青木タカオの「ちょっくら・おん・まい・でいず」  今月に戻る
過去ログ「インド・入口編」日記付き'01.7月


「インド一泊目」7/1

 予定よりもずっと遅れてバスは、夜のバラナシに到着した。

 インド一泊目。窓から見えているのは、すごい数のリキシャマンたち。それも駆け寄ってくる。出迎えをありがとう。さあ、もうひとがんばりだ。ギロギロっとした目が窓越しに「オレだ。オレだ」って言っている。

 屋根から荷物を降ろして、いよいよ宿探し。リキシャマンとの勝負が始まる。まず、僕の行きたい宿の名前を言えば、「そこは高い。やめておいた方がいい」と言う。しかしそれは嘘だ。「いいから行ってくれ」と言えば、今度は「30Rs!!」かかると言う。(何? ここから4キロくらいの場所なのに、30Rsだって) 。今、相場は1キロ、1Rs。

 「それはおかしい、せめて10Rs にしてくれ」と答えると、「オーケー。そのかわり、おまえは30分歩け」とか言う。なんだかそのリキシャマンとケンカのようになってしまったところに、もう一人のリキシャマンが来て、「よし、俺が行く!!」と言って、僕を乗せようとする。するとリキシャマンどうしで、今度は言いあいをはじめてしまった。

 「オーケー、俺はおまえが嫌いだ!! そして、あんたを信じる」とキッパリ言って、僕はあとから来たリキシャマンに乗った。すると「おまえは本当に少し歩かなければならない」って言う。どうやら歩くのは本当らしく、夜も遅いので、このバス停近くにある、有名な「ツーリストバンガロー」に5Rs で向かってもらうことにした。

 「その宿は高い、おれの知ってる宿にしろ」とか言い出す。(はぁ、またか・・)。「いいから、行ってくれ!!」そしてリキシャは走り出したのだが、さっと、乗り手が変わってしまった。変だ。ほんとに「ツーリスト・バンガロー」に行ってくれるか、確認すると、「オーケー。ツーリストXXXバンガロー・ゴー」「ノーノー。ツーリスト・バンガロー」とか言っているうちに、リキシャは到着してしまった。

 なんだかとても大きなホテルだ。そして「ツーリストXXXバンガロー」と看板に書かれている。受付にゆくと、恰幅のいいホテルのマスターが出てきた。「あのリキシャマンがここにつれて来てしまった」と言うと、「私が行こう」と言って、そのリキシャマンを一喝した。

 「おまえがよければ、15Rs の安宿を紹介するが行くか? 」とマスターが言う。ツーリスト・バンガローの方は今、ツーリスト・ホテルと名前が変わり、ここと同じ料金だと言う。これから疲れるのも嫌なので、とりあえず今夜は、ここに泊まることにした。70Rs。泊まりたかった宿の約三倍の値段だ。

 一人で泊まるには、広すぎる部屋に案内され、今夜はもうぐっすり眠ることにした。リキシャの交渉は疲れた。さすがにバラナシだ。 インド一泊目。なんとか横になることができた。しかし僕はこのとき、ホテルマンのオヤジに実はすっかりだまされていたのだった。6/30 とうとうインド編がはじまってしまった。これからが長いインド編だ。でももう三ヶ月間もこのシリーズを続けている。なんだかやっぱり旅をしているみたいだ。

「憧れのガンガー」7/2

 朝起きて、僕はホテルの部屋にあった大きなカガミで自分の姿を見た。

 ダボダボのズボンに、大きめなシャツ。なかなか似合っていると思う。旅をしているという感じだ。さあ、憧れのガンガーに行くか。ホテルをチェックアウトするために、カウンターに行くと、昨日の恰幅のいい支配人が、いろいろとバラナシについて教えてくれる。

 「オー、サンクス!!」お礼を言って、ホテルの外に出ると、一人のリキシャマンが待っていた。「ハロー!!」ガンガー近くの宿まで、いくらかたずねると、安い。「私はまじめなリキシャマンだ」と言った。昨日の話をすると、それはホテル側とリキシャマンが組んでいて、一人連れてくると、いくらかコミッションをもらえるのだと言う。

 (そうだったのか・・) ふと気が付けば、胸にさしていたボールペンがない。そうだ。さっきあの支配人にいろいろ教えてもらったとき、そのまま机に置かれたのだ。(こんなもんか・・) 僕はショックだった。真実はわからないが、どうやらすっかりだまされていたのだ。

 乗っているリキシャマンは言う。「わたしはずるい奴らが嫌いだ」そしてリキシャを急に降りると、一冊のノートを見せてくれた。「ズィス・イズ・マイ・フレンド!!」そこには、いろんな国の言葉で「このオヤジは信用できる」と書かれていた。困ったことがあったら何でも相談してくれと言う。俺はいつもあのホテルの前にいると言う。ははん。またこういう商売もあるんだなぁ。

 ガンジス河近くの道で降りて、リキシャマンは一人の男に声をかけた。「この男は信用できる。おまえはこの男について行け」と言う。そして細い路地をどんどんと進んでゆく。どこまで行くのだろう。そのうちまた、一人の男に声をかけ、「この男について行け」とまた言われてしまう。いったい宿とどこにあるんだろう。そして、やっと目指す宿の前にやって来た。

 「バクシーシ」心付けをくれと、その男は言う。しかたがないので、1Rsだけ渡した。はぁ。やっと着いた。シングルルームを15Rsで借りて、バラナシでの宿がゃっと決まった。扇風機付きの綺麗な部屋だ。部屋の外に出ると、ホテルの坊やが、いろいろとホテルを案内してくれると言う。シャワー室。食堂。そして屋上。「サンキュー」そうお礼を言うと、彼もまた「バクシーシ」と言って手を出してくるのだ。(これがインドか・・)

 落ち着いたところで、僕はガンガーへと散歩に出かけた。狭い路地に牛がいて、向こうに通れない。ふんもまた、いたる所で落ちている。そしてなんとかガンガーへと出た。広い沐浴場。これはいつか見た写真の景色だ。インドに来た実感が湧いて来る。予定では、ここにひと月いる予定だ。

 また細い路地を歩き、宿になんとか辿り着いた。一階の奥にある、宿のレストランに寄ってみた。受付のお兄さんがいる。「ホワット・ドゥ・ユー・ウオント?」ちょっとクルリとパーマのかかった、その彼と目と目があっと時、何かが走り、お互いに気に入ったようだった。こうゆう事はあり得る。あとあと、その彼と僕は本当に仲良くなった。今でも忘れられない。名前はサシーだ。

 「ユー・グッド・ジャパニーズ。グッド・グッド!!」彼は僕がとってもいい顔していると言う。調理場の方から、友達のインド人を呼んで、僕を紹介している。調理場の彼は僕の顔を見るたびに、受付の彼に「グーッド・グーッド・ジャパニーズ」と、うなずいている。僕はどうやら「お人好し」顔をしているのかもしれない。気を付けないといけないのかな。7/1 暑い。昼、何も出来なくなって、横になって、四時間ほど眠ってしまう。今年一番深い昼寝だった。外に出ると、即座にクラクラっとする。暑すぎる。どうなってるの?

「朝の彼は紳士」7/3

 まだぐっすりと眠っていた、午前3時。泊まっている宿の裏のお寺から、歌声が大声で聞こえてきた。

 ゴールデンテンプル・・。そこは、ここバラナシの中心になっているお寺だ。このホテルはその真裏にあり、大音量の響きをみごとに浴びてしまう。「毎朝、これかなぁ・・。今日だけかなぁ・・」

 そんなことを想いながら、またひと眠りして、目が覚めると7時だった。「よし、ガンガーに行ってくるか!!」昨日はもう終わっていたが、今日は沐浴が見られるだろう。ホテルの外の路地に出ると、まず驚いてしまった。路地がきれいに掃除されているのだ。

 (やるなぁ・・) そして、ガンガーに来てみると、沐浴している人もいるにはいたけれど、もう終えてしまった人も多いようだった。みんなきっと朝陽と共に、沐浴しているらしい。今度は6時に来ないとね。

 歩いていると、昨日、僕にしつこくいろいろと日本語で話しかけてきたおじさんと出会った。「ハロー、グット・モーニン!!」大声で、手を振っているその姿は、なんともさわやかで、とても紳士的だった。ビジネスはビジネス。その本心はとてもフレンドリーのようだ。

 何度か、ホテルに帰って、昼寝をしたりしながら、また出かけ、今日は一日ガンガー沿いを歩いてみた。有名な「クミコハウス」の前を通ってみる。また逆の方に歩いてゆけば、オレンジ色の炎をいくつも上がっていて、ここが焼き場であることもわかった。回りを取り囲んで、じっと座り込んでインド人たち。ここは通りすぎよう。まだ僕には、うまくつかめない。

 またさらにガンガーを歩いてゆく。恰幅のいいおじさんたちが、河で沐浴している。と言うか、あれは、遊んでいるんだな。一人が冗談を言うと、一人が大声で笑う。みんなお腹から声を出している。その声が遠くまで響いている。見ていると、なんだか可笑しい。

 知りあいになった日本人のツーリストと一緒に、ガンガー沿いに座っていると、子供たちが集まって来た。そしてヒンディー語を教えてもらった。まだ10才もいかない男の子だか、やっぱりお腹から声を出している。こんな子供が、さっきおじさんたちみたいにきっとなるんだな。

 後ろのビルディングで、二人のインド人の男が、僕らを呼んでいた。行ってみると、ヒンディー語を教えてくれると言う。熱心に一時間ほど、教えてくれたあと、「今、チャイを出す」と言う。バラナシでの、ふるまいチャイは危ないよって、何度も聞かされていた。睡眠薬の入れる悪人もいると言う。まあ、飲まないに越したことはない。僕らは帰ろうとして出口に向かった。どの扉も鍵がかけられていた。三カ所の鍵を開けて、やっと外に出られた。

 「なんだか、あぶなかったね」ホントの所はわからない。でも睡眠薬チャイは飲んだら終わりだ。実際、事件は起きている。まあ、初めだから、僕らが神経質になっているだけかもしれなかった。歩き疲れて、ホテルの部屋に戻ってくる。「ホワット・ドュ・ユー・ウオント? 」一階のレストランの彼は、微笑みながら声をかけてくれる。今日はちょっと疲れたよ。

 夜、横になりながらバラナシの人達のことを考えた。裏のゴールデンテンプルでは、相変わらず歌う声が聞こえ続けている。いろんな噂を聞かされるここバラナシだが、本当に悪い人は、ほんの一握りの人達で、その印象ばかりが、きっとクローズアップされているのだ。そのために、この街が見えなくなってはいけない。そう、心に思うのだった。7/2 街を歩いていると、そこに「レストラン・アラスカ」と言う店を見つける。いったいどんな店なのか? 入ってみたい。アラスカのメニューがあったりするのだろうか?

「銀行に両替に行く」7/4

 今日の仕事は、銀行に行って来ること。ここから約3キロ。歩いて行こう。

 ガンジス河沿いから2キロ離れてみれば、もう観光客ともほとんど会わなくなる。そして不思議な事に、歩いてゆく僕にほとんど無関心だ。いままで訪れた国では、どこでも振り向かれてきたのに、ここバラナシでは、ちょっと違うようだ。

 歩きながら、僕は、ある歌のフレーズを思い出していた。それは東京の路上で、よく友達が歌っていた河島英伍の「ベナレスの車引き」という歌の中の「通りすがりの旅人たちにはわかるまいがね、この街にはこの街の生き方があるのさ・・」と言うフレーズだ。

 東京で聞いていた頃は、ピンと来なかったが、実際、ここに来てみると、本当そんな感じなのだ。みんな、無関心と言うより、自分の事をちゃんとやっている。「見るなら勝手に見ろ、俺達は俺達の事で忙しい」そんな言葉が聞こえてくるようだ。僕はこの人々の中に入って行けるだろうか・・。

 最初に入った銀行では、両替は無理だと言う。そして両替の可能な銀行の住所を、書いた紙を書いてくれた。住所を見てもわからないので、リキシャマンに見せると「10ルピー」とか言う。どうも信用できないので、近くの露店の人にきいたら、二軒隣りの銀行だった。

 事務的に両替を終えたあと、僕はそしらぬ振りをして、銀行を出た。今ならお金をたっぷり持っているので、なんだか危ないような気がしていた。考えすぎかもしれない。歩いて帰るのも恐いので、僕はさっとリキシャをひろい、宿のあるガンガー沿いまで行ってもらった。なんとか両替は成功したようだ。

 お腹も空いてきたので、僕は食堂で、ターリーと呼ばれる銀のプレートの上にいろいろと乗っている定食を注文した。みんなもやっているように手を使って食べることに挑戦してみる。初めてなので、なかなかうまく食べれない。そのうち自然に手で食べられるようになるだろうか?

 ガンガー沿いを、それから今日も歩いてゆくと、ひとりのヒゲの日本人の旅行者にあった。どこかであったような人だと思ったら、彼はネパール・カトマンドウの「ストウンハウスロッジ」で知り合った人だった。「インド・バラナシで会いましょう」と小さな約束をして別れていたのだ。

 彼はコンクリートに座りながら僕に気が付いて、「また、会いましたね」と、軽く微笑みながら僕を見上げた。ヒゲのオ大阪の彼は、もうひと月、ここバラナシにいると言う。「居てしまいましたよ」と軽く笑う。そして「この街はジワジワっと来ますね」と言う。

 (ふーむ、そういう街なのかあ・・) ガンガーはいつも緊張があると言う。彼は彼なりのバラナシを見ているようだ。僕には、わかるようなわからないような。いったいどこからジワジワっと来るのだろう。ちょっと楽しみだ。7/3 夕方5時半にガス屋さんと部屋で待ち合わせをしているので、バイトを狂ったように終わらせ、それも駅まで走って、なんとか5時半に部屋に間に合った。しかしガス屋は来ない。会社に連絡するが、「そのうち来ますよ」って言う。8時になっても来ない。8時半頃電話があって、もう遅いので行けないと言う。あんまりじゃないか。

「シルク屋三兄弟」7/5

 夜明けから夜。ここバラナシはいつでもお祭りのようだ。そして今日は、本当にお祭りだったらしい。

 朝5時。いや、夜明け前の5時。今日こそ沐浴を見ようと、友達と宿を出てガンガーへと向かう。やっぱり思った通り多く人達が、沐浴をはじめていた。太陽がやがて、はっきりとゆっくりと昇ってきて、河はオレンジ色に染まってゆく。光りの強さが肌で感じられ、一日が始まりの実感がある。神聖な気持ちだ。そして今日もみんな忙しいだろう。

 リキシャマンたちのベルの音が響く、ゴドウリヤーの交差点の方へ歩いて行くと、自転車の乗ったガキが、僕らに話しかけてきた。とてもしつこかったが、友達は、ヒンディー語を教えてもらうと言って、ついて行ってしまった。そして夕方、僕が一人で歩いていると、朝に会った自転車のガキが、またやって来て、急に怒り出した。

 「おまえの友達はひどい、午後の3時にここで会おうと約束したのに来ない。チャイももう用意してある。おまえが、友達の代わりにチヤイを飲んでくれ!!」なんだか変な理屈だが、仕方なく一緒について行ってしまった。それがすべてのまちがいだった。ある一軒の小さなお店屋に入ってゆく。すると・・

 すると、兄弟だと言う背の低い男が「ナマステ、ナマステ」とか言いながら、手のひら合わせて迎えてくれた。「あなたは知っていますか、今日、バラナシはフェスティバルなのですよ」そう言われれば、いつもより露店が多く出ていたような気もする。「私の兄弟がシルクのデザインをやっている。どうかあなたに、そのデザインを見て欲しい。あなたは私のチャイを飲んだ。だから私の願いを少しだけ聞いて下さい」

 (なんだよ、結局シルク屋かぁ・・) 「ノー・アイム・ビズィー・ナウ」そう言って断ると、「今日はお祭りですから、どうか私のお願いを断らないで下さい。1分でいいからシルクを見て下さい。私をどうか幸せにして下さい。ナマステ」とか言う。また変な理屈だ。

 「オーケー・オンリー・ワン・ミニット」そう答えると、三人目の兄弟が出て来て、「私は日本人の好みを知りたい。これからシルクの柄を多く見せます。気に入った物を教えて下さい」と言う。そして約20枚くらい見せられ、その中から、二枚ほど僕は選んだ。「私は日本に行ったとき、電化製品を買ってきて、とてもみんなが喜んだ。あなたもインドでシルクを買ってゆけば、みんなが喜ぶでしょう!!」なに? 日本に行ったことがある? うそつけ!! 「ノー・ノー・ノー!!」

 「俺は帰る。一分の約束だ」とはっきりと断り、さっと立ち上がると、兄弟たちは僕のメガネを奪い取った。「買うまで返さない!!」とか言っている。ふざけるな!! 僕はメガネを奪い取り、彼らを押しどけながら店の外に出た。やっと解放だ。彼ら三兄弟は、店の前に並んで立っている。そして手を頭のところに持ってきて、回しながら、こう言ったのだ。

 「クルxxパー、クルxxパー」おまけに舌まで出している。いったい誰からそんな言葉を教わったのだろう。なんだか散々な目にあったような気がする。でもきっと、ついて行った自分が悪いのだ。気分はどうにも、もとに戻らない。そんな中、ネパールで会った日本の女のコに偶然に会った。「おいしいラッシーでも飲みませんか?」

 そして夜、みんなで屋上に座り、今日一日の事をいろいろ話した。沐浴で始まり、シルク屋につかまってしまった。 ここは毎日がお祭りのよう。夜空は星がまたたいて、とても美しい。「夜空は変わらないねぇ」と彼女がポツリと言う。そうなのだ・・。ただ下の街だけがちがう。7/4 いゃあ、暑かった。昼間、外歩きのバイトをしていると、フラフラになってしまう。風が吹いてくる。倒れそうだ。自分が歩いているんだか、なんだかわからなくなってくる。昼寝は必要だ。

「チャイ屋のハロー」7/6

 裏のゴールデンテンプルでは、なんだか一日中、歌が大音量で聞こえてくる。僕は、その向かいの、小さな白い部屋でダウンしていた。

 インドに入って、一週間目。とうとう原因不明の腹痛だ。熱はない。でも30分おきにやってくる大きなうねり。これでは水分もどんどんなくなってしまう。一日横になっていると、さすがに まいってくる。

 約三畳ほどの白い壁のシングルルーム。回る天井扇風機のあり、暑さを少しは和らげてくれる。15センチほどの、みどり色のヤモリが壁をつたっている。彼は気づくとそこにいて、なかなか動かない。まあ、無害だからいいか。

 部屋にずっと寝ていても、ひたすらに暑いので、外に散歩にゆく。熱はないのだから、大丈夫なのだ。と信じてみるしかない。やっぱりお祭りらしくて、町中のいたるところで、子供たちが、ペットボトルの中にバクチクを入れて鳴らしていた。今の僕には、それもぼんやりと聞こえてくる。

 ガンガー沿いに出て、コンクリートのガート(沐浴場) をフラフラと歩いて行く。ベガの人達が、寄ってくるけれど、片手を振って断るのが精一杯だ。オレンジ色の布を掛けられ、焼かれているガートに出る。今日で二回目だ。人々がその回りを囲んで座っている。

 この前は、それが淋しそうな光景に見えたのに、今日はなんだか、座り眺めるみんなが、少し憧れのまなざしで眺めているかのようにも見えた。そのカーストを生きて生きて、そして死んでゆく。この焼き場の光景を見ていると、死なんてものは、来世への扉のように思えてくる。まるで飛行場のようだ。

 またガンガーをゆっくりと歩いていたら、チャイ屋のお姉さんに「ハロー」と声をかけられた。その「ハロー」の声の響きが、とても僕の胸に伝わり、そして思わずチャイを一杯注文してしまった。言葉ではうまく表現出来ないが、その場から立ち去れなくなったのだ。

 商売上手と言えばそれまでだが、僕を立ち止まらせたことは本当だ。「ハロー」ひとつでチャイを売る、それは可能だ。チャイを飲みながら、僕はまた新しい旅に出られそうな気がしていた。7/5 今日はおかしな一日だった。いろんなものにぶつかってしまうのだ。そして次々つまずいてしまう。物を落としてしまう。頭をぶつけてしまう。忘れ物もしてしまう。だぶん寝不足のせいだろうけど、ひとつバランスが崩れるとこうなってしまうのか。

「熊さんとの一日」7/7

 ガンガー沿いを歩いていると、「おーい」と窓から僕を呼ぶ声がした。

 見上げれば、このまえ知り合った、ヒゲの熊さんが宿の窓から手を振っている。階段を登り彼の部屋に行くと、地図を見ながら、旅の話を聞かせてくれた。熊さんは陸路で中近東を抜けて来た人だ。インドにも何回も来た事があると言う。

 「長期旅行をするコツはだね、無理をしないで体に正直になる事だよ。甘いものを食べたいと思ったら甘いものを食べればいいし、肉が食べたいと思ったら、お金を気にしないで、肉を食べればいい。体が求める事には、そりなりに理由があるんだよ」

 なるほど、それはもっともだと思えた。熊さんに言われた、この言葉がその後の僕の旅行にどれだけプラスになったかは、そのときは気付かなかった。そんな熊さんと今日は、仏陀が初めて説教をしたとゆう「サールナート」へ一緒に出かけることになった。

 宿を出てバラナシの街に出る。オートリキシヤーのオヤジに声をかけ、値段の交渉をする熊さん。ヒンディー語をうまく使って、あっさりとやってしまう。途中で一休みしていると、ヒンディー語で「 チョロー、チョロー」(行け、行け)ってけしかけるのだ。僕なんかいつも、余裕もなくリキシャマンとケンカばかりしていて恥ずかしかった。

 サールナートに着くと、オレンジ色の服をまとった修行僧の「サドゥ」が僕らに近づいて来た。ふつうサドゥーと言ったら、威厳に満ちて近寄りがたい雰囲気をかもしだしているけれど、どうもそのサドゥは妙だった。そして僕らに言う「ハロー、マネーマネー」。熊さんが「あれはサドゥじゃないよ。ただの物乞いだよ」と教えてくれた。なんだかヘラヘラと笑うそのインチキサドウのおじさんは、憎めなかった。

 お腹もすいてきたので、一軒の食堂らしき店に入る。そこはメニューもなく、チベッタンのおばさんが、とても親しみのある笑顔で注文をききにきた。モモ( ギョーザ)があると言うので、二皿頼んだ。おばさんはカメからすくった水をコップで出してくれた。そこはおせじにも衛生的とはいえない店で、食堂というより、飯食いどころといった感じだ。

 「いける。いける!!」熊さんは、ギョウザのモモを美味しそうに食べて、僕にはまだちょっと飲めそうにないその水も、ゴクゴクと飲んでいた。ああ、僕はいつインドに溶け込めるんだろう?

 お寺の入口にはチベッタンのおじさんが立っていた。熊さんは、ちょっと道をきいてくると言って、おじさんにヒンディー語で話しかけていた。道をきかれたそのおじさんは嬉しそうに教えてくれて、「プリミレンゲ!!」と手を振ってくれている。熊さんは、どうやって話かけているのだろう? それはなんともうらやましいくらいだ。

 色鮮やかな仏像をひととおり見たあと、僕らはバラナシ行きのバスを待っていた。熊さんはつぶやくように、次のフルムーンはポカラにでも居ようかなって言う。熊さんは月といっしょに旅をしているのだ。そんな旅もいいなと思った。

 またバラナシのゴドウリアーの交差点に戻ってきた。熊さんは、ビリーとゆう、安い葉っぱのみを巻いたようなタバコを吸っていて、それに火をつけるために、露店の灯りで勝手に火をつけた。露店のお兄さんはそれをにらんでいる。いくらなんでも、ひと言断ってから、火をつければいいのに・・。

 熊さんは、火をつけたビリーのたばこを一本まずそのまま、露店のお兄さんの口に差し入れた。了解と言うように、首を斜めにするお兄さん。そして自分のビリーにも、火をつけたのだ。軽く挨拶をして戻ってくる熊さん。インドをこれからひとまわりしてくる僕だけれど、またここに帰ってくるときは、僕もあんなふうになれるだろうか? それは不可能のように思えた。7/6 やっと今週のバイトが終わる。今週はなんと言っても暑かった。土日が天国のように思えてくる。横になってると疲れが布団に沁みてゆくのがよくわかった。なんとか疲れを再利用することができないか本気で考えてみた。

「ゲンコツのメロディー」7/8

 いつものように散歩していると、道で人だかりがしていたので、僕もまたのぞいて見た。すると、若い男と、かっぷくのいいおじさんが、なにやら言い合いをしていた。それもポリスステーションの前で・・。

 どうやら若い男が一方的に悪いようだ。人垣の中、しばらく僕も見続けていると、そのかっぷくのいいおじさんが、若者の頭をゲンコツで、音がするほど思い切り叩いた。そしてシャツをつかむと、そのままポリスステーションに連れて行ってしまった。

 あの若者は理屈抜きで悪かったのだろう。僕にはあの厳しいゲンコツが、インドの魂のように思えた。法律や道徳ではなくて、インド人の中には、ひとつのスピリッツが貫かれているようだ。ああ、インド。僕もまた、ひとつのゲンコツで叩かれたような思いだった。

 そんなことがあった午後、ガンガーに沿った一本道をずっと歩いて行った。すると、向こうから、四人の男たちがやって来るのが見えた。それも何か担いでいる。一本道の後にも前にも、僕とその男たちしか道には見えない。やがてだんだんと、男たちが近づいて来た。そして一瞬見て、僕は理解した。

 四人の男たちが担いで運んで来たのは、オレンジの布に包まれたデッドボディだったのだ。きっとこれから、ガンガーの焼き場のあるガートに向かうのだろう。彼ら四人は棒を肩に乗せて担ぎ、それぞれ、片方の腕で拳を作り振り上げている。まっすぐに前を見て、大きな声で歌を歌っていた。

 その歌はひとつの同じフレーズの繰り返しで、力強く、そしてなんとも哀愁のあるメロディーだった。前の二人がまず歌い、それに答えるように、後ろの二人が答えて歌うのだ。古い古いメロディーなのだろう。それは長く歌いつがれて来た響きがあった。

 すれちがうのは僕しかいないのに、彼らはまったく気にしていない様子だ。力強く歌う彼らは、運ばれゆく人の友達だろうか? その表情は、しっかりと前を見て、とても勇ましい。ちゃんと送り届ける使命があるのだろう。握られている拳と足取りは、悲しそうではなく、むしろ誇りに満ちているようだった。

 僕の耳に、その歌声がハッキリと残った。体じゅうがジーンとしびれてくるのを感じた。死を越えている何かに、一瞬たしかに触れたようだった。長い一本道。その五人は、僕にゲンコツのメロディーをひとつくれた。7/7 吉祥寺のタイ料理店にて、おいしいトムヤムクンを食べる。高かったが、みんなで思い切って注文したのだ。ひと口飲む度に、おいしくて、クラクラっとしてしまった。タイおそるべし。

「その夜のUFO話」7/9 

 10月と言えど、ここバラナシの昼はまだまだ暑い。夜になると、ちょうどいい気温になり、僕らは、宿の屋上に出て涼みながら、いろんな話をした。

 毎日のように、屋上に来ていると、なんだか高校生の頃の放課後のような気持ちになってくる。東京から遠くはなれて、こんな日々でいいのかなとか思ってしまう。でも僕なりに勉強してるし、それもいいかな。

 同じ宿で仲良くなった、僕ら三人の中、ホント不思議な話が大好きな男がいた。彼は次々と話し続ける。もうひとりの彼女もまた、そんな話が好きだった。もちろん僕も。その夜もいつものように、三人で屋上に腰掛けて、夜空の下、不思議話を続けた。そしてとうとうUFOの話になった。

 「ねえ、知ってる? インドでは、UFOが多く飛ぶことで有名なんだよね」「またぁ、そんなこと言って。変わらないよ」「いや、ホントだよ。俺インドに来てから何度も見たって言う話を聞いたもの」彼の話は、いつもちょっと大げさなので、簡単に信じるわけにはいかなかった。

 「あ、UFOだ!!」話の途中で、彼が急に夜空を指差した。僕と彼女で、その指差す方を見上げると、薄白い光りがふたつ、サーと流れていった。ほとんど彼の話を信用していなかった僕らは、キツネにつままれたような気持ちだった。自信たっぷりと、話を続ける彼・・。

 「UFOの話をしているとね、ホントにUFOを呼んでしまうんだよ」そんな話をしている間にも、今度は三つの光りがサーと流れていった。「あ、まただ!!」これは・・何かおかしい・・。「人工衛星じゃないの」「そうかもね・・」そして、また光りが並んで流れて行った。

 「人工衛星ってあんなに飛ぶの?」そして続けて彼女が言う。「もしかしたら、ホントにUFO かもね。だってここはインドだし、何が起こっても不思議じゃないもの・・」そしてしばらく考えたあと、UFO信者の彼が静かに言った。「きっと、ここバラナシの上空は人工衛星の墓場なんだよ。そしてね、地球の自転の関係で、あんなふうに見えるんだよ」

 彼の推理は、ほぼ当たっているとしか思えなかった。「なーんだ、そうかぁ」そう言ってみたものの、僕ら三人の心の中では、本当に多くのUFOを見たと信じていた。(だって、人工衛星があんなにいっぱい飛ぶわけがない)

 「不思議なこともあるものだね」そう言って、また他の話を僕らは続けた。なんだか神秘の夜だ。いっそう深く話は進んだ。その間にも、白い光りはときどき真上を飛んでいった。そして、バタバタっと光りが揺れたように僕には見えた。「あれは、もしかしたら鳥かもしれない」すると、すぐさま彼が言った。

 「あれが鳥か!!・・・ト・リ・かもしれないな・・」今まで、疑問だったところが、それですべて合点がいった。夜、移動している渡り鳥が、街の光りを受けて光っていたのだ。やがてはっきりとその翼が見えた。「鳥だぁ・・」内心100パーセントUFOだと信じ切っていた僕らは、がっかりしたと同時に、なんだか可笑しくたまらなくなり三人で笑いあった。7/8 夜、池袋で、富山の垣ちゃんを深夜バスに見送る。バス停にいるみんなは富山の人達が多いのだろう。垣ちゃんは言う。「富山の若者は、はじけてないんすよー」そう言われると、そう見えてくる。なんだか不思議だ。

「馬場さんとの出逢い」7/10

 ガンガー近くの道で、リキシャマンに何かたずねている、日本人のおじさんがいた。

 何か困っているのかと思って、僕の方から声をかけると、安くて清潔な宿はないかとの事だった。「僕の所なんかいいですよ」「じゃあ、そこに行こうかな」そして一緒に、おじさんと細い路地を歩いて行った。

「インド何回目なんですか?」「何回目かなぁ・・」おじさんの名前は馬場さん。今思い出しても、忘れられない人だ。薄いアゴ髭と、小さなショルダーバックがよく似合っていた。あのとき、馬場さんに会って、僕の旅は何倍も豊かになったのだ。

 その日の午後、ガンガー沿いに座っていると、さっきのおじさん(馬場さん)が、「やぁっ」と言って話しかけてきた。馬場さんは、インド20年の旅行者だと言う。そしていろいろと教えてくれた。聞いたこともないような昔の話だ。

 「1960年にね、第一期海外旅行ブームが起こったんだよ。そしてその次に第二期が1963年にあって、俺はその時の生き残りさ。その頃はね、外国に持ち出せるドルには限界があって、みんなニューヨークで働いたんだよ」

 「バラナシはここ20年くらい何にも変わってないね。20年どころかインド人は何千年も変わってないし、この先もずっと変わらないさ。見てごらん。こんな生活は、宗教がないとやってられないんだよ。みんな来世に期待して生きているんだ」

 (ふーん、変わらないのがインドかぁ・・) 1963年と言ったら、1970年より7年も前だ。まだいろんな情報もなかった頃だろう。海外に行こうにも、お金を制限されていた時代。いろんなドラマが、もうそこにあるような気がした。そしてまた馬場さんは僕に言う。

 「誰のインド話も信じることはないよ。君のインドを持つことだね」僕は目が覚める思いだった。その言葉で充分な気がした。「インドの旅人には、ふた種類あってね。精神的な旅をしている人と、自由を求めに来た人たちだ。解放を求める旅は、僕はもう卒業したな」まだそんなにインドにいない僕でさえ、それは感じていた。僕は心の旅を続けて行こう。

 トレッキングの話題になったとき、僕はポカラで、ネパーリの友達が「ヒマラヤは、インドの続きじゃない。ネパールのものだ」と言っていた事を思い出した。馬場さんは「ヒマラヤはインドのものでも、ネパールのものでもない。ヒマラヤは誰のものでもないさ」と言った。そのとうりだと思った。

 話していると何人か、「パイサ、パイサ」と言ってやって来た。すると馬場さんは、素直にお金をあげていたのでちょっとびっくりしてしまった。僕はまだ、そこまで心が広くなかったのだ。馬場さんは言う。「乞食の人にお金をあげられるようになったら、インドも一人前だね」と。

 「インドは、タイムテーブル(時刻表)一冊持って、旅するのが一番面白いよ」と微笑む馬場さん。今日会ったばかりなのに、ずいぶんと長い時間がたったようだった。7/9 暑くて、毎日、ジュースとか飲んでいるせいだろうか、なんだか足がむくんでいる。靴がうまくはけない。ちょっとズボンもきつい。これはやばい。

「インドを楽しめる人」7/11

 インドに来て、すぐ楽しめる人と、なかなか馴染めない人とがいるのは、どうも本当のようだ。

 朝、宿の一階にある食堂で、ひとりの日本人の学生ツーリストに会った。メガネをかけて、ちょっと、ナヨっとした感じの青年だ。彼は僕に相談があると言う。その表情は真剣。

 「ネパールに行ったら、ゆっくりと落ち着けますかね?」・・。彼はバンコクからインドのカルカッタに飛んで来て、インド人全員が今、キライになったらしい。カルカッタに着いたとき、まずその汚さに驚き、人々の目付きが、嫌いになったと言う。そしてやっと入った少しまともな食堂で、適当に注文したら、豆のカレーが出てきたらしい。

 「そのカレーっていうのがね、豆だけのカレーで、カレーもまずければ、ごはんのおいしくないんですよ。おまけにスプーンなんてものなくて、手で食べろって言うんです」彼は、カレーを手でクチャクチャとかき混ぜているとき、(もう、耐えられない!!)と思い、夜は高級レストランで、ステーキをたべたと言う。それで、一日も早くインドから出て、ネパールに逃げようと、ここバラナシに来たってわけだった。

 「特にインド人の、あの目がキライ」そう繰り返す彼。噂では、インドの方で、ツーリストを追い出してしまうことがあると言うが、まさにこれなんだなって思った。カルチャーショックというんだろうなあ。僕には「とりあえずポカラとかいいよ」と、それくらいしか、彼に答えられなかった。

 かと、思えば、来たばかりなのに、すっかりインドを気に入ってしまうツーリストもいる。いつものように午後、ガンガー沿いに座っていると髪の毛の濡れている日本の女性がウロウロしていた。よく見れば、今朝、宿でチラッと見かけた女のコだった。「こんにちわー」

 「わたし、今、ガンガーで泳いじゃった」よく見れば、Tシャツが水着で濡れていた。沐浴なら、朝すればいいのに、彼女は単純に暑いから泳いだのだろうか? それても沐浴気分? 福島から来たという、K子さん。クルリとした長い髪に赤いバンダナがよく似合っていた。服が乾くまで、ガートに座って旅の話をしていると、次々と、インド人の男が、彼女に話しかけてきた。

 「私はシタールが弾ける、よかったら家に来ないか?」なんだか、そんな誘いが多くてしつこいので、僕らは結婚している事にしてしまった。するとインドの男はすぐ行ってしまった。「アハハハ」・・

 宿に帰り、また一階のレストランで、あのインド20年の馬場さんとK子さんの三人で、ゆっくりと飯を食べた。馬場さんはインドの宗教についてとても詳しくて、おもしろい話をいっぱいしてくれた。今日来たばかりのK子さんが言う「わたし、宗教の話ができて嬉しい」いままで、こんなふうに話した事がなかったと言う。

 「インド人の目がきらい」と言っていたあの彼は、明日にでもネパールに行ってしまうだろう。そしてK子さんは、とても楽しそう。インド20年の馬場さんと、来たばかりのK子さん。そして僕の三人は、それからとてもいい旅の友達になるのだった。7/10 あまりに昼間、ジュースを買ってしまうので、今日から凍らした麦茶を持ち歩く事にした。だんだんペットボトルの形に小さくなってゆく、凍った麦茶。これはいい。小さな冷蔵庫みたい。

「サシーの鼻歌」7/12

 泊まっている宿の、一階にはレストランがあった。名前は「EAST WEST RESTAURANT」。

 その受付をやっていたのが、、ニッコリといつも笑う、細面のサシーだった。 クルクルとした髪でその顔はほぼ黒い。とても懐かしい顔立ちだ。鼻にかかったような声で、英語の発音が全部、巻き舌のようになっていた。

 「ハロウ・マイ・フレンド。ハワ・ユー? ホワッドユウ・ウオント?」それが、なんと言っても、サシーのお得意の言葉だった。ノートに注文をサラサラとクネクネと書くと、奥の調理場に大きな声で言い伝えるのだ。その発音がまた独特で良かった。なんとゆうか、小さなアメ玉をほっぺにひとつ含んで、喋ってるような・・。

 朝・昼・夜と気が向けば、そのレストランに僕は寄っていた。サシーとは、会ったときから、なぜか気があった。「ユーアー・グトジャパニズ!!」何かお互いに感じるものがあって、はじめから知っている友のように思えたのだ。なぜだろう。サシーの言う冗談は、いつも決まっていた。ワンルピーのお釣りなのに、「ワン・タウジャンド・ルピス!!」と言うのだ。そんなサシーは喋るとき、いつも片手をちょっと上げるのだった。

 ある時、僕がインドの地図を眺めていると、サシーが一緒に眺めながら、大きく広げてその下の方を指差した。それはインドの南、ケララ州の場所だった。「ケエララ・イズ・マイ・カンチョリー。グット・グット・プレイス」サシーの生まれはケララ州で、とってもいいよって言う。ケララ州と言えば、ヤシの木が生えている、みどり豊かな土地だ。そして一年中、気温も一定してて、とても過ごしやすいところと書いてある。

 「リアリー?」「 シュウアー!!」ほんとだよってサシーは言う。僕も予定では、ケララ州に行くので、とても楽しみになった。サシーのあの独特の舌を巻いたような発音は、ケララ州の訛りなのだろう。その場所へ行けば、サシーのような男たちが多くいて、楽しそうに笑っていそうだ。

 ふと、気づくと、サシーはときどき鼻歌を歌っていた。その歌は、とてものんびりとしていて、今まで聞いたことのない響きがあった。おおきく波打つヤシの木が見えてくるようなリズムがあった。サシーにその歌のことをたずねると「マイ・カンチョリーソング!!」だと言う。

 サシーは、その鼻歌を歌いながら、心はふるさとに戻っているようだった。ヤシの木の揺れる下、木陰で休んでいる彼の姿が見えた。それは、そのままサシーの持ってる懐かしさに通じていた。7/11 夜、レコーディングのリハをする。その中に一曲、フインガーピッキングの曲があるのだけれど、なかなかうまくゆかない。思うように弾けない。やっぱり毎日ギターを弾いていないとだめだなぁ。

「おいで、バラナシ」7/13

 ゴドウリヤーの交差点から続く、にぎやかな道。そして見えてくるガンガー。少し入れば細い路地がそこに待っている。バラナシは、この三つの場所が、いいバランスでつながってて、なかなかあきさせない。

 早朝に流れてくる、ゴールデンテンプルの歌声にも、二週間もいると、さすがに慣れてしまった。昼は昼で、ガンガーを眺めながら、いつのまにかガートにぼんやりと座っている自分がいた。そこに座っていると、なにかしらいつも出会いがあった。ただ座っているだけでいいのだった。

 ネパールのカトマンドゥで会い、パラナシで再会したヒゲの大阪の彼は、まだこのガートに座っていた。「おや、まだバラナシに居たんですね」「そうなんですよ。この街は深くてね。もう二ヶ月半ですよ」・・。僕らはチャイを飲みながらいろんなバラナシの印象について話す。僕も彼も同じような旅を続けているようだ。

 「バラナシはね、とっても宗教色の強い街だと思うんですよ・・」と僕。「おっ、いいところに気が付きましたね。実は私もそう思ってるんですよ・・」と彼。ふたりとも、また他のインドの街に行ったことがないので、なんとも言えないのだけれど、ここバラナシは、インドでは一番のヒンズーの聖地なのだ。

 街を歩いていて、ふと気が付くと、歌のようなメッセージトーキングが、テンプルから流れ続けている。ゴドウリヤーの交差点でも、流れている。細い路地を歩いていても聞こえてくる。それは、インドらしい街の空気をかもし出していた。小さな土産物屋さんの並ぶ路地。そして、ひろいガンガー。それはきっと、いつか見た景色だ。

 ゴールデンテンプルの近く、細い路地を抜けてゆくと、その角のところに一軒のラッシー屋さんがあった。他のツーリストにも、そこのラッシーは美味しいよって言われていた場所だ。氷を混ぜて作ってくれるラッシーは、暑いインドには、もってこいの飲物だ。道に面した小さなスペースで、でんとかまえた、職人風のおじさんが作ってくれるのだけれど、これがうまい。

 そして、そのラッシー屋で注文をとったり、チャイを出している、弟子のような小柄な男がいた。彼はいつも、踊りながら、歌いながら、注文をとる。その踊りと歌は、とてもひょうきんだ。白いTシャツにまくりあげたルンギ(腰巻き) 。そんな踊る彼と、無口なおじさんのコンビ。それがまたいい味を出していた。

 怒られても怒られても、その彼は、踊り歌いながら、答えていた。その姿のなんとも可笑しかったこと。でも、そこのラッシーは、とにかく旨かった。

 おいで、バラナシ。ゴドウリヤーの交差点から来て、ガンガーの手前を左、その細い路地の奥で、きっと彼は、踊りながら今も待っている。そこのラッシーをぜひ飲んで欲しい。7/12 暑い。一日外にいると、変になって来てしまう。髪の毛が燃えるようだ。やっぱりこんな日は、麦藁帽子がベストだろうなぁ。でも、ここ東京ではあんまりいない。

「ビンドー氏の言ったこと」7/14

 バラナシのガンガー沿いガートは、毎日がツーリストとの出会いだった。ぼんやりと座っていると、何かひとつ荷物を担いだ、日本のツーリストが、広いガートの向こうから、初めてそうに歩いてくる。「コンニチワー」「あっ、コンニチワ・・」

 「飯でも食べませんか?」「いいとこありますか? なにしろ今日、来たばっかりで・・」バラナシは、たしかにインドの入口で、そんな旅人がいて、ひとつの雰囲気を作っていた。僕もまた、ここに来て、そうやって声をかけられたひとりだった。そしてもうちょっとで、三週間・・。

 僕の泊まっている宿はガンガー沿いにあり、細い路地を通り抜けて、その入口に着く。白くて、まだきれいな上に安く、宿の人もみんなやさしくて、この上ない場所だった。なんと言っても、一階のレストランで過ごす時間が、一日の内で幸せな時間だった。そこで話したいろんな話は、どれも忘れられない。

 宿の入口には、そこのマスターのメガネのビンドー氏が、よく座っていた。この宿全体が、そのビンドー氏の人柄のように、ひとつの優しさで出来ているようだった。一日、バラナシを歩いて帰ってくると。ビンドー氏が、笑顔と一緒に迎えてくれる。三週間近く、出入りしていると、心が通じあってくるのが、自分にもわかった。それも気に入ってくれているようだった。

 そんなある日、宿の屋上で、夕涼みをしていると、珍しくビンドー氏がゆっくりとやって来て、僕の隣りで話をしはじめた。

 「おまえは、とてもいいツーリストだ。他の日本のツーリストは、ガンジャ、ガンジャと言って、それにおぼれている。私はそんなツーリストはあまり好きではない。私はおまえをとても気に入っている。今年の12月、私はふるさとのケーララに帰る。よかったら、その時、一緒にケーララに行かないか?」と、たいへん親しみを込めて、ビンドー氏は僕に言った。

 とても嬉しかったけれど、時期的にどうしても、合わなくて、僕は一応、やんわりと断った。ビンドー氏は、「まあ、それもよい。気が変わったら、バラナシに戻って来い」と言ってくれた。夜風が涼しく、屋上に吹いていた。またゆっくりと、帰ってゆくビンドー氏。

 こんなことを言われたのは、初めてだった。レストランのサシーも僕の事を気に入っているし、それはどんなふうに「グット・ジャパニ」なのかは僕にはよくわからない。でも、ここバラナシでの日々はとても楽しく、まるで毎日が心の冒険のようだ。宿を出て、また宿に帰ってくるたびに、自分が新しくなってゆくような、気がしていた。僕の旅はそれでいい。7/13 外に居ると、とても暑く、髪が燃えるようだ。自動販売機の前で、スポーツドリンクを飲んでいて、あまりの暑さに、頭のてっぺんから、少しかけてしまった。それは失敗。ああ、髪の毛が・・。

「沐浴の朝」7/15

 明日には、僕もバラナシを出てしまうので、早起きして夜明けと共に、ガンガーで沐浴をすることにした。

 朝5時前、まだ宿の人も全員眠っている。僕は、大部屋で眠っている何人かを起こして、扉の鍵をお願いした。「ノー・プロブレム。ノー・プロブレム」そう言いながら、眠そうな目をして鍵を開けてくれる。ありがとう・・。

 さあ、行こう。いつもいつも眺め続けていたガンガーでの沐浴を今日は、自分でやってみるのだ。適当なところでパンツ一枚になって座り、しばらくガンガーを眺めてみる。神聖な気持ち。もう祈る事は、昨夜の内に決めておいてあるのだ。やがて朝日が昇ってきて、僕もインド人と一緒にガンガーに入った。思ったよりもぜんぜんあたたかい。

 僕も手を合わせて、目を閉じて祈る。今までのこと。新しい自分のこと。もう今日で生まれ変わろうと、頭まで全部もぐってみた。隣りのインド人は、沐浴はいいだろうって言って微笑んでくれる。沐浴をしているあいだは、インド人と心が通じあえてるような気がした。

 目の前を、日本の観光客を乗せた船が通り過ぎていった。カメラを構えて、沐浴を撮ったりしている。同じ日本人の僕と目があって、なんだかおかしな気分だ。また別の船では、20人くらいのインド人の女性が乗っていて唄いながら、通っていった。船を漕ぐ、船頭さんだけが男だ。昇る朝日の中、その船と、女性の歌声は、時を超えて変わらないような気がした。その歌声の響く船が通るたび、胸が震えてしまった。

 沐浴を上がったガートでは、ひとつのたき火を囲んで、やっぱり20人くらい女性たちが、唄を歌っていた。みんな生き生きと歌っている。驚いて眺めている僕に「あれは神様との結婚なんだよ」と教えてくれたインド人がいた。なんとも神秘的な事を当たり前のようにやっている、それがバラナシだと思えた。その光景もまた、時間のない時間のようだ。

 とても満足した沐浴を終えて、僕もまた宿に戻ってゆく。一応、生まれ変わったつもりだけれど、さてどんなものかな。でも、街を歩く僕の足は、とても軽い。いつもは、うるさいなぁと思っていた、テンプルの説教や、流れ続ける歌が、今日はなぜか、とても心地よく聞こえてきた。7/14 今日は「兄弟」のレコーディング。4年振り。その気分は、変わらない。ジュースを飲んだり、おにぎりを食べたりと、リラックスする。フィンガーピッキング録音を初めてする。これは、大変だった。一回で弾けたけれど・・。

「おまえのポトを置いてゆけ」7/16

 おとといの夜、屋上で、この宿のマスターのビンドー氏が僕に言った。

 「おまえがこの宿を出るとき、何かひとつおまえを思い出せるものを置いていってくれ。もちろんポトでいい。それはなぜかとゆうと、おまえは他のツーリストと違うからだ。多くの人がこのホテルに泊まり、そして出てゆく。その中で、おまえをとても私は気に入っている。これはおまえだから言うのだ。どうか、おまえを思い出せるポトを置いていってくれ・・」

 そして今日、僕のバラナシ最後の日はとても明るい気持ちでやって来た。昨日の朝、沐浴をしたせいもあるのだろう。旅の今まで一番長く居たバラナシ。歩く慣れた路地を行く自分が、なんとも好きだった。ここはインド。

 洗礼のように、次々とうまくだまされた最初の日々。でもそれも、ひとつの車にインドと乗り合わせたみたいなもので、こうして、牛で通れない路地を楽しめるのも、きっとその続きなのだろう。この三週間の自分の変わり様ときたら、ちょっと言葉では言えないくらいだ。人生には、こんな三週間もある。

 ラストデイはいつも、街をひと巡りゆっくりと歩いてきた。テンプルの説教トーキングが今は、ちゃんとしたミュージックに思えてくる。日に日に好きになっていったこのバラナシ。初めは気が付かなかったけれど、街全体が、ヒンドゥーの空気で満ちているのだ。じわじわっとそれは感じて来た。

 今日、僕が宿を出ることは、みんな知っていて、調理場のおじさんは、朝から何度も「もう一回来るんだろう!!」と僕に言っていた。夕方、荷物をまとめて、いつもの一階の「EAST WEST RESTAURANT」に寄った。注文受け係のサシーに会って、しぱらくゆっくりと話す。サシーは6人兄弟の一番下だって言う。

 「アイル・ゴー・トゥ・ケーララ!!」サシーのふるさとの南インドのケーララ州に、行くよって言うと、サシーは嬉しそうに、「いいなぁ」って答える。そして僕の国「日本にも行きたいよ」って言った。

 そして時間が来て、宿のマスターのビンドー氏に僕は、約束通り一枚の写真を渡した。入口で、手を振ってくれる、サシーとビンドー氏。それから調理場のあのおじさん。サシーはなんだか小学校の時の友達のようだ。サヨナラの声は小さい。でもそれでいい。

 初めてバラナシに来たときのように、またリキシャーに乗って、駅まで走って行く。あれは、もうずいぶん前の話のような気がする。いろんな事があった。そして僕のポトを一枚、ここに置いてゆこう。また会う日もきっと来るだろう。

 リキシャーが駅に着いたとき、僕は50パイサ多くあげた。ありがとうバラナシ。いつも街に流れていたテンプルのメロディーを、おみやげに持っていこう。7/15 昨日のレコーティングの疲れか、一日、何もできない。街を歩いたりするけれど、体じゅうの力が入らない。まるで魂の袋のどこかが、破れていて、外の空気とつながっているようだ。ホントに。明日には、元気になれるかなぁ。

「10 DOON 急行列車」7/17

 カルカッタ行きの「10 DOON.Exp」の列車を僕は待っていた。とりあえず、今は一時間半遅れ。

 ここはバラナシのホーム。いろんな人がいる。お金がありそうな人。お金のなさそうな人。そして牛。牛? さすがインドだなぁ。僕はちょっと待つ疲れてしまった。自分の大きなリュックをまたいで座っていた。それにしても、みんなのんびりしているなぁ。

 インドの列車事情については、よく知らない僕だったが、聞いたところによれば、一時間半なんて、遅れているうちに入らないという。そのうち放送が入り「10 DOON」の列車は、ホームが変わったと言う。さて、いよいよかな。一人旅の初インド列車だ。

 自分の持っている、寝台のコーチナンバーが、まずどの車両なのかが、ホームに貼り出されている。そしてその車両に行くと、列車に座席のナンバーが書かれていて、自分がどこの席なのかわかるというのが、一応知っているマニュアルなのだが、どんなもんだろう。さあ、列車が入って来た。

 まず、自分の乗る車両ナンバーを探さなくてはならない。コーチナンバーを目で追ってみるが、まずその車両がない。ホームの駅の人に聞くと「このコーチナンバーはチェンジした」と言って、紙にナンバーを書いてくれた。僕は重い荷物を担いだままで、またホームを走り、そのナンバーを探してみるけれど、やっぱりない。また人にきく。そんなことをしているうちに、列車は音もなく走り出してしまった。

 そばにいたインド人が、僕に「ノー・プロブレム・ユー・ゴー!!」と言っている。あわてて、列車に追いかけながら、飛び乗った。あぶないあぶない。こんなんでいいのだろうか。

 汗だくになって、座り込んでいると、二人のインド人がやさしく声をかけてくれた。事情を説明すると、「このコーチナンバーは、ラストの車両だ」って教えてくれる。レンルロードマンらしき人にきいても、そうだって言う。助かった。ひと安心したところで、僕は持ってきたリンゴをかじった。本当に疲れた。

 次のトレインストップにて、僕はホームに降り、ラストの車両に行った。しかしやっぱり僕の席はない。何人ものインド人にきいてみてもわからないって言う。もうしょうがないので、勝手にスリーパーシートの車両に乗り込もうとすれば、駅員に怒られてしまった。

 「このシートナンバーがないんだよ!!」と怒って僕も答えると、駅員は「この車両ナンバーは、また変更になった」と言った。いったいどうなっているんだ。半分あきらめながら、スリーパーシートの車両にゆくと、そこにちゃんと僕の席が空いていた。

 (そうか・・。ラストの車両にゆく間に、必ず見つかるってことだったのかも・・) そんな事を思いながら、僕はやっと硬いスリーパーシートに横になることができた。荷物を鍵で結び付けて、目を閉じてみた。下の席では、インド人が大きな声でトランプをしている。中国の人民列車とはまた違う感じだ。

 窓は小さく、あまり風も入らない。ライトがすぐ上にあって、額に汗をかいてしまう。ここはインド、インド、インド・・。なんだか少しホームシックになってしまった。7/16 毎日、外を歩いている。10時半までは、いつも元気だ。暑くても、ドリンクなんていらないなぁとか思えてくる。で、一本飲むと、そこからが、急降下・・。またドリンク地獄に・・。

「カルカッタ・イン」7/18

 結局、ほとんど列車では眠れないまま、朝になってしまった。

 「チャーイ・チャーイ」と売り子のやって来る声。僕はひじょうに喉が乾いてしまい、ついつい手を伸ばしてしまう。続いてやって来る、「コフィ・コフィ・コフィ」の声。これもまた美味しそうだ。コフィと言っても、インスタントコーヒーにミルクをたっぷり入れたような味。でも、とっても熱くて、ホント喉にこたえた。オイシイ・・。

 カルカッタ・・。生と死の入り混じった街と、その昔は言われていたとゆう。貧困と飢え。僕の中では、そんなイメージがあった、カルカッタだったが、実際に来てみると、ここは大きなビルの並び建っている都会だった。

 駅を降りて、まずコールドドリンクを飲む。もちろん沁みるようにうまい。バラナシで熊さんに教えてもらったように、長旅のコツは体に正直にしていることだ。そうだ、その通りだ。駅で四時間も待った後、ホテルのあるサダルストリートを目指して、リキシヤマンに声をかける。ここカルカッタでは、リキシャは自転車ではなく、ほんとの人力車だ。きけば、値段が高い。それは、足で走るせいだろうか。20人くらい断って、結局、バスに乗って行くことにしてしまう。

 マップが無くても、行きたい場所に、行ける自信がなぜかもうあった。ギュウギュウのバスの中、どこで降りていいかもわからない。わからないけれど、大丈夫だ。隣りのインド人に、降りたい場所を伝えると、彼は無言で、しっかりとうなずいてくれた。それはプライドある男の約束という感じだった。

 窓から見えてくる、カルカッタの男たちは、バラナシとは違い、ズボンをはいている人がほとんどだ。そしてとても忙しそう。やがて隣りの男が、ここだってうなずくので、僕は荷物をひっぱりながら、なんとかバスを降りる。さて、カルカッタだ。安ホテルの集まっている、有名なサダルストリートを目指して、何人もに道をききながら歩いて行く。

 いろんなドラマが生まれるとゆう、サダルストリートは、なんとも普通の道だった。名前のひとり歩きかぁ。そこには「ホテル・パラゴン」とゆう、旅人の間では、とても有名な安宿があり、僕もそこに泊まろうとは思っていた。そして、ドアをあけると、10人くらいの日本人がいたので、やめてしまった。そのまま隣りに見えた、まだ新しい宿のドミトリーに決めた。ふーっ、やっと荷物を降ろす。

 「ハロー」10人ほどのひろいドミトリー。まだきれいな部屋だ。日本のツーリストも何人かいた。まるでここに住んでいるかのような人もいる。みんなこのカルカッタの何を見にやってきたのだろう。インドの大都市ではあるけれど、まだ僕にはつかめない。バラナシとは違う。さあ、また旅のはじまりだ。7/17 夜、アパートの前の道を歩いていると、いつものおばさんがとだんなさんが、遠い空をふたりで見ている。なんだろう。UFOでも飛んでいるのか。まさかなぁ。僕も振り返って夜空をみるが、何もみえない。「んん、たしかにカミナリだ!!」そして、30分後には、どしゃぶりになったのだ。

「彼のストーリー」7/19

 カルカッタ初日、街を歩いていて、ひとりのおじさんに声を掛けられた。私は銀行員だと言う。とてもわかりやすい英語で、おごるから喫茶店に行こうって誘われた。

 バラナシでのこともあるので、少し心配もしたのだけれど、特に商売の話でもなさそうだし、一緒についていった。シンプルな喫茶店。彼は一方的に話す。今は銀行に勤めているけれど、その前は航空会社にいたという。それも20年。娘も今年で20才になると言って、写真を見せてくれた。他の思い出の写真も・・。

 彼は前の席に座っていた、一組の夫婦に話しかけた。まるで境がないように。カルカッタは良い街か悪い街かという話題で、夫婦は「カルカッタは良い街だ」と言ったら、おじさんは「本当の事を言え、カルカッタは悪い街だ!!」と言った。そしてとうとう言い合いになってしまった。

 結局、前の夫婦は、カルカッタから出たことがないので、わからないから、「あなたも正直者、わたしも正直者」ということで、よいということになった。僕は、そんな話題を本気で話せる彼らの姿は、とてもよかった。

 外に出ると、おじさんはちょっと寄りたい所あるという。今日は奥さんにサリーを買って帰るらしい。お店屋さんにて、次々と出されるサリーを見てゆくおじさん。お店の人が、僕にビールを出してくれた。サリーの柄っていろいろあってびっくり。おじさんは、サリーを次々と選んでゆく。

 おじさんは四枚くらい、買ったかなぁ。包んでもらっているあいだ、僕に「もしサリーをおみやげに買うのなら、ここで買うと良い。ここは信用できる店だ」と言った。ビール代を払い、おじさんと僕は、外に出た。おじさんは住所を紙に書いてくれた。そして、お別れをした。おじさんは言う。

 「ユー・ ウイル・ゴー、アイ・ウイル・ゴー、OK、ノー・プロブレム!!」そっけない別れだったけれど、カルカッタの人の考え方が少し見えた気がした。今日の事を考えながら、半分酔っ払って、僕は宿へと向かった。やっとサダルストリートに戻ってきた。もし今回の事が本当に親切心からだったのなら、インド人もおもしろいなって思った。7/18 夜、また今日も、信じられないほどの雨が降る。外にも出られない。草や花たちも大変だ。一時間ほどで、また上がってしまう。外に出てあるいてみる。しめったアスファルトの気持ちいいこと。

「カルカッタ二日目」7/20

 ふと、気が付けば、カルカッタの人達はバラナシの人達と、顔が違っていることがわかった。そうだ。よく考えれば、ここはベンガル系なのだ。人が違うのだから、バラナシと比べてはいけないな。

 カルカッタ二日目。今日から街へ出かけてみよう。少し風邪をひいていたけれど、宿を出た。サダルストリートで、小さな子供が、顔をゆがめながらしゃがんでいた。どうやら下痢をしているらしい。「うーっ」と、通かかる僕を見上げている。がんばれよ!!

 広い道路とビルディング。車の通りが激しくて、どうやって道向こうに渡っていいのかわからない。信号がないのだ。サリーを着たお姉さんたちが、車の隙間をぬうように、歩いて行った。なんとも危ない。でも、そうやってしか渡れないのだ。それにしても、どうやってこんなに大きな街を作ったのだろうと思う。これもベンガル人のパワーか。

 銀行に行き、両替をしてくる。パスポートを見せるだけで、パッパとやってれた。今まででいちばん楽な両替だった。今日はこれから、プラネタリウムを見に行こう。有名なインディア・ミュージアムにも寄りたいな。

 道を黙々と歩いてゆく人達。建築現場の裸足の人達。道の真ん中で、なぜかけいれんしている、乞食の人と思われる人。いたるところで、生ゴミが積み重ねられ、異臭が鼻をついている。立ちしょうべんをしている男もよく見かける。カルカッタでは、いろんなものがゴチャゴチャと一緒になっているようだ。そして声もなくざわめいている。都会のルールを守りながら、自由と不自由さがが半分ずつあるようだ。

 プラネタリウムに到着。説明の英語バージョンと、ヒンディ語バージョンがあり、僕は英語バージョンを待つことにした。2時間半後。どうやって暇をつぶそうか。とりあえず歩き続けることにした。小雨。朝の子供ではないけれど、お腹の調子も悪く、風邪もひいている。中国、ネパールではあんなに元気だったのに、インドに入ってから、どうも体調がもうひとつだ。早く元気になりたいなぁ。

 さて、待ちに待ったプラネタリウムに入場する。丸い円の下はうっすらとオレンジ色が、夕焼けか、朝焼けか、街の影を映していた。よく見ると、それはインドの街の影になっていた。ムスクがある。寺院がある。そして流れている音楽は、のんぴりとしたシタールだった。

 お腹も調子わるく、鼻水も止まらない。でもこのシタールの流れるプラネタリウムの、なんと幸せな事。インド訛りの英語の説明はよくわからなかったが、何を言ってるかは想像できた。「がんばれよ、青木くん。ここにしかないものがある。ここから見えるものがある。どこの街ともくらべてはいけないよ」そんなふうに、言っていたように思う。7/19 先日、レコーディングした「兄弟」のラフミックスを聞く。15年くらい前の歌が、とてもいい感じで、録音出来ていた。まるでいつかのカルピスウォーターの復活のようだ。

「ヤシの実ジュースパワー」7/21

 友達は、疲れたときは、やっぱりこれだよって言っていた。

 カルカッタの街なか、一段高いところにあぐらをかいて、ヤシの実ジュースを売っているおじさんがいた。バラナシでは飲む機会のなかった、ヤシの実ジュース。さあ、飲んでみよう。

 「ハロー、ワンプリーズ!!」すると、おじさんは何か奇声をひとつ上げながら、ナタを振り、スパスパスパッとヤシの実の頭をカットした。それのなんとも手際の良かったこと!! そして「よけろ」という仕草と共に、小さくナタを先をヤシの実に差した。ピシューと、勢いよくヤシのジュースが飛び出した。

 まだ新鮮という事なのだろう。おじさんは「どうだい」って顔をしている。僕にとっては、生まれてはじめてのヤシの実のジュース。うまい。飲んでみると、体が生まれ変わるような気がしてくる。なんだか、元気になってきた。ヤシの実売りのオヤジ、ありがとう。目が覚めて来た。

 そのまま僕は、カルカッタの街をどこまでも歩いてみた。僕のいるところからずっとまっすぐに歩いてみた。イギリス風の古い建物。そしてどこにでも、あふれている人たち。この感じは、まるで上海のようだ。数ヶ月前に上海を歩いたいた自分を思い出した。

 あの時もそうだったけれど、僕の事なんて気にしていないかのように、みんな忙しくしてて、それが街の活気を感じさせてくれた。ずんぶんと来たけれど、まったく街の賑わいが変わる様子がない。商店がずっと続いている。僕は歩きながら、こんなことをことを思っていた。

 あのヤシの実売りのオヤジさんも、この街の景色も、写真に撮ったらきっと、生き生きと写っているに違いないと思った。みんな自分の時間に一生懸命なのだ。歩いてゆく僕のことなんて関係がない。それがいい。それでいいのだ。通りかかるバスは、人でいっぱいだ。しがみついている人もいる。

 帰り道、僕はひとつのイメージを思い浮かべていた。カルカッタの街は、まるで新鮮なあのひとつのヤシの実のようだなって。7/20 祭日。とにかく眠い。一時間と起きていられない。自分がどうしてしまったかと思えるほど眠い。一週間、ずっと晴れっぱなしだった。なんだか体の中で雨が降っている。

「世界のへそに座る」7/22

 カルカッタに入ってから、ずっと体調が良くなかったのだけれど、昨日知った、ヤシの実ジュースが良かったのか、今日は体調が戻ってきた。やっぱり元気な体はいい。さあ今日も遠出してみよう。

 とにかく広い街なので、歩いても歩いても、まだ歩く所がある。今日はカルカッタ出身の詩人「タゴール」の博物館に向かってみた。何十人もきいたけれど、どうしても辿り着けない。クリスチャンの人に声を掛けられ、なんとか博物館に着けた。

 クリスチャンの人も、別れ際に僕に「家に遊びに来てください」と言った。そう言えば毎日、「家に遊びに来てください」とカルカッタでは言われている。初日のあの銀行員の人も、本当に親切だったような気がしてきた。ほんとにそうなら悪いことをしたなぁ。

 詩人タゴールの彫像の前に立っていたら、だんだん「詩」のことを思い出して来た。旅に出て、もうずっと忘れていた感覚だ。僕は詩を感じるために、旅に出ると言う目的もあったのだった。タゴールは写真がとても良かった。僕もあんな瞳で、カルカッタの街を歩いてみたいなって思った。

 外に出ると、なんだか今までの 風景と違って見えてくる。これもタゴールの影響だろう。歩調もゆっくりになっている。見つめる景色が、詩の言葉になってやって来る。いったい自分はどうしちゃってたんだろう? 何処に歩いてゆくと言うわけではなく、たださまようように歩いて行った。

 大きな交差点のところに、ちょうど座わるのにいい石があり、僕は座ってみた。なんだかとても落ち着く。ちょっと離れた所には、ボロボロな服も人もいる。ひろーい道路に、行き交っているバスや、車、オートバイにリクシャマン。目の前を通ってゆく多くの人々。この場所を中心に世界がひろがっているような気がしてくる。

 ちょうど僕の腕時計は、世界時間が表示されるので、各地の時間を眺めては、あれこれと考えた。日本の友達の事。今まで通ってきた旅の先々の事。聞こえ続けている交差点のホーンの音。行き過ぎる車をよく見れば、みんなバックミラーなんてないじやないか。

 カルカッタの人達もまた、ここをなにげなく通り過ぎ、歩いてゆく。それは、切り取られた一日のワンシーンのようだ。この石の上は、まるで世界のヘソのよう。世界中とつながっている。そんな実感があった。7/21 今日は、ひとりで軽く食べたあと、友達と夕食をのんびり食べ、帰ってきてから、また何も食べていないという友達と食べに出かけた。変な夕食。

「映画・赤ひげ」7/23

 街角のポスターで、僕は「AKA-HIGE」の文字を見た。CINEMAだ。

 ここカルカッタにも映画館があり、今夜は日本の「赤ひげ」を上映するのだ。それも今日で最終日。僕は偶然、ポスターで見つけ出かけて行った。「赤ひげ」は山本周五郎の原作。監督は黒澤。僕の大好きな映画だった。

 夜、映画館に到着する。人でいっぱいだ。たしかサーピスデイだったと思う。そして今日、当日券はないと言う。でもどうしても見たい。日本の映画だもの。僕は見たい。それも大好きな「赤ひげ」だ。

 集まるみんなの中をうろちょろしてみるけれど、今日に限って、誰も声をかけてくれない。ああ、映画が始まってしまう。ほんとに困っていると、ひとりのインド人が、日本語で話しかけてくれた。

 僕は「どうしても、この映画が観たい。でもチケットがない!!」と伝えると、その彼はあっちこっちときいてくれて、チケットを譲ってくれるという人を見つけて来てくれた。「オーケー、アイル・ギブ・ユー」僕はお礼に、日本の五円玉を、彼にあげた。すると、最初の彼が「俺がもらう」とか言って、そのうちどんどん人が集まって来てしまった。僕はそんな中、こっそりと映画館の中に入った。

 もう「赤ひげ」は始まっていた。大きな映画館。僕は自分の席にやっと座る。音声は日本語のままで、字幕が英語だ。白黒フィルム。江戸時代の話だ。日本語が響いている。ここにいる 日本人は僕だけじゃないかなぁ。登場する人達の顔の表情がとてもよく伝わってくる。ここはインド不思議な気分だ。

 面白いのは、インド人は受けるところが、日本と違うのだった。チャンバラのシーンとか、大受けだった。暗い貧乏話には、まったくの無反応。インドでは、当たり前なのかなぁ。映画は進んでゆく。僕は何度も目がしらが熱くなってしまった。

 日本人の女のコのきびきびした動作。照れる表情の男の子。そんななにげないシーンで、懐かしさを感じてしまう自分がいた。微妙な、ニューアンスのいいまわしとか、伝わっているのかなぁと思った。

 もう生きることをあきらめようとした貧乏家族の、その息子が、いつもお世話になっている飯屋さんのお姉さんに最後、会いに行くシーンがあった。

 「ねえちゃんはきれいだ。そこを動かねえでくれ!!」結局、家族は助かるのだけれど、僕には、彼の言った言葉が胸に沁みた。映画館が大きいぶんだけ、スクリーンの大きいぶんだけ。受け止めるには、僕ひとりでは足りなかった。

 映画が終わり、外に出ると、野っぱらに座って、映画好きのグループと思われるみんなが、いろいろと、あちこちで話していた。「赤ひげ」はそれなりに伝わっていたようだった。7/22 友達と、日曜の朝風呂にゆく。それにしても、湯船の温度が熱い。ぜんぜん入れない。ああ、一緒に風呂に入ってのんびり話すという、幸せな時間が作れないなんて。悲しすぎる。

「BAHRAT・バーラット」7/24

 ひとりのインド人が、ひとつの事を教えてくれた。インドの本当の呼び名は「BAHRAT・バーラット」だという。

 「BAHRAT」そう発音してみると、なんともインドらしい響きがある。「インディア」と言うと、なんだか世界トラベル百科の中の言葉のようだ。「バーラット」の方が、インドのパワーを感じる。

 カルカッタの朝。パンを買いに出かける。一日の始まり。忙しくしている人たち。何もかも輝いているように見えた。タプタプに水の入ったバケツを両手に持って、よろけながら早足で歩いてゆく子供を見た。そのキビキビした動作。そして、その生き生きしている瞳・・。

 バラナシで会った、あの学生はカルカッタのインド人の目が嫌いって言っていた。でも、最近思うのは、カルカッタの人たちの目がみんな生き生きとしていると言うことだ。どんな生活をしていても、パワーがあり、それなりに一生懸命だ。道を歩いても歩いても、同じように活気のある道が続く。

 ひとりの大道芸のおじさんを見た。おじさんと言うより、もうおじいさんに近い。その芸は、火を付けた三本の棒を交互に、投げ上げたり、鉄のリンクの中に体を通したりするだけなのだ。「ワン・ツー・スリー。ワン・ツー・スリー」通りかかる若者が、「ワン・ツー・スリー」の口真似をしている。「彼はベリー・オールド」だって、僕に教えてくれた。

 見ているみんなも半ばあきらめているようだ。こっけいで哀愁がある、おじさんの表情。そんな彼にみんな、パイサを上げている。みんな彼が好きなのだ。おじさんは「ワン・ツー・スリー」と言いながら、タイコを叩きながら、また次に向かってゆく。

 そうだ。「ワン・ツー・スリー」だ。その大道芸のおじさんは、すっかり忘れていた言葉を僕に教えてくれた。ここはインディア「BAHRAT」の国。7/23 朝7時から夕方の5時まで、外にいて早足で歩いている。暑い。帰ってきて、横になると、熟睡ではなく、自分が、何か、鉄のようなものの、かたまりになってしまうかのようだ。深すぎる眠り。今日は、かたまりの眠りを知った。

「アチャー・カルカッタ」7/25

 食堂を出るとき、その男は「アチャー」と言った。どんな意味かというと、だいだいは「good」なのだけれど、その用途はとても広く、あいまいらしい。そのあいまいな所が「アチャー」なのだと言う。

 「アチャー」はさよならではない。言葉では表現できない気持ちが入っているのがよくわかる。彼の言った「アチャー」が、僕の背中に幸せのワッペンのように、張り付いた。そして今日は、いつものように一日を過ごして、夜、僕はカルカッタを出ようと思う。

 朝、大好きなパンと、フルーツジュースを、いつもの店に買いに出かけ、昼にはカルカッタの街へ。好きなヤシの実ジュースを飲み、インディア・ミュージアムをもう一回訪ねてみる。そしてまた街へ・・。僕は旅に出て、こんな道に来たかったのだ。10日間いて、やっとこれからが楽しめそうな街になったなぁ。

 街歩きの続き、夕暮れになると、毎日、座ったきた交差点にある小さな腰掛け石に、今日も座りにゆく。もう8日間もここに座って、夕暮れを待ってみた。ここは本当に地球のヘソのよう。ヘソに違いない。そう信じてみる。そうすると、世界中の時間とつながって来る。いい場所だった。

 宿に戻り、同じドミーの寺岡さんと出発まで、いろいろと話をする。彼は、もう五ヶ月も、ここカルカッタにいて、マザー・テレサの家で、ボランティアで働いているのだ。この五ヶ月の間に、肝炎とマラリアとチフスになったと言う。彼はインドに来てホントに変わったと言う。インドに居られるのはあと一ヶ月で、もっと居たいらしい。「あと一ヶ月、あと一ヶ月・・」としきりに言っていた。

 寺岡さんは、最後に「月と六ペンス」の文庫本を僕にくれた。「おもしろっいすよ」って言う。さて、行こう。今夜の夜行で、次の移動先の「プリー」に向かうのだ。宿を出て、交差点で、やって来た満員のバスに飛び乗った。いつもいつも交差点で見ていた、この満員のバスだ。カルカッタの別れはこれでいい。

 10日前、ここに着いたときと同じ、駅の待合室の椅子に座ってみる。いろいろあったような、なかったような。そんな気持ちになる椅子だ。何度も「家に来て下さい」と誘われた街、カルカッタ。人々の生活が、生き生きと繰り返されている、こんな街に来たかったのだ。アチャー・カルカッタ。

 やがて、夜行列車はやって来た。今回は、何事もなく無事に自分の席を見つけられた。明日の朝には、港町の「プリー」に着くだろう。静かな夜だ。僕が「月と六ペンス」の文庫をずっと読んでいると、前のインド人が、「もう電気を消すぞ」って目で合図をした。今夜はよく眠れそうだ。7/24 7月としたら、異例の38度になった。毎日、暑さの事を書いているけれど、暑さによる発見も多い。濡れたタオルを頭に巻いて、外を歩いてみる。これはいい。耳を冷やすと気持ちがいい。耳だけ冷やす、イヤーパッドはないものか。

「どしゃぶりのプリー」7/26

 プリーに列車が、朝、着いたとき、なんとなく小雨が降っていた。

 ここは港町なので、あせらないで、のんびりゆこうと思う。行きたい宿はもう決まっていた。日本のツーリストと縁のある「サンタナロッジ」だ。友達とも、プリーに行ったらそこで会おうとも約束してあった。

 ゆっくりと駅を歩き、まずパンを食べて、そのあと熱いチャイを一杯飲んで、それからやっと駅前の道に出ると、いい感じでリキシャマンが待っていた。「サンタナロッジ、プリーズ」

 どこを見ても、広々とした景色の中、一本道をリキシャマンと僕は進んでゆく。でも、だんだんと雲行きが怪しくなってきて、急に大雨が降り出してきた。これはまいった。濡らしてはいけないもの、それは日記だ。僕は日記だけは濡らすまいと、シャツの中にしまい込んだ。

 雨はざんざん降りになり、リキシャの座るシートはまるで浅いプールのよう。とうとう雨と風で、自転車は進まなくなってしまった。リキシヤマは降りて手で引き出した。お互い、もう雨でさんざんと言う感じだ。

 どしゃぶりの中、なんとかリキシャは、宿に到着した。ありがとうリキシャマン。僕は5ルピー多くチップをあげた。でもまたこの雨の中を、彼は帰ってゆくのだ。僕はそのままの姿で「サンタナロッジ」に入っていった。

 「ハロー」薄暗い土間には、机があり普通の民家のよう。やがて奥から、宿の人が出てきて、手を合わせナマステをして、そして部屋に案内してくれた。サンタナロッジの人達はみんな優しいとは聞いていたけれど、何もかもわかっているようすで、まず、あつーいチヤイを出してくれたあと、服の干すところ。そして、朝食を作ってくれた。

 ぜんぶ着替え終わって、ひと段落つくと、宿の少年が、あの有名な「サンタナノート」の一束をもって来てくれた。そこには、数年前からの旅人のメッセージが、書き残されていた。なんだか、泣きやんだ少年がオニギリでももらったように、僕は無心でそのノートを読んだ。

 サンタナロッジについて、もう何も説明はいらなかった。少年は、僕のベットに座り、ニッコリ笑いながら、またノートを持っていった。外は、もう午後の日差しになっていた。雨もすっかり上がったようだ。 7/25 何日か前に銭湯でやった、腹筋マシーンが、お腹に聞いてしまって痛い。たった四回か五回やっただけなのに。そうとう腹筋はなまっていたようだ。

「フィッシャーマン・ビレッジ」7/27

 港町のプリーに着いて、宿で一休みしたあと、僕は裏の浜道を通って、海へと会いに行った。

 犬が僕を見つけて吠えている。人なつこそうそうに微笑んでくる、プリーの人たち。見渡す限りなにもないような景色。湖と山の街、ネパールのポカラとは、また違ったのんびりさがある。やがて海岸近くのフィッシャーマンの村に出た。

 そこはなんだか、時代をまちがえたような風景だった。ひくいヤシの葉で作られた屋根の家々が、見える限り浜に並び、子供らはその間を走り回っている。僕はその中をどんどんと進んでゆく。

 やがて海に出ると、海岸沿いに、ずっと木の船が並べ置かれていた。話に聞いていたとおりの風景だ。波は荒く一種独特の雰囲気をかもし出していた。

 子供らが、すぐに集まってくる。くったくのない笑顔。日に焼けているのか、もともと黒いのか、紐のパンツがなんともいい。「お金はないよ。ナヒーン」って答えながら、一緒に遊んでみる。その肌は、本当にあったかい。それはまるでいっぱい太陽の光をあびて、あたためられた暖かさのよう。

 なんとなく、この風景の中にいるのが、もったいないような気がだんだんとしてきて、僕は、またロッジへと道を戻ってきてしまった。こんな感情は初めてだった。不思議な気持ちだ。

 帰り道、そこから見える風景のいたるところに、土色のダイヤモンドが転がっているいるように見えた。ちょっとずつ、ちょっとずつ、毎日やって来るのがきっといい。7/26 あまりのため、とうとう窓用のクーラーを買ってしまう。体のほうが、もう限界だよーと、叫んだのだ。さて、と思っていると、もう今日から涼しい。まあ、こんなものだよなぁ。

「ゼロの時間とサンタナロッジ」7/28

 海から、サンタナロッジに戻ってくると、そこに宿の息子さんの「クンナ君」がいた。

 いろいろと小さかった頃のクンナ君の話が本に出ていたりしたけれど、その彼も18才。クンナ君は、ホントに日本語が ペラペラで、僕らがどんな言い回しでしゃべっても、ちゃんとわかっていた。

 夕食になり、宿のみんな一緒に一階の土間に集まる。木の机、木の椅子に座り、裸電球の下で食べる食事。旅というのは、本来こんな感じではないのかなぁと思えてしまう。昨日までの、騒がしかったカルカッタでの日々がなんだか嘘のようだ。

 クンナ君と日本語で喋れるのは、とってもいい。すごく勉強になる。急にインドが身近になったような気がしてくる。サンタナロッジに来て本当によかった。なんだかいいことがありそうな予感がしてきた。

 夜になり、また朝になり、僕は読みかけの本「月と六ペンス」を読み続けた。とても集中して本が読めて、自分で信じられないくらい。すっかり本の中に入り込んでしまった。とても長い夜が開け、そしてまた朝。

 天気もいいので、洗濯をすることにした。サンタナロッジでは井戸を使うのだ。井戸を手こぎで押していると、この手応えをすっかり忘れてことを思い出した。世の中には、こんな井戸みたいな人がしてもいいなぁ。

 日記を書いたり、本の読んだりしていうちに、あっというまに、また夕方になってしまった。今日は何日だろう。でもここプリーでは、それもいいかなって思えてしまう。とにかく時間という時間が、体の外のいたる所であふれている。

 プリーの浜道をまた僕は、のんびりと歩いている。それは今日のような、昨日のような感じ。どんなにゆっくり歩いても、なぜかプリーの人たちよりも、自分の方が、先を急いでいるような気がしてくる。

 ここプリーでは、なんでもないシーンでさえも意味があるように思えてくる。それは、うまく言葉では言えないが、ゼロの上のゼロ。イチの次のイチという感じなのだ。それはサンタナロッジと、ここプリーの魔法かもしれない。7/27 ステキな喫茶店を見つける。時間がタイムスリップしてしまうような感じ。ちょっとヤオシャレだ。いや、オシャレというより、昔風の洒落た感じ。ウッディーな喫茶店も好きだけれど、いろいろと高いことが多い。しかしここは、高級そうで、ぜんぶお得なのだ。話も喜んでいる。

「ここから見えるもの」7/29

 海辺では、漁師たちが網を長く広げて、からまりを直している。ちょっと気を許して歩いてしまうと、細い綱につまづいてしまう。そのたびに漁師たちが大声で、僕に叫ぶ。

 邪魔になってもいけないので、僕は浜辺に座って海を見ていることにする。こっちの波はとても荒い。真っ黒な子供たちが、その波に向かって、体ごとぶつかるように遊んでいる。てらてらと光に照りながら輝く、その焼けた肌。その姿を見ていると、フィッシャーマンと呼ばれているのも、わかるような気がする。彼らはまるで魚のようなのだ。

 そのうちに僕は子供らに囲まれてしまった。手のひらに魚を二匹つかんできた女の子が、買って欲しいって言う。「お金はないよ。ナヒーン」って答えると、「ここにある」と言って、僕のバックをつかむのだった。(そうだよなぁ。お金はあるんだよなぁ・・)

 そんなふうに断っても子供らは、しばらくすると、また波に向かって走ってゆき、波に体ごとぶつかって泳いでいる。そのうち、魚を捕ってきた船が陸に上がって来ると、すぐさま駆けより、一緒に網を引くのを手伝うのだ。

 僕はカルカッタの子供たちのことを思い出していた。カルカッタの子供たちもやっぱり生き生きとしていたけれど、さて、どちらが幸せなのかなぁと考えてみた。そんなことを思っていると、荒波にあてられた船からフィッシャーマンのひとりが、大の字に海に投げ出されていた。あ〜あ・・。

 そうだよ。たしかにカルカッタでは、何でもあったけれど、なんでも手に入るものではないんだな。そしてインドは広いってことを実感した。

 夜、サンタナロッジの屋上で、いろんな話をしていると、タイコと人々唄が聞こえてきた。上から眺めていると、その一団は家々の間を通り抜けていった。後ろに続いて大きな布をねみんなで頭の上に持ち上げて歩いていった。宿のクンナ君にきくと、これはフィッシャーマンの結婚式なのだと言う。そして、大きな布は車の代わりだって言った。

 その結婚式の行進は、まるで童話の中のシーンのように見えた。それは人々の持ってる、重さと軽さのその中間を抜けていったようだった。7/28 なんと言っても、今日の事件は「世界民族音楽大系」のビデオを借りて来て観たことだ。やっぱり野外で、演奏されてるシーンがいい。そうなんだ。外の心なんだ。

「ジャガンナートの神様」7/30

 プリーは、ジャガンナートの神様で有名だった。ここプリーに来るまでは、それがどんな神様なのかよく知らなかったが、あちこち見かけるポスターは、お茶目なイラストの三人の神様で、僕はすっかり気に入ってしまった。

 ジャガンナート寺院に入れないものかなと、友達と一緒に訪ねていってみた。基本的には、ツーリストは入れない。入口の人にお願いしてみたのだけれど、やっぱりダメだった。そんなやりとりをしながら、僕は中をこっそりのぞいてみる。大きな広場の真ん中に、大きなジャガンナートの像が立っている。5メートルくらいの高さかなぁ。

 (あぁ、すげぇ・・) アフリカのトーテムポールの、あの原色の色づかいで。ニッコリと笑って両手を挙げている姿は、なんとも愛らしいキャラクターだ。イラストマンガの世界が、現実になっている。ここプリーの土着の神様様だったのに、今ではインじゅうで愛されていると言う。

 寺院の周りには、屋根付の露店のおみやげ屋さんが、数多く出ていて、そこにはジャガンナートグッズが並んでいた。他にもいろいな神様グッズもあったけれど、やっぱりジャガンナートがいい。僕は小さなポスターと、そして丸いジャガンナートバッチを買った。そのバッチは顔になっていて、いつか流行ったスマイルバッチにそっくりだ。

 そのバッチを僕はネパールで買った、平たい肩掛けショルダーに付けてみた。とてもよく似合っている。いい感じだ。自然とパワーが出てくるようだ。日本の友達にもあげようと、もうひとつ買った。

 近くの路地をうろうろと歩いてみると、道のかどっこなんかに、小さな木の屋根のスペースがあり、そこにはやっぱり原色に変換された、ヒンドゥーの神々の像が、三体ほど並べ置かれたいた。そのどれもが、とても愛らしいキャラクターになっていて、親しみがわいてくるのだった。

 ジャガンナートはヴィシヌ神の化身で、平和の神だと言う。まるで子供みたいな、あのイラストはいったい誰がいつ考えたのだろう。イラストのポスターには、何種類かあって、そのどれかがどこかに貼られていた。その夜、サンタナロッジのテレビのある部屋で、みんなでインド映画を観た。大爆笑だった。その薄暗い壁の右上で、ずっとジヤガンナートが笑っていた。7/29 夢を観る。その夢の内容は忘れてしまったが、夢の最後で、「この夢は失格です」と言われてしまった。「えーっ!!」・・。今、テレビで世界水泳をやっていて、最後に失格になるケースがあり。それが夢になったのだった。 

「も一度プリーに行ったら」7/31

いつまでたっても遠くならない
そんな村が僕にもある
村の名前はプリー
東インドのそこは海沿い

何にもないよな、浜道続き
物売バザールを見つけたのさ
ヤシの実ジュースを飲んでは歩いた。
野菜や、くだものの海までの道

 そこに着いてから、今もまだ歩いてる
 土色の夕焼けに座りこんでから、今のまま
 も一度プリーに行ったら
 浜道バザールの影になろう


海沿いの宿を昼に出ては
歩いて回ったプリーの村
行く先々で見かけたのは
村の守り神のジャガンナート

イラスト漫画のあのスマイルで
どこに行っても、どこがで見ていた
ポスター一枚、バッチも買ってさ
カバンに付けてそれから旅をした

 そこで会ってから、今もまだ、ながめてる
 土色のカベのすみで、笑っていた、あのポスターを
 も一度プリーに行ったら、
 ジャガンナートのそばに立とう

 あの村プリーに行ったら、
 昨日みたいに浜道を歩き

7/30 ひと月、インド入り口編に付きあっていただいてどうもありがとう。まだもうちょっと、プリーでの日々は続きます。インド一周して来られた僕は幸せです。感想等ぜひ、掲示板までお願いします。

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