青木タカオの「ちょっくら・おん・まい・でいず」  今月に戻る
過去ログ「市場の頃」日記付き'01.3月

「はじめての風景」3/1

 こんなところに、こんなところがあった。

 夏の日の午後の電車に乗り、僕はあの日の秋葉原に向かう。カバンの中には履歴書。青果市場の仲卸しの店に面接に行くのだ。

 (秋葉原に市場って、本当にあるのかなぁ・・) そう思いながら、高架下方向へ歩いてゆく。「あった・・」。それも巨大な青果市場だった。広い。広すぎて、どこがどこだかわからない。とりあえず入ってゆく。

 午後1時すぎの市場はもう、静かなものだった。明るい光が、天井じゅうに満ちている。鉄骨のはり、屋根は半透明に透けていた。その下で集まり並ぶ、仲卸しの店。小さな店もあれば、大きな店もある。いっぱいの果物の箱が積まれている中、オレンジ色の電動台車が、ゆっくり行き来している。

 さて、僕の行く店はどこだろう? 住所なんてない。あるのは店の名前だけだ。訪ね訪ねて、探してゆく。「あっこ曲がって、あっちだよ」。なるほど、この辺かな。コンクリの黒い道を歩き、店の名前を眺めてゆく。その数は半端ではない。まだ見つからない。

 市場の中の通路にはそれぞれ名前がついているらしく、見上げると、黄色い大きな垂れ布が、高い天井に吊り下げてあった。「中央通り」と書かれた墨文字。すごい埃。午後の光の中、それは、記憶のどこかで見たことがあるような気がした。(来たことがあるなぁ・・)

 そんな事を思っていると、椅子に座っている一人の兄さんに声をかけられた。面接に行くのはその店だった。「おっ、おめえか、面接にきたのは。待ってたよ。こっちこっち。二階に社長がいるから」。 その兄さんは、あずき色のウエスタンシャツを着ていた。なぜかその人にも、記憶のどこかで会ったことがあるようだった。

 社長さんは、小柄なおじいさんだった。面接はOK。「新潟生まれの人は、みんな根性があるからね」とか言われる。また下に降りると、さっきの兄さんが 、まだ座っていた。「おっ、受かったか!! よろしく。俺、五郎って言うから。いつからくんの? まあ、いいや、待ってるから。お疲れ!!」

 その兄さんは、笑いながら片手で挨拶をしてくれた。「はぁ・・」。僕は、とりあえずまた駅へと向かった。巨大で静かな市場の中を通ってゆく。もう今の時間、市場は終わっているのだ。どの店も"よしず"(竹の簾の大きいやつ)を巻いて、閉めはじめていた。(なんだか、よく知っているんだよなぁ・・) そんな気持ちでいっぱいだった。2/28 部屋を片づける。また整理ボックスを買ってくる。おまけに、洋服掛けも。何か自分の中で起きている。どうしたんだ。

「初日の僕とマイティーカー」3/2

 市場アルバイトの初日。その夏の朝、僕は店の二階にいた。四畳半くらいのスペースかなぁ。小さな黒板には「青木孝夫君。23才」の文字があった。「おい、青木ちゃん」。下に行くと、もうそう呼ばれていた。

 仲卸しの僕の店の大きさは、8畳くらい(8畳と言っても、それはコンクリートの地面だけれど・・)。 まずは、昨日の在庫を並べるのだ。先輩は、勘なのか、それとも足で測っていたのか、その場所と決めて、果物の箱を置いてゆく。僕は手渡しで、果物の箱を先輩に渡していった。(こんな感じでいいかなぁ・・。なんだか市場でちゃんと働いてるみたい)

 そうこうしていると、オレンジ色の電動台車をゆっくりと手でひき、果物を山積みにして、昨日のあずき色ウエスタンシャツの先輩が店に戻ってきた。「おっ、新人、来たね」。面接に来たときに店の前で、椅子に座っていた兄さんだ。「おい、五郎ちゃん、こっちこっち」。そうだ五郎さんだ。

 果物を山ほど積んでいたのは、「マイティーカー」と呼ばれる電動台車だった。2Mほどの大きさで、まっすぐ伸びたパイプの棒のハンドルが付いていて、それを使って方向を変えたり、スピードを変えたりするのだった。

 「じゃあ、青木ちゃん、五郎と一緒にマイティーカーに乗って、手伝ってこい」。まず、市場のいろんな場所や、お得意さんの車のある所をおぼえるのだ。電動台車の荷台は人が乗るのにちょうどよかった。夏、真っ盛り。マイティーカーに乗って、五郎さんと市場を出て大通りに出た。

 「おぉ、今日も暑くなりそうだぜ」。秋葉原の大通りを、オレンジ色のマイティーカーが、ゆっくりと横切ってゆく。ぜんぜん五郎さんは平気だ。渡ったところには、大きなトラックが待っていた。そして積み込み。「アオキ、いつもここに止まってるから、チェック、チェック」。そして、また大通りを渡り市場に戻る。

 初日は、五郎さんの荷台に乗って、市場中を回った。マイティーカーには、ちょうどいい高さの所に、手を乗せられる所があり、そこにつかまりながら、立ったり座ったりして、倉庫に行ったり、八百屋さんの車の所に行ったりした。市場のざわめき。次々と挨拶をしてゆく五郎さん。大きな荷物。通りゆく八百屋さん。そして新人の僕。

 「あっちぃなぁー、今日は」。八百屋さんの車への積み込みが、またやっかいだった。五郎さんは、ひとつひとつ指示をくれる。「はい、最初はスイカ。次、メロン」。八百屋さんのワゴンの中に、きれいに積み込むのだ。「はい、八百清さん。36-01。アオキ、チェック、チェック」。僕はメモ帳に、八百屋さんの名前と番号を書く。そして、車の位置。メモ帖にはもう、いっぱいの八百屋さんの名前・・。

 そうやって、初日は電動台車「マイティーカー」の上に乗って、過ぎていった。とても暑かったあの日。神田市場は、どこまでも広く思えた。3/1 朝から雨。気が重い。家には、友達から借りている傘が、一本しかない。心配だったけど、さしてバイトへ行く。帰りはもう一本持ってバイト先を出る。どこかに忘れないか、はらはらしながらやっと家にたどり着く。大変だなぁ。

「八百屋さん時計」3/3

 八百屋さん時計。それはかなり正確だ。

 僕のいた仲卸しの店は、少し遅く朝7時に始まった。もちろん僕は、その頃に行ったわけだけれど、その前に店にいて、電話を借りに来る八百屋さんがいた。「おっ、おはよう!!」。それが、一日の始まり。

 そして、競りから先輩が帰って来ると、果物を倉庫に取りに行くのだ。8時。そうこうして、店に果物がひととおり並んだ頃、次々と八百屋さんがやって来る。9時になると、事務のおばさんがやって来る。10時の積み込みの大きな荷物が終わると、やっと一息。事務のおばさんがコーヒーを入れてくれる。「青木ちゃーん、コーヒー入ったよう」

 八百屋さんたちは、来る時間が決まっていた。「まいど!!」。ゆっくりと顔を出す人もあれば、「忙しい、忙しい」と言い続けて買ってゆく八百屋さんもいた。先輩のアイサツはこうだ。「待ってたよー、おい。これ、どうだい?」。もう、みんな約束どうりなのだ。

 市場の小さな仲卸しの店の奥には、半畳ほどの事務室があって、そこで電話を受けたり、請求書を書いたりしていた。その横には、二階に上がるための、これまた狭いスペースがあり、そこには丸椅子がひとつ置いてあった。その椅子に、次々と八百屋さんが座っては、世間話をし、お茶を飲んでゆくのだ。

 誰が決めたわけではないけれど、ちょうどいい時間にみんなやって来て、お茶を飲んでは、ちょうどいい頃に帰っていった。そう、みんなグットタイミングなのだった。だいたい11時頃までが勝負で、それからは、ちょっと店は暇になった。その頃にやって来る八百屋さんは、なんだか面白い人が多かった。まるで市場に遊びに来ているようなノリがあった。

 「ヨッ、なんかいいもの今日はある?」「たのむ、これ三つ。安くしとくからさぁ」「えっ、どのくらい?」「これだよ。これ」。そして先輩は、指でこちょこちょとする。「わかったよ。全部積んで!!」「はい、メロン全部お買い上げー」。11時頃、店はすっきりとしてくる。「じゃ、青木ちゃん、これ運んだら飯食ってきていいから」

 そうしてお昼。あとは片づけが残っているだけだ。がらんとした市場の空気。オレンジ色の電動台車の音が、響いている。壁掛け時計の針も、ひと仕事終わったようだった。3/2 帰り、新宿に寄って、いろいろと買い物をしてくる。いろんな店でそれぞれのポイントカード。これが探すのが一苦労。昨日買ったばかりの財布は、まだ堅くて、取り出すのに必死になってしまった。カード整理の素晴らしいアイデアはないのかなあ。

「市場の五郎さん」3/4

 そう、暇さえあれば、五郎さんは演歌を口ずさんでいた。

 五郎さんは若い頃、演歌歌手を目指したこともあったという。男前だし、本当になっていたかもしれない。ボクサーにもなりたかったらしい。僕が会ったとき、五郎さんは33才で、もう17年もこの市場で働いていた。「五郎さん」と言ったら、市場で知らない人のいないくらい人気者だった。

 そんな五郎さんは僕の店の先輩だった。五郎さんのトレードマークは、ウエスタン調の、あずき色の半袖シャツ。髪は短く、先っぽだけの横分け。それがでもお気に入りの様子だ。いつも暇になると、台車にあぐらをかいて、投げキッスをするように、たばこを五郎さんは吸う。そして通る女のコに声をかけるのだった。つれない返事が返ってくると、いつも「あっ、そうか!!」と言って笑っていた。

 僕にいろいろ仕事を教えてくれたのは、五郎さんだった。電動台車の荷台に乗って、いつも付いて回った。五郎さんの演歌の鼻歌。そして、空手チョップのような、「ハイ、すいません」の言葉。紙コップの熱いコーヒーが好きで、二本の指ではさみながら、うまくこぼさないように、片手で運ぶのだ。その姿は本当に似合っていた。

 五郎さんは、いつも僕に人生論を教えてくれた。「アオキ!! 人生はチャンスが大事だよ!!」。そして、いろんな決めのポーズも見せてくれる。ちょっとブルース・リーにそれは似ていた。五郎さんは、同じ話をするのがとても好きだ。同じ仕草をするのも好きだ。店の前を通る女の人にも、同じことばかり話しかけていた。「あっ、そうか!!」この言葉があれば、ALL OKだった。

 電話が鳴る。僕と五郎さんしかいないときがある。五郎さんは、電話にでる。まるで、それは、映画の「寅さん」のような声だ。「ハイ、モシモシ・・」。相手が知ってる八百屋さんだと、急に言葉使いが変わる。「なんだよー、ヤオケンさんかぁ。早く言ってくれよー、オイ」

 思い出せば、五郎さんのエピソードは、山ほどある。毎日が、まるでホームドラマだった。いや、スター物語かな? そして、なんと言っても嬉しかったのは、その五郎さんが、僕の一番の先輩だった事だ。3/3 いよいよ、部屋が片付く。また今日も整理ボックスを買う。時計も買う。財布も買う。日記も書く。あとは、ノートパソコンが欲しいなぁ。

「スイカの季節」3/5

 スイカは重たい。夏は暑い・・。これは夏の話だ。

 市場に来たときも夏だった。僕はスイカの係だったので、一番忙しかった。桃の係の人、メロンの係の人、みかんの係の人。みんな季節ごとに一番忙しくなる。それはしょうがない。スイカが届き始めると、「いよいよだな」って思う。

 市場のそばにある、コーラの自動販売機は、日本で一番売れている自販機という噂だった。そのとおり、そこの食堂のおばさんは、ひっきりなしに、冷えたコーラを補充していた。五郎さんも言う。「やっぱ、夏はコーラだよ」

 首にタオルを巻いて、僕もみんなも果物を運び続ける。7時から午後1時までの6時間、これが夏場は長い。だんだんフラフラしてくる。大量に積んでいるスイカも、フラフラしている。気を抜いてはいけない。必死に自分に気合いを入れてゆくのだ。「ヨシ!!」とか「サァ!!」とか。

 あんまりコーラばっかり飲んでいてもしかたがないので、市場内にある冷水器にも寄るようになった。台車を置いて飲みにゆくのだ。ボタンを押すとチューと出てくる。ただはいい。コーラばっかり飲んでいた五郎さんが、あるとき冷水器のところに通うようになった。いつも何かコップを持っている。

 「五郎さん、それ何?」「これぇ、アオキこれはなぁ。秘密だよ」「教えて下さいよ」「アイデア、アイデア。冷水麦茶のパックが入ってるんだよ!!」「そりゃ、頭いい!!」「これからは節約、せつやくだよ」

 朝から日差しが強いと、それは自分との戦いを意味していた。寝不足の日は特にきつかった。スイカ運びは重たい。失敗して落としたりもする。「うわー、やっちゃった!!」。先輩のところに正直に言いにゆく。「いいよ、いいよ。青木ちゃん」そう言って、落としてしまったスイカを切ってくれるのだ。

 それが、甘くてほんとにおいしいのだった。3/4 池袋に歌いにゆく。今夜もディランはライブを演っている。ディランの歌を歌ってみる。へただ。どうしてもうまく歌えない。いろいろと歌い方を変えてみる。そのへんが路上ライブのよさだ。 

「そんな市場DAYS」3/6

 「あんちゃん、毎朝、目白駅まで走っているだろう」「えー、なんで知ってるの?」「だって、俺、毎朝、車から見てるもん」

 そのとおりだった。僕はいつも同じ時刻に、目白通りを走っていたのだった。6時24分の山手線の電車に間に合わないと、7時に秋葉原の市場に着けないのだ。「今日こそは、早く出よう」と毎日思ってはいた。でも、無理だ・・。

 だいたい寝るのは、夜中の2時くらいだった。だから睡眠時間は4時間くらい。2時前になんて眠れなかった。まだ僕も若かったのだろう。なんとか睡眠時間を3時間にできないかと、考えていた。それでも、ときにはほとんど寝ないで、市場に向かった。

 「さて、必殺技でも出すか!!」。眠くてどうしようもないときは、僕なりの目の覚まし方があった(これは、内緒だよ・・)。 それは、キーンと冷えた缶のレモンティーを一気に飲み干すのだ。これは、飲んでから15分くらいで、目が覚めてくる。これで、2時間くらいはもった。

 あとは気合いひとつで、お昼までがんばるしかない。もう忘我の境地になって、ひたすら集中するのだ。しかし10時頃がいちばんきつい。世界中が、ユラユラしてくる。(はやく、お昼にならないかなぁ・・) 。そして、なんとか終わる。午後1時半。きゅーんと、体はへたってしまう。

 でも、バイトが終わる頃にはなぜか、いつもどうりに元気になっていた。山手線に乗ってまた、アパートに戻ってゆく。自由時間は、僕にとってすべて勉強時間だった。言葉の勉強。散歩の勉強。本読み、他・・。午後いっぱいはずっと勉強していた。この勉強がしたいがために、市場のバイトを選んだのだ。

 7時近くになると、一本の電話がなる。高円寺の友達からだ。「青木さん、おいでよう」。高円寺。友達はみんな、高円寺にいた。「うん、いいよ」。僕にとって、高円寺にでかける事は、街に出かけるという事だった。また目白駅まで、歩いてゆく。心はウキウキだった。高円寺はいいなぁ。

 そして最終電車でまた、目白駅に帰ってくる。たいがいは1時すぎだ。(そういえば、今朝は、あんなに眠かったんだなぁ)。そんな市場DAYS。3/5 花粉症がひどくて、薬を飲んでしまう。調子がいい。調子がいいのだけれど、あまりにも眠い。夜の10時には、もう倒れてしまう。ああ、ホームページが・・。

「扉の門番」3/7

 秋葉原の高架下は、果物の倉庫になっていた。そして、その入口には、門番さんがいた。 

 「おはようござっすぅ」。7時すぎに、僕らは倉庫に入荷した果物を取りに行く。まだ早いので、言葉がうまく喋れない。でも、門番さんの方は、いつも元気がいい。「オハヨー」。そしてだんだん僕らも火がついてゆく。

 高架下にあるその倉庫は広い。「1扉」「2扉」「3扉」・・。「7扉」まであった。呼び方は「いちとび」「にとび」だ。砂利入りコンクリートの大きな柱がそれぞれ入口にあり、赤と黄色のペンキ文字で、上の方にワイルドに扉名が書かれていた。地面の方も砂利入りコンクリートで、長い年月のためか、デコボコが出来ていた。

 門番さんの仕事のひとつは、運び出してゆく果物の数をチェックすることだ。それは、いいかげんではいけない。いけないのだけれど、無理もあった。黙って扉から荷物を出しては、絶対にいけないのだ。次々にやって来る台車の僕らを、数の確認をしながら「はいOK!!」と通してゆく。いつも門番さんは数えるのに必死だ。

 倉庫には、二階があり、そこにある果物は、門番さんにベルトコンベアーで降ろしてもらう。「よろしくお願いしマース」「イクゾー」。そしてベルトコンベアーの下で箱を受け取るのだ。これは、失敗できない。失敗すると大変な事になる。「イクゾー」の声を聞き逃してはいけない。

 ときどきまれに、誰もいないのに、ベルトコンベアーから、箱が流れてくるときがあった。そんなときは、回りにいる人が、走って受け取るのだ。当の本人が、とぼけてやって来ると、「バカヤロー」の声が響く。門番さん仕事はまだあった。それは、果物の箱をまとめて移動させて、空いたスペースを作っておくのだ。これは疲れる作業だ。

 門番さんは、厳しい人もいたし、優しい人もいた。いつも門の所にいて、僕らを待っていた。電動台車に山ほど積んで出てゆくときは、地面のデコボコに気を付けなければいけない。それはそれは信じられない高さに積み上げるからだ。「おいおい、大丈夫かよー」と、門番さんの声がする。積荷は笑ってしまうくらいに高く、全体が揺れている。

 「メロン、160よろしく」。それを運ぶのは大変だ。実力がないと運べない。「160、オッケー」。そして道に出てゆくときが一番の快感だ。「気をつけろよ!!」と門番さんは、後ろから大声で声をかけてくれる。「大丈夫だよ!!」そう門番さんに答えるのもまた、僕らの喜びだった。3/6 一年に一度、バイト先の両国駅に、絵描きの卵たちが、大きなボードを抱えてホームに降りてくる。毎年そうだ。僕は若い頃、絵を志すみんなと、よく友達になった。みんな味のある顔をしている。いいコも多い。それは僕の年に一度の楽しみだ。

「50cmの天国」3/8

 楽しみと言ったら、店の奥で、切られる果物があることだ。これは嬉しい。

 八百屋さんの車への配達が終わって、店に帰ってくると、奥のテーブルに何かあるのが見える。(おっ、切ったな) 。わかっているが、僕の方からは、声はかけられない。でも、すぐに「青木ちゃん、メロンあるぞ」と声がかかる。「はい、いただきます」。でもただ食べてはだめだ。その産地と等級や大きさや味の違いを勉強しながら、いただくのだ。

 八百屋さんが、「ほんとにうめーのかよ」と冗談まじりで言うときにも、切ることが多かった。「おい、これ切ってくれ!!」。時には、ひとつ何千円もするようなものを切ってみることがあった。「ほんとだ」。八百屋さんは、切った手前、買わなくちゃいけない。それもかけひきだ。そんなあと、そっと僕らに声がかかる。

「青木ちゃん、五郎が来る前にメロン食っちゃえ」「はい」「なかなかくえねえから、よー味わっておけよ」。信じられないほど、それはおいしい。五郎さんが帰ってくる。「おっ、誰かメロン食ったな」。とりあえず、そう言うけれど、怒ってはいない。誰かとは、いつも僕のことだ。

 一年を通してほぼ毎日、何か果物が、テーブルで切られていた。どこかに配達に行って、帰ってくると、何かないかなと、常に気になってしまう。忙しくて、なかなか食べれられないときもある。そのタイミングが難しい。「青木ちゃーん」と声をかけられたら、すぐ食べるのだ。

 幅50センチの小さなスペースに置いてある、いろいろな果物。それがホントに楽しみだった。そこにある果物だったら全部好きだった。こんなに市場は広いのに、その50センチのスペースが、僕を嬉しがらせてくれた。3/8 今日は頭が信じられないほど痛い。寝不足のせいか。元気な友達がうらやましい。立ってられなくて、座り込んでしまう。いつも元気なので、急に体調が崩れるとパワーダウンしてしまう。鼻のかみすぎかなぁ。

「ネリベの隊長」3/9

 「グット・モーニング!!」

 神田市場の外れにあった、練塀と呼ばれる倉庫には、一人の名物守衛さんがいた。人呼んで「ネリベの隊長」だ。

 隊長は一年中、カーキ色の上下の服を着て、なにかしら歌を歌っていた。「♪はーれたそらー、そーよぐかぜー」。そしていつもこう言うのだ。「いい声だなぁ。誰とは言わないけれど」

 僕は一日に10回はネリベに果物を取りに行っていた。その度に隊長は何か常にパフォーマンスをしてくれていた。そのほとんどは歌だったけれど、あまりにも大きな声で歌っているのだ。お得意のレパートリーは「ドナ・ドナ」「憧れのハワイ航路」「リンゴ追分」そして詩吟。またあるときは童謡メドレー。

 口笛もまた、得意中の得意だった。「史上最大の作戦」「エマニエル夫人」「ハロー・ドリー」「エリーゼのために」と音程もバッチリに吹く。そんな隊長は、ネリベの倉庫の入口に朝の5時から夕方の4時まで、ずっと机に座っていた。「いやー、労働者諸君がんばってるかね!!」

  隊長の顔は、とてもユニークで、一度見たら忘れられないほどだ。お釈迦様が笑ったような顔。髪は短く、すこし天然パーマがかかっていた。てっぺんは少し薄かった。背はそんなに高くなく、ちょっと小太り。朝行くと、机の引き出しから、もげた車のバックミラーを出して、櫛で髪をとかしながら、「ああ、どうしてこんなに美しい顔に生まれてしまったんだろう」と聞こえるようにつぶやくのだ。

 その事務机の上には、いつも何かしら果物が置いてあった。「人徳のあるものは、こうやって、どこからかいろんなものが回り回ってくる」と言う。ほんと一日中、やって来る僕らと話をしてくれていた。常に冗談しか言わなかったが、ときには真顔で、人生論を語るときがあった。「労働者というものはだな・・」

 人生論だけではない、朝にはいつも、日誌と呼ばれる書類を、ちゃんとしたきれいな字で書き上げていた。最後に印鑑を押して、提出するとお金がもらえると言う。いつも僕はその姿には、すごいなぁと見惚れていた。しかし、それはただ、数年前の日誌をもとに書き加えていただけという噂もあった。(あくまで噂)

 冬になると、いつも出てくるお得意の歌のナンバーがあった。「♪いまはー、もーう、あきー。だれもー、いないうみー」。もう笑うしかない。「わかってくれたかね!!」。隊長は嬉しそうにまた歌うのだった

 ネリベの隊長のびっくりするところは、何日か前のほんのささいな事もちゃんと憶えている事だった。「君、君。例のあの件はどうなったかね」。よくそんな事まで憶えているなぁと感心する事が多かった。みんな隊長の記憶力のすごさには、驚いていたはずだ。そして僕らひとりひとりに自分なりのあだなを付けて呼んでくれるのだ。

 一度、隊長が本館の方へ来て、せわしない市場の中で、机に座っていた事があった。本館で見る隊長はなんだか変だ。「あれ。隊長、なんでこっちにいるの?」「いや、わしもいろいろあってね」。言葉使いはいつもどうりだったが、先輩の言うことに、「はい、はい」っと返事をしていた。隊長にはやっぱりネリベが似合っているんだなぁ。3/8 今日は一日横になっていた。ひさびさに調子悪い。夜10時前には、熟睡モードに入った。おかげで、夢をいっぱい見てしまう。幸せだった。

「マイティーカー修行」3/10

 電動台車を扱うのは、はじめは無理だと思った。僕は車の免許も持っていないし、なんだか怖かったのだ。

 その名は「マイティーカー」。バッテリーでゆっくりと動く、荷物の積める電動台車だ。台車の前に付いている、80センチくらいの鉄の棒を操って、運転するのだ。その先端は丸くなっていて、下に チョコンと押すと、進む仕組みになっていた。そして右なら右、左なら左へ棒のハンドルを曲げるのだ。

 「アオキ、マイティーカーやってみっかー」。市場の仕事がひととおり終わった後、先輩の五郎さんが、僕にマイティーカーの運転を教えてくれると言う。バイトをはじめて、五日目くらいのことだった。「えー、出来ないすっよ」。マイティーカーの長さは2メーターほどあった。

 店の前の市場の通路の所で、練習をする。もう、いかにも初めてという感じで恥ずかしい。しかしこっちは必死だ。なにしろ、市場の通路はひじょうに狭く、そんな中を通り抜けて行くのだ。人の行き来が激しいし、果物にぶつけたら大変だ。

 いつもギリギリの所を抜けてゆくマイティーカーは、信じられないほど微妙な進み方をする。なにげなく引いていたのでは、必ずぶつかってしまう。特に高く果物を積んでいるときは、その荷崩れまで見ていなければならない。高く積めば積むほどそれは、恐怖だ。デコボコの道を進むと危ない。

 ひととおり教えてもらって、さて僕もマイティーカーを引いて道へ出た。市場の中の道は狭すぎてとても通れず、遠回りして帰ってきた。それから仕事が終わったら一人でいつも、マイティーカーの練習をした。後ろ向きに進めてゆくのが、難しい。隣の店のあんちゃんが言う。「青木だっけ。おめぇー、まじめだなぁ」

 やがては、左右2・3センチの隙間があれば、通って行けるようになった。そんな時はチョンチョンと軽く、ハンドルを押して通るのだ。達人の心境とはこんな感じだろうか。それができれば、もう一人前だった。

 そうやって、数ヶ月たった頃。僕は、自信たっぷりにマイティーカーを運転していた。なんだか不思議な気持ちだ。それはもう、ひとつの修行のようだった。まず、積み方にも法則があった。うまーく積んでゆけば、たかーく積めた。そんな時は、ゆっくりとしか進めない。度胸を決めて、進めてゆくのだ。道にあるデコボコが命取りになる。そして崩れそうになったときは、急いで横に行って押さえつけるのだ。

 「よっ、お疲れさん!!」。店にちゃんと辿り着くと、みんながそう出迎える。僕もやがては、ちゃんと運べるようになった。夏の日、そして冬の日、あの大量の果物の箱を乗せて、市場の道をマイティーカーで運んだゆっくりの道は、忘れられない。あの熱い日差しや、失敗して荷物が傾いたときの、ヒャッとした気持ちとか・・。3/9 新宿に友達の写真展に行き、ワインを3杯飲んだ。その時は大丈夫だったが、だんだんいい気持ちになってきた。毛糸の帽子を目深にかぶり、紀伊国屋書店にゆく。あるはずの本が見つからない。顔が赤いので、きくこともできない。同じ所を何度もグルグルと回る。これじゃまるで、ホントの酔っぱらいだ。

「市場の食堂話、そしてマーちゃん」3/11

 僕の市場にいた頃の思い出と、食堂のマーちゃんは重なっている。

 市場の地下食堂への階段を下りて行くと、四軒の店が並んでいた。僕がいつも通っていたのは、その真ん中にあった店だ。そこには「盛り合わせ定食」と言うのがあり、とてもとてもお得だったのだ。

 たしか380円。フライにコロッケ、オニオンリングにポテト、ゲソアゲにウインナーだったかな? とにかくお皿一杯のおかずだった。「はい、お兄さん、何?」「盛り合わせ下さい!!」。そこで、いつも迎えてくれたのが、そうマーちゃんだ。

 マーちゃんはお姉さんだったけれど、チャーミングで、いつも元気に、「はい、おにいさん!!」って声をかけてくれた。定食も安かったけれど、僕の気持ちの半分は、マーちゃんに会いたかったのだ。

 「盛り合わせ定食」の他にも、カレーもよく食べたなぁ。350円で大盛りだった。僕の注文はこの二つを中心にして、組まれていた。まあ、ほとんどは盛り合わせ定食だったけれど。

 その店の左隣の店は、ちょっとグレードアップした食堂だった。もう出来ているお皿を取ってゆくのだ。そこには、市場の長老的な人たちがみんな来ていた。僕もそこで食べたいなと思っていたが、どうやって、食べていいのかわからなかった。

 いつも行く食堂の右隣の店は、対照的に、いつも座れる店だった。僕はなぜか吸引力のように、週に一日はその店に座ってしまった。そこで初めて食べた回鍋肉定食の美味しかったこと。ひととおり定食を食べたりしてみた。実は、この店も僕は好きだったのだ。

 食堂のマーちゃんは、いつも白い長靴をはいていた。ひっきりなしに続く注文を、明るくさばいていた。いつも一緒にやってるおばさんが休んだりすると、一人で大変そうだった。ガラガラ声で、注文をきいていた事もあった。「マーちゃん、大丈夫かい?」と、みんな声をかけていた。みんなマーちゃんが好きだったのだ。3/10 昨日から、冷蔵庫の霜取りをしている。冷凍室の氷が、あまりに大きくなりすぎてしまった。これが一気に解けると、やばい。下のプラスチックに水があふれてしまうのだ。気をつけながら、扉を開けては、注意している。よくここまで、霜が付いたものだと、思った。何年分だろう?

「残念・で・し・た」3/12

 仲卸しの店が並ぶ狭い通路で、「おーーっ」と声が響くときがある。

 それは、電動台車にたかーく積んである果物の箱が、荷崩れをするときだ。たいがいは新人君がやってしまう。自分では左右の隙間を確かめながら運んでるつもりなのに、箱の一部が引っかかって、そのまま積んである荷をななめにしてしまう。「おーーーっ」。バッチャーン。

 その倒れる一瞬は、ほんとスローモーションだ。そして時間が止まるようだ。なぜか、みんなで「おーーっ」と言ってしまう。「あーっ、やっちゃったぁー」。高く積んであればあるほど、それは悲劇だ。でも、新人君は必ず一回はやってしまうのだ。

 果物の箱を落としたときの気持ちは、言い表しがたいほど悲しい。調子よく運んでいた姿も、そこで止まってしまう。イチゴの箱のショックも相当だけれど、スイカを落としたときも、かなりなものだ。

 「スイカ、落としました」と先輩に正直に告白する。「どれ!!」と先輩は落としたスイカを手に持って、叩いてみる。「だめだなぁ・・。まあ、しょうがない!!」。先輩は、いつも優しい。

 台車にもいろいろあり、金属で折りたたみ式の台車もあった。これがまた、やっかいな台車だったのだ。うまくバランスよく積んで、うまく降ろさないと、すぐ、後ろにひっくり返ってしまう。僕もこの台車には泣かされた。本当にバランスが微妙だったからだ。

 どうして、こんなに難しく作ったんだろうと思えるほど、金属の折りたたみ台車は、失敗を呼ぶのだった。台車が後ろにひっくり返ってしまうのは一瞬の事だ。はじめての人には、使いこなせないこと確実だ。慣れていても気を許すとだめだ。

 ある時、ひとりの八百屋さんが、「この台車かりてくよー」と言って、その折りたたみ台車をひいていった。そして、自分の車の手前で、スイカの箱をバランスを崩して、落としてしまったのだ。僕はちょうど、その現場にいた。「あーっ」。そして八百屋さんは言った。

 「残念・で・し・た」

 まるで、トランプが外れたくらいの言い方なのだ。にぶい音のした、スイカを自分の車に積む八百屋さんの姿。そうなんだよ。しかたのない時は、しかたがないのだ・・。3/11 新曲作りをする。その昔、いつのまにか歌が、出来てしまう事が多かった。あんまり時間をかけても、だめなのだった。今日もスラスラと作って、OKにしてしまった。こんな風に歌が出来るときが一番嬉しい。

「はじめから居た人たち」3/13

 市場には、こんな人たちがいた。

 少しはなれた倉庫に行く途中の、高架下の辺りで、一日トンカチで金物を解体している人たちだ。

 右に一人、左に一人。もうひとり居たかなぁ。僕はその間を、日に10回以上は確実に通り過ぎた。金属音が響き渡っている。でも、いつもそうだったから、そんなには気にならなかった。

 朝早くから夕方まで、トンカチで叩き続けていたその姿は、何かに対して怒っているようにも見えた。それは、仕方のないことだったかもしれない。その人たちは、その場所に住んでいた。なにか鍋のようなものがあった。僕が市場にいた四年間、その生活は変わらなかったようだ。

 暑い日も寒い日も、やっぱり一日中、トンカチで叩いていた。クーラーとか専門に解体していたようだ。ほんの7メートルくらい向こうの道の反対側には、やっぱり同じように暮らしている人がいるのに、お互いが話している所を見たことがなかった。でも、ある時のことだ。朝からふたりは、大喧嘩をしていた。

 「〜〜さん。あんたはだいたい、わがままなんだよ!!」「何いってんだよ、おまえこそ、わがままじゃないか!!」。そんな声が、その高架下の日影のスペースに響き続けていた。何を怒っているのかは、わからなかった。でも、その怒りの声は凄かった。もう何年間も、話している所を見たことがないのに・・。そんな日があった。

 また、こんな人たちもいた。

 市場の端っこに、生ゴミを一括にまとめる所があった。ゴミと言っても、もう売れなくなった果物や野菜が、持ち寄られる所なのだ。ここには、ちゃんと市場の清掃員の人たちが竹箒を持って、水をかけながら掃きまとめていた。次々にやってきては、果物を捨ててゆくトラック。

 ちゃんとした清掃員に混じって、なんだか、ちがう清掃員の人もいつもいた。果物ゴミとか捨てに行くと、大声で「おつかれさーんす」とか、声をかけてくれる。ちゃんと竹箒も持っている。しかし、その目的は、ちょっとちがうようだった。わーっと一緒に、腐れ果物の中に向かってゆくのだが、まだ食べられそうな果物を、さっと拾い上げるのだ。

 ぜんぜん竹箒に力が入っていない。でも、自分では、一緒に働いている気持ちで満ちているようだった。僕は、そんな彼らを見て、いい仕事を見つけたなぁと思っていた。どんどんかたわらにたまってゆく、果物たち。友達にもあげていたようだった。仕事始めから、終わりまで、ずっとその場所にいた。

 一日トンカチで叩いている人も、竹箒掃除で、果物を拾い上げている人も、なんだか自然に、市場の風景になっていた。他にも、いろんな人たちがいたのをおぼえている。みーんな、僕が市場に来る前から、ここに居た人たちだ。そういう事がある。そういう事だった。3/12 朝4時頃に、目覚ましをかけるのだけれど、どうも誰かが止めるらしい。まったく記憶がない。これでは、目覚ましの意味が・・。

「八街のおいちゃん」3/14

 「おい、元気かよ!!」。むらさき色の2tトラックの荷台の上から、半笑いで、そのおいちゃんは声をかける。

 八街(やちまた) のおいちゃんは、もう70才は越えているはずだ。年齢的には、おじいさんなんだろうけど、とてもそんな風ではない。かと言って、おじさんでもない。みんなは「八街のオヤジ」って呼んでいたかなぁ。でも僕の中では「八街のおいちゃん」だ。

 乗ってくるトラックは、そう、むらさき色だ。荷台の横に、八街と書かれている。古いのか、新しいのかちょっとわからない。むらさき色のトラックなんて、あんまりないから、どこに止まっていてもすぐ、八街だってわかるのだった。

 市場に来る時間は、いつも午後3時すぎだった。たしか木曜日だけだったなぁ。もう全部の仕事が終わって、あとは荷台に、八街トラックの注文の果物を乗せておくのだ。それで、仕事が終わる。八街トラックを待っている係は、なぜか僕の仕事。ときには遅くなって4時くらいになる時もあった。

 そんなとき、八街のおいちゃんは、店に来て、待っている僕に声をかける。「おい、来たよ!!」「待ってたよー」。そして、どこかに置いてある、いつものむらさき色のトラックの所まで、果物を運んでゆく。おいちゃんの方が荷台に乗り、僕が手渡しで、渡してゆく。

 「おい、元気かよ!!」。さっきから会ってるのに、これだ。「もーう、元気だよ!! もうちょっと早く来てくれよ」「しょうがねんだよ、どうしてこんなに忙しいんだか、わかんねえよ」。ふたこと、みこと話しているうちに、全部積んでしまう。おいちゃんは、よいっと荷台から降りる。

 「じゃあなぁ」。八街のおいちゃんは、また半笑いで、僕にひとこと言って、運転台に乗り込んでゆく。週に一日くらいしか会えなかったけれど、僕は、この時間が好きだった。なんだか他人のような気がしないのだ。

 僕はおいちゃんを待って、荷台に腰掛けている。先輩たちが、「じゃ、お先に!!」と言って帰ってゆく。そして、待ちくたびれた頃に、姿が見えるのだ。「おい、来たよ!!」。そんな八街のおいちゃんだった。3/13 銀座に、友達のライブを見に行く。銀座の人達が、店に飲みに来るのだ。ここは銀座。僕も酔ってしまった。これが銀座酔いかぁ。お金が飛んでゆくー。でも、幸せだ。

「数字言葉の秘密」3/15

 別に秘密ではないけれど、市場には、数字に代わる言葉があった。

 市場に初めて来たとき、みんな変な言葉を言い交わしあっているので、それは何を言っているんだろう?と思っていた。

 「いやぁ、ゲタメだよう」「そこをなんとかサンゾロで!!」って感じだ。

 他にも、いろいろあった。「ブリバン」とか「ゴットリ」とか。それに合わせた指数字もあった。それは本当に、市場の風景だった。八百屋さんたちは、もちろんみんな知っていた。先輩もみんな知っていた。知らないのは僕だけだった。

 「五郎さん、バンドって何?」「そりゃあ、おめえ、8だよ」「じゃあ、ナツラは?」「まあ、アオキもそのうち、おぼえるから。人生ってのはさ、ゆっくりね。あせったら失敗するよ。これかんじんだから!!」

 僕は四年間、市場にいたけれど、なんとなく数字がわかったくらいで、全部自信がなかった。いろいろありすぎて憶えきれなかったのだ。先輩にきいても、なんとなくはぐらかされてしまった。指数字もそうだ。きちんとは教えてくれないのだ。

 「よう、あんちゃん、あのモモいくらだかきいてきてくれよ!!」そして、ききにゆくと先輩は「ゴットリだって言ってくれよ」と答える。そして僕は八百屋さんに「ゴットリだって」と伝える。「うーん、ゴットリかぁ・・」こんなやりとりばかりだった。

 それでも、そんな市場言葉の中にいると、なんとなく僕も市場の人間のような気がして、嬉しかった。アルバイト友達と一緒に帰ったとき、きいてみたら、やっぱり友達も市場言葉のことはよくわからないって言う。

 そのうち、よくわからないところが、とっても市場らしいのがよくわかってきた。僕はもう、無理にいくらか尋ねたりはしなくなった。「ゲタメ」は数字ではなく、あくまでも「ゲタメ」なのだった。そのへんが、だんだんわかってきた。僕は「新人」という市場の人なのだ。

 先輩のノートを見ても、数字なんて書いてないのだった。何か特別な記号が並んでいた。それは、一文字も読む事が出来なかった。値段に関しては、市場は、わかるようなわからないような、僕の踏み込めない所にあった。僕はひたすらに運び専門だった。3/14 おーっ。今日はボブ・ディラン武道館コンサートの日。外仕事を早く終わらそうと、自転車で走っていたら、靴をひっかけてしまい。靴が途中から、半分に切れてしまった。仕方がないので、ビニールテープで巻いて付ける。でも、うまく歩けない。よりによって今日だものなぁ・・。

「リンゴの季節・1」3/16

 スイカは8月の後半には、もう入荷が終わってしまう。すると、僕の先輩は、今度はリンゴの係になる。

 一年を通して、無駄がないように、果物の係ができているのだった。リンゴとスイカはちょうど、時期が交差するように、うまく入荷してくる。

 僕が市場に来たのが7月。毎日毎日、スイカ、スイカの日々だった。沖縄から始まり、秋田・青森で終わる。北海道からスイカは来なかった。「そろそろ、リンゴだなっ」と先輩が言う。僕はこころの中で、(こんどはリンゴかぁ・・)と軽く思った。リンゴに自分がどんなにお世話になるかもわからずに・・。

 まず入荷してくるのが「あかね」と言われるリンゴの種類だ。小さくて、色は紫。紅玉の仲間だ。(ああ、あかねだ・・)とか思ったものだった。続いて「ネロ」と言う種類が入る。(ああ、ネロだ・・)

 続いて「つがる」が入荷してくる。「つがる」は、見た目は「ふじ」のようなリンゴだ。でも、ふじよりも柔らかく、食味もちょっと軽い。9月中旬から、メインになってくるリンゴだ。

 そのあと、ちょっと実が柔らかい、スターキングが入ってくる。「スターキング・デリシャス」と言ったら、僕の小さい頃は、よく食べたリンゴだ。お尻がとがっていて、肩が吊り上がっているヤツだ。とっても甘かったよね。でも、最近は、果肉の柔らかさからか、あまり食べられなくなったと言う。市場では、実の堅いスターキングがよしとされていた。

 久々に食べるスターキングのリンゴ。実の堅いスターキングは本当に美味しい。最近は人気がなくて残念だ。逆に、見つけるのも大変かもしれない。

 「クシャッ」と歯ごたえのないリンゴは、物足りなくなってしまっていた。一般にリンゴは、実が堅くて、甘いのがよしとされた。(それはスイカも一緒)。これもみんな、あとから出てくる「ふじ」の出現によって、堅いリンゴが王様とされているからだ。たしかに、堅くて蜜で甘いリンゴを食べてしまうと、他が食べられなくなってしまうところがある。

 僕は、ひとつひとつリンゴの種類が入荷してくるたびに、革命的な気持ちで、味わっていた。二週間位しか入荷しない種類も多かったからだ。まだ「ふじ」リンゴが登場するまでは、時間があった。3/15 一日、ディランの武道館での歌を思い出している。自由に流れるように歌えるっていいなぁ。

「リンゴの季節・2」3/17

 僕にとって、いちばん愛しい果物は、なんといってもリンゴだ。愛しくなったと言った方が正しいな。

 毎日、毎日、リンゴばかり運んでいたら、リンゴが他人のように思えなくなってしまった。リンゴと言ったら、「紅玉」や「スターキング」や「ふじ」くらいしか知らなかったのが、いろんな種類の個性を、楽しめるようになった。

 さて、「つがる」そして「スターキング」と出て、リンゴの王様の「ふじ」が出るまでに、いろんな種類のリンゴがやって来る。「千秋」「ジョナゴールド」などだ。「千秋」は、すっぱさに特徴があり、「ジョナゴールド」は大きな果肉で、味も深い。そのどちらもよく知らなかったが、なかなかに、愛するに、あたいするリンゴだ。特に「千秋」は、リンゴらしいリンゴだ。

 「アオキちゃん、六扉に国光ってリンゴあるから、もってこいや」。その昔は、みんな国光を食べていたという。「ふじ」のもとにもなっているリンゴだ。今、国光は人気がなく、ほとんど見る事もない。僕は国光を運びながら、時代の流れを感じていた。国光を食べたい人は多いだろうなぁ。

 黄色いリンゴといえば「王林」だ。王林はとっても優等生で、ほとんどまんべんまく、どの王林も美味しい。そして何とも言えない芳香がする。クラッとするような香りだ。王林は、ときどき食べると本当に美味しい。

 リンゴの王様と呼ばれているのは、今は「ふじ」で、きっと誰も否定はしないだろう。でも、「ふじ」の他にも、リンゴの大御所はいる。「陸奥」そして「世界一」だ。なにしろ「世界一」は名前がいい。「世界一」だものね。「世界一」は丸くて大きい。贈り物に人気があるリンゴだ。ある時、中国の観光客の人たちが、みんなで買っていった。

 リンゴ界の「女王様」と思えたのは「陸奥」だ。「陸奥」はとっても気品高い。大きくて、実が堅く、芳香がある。それはなんともいえずに、いい香りだ。果肉も強いし、長持ちもする。値段も高いし、見た目もきれいだ。「陸奥」を運んでいると、どしっと重くて、時間が落ちてくるように、一歩一歩あるいてしまう。そんな魅力のあるリンゴだ。

 いっときは「陸奥」「ふじ」以上のリンゴはないかなとも思ったが、どっこい、もうひとり、特別の瞳で存在しているリンゴがいた。それは「紅玉」だ。その味は繊細。リンゴの味の代表と言えるかもしれない。完璧な味だ。いろんなリンゴの交配のもとにもなっている。リンゴの日本美人と言う感じかなぁ・・。

 そして11月になると「ふじ」が登場してくる。これからはもう「ふじ」の天下だ。ずっと冷蔵保存もきく。次の年の6月くらいまでもつのだ。堅くて、味が深く、あきない美味しさがある。「サンふじ」には蜜がいっぱい入っている。保存もきいて、文句なしのリンゴだ。

 もし今でも、僕が市場にいたなら、リンゴとスイカの係になっていただろうと思う。特にリンゴに関しては、人生を捧げてもいいかなって、ときに思えたことがあった。

 仕事の帰り道、今でもいろんなリンゴを見かけるたびに、つい、ひと袋買ってしまう。どのリンゴもそれなりに美味しい。きっと「ふじ」の天下は、これからも変わらないだろう。でも、どのリンゴも愛しくて、しかたないのだ。3/16 友達よりメール。日本全国5000円で行ける航空券が発売されてるらしい。なんだか魔法のようだ。日本の一番遠くまで行きたいと思うのは、僕だけじゃなさそうだ。

「そんな楽しみもありました」3/18

 市場に中の通路は、汗まみれのやから達でいっぱいだ。そんな中を歩いてゆく女性たちは、まるで花のよう。

 事務員さんたちは、みんなしゃなりしゃなりと歩いてゆく。いろんなファッションの事務員さん達がいた。目立つイヤリングに、パンタロンの女性。しゃれたハットをかぶっている女性。先輩の五郎さんは、電動台車の上にあぐらをかいて、来る女の人、女の人、全員に声をかける。

 「よっ、お姉さん、今日もきれいだね。なに、今日デート?」。お姉さんたちは、いつだって無視だ。

 「あっ、そっかぁ」。五郎さんは何があっても、気にしない。

 毎日のように、通り抜ける二人の事務員さんがいた。ひとりは、むっちむっちのスタイルで、もうひとりは、ジーンズ姿で、小柄のちょっとだけ小太りさん。二人はいつも、何か楽しそうに話してくる。市場の僕らのうわさ話でもしているかの様だ。隣の店の兄ちゃんが僕にいつも言う。

 「また、来たよ。ほら、むっちむっちだぜ」。それは、別に悪気ではない。僕らにとっては嬉しいかぎりだ。エロスの供給と言う感じだろうか。その二人の歩く姿は、とても市場らしい光景に見えた。「アオキ、見た? いろっぺえなぁ」

 保険の勧誘の女の人たちも、みんな個性豊かに、市場を回っていた。透けているような、緑の服を着ている人もいた。市場にいると、どんなに派手でも、それが自然に思えてしまう。その位でちょうどいい様なのだ。

 「あら、お兄さん元気い? 保険なんてどう?」。片手に持っている、オシャレな手提げ袋も派手だ。五郎さんは言う。「おっ、今日もきまっているねぇ」。五郎さんのことは、また無視だ。「あっ、そっかぁ」。五郎さんは、打たれ強い。

 僕にも、好きな事務員のお姉さんがいた。その娘が通るのが、いつも楽しみだった。話した事はない。いつか話したいなぁと思いながら、四年とか過ぎてしまった。でも、先輩の五郎さんは、その娘にも、気軽に声をかけるのだった。

 「おっ、今日もカワイイね。元気? 」。その娘は、軽くニコッとする。「あっ、そっかぁ」。これは五郎さんの魔法の言葉だった。(五郎さんは、いいなあ・・)。僕はいつもうらやましく思っていた。3/17 今日は信じられないほど、眠ってしまった。それも全部本格的に眠った。花粉症の薬を変えたからだろうか? こんなに眠ったのは、何年振りだろう。最後には、夢をいっぱい見てしまった。ずっと、道路を運転してゆく夢。(ずいぶん走ったなぁ・・)。まったくの無駄・・。

「オッスと言えばオッス」3/19

 市場は、ほとんど学校のようだった。仕事場と言うには、みんなでにぎわっていて、まるで運動場のようだ。

 朝から一日歩いていると、何度も同じヤツとすれちがう。それは僕らが運び専門だからだ。もちろん八百屋さんたちや、仲卸しの人とも会うけれど、そんなに話したりはしない。やっぱり、同じ苦労している友はいとしいものだ。

 僕も市場に来たばかりの頃は、店の先輩しか、知り合いがいなかった。それが、ちょっとした事で顔見知りになり、通路ですれちがうたびに「オッス」と声をかけあうようになる。

 「オッス!!」。一日に何回も同じ男にあいさつをするのだ。食堂で知り合ったヤツ。倉庫で知り合ったヤツ。コーラの販売機の所で知り合ったヤツ。どんどん友達は増えてゆく。もう、そうなると「オッス」だらけだ。

 通路で何回も会ったりするので、最初は「オッス!!」でも、そのうち、軽い「ウッス!!」に変わってしまう。午後にはもう「ヨッ」だ。でも、どんなに顔は良く知っていても、名前はほとんど知らなかった。

 それぞれがアルバイトしている仲卸しの店の名前プラスアルファーが、だいたいそいつの呼び名になっていた。「美濃三のあいつ」とか言うぐあいだ。それでも、何の問題もなかった。僕だって、そう呼ばれていただろう。おじさんや、市場に長く居る先輩たちとも、そのうち多く知り合って、通路ではしょっちゅう「オッス」を言うようになっていた。

 すれちがうとき相手が、ものすごい量の果物の箱を積んでいたりすると、あいさつは「オッス」ではない。「大丈夫かょー、おい」だ。すると、相手はトホホって顔をして、返事はない。それは僕もそうだ。それが似合っているのだ。

 アルバイトの新人が入ってくると、それはすぐわかった。なんだか大変そうに、台車で運んでいるからだ。そんなときは、こっちのほうから「オッ」っと声をかける。相手はキョトンとしている。でも話し言葉なんて簡単だ。「大変そうだねぇ」。それでじゅうぶんだった。

 運び屋さんの中には、「オッス、オッス」と言い続けている、小柄なお兄さんがいた。片手をちょこんと上げて、いつもニッコニッコの顔で、通ってゆくのだ。とっても友達の多い人で、まるで、あいさつの方が忙しいくらい。「オッス、オッス」・・。好きだったなぁ、あのお兄さん。3/19 ポッカポッカの日。靴が壊れたので、新しい作業靴を買う。思い切って今流行の、空気クッション付きのスポーツシューズを買う。でも、あんまり関係ないみたい。1300円だからかなぁ。

「競りの風景」3/20

 市場と言えば、競りの掛け声を思い出す人も多いだろう。

 実際、僕が市場のアルバイトを選んだときは、自分も競りに参加したりするのかなって、思っていたが、とんでもない話だった。それはもう、プロの世界だった。

 競りは、朝早く競売場で行われていた。僕も何度かしか見たことがない。でも、その雰囲気は独特で、忘れられない。僕の印象でしか書けないけれど、残しておこうと思う。

 果物の競売場は、そんなには大きくはない。段差のある乗り場があり、そこに帽子をかぶった仲卸しの人たちが立つのだ。200人くらいでいっぱいだと思う。競りに入る前に、それぞれのサンプルが並べられていて、試食できる。さて、いよいよ競りの時間だ。

 競り人がふたり、台に立って、競りが始まる。ひとりは記録係なのだ。競り人は、片手にボードを持っている。そのボードには、白い紙がはさまれていて、油性ペンで銘柄の等級と数量が書かれている。油性ペンで、ひとつを囲んで、競り出すのだ。

 「はぃぃ。ヤマサカイの優等の40。3000円でどうだ!!」。すると、いっせいにみんな指数字を出す。「3500円、3800円。はい決まり!! 1260、1367」。記録係の人に、それぞれの数量分けを、即座に決めてゆくのだ。慣れもあるかもしれないが、その早さは素晴らしい。

 しばらくすると、競り人が変わる。その人によって、まったく競りの声が違うのだ。今度の人は、落ちついて、低音の声で競ってゆく。そして、競り落とされると、その最後の数字をながーく伸ばして、片腕を宙に出して、ピッチャーのように決めるのだ。

 (へぇー、カッコいいなぁ) 。また他の競り人は、まるでひとりでケンカでもしているかのように、進めてゆくのだった。「えーっ、2500、2500円でいねえのか、じゃあ2300、2300円でどうだ!!」。帽子もナナメにかぶったりして、なんだか、それなりの競りの空気を作ってしまう。

 そして、また競り人が変わる。今度は若い人だ。見るからに慣れていないのが僕にもわかった。ゆっくりと競ってゆくので、なんだか盛り上がらない。でも、急いでもできない様子だ。競り人の道もまた、プロの世界なのだろう。

 僕はずっと、競りを見ていて飽きなかった。ほんと、テンポがいいのだ。と言うか、乗せられてしまう。真剣だ。空気が張っていて、競りたいと言う気持ちになってくる。何人も競り人が変わるのだが、みんなそれぞれに個性的だ。新人君は、まだそこまでいっていない。

 他の人の真似をするのも変だし、競り人の道もなかなかに、自分探しの旅なんだなっと知った。3/19 明日は祭日で休み。なんだか明日が日曜日のような気がしてしまう。現場のお客さんとも「あさっての月曜日よろしく」とか言ってしまう。お客のほうも「はいよ、あさって月曜日ね」とか言う。これも老化のはじまりか。

「 フルーツと野菜の出てくる、恋愛風の話」3/21

 市場には、いろんな仲卸しの店があった。果物専門の店。野菜専門の店。それから、輸入フルーツ専門の店・・。

 「ほいよっ」「おっ、ありがと」

 隣の輸入フルーツの仲卸しの兄ちゃんが、焼けの入った、売ることのできないオレンジを僕にくれる。午後2時を過ぎた市場は、ひろびろとして静かだ。隣の兄ちゃんは、夕方までオレンジやグレープフルーツの選り分けをしていた。

 そんな、午後の市場をいつも、一人の生命保険勧誘のお姉さんが、回っていた。30才くらいかなぁ。愛らしいお姉さんだ。そして、いつも隣の輸入フルーツ屋の兄さんの所に来ては、ひと休みするのだった。

 隣の兄さんは33才。メタルフレームのめがねをかけて、背も高く、市場の人にしては、知性的な感じだった。保険のお姉さんのいろいろと悩みを聞いてあげたりしていた。仕事の手は休めずに、それはそれはいい雰囲気だった。

 その同じ通路をいつも通る、野菜屋さんの兄さんがいた。やっぱり33才で、とても働き者。白い半袖肌着のシャツを着て、顔は日に焼けていた。保険屋のお姉さんと、輸入フルーツ屋の彼が話していると、気になるらしくて、何度もチラチラと眺めながら通ってゆくのだ。

 その野菜屋の兄さんも、保険屋さんのお姉さんと、よく通路で話をしていた。首にタオルを巻いて、電動台車に片手を付いて、青春ドラマのように、うなずくその姿。はた目からみても、お姉さんのことが気に入っているのがわかった。

 輸入フルーツ屋の兄さんは、保険のお姉さんが帰ろうとすると、いつも焼けの入った、オレンジやグレープフルーツを袋に詰めて、「いいよ、持ってきな!」と言って、こっそり渡していた。それはなんとも自然で、グレープフルーツのような、さわやかな空気があった。

 あるときの事だ。いつものように、輸入屋の兄さんが、袋にオレンジとか入れて、お姉さんに渡していたら、あの野菜屋の彼が、そのシーンを目撃してしまったのだ。僕はそれにちゃんと気付いた。そして、しばらくすると・・。

 そして、しばらくすると、野菜屋の彼が戻ってきて、保険屋のお姉さんに、「これ、あまりもんだけどさ、もってってくれよ!!」と言って、「じゃがいも」とか「にんじん」とか「ブロッコリー」とか入ったビニール袋を渡したのだ。

 「えーっ、本当にー」。お姉さんが言う。「いいから、いいから」とお兄さんは言う。そして、かっこよく挨拶をして、また去ってゆく・・。二つのふくろを持って帰るお姉さんの姿。僕は何度か同じ場面を目撃した。

  (やってくれるなぁ・・。ガンバレ!!)。 僕は隣の輸入フルーツ屋の兄さんも好きだったけれど、あの野菜屋の兄さんも好きだった。3/20 今日は、南インドの舞踊を見に行った。ライブハウスは超満員。後から行ったので、入り口近く、ステージのそばで見た。でも、ちょっと離れて見たほうが、インド舞踊は、全体の姿がわかっていいと思った。

「紀の国屋の男たち」3/22

 神田市場には、「紀の国屋」という、大きな仲卸しの店の一団があった。それは一店舗ではない。いくつもの部門に分かれていて、大口の取引を扱っていた。その大量さと言ったら・・。

 紀の国屋で働いていたアルバイトの男たちは、朝早くから夕方まで、信じられないような高さの果物を運んでいた。

 「すげえなぁ、いつも」。僕は友達と、見かけるたびに話していた。どう考えても、僕らの四・五倍は働いていた。いやぁ、六・七倍以上かもしれない。僕が、一週間に一回あるかどうかの、電動台車いっぱいに高く積む果物は、紀の国屋の彼らにとっては、常にそれが当たり前だった。

 それでも、みんな平気で、ずっと毎日運び続けていた。あのパワーはどこから来るんだろうと、不思議だった。僕らのもっぱらの噂は、すごいお金をもらっているんだと言う話だった。それはもう、僕らの二倍とか三倍とか・・。

 「もう、そうなったら俺も紀の国屋に行くしかねえなぁ」。それは、お金に困ったときの合い言葉のようになっていた。そんながんばり屋の「紀の国屋」の男たちに比べたら、僕の仕事なんて、半分遊んでいるようなものかもしれないなって、いつも思っていた。

 その積んでいる荷物は、信じられない程に高い。高すぎて、揺れている。それを積むのも大変ならば、それを降ろすのも大変だ。運ぶのにも神経を使うし、並では勤まらないはずだ。

 僕が市場に入った同じ頃に、紀の国屋のリンゴの係に、まだ18才くらいの青年もアルバイトで入った。パーマ頭で、ツッパリ風だったので、すぐへこたれるかなと思ったけれど、なかなかに気力があり、朝から夕方まで、毎日がんばっていた。ちょうどリンゴの冷蔵庫が、僕の店の隣どうしで、しょっちゅう話す機会があった。

 「よっ、元気?」「よっ、青ちゃん!!」。僕がリンゴ5箱なら、あいつは30箱以上だった。それでもぜんぜん平気に運び続けている。「今度、飲みに行こうよ!!」。そんな軽い約束をした。

 飲みにゆく日が決まって、店の前で待っていると、「先輩から、センベツもらっちゃったよう」と言う。先輩が、「一回はどーんと飲んで来い」と言ったという。

 その夜、僕らは六本木のクラブに行った。カワイイお姉さんが隣に来て、照れながらも楽しく飲んだ。後日、その先輩に「おっ、ちゃんと飲んだか?」ときかれた。「あっ、どうも」「まぁ、一回はなっ!!」

 紀の国屋の男たちの仕事は、なんだかスケールが違っていた。いよいよ困ったときは、僕も友達も、紀の国屋で働こうと思っていた。実に本気でそう思っていた。3/21 最近、花粉症の薬を飲み続けている。ちょっと気を許すと、部屋のどこかで、横になっている。ぜったい寝ないような所でも寝たりしている。変な日々だ。

「マルヤさん」3/23

 「おっ、お兄さん、がんばってるかい?」 

 声を掛けられて振り向けば、そこには、白髪まじりのオールバック頭の顔が笑っている。マルヤさんだ。

 10時半を過ぎたくらいの、市場の仕事がちょっと一段落した頃、マルヤさんは、果物の積んである箱のすきまから、そっと現れる。

 「おはようございます」。きっちりと優しく、みんなに挨拶をする。そんなマルヤさんは高級フルーツを扱う果物屋さんだ。いつも麻の半袖シャツを着て、たっぷりとしたやっぱり麻製のスラックスに、そして靴下にサンダルだ。暑い日には、片手には扇子を持っていた。

 「いやぁ、今日も暑いですねぇ」。彫りの深い顔立ちには、いつも笑顔が絶えたことはない。のんびりのんびりゆっくりと、時間をつないでゆく。果物買いはまだまだ先だ。事務のお姉さんから、お茶をもらい、それからお菓子をひとつ食べて、世間話をみんなとして、それから・・。

 そんなマルヤさんは、僕に会うたびに、「おーぅ、やってるねぇ。働きもんだぁ」と、本当に嬉しそうにしてくれる。そして一時間くらい店で、のんびりして、電動台車が空いた頃、果物を注文するのだ。

 「よし、積んでくれ、マルヤさんだ」。そして電動台車に、次々と果物が積まれてゆく。それをワゴン車まで運ぶのは、いつも僕の係だ。マルヤさんは僕に言う。「いつものところにあるから、よろしく」

 大通り沿いに、マルヤさんのワゴン車は止まっていた。それはピンク色に塗られていたので、すごく目立って、すぐにわかる。ボディの横に書かれた「マルヤフルーツ」の文字。僕は市場じゅうのワゴン車のなかで、マルヤさんの車が一番気に入っていた。

 荷物を積んでいると、道向こうから、マルヤさんはいつも、にっこりと笑いながら、ゆっくりとやって来るのだった。あの彫りの深い顔が、近づいてくる。「やぁ、お疲れさまぁー。お兄さんはよく働くねぇ・・」。大通りに残される、ワゴンと僕とマルヤさん。

 「どうも、ありがとーう」。マルヤさんは、そう言って、運転台にゆく。そして最後にもう一度、ニコッとするのだ。3/22 電車の中、大きな押入れボックス四つくらいを、キャリーカーに積んでいる人を見る。引っ越し荷物だ。ガムテープとかで巻いてある。子供三人分くらいの荷物だ。あれをどうやって、駅の階段で、運んで来たんだろう? 

「大井市場問題」3/24

 「神田市場がなくなるなんて、そりゃだめだよ」

 先輩の五郎さんも、当たり前だという顔で言う。僕が神田市場に入った'84年にはもう、市場移転問題が起きていた。

 小さな仲卸しの店がところ狭しと集まった、こんなに大きな中央卸売市場が、秋葉原の駅前にあるなんて、不思議といえば不思議だ。路地を通って、大型トラックが行き来しているのも、見るからに危なそうだったし、それに老朽化もしていて、いつ火事が起きてもおかしくない状況になっていた。

 しかし秋葉原にあるこの神田市場は、町中にあり、八百屋さんが通うのに便利だ。そして活気があり、「やっちゃば」として親しまれている。それぞれの店には屋号があり、ここで長いこと店を出し、固定のお得意さんたちと、わがままも含めて、うまくいっていた。

 ほとんどの仲卸しの店も八百屋さんも、市場移転には反対だった。みんなで「桃栗三年、柿八年、神田市場は300年」と言うキャッチフレーズのポスターを作ったりして、断固残そうという構えだったのだ。しかし、僕の店の社長は「いろいろやっても、向こうに行っちゃうだろうなぁ」って言っていた。

 僕はまだ、市場に来たばかりだったので、ただ毎日、果物を運んでいるだけで、くわしいことはわからなかった。しかし、この「やっちゃば」が、もうすぐなくなってしまうことは、うすうす感じていた。

 煙るような高い天井から降る、陽の光り。そして、いつの時代かわからないような、古い屋号の、並んだ何百という店。行き来する八百屋さんたち。ごちゃごちゃとはしているけれど、掛け声であふれ、活気に満ちている巨大な神田市場。

 何にも変わっていないように、毎朝、市場の仕事は続いていた。でも、僕はきっとその最後の時にいるんだなと、実感していた。がんこな市場の人たちが、どんなに頑張っても、移転してしまいそうだったのだ。

 社長が言う。「新しい市場に移ったら、広いから、みーんな、電動の運搬車に乗って運ぶんだよ。こんな台車とか、マイティーカーなんて、もう使わないだろうなぁ・・」「えっ、マイティーカーが・・」。なんだか、広々としたさみしい光景が、僕の目に浮かんだ。3/23 ここずっとディランの事を考えている。60才を過ぎて、あんなに毎日のように、コンサートをやるってどんな気持ちだろうと思う。喉はどうなっているんだろう。パワーはどこから来るんだろうと思う。武道館でこの前見たディランは、なにか大きな弁当箱をくれたようだ。

「えんちゃん、えんちゃん」3/25

 市場の仕事が終わると、僕は毎日にように、隣の店の輸入フルーツ屋に行って、えんちゃんと話をした。

 えんちゃんは、33才で、背も高く、メタルフレームのメガネをかけて、なかなかにいい男だった。店の前に置いてある、電動台車の上で、いつも腐れオレンジやグレープフルーツを、選り分けていた。選り分けながら、通りかかる八百屋さんに声を掛けていた。理由はわからないが、どうも暇そうにしているようだった。

 電動台車の上に座って話していると、えんちゃんは、フルーツの選り分けを続けながら、「焼け」と呼ばれる、商品にならないヤツをくれるのだった。「ほらっ、焼けだ。おいしいぞう」。そして僕は、オレンジをむきながら話すのだ。えんちゃんはいつも、半袖の肌着シャツを着ていた。肩に担ぐ所が、少し黄色くなっていた。

 市場には300程の仲卸しの店があったけれど、えんちゃんの店は、その中でも、いつも暇そうにしていた。月に何回かの大口の取引先があったのかもしれない。店は普通に営業していて、とくにせっぱつまっているという感じはない。でも、日中、みんなが忙しくしているときにも、ずっと選り分け作業をしていた。「おい、アオキ。仕事くれ、仕事!!」。それが、えんちゃんの口癖だった。

 「俺、暇すぎて、頭がおかしくなっちゃうよ!!」ともいつも言っていた。たしかに他の店は、みんなひっきりなしに動いていた。えんちゃんは、八百屋さんに直接声を掛けて、売ったりしていた。仕事が入ると、えんちゃんは嬉しそうに、台車を動かしていた。そばにいる僕に、「俺だって、ほら、働くこともあるんだぜぇ。ああ、汗を流すって気持ちがいいなぁ!!」と言っていた。

 「青木、おまえ将来の事、考えたことあるかぁ? あと10年もしたらきっと、悩むぞう」。えんちゃんはそう僕に言った。たしかに、忙しい市場で、暇そうにしているえんちゃんを見ていると、僕でも人生に悩んでしまうかもしれないと思った。

 あるときのことだ。えんちゃんが僕に、「アオキ、おまえ酒飲めるか?」ってきいてきた。「えっ、何?」「お別れ会をやるんだよ」「えっ、誰の?」「俺だよ、俺!!」。それはあと10日くらいだったので、僕はショックだった。もう三年も、毎日えんちゃんと話をしていたのだ。

 そして、その12月の終わり、僕は田舎に帰らなくてはならなかったので、えんちゃんのお別れ会には出られなかった。最後に一言、挨拶をしようと思っていたら、えんちゃんは食事にいったきり戻って来なかった。ぎりぎりまで待っていたけれど、結局会えなかった。田舎に向かう電車の中で、僕はえんちゃんの事を思い出して、泣けてしまった。ひとこと挨拶がしたかったのだ。

 年が明けた1月4日。市場の初日、もう隣の店にえんちゃんはいなかった。なんだか、力が抜ける思いだった。そんな気持ちで、市場の初荷を運びながら、僕は別館の方へ台車で向かっていった。すると向こうの方から、なんと、えんちゃんがいっぱいの荷物を台車に積んで運んでいるではないか。

 「えんちゃーん、えんちゃーん」「おーっ、アオキー」。えんちゃんは、同じ市場のもっと忙しい店で、働きだしたのだった。嘘のようだった。なんだかとても生き生きしていた。先輩の五郎さんに報告すると、「そういうことはよくあるんだよ」って言っていた。僕には嬉しい限りだった。3/24 アルミ製のボトル缶のお茶を買った。キャップ付きなので、なんども飲めた。風の中、キャップを開けると、ボーッといい音がして鳴った。ほんとにいい音で鳴ったんだよ。ほんとに!!

「みかんの季節・1」3/26

 ああ、思い出多い、みかんの季節・・。

 秋になったかならないかという頃、沖縄から、緑色のみかんが市場に届く。「来たねー」。とうとう、みかんの季節がやって来たのだ。

 一年の中にサイクルがあるとすれば、みかんの季節は、まるで大河ドラマの始まりのようだ。これから、やってくる山のようなみかん。そして、それに負けないだけのパワーと精神力の覚悟しないとだめなのだ。市場に来た年は、それはそれはみかんの量のすごさに驚くばかりだった。

 沖縄からの緑色のみかんが届き、それが挨拶のように終わると、次はいよいよ早稲みかんの登場となる。早稲みかんは皮が薄く甘いみかんだ。皮が薄くて甘いと言うことは、すぐに腐れが出てしまい、その伝染するスピードが異常に早いのだ。びっくりするほど早い。ひと箱の中に、ひとつ腐れが発生すると、それはもう大変なことになってしまう。「うわっ」

 仕入れたみかんは、全部腐れをチェックして、それを除いてから、もう一度箱に詰めて、八百屋さんに卸す。この作業が、気が遠くなるほど大変なのだった。「さて、やっかぁ」そう言って、箱から箱へ移し調べてゆく。

 そんな腐れとの戦いの毎日も、南柑20号の登場によって、一段落する。「南柑20号」とはみかんの種類のことだ。(なんだか鉄人28号のようだけれど・・)。 僕もはじめにこの品種の名前を見たときは、なんともユーモラスだなと思ったものだ。南柑20号は、皮が厚く、色づきもよく、食味もなかなかで、あまり腐れの出ない優良なみかんなのだ。

 やっと、早稲みかんの腐れ地獄から解放されるその嬉しさ。でもそれも、ほんの二週間くらいなもの。南柑20号の入荷時期はすぐ終わってしまう。そのあと12月の半ばから、いよいよ普通みかんの「温州みかん」が入ってくる。とうとう始まる、毎日のみかんライフ。

 温州みかん・・。この名前を聞くと、市場の人はみんな、ながーい冬の時間を思い出すだろう。いつでもある、みかんの山。そして限りない配達。八百屋さんにとっても、みかんの時期は稼ぎ時だ。見飽きるほど見る、愛媛みかんの文字。こうなったら、ちょっと考え方を変えて、みかんを楽しむしかない。

 「こりゃ、うめえやぁ!!」。市場のみんなが、みかん博士になってゆく冬だった。3/25 大相撲がいよいよ千秋楽になった。実は武双山のファンなのだ。今日勝てば、優勝の可能性大。もし優勝したらケーキでも買って来て、お祝いをしようと思っていた。しかし結局、武双山は負けてしまった。優勝も似合う男だけれど、負けるのも似合う男なんだよなぁ・・。

「忘年会」3/27

 その年は、めずらしく社長が「忘年会」をやると言う。

 僕の仲卸しの店は、社員5人に、アルバイトの僕がひとり、そして事務員さんがひとりの7人だった。そして社長は、この地区の自治会長をやっていて、明神太鼓の人たちが、特別に、その日、演奏を披露してくれるというのだ。

 「社長、すごいねえ。さすがだねぇ」「五郎も久しぶりだろう。いっぱい飲んで、楽しんでくれよ」

 僕は一番の新人なので、もちろん出なくてはいけなかった。さてその当日が来た。聞いた場所に行くと、それはそれは、ひろーいスペースだったのだ。結婚式の披露宴とか充分にできる広さだった。そしてその真ん中に、テーブルと椅子が、悪いくらいに少なく用意されていた。

 ステージというか、こちらのテーブルから10メートルくらい向こうには、本格的に太鼓が並んでいた。(もしかして、この人数の前でやってくれるんだろうか?)。 僕らの店のほかにも、知り合いが何人か来ていたが、どうにも空間が広すぎて、ただ座っているだけで精一杯だった。

 「さぁ、乾杯しよう!!」。社長は、景気付けをする。「さあ、飲んで食ってくれ!!」。しばらくすると、明神太鼓の保存会の人たちが登場して、ひとしきり太鼓を叩き始めた。「いょーっ!! ドンドン、やぁーっ、はっ」。色鮮やかなハッピ姿。まだ年若い女の人もいる。

 どんなに大きな拍手をしても、この人数では、とても、その勇壮さに答えることができない。まことに素晴らしい限りだ。なんと贅沢な飲み会なんだろうか。そして、用意された食事をどんどん食べてゆく。僕には贅沢なメニューだった。

 「おぅ、うめーや、こりゃ!!」。五郎さんも、だんだんのってきた感じ。そしていよいよカラオケが始まった。五郎さんは、さすがに演歌歌手を一度は目指しただけあって歌が上手い。広い会場中に歌が響く。

 かっぷくのいい先輩もまた、歌う。その先輩は、正統派のボーカルだ。まっすぐな声で、声量のある歌い方だ。「あーーーー」。その姿はとてもユーモラスだった。まるで「男らしいとはこのことだ!!」といわんばかりの腹からの声だった。

 「アオキもなにか、歌えよ」「俺はイイッスヨ」「駄目だ歌えー!!」「ホントにイイッスヨ」「じゃあ、これなら知ってるだろう」。そして、かっぷくのいい先輩は「青い山脈」をカラオケで、勝手にかけたのだ。

 「♪わっかくあかるいうたごえにー・・」。先輩は僕の肩を抱いて、腹からのダンディな声で、「青い山脈」を歌うのだった。「アオキうたえー!!」「はらから、こえだせー!!」「♪あーーーおいさんみゃくうーー」。そんな中、社長は、なんとも嬉しそうでした。3/26 今日は友達と、のんびりと喫茶で、新しい働かない生活について、相談にのる。僕は30コくらい考える。その中のひとつは新おみくじだ。「今日、マックにゆくと吉、100円ショップに見っけものあり」とか言うものだ。だめ?

「みかんの季節・2」3/28

 年末、夜の10時を過ぎても、市場のみんなは帰らない。

 蛍光灯が白く冷たく光る下で、みんな、みかんの腐れの選り分け作業をする。またこの年末の光景がやって来たのだ。やってもやっても終わらない、みかんの箱の数。今日は200。明日は300。寒いんだか、寒くないんだかもうわからない・・。

 「おかちゃん、おかちゃん、次はどれだい?」「おっ、五郎、あのひと山やってくれい」「あいよっ」。演歌の鼻歌を軽く歌いながら、みかんの選り分けを続ける五郎さん。慣れてるなぁ・・。

 みかんは入荷してから、一度、仲卸しで腐れのチェックをしてから、再度箱に詰めて、八百屋さんに卸すのが普通だった。年末は特にその数が多くなり、どの店でも遅くまで、腐れの選り分けをしていた。限りない、みかん三昧の日々。

 入荷した、みかんの箱を開ける。そして、ひとつひとつみかんに腐れがないか調べる。先輩たちはみんな、なんとなくつかみ、ぐるぐると手の中で転がして、隣の箱に移してゆく。一個でも腐れが入っていると、伝染するので、検査した意味がなくなってしまって大変だ。

 そこで僕は、みかんの皮の全面を検査する必殺技を考え出した。それも両手で一度に見る方法なのだ。指をうまく回して、クルクルポロポロと、手品師のようにみかんを指から落としてゆく。完璧に皮全面を見る。この技を使っているのは、市場ひろしといえど、僕ひとりだったろう。

 僕は得意になって、みかんの腐れを見つけていた。しかし大先輩は違う。箱を開けて、顔を近づけて匂いをかぎ、腐れがあるか決めるのだ。ガラガラガラ・・。ひとつも検査せずに箱に移してゆく。「それで、いいんすか?」「でーじょぶだよ」。さすがだった。

 やってもやっても終わらない、みかん箱の山。午後の2時に仕事が終わり、ひと休みしてから、みかんの箱開けにかかる。そして9時10時まで、ずっとみかんの箱の前に立つ。どの店もそうだった。「おーい、8時頃、トラック来るからなぁ」。そして、300箱とか積み込むのだ。

 けっこうヘトヘトに僕はなっているのに、先輩たちは、まるで当然のように続ける。「じゃあ、また明日にすっか!!」。そして明日もみかんの選り分けだ。外は夜、うす暗い倉庫での作業。もくもくと、また、みかんの箱を開ける。それはなんとも、僕には忘れられないシーンだ。

 夜、つぎつぎと到着する地方の大型トラック。年末の市場は、寒くて広い。みかん色が鮮やかに咲いている通路に、電動台車が、淋しそうにカタカタと動く。ああ、暮れの実感がありました。3/27 朝、桜のスケッチに出かける。みんなが仕事に出かける時間に、堂々と道で、スケッチしていると、なんだか自由人のよう。それにしても、久しぶりにスケッチをした。今度はいつだろう?

「旅に出る話'87」3/29

 6時24分の山手線に乗るために、僕は毎朝、目白駅まで走っていた。

 市場でのアルバイトの日々は、とても楽しくて、このままずっと、変わらないように思えていた。自分でも不思議なくらいに、市場の雰囲気が好きで、まるで毎日、学校に行っているような気持ちだった。

 大井に移転する話はあったけれど、僕は今残る神田市場に、一日でも長く居ようと決めていた。そんなある日、友達がインドの旅から帰ってきて、僕にいろいろと話をしてくれた。次は陸路でヨーロッパまで行くと言う。

 「いいねえ、その時は僕も誘ってよ」。なんとなく、そう言ってしまったのだ。

 そして友達は、その一週間後にまた会いに来た。「青木さん、決めたよ。三ヶ月後の七月に、神戸から鑑真号に乗って、上海にまず行こうと思ってね。一緒に行くんだよね?」

 まさか、一週間後に誘われるとは思ってもみなかった。何年も先の話だと思っていたのだ。それも、陸路で行くなんて・・。海外にも、行ったこともない僕なのに。こりゃ困った・・。「一週間だけ待ってくれる?」

 ずっと、ずっと市場に居ようと決めていたのに、俺はどうすりゃいいの? みかんやスイカやリンゴの日々はどうすりゃいいの? 八百屋さんたちと、会えなくなるなんて、さみしすぎる。

 きっと僕は旅に出なかったら、市場にいることになるだろう。それでも良かったけれど、あるひとつの事を思い出していた。それは、小学生の頃、手相の本で調べたら、自分は27才で海外に行くことになっていたのだった。(そう言えばそうだったなぁ・・)

 泣きそうな気持ちもあったけれど、僕は、小学校の頃のあの占いを信じてみることにした。このチャンスを逃したら、もう海外に行かないと思えたのだ。一週間後、僕は友達に、「旅に行くよ」って返事をした。

 すべてが急なことだった。社長もみんな、びっくりしていた。僕自身よくわからなかった。市場の駐車場に腰掛けて、紙コップのコーヒーを飲みながら、考えてみた。離れたネリベの倉庫にむかう途中、台車を止めて考えてみた。足とか手とか肩で、考えてみた。3/28ミニコミ「会議」の原稿書きをする。ここ三日くらいバイトは休み。あっという間に、夕方になってしまう。すぐ横になってしまう。カップうどんを食べてしまう。時間がおかしくなりはじめている。贅沢なんだよねぇ。本当は。

「果物のことを話してみよう」3/30

 柿は、不思議な魅力を持っていた。丸い「富有柿」。四角い「ひらたね柿」「次郎柿」。そして、大きな「百メ柿」。干し柿に、半分干したアンポ柿・・。なんというか、いにしえの想いと言うか、くだものの中でも、風格あふれる姿に思えた。市場に来るまでは、柿は柿だったが、市場に来てからは、すっかり柿の魅力にはまってしまった。

 はじめは堅い柿も、やがては食べ頃になり、だんだんうまくなる。そして、柔らかくもなる。そのへんもいい。そして、あの大きな「百メ柿」を食べたときは、震えるほどおいしかった。「百メ柿」は渋柿のままで市場に来て、焼酎に頭を二日・三日つけておくと、渋が抜けるのだった。「青ちゃん、百メたべっか? うんめえぞう!!」

 柿もなかなかだったけれど、洋梨の「ラ・フランス」にも、びっくりした。洋梨は、堅いままで、市場の冷蔵庫にストックしておくのだった。それも気長に・・。どの位、入れておいたかなぁ。堅かったラ・フランスも食べ頃になる。先輩はなぜか、いつもひと箱だけ売らないで残しておいた。(あれぇ、いつまで置いておくのかなぁ・・)

 「青ちゃん、ホラ、冷蔵庫のラ・フランス持ってきてみろや」。たしか、二ヶ月くらいたっていたと思う。「ちょうどいい頃だな」と先輩が嬉しそうにしていると、「オッ、ラ・フランスだね、どれどれ」と五郎さんが来て、ひと口食べる。「こーりゃ、うめえや!! 」。それを見ていた僕に、先輩が言う。「青ちゃんも食べてみろや」。そして、食べたあのラ・フランスの味。クラッとするような、洋酒がしみてるような味は忘れられない・・。

 そして、僕が市場に来て、いちばん驚いたことは、「長十郎」の梨だ。田舎にいた頃、梨と言えば「二十世紀」だった。ときどき「長十郎」を買ってくると、「えーっ、長十郎?」とか思ったものだった。ぱっとしない味に思えていたのだ。

 それぞれ果物には、等級があり、無印・良・優・秀 と続いている。秀は、ほんとにうまい。「秀」の「長十郎」を食べたときはびっくりした。「これが、長十郎?」。信じられないほど、味が深いのだった。(いやぁ、悪かったなぁ、長十郎・・)

 そうだ、ぶどうもあった。ビワもあった。メロンもあった。かりんもあった。あけびもあった。栗もあった。3/29 雨の中、ミニコミのコピーに行く。昨日まで暖かかったのに、雨が冷たい。30分電車に乗って、また帰ってくると、なんだか、遠い旅から帰ってきた気持ちになった。なぜだろう?

「さよなら、神田市場」3/31

 と、言っても、市場での日々は変わらなかった。

 朝の市場は、薄く煙っている。カタカタと鳴る電動台車が、今日一番の果物を運んで来て、だんだんと、店が出来上がってくる。

 「おう、青木くーん、お早う。忙しいよう、電話貸してね」。朝、一番に来る八百金さん。そして、浅野のおじさんが、いつのまにか椅子に座っている。「オハヨー」。大声で、やって来る葛西青果さん。それから手帖片手に谷中フルーツさんが来る。

 それからは、ひっきりなしで、11時まで果物運びが続く。練塀の倉庫に行けば、またあの元気な「ネリベの隊長」に会う。「おーっ、元気かね、労働者諸君!!」。一扉・二扉、そして冷蔵庫を行ったり来たり。足はずっと止まらない。

 四年前、市場に来てから、そういえばずっと忙しく歩いていた。なぜか、ここに来ると頑張ってしまうのだ。自分でも不思議なくらいはりきってしまう。あの働き者の八百屋さん達にも「青木君は、がんばり屋さんだねえ!!」といつも言われていた。

 あるときの事だ。いつもの八百屋さんの車に、果物を積んでいると、まじめな顔で、こう言われた。「お兄さん、俺の所に来るか?」「いやぁー、ちょっと・・」と、笑ってごまかしたけれど、八百屋さんは、きっと本気だったのだ。

 そういえば、電動台車「マイティーカー」の、修理屋さんのお兄さんの話をするのを忘れてしまった。市場じゅうのマイティーカーの調整を担当していた、メタルフレームのメガネをかけた、あの兄さん。

 何十台という、マイティーカーに囲まれて、いつも、カタカタ動かしていた、なぜか仲良くなって、よく話をしにいったなぁ。修理が終わると、店まで届けてくれた。ひょうひょうとしたその姿の可笑しかったこと!!「はい、出来たよー」

 市場は、午後2時にはもう、静かになってしまう。それぞれの店は、大きなスダレのような"よしず"で、店をおおっている。二階の小さな事務室には、明かりが並ぶように付いている。着替え終わったアルバイトの友達が、通路の向こうから歩いて来る。「よっ、青ちゃん!!」

 「おう、俺ねえ、もう今月でやめるの」「えーっ!!」「んー、7月に海外旅行に行くのさぁ」「急だねぇ、まあ、ちょっと話そうよ」。桃の香りが市場に漂い、そろそろ夏になろうかというとき、僕は神田市場を後にした。最後の日まで、八百屋さんたちは、知らなかった。友達もみんな知らなかった。

 あと、二・三年もすれば、神田市場は移転問題で、大変な事になっているだろう。その時まで本当は居たかった。僕は、市場を何回も巡り歩いて、秋葉原の駅へと向かった。四年前の夏、ここに来たときの事を思い出していた。五郎さんが、椅子に座って呼び止めてくれたのだ。

 「おっ、アルバイトかい? 待ってたよ!!」。それから毎朝かよったこの秋葉原の駅。僕はやっと、帰りの山手線に乗っている気がした。それは、最初に市場に来た四年前の、行きの電車の帰りのようだ。あっという間に過ぎてしまった。あっという間にすぎて、一枚の写真も撮らなかった。今はもう、どこにもない、あの神田市場。3/30 地下のライブが、終わった。偶然だけが知る演奏だった。ボツにしようかなと思っていた歌が、一番いい出来だった。それがいい。ひと月の間、市場の話につきあってありがとうございました。ぜひ感想を掲示板に残していってください。

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