青木タカオの「ちょっくら・おん・まい・でいず」  今月に戻る
過去ログ「インド編・アジャンタの誓い」日記付き'01.9月

「海岸天国・ゴア」9/1

 朝、僕はゴアの海岸行きの地元のバスに乗り込んだ。

 バスに乗り込むと、まず運転手がミュージックカセットをガチャっと入れた。すると流れてきた音楽は、最近流行のノリのいいポップスだった。ずっとインド音楽ばかりだったので、何だか急に現代に戻ってきたみたいだ。ふと、見る隣りのお兄さんは、薄い鼻ヒゲをたくわえたりして、まるで日本のサーファーだ。女性の色鮮やかなワンピースを着ている。西洋的なんだなぁ。

 大きな荷物を抱えた。太ったおばさんがバスに乗り込んできた。やっぱり原色の花柄のワンピースを着ていて、おばさんは大声でアッハッハと笑う。そのたびに顔中に笑いじわができていた。明るい空気が、ここにはある。ゴアは海岸の楽園と呼ばれていて、だんだんイメージがふくらんできた。

 ビーチに着いて、僕は安くほったて小屋にような宿を借りた。回りはヤシの木に囲まれていて、小さなジャングルのよう。いい感じだ。今日から二週間、僕はゴアに居る予定だ。いったいどんなことがあるだろう。

 そのまま散歩がてらに、ゴアのビーチまで出かけてみた。ゴアのビーチは広い。まるで海しかないみたいだ。ブルーというよりも少し深いグリーンに近い海。見ていると目がうるおってくるようだ。空もまたとても大きい。だんだんと夕暮れになってくる。ゴアの夕焼けだ。オレンジ色にくっきりと沈んでゆく太陽を見た。

 海岸天国ゴア。「ゴア」の言葉の響きの中にある開放感。ここが長い間、ツーリストたちを夢中にさせてきたゴアだ。ヌーディストビーチもあるという。おおらかな風景の中にいると、体中のエネルギーが交替してくるようだ。なんだか幸せな気分で、宿へと帰る途中、犬に何匹も吠えられてしまった。

 ヤシに囲まれた中の、ほったて小屋。ここを僕の楽園の住まいとしてみよう。8/31 平日の昼、飯田橋で降りて、大きな歩道橋を歩いて渡った。ここは朝、会社に向かう人たちでいっぱいになるのだろうなと実感する。きっとのんびり歩いてられないのだ。走る人もいるだろうな。歩いていると、見えない川がそこにあるようだった。

「誰もいない、ディスコレストラン」9/2

 海岸タウンのゴアには、クリスチャンが多いと言う。そんなせいもあるのかもしれないが、ここはヨーロッパの旅行者が多い。

 朝、起きてモーニングを食べにレストランに行くと、がっしりとした体格の西洋人がいる。顔立ちはしっかりしているし、腕には、TATOOとか入れている。ここゴアに来ている西洋人ツーリストは特に、堂々としていて、僕なんて、なんだか子供みたいだ。

 宿から歩いてゆくと、そこにはちょっと前に流行ったディスコステージを真ん中にした、ネオンサインの張られた大きなレストランがあった。今はもう下火だけれど、ディスコブームの頃は、ここでみんな踊ったのだろう。「トゥナイト・ディスコパーティー」と書かれてある。

 また浜辺まで歩いて行く。このビーチの先では、西洋のツーリストたちが、裸でキャンプ生活とかしているアンジェナビーチがあると言う。本によればそこは楽園だと言う。ホントかなって思うけれど・・。10月から5月までは、まったく雨も降らないとという、ここゴアのビーチは、たしかに楽園のようかもしれない。

 浜辺に座っていると、スピーカーからレゲェのボブ・マーレーの音楽が流れている。なんだかとってもこのビーチに似合っている。インドなのだけれど、とても自然に聞こえる。それもとても気持ちがいい。よく知っている曲なのでなおさらだ。今日もみごとに暮れてゆく夕焼け。

 夜になって、宿に帰る途中、ディスコレストランをのぞいてみると、生演奏でやっているのだけれど、誰もステージでは踊っていなかった。なんだか淋しいなぁ。何年か前は、ここで毎晩のようにディスコサウンドでみんな踊っていたことだろう。

 ゴアは、良くも悪くもツーリストの好きな場所になって、今があるようだ。9/1 まだ休み。夜、友達と古い喫茶店に行く。そこでかかっていたジャズボーカルのレコード。と言ってもポップスをジャズ風にアレンジした歌だったけれど、聞いていて本当に歌を楽しんでいるのが伝わって来る。喉は素晴らしい楽器なんだと実感する。あんな風に歌うたいなぁ。

「ヤシの木のそば」9/3

 夜11時を過ぎた頃、なんだか外が騒がしくて、出てみると30人くらいツーリストたちが、レストランの外で、鍋を囲んで踊ったりしていた。

 (あんなふうにはできないなぁ・・) ゴアに着いたばかりで友達もいなかったせいもあり、ひとりぼっちの気持ちになってしまった。でも、外は確かに気持ちが良くて、しばらく出ていた。

 そばにはヤシの木が、点々とあり、僕は寄りかかりながら、ちょっと遠くで音楽を聴いてみた。ヤシの木の根は太い。そして大きな葉だ。真上を見ると無数の星がキラキラと輝いている。星空とヤシの木って言うのは、とても宇宙感がある。そして神秘的だ。その根っこに、体を寄せていると、とても強くてやさしい感じがする。

 あのケーララの船旅で、無数に見たヤシの木。このヤシも同じ一本だ。どこにいても大きな葉を茂らせていて、とても生命力も強い。その根のそばにいると、僕もこうなりたいなぁと思えてくる。自然と気持ちも落ち着いてくる。静かな友達みたいだ。僕の目の前のちょっと先には、黒ぶた君が眠っていて、なんだか愛しい。

 他の外人さんたちは、みなディスコミュージックで踊っている。ヤシの葉で作られた一軒家に住んでいるおばさんが、外に出て洗濯物を取り入れている。赤い花柄のワンピースがとても似合っているおばさんは、僕の方に向かって言った。

 「カモン・スット・ヒア。ユー・キャン・ヒア・ミュージック・モア・グット!!」そしておばさんは手招きをしている。僕はうつむき、涙が流れた。そう言ってくれるのも、大きな優しい心のようだ。黒ぶた君は、僕が近づくと、逃げまどってしまう。ホント愛しい。僕が寄り添いたいのは、やっぱりこちら側なのだ。

 ヤシの木は、まるで人生の先生のようだった。僕も大きな葉っぱを付けたいな。9/2 朝、起きて用意をして、海に行く準備をする。今年は暑かったのに、あまり出かけなかった。田舎にいた頃は、家の裏がすぐ海だったので、毎日遊びに行っていた。田舎にも1年以上帰ってないし、海禁断症状が出たかなぁ。

「ゴアの細道」9/4

 12月。今、インドも冬なのだろう。いつもゆくチャイ屋さんに朝行くと、ヤシの葉を燃やして暖をとり、みんなで手をあぶっていた。

 「コールド・コールド」。昼はあんなに暖かいのに、朝の冷え込みは極端だ。「コールド・コールド」Tシャツ姿に、半ズボンの少年は、ガタガタ震えている。僕が「セーターでも着れば?」って言うと「これしか持っていない・・」と言う。それは本当のようだ。

 僕はいつものように、パンとチャイを注文する。するとインド人のおじさんと兄ちゃんたちも、お茶を飲みに来る。彼らの姿が見えると、大きく手を振るチャイ屋さんの人。そしてコントみたいな、会話が続く。そしてひとりおじさんが、大声を出して、かけてゆく。それはまるで運動神経ゼロみたいな走り方だ。「ウエイトー・ウエイトー」

 外は寒い。朝の彼らは、とてもひょうきんで、みんなで大笑いしてしまう。そうやって暖まっているのだろう。インド人の男達は、なんだか仕草がおもしろい。走ったりすると特にそうだ。まるでドタバタ劇でもやっているようだ。こんな朝のチャイ屋もめずらしい。開放的なゴアだからかなぁ。

 チャイを飲んでのんびりしていると、気温も上がってきて、もうすっかり平気だ。僕は、小さなギターを持って、浜の細道を通りビーチまで歌いに行く。ここ何日間かそれが日課になっている。浜で歌うのはホント気持ちがいい。子供たちが通りかかり、「グット・ソーング!!」って言ってくれる。嬉しい。

 泊まっている宿の回りは、ヤシの木の道が続いていて、細いところを通って行ったり来たりするところばかりだ。そして所々には、小さなレストランがあったりしていた。その一軒の庭先のところに、赤い服を着たひとりの若い女性が座っていた。

 遠目に見ててもとてもかわいい。レストランの看板女性なのか。その表情や雰囲気がなんとも、おしとやかな感じだった。それもとても美人なので、ついふらふらとレストランに入ってしまった。食事をしていると、店のマスターが、まるで僕の気持ちを知っているかのようにこう言った。

 「このコは、かわいいだろう。このコのお父さんは、日本人なんだよ」

 僕は自分のルーツを感じてしまった。ゴアの細道には、歩くたびにドラマがあるようだ。9/3 最近、ふと気がつけばぜんまい式の柱時計が止まっている。この前ぜんまいを巻いたばかりのような気がするのに。その間隔なんだかあっと言う間だ。こんどチェックしてみよう。

「サトウキビジュースと思い事」9/5

 ここゴアに来てから、毎日の日課と言えば、海まで行って、思い事をすることだ。

 まったく雨が降らず、浜辺に座っては、太陽に当たって時間を過ごす。朝、胸の中にあった思い事は、ゆっくりとゆっくりとまとまってきて、夕方の食事の頃には、シンプルになっている。そんな毎日。

 泊まっている宿は、ヤシの木に囲まれた中にある、ほったて小屋のような家で、ここを住みかに、細道を通りあっちへいったりこっちへ行ったり。ツーリストの友達は出来ないままで、ひとりの時間が続く。ゴアでは、特にヨーロッパのカップルの旅行者が多くて、それぞれの国のカップルの様子が、見ていて勉強になった。

 そういえばカップルの旅人とは、いままであまり知り合いになれなかったなぁ。一緒に旅するってどんな感じだろう。フランス人のカップルはとても仲がいい。ドイツ人のカップルは、顔が似てる。僕もゴアにきてから、自然と恋のこととが考えている。

 あっちに行ったりこっちに行ったり、浜道近くの路地を、またフラフラと歩いてゆくと、いままで見た事のないジュースを出している店に出会った。店と言ってもただのほったて小屋だけれど・・。のぞくと、大きな車輪のような機械が、黒いて長い枝のようなものを機械に巻き込んで、ジュースを絞り出していた。

 (なんだろう・・) よくわからなかったけれど、一杯注文してみると、くすんだ黄色のジュースが出てきた。1Rs。安い。普通のジュースの三分の一くらいの値段だ。飲んでみると、とても甘い。独特の味がする。はじめて飲むのに、すんなりと飲める。この焦げ茶色の茎のようなものから、こんなに美味しいジュースが出てくるとは・・。まだまだ世の中には、知らないことが多い。

 そこには細長いテーブルがふたつ並んでいて、ゴアの若者たちが、ひと休み気分でジュースを飲んでいた。「グット・グット!!」僕は「おいしい!!」とみんなに伝える。人生にプレゼントをもらった気分だ。安い甘くてうまい。このジュースはなんていうのだろう。

 僕はすっかり感動しているのに、ヨーロッパのツーリストたちは、この店の前をどんどん通り過ぎてゆく。みんなもっと高いジュースをいつも飲んでいるのだ。地元のみんなは、この安いジュースを飲んでいる。なんだか淋しいなぁ。そして不思議な気分だ。あまりに美味しいので、僕はもう一杯飲んだ。

 それから毎日ように、僕はそのジュース屋さんに寄ることになった。友達に聞くと、それは「さとうきびジュースだよ」と教えてくれた。さとうきびジュースと思い事。ゴアにきて、だんだんと自分なりの散歩コースが出来ていった。9/4 朝、駅まで行くと、意外と寒い。自販機のコーヒーは、まだ全部つめたい缶コーヒーだ。いつから「あったか〜い」は出るのだろう。

「ゴアのクリスマス」9/6

 「ゴアのクリスマスはいいよ!!」

 何人ものツーリストが僕にそう言った。そのゴアのクリスマスがとうとうやって来た。ゴアはバス・コ・ダ・ガマが到着した場所でもあり、クリスチャンの人が多い所なので、その話も信じられる。

 23日。朝、ギターを持ってビーチまでで歌いに行ったあと、ゴアの街の中心のパナジの方まで出かけてみた。夕方、きれいな夕焼けになる頃、なんだか、毎日ヨーロッパの幸せそうなカップルばっかり見ていたら、ひとりぼっちが淋しく思えてきてしまった。そして明日はクリスマス。

 地元ゴアでも、愛する人がいない人は淋しいのかな。僕はひとりで立っている銅像を見ながら、のんびりと考え事をして座ってい た。(そうだ・・) 僕は淋しいのを、ひとり旅のせいにしていたけれど、よく考えれば、日本にいても同じなのだ。たったひとりで立っている銅像が、そう教えてくれて、少し楽になった。

 浜道の方に戻ってくると、二頭の牛が、道で角の突き合いをしていた。「ブルファイト、ブルファイト」って、みんなが言う。不思議なことに、しばらくすると、一方が負けましたというように、逃げて行ってしまった。これも恋愛のひとつなのか・・。

 ヤシの細道を通り、宿に戻る途中、黒豚の家族と会った。僕が手足を動かして、ちょっとびっくりさせたら、ブヒーと言って、みんなで移動する。一匹は砂につまずいてしまった。その姿は、哀愁があって、なんともいとしい・・。宿に戻ってのんびりしていると、なんだか外がワイワイと騒がしくなってきた。

 出てみると、ちょっと離れた、レストランの前の道を、子供たちの一団がクリスマスソングをギターに合わせて歌いながらやって来た。一人の赤い水玉の入った服を着ているピエロ。そしてみんなは、ローソクの入ったちょうちんを持っていた。それはまるで絵本の中のシーンのようだった。しみじみとして、明るく、その行進は通り過ぎて行った。ゴアのクリスマス。明日が楽しみだ。9/5 太股と肩が痛い。きっと三日前に海で泳いだ筋肉痛が出ているのだろう。ふだん使わない筋肉を使ったようだ。しゃがんだり立ったりすると、太ももが・・。

「ゴアのクリスマス・2」9/7

 24日の朝、お茶屋さんで、チャイを飲んでいると、20人くらいのホンコンの若者が、ガヤガヤとやって来た。 

 きっと、ゴアのクリスマスを楽しみに来たのだろうけれど、さて、今日、宿があるかなぁ。さあ、ゴアのクリスマスの始まりだ。

 バスに乗って、ちょっと離れたマプサの街まで出かけてみた。バス停からの道がずいぶん広いバザールになっていて、歩いてみた。おばさんたちが座り込み、カゴに果物を入れて売っている。でもよく見るとみんなほとんど同じ果物なのだ。バナナだけで道一本できていた。

 「ハロー、ファイブルピー!!」そんなふうに声はかけられるけれど、みんな商売熱心ではない。隣同士わいわいと話していて、まるで、話をしに来ているようだ。僕は見たこともない、ザボンのような果物をひとつ買ってみた。どんな味がするか楽しみだ。

 夕方になるまで、ビーチにいて、一人の日本の女のコと知り合いになった。彼女はインドネシアがとても好きで、もう何回も行っていると言う。一緒にお茶を飲んだりしたけれど、話は盛り上がらなくて、そのまま手を振って別れた。一度、宿に戻って休んでみたものの、物足りなくなって、もう一度、浜辺に出かけてみた。

 深いブルーの夜空に、細い三日月が浮かんでいる。そして金星。その下にある海と白い波。まるで絵本の中の景色のよう。「メルヘン」と言う言葉がぴったりだ。浜まで来てよかった。僕はまた嬉しくなって宿への道を帰って行った。ひとりで座っているいるインド人に出会ってゆく。みんな愛について考えているようだ。

 途中にある、デイスコレストランでは、今夜、クリスマスディスコ大会が行われていた。が、踊っているいるのは、四人くらいで淋しい。(今夜も不発かぁ・・) そう思っているところに、次々とインド人カップルがやって来て、踊り出した。インドの男のダンスはなんだかめちゃくちゃだ。でも本人はすごくカッコイイと思っているんだろうなぁ。

 西洋の人達は、さすがにダンスがとてもうまい。金色の髪がなびいて、さまになっている。そんな中、ホンコンのみんなも踊りにやって来た。あれはホンコンダンスというのだろうか? 僕には傑作に映った。

 インドの女性のダンスはホントひかえめでおしとやかだ。僕は遠くのヤシの木の下に座り、涼んでいる。今頃、ヌーディストビーチも盛り上がっているだろう。淋しくはないが、なんだかひとりぼっちの夜だ。9/6 バイトから家に帰ってくると、体中の力が抜けてしまう。そしてひと眠り。また起きて、作業。目が疲れて来ると。ひと眠り。午前一時くらいから作業。またひと眠り。朝の4時過ぎにに起きて、また作業。これじゃ疲れもとれないよ。

「思い出した偶然の話」9/8

 南インドのここに居て、僕は昨年のクリスマスの事をすっかり忘れていた。

 部屋でひとりぼっちでいると、夜、男友達が二人でやって来て、車でどこかに行こうと言う。街はクリスマス。ひとりぼっちの仲間どうし誘い合ってパッと騒ごうじゃないか。

 僕らは、ドライブの後、健康ランドへ向かった。ひとりぼっちの三人。風呂入って、ビールでも飲もうという案だ。ロッカー室で着替えていると、友達はチンチンが立ってきたとか言う。そんな開放的な気分でお風呂場に行けば、いくつもの風呂があり、僕らはあっちにいったりこっちにいったり、いろんな風呂を楽しんだ。

 檜風呂。デンキ風呂。泡風呂。クリスマスの日は、健康ランドも、暇なようだ。僕は誰もいない外のサウナ室に入った。そこは、熱帯のジャングルのようになっていて、僕はそこにある石に座った。東南アジアを旅した、詩人の金子光晴もこんなふうだったろうか。僕は目をつぶりそして、願いを込めて思ったのだ。

 (来年のクリスマスには、ほんとにこうして座っていたいな・・) そうだ、確かにそう思ったのだ。まだ、そのときは海外旅行の話もなく、夢のようにただ漠然とそうイメージしてみた。そして、1年後のクリスマスの今夜、僕は今、南インドのここで、ヤシの木に囲まれ、ちょうど同じような石に座っている。

 今日の今日、そして今になるまで、昨年のクリスマスの事はすっかり忘れていた。そして、夢は現実になった。まったく同じ場面に自分がいる。僕は人生の不思議を感じていた。あたりはひっそりとして、時間がゆっくりと流れている。

 宿の前のディスコレストランでは、まだダンスで盛り上がっている。目の前のヤシの葉で出来た家にも、クリスマスの飾りが付けられて、お祝いをしている。そして僕もクリスマスの幸せを感じていた。9/7 高円寺の改札を出ると、中型の犬が、誰かを待っていた。こんなに人が降りてくるのにわかるのだろうか? 犬はずっと、改札の方を見ている。すごい集中力と視線を感じた。

「コパー・ケトル」9/9

 ゴアに来て、もう10日たった。毎日とてもいい天気で、一度も雨は降らない。

 日課と言えば、朝は浜に行って、ギターで歌い、昼はまた浜に行って、流れていレゲエのボブ・マレーを聞きながら、ずっとのんびりすることだ。いままではずっと旅に忙しくて、旅のことばかり考えていたような気がするけれど、ここゴアでは、じっくり自分のことを思った。

 毎日、毎日、信じられないほど、みごとな夕日が海に落ちていって、インドの観光旅行のカップルもみんな満足して帰ってゆく。はじめは、何でもないように思っていたけれど、確実に素晴らしい夕日を見せているゴアの海が、だんだん怖いほどの魅力を持って、迫ってくるのがわかった。まるで、トランプの一番強いカードがめくるたびに出てくるようだ。

 そして明日の朝には、ゴアからボンベイ行きの船に乗ってしまうのだ。まったくゴアも最後の日になって、おもしろいヒゲの日本の兄さんと知り合いになった。彼はゴアにもう一年いて、ヨガを習っていると言う。

 「すごい老人と会ったよ」と彼は続ける。話を聞けば、その仙人のような老人は、森で起こっていることがみんなわかるらしい。「ほら、今、木が倒れた」と言うので、行ってみたら本当に木が倒れていたとのことだ。「体と世界がつながっているんだよ」って言うんだよ。「へーえ」

 彼が帰国するのは、再来年になるという。ここにはここの旅があるんだなぁ。僕はゴアを出たら、ずっと急ぎ足の旅になってしまう。ここでのんびりできてよかった。ラストの気持ちで、さとうきびジュースを飲みにゆく。なんとも言えない味がする。ずっと忘れずにいられるだろうか。

 また海へ行くと、今日の夕日が海に落ちようとしていた。ありがとうゴア。ここで考えた多くの事。それはきっとこの海がくれたものだろう。僕は砂に「パリに行きたい」と書いてみた。インド人が何だろうって眺めている。いいのさ。ゴアに来て、僕はとてもシンプルになったような気がしていた。

 夜、ほったて小屋の宿から小さなギターを持って出て、僕は石の椅子に座り、ヤシの木に囲まれながら「コパー・ケトル」を歌ってみた。

 「♪月の光りを浴びて、輝く銅の壺・・。お酒に変わるその秘訣・・。月の光りが満ちてくるのを・・。ただ待っていればいい。ただ待っていればいい・・」

 ちょうど月がきれいに出ていた。そんなゴアの最後の夜だった。僕はひとりでアイスクリームを食べに行った。9/8 スタジオでリハ。あっと言う間に、三時間がたってしまう。不思議な時間だ。70分くらいにしか思えない。 

「ボンベイ行きギュウギュウ客船」9/10

 (ゴアよ、ありがとう・・)

 僕は朝の光の中、ボンベイ行きの客船を待っていた。これから続くハードな旅の予感の中、僕は旅にもう一度向かうような心持ちだった。待っていると、キャンディ売りの男が、頭の上にハッポウスチロールの箱を乗せてやって来る。お兄さんもいる。そしてまだ小さな男の子もいる。商売には、大人も子供もない。なんてことだろう。まったく同じなんて・・。

 やがて、ボンベイ行きの客船が到着した。その船は、ボンベイからゴア行きの船でもあったのだ。満員の客船。船が横付けされると、みんなが降りる前に、柵を乗り越えて、いっせいに乗り込んでゆく。その光景はまるで、いつか見た映画のシーンのよう。すごいすごい。さすがインドだ。並んでいてもまったく関係がない。

 僕は半分あきれながらも、少しウキウキして、船の中に乗り込んでいった。入ってみてびっくり。びっしり、ゴザか敷いてあり、まったく座るスペースもないのだ。ちょっと甘くみちゃったな。見渡す限り人でいっぱいだ。ああ、いったいどうしよう・・。あっちに行ったりこっちに行ったりしていると、ひとりの兄さんに、こっちにおいでと呼ばれた。

 「カムカム・ジャパニ」その兄さんのそばに行くと、自分の座っているスペースを半分空けてくれて、ここに座れって言う。「アイム・フロム・バラナシ!! オゲンキデスカ?」彼は、バラナシから来たと言う。日本語も少しは話せるので、もしかしたらシルクとか売っていたのかもしれない。

 (こんなふうな、出会い方もあるんだな) 僕らの後ろのまたさらに狭いスペースに、少しヒゲの生えた、兄さんが席を作った。一見して、なんだか気が合いそうな彼だった。さらにおばあさんが、その彼の横のスペースに座った。狭くて厳しそうだ。おばあさんと、その彼は、まるで友達みたいに話している。

 ボンベイまでの船旅。さて、どんな事が起こるだろう。9/9 部屋を片づける。いろいろ本を捨てたいのだけれど、どうしても、古本屋さんとかに持って行けない。なぜだろう? 一冊100円とかつくと淋しい気持ちになるんだよね。それだったらただであげたいな。

「新しい旅の一日目」9/11

 また新しい旅が始まった。ボンベイ行きの船は人でいっぱいで、飽きることなく時間が過ぎてゆくのだった。

 座るところで精一杯の、船室の中、いろいろな人達がそれぞれに騒いでいる。たった一晩の船旅だけれど、日本で言ったらお花見のような気分なのかもしれない。すぐ隣りの場所で、お酒を飲んで馬鹿騒ぎをしている一団がいる。顔に合わない大きなサングラスを男が特に大声を出している。

 僕に場所を半分わけてくれた、バラナシの兄さんは、他のインド旅行のみんなに「バラナシは世界で一番のホーリータウン(聖地)だ」とお国自慢をしていた。それは、外国のツーリストどうしが、話すみたいで可笑しかった。

 船の中に、ひとりのブラジル生まれの男の人がいて、お酒が回ってきたのか、ブラジルの唄を歌った。それはとても明るさに満ちていて、聞いていても気持ちがいいし、本人もとても楽しんでいた。メロディーひとつでこんなにも表現できるものなんだなぁ。僕のすぐ後ろにいた、ヒゲの兄さんと、僕は仲良くなっていろいろと笑いあった。

 そうこうしていると、ひとりの若者が、何か訴えながら歩き回っていた。「ホワッツ?」バラナシの兄さんに尋ねると、彼は後ろのポケットを切られて、財布をすられたのだと言う。この船に窃盗がいるから気をつけろって言う。

 また船の甲板では、ケンカが起こり、階段から人が落ちてきた。いったい何が起こるかわからない。長い昼が夕方になっていった。僕は船の中を一巡りして見た。すると、掃除をしているひとりの背の高いワイルドなおじさんを見かけた。そのおじさんは、まるでおとぎ話に出てくるような、雰囲気を持った人だった。

 半分白髪に、なっている髪はパーマがかかり、長く伸びてまるで、プロレスラーのようだ。手には、太い竹ぼうきを持ち、くすんだ草色の服を着ていて、お腹はボタンが留められないくらいに張り出ていた。そして、ももまであるズボンをはいていた。足はO脚になっていて、曲がりに曲がっていた。

 (こんな人がいるんだなぁ・・) 昔の海賊のイメージを重ねながら、僕はしばらくその人を眺めていた。物語のある船だなぁ。なんでもありなボンベイ行きの船は、進んでゆく。9/10 台風で、どしゃぶりと晴れのくりかえし。バイトで外にずっといると、時間が変だ。どうでもよくなってきて、なぜか仕事が進む。帰りは友達と、カレーを食べる。うまかった。

「ワン・ディ・アット・イン・ボンペイ」9/12

 ボンベイ行きの船にも、朝がやって来た。

 昨日、馬鹿騒ぎをしていた、サングラスの男が、僕を呼んでいる。話の種に、遊ぼうという事なのだろう。誰が行くか。そうこうしていると、船はボンベイに到着した。

 ここで最初に知り合い、席を半分わけてくれたバラナシの兄さんと一緒に、ボンベイの駅まで行くことになった。大きな街。何人もの人に道を訊いてゆく。バラナシの彼は「ボンベイはインドじゃない」と言っていただけあって、まったくボンベイの人たちを信じていない様子だ。

 「みんな、いいかげんなことを言ってるんだ」同じインド人なのに、バラナシの兄さんは、どこか海外のツーリストのよう。そうか、そういうこともあるんだな。ただ駅に行こうとしているのに、ぜんぜん辿り着けない。むだ歩きをしてしまっている。バラナシの兄さんは、怒っているけれど、僕はホントに知らないんだと思った。

 そのうち、バラナシの兄さんとはぐれてしまった。とてもお世話になったのに、「ありがとう」の一言も言えなかったのだ。彼は今どこにいるんだろう。なんとなくせつない気持ちが残った。ジャパニとして恥ずかしい。昼になり、お腹も減って来たので、路地の方に入ってゆくと、ヤンチャそうな子供たちが待っていた。

 ギターの事、服の事、いろいろ子供たちにからかわれながら、歩いてゆく。ボンベイはいったいどんな街なのか。定食屋さんに入ってみると、人でいっぱい。ご飯とカレーは食べ放題になっていた。みんなと並んで一緒に、食べていると、なおボンベイの街が見えなくなってきてしまった。どんどん継ぎ足されるカレー。それは優しいのか、どうなのか。

 迷いながらも、なんとか駅に着いた。ボンベイの駅は広い。僕は列車が出るまで、待つことにした。ひとめぐり歩いてみると、同じようにポツンと座っている日本人の旅行者がいたので、声をかけてみた。彼は、インド留学をしていて、少し旅をしているのだという。いろいろときいてみるのだけれど、そんなに反応がない。

 ボンベイでの一日。バラナシの兄さんは、ボンベイはインドではないと言っていたけれど、そんなことはないだろう。広い駅に座って、僕はそっと目をつぶってみた。からっぽの気分だった。9/11 夜、ニューヨークの悲劇を見る。ショックすぎて言葉がない。トリプルショックだ。高層ビルがあんなにもろかったなんて、恐ろしい。

「戻ってきた指輪」9/13

 途中の駅に着いたとき、ひとりのボロ布の服を着た、女の子が列車に乗り込んで来た。

 片手には持っている、アルミのプレート。女の子は、列車の中を急いで回って行く。服は一枚の布で、もう草色になっている。もちろん裸足だ。

 人々の乗り降りの中、紛れ込んで、何かもらおうと言うのだろう。彼女はなかなかに、元気いっぱいだった。なんだか楽しんでいるようにも見える。僕のところにもやって来て、指をくわえながら「パイサ・パイサ」って言う。その彼女の目がきれいだったこと。

 僕が何もあげないでいたら、彼女は小さな口をあけて、赤い舌をチロッと見せて、何やら文句を言って行ってしまった。その仕草はなんとも愛らしかった。さよなら・・小さな天使さん。彼女は列車から降りて行ったのに、またすぐに戻って来た。

 (ははん、また会えたね) 僕は余ってたパンがあったのを思い出したので、カバンから出すと、彼女はそっと片手で取るとすぐにまた列車を降りて行った。きっと母親にでも渡しにいったのだろう。そしてすぐまた戻って来た。

 今度はどこに行こうともしない、そして何やら言っている。通りかかるインド人はみんな笑っている。なんて言っているのだろう。僕は、プリーの街で買った、オモチャの指輪があったので、それを彼女にあげた。ほんとに心から、小さな天使に思えた気持ちからだった。

 また彼女は列車を降りていった。もうすぐ列車は出てしまう。すると、さっきの彼女が戻ってきて、僕にオモチャの指輪を返しに来た。母親にでも言われたのだろうか。それはそれでいいし、あげたかった気持ちは同じなのだ。

 列車は走り出した。僕は手に中に残った、戻って来たオモチャの指輪の事を考えていた。良かったのか悪かったのか。どっちでもなく、どっちでもあった。さよなら、可愛かった人。9/12 バイトで高いマンションに上がると恐い。まるで崩れてしまうような気持ちになってしまう。イメージが残ってしまった。いつこの不安がなくなるだろう。

「夜中に着いた、こんな駅」9/14

 夜も11時に乗り換えのために、僕はマンマードの駅で降りた。なんとも淋しそうだった。

 まず驚いたのは、そこの男の人の顔がみんな似ているのだ。目が少し寄り気味で、頬が丸く、とがったような口で喋っている。みんななぜか、怒っているように聞こえる。僕にはそんなに寒いとは思えないのだけれど、インド人にとっては寒いらしく、毛糸の帽子とかかぶっていた。

 切符売り場に行くと、そこは一種異様な雰囲気だった。そこでは、多くの人が布にくるまって眠っていた。そうだ、もう夜中なのだ。言葉はない。並ぶみんなも静かにしていた。ひとりの兄さんが、まるで夢遊病のようにゆらゆらと僕らのそばに歩いてきた。

 彼は、僕の足もとのすぐそばにあるコンクリートの、盛り上がった所に頭を付けて、枕がわりにして横になった。まるで並んでいる僕らは関係ないかのようだ。不思議な夜の時間が流れている。

 駅のホームで待っていると、ひとつ前の列車がやって来た。セカンドクラスの車両に乗ろうとする、数多くの人。どう考えても、全員は乗れはしない。何だか信じられない光景だ。深夜のホームに大勢の声が響く。まるで戦いだ。

 やがて僕の乗る、エローラエクスプレスの列車がやって来た。がらがらで良かった。窓際に座り、発車を待っていた。なんとも淋しい時間だった。これは夜中だったからだろうか。そんな思い事をしていると、ひとりボロボロな服を着たじいさんがホームを歩いて来た。

 草色になっている、穴だらけの服。そして左右、ちがった靴。おおきな風呂敷包みを、広げたかと思ったら、その中には、葉っぱで出来た、ほうきが入っていた。そのじいさんはたったひとりで、ホームを葉っぱのほうきで掃き始めた。風が吹けば、みんな飛んでしまうだろうに・・。

 僕はカーストのことを少し考えていた。幸せのことを思っていた。そうこうしていると、各駅の列車が、反対のホームに着き、信じられないほどの人達がいっせいに、こっちの車両に乗り込んで来た。9/13 ボブ・ディランの新譜のCDを聞いている。新譜と言っても、どの曲も耳なじみのあるメロディーばかりだ。今回は、力が抜けたボーカルで、どの曲も同じテンションに聞こえる。物足りない気持ちもあるけれど、あと3年くらいしたら、良さがわかるような気がするCDだ。

「エローラの石窟」9/15

 印度亜大陸の西のジャングルの中で、1000年の間みつからなかった、アジャンタとエローラの石窟群。

 ここアウランガバードの町から、バスに乗って、バスで1時間ほど行くと、巨大石窟寺院のエローラの遺跡がある。アジャンタの遺跡の方は、バスで三時間の所だ。僕はその日、こころときめかせながら、エローラ行きのバスに揺られていた。

 海外旅行に出る前、東京で、インド旅行をしてきた人と会った。彼はとにかくエローラの遺跡に感動したと言う。それは言葉では伝えられないと言う。インドに行ったら、アジャンタとエローラだけは絶対行くように薦められた。ひとつの岩山を100年書けて掘り出した、巨大な石窟寺院。

 やがて、バスの窓からエローラの遺跡が見えてきた。想像以上だ。バスを降りて見ると、信じられないほどの巨大な、石の広場と寺院がそこにあった。有名なカエラサナータ寺院。ガイドブックの写真でも、チラッと見たけれど、そんな数センチで現せるような大きさではなかった。

 大きな壁のような石の寺院の上には、石の象が歩き、見るところ見るところ、ヒンドゥの神々が見える。カエラサール寺院は大きな広場があり、僕はそこに立ってみた。取り囲む巨大な石の寺院。これがすべてたったひとつの岩で出来ていて、すべて掘り出したかと思うと、震える思いだった。

 暑い日差しの中、町を離れ、ジャングルを抜けて、ここにやって来た修行僧たちの姿が見えるようだった。今から1000年まえ、ここで繰り返されていた集り。その姿が目に浮かぶ。なんとも勇壮な光景だ。ヒンドゥの神々が、今にも現れそうな気配に満ちている。

 エローラ。この石窟群。ここで修行していた僧侶たち。観光で来ている大勢のみんなの中、僕は目をつぶり、少し考えを変えてみた。ここに来た僧侶たちのように、歩いてみようと思ったのだ。もう一度、入り口にもどり、深呼吸をして立ってみた。9/14 バイトでスリランカの青年と会った。なんとも人なつっこい。一瞬にして、伝わってくる、その明るさ。バナナの香りがした

「ここに立っていた人」9/16

 エローラの遺跡、その石窟寺院の群を僕は、ゆっくりと歩いて行った。

 その最初にあるカエラサナータ寺院は、本当に大きい。体が震えるくらい壮観だ。ダイナミックで、なにか底知れないパワーがある。ひろい広場に集まっているのは、観光客なので、なんとも可笑しい。石でできた象が歩いている。

 僕は、観光ガイドさんのいる一団にといつのまにか一緒になってしまった。名前をきかれ、「アオーキ」と答えると、なぜか気に入られて、「アオーチ、アオーチ」とみんなに呼ばれてしまった。子供がずっと手をつないでいる。そしてひとりおじさんは、僕と腕を組んで歩く。困ったなぁ。

 次々と現れる、ヒンドウーの神々の姿。シバ神。そして象のガネーシャ。その前に立ち止まっていると、ここに立ったいた僧侶達に気持ちになってしまう。小さな石の部屋の、石のベット。僕はこっそり、誰もいないときに、石のベットに横になってみた。すぐに観光の人たちが入ってくる。

 広々とした入口に並ぶ石柱。見上げると、その一番上に空を泳いでいるようなヒンドゥの神の姿があった。その前まで来たとき、白い日差しの中、その下を布きれの服を着た僧が通りゆくのが見えた。ふたりは何かを話している。そんなシーンがはっきりと見えた。

 エローラの遺跡は、とてもダイナミックだ。日本で会った、ここに来た友達は、あまりにも嬉しくて、広場で踊ってしまったと言っていた。ここに来て、僕にもその気持ちがよくわかった。9/15 ボブ・ディランの新譜CDを聞いている。「Po'Boy」という唄が、耳に残っている。いつまでも、思うようにならない不器用な男たちと、ラッキーについて唄っている。コインの表し裏のような、響きがある。僕の耳からはなれないメロディだ。

「アジャンタの誓い」9/17

 朝一番、また僕はバスに揺られ、町から三時間はなれたアジャンタの遺跡に向かっていた。

 アジャンタとエローラの石窟群。昨日行った、エローラの遺跡は、とても一日で見きることはできなかったので、今日は、一日ずっと、じっくりアジャンタに居ようと思ったのだ。

 第1窟から第28窟まであり、ここは仏教文化の花咲いた頃の遺跡だ。第1窟からじっくりと観て行く。その壁画は1400年もたっているのに色鮮やかにとても美しい。法隆寺金堂の壁画のモデルとなったものだと言う。そうだとしたらここまで来た人がいるということだろうか? そこにははるばるしたドラマがあるようだ。

 ダイナミックなエローラの遺跡に比べると、アジャンタの石窟寺院の方は、繊細という印象だ。場所の限界というものもあるのだろうけれど、あまり大きな石窟ではなく、それぞれに細かい趣向があった。次々と観て行く石窟。アジャンタの遺跡も、一日では見きれないかもしれない。お昼を食べ、また石窟を進んでゆく。

 一世紀に作られた石窟から、7世紀に作られた石窟まで、700年の歴史が感じられ、それなりに楽しめる。もう石窟観光も終わりだなと思いながら、26窟に足を踏み入れた瞬間、今までと違う空気があった。

 小さな入口を入ると、その左には、大きな眠る仏陀が石の彫刻があった。手を頬に付けて眠る仏陀の姿。こんな小さな石窟の中にある、ダイナミックは発想に僕はまずとらえられた。そして他にもいろいろある、石の彫刻類も、他の石窟とは明らかに違い、ひとつひとつが、感情豊かに彫られていた。

 小さな石窟なのに、ここを作った作者の芸術的信念がはっきりと伝わってくる。力を抜かずに、それでいて、柔和で自由な発想があり、見れば見るほど、引きつけられる石窟だ。僕はここに来て、体全体が感動で震えるのを感じた。こんな経験は初めてだった。

 1000年の時を超えて、伝わってくる、そのパワー。この第26窟を作った人は、自分のできうる限りの最高傑作の石窟を作ろうとしたのだろう。左の壁にある8メートルくらいの寝ている仏陀の彫刻。そして入って右の壁は、なぜか、途中で彫るのをやめてある石像があった。

 それは、「完成はしていない」と言うことなのだろう。それにしても、壁に描かれてある絵も、細かい細工も見事としかいいようがない。それなのに、未完成の石像を入口に残しておくなんて、それもまた僕を感動させてくれた。

 夕方には、アジャンタの遺跡も門が閉じられてしまう。僕はその時間が来るまで、その第26窟の中にいた。横たわる仏陀の顔の表情はなんと、入口から光りの加減で、変わってくる。そこまで考えられて作られていた。僕も一人の創作者のひとりとして、この迫力は圧巻だった。

 この石窟の中にいると、そのパワーで自分が舞い上がってくるのがわかった。どんな人がここを造ったのだろう。アーティストの気迫に満ちた第26窟。門のしめられるぎりぎりまで、僕はその横たわる仏陀のそばにいた。夕暮れまじかの、そこで僕はひとつの誓いを立てていた。

 1300年の時を超えて伝わってきた、このパワーをちゃんと受け止めて、僕もまた、このパワーを伝えたいと思ったのだ。それは僕の「アジャンタの誓い」となった。門をしめられるぎりぎりに出て、バス停で待っていた僕は、体中がパワーでいっぱいになっていたようだった。9/16 昼にスタジオにリハで入る。日曜の昼というのは、なんとも集中力が、もたない。歌っていると、ぼんやりとしてくる。やっぱり昼寝の時間なのだ。

「もう一泊の旅の夜」9/18

 長い旅のあいだには、もう一度 訪ねたい場所が出てくる。明日またエローラの遺跡に寄っていこう。

 もう一泊しようと決めた夜はなんとも、のんびりとした時間が流れてくる。ちょうどここはユースホステルで、いろんな国の若者が、規則にしたがい、泊まっていた。

 久し振りに僕の好きな、広い食堂に、座ってみたりして、旅の一日を味わう。ユースホステルは、なんとも独特な雰囲気があり、大騒ぎをする人も少なく、誰とでも気軽に話せそうだ。

 食事は、おかわり自由の大皿のターリーだ。インドに来た頃は、あんなに印象のよくなかった、ターリーの定食も、今はこんなにも、おいしく感じている。食べ放題っていいじゃないか。こうでなくっちゃね。

 大広間には、なぜか卓球台があり、日本の女のコがふたりで遊んでいた。ははん、インドにも卓球台があるんだな。大学生さんだろう。久し振りに卓球をしているのかな。

 続きにある食堂にまで、彼女らの声が響いていた。ここずっと、ひとりで旅をしていたので、日本語を聞くのも久し振りで、それも普通のはしゃぎ言葉を聞くなんて、旅に出てから一度もなかったことだ。

 まるでどこか日本のユースホステルにいるようなその話し声は、たいへんに懐かしく、日本を出てから、ずっと聞くことのなかった響きがそこにあった。なんてことない、慣用的な話し言葉なのだけれど、なんて日本的なんだろう。改めてその言葉を聞いていると、まるで芸術のようにも思えてきた。

 日本にいたら、どこにでもあったその言葉づかいも、遠く離れたインドのここでは、僕に感動を与えてくれるほどに素晴らしいのだった。気づかなかったものが、たくさんあった。

 楽しそうに卓球を続けている、彼女たち。もう一泊の旅の夜は、とっても丸い幸せな気分にさせてくれた。9/17 契約プロバイダがなくなってしまう事になってしまった。いろいろと困ることも多いけれど、なくなるプロバイダの気持ちを考えるとつらい。新しいプロバイダに入会した状態で、手紙が届いた。それもせつない。

「アジャンタの誓い」9/19


ジャングル行きの 観光バスが
1000年を 戻してった
トラに守られた 夢のとりで
窓から見え出した
巨大なカイラサナータ寺院
ひとつの岩山から 出来ていた

 ここで会う奇跡 エローラの石の庭

観光バスを 降りてみれば
僕らはみんな僧侶
バスのクラクッションは 今やトラの声
お得意顔のガイドさん
見てくれ庭の真ん中で
シバ神とみんなが 踊ってる

 ここで会う奇跡 ジャングルの石の寺


ひんやりとした 石のベットから
起き出して僕も歩けば
エビ茶の布を まとってる
閉じこめられた 妖魔たちが
こちらにおいでと 呼んでいる

 ここで会う奇跡 アジャンタの石の家


夕暮れまじか 一人立ってみた
横たわる巨大な仏陀と
1000年眠る このジャングルで
国中からやって来て また国中に散らばった
トラ住む道を も一度抜けて

 ここで会う奇跡 ジャングルの石の寺
 ここにいたみんな アジャンタの誓い

9/18ボイスICレコーダーが壊れて、安い5000円のヤツを買ったのに、なんと電池を交換するのに600円もかかってしまう。高いICレコーダーはも、たった100円で済むのに・・。ああ、そんな事って・・。 

「真夜中のポーポーポー」9/20

 インドの列車は走る人格のようだ。

 初めは予定どおりに来ないので、「なんてことだ」って腹を立てたりしていたけれど、今は、ひとつの場所から、ひとつの場所まで走る列車と思えるようになった。途中で、トラブルくらいあるだろう。

 ボンベイの町から、アウランガバードへ向かう、深夜列車に乗ったときのことだ。真夜中だというのに、窓の外がオレンジ色に明るい。なんだろうと外を見てみると、なんと、1キロくらい先の林が、一列に燃えているのだ。

 (火事だ・・) かなりの勢いで燃え広がっていて、このままだと大変な事になるだろう。まだ100メートルくらいの範囲で燃えていた。今ならまだ、止められるかもしれない。それにしても、火事の事を、村の人達は知っているのだろうか。人家も見えないし、ここは広大な野原の、ひと場所なのではないか。

 列車はそこで、停車した。植物がメラメラと燃えてゆくのを見ているのは哀しい。そして列車は、体じゅうで叫ぶように、汽笛を鳴らした。その音は、闇の中に大きく響いて行った。寝ている村人を起こすと言うのだろうか。ここまでとても消防車が来るようには思えない。

 汽笛は、間隔をあけ、闇に鳴り続けた。まるで列車は細長い生き物のよう。その声は、確かに叫んでいた。事務的な事が第一の日本では考えられないような、出来事だった。生きることの根本を感じた。

 さて、この後どうするんだろう。僕らはみんなで降りて、消しに行くのだろうか。それともずっと汽笛を鳴らし続けるのだろうか?とにかく大変なことが、起こっている。まだ燃えはじめだ。何とかするなら今なのだろう。

 やがて、列車はその最後の汽笛を鳴らしたあと、また走り出した。インドの列車には、無線というものが付いていないように思えた。そして、まだこの列車以外の人は、この火事の事を知らないような気がした。次の駅に着いてから、すべてが始まるようだった。

 列車は、火事の現場を離れ、遠くなってゆく。もう、すっかり遠い。燃える大きな林と、そこを通りかかった列車は、ひとつドラマを感じさせてくれた。「すまん、俺はもう行くよ・・」インドの列車は、走る人格のようだ。9/19 どうもアメリカのテロ事件のショックが続いている。高いビルに登るのが恐い。どうやって、そこから避難できるのだろうと思う。やっぱりパラシュートしかないようだ。 

「ラストコーチ・ゴー・ゴー・OK」9/21

 それはそれは可笑しいくらいだった。

 乗り換え駅のチャリスガオンの町に降りてみたら、なんだか子供たちがずっと付いてくるのだった。大声でみんな何か言っている。「ウルサイ!!」って言って追い払うのは簡単だけれど、このパワーが、きっとあのエローラや、アジャンタの石窟を作ったんだと、今は思えるようになった。

 駅の改札で、駅員さんに質問をしていたら、その窓口の向こう、大勢の人達が僕を見ていて、びっくりした。駅のホームにいても、どんどん人が集まって来て、僕は囲まれてしまった。ここには、観光客が珍しいのだろうか。僕はいつもどおりに、おおきなバックパックに、肩掛けカバンをふたつ。そして小さなギターとトレッキングシューズ。

 「ジヤポン・・」そうつぶやいている。腕にはめているデジタル時計とかを見て、日本人のお金持ちのイメージを重ね合わせているのだろうか。「ナッスィング、ナッスィング」そう答えてみるけれど、ぜんぜん輪はなくならない。

 僕の方が珍しいのか。それともここのみんなの好奇心が強いのか。それはよくわからないが、列車に乗り込んでからも、そんなにぎわいが続いていた。そんな中、ふと思い出せば、今日は12月31日だった。大晦日。東京のみんなは今、どこかで飲んでいるだろうか。

 夜になると、昼の暖かさとは打って変わり、たいへんな寒さになった。そんな中、車両とホームを見回っているポリスの兄さんがが、僕を見つけて、何やら話しかけて来た。どうやら「空いているスリーパーがある」って言ってるような、言ってないような・・。僕がよく理解出来ないでいると、次の停車駅で、一緒に来てくれるという。

 ずっとポリスと言ったら、いい印象がなかったけれど、まだ若いと思われる彼は、威厳を保ちながらも、なんだかやさしいのだ。「ラストコーチ・ユー・ゴー・OK・OK!!」彼は、次の停車駅で、言葉どおり一緒について来てくれた。行ってみると、確かに、そこにスリーバーが空いていた。

 「オー、サンクス。ナマステ!!」「ナマステ!!」ポリスの兄さんは、片手を頭に当てて、そう答えてくれた。彼らしい答え方だった。僕はこの土地のみんなの人柄を感じていた。12月31日の夜。インドのここはとても寒い。寒いけれど、あたたかい夜になった。9/20 プロバイダが今日付けで、なくなると言う日。なんだか、初めてのアドレスがなくなるのは淋しい。小さなプロバイダだったので、よく電話して、一緒に画面を見ながら、質問とかしたりしたのだ。なんとも切ない。泣きそうだ。

「KUNJI レストラン」9/22

 30時間かけてやっと、次の町、カジュラホに着いた。ここは、愛の形の彫刻の寺院で有名なところ。それにしても「カジュラホ」と言う名前の響きは、なんとも心地よい。

 さすがに移動に疲れて、目指す宿まで歩いて行く途中、食堂の看板に「おじや・ラーメン・KUNJI・RESTRANT」の文字が見えた。「おじや」とひらがなで、書かれているので、日本のおじやのことだろう。

 願い通りの宿のドミトリーもとれ、僕はさっそくさっきのKUNJIレストランに寄ってみた。まだ若くて元気のいい、奥さんが、おじやを作って出してくれた。(ああ、うまい・・) 自分の胃が喜んでいるのがよくわかった。おじやは優しい料理だ。

 そこの若い奥さんはとても明るくて、スパゲッティとラーメンをまちがえて作っても「ラーメン・ラーメン!!」と言い切られてしまうので、みんな憎めないで許してしまう。僕はこの食堂が気に入った。何かいろんな出会いがあるような気がする。

 テーブルと椅子は、ほとんど外に出ていて、そこを通るたびに日本のツーリストが誰かしら食事をしていた。みんな気軽に声を掛け合い、すぐ友達になれる雰囲気があった。カジュラホには、田舎の空気がある。

 夜、宿のドミーで休んでいると、旅人たちが、なぜか事務的な会話をしていて、僕はいたたまれなくなり、夜遅かったけれど、KUNJIレストランにお茶を飲みに行った。観光客はもう誰もいなくて、寒いせいもあり、火をたきながら、地元のみんなと、笑い合っていた。

 僕はお茶を一杯だけ飲む。KUNJIレストランの奥さんは、しゃがみながら大声で笑っている。男達もまた大声で笑う。その声が、田舎道に響いては闇に消えていった。火はこんなにも明るくて暖かい。そして熱い一杯のチャイ・・。9/21 もうずっとインターネットのプロバイターの移動のことばっかりだ。また同じように、使っているプロバイダーが無くなっては困る。どこにしようかと悩む。こうやって大きなプロバイダーばかりが大きくなってゆくんだ。

「そこで見たもの」9/23

 KUNJIレストランの奥さんが、ラジオに合わせて、歌を歌い始めた。

 その声は、調子っぱずれで、なんとも可笑しい。自分でも笑ってしまい。そして回りのみんなもまた笑ってしまった。どうして同じように歌えないんだろうと言ってるようだ。その側にいた僕も、もらい笑いになりながらも、ひとつのインスピレーションを感じていた。

 日本の学生ツーリストはよく「インドに来て、変わりました」と言う、そのヒゲの生えた表情は、自分を見つけたというふうだ。もしかしたら、インドという所は、自分を解放した自分のいる場所なのかもしれないなって思えたのだ。

 そして、そこは、なに照れることのない、自分のこころの場所ではないか。そう思ってみたら、なんだか、イン ドの国の形がハートのように見えてきてしまった。イメージも広がってくる。はるばる飛行機でやってくるこの土地は、自分の解放された、こころの国ではないかと・・。

 (誰のこころにもきっとインド的な場所がある・・) 僕がインドに入ってから、三ヶ月が過ぎ、ずっとインドを探してきたけれど、どうもこの世界は、こころの場所だったようだ。そんなことをひらめきながら、僕は、不思議な気分に包まれていた。

 インドをあちこち旅しているけれど、きっとどこにいても、同じなのではないか。この国に来る自分はもう、自分を笑えるこころの中なのだ。そう思うと、景色のどこもかしこも、みんな懐かしく見えてくる。

 KUNJIレストランの、ダンナさんが、急に忙しそうにしてて、何かなと思っていたら、大きなアルミの皿の定食のターリーを五皿ほど抱えて、出前に行こうとしていた。バンクにでも乗って行くのかなと思っていたら、そのまま、両手に抱えて、夜道の向こうへ、小走りに走っていった。

 急ぎたくても急げないのだろう。ぎこちなく走ってゆくその姿は、夜の田舎道の中に溶けてゆくようだった。僕はしっかりとそのその姿を見た。どんなに文明が進歩しても、あの姿と気持ちを超えることはきっとできない。

 そこで見たものは、ずっと変わらないと信じることができた。9/22 今日も朝から夕方まで、ホームページの引越作業。よく一年で、こんなにページを作ったものだ。やってもやっても終わらない。ホントの引越しのよう。

「アグラのリキシャマンたち」9/24

 インドいちの観光地のひとつ、タジ・マハールで有名な「アグラ」。

 いろんな噂は聞いていたけれど、アグラのリキシャマンたちのパワーにはすごいものがあった。今では変わったかもしれない。まだ変わっていないかもしれない・・。アグラのリキシャマンたちのいろんな噂は各地で聞いていた。

 ホームに降りたとたんに、20人ほどの、リキシャマンたちとホテルの客引きに取り囲まれた。「ヤスイ、ヤスイ」「タジ・マハール・ワンルピー」ずっと同じことを言われながら、駅をやっと出る。いままでいろんなインドの街に行ったけれど、こんなにしつこいのは初めてだ。

 1ルピーとかの安さに任せて乗って行くと、知り合いの宝石店に何軒か連れて行かれて、タジ・マハールになかなか着けないという。それは、どうやら本当らしく、取り囲まれている リキシャマンたちは、誰もが「ワンルピー、ワンルピー」と繰り返すのだった。

 「チョロー(行ってくれー) !!」とそう言ってみるけれど、まったく効き目がない。僕は僕なりに、だまされないリキシャマンの選び方というのを、みんなから教わっていた。それは、なるべく英語の得意ではない、リキシャマンを選ぶと、だまされないと言うものだ。これには、一理ある。そのとおりだと思う。

 アグラの駅前にいても、まったく状況は変わらない。どのリキシャマンも、「ワンルピー、ワンルピー」とうるさい。こんなにリキシャマンがしつこいとは思わなかった。アグラはきっと特別だろう。取り囲まれている誰に乗っても、結果は同じにちがいなかった。

 「とりあえず歩こうか・・」そう言って、僕らは、駅まえをはなれた。しかし、それでもみんな付いてくるではないか。ずっと同じ事を言われ続けて、頭が変になりそうだった。そうこうしていると、道の反対側に、少し年老いたリキシャマンがヨロヨロとやって来た。

 「ハロー!!」僕は迷わず声を掛けた。そのリキシャマンは、自分の事だと気付いて、こちらにらやって来た。英語で話しかけてみるけれど、分からない様子だ。「オーケー・ユー・ゴー・プリーズ」そう言ったものの、今度はリキシャマンどうしで、言い合いになっていた。「カム・カム・ゴー・ゴー」僕らは、そう言い切って、さっとリキシャに乗り込んだ。

 やっとリキシャは走りだした。ちょっと疲れたなぁ。そして次はタジ・マハールかと思っていると、急にリキシャマンは、ツーリストインフォーメーションの前で止まった。なんと、行き先がわからなかったと言っていた。9/23 毎日がつながっていて変だ。ずっとパソコンの前にいて、昨日も今日もなくなってしまった。今日中に、ホームページの引越しを済ませたい。

 「タジ・マハールの夕暮れ」9/25

 インドの象徴的な、建築物と言ったら、迷う事なくアグラのタジ・マハールが選ばれるだろう。僕もタジ・マハールだけは、見ておこう。

 その大きな門を抜けて、タジ・マハールが目に入ったとき、まず驚いたのは、遠近感がおかしいのだった。神秘的な建物から続く長い道の手前に立つと、目が錯覚を起こして、タジ・マハールの大きさが測れなくなってしまうのだった。

 (うわ!! ) くらくらするほど、何かに引き込まれてゆく。そこには、ひとつのトリックがあるのだろう。ゆっくりと緑に囲まれた道を歩き、とうとうダジ・マハールの前に来た。白い大理石の建物は、圧倒的に美しい。

 その入口には、靴番のオヤジさんがいて、靴を渡した。こんなに人がいっぱいいるのに、大丈夫だろうか。オヤジは 「オーケー、オーケー、ノー・プロプレム!!」って言う。(本当かなぁ・・)僕は不安そうに、ニコリと笑って、靴を渡した。さて、タジ・マハール。ここは王妃に捧げられたひとつの大きなお墓だと言う。

 中に入ってゆくと、その小さな装飾にいたるまで、色の配色が見事で、惚れ惚れしてしまった。手の抜かれていない、その仕事は、22年かかって作られたと言う。

 やがてキングとクイーンのお棺の並ぶ部屋に来た。早く亡くなった王妃のために、莫大な財力で、タジ・マハールを、王は建てたのだ。そして、こうして、今の隣りにならんでいるキングとクイーン。こんなふうな愛の形もあるんだな。結局、最高の贅沢と言われたであろう、このお墓、タジ・マハールは、結局インドを代表する建物になった。

 たったひとりの王妃に捧げられた、このタジ・マハールは、美しいひとつの愛で出来ているようだ。形のない形を見ている気がした。王の本当の気持ちは、はかることは出来ないが、自分のためでなく、真実、王妃のための建物だと信じることにした。

 そんな、気持ちのまま、外に出ようとすると、ちゃんとさっきの靴番のオヤジさんが、僕の靴を用意してくれた。さすがだ。どうやって、憶えているのだろうか。またニッコリと笑って挨拶をする。外に出ると、夕暮れの雲がタジ・マハールにかかっていて、よりいっそう、幻想的な、空間を作りだしていた。

 観光地のアグラは、騒がしく始まったけれど、なんとも静かで、おおきな夕暮れをくれたのだった。9/24 祭日。日曜の次の日の日曜。なんてうれしいんだろう。いろいろやりたい事もあったけれど、まだほとんどできていない。それでも幸せだ。プリンとか食べたりする。

「コーチコーチの話ごと」9/26

 また列車にゆられている。、向かっているのは北のパンジャーブ州、ジャイプル。13時間かけての移動だ。

 今回乗った列車には、それぞれの車両に8つくらいの、向かい合う長いシートがあり、それぞれの場所でそれぞれの話が盛り上がっていた。

 また八歳くらいの少年が、歌を歌って、お金をもらって回っていた。そして僕らの席にも来たとき、少し話を聞いた。とても厳しい目をしていて、質問する大人にも負けない口調で喋っている。ぜんぜん負けていない。彼のお父さんも、そのまたお父さんもお父さんも、歌を歌っているのだと言う。

 (さすがインド。日本の八歳とはちがうなぁ・・)そして少年は次を回って行く。向かい合う長いシートに、また話が戻ってきた。僕の斜め前には、パンジャーブドレスを着た十歳くらいの女の子が、男たちにはさまれてその話に参加していた。グリーンのパンジャービドレスに、くすんだ色の頬かむり、常にニコニコってして、瞳の大きな女の子だ。

 彼女は、ひとつひとつの話に驚き、その人の顔をのぞき込んでいた。そして名詞を生き物のように喋るのだった。僕が鼻をグスッてやるたびに、目と目を合わせてニコッとする。

 僕には、彼女の着ているグリーンのパンジャービドレスが、エメラルドのようにまぶしく映った。その輝きが、その体を包んでいた。白い歯もまたまぶしい。まるで宝石の原石のようだ。僕はその光りを信じてみようと思った。

 それぞれのシートでは、それぞれの話が盛り上がっている。ジャイプルへはまだまだ先だ。列車はいっぱいの話を乗せ走って行く。9/25 ミニコミ地下会議の原稿書き。二ヶ月前があっという間で、その間のニュースが見つからない。またニュースが増えないかなぁ。プロードバンド時代になれば、雑誌もホームページに載りそうだ。

「ジャパニ・・」9/27

 さて、北インドのジャイプルにやって来た。砂漠の入口でもあるラジャスターン地方の人々は、頭のターバンを巻いて、鼻ヒゲを誇らしそうに付けて、彫りの深い顔立ちは、いかにもラクダの似合う砂漠の民という感じだ。

 今日は、銀行に行って両替をすることと、ビザの延長をすることが仕事だ。まずは銀行へ行く。今までのどの銀行で両替したも、しばらく時間がかかったのに、ここでは早く終わった。ラジャスターンの人々は、とても血の気が多いという話だから、何事もそんな所もラジャスターンの人々の性格が出ているのかもしれない。

 銀行で、両替をしたとき、僕がお札を一枚一枚、一緒に確認しながら渡したら、「ジャパニーズ・イズ・グッド!!」と言われてしまった。そんなところが日本人らしいのだろうか。

 そして次はビザの延長。外国人登録局に行くと、質問の書かれている紙を8枚ほど渡された。そんなに英語が得意ではない僕は、辞書を使いながらひとつひとつ書いていった。オフィスの人が「辞書を使っている・・」とか言って、笑いながら見ている。そして「ジャパニ・・」と小さな声が聞こえた。(また言われちゃったなあ・・)

 約 二時間かけて、なんとか質問の紙も最後の項目になった。「インドであなたの帰国のためにお金を援助してくれる人の名前」というのがあり、僕が「よくわからない」って言うと、オフィスの人が、「マイセルフって書けばいい」って言った。なんとも インドらしい答え方だ。

 ふーっ息をつくほど疲れて、宿に戻ると、ドミトリーの隣りのベットのフランスの女性が、ゆっくりと何かしていた。彼女は、髪を剃り上げてた坊主頭で、朝には瞑想をしていた。インドの服で身を固め、その目がとってもきれいだ。しゃれた感じの人だ。彼女はほんと、ゆっくりと静かに過ごしていた。

 すっかりインドナイズされた感じの彼女なのだけれど、やっぱりフランス人らしいのだろうなぁ。9/26 今日はライブのリハ。あさってがライブ。今回はよく練習した。今までで一番リハをした。それはただ単純に曲の憶えが悪くなったのかもしれない。

「ラジャスターンのフォークダンス」9/28

 ラジャースターン州のフォークダンスと演奏を見た。ホテルの方で催してくれたのだ。洒落たホテルだ。

 小さなオルガンのような楽器と、横に細いタイコの演奏で始まる。びっちりと髪を分けたそのタイコ叩きの男のうまいこと、うまいこと・・。いろんなバージョンで叩いてくれる。さすがプロだなぁ。強く叩いても、弱く叩いても、その緊張感は変わらない。そしてシンプルな演奏なのに、まったくあきないのだ。

 やがて民族衣装を着た、男女が奥の方から踊りながら登場。男の人の方は、大きな原色の黄色いターバンをして、クイッと上にはねた、ハの字の立派な鼻ヒゲをはやしている。弦の付いていない小さな三味線のような楽器を、弓で弾く真似をしながらのダンス。女性の方は、赤いサリーに身を包んでいて、ニコニコしながら、輪を描いて踊る。それはとっても軽いダンスで、無表情で踊る男によくマッチしていていた。

 背の小さなその女性の踊りは、指や手の動きがほんとうに微妙で、美しい。それは日本にはないなめらかさで、とても女性らしい。見ていると、思わずホレてしまいそうになってしまう。

 タイコ叩きの男は、本当に嬉しそうにタイコを叩く。言葉ではなく体で音楽をやっているのがよくわかる。彼の肌は黒く、歯が真っ白にのぞいている。オルガン弾きの男とも息がぴったりで、その作り出すリズムは、ノリが良く、西洋人たちのツーリストも踊り出し始めた。

 そのタイコ叩きの男の演奏は、どんなヨーロッパの文化にも負けていないと思えた。何千回以上も演奏してきて、また今夜もその続きだろうに、こんなに力いっぱいタイコを叩けるのだ。そしてこんなに生き生きとしている。そのスピリットはどの民族にも負けていないだろう。

 白い歯のまぶしいタイコ叩きの男は、どこかリキシャマンに似ていた。僕は、なにげなく日々キリシャマンと出会っているけれど、もしかしたら彼のようなインド人に毎日会っているのかもしれないと思えていた。また旅が変わりそうだ。

 赤いサリーの女性は、何回でも輪を描いて踊る。機械文明がなくっても、人はあんなに楽しく踊れるのだ。9/27 今日ミニコミ「会議」のコピーをしている間、ずっと、まだ小さな柴犬が僕にじゃれていたのだ。可愛い。どうしてこんなに可愛いのだろう。それも賢い。思わず僕も飼いたくなってしまった。あのままで大きくなったらいいのになぁ。

「列車で聞いたラジオカセット」9/29

 ジャイプルで無事にビザを延長した後、僕はもっと砂漠に近い街のジョードブルへ列車で向かった。二時間遅れの出発。

 原色のターバンにハの字ヒゲのラジャスターンの男たち。彼らは、なんだかいつでも、おとぼけでそこに立っているような気がしてくる。インドを一応は一回りして来たけれど、ここのみんなは実にユニークで、大胆で、なんとも人なつっこい。

 列車乗り込んで来たひとりのラジャスターンのおじさんが、ラジオカセットレコーダー(ラジカセ)を急に端っこで鳴らし始めた。ひとりで楽しむというのではなく、音楽ならみんなでいうことなのだろう。電池は減るだろうけれど、そういう気持ちが僕は好きだ。

 座席に座っていると、実にいい感じで、そのラジカセから音楽が聞こえてくる。それでおじさんは席に座らないでわざと、端っこで立っているのかなぁ。途中で、録音に失敗したと思われる音も入っていて可笑しい。そしてテープの片面が終わったとき、おじさんはカセットテープを取り出そうと、ボタンを押すのだけれど、それがうまく出てこないのだった。

 おじさんは、ラジカセを振ったり、ひっくり返したりして、なんとかテープを取り出そうとする。テープが片面終わるたびにそうしているので、僕はおかしくておかしくて見ていられなかった。一応は、ボタンを押してみるのだけれど、毎回だめで、列車のすみでラジカセを振っているのだ。

 テープをひっくり返していれたはずなのに、かけてみると、ひっくり返し過ぎて、またテープが終わってしまった。ラジャスターンのおじさんは、それがうまく理解できない様子で、首をひねっては、また再生ボタンを押す。でもオートストップになってしまう。

 まだまだここは、文明が遠そうだ。9/28 今夜は地下ライブ。「兄弟」で歌う。最近は、ライブで気持ちよくずっと言葉が歌えていて嬉しい。ひとつひとつのフレーズが、なにかのお菓子のように思えてしまう。どんなふうに歌おうか、歌う一瞬前に、感じて歌える余裕もある。映画のひとコマひとコマのフィルムのような言葉だ。

「インドの夜と、朝の歌」9/30

 列車は二時間遅れのまま、乗り換え駅のジヨードプルに着いた。もう夜中だ。ジヤイサルメール行きの列車は行ってしまっていた。

 まったく予定にはなかった街に今夜は泊まることになった。しかしもう夜も遅い。うまく探せるかな。ここジョードプルは古い街のようだ。くらい商店街の続きを歩いてゆくと、道路にはみ出して簡易ベットがズラリと並び、そこでみんな横になっていた。その場所が見えてくると、そこは宿だとわかった。

 ぐっすりと、道の簡易ベットで布にくるまり眠っているその姿と、夜の景色は、とても淋しいものがあった。いろいろなサービスがあるんだと思うけれど、どうして彼らは家がないのだろうと思ってしまう。でもそういう生活があるのかな。そんなことを思いながら、宿の受付に入ってゆく。なんとかシングルの部屋が見つかって良かった。

 もう夜も遅い、やっと落ち着いてよかった。旅の予定にない街と宿は、異空間にいるような錯覚が起こる。舗道に並ぶ簡易ベットのシーンはせつなかった。

 ふと、自分のはいているシューズを眺めてみた。そうだ、今から四ヶ月前に、ネパールのカトマンドゥで買った日本製の高いシューズだ。店のおばさんは一年は充分に持つって行っていたけれど、本当、丈夫なシューズだ。まったくどこも壊れていない。いつのまにか足になじんでいた。日本に帰ってもこのシューズを買おうかな・・。

 いつのまにか眠ってしまっった次の日の朝、外がなんだかざわめいていて、目が覚めた。時計をみればまだ早い時間。窓から外を眺めて見た。そこは、お店の並ぶ細い路地で、朝にもう働き始めている街の人達がいた。白い大きな牛が二頭、荷台を引いてゆく。その荷台の上に乗って声をあげている青年。

 もうインドに入って三ヶ月も経つのに、始めて見るような朝の街の姿だった。街全体が動き出す、地面からのパワーが感じられた。そのざわめきを感じたとき、これがインドかと思えた。昨日の簡易ベットのみんなも、もう街に出ているのだろう。9/29 また、ひとつきの旅日記が終わった。月のはじめの頃が遠い。次でインド四ヶ月目だ。実際の旅も同じ四ヶ月目だなあ。

メニューにもどる(地下オン)

過去ログ(ギター編) (カバン編) (田舎編) (はじめての東京編)  (犬物語り編)  (フォーク編)

(文房具編)  (市場のバイト編) (4月チャイナ編)  (5月チベット編)  (6月ネパール編)  (7月インド編1) (8月インド編2)

ライブ情報

CD「黄色い風、バナナの夢」詳細

TOP   Jungle