青木タカオ「ちょくら・おん・まい・でいず」

過去ログ・はじめての東京編 [今月にもどる]

「青木君、ネクタイは持っているかい?」11/1

 18才。僕は東京のレコード店に就職した。新潟から出てきたのだ。そこは何店鋪かあるレコード店で、寮もあった。

 ちょっとかっこいいバックを両手に持って、上京した日、僕はまず、社長さんを訪ねた。そこは深川、東陽町にあった。「青木君だね、まあ座って、今おいしいお茶入れてあげるよ」

 お茶って言ったのに、なぜか社長はレギュラーコーヒーを作ってくれた。(お茶って言ったのになぁ・・) そしてタンスの中から、黒いブレザーを出してきて僕に着せてくれる。

 「なかなか似合うねえ」それから、もう作ってあった僕の名前入りの、名札のバッチを胸に付けてくれた。「青木君には、竹の塚店に行ってもらうよ」店長になる人はみんな、竹の塚店にまず行くのだと言う。

 「さあ、寮に案内しよう」社長と一緒に歩いてゆく道。途中のウインドウで自分の姿をチラッと眺める。(ホントに似合ってるのかなぁ・・)

 そして寮長さんの紹介。「とりあえず、ここが青木君の部屋だ」部屋といっても、二段式のベットがふたつあるだけ。自分のスペースは80cmくらい。「あ、青木です、よろしく」(その寮長さんには、それからとってもお世話になるのだけども)

 別れ際に社長が言った。「ところで、青木君、ネクタイとシャツは持ってるのかね?」「いえ、ありません」「じゃあ。明日までに買っておくように・・」

 まだ午後の四時頃だった。社長と別れて一人になった僕。永代通りはひろく、車が次々行き交っていた。さあ、ひとりぼっち。まずは、洋品店を探して僕は歩いていった。11/1 東京編はじまりです。今月は先月の「田舎編」の続きって感じです。黒のブレザーなんて、今、着ないよなぁ。今月はのんびり、のほほんと書こうと思っています。では明日。

「はじめての夕食はミソラーメン」11/2

 そして僕は歩いて行った。はじめての東京の午後。まずは、ネクタイとシャツを買わなくちゃ・・。

 東陽町の永代通り沿いの、小さな洋品店に僕は入った。今だったら、大きな紳士服店に迷わず行くのだろうに。どうしても、田舎商店街趣味なのか、自分に親しそうな洋品店を選んでしまった。

 「ごめんください、あのぅ、ワイシャツが欲しいんですけど・・」「サイズは?」サイズと言われても、よくわかんないよなぁ。「あのぅ、よくわかんないんですけど」「うーん、おたくけっこう背が高いねぇ。じゃあ、この辺だ」そこにあったいろいろな柄のシャツ。別にどれでも一緒のような気もするけれど、なにしろ初仕事だし、僕なりのポリシーもあったし、選びに選んでしまった。

 どのくらいかかっただろう。そこにあったシャツのベストチョイスを僕は二枚選んだ。一枚は緑に近いブルー。もう一枚は、たしか茶色のチェックだったと思う。その茶色の方は、まあ予備で買ったシャツで、本命はグリーンブルーのYシャツだ。もう、これしかないと思えた。なぜ? 答えは、カッコイイから・・。

 18才の頃、僕にとってグリーンブルーは、渋いシャツの色の象徴だったのだ。黒いブレザーに絶対、似合うと思った。頭はふくらんだパーマ頭。僕はいったい、誰になりたかったんだろう? そしてネクタイは銀色系。

 「決まったぜ、バッチリだ」とは言わず、きっと「これで、へえ、すんげえバッチリだてがぁ」と言ったにちがいない。さて洋品店の袋を持って、今度はメシ屋探しだった。そば屋、中華屋はもちろん、食堂にも、ひとりで入ったことがない。田舎にいた頃「中華そば」と、のれんに書かれた店で、中華そばを食べたくらいだ。だめだあ、どこにも入れない・・。

 結局、僕は、ドアにたぬきのイラストの書かれた、サッポロミソラーメンの店に入った。今でも、よく覚えている。テーブルの隅に重ねられていたマンガ本。忙しそうにしている仕種。おいしくないコップの水。しばらくすると「おわよわござあーす」と若いアンちゃんがやって来て、バチンとタイムカードを押した。そして、おやじさんと交わす、東京言葉。

 実は僕は、インスタントのあの有名なミソラーメンしか、食べたことがなかった。ミソラーメン屋のミソラーメンは熱くてうまい。量もある。そして僕は、店員さんたちの会話をずっと聞いていた。(これが東京言葉かぁ・・)

 きっと今も、そのミソラーメン屋さんはあるだろう。東陽町に寄ったら、ぜったい食べてみたい。11/1 雨。今月は節約しようと決めているのに、なんだかどんどんお金をつかってしまう。気になってた、チョコエッグをふたつも買ってしまった。そんなことでもしないと、気がまぎれないのだった。初日の雨はきつい。

「寮生活・一年生」11/3

 「おっ、新人かい?」僕が一人で寮の居間にいると、社員の人が帰って来た。

 「青木です、よろしく!」と言えるひまもなく、その人は玄関すぐの自分の部屋に入ってしまった。どうやら寮には一人部屋と四人部屋とある様子だった。しばらくすると寮長さんが帰って来た。「青木くん、この部屋のものなんでも使っていいから、このオーディオもね」「すごい、オーディオセットですね」「俺んの、俺んの・・」

 寮長さんはホントここは長い様子だった。あたり前のようにTVをつけ、バラエティー番組をガハハと笑いながら楽しんでいる。(知らない番組だ・・) そうこうしていると、また扉がガチャリと開いて、黒いブレザーを着た、ふたりの先輩が帰って来た。ここは、電気店部門とレコード店部門の一緒の寮で、その先輩はレコード店の方なのだ。

 先輩はふたりとも、丸くふくらんだパーマをかけていた。僕は居間にいたのだけれど、まるで気付かないかのように先輩は、四人部屋の方に入って行った。するとすぐさま、石原裕次郎の歌がかかり出した。寮長さんは、あとから入っていった。きっと僕の事を伝えているのだろう。TVでは、見た事もないバラエティーをやっている。

 「こんばんわぁー」四人部屋から、パーマ頭の二人の先輩が居間に来て、僕に挨拶をしてくれた。片手には、缶ビールが持たれていて、一杯いかがって言う。ビールなんて田舎で、飲んだこともなかったので「飲めません」って言ってしまった。「へえー、明日からなんだぁ。出身はどこ?」二人の先輩は、18才と19才だった。僕も18だって言うのに、この違い・・。

 「石原裕次郎、聞く?」その先輩はいま、裕次郎にはまっていると言う。寮長さんの素晴らしいオーディオセットから流れる裕次郎。先輩は、のどを震わせて、一緒に顔を作って唄っている。「いやぁー、いいねえ」その先輩は、アイドル系のマスクだった。とても不思議なシーン。でも、その気持ちは、半年後の僕には、よーくわかった。

 もう一人の先輩が「南こうせつ」のビデオがあると言って、さっそくかけてくれた。その頃、ビデオデッキといったら、ほんとぜいたく品で、まずどこの家にもなかった。僕だって、ビデオを見るのは、初めてだった。「ビデオがあるんですかあ」すると、電気店部門の寮長さんが言う。「俺んの、俺んの・・」

 TV画面は、バラエティ番組から「南こうせつライブ」に変わった。(なんかすごい。これが、ビデオかあ) 先輩二人は、僕がフォーク好きだと聞いて、気をつかってくれたのかもしれない。先輩はとっても楽しそうだ。一曲一曲に、一緒に唄っている。寮長さんも一緒に見ていたけれど「俺、明日早いから」と言って自分の部屋に戻ってしまった。

 (なるほど・・この部屋はレコード店部門の若いみんなの天下なんだな)

 そんなふうにして、僕の寮の一日目は過ぎて行ったのだった。11/2 今日も雨。帰りの電車のシートで、僕の隣に座ったおじさんは、ふかふかのアノラックを両手で抱えた。でも、その両脇から、アノラックは大きくはみだしていて僕の読んでる文庫本の前まできていた。(こりゃ、ないぜ) おじさんはやっと気付いて、また赤いふかふかのアノラックをぎゅーと抱えて、縮こませる。もう大変な騒ぎだ。苦労している。でも、なんかおかしい。なぜだろう?

「アイム・セクシー回想」11/4

 誰にだって、耳に残っている歌がある。その歌が聞こえて来るだけで、胸がキューンとなってしまう歌が・・。

 僕にとって、その歌のひとつにロッド・スチュワートの「アイム・セクシー」がある。胸キュン率120パーセントだ。なにがどうという理由ではなく、そのシーンの中で、流れていたということなのだ。さて、うまく伝えられるかな。心配。

 ロッド・スチュワートの「アイム・セクシー」が流れていた。僕は小さなレコード店の隅に、両手を前に組んで立っている。お客さんの質問を待っているのだ。でも、今日、店員になったばかりなので、何をきかれてもわからない。どこに何があるのかもわからない。はじめてのネクタイ。先輩はポスターを次々巻いている。「いらっしゃいませぇー」先輩はふくらんだパーマ頭だ。ロッドのしゃがれ声が響いている。

 店長さんは女性だった。僕のところに来て「お昼、何たべる? 中華と日本そば屋さんで注文するんだけど」ときいた。「何があるんですか?」「えーとね、ラーメンとかチャーハンとか、そばとかうどんとかね」店長さんは、僕がよく知らないのを、わかっている様子だった。「じゃあ、ラーメンお願いします」またラーメンだ。でも他のものは、まだお店で食べたことがない。

 しばらくすると、出前のおやじさんが、おかもちを持って、店に入って来た。おじさんは「どうもう」と軽くあいさつをして奥へゆく。慣れてる感じで・・。さあ、ラーメンが来たのだ。店の奥から、店長さんが手まねきをしている。「青木さーん。ちょっとちょっと」僕は狭い店の奥で、ラーメンを食べた。レコード店とラーメン。変な気持ち。ロッド・スチュワートはしゃがれ声で歌い続けている。

 ひと段落ついて、そのパーマ頭の先輩と一緒に僕は、はじめてのポスター巻きをした。「青木さん、どんなミュージシャンが好き?」「そうすね、ボブ・ディランとかすかね」「渋いねえ。俺、YAZAWA。さいっこうだよ。ホント!!」「はあ・・」(でも、その半年後には、僕もファンになっているのだが・・)

 ポスター巻きは、気が楽だった。なんか楽しかった。高校生の頃、ストーブのそばで話しているような感じだった。先輩はオシャレな、話し方をする。先輩は「もとつっぱり」だという。でももう卒業したよっていう。あごに生ひげが少しはえていた。その時が、その先輩の「もとつっぱり話」を聞いた始まり。

 ネクタイをした僕。はじめての店員。「いらっしゃいませ」の声。東京。買ったばかりの靴。パーマ頭の先輩は、僕が困っているとなんでもやってくれた。ときどき僕の方をチラッと見ては、目で元気?ってきいた。おとといまで田舎町でにいたなんて、まるでうそのよう。

 やがて夜になった。店内の明かりは白い。しゃがれ声のロッドはまだまだ歌う・・。バックグランドミュージックって言葉があるけど、僕にとって、「アイム・セクシー」にはミュージックの方に風景が乗っている。11/3 今日TVで、何でも肩に乗せて、ぴったりと重さを当てるっていう達人が出ていた。米屋さん。100グラムの誤差で、何でも当てる。人の体重でも。すごかった。しくみがわからない。人間の神秘を感じた。

「ホームシック」11/5

 田舎にいた頃は、電車に乗る機会がほとんどなかった。それが東京に来て、すぐに毎日、乗りかえ乗りかえの連続。駅のホームに立っている自分がいた。

 電車に乗っている時はそうでもないが、ホームに立っていると、はじめは、田舎での日々が脳裏をずっと横切っていた。(俺は、ここで何をやっているんだろう?) と・・。そういう時期だったのかもしれない。どんな風景もなぜか空しく見えてしまった。 これがホームシック(?)って言うやつだろうか?

 ホームシック・・。駅のホームで淋しくなると、ついつい缶コーラを買ってしまう。昔からコーラが大好きだったので、飲んでいると自分に戻れるような気がしたのだ。そして感傷的な気分をまぎらわして、また電車を待つ。でも日比谷線北千住は、なかなかその先の電車が来なかった。(また北千住どまりかあ・・)

 レコード店員時代、僕は北千住のホームでいっぱいの事を考えた。なんとも不思議な場所だった。渥美二郎の「夢追い酒」がヒットしていた頃だ。渥美二郎は北千住にゆかりのある演歌歌手だった。ホームから見えている、飲み屋街のネオンサイン。東京に来てすぐの頃、僕の頭の中には、アメリカン・ロックが流れていた。夢はいっぱい広がるんだけど、北千住という土地柄か、なんだか夢から遠いところにいるような気がした。

 黒いブレザーに、緑のカラーシャツと銀のネクタイ。ホームでぼんやりと立っている僕は誰だろう。なぜ演歌の町にいるんだろう。たった独りの気がした。働きだして、僕は落ち込んでいた。無断欠勤をしたりもした。本当はボロボロになりたかった。まるでわけがわからなかった。そしてコーラだけが救いだった。

 そんな気分でいつも寮に帰ると、寮のみんなは TVを見ながら、いろんなことを喋っていた。音楽の話ばかりだった。今、売れているレコードの話、これから売れそうなレコードの話。それはジャンルを越えて、盛り上がっていた。ロックくらいしか興味がなかった僕もだんだんと、話に参加できるようになってきて、毎日が楽しくなっていった。売れるレコードを当てるって、おもしろいよ。

 僕は早く帰って寮のみんなに会いたくなっていった。いろんな話をしたかった。僕の駅での「ホームシック」も、やがてなくなった。やっと自転車が走り出したのだ。そして僕のレコード店時代が忙しく始まるのだった。11/4 今日はいろいろありました。家に帰って来たのが午前1時。いっぱいの幸運。いっぱいの不運。今日一日だけでも、同じ数ありました。そして帰り、お茶を飲みながら、不思議な事に、みんなで気づいたのです。それは、今日起こる事を、ちゃんとヒントのように予測していたのでした。友達が高価で大事なものをどこかに忘れてしまったのですが、会った時から、ハハハと笑いながら、そんな話題を話していたのでした。

「ちょっとおおきな本屋さん」11/6

 ちょっとおおきな本屋さんは、僕の住んでた田舎町にはなかった。東京に来たら、どの駅にもたいがいは、ちょっとおおきな本屋さんがある。そして僕の働いていたレコード店のそばにもあった。

 「いってきまーす」お昼になると順番で、食事を外に食べに行く。その一時間。その一時間の間に必ず、僕は本屋さんに寄った。さっきも書いたけれど、ちょっとおおきな本屋さんには、何でもあった。気が向けば、そのコーナーに行くだけで、何か見つかった。僕が田舎にいた頃は、こんなふうに、本を探せたりしなかった。

 そこはひとつの天国。それはみんなも同じだろう。ほんと何も知らなかった僕にとっては、本屋さんは発見の連続だった。まるで本屋さんの中で、旅でもしてるよう。昼の一時間、まあ、本屋に居れるのは、30分くらいだろうか。それでも集中して、立ち読みをした。音楽雑誌のボブ・ディランチェック。詩のコーナーに哲学本。自己発見の本。僕も「カーネギーの成功術の本」とか、まず買ってしまいましたよ。あの本、みんな一度は買わない?

 僕の昼休みのほとんどは、本屋さんと共にあった。「マーフィーの本」にもはまったなぁ。あれ信じられないようなことを、かるーく言ってたものね。こんな本あるのかって思った。「ポケットフォークSONG」とか「ポケット民謡」とか「ポケット」シリーズもよく買った。俺って「ポケット」って言葉に弱いらしい。

 いつも寄っていた本屋さんでは、有線の洋楽が流れていた。僕はレコード店にいたので、知ってる曲も多かった。店の外で流れてくると、また別の感覚で聞けて、つい感動してしまう。(いやぁー、いいねぇ) そして、くちづさみながら店に戻るのだ。それはそれは楽しい時間。「店長、これ売れますよ!!」

 今ではすっかり、ちょっとおおきな本屋さんに、慣れてしまっているけど、東京に来た頃は、見ても見てもあきない本ばかりだった。つい成功本のタイトルにひかれ手が伸びてしまう。今だったら(またこれかぁ)と思うような本でもね。そして、ついつい買ってしまうのだった。 11/5 今日は一日、ホームページ作り。途中で、ぐっすりと眠りに落ちて、また起きる。ふとんのある押し入れを開けて、ふとんを出そうとしてる所で、倒れてそのまま、眠ってしまうのだ。やっぱり、昼寝はこうでなくっちゃね。

「ラジカセを買いに行った」11/7

 寮にベットはあった。居間にはテレビ。でも、僕の枕元には、ラジカセがなかった・・。

 田舎から持って来た、大きなカバンの中には、編集して作って来た、ボブ・ディランのカセットテープが一本入っていた。カセットを眺めていても、音は聞こえて来ない。まず、ラジカセを買おう。ラジカセがないと、僕の人生が始らない。

 働き始めて、すぐの休みの日、僕はラジカセを買いに行った。ステレオタイプ、目覚まし機能付き。寮に戻って来て、二段ベットの下の枕元の壁沿いに、ラジカセを置いた。そして取り出した、ボブ・デイランのカセット。それは、20数枚のアルバムから、一曲ずつ入れてきたものだった。

 「さて、聞くかあ」カセットをかけてみる。ボビーの声は、なんだかとっても懐かしい響き。やっと、自分の心が戻って来たよ。ステレオの赤いインジケーターが、音量に合わせて動く。ベットの奥の暗さの中にそれは光る。とってもきれい。流れて来るどの曲も、ベットの奥から、柔らかく聞こえて来る。たぶんそれは布団の関係だ。

 田舎では、いっぱいレコードを買った。テープだって山程あった。そして東京に持って来た一本のカセット。そして今日買ったラジカセ。明日からこのテープで毎朝起きるぞ。大好きな曲ばかり入れて来たのだ。ほら、このフレーズいいんだよ。パラパパラパパー。

 それからの日々は、しっかりとすっかり変わった。しばらくはボビーのたった一本のカセットばかり聞いていた。他のみんなが居る時は、ヘッドホーンでね。たった一本のテープライフも良かったのだけれど、とうとう他のテープも作ってしまった。気がつけば、また、いっぱいのテープ・・。

 たった一本のカセットだけを、しばらく聞くなんて、初めてラジカセを買った時以来だった。ひとつのラジカセと一本のテープ。また今度いつ、その時がやって来るんだろう。11/6 今日は本を買ってしまった。それも衝動買い。「民族探検の旅」という全8巻の写真とエッセイ本。大きい本、8冊。いいんだな、これが。でも仕事中だったので、その全8巻を、カッパのズボンの中に隠して、自転車のカゴの中に入れて置きました。そのままで7時間。取られなくてよかったよ。(でも重た過ぎて持ってけないだろうけど) 

「店長の予言、僕の予言」11/8

 その日、店に行くと、なんとボブ・ディランがかかっていた。店にいたのは、店長さん一人。「オスッ、アオキさん」店長さんは、もうベテランの女性。昨日、僕は無断欠勤したのに、怒ったりはしなかった。

 「青木さん、こうゆうの好きでしょう」「えっ、なんでわかるんすか? 大好きすっよ」「そうじゃないかと思った」

 偶然だったのか、やさしさだったのか、それはわからない。でも僕は、店に入った時ボブ・ディランが流れていたので、もう一度ちゃんとここで、働こうと決めたのだ。それにしても、どうしてわかったんだろう? 一言も、ボビーが好きだなんて言ってなかったのに・・。

 店長さんは、もう10年以上レコード屋で店長さんをやっていた。10年やってると、どんな歌い手が好きなのか、わかるのかなあ。あと、店長さんは、売り切れにならないように毎日、明日の注文枚数を決めていた。売れると思ったら、数多く注文するのだ。それが実によく当たった。

 レコード会社の人が来て試聴盤をかける。「店長、売れるんですよ絶対、ひとつよろしく」「青木さん、どう思う?」よく店長さんは僕にきいた。「いいんじゃないすか」「んー20枚」20枚というのは、売れるっていうことなのだ。店長さんは、普通の30代の女の人にしか見えないのだが、レコードの事なら、なんでも知っていた。「売れたんだよねぇ。あれ」とか、しみじみと言う。

 僕も慣れて来たら、少しは売れるレコードを予測して、店長に伝えた。すると店長は「あ、そーう」とか言って、「じゃ、二枚」と言うのだった。二枚って言うのは一枚は売れるって事なのだ。

 ある時のこと、僕が食べ物屋の有線で聞いた、民謡演歌の歌「おやじの海」を、僕は店長に大プッシュした。「店長、これ売れますよ。かならず」もう発売されてそれはしばらくたったレコードだった。これからまた売れて来るのは、よほどのこと。そんな話をしていると、ホロ酔いのおやじさんが、店に来てこうきいた「さっき聞いたんだけど、ほらあの、おやじがなんとかって歌・・」 

 「青木さん、さっきの歌だよ、きっと」そしてそのレコードを探して、試聴してみる。「これこれ、これだよ」当たったのだ。後から思えば、こういうお客さんが一人でも来れば、もうベスト10に入ってくる歌ってことなのだ。店長は言う。「10枚入れといて」案の定「おやじの海」は大ヒットした。店長はその歌を「青木さんの歌」って呼んだ。

 店長の予言、僕の予言。僕の方は三勝、五敗、二引き分けって感じ。つまりぜんぜんだめだったってこと。11/7 とうとう、いつもはいてる黒ジーンズが、全部ひざに大きな穴が開いてしまって、たった一本だけ大丈夫なブルージーンズをはいている。それも12年まえに買ったやつ。新品。それをはいて「ああ、ブルージーンズは合わない」って決めたのに、またこの一本に戻って来るなんて不思議。

「なくした定期券と立ち食いそば屋さん」11/9

 東京に出てきて、僕にも通い慣れたお店ができた。それは立ち食いそば屋さんだ。お昼休み、早く本屋さんに行きたかったので、僕はパチンコ屋の裏通りにあった、立ち食いそば屋さんでお昼を済ました。

 と言うか、中華屋も日本そば屋も、ほとんど入ったことがなかったのだ。勇気を出して入った日本そば屋で、「冷やし中華」を注文し、恥をかいた。「えっ、青木さん冷し中華たのんだの?」と店長さんもびっくりしていた。それにくらべ、立ち食いそば屋さんは、「これとこれ」って指差すだけ。それになんといっても、待たなくていいのが良かった。

 ほぼ毎日、僕は立ち食いそば屋に行った。いつも居る、二人のよく喋るおばさん。お客さんともとても仲がいい。世間話をするんだよね、ずっとずっと。僕は端っこの席で(よくしゃべるなあ)とか思っていた。すこし太ったおばさんと、痩せててメガネをかけてたおばさん。仕事してるんだか、話しに来てるんだか・・。

 僕は端っこの席に座り、いつも通りの注文をする。僕が好きだったのは、イカフライ。そうたいがいイカフライ。そばとうどんは交代ごうたい。日によってはタマゴ入れ。まあ、そんな注文だった。とっても簡単。おばさんたちは、僕らのことを「お兄さん」って呼ぶ。おばさんは喋り続けていたけれど、僕は淡々と食べるだけだった。おばさんの笑い声が響く、そんな立ち食いそば屋さん。

 通い始めて、ひと月くらいたった頃、僕は通勤定期をどこかに落としてしまった。それも三ヶ月定期。はじめての定期落とし。これは僕にとって「お金がない」という初の日々にもなった。お金がない。でもみんなには、ばれないようにしたかったのだ。給料日までの一週間、これがきつかった。立ち食いそばも、イカフライからきつね、そしてかけそば・うどんに変わった。

 「かけそば」と、僕は何日か注文した。すると四日目くらいで、おばさんが変だなって、気が付いたらしい。お昼。一言も言わずに、イカフライをあとから上に乗せてくれた。目で合図をしている。わかっているのだ。(あと三日です・・) それからは、イカフライではなかったが、揚玉や油揚げが乗った。そっとね・・。

 嬉しかった。それでも、僕はあんまり喋らなかったけれど、毎日かよった。夏は暑かったなあ。扇風機が首振りで回っていた。おばさん二人も、あんまり喋らない。しーんとしてる、店内。ただ「いらっしゃい」の声だけがする。

 定期券は結局、僕の寮のマンションの。管理人室に届いていた。窓のところに貼ってあったのに、僕は気付かなかったのだ。バカな話・・。でも、いろいろといいこともあったと思う。はじめての定期券落としの日々。(あの立ち食いそば屋、まだあるかなあ・・)11/8 今週はなんだか、筋肉が疲れてて、温泉に行きたくなってしまう。温泉。今年はまだ、温泉に行っていない。でも温泉宿は、毎日湧いている。いいなあ。分けて欲しい。

「ナイロン袋一杯の幸せ」11/10

 とうとうセブン・イレブンの出番が来てしまった。本当の事を言うと、東京に来て、一番に東京を感じたのは、24時間のコンビニエンスストアーだった。田舎にはなかった。それに、その存在さえ僕は知らなかった。

 駅から、寮に帰る途中に、大きなセブンイレブンがあった。今みたいに、いろんなコンビニが、すぐ近くにあるというわけではなくて、その存在は明るく、特別なものだった。

 僕のいたレコード店が終わるのが夜10時。そして寮に着くのは11時すぎ。その時間だと、どうしても、開いてる店って言うとセブン・イレブンくらいしかなかった。そしてナイロン袋一杯にいろいろ買う。うそではなくて本当。寮では、お腹をすかしたみんなが、今か今かと、僕のナイロン袋の到着を待っているのだ。

 定番はポテトチップス。「小池屋」って田舎に居た頃は、知らなかった。それは東京の味がした。あとペットボトル1.5Pだね。ときにはサラミ。そしてイカの姿揚げ。もちろん自分用の弁当も。そうそうチーズ、それに・・。

 寮には、レコード店員と電気屋の店員さんが一緒にいた。ナイロン袋一杯に買って来るのはもちろん、レコード店員の方。当たり前のように、なぜかそう。誰が何を食べたってよかった。だって、みんなナイロン袋一杯に買ってきたもの。それにしてもよく食べたなあ。

 毎晩、僕らは深夜テレビの番組が全部終わるまで、テレビを見た。今のように、朝までやってはいなかったころの話。その時間こそ僕らの時間だった。おつまみはどんどん無くなってゆく。

 そうそうこれは、セブン・イレブンの話。友達はナイロン袋から、ごそごそと何かを出そうとする。「俺、こんなもの買ってきちゃたよ、みんなも好きかと思ってさ」そして不安そうに、机の上に置く。「えー」それはお決まりの光景。どうしてもそのとき、そこには深夜テレビが付いていて欲しい。

 セブン・イレブンは楽しかったなぁ。24時間やっててね。「あのシャッターいつ閉まるんだ? 」とかよく言ってた。今のコンビニって「便利」ってイメージがあるけれど、僕が東京に来た頃は「生きてる」って感じがした。

 ナイロン袋一杯に買って寮に帰る。もう11時は回っている。でも僕らにとっては、それからが、一日の素晴らしい始まりだった。11/9 信じられないほど、電車の中で深い眠りに落ちてしまう。どのくらい深いかは、このくらいふかーい。そして全然、駅が到着しないのだ。電車で眠るって、測るものがないからねぇ。眠りを測る時計ってないものか。

「初ギター、お茶の水」11/11

 休みの日、僕はお金を持って、お茶の水に行ってしまった。それは幸運だったのか、不運だったのか?

 東京に出てきて、僕はお茶の水の楽器店街の事を知った。それはそれはびっくりしてしまった。こんな街があっていいのかと思えたほど・・。なんでもある。楽器ならなんでもある。

 本当は、まず小さなカラーTVを買う予定だった。でも寮にはTVはあった。それで10万円が残った。そして、おふくろが東京行きにくれたこずかいがあった。僕は、そのお金を持って、お茶の水に行ってしまったのだ。ギターなんて買うつもりは、・・少しだけあった。

 でもね、欲しかった輸入物のマーチンギターは平均で35万以上した。僕の持っている、お金といえば・・ぜーんぜん、足りなかったので、まあ、あきらめるつもりで、楽器店街を一軒一軒見て行った。それでも、一応、買う意志がありますって顔をした。「御予算は? 」「まあ、30万くらい?」(うそばっかり)

 あれだけお店があるのに、だいたい値段は一緒。もうすっかり心はマーチンをあきらめていた。(これでいい・・マーチンは夢のギターなのだ) そんなふうに思っていたのに、ある一軒の楽器屋さんで、一本だけ、小さなマーチンギターをみつけた。ちょっとないモデルだった。

 (へえー、こんなの知らないや。おお、値段が安いな。25万かあ・・。でもセール中で「安くします」って書いてあるよ) それは僕の欲しいタイプではなかった。あまり見かけない珍しいタイプで、お茶の水でも、そこにしかなかった。「あのお、これいくらになるんですか?」

 「これねえ、安くするよう!! 22万」「22万ですかあ、僕の予算ではちょっと足りないですね」僕は買うつもりは無いけど、一応、やんわりと断ったのだ。すると「いくらなら、大丈夫なんですかぁ? これねぇ売れなくてねぇ・・、安くしますよ。本当」と言う。僕も正直でバカだった、ついホントの事を言ってしまった。それも恥ずかしそうに。「18万しかじつはないんですよ」

 「んー、いいですよ。18万で」マーチン・・。ああ、マーチン。ふらふらっと試し弾きをして、いろいろと良さを説明されて、ふらふらっと買ってしまった。買ってシマッタ・・。「これは、ひとつ前のマーチンのシリーズなんですよ。だから音がいいんですよ」(今、思うと、これ、売れなかったってことだよねぇ・・)

 マーチンと書かれた、重たいハードケースを片手に、なぜか僕はお茶の水のホームに立っていた。(こんな、はずじゃなかったのに・・。でも夢のよう。でもすっからかん) 新潟から、出てきたフォーク少年は、マーチンのギターケースを股の間に挟んで、地下鉄に揺られていた。激しく嬉しく、とっても地味に。11/10 今日は、頭をぶつける日だった。なんと四回も激突する。それも自分で、ぶつかるぞってわかっていながら。さすがに四回もぶつかると、頭が痛い。ボクサーってこんな感じ?

「70円のオレンジ缶ジュース」11/12

 思い出には味が付いている・・。

 田舎に居た頃、よく缶ジュースの自動販売機まで走って買いに行った。そして家に帰って来て、いっきに飲む(なんかバカみたい) そして、東京の、住んでた寮のマンションの前には、缶ジュースの自販機がちゃんとあった。ちゃんとあったんだけれど、なぜか、オレンジジュースのちょっと小さめの70円の缶専門の自販機だった。

 思い出には味が付いている。僕はその頃の寮の事を思い出すと、あの70円のオレンジの缶ジュースの味も、一緒によみがえってくるのだ。よーく買いにいった。一番近い自販機だったからね。

 今、2000年。缶ジュースは120円だ。'78年の頃は100円だった。100円時代は良かったよねえ。110円に上がった時の、せつない気持ちを覚えているかい? 自販機イコール100円時代が終わったのだ。100円時代、その自販機は70円だった。ちょっと小さな缶だったせいだろう。

 70円は、その頃でも安いと感じた。ちょっとふるーい(?)のオレンジの味。僕はその味が、実は好きだった。表現しがたいれけど、ほら、昔って、穴開けを使って、缶の両端に二つの穴を開けて、チュウチュウ飲んだよね。ミッキーとかのオレンジジュース。マイオレンジってのもあったなぁ。風邪をひいて寝込んだりすると、幼い頃、よく飲ませてもらった。そう、あの味。

 東京に出てきて、大きな地下鉄に乗ったり、ネクタイをしめての生活の中、その缶ジュースの安さと味が、僕には、自分のように思えていた。

 寮生活に入って、半年位たった頃、その70円のオレンジジュース缶は、80円に上がってしまった。「えー!!」僕はショックだった。もうちょっと歩けば、他の自販機もあるのに、70円って値段にいつもひかれて、買っていたのだ。80円になっても、まだ安かったので、僕は買い続けた。

 何本買っても、何本買っても、そのオレンジの味は変わらなかった。80円に上がっても変わらなかった。それは、東京に来てすぐに飲んだ味。三ヶ月目にも飲んだ味。僕はいつでも来た頃を思い出せた。そのジュース一本で・・。

 缶ジュースの自販機の前に立って、ポケットに100円もないと、辛いよね。たまたまそれが70円だったりすると、今でも(あの自販機だったら買えるのになあ)って思ってしまう。70円の中に住んでいる、そんな僕の思い出。11/11 今日、友達から、非常用の乾パン他、いくつかもらう。でも友達は言う。「食べちゃだめだからね!!」えー、そんなあ。俺いつ食べればいいの?

「栄楽のおやじ」11/13

 栄楽のおやじは、なんだかいつもカッパを着ていたような気がする。それは中華料理屋の出前のおじさん。みんなは敬愛を込めて栄楽のおやじって呼んだ。

 そう、僕が居たのは、レコード店。外に食べに行く時も多かったけれど、雨の日なんかは、出前をよく頼んだ。いや、雨でなくても、毎日来ていた気がする。雨の日は特に印象的だったのだ。口癖はこうだ「おまちどうさん!! いやあ、まいっちゃってね、この雨でしょ」そして濡れた手で、あったかいチャーハンとか出すのだ。カッパとカッパの帽子がよく似合っていた。

 なんてレコード店と栄楽のおやじは、似合わなかったんだろう。自動ドアが開くと、条件反射的に「いらっしゃいませ」と言ってしまう。入口のレジに立っていると、後ろ向きなので、なおさらよく見えない。自動ドアの開く音がして、振り向けば目と目が合う。「まいど!!」

 栄楽のおやじさんは、どうやら一日、出前専門のようだった。僕にとっては、東京に来て、はじめての「オヤジ」と呼ばれる人との出会いだった。栄楽のおやじさんは、たしか髪がほとんどなかったように思う。いつもカッパの帽子をかぶっていたように、憶えている。あれ? 晴れてる日もあったのになあ。どんな帽子をかぶっていたか、思い出せない。とっても日に焼けてて、顔が長かった。笑うと歯がニコニコって出た。

 おやじさんには、もうひとつ口癖があった。「チャーハン食べたいときは、みーんなチャーハン食べたいんだよね。カレーが食べたいときは、みーんなカレーが食べたいんだよね」出前の人が言っているんだから、それは本当だろう。でも、カレーとチャーハンしか例は出て来なかったけど・・。

 「店長!! ハイ、カツドン。650円」店長さんと栄楽のおやじさんとは、長い付き合いのようだった。「ちよっと一服してっていい?」おやじさんは「いやさあー」とか言いながら、なにか話を、一方的にひとつ話した後、「どうもねぇー」っと言って、レジの人に、もう一回挨拶をして、バイクで、サーと走って行く。

 僕はある時、中華屋栄楽に食べに行った。ちょっと離れていたので、なかなか行くチャンスがなかったのだ。テーブルに座る。意外と広い店内。チャイナ娘の踊る絵と、大きなカガミ。そこに書いてある「栄楽さんへ」の文字。まだメニューがよくわからなかったので、たぶんカレーかカツ丼を注文したと思う。お店の人は僕のことを知らない。若い娘さんもいた。

 そこに、出前から、あのおやじさんが帰って来た。「あれ、どーしちゃったの? 」「えー、たまには来るよー」お店の中では、おやじさんは、とっても静かだった。たしか、そこで帽子を取ったような気がする。キャラクターが光っていた。11/12 実は昨日、たまたま偶然、方向もぴったり、僕の住んでた寮の街に行く用事がありました。改札を出て、体の感覚の方が出口を覚えていました。あの札幌ラーメン屋もまだあった。セブンイレブンもあった。僕の住んでた寮もあった。帰りにミソラーメンを食べようと思っていたら、一緒の友達が「こっちから行こうよ」と言って、道を曲がってしまいました。

「深夜CM最高会議」11/14

 僕もまた帰ってくる。もちろんセブン・イレブンのナイロン袋を持って。寮のみんなは、もうすっかりTVで盛り上がっている。「おかえり!」さあ、全員が揃った。深夜TVをまた最後まで見ようよ。

 新潟に居た頃には、まったくやってなかったCMが、深夜になると東京ではあふれていた。今2000年は、もう少なくなったなあ。あの、なんとも、チープで、オーバーな、深夜CM・・。一番印象的だったのはやっぱり「ホテルエンペラー」のCMだ。タキシード姿の男、そして花束( だったかな) 。妙にエコーのかかった「ホテルエンペラ〜」の声・・。

 深夜テレビと言えば、僕らは「23時ショー」のファンだった。その頃の司会はオペラ歌手のヒゲの男性がやっていて、いつも「はあー」と言って、驚くのだった。そしてその番組が終わるくらいから、変なCMが、つぎつぎと登場する。当時は二回続けて、よくCMをやっていたんだよね。それも何度も。しつこいくらいに。

 でもそんな、むだな時間に、かならず会話が生まれた。だから、いちがいにダブルCM は悪いとは言えない。くだけた感じが深夜CMのいい所だった。番組の方は、見てるような見てないような・・。今だったら、通信販売の実演番組とかの空気だろう。

 僕らは毎日、おそーくまで、起きていた。テレビというテレビの全部の番組が終わるまで話していた。ぜんぜん東京のことは知らない僕は、みんなの話を聞いてるばかり。僕が一番年下だったけど、そんなには年は変わらない。高校を卒業しても、また続きのバカ話をしているなんて不思議だった。

 あの頃 (と言うか、その前は知らないのだが・・) やっていた深夜のCM達。なんだかとっても安上がりのような気がしていたけれど、本当は考えに考えて作っていたのかも知れない。ほら、今でもパチンコ屋さんのポスターとか、そういう感じだものね。深夜まで、起きている人は、たいがいは暇な人達だったのかもしれない。

 「おれ、このCM好きよ」寮の先輩が嬉しそうに言う。「俺も大好き」他の先輩も言う。「俺だって好きだよ」僕ももちろん言う。でもそれは、田舎に住んで居た頃には、ありえない僕の言葉だった。柱時計がチクタクと響く中、僕は高3の頃「ソクラテスの弁明」の文庫本かなんかを読んでいたのだ。

 あの寮のあの深夜テレビの前に、座っていた僕たちは、いろんな最高話をした。松田優作がヒーローだった。石原裕次郎の歌声にしびれていた。サタデーナイトフィーバァーは金字塔だった。そして深夜CMは傑作だった。11/13 その男は電車のシートの僕の隣に座っていた。総武線、秋葉原でやっとその男は座れたのだ。「はぁ〜」「ふぅ〜」「あぁ〜」その男は中野で降りるまで、聞こえるようなため息をつき続けた。一分間に三回だとしても、70回。それもときどきは言葉入りだ。「もう〜、ん〜、ほんとに〜」僕は信じられなかった。そのため息男が、どうしても我慢できなかった。人間、調子の悪い時もあるだろう。でも、あんまりだ。隣にいた僕は脳が、おかしくなりそうだった。またそいつの前で、体格のがっしりとした外人さんが、本を読んでいた。人事ながら、なさけなくて、なさけなくて・・。そんな帰りの電車の中でした。(もーう、日記に書いてやる!!)

「茅場町の幽霊」11/15

 地下鉄に乗ってゆく。夜の日比谷線。北千住、上野、秋葉原、人形町、そして茅場町。そこで僕は東西線に乗り換える。東西線は青い電車。誰が決めたんだろう。でもイメージはぴったりだ。理由はわからない。

 茅場町で、階段をいくつか、登ったり降りたりして、地下鉄東西線のホームに立つ。僕はいつも電車の来る所まで、歩いて行った。まあ、出口に近くなるって言う理由もあるけれど、ずっと続く、地下鉄のトンネルのうす暗い向こうが好きだったのだ。

 電車が近づいて来ると、ゴーと音がする。すこし曲がり加減で、明かりを付けた車両。なま暖かい風が、ぶぁーと吹いて来て、顔に当たる。まぶたが一瞬、チラチラッとこそばゆくなる。風の音と共に、あっと言う間に目の前に車両が流れ現われる。

 東京はどこにいても人でいっぱい。ひとりぼっちになりたくて、僕はホームの先まで歩いたり帰ってきたり、よくしていた。トンネルに一番近い所まで来ると、どーしても、そのトンネルの奥が気になってしまう。僕はいつも、その奥について考えた。

 ここでやっと、茅場町の幽霊の登場だ。もちろん、幽霊がそこにいたわけじゃない。ただ、僕はあの地下鉄のトンネルの奥に、ひとつのイメージを作りあげていた。何を想おうと僕の自由だ。僕はあのトンネルの奥に、幽霊が住んでいる事にした。

 それは恐い幽霊ではない。僕の中のただの神秘の象徴だった。電車の姿はまだ見えないのに、かすかに遠くから、ゴーと聞こえて来る音。やがて、生暖かい風が、吹き押して来る。その時だ。僕のネクタイや、ワイシャツの襟がひらひらとふるえ踊るのは・・。

 黒い箱の中のドラキュラが、夜中にパッと目を覚ますように、その時、僕の中の僕が、パッと目を覚ます。茅場町の幽霊。神秘の向こうから吹いて来る風。僕がやっと生き返る。11/14 とうとう二週間前に図書館から借りて来た本を返す日が来た。はるばる墨田区の果てから、10冊も借りて来たのに、ああ、一冊も読めなかったのだ。三蔵法師の本も、黒田三郎も詩集も、記憶が戻って来るという医学の本も。一冊も読まずにまた、10冊持ってゆく。今年の読書の秋は眠た過ぎたのだった。

「その日、先輩はウォークマンを付けて来た」11/16

 「いらっしゃいませー」遅番のS先輩が、お昼過ぎに、店のオートドアを開けて入って来た。頭には、小さなヘッドホンをしている。それになんとも嬉しそうだ。

 「先輩、なんすかそれ?」「買っちゃったよ、俺、ウォークマン」「え、ウォークマン?」それは記念すべき、ステレオヘッドホンの1号機だった。「アオキさんアオキさん、ちょっとちょっと・・」その先輩は店(レコード屋)の奥まった所に僕を呼んだ。

 「ほら、聞いてみてよ」そして僕にヘッドホンをかけてくれた。(♪子供達が、空に向かい、両手を広げて〜)「いいんだよなぁ。この歌・・どう? わかる? ステレオだぜ」先輩はウオークマンをかけながら、一緒に口ずさんでいる。「お、仕事仕事!!」

 S先輩は、僕より6才上だった。だからその頃で24だ。店の奥まった所の事務机に並んでいるとき、いろんな話をしてくれた。「青木さん、実はねぇ、俺、意外とこういうの好きなんだよねぇー」シングルレコードのジャケットを僕に見せながら、先輩は、嬉しそうに話してくれるのだった。「〜ちゃん、カワイイなぁ」

 店長、そして何人かの先輩が、店にはいたのだけれど、S先輩は独特の音楽観を持っていた。とりあえず、すべてのジャンルについて、知識もあったし、渋い音楽評論を語ったりもするのだけれど、一転して、アイドル系のカワイイ娘も大好きだった。いつもふたりきりになると、僕の耳もとで歌を囁き歌ってくれるのだ。

 外からは見えない、事務机の所では、僕にいろいろと楽しい事を、ニコニコの顔で話してくれるのに、いったん、売り場に出ると、急に真面目な顔になってしまう。よくあれだけ変われるなぁと思った。そんな先輩を知ってるのは、僕だけだったかもしれない。

 そのS先輩は、初日以来、ウォークマンにすっかり夢中になってしまっていた。僕も欲しかったけれど、まだヘッドホンを耳にかける勇気がなかった。ウォークマンをしながら、店に入って来る先輩。とっても真面目な顔だ。でも、何を聞いているのか僕にはわかった。それは「異邦人」の歌だった。久保田早紀の大ヒット曲だ。

 まだ大ヒットになる前から、S先輩は「異邦人」を大プッシュしていた。ちょっと目を離すと、そのシングルを一番目立つように並べていた。そんな風にしながらも、とっても真面目に店に立っていたのでした。11/15 今日マンションの裏のブロックの所で、高級レトロの8mmカメラをひろってしまった。「いいの落ちてるじゃーん」といいながら、8mmカメラを覗いていると、誰かが「もしもし」って言う。マンションの管理人だった。「ちょっと身分証明書を・・」「なに言ってんだよ。よく見て。これフィルム入ってないんだよ」無実を証明するのに20分かかりました。

「休日はそこにいて」11/17

 もちろん平日の11時。もうちょっとでお昼。僕は洗濯機を回している。寮には誰もいない。さて、今日はどこへ行こうかな。また秋葉原かな。

 いい天気の明るい午後に、僕はマンションの階段から外に、靴音をひとつ鳴らして出かける。とりあえず駅に行こう。いつも通い慣れた地下鉄のホームなのに、妙に静かだ。ゴーとやって来る、青帯の銀の電車。まだどこへ行こうか決めてはいない。とりあえず、定期どうりに日比谷線に乗ろう。

 あれえ、このままじゃまた秋葉になっちゃうなあ。上野に行ってもなあ。やっぱり秋葉かあ。僕はまた秋葉に来てしまった。ひとたび降りれば、そこは電気商店街の嵐。僕はとりつかれたように歩き回る。いつものパターンになってしまった。ひと息つく所で入る、安いどんぶりもん屋、これがまた、んー、なんと言うか、その・・。

 結局、安いカセットテープかなんか、それだけ買って、ヘトヘトな気分で、また駅に戻るのだ。(お茶の水は今度にしよう) ゴー。帰りの地下鉄の音は、重たくて疲れているようだ。

 レコード店の寮に居た一年間、僕はほとんど、秋葉原とお茶の水しか行かなかった。新宿なんて、駅から出れなかったもんね。全然わかんなくて。やっと地上に出たなって思ったら、すぐ道に迷ってしまう。探している店にもたどり着けない。その上、駅に戻れない。渋谷なんて、歩いて終わり。どっと疲れて帰って来るだけ。

 通い慣れた木場の商店街に戻って来る。またひとりセブンイレブンに寄って、なにやらいっぱい買って、寮に帰って来る。(最新式のラジカセ良かったなぁ) 僕はギターを出して、誰もいない居間で、ポロポロと弾いて歌ってみる。ボブ・ディランの歌、田舎で作ったオリジナルの歌。(そうだ、録音しよう・・)

 (そうだ録音しよう) 僕は、今日買って来たテープを出して歌ってみる。ここはマンションなので、隣には響かないのだ。(よーし、乗ってきたぞう) 僕は歌う、そして録音する。すっかり集中してるところへ、ドアの鍵を開ける音がする。「あれ、青木、なんか歌ってんの?」「いや、別に、ちょっと・・」

 もう、おしまい。またいつもの寮の夜の時間がやって来る。(今度の休みは夢の島公園まで行って歌ってこようかな) 僕は洗濯ものに触る、まだちょっと湿っぽい。「そうだ、靴下買ってこよう」用事を見つけた僕は、夜になりかけてる商店街をうろつきに出かける。

 あっちに行ったり、こっちに行ったり。もうすっかり秋葉で電化製品を見疲れた僕は、ただぼんやりと、歩き巡り、ついついまたセブンイレブンに寄ってしまうのだった。11/16 最近、パソコンばっかりやってて、ギターに触る時間が前より少なくなった。それは僕にとって淋しい事だ。なんとかしなくては・・。そこでアイデア。今、このパソコン台には、ギターが立て掛けてあるのだ。そうすれば、すぐ、ギターが弾ける。それは当たり前だけど、それさえも、気がつかなかったのだ。

「本屋できいた、スティーヴ・フォーバート」11/18

 お昼休み、僕はいつも、店の近くの本屋さんに行った。いろんな本を立ち読みするのが、僕にとっての勉強タイムだった。高校を卒業しても、まだ、勉強癖が残っているということかな。とにかく知らない事が多過ぎたのだ。

 そんなふうに真剣に、立ち読みをしている時、その本屋さんでは、外国のポップスの有線放送が流れていた。渋い選曲だった。僕は本を読みながらも、いつも音の方も気になっていた。そんなある日、プープーとハーモニカの音が耳に入って来たのだ。

 その歌は、スティーヴ・フォーバートという、アメリカでデビューしたばかりのシンガーだった。ボブ・ディランが大好きなのは、そのジャケットを見てもわかった。音楽雑誌でも、ディランの影響をうけた若者と紹介されていた。僕自身ボブ・ディランが好きだったので、スティーヴのことが、気になっていたところだった。

 耳に入って来た歌はショックを受けるほど、完成されていた。ハーモニカにしても、唄い方にしても、ギターの弾き方にしても、ボブ・ディランに影響を受けていながらも、真似ではなくて、自分のものにしていた。その唄い方は、実に独特で、囁くように、強く唄うのだった。ハーモニカにしても、誰も吹いた事のない吹き方なのだ。

 (やられたー)とディランファンなら思っただろう。才気あふれるパワーが歌に満ちていたのだ。僕もその時は、自分なりに唄っていたつもりだったけど、まだディランの真似だったように思う。僕は本を読みながら、そのスティーヴの歌にしびれていた。

 ながながと書いてしまったけれど、僕の人生(おおげさな)の中で、その時、本屋できいた、あのスティーヴの歌がはるばる今でも、忘れられずに新鮮に耳に響いているのだ。その響きは、言葉ではなかなか伝えにくい。ニューヨークに出て来たばかりのボブ・ディランの歌の中にもある響きだ。スティーヴもまた、都会に出てきて、唄い始めたのだ。

 その歌は「ビック・シティ・キャット」という、スモールヒットした歌だ。俺は都会に住んでる大猫だって唄う。その歌は、僕の心臓の奥までちゃんと届いた。最初のマッチに火が付いたのだった。もう一本の道が、店までにできていた。11/17 今日、入ったカレー屋さん。それはチェーン店なのだが、出てきたカレーの具がメニューより、あまりにも小さいのだ。おかしい。僕が大盛りを頼んだから、具が小さく見えているのか? もう一度、メニューを見て確かめたい。でも僕見間違いだろう。そうに違いない。店の外に出て、大きなポスターメニューを見ると、確かに全然違う。ホントに違う。信じられないほど違う。いつか暴れる客が出るぞー。

「ひとつ違いのI先輩」11/19

 ひとつ違いのI先輩、I先輩はYAZAWAが好きだった。

 店では、僕が一番の新人。そして次がI先輩だった。一日に二回、みんなの好きなジュースを買いにゆく。その係は僕かI先輩だった。茶色い紙袋を持って帰って来る。I先輩の店の入ってきかたは、いつも独特だ。片手をポケットに入れながら「いらっしゃいませー」と左右を見て、靴のかかとの音を鳴らして、店に入るのだ。

 I先輩は、くるくるとしたパーマをかけていた。ファッションには、かなりうるさくて、釣りバンドのだぼっとしたスラックスにアイビーの革靴が定番で、グレー系の色が好きだった。店の奥で二人並んでレコードの整理をする。I先輩もまたいろんなジャンルの歌が好きだった。ディスコ、演歌、日本のポップスならゴダイゴ、そしてYAZAWA・・。店長が、ちょっといなくなると、カチャカチャとテープデッキのカセットを交換する。「青木さん、やっぱりこれ聞かないとね」それはYAZAWAのライブだった。「♪チャ〜イナ・タ〜ウン・・」I先輩は顔真似をして小さく歌うのだった。

 店の奥で、I先輩は、高校時代のいろんな話を聞かせてくれた。「あん時さぁ、まいちゃってさぁ〜、どうなるかと思ったぜ」その話は僕の高校時代とは、くらべものにならないくらいワイルドなものだった。恋愛にあふれ、旅に満ちていた。「でも、もうみんな卒業さ。俺、車の免許とって、いろんなとこ行くんだよ。青木さんつれてってやるよ」

 ある時、I先輩と他の店の先輩と僕で、喫茶店に入った。僕が生まれて初めて喫茶店に入った日だ。注文を取りに来て、もう一人の先輩が「コロンビア」と注文した。僕は悩んだあげく「モカ」と言った。I先輩は「ホット」だった。I先輩が言う。「青木さん、ホットでいいんだよ、ホットで!!」僕が、注文に困っていたのが、わかっていたようだ。

 I先輩ともう一人の先輩は初対面だったのに、いろいろとはずんだ会話をしていた。「どんな音楽聞かれるんですか?」「YAZAWAっすよ。YAZAWA、最高っすね」ふたりは、初めてながらちゃんと会話をしていた。僕にはそれが驚きだった。(こんなふうに、話すんだあ・・)「じゃ、おつかれさんす」I先輩はひとつ違いなのに、大人だなあとつくづく思ったのだ。

 働いていた店には、バイトの女子高生がいた。I先輩は僕に言う。「あの娘、俺にほれてんだぜー」真実はわからないが、そこには、僕の知らない世界が、ひろびろと広がっていた。「青木さん、免許とったら、正月、富士山にいこうぜ」I先輩は、僕に何度もそう言った。ショートホープに100円ライター。細いネクタイ。I先輩。11/18 やっと土日、何度も横になっていつのまにか眠ってしまう。一日の半分を寝てしまった。夢も見ない。そういえば、ずっと夢らしい夢をみていない。淋しすぎるなあ。現実ばかりなんて。こんなに眠ったんだから、せめて夢くらい見たかった。

「はじめてのベンチベット」11/20

 その8月、僕はギターを持って、東京一周の歩き旅に出た。

 それはほんの二三日のちっぽけな旅。でも、ちょっとだけ、ディラン気分。東京をギターを持って歩いてみるのだ。言葉でいえば「放浪の想い」ってとこ。ずっとレコード店で、ネクタイをしてて、自分が変だった。田舎にいた頃の、あの冒険少年は、どこへいった? さあ、地図を買ってこよう。

 なつ、夏だったね。僕は、青いシャツを来て、深川の寮を出た。茶色のタータンチェックのギターケース。なんにも考えていなかった。でも、ただ歩いているというだけで、なんだか、嬉しかったのだ。ほとんどの道は、はじめての道。夏の暑さの中の町が、旅の感じを作っていた。

 まず、皇居に行って、草むらに寝転んだら、すぐ蚊にいっぱいさされてしまった。嫌な予感。まだ始ったばかりなのに。それから、夜の北の丸公園。カップル達が、キスをしている中を歩いて行った。今だったら、なんてことないけれど、その頃の僕には、刺激が強かった。と言うか、呆れてしまった。それから、市ヶ谷。もう、夜中になってて、僕はそこで、警察に捕まってしまった。

 「なにやってんの? こんな夜中に、ちょっとそれ見せて」警官は僕のギターケースをとりあげてしまった。「ライフルかと思ったよ。で、なんで、こんな夜中に歩いてるの? 」「歩きながら、歌を作っているんですよ」「歌? で、どこに住んでんの?」続く、お決まりの質問コース。(もう、ここで、旅も終わるのかなぁ・・)

 そこで、テレビドラマのように、事件発生。警官は飛び出して行った。僕をそこに一人残して。もちろん、僕は、勝手にそこを出て、また歩いて行った。新宿、歌舞伎町、夜中の4時。地下鉄の入り口の、アルミ台の上で、眠っているおじさん。あれ落ちたら、どうすんのかね? ゲームセンターには、まだ若い少年達。占い師に酔っぱらい。道のすみの恋人たち。

 僕は首にタオルを巻いて、ギターを持って、そこを通り過ぎて行った。もちろん、それは普通の新宿の景色・・。でも初めての男もいた。もちろん僕だ。夜明けの路地。住所の書いてある緑の板。「百人町」とある。(住所表示って不思議なものだなぁ)

 たまたま、そこにあった公園のベンチで、朝、僕はいつのまにか眠っていた。腕にはギターをくくりつけていた。もう二日目は始っていた。でも、しばらくはぐっすりだ。僕にとっての、初めてのベンチベット。11/19 忘れっぽいせいもあるのだろうけど、パソコン椅子の隣に、いくつもコーヒーカップが並んでいる。もちろん全部、僕が飲んだものだ。今度、朝全部返して、ずっと並べてみようかな。そうすれば、何倍コーヒーを飲んだかわかるね。

「最大の敵は小さな蚊」11/21

 今、想い返せば、みんなそれは小さなことばかりだ。東京の歩き旅も。二本の足のコンパスも。出会って驚いた事も。そして、悩まされた蚊もやっぱり小さかった。

 二日目。僕は新宿からスタートして、渋谷を歩いている。大きな公園で歌おうとしたら「ギターは持って入っちゃだめだよ」っと警備の人に言われてしまった。そんな気分の中、今度は雨。たった二日・三日しかない旅なのに、雨が降るなんて。そんなあ・・。

 どしゃぶりの中、傘をさしながら歩いて、やっと見つけた工事現場にてひと休みした。そこで日記を書く。なんだか、放浪者みたいな気持ち。木材の匂い。雨の音。濡れたジーンズのすそ。ボールペンとノート。今日の日付と僕の文字。書く事はいっぱいだった。

 いつまでもここにいても、しかたがないので、僕はまた傘をさして歩きだした。これじゃ、ギターを弾くどころじゃないね。さて、今日の寝る所はどこにしようか? そこは荻窪と書かれた町、僕は公園のトイレの裏で雨宿りをした。全然、雨は上がらない。それに蚊、蚊がすごいのだった。

 その夜のことは、今もよく覚えている。眠れない、公園の夜。蚊は服の上からでも、どんどんと刺してくる。そこでアイデア。それはグッドアイデアだった。そう、虫よけスプレーを買ってくればいいのだ。僕は近くのコンビニにて、蚊よけスプレーを買って来て、腕や足 につけた。説明書では、それで蚊は寄って来ないって書いてあったのに、今度は顔を集中的に刺された。

 「同じ肌だしいいかあ」僕は虫よけスプレーを顔にかけた。もう蚊に耐えられなかったのだ。夏の公園のトイレの裏で、雨降りの夜、僕は一人で蚊と戦っていた。(明日も雨だったらどうしよう・・) 雨の二日目は、そうやって終わっていった。ながーい夜のまだ六割あたり。11/20 最近突然にテレビが切れる。そして突然につく。いい所で必ず切れる。代わりのものを探してみるけど、テレビは一台しかない。困る、どうにもならない。パッとまたつく。いいシーンは終わっている。悲しい。一日も早くテレビが欲しい。でも買う余裕がない。切れるテレビは持ってて辛い。

「カンカン照りの昼と昼」11/22

 その日は長い一日になった。公園から公園へ。ひと眠りから、ひと眠りへ。朝から朝へ・・。

 と、かっこよく書いてみたけれど、実際は、どろんこ男の、ふらふら歩きだったのだ。東京一周の三日目。昨日の雨は、すっかり上がり、朝からいい天気になっていた。公園のベンチで、やっと眠っていると「なにこの人、きたないわね!!」の声で、目が覚めた。

 目の前では、ラジオ体操のみなさんが集まっていた。そんなに俺って、きたないか? ほんとだ、きたない。でもしょうがないよ。着替えなんてないんだから・・。朝の町をゆく。新聞配達のお兄さん。道で眠っている、ネクタイのサラリーマン男。公園、そしてベンチ。ベンチっていいよね。片手にパン。片手に牛乳。ひざにはギター。

 今日はカンカン照り。フラフラと向かっているのは、足立区。僕の働いているレコード店に寄りたいのだ。それが今日のキーポイント。でもまだ北区・・。たった二日しか歩いていないのに、足にはマメが出来てしまった。つぶしてみると、痛いんだよね。歩くたびに。

 東京全図を何度も広げてみる。赤いボールペンの歩いたあと。この二本の足で来たと思うと可笑しい。はじめての歩き旅・・。高校2年の時だったか、芭蕉の「奥の細道」の出だしを暗記させられた。「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり・・」その時は「えーっ」と思ったけれど、憶えて本当に良かった。"漂泊の想い"には程遠いけれど、僕もこうして歩いているのだ。

 お地蔵さんの隣のベンチで、僕はギターを弾きながら、そのまま眠ってしまった。蝉もときどき鳴いていた。時間はどれ位たっただろう。僕はギターのネックを握ったままだった。それは今も忘れられないシーン。

 夕方まじか、僕は、働いている店の前に立っていた。いつものテープが流れている。首には、白いタオル。すそのよごれたジーンズ。こげ茶色のお尻。泥の付いたギターケース。とても中には入れなかった。店の前をうろうろしていると、奥から、先輩が僕を見つけて、「中に入れよ。青木さん」と言った。

 今日、店長は休み。一番奥のつい立ての向こうに行って、僕は地図を広げた。店長代理のYさんが、さっと財布から、お金を出して、ジュースを買って来るように言った。S先輩が行った。僕は、地図に引いた赤線を指でさしながら、出来事を話した。店のみんなはとっても優しかった。店長に会いたかったなぁ。

 そして、また僕はギターと道に出た。夏の暑い午後のここ。ここはまだ、ずっと前の夏のその日・・。

 あと二日。そこで折り返して、僕は、帰りへと向かった。歩いたぶんだけ、また歩いた。11/21 ホームページにて、青木孝夫を検索したら「青木孝夫君への手紙」というページがあった。さっそく出してみると、おじいさんが、毎日作っていたエッセイのページだった。来た メールへの返事らしい。それも長い。内容は、戦争や、軍国主義についてだった。そのおじいさんは語る。「青木孝夫君、僕が若い頃は・・」ちょっと過去ログをみたら、毎日毎日、ページを作っているのだった。すごいパワー。 

「革のコートを買いに行った」11/23

 その日、僕は強気だった。なにしろお金はあったのだ。僕はディランのコートが欲しかった。

 寮生活っていうのは、全然お金を使わない。あっというまに、10万くらい貯まってしまう。その日、僕は札束(?)を持って、上野のアメ横に、革のコートを買いに行った。一生物のつもりで、いいものを選ぼうと思ったのだ。さて、革のコートっていくら?

 アメ横に着く。革のジャンパー屋さんを探して歩く。あるある、あるねー。嬉しいじゃないか。お金もある。僕は強気で、店員さんに尋ねる。「茶色い革のコートってあります?」「茶色ねぇ〜、茶色はないねぇ。ジャンパーじゃダメ?」「じゃ、いいです」茶色い革のコートってないんだなぁ。

 商店街を歩いてゆく。威勢のいい、売りこの声。「はい、安いよ安いよ。1000円が600円だ。今だけだよ。おっ、兄ちゃん、どう?」(そうか・・。ここは、まけてもらえるんだな・・) 僕は、田舎者だから、すぐだまされてしまうかもしれない。値段なんてないんだな・・。

 また、革のジャンパー屋さんに入る。茶色いコートはないかきく。「あ、ありますよ」そして指さしてくれたのは、店の一番すみに飾られてあった、茶色いコートだった。「あれ、いくらするんですか?」「あれ? 高いよ。んー、12万・・」「12万?」「それも安くしてね」「また、来ます」

 僕は他の店を何軒か回った。でも、思いどおりの茶色いコートはなかったのだ。というか全然ないのだ。しかたなく、またさっきの店に戻る。「すいませーん」(そうか、他の店にないってことことだから、俺、負けちゃうかも)「あの、茶色いコートなんですけど」「はいはい」「あれ、さっき12万ってきいたんですけど、もう、ちょっと安くなんないですかね?」

 「あれ、んー、まけられて10万だね」(おっ、まけた。よし!!)「なんか、あれだけ、ずっとあそこに、かかっていたみたいじゃないですか?」「茶色のコートなんて、買う人いないからねぇ」「ちょっと着てみていいすか」カガミを見る。(ああ、これが憧れの、茶色い革のコートだ。ボブ・ディランが昔、着ていたヤツだ。うー。欲しい)

 「なかなかいいじゃない」「俺いま、10万ないんですよ」(実は持ってる)「え、いくら持ってるの?」「8万!!」「8万?」そこから先は、永遠に続く「だめ」「まけて」の交渉。もう、半ケンカ状態。「わかったよ。8万でいいよ」その後は、やさしかった。革の手入れの方法とか、教えてくれた。おまけに防水のクリームをサービスしてくれた。「はい、ありがと、また来てね」

 大きな紙の手提げ袋に入れてくれた、革のコート。僕は、大通りのすみで、こっそり出してコートを着てみた。もう夕方すぎだった。ショウウインドーに映る姿を眺めてみる。なんか変。全然ボブ・ディランに見えない。でもいいや。明日からの幸せの日々を考えた。嬉しい・・。

 でも、新潟とちがって、まだコートの季節には早かった。11/22 最近、帰りの電車が恐い。深すぎる眠りに落ちるのだ。たいがい手に持っているものを下に落とす。今日こそは、頑張ってみた。でもだめ。すぐ眠ってしまう。強力だ。僕の目の前にひとりの女性が立っていた。僕が電車を、降りようと、席をあけるとすぐさま座った。一分後。もう眠っていた。ああ、電車が恐い。

「寮長さん」11/24

 寮長さん。ひとつの部屋にふたつの二段ベット。僕はこちら、寮長さんは、向こう。

 夜、眠る前のベット話。寮長さんは、いつもきいてくる。僕が高校の時に好きだった女のコの名前を。僕が答えないでいると、いつのまにか「畑山さん」という事になった。寮長さんの好きだったのは、幼なじみのR子ちゃん。その子の話をいつもしてくれた。でもすぐ、寮長は眠っちゃうのだった。

 ピーピーピーといつも電子音の目覚ましが鳴る。僕のやつではない。寮長は、バサッと起き上がり、洗面所に行って、顔を洗い、ドライヤーで、髪をセットする。僕には、その姿は、何かに、とりつかれているようにいつも思えた。ガチャ。ドアを出る音がして、僕はまたひと眠りするのだ。

 寮長さん。故郷は沖縄で、28才だった。でも僕には、ずいぶん大人に思えた。帰ってくると、ビールを飲んで、バラエティ番組を見るのが、好きだった。ほんとに好きだった。普通のことだけれど、テレビに向かって、話しかけたり、一緒に見てる僕に、大笑いで喋ってくれた。

 もう、ここに住んで長いと言う。いっぱいいっぱい、寮のみんなが変わったと言う。とんでもない奴もいたって言う。僕がいたのが、'79年だから、'60年代後半から寮に居るのだろう。変った若者もいたかもしれない。寮長さんは、ほんと誠実な人だった。仕事中は、ビシッとネクタイを決める。きびきびと頑張る姿が目に浮かんだ。

 僕の帰りはいつも遅かったので、休みの時しか、帰って来る姿は、見なかった。ガチャガチャとドアが開いて、寮長が帰って来る。僕が居間にいるのを見て、いつも言う。「あれ、今日休み?」寮長も一応、セブンイレブンの袋を持っている。でも、中身は少ない。

 出かける時の寮長の顔と、帰って来てからの顔は全然違う。ほんと嬉しそうなのだ。ちょっとトッポ・ジィージョにどことなく似ていた。幸せのテレビタイム。大笑いの寮長さんと僕。11/23 部屋のなか、まだ暖房がない。と言うか、押し入れからストーブが出せないでいるのだ。毛糸の帽子。マフラー。そしてひざ掛けの毛布。どうしてこんなに寒い思いをしてるんだろう。日に日に震えが増してゆく自分がわかります。

「セブン・イレブンに愛を込めて」11/25

 思い出しても、思い出しても、まだ思い出せる人がいる。

 東京に出てきて、何がショックだったかというと、やっぱり24時間のコンビニエンスストアーの存在だった。まだその頃は、今のように、いたるところにあったわけではなくて、大通りに一軒という感じだった。セブン・イレブンいい気分。そのCMもまた、僕のこころに届いた。

 店員さんはみんな、白い水玉模様の柄が付いた、みかん色のうすい半袖シャツを着ていた。レジはふたつ。ひっきりなしのお客さんをさばいてゆく、店員さん。でもいつも明るかった。毎日毎日通う僕。24時間というスケジュールでがんばっている店員さんが、僕は好きだった。

 僕が通い始めたとき、ひとりのハキハキしたおばさんが、いつもいた。満面の笑みだった。疲れて帰ってくると、その笑顔を見るだけで、救われる想いだった。おでんは、まだなかったかなぁ。どんな無理なことを誰が言っても、ちゃんと答えてくれた。列が並べば、「ちょっと、まっててねー」って声を掛けてくれていた。

 セブン・イレブンのレジの人達は、まるで、部活のスポーツでも、やっているようだ。「はい、交代!!」僕は卓球部だったせいもあり、その姿がまるでダブルスをやっているように見えた。深夜に買いに行っても、やっぱり知ってる顔がまだそこにあった。まるで、部括で立たされているかのように。

 5・6人のローティションで、レジをやっていたように思う。その頃は、みんな平均年令が高かった。おばさん、おじさん、若いコ、そしておばさん。ひとりのおじさんが、途中で、新人として入った。ピチッとした七三分けに学生風セルロイドメガネ。とがった口で言う「いらっしゃいませぇー」

 そのおじさんは、いつもレジを打つときに、数字の上で、しばらく指が震えるのだ。「えーと」あとは早いんだけどね。僕は、その新人のおじさんが、レジをぎこちなく打っていた頃から、一人前の店員さんになるまで、ずっと気にしていた。いつも、あの早く打てないでいた姿が、目に浮かんだ。(あの、おじさんよかったなぁ・・)

 僕はそのセブン・イレブンがとても好きだった。おばさん、おじさんたちが、24時間でがんばっていたのだ。いつもその中心には、あのハキハキしたおばさんが居たように思う。「お弁当あっためるぅ?」そのあとの沈黙の時間も、おばさんはニコニコしていた。

 店の奥から、交代のレジのおじさんが来る。あのとんがり口のおじさんだ。「いらっしゃいませぇー」準備運動のように、いつも、中指が用意されていた。あのみんなを、忘れられるかってんだ!! 11/24 高円寺の安い、立ち食い牛丼屋さん。並が、250円だものね。それも、かわいいバイトのコもいるしね・・。そこは細長いスペース、入り口から入って、列んで食べて、そして奥の出口から出る。そこは雑居ビルの廊下。不動産屋の部屋案内やポスターが貼ってある。まるでそれは、見世物小屋の出口みたいで、それも楽しめるのだった。

「とおい時間の嵐の話」11/26

 人には誰にでもそう言う時期がある。それは、変化の前の、ひとときの嵐だったのかもしれない。

 先日、僕は働いていた、レコード店のあった街へ偶然、行く事になった。このエッセイの連載中のことだ。前に寄ったのも、もう10年以上前、今はどうなっているだろう。駅から歩いてゆく。店の看板が見えて来た。

 (まだ、あった。嬉しいな。それが心配だったよ・・) 看板には「11時まで営業」と書かれている。この不況の中、遅くまでの営業に切り替えたのだろう。僕はそっと中に入ってみる。仲良さそうに、店員さんたちが、在庫チェックをしている。かってここに、僕も立った事がある。あの頃はちょっといろいろあった。でも、きっと、そういう時期だったのだ。

 噂はチラッと流れていた。僕らのレコード店部門の経営を、まだ若い課長さんが、受け持つ事になり、かなり厳しく、みんな言われているという。厳しいというか、僕等を叩き直そうという感じだったのだ。

 そして僕にも事件は起きた。今思えば、大人げなかったなと思う。僕は18才。課長は24才。立場は違うけれど、だだの若者の言いあいだったかもしれない。その日、課長が、店内チェックにやって来たのだ。それも店長が休みの日に。

 僕は店の後ろで、日計表の計算をしていた。すると、課長が横に座り、「君、仕事が遅いって店長から、聞いてるけど、もっと早く出来ないのか?」「これ以上は無理です」「なんだ、その口の聞き方は!!」課長は、僕の椅子を蹴飛ばしながら、大きな声で言うのだ。「あまり大声を出さないで下さい、ここは店の中ですから」すると前よりも大きな声で、「何いってんだ!! ここは俺の店だ!!」これはもう、売り言葉に買い言葉状態。

 「ゴミを出しますから、そこをどいて下さい」そして僕が外に出ると、課長も外に追いかけて来て、また店の前で、言いあいとなった。僕も18才だったし、変な所でボブ・ディラン意識が出てしまうのだ。いずれは経営を任せる人だったけれど、24才。まだ、社長になるには早かったのかもしれない。

 店長が、その時いたら、こんな事にはならなかっただろう。I先輩もS先輩もみんな僕の味方だった。まあ、敵も味方もないんだけれどね。僕は怒りに燃えて、寮に帰った。早く、寮のみんなに会って話したかったのだ。

 本当なら、僕は次の日に、店を辞めても良かったのかもしれないが、僕は辞めるつもりはなかった。そう、勤め出してすぐの、あの無断欠勤をした次の日。店に行くと、ボブ・ディランがかかっていたからだ。それで僕は、もう辞めないって決めてあった。そのへんもまた、ボブ・ディラン的というか、なんというか・・。

 でも、それからが、大変だった。いろんな事件がつぎつぎと、課長がらみで起こったのだ。これは、いったいどうした事だろう。突然の変化だった。僕達もみんな、ピリピリしていたのかもしれない。そんな、ひとつの時だったのかもしれない。そして、もうちょっとだけこの話はつづく。11/25 実家のある、新潟、柏崎に帰った。先月のテーマに書いた田舎町だ。散歩をしてみる。ひとつひとつを思い出しながら、書いたところばかりだ。まるで、現実の方が。映画の中のようだった。

「I先輩のさようなら」11/27

 事件はまた、店長のいない時におこった。

 月に一度の勉強会。それは新しい課長の案だった。レコード店での接客について、勉強するというものなのだ。折りたたみのテーブルとパイプ椅子。そして黒板。黒板のとなりに、ちょっとかっぷくのいい課長。

 課長と僕の一件もあって、I先輩は、勉強会の時、ふざけぎみだった。僕の隣でI先輩は、課長が話しているとき、小声ながら「バカじゃねえの!」と言ってしまった。その時だ。

 「立てーい」と呼ばれて、I先輩は低く「ハイ」と言って立った。そしてやって来た課長。「おまえ、なんだぁ、この文字は、小学生でも、こんな字かかねえぞ。やるきあんのかぁ。さぁ、出てっていいぞ。さぁ、今ここで出てゆけーぇ」

 あのYAZAWA好きのI先輩は、ぐっとこらえていた。高校時代、あれだけケンカ早かったI先輩・・。そして勉強会は進み、I先輩はずっと立ったまま終わった。

 「I先輩、よく我慢したねぇ」「青木さん、ほら、店長に迷惑かかるといけねえだろ、なぁ」店長は今、一週間の休み中だったのだ。I先輩は、なにげなく「じゃあねぇー」と言ったけれど、誰もが次の日には店に来ないだろうと思った。

 「お早うございあース」いつものようにI先輩は店にやって来た。その姿は普段と変わらない。ポスターを巻いたり、ジュースを買って来た、好きなYAZAWAをかけたり・・。僕はI先輩って、強いなぁと思った。僕なんて、すぐカッとなっちゃったものね。

 いよいよ、明日店長が、帰って来るという前の日、まあ、いろいろあったということで、みんなで、近くのスナックに飲みに行く事になった。僕はまだお酒は飲めなかったので、ジュースを飲みながら、I先輩といろんな話をした。I先輩は言う。「青木さん、俺が無事クルマの免許とったら、正月、富士山にドライブにいこうぜ!! いいぞーう」

 そんな約束をして、終電近く、店を出て駅へ。I先輩が言う。「青木さん、俺、明日早番だっけ?」「うん」「わかった、じゃ明日ねぇ・・」I先輩は、隣の駅で、電車を降りて行った。

 次の日、遅番で、僕が店にゆくと、店長は帰って来ていた。でも、I先輩は店に来なかった。僕はショックだった。そして切なくなった。I先輩は、店長が帰って来るまで、居てくれたのだった。11/26 田舎から、帰って来る新幹線の中、となりのおばさんに声をかけられた。「学生さん?」「いえ、違いますけど・・」「そんなぁ、学生さんでしょう?」「まあ、そんなようなもんです」めんどう臭いので、そうつい答えてしまったのだが、それからが大変だった。ずっとおばさんは話かけてくるのだ。それもみんなに聞こえる声で、僕はずっと嘘をついてしまった・・。

「そして、ボーナスの出た日」11/28

 その朝、ラジカセの目覚ましミュージックは、ウディの「So Long」だった。

 その日、使っていた定期券が切れた。その日は、ボーナスの出る日だった。僕の店にも、ボーナスを渡しに、例の課長がやって来た。ひととおりみんなにボーナスを渡したが、僕にはくれなかった。「それじゃ」と言って店を出てゆこうとしたとき、店長が言った。

 「あのぉ、青木さんの分がまだなんですけど」「青木さんですか? んー、ほんとはないんですけどね」と言って、黒いバックから、袋を出して僕にくれた。「この金額に0.6をかけた数字が、青木さんの金額ですから。あと、会社の退職の仕方を教えますね。いいですか?」

 そして、課長は会社の辞め方を細かく説明してくれた。この前の時はなんとか頑張ってみたけど、もう今回は限界だった。気落ちしながらも、やっと寮のマンションに着いた。その日はエレベーターではなく、階段で一歩一歩、部屋のある五階まで登った。重たく開けるドア。

 田舎から、高校の同級会の案内のハガキが着いていた。こころの決まる日というのは、こういうものだ。もう悩むことはなかった。僕は、徹夜で、残っていた日計表の仕事を終わりにした。

 次の日、昼前に本部まで出かけた。あいにく社長はいなかった。いなかったけれど、ひとりいる本部の経理のおばさんに、「もう限界で辞めます」と伝えた。この部屋は、僕が東京に着いて、初めて来た部屋だ。ここで、黒いブレザーをまずもらったのだ。僕は、ひととおり事情を説明した。僕も泣いていたれど、経理のおばさんも泣いていた。

 「もう、今日行っちゃいなさいよ、あとの事はみんな私がなんとかするから」経理のおばさんはそう言ってくれた。でも次の給料日の25日まで、店にいることにした。25日、そう今は12月、その日はクリスマスの日だ。

 寮に帰っていると、寮長さんが、僕に言う「なに、アオキくん、やめちゃうの? びっくりしゃったよ。え? なんで、なんでやめちゃうの?」仲の良かった寮長にきかれるのが、一番つらかった。「寮長、俺だってやめたくないよ。でもしょうがないんだ・・」11/27 今日はパスカルズのライブ。ビデオ撮り。久し振りに友部さんの歌をじっくり聞く。いろんな思い出がよぎる。「こわれてしまった一日」がとくに良かった。こんな風に歌えるなんて、いいなぁ。続く線路を感じるので、僕はこの歌だけを持って帰ろうと思った。僕も歌を作ろうっと。

「ラスト・クリスマス」11/29

 僕は、朝のラッシュの終わった改札近く、壁にもたれてI先輩を待っていた。

 もう店を辞めてしまったI先輩から、電話が店にあったのは昨日だ。僕も今日店をやめると知って、仕事前に会おうということになった。I先輩は少し遅れていた。僕は目をつぶって、ウディの「So Long」をこころで歌う。そして、一本の指が、僕のおでこを押した。

 「青木さん!!」I先輩はオシャレな紺のフード付ウインタージャケットを、着ていた。あまり時間はなかったけれど、喫茶店へ向かう。一月ぶりに会うI先輩は、なんだか懐かしい。ちゃんと車の免許をとって、今は、自動車のセールスをやっているという。新しいI先輩の日々。そう思うと、ちゃんと車のセールスマンに見えてくるのだった。

 僕は、I先輩がやめてからの一連の事を話した。すると、I先輩は目頭を押さえて、顔をゆがめるのだった。「たいへんだったね」そう言ってくれたけど、いやいや、I先輩こそ、くやしかったはずなのだ。「東京にまた出てきたら、電話くれよな」と言って、I先輩文字で、電話番号を書いてくれた。そして、また改札口で別れる。I先輩の新しい生活。紺のフード付きジャケットがとても似合っていた。

 さて、僕の最後のレコード店員の日は、いつものように進む。なにがちがうわけじゃない。僕はお客さんのレコードを探す。売れたレコード。思い出のレコード。ジャケットも番号もみんな憶えてしまった。久保田早紀の「異邦人」が次々売れていた。

 夕方まえ、僕は最後の食事にでかけた。自動ドアを開けて、店の外に出るこの瞬間も、もう終わり。店の外のスピーカーからは、クリフ・リチャードの「恋はこれっきり」が流れていた。僕はスピーカーを見つめて、ぜったい忘れられないだろうなぁと思いながら、飯屋への一歩を踏んだ。背中で流れている歌。

 その日は給料日。「青木さん、もう銀行にお金が入っているか見て来てごらん」店長が僕に言った。僕は、目の前の銀行に行って、振り込みを確かめた。「ちゃんと入ってた?」「はい」・・。

 やがて、10時になり、店も終わりになった。すると、喫茶店の人が、出前でやって来た。店長は、あらかじめ、喫茶店「プチ」に飲み物を頼んであったのだ。店の後ろの小さなスペースで、僕の小さな送別会をやってくれた。店長は言う。「もう、慣れっこだよ」はじめての店員生活。僕は一度また田舎に帰る。

 外はすっかりと寒く、小雨が降っていた。店長に「どうも長い間、お世話になりました」とあいさつ。道路向こうのケーキ屋さんが、店頭で「500円でいいでーす」と、ケーキの投げ売りをやっていた。店長代理の先輩が言う。「また東京に来て電話くれれば、就職先くらいなんとかするから」と。もう、僕の方の最終電車が来る時間に近くなっていた。あいさつもそこそこに駅の階段をのぼる。ふたりの先輩は、「元気でなー」と大きく手を振ってくれていた。電車に飛び乗った僕。涙が出た。

 いつもの地下鉄に乗り、いつものセブン・イレブンに寄り、僕はまた寮に着いた。寮の居間では、寮のみんなが、それなりに盛り上がっていた。やっぱり寮はいいね。テーブルの上に、コンビニの袋をおいて、さあ、またひと盛り上がりだ。

 12時を過ぎていたか、過ぎていなかったか、それは忘れたけれど、ひとりが「今日はプレゼントがある」と言って、ナイロン袋から、シャンペンを出した。すると、もうひとりの友も「おれもプレゼントがある」と言って、鳥ももを並べた。寮のクリスマスだ。また、深夜テレビを見ながら、あーでもないこーでもないと時間を過ごした。いつもどうりの寮の夜。

 「じゃあ、おやすみ」寮の居間の電気を消して、それぞれの部屋へ。ほんとの最後だなぁ。ここに来てからのことを、ずっと思い出してみた。はじめての東京。はじめての寮生活。その夜は、サイレント・涙・ナイトになった。11/29 今日はミニコミ「会議」の原稿書きとコピー。15分眠るつもりで目覚ましをかけたのに、6時間も眠ってしまった。計画大失敗。でもいつも完成する、不思議なミニコミだ。

「10Mごとのひと休み」11/30

 そして朝。僕を起こす人がいる。寮長さんだ。

 「青木くん。それじゃ、元気で!!」いつものピシッとした7:3分けの、寮長さん。こちらこそお世話になったのだ。毎日の夜話しは、とても楽しかった。

 今日の午後には、特急に乗って、田舎の新潟に帰る。僕は起きて、荷物をまとめ始めた。ラジカセをかけながらの荷物まとめ。こっちに来て買った、スティーヴのレコードのテープ、ディランのベストテープ。そしてウディをかける。それはどれも毎日聞いたものだった。9ヶ月間のいろんな出来事がめぐる。

 枕の下には、使わなかったお金が70万位あった。6ヶ月まえから、もう給料袋はあけてなかったのだ。寮生活はよかったなぁ・・。寮での思い出もいっぱいだ。そして、そのぶん荷物も増えた。どうやって持って行こう。安いギターの方は、寮の後輩にあげていこう。

 両手いっぱいに荷物を持って、通い慣れた道をまた戻って行った。両手で持つにはあまりに多い荷物。僕は10メートルごとに休みながら歩いた。セブン・イレブンの前を通り、よく行った中華屋さんの前を通り、あの最初に食べた、札幌ミソラーメンの店を横目で見ながら、駅に向かった。

 腕がもげそう。駅の階段はきつい。そしてやっと上野。あとは特急に乗るだけだ。僕は店長の所に電話をかけた。その電話番号はずっと売り続けた、レコード袋に書いてあった番号だ。いつもの店長の声、「元気でね」って言う。昨日まで、僕もいた店。電話の向こうでは、聞き慣れたテープが流れていた。

 特急に乗って来て、また特急で帰る。この9ヶ月は長い、東京での一日のようだ。でも帰りは、こんなに荷物が増えている。両手でも持ちきれない思い出と一緒に。11/29今日は地下ライブ。オランさんと、高山からのダミンのジョイント。歌ごころいっぱいの夜でした。特にダミンは普段は山での生活で、テレビもないっていう。歌う楽しさを伝えてくれました。ふたりともCDいっぱい売れてて、うらやましかった。「ちょっくら〜」のはじめての東京編、ひと月、ありがとうございました。最後はちょっと暗かったけど、僕の18才の時の忘れられない、出来事です。さて来月は犬の事を書いてみます。お楽しみに。

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