青木タカオの「ちょっくら・おん・まい・でいず」  今月に戻る
過去ログ「山越え・チベット編」日記付き'01.5月

「目をつぶると、見えるもの」5/1

 チベット行きの飛行機に乗るために、僕は20分ほどのバスに乗った。

 目をつぶると、まるで映画のように、はっきりと見えてくる。神戸から乗った、船の鑑真号。そして上海、暑かった西安。列車の中のあの大騒ぎ・・。僕はカメラを持ってこなかった。それが良かったのかもしれない。ここが最初のひとくぎりだなぁ。次はチベットだ。

 空港にて、ラサ行きの列に並んでいると、香港から来た、ひと組のカップルに話しかけられた。彼女の方は、東京の友達にそっくり。(世の中には、似ている人もいるんだなぁ・・) 彼らもまた、チベットからネパールに行く予定だと言う。

 思い返せば、いろんな国の旅行者とは、あまり知り合いになれなかった。こうして、飛行機を待っていると、ひとりひとりの旅人たちの姿が、またひとつの旅のように見えてきて、それもまた楽しい。

 ピンク色の服を着て、サングラスをかけている女性の隣になった。アメリカの人だ。ガムを噛みながら「エックス・キューズ・ミー」と話かけている。何かがちがう・・。

 飛行機は青い空に出た。やがて眼下に山々が見えて来て、チベットに来たと知った。なんだかあっという間に、ラサに着いてしまった。ここは富士山と同じ標高で。みんなはじめは軽い高山病になると言う。

 さあ、ラサに到着だ。飛んで来た青い空は、とても近く、太陽はギラギラとしている。そして、おにぎりのような茶色い山々が回りに見えていた。 ラサ。LHASA。その言葉の響きの通りの風景が、そこに広がっていた。

「あ、あのう、日本人の方ですか? 」黒縁のメガネをかけた日本人の彼に、声をかけられた。「高山病になるんでしょう。 なんだか心配で、心配で・・」「大丈夫でしょ」僕らは、三人で行くことになった。

 バスは、空港から、ラサの市街へと野道を走ってゆく。チベットの服を着た親子と子山羊が、窓から道沿いに見えた。隣りの席になった、あの香港の彼女は、一緒に窓を見て嬉しそうにしている。その表情は、見れば見るほど、東京の友達に似ていた。はじめから懐かしい人もいるんだなぁ。

 途中のオシッコタイム。女性陣は、ちょっと離れた所まで、走って行った。その中には、香港の彼女もいた。道路沿いの草のそば、丸いお尻が、目にまぶしく並んでいた。ここはチベット。ラサの街までもう少し。4/30 秋葉原に行って、マックの古い、ノートパソコンを買ってくる。それにしても、秋葉のパワーはすごい。自分もまた、うろつく一人になっているのが不思議だ。オールドマックの店で、買ったのだが、僕は店員さんに、まったくの初心者扱いだった。そりゃそうだけどさ。

「KILEI HOTEL」5/2

 「おーっ」バスに乗っていた、みんなが声をあげた。

 「えっ、いったいどうしたの?」「アオキさん。ポタラ宮だよー」窓の外を見ると、白と茶色の建物が、城にようにそびえていた。「かっこいいネェ」そう言ってみたけれど、実は怖いくらいに、その姿は威厳のあるチベットの象徴に思えた。

 やがてバスは市街に着いた。僕らは、とりあえず、宿を探しに歩いて行った。大通り沿い、そこに見つけた大きな、三階建ての安宿。「KILEY HOTEL 」まるで、古いコンクリートの校舎のよう。漢字で書くと吉日旅館。

 受付では、みんな部屋を取ろうと、並んでいた。このままでは、どうにも動けないので、友達は大声で「ドウ・ユ・ハバァ・ルーム?」と尋ねた。すると、それに負けないくらいの大きな声で「イエース」と、ふたりの受付の女性が答えた。

 そして僕らを部屋へと、案内してくれた彼女は、アメリカのウエスタン調のファッションで決めていた。うす茶色のスリムのズボンとカカトのある革靴が、よく似合っている。部屋の鍵をジャラジャラと回して、鼻唄をダイナミックに歌いながら歩く姿は、なんとも明るい。

 ここのHOTELでは、エメラルド色が、どうもラッキーカラーのようだ。ドアというドアは、塗られている。「プリーズ・ヒァー」広い大部屋に入ると、そこには10個ほどのベット。やっぱり教室のようだ。中庭もちゃんとある。やっと、落ち着いたなぁ。

 だんだん頭がだんだん痛くなってきて、僕ら三人は、そろってダウン。やっぱり、来たね。空港で一緒になった。彼は、心配し続けている。「二三時間寝れば、大丈夫だよ!!」実際、すぐに、よくなった。

 僕の隣りのベットには、ドイツ人の、背の高い長期旅行者の彼がいた。「ハロー」「マイ・ネイム・イズ・ベン」ヒゲの生えた顔が、ニッコリと笑った。あとあと旅を共にする事になる、彼はジャーマンのベンだ。近くにバザールがあるよと教えてくれた。

 「八角街バザール」その名前を呼ぶだけでも、今も胸がキューンとなってくる。僕らは、バザールをちょっとだけ覗いた。並ぶ露店。そして、いっぱいの人。飾りを多く付けたチベットの男たちが、ゆっくりと歩いてくる。テーブルに並ぶ、牛の頭。金細工のみやげもの。道には、修行中の人が、地面に、ひたいを付け進んでいる。

 さあ、新しい旅の街と宿。KILEY HOTEL、そして八角街。カッと熱い太陽が、白い雲の切れ間から、差しては、また隠れていた。カチャ、カチャ、カチャ。チベットの男たちのひと足ごとの飾り金具の音。それは、深い歴史の向こうから響いてくるようだった。5/1 高円寺の商店街。一軒のオシャレなカフェが、つぶれ、その後にまた、今また、オシャレなカフェを作っている。僕は心配だ。ああ、今度こそ、うまくいって欲しい。だって、前回は・・。

「真夜中のビスケット」5/3

 「プリーズ・プリーズ」そう言って、隣りのベットのジャーマンのベンは、狭い机を半分わけてくれた。

 こげ茶色の髭が、柔らかく笑う。世界中を撮影旅行している彼は、ここチベットにも、しぱらく居るんだと言う。「プリーズ・プリーズ」そして、今度は、ビスケットを一枚くれた。

 ずっと、中華料理を食べて来たので、そのビスケットの味は、特別に美味しかった。包装をみれば「メイド・イン・ネネパール」と書かれている。通りを渡った所の小さな店に、売っているという。

 「サンキュー」僕は、ベンにそれから、チベットの言葉を少し教えてもらった。でも、ベンは「NO・WARD・OK」と言って、言葉なんていらないよって、うなづいた。

 外へ出ると、道が金色に輝いていた。空は曇り空のままなのに、太陽が、なんと真横から照らしていた。「すごいなぁ」こんな道、見たことがない。僕は歩く。まるで、感動の中を進んでいるようだ。通りに沿って、ポツリポツリと、露店が見えている。出張歯医者とかもある。靴磨きの女の子が、等間隔に座っている。

 夏時間という事だったかもしれないが、チベットでは、夜9時を回っても、まだ明るかった。暗くなって、布団に入っても、今日は昼に寝てしまったせいもあり、目がさえてて、まだ寝付かれそうにない。12時になる頃、僕は、ベンがくれたビスケットの味を思い出してしまった。

 (よし、買いに行くか・・) まだ店には、明かりが付いている。ホテルを出て、大通りを一人渡ってゆく。犬が近くで吠えていた。あの小さな、タバコ屋くらいの店に、きっとビスケットがある。

 僕は、ひとつのいい言葉を知っていた。それは「ラオジャ」だ。中国で、みんなが、そう声を掛けていたのを、メモしておいたのだ。それは「すいません」とか「ちょっと」とか言う意味らしい。

 「ラオジャ・・」裸電球のともる向こう、店のおじさんが、ニッコリと笑った。ガムやら、タバコやら並んでいる中、例のビスケットもあった。それを手に取ると、指で値段を教えてくれた。おじさんは、微笑んでいる。僕も、サンキュウと言わずに、微笑んで、ありがとうを言った。それが似合っていた。

 ジャーマンのベンの言っていた事は、本当のようだった。言葉はいらなかった。布団の中、こっそりほおばってみる。こんなにビスケットがおいしいとは、知らなかった。なんだか涙が、自然と出て来た。

 外では、犬がずっと吠えている。どうもチベットでは、犬は夜、集団で動き回っているらしい。長い長い夜だった。夜明けは、なんだかビスケットの臭いがした。5/2 下町のマンションの壁をふと見ると、こんな貼り紙があった。「私は、この春、60才になり、警官を退職致しましたが、相談員として、近くの交番に常駐しております。職務として、出来ない事もありますが、道を教えるなど、出来る事も多いと思いますので、どうぞよろしくお願いします」相談員かぁ。会ってみたいなぁ。

「到 吉日旅館」5/4

 夕方、八角街バザールに寄った帰り、ちゃんと宿に向かっているはずだったのに、迷子になってしまった。

 狭い路地をどんどん入ってゆく。灰色の壁の続く家々。いつもだったら、なんとなく大通りに出たりして、宿に着けるのだが、昨日来たばかりのラサでは、それは無理だった。ますます遠くなってゆくようだ。

 道を訊ければ、いいのだけれど、なぜか宿の名前を、ど忘れしてしまった。「キ・・。そのあと何だっけなぁ」そのうち、日はすっかりと暮れてしまい、夜そのものだ。灯りも少なく、犬たちは、まとまって吠えながら、通ってゆく。

 (こわいよう・・) 犬は、基本的に好きなのに、あんなふうに集まって、行動されると恐怖さえ感じる。もし、おそわれたらどうすりゃいいの? ガンとしていないとね。弱さを見せたら負けちゃうな。

 暗い路地の向こうから、誰かが大声で唄ってくる男たちの声。だんだん近づいてくる。よく見ると、チベットの酔っぱらい三人が、肩を組んで唄っているのだった。「ウォーッ」声量のあるその声は、よく伸びて闇に響いていた。

 もう、迷子になってから、三時間以上たった。時計を見れば、10時をとっくに過ぎている。宿のみんなは心配しているかもしれない。なんとかしなくちゃ。ここはひとつ、落ち着いて、宿の名前を思い出して見よう。我が瞳のビデオテープを、座り込んで再生してみる。

 「キ・・。 そうだ、吉日旅館だ」僕は、紙に「到・ 吉日旅館」と書いて、歩いて来る人に、道を尋ねた。みんな首を傾げる。でも指をさして、教えてくれた人がいた。(よし、帰れる!!) しばらくその方向に歩いてゆくと、やっと大通りに出た。

 「ここだ!!」もう11時は、回っていた。よく着けたと思った。部屋に行くと、まだみんな起きている。体調が悪いって言う友達のために、僕は、またビスケットを買いに外に出た。

 いつもの時間が戻って来ている。昨日の露店のおじさんは、また無言で静かに笑ってくれた。今夜は、ぐっすりと眠れそうだ。5/3 友達と、沖縄料理の店に行って飲む。メニューを見て、「これ何だろうね」と言って僕が頼んだメニューは、その昔、やっぱり僕の頼んだメニューだった。「思い出した。これかぁ・・ 」メニューは繰り返すんですね。

「野っぱら物語」5/5

 ポタラ宮近くの、野っぱら広場は、のんびりしている人でいっぱいだった。僕は友達に送るポストカードを買って、一行二行なにか書いていた。

 太陽が、雲の間から顔を出すと、なんだか暑くて、ヤッケを脱いでしまう。そして隠れると、またヤッケを着る。その繰り返し。ここはチベット。この感じの空が、うまくポストカードで伝わるかなぁ・・。

 ポストカードを書き終えて、英語の勉強をしていると、缶カラを持ったひとりの男の子が、目の前にやって来た。すっかりくすんだカーキ色の上下。そして、やっぱりカーキ色の帽子。彼は「マネー、マネー」と言って、しきりにせがむ。

 「ノーノー」旅なれた友達にも言われたのだが、僕はあえて、誰にもあげない事に決めていた。ひとりにあげるなら、きっとみんなにあげなくてはならないだろう。本当は、一緒に笑いあいたかったのだけれど、厳しくしてしまった。

 彼の缶には、コインが一枚入っていて、それを手に取ったり、しゃぶったりしている。腹ばいになって、頬に両手をほ付けて、ずっと僕の英語の勉強を聞いていた。「ノー・マネー」って言うと、「オーライ」って、彼は笑う。

 そのうち、僕の隣りにチベッタンの若いカップルが、来てすわった。彼は、今日買ったと思われる、新しいズックに紐を通しながら、ずっと嬉しそうに、話し続けている。彼女も一緒に、ズックを手に取って、驚いていた。

 (きっと、高いんだろうなぁ・・) そんなふうに思いながらも、なんだかうらやましかった。(さて、行こう) 僕はなんだか、さわやかな気分になって、街の床屋にその足で、フラフラっと入った。

 冷たい水とセッケンで、ゴシゴシと頭を洗われて、カガミを見れば、隣りチベッタンの男が、眉を動かして、挨拶をしてくれていた。5/4 深夜にテレビで、卓球の世界大会やっていた。このところの卓球ブームのおかげだろうか。僕は卓球部だった。その時から、中国は強かった。今も、ダントツで強い。これにはきっと何かある。それは、謎だ。卓球っていいなぁ。

「ジャーマンのベン」5/6

 ドイツ人のベンの喋る言葉はなんだか、とってもよく理解できた。

 チベットkILEI HOTEL。その安宿の大部屋で、隣りのベットになった、ジャーマンのベン。35才くらいで、金色の髪と髭が、はりつくように、顔にあった。ジーンズ姿がよく似合う、背の高い男のベン。もう10日以上、ここチベットにいると言う。

 ベンは映写機を撮る仕草をした。16ミリの映写機を持って旅をして、撮りためたフイルムで、今度はドイツ中を上映旅行をして回り、そのお金でまた旅に出ると言う。そして一枚の新聞の切り抜きを見せてくれた。そこには大きく、16ミリ映写機を持っているベンの写真があった。よく読めないながらも僕は記事を読んでみた。

 「オーッ、グレイト!!」そう言って、新聞の切り抜きを返すと、ベンは、ハハハと笑いながら、まあたいした事ではないよって、仕草をした。でも、それは彼の誇りのように思えた。部屋の入り口のテーブルには、ジュラルミンケースの箱の映写機セットが、鎖でつながれてある。さすがドイツの人だなって思った。

 ベンは僕の持っていた、イラスト入りの日記を見つけて、「ワンダフル!!」と言って、しぱらく見入っていた。イラストに書いてある人の表情が、シンプルでよくわかるって言う。ハッハッハッと、お腹から深く笑うベン。これはいいって何度も言う。そしてビスケットを分けてくれた。

 それ以来ベンは、友達が来るたびに僕のことを英語で紹介してくれた。その度の握手。一緒に食事もしたりした。日本人とドイツ人ツーリストは、気が合うって言うけれど、なんだかホントのようだ。一緒にいても不自然さがない。よくわかる英語で話してくれる。たぶん気質が似ているんだろう。

 僕はつたない英語で、今日あった事をベンに話した。「イエース、イエス、イエス」ベンは何でも快く聞いてくれた。僕にとって、はじめて友達になれた外国のツーリストだ。長期旅行者のベン。彼には、なんだか誰の心も開いてしまう。人柄なんだろうなぁ。ベンも僕の事を気に入ってくれているみたいだった。

 とてもよく晴れた日の午後。八角街バザール奥の広場で、16ミリ映写機を回す彼の姿を見つけた。空を飛ぶ、鳥を追いながら、広場にレンズを向けていた。「ハロー、ベン」「オーッ、アオーキ」僕も10日以上、チベットにいて、ベンが映写機を撮っている姿をはじめて見た。

 撮影の邪魔をしてもいけないので、僕はそっと遠くに行って、ぼんやりと見ていた。ベンが、大事に大事にフィルムを回しているのがよくわかった。その姿は、あの新聞の切り抜きのままだった。映写機を片手に立っている、ベン。それはとってもよく似合っていた。5/5 友達と、はじめて入った台湾料理屋で、どんどん注文してむ食べる。どれをたべても美味しい。全部食べたい気分だ。マーボウ豆腐を注文したかったけれど、「陳さんにこっそりおそわった」とか書いてあったので、中国で辛くて食べられなかった経験があるので、きけばやっぱりとっても辛いって言う。それで頼まなかったのだが、後悔してしまった。なぜ頼まなかったんだろう。

「八角街バザール」5/7

 八角街はまるで、ラサの街の中心でゆっくりと回る、コマのような場所に思えた。

 一巡りしてみるその光景は、まるでフェリーニの映画のシーンのよう。五体投地と呼ばれる、体を前に出しながら進む行をやっている人たち。道のはじでは、座り込みお経を唱えている若い僧たち。チベット飾りのおみやげさん。肉屋。他、数多くの露店がずっと続いている。

 流されるように歩いてゆくと、ジョカンと呼ばれる、お寺があり、そこでは次々と多くの人が、五体投地を繰り返していた。ジョカンは聖なる寺だと言う。八角街は、ここを中心にして、自然と人が集まり露店も出来たのだろう。そんな長い歴史を感じさせる場所だった。

 露店と露店の間では、オレンジと小豆色の袈裟を着た、修行中と思われる若い僧たちが座り、並んで経を唱えていた。お皿が置いてあり、お布施をもらっているのだ。まだ14才くらいの人もいて、なんだか修学旅行気分のよう。「やめろよ、おめぇー」そんな声が聞こえてきそうだった。

 長机の上には、牛の首が朝には並んでいる。その牛をさばいたと言う事なのだろう。犬たちが生肉にかじりついていた。そしていたる所で、バター茶の臭い。このバター茶の臭いはチベットのきっと象徴的な臭いだろう。

 そんな八角街を一回りすると、いろんな人たちに出会う。チベットの若い男達は、体中の金飾りをジャラジャラと鳴らしながら歩いてくる。腰には、短剣のようなものを付けている。男同士すれ違うたびに、何やら声をかけている。僕ら旅行者はまったくの無視だ。

 この勇壮な男達の姿に、僕はチベッタンの誇りを感じた。日本で言うところの「ツッパリ」かもしれないが、男らしさに満ちていた。でも、服が何だか重そうだなぁ。五体投地をする人たちは、みんな印象的な人が多い。ひたすらに五体投地を続けるおばさん。その姿には、心動かされた。

 人だかりが見えて、何かなっとのぞきにゆくと、一人の五体投地を続ける男性が、一回ごとに何か話をしていて、それが大受けに受けて、みんな笑っているのだ。その姿は、初めて見る僕にも、とても楽しめた。そして怖いくらいに、典型的なシーンだった。

 ポタラ宮、そしてこの八角街。あおく抜けるような空の下で、それはラサの街の磁場になっているようだ。ポタラ宮の崇高な印象と、八角街のその人の渦は、うまいバランスで呼応していた。 5/6 近くの古道具屋さんで、三千円で大正琴を買ってしまった。その店はまだ若者がやっている古道具だ。買ったあと、自転車の所まで、抱えて歩いてゆくと、「それ弦替えた方がいいですよ」っと声がした。それはさっきの店のお姉さんだった。「これっすか?」弦の事を心配してくれたなんて、優しい人だ。

「ヨーグルト売りの少女 」5/8

 チベットの男の子は、広場でみんな凧上げに夢中だ。

 青い空に、白い凧はとても映えて、まるで白いワッペンが飛んでいるよう。それはなぜかとてもチベットらしい風景。今日も僕は端っこに座り、英語の勉強をしていた。

 思い思いに、遊んだり話しているここは、まるで学校の遊び場のようだ。アイスキャンディー売りのおじさんが見える。どこでも同じなんだなぁ。そんな中、ひとりの女の子が、日陰でヨーグルトを売っていた。

 端っこに続くブロックに、ちょこんと座り、目の前には、木の箱に入った、瓶のヨーグルト。三つ編みの彼女は、15才くらいだろう。特に何か、呼び込みをするわけではない。

 彼女は一日、広場にいて、ヨーグルトを売っていた。日陰が移動してゆく場所に沿って、その度に彼女も移動してゆく。ヨーグルトは太陽に弱いのだろう。そんなデリケートな感じがよく出ていた。

 日陰から、彼女は小さな笑顔をいつも見せてくれていた。その表情につられて、ついついヨーグルトを買ってしまう。瓶のままでもらい、近くに腰掛けて、みんなのんびりと食べる。オイシイ。何かが違うヨーグルトだ。

 瓶を返しにゆくと、彼女はニッコリと笑う。しばらくそばで座っていたら、彼女はボロボロの服の子供に、そっとヨーグルトをあげていた。(ああ、あげたぁ・・) 僕は、それをちゃんと見た。

 なんとなく、そばにいたつもりだったのに、ヨーグルト売りの少女は、日陰の移動に沿って、いつのまにか、少しずつ遠くになっていった。やがて空が、静かに翳って来て、ひとつふたつと凧も落ちてくる。そして日が暮れれば、彼女も広場から帰ってゆくのだった。5/7 お茶の水に、大正琴の教則本を買いに出かける。楽譜専門店にゆくと、「ないですねぇ」と言われてしまう。何軒か回って、やっと見つける。それにしても、ギターが安い。それもちゃんとしてて、高そうだ。僕が、中学の頃は、安いギターは安そうだったのになぁ。時代は変わったと思った。

「ボタラ宮」5/9

 ポタラ宮までの坂道は、それはそれは、息が切れるほど続いていた。

 ここラサの街で、なんと言っても、存在感のある建物と言えば、そびえ見えている「ポタラ宮」だ。そこは、ダライラマがずっと住んでいた所。小豆色と白の、印象的な配色。それは、青い空に浮かびたって、見上げる者を、神聖な気持ちにしてくれていた。

 ダライラマ王の住んでいた、ポタラ宮を見学するというのは、なんとも贅沢な気分だ。各部屋には、それぞれ守っているチベッタンの人がいて、何かの言葉を唱えながら掃除をしていた。それは、ながーい間の繰り返しがある事を物語っていた。

 ポタラ宮を訪れるのは、観光客だけではなく、チベットの人たちもまたそうだ。なんだか迷子になりそうだったので、僕はチベットの三人の親子の後を付いていった。ほんと「ありがたい、ありがたい」と言っているように、手を合わせている。ここポタラ宮に来ることは、特別に深い意味があるのだろう。

 オレンジ色の袈裟を着たお坊さんが、笑顔で親子に話しかけている。その会話の内容はわからないが、だいたい想像は出来た。どこでも変わらないシーンがある。子供はかたわらで、静かにしている。

 いろいろな仏像や工芸品が、所狭しと置かれている。独特の明るい色づかい。仏像は、どてっとして、金色のリアルで塗られていた。その昔、日本のお寺さんにあった仏像もきっと、そうだったのだろう。今では、金のはげた仏像の方が、仏像らしく思われているが、もともとはこうだったにちがいない。

 あるひとりのチベッタンのお兄さんが、僕らのあとに一緒に回っていた。どの仏像の前でも、長い祈りを捧げているその姿は、他のチベッタンの人とは、少し違うように見えた。信仰心の深さを感じる。会えてよかった人だ。

 ポタラ宮の一番上から、ラサの街が見た。なんだか、自分がダライラマ王になったような気持ち。ここから、ラサの街を見ているその姿を、人々もまた常に感じていたのだろう。それはとても広くて、やさしい目に思えた。5/8 キャッシュカード残高を見たら、なんだかとても多い。あれ? そうだ。月末なんだか忙しくて、まだ家賃を払っていなかったのだ。こりゃまいった。帰り、不動さん屋の寄ると、「大変だと思って、代わりに大家さんに振り込んでおいたよ」って言う。そんなぁ。忘れていただけなのに・・。

「さすらいのグリーゴア」5/10

 この大部屋のドミトリーに来た日、ひとりの背の高い、ヨーロッパの旅行者が、ドアからゆっくりと入って来た。

 後ろに束ねた金色の髪。横に楕円の小さなメガネ。だぶっとした、クリーム綿の服。そして、なんとなんと言っても、首に巻いたピンク色の小さな、スカーフが印象的だった。

 「ハロー」彼は、初めて会う僕に、ゆっくりと微笑んだ。そしてベットに腰掛けて、またゆっくりと微笑む。隣りのベットのドイツのベンに、「ホワッツ・ヒズ・ネイム?」と尋ねると、ベンはなぜか、小さく笑って「ヒズ・ネイム・グリーゴア」と答え、彼を呼んでくれた。

 彼の名前は「グリーゴア」。背の高い彼は、僕のベットに座り、微笑みながら握手をする。ベンもグリーゴアも日本に三ヶ月間いたことがあるという。そして彼は、菜食主義者だって言う。彼は生野菜を買ってきて、ベットの上でかじるのだった。

 ベットの上で、にんじんをかじる彼。僕と目と目が合うと、またにっこりと微笑む。グリーゴアは、なんだかいつも静かだ。荷物もきれいに整理してある。首に巻いているピンクのスカーフが、なんともかわいい。僕がお腹を壊して、ベットにずっと横になっていると、グリーゴアは、またにんじんをかじりながら「ヘルシー」とか言っていた。

 ある時ドミーに、二人のヒゲのヨーロッパの男が尋ねて来た。「このベットのドイツ人の女性はどこに行ったか?」と言う。ちょうど、部屋にいた、同じドイツ人のグリーゴアが、彼らに答えた。

 「フイッチ・フロム!!」グリーゴアは、ベットの上で、背筋を伸ばしながら言った。「ポーランド !! 」二人のヒゲの男も、ガンと答える。「その女性は今出かけているが、用件はなんだ?」とグリーゴアは言う。「寝袋を売りに来た」って言う。「わかった伝えておく」

 あんなキリッとしたグリーゴアを見たのは、初めてだった。(フイッチ・フロムかあ・・) その言葉の響きには、民族の誇りさえ感じた。まるで、映画のシーンのようだった。またさらに僕はグリーゴアが好きになった。

 そんな彼も、明日にはバスに乗って、チベットからゴルムドヘ行ってしまうという。約500キロ、30時間の旅だ。ベットのすみには、買いためた、にんじんやタマネギが、まとめて置かれてあった。なんとも、いとしい彼だった。5/9 このごろ、夜の11時45分になると、自然と横になってしまう。そしてまた2時くらいに起きるのだ。そして、このエッセイを書く。そのあとまたひと眠りするのだ。そして失敗すると・・。

「そんな川での想い事」5/11

 自転車を借りて、ラサ大橋を渡り、僕は大きな川沿いに来てみた。

 ここまでは、観光客はあまり来ない。細いジャリ道の田舎道が続く。ふたりの子供が、棒切れを振り回しながら、追っかけあって帰って行く。なんだか淋しそうな、おじさんがトボトボと歩いている。そして僕は誰もいない川沿いに座ってみる。

 広い川は素直に青い。でも、それにも負けないくらい、空もまた青く澄んでいる。銀色に近いまぶしく白い雲は、モコモコモコとおいしそうに浮かんでいる。ここラサでは、そんなふうに、いろんな事がリアルだ。

 八角街バザールから、ほんの少し行って、ラサ大橋を渡った所に、こんな広々とした場所がある。ラサの街の賑わいは、ほんの一部なのかもしれない。そしてここからも、白と小豆色のポタラ宮が、はっきりと見えている。

 ここはチベットのラサの街だ。旅に出て、やっと三週間。なんだかいろいろあったような気もする。青森くらいしか遠出したことのないのに、日本から遠く自分がここにいることが嘘のようだ。みんなは今頃どうしているだろう?

 一緒のドミトリーにやって来た大阪の彼は、僕には、一人旅は無理だって、友達に言っていた。なんとなく僕もそんな気がしないでもない。そして、これからチベットの山越え、次にはネパール。ネパールに着いたら、一人旅となる約束をしている。

 こんなふうな自信のなさで、インドに行ったらどうなってしまうのかと思う。そしてその後はヨーロッパだ。ここ数週間でこんなに長いのだから、そんな先の事は想像がつかない。

 こうしてチベットの色鮮やかな風景の中に、一人でいると、その大きな息が聞こえてくるようだ。そっと目を閉じて、僕は、風景を吸ってみる。公園のシーソーのように、時間はたっぷりとここにあって、あせって次を考える事もないのだろう。

 まだまだ日は高く、雲が通るたびに、地面は影で包まれる。はっきりと、よく見えているポタラ宮が、僕にシンプルな言葉をくれたようだった。5/10 カセットテープを、携帯で持ち歩いていた頃は、10日間くらいは、単三電池一本で聞けていた。それが今は、MDになり、3時間くらいしか充電池が持たないのだ。バイトが終わり、さあミュージックでも聴くかと、言うときに、電池切れ。アア、時間が悲しい。

「コイツラ登場」5/12

 「ここが有名な八角街ね、まあなんてチベットらしいのかしら!!」

 そう観光客のみんなが、言ったかどうかは知らないが、八角街は、お決まりの観光コースの中に入っていた。いったいいつからチベットに自由にみんなが入れるようになったのだろう? その昔は、秘境の地と呼ばれていたような気がする。

 八角街バザールへ行くと、その活気や、五体投地の修行の人たちや、僧侶たちの読経にも驚かされるが、さすがに賑わいのある場所なので、観光客用のレストランも、ちゃんとあった。

 レストランの階段を登ってゆくと、ひとりのボロボロの服の子供が、僕の足にしがみついてきた。「ウーッ」その男の子は、うめきながら、まったく放そうとしない。「マネー、マネー」一度は、何とか放したものの、今度は、力の限りで足につかまってきた。

 ぜんぜん動けないでいるでいると、レストランの中から、フランス人のカップルが出てきて、子供にパンをあげた。すると素直に彼は、僕の足から手を放した。これは、僕と彼の問題だと思うのに。まるで僕の方が子供のようだった。そんなぁ・・。

 バザールを歩いてゆくと、またすぐにワイルドボーイズに遭遇する。やって来るくすんだ草色の一団。「マネー、マネー、ヘルプヘルプ!!」「ノー、ノーマネー」そう答えると、一番偉いと思われる、女の子が何かチベットの言葉でひとこと言った。きっと「バカ」「ケチ」とか言ったのだろう。

 彼らは、まだみんな小さい。リーダーと思われる彼女で、8才くらいだ。彼女は階段の所で、タバコを吸っていた。次の作戦を考えているようだ。みんな見るからに「ワル」と言う感じだ。どこの街にも、いるんだとは思うが、なぜだろう。せつない気分になってくる。

 すれちがう民族服を着たチベットの男たちは、みんな静かだ。旅行者の僕らには、関係なく歩いているようだ。腰には短剣を付けている。ときには、大きなラジカセを鳴らしながら、片手に持って歩いている。電池代が大変だろうに・・。そんな彼らは、みんなどこか「純」なようだ。

 僕の足にしがみついた、あの力を信じてみようと思った。5/11 最近なかなか手紙を、思った日に出せない。以前は、深夜になるとせっせと書いていたのに。今、友達に悪い思いをさせている。すまない気持ちでいっぱいだ。手紙だけは、せっせと書いていたのに。

「I君との出逢い」5/13

 こんなに仲良くなるなんて、これも旅の不思議なのだろうか?

 チベット空港で、心配そうに声を掛けてきたのは彼だった。大学を卒業する時に、旅をする、いわゆる「卒業旅行」で来たと言う。約ひと月の旅。I君は京都から来ていて、旅で伸びた髭と、透明茶色のセルロイドの丸いメガネが、やさしい印象を与えていた。

 ラサに着いた日は、彼は体調がすぐれなくて、彼は横になっていた。高い標高のせいだ。それから何日からして、I君は、僕に言った。「じつはまだ、調子悪いんですよ・・」そんな彼は、何をするにも静かで、気がつけば「ヤァ」とそこにいるのだった。

 ポタラ宮の下にある、ギャラリーを見ていると、たまたまI君もそこに来ていた。「ああ、こんにちは・・」その帰り、僕らは一緒に、おいしい中華店を見つけ、食事をした。彼は、大学を卒業したら、ホントは東京に行きたいと言う。なんだか、自分が心配症で困ってしまうらしい。

 それからは、I君と一緒に、いろんなお寺に行ったり、食事をしたり・・。彼もまた、お寺に興味があり、とても気があったのだ。僕も旅に出て、前へ前へと気持ちを進めていったけれど、彼のような時間にホントはいたかったのだ。多くの旅人と会ったけれど、彼のような人は初めてだった。

 10日くらいして、I君は、また飛行機に乗ってラサを出ることになった。前日の夜、10時を過ぎて、一緒に喫茶店に行った。一番高いコーヒーを注文したら、ネスカフェの袋とお湯が出てきた。それでも、なんだかそれは本格的なコーヒーに思えた。

 「青木さんには、期待していますよ」そう彼は言った。僕なんて、ぜんぜん旅人として、情けないことばかりなのに、その言葉は驚きだった。もうお店は終わろうとしていたが、店員さんは「ゆっくとどうぞ」と言ってくれた。 5/12 ひと月に一度か二度、高円寺では、古書センターで、古本市がある。僕も寄ってみるのだが、なんだかその熱気がすごい。たしかに選りすぐった古本が、並べられてある。僕も、'77の鈴木康司の絵本付の本を500円で買った。山ほど買って行く、人もいてびっくりした。

「寺めぐり&バター茶」5/14

 ひとりのお坊さんに「リーベン?」(日本人?) ときかれた。

 「そうです」そう答えると、お坊さんは椅子を出してくれて、いろいろと話してくれた。日本は同じ仏教国だから、お坊さんはとても親日的だと、言う。(もちろんそれは、チベット語なので、ジェスチャーでわかるのだが・・) ほんとに親切にしてくれたので、僕らはチップを少し置いていった。

 ここはラサの市街から、16キロの所にある、デプン寺。僕とI君は、ちょっと前から毎日のように、自転車で、お寺回りをしていた。I君は、ほんと中国やチベットの歴史に詳しく、その途中途中いろいろと、教えてくれた。やっぱり中国に来たいと言う人はそれなりに来たい思いが強いんだなぁ・・。

 セラ寺に行ったときは、実際、修行が行われていて、15・6才くらいの若い坊さんたちと話をした。彼らは「日本は中国のどこにあるんだ?」ときいてきた。「ちがうよ」土にマップを書いてと答えれば、びっくりしていた。そんな彼らと、話せて楽しかった。

 デプン寺の中を、回っていると、プーンとバターの臭いがきつく漂ってきた。小さな部屋をのぞれば、ふたりのお坊さんが、腰掛けてバター茶を飲んでいた。僕らは声をかけ「バター茶を一杯下さい」とお願いした。すると、すぐさまにふたりは、手を横に振った。ぜったいに飲めないよって言う。それでも、飲んでみたいって言うと、バター茶をうすーくしてくれたのを作ってくれて、出してくれた。

 「うわっ」ちよっと口に含んだだけでも、そのバターの強さは強烈で、ノドさえも通らない。でも、せっかく無理をお願いして、作ってくれたので、なんとか飲みこもうとするが、どうしてもだめだ。そのまま、外に出してしまった。

 僕とI君は、深々と謝った。お坊さんは、気を悪くせず、ふたり気持ちよく手を振ってくれた。ありがとう。その日一日は、口の中にバターの味がずっと残っていた。

 また次の日も僕らは、自転車に乗って、チベットのお寺回りに出かけた。バター茶を飲んで以来、チベットの人たちに、触れられない身近さを感じていた。5/13 このエッセイを書いていると、夜、眠る前に、忘れていた旅行の時の景色がぼんやりやってくるようになった。14年も前のことだ。それがとても懐かしい。

「インドの広田さん」5/15

 その人は、他のどの旅人ともちがっていた。インドから来た、ヒゲの広田さんだ。

 同じドミトリーで、初めて会ったときから、友達のような気持ちになれる不思議な人だった。年は28才くらいかなぁ。ひたいの方はかなり上にあがっているのに、左右に髪は長く、ヒゲと一緒に、それもまたトレードマークになっていた。

 こんなに親しみのある人は、ホント珍しかった。きけば、インドで、ラマ教の修行をしていて、ネパールそしてチベットにやって来たと言う。ネパール製の小さな肩掛けジョルダーと、青いジーンズが、なぜかさわやかな印象を与えていた。

 ほとんどの日本のツーリストは、ウエストポーチとか付けていたが、広田さんは、肩から斜めに掛けてある、紐付きの小さなネパールショルダーで、出かけてまた帰ってくるので、とても軽そうで、うらやましかった。

 ドイツの旅行者とも、広田さんは英語で話しをしていた。聞いていれば、ホント僕も使えるような単語ばかりだ。発音も、ジャパニーズ風だ。それでも、自由に話しができている。インドを旅すると、こんなに喋れるようになるのだろうか?

 夕方になると、広田さんはベットの上で瞑想をはじめるのだった。約30分ほど動かない。その姿はなんとも、静けさに満ちていて、背筋が伸び、迫力があった。そして日が暮れてゆく中に、まるで一枚の動かない絵のように、融けてってしまう

 (これがインドからの旅行者かぁ・・) 僕は何か、底知れない深さを感じた。5/14 今日、マンションの廊下を歩いていると、窓の下の物置の上に、大きな戦艦大和のプラモデルの完成品が飾ってあった。(ああ、大和だぁ・・) それは、今から30年前に、12000円か7800円くらいで売られていた。プラモデルの中で一番大きなプラモデルだった。今も、もしかしたら一番大きなプラモデルとして売られてしるのかもしれない。そして値段はいくらになっているだろう?

「写真物語」5/16

 「イージャン・ドゥオ・シャオ・チェン!!」

 八角街バザールにある、イスラムレストランに行ったときのことだ。友達の持っている、 カメラを見つけて、店のおやじさんが、「一枚いくらですか?」と、人差し指を立てて訊いた。

 そのイスラムレストランは、肉そばがうまかった。紺の服に紺のムスリム帽をかぶった、誠実そうなおやじさんが、作ってくれていた。肉皿を頼んだら、とても三人では、食べきれないほどの量が出てきた。

 「お金を払うから、ぜひ写真を撮って欲しい」おやじさんは、僕らに言う。カメラの持ち主のI君は、「今日は、もう夕方で、暗くなったから、明日また昼にしましょう」と言って、明日またくる約束をした。

 次の日、バザールで I君に、僕は何枚か写真を撮ってもらったあと、約束どうり昨日のイスラムレストランに寄った。お店の人たちは、とても待っていた様子で、僕らが来ると家族全員を集めて、「さあ、撮ってください!!」と言う。

 みんなは、それぞれに心の準備をして、待っていた。そしておやじさんは、写真の出来上がりの日を訊いてきた。I君はこれからまだ、ひと月は旅を続けるので、「すぐにはできない」って答えた。するとおやじさんは・・。

 するとおやじさんは、急にションボリとして、机に肘をつきながら「それならいらない・・」と淋しそうに言った。親戚のおじさんも呼んでいるらしかった。家族のみんなもがっかりしている。

 I君は、みんなに気をつかって「ただで送るよ」と何度も言ったけれど、おやじさんは、首を横に振るばかりだった。目の前のそろばんが淋しそう。僕らが帰るまで、みんなずっとしょんぼりしていた。

 夕方、僕らはみんなで、もう一度イスラムレストランに行った。おいしい肉そばを食べた。おやじさんは、「美味しいお茶を出しましょう」と言って、砂糖入りのジャスミンティを出してくれた。「うまいねぇ!!」

 窓の外は、ラサの八角街バザールが見えている。おやじさんは、もう写真の事は気にしていないようだ。砂糖入りのジャスミンティーは、本当に美味しい。僕は時が満ちてくるのを感じていた。5/15 バイト先のそばの喫茶店に、飼われている、おとなしい秋田犬がいる。もう年なのだろう。腰が悪く、自分で立つ事ができない。今日はいい天気なので、外でひなたぼっこをしていた。秋田犬は、あごをアスファルトにつけている。なんだか泣きそうになった。

「ワールド少女バンちゃん」5/17

 バンちゃんは少女ではなく、ちゃんとした女性。でもゴロと、言葉のはじけぐあいがいいので、あえて、こう呼ばせてもらおう。

 同じドミトリーに彼女が来たときから、空気が一変した。「ハロー!!」小柄な彼女は、ROCKと書かれた、大きなTシャツを着ていた。もじゃもじゃの髪のしたで、コロコロっとした笑顔がいつもある。そんなバンちゃんだった。

 彼女はとにかく英語がペラペラで、一年ロンドンに留学した後、ヨーロッパを回り、トルコ、インド、ネパールと旅して、ここチベットに来たと言う。今25才で、東京のお金持ちの娘さんらしい。

 僕もトルコ、ヨーロッパに旅する予定なので、いろいろと話を聞こうと思って、一緒に食事に行った。彼女は、味覚 について語る。その表現はとても豊かだ。その語る表情がまた、とてもいい。途中で、クシャミをすると「エックスキューズ」と言う。

 次の日、ドミーにて、僕らはバンちゃんのワールド話を聞いた。その話は、とても豊かでとても引き込まれた。ホントによく物事を知っているのだ。そしてとても批判的な、厳しい目も持っていた。ぱっと見は、とてもカワイイ少女なのに・・。

 その後、僕とバンちゃんと、インドから来た広田さんで、バザールに出かけた。ふと気付けば、バンちゃんと広田さんは、ゆっくりすぎるほど、ゆっくりと歩いている。(これが、インドからの旅人かあ・・) しかたがないので、僕は先にゆくことにした。

 パンちゃんと広田さんは、妙に気があってしまったようだった。「私、広田さんみたいなタイプに弱いのよ」って言う。「そして彼と会ったのは、カルマなのよ!!」とも言う。明るくさっと、言ってのけるところがまた、バンちゃんらしかった。

 ある時のことだ。みんなで集まって、ちょっとしたパーティーをした。ひとりのドイツ人の若いツーリストが、「日本の女のコは、なぜみんなニコニコ笑っているのか、理解できない」と言った。どうもその一言が、バンちゃんに火を付けてしまった。

 それから二人は、ずっと言い合いを続けた。夜中、外のベンチで、二人の声がずっと響いていた。5/16 どしゃぶりが降る中、ずっとバイトをする。それも忙しくて、走り続けている。天気予報は曇りだったのに、とか思うのだけれど、雨はやまない。「これは人生だ」とか、いつも思ってしまう。

「夜明けのチケット取り」5/18

 チベット・ラサから、ネパール・カトマンドゥへ入ることは「山越え」と呼ばれていた。

 僕も友達も、ジャーマンのベンも、香港のあのカップルも、ネパールへはバスで行く予定であり、「山越え」の覚悟は出来ていた。それはどんなに大変かは、想像がつかない。ただ、ひとつの山越えである事は、確かだった。

 みんな、こころの中では知っていたけれど、しばらくはのんびりしていた。「いつ、行こうかね。そろそろバスの予約でもしようか?」10日に一度くらいの国境行きの バス。噂では、すぐいっぱいになり、予約がなかなか取れないと言う。

 何度か、バス会社に行って予約できる日を確かめて、その日は、朝早く行く決心をした。どのくらい人が並ぶかわからない。夜が明ける前に行こう。でも、ひとつだけ不安があった。それは犬たちだ。しかし秘策はある。ラサの人たちは、小石を手のひらに持って、犬たちをおどしながら夜道を行くのだった。

 バス予約の日、同じドミーの友達も来るけれど、僕は一足先に夜明け前に出かけた。午前6時。懐中電灯を持って、僕は宿を出た。ここから5キロは歩くのだ。犬たちは10匹くらい群になって、大通りをうろついているはずだ。怖い。とりあえず、小石を手のひらに持って、進んでゆく。

 なんて、長い道なんだろう。ライトを照らしながら、夜明け前を歩いてゆく。覚悟を決めてはあるものの、さすがにきつい。大通りの反対側を、犬の群が通って行くのが見える。もう勝負するしかないのか・・。ラッキーがあるなら、今、あって欲しい。

 何度か犬たちとすれちがいながら、無事にバス会社に僕は着いた。一番乗り。夜は明けかかっている。すっかり疲れてしまった。僕の予定では、次々と人がやって来るはずなのだが、ポツリポツリと現れるだけだ。

 10時になって、バス旅行社の女性が、自転車に乗ってやって来た。なんだかカラフルなワンピースを着ている。そして、のんびりと窓口を開けて、受付を始めた。大丈夫だろう。友達もジャーマンのベンも、間に合っていた。そしてお姉さんは、予約のノートを開いた。

 「あれー」今日が最初の予約日のはずなのに、もう半分、席が埋まっていた。明日には、きっと、なかっただろう。5/17 今日、通りを、王様歩きで歩いてくる、ヒゲのおじさんを見る。ちょっと前から、それはわかっていたのだけれど、だんだん近づいてきて、冗談ではないとわかった。また会いたいなぁ・・。

「香港のみんな達」5/19

 香港のみんなは、僕たちが国内旅行で出かけるように、チャイナに出かけるって言う。

 中国での事を、いま思い出してみると、香港の旅人に多く出会えたなって思う。ワイワイと一緒にゆく、みんな。それはどこか修学旅行の楽しさのよう。

 知り合いになれた、香港の人たちは、どの人も親しみがあり、そして、元気のパワーがあった。バザールの道で会うと「ヤァー」と声をかけてくれる。日本のツーリストとほとんど一緒だったけれど、どこか明るく快活で、印象的にはスポーティーな服と、ウエストポーチがよく似合っていた。

 チベット・ラサの同じドミトリーになった、ひとりの香港の学生ツーリストは、ネパール・カトマンドゥーまで、二回も山越えをして、行って帰って来ていた。ドイツ人のベンは「すごいパワーだよ。信じられない」って驚いていた。

 そんなホンコンの彼が、ある時、オーストリアの旅行者の男の人と言いあいになっていた。きけば、香港は日本にぜったい負けていないと言う。「ホンコン・ビック!!」と力を込めて言う。高いビルや、コンピューターもあるんだと言う。オーストリアの彼が「日本はもっと大きいよ」って説明するのだけれど、彼は認めなかった。

 チベットの宿には、多くの香港の旅行者たちがいて、ほとんどのみんなは、集まってなごやかな時間をいつも過ごしていた。とても楽しそうだ。大きな声で話す。その輪の中には、入ってはいけなそうだったけれど、知り合いになったカップルがいて、いつも大きく手を振ってくれた。

 日本と香港についての話を、ラサのお寺に行ったとき、お坊さんに質問された。うまく説明できないでいると、サファリズホンにベンチャーサングラスをかけた、ひとりの香港のツーリストが、そばに来て、お坊さんに言った。「ホンコンは、日本に比べて、小指の先くらいしかない」

 そういう言い方もあるんだと知った。5/18 新宿のパソコンショップに行く。もうすぐ、マッキントッシュのiBookの新作が、発表になる。それは、とても小さい。それなのに僕のマックと同じくらいの能力がある。最新式のマックを買って一年。一年で、こんなになってしまうなんて・・。進化は早い。

「ホテルのまわりの楽しみ」5/20

 僕のいたKILEI HOTELのまわりは、とても充実していた。

 大通りに並ぶ露店、そして大きな八角街バザール。道向こうには食堂が並び、夜遅くまで賑わう。たいがいの自由旅行のツーリスト達は、チベットで待ち合わせをしなくても、ここで必ず会えた。

 居心地がとてもいい場所なので、どんどんお店の人とも顔なじみになってゆく。それもまた旅を深くしてくれる。ホテルの入口には、男の子と女の子のふたりが、小さな椅子に座って、ヨーグルトを売っていた。時々は、買いに行くと「こっちの方がうまい」「いや、こっちの方がうまいんだ」と、お互いに言い合う。毎回、毎回そうだ。そんな仲のいい、二人だった。

 道に出ると、いろいな露店が、ちょっとずつ離れて、お店を開いていた。ミュージックテープ(海賊版) とか売っていたなぁ。あはは、ぜーんぶ白黒のジャケット。そうそう露店の歯医者さんもあった。張られた布の向こうで、何かやっていて、「うわっ」とか声がしていた。

 季節は夏。青空なのに、急にどしゃぶりにもなった。そんな時、露店の人たちはどうしていたんだろう? 道を歩いていて、僕が一番、気になっていたのが、靴みがきの女のコたちだ。一日そこに座っていて、夕方になると帰ってゆく。

 声をかけたい気持ちでいっぱいなのを、そっと押さえて、いつも通り過ぎる。どの娘も、みんな可愛く思えてしまう。僕は、その道を歩いてゆくのが好きだった。

 夜は、通り向こうの食堂で、のんぴりと食べて、いつまでも話して、また宿に戻って、それから・・。5/19 高円寺のお好み焼き屋で、食べた食べた。はじめて一緒に食べるみんな、その焼き方の それぞれのオリジナルがあったいい。これがお好み焼きだと思う。

「人生カバブ」5/21

 ここチベットに来て、カバブと言う食べ物を知った。とにかく羊の肉なのだ。シシカバブと言うのが、本当らしいけど。

 泊まっている、学校のようなホテルの前に、そのシシカバブと呼ばれる、まあ、羊の肉をヤキトリ(?) のように、串に刺して焼いて売っているオヤジさんがいた。夕方になると、奥さんとやって来て、お店を出す。

 それはほとんど、日本のヤキトリと一緒だ。いや、ヤキトリの方がシシカバブの流れをもらったのかもしれない。焼く姿は、ほんとヤキトリ屋のオヤジの姿だった。

 日の暮れた宿の、門の前に、煙がもうもうと上がる。カバブ屋のオヤジさんは、ちよっとやせているおじさんだ。奥さんの方が、できたカバブを渡しをしている。ツーリストは、立ち食いで、話ながら食べている。オヤジさんの表情は、淡々として、ずっと変わらない。

 実にいろんな、ツーリストが、そのカバブ屋さんを、囲っていた。その光景は、懐かしいものがあった。ここは旅の一休みと言う感じで、誰もが、のんびりと食べていた。

 この宿に来たときは、(ああ、やっているなぁ)とくらいに思っていたカバブ屋さんだったけれど、10日目を過ぎたときから、そのもうもうと上がる煙を見ると、まるで、家に帰ってくるような気持ちになった。

 僕もいつのまにか、フラフラと寄って、一本二本と食べてしまうのだ。オヤジさんは、英語で注文を受けると、言葉はなく、ニコッと笑って答えてくれるだけだ。もっぱら奥さんの方が、代金をもらっていた。

 今日、寺に行って来た人がいる。八角街バザールでの、五体投地を見て驚いた人もいる。初めて、この宿に着いた旅行者もいる。明日ここを後にする人もいる。オヤジさんは「疲れたかい?」ともきかずに、ただ黙ってカバブを焼いていた。そのカバブは、なんだか人生の味がした。

 オヤジさんの隣りでは、犬くんが、おこぼれをもらおうとクンクンとやっている。きっと今も、オヤジさんは、KILEI HOTELの前で、カバブを焼いているはずだ。「トゥー・ピーセス・プリーズ」5/20 今日、壊れた眼鏡のフレームを持って、買った所へ修理に出しにいった。お店の人は、その時の資料を探して来た。よく見ると、違う眼鏡だ。だんだん記憶がよみがえってくる。(あっ、この店じゃない。あの店だ。いや、あの店の後、あの店でもう一度買ったフレームだ) 人の記憶の曖昧さを知った。

「sayonara・ラサ」5/22

 いよいよ明日が、旅立ちの日となった。

 僕は、通い慣れたラサのお店屋さんを、順に寄ってみる。まず朝食。いつも、カーキ色の浅い帽子をかぶっているおじさんが、やっている食堂にゆく。僕のお腹の調子が悪かった時、心配してくれたおじさんだ。

 今日も、お客さんと親しく話している。僕には、それがぜんぶ人生論を話しているように聞こえる。明日、ラサを出る事を、よほど言おうと思ったけれど、やっぱり言わないことにした。食堂おじさんはいつものように、笑顔で手を振ってくる。ありがとう。お世話になったよ。

 午前中、宿にいると、あのバンちゃんが、僕らの旅立ちのために、フルーツ盛り合わせを作ってくれた。ヨーグルトをかけて食べるのだ。ジャーマンのベンもうまいうまいと食べていた。バンちゃんとインドの広田さん、そして僕らは、いつものホテルの二階のベランダロビーで、しばらくのんびりする。ここはいい場所だった。今日もいい天気。

 バンちゃんから、ヨーロッパの旅のいろいろな話を聞く。短い間だっけれど、とっても仲良くなれた、四人。僕だけが、なぜか旅なれていないツーリストだったけれど・・。広田さんとは、またインドであえるかもしれない。その時は楽しみだ。

 それから、八角街バザールを一回りしに出かけた。毎日毎日よく歩いたよ。腰に短剣をさしたワイルドなチベットの男たち。あんた達のことは、しっかりと覚えておこう。そして五体投地を繰り返している、巡礼の人たちも、心にとどめておこう。それに、ガンバレよ、若き坊さん修行者くんたちも。

 やっと夕方。さて今夜はどこに食べよう? 僕らは、とても好きだった餃子館を選んだ。そこで働いていた人たち。どの人も忘れることができない。そこにはずっと餃子を作り続けている、金歯のおばさんがいた。いつも作り続けながら、あっはっはと笑う。赤い縁のメガネの、あのお姉さんは、いつものように細い声で受け答えをしてくれる。

 お釣りをもらうとき、お姉さんは小さな声で、いつも「sayonara・・」って言う。それじゃせつないので、僕は「また来ます!!」って答えていた。今日はその「sayonara 」が、胸に痛い。いつもどうり「また来ます」って言って店を出た。さよなら餃子館の人たち。またホントに来るよ。

 宿に帰ると、一緒の友達が、最後にバザールでいい腕輪を買ったと言う。見せてくれるとそれは、腕輪の真ん中に、白と黒に別れた波の模様が、魚のように絡み合っている有名なデザインのヤツだ。その白黒のそれぞれの中には、白黒の点が逆に入っている。

 「青木さん、この意味わかる?」「えっ、教えてよ」そして友達は言った。「悪い人の中にも、必ず良い人がいる。良い人の中にも、悪い人もいるっていう事だよ」なるほどなぁ。ひとつの教訓だ。友達は、腕輪を嬉しそうに眺めている。

 「欲しかったんだよ、これが!!」ネパールへの山越えを前にして、そんな余裕のある友達が、うらやましかった。5/21 朝、NEWSで総武線が止まっていると言っていた。がっかりしながらとりあえず、駅に向かっていると、山鳩が、電線でクークーないていた。まるでそれは「ソーブセン、トマリダヨ。ソーブセン、トマリダヨ」って鳴いているようだった。

「ラサからの旅立ち」5/23

 朝、起きると、もうベンは先に宿を出ていた。

 ネパールの国境行きのバスに乗るために、僕と友達は、ドミーのみんなに送られながら、ラサの宿を出た。空は気持ちよく晴れて、この上ない旅立ちの朝だ。バス停まで行くと、ドイツ人のベンが待っていた。それにしてもすごい荷物。

 ベンの16ミリ撮影セットは、かなりの重さのようだ。この荷物と一緒に、山越えをするなんて大変そう。それに噂では、途中で道は崩れていると言う。

 待っていたバスは、想像していたよりも、ずっとオンボロだった。そして運転手は、僕らの方を振り返った。鼻ヒゲが印象的な、いかにも恐そうな顔。僕らをネパール国境まで運んでくれる運転手だ。彼に任せるしかない。(この顔が残るのか・・)

 チベットの人々も多く乗せて、山道をバスは走り出した。さっそくのガタガタ道。席から飛び上がってしまうほど。この感じで、三日間乗ってゆくと思うと、かなりきつくなりそうだ。

 やがて窓からは「聖湖」と呼ばれる湖が見えてきた。標高のせいだろう。みごとなエメラルド色。名前の由来もわかる気がする。バスに乗って通りすぎるには、もったいない景色だ。しっかりと目に焼き付けておこう。

 あんなに空の上に見えていた、白いポッカリ雲が、だんだんと近づいてくる。ああ、あの上をバスがゆくのだ。曲がりくねった山道の端は崖になっている。ふと窓の下を見ると、タイヤと崖の間が30センチくらいしかない。僕はすっかり覚悟を決めてしまった。

 途中の村、シガッツェに着く頃は、もう夜の9時半になっていた。14時間バスだった。窓からは、なんとラサのKILEI HOTEL で一緒だった。オーストリアの彼がそこに見えた。ジャーマンのベンをここで待っていだ。別れた人がそこにいた。それはこんなにも懐かしいものなのかと思った。5/22 前に住んでいたアパートで、6年ほど飼っていた猫。その猫に道で偶然にあった。ここ4年以上、会えなくてどうしたんだろうと心配していたのだ。僕が最初に会ったとき、もう10年ここに居るって言っていた。だからもう20才? 会えて嬉しかった。引っ掻かれたけれど・・。

「また会えた人」5/24

 そこは、ネパール国境までの途中の村。夜、ツーリスト用の広いレストランには、旅のみんなが集まり、静かに盛り上がっている。

 遅く着いたバスの窓の向こうには、ラサで別れたオーストリアのツーリストの彼が、手を振っていた。それはそれは僕にとっては、びっくりした事だった。彼はジャーマンのベンの友人で、日本語も少し話せる人。僕等とも、とても仲がよかった。

 「ハロー」握手をすると、そこにはちゃんと手があった。小さな丸いメガネと、クルッとしたパーマが印象的な彼。14時間のバスのこちらに待っていた彼が言う。「つかれました?」

 ドミーに行くと、そこにはラサの宿で会った一人の日本人の女性が、泊まっていた。彼女とは話したことはなかったが、お互い顔だけは知っていて、一緒に食事をすることになった。

 その広いレストランには、とても賑わっていた。外はどこまでも続く夜なのに、ここだけが明るい。彼女は、以前ネパールに行ったことがあり、その時は、パスポートをなくした事にしてビザを延長をしたので、今回はできないと言う。だから、せめてここまで来たらしい。

 そんなひとつの夜話が、その夜にはよく似合っていた。遅く着いたので、もう眠らなくてはいけない時間だった。彼女もまた、同じ大部屋のドミトリーだ。灯りを消して横になってみるけれど、なかなか僕は寝付かれない。それぞれの夜を感じていた。

 もうすぐ、中国の旅も終わる。今夜は、そんな想いの巡る夜だった。ネパールに行きたくても行けない人がいる。僕は僕の旅の事を考えていた。

 三時間、四時間と眠れなくて、僕はホテルの屋上に行ってみた。すると、一人のツーリストが、柵にもたれてタバコを吸っていた。よく見れば、ジャーマンのベンだった。「ヤァ」・・。

 ホテルにはかなりの人が泊まっていた。そして、こうして眠れなくて、屋上にやって来た僕とベン。お互い、星空を見に来たのだ。不思議のような、自然なような、そんな気持ちがした。5/23 今日はバイトが休み。DM書きをしてて、時間に間に合わなくなり、大きな郵便局まで、雨のなか、隣りの駅まで出しにゆく。今週二回目だ。帰りは歩いて帰ってくる。今日は、雨の音がとても懐かしい。いろんな事を思い出した。雨にも、音があるんだと知った。

「暮れてゆく、チョモランマ」5/25

 まるでバスは、運転手そのもののようだった。

 山道が崩れていれば、遠回りして、小さな川なら、そのまま渡ってゆく。トラックがあれば、どんどん追い越す。とても強引なのだが、どこか信じられる所があった。

 でこぼこに当たると、大きく上半身が、ジャンプした。そのたびにチベッタンの人と顔を見合わして笑う。もう窓から見える景色は土色の道だけだ。山羊も羊ももういない。そのうちチベッタンの人たちが「うぉーっ」と声を上げた。

 景色のずっと向こう、遠くの方に、白く尖った山が見えていた。「チョモランマ、チョモランマ」チョモランマって何だろう? じっとよく見てみる。その山の形には見覚えがあった。エベレスト山だ。

 平坦な平原の道まで来たとき、バスは急に止まって、運転手はエンジンチェックをはじめた。15分だけ休むと言う。それはわざとだろう。ツーリスト達は、チョモランマの写真を撮ったりしている。その山の姿はとても勇壮で、男性的だ。チョモランマと言う名前はきっと、男らしいと言う意味に違いないと思った。

 エベレスト山をこんなふうに、遠くから撮った写真や映像は、ほとんど見たことがない。いつも近くからの写真だ。平原に浮かぶ雄々しい姿は、とても人間的な印象だった。しっかりと目に焼き付けるとはこのことだろうか・・。

 バスはまた走って行く。チョモランマは心配しなくても、消えることなく、ずっと見えていた。やがてバスは今夜の村に到着した。軍人用の宿舎の受付に並んでいるとき、チョモランマがだんだんと夕日に染まっていった。なんて贅沢な、数十分なんだろう。日が暮れると、さすがにあたりは冷え冷えとしてきた。

 今夜は、中国大陸最後の夜だ。寝床の後ろの扉がガタガタずっと言っていた。同室になったオランダ人は、寝袋に全部くるまっている。僕は、今までの旅の事をずっと思い出していた。いよいよ明日には、ネパール・インなのだ。5/24 古本屋で買った本を読む。手に取った時は、すごく 面白く感じたのだけれど、実際に読みはじめてみると、そんなでもない。さいきんこのパターンばかりだ。以前はそんなことなかったのになぁ。このところ、本選びは5勝7敗くらいだ。

「窓の下の雲」5/26

 バスはとうとう、5000メートル級の山を登り、白い雲の上にバスは出た。

 青い空にくっきりとヒマラヤの山々が連なっている。乗っていた誰もが「オーッ」と言って声を上げていた。ちょっと見慣れない光景だ。僕は東京の友達にどうしても見せたいと願った。そしてその山のどれかひとつをこのバスは越えてゆくのだ。なんだか信じられない。

 ゆっくりながらも、山をひとつ越えて、やっと村に着いて、お昼となった。昨日、いろいろとお世話をしたネパール人の青年が、僕らに「フート、フート」と言って、食事場に連れてってくれた。もうここまでくると、ネパール語が通じるらしい。

 彼は僕らのために、いろいろと注文してくれた。お湯をもらってくれたり、味付けを教えてくれたり・・。まるで昨日のお礼をしてくれているかのようだ。ジャーマンのベンは、チベットからこっそり持ってきた、袋入りのインスタントコーヒーを切って、お湯に入れていた。なかなか美味しそうだった。

 そしてバスはまた、ゆっくりと山道を走っていった。しかし国境までは、まだあるのに、バスは止まり、運転手はここで終わりだと言った。ここからは危険らしい。しかし一人10元出せば、ネパール国境までバスを出すと言う。

 これは取引だった。ヒゲの運転手をある程度信じていた僕らは、みんなその取引に応じた。ひとり10元で、このバスの人数なら、相当なポケットマネーになるはずだ。結局、ひと組のカナダ人カップルは、お金を払わなかったが、運転手は乗せていった。

 それから一時間、バスは急な山道を下っていった。ところどころで道が崩れている。いつ上から、岩が落ちてきてもおかしくない。川の中をどんどん走って行くバス。友達のベンも、これで500円なら安いものだと言った。

 途中で、羊の大群の道をふさがれてしまった。何百匹という羊が、今にも崖から落ちそうに、山道を登ってゆく。運転手もあきらめているらしく、しばらくはストップだ。そしていよいよ本当に、道が崩れ、バスもこれ以上は無理となった。

 お疲れさん!! ありがとうよ、ヒゲの運転手さん。ちゃんとここまで運んでくれて・・。中国側のボーダーまではもう少しだった。バスを降りると、何十人という、カラフルなトピー帽をかぶったネパーリたちが、僕らに駆け寄ってきた。5/25 久しぶりに、大工のような事をする。ブロックを買いに石屋に行くと、雨ざらしになっているブロックを売ってくれた。大きな土地に置いてある、庭石の数々。そこに働くおじさんたちも、まるで広い土地の庭石のように、自然だった。

「ネパーリのポーターたち」5/27

 青年に、少年に、そしておじさん。みんなカラフルな帽子のトピーをかぶり、裸足でやって来る。みんな背はそんなには高くはない。ネパーリのみんなは、荷物を持たせて欲しいと言う。そう彼らは、山のポーターたちだ。

 国境まではそんなに遠くなかったので、僕らは、そのまま荷物を担いでゆくことにした。そんなことはおかまいなしに、ずっとついてくるネパーリのポーターたち。僕らが一休みするたびに「バゲッジ・バゲッジ」と声をかけてくる。ジャーマンのベンは、もうずっと後ろにいるようだった。あの重たい荷物じゃ、歩きは大変だろう。

 近道だというので、人ひとり通れる道を下山してゆく。荷物を担いでいるので、とても危ない。まるで小学校の時の冒険のようだ。すべったら落ちてしまう。自分が何をやっているんだろうと思ってしまう。東京の友達よ、僕は何をやっているのか。

 やっぱりポーターを雇ったほうが良かったようだ。山から下りた僕らはへとへとになり、宿のある村まで行けそうになかった。僕らはやっと二人のポーターに荷物を預けた。ひとりはおじさん、ひとりは青年だ。ちょっとだけ英語がわかったので、冗談を言いながら、一緒に行く。それは、それなりに楽しいものだ。すっかり仲良くなってしまう。

 途中の一休みでは、初めてチャーを飲んだ。それはネパールのミルクティーだ。話にきいていたチャー。これから毎日に飲むことになるのだろう。とても濃い味がした。記念すべき、一杯目のチャーだ。

 ネパール国境を越えると、 そこには ジープが待っていた。僕ら二人では、車代が高すぎるので、やって来たカナダ人のツーリストと一緒に、乗ってゆくことになった。ジープのあんちゃんは、やっと走り出した。あとは宿のある村に到着するだけだ。

 ふぅーっと一息つけると思っていたら、運転手は、どんどんネパーリたちを道で拾っていった。6人乗りのジープには、とうとう15人も乗ってしまった。屋根にしがみついている人。ドアにしがみついている人。途中で降りる奴。デコボコ道では、大きく揺れる。ひどい道では、屋根の人を降ろしてなんとか進んでいった。

 ただで乗せてゆくジープのあんちゃんは、なんだかいい奴だ。山道をジープが走るということは、こういう事なのかもしれない。道が崩れている所まで、なんとかジープで行った。この先は無理だと言う。そのときだ。50人くらいのネパーリたちが、駆け寄ってきて、あっとゆうまにまた囲まれてしまった。屋根に登って行く音がする。

 なんとかジープを出ると、もう僕らの荷物を担いでいるヤツがいた。はなすものかって顔をしている。ネパーリのポーターたち。コイツラやるなぁ。5/26 パソコンある椅子から、ゴミ箱のある場所まで、歩いて四歩くらいだ。ジュース缶を捨てた瞬間に、歌がひらめいて、それは完成した形で浮かんだ。(ああ、歌が出来るって楽だなぁ・・) とか思いながら、ちょっと外に出たら、そのひらめいた歌をすっかり忘れてしまった。大失敗。 

「電気の来ていた村」5/28

 国境を越えて、入ったその村には電気が来ていた。

 ここはもうネパール。こんなにも変わってしまうものかと思う。夕方になり、食事をしに出かけると、店々には、英語の看板が飾られている。開かれた扉の奥には、しゃれた丸テーブル。いい感じの店だ。「ここに入ろうよ」

 そこは、アメリカの西部劇に出てくるようなウッディな作りだった。ネパールの青年がメニューを持ってくる。全部英語。なんだってわかる。店の兄さんが、白い冷蔵庫を開けて「コールド・ファンタ!!」と言った。 (ん、ファンタ・・!?) それはそれは、なんとも懐かしい響き。

  冷蔵庫の中に見えた、オレンジとグレープの色。もちろんコーラもあった。「オーッ」僕らは、感動的に声を上げた。そして一本ずつもらい、栓を空けてもらった。信じられないほど冷えている。いや、冷えているのが信じられないのだ。

 「うまい!!」炭酸がのどに沁みる。身体が無くなるかと思うほど、キーンと冷たい。ファンタのオレンジ色が目に痛い。何本でも飲めそうだったけれど、僕らはもう一本ずつで止めておいた。店のお兄さんが、今度は「チャン、チャン」と言う。

 チャンは、お米で作った有名なお酒だと言う。頼んでみるとなんだか、甘酒みたい。飲んでみればなんとも美味しい。店のお兄さんは英語が少し話せるので、冗談を言ったりしている。ああ、ハッピーな気分だ。

 日が暮れてから、僕はひとりで、また、お店のある道に散歩に出かけた。中国にはなかった、いろいろな物が置いてある。なんだかそれだけで嬉しくなってしまう。あたりは山々が続いているはずなのに、ここには不思議な明るさが満ちていた。文明から遠いような、近いような・・。

 夜道の中、ネパールの若者たちが、集まってガヤガヤとしているお茶屋さんがあった。みんなでチャーを飲んでいるのだ。とても入りたかったが、通りすぎるだけであった。5/27 夜、池袋に歌いに行く。雨が降っていたので、行こうか迷ったけれど、出かければ、友達が会いに来てくれていた。いつもいつも、そんな感じだ。ラスト一曲だと思うと、友達が目の前に立っていたりする。どうも、そういうものらしい。

「カトマンドゥまでの朝」5/29

 カトマンドゥまでの朝、とてもとても早く目が覚めてしまった。まぶしい光りの中、この二日間の日記を書く、書いても書いても終わらない。

 ひとりで外に出て、ひとりでチャーを頼んでみる。チャーの発音は難しいらしく、逆に「ミルクティー?」ときかれてしまった。たっぷりと一杯飲む。お腹にこたえる。朝の光とチャーはよく似合う。

 小さな女の子がやって来て「ワン・ルピー。ワン・ルピー」って笑顔で言う。ネパールの女の子はとてもエキゾチックだ。彼女は、とりあえず言ってみただけなのだった。そのへんがカワイイ。

 宿に戻り、少しのんびりしていると、窓からネパールの男の子が首だけ出して笑っている。僕はおぼえたネパールの言葉で話しかけてみる。すると友達を連れて来て、みんなで窓から首だけだして笑ってくれる。そのシーンはなんとも愛しいものだった。

 外に出て、ネパールの言葉をどんどん話してみる。中国ではだめだったけれど、ここネパールでは、面白いように、言葉が通じる。そしてとても人なっつこいみんななのだ。ずっと遊ぶ。なんて楽しいんだろう。

 さて9時になり、宿のチェックアウトをする。荷物を担ぎ、いよいよ出発だ。今日の夕方には、カトマンドゥに着いているだろう。ジャーマンのベンはあの大きな荷物を担いで、今頃どこにいるんだろう? ちょっと心配だ。僕らは、勢いを付けて、出発する。

 ネパール国境を越えて、電気も来ているというのに、途中の道は崩れ、車はまったく通れない。今日は相当歩きそうだ。山道で休んでいるとき、腰掛けた隣りに、見たこともない、黄色い花が咲いていた。5/28 ずっと電話のなかった友達から、大量の手紙が届く。日々のことが日記のように書かれている。以前は毎日のように電話をしてきた彼。おんなじなんだなぁ・・。

「バナナになった夢」5/30

 「おーい、待ってくれー」

 カンカン照りの下、崩れた川沿いを、荷物を担いで歩いて行くと、後ろから友達の声がした。昨日から、調子が悪くて、あまり食べてなかったせいもあるのだろう。ぜんぜん歩けそうないのだ。

 友達は、右に左に揺れて、ほんとグロッキー状態だ。荷物を ポーターの人たちに持ってもらったけれど、それでもダメらしい。顔はゆがみ、苦しそうな表情をしている。

 なんとか崩れた川沿いを歩ききって、道に出ると、一人のネパーリの兄さんが、「ドゥ・ウォント・カー? カトマンドゥ」ときいてきた。どうやら、ここからはもう、カトマンドゥに車で行けるらしい。しかしその料金は、バカ高い。友達は「プリーズ・ヘルプ・ミー・アイム・シック!!」と、本気で頼み込んだ。

 「オーケイ」お兄さんは、車の料金を、かなり安くしてくれた。本当はバスも出ているらしい。でも友達の事を考えると、これ以上は、無理はできなそうだった。僕らと、カナダ人のツーリストの三人で、車に乗り込んだ。せまい道には、いっぱいのネパールの人たちがあふれている。その中を出てゆく、運転手はとても誇らしげだ。

 日はまだまだ高い。僕らはもう、本当にへとへとになっていた。なだらかな山道を車は、下ってゆく。途中にお店屋さんが見えると、運ちゃんは「ドュ・ユー・ワント・ドリンク?」ときいてくる。見れば「PEPUSHI」の看板がある。僕らは、たて続けに二本飲んだ。カナダの彼は、運転手の兄さんにも一本あげた。

 みどりの山道を、車はすべってゆくという感じだ。すると後ろから、大きなバスが僕らの車を追い抜いていった。やっぱりバスも出てるんだと思ってみていると、その一番後ろに、なんとジャーマンのベンがしがみついていた。(ベン!!・・) 重たい荷持を持っていた彼も、なんとかなったようだ。僕はなんだか、泣きそうだった。カトマンドウで会おう、ジャーマンのベン。

 そして運転手が、一本のミュージックテープをかけてくれた。エコーのかかった、なんとものんびりとしたボーカルに、タイコやシタールがからんでいるサウンドだった。半分眠りかけで聞いてるせいもあるのだろう。どの曲の印象的で、心地良い。

 「ホワッツ・ネイム・ズイス・シンガー?」とたずねると、運ちゃんは「ベリー・ベリー・フェイマスシンガー。ユー・キャン・バイ・エブリーストアー!!」と言う。きっと、ものすごく有名なシンガーなのだろう。だって、こんなにいいもの。

 カナダの彼が、道のおばさんからミニバナナを買って、僕らにわけてくれた。車の窓からは、熱風が吹いていてた。かかっている歌のエコーのせいもあってか、バナナを食べていると、だんだん眠くなって、目の前が黄色くなってきてしまった。僕は、まるで、黄色い風が吹いていると信じてしまった。そしてそのまま、眠りに落ちた。もう限界まで疲れていた。

 そして僕は夢をみた。自分がバナナになった夢だ。黄色い風の中、走る車と一緒に、ネパールに溶けてゆく気がした。5/29 一日、今日はミニコミ「会議」の原稿書き。疲れると、SONG BOOKを開いて、唄ったりしてみる。中学の時から、そうだったなあと思い出した。疲労回復に一番いいね。「山越え・チベット編」は、一応、今日がラストです。ひと月どうもありがとう。

「黄色い風、バナナの夢」5/31


追いかけてくる、ネパーリの子供たち。
僕らはごめんジープで行くよ。
黄色い風、バナナの夢、
ここからは山を下りるだけ
 カトマンドゥで会おう、ジャーマンのペン。
 疲れ体を連れて、
 チベットを出たのは、もう三日前さ、
 山越えは、疲れたよ。疲れたよ。
黄色い風、バナナの夢を見た。
           町までの一眠り。


まぶたに浮かぶよ、チベットの朝が。
国境行きのバスを待っていた。
ジャーマンのベンは、超ド級の荷物。
クリームアイスの雲を超えるのだ。
 バスは走った。ヒマラヤの大地を。
 軍人宿でなんとか一泊。
 ラストのチャイナナイト。屋上に出れば、
 そこに一人、ベンがいた。ベンがいた。
黄色い風、バナナの夢を見た。
           町までの一眠り。


それは国境まじか、川沿い崖の道、
バスはこれ以上無理だと言った。
僕らは歩いた、ジャーマンのベンは、
どんどん後ろで遠くなる。
 カトマンドゥで会おう。僕らはお先に、
 国境越えた、バイラワの村へ。
 横文字の店には、電気が来ていた。
 冷えたファンタが、ノドに来た。ノドに来た。
黄色い風、バナナの夢を見た。
           町までの一眠り。


あれはまだ今朝さ、友達がダウン。
村の兄さんが、ジープを出した。
追いかけてくる。ネパーリの子供たち。
僕らはごめん、ジープで行くよ。
 あたたかい風の中、ジープはすべってく。
 インディアソングが眠りを誘う。
 途中でもらったバナナのように、
 これから、ネパールに溶けてゆく。
黄色い風、バナナの夢を見た。町までの一眠り。

追い越してった、乗り合いバスから、
            ジャーマンのベンが手を振った。

5/30 今日で、チベット編は、ラストです。山越えの所はちょっと長く書いてみました。カトマンドゥからは、一人旅になります。この山越えをきっかけに、旅も変わって行きます。お楽しみに。

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