとりを見てニコニコしている。それは言葉のない笑顔だった。その店には、今まで見たことのない、黄色いヨーグルトがあり「ホワッツ・ズィス?」ときけば、スプーン一杯、すぐに味見させてくれた。そうなのだ。この街の時間は、きっと座っている場面から始まっているのだろう。8/10 今日は今日で、昨日のまだ幸せが続いている。クンナ君の声が耳にずっと残っている。耳にもきっとシャッターというものがあるのだろう。今度はいつ、その声に会えるのだろう。

「さらばハイダラバード」8/12

 今日の夜には、このハイダラバードを出て、次の街マドラスヘ向かおう。

 ドタバタ騒ぎがあったわりには、ぐっすり眠れて、いい朝だ。なんとか日記をまとめてから、ここを出ようかな。昨日、おとといの日記はたくさん書くことがあって大変だ。イラストも四日分もたまっている。

 そんな時間が流れたあと、やっと準備も終えて、荷物を背負って外に出てみると、なんともきれいな夕日が照っていた。ムスリムの街、ここハイダラバードには、とても親しみを感じる。駅の階段を登ってゆくとき、そのあたたかさを背中に感じて、僕は何度も「さよなら」を言った。

 ハイダラバードに来るツーリストはあまり居ないけれど、この街で見つけた出会いは、そのぶん僕の宝物の思い出だ。僕はハイダラバードの街のことをみんなに薦めよう。観光地ではないけれど、今まで通ってきた旅さきの街で、一番、こころに近づいた場所だった。

 マドラス行きの列車のシートに座る。またこの場所に来た。旅立ちだ。そんな感傷的な気持ちで、発車を待っていると、太鼓を抱えた、ひとりの少年が列車に乗り込んで来た。12才くらいだろうか。肩まである髪と、首に巻いたマフラーがとてもよく似合っていた。

 変声期まえのちょっとかすれた声で、抱えたタイコを叩きながら、彼は歌い出した。その歌い方は、強める所は強め、弱める所は弱め、大変に味があった。タイコのリズムもまた、柔らかくじっくりと響いていた。彼はただ歌うだけで、なにパイサをねだるわけではなかった。純粋に音楽をやっているように見えた。

 インドに入ってから、いろいろ音楽を聴いてきたけれど、僕には彼の声と歌が、こころに心底響いた。彼はそれを、なりわいにして暮らしているのだろう。歌を歌う家庭に生まれたのだろう。彼の服はボロボロだったけれど、僕のハートに届き、疲れをとってくれた。

 彼はただ列車の中を歩いてゆき、お金をくれる人からだけから集めていった。僕の前も通り過ぎてしまったので、呼び止めて、少しだけ、こころ付けをあげた。そして二三のほめ言葉をかけた。いいミュージシャンになれるよって伝えたかったのだ。

 いつのまにか、列車は動き出した。ハイダラバードの街は、ひとつの優しいこころのようだった。8/11 目が覚めてみると、もう午後。昨夜、この夏、初スイカを食べる。四分の一で350円。今年のスイカは安かったのか。それにしてもスイカは損してるよなあ。食べそびれているもの。

「マドラス到着」8/13

 少年の歌が胸に響いたまま、僕は寝台に横になり、ぐっすりと眠れた。そして明け方、次々と懐かしい夢を見た。

 中学時代のクラブの夢だ。僕は卓球部にいて、そのときの先輩のひとりひとりをリアルに思い出したのだ。そしてその頃のまわりの景色も、街の感じも当時のままだった。

 夢に出てきた先輩のことは、もう10年以上、忘れていた人たちだ。いったい記憶のどこを通って出てきたのだろう。目が覚めてみると、懐かしい気持ちでいっぱいになっていた。

 さてマドラス。マドラス。なんて潮の香りのする名前の街だろう。ここは南インドの東。海沿いの大きな都市だ。どんなところだろう。いつものように、ジュースを一本飲み、それから宿探しに出かけた。一軒、二軒。安宿を探すけれど、どこもFULLでいっぱいだと言う。三軒、四軒、五軒。それでもまだ、どこもいっぱいだと言う。マドラスの宿はいったいどうなっているのだろう?

 六軒、七軒、八軒。まだ空室がない。九軒、十軒。もうさすがに疲れてきた。駅から30分も歩いて、やっと一軒、空いている部屋を見つけた。でも値段が高い。いつもの二倍だ。フカフカのベット。まぁ、いいかな。

 やっと落ち着いて、今度の駅に、次の列車の予約を入れに出かけた。これが大変だった。マドラス駅では、当日の普通とスリーパーは別の窓口。明日以降のチケットは別の三階建てのビルディングの中にあった。僕は当日券の窓口から、並んではまた、並び直して、移動してはまた並んで、とうとう三時間以上もかかってしまった。

 おまけに、その明日以降のスリーパーの窓口で「外国人専用の窓口に行ってくれ」とか最後に言われてしまう。なんてことだ。その外国人用の窓口がまた、20人以上並んでいるのだった。宿探しに、切符買い。マドラスは疲れる街だ。

 へとへとな気分で、宿へとむかって歩いていると、待ってましたという感じで、一人の男が僕に声をかけてきた。

 「ハロー、ユー・アー・ベリーラッキー。トゥディ・ラヴィシャンカール・コンサート!!」(そんなバカな・・) 僕はもう、いっときでも早く、宿で休みたかった。8/12 今日はホームページ作りをずっとしていた。一日遅れると、なかなかその一日分が取り戻せない。まるで食事みたいだ。

「トゥディ・ラヴィシャンカール・コンサート!!」8/14

 「ハロー、ユー・アー・ベリーラッキー。トゥディ・ラヴィシャンカール・コンサート!!」

 その男は、大通りで、待っていたかのように、僕をつかまえて言った。一瞬、(そんなバカなと)と思ったけれど、ここマドラスは、インドでも大きな街なので、あるかもしれない。ラヴィ・シャンカールは有名なシタール奏者で、一度はぜひ観たいとは思っていたのだ。

 もし本当ならば、行ってもいいかなと思い、その男の話を少し聞いてみることにした。「私はスリランカ人です」と言う彼は、ちょっと顔立ちが、みんなとちがっていた。そして喫茶店にチケットを買える友達がいるらしい。しきりにその間も彼は「ユー・アー・ベリベリ・ラッキー」と僕に言っていた。

 喫茶店に着くと、彼はチケットの話をなんとも感動的に、その友達という男に伝えた。「ドゥ・ユー・ハブ・ティケット?」「オーケー・アイル・トライ!!」話をきけば、今チケットは無いけれど、ブラックマーケットで買うとの事だった。

 そして、ブラックマーケットで買うには、まず100Rs必要だと言う。(とうとう来たな・・) 彼ら二人の会話はわざとらしく、とても本当の話とは思えなかった。コンサートの場所とか確かめるけれど、あいまい事しか言わない。「ノー・ノー・ノーサンクス!!」僕は半分あきれて、席を立とうとすると、今度は「ブラックマーケットではない」とか言い直してきた。

 「オッケー・アイ・ゴー」僕は席を立ち、帰ろうとすると、二人して「サヨナラー」とか叫んでいる。あーあ、時間を無駄にした。なんだかがっかりした気持ちで、帰り道をふらふらと歩いてゆくと、またちがう場所で、ひとり男に「トゥディ・ラヴィシャンカール・コンサート!!」と誘う男に会った。

 あきれた半分、ホントかなと思ったけれど、またさらに僕は疲れてしまった。8/13 夜、みんなと暑気払いの飲み会。久し振りに何杯も飲む。友達は今、週に二三回は、仕事で海に行っていると言う。顔が焼けていた。生活がちがうなぁ。

「マドラスの兄ちゃんたち」8/15

 マドラスの街がなんだかつかめないままで、近くのマリーナビーチに今日は出かけてみた。

 照りつける太陽の下、ずっと砂浜をゆくと、まるで砂漠を歩いているようだ。ノドが乾いてしかたがない。遠くに見えるジュース屋にやっと辿り着いたのに、誰もいなかった。ああ、がっかりした。また三キロ、砂浜を歩いて帰ってくると、もう足が痛くなっていた。

 マドラスの街の通りを歩き、友達にハガキを出そうと、ポストカードを探してみるけれど、どこの店屋に入っても、ポストカードは無いと言う。マドラスは観光地ではないだろうけれど、ポストカードくらいあってもいいのに。なんだか、この街に居るのが変な気持ちだ。おまけに宿の近くはメタル工場が多いらしく、ずっとカンカン打つ音が鳴り響いていた。

 (はじめてだなぁ。こんなふうな気持ちで、街を歩くのは・・) 今までずっと、出会いの多い旅を続けてきたのに、今回ばかりは、何もないかもしれない。まったく僕は、ここでは相手にされていない観光客のようだ。

 夜になって、宿の近くのマドラスの路地へと出かけた。路地と言っても半分は、小さな工場が続きで、いたるところでメタルを打つ音がまだ聞こえていた。多く人で賑わっている中、一軒の「COFFEE HOUSE」と看板の書かれた、立ち飲み屋を見つけた。南インドまで来ると、チャイだけじゃなく、コーヒーもあると聞いていたけれど本当だ。

 僕の姿を見つけた、コーヒー屋のお兄さんが、道の向こうから「ハロー!!」と大きな声で呼んでくれた。それはとてもくだけた響きがあり、そのまま誘われるままに、立ち飲みコーヒー屋さんに入った。何人かいる店員のお兄さんたちも「ハロー!!」って言ってくる。その声は、商売気がなく、気さくな感じだ。(かまえていたのは、僕の方だったかな・・)

 夜の11時を過ぎてから、ホットレモンを作りたくなり、宿の外に探しに行く。でもレモンなんて売っている露店なんて、この時間にはないので、ふつうの味付けで使っている露店に声をかけて、いくつか売ってもらえるかきいてみた。

 「キャナイ・バイ・パッセブル?」「オーケー」僕はレモンを三つ片手に取って、いくらか聞いてみた。すると30パイサだって言う。(30×3で90パイサか・・) 僕は1ルピーを渡して「お釣りはいいよ」って言って、その露店を離れようとしたら、店のお兄さんが「ウエイト!!」と言って、僕に小銭をジャラジャラとくれた。レモンは一つ10 パイサだったのだ。

 お互い、僕が値段を勘違いしたことがすぐにわかって、なんだか大笑いになった。「バアーイ」そう言いあって別れた。それはとてもいい感じだった。宿に戻るとき、さっきのコーヒー屋さんの前を通ると、お兄さんが「グンナーイト!!」と言って、手を振ってくれた。嬉しい。幸せな気持ちで宿に戻ってゆく自分がいた。8/14 今日も友達と民族音楽のビデオをたっぷり観る。なんだか全部良く思える。ちがう時間が流れているのだ。それにしてもなぜ、日本編が無いのだろう。

「この街のポストカード」8/16

 マドラスのポストカードは、この街のどこにあるのだろう。

 外に出ると雨。今の季節は雨が多いのでしかたがないが、驚いたのはメタル工場の人達がシャツと腰巻きのルンギ一枚で、雨の中でも平気で作業をしていた事だった。なんて実用性の高い服なのだろう。

 雨も上がり、街の大通りも抜けたので、今日は知らない路地に行ってみようと思った。地図もなく、曲がり、進んでゆく。そこはオートリキシャの部品製造の小さな工場が、見える限り続いていた。そうか、ここで作られて、インドじゅうにゆくのだな。そこは一種独特の雰囲気があった。

 ちょっと歩いてみる。どの工場も開け放しで、作業服が油でしみたみんなが、何やら作っている。顔も黒いし服も黒い。誰もが歯だけがとても白くめだって見える。その工場と一緒にヤシの葉で作られた屋根の家も続いていて、人なつこそうなみんなが、僕を見つけては嬉しそうにしていた。

 この路地にこんな日本人がトコトコと歩いているのはどうも珍しいらしく、誰も彼もがニコッとしては「ハロー」と声をかけてくる。みんな陽気な人達だ。僕が歩いてゆくと、工場の人達も気付いては、手を振ってくる。ある工場では、油で黒くなった服の男たち、四五人が、外まで急いで出てきて、大きく手を振ってくれた。白い歯の顔が笑っている。「ハロー!!」

 ふと見る、そこは壺かなにかを作っているメタル工場だった。狭いスペースに、細長く輪になって座り、ハンマーを振り上げメタルを打ち出している。それはそれは大音量でうるさかった。でも僕が通りかかると、仕事の手を休めて、いっせいに手を振ってくれる。ここマドラスに来てよかった。その時の僕の気持ちを、みんなに伝えたい。

 (きっとこの街は、彼らのような人たちで支えられている工業地帯なのだな・・) 二日前までは、マドラスはなんて街だろうと思っていた。知らない路地まで足を伸ばして良かった。忘れられない風景はそこに待っていた。8/15 ここ数日。牛丼の「吉野家」に寄っているが、そこの店員のお兄さんが、二人分くらいに太っていて、息もハアハアに半分走りながらやっているのだ。店内は、そんなに混んでいるわけではない。ただ、値下げで忙しいように最近思っているのだ。 

「さらばマドラス、ケーララへ」8/17

 さらば、マドラス。そんな言葉がよく似合う響きの中、僕は夜に駅へと向かった。

 小雨降る、マドラスの街。アルミを叩く音は、朝、昼、夜中を通して鳴っていた。その音は、明日も、そしてずっとたったその日も打たれているだろう。煉瓦塀のところで小さな黒ヤギが雨やどりをしていた。あの子山羊は何を考えているんだろう? そんな気持ちのまま、駅の階段をのぼり、僕はマドラスの街を後にした。

 いよいよ次は、南インドの西、コーチンに着く。憧れのケーララ州だ。そこはヤシがどこまでも続いているという。北インドのバラナシで知り合った、レストランの男、サシーの故郷でもある所だ。「ケーララはいい」と何度も言っていた。そしてあの宿のマスターは、僕に一緒にケーララに行こうと誘ってくれた。そのケーララに朝には着いているのだ。

 ぐっすりと眠れたあとの朝9時。列車は、コーチンの街に着いた。まず宿探し。予定していた宿は、値段が変わっていた。それもぜんぜん高い。他の宿を探すけれど、どこもいっぱいか、高い部屋しかない。10軒目くらいで、宿探しのやり方を変えた。現地の人に宿の場所をきいて、そこをたずねた。それでもいい宿がない。とうとう20軒目くらいになった。

 (南インドの宿の事情はどうなっているんだろうな・・) もうしかたがないので、少しくらい高くても、宿を決めてしまう。バス・トイレ付のシングルルーム。予定より10Rs 高いけれど、いい部屋だ。そうかコーチンの宿は、ちゃんとした部屋が多いのだな。安い宿にしても、結局いろいろお金は使ってしまうので、コーチンでは節約をしょう。

 節約と心で思った瞬間から、僕は生水を飲んでいた。ずっと避けていたのだけれど、そうも言っていられない。(なんだ、飲めるじゃないか!!) ここコーチンの水は大丈夫と知った。さて、ちょっと街を散歩に行って来よう。イメージでは、ヤシの樹が続いている街を想像していたけれど、ここは大きな街だった。

 道を歩いてゆくと、なんだか僕が珍しいのかもしれないけれど、次から次に「ハロー」って声をかけられた。 ムスリムの街、ハイデラバードでもそうだったけれど、ここコーチンのハローは、親切すぎるところがない。友達の親しさのようだ。みんな振り向いて僕をみている。おかしな気分だ。

 夜になり、レストランに入り、いつものようにベジタブルカレーを注文してみると、なんとグリーンピースが300個くらい入ったカレーが出てくる。まあ、これもベジタブルカレーだ。もちろん食べられないこともない。インドは広いのだし、前の街と比べてもしかたがない。

 コーチンの一日目は、多くの人にハローと声をかけられたことと、お金がないなと思ったら、生水をカバガバを飲めたこと。このふたつくらいで終わってしまった。それでよし。ケーララの旅はのんびりと行こう。8/16 ジーンズの右のポケットにある、小さなコイン入れのポケット。そう言えば、ずっとずっとはいているけれど、その小さなポケットにお金を入れておいた事がないなぁ。今なら500円玉とか入れたらいいだろうなぁ。今度、そこからコインを出して、買い物してみよう。

「ギターを買ってしまう」8/18

 なにげなく始まったコーチンでの二日目の朝。そして夕方には、生活がガラリと変わってしまうなんて、どうして思えただろう。

 宿を出て今日は、商店街をずっと歩いていって見た。昨日もそうだったけれど、気軽なハローの声が聞こえてくる。ここコーチンの街は、まるで日本のようだ。バラナシやカルカッタのような、混沌とした感じではなく、ちゃんとしているのだ。きっと生活が豊かなのだろう。

 ずっと歩いた先の角に、一軒の楽器屋さんがあった。楽器屋さん? そういえばインドに入ってから、初めての楽器屋さんだ。のぞいてみると、バヨリンが多く並んでいる。そしてその続きにギターもまた並んでいた。どうもここはバヨリンの工房らしい。ギターもまた、バヨリンとそっくりな色をしていた。

 (いったい、いくらくらいなんだろうなぁ・・) 久し振りに見るギター。その懐かしさが、僕を店の中に吸い込んでしまった。そしてちょっと見て、びっくり。僕の考えるギターの観念とここはぜんぜん違うのだった。まるでバヨリンのように、小さなサイズのギターから、普通のサイズのギターまで、何段階かで揃っていて、それに形も色も大きなバヨリンみたい。

 (ところ変わればギターも変わるだな) 弦を下で押さえるブリッジの所も、バヨリンのような形で、調整も可能だ。どうしても弾きたくなって小さなサイズのギターを見せてもらった。まず軽い。ボディも薄く、チューニングもばっちり合って、音もいい。一応値段を聞いてみると、意外と安い。

 僕の持ってるルピーとドルを全部合わせても、足りない。「お金が足りないよ!!」って言えば、そこまで値段をまけてくれると言う。今は金曜の夕方。銀行はもうやっていないので、5ルピーだけ残して、全部払ってその小さなギターを買った。

 (買ってしまったなぁ・・) 片手には持っているギター。運がいいのか、悪いのか、今朝たまたま新曲の歌詞を作っていたのだ。そのまま、海へと行って2時間ほど、弾いてみた。すぐに人が集まってくる。練習なのになぁ。これからの移動が大変になったけれど、この嬉しさには変えられない。

 コーチンの街を歩くと、みんなギターを見ては、何が可笑しいのか、クスクスと笑うのだった。宿の人も、笑っている。(あれぇ?) ギターの何が変なのかなぁ。それにしても、今、5ルピーしかない。月曜までの二日間、どうやって5ルピーで暮らそう。宿の近くの露店で、バナナを10本買った。

 「これが、ランチアンドディナーだよ」って、僕が冗談で言ったら、露店の人は「いいから、パンを持って行け」と、首を斜めに傾けた。8/17 今日は、バイトで一軒だけ夜に訪ねた。いつも昼、自転車で来ている商店街もこうして夜に来てみればなんとも淋しい。夜風も吹いている。こんな日は、帰りはバスに乗っていこう。

「コーチンの雨やどり」8/19

 朝起きてギターがあり、僕は一日、弾くことが出来るようになった。

 南インド、コーチンの気候は、一年を通して過ごしやすく、ポカリとあたたかい日差しが、この12月にも差している。シングルの部屋にはラジオが付けられてあり、そこからはインドミュージックが流れている。ベットにはギターがあり、旅の時間が、あたたかく満ちて来ているのがわかった。

 やっと月曜になり、僕は銀行で、お金を両替することが出来た。まずはコーラを飲もう。一番近くの小さなお店に入ると、人の良さそうなおじさんと、その娘さんが迎えてくれた。たったコーラ一本なのに、いろいろとやさしくしてくれた。娘さんは、コーラの栓を抜いてくれたり、ストローを差してくれたりと、ずっと笑顔で応対してくれた。

 コーラ一本、飲んでる間もおじさんは話しかけてくれて、嬉しい限りだった。隣りで娘さんも微笑んでいる。「サンクス!!」そう言って、外に出ると胸が幸せの気分になっていた。

 それからまた港へとギターを弾きに行った。歌っても歌っても、まだ歌いたい気持ち。人生が戻ってきたようだ。旅も変わるかもしれない。歌える曲を増やさないとね。「上を向いて歩こう」をおぼえよう。

 港からの帰り道、突然に雨が降って来てしまった。それはもうスコールとしか言いようのないどしゃぶりで、一軒のお店のひさしの下、雨やどりをするしかなかった。僕と一緒にカバンを担いだ小学生の少年もいた。彼の肌は本当にきれいなこげ茶色で、なんだか見惚れてしまった。その足は素足で、水たまりの中、カエルの足のようにしっかりと指を開いていた。

 (なつかしいなぁ・・) 僕には、その素足の感覚が、うらやましかった。きっと素足の方が気持ちいいだろう。そんな事をふと思っていると、また二人、小学生の男の子が、飛び込んで来た。そしてお店の人に何か頼んでいる。そして三人は、それぞれにビニール袋をもらい、それにカバンを包んで、そのまま雨の中にかけていった。

 お店のひさしに残された僕。まだまだ雨はあがりそうにない。すると向こうから、きれいなサリーを着たお姉さんが二人、ゆっくりと一本の傘を差して歩いて来た。それはもう悠々としてて、ふたりお喋りとかしている。サリーのすそを少しまくっているくらいだ。あんなふうにゆっくりと歩いてくるほうが、きっと濡れないのだろう。それに比べて日本人ときたら・・。

 突然の雨も、今はすっかりと上がり、きれいにもう晴れている。今日はいい日だ。またバナナを買って帰ろう。8/18 ヨーロッパの民族音楽のビデオを借りて来て見た。このシリーズには、日本の巻がない。ヨーロッパ編を見ていたら、日本編は作るのが難しいだろうなって思った。きっとヨーロッパの各国の人たちが、このビデオを見たときの気持ちのように。いやぁ、自分たちを紹介するって大変だろう。

「午後の日陰のレストラン」8/20

 窓辺にパンを置いておいたら、カラスが持っていってしまった。ここはホテルの三階。冬だというのにあたたかく日当たりもいい。

 南インド、コーチンの街はとても豊かで、みんなの表情も明るい。僕もここでは、シングルルームを借りて、毎日がとてもゆったりとしている。

 シャワーもトイレも付いているのだけれど、壁には四角いラジオが付けられていて、そこからはインドの歌謡曲が流れ続けていた。有線なのかどうかは知らないが、いくつかあるチャンネルは、どれも同じような歌に聞こえる。

 インドのポピュラーミュージックは、とてもにぎやかで、インド風ディスコがいま流行りだ。映画音楽がほとんどらしいけれど、なんと言うか、テンションが高くてすごいパワーだ。

 午後の3時になった頃、突然にラジオが聞こえなくなったので、ホテルの人にきいてみると、昼の二時間くらい停電になるのだと言う。そうか節電なのだな。そのまま街の通りに出かけると、不思議な空気が流れていた。電気のない時間・・。

 宿のすぐ隣りにある、いつも行くひろーいレストランに寄ってみた。そこは下が土のままになっていて、テーブルはかなりの数がある。好きな所に座れるのもいいけれど、どうしてこんなに広いんだろう。いつ人で満席になるのだろう。

 そんな事を想いながら、真ん中へんのテーブルに座ってみる。停電の時間はもちろんここは日陰になってしまう。そんな当たり前のことまでが、不思議に思えてくる。広いって、涼しいことなんだなぁ。

 僕しかいないそんな日陰のレストランでカレーを食べたあと、節約停電中の路地へと出かけてみた。どこへ行っても、人々の話声が聞こえてくる。何かきっと楽しいことを話しているんだろう。

 ホテルの廊下には、雑用係のおじさんが行ったり来たりしてて、昼はいつも暇そうにしている。目と目が合ったりすると、ドアが叩かれ、何も言っていないのに水を持ってきたりしてくれる。言葉はなく、嬉しそうだ。そんな時間がここにはある。8/19 「あま〜いスイカ」の文字を見て、四分の一で350円のスイカ。安い。チラッと見たその横のスイカはひと玉700円だ。 帰って来て食べてみると「あま〜いスイカ」とはほど遠いじゃないか。きっとあの700円のスイカを切っているんだな。スイカについてはよく知っているので、どうにも悲しくなって、大きなスーパーにもう一度スイカを買いに行く。山形産スイカ。帰って食べてみるとあま〜い。安心の味だ。ちゃんと産地を書いてくれー。

「ラストトレイン・トゥ・コタヤム」8/21

 インド最南端のコモリン岬へ行こうと、コーチンの宿に荷物を置いたままで、僕は夜おそく駅まで向かった。最終列車に乗って、船発着場のあるコタヤムまで行き、朝一番で船に乗ろうという計画なのだ。

 ホームで待っていると列車がやって来た。どっと降りてくる人達。その中にまじって日本の女性のツーリストがいた。表情が恐い。まるで鬼のよう。嫌なことでもあったのかな。そして他の車両にまた乗り込んでいった。

 声をかける時間もなく僕もまた、その列車に乗り込んだ。さすがに最終は混んでいる。自分の立っている場所を確保するだけけで精一杯だった。でも中国の列車のときとは、少し雰囲気が違う。いろんな表情の人がいて、いろんな場所に人がいた。子供らは重なりあって眠っている。子供らはどこでも眠れるのだなぁ。

 一番上の寝台のシートに、まだ中学生くらいの女の子が三人、座ってお喋りをしていた。彼女らの服装は、南インドではポピュラーな、半袖のシャツに長いスカートで、茶色い肌にとてもよく似合っている。三人ともお下げ髪だ。南インドの女性は笑顔で話すから好きだな。その表情はとても愛らしい。

 ケーララ州に来てから特に、インドの女性が美しく思えている。なんとも独特な品があり、南インドの男性諸君は、その美しさに惚れているのだろうなぁ。僕も今は、南インドの女性に憧れているひとりだ。

 午前2時。列車はコタヤムに到着した。まずは熱いコーヒーを飲もう。駅の入口のところに行くと、そこでは何十人という人達が横になって眠っていた。それは列車を待っているのではなく、ここで寝泊まりしているのだろう。まだ船の発着場にゆくには早すぎるので、僕も少しここでひと眠りすることにした。

 バックひとつを腕に結びつけて、インドの人たちと一緒にコンクリートの上に横になった。東京の友達は、今僕がこんなふうにしているとは想像もしていないだろう。そんな事を思いながら、デジタルの腕時計を4時にセットした。

 目をつぶっていると、赤ん坊が急に大声で泣き出した。母親は自然に抱き寄せていた。本当にここは家のようだ。そんなことも普通に感じられるのも、インドならではなんだなぁ。僕は眠りについた。8/20 帰り道、ひとりの自転車に乗ってるおばさんが、前を走っているおばさんに声をかけていた。「高橋さん? 高橋さん?」しかし高橋さんは、振り向かない。そして「えっ、私のこと?」と言って振り向いた。「あら、ごめんなさい。ひとちがいでしたぁ」しかしその後、ふたりは仲良く話していったのです。

「ジェティまで、行く途中」8/22

 夜4 時。そう夜明け前に僕は、仮眠していた駅のコンクリートから起き出して、船の発着場、ボート・ジェティへと向かった。

 まだ真っ暗な道。いたる所で、インドの人たちが寝ている。まるでいつかの探偵小説のように、僕は足早に歩いて行く。いいスピードだ。このままパリまで行ければなぁ。

 途中、おじさんにジェティまでの道をたずねると、マップとはちがう方向を教えてくれた。不安だったけれど、そう言うのだからきっとあるだろう。しかし、だんだん道は細くなり真っ暗になってしまった。

 (あれぇー) また何人かの人に、ジェティまでの道をたずねると、ジェティの場所は変わったのだと言う。ひとりのおじさんが「こっちに来い」と言って、一緒に案内してくれた。おじさんはずっとケーララの言葉で話しかけてくる。わからないって言ってるのに・・。

 「こっちだ」そう教えてくれたのは、道ではなく、ジェティのある方向だけだった。「サンクス!!」また夜道を歩き出してゆく。僕にはわかった。マップなんてなくても、こっちだと言うのだから、この方向に歩いてゆけば、必ずボート乗り場に着くとゆうことが。僕にはわかった。どんなに迷っても朝一番の船に、必ず間に合うとゆうことが。

 やがて、並ぶヤシの樹の隙間から川が見えて来て、川沿いに歩いてゆくと、船の発着場があった。ずいぷんと歩いたので、もう汗だくだ。水路には15メートルほどのボートが泊まっていて、朝一番の出発には、あと1時間ほどあった。

 (そうか、夜明け前には、船は出ないのだな・・) そんな当たり前の事に気づきながら、ボート・ジェティの前のお茶飲み小屋に入った。僕ひとりが、お客だ。まずコーヒーを飲もう。マスターが言う。

 「ハロー、ホワッチャ・ ネーイム?」「マイ・ネイム・イズ・アオーキ!!」夜はだんだんと明けてきていた。僕は、ここに間に合っていた。8/21 今日は休み。いつもなら、路地を小走りで回っている頃だ。しかしそんなパワーはどこにもなく、部屋に居ると、パワーダウンして何もできない。あっと言う間に午後3時とかになってしまう。部屋には魔法がかかっている。

「ケーララの船旅」8/23

 そして朝6時。ボートに一番で乗り込むと、もうそこには、ふたりくらい横になって眠っているいる人がいた。(なーんだ。一番じゃないのかぁ・・) でも、この朝は何もこだわりのない気持ちにしてくれる。

 やがて、だんだんと人が集まってきた。「ハロー」と声をかけてくるみんな。約30分で、50人ほど集まり、ボートはホテイアオイで埋まる水路をゆっくりと出発した。陽は昇り、赤トンボがところ狭しと飛んでいる。

 真っ青な背中の小さな鳥(カワセミ?)が、さっと飛び抜けてゆく。両岸に並び続くヤシの木とそしてバナナ。そんな自然の景色の中を、ゆっくりとボートは進む。水面は平たく、とても広い。丸木船に乗っている黒い地元の人。何か漁をやっている様子だ。

 そんな朝の、水路の景色を心浮かれながら眺めていると、僕の肩を軽く叩くおじさんがいた。「ハロ。テケット」2時間乗って3ルピー(約50円)。安いなぁ。

 ボートは、広い水路を人々の生活を見せながら、気持ちよく進む。ときどき見えて来る民家は、きれいなペンキで塗られていた。誰のアイデアだろう。それは、このヤシの木の並ぶ景色にとてもよく似合っていた。

 いくつもボート・ジェティに船は止まり、地元の人達を乗せてゆく。船は、ここではバスの代わりなのだ。僕には、こんなにステキに見える景色も、みんなには普通の景色なのだろう。ずっと岸に沿って船は進み、人々の朝の生活が、見せてくれた。

 ここではみんな、川でものを洗い、体も洗い、歯も磨く。時には用も足すかもしれない。小屋の中から、小さな子供がはしゃぎ出て、川へと向かう。10代の娘さんたちも、川に出ていろいろ仕事をしている。色鮮やかな服がよく似合っていて、みんな美人だ。目がキラキラしてて、とても愛らしい。僕はまた、ひとりひとりに心ひかれてしまっている。

 陽は東の方から、みかん色に光っていて、ヤシの木の隙間から、それはまぶしく漏れていた。あのヤシの向こうで、すごくいい太陽が照っているだろう。そしてまたボートは進む。今度は見える限りの広い田んぼだ。その田んぼの色と、空のブルーの色の境目がぼやけてはっきりしない。いったいどこまで田んぼは続いているのか。

 両脇に続くヤシの木もどこまでの続いていて、水路の先もぼやけてはっきりしない。こんな夢のような景色に僕は居れて幸せだった。白い水鳥が、ゆっくりと飛びめぐっているのが見えた。その飛ぶ姿はなめらかでやわらかく、まるで芸術のよう。僕はずっと見惚れていた。8/22 台風の日の朝。バイト先にゆくと、今日は中止だって言う。友達を待って、コーヒーを飲んだりして帰ってくる。家に帰ってくると、そのまま、曇ったままで雨は降らなかった。まあ、これも大きなコーヒーブレイクかな。

「コモリン岬の夕焼け」8/24

 「さあ、夕日にまにあうか?」走るバスは、僕を乗せてインド最南端へ向かっていた。

 ボートで水路で乗り継いで、行こうと思っていたのに、船は予定通りに運行されてなく、バスに乗ることになった。水路のある場所からバスの出ているところがわからない。道をたずねたずね、やっとバススタンドに着いた。これからが勝負だ。

 とにかく最南端のコモリン岬の夕日に間にあえばいいのだが、時間的にぎりぎりなようだ。それに、バスでどう乗り継いでいったらいのか、まずまったくわからない。「アイ・ウオントゥ・ゴウ・ケープ・コモリン!!」その言葉だけを頼りにバスを探していった。

 親切な兄さんが、「エクスプレス(急行)に乗るといい」と教えてくれた。「サンクス!!」。乗ったバスは早く、次々と他のバスを追い越してゆく。風は窓から勢いよく入る。午後の日差しの中、なんだかとても眠くなる。そういえば今日はあまり眠っていなかったのだ。

 うとうとっとして、鉄の棒に頭をぶつけてしまった。回りのインド人が笑っている。そして3時間半。バスはトリヴァンドラムへ。ここからケープ・コモリンまでバスで2時間半。夕日に間に合うか、ぎりぎりだ。バススタンドへ行ってダイレクトバスを探してみるけれど見つからない。

 いろいろきいてみると、コモリンまでの直行バスはないと言う。なんとか乗り継ぎのバスを見つけて乗り込んだ。出発を待っていると、コモリンまでの直行らしきバスを見つけて、出発まぢか、バスを乗り換えた。失敗したかもしれない。きいてみれば、やっぱり直行バスだった。

 そんなラッキーに応援されて、バスはどんどん最南端へと向かっていった。だんだんと陽が傾いてゆくのがわかる。ここまで来たのに、夕日に間に合わなかったなんて嫌だ。コモリン岬は、インド洋とベンガル湾がぶつかるので、海から陽が昇り、海に沈むという場所。そこで見る夕日は、インド人憧れの観光スポットだと言う。ああ、どうにか間にあって欲しい。

 夕方5時。バスはコモリン岬に着いた。あいにくの雨。でも絶対、赤い夕日は落ちていると信じ、岬へと向かう。貝殻細工の露店が並んでいる。やがて海が見えてくる。雨。そして雲も多い。(ああ、だめだっか・・) それでも辛抱強く待って西の方を見つめていると、やがて海が、かすかにオレンジ色に染まっていった。海の向こうはきっと晴れなのだ。

 感動的とまではいかなかったけれど、今日12月12日の夕日には、まちがいがない。僕は夕焼の10分前に、間に合ったのだ。直行バスでなかったら、見ることはできなかったろう。小雨降るなかで見た、インド最南端の夕焼け。その夕焼けは今も、目の中に残っている。8/23 台風は去り、今日は35度まで気温が上がると言う。僕も洗濯物を出してバイトに出かけた。しかし夕方、バイト先の空は暗くなり、雨粒がバラバラと降ってきた。どの家も洗濯物や布団を干している。みんな今が夏だということを忘れていた。僕も忘れていた。台風の次の日の一日快晴は、きっと秋の話だったのだ。 

「カニャクマリの浜道」8/25

 インド最南端のコモリン岬は、「カニャクマリ」と呼ばれていて、昔から聖地のひとつにもなっている古い町だ。

 それとともに、ここはインドの人達にとっての、観光地でもあり、海から昇り海へと沈む太陽の朝焼けと夕焼けは、絶景と呼ばれているらしい。家族連れや、新婚旅行のみんなが来ていて、この海岸沿いの街は、なんだか小さなお祭りの日のよう。

 海岸へと続く道には、貝殻細工の露店が並んでいようだ。「カニャクマリはいいよ」と、そうバラナシで会った、インド20年のツーリストのおじさんが、そう僕に言っていたのを思い出した。ここは、インドの街のあわただしい感じはなく、ふっとため息のつけるような街だ。ここを歩くすべての人の表情が、それを教えてくれる。

 続くおみやげ屋さんの露店や、海の幸の食堂。どこの国でも、海岸の観光地は、一緒かもしれない。おみやげ屋さんの続く小道を、のんびりと歩いてゆくと、道の脇に黒いかたまりが見えた。(なんだろう?) 行ってみると、それは10匹くらいの黒豚くんが親豚に寄り添って、重なりながら眠っていた。みんなじっとしていて不思議だ。

 また一方では、黒い子豚くんたちが、親豚の乳を吸おうと、体当たりして押し倒していた。親豚くんは虫の居所がワ悪いらしく、子豚くんたちから、この道を必死に逃げまくっていた。追いかける子豚くんたち。なんだか黒豚って愛しいんだなぁ。それにしてもコイツラは野良か?

 露店の中の一軒に、見たこともないような黒い実を売っていた。ヤシの実のよりもちょっと小さいくらいの大きさだ。(なんだろう?) どんなふうに食べてるのか、しばらく眺めてみる。中からプリンとした、透明な食べるところが出てきた。(よし、食べよう)。 名前をきけば、その実は「パルメロ」って言う。いかにもって言う名前だ。「おいしいぞ」って言ってくれたけれど、半分も食べれなかった。二回目からは、おいしく感じるのかもしれないが・・。

 この潮風の吹く、カニャクマリの露店の続く道は、現実感がなく、夢の中を歩いているようだ。首から貝飾りの下げた、黒い服を着た太っちょのあんちゃんが、サンダルをはいて、のっしのっしと歩いてくる。きっとこの道の、やんちゃな兄さんだろう。丸いその顔には、生ヒゲがうっすらはえている。その胸では貝の首飾りが、ジャラジャラと揺れていた。8/24 図書館に行った帰り、自転車にて、どしゃぶりにあう。これで三回連続だ。何かそういう事になっているのか。それとも、雨の降る前に、図書館に行きたくなるのか?

「ヤシの木のバスの道」8/26

 コモリン岬、朝5時半。まずチャイを飲んで、浜辺に出かけると、最南端の日の出を見ようと、多くの人々が集まっていた。

 インドの家族連れや、新婚カップルに混じって、僕もまた感動的に日の出を眺めて見る。インド洋の方から昇る朝日。昨日の夕日とそれは逆方向。そうだ、あれから太陽は、地球を一回りして来たのだ。同じ場所から眺める不思議を教えてくれた。

 海辺に続く、おみやげ屋さんの露店の道は、今日も変わらない時間が流れているようだ。きっと明日もここは変わらないだろう。一年じゅう賑わっているだろう。それにしても黒豚くんたちは、なんとも愛しいなぁ・・。

 夕日と朝日をとりあえず見たので、またコーチンの街に帰ろう。バックひとつの旅はとても気楽で楽しい。でも宿に置いてきた荷物が、僕を呼んでいる。夕方までバスに乗り続けることになるだろう。これはトンボがえりの旅なのだ。

 ヤシの木が続く南インドの道を、どこまでもバスは走って行く。走っても走っても、その景色は変わらない。これが南インドなのだろう。ヤシの木はいいなぁ。バスの移動もいいなぁ。僕はインド最南端まで行けた満ちた気持ちで、ずっと嬉しかった。

 また三回バスを乗り継いで、夕方に、ボートの出ている街のアレッピーに着いた。さて、ボートに間に合うか? 行ってみると、三分前にボートは出たばかりだと言う。(ああ、三分ちがいかぁ・・) 行きのコモリン岬の夕焼けには間に合ったのに、帰りは、間に合わなかった。まあ、それはしかたがないなと思い。今夜は、このアレッピーの街に泊まることにした。

 予定していない街に泊まる夜は、なんだか不思議だ。旅に出て四ヶ月間で初めて。商店街を歩いてゆくと、みんな「ハロー、ハロー」と声をかけて来てくれる。果物屋で、おじさんといろいろ話す。英語を使う僕に「おまえは、ビジネスが出来る!! オーケーだ。ノープロブレムだ」と言われる。なんだかとても気の合うおじさんだ。小雨の降ってきた中、しばらく話す。

 (そうだ。これからはこんなふうに、くだけた感じで話してゆこうか) 僕はそこでぶどうを一房買った。「グンナイ!!」小雨の中、手を振り宿に帰った。そしてぶどうを食べてみると、信じられないくらいに美味しい。南インドは豊かななんだなぁ。目をつぶると、まだヤシの木が揺れているようだった。8/25 帰り道、ふと見ると昨日まで工事をしていた所に、新しいラーメン屋が出来ていた。そこは、前もラーメンだった所。その前も、ラーメン屋さんだった所。願いを込めて、僕も初日に寄ってみる。うまいんだけれど、微妙だなぁ。今度こそがんばって欲しい。

「もうすぐのコーチン」8/27

 たまたま泊まった街でも、朝起きて外へ出ると、チヤイ屋に声をかけられるのは一緒だ。朝はやっぱりチャイが似合っているなぁ。

 寄ってみると、パンツ姿のふたりの子供が並んで、グラスを両手で持ちミルクを飲んでいた。ふたごかなぁと思ったけれど、よく見ると違った。ふたりは、ゆっくりゆっくりグラス一杯の、ミルクを飲む。それは本当にゆっくりゆっくりと。

 僕の方をチラチラと見たり、お互いの目をチラチラと見たり・・。僕の他におじさんがひとり先にいて、僕はすっかりそのおじさんの子供なんだろうなぁと信じていた。そしてふたり一緒に、ミルクを飲み干したかと思ったら、グラスを台に音を立てて置いて、急にまっすぐ道向こうのテントの家にかけてっ行った。ふたりはあのテントの家の子供だったのだ。

 僕には、ふたりの仕草のすべてが意味あるのものように思えた。とても印象的だった。このシーンに会えただけでも、この街に泊まってよかった。そして7時には、ボートジェティに行き、またホテイアオイで埋まる水路から、船に乗って行った。朝の水路はいいなぁ。現実のものとは思えないほどの、素晴らしい眺めだ。そして静けさに満ちている。

 水路の終わりコタヤムに着いて、鉄道の駅へと向かった。そうだ、あれは一昨日の夜明けだ。僕はここを迷っていた。またずいぶんと歩いて駅へと向かう。途中にあった坂道は、牛がいたり、人々が行き交っていたり、車が通ったり、忙しく時間が流れていた。坂道って不思議だ。どうしてこんなに生活感があるのだろう。

 30分ほど歩いてコタヤムの駅に着くと、コーチン行きは2時間ないと言う。当日の切符を買うのに、1時間くらい並んでしまった。インドは、忙しいのか、のんびりしてるのかわからない。そしてまた1時間。

 やっとコーチン行きの列車に乗って行く。最南端へのトンボがえりの旅ももう終わりだ。乗った車両には、ドアとゆうものが付いていなかった。僕は段差のところに座って、景色を眺めながら、しばらく揺られていった。目の前には、なにもなくて大変に恐い。恐いけれど、旅の実感があった。あごに手を付きながら(こんな旅をしているんだなぁ) と僕は思った。8/26 4年振りくらいに、ジーンズを買う。二本も買ってしまう。やっぱりリーバイス501はいいなぁ。肌が喜んでいる。

 「コーチンタウンに戻って来ると」8/28

 まだお昼前、列車はコーチンの街に着いた。

 二日振りに戻ってきた、コーチンタウンはなんだか、懐かしさでいっぱいだった。たった二日間いなかっただけなのに、まるでふるさとに帰って来たみたい。この街のことは、なんでも知っているような気がしてくる。こんな気持ちは旅に出てから初めてだ。

 見えてくる宿までの道。その途中にあるパン屋さんとその兄さん。そして宿の入口、部屋のドア、ベットに荷物にギターまでも、みんなそのままで、おもわず「おまえたち元気だった?」と声をかけてしまう。宿では、僕が居なくて大変だったらしい。いゃぁ、悪かった。悪かった・・。

 宿の前には、大きな屋根付のテントが張られていて、そこにはいつも20人くらいの人達が、何やらいつも集まり、お茶を飲みながら話していた。「〜ユニオン」と書かれているので、集会を毎日やっているのだろう。僕が通りかかると、みんなは手を挙げて「ハロー、ハロー」と声をかけてくる。毎回それは、大騒ぎなので、あきれていたが、こうして帰って来るとなんとも嬉しい。

 商店街を行けば、やっぱりみんなに「ハロー」と声をかけられる。いつもゆくアイスクリーム屋さんの、お兄さんに「コモリン岬に行って来たよ」って言うと、「よかっただろう」って答えてくれる。(あの夕日がいいのかな?) 。それにしてもどうしてこんなに、コーチンの街が懐かしいのだろう。アイスクリームをなめながら考えてみた。

 思い出していたのが、ベナレスで知り合ったあの、ケーララ州生まれのサシーのことだった。彼とはとても仲良くなった。そして彼がいつも歌っていた、ケーララ州の歌の鼻歌。サシーが遠く思い出していた南インドは、きっとこんなふうに懐かしいのだろう。そして、ここコーチンの街は、あのサシーのように、仲良くなれた街になった。

 ヤシの木が揺れているような、あのサシーの鼻歌のメロディーを、僕なりに歌ってみた。8/28 夜、高円寺の阿波踊りに出かける。近所なので、ほんの20分ほど寄ってみる。最近は、体力的なものが大変だなあと思うようになってしまった。女の人なんて、つま先歩きじゃないか。一人でビール飲んで、いい気持ちで帰ってくる。また明日行こう。

「また会えた人 (・・さよならコーチン)」8/29

 駅の階段が夕日に染まる中、僕は荷物を担いで、コーチンの駅の階段にいた。

 コーチン街との別れは、とてもさわやかだった。いつもなら、名残惜しい気持ちでいっぱいのはずなのに、今日は素直に旅立てた。さよならとゆう気がしないのだ。ここでギターも買ったし、船旅もまた充実してて、抱えきれないほどの思い出をもらった。ありがとう、コーチン。また明日もここは「ハロー」の声が行き交っているだろう。

 ホームで列車を待っていると、ちょっと離れたベンチに、日本の女性と思われる ツーリストが、ひとりでポツンと座っていた。声をかけてみると、やっぱりそうだった。一瞬、どこかで会ったような気がしていたけれど、思い出せない。

 列車が来る20分間のあいだ、いろいろと話してみると、彼女もまた、四ヶ月前に鑑真号に乗って、神戸から上海に渡ったと言う。そうだ、思い出した。鑑真号の船の出る駅まで、電車に乗ったとき、一緒の車両にバックパックを担いで乗っていて、「鑑真号ですか?」と声をかけられなかった女性だった。つまり初めて会った旅人の人だ。

 あれから四ヶ月。彼女も僕もいろいろと旅をして、こうしてまた、 南インドで二人で一緒のホームで列車を待っていると思うと、とても不思議だ。こんなことってあるんだなぁ。話している間、時間が止まっていたけれど、列車はちゃんとやって来た。(・・さよならコーチン)

 寝台列車のシートナンバーも、隣どうしになっていて、また遅くまで旅の話をした。彼女は英語がぜんぜん出来ないと言う。その街に居るときよりも、こうして移動している時のほうが好きだと言う。そんな彼女は、いろんなことにあっさりしてて、「もう寝ます」と言って、寝台に登っていった。

 金網をはさんで、隣の寝台に眠っている彼女。ここコーチンを旅している日本人は、たぶん僕らだけだろう。あの神戸で声をかけられなくて後悔した人と、四ヶ月後、南インドでちゃんと話せて嬉しい。僕は旅の巡り会いを感じて、なかなか眠れなかった。8/28 高円寺の阿波踊りが大雨のため。途中中止となった。しかし雨はすっかり上がってしまった。みんなみんながっかりしている。次々と「なぜだ?」と詰め寄っている。なぜだ? あんまりじゃないか。僕は拓郎の「祭りのあと」をずっと口ずさんでいた。

「ギターのメルヘン。そしてゴアへ」8/30

 翌朝、列車はバンガロールの街に着いた。僕のここからまたすぐ、有名なゴアへ向かおう。

 昨日偶然に会えた、日本の彼女と、朝のレストランに入る。英語は得意じゃないみたいだけれど、行動的にテキパキと判断できていて、僕なんかより、旅なれているように思えた。彼女は、また外国に何度も行きたい言う。僕はもう来れないつもりで旅をしていたので、なんだか違う時間にいるような気がした。

 食事の後、「では」と言って、そのまま手を振った。また会うかもしれない。こんな出会いと別れもあるだろう。僕はまた駅に戻り、ゴア行きの列車の予約に行った。しかしいい席がないので、時間はかかるけれど、バスでゴアに向かうことにした。

 連日の移動。流れてゆく景色。また陽は高く昇り、そして傾いてゆく。ここ一週間は、ずっとこんな感じだ。今回は、僕にとっては初めての深夜バス。外はもうすっかり暗くなって来た。パスストップで、チャイを飲み、バナナを買い。ここはどこだろうと思ってみる。そんな繰り返しのなか、とうとう深夜になってしまった。

 僕の両足の間には、コーチンの街で買った小さなギターがあった。これからずっと、このギターと一緒の旅になるのだろう。バスの窓から見える外の景色は淋しい。街灯りもない道は、どこまでも暗い。僕はギターのことを想っていた。中学生の頃から弾き始めて、もう15年間の付き合いだ。どんなときも一緒だったギターは、まちがいなく僕の生涯の「友」になるだろう。

 ギターは人ではないのに、生涯の「友」がギターだなんて、よく考えると可笑しい話だ。まるでそれは何かの童話の世界のよう。しかし実際に、ギターは僕の友になっているのだ。それは事実だ。僕はゴアへ向かうながいながい夜の中で、人生について考えた。

 人生はひとつのメルヘンではないかと思えたら、僕は泣けてきて仕方がなかった。深夜のバスストップで飲んだ、ヤシの実ジュースは、今までで一番美味しかった。8/29 種子島のロケット打ち上げのニュースをみる。過去二回失敗してて、打ち上げる側は、すごいブレッシャーだろう。無事打ち上がって泣いている人も居た。しかし今回は、たいした物を積んでいないのだと言う。ああ、もったいない。

「ケーララの町で」8/31


  
30人の顔が、テントから僕に、手を振ってくれていた
  ヤシの木茂る、南のインド、ホテルの前の町内集会
  ケーララ州のここはコーチン、年中チョッピリ暑い
  町を歩けば、次から次に、声かけられた「ハロー、ハロー」
 
  ホテルのじっちゃん、目と目が合えば、水持ってやってくる
  壁掛け式の有線ラジオ、全チャンネル、インドのタンタタタ
  2時から4時までは、節約停電、道ばた声が響きだす
  やけに広いレストランは、全部日影さ

    ザザザザザ、ザザザー ヤシの木が揺れていた
    どこでも、ケーララ


  ホテルに荷物、置いたままで、運河下りの旅に出た
  乗り換え船を、乗り継いで、最南端まで行ってみた
  ひろびろ続く、ヤシの水路に、スローモーションで人が立つ
  思うぞんぶんオレンジ色は、空を染めていた

  トンボがえりで、最南端から、コーチンタウンに戻ってくると
  パン屋のあんちゃん、屋台や小道、なにもかもが懐かしい
  北のベナレスで、友達だったのは、ケーララ生まれのサシー
  おまえのことを、思い出すよ、鼻唄とともに

    ザザザザザ、ザザザー ヤシの木が揺れていた
    いつでも、ケーララ
    
8/30 ひと月、どうもありがとうございました。ケーララでの船旅は、忘れられない思い出のひとつで、歌にもなり、ずっと歌っています。歌うたびに、脳裏に浮かんでくる風景を書けたので嬉しい。いつか、ぜひ南インドに行くことがあったら、コタヤム〜アレッピーの船に乗ってみて下さい。 

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