青木タカオの「ちょっくら・おん・まい・でいず」 今月に戻る
過去ログ「卓球時代」日記付き'02.8月〜11月

vol.1「卓球少年登場」(8/9)

 「スマーッシュ!!」

 そしてピンポン玉が飛んで来る。

 それは、遠い時間の向こう、少年ジャンプや駄菓子の、色褪せたカラー写真が渦巻く中を抜けて、白いピンポン玉が飛んで来る。

 「ウオッシャー!!」

 飛んで来たピンポン玉なら、受けて返すのが当然だろう。

 40才の僕が、ラケットを振る。そしてまたピンポン玉を打ち返してくるのも、中学生の僕だ。

 青い半袖のユニフォームの背中には、汗がにじんでいる。つま先立てた卓球シューズと、自分でつめた卓球パンツをはいているアイツ。

 「よし、来い!!」

 卓球少年の「青ちゃん」が、僕にピンポン玉を打ってきた。2002年8月、陽ざしの暑い日のここへ。

 もちろん、あの日も暑かったに違いない。


 vol.2「物語へのサーブ」(8/12)

 大リーグボール養成ギブスはなかったが、それなりの特訓が待っていた。

 とにかく兄キが卓球部だったのだ。

 小学三年の頃から、そんな兄キの卓球への熱中ぶりを見ていただけではなく、なぜかフォームの指導もまた、兄キから受けることになった。

 「1.2.3.イチ.ニー.サン」

 素振りは三角形を描いて、ラケットは眉の上へ。脇をしめて、つま先は前倒しに。

 そんな、素振りの基本形を指導されながら、玄関と居間の間の二畳ほどのスペースで、大きなガラスのサッシ戸に向かってピンポン玉を打った。パシュン、パシュン、パシュン、パシュン・・。

 「スマーッシュ !!」

 ピンポン玉は、狭い部屋の中を当たりまくる。それは大変な快感だ。

 しかし、そうしていたのは、ほとんど兄キの方で、僕はまだ自分のラケットさえ持ってはいなかった。

 兄キは中学の卓球部で、日々、卓球に夢中だった。僕はそんな兄キからの半ば強制的な指導により、多少はうまくなっていった。

 ときどきはサッシ戸に向かって、ピンポン打ちをした。

 「サンジュウ、サンジュウイチ、サンジュウニ、サンジュウサン、スマーッシュー!!」

 そしてピンポン玉は、狭い部屋の中を当たりまくる。気分は、卓球の達人。

 ・・・・・

 それから数年後、僕は中学の卓球部で、球ひろいの日々を送っていた。



vol.3「卓球台への道」(8/15)

 もちろん中学では僕は卓球部に入った。

 そしてもちろん、最初は玉ひろいからだ。

 卓球台は四つ並んでいただろうか。先輩たちが打っている後ろ、5メートルくらい下がって、飛んで来た玉を受け取り投げ返すのだ。少し足を広げて、つま先立ち。両手はひざの上あたりに乗せる。

 新入部員は12人ほど。最初はまったく卓球台で打つことすらできない。毎日「しごき」と呼ばれるトレーニングに、先輩に5人ほど選ばれて、玉ひろいのみんなを残し連れて行かれるのだ。

 その「しごき」こそ、まさに「しごき」だった。2時間以上の体力トレーニング。これは地獄のようだ。「卓球部とはいえ、体力はつけていないとだめだ」とは名目上で、実際は根性を鍛えるということだったと思う。

 「鬼の先輩」がいた。「しごき 」に喜びを見つけている先輩だ。レギュラーから外れていたせいもあり、しごき係に徹していた。

 春の初め、まだまだ陽は暮れてはこない。

 「しごき」を終えて帰ってくると、もちろんまた玉ひろいだ。玉ひろいをしていたみんなが、今度はしごきに出かける。

 「今日は、まいったよ・・」。玉ひろいのみんなにいつもそう言って、交代するのだ。

 教室に帰る。みんな今日の部活の「しごき」について話している。きいてみれば、卓球部が一番厳しいじゃないか。これはこれで、なんだか誇らしい気持ちだ。

 そのうち「しごき」が快感になってきた。そしてまた玉ひろいの日々。

 ・・卓球台への道は遠い。



vol.4「俺たちの時間」(8/19)

 では、いつ俺たちは卓球台で打てるのか?

 まだ部活に入ったばかりの新人には、卓球台で打てるチャンスはほとんどない。

 では、いつ俺たちは卓球台で打てるのか?

 それは朝だ・・。

 朝だけは、俺たちの時間だ。みなの言うところの「朝レン」だ。7時から体育館にやって来て、卓球台を並べ、そして貴重な時間を使うようにして、打つ。ときには、スマーッシュ!! ピンポン玉が、遠くに飛ぶ。

 「なにやってんだよ、ヘタ!!」

 「ごめんごめん」

 朝レンの時間は短い。実際の話それで足りるわけがない。僕らはひとつの計画を企てた。体育館の小さな窓を前日に開けておいて、朝早く忍び込むのだ。

 6時代にやって来て、こっそりと入る。見回りのおじさんが来ないという前提で、卓球台を出して練習。やけに響くピンポン玉の音。いつ用務員のおじさんが来るかわからないドキドキ感。

 ほんの30分くらいのために・・。

 朝レンの時間は貴重だったけれど、その前の秘密の30分はもっと貴重だった。

 なんというか、それは卓球の鬼となる30分というか・・。


vol.5「先輩たち」(8/23)

 6限が終わると、俺たちは更衣室に走る。

 大急ぎでユニフォームに着替えたあと、体育館に行き、すぐさま卓球台を出し、続け打ち(ロング)の練習をするのだ。そして先輩たちが来るまでが、一年生が卓球台で打てる貴重な時間になる。先輩たちが来たら、あとは玉ひろいになってしまう。

 首にタオルを巻いて、悠々と先輩たちがやって来る。

 先輩たちは、それぞれに登場の仕方というものがある。それは僕にとっては、スターを見るようなものだ。

 部長のトミタさんは、背が高く横分けの髪が印象的なリーダー。それは部活のはじまりの印。

 そしてオオツさん。オオツさんは左ききで背が高く、声がしゃがれてて、とても強い。

 小柄なヤマモトさんは、いつもニコニコとして、僕らとの仲介役。

 オオコさんは美男子で、まるで芸能人のよう。もてそうなオオコさん。

 二年の先輩では、なんと言ってもサトウ先輩だった。小柄ではあるが、とにかく強い。郡市の大会でも一番に強い一人で、動きが早く天才型の卓球プレーヤーに見えた。

 他のみんなも個性豊かな先輩たちばかり。そしていつものとおりの部活が始まる。一年生はまだまだ子ども扱いだ。

 あるときのこと、他の学校に練習に行ったとき、三年のオオツさんが打つ相手がいなくて、僕がたまたま呼ばれた。

 「アオキ、ラケット持ってこい!!」「ハイ!!」

 そしてしばらく、憧れのオオツさんとの練習打ち。オオツさんは、例のしゃがれ声で言った。

 「おまえは、うまい!!」

 その日から、ことあるごとにオオツさんは僕を呼んで、いろいろと教えてくれた。特別待遇だ。みんなスマン・・。

 そうやって、玉ひろいの日々からのそれぞれの脱出が始まっていった。



vol.6「Y先輩」(8/27)

 へんてこフォームのY 先輩。

 何人もいた先輩たちの中でも、忘れられない先輩がいる。Y先輩だ。

 Y先輩は、にきび跡のあるブツブツ顔で、1年先輩なのにまるで大人みたいだった。たぶん先輩の中では一番弱く、フォームが変だった。変というか、オリジナルなフォームだ。

 そんなY先輩は、もっぱら僕らの体力トレーニング係として選ばれ、外ではシゴキの鬼になっていた。

 「ほら、もっと走れー!!」。

 でも、最初の数ヶ月で、一番親しくなった先輩でもあった。

 卓球台で、練習相手がいないとき、Y先輩は後輩の中から選ぶ。誰でもいいのだけれど、うまいと思う後輩を指名するのが普通だ。Y先輩は僕をいつも呼んだ。

 「アオキー、ラケット持ってこーい!!」

 そして、へんてこフォームのY 先輩は、練習打ちをする。ロングのときはまあ普通だ。しかしフリーになってしまうと、僕に打たれてしまうのだ。

 「うぁあ!!」

 Y先輩は、それでも毎回僕を指名した。

 Y先輩は独自のフォームで、スマッシュを決める。

 「ヨシッ!!」 

 体育館にその声は大きく響いた。

 そのうち僕らは、普通にどの台からも声がかかるようになり、Y先輩と打つことも少なくなった。少しずつ遠くなったY先輩。

 ときどき思い出したように、Y先輩は僕に声をかけた。

 「アオキー、ラケット持ってこーい!!」

 忘れられないY先輩。


vol.7「合同練習」(8/30)

 そこにやって来たみんなたち。

 それがどういう事で集まったのかは、記憶がない。その日、同じ市に住んでいる中学校の一年が、同じ体育館で合同練習をしたのだった。

 初めて会う同じ卓球部のみんな。やがては好ライバルとなる予感がする。それぞれの学校のユニフォームを着て、体育館に列んでいる。そのときはまだ誰も、学校同士の激しい戦いに突入するとは思ってはいないだろう。

 まるで初心者のように、卓球の基本からの説明があった。スポーツ精神とか、心構えとか・・。

 (そんなことはわかっている・・)

 僕らは大人しくしていたけれど、こころは燃えていた。「初めて卓球」とかいうジゲンではない。勝つか負けるか、一位か二位か。全国大会に行くか消えるか。そんなレベルなのだ。

 体育館いっぱいに並べられた台で、それぞれの学校を交えての「打ち」の練習。もうここで、だいたいのうまさがわかる。

 静かな炎が燃える。

 指導の先生が台を前にして、基本フォームの指導をしたあと、お手本のひとりを選んだ。

 「アオキ、打ってみろ」

 それは光栄なことだった。小さい頃から、基本はしっかりやってきたので、フォームに関しては自信があった。

 しかし、先生が考えているレベルを僕らはとっくに越えていた。やがては、全国大会クラスに出場するようなメンバーが多くいたのだ。

 いずれは熱い試合を重ねるライバルたちとの、顔見せだった。僕らのその後のドラマは、もう静かに始まっていた。


vol.8「YSP杯・TSP杯・ニッタク杯」(9/2)

 そんな僕らでも参加できる試合があった。

 それは卓球の会社で主催する、年一回やってくる民間の試合だ。「YSP杯」「TSP杯」「ニッタク杯」たしかその三つだ。

 僕らはもちろん「中学の部」で、郡市で200人くらいの選手たちが、トーナメント方式で一日かけて試合をする。午前10時くらいから始まり、午後の4時には決勝戦が行われる。試合に負けた方が、その台の次の試合の審判をすることになっていたと思う。

 中一の卓球部のみんなにとっては、初めての本格的な試合だった。二年生・三年生も、もちろん参加しているので、実力的には負けることはわかっている。しかしトーナメントという試合の一部に自分たちもいることで、かなり卓球心が燃えることになった。

 体育館に卓球台が10台ほどならび、体育館の壁に沿って荷物を置いた各中学のみんなが、ひと休みをしている。トーナメントが進むと台は少なくなり、決勝戦では一台の回りをみんなが囲んだ。そしてどちらかの応援をしたり、そっと眺めていたり・・、もちろん見ないで帰る人もいた。

 第一試合で負けた人たちは、あとはずっと暇だ。勝った相手が、どんどん勝ち進むことを望むだけだ。そんなせつないトーナメント戦。

 先輩たちはどんどん勝ち進んでゆく。やがては準決勝・決勝にまで進んでゆく。さすかだ。しかし負けてゆく先輩もいる。せつないけれど、それも実力だ。

 試合慣れをしていない僕らは、実力が出せないで終わる。それも教訓のひとつ。そして試合に強い自分を見つける人もいる。

 「YSP杯」「TSP杯」「ニッタク杯」。それは、関係ない人には、まったくの無縁な言葉だろう。しかし、この試合名は僕らにとって、狂おしく情熱をかきたてる名前でもある。

 試合に負けることはある。自分が勝つということは、相手が負けるということだ。僕らも負ける。先輩も負ける。

 時とともに、勝ち進んでゆく僕ら。ひよこからにわとりへの長い旅。


vol.9「おれがミミヤだよ」(9/7)

 その朝は特別に燃えていた。そうだ今日は勝負の日。

 体育館にやって来ると、もうみんな集まっている。もらってあるトーナメント表には、約200名の名前が左右に書かれてある。勝ち進んでゆけば、もちろん優勝だ。しかしその道は遠い。

 中学生の部の卓球大会。僕らはまだ中学一年なので、その中でも、弱い方に入る。そして各ブロックの端は、強い選手と決まっている。その大きな左右の両ブロックにある、先輩の名前。。

 (いいなぁ・・)

 さて、トーナメントの中の自分の場所。それは、誰かが作ったにはちがいないが、それなりの場所に自分がいた。

 実績ゼロ。

 そう、僕が強いか弱いかは、初めての試合なので、予想も出来ないだろう。確かトーナメントを7回ほど勝ち進めば優勝となるはずだ。さあ、どの位進めるかな。

 一回戦が始まった。僕らの対戦相手は公平に一年生が相手だ。ふふ。

 「ヨシ、コーイ!!」

 掛け声だけは先輩とそっくりだ。もちろん一回戦で負けた仲間もいる。そして負けなかった仲間もいる。一回戦、二回戦。そして問題の三回戦だ。トーナメントも三回戦となれば、三年生の強い人ともあたり、僕らが勝つのはかなり厳しい。

 トーナメント表を見て来ると、三回戦の相手は、他の中学の「ミミヤ」という選手だった。気になる。どんな相手なのだろう? 僕は体育館の中をグルリと歩いて回った。もちろん三回戦の相手を探してだ。すると・・。

 すると、ひとりの赤いユニフォームの男が僕に声を掛けてきた。

 「俺がミミヤだよ」

 探していることがすっかりバレていたのだ。一瞬だったが、彼の頭がモヒカン刈りのように見えた。そして対戦。彼はなかなかに強かったが、フォームがへんてこだった。かなりの接戦になったあと、僕が勝った。四回戦の進出だ。

 友達もまた、四回戦まで行った。中一の初試合としたら充分な成績だ。

 今でも、あのときの「俺がミミヤだよ」の声が耳に残っている。


vol.10「ラケットの旅」(9/11)

 僕らもまた、その失敗の旅に出る。 

 中一の夏休み前ともなれば、僕らはちゃんとした卓球ラケットを買わなくてはならない。

 その頃でもラケットとラバーは、安いものではなかった。一度買ったら数年は使おうという気持ちが必要だ。

 「ラケット買っちゃったよ!! 」「ウッソッ!!」

 まあ、本人にしたら一大決心だ。一大決心のあとには「ラケット削り」という、一大儀式が待っている。それは自分の指の握りに合わせて、ヤスリで削ってゆくのだ。

 ・・・緊張するんだな、これが。

 削り過ぎたなら、もうおしまい。だから少しずつ削って調整してゆく。それが難しい。

 失敗を繰り返した先輩たちのラケットを見る。そして握らせてもらう。ため息が出るほど握りやすい。それもすべて、失敗から生まれた結果だ。

 削り方はどこにも書いていない。削り方には各学校の伝統がある。

 それぞれのラケットを握ると、しみた汗が、その人の手を感じさせる。そこにある戦いの跡、その苦労の道。自分の手になじんだ自分のラケットは、まるで自分の手の続きのようだ。

 そこまでの旅は長い。


vol.11「卓球勝負」(9/15)

 最低でも、42本勝負。

 卓球ほど、実力の差が点数に出るスポーツもないかもしれない。

 たいがい強い方が勝つ。その勝敗は、何度やってもほとんど変わらない。

 最低でも42本勝負。ちょっとの違いも、勝負を決めてしまう差になってしまう・・。

 何百人単位のトーナメント戦があっても、その上位に来る選手は確実に決まっている。

 堅い話は、まあここまでにして、さて、これはどういうことか。

 それは単純に、実力がつけば、それなりに強くなるということだ。

 これが困る・・。

 同じ友達と、何度やっても勝敗が同じなのだ。そして、ときどきは逆にもなる。

 これが困る・・。

 「俺はおまえに勝ったことがある。実力は同じだ!!」

 そう思われてしまう。たまたま勝った方は、それでもいいかもしれない。しかし、たまたま負けた方は悔しい。また勝っても悔しい。ずっと悔しい。

 将棋と似てるかもしれない。

 僕の頃の、中学の卓球の試合は21本3セット。どちらかが2セット先取した方が勝ちだ。3セットまで持ち込むことは多いけれど、ほとんどは実力のある方が勝つ。1セットとれば勝てそうな気がするけれど、現実はそうはいかない。

 長いときは120本以上の卓球勝負。そこには厳しい統計的現実がある。


vol.12「一中ファイト!!」(9/19)

 部活の良さはエールにあり。

 僕らの真ん中から、声が聞こえてくる。

 その声は、体育館の内側の屋根に響き、昨日と同じ声に体ごとまた溶け合ってゆく。

 「ゆくぞう!!」「オゥ!!」

 「いっちゅ〜〜う、ファイト!!」「オゥ!!」「ファイト!!」「オゥ!!」「 ファイト!!」「オゥ!!」

 「アリガトウゴザイマシタ〜」

 それは部活の一日の終わりの儀式だった。一般的には「エール」と呼ばれているものだ。

 部長が床に向かい、立て膝そして手をつき、僕らはその回りを囲むのだ。それは柏崎第一中学校卓球部の伝統だ。

 「エール」の声の出し方は絶妙だ。たくらみもなく、ピュアに、そしてカッコ良くなければいけない。しかし、カッコ良く声を出しながらも、カッコ悪く自分をかなぐり捨てる響きも必要だ。

 必然的に卓球部に入った日から、その「エール」に参加することになる。はじめは意味もわからずにただ先輩と同じように声を出す。それがまたいい。まるで、ひよこが親に付いてゆくようだ。

 毎回もちろん三年の部長が「エール」をするのだけれど、部長が居ないときは代わりの先輩の「エール」となる。

 それがなんとも、照れてて良い響きだった。

 その声は体育館の内側の屋根に響いてゆく。昨日の「エール」に、体ごと溶け合うのだ。

 今日も昨日も明日も響いているはずだ。


vol.13「他の中学のみんな」(9/22)

 「おっ、来たね!!」

 中学二年ともなると、他の中学の卓球部のみんなとも仲良くなり、それぞれの学校に遊びに行ったりするようにもなった。

 自分なりのスタイルが出来てきて、トーナメントでも勝ち抜くようになった僕らは、個性あるフォームで卓球をする。どういうわけだか、みんな誰とも似ていないのだ。

 それがいい。

 僕らは第一中だったが、もちろん、第二中も、第三中、第四中もある。同学年のみんなとは試合で会うことも多く、実力もだいたい同じだったので、友達にもなり、ライバルにもなった。

 そんなみんなが時々、お互いの卓球部に行き来をした。それぞれの中学の練習にも個性があり、試合で対戦するのと、また違う感じがする。試合こそしないものの、三本勝負とかは、なかなか楽しい。

 たとえて言えば、他の中学の教室を訪ねるようなものか。

 たとえて言えば、いとこの家に遊びに行ったようなものか。

 三年になれば、みんな部活の主役になってがんばることになるだろう。今はその途中で、未知数の中での友達なのだ。やがて来る激しい戦いの前の、それはのんびりさというか・・。

 強敵の中学の卓球部を訪ねたとき、思ったよりも狭い場所でやっていて、驚いたりしたものだった。遊びに行ったときは、自分たちの実力を全開ではなく、ちょっとゆるめて三本勝負をするのがいい。

 本気にならずに楽しむのが、僕らなりのマナーだったようだ。


vol.14「鬼の青木さん」(9/25)

 先輩になるということは、後輩が出来るということだ。

 やっぱり僕らもまた先輩のように、先輩らしくしないといけないだろう。

 先輩といえば、トレーニングのとき僕らを鬼にようにシゴいた。それは今にして思えば、軟弱な卓球部のイメージを壊すものとして、とても大事なことだった。

 鬼の役は僕がやろう。他のみんなは、鬼にはなってくれそうになかった。それは卓球部の伝統だ。厳しいトレーニングで、ハガネのような精神力を身につけるのだ。

 だからこそ僕は、一年のみんなをトレーニングにつれてゆき、僕らのときのようにシゴいた。後輩は僕を「鬼の青木さん」と呼んだ。

 顔をゆがめる後輩たち。(なぜ卓球部なのに、こんなに激しいトレーニングなんだ!?)と、こころで思っていただろう。

 まるで「いじめ」?

 いやいや、これは伝統だ。自分でもよくわからないが、伝統には深い理由がある。

 柏崎第一中卓球部は、弱くあってはいけない。それは貫いて欲しい。

 どうしても「鬼」が必要だった。


vol.15「城北のみんな」(9/29)

 僕らが二年だったとき、新潟県の上越地区で何かが起きていた。

 全国のこんな狭い地区なのに、なぜか全国大会トップレベルの成績を残す選手が、続々現れたのだ。それは「城北中学」と「新井中学」の中からだった。

 そんな地区大会に、僕ら二年生もレギュラー選手の補欠として地区大会についていった。僕を含めて3人が選ばれた。

 (いたいた、噂の城北と新井のみんなが・・。)

 城北中の選手は、なぜかみんな長髪で、ユニフォームは鮮やかなグリーン。とてもオシャレだ。まるでアイドルみたい。それでいて、全国一位の実力と言われているのだから、憎い。。

 先輩たちはその「城北中学」との対戦となった。僕ら柏崎一中は、実力的には勝てるわけがない。派手なパフォーマンスと共に、先輩たちがやられている。打たれている。強い。たしかに強い。

 (これが全国一位の実力か・・・。)

 先輩たちが試合をしている横では、まだ二年生と思われる、補欠の選手たちが座って応援していた。僕らと同じ立場なのだ。僕らと同じ立場なのに、彼らはみな長髪で、僕らはスポーツ刈り。なんだろう、この差は。

 対戦をしているとき、僕は同じ補欠の選手と目と目が合った。彼の目が、長髪の間から僕に(どうだ!!)と言った気がした。来年になったら、今度はお互いにレギュラーとなり、戦うことにもなるだろう。

 その目の光を僕は忘れない。

 城北中学の卓球部は人気があるらしくて、応援には、かわいい女子たちが集まっていた。

 (くそ!! カッコ良すぎるんだよ)。それはただの嫉妬だったかもしれない。

 先輩たちは城北中学に惨敗した。佐藤先輩だけが健闘した。そしてその悔しさは、僕ら後輩が引き継いだ。


vol.16「そして新井中学」(10/2)

 新井中学もまた強かった。

 その実力は「城北中」とともに、全国一位、二位のレベルにあった。なぜ上越地区にこんな奇跡が起きたのか?

 新井中学は、「城北中」の派手さは逆に、限りなく地味だ。もともと学校のユニフォームは伝統的に決まっているので仕方がないのだけれど、つや消しのあずき色のユニフォームは、目立つ方ではない。しかし、、。

 しかし、新井中学は強かった。ペンホルダーで、速攻と呼ばれるスタイルの卓球だった。卓球台から離れずに、すぐさまスマッシュを決めるのだ。スポーツ刈りの髪に、あずき色のユニフォームは、強さの象徴のように見えた。

 シェークハンド、鮮やかな緑のユニフォーム、そして長髪。そんな派手な「城北」中学に対して、対照的に地味すぎる「新井」中学。予選大会でも、その両校は圧倒的な強さで勝っていった。

 新井の選手たちは、自信たっぷりに卓球台に立つ、そして何の感情に流されることなく、あっという間にスマッシュを決めてゆく。そのフォームは流れるように素晴らしい。

 まるで、昔のサムライのようだ。

 「城北」と「新井」。そのライバル関係は、少年漫画に出てきてもおかしくないと思えた。


vol.17のサーブ完成」(10/5)

 中学二年。だんだんとみんな、それぞれの卓球スタイルができあがってくる頃。

 僕は、シェークハンドのオールラウンドプレイヤーになることに決めた。速攻もドライブもカットもする。それでいいだろう。

 そして、ふとしたことをきっかけに、僕は魔のサーブをあみ出すことになった。文字に現すことはかなり難しい。ピンポン玉に、下方向の横回転を与えるのだ。

 ピンポン玉は意外とゆっくりに進む。それは信じられないほどの回転が掛けられているからだ。普通にそのサーブを受けてしまうと、ピンポン玉は真横近くに飛んでいってしまう。

 理解してもらえただろうか。。

 僕はサーブのとき、ピンポン玉を高くあげて落ちてきたところに、回転を加える。それは目にも止まらない早さだ。たいがい相手は、サーブを受けたときにびっくりしてしまう。

 もうそこで、僕の思うツボだ。まったく同じようなフォームでも、まったく正反対の回転を加えることもできるし、その裏をかいて、回転を加えたふりをして、加えないということもできた。

 まさに魔のサーブなのだ。僕は自分のサーブに名前を付けた。その名前は・・。

 「必殺」

 やればやるほど、僕は魔のサーブを極めていった。相手の裏の裏をかいては、サーブを切り出すのだ。その駆け引きがむずかしい。

 夢ではなくて、とうとう卓球が少年マンガの世界に突入していった。


vol.18「強かった山本」(10/8)

 同じ卓球部の山本は、もともとそこにいた。

 僕ら数人のレギュラー補欠組は、はじめからフォームのことやら見本にされて、それなりの道を進んで来た。しかし同学年の山本は、ひとり独自のフォームを作り、メキメキと強くなっていった。

 山本は勉強も出来た。そして、いつどこでどうやって卓球が強くなったのか謎だった。あまり友達と連れだって練習をしていたというふうではなかった。

 ・・「一匹オオカミ」。その言葉がぴったりだ。ペンホルダーのドライブマンで、けっしてフォームが綺麗な訳ではなかったが強かった。

 気付いたときには山本は、同学年では郡市でも、一位か二位くらいの実力になっていた。強い。その試合スタイルは、相手に徹底的に勝つのだ。

 いろんなことを基本通りにやって来ても、そんな僕らより強いヤツがいる。誰にも頼らず、自分のスタイルを見つけたヤツがいる。山本のラケットを持つ手はゴムのように自由に曲がった。

 後輩たちは僕のことを「鬼の青木さん」と呼んでくれていたが、山本はときに本当に「鬼」のように見えた。

 ずっとそばにいて、いつのまにか強くなった山本。そのペンホルダーのラケットは、指の握りに合わせて木を削られていたが、自分で考えて削ったためか、ちょっと削られ過ぎていた。

 削られ過ぎていたが、山本は一番強かった。


vol.19「ほんのちょっとした事」(10/12)

 僕の家から100メートルほど歩くと、学校の地区が変り、別の中学になってしまった。

 僕は第一中学で、100メートル先は第三中学になった。もちろん卓球部もちがう。しかし、隣ということもあり、お互いに会う機会は多く、仲良くなった。

 卓球部も学校が違えば、すべてが違う。練習の仕方も違えば伝統も違う。同じなんてありえない。

 それぞれの中学の卓球部には、秘策に近い練習方法があり、それは謎だ。「強い先輩」というのも強くなる条件かもしれない。

 たとえ中学が隣だと言っても、卓球部の実力が近づくということではない。強い方が強いのだ。

 冬のある時のことだった。僕が近所を歩いていたら、道の向こうに、隣の中学の、知り合いの卓球部の友人が歩いていた。「ヤァ」と、軽く挨拶をしたあとで、僕は急いでいたので、早歩きで彼を追い越してしまった。

 ただそれだけのことだ。何の策略があったわけではない。

 しかし、彼には大きなことだったようだ。後々まで彼は、そのことを気にしていた。

 僕と試合をするたびに、信じられないパワーを持って挑んで来たのだ。

 (なぜ、そこまで・・)

 でも、パワーだけでは、勝てない。勝てないんだよね。

 そして、なおさらに悔しい。


vol.20「ラバーの話」(10/15)

 卓球のラバーは、ひと癖もふた癖もある。

 赤いラバーの部分と、下のスポンジの部分で出来ているのだけれど、これがまた、いろんな組み合わせが出来てしまうのだった。

 そして意外と値段が高い。

 中一になり、初めてのラケットとラバーを買って、木の板にラバーを貼り付けるとき、必ずみんな失敗する。ラバーをラケットの丸みに合わせて、綺麗にカットできないのだ。

 端がギザギザになっているラバーは、ラバー貼りの最初の宿命だ。

 その時期を越えると、自分にあったラバーを探すようになる。下のスポンジが厚いほど、打ったときにスピードがつく。しかし球が飛びすぎて、コントロールするのが逆に難しいのだ。

 「アオちゃん、厚いスポンジのヤツ買うの?」「なんとなくね」

 そして買った次の日の練習。

 「どう?」「調子いいよ。意外とね」

 しかし、だんだんと厚いラバーの欠点もわかるようになり、思うように球を打つことが出来ない。

 結局、調子が良いのは、初めだけなのだ。その夜、前のラバーにもう一度貼り替えてしまう。。ラバーの旅ってところだ。

 良いラバーと呼ばれるもののひとつに、よく球が切れるラバーがある。それは粘着力が命だ。僕はラバーというラバーの中から、一番粘着力のあるラバーを見つけ出した。

 どうやって見つけたかは内緒だ。先輩からこっそり教えてもらったのだ。そのラバーは、初めは他のラバーと変わらないが、水をつけて根気よくこすって、ラバーを鍛えると、信じられないほど粘着力が出た。

 粘着力。その証明はラケットのラバーに球がどのくらいの間くっついていられるかだった。台の上に球を置いて、ラバーを下にしてぐりぐりと回し、そのまま上に持ち上げるのだ。

 普通のラバーは、三秒くらいで球が下に落ちてしまう。しかし僕の使っていたラバーは、いつまでも球がくっついていた。

 「おえ、まだ、くっついてんでぁ!!」「あったりめえだっや!!」

 球はおっかしいくらいに落ちて来なかった。


vol.21「燃える団体戦への道」(10/19)

 僕らもまた、とうとう中三になった。

 先輩たちがそうだったように、僕らもまた激しい地区大会になりそうな予想がついた。それは全国大会レベルだ。

 強い先輩が強い後輩を育てるというのはあるかもしれない。

 僕らの小さな地区だけでも、かなりの個性的な中学の卓球部が育っていた。その個性は先輩たちよりもはっきりしていた。

 先輩たちが作り上げたフォームや戦い方は、よりシンプルになって僕らに引き継がれた。

 ・・さて、どんなふうにして勝ち抜いてゆくかな。

 僕ら第一中は正当派だった。各学校にあるフォームの癖もなく、それぞれが自分の個性で戦っていた。ユニフォームもノーマルなブルーの上に紺の短パンだ。他の中学には、とても野性的な卓球をするところもある。妙に落ち着いている学校もある。意表をつく卓球をするところもある。

 しかし僕らの中学の伝統はあくまで「いい卓球」だった。

 燃えていないのではない。自由なのだ。先輩の誰もが自分のフォームを後輩に押しつけたりせず、それぞれの卓球を大事にして来た。そしてそれなりに強いのだ。

 僕らもまた、それをつらぬけるだろうか?

 中三の始まり、初めの大会の個人戦でも、僕らの学校から上位の選手が何人も出た。

 団体戦の予選ももうすぐ始まる。すでに役者はそろっていた。

 燃える団体戦への道。どの中学もそうだっただろう。


vol.22「悲しいリーグ戦」(10/22)

 いよいよ公式の地区大会が近づいて来て、部内でのレギュラー決めのリーグ戦が始まった。

 友達同士で戦うというのは、何ともせつない。一枚の紙にマス目を作り、×と○を付けてゆくのだ。

 試合に出られるのは6人。この中に入れるかが微妙だ。せっかく何年間も卓球部でやってきているのに、試合に出られないなんて淋しいじゃないか。

 しかし、そこは人数が決まっているのでしかたがない。一番公平なリーグ戦で決めるのだ。

 卓球部でリーグ戦が始まると、毎日が真剣だ。普段仲良くしている友達と戦うのは、心を鬼にするしかない。勝ったとか負けたとかが、頭に残ってしまう。

 ・・まあ、それがすべてではないけれど。

 普段でも、仮の試合は何度もしているけれれど、リーグ戦で戦うときは、スマッシュひとつひとつが罪深い。

 「ヨーシ!!」と、叫んでみても、せつない。

 勝っても負けても、後味が良くない。

 部内でのリーグ戦は、いいことがひとつもない。


vol.23「挽回のアオキさん」(10/25)

 ばんかいは漢字で書くと「挽回」。

 試合で負けているのに、なんとか逆転することだ。

 卓球は、サーブ5本交代の点数勝負だ。サーブ交代のとき、17:13に交代するか、16:14で変わるか、15:15でサーブ交代するかは大きな違いだ。

 16:14のときは、どうにか挽回できる可能性は高い。しかし17:13だと、微妙に負けが濃くなってしまう。早く21本とった方が勝ってしまうのだけれど、19点とられるたらほとんど負けと同じだ。

 17:13のとき、なんとか頑張って18:17でサーブ交代できれば、勝てる可能性も出てくる。20:20に持ち込みジュース。そしてリードし、そして勝つ!!

 「挽回のアオキさん」呼ばれるには、それなりに理由があった。僕には「魔のサーブ」があり、相手があせって、うまくサーブの罠にかかれば、5本続けてサーブで点をとることも出来たのだ。

 「サーブが強いヤツはいいよな」とかいう話ではない。そこには精神的なかけひきがある。相手の読みの裏を裏をついてゆくのだ。それもまた勝負の世界だ。

 17:13から挽回するのは、無理な話ではない。18:12だとかなりきびしい。相手に2本とられたら、ほぼ負けなのだ。かなりの精神力勝負にもなる。特に3セット勝負のとき、相手に1セットとられているときは、負けている方はきびしい。しかし相手の方は1セットとっているので、ちょっと気がゆるんでしまう。

 そこをねらうのだ。

 僕はよく公式戦で大挽回をして勝った。その勝負は感動的であったとも言える。

 「挽回のアオキさん」みんなはそう呼んだ。

 しかし失敗もした。


vol.24「小国の佐藤」(10/28)

 弟子も弟子でがんばっていた。

 あずき色のユニフォームにスポーツ刈り姿で登場して来る小国(オグニ)の卓球部。その中の佐藤という小柄の男が特別に強かった。ちょっとした大会では、かならず三位に食い込んできた。

 彼は卓球台からかなり離れてカットで打ち返してくる。ラケットにはラバーが貼られていない。

 コーン。コーン。ラケットの木の生の音が会場に響いている。小柄ながらもねばりはすごく、卓球台から下がって、どんな球でも大きく打ち上げ返していた。

 彼の一年先輩に、やはりカットマンで、郡市で何度も優勝経験のある「木村」という先輩がいた。彼はその先輩の技を受け継いでいた。まさに弟子だ。

 先輩の木村さんも、とにかく強かった。誰の真似もせずに自分の卓球をあみだしていた。その技を伝授しながら、後輩でもある佐藤は、独特のねばり強さがあった。

 それは怖いくらいの相手への打ち返しの執念だ。小さな体ながらも、どんな球でも打ち返していた。その根性はどこからやって来るのか。

 柏崎市の僕らの中学、第一・第二・第三・第四中学は、それぞれに強かったけれど、みんな正当派の卓球だった。そして小国の佐藤だけは別の次元にいたようだ。

 あずき色のユニフォームのあいつは、魂のある卓球をしていた。郡市で一番強かった男の弟子だった。


vol.25「完全試合をやったあいつ」(10/31)

 中学生なのに、職人みたいな男がした。

 第四中のその男は背が高く、四角い顔で、みんなに「ゲタ夫」と呼ばれていた。丁寧な丁寧な卓球をしていた。そして彼は生徒会長だった。

 ある郡市の大会のときのこと。トーナメントのニ回戦か、三回戦のときだった。ある卓球台のところに人が集まり出したのだ。

 (何だろう?)

 僕もまた行ってみると、その背の高い、丁寧な卓球をする四角い顔のゲタ夫が、対戦している小柄なひとりの選手に対して、完全試合をしようとしているのだ。

 完全試合と言っても、3セットは無理なので、21対0の1セットを取れたら一応、完全試合とは呼べる。21対0だなんて、よほどのことがなければ、卓球の試合では出来ないはずなのだ。

 だんだんと人が集まり出したのは、たぶん10本目くらいだったろう。相手だって、スマッシュを打つし、なんだってする。一本くらい取ろうと必死だ。

 卓球には、「エッジ」と「ネット」いうものがあり、台の端っこの角や、ネットにふれながら入った球もOKなのだ。

 21対0だなんて、どう考えても無理だ。どう考えても無理だけれど、ゲタ夫はやろうとしていた。

 点数は進む。ゲタ夫は確実に球を返してゆく。相手はスマッシュする。男は確実に返す。相手はスマッシュする。しかしネットにあたり点を失う。

 「おーっ!!」と、みんなのため息まじりの歓声。

 そしてとうとう21対0をやりとげた。僕も初めて見る完全試合だった。あっぱれ、ゲタ夫。

 それは奇跡に近い。中学生の卓球職人は奇跡をおこした。


vol.26「全国大会はなかったけれど」(11/3)

 こんなふうに終わるのもいいだろう。

 僕らが中三になったとき、なぜか全国大会がなくなってしまった。それはどういうことだ? たぶん今は復活しているはずだと思うけれど、僕らの大事な三年のときは、そうなってしまった。

 それでも僕らの小さな上越地区には、昨年の全国一位・二位の中学があり、かなりのハイレベルな大会になっていた。県大会に行くことすら大変だ。しかしそういう次元ではない。

 僕ら柏崎第一中も、地区大会を勝ち抜いて上越大会へ進んだ。そこには強力に強い城北中学と新井中学が待っていた。

 トーナメント戦なので、両端のシードはもちろん城北と新井の中学となり、勝ち抜いていっても、どこかで当たってしまう。そのときにすべてが決まる。僕ら柏崎第一中も、三回戦くらいで城北中と対戦となった。

 相手は昨年の全国一位である。お互い補欠で見ていた者同士が、今年はレギュラーになって戦うのだ。それも一番大事な試合で。

 思い出すのは、補欠時代に会ったときだ。城北中の彼らはまるでアイドル歌手のような長髪で決めていて、スポーツ刈りの僕らは、なんとも差を感じた。そして悔しいけれど、ホントに強かったのだ。

 昨年の上越大会でも、僕らの先輩たちは城北中と対戦した。負けるのはわかっていたけれど、先輩たちはがんばった。憧れの佐藤先輩は、個人で全国三位になった相手との対戦となり、そして根性で勝った。全国三位の相手に勝つことは大変なことだ。

 それでこそ柏崎一中魂だ。佐藤先輩しか勝てなかったけれど、僕らはそれでも誇らしかった。

 そんないろんな思いと、この中学時代の卓球人生のすべてをかけて、僕らは団体戦で城北中と対戦した。僕らだって、今年はメンバー的には負けてはいない。敵なしでやって来たのだ。

 さて、いよいよ試合となった。城北中の選手はすべてのフォームが大胆で鮮やかだ。明るいグリーンのユニフォームが卓球会場で映えている。

 城北のみんなも頑張って来ただろう。しかし僕らだって頑張って来たのだ。

 ラストとなるかもしれない今、僕らの試合は始まった。(つづく)



vol.27「こんなホントの話」(11/6)

 いよいよ僕らにとって、一番大事な試合が始まった。相手は昨年の全国一位とはいえ、僕らだって今年は強い。頑張ればもちろん勝てないわけではない。

 この大事な試合をどう大事に戦えばいいのか? 

 一所懸命やったところで、それが勝ちにつながるとはかぎらない。相手にしてみたら僕らの中学に負けるとは思ってもみないところだろう。しかしそう簡単にはいかない。僕らには昨年負けた悔しさがある。

 そして柏崎一中魂がある。それはどんな魂なのか、よくは知らない。もちろん相手にも城北中魂があるだろう。

 団体戦は多少なりとも、頭脳ゲームでもある。誰を何番目にもってくるかで、勝負は大きく分かれるのだ。

 一人目の「山本」は、僕らの郡市でも一番強く、相手の中学の裏をかいて、さっと勝つ予定だった。しかしどうしたことだ、負けてしまったのだ。

 僕らは勝つつもりのゲームをやっているので、これはかなり痛い。

 「ごめん・・」

 そして二番手は部長の「江口」だ。「江口」は本番に強い。個人としても関東甲信越大会まで行っていて、苦戦しながらも勝った。

 昨年も部長の佐藤さんは勝った。そして今年も僕らの部長は勝った。

 「よし、これからだ!! 」

 次の三番目は試合上とても大事だ。ここで勝っておかないと、挽回も厳しいだろう。その役は僕だった。

 僕はダブルスでの出場で、今まで無敗でやって来た。どんなことがあっても、この試合は勝たなければならない。

 対戦してみると、さすがに強い。どんどん押されてしまい。1セット目はとられてしまった。

 卓球パンツには、小さなポケットが付いている。

 いったい何を入れるのかは不明だが、僕はそこに、ここいちばんという試合のときに、トッポ・ジージョの小さくて透明なプラスチックのフィギュアを入れていつも試合に望んだ。

 それは小学校のときから持っていて、片耳が削れているために、握ると手のひらにピッタリとはまった。そしてそれが僕にパワーをくれるのだった。

 「タイム!!」そう言って、僕はこっそりとポケットからトッポ・ジージョを出して、握りしめた。

 「よし、来い!!」

 第二セットも差が離されて、18:12でのサービスチェンジ。あと三点取られたら負けてしまう。しかしそれはではきない。できないと言っても、あと三点しかないのだ。

 僕は「魔のサーブ」で頑張り、20:20のジュースまで持ち込み、第二セットは勝った。これもかなりの挽回劇だ。

 そして勝負の第三セット目。相手も本気を出してきたせいか、19:11でのサービスチェンジ。ほぼ確実に僕らの負けだ。ずいぶんと頑張ったけれど、とうとう20:16に。いよいよマッチポイントだ。どう頑張っても挽回は無理だろう。

 しかし僕らは頑張った。「魔のサーブ」はみごとに決まり、信じがたいことに、20:20のジュースまで行ったのだ。嘘みたいなホントの話。

 しかしジュースもまた厳しい戦いになった。点を取ったり取られたり・・。

 そして24:26で、僕らは逆転して勝った。長い長い時間だった。試合が終わり僕は相手に握手を求めた。そしてベンチに戻ると、涙が止まらないほど流れた。

 試合には結局、僕らは負けてしまったが、精一杯やったことは確かだ。

 「俺もアオちゃんくらいの根性があったらなぁ・・」。負けた友達は言った。

 あのときのトッポ・ジージョは今も持っている。それも今、目の前にある。


vol.28「燃え尽きた物語」(11/10)

 そのあとの記憶がない。

 中学の団体戦で僕ら柏崎第一中は、昨年の全国一位の城北中に負けてしまい、卓球の試合もひと通り終わった。

 そのあとのことが思い出せない。僕らは何をしていたのだろう。

 もう部活動はしなかったのだろうか? その可能性もある。

 ホントなら、悔しくてもっと卓球にのめり込むようにも思うのだけれど、そうはならなかった。

 これが中学卓球の不思議なのか。。

 その頃、僕はちょうどギターを買ってもらったので、フォークの世界にどっぷりとハマッていたはずだ。

 もう試合はないのだから、燃えようがないのか。

 結局、あの上越大会のために卓球をやって来たようだ。

 その試合のことを思い出すと、今も後悔も悔いもない。

 物語はそこで、どうやら終わりになったようだ。

 終わりになった物語の先はどうなってしまうのか?

 物語のページを進めていた時間の力は、ギターを弾き始めたようだ。 


vol.29「燃える炎はどこに行った?」(11/15)

 高校生になり、僕らは別々になったものの、みんな卓球を続けるとは思っていた。

 あれだけ卓球に燃えたのだから、その炎が消えるとは思えなかったのだ。しかし実際は、次々と別のクラブに決めていた。関東甲信越大会まで行った部長の江口は、背の高さもありバスケットボールを選んだ。

 僕も一応は卓球部に入ったけれど、なぜか中学時代のように情熱的にはなれなかった。自分でもよくわからなかったけれど、燃え尽きたという表現しかなかった。

 そんな中、僕の入った商業高校に、中学時代の先輩だった憧れの「オオツ」さんが、遠征練習のために来ることになった。

 オオツさんと言えば、僕が中一のとき、親身になって教えてくれた先輩だ。郡市でもかなり強く、高校になっても続けていて、それなりの卓球人生を送っていた。

 「アオキ、もうすぐオオツさんがくるぞ!!」

 同じ中学の卓球部の先輩だった山本さんが、僕に教えてくれた。

 僕自身もドキドキしていた。

 オオツ先輩はやって来た。スリムの学生ズボンをはき、マスクをして、短い髪は中学時代の時のまま、上に立てた状態だった。相変わらずかっこいいオオツさんだ。

 卓球台に立つ姿は、中学のときのままだ。高校に入ってからも卓球を続けていたオオツ先輩。その燃える炎は消えていない様子だ。

 ドキドキしながらも、「オオツ先輩!!」と声をかけてみると、「オゥ」とか言われておしまいだった。淋しい気持ちもあったけれど、それは僕のかってな思い込みのせいだろう。

 僕らもまた同じ第一中の卓球部として、精一杯がんばったのだけれど、それはもう終わったことで、みんなそれぞれ歩き出しているのだ。

 僕はひと月で高校の卓球部をやめてしまった。こんな終わり方を僕自身想像してはいなかった。


vol.30「山本先輩ですか?」(11/18)

 高校に入ったものの、卓球部はすぐにやめてしまって、僕はすっかりギターに夢中になっていた。

 そして新しいギターを買うために、僕は高三の夏休み、町外れにあるタイプライター工場にアルバイトに行った。

 僕の配属された場所はプラスチックケースを作る部門で、三人一組になって作り上げるのだった。

 「こちらアルバイトの青木くんです。よろしく」

 「あれ、山本先輩!!」

 なんと僕の前に立っていたのは、中学時代の同じ卓球部の先輩の山本さんだった。僕とは二つ違いなので、もう二年間ここにいるのだろう。

 山本先輩は作業帽子を目深にかぶっている。そして卓球部にいたときと同じように、いつもニコニコして、回りのおばさんたちと、おもしろ話で盛り上がっていた。

 僕は山本先輩の後ろで、ネジをずっと一日中取り付ける作業をしていた。 なんだか先輩の球ひろいをしているようだ。卓球台の代わりに作業台。ラケットの代わりに電動ドライバーとういうところだ。

 卓球を教えてもらったように仕事も教えてもらう。その状況は変わっていない。山本先輩は同じようにやさしい。あのときもみんなを和ませてくれた。今もそれは変わっていない。

 昼休み、工場の外で休んでいると、一年先輩だった阿部先輩が、向こうから歩いてきた。

 「阿部先輩・・」「オゥ・」

 阿部先輩もまた、あのときと同じような感じだ。

 先輩はいつまでも先輩だった。それが変わっていない。


vol.31ラスト「卓球電車」(11/25)

 「あっ、卓球レポートだ・・」

 2001年の夏の午後、アルバイト中に、たまたま寄った墨田区の図書館で「卓球レポート」を見つけた。

 卓球レポートは卓球の月刊誌で、僕も中学時代に毎月読んでいた。まだ続いていたなんてびっくりだ。

 それは、自由に持っていってよい棚に置かれてあり、僕は一冊持って帰った。ぺらぺらとめくってみると、多くの中学・高校生そして有名選手の写真であふれていた。

 カバンの中に入れて、高円寺の自宅に一度戻ってからまた電車にて出かけた。各駅停車の総武線。新宿へ向かう途中、ガランとしたシートの真ん中に座り、カバンの中から「卓球レポート」を出してみた。

 自分が読んでいた時から約30年。30年たったけれど、内容はそんなに変わっていない。30年たったあとの、ラケットやラバーの進化と値段。今も続いているラケットシリーズもある。中学校の全国大会の成績が載っていた。

 (城北そして新井中学は載っていないかな。柏崎第一中学は載っていないかな、、)

 卓球の写真というのは、実におもしろい。どの写真もスマッシュのときのゆがんだ表情や、確実にサーブのレシーブをしているときの真面目な顔ばっかりだ。それが卓球であるかのように。

 卓球レポートの中の卓球野郎たちは、今も夢のような時間の中に住んでいるようだ。僕が熱中していた中学のときのままが今でも続いている。僕の中の卓球魂が、リアルに戻ってくるのがわかった。

 どんなふうに時間が流れていたのかはわからないが、高円寺から新宿へ行くその10分そこそこの時間の中で、僕は遠いひとまわりをしてきたようだ。

 僕の時間の中の僕の時間。

 一瞬だけ止まったスマッシュのひとコマ。

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