青木タカオの「ちょっくら・おん・まい・でいず」  今月に戻る
過去ログ「パリ・帰国編」日記付き'02.2月

「お祝いのレモンシロップ」2/1

 可笑しいかもしれないけれど、ペットボトル効果って確かにある。 

 高いミネラルウォーターを一本買って、飲み終えたあとに水道水を入れても、ミネラルウォーター気分になるのだ。

 パリでの日々は、こんなはずではなかった。あと、ひと月半、どんなふうに暮らそうか・・。

 なくした日記の書き直しも、やっと5分の3終わり、だんだんと先も見えて来た。早く書き終えて、詩のことだけを考えたい。

 パリは思っていたよりも狭く、ちょっと歩けば、行きたいところには行けた。暇だったせいもあり、僕は安い乾電池を買うために、平気で5キロとか歩いて出かけた。たった100円、得するくらいだったけれど。

 少し前に800$もフランに両替したのに、またレートは上がり続け、残り持っていた少しの$もまた両替をした。何フランか得をしたので、今日はお祝いにレモンシロップをひとつ買った。

 ジュースも高くて、まったく飲むことが出来なかったので、このレモンシロップは僕にとって、喜びそのものだ。これをニセ・ミネラルウォーターペットボトル水で、薄めて作るのだ。いったい何杯作れるだろう。

 僕は残りのパリの日々を考えながら、少しづつ計画的にレモンシロップを飲もうと決めた。1/31 今日はオフ。大谷たちと昼まで、部屋でのんびりとする。外に出かけた、ふたりはしばらくしてまた戻ってきて、「この部屋に来ると急に眠くなる」と言っていた。

「歌い踊る彼女」2/2

 夜、また散歩に出かけると、道にてピアノの伴奏のカセットをかけながら、歌い踊る彼女を見た。

 ピンク色のベレー帽をかぶり、ひとり芝居のように歌う。それはよく言われるシャンソンとは違う。なんと呼ぶのか僕は知らない。どちらかと言えば、日本のエノケンのようだ。これはきっとパリが本場なのだろう。

 彼女は道行く人達に語りかけるように歌う。そして自分を笑うように歌う。自分をほめるようにも歌う。そんな大胆なことを道でやっているのに、ぜんぜん不自然ではないのだ。

 その仕草のひとつひとつが僕にはとても、愛らしく見えた。品があるというか、芸があるというのか。観ていてあきないのだ。彼女は道行く人に無視されても、関係なく歌い続ける。それもまた歌の仕草に加えながら、歌う続けるのだった。 

 「無視されても、かってにやりますよ」そういう心意気が僕は好きだ。それもまた彼女の魅力であり、歌の明るさにもつながっている。その横では、路上生活の男が楽しそうに、彼女の歌を聴いている。 

 カメラを持った二人の男性が、彼女の耳元で何か話しかけた。すると彼女は歌に替えて、彼らに答えていた。なんだか見事だった。これらの歌は演技だけでは歌えないだろう。一日ではこれらのことは生まれないだろう。そこにはパリの深い歴史があるようだ。2/1 夜、外に出ると、大きな月が下の方に出ていた。急いで友達にメールをして、また外に出るとどこかの雲に隠れていた。失敗した。月はどこにもなかったと言う。やっと出てきたら、もう普通の月になっていた。月のメールは難しい。

「ベストタイミングポリス」2/3

 また夜に散歩に出かけると、カフェのところで、おかしな人だかりがしていた。

 はじめは意味がわからなかったが、一人の男が通行人に混じって可笑しなことをしているのだ。ベージュのコートの男は、サングラスを乗せた帽子をかぶっていて、なぜかズボンをはいていないようだ。

 空のコーヒーカップを運びながら、通行人にひっかけるふりをしてみたり、なんだかカフェのみんなには大受けだ。これもひとつのピエロなのだろう。彼はズボンをはいていなくて、コートのすきまから、パンツがちらちらと見えていた。どうもみんなを困らせるという芸のようだ。

 そのうち道いっぱいに人が集まりだしてしまった。彼は銀のケースから何かを出そうとしていた。そのときだ。トランシーバーを片手に持ったポリスがゆっくりと歩みより、その肩をゆっくりと叩いた。

 「ボン・スワール」

 そのタイミングの絶妙だったこと・・。大受けだった。彼はやむなく芸をやめることになったが、カフェのテラスみんなからも道のみんなからも大きな拍手をもらっていた。ポリスにつれて行かれるとき、彼が帽子をさかさにしていると、みんなが次々とやって来てお金を入れていた。

 僕はそのシーンをずっと眺めていて、パリの人達っていいなと思えていた。警察なんて関係ないよっていうあの拍手。この町の雰囲気を作っているのは、誰でもないそれはパリの人達なのだ。2/2 公園の広場にて、犬の散歩を眺めながら犬の話をする。一匹のワンちゃんの中に、ずっと思い出がつながっている。犬は不思議だ。

「パリライフ」2/4

 石に座って、歩いている人を眺めていると、ひとりのおばあさんがフランスパンをバックに入れて、ゆっくりゆっくりと歩いて行った。

 たとえおばあさんといえど、そのファッションセンスは抜群で、いかにもパリのおばあさんという感じだ。その姿はとても品があり、パリの街並みに似合っていた。

 フランスも田舎に行けば、もっと地味な毎日なのかもしれない。パリだけが、特別な町かもしれない。しかし、それぞれにライフがあり、パリにはパリのライフがあるのだろう。

 僕はそのおばあさんの後ろ姿を見ていて、自分の楽しみが半分と、パリを楽しませている気持ちが半分ずつあるように思えた。それは、パリに参加しているというか・・。

 それどころか、僕にはそのおばあさんの姿が、パリそのもののようにも思えた。きっと若い頃から、この町に住んでいるのだろう。カフェに通い、レストランで時間を過ごし、大道芸を楽しんできたのだろう。

 東京には、東京ライフというものがあるだろうか? パリには確かに、パリライフというものがある。ひとりひとりの中にパリはあるようだった。2/3 そうだ節分だ。でん六豆が食べたくなり、お店に行ってみたものの、売っていなかった。でん六豆はどこに行ったのか? いつもあると信じていた自分がいた。

「6号室の彼」2/5

 ホテルの部屋にいると、ドアが叩かれて、日本の若い男性が訪ねてきた。 

 「コンニチワ・・」。話をきけば、もっと安いパリのホテルはありませんか? と言うことだった。

 彼は映画を観るために、一年パリに来たらしい。僕にしたら、一ヶ月半ぶりにちゃんと話す日本人だったので、とても嬉しかった。彼によると、いま映画を観るといったら、パリかニューヨークだという。

 僕は知らなかったが、映画を観る人にとって、パリは憧れの町らしいのだ。「だからみんなパリに来ちゃうんですよ」彼はワインを一本持ってきて、二人で飲んだ。僕も久し振りに酔ってしまった。

 それから彼は、ときどき僕の部屋を訪ねて来て、そして一緒に学食を食べに行ったりした。彼もゃっぱり話したいらしく、そのときはいつも遅くまで話し込んだ。

 ある時、日本の旅行者からもらったという醤油せんべいがあったので、懐かしさもあり一緒に食べた。「ああ、おいしいね!!」そう僕は答えたけれど、なんと僕の舌は味をまったく感じていなかった。

 同じホテルにいるのだから、しょっちゅう会っても良かったのだけれど、お互いときどきしか、ドアを叩かなかった。2/4 頭の中が、CD・MD・ラジカセのことでいっぱいだ。秋葉原に行ったら、いろいろと出てるような気がする。素晴らしいヤツが出ていたら買おう。憧れの生活を夢みてしまう。

「マイケルを待つ人たち」2/6

 昼の散歩でシャンゼリゼ通りに向かう途中、あるホテルの前に300人位の人だかりが出来ていた。

 (いったい何の騒ぎだろう・・) フランス語がよくわからない僕は、よくわからないまま一緒に待ち続けた。きっと誰か有名な人が泊まっているのだろう。

 「マイケール・ショウ・ユア・フェイス!!」ひとりの女性がそう叫んでいる。どうも、歌手のマイケル・ジャクソンが泊まっているらしい。ちょっと窓のカーテンが揺れるだけで、みんなはその窓に向かって、声を上げる。ファン心理とは、おもしろいものだ。

 約2時間待ってみたのだけれど、いっこうに進展しないので、僕はシャンゼリゼ通りの方に散歩に向かった。そしてまた帰ってきてみると、まだホテルの前は人でいっぱいだった。ずいぶん時間もたってるので、もう出てくるかもしれない。僕も暇なので、みやげ話に待ってみようかなと思った。

 そんな光景の中、スクーターの上に立った、ひとりの若い青年が、ヘルメットをこわきに抱えながら、何やらみんなに向かって独り言のように喋り始めた。その青年は一般で言うところの、ちょっと足りないお元気さんだった。

 「ほらほらマイケル様が、出てくるよ。世界のアイドルは大変だ。みなさん今日は夕食は抜きかい?」実際は、どう言っていたかは、わからないが、たぶんそんな感じだったろう。なんだか彼の言っていることの方が当たっているのはまちがいなかった。

 ひとりのカメラを持った青年が、背伸びをしていて、その彼に向かって、スクーターの青年は「この上に乗って撮りなよ」と、やさしく声を掛けていた。しかしカメラの青年は移動してしまった。その言葉の中にあったやさしさは、いや、やさしさのにあった響きは、触れがたいほど純粋だった。

 結局、また2時間くらい待って、大型のバスが2台ホテルの入口に横付けされて、そのあとマイケルはバスに乗り込んでいった。0.01秒くらい僕もチラッと見た。あぁ、僕はいったい何をしていたんだろう。そんなふうに一日は過ぎていった。2/5 帰り、秋葉原に寄って、MD・CDラジカセをたっぷり見てくる。しかし自分の思っているようなヤツがない。時代が変わるのは早い。秋葉原にゆくと、それがよくわかる。秋葉に行ってがっかりするとホントがっかりしてしまう。

「うますぎる男」2/7

 パリで見かけた大道芸のひとりに、うますぎるギター弾きの男がいた。

 その男は黒ずくめの服を着て、黒いハットをかぶっていた。ギターアンプを椅子にして、オベイションのエレアコを大きな音で鳴らすだけだ。

 僕の歩く散歩道に彼はよく現れて、大道で演奏をしていた。彼は言葉もなく、ただギターだけを弾く。それもギョロっとした目で歩く人をみているだけだ。そのギターテクニックは文句なしにうまい。

 彼が弾き始めると、必ず人は遠巻きに集まる。僕は何回も観てるので通り過ぎてもいいのだけれど、そのギターテクニックは上手すぎて、ついつい足を止めて聞いてしまう。しかし、その表情には、まったく感情というものが感じられなかった。

 人が集まりだすと、彼はギターを弾きながら、みんなの顔をひとりひとり眺めるように見始める。僕らはまるで魔術にかかったように、動けない。ホント憎くなるほどギターがうまいのだ。

 いつもは無口な彼だったが、あるときお金が入らなくて、自分から帽子を持って回って来た。

 「ミュージコ、ミュージコ」

 (そうか、音楽と言うことなんだな・・それは分かっている) 彼のギターはとにかくうまい。僕はいつもいつも通り過ぎられずにつかまってしまった。2/6 昼、下町に突然出来た、インド料理店に入る。地下一階にあるその店はあまりに広い。この下町にこれだけの人をいっぱいにするのは大変だろう。しかし、本格的なインド料理だった。久し振りに美味しいラッシーを飲んだ。

「光晴のねむれ巴里」2/8

 散歩だけが日課の毎日で、他に変化がなくなり、とうとう本当に夜眠れなくなってしまった。

 眠ろう眠ろうと思うのだけれど、どうにもこころがおさまらない。何が原因なのかもよくわからない。たぶん暇すぎるのか、孤独すぎるのか、そのどちらかだった。

 いったいどうすれば、眠れるのか自分なりに考えてみた。いろんな自分の荷物を抱きしめると心が落ち着くというのもわかった。ギター、そしてバックパック・・。

 とにかく何か自分が夢中になれるものが欲しかった。パリにある東京堂書店に行き、僕は金子光晴の「ねむれ巴里」の文庫本を思い切って買うことに決めた。それは、この旅に出るきっかけにもなった金子光晴のパリでの生活を書いた自伝的な小説だった。

 「ねむれ巴里」・・・。僕はこの文庫本を買うべきだったろうか。いろいろと悩んだけれど、眠れない毎日が続くよりは、何かに夢中でいた方がずっと良かった。

 さて、光晴のパリ時代の小説を1ページ1ページと読んでゆく。出てくる地名や、場所も知っていて、小説の舞台がとても身近に感じられる。日本語に飢えていたせいもあるのだろう。その文の一行一行が僕には宝石のように感じられた。

 昨日までの、暇な時間が嘘のように思えるほど、僕は「ねむれ巴里」の本の中に入り込んで読んだ。たぶんパリで買う最後の日本語の本になるだろう。ここ何週間はずっとこの本と居よう。

 いっきに読めそうな気はする。しかしそこは我慢して、僕はお菓子でも食べるように、ページ数を決めて読んでいった。2/7 バイト先の友達といつも帰るとときに寄るカレー屋がある。そこは予備校が多いこともあり、夕方から特別サービスになる。無料でライスが大盛りになる。いや大盛りではなく、たしか「鬼盛り」だ。ドリンクもジョッキで一杯無料になる。いい店だ。

「堂々と踊る」2/9

 今日は何か特別の日のようだ。

 町へ出てみると、ジャズのバンドが舞台を作り人を集めていた。その数はざっと500人くらい。きっとお祭りの日なのだろう。歩行者天国になり、カフェの椅子が道には列べられていた。

 スピード感あふれるジャズの演奏に聴き惚れていると、急にひと組のおじさんとおばさんのカップルが、人の輪の中に飛び出してダンスを踊り始めた。よく見ると二人は日本人ではないか。

 男の人の方は、短くカットされた髪に、丸い黒縁メガネにダークスーツ姿。女の人の方は、一見するとスペインの女性のようにも見えるが、日本のおばさんで、ジーンズの生地の長いスカートをはいていた。二人はとても軽やかにジャズのダンスを踊る。とてもうまい。

 おじさんの方はズングリムックリとした体型で、口をキッとひきしめて踊る。そしておばさんの方は少し太っていが、とてもステップは軽い。見た目には、サマになっていないようでも、さすが人前で踊るだけのことはある。

 二人は500人のパリジャンの見つめる中で、堂々と踊った。日本からフランスに来て、ずいぶんとたっているのだろう。僕にはひとつの長い話がそこに感じられた。今、読んでいる金子光晴の姿ともどこか重なって見えた。「万事すべからず堂々とするべし」その言葉のとおりだ。

 軽やかなステップで、踊った後、二人はジャズのバンドに拍手を送りながら、またみんなの輪の中に戻ってジヤズの演奏を聴き始めた。二人は肩で息をしている。そしてただまっすぐを見ている。会話はひとつもない。

 僕の胸の中で大きな涙がボットリ流れた。彼らの堂々と踊った姿を忘れることはないだろう。何恥ずかしがることなどひとつもないのだ。2/8 富山の垣ちゃんと、三月の地下ライブについての出演者を、いっきにいろんな人に電話して決める。今朝までは、二組しか決まっていなかったのだ。他にもアイデアをいろいろ出して決める。素晴らしいスピードだ。

「おじさんエレキ野郎」2/10

 いつもの路地に人だかりがあり、生バンドが大道芸をやっていた。一緒に僕も聞いていると、そのバンドのメンバーが、ひとりの男に声をかけた。

 その男はみんなの後ろの方で、車の影から見ていた背の高いおじさんだった。おじさんと言っても、黒のスリムのジーンズの黒のヨレヨレの皮ジャン、それに短いブルーのスカーフをしてて、容姿は若者とそう変わらなかった。

 見ている人もまたわかっているようで、その皮ジャンパーのおじさんに歌ってくれと言っている。おじさんはそんな声に誘われるままにマイクの前に立った。そしてエレキギターを持つと、バンドと一緒にブルースを歌い出したのだ。

 おじさんは50才代に見えた。しかしそう歌う姿はとにかくカッコイイのだ。声もよく伸びているし、ギターテクニックも抜群だ。とにかく味があり、見ていてまったくあきない。存在そのものがまるでブルースを歌っているようだ。

 一曲歌い終わると、バンドのメンバーも見ているみんなも大きな拍手をした。そしておじさんはタバコに火を付けた。しかし「もっとやってくれ」と言う声に、火を付けたタバコをポイと捨てて、足でにじり消した。「最後だ」と言いながらバラード調の歌を一曲歌い出した。

 それはこのおじさん自身のバラードのように思えた。そこには悲哀というものが感じられた。そしてラストは声を長く伸ばしてその曲をしめた。おじさんはもう60才近いようにも見える。しかしその存在と歌は、多くの人の足を止めるパワーがあった。

 ブルースマンというのは、こんなにも渋いものなのか。僕はこのおじさんに会えただけでも、パリに来て良かったと思えた。ホテルの部屋に戻って、僕もカガミの前に立ち、ギターを持っておじさんの真似をしてみたけれど、まったくサマになっていなかった。2/9 バイトをしていると、土曜日が来るのがホント嬉しい。金曜の夜はもっと嬉しい。しかし、いつも眠ってしまう。土曜日もまたほとんど眠ってしまう。それは僕も望む嬉しさとはちがう。しかし体は喜んでいるようだ。

「生きているトマト」2/11

 手作りで作った、旅のカレンダーには×印が並び、パリでの日々もあと10日になった。

 10日でも、僕には長く長く感じられる。とにかく眠れないのだ。夜中、明かりを付けてカガミを見てみると、とても眠そうな顔をしている。しかしどうしても横になると眠れないのだ。そんな日々が続いて、もう二ヶ月以上、さすがに限界に来ているようだ。

 思えば、失った日記を書いて、散歩して、また今日の日記を書いて、散歩して、ホテルに帰ってくるだけの毎日だった。食費と言えば一日300円で、フランスパンと魚の缶詰と野菜の缶詰。町を歩いていても、自分のような自分でないような不思議な気持ちが続いていた。

 町をいつものように歩いていると、横断歩道のところにトマトがひとつ落ちていた。たぶん買い物袋からこぼれたのだろう。僕は拾い上げ、そっとお腹に隠した。これはラッキーだ。

 そしてホテルに戻って、いざ食べようと手にとってみるけれど、僕には赤いトマトが生きているように思われて、どうしても口に運ぶことができない。もちろん生きていることには違いないのだけれど、その息づかいがまるで聞こえてくるようなのだ。

 自分の方がどうかしているのはわかっている。しかし、トマトが生きているように見えるのも貴重な体験だ。それは僕の今のパリでの精神状態の象徴のように思われた。2/10 ちょっとおしゃれなケーキ喫茶店で、特性カレーを食べる。そのカレーは、スープ系ではなくて、ドロッとしてて、まるで日本の家庭カレーのようだ。深い味わいがあり、大変に美味しかった。高いカレーはほとんどスープ系だったので、安心した。ここ数年で一番おいしいカレーだった。

「運河にて」2/12

 とうとう、ずっと書き続けていた「失った日記」を今日書き終えた。

 いざ完成してみると、どんなにか嬉しいかと思っていたけれど、意外とそうでもなくて、終わってみると途中のあの辛さも実感がない。同じように、旅ももうすぐ終わってしまうのだが、終わりという感じがしない。

 それはきっと自分が疲れているのだろうと思えた。金子光晴も、ベルギーに一人でいたとき、孤独感と睡眠不足で悩まされたと書かれていた。眠れない日々というのは、本当に疲れるものだと知った。

 そろそろパリも、あと三日ほどとなり、僕の街歩きももうすぐ終わってしまう。サンミッシェル通りから、ポン・デ・ザールの橋へ。そしてルーブル美術館を抜けて、オペラ座へ。そしてオペラ座の階段でひと休みして戻ってくる毎日も終わるのだ。

 さすがに一年の旅の終わりともなると、いろんなことを考えてしまう。これからの事、そしてこの旅の事、パリでの事。もの想いはどこにいても出来たけれど、睡眠不足のせいか旅の疲れなのか、ただぼんやりと歩くばかりだ。

 今日は、行きそびれていたサンマルタン運河の方まで、歩いて行った。そこは普通の川が続いていて、運河という言葉の響きには遠いように思われた。ずっと続くその運河を歩くのは、なんだかいい感じで、僕は運河に沿って歩き続けながら、旅も事を考えていた。

 つい何日か前までは、もう旅は終わりで、帰ってからの事を考えていたけれど、なぜかここに来て、次の旅の事を考えてる自分がいた。自分がこの一年で訪ねた国なら、いろいろもうわかっているので、今度は楽しんで、旅が出来るだろう。もう一人の誰をつれて一緒に旅をしても、大丈夫のはずだ。

 そんな夢のような旅を、もう一度想像して、記憶の街を辿ってみながら、サンマルタン運河をずっと僕は歩いてみた。いつかまたパリに来ることがあったら、案内できる場所も多いだろう。

 考えてみれば、簡単なことだった。最後のつもりで旅に出たけれど、それぞれの国がこれで、なくなるわけではない。来たくなったらまた来ればいい。それだけなのだ。そこに旅は待っていてくれるのだろう。

 失った日記もやっと書き終わり、なんだか心の針がゼロを指しているようだった。サンマルタン運河は、僕にひとつの答をくれた場所になった。2/11 渋谷に友達のライブに行く。山手線に乗って、渋谷駅のホームで降りると、いつもいつも同じ気持ちになる。それは20年前から変わっていない。これは僕のコンプレックスのようだ。しかし世の中には、渋谷の街がぴったりと合う人もいるんだろうなぁとは思う。

「訪ねてみる」2/13

 パリで行き忘れたところはないだろうか・・。

 約束どうり、僕はパリラストの一日前、セーヌ河沿いにある「ミラボー橋」を訪ねてみた。

 アポリネールの詩で、有名な「ミラボー橋」だ。街なかからは少し遠く、とても地味な橋だった。その橋をやっと訪ねるためにパリに来たようなものだった。僕も同じように、橋の上に立ってみて、詩をくちずさんでみる。「ミラボー橋」の詩を知っている人には、これ以上にぜいたくなことはないだろう。

 その詩人「アポリネール」の彫像にも、会いにいった。ひっそりとした公園のような場所に、その像はあり、訪ねる人もあまりないようだった。その名前のイメージとは合わず、あまり美形ではないと言われていた、アポリネールの大きなくずれたような顔の彫像だった・・。

 光晴の本の中に出てくる、ダケール地区の住んでいたという場所にも訪ねてみた。もう70年以上も前の話なので、そのとおり残っているかどうかわからなかった。光晴は、その建物のロフトに住んでいたという。そして、その窓から通りを眺めると、馬の顔の看板が付いているのが、見えたという。

 はっきりとした場所はわからなかったが、その通りにゆくと、それらしい建物と、その前に肉屋があり、そこには馬の頭の立体の看板が付いていた。その看板は当時のものではないかもしれない。建物も建て直されていたのかもしれない。しかし、その場所にはちがいないだろう。光晴は、その場所がわかるように、馬の看板の話を書いたようにも思われた。

 その道を何度も行ったり来たりしてみたけれど、特になんということもなかった。しかし、当時の建物のままなら、その住んでいたというロフトは、そこにあったと言うことなのだろう。そう信じてみると、嬉しい。

 彫刻家のロダンの美術館にも行ってみた。どうしても見ておきたかったのだ。街なかにも、パルザック像があり、それがとても良かったからだ。あの有名な「考える人」が、美術館の庭にあった。「考える人」というと、その姿を真似したりして、冗談のひとつによく使ってきた。

 それは素晴らしい芸術作品には、間違いない。しかしどうしても笑ってしまう。いや芸術だ。しかし、どうしても可笑しい・・。僕は思ってみた。なぜ、自分が考えているのか考えているに違いない・・と。

 実際に、訪ねてみるのは、いつもそれなりに楽しい。2/12 秋葉原に行って、MD・CDラジカセをすっかり買うつもりで行ったのに、欲しいと思うものがなかった。秋葉原はバカだなぁ。 

「さよならパリ」2/14

 結局、最後の夜も眠れないままで朝になった。

 さよならパリ。手書きのカレンダーは全部×印になり、その日がとうとう来たことを教えてくれていた。その一日一日が長かったこと。もっと名残惜しい気持ちで迎えるはずだった今日は、予定どうりではなく、早く帰国したい気持ちでいっぱいだ。

 これが僕の旅の終わりになるとは、僕自身、想像もつかなかった。このパリの三ヶ月は、孤独とのたたかいで、だんだんと自分が変になってゆく経験もした。ここパリで得たものは、あとあと何かの役に立つと信じることにしよう。

 三ヶ月振りにまとめたバックパックを担いで、宿の受付に部屋代を払いにゆくと、おじさんが僕にこう言った。

 「あなたはいつ、やってきた? 何日泊まった?」

 おじさんはまったく帳面を見る様子もない。僕を信じるというのだ。計算すると、4300Fになったが、4000Fでいいと言う。300Fもまけてくれた。「サンキュー・ベリーマッチ」っと心を込めて言ってくれる。はじめから300Fまけてくれると知っていたら、ずいぶんと楽だったのに・・。

 外に出るとあいにくの雨。別れの日と雨はそれなりに似合っている。最初にやって来たメトロへの道と同じ道を、戻り歩いて行く。セーヌ河沿いに来て、同じ場所で立ち止まってみる。それは三ヶ月のパリの終わりと言うより、約一年の旅の終わりのようだ。この道は東京へと向かっている。

 大きなトラブルもなく、無事に過ぎたのは幸運だったと思う。メトロに乗って飛行場へと向かう途中、僕はズボンのベルトひもに、東京のアパートの鍵のホルダーを付けた。2/13 冬季オリンピックを夜から朝にかけて、テレビでやっているのだけれど、どうも時間帯が調子悪い。待っていると朝になってしまう。そして結果がパッとしないと、一日がスロースタートになってしまう。

「ポン・デ・ザールの橋の上」2/15

木で出来た、パリの橋、
ポン・デ・ザールで待っていた。
なんのあてなく、パリっ子たちと、
のんびりぼんと座り込み。
 会いたかった、セーヌ河、
 川沿いにその日、歩き続けてた。
 笛吹の音色に、誘われて、見つけたよ。
 何百年もそこにある。
 ポン・デ・ザールの木の橋を。

折り紙色の、うすみどりの空に、
マロニエの葉が、街に揺れていた。
絵筆片手の、赤鼻おじさんと、
笛吹きおじさんは、いつも飲んでいた。
 渡ったところが、ルーブル美術館。
 二百年、この橋はあるという。
 気がついて振り向けば、僕の知るあの人や、
 ちょっと昔のパリ人たちが、
 ポン・デ・ザールを、歩いてくる。

   お昼近くに橋を渡って、
   来る昼、来る午後、歩き回って見た。
   ルーブル抜けて、オペラ座通り。
   オペラ座抜けて、モンマルトルへ。
   歩き疲れたら、また橋に戻って来た。

灯りを付けた、遊覧船が、
橋の真下を手を振り、過ぎてゆく。
何のあてなく、待ち続けてた。
いろんな噂は、もう無しにして。
 会いたかった、セーヌ河、
 川沿いにその日、歩き続けてた。
 笛吹きの音色に、誘われたら、来てごらん、
 何百年もそこにある。
 ポン・デ・ザールの木の橋に。

2/14 今日もオリンピック特番とか見てしまう。ドラマ仕立てに伝えられると、つい応援してしまう。それにしても、銅といえど、メダルを取るのは大変だ。それが今回、よくわかった。

「アテネ・アゲイン」2/16

 パリから飛行機で、アテネへと飛んだ。アテネは格安チケットがあることで有名で、僕はそこで日本行きのチケットを手に入れようと決めていた。

 ギリシャのアテネには、前にも来ているので、何だか懐かしい。同じホテルに泊まろうと僕は、市街行きのバスを待っていた。それにしてもアテネは気温が高い。

 ただそこに座っていただけなのに、ギリシャの人達に何人も声をかけられてしまう。ギリシャはアジアに近いせいもあるだろうけれど、とても親しみがあり、みんな人なつっこい。

 おばあさんがやって来て、何かきいてくると、白いTシャツに白い半ズボンをはいたお兄さんは、気軽に受け答えをしていた。とても正直そうなお兄さんで、僕は嬉しくなった。これでいい。これで普通なのだ。

 駅の構内は広い。列車の発着時間の出ている大きな掲示板の下に、ひとりのおじさんと小さな女の子が並んで、ずっと見上げていた。おじさんの方はサンダルを履き、髪もボサっとして、服もホントに普段着のままだ。

 おじさんは腕を組みずっと、列車の発着ボードを見上げている。誰かを迎えに来たのだろう。小さな女の子の方はよくわからないけれど、一緒に見上げているのだろう。その姿はどこか日本の小さな町の駅の構内の光景のようだ。

 そのあとおじさんは電話をかけた。それも大声で・・。その光景はとてもギリシャに似合っているように思えた。とても写真を撮りたかった。

 ギリシャはヨーロッパの一員ではあるのだけれど、どこかアジア的で、親しみがとても湧いてきてしまう。楽しい日々が始まりそうだった。2/15 富山より垣地くんから朝に電話があり、今、駅に居るという。普段はあまり食べないマクドナルドのメニューとか買ってきてもらって食べる。なぜだろう。買ってきてもらう朝のハンバーガーは物語の始まりに似合っている。

「悲哀あるギター弾き」2/17

 今は7月。ここアテネはとにかく暑い。

 一年旅して来たけれど、いままで一番だ。しかし、ジメジメしているわけではなくて、気温が何度あるのかは想像つかなかった。ある人は50゜もあるとか言っていた。そんなバカな・・。

 そうは思ってもホントに50゜のような気もする。道には風が吹いていて、少しは助かったけれど、我慢できずにTシャツを買ってしまった。町のどこを歩いていても同じだ。逃げられないとはこのことだろう。

 夜になり、少しは涼しくなったところで、露店の並んでいるプラカ通りにみんなで出かけた。ここの雰囲気は独特だ。夏の夜にいつまでも歩き続けて行ったり来たり。友達にも会う。みんな昼間に失われた時間を取り戻そうとしているようだ。

 路地に沿った坂道にところに、ギターを持ったひとりのお兄さんが座っていた。お兄さんというには、少しふけていた。短い髪で、なぜか頬が赤くなっていた。聞こえてきたメロディーは、ボブ・ディランの「風に吹かれて」だった。

 「♪ハーウ・メニー・ロード〜」

 (おっ、渋いな)と思っていると、次は有名な「朝日のあたる家」を、ハーモニカを入れながら歌い出した。(これも、渋いね・・) しかし、ハーモニカはうまいとはいえない。

 足を止めて、しばらく聞いていると、次はまた「風に吹かれて」。そして「朝日のあたる家」を繰り返して彼は歌った。(なーんだ・・) 多くの人が行き交っている中、その歌は夏の夜の露店通りに、似合いながら響いていった。2/16 夜、また友達がやって来て、三時間ほど遊んでゆく。彼が来るといつも眠くなってしまう。大変に失礼なことだ。僕が横になってると「じゃーねー」と言って、いつも出てゆくのだった。

「不自然な別れ」2/18

 エルモウ通りを曲がる所で、四ヶ月前トルコのイスタンブールであった、「ひげのニコちゃん」こと水谷さんに偶然会った。

 水谷さんは、自然に伸ばした15センチほどの長いひげをたくわえて、とても印象的だ。背はそんなに高くなく小柄で、スリムの柄のついたズボンをはいていた。いつもニコニコっとしているので、「ひげのニコちゃん」と呼ばれているのだろう。

 彼はトルコのあと、シリア・ヨルダン・イスラエル・エジプトと回ったと言う。そしてなんと明日、バスでパリへと向かう予定らしい。彼の旅の話、僕の旅の話、短い時間だったけれど、とても豊かな話になった。

 パリの話をもっとききたいというので、ニコちゃんの宿まで行こうということになった。狭い路地をふたり通り抜けてゆく。真夜中の笑婦街も通ってゆく。ヨーロッパに来てこの雰囲気にも慣れたなぁと思う。急い歩いてきたので、汗が吹き出してしまった。

 宿まで来たのだけれど、もう遅かったせいのあり部屋には入れなかった。しかたがないので、宿の前に二人で座って話をする。たまたま僕は日記を持っていたので、彼に見せると、1ページ1ページゆっくりと見てくれた。お互いに知っている旅人もいて嬉しかった。

 いつまでも見ていても、きりがないので、僕らはおやすみを言うことにした。手帖に彼の住所を書いてもらうと、名前のところに(ヒゲのニコちゃん)と書いていた。

 もう夜中の二時を回っている。彼は大通りまで送ってくれると言う。お別れにジュースを一本、僕はおごった。。日本に帰ったら一緒にお酒を飲もうとニコちゃんは言う。お互い手を振ってみるけれれど、なんともこれが不自然なのだった。

 さっき出会って、今別れる。それが原因なのだろう。でもその不自然さがとても自然だった。2/17 土曜日になると原因不明の頭痛がやって来て、眠ってしまう。風邪かと思えば違う。疲れているのだろう。休むのは楽なのだけれど、一日つぶれるのは厳しい。

「たけしさん」2/19

 いよいよ明日、帰国への飛行機に乗り、アテネを出ようという日、ひとりの長期旅行者に会った。

 「やんなるほど、ながくってね・・」

 その人の名前は「たけしさん」。プラカの通りで、たまたま物売りをしていた。聞けば、日本を20年前に出てから、一度しか帰っていないという。丸刈りに短く刈った髪。そして漢字の書かれている、半袖シャツ。日本人だとすぐわかるスタイルをしていた。

 たけしさんは今40才で、ほとんどがスイス暮らしらしい。そして貯めたお金で、世界中を旅して来たという。特にアフリカが好きで何度も行ったという。アフリカの旅の話はなんともスケールが違う。長い経験の中から、面白かった事を印象的にいくつか話してくれた。

 その話はすさまじかった。水のない話、57度の暑さの話・・。インドももちろん何度か行ったと言う。そんなたけしさんは僕の20倍も旅を続けているのだ。

 この一年、いろんな旅人と出会ってきた。言い方を変えれば、出会いの旅だった。いや、その旅との出会いだったのかもしれない。多くの人がそれぞれの旅をしていて、僕の時間を何十倍も、ふくらましてくれた。いろんなタイプの旅人がいたけれど、たけしさんのような人は初めてだった。

 ここに日本に帰らなかった人がいる。そして充分に日本を感じさせるスタイルを持っている。「たけしさん」と呼ばれていて、きっと古い旅人なら誰もが知っているのだろう。彼はまるで一冊の日本の本のようだ。

 僕は明日には、旅を終えてここを出てしまう。そして帰らなかった人がいる。2/18 アニメ映画「千と千尋の神隠し」ベルリン映画祭で賞をとり、宮崎駿監督がインタビューを受けていた。なんともそっけないコメントが多かったけれど、映画にたずさわったスタッフは、大変に嬉しいだろう。スタッフのインタビューも録って欲しかった。

「そんなエジプト」2/20

 約1時間半、飛行機に乗り僕はエジプトに着いた。ここで一泊してそして日本へ向かうのだ。

 トランジットなので外には出ず、飛行機会社の用意してくれたトランジットホテルで一泊するはずだった。しかし、やっとたどり着いた空港内のホテルの受付では、大きな黄色の縁のメガネをかけたおばさんが、僕に「あなたはドルを持っていますか?」と言う。「無料で泊まれるとエージェントで言われて来たのですが」と訪ねれば、「知らない」と言う。

 結局、お金を払ってくれというのだ。最後に念を押して、「この空港には無料で泊まれるホテルはないのですね」ときけば、「エジプトエアーで来て、エジプトエアーに乗るなら大丈夫」と言う。なんとも憎たらしい言い方だった。「ではトランスファーコネクションに行って、紙をもらって来なさい」という。ふーっ、疲れた・・。

 また戻り、トランスファーコネクションに行くと、そこは大混雑していた。コンピューターを使える人は若い男性一人しかいなく、その彼の机の上には、パスポートが山積みになっていた。問いかけるみんなの方も、並ぶという観念がないらしく、次々に言葉が飛び出してくる。おまけに英語が通じるのが、そのコンピューターを売っている彼だけのようなのだった。

 僕は辛抱強く、何度も「エックスキューズ・ミー」と言って声をかける。無視していた彼だったが、一段落ついたところで、腕を水平にして、こちらを向き「イエース」と答えた。

 「アイム・カミング・フロム・アスィンス・バイ・エジプトエァー」エジプトエアーーのところを強調して言うと彼は「ベーリ・グット」と答える。「アイル・ゴー・トゥ・ジャパン・トゥモローモーニン・バイ・エジプトエアー」その続けると、彼はおどけた表情で「ベーリ・グット!!」と答える。しかし今はとにかく忙しいので、あと30分待ってくれと彼は続けた。

 なんだか憎めない面白さがそこにはあった。 また椅子に座り待っていると、ひとりの日本の旅行者のおじさんに声をかけられた。おじさんは、ソ連から入り、大旅行の予定でヨーロッパを回っていたけれど、ローマでジプシーに全てをスラれて、スッカラカンになってしまったのだという。パスポートの再発行もうまくゆかず、とりあえずお金を日本から送ってもらって、アテネから帰国することになったのだという。

 なんともせつない話だ。この先、インドにもおじさんは行きたかったらしい。そんな話を聞いていると、そうだこれが旅なんだと思い出した。なんとかホテルには泊まれることにもなった。ホテルの部屋はクーラーも効かず蒸し暑い。カイロの夜だ。ほんとのラスト一泊になった。2/19 新曲作り。ライブの一日前だと、歌詞が虫食い状態になってしまう。あとは自然に任せるしかない。

「伴侶探しの彼との再会」2/21

 とうとうラストの移動の日となった。昨日のトランジットカウンターのところで、座って待っていると、ひとりのおじさんに声をかけられた。

 なんと、その人はインドのニューデリーで会った、伴侶探しの彼だった。「いゃあ、元気でしたか!!」。ニューデリーを出てから約半年。こうやってまた最後に会えるなんて・・。そのおじさんは、世界中を我が理想の伴侶を求めて、旅を続けている人だった。あのときは蓄えていた髭をすっかり剃って若くなっていた。

 あれからの旅の話をして、時間が過ぎる。「あれから」かぁ・・。半年は長いなぁ。

 さて、いよいよ日本行きの飛行機に乗るという時間になったが、トラジットカウンターの人は、山積になっているパスポートの中から、ひとりひとり探して渡している。なんとまだ手作業なのだ。ずっと待ってみたが、ホテルに泊まった僕らのパスポートが、見つからない。

 しかし、見つからないでは済ませられない。無いと飛行機に乗れないのだ。カウンターの人は「ナッスィン!!」を繰り返す。いや、それは困る。結局、棚の中から見つかったのだけれど、最後の最後までトラブルが続いた。それも極めつけの最後のトラブルだった。

 急いで、僕らは飛行機に乗り込んだ。ふーっ。飛行機は速いなぁ・・。この道をゆっくりやって来て、いっきに帰る不思議。次のトランジットのバンコクで、飛行機を降りてトランジットロビーに座っていると、来るときに会った伴侶探しの彼も座っていた。

 よく見ると、可愛い日本の女性と一緒ではないか。なんだかベッタリの様子だ。会いに行って声をかけると、彼女を紹介してくれた。髪の長い目のきれいな女性だ。おじさんは、やさしくやさしく接している。ああ、素敵な彼女を見つけたのかな。しかし見ていると、あまりにやさしくしていて、ちょっと心配だ・・。

 僕はおじさんにとって、日本までの最後のこのフライトがとても大事なのだと、見ていて感じ取ったので、そっと遠くにいることにした。大事な話がきっとあるのだろう。

 トランジットの空港内には、タイの女性が多く見かけられた。生まれて初めて出会うタイの女性は、とても神秘的で可愛い。まだ飛行機に乗るまで、もう少しだけ時間はあった。2/20 グットマンライブ。中村十兵衛さんと一緒。中村さんは僕らより年上でライブ歴も長い。ステージに立つと、それだけで似合ってしまう。さすがだ。ああなりたいものだ。

「愛はおしみなく」2/22

 なんとか無事に飛行機は日本に向かっていった。泣いても笑っても、今日には着いてしまうだろう。今はそのスピードに驚いているばかりだ。

 マレイでもトランジットとなり、また空港で待つことになった。一緒にいたマレイの男たちが僕に声をかけてくる。英語の発音が独特に訛っていて可笑しい。

 「ジャパニーズ・ガール・ビューティホ!!」

 そう言ってくる彼らは、とても陽気で、なにやら内輪話をしゃべっている。だいたいその内容は想像がつく。独特の人なつっこさがあり、旅をしたら楽しいだろう。こうしてほんの少しだけ人と会っているだけで、その国のことが感じられるのだから嬉しい。

 トランジットの時間も終わり、いよいよ日本行きの飛行機に乗り込んだ。いろんなことがあったけれど、本当にラストの移動だ。飛行機の中を歩いて座席を探して座っていると、さっきのマレイの男たちが、僕に手を振ってくれた。

 ひとりのスチュワーデスのおばさんが、機内に乗ってきて、カゴに入れた鮮やかな花を機内にまいた。マレイの男たちは、声を出して飛びついている。おばさんはピンク色の縁のメガネをしていて、無表情で花をまく。そして、飛びつく男たちを見ていると、とても開放された空気を感じる。それは「愛はおしみなく」という感じだ。

 こんなふうなノリは今まではなかった。東南アジアを旅もまた面白そうだなぁ・・。開放された光と力の抜けた自分を乗せて、飛行機はTOKYOに向けて離陸していった。2/21 西荻にある、静かな夜道にある、ひとつの中華屋さんによる。とてもシンプルなお店で、天井が高く、忙しそうだけれど、なんとも余裕のある気持ちにさせてくれる。ここに来るのは二度目だけれど、とてもいい話が友達と時間になる。ここで話す話も、みんな美味しい。

「待っていた手紙たち」2/23

 「一年ですね」「はい、そうです」そして僕はNARITAに着いた。

 当たり前のことだけれど、パスポートチェックもすべて日本語なのだ。話ながら僕は、会話とは、感情に対して感情で答えているのだと知った。すぐさま言い方を変えている自分がいて、自分で驚いてしまう。そうだ僕は日本語のプロだったのだ。

 電車の切符を買おうとしたら、若い女性に「お先のどうぞ」と言われた。「あっ、どうも・・」100円玉を入れながら、僕は涙が出そうになった。なんて優しいのだろう。旅の途中で、こんなことってあっただろうか。

 ホームへ歩いてゆくと、セーラー服の女学生と、ワイシャツに学生ズボンの一緒の男子とすれちがった。なぜか僕は夏目漱石の小説「坊ちゃん」を思い出す。日本情緒がそれだけであふれているように見えた。

 電車の中、無言で席をつめてくれた二人のお嬢さんありがとう。なんだかみんなニコニコしているように見える。それは会話をしているというより、一緒の時間を過ごしているように思えた。日本の女性はなんとも、おしとやかで、お雛様のよう。しなしなと動いていて、とても顔の表情が豊かなのだった。

 目白の駅で降りて、一年前に来た道をまた歩いて戻ってゆく、もっと懐かしいかなと思ったけれど、いざ帰って来てみると。体の方が日本をよく憶えているようで、とても自然に歩いている自分がいた。

 そしてアパートに、とうとう戻って来た。部屋のドアを開けてみると、すべてが一年前のままだ。「おやっ」。真ん中のこたつ机の上に、一年分の手紙が大家さんのはからいで、置かれていた。旅の友達からの、手紙と写真もその中にはあった。

 手紙の始まりは、どれも「青木君、お帰りなさい」だ。なんだか可笑しいな。僕がここに着く前に、写真や手紙はこの部屋で待っていたのだった。今やっと時間の中に戻って来たようだ。写真の中の僕がここにいた。(旅日記・'87年夏〜'88年の夏まで・終了) 2/22 とうとう花粉症で、薬を買ってしまった。いろいろと素人知識を言ったら、薬局の人にいろいろ逆に言われてしまった。あの薬局嫌い。普通じゃない。怒られながら薬を買うなんて。でもきっと同じ質問を毎日言われてるのだろうな。

「もう一度のパリ」2/24

 15年振りに来たパリの町の印象はとても、シンプルだった。

 海外から帰って来ていろいろと忙しく、歌も出来たりたりして、あっという間に15年もたってしまった。ずっと日本にいたけれど、それはそれで素晴らしい毎日だった。

 そんな2001年の終わり、フランスに行く話があり、たまたま休みにも重なったので、運良く出かけることになった。友達のバンドのコンサートの一応スタッフとしてだ。パリにも何泊かするので、僕にとっては嬉しい限り。15年前の思い出の場所を訪ねてみよう。

 実は海外にいた一年間で、パリだけが僕の心残りの旅になっていた。こうしてまたフランスに行けるのも何かの縁というものかもしれない。今回はパリの本を読んだり、少しはフランス語も憶えてみたい。そしてパリでの暮らしの本も何冊か読んでみると、自分が経験したパリでの日々が、実に単調だったと思い知らされた。

 飛行機は飛び、そして15年ぶりにパリに到着した。もう一度のパリ。約10日ほどの日程だ。到着したときはもう夜で、タクシーに乗りホテルへと向かう。だんだんと見えてくるパリの町。「CAFE 」の看板や「BISTROT」の看板。ガイドブックに書いてあるとうりでなんだか可笑しい。

 (パリの町は、カフェやレストランなどが、多いんだなぁ・・) ぜんぜん15年前と変わっていない通りの景色が続いてゆく。ホテルに到着してみると、三つ星の割にはとても古い建物だった。「ボンスワール」「ボンスワール」

 人の良さそうなお兄さんに連れられて、ガタッガタッと鳴る、これまた古いエレベーターに乗り、部屋のある階に案内された。ドアの鍵を開けてもらうのだけれど、それもなんだか調子が悪く、明日には交換するとか言っている。

 「あらら。」一緒の友達も、想像と違っていて、ちょっと予想外だったようだ。予定では、多少は豪華できれいな三つ星ホテルをイメージしていたのだ。ここから二度目のパリが始まった。2/23 フレッツADSLを、1.5Mから8Mに変わった。どんなに劇的に早くなるかなと思っていたら、なぜか前と同じ。それも遅くなったような気もする。NTTからここは遠いのだろうか。久し振りにがっかりした。

「のろいの解けた朝」2/25

 パリに到着して、とりあえず何かを買ってこようと、夜に街に出かけて行った。

 ホテルを出て、大通り沿いに出ると、そこはまさに歓楽街だった。SEX SHOPが並び、呼び込みの兄さんたちが立っていた。しかしそこはホントに大きな通りなので、明るいイメージだった。(ああ、思い出したよ。ここだ) そこは15年前に、よく来ていた安売りショップが近くにある所だった。

 「この場所は・・」一緒の友達はみんな一様に、ここが歓楽街だったので、びっくりしているようだった。そして一軒の、店先にフルーツの並んでいる小さな何でも屋さんに入った。「ンスワール」「ボンスール」

 目と目が合って、店の前に立っているお兄さんは「ハロー・ジャポン?」ときいてくる。この感じは久し振りだ。15年前のカンが戻ってくるようだ。店内を見ていると、奥にいた兄さんも僕に目と目で、合図を送ってくる。何がどうだとかいう訳ではないが、ただの合図なのだ。

 この地区は、僕の居たカルチェラタンの地区とは違い、とても人情味があるように思えた。パン屋さんにも寄ってみたけれど、やっぱりとても親しみのある店員さんたちだった。

 今夜だけでも、多くのパリの人達とも話せたのは、フランス語を少し憶えてきたせいなのか、場所柄によるものなのか。僕は以前のパリの印象が崩れてゆく気がしていた。明日はもっと、フランス語を話してみよう。

 翌朝は雨。ホテルの受付のお兄さんは、また違う人になっていた。「ンジュール」「ボンジュール」。今日の人もとても やさしそうな兄さんだ。大きめなゆったりとした良い色のセーターを着ていた。

 どこかのカフェに出かける予定だったけれど、雨降りだし、また開いていないとの話だった。しかしホテルにも、ロビーのようなテーブルの並んだスペースがあり、そこでも軽く食べられると言う。

 「プチ・デジュネ、スィル・ブ・プレ」「ウイ」

 僕らはテーブルに座り、モーニングセットの出てくるのを待った。結局、作ってくれるのは受付のお兄さんで、奥に入り、クロッワッサンのパンや、ジャム。そして大きめなカップで、コーヒーとミルクを持って来てくれた。それも早い・・。

 彼はクロワッサンのパンの入ったカゴを、すっとテーブルに置き、さっとナイフを列べ、たっぷりのコーヒーをくれた。その仕草は何気なく、そしてシンプルで、何か仕事をしているという感じではなく、朝の当たり前のことをしているように思われた。

 パンが無くなれば、また持ってきてくれ、コーヒーもおかわりをくれた。なんというか、始まりでもある朝の時間に、ゆったりとした空気が満ちていた。僕がとにかく驚いたのは、受付のお兄さんが、なにげなく、このことが当たり前のように出来たということだった。当たり前というか、何か仕草が極めているようにも思われた。 

 大きめなカップのコーヒーと、食べ放題のクロワッサンのパンを食べながら、僕はひとつの事を考えていた。日本で、彼のような、なにげない仕草のできる喫茶店の人に会えるだろうか? このお兄さんは実は、普通の学生さんかもしれない。そしてこの当たり前には、深いパリの歴史があるように思われた。

 よく見れば、お兄さんは映画スターのジャン・ポール・ベルモンドに似ている。と、思うのは、日本人だけか・・。一人のパリジャン、そしてムッシュウというにふさわしい。誰が決めたわけではないが、そこには典型的な人柄があるようだ。

 僕は思えていた。長い長いパリの歴史があって、そして当たり前にように、そこにあるものがある。それはきっと信じてよいものだろう。(大丈夫だ・・) なぜか僕には、パリじゅうの人と話せる確信が生まれた。

 よく「パリの人は冷たいよ」って聞いてきたし、15年前も僕にもそういう印象があった。しかしそれはひとつの思い込みでしかなかったのかもしれない。15年前、まったく話せなかった僕が持っていたパリでの呪いが、今、解かれた気がしていた。僕はこんな朝を探していたのだ。2/24 夜、池袋に唄いに行く。最近、よく居るバンドの人達がいて、いつもいつも同じ三曲を繰り返して唄っている。たしか昨年も同じだった。それはそれで凄い・・。

「この橋が、ポン・デ・ザール」2/26

 なぜそう思ったのかは、自分でもよくわからない。僕はパリの人とは誰とでも話せると確信した。

 なんというか、会話の国だと思えたのだった。ちよっとだけ憶えてきた、フランス語はなぜかみごとに通じていたし、実際の発音を聞いて、イントネーションをどんどん真似していった。たいていは後ろにアクセントが付くのだと知った。

 とにかく喋ってみること。通じればOKなのだ。相手はどう思っているかは知らない。でも、言葉なんだし、僕らだって日本語を話されてイヤな気持ちはしないだろう。フランス語に限らず、僕はなぜか世界中の言葉が話せる自信がついた。フランスに来て、そう思ったのだ。

 今回、パリに来て強く思えたのは、みんな挨拶がキチンとしているということ。僕は日本の事を考えた。若者は言葉や挨拶が乱れているという。日本の若者は大丈夫か・・。そんな気持ちになってしまうほど、パリの人たちは、みんなしっかりと挨拶が交わされていた。そして、ちゃんと話かければ、かならず答えてくれる。

 そんな二度目のパリの二日目は、ちょっとみんなで観光をしようという事になった。シャンゼリゼ通りに繰り出し、凱旋門の前で写真を撮る。パリと言えば、やっぱりここに来ないと、実感が湧かないかもしれない。小雨降る中、セーヌ河沿いまで歩こうということになった。

 セーヌ河沿いと言えば、ルーブル美術館もあり、ノートルダム寺院もあり、サンミッシェルのカフェもあり、そして、有名な「ポン・ヌフ」の橋、思い出多い「ポン・デ・ザールの橋」もあるのだ。地下鉄に乗って、さっと行く予定だったけれど、散歩道が続いていたせいもあり、歩いて行くということになった。

 だんだんと見えてくるセーヌ河。しかしその頃にはもう日が暮れ、みんなも歩き疲れてへとへとになってしまっていた。一緒に来ている、友達の男の子も眠ってしまい、僕はおんぶをして歩いて行った。

 ルーブル美術沿いのセーヌ河の散歩道は、15年前、毎日歩き続けた道だった。その道をずっと歩き、もの想いをしながら孤独を感じていたのだ。この道を行き「ポン・デ・ザール」の橋を渡り、その先のノートルダム寺院まで足を伸ばそうと思っていたのだけれど、友達は疲れきってしまい、「もう歩けないよ・・」ってと言う。

 ここまで来たのに、またホテルに帰るのももったいないのだが、限界なのはしかたがない。もうちょっとだけ頑張って歩いて、ポン・デ・ザールの橋を渡った所で、地下鉄に乗ろうということになった。

 思い出いっぱいの「ポン・デ・ザール」の木の橋にとうとう辿り着いた。そうだ、ここだ、この風景だ。木の橋なので、歩く板のつぎはぎが多くなってはいたけれど、すべて15年前のままだ。あの時の気持ちが、リアルによみがえってくる。

 小雨も降っていて橋はすべりやすく、僕は眠る男の子をおぶっていたので、下向きに橋を見つめ、足元に気をつけながら橋を渡ることで、精一杯だった。本当はのんびりとゆっくり、ここをもう一度通る予定でいたけれど、それはできなそうだった。

 「ここが毎日来ていたポン・デ・ザールの橋なんだよ。この橋を君に見せたかったんだ。」

 15年前のパリでのことを知っている友達は、僕に「淋しかった・・?」と、優しくきいた。そう、あのときはひとりで淋しかったのだ。僕は泣きそうになりながら、橋を渡った。すべらないように足元をずっと見ていたので、橋からの風景はほとんど見られなかった。

 ここに来ていた僕が、15年後にこうして、男の子をおぶって橋を通ってゆくなんて想像できただろうか。背中の重さと、パリの小雨が、これでいいよと伝えていた。2/25 バイトにて、平たい石を持ち上げただけだったのだけれど、なぜか割れてしまった。ショック。その平たい石はどこにでもありそうな石でなさそうなのだ。ため息が出る。やっかいな事になるのはよく分かっていた。こんなときはどうしたらいいのか。割れた石は戻らないのだ。

「パルドン・ムッシュー」2/27

 ここはフランスの古いレンヌの町。僕は夕暮れ近く、余った時間で安いジーンズを探していた。

 なかなかコレといった店が見つからなかったが、デパートの中に大きな専門店があり、なんとかフランス語で「試着してよいですか?」と、たずね、願いどうりのズボンを買うことが出来た。いい感じだ。さて、友達のライブ会場に向かおうか。

 自分では来た道を戻っていたつもりだったけれど、どうやら街外れまでに出たようだった。(これは困った) レンヌの街のマップは持ってはいたけれど、そのマップの外に来たのだった。さて、どうしよう。急いで会場に向かわなくてはならなかった。

 憶えているフランス語で、なんとかきいて駅の方へ戻ろう。すっかり夜になっていて、ここは人通りも少ない。ちょうどバス を待っていた、初老のおばさんに声をかけた。

 「ルドン・マーム」「ウイ?」「ジュブードレ・アレ・ススィ」(ここに行きたいのですが・・)

 おばさんは、さっとポケットから、老眼鏡を出して地図を見てくれた。そして指をさしながら、「トゥ・ドゥロア・エ・ゴーシュ・・」と言う。トゥ・ドゥロアはまっすぐで、ゴーシュは左へという意味だ。わかった。「メルスィ・プールトゥ!!」(どうも、ありがとう)

 言われたとおりに歩いてゆくと、確かに戻って来ているのだけれど、まだそこがどこなのかはっきりしない。だいたいのカンで、進んでゆくうちに、また迷子になってしまった。だんだんとそれに時間も迫っていたので、僕は歩いてくるおじさんに声をかけた。

 「ルドン・ムッシュ」「ウイ?」そのおじさんは少し、飲んできた様子だった。また地図を見せて、行きたい所がどちらの方角なのかをたずねた。すると、おじさんは地図を目を細めて、方角を指でさしてくれた。しかし、その後、僕に一緒に来いと言って、つながる道まで一緒に案内してくれた。「メルシイ・プールトゥ!!」

 なんとか、会場の近くまで来たような気はするのだけれど、その辺はいろんな道が交差していていた。昼に一度来たときに目印として憶えていた、壁によじ登るサンタロースの人形は、なんと至るところにあって、目印にならなかった。(まいったなぁ・・、ここまで来てまた迷ってしまった・・)

 また、しかたなく、通りかかった、おじさんにまた声をかけた。たまたま路地で声をかけたので、その肩がブルッと震えた。驚かしてしまった。よく理解できなかったようだったけれど、地図を見せてやっとわかってもらった。おじさんもまた、老眼鏡を出して見てくれた。ちょっと迷惑だったかなとも思えたけれど、おじさんもまた、ちゃんと教えてくれた。

 おかげで、やっとぎりぎりで、ライブの会場に辿り着けた。ああ、間に合って良かった・・。何人もの人に道を尋ねたけれど、みんなちゃんと答えてくれた。「ムッシュ」と「マダーム」の言葉の響きの中には、ひとつの人格があるように思えた。本当に困っていたので、本当に助けてくれたのかもしれない。

 日本だったら、こんなふうにはいかないだろう。2/26 レコーディングのためのリハ。最近ギターの反射神経が、若い頃より鈍くなってしまっていて哀しい。ギター弾きにとって、鈍くなっていいことがひとつもない。

「途中のある別れ」2/28

 二度目のパリの10日間はとても充実した日々が続いていた。

 ホテルのロビーにいても、カフェにいても、サンドイッチ屋さんにいても、会話が聞こえて来る。僕には内容はわからないけれど、ひとつのパリらしさを、そこに見つけた。

 それは、どこにいっても、男と女の会話に独特の間があり、まるで映画のシーンを見ているようなのだ。何か言葉のかけひきがあるのだろう。男はみな「ムッシュ」であり、女性は「マドモアゼル」と「マダーム」なのだ。

 そう気付いてみると、パリのどこにでもドラマがあり、男が女に話しかけるとき、映画のシーンが始まるようだ。いや、そうじゃない、もともと会話の方が、映画的なシーンなのだろう。

 パリの人はあまりテレビを見ないという。それは大事なことだ。たとえカメラは回っていなくても、パリじゅうのいたる所がストーリーに満ちているのは、確かなようだ。

 朝早くムーラン・ルージュの前の一軒のカフェを、僕らはのぞいた。カウンターで立ち飲みをしている人がいたのだけれど、まだ奥のテーブル席は列べている途中だった。店主と思われるマダームが、「どうぞ、どうぞ」と誘ってくれている。

 前掛けをした、年季の入ったひとりのウエイターが、スッとテーブルを列べてくれ、注文を取った。「カフェ? クロワッサン?」さすがにムーラン・ルージュの前のカフェでもあるし、外国人の僕らにも慣れているのだろう。それはけっして嫌みのある感じではなかった。

 そのおじさんは髪が短く、カフェのウエイターが「ギャルソン」と呼ばれていた時代からここにいる人のようだ。パリについて書かれた本に出てくるギャルソンのイメージ通りで、僕がパリで会いたかった人だ。このカフェは老舗かもしれない。

 ひとりの背の高い、スーツ姿のおじさんの入ってきた。一番奥の席に座り、新聞を広げた。「ボンジュール」ギャルソンと、短くハッキリと声をかけた。ギャルソンとは毎日の顔なじみなのだろう。「アン・デカ」と注文。デカというのは、大きめなカップのカフェのことだ。

 そのおじさんは、ずっとここに朝、通っていると思われた。毎朝ギャルソンと会っているのだろう。その迎え方は、ひとりの喫茶店のウエイターを越えて、朝の親友という感じだ。僕はそこに古いパリの面影を見る思いがした。ギャルソンとはこんな感じだったのだろう。

 パリは可笑しいくらいに、ガイドブック通りだった。メニューにしても、レストランにしても、他の国もそうなのかもしれないけれど、

 それにしても、15年前パリに居たときの僕は、どうしてあんなに淋しかったのだろう。

 思い出多いパリの街を歩きながら、色々と考えてみた。あのときの僕は、まだまだインドでのショックから抜けていなくて、ヨーロッパに来ても、ずっとインドを探していたようだ。

 日本に帰って来てからも僕は、ずっとインドミュージックにはまっていた。そんな僕にまともなパリの旅は出来なかったのだろう。でも逆に言えば、インドのことがちゃんとそのとき血と肉になっていたのだ。きっとそれで良かった。

 今回、パリに来て、強く思ったのは、人はもう一度やって来るという事だ。それはのろいのようになってしまった場所の、ひとつの思い込みを解くために来るのだろう。たぶんそれは何にでも言えていることで、いろんなことはその繰り返しなのかもしれない。

 悲しかったり、せつなかったり、悔しかったりすることもあるけれど、それはみんな途中なのだ。旅にはいつでも続きの話が待っている。2/27 安いインスタントコーヒーを二ビンもらったまま、飲めないでいたけれど、いつものコーヒーが切れてしまい、とうとう飲み始めた。無理だと思ったけれど、意外と飲めてしまう。コーヒーがないよりあった方がいいのだ。 

 〜あとがき〜

 今年は2002年。僕が旅をしたのは、1987年だから15年前の話。

 旅の途中で買った小さなギターで、よくチューリップの「心の旅」を歌った。日本に帰って来てみると、なんだか恥ずかしい気持ちになったけれど、旅をしているときには、心境ぴったりの歌だった。

 自分でも思うが、これは旅行記と言うよりは、心の記録と言った方が近い。旅から帰ってからの僕は、図書館から民族音楽のレコードを借りれるだけ借りて、毎日聞いていた。聞き方としたら、自分の好みは、ちょっと置いておいておいて、まずノリを理解するのだ。そのノリがわかってくると、だんだんと楽しめてくる。それはその国に行ったときと同じ感覚かもしれない。

 自分も歌を作っているけれど、結局はそれは自分の「祭り」なのかもしれない。どうして「祭り」をするのかと言う、大きなテーマもあるけれど、それがよくわからないところが「祭り」の良さだとも思う。

 「旅」を終えて、アパートに帰ってきたけれど、アパートを出るときは、もう帰って来られないと思っていた。大袈裟な話だけれど、それは本当だ。帰ってくる予定の旅だったら、違ったものになっていただろう。そうだ、最後に大事なことを伝えることを忘れていた。みんなには、三ヶ月で帰ってくると行って出ていったのだ。

 帰って来ないと思っていた旅も、結局パリでは、帰国の日を待ちわびてしまった。エネルギーが切れたのかもしれない。旅で出会った、長期旅行の人がこんなことを言っていた。「二年も旅をしていると、たいがいのことには感動しなくなってね・・。一年くらいがちょうどいいよ」

 ちょうどいい一年の旅だったようだ。2/28 14年間も眠っていた日記を取り出して、旅の旅行記をずっと書いてきて、ちょうど一年になった。まるで昨日のように思い出しながらの、毎日だった。でも辛いと思った日は一日も無い。メニューにもどる(地下オン)

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ライブ情報

CD「黄色い風、バナナの夢」詳細

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