青木タカオの「ちょっくら・おん・まい・でいず」  今月に戻る
過去ログ「ヨーロッパ編」日記付き'01.12月

「アクロポリスの丘から帰ってくると」12/1

 GREECE。ギリシャ。ここはアテネ。そしてアクロポリスの丘。

 アクロポリスの丘は、ホントに古い遺跡だ。有名なパルテノン神殿。その前に立つと、ここがその昔とても栄えていたことがよくわかる。すべては終わってしまっているけれど。

 丘の上の博物館にて古代の彫刻を数多く見る。アジアで見てきた彫刻に比べて、デザイン的にすぐれているように思った。そしてユーモアがあり、タイナミックだ。なんとゆうかヨーロッパ的と言うか、シャレているのだ。

 けっこう満足して、またホテルに戻ってきてみると、この旅で、最大の悲しい出来事が待っていた。なんと、机の上に置いおいた。イラスト入りの大事な日記が、七冊、なくなっていたのだ。ホテルの人にきくと、どうやら掃除のおばさんが捨ててしまったらしい。

 そんなバカな・・。目の前がくらくらする。どうすればいいの? 毎日、毎日、時間をかけて書き続けた日記。憶えている限りの記憶が書かれている日記。ホテルの人は、急いでどこかに向かっていった。

 そして幸運にも、4冊の日記をゴミの中から探し出して来てくれた。残りの3冊は、もう持っていっただろうと言う。三ヶ月分の日記がなくなってしまったのだ。掃除のおばさんは、これをゴミだと思ったのか・・。

 僕はもうショックでショックで、しばらく笑えなかった。11/30 パスカルズ、パリライブ。今夜は大きなクラブだ。次々とお客がやって来て、大きなカウンターに寄りかかり話をする。パリの人たちっていうのは、立ちながら話すのが好きなのかな。ライブの照明が大変に暗かったのだけれど、パリの人達は暗い照明が好きなのかな。そのライブハウスには、ライブさえも見えない、二階の奥の椅子とテーブルのスペースがあった。これはいいと思った。

「日記のなくなった朝」12/2

 日記のなくなったその次の朝、目が覚めてもまだ、悲しいままだった。

 ホテルの食堂に行くと、40才くらいのホテルマンが、僕に同情してくれたのとは逆に、若いホテルマンが、気持ち良く唄を歌っていた。40才くらいのホテルマンは「まあまあ」と言うように、若いホテルマンに合図をしたけれど、彼はこう答えた。

 「トゥデイ・ビューティフルモーニング。アイム・ハッピー!!」そしてまた大声で歌い出した。たしかにその通りかもしれない。これもみんなお国柄ということだろうか。

 掃除のおばさんが、やって来てたので、最後の頼みと昨日の僕の日記について、40才くらいホテルマンと一緒にたずねると、「わたしは捨てちゃったよう」と言うだけで、あとはまた陽気にしていた。

 僕はもう日記のことはあきらめて、ホテルをチェックアウトした。

 駅に行く途中、アテネで仲良くなった一軒の食堂に寄る。そこにいるおじさんは日本語まじりで少しだけ話してくる。今日は、娘さんも店に出ていて優しい笑顔を見せてくれていた。四ヶ月後、アテネに帰ってくる予定なので。また寄れるだろう。

 駅のホーム。パトラス行きを待っている。そこからイタリア行きの船が出ている。ホームで、一人の日本の学生さんと知り合った。彼はエジプトから来たと言う。21才なのにしっかりしている青年だ。

 列車はやって来て、列車は出てゆく。さあ、また旅の始まりだ。日記は書き直せばいいだろう。12/1 パリより日本への帰国。帰りの飛行機は、なんととも味がない。機内食もそれなりに思えてくる。行きだったら、もうちょっと美味しくかんじただろう。やっていた映画が唯一面白かった。一人の老人がぼけて、自分がオペラの天才だと信じてしまう映画。

「さあ、イタリア」12/3

 18時間の船旅のあと、イタリアの地にもうすぐ到着というときとなった。

 トイレに行くと、そこには船で仲良くなった日本の旅行者三人が、揃ってしまった。あはは。これは笑うしかない。日本人らしいというか。同じ船には85人のアメリカの学生が乗っていたが、誰一人、降りる前にトイレに行こうとはしていなかった。

 さて、イタリア。日本人の僕ら二人とアメリカの女性の三人で、船の発着場から駅まで歩いたのだけれど、次々と声をかけられて、彼らの陽気さが100メートル歩いただけでわかった。

 駅の待合室にて、ローマ行きの列車を待った。待合室にて、三人のセーラー服の水兵に声をかけられた。ギターを弾いてくれというのだ。その三人は陽気さを絵に描いたような男たちだった。

 一人の水兵の帽子を一人が、奪いとる。そして両手で折り曲げるしぐさをすると、帽子を取られた方の男は、「オーッ」と言って、顔を覆いながら、悲しみの声をあげる。するとなおさらに強く、帽子を折り曲げようとする。すると帽子の持ち主の彼は、「オーッ」と、反対側を向くように、大きく声をあげる。

 まるでコメディーだ。見ていてほんとに可笑しい。こんな楽しみ方もあるんだな。ほかの南イタリアの男たちも、こうやってふざけあうなら、ステキな人たちだろうなぁ。

 ローマ行きの列車の中、コンパートメントの車両に僕も入れてもらった。ギターを弾ける男性が、サイモンとガーファンクルの「ボクサー」を歌ってくれた。僕はおかえしに「もずが枯れ木で」を歌った。僕が水が飲みたいって言ったら、ミネラルウォーターをくれた。

 列車はローマに向かう。なかなかいい雰囲気のコンパートメントになった。イタリア人はふれあいのプロだなぁ。今夜はよく眠れそうだ。12/2 飛行機は日本に到着した。時差でボーっとしている。フランス語の響きがまだぜんぜん取れない。「ボンジュール」と「オーボア」のどこにもない街にいるのだ。とても淋しい。なんだか一日寝てしまう。

「ローマの出会い」12/4

 ときどきは信じられないことが、起こるものだった。

 列車はローマに着き「ハバァ・グット・ジャーニー」の声とともに、僕は観光をひとりで始めた。ローマの街は大きい。道も広く。そしてどの建物もどっしりとしている。スペインに着くまでは、極力お金を使わないでの旅だ。

 サンピエトロ寺院。ひとだかりの中をのぞくと、そこにはミケランジェロのピエタ像があった。さすがにミケランジェロの彫刻で、見ていて人の気持ちを張りつめさすものがあった。感情表現がとても豊かで、人の目を離さないものがあった。ミケランジェロの作品と言われなくても、同じだけのパワーはあるようだ。

 そして、次はバチカン美術館。いっぱいの人が並び見ている。場所が広く、細長い場所を移動してゆく。僕は緑色のヤッケ。そしてインドのラジャスターン地方の生地をマフラー、そしてチベット製のセーターを中には着こんでいた。僕も観光のみんなに混じってゆく、その廊下の角のところで・・。

 「青木君!!」そう声をかけてきた一人の男がいた。なんと東京で一番仲のいいの島田君だったのだ。これは信じられない。

 「会えると思ったよ!!」そう言ってくれるけれど、僕の方は言葉が出ない。なにしろ日本での、いろんな何もかもを僕は島田君に任せて旅に出てきたのたのだった。つい10日前も彼にハガキを出したばかりだった。ちょっと広場で話したあと、また3時に待ち合わせをした。

 また博物館に戻って、いろいろと見たのだけれど、僕は集中できなかった。この四日間。日記がなくなったりで、感情の変化がありすぎて大変だ。嬉しくなったし悲しくなったり・・。きっとそういう時期なのだろう。

 3時。大広場の階段のところに座り、島田君に東京の友達の話を聞く。みんなにもいろいろあったと知る。ここローマで島田君に会ってることがまだ信じられない。島田君は、僕とは逆のコースでヨーロッパからアジアに向かうのだと言う。今夜は一緒の宿に泊まって、じっくりと話すつもり。

 トレビの泉。そしてスペイン階段へ。スペイン階段に座る僕ら。島田君に会ってから不思議な時間がずっと流れている。スーパー・マーケットで夕食を買い、ホテルでの食事。その夜は、電気を消したからもずっと話をした。まるで東京のアパートでの夜のようだった。12/3 仕事始め。自転車に乗って、隅田川の川沿いを走って行く。まだ頭の中はフランス語が聞こえている。「コーヒー」と言えばいいのに、「カフェ」とか言ってしまう。フランス語には響きがあっていいなぁ。でも、どこの国もそうかな。

「ローマ・そんな、さようなら」12/5

 遅くまで起きていた次の日、僕らはもう一日ローマに一緒にいた。

 僕の話したインタンブールの話をとても気に入った様子で、島田君と友達はインタンブールへ飛行機で行きたいという。エージェントを探して歩いていると、ジプシーの子供の一団が向こうから新聞を手にやって来た。

 (あっ、来たなあ・・) 僕はジプシーの子供たちについての噂をたくさん聞いていたので、さっと身をよけた。しかし島田君たちは、いらないいらないって、手を振ってしまうだけだった。お腹に新聞をつけられたその下で、ポシェットの中をさっとスラれてしまうことを僕は知っていた。

 知っていたので、僕は新聞の下からちゃんとのぞいていた。するとひとりの少女の手がさっと財布を抜き取った。少女たちは「取ってない取ってない」とジェスチャーをするだけだった。こうしていても、どうにもならないので、通りかかりのローマのおじさんに声をかけた。

 ジプシーの少女は、自分のズボンをさっと下げたりして、どこにもないって言うだけだった。しかし僕はしっかりと見ていたのだ。やがてポリスが来た。するとジプシーの少女は、すぐに財布を返した。そしてポリスは怒らないで「もう行け」と言った。

 財布があって本当に良かった。僕らはBARに入り、コーヒーを飲んだ。そこのおばさんは、「さあ、何がお好み? なんなりと注文を」というふうな、表情で迎えてくれた。そのおぱさんの前では僕らはまるで子供だった。そして同じように、イタリアのおじさんにも話かけている。慣れているものだった。こんなおばさんに会うのもはじめてだなぁ。

 道を歩いていたら、14・5才くらいの若い女のコに僕らは囲まれ、ジェスチャーで話しあい、おどけあった。なんて陽気な彼女たちなんだろう。僕は思った。まるで学校の授業のときの自由時間のようだなって・・。

 夜になった。またスーパーで夜食を買って来て、僕らは話をしたり、ギターで歌ったりして過ごした。あっという間で、また長い二日間だ。そして僕は今夜の夜行で、次の国に行ってしまう。10時半。駅のホーム。島田君は、出てゆく列車と僕に、ずっと手を振り見送ってくれた。七ヶ月前、東京でも同じように彼は手を振ってくれていたので、とても不思議な気持ちだ。ここはローマ。そんな、さようなら。12/4 いろいろとDM作業等で、あまり眠れない。限界まで忙しい一日。まるでパリにいた日々が、僕にとって休みだったようだ。本当にそうだったのだ。

「ベネチア」12/6

 「水の都・ベネチア」と言うけれど、まさか駅前から、そうだとは思わなかった。

 ひと晩、列車で過ごした後の眠たいまぶたに、みどりの水路は、靄のなか朝の光に輝いていた。あまり観光もしなかった僕でさえ、(あーっ)と、ため息が出てしまうほどだ。

 レンガ色の路地の向こうから歩いてくる、ベネチアの人たち。ローマの人に比べて、なお気品高く見える。着ている服もバッチリと決まっていて、イタリアファッションここにありという感じだ。

 水路の流れるそのそば、道を歩いてゆくと、ひとつの事に気が付く。とても静かで足音が妙によく響いているのだ。(そうか、車が走ってないのか・・) 車の走らない路地のなんて自由で、ステキなことか。僕はそのことを感じただけでもベネチアに来て良かったと思えた。

 サンマルコ広場へ向かう途中、フルーツを買おうと、辞書を引きながら洋梨を買った。メガネのおばさんの言ったくれた「グラッツェ」の言葉のやさしかったこと・・。

 ベネチアは、仮面で有名らしくて、いたる所で、仮面を見かけた。みやげもの屋さんの続く道。そして水路を通って行く船。古そうな橋。どれも歴史を感じさせる。僕はまだ「ベニスの商人」の本を読んだことがない。

 通りを歩いていると、イタリアの他の土地から来たと思われる、観光の若者たちの一団とすれ違った。その先頭ではギターを持った女のコが陽気に歌っていた。そんな光景もここイタリアでは自然に感じられた。

 ベンチに友達と座っていると、イタリアの若い女性の観光客が、僕らを写真に撮ってもいいかと言う。よくわからないけれど、こころよくOKした。そして彼女は微笑みパチリと撮った。そして歩き出し、振り返ってもう一回、僕らに微笑んだ。

 イタリアはやっぱり、ふれあいの国だ。僕はその微笑みについて行こうと思った。12/5 フランスから帰って来てから、ずっと鼻が止まらない。声も枯れてしまった。たぶん風邪だ。ああ。この5年くらい、風邪なんてひいたことなかったのに、フランスの風邪はちがうのかな。

「ウイーン」12/7

 冬。オーストリアのウィーン。寒々とした広い道。ここはもちろんクラシックの音楽家で有名な街だ。

 インドから来た僕なんてなんだか場ちがいのような気がしていたけれど、街なか、そして街はずれを歩いているのちに、その寒さとは逆に、とても気分が良くなってきてしまった。

 なんて広い道なんだろうと思うほど、広い道のまわりには、続く広場のようなスペース。そしてその向こうに見えている古い建物。歩いているのは僕くらいじゃないか。そしてその真ん中あたりに立っている像は、きっと有名な作曲家だろう。

 ぜいたくと言えば、ぜいたくな景色の中、僕はどんなふうに歩いていけばいいのか? 今日はなんとかサンドイッチを買って、お腹に入れたけれど、どうにもペコペコだ。それでも歩き回るここウイーンの街。なんだか小学校時代の帰り道のようだ。

 学校時代に習った有名な作曲家もここを歩いたのかなぁ。目に入るどこにも、雑多な路地がない。こんなに広い空気と空と景色があって、きっとクラシックの曲ができのただろう。

 街なかをずっと行くと、そこにはドナウ河があった。あの「ドナウ河のさざ波」のドナウ河だ。そのほとりに腰かけていると、そのメロディーが耳に聞こえてくるようだ。いや、確かに聞こえてくる。こんな僕にさえ、そんな気分になってしまう。

 ウイーン。駅前通りにある喫茶店をのぞくと、バイオリンのケースを側に置いた若い女の子たちが、話していた。ここには音楽がある。12/6 友達とリハ。とても気持ち良く歌える。とても気持ち良く歌えて、友達もそれに合わせているので、もう一回の同じ曲のリハが、ぜんぜん集中できない。それはそれでわかってていい。

「叩きつづけた彼」12/8

 待合室のドアは壊れていて、完全に閉まらず、すきま風が吹き込んでいた。

 ウイーンの駅の待合室。外は寒く、中は暖かい。ヨーロッパでの移動は、夜行と決めていたので、僕も何時間も駅で待たなければならなかった。今夜はいろんな人の表情が見られた。

 ひとりのおじさんと、ひとりのレディが、ドアの側にいた。すきま風がよほど気になるのか、かみあわなくなると、どちらかが直しに行った。それも2分に一回くらい。これはどういう心理なのだろう。日本人なら、奥の席に移動するだろうに・・。

 そんな中、リュックを傍らに置いた青年が、待合室の団体さんに、旅のエピソードを大きなジェスチャー付きで話していた。そばに居た女のコと話が盛り上がっていた間は良かったのだが、ひとりのおばさんが「列車が来た!!」と言った瞬間、みんな荷物を持って、あっというまに出ていってしまった。

 彼は話はまだ途中だった。そして誰も彼に、ひと言も言わなかった。ひとりぼっちになった彼。それから行動が少しおかしくなった。彼は僕が会ったことのないタイプだ。寝袋を出して入ってみたり、また起きてみたり、いっときだって落ち着いているときがない。

 駅員がやって来て、「ここで寝てはいけない」と注意した。ドアを完全に閉めないで行った駅員に、彼はドアが割れるかと思うほど、強くドアを叩き閉めた。そして文句をひと言・・。

 その後、彼自身、外に出ていったのだけれど、おかしい事に、ドアを閉め忘れてしまっているのだ。帰って来た彼に、ひとりのおじさんが注意すると、何十倍にもいいごたえをした。それもおじさんをののしるように。

 夜は更けてゆく。まだ僕の乗る夜行の列車は来ない。また待合室のベンチに横になった彼は、思いきりベンチを叩いた。その気持ちはなんとなくわかる。彼はよほど悔しかったのか、何度もベンチを叩き続けた。12/7 地下ライブのための原稿書き。今回のフランスの事を書こうと思うだけれど、うまくまとまらない。自分ではよくわかっているのだけれど、あまりに個人的なことばかりで、どうやって書き出したらいいのかヒントがない。

「インスブルックの小さな街」12/9

 夜行に乗って、オーストリアの インスブルックに到着すると、さすがに雪になっていた。

 まだ早いのに、傘をさしての観光。古い建物のなかちょっと、路地を抜けると、もう山々の見える景色になっている。ここは山の近くなのだ。降り続ける雪。そして寒い・・。

 うすくけぶって見えている山々の下、赤や白や、うすい緑色の三角屋根が並んでいる。これがよく言われるインスブルックの景色らしい。そして煉瓦の敷き詰められた道に現れるロココ調の家々。それは本当、童話の世界のよう。

 インスブルックは小さな街なのに、どこにいっても僕を裏切ることはなかった。この世にこんな街があることが嬉しい。新婚旅行にぜひ来たいと思える所だ。

 チロル民族博物館に入ってみる。アルプスの厳しい生活の中から生み出された、独特の装飾の付いた生活用品や家の造り・・。そのどれもがユーモアに満ちた、童話性あふれるものばかりだった。

 街を歩いていて、出会う名所の数々。そのどれもが愛したくなる気持ちでいっぱいになった。インスブルックの小さな街。ああ、みんなに見せてあげたいな。

 小雪ちらつく中、ひととおり観光をして、駅に戻って来て夜の7時。この駅にはなぜか暖房がなくて、ガチガチと震えてくる。列車の時間は午前2時だ。酔いながらギターで歌っているおじさんがしばらく僕を楽しませてくれた。

 そして12時を回ると寒さもひとしおで、僕は寝袋を出して体を包んだ。もう待合室には、4・5人しかいない。ある若者が、ベンチに横になったので、僕もまた横になった。12/8 ミニコミ会議のコピーに行く。思えば、この十年、毎回コピー屋に通っている。お店の人とも仲良くなった。いつも使っているコピー機も古くなった。以前に比べて紙がつかえなくなった。こんなふうに進化する機械もあるんだな。

「いとしきドイツ」12/10

 僕らはきっと、このくらいがちょうどいいのだろう。

 午前10時、やっと列車は西ドイツのミューヘンに着き、一緒だったスキーのコーチをやっているという兄さんに、そのまま朝食をおごってもらった。こんなことは珍しいけれど、ドイツの人には、旅の間こうやって何度もお世話になっている。

 一番の友達だったツーリストのベンの故郷も西ドイツだ。そして思い出せば、何人ものツーリストの顔が浮かぶ。ああ、彼らのやって来た西ドイツに僕もやって来たのだ。

 荷物をコインロッカーに預けて、そんな懐かしい気持ちのまま、街を歩いてみた。まず最初に気付いたのは、いろんな表情の人達がいるということだった。そしてなんだか、みんなどこかに急いでいるように見えた。フッションもラフに決めている人が多いようだ。

 (ここはまるで東京のようじゃないか・・) 日本人とドイツ人は昔から気が合うっていうけれど、それなりの理由があるように思えた。そのまま街をどんどん歩いてゆくと、大きな歩行者天国のような道に出た。

 ジーパンに黒の皮ジャンの若者。髭をたくわえて思慮深そうな人。ツッパリと思われるいかめしい表情の青年。そして日本で言うところのギャルたち。辺りの見えているお店は大衆的な店が多い。まるで日本からアジアを取って、ヨーロッパに変えたようだ。

 広場に来ると若者らが集まって、なにかデモをやっていた。スピーカーを使いまるで東京の活動家と同じようだ。カーキ色のジャケットに色の褪せたジーンズ。そんな悲哀あふれるストリート。とても似ている日本とドイツ。僕らにはきっとこのくらいがちょうどいい。

 それから三時間、ミューヘンの街を歩き続けた。胸の中はドイツに対するいとしさでいっぱいだった。でもあとふたつ、ドイツの他の街にも寄るので答えはまだとっておこう。12/9 今日は、ライブのためのリハ三昧。富山から来たベースのカッキーは、よく練習してきてくれていた。ほんと感謝している。なにげなく演奏してくれるけれど、なにげなくなんて出来ないことだ。

「今日のような昨日のような明日」12/11

 ドイツのロマンチック街道を通る列車の中、僕はすっかり眠ってしまった。

 夢とロマンの世界のようなその家々の景色を見るために、その列車に乗ったというのに・・。何やってるんだろう。旅人失格のようだ。でもあったかい列車はどうしても眠ってしまう。

 列車に乗った意味もないので、ロマンチック街道のひとつの街「ヴュルツブルグ」にて降りる。もう夕方なので、日没までにいくつか回らなくては、いけない。立派な教会の前に立ってみるけれど、どう素晴らしいのかよくわからないので、「へぇーっ」と言って終わってしまう。こんな観光でいいのだろうか。

 サンドイッチは高い。でも腹がどうしても減ってしまったので、これは得だと思って、ハンバーガーに使う丸パンのセットを買った。オレンジジュースと一緒に食べてみるけれど、なんとも味気ない。

 駅の待合室で、今夜も夜中の2時まで時間を待たなければならない。ため息まじりで座っていると、ひとりの日本の女性に声をかけられた。彼女はちょっとぜいたくな旅をしているお嬢さんのようだった。お化粧もバッチリときめていた。

 こんなお嬢さんと話せるなんて、東京にいてもあまりないはずなのに、こうして旅先では、普通に話せて不思議な気持ちだ。ハンバーガーのパンだけさっき食べた男は、お嬢さんと旅の話で盛り上がっている。非現実のような、そうでないような・・。

 また一人になり待合室で待つ。毎日がこの連続だ。次々とやって来る人たちを見ているのが、小さな楽しみになってしまった。西ドイツの不良と思われる若者がやって来る。パンクフッションに身を包んだ若者。すごい髪だなぁ。でもその雰囲気は日本のパンクの若者と、変わらないようにも思えた。

 やっと、本当にやっと列車の来る時間になった。午前2時発。僕は我慢できなくて30分も前からホームで待っていた。寒々としたホームには誰もいない。誰もいないので僕は唄を歌った。誰もいないホームで歌う唄は格別だ。嬉しいような泣きたいような、そんな気分だった。

 列車は来た。でも2時間後には、また次の街で降りてしまうのだ。12/10 とうとう地下ライブ当日。今回は新曲も多いので、唄っていても新鮮だ。バンドはやっぱりいいね。なんといっても、それぞれの曲がバンド演奏になって出来上がるのがいい。

「フランクフルト駅、午前4時」12/12

 たった2時間だけ、夜行に乗って次のドイツの街に到着した。

 フランクフルト駅、午前4時。思っていたよりも人が多い。座り込んでいる人、寝転がっている人。そして体を寄せ合い歩いてくるカップル。そうか今日は日曜で、昨日は土曜の夜だったのだ。 フランクフルトは大きい。これは大都市の持ってる顔の一部なのだろう。

 朝4時に着いても、何をするわけでもない。ただ寒いだけだ。それもものすごく眠い。フラフラと歩いてゆくとメトロがあり、そこは少しは暖かく、椅子もあり横になった。ああ、お腹が減りすぎている。もう二・三日したら、僕はスペインのバルセロナに入る。そこではひと月滞在する予定なのだ。物価もここよりは安い。ゆっくりとそこに入ったら休み、たっぷりと食べよう。

 ツーリストインフォメーションが開く時間になり、次の街への切符を買うために僕もまた入った。ここはとても暖かい。しばらく椅子で休んでいると、30才くらいのドイツの女性に「アー・ユー・ロングトラベラー?」と声をかけられた。

 彼女は僕に、フイリピンの予防注射についてきいたのだけれど、それよりも僕の節約旅行の方に関心を持ったようだった。旅で出会ったドイツの人がみんなそうだったように、彼女もまた僕の話を最後まで聞いてくれてから、答えてくれる。なんというか、理解力があるというか、相手の話を大事にしているという印象を受けた。

 そして最後に、彼女は僕に「私はバナナがそんなに好きではないのです」と言って、パンとバナナをくれた。いい出会いだった。旅の間に多く知り合ったドイツ・ジャーマンのみんなのやさしさがここにもあった。

 9時になり、やっとフランクフルトの街に出かけた。教会の鐘が鳴り響いている。でもやっている店はポルノの映画館くらい。マイン河を渡り、少し込み入った路地に入ってゆくと、そこは飲み屋街だった。どこの店も小さなビアホールといった感じで、昨日の土曜の夜はさぞかし賑やかだったろう。ああ、見たかった。来てみたかった。

 ひととおり街を回ったあと、やっぱり外は寒いので、駅の地下街に戻り大きな本屋さんに寄った。ある男性が座り込んで本を読んでいた。立ち読みというのは知っているけれど、座り読みとは・・。しかし彼の表情は真剣そのもので、徹底的に読んでいる。これがドイツの人なのかなぁ。

 そんなこんなとドイツを探しての一日。また夜になりスイス国境近くの街、バーゼルの駅まで移動した。今夜はここで夜を明かそうと休んでいると、1時から4時までは、駅をしめてしまうという。しかたなく外に出てみると信じられないほど寒い。

 もうどうでもよくて、近くのベンチで寝袋で寝ていると、僕を起こす人がいた。警官だった。事情を説明すると、「ハバ・グット・スリープ」と言ってくれた。ドイツの人たちはやっぱり理解力があるようだ。12/11 次のライブで、友達と沖縄民謡を一緒にやるので、曲を憶えようと思うのだけれど、ぜんぜんつかめない。聞き続けるしかないのか。

「ルツェルンの橋」12/13

 なんとか朝になり、僕はスイスの町、ルツェルンに立っていた。

 寝不足の目を、覚ましてくれるようなその景色にびっくりしながら歩いてゆく。町を取り囲むようにして見えている白い山々、エメラルド色の湖、中世を思わせる街並み・・。こんなきれいな都と所があって良いのかと思えた。湖にはカモや白鳥が泳いでいる。

 湖の青さと白い山々の組み合わせのみごとさの中を、ただただ進んでゆくのはとても幸せな気分。通り行く人々の服のスタイルも決まっていて、女性はみな愛らしい。ここはスイスランド。どうしても「オオ、ブレネリ」を口ずさんでしまう。

 町の通りに来て、時計屋をのぞいてみると、シンプルでステキな時計ばかりで、どれをみても良く思えてしまう。日本には、失われたものがここでは輝いて見えてくる。

 ルツェルンの町を小さくひと回りしてみると、どの店のショーウインドゥも綺麗に飾られてあり、飽きずに眺めることが出来た。スイスの人たちは綺麗で整理好きなのかな。チョコレート屋さんも多い。ああ、チョコレートが食べたい・・。

 なんだかとっても幸せな気分のまま、最後に、湖の真ん中をつないでいる、古い屋根付きのカペル橋をゆっくりと渡った。カペル橋は、ルツェルンのシンボルでもある。ここから見える景色、ここを渡ってゆく気持ち。このまま持って帰れないものだろうか。12/12 バイトで、二ヶ月前に、人の家の物置に忘れて来た鉄の棒が、二ヶ月後にちゃんと残っていた。棒の芯まで寒さに冷えていた。

「インターラーケン」12/14

 スイスのインターラーケンはアルプス山脈への入口の町だ。

 ここからは登山列車が発着しているけれど、えーっと思うくらい料金にパスしてしまった。どこの国でもそうだと思うけれど、登山列車に乗るにはそれなりのお金が必要だ。

 町のマップを見ると、歩いて三十分くらいの所に湖があったので、リュックを背負ってえっちらと向かった。パンをかじりながら歩いてゆく、こんな節約旅行ももうすぐスペインに入り、とりあえず宿に落ち着くだろう。

 見えてきた湖には、白い山々が映り込み、まるで「アルプスの少女ハイジ」が歌いながら走ってくるようだ。ヨーロッパに入ってから何度も夢のような景色に出会ったけれど、ここもまたそうだ。

 僕はギターを出してポロポロと弾いてみた。ボブ・ディランの「北国の少女」が今は歌いたい。この唄は、インドでもずっと歌い続けていた曲だ。とうとうインターラーケンまで来たという実感でいっぱい。もう10日間くらい、夜行や駅で眠り続けてきて、体がへとへとになってしまった。

 散歩にやって来た、一匹の黒い大きな犬が、自分から湖の中に泳いで行き、体を洗う仕草をしてまた帰って来た。犬は、こんな冷たい水でも大丈夫なのか? 信じられないことをする犬だなぁ。でもここでは当たり前なのかもしれない。

 アルプスの山々に囲まれた湖のそばで、ポロポロと弾くギターはとても嬉しい。唄も心も少しだけ澄んで、僕はまたリュックを背負い、えっちらと駅に戻って行った。12/13 失敗したなと思って買ったマフラーがしているうちに、とても気に入ってしまった。こういうことはとてもいい。特に気に入ったマフラーはとてもいい。

「ジュネーブ行き、バルセロナ行き」12/15

 あと10分でジュネーブというときに、すっかり眠ってしまい、車掌さんに起こされた。

 スイスの車掌さんはとてもひょうきんなスタイルをしている。床に着きそうな大きな赤いバックをたすきがけにして、ハの字にはねたヒゲをたくわえていた。どうやって出来た伝統なんだろう。

 一緒のコーチになった若い女性もステキだった。ずっと「ボンジュール」の声の響きが残っている。スイスは僕の肌に合うようだ。

 夜の11時。そしてもうすぐ駅をしめてしまうというので、今夜もどこかで野宿ということになった。きついけれど、なんとか乗り切ろう。

 朝早く起きて、さてジューネーブでの一日だ。今日はパリのトランジットビザを取り、スペインへ向かうのだ。バルセロナに着いたら宿を取り、ぐっすり眠るのだ。

 ビザのもらえるまでの時間、ジュネーブの街を歩いてみた。やっぱりストリートミュージシャンが気になってしまう。スペインギター弾きの前で、日本人のおばさんが立って聞き惚れていた。日本のおばさん、あんたが良かったよ。

 無事にビザがとれると、もう心はスペインに飛んでしまっていた。バルセロナ行きの列車を待つ気持ちはなんとも言えないものがあった。列車に乗り込むと、一見して人なつこそうなスペインの男がそこにいた。二人はバレンシアの男だと言う。すぐに僕らは仲良くなれた。

 二人の会話を聞いていると本当に愛しさが湧いてくる。お互いを半分けなしながらも進んでゆく会話は、飽きさせなくて、そして二人でいることが楽しいようだ。夜が更けて眠くなってきたので、僕らは思い思いのスタイルで横になった。12/14 冬の雨はきつい。外で仕事をするには雪になった方がいい場合が多い。日が暮れるのも早く。なお淋しい。日が暮れて後の冬の雨は、いちばん淋しい。

「スペイン列車」12/16

 その車両は、まるで学校の教室のように騒いでいた。

 スペインの若者たちを乗せた車両はとても賑やかだ。たぶん高校生だろう。どこかに旅行にゆく途中か、その帰りのようだ。僕は同じ車両の席で、その明るい雰囲気に一緒に包まれていた。さあ、初めてのスペインだ。僕は心をゼロにして、その声の響きを聞こう。

 その騒がしい列車が、大きな岩を抜けて、海岸沿いに入ったとき、太陽が見えて、とても明るい日差しが車両いっぱいに広がった。それと同時にみんな立ち上がり、歓声を上げた。こんな若者たちと僕はかって出会ったことがあっただろうか。

 若い彼らは本当に自由だ。椅子に座ることなく、思い思いのスタイルで時間を過ごしている。感情のままに喋る声の響きが聞こえる。怒る声、笑う声、それぞれ何も押さえられていない。指をくわえたまま、話を聞いている女のコ。カップルの男女はもつれ合いながら揺られている。これぞ人間の列車だ。

 リーダー格の女のコが急に大声で怒り出す。彼女は本気で怒っているので、僕は嬉しくなってしまう。そんな雰囲気の中、ひとりの男の子が歌い出した。すると次から次にみんな合わせ始め、コーラスの部分では、全員で歌い出したのだ。

 有名すぎる唄も、大きな声で歌う彼ら。みんな唄うことを愛しているようだ。コーチ中に響く、その歌声には胸に響くものがあった。そして唄がなんだかしらけてくると、急に誰も歌わなくなるのだった。それもまた良い。

 途中の駅で止まっている間に、ふたりのおばさんが乗ってきて、若者に混じって僕の前に座った。ふたりのおばさんはとてもオシャレだ。なごやかに二人話している。車両は相変わらず騒がしかったけれど、まったく気にしてしないようすだ。逆にこのうるささを気持ちよく受け止めているように思えた。おばさんたちもきっとこの雰囲気が好きなのだろう。

 そして列車はどんどんバルセロナに近くなっていった。12/15 今日は一日、次のライブで一緒にやる沖縄音楽をコピーしていた。フレーズフレーズで分けてみたけれど、進まない。結局丸暗記することになった。自分の中に音の根っこがないのだ。

「バルセロナ到着」12/17

 午前10時、列車はとうとうバルセロナに到着した。

 ランブラス通り沿いの安宿に決めて、やっとベットに荷物を降ろす。この10日間は長かった。毎日が夜行での移動で、寝不足の上に風邪もひいてしまった。体力ももう限界のところで、バルセロナに着けて良かった。

 やっと落ち着いたところで、ちょっとだけ散歩に出かけてみた。なんと言っても、バルセロナのメイストリートは、ここランブラス通りだ。たぶん何百回も往復することになるだろう。

 「スペインの女性はきれいな人が多いよ」と何人もの旅行者にきいていたけれど、歩いてみて僕もすぐそう思った。若い女性はみなやせていて美しい。これが「セニョリータ」なのか。

 このバルセロナの通りを歩いていると、僕も恋をしたい気持ちになってくる。みんなの瞳にもそれが見えるようだ。インドのバザールも表情ゆたかな、何でもありという雰囲気で満ちていたけれど、もうひとつ恋の雰囲気がなかった。ここでは恋愛が街の活気にもなっているようだ。

 (自由な風が吹いてるなぁ・・) そんな気持ちになったのも久し振りだ。バルセロナと言えば、建築家ガウディの「サグラダ・ファミリア」の教会が有名なので、とりあえず見に行った。よく造ったなぁと思うほどすごい。すごいけれど、今日は軽く、あいさつだけして帰ろう。

 夕方宿に戻ると、ものすごく眠くなり、そのまま眠り続けた。本当に疲れていたのだ。12/16 友達に頼まれた映画のパンフレットとポスターを買って帰ってくる。山手線の電車は混んでいたので、神経をつかった。ポスターを運ぶってこんなに大変だったのか。

「ガウディの窓」12/18

 結局、眠り続けて14時間もたってしまった。

 今日の予定はガウデイの「グエル邸」とピカソ美術館に行くことだ。ホテルのマネージャーにきくと、ガラッと窓を開けて「これがグエル邸だよ」と言った。なんとグエル邸は、このホテルの裏だったのだ。

 僕の部屋の窓も開けてみると、たしかにグエル邸の屋根とオブジェが見えていた。目の前にガヴディがあるなんて嘘のような本当の話だ。

 グエル邸はガウディの建築の中でも、おとなしい方なのかもしれない。大通り沿いに見えている「カサ・ミラ」なんかは大変に目立っていた。くねくねとした窓が続き、まるで溶けてゆくマンションのようだ。と、言っても巨大建築の「サグラダ・ファミリア」はもっと目立っているけれど。

 とにかく、グエル邸が裏にあったのは、とてもラッキーだった。バルセロナにいる、ひと月のあいだに、ガウディとピカソは、しっかりとたっぷりと見ようと思っているのだ。

 どこに出かけるにも、ランブラス通りを歩かなければならない。この二日間で、なんど歩いたことか。この通りはホント表情豊かだ。そして活気がある。キスをしながら通りゆくカップルが特にいい。インドの道とはまた違うパワーがある。みんな勝手に考えたいことを考えているようだ。

 通り沿いのスーバーマーケットに寄り、いろいろと買い物をしてきた。トマトや、にんじんや、パンやバター。なんだかウキウキしてくる。にんじんなんて1kgも買ったけれど、僕はどうするつもりなのか。

 ガウディ、ピカソ、ランブラス通り、そしてスーパーマーケット。バルセロナでの新しい生活が始まった。窓からグエル邸をながめながら、にんじんをかじってみる。12/17 仕事で電話すると、なんだか話が合わない。「もしかして母のことですか?」と言われる。いやぁ。声ってそっくりなものですね。

「GRACIAS!!」12/19

 夕方4時をすぎたくらいから、ランブラス通りの一本隣りの道は歩行者天国のようになり、いろんな大道芸人たちがやってくるのだった。

 ギター弾き語りの人はもちろんの事、フオルクローレのバンド、そして手品ほか、なんでもありのようすだ。そんな中、台の上に立ち、まったく動かない人たちがいた。でも「GRASIAS」と書かれた帽子にお金を入れると、ちょっとだけ動くのだった。

 いかにも役者という顔立ちの男と、ピエロの格好をした男がならんで、台に立っている。帽子にお金をいれると少しだけ動くのだけれど、ピエロの方は、丸い赤い鼻のランプが付くだけなのだ。それもまた可笑しい。二人でひと組でやってるのかもしれない。

 また銀の背広を着た背の高いおじさんも、ただ片手をあげてまったく動かないままで立っていた。彼の場会はお金を入れても動かないままだ。あれなら僕にもできそうだなあ。みんなに共通しているのは、逆さになっている帽子に「GRACIAS」と書かれていることだ。

 「GRACIAS」それは「ありがとう」と言う意味に間違いなかった。大道芸人たちとグラシアスの言葉は切っても切れない関係にあるようだ。その手書きの「GRACIAS」の文字には味がある。

 ひとりのギター弾き語りのシンガーを見かけた。彼の選曲はなかなかに好みにあうものだった。僕もストリートでよく唄っていたので、話けてみた。彼のノルウェー出身で、こうやって旅を続けているのだという。僕が「日本の唄を聞きたいかい?」と言うと、「ノー。これは私の仕事だ」と断られてしまった。おまけに「お金をどうぞ」とか言う。言われてみれば、そうかもしれないけれど、淋しいなぁ。

 バルセロナの日々は、この夕方の大道芸人たちの時間がメインになりそうだった。12/18 いよいよ明日はグットマンライブ。まだ沖縄民謡がコピーできないている。ああ、ライブは明日なのに。がんばってもできないことってあるのだなぁ。明日の午前中、がんばって丸暗記でいこう。

「1リットル69円のワイン」12/20

 今日は日曜で、ほとんどの店が休みなのに、バルセロナの人たちはみんな街に出かけてくる。

 ショウウインドウかなんかを眺めながら、喋りながらゾロゾロと歩いている。何もないかと思うとそうではない、休みと言ってもいたるところで大道芸をやっていて、お祭りのようだ。

 僕もまたみんなに混じって歩いてゆく。何も考えないで行ったり来たりする楽しさ。道があって、人がいて面白いことをやっている。それでいいと思えてくる。お腹いっぱい食べて、眠りたいだけ眠って、歩くみんなに恋をして、こんな日々がも今は生きることを教えてくれる。

 スーパーマーケットに、いつものように寄ると、山積みになってる、箱があり、よく見たらワインだった。値段は60円くらい。ああ、水より安いじゃないか。ホテルに帰って、ワインを調子に乗って多く飲んでしまった。なんだろうこの幸せ感は。バルセロナに来てから、体の力が抜けっぱなしだ。

 街を歩く。そして帰ってくる。ここ最近、唄を口ずさむのが日課になってしまった。 その楽しさときたら・・12/19 今日はいよいよライブ。ずっと練習してた、沖縄民謡にギターを合わせる。たいしたことはもちろん出来ないのだけれど、気持ちは(やっとここまで、来たのだよ)というところ。

「私の一番長い日」12/21

 今日は運命の、フランス三ヶ月ビザを取りに行く日。

 僕は一度、フランスをトランジットで通り抜けているので、90日ではなく、30日になる可能性が高かった。しかしそれは困る。もう三ヶ月後のパリ発の飛行機チケットも買ってあるし、もともとパリに三ヶ月居ることが旅の目的だったのだ。

 フランス領事館へ行き、書類に書き込む。窓口のお姉さんは、とても陽気で、僕に気軽に話かけてくるので、なんだか大丈夫なような気もしてくる。そして運命の窓口へ。

 「ワン・マンス・オンリー!!」

 うわっ。いちばん恐れていた言葉をお姉さんに言われてしまった。やっぱり一度通り抜けているので、三ヶ月は無理だと言う。しかしここが勝負。旅で養った経験を生かすときだ。僕は三ヶ月後のチケットを見せて、90日ビザでないと困るんだと強く強く押し切った。

 そしてお姉さんは、困った顔をしながら「OK」と小さく答えて、30を90に書き直してくれた。しかしなぜか、30日ビザのお金しか、僕に請求しなかった。夕方の5時に、もう一度来て下さいと言う。

 嬉しい気持ちで、外に出たものの、ちょっと不安になってしまった。ホントに90日ビザは取れるのか? なぜ、30日ビザのお金だったのだろう・・。やっぱり30日だけと言われそうな気もする。

 午後5時までの私の長い一日。どこにいっても落ち着かなく、胸がドキドキする。旅に出てこんなに不安な気持ちになったのは初めてだ。ホテルにいても眠れないし、時間がたつのが遅いので、散歩に出かける。でもやっぱり時間がたつのが遅い。

 とうとう気持ちは、(30日ビザでもいいさ) とか自分で開き直ってしまった。そう考えると楽なのだ。不思議な心の変化を感じた。そしてやっと5時。本当にやっと5時。僕は領事館にビザを取りに行った。お姉さんがニコニコしながら僕にパスポートを渡してくれた。みれば90日と書かれてある。

 (やったー!!) 一度は断られたのだから、微妙なところだったのだろう。特別処置だったのかしれない。僕はしばらく 90日と書かれたビザを眺めていた。嬉しいー。グラシアス!!

 ホテルまでの帰り道は、気分もよく、何もかも輝いているように見えた。ヤシの木のベンチが生きているように見えた。今日はお祝いだ。僕はスーパーマーケットに寄り、チョコレートにコーラ、フルーツヨーグルトにバターにパン。そしてパイナップルの缶詰を買って帰った。12/20 来年の手帖を買ったのだけれど、みんなの住所を書くスペースがあまりに狭い。e-mailなんて、ぜったいに書き込めない。どうしてだ? 理解できない。

「買ってしまったLP」12/22

 大道芸の花と言ったら、ここバルセロナでは、何と言ってもフォルクローレのバンドだった。

 道で多くの人が輪になっていると思えば、たいがいはそう。フォルクローレのバンドは、道でやるのがとても似合っていた。派手だし、見ていて楽しいし、それに自分の世界に入っているところが逆に人を惹きつけるようだ。

 バルセロナは大道芸が盛んなので、やってくるフォルクローレのバンドはひとつではない。青年のバンド、そしておじさんのバンド。それぞれに味があるが、さすがにおじさんたちになると、唄に疲れが出ているようだった。長い長い旅を、毎日、大道芸でやって来たせいもあるのだろう。それはそれでドラマを感じる。

 何度も観ていると、演奏のパターンがあることもわかってきた。輪になって、回りながら演奏されると、それぞれの楽器が目の前を通り、いい感じになる。そして盛り上がったところで必ず演奏される曲があった。どのバンドもそう。そのあとで、いつも投げ銭のかごが回ってくる。

 ある日ほんとに大きな輪が道にできていて、のぞいてみたらフォルクローレの若者たちだった。彼らは大変な人気で、サインを書いたり、女のコに囲まれたり、まるでバルセロナのアイドルのよう。たしかに演奏も元気があって観ていてひき込まれてゆく。カセットやLPレコードを出していて次々と売れていた。

 僕はひとつの事をイメージした。彼らはここバルセロナでは、人気者なので、みんなの力でレコードが出たのではないかと思われた。すべての大道芸の人たちの中で、彼らは群を抜いて人を集めていて、バルセロナのみんなが彼らを応援しているように思えた。

 彼らもまた、盛り上がると同じ曲を演奏した。その曲はフォルクローレの宝物なのだろう。聞いていると、お金をあげたくなり、どうしてもレコードが欲しくなった。旅の荷物になるとは知っていたが、僕も買ってしまった。12/21 今日は「じゃあ」なついて考えてみた。「じゃあ」は「では」の変化した言葉だろう。「では」もまた面白い言葉だと思う。「ではね」が「じゃあね」になり「ジャーネー」になったのか。そんな事を考えていた。

「雨にうたれるカテドラル」12/23

 いつものように散歩に出かけるのだけれど、あいにくの今日は雨。

 バルセロナの人たちは、ちょっと雨くらいでは、露店をしめたりはしない。大道芸の人たちも、(そのうちに止むだろう)と、思っているようだ。僕もまた、そんな気分で散歩に出ていたのだけれど、雨はいっこうに上がる気配がなかった。

 ランブラス通りから入った路地の奥に、とても大きな古いカテドラルがあり、そこに行くと人がいつも集まっていた。何か出会いもあるような気もして、ついつい雨でも足が向いてしまう。

 高村光太郎の詩に「雨にうたるるカテドラル」という詩があり、今日もここに来てしまった・・と、うたわれていて、僕はしみじみと想い出していた。雨の中のカテドラルはひきつけるものがある。行く場のない気持ちは、まるで友に会えているようだ。

 バルセロナで人が集まるところといえば、ランブラス通りと、ここカテドラルがメインのようだ。カテドラルの前には、大きな広場があり、そこには若者がいつも集まっている。日曜日には、輪になってゆっくりと踊る「サルダーナ」が、ここでおこなわれていた。

 きっと、ョーロッパのどこの街にも象徴的なカテドラルがあり、街の人々の心の寄りどころになっているのだろう。街の大通りは、雨が降ると姿が一変してしまうけれど、カテドラルはその姿を変えることがない。そんな強さがあった。

 雨の降り続く中、いつものように街を歩く。今日は巨大スーパーがお休みで、さらに寄るところがない。雨の中、歩いてゆく観光客のみんな。日本人の女性を見かけると最近は、胸が痛いほど、ステキに見えてくる。バルセロナのセニョリーターはとても快活で、明るいせいもあるのだろう。

 こんな雨の日は、なんだか人恋しい。また、カテドラルに僕は来てしまっている。ああ、光太郎。12/22 銀座に出かける。もうすぐクリスマスなので、とても賑やかだ。楽器屋に寄る。今、高いギターを買おうとしているおじさんがいた。そのわがまま振りにつきあっている店員さん。それもクリスマスの風景か。

「ピエロたち」12/24

 バルセロナは、ほんと大道芸人たちが多い。「GRACIAS」の言葉とともに、どこに行っても人だかりはたえない。

 その中でもピエロたちほど、哀愁のある芸人はいないなぁといつも思う。ピエロは、陽気におどけられるし、芸が失敗してもそれが味になってしまう。誰もピエロを悪くは言わないだろう。みんな笑いたいのだ。

 バルセロナにいるピエロもいるし、バルセロナにやって来ピエロもいる。今日は四人組の踊るピエロを見た。四人はスカートをはいていて、オモチャの太鼓とか叩いている。しかしよくみると、四人のうち、二人は男が化けているのがわかった。

 やって来た四人の踊るピエロはとても目立っていて、あっというまに、人だかりになった。しかし、その踊りは、ただおどけているだけで、もうひとつ芸があるようには、思えなかった。ひとだんらくついたところで、帽子をさかさにして回ったのだけれど、お金の集まりはまったくだった。

 また別のやって来たピエロは、パントマイムで400人くらい集めていた。しかしそれもあまりうまいとは思えなかった。帽子をさかさにして、みんなの方にゆくと、いっせいに人が散ってしまう。人の消えるときのピエロほど淋しいものはない。

 (ピエロって大変だなぁ・・) カテドラルのところにいたピエロは、人を集めることも出来ずにいた。ひとりきりのピエロは、淋しいなんてもんじゃない。見ていて泣きそうになってしまう。でもそうやって、ピエロは本当のピエロになれるような気がした。

 ランブラス通りに立っているストップモーションのピエロは、鼻のランプが付くだけの芸だけれど、一番お金の集まるピエロなのだった。12/23 中野の古い喫茶店「クラシック」。ここの二階に時々行くのだけれど、飾ってある絵の色合いや、もの想いをしている絵の主人公たちとも、再会することになる。ここにくると絵は生きてるんだなといつも思う。

「380年前から彼は」12/25

 いろんな美術館に行けることが、バルセロナでの楽しみのひとつだった。

 ピカソ美術館、ミロ美術館、カタルーニャ美術館、近代美術館・・。カタルーニャ地方の古いデザインのお皿とか見ていると、これがミロやピカソの作品ですと言われても、誰も疑わないような気がする。ピカソやミロのルーツがそこにあるように思われた。少なくとも無縁ではないだろう。

 美術館には、やっぱり聖書の物語の絵が多く、ヨーロッパの他の国でもそうだったけれど、聖書の物語を勉強してきたら、何倍も味わい楽しめただろうと思えた。日本だったら少しは解説もされていただろう。

 ヨーロッパの美術館を回って思ったのは、うまい人ならいくらでもいたんだなということだ。その中で人々のこころに残る作品を残すのは大変だろう。僕みたいな素人が観ても、有名な人の作品はさすがにパワーがあることはわかった。

 バルセロナのカタルーニャ美術館もやはり、聖書の絵画は多く、僕は物語を想像しながらひとつひとつ見ていった。

 そんな絵の中のひとつに、暗闇の中、天を見上げている人物の絵が僕の目を釘付けにした。それは大胆に構図で、現代の作品としか思われなかった。他の聖書の作品は、色鮮やかな普通の宗教画なのに、この絵だけはちがっていた。上からさしている光りに顔の半分だけが照らされている。

 その絵の前から離れられなくなるほど、この絵には訴えるものがあり、いろんなことを感じさせてくれた。闇の中、天を見上げ続けている彼の姿は絵の中で、変わることがない。

 ヨーロッパの他の国でも、こんなダイナミックな作品は見たことがなかったので、僕はすっかり現代の作品だと信じてしまっていた。書かれた年をみると、今から380年も前なのだった。と言うことは、380年も前から、その絵の中で天を見上げているのだった。

 今まで観てきたすべての聖書の絵の中で、僕はその絵が気に入った。彼の見上げているその上の方を僕もまた見上げてみた。そこには美術館の天井があった。12/24 友達の家にての、クリスマスパーティに出かける。子供もいるので、プレゼント用のオモチャを選びに行った。毎年思うけれど、いつもいいなぁと思えるものがない。どうしてだろう。どうしてないのだろうと思う。でも子供たちには欲しいものばかりなのだろうなぁ。

「サルダーナの踊り」12/26

 ずっとみたい見たいと思っていた「サルダーナ」の踊りを、今日やっと見に行った。

 バルセロの旧市街にある、大きな古いカテドラルの前で、毎日曜日、みんなで手をつなぎ、輪になって、ゆっくりとステップを 踏むという。誰が始めるというわけではなく、そして自然といくつもの輪が出来るという。

 お昼少し前くらいから、クラシックの市民楽団と思われる人たちが、演奏を始め、サルダーナの踊りも始まった。年配の人たち同士の輪や、若い人たちの輪とそれぞれにできた。

 そのステップは独特で、リズムと合っているのか合っていないのか僕にはわからなかった。若いひとたちの輪のほうが、ステップが早い。そして輪に入りたい人は、ただ手をつないで自由に入ってゆけていた。

 サルダーナの音楽。それは陽気で淋しいメロディーだ。始めは静かな調子で、だんだんと盛り上がってゆく。その踊りの輪は、カタルーニャというひとつの同じ心のつながりのようだ。ひとつの嬉しさがそこには感じられた。

 僕はサルダーナの踊りの輪を見ていて、日本人ツーリストどうしの、ヨーロッパでのそっけなさを思っていた。ランブラス通りを歩いていても、日本人どうしはあまり声を掛け合わない。アジアではあんなに友達になれたのに、ヨーロッパではなぜか他人のようだ。

 まあ、(ヨーロッパに来てまで、日本人と・・)と、単純に思っているだけかもしれないが。僕はランブラス通りをまた、うろついたあと、ホテルに戻り、部屋でひとりサルダーナを踊ってみた。12/25 バイトで、下町を歩いていたとき、ひとりのフランスの女のコに窓から、声をかけられた。彼女はドテラを着ていて、最近引越してきた様子だ。「ワタシは、ナニナニ・ナニナニデス」と、憶えたての日本語を話す。携帯電話が鳴ると、「モシモシ」と答えていた。

「グエル公園」12/27

 ガウディの「グエル公園」は夢のように楽しい。

 ひとつも電気仕掛けで動くものはないけれど、建物や、道そしてベンチが生き物のように感じられる。喋りだすものもないけれど、そのベンチに座っていると、いろんな言葉が聞こえ、また、話しかけてくるようだ。

 色鮮やかなタイルを細かく張りつけられた、波の形をしたベンチ。童話の世界に出てくるような、お菓子のような小さな家、すべてがななめになっている洞窟のような通り道・・。

 何回かここに出かけてみると、来るたびにグエル公園が、自然と一体化していることがわかった。あらゆるものが、丸みがあり、四角張ってしないのだ。そうだよ、自然の創造物に、真四角のものがあるだろうか。

 グエル公園にあるものは、どんな小さなものまでも、丁寧に造られ色彩の不思議さに満ちている。ベンチに座り、そこにある5センチくらいの部分を眺めただけでも、引き込まれてしまうだけの驚きが満ちていた。

 この公園で遊ぶことの出来る子供たちはとても幸せだ。いつか遠く、この公園を思い出すとき、ひとつの大きな優しさを感じられるたろう。この公園がこころの中のどこかに、ちゃんとあることだろう。

 夢のような公園がある。今日も明日もある。12/26 今年ラストのバイト。一年を通して、遅刻したことはないのに、最後の最後で、遅れてしまった。気が抜けたのだ。

「ランブラス通りとコロンブスの塔」12/28

 ランブラス通り。そこはバルセロナ一番の賑やかな通りだ。

 特別、お祭りをやっているわけではないけれど、大道芸人たちが集まり、人々が輪を作っている。肩を組み、キスをかわしながら歩いてゆくカップル。バルセロナのどこに行ってもいいけれど、ここランブラス通りに寄らなくて、今日のバルセロナは語れないだろう。

 ランブラス通りの初め、バルセロナの港のところには、海を見つめるコロンブスの塔が立っている。そこは人通りはあまりなく、とても静かだ。しかし、コロンブスの像はここランブラス通りとバルセロナの象徴のようにも見えた。朝、そして夕と、いつ眺めても実に味わいのあるコロンブスの塔だった。

 若者たちにとっても、またおじさんたちにとっても、ランブラス通りは、恋にあふれた雰囲気がある。いや、恋を探している気持ちと言った方が近い。僕でさえも、いい意味で何か出会いがあるような気がしてくる。そんな気持ちになるのだ。

 実際、ここで出会うカップルは多いことだろう。セニョリータたちはとても魅力的で、その瞳に男たちはクラクラしながら歩いてゆく。この道には、多くの出会いと別れがあり、また再会もあるのだろう。ここを歩くバルセロナの誰もが、恋のドラマを持っているようだ。

 そうなんだ。バルセロナじゅうのカップルたちが、ここランブラス通りを歩きにくる。大道芸人たちを眺め、そして港へと散歩は続くのだろう。何十年もたち、またここを歩くカップもあるだろう。ランブラス通りは、そんな気持ちにさせる道だ。

 夕方近く、コロンブスの塔に寄ってみる。ランブラス通りの入口、この場所にあって、海を見つめているコロンブスは、なんともぴったりだ。傑作すぎて恐いほどだ。人生には、ひとつの自由とひとつの勇気が必要だと、何度見上げても感じられた。12/27 外は寒いので、お好み屋に入って、芯まであったまろうと思ったのに、人が少なくて、寒いこと寒いこと。なぜ、お好み焼き屋で寒がらなければいけないのか。

「バルセロナで一番、素敵だったこと」12/29

 今日、とうとうパリ行きの列車のチケットを買った。きっとこれが最後の列車での移動になるだろう。

 約一ヶ月のバルセロナでの日々ももう終わろうとしている。毎日、僕は何をしていたんだろう。ほとんどランブラス通りを歩いていたような気がする。

 チケットを買ったその足で、僕はガウディの聖家族教会(サグラダ・ファミリア)に会いに行った。バルセロナと言えば、この大きな建造物だろう。この建物は、まだ作りかけで、あと二百年もかかって完成するという。

 細長くそびえる塔の上までは、螺旋状の階段になっていて、歩いて登ることが出来た。バルセロナの街が一望できるのは良かったのだが、そこの小窓から首を出して、見上げてみると、塔の先端がゆっくりと倒れてゆくように見えた。それは本当に恐い。

 個人的には、このサグラダ・ファミリアがとても気に入っている。なんといっても、その形がいい。きっと僕が人生でやりたい事もこういうことだ。まだ完成はしてないけれど、やがては世界一の建造物と呼ばれるだろう。200年後の世の中はどうなっているのかはわからないが。

 そんな気持ちで、サグラダ・ファミリアを見上げていると、その入口のところで、ひとりの日本人の若い女性が記念写真を撮ってもらっていた。白いスカートに白いカーディガンを着て、長い黒髪を揺らしながら「撮ってぇ」とか言っていた。

 その姿と印象はとてもおしとやかで、バルセロナのセニョリータたちの魅力とはまたちがうものがあった。ジャパニーズの女のコという感じだ。僕には、なんともそれがまぶしくてまぶしくて・・。

 彼女は、サクラダ・ファミリアに負けないくらいに輝いて見えた。僕がバルセロナで見た一番素敵だったこと。12/28 なんだかあったかいコートが欲しくて、思い切って買ってしまった。ちょっと着てみたら暖かくてびっくりした。今着てるコートは1000円とんだったからなぁ。こんなにちがうものかと実感した。

「アイ・ライク・ジャパン」12/30

 バルセロナでの毎日は、大道芸人たちを楽しみに歩いてばかりだった。

 実にさまざまの芸人たちがいて、お金のない僕を楽しませてくれた。道にチョークで、大きな絵を描いている兄さんがいた。最初は何の絵かわからないが、だんだんと出来上がる。そしてまた夜にはなくなってしまう。いい商売だ。

 鏡のようにキラキラとしたスーツを着て、ハットを片手に、驚いた表情で手を挙げているヒゲのおじさんがいた。芸というのはそれだけで、ただ動かないでいるだけだ。しかしなんともユーモラスで笑ってしまう。

 ひと組の老夫婦が通りかかり、キラキラスーツのおじさんの前に立つと、チャリンとお金をあげていた。それは大道芸人たちの集まるバルセロナの街に、お金をあげているように見えた。

 僕のお気に入りは、紳士風のお兄さんと、ピエロの二人で立っている人たちだ。お金をあげると少しだけ、おじさんは動き、ピエロの方は赤い鼻だけがランプが付くのだ。その二人は、この通りでも人気者で、常に人が集まっていた。その芸は大変に洗練されていて、バルセロナのアイドルになっていた。

 いつも僕は二人のそばを通り、かたわらに座り、その雰囲気を楽しんでいた。そして今日は、座っている僕のところに、紳士ふうのお兄さんが片付けを終えて近づいて来た。お兄さんは15年ほど前に、日本に来たことがあるという。

 「アイ・ライク・ジャパン!!」そう嬉しそうに話すおじさんは、信じられないほどハイトーンで、まるでオモチャの声のようだった。そして今年の九月に日本に行くんだと言う。いつもいつも無言でストップモーションをしている彼は、誰とでも話せる不思議な声を持っていた。

 きっと、このひと月の間、毎日僕が見ていたことを知っていたのだろう。いつも隣りでピエロをやっているおじさんが、彼のお父さんではないかと、なんとなく思えた。真実は違うかもしれない。

 二人は夕暮れのランブラス通りを、僕に振り返り手を振りながら、ゆっくりと遠くなった。12/29 友達と、夕食を食べにゆく予定が、満員で、結局居酒屋に入ってしまう。チューハイを飲み、鍋を食べ、デザートとかも食べる。まったくちがう夕食になった。満員も良いときがある。

「アディオス・バルセロナ」12/31

 とうとう今日になった。

 バルセロナラストの昨日は、初めて大衆レストランに入って食事をした。それは、小さな自分へのお祝いだった。ワインの瓶が一本付いてきたのが嬉しい。

 窓から見えるガウディよ、さようなら。荷物をまとめて、そしてレセプションのおやじさんのところに寄った。ひと月くらい泊まっていたでとても仲良くなった。今日は僕のことを「アミーゴ」と呼ぶ。「アミーゴ、ギターを盗られないようにしろよ」そう言ってくれるおやじさん。アディオス。お世話になったね。

 ホテルを出るとそこはランブラス通り。バルセロナでの毎日はこのランブラス通りと共にあった。このバルセロナで得たものは、ほとんどが大道芸人たちからだった。この通りの入口にあるコロンブスの塔に挨拶をして、僕は駅へと向かった。

 たぶん列車での最後の移動だ。旅に出て8ヶ月。中国の列車の移動に始まりよく乗ったよ。何と言っても最初の26時間の列車が厳しかった。そしていつも夜が明けると次の町に着く繰り返し・・。はるばるヨーロッパに来たものだと思う。

 フランス行きの列車に乗り込む。旅立ちのときはいつでも静かなものだ。目の前のスペインの女の子は、景品でもらったと思われるの紙のバスの組み立てセットを、舌でのりづけしながら作っている。そして静かに列車は、フランスに向かってゆく。僕は本当にパリに行くのかな。12/30 夜、大谷たちと待ち合わせ。もう遅かったので、ほんの一時間だけ飲み会をする。今日はライブだったので、みんなへとへとに疲れている。しかしいいライブだったらしく、心は満足しているのだ。適当に酔っ払って、今年の忘年会は終わった。それはそれで爽やかで良かった。

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ライブ情報

CD「黄色い風、バナナの夢」詳細

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