青木タカオの「ちょっくら・おん・まい・でいず」  今月に戻る
過去ログ「New Days」日記付き'02.4月〜5月

vol.1「新しい日々」(4/5)

 気が付いたときには、そういうことになっていた。

 新しい日々には、何か新しいきっかけが必要だ。新しいノート。新しいカバン。新しい靴・・・。4月と言えば、入学のシーズンでも有り、学校時代は、教科書、そしてノートも新しい。春休み、新しい運動靴を買ってもらったかもしれない。新しい運動靴は、いつもなんだか恥ずかしい。僕は、それに耐えられなくて、よく砂場に行っては、ちょっと汚したものだった。

 新しい日々には、何か新しいきっかけが必要だ。でも逆に言えば、新しいきっかけが、新しい日々をくれるのかもしれない。新しいシャツ。新しい自転車・・。その日が来るまで待っていようと思う。その日が来たら、生活を変えるのだ。新しいラジカセ。新しいギター。

 新しい物を買うのにも、何かきっかけが必要だ。それが新しい日々だったのかもしれない。

 気分を変えて、また、今月からやっていこう。さて、はじまります。


vol.2「新しい靴」(4/6)

 新しく始まった日々のことをよく「歩き始める」と表現するけれど、靴はやっぱり、その象徴的なものなのかもしれない。

 たいがいの場合は、買ってあって、初めて靴をはき始める日があるものだろう。中学生になるとき、買ってもらった学生靴を、入学式のときにはき始めた。それはなんとも記念すべき一日。

 靴をはき始めるとき、やっぱり最初の100メートルくらいがいい。それも出来れば晴れた朝がいい。駅まで行ってしまうとまた普通の日々に戻ってしまいそうだ。

 もう前のことだけれど、僕の新しい生活を始めようと、7000円以上するリーガルのスニーカーを、買っておいた。薄茶色で、表面がスエードのようになっているスニーカーだ。靴屋さんで見たときに、とても憧れたのだけれど、店先には、スニーカーが780円とかで売られていて、買うには、勇気が必要だった。

 アルバイトをやめたとき僕は、そのスニーカーを買い、新しい自分を始めようと思った。はき始める日も決めておいた。その日でなくてはという理由は一つもなかった。

 そして薄茶色のリーガルのスニーカーをはいて、外に出たときの気持ちは忘れられない。僕はそのスニーカーをずっとずっとはくつもりでいた。しかしひと月もしないうちに、カカトが減りすぎて、何か別のものが出て来た。カカトのゴムはとても薄かったのだ。それは780円と変わらなかった。シヨックだったけれど、憧れのスニーカーだったので、その後、2年くらい僕ははき続けた。

 雨の日はカカトに沁みまくった。それは僕だけの秘密だった。外側はとてもとても丈夫なのに・・。結局、はけなくなる日は来た。しかしスニーカーの外側は、まったく破れたりしなかった。雨は沁みたけれど、気分的には、ずっと幸せだった。


vol.3「新しいバック」(4/7)

 バックそしてカバン・・。これもまた旅立ちの日に似合っているひとつだ。

 新しいバックには、どこか遠出する気持ちがある。住んでる町を歩くとき、新しい靴はまぶしく、知らない町を行くとき、新しいカバンが嬉しい。それは、カバンがその町まで連れてってくれているように思えるからだ。

 一日にはきっとサイズや形があり、僕らはそれを何とか一緒に連れ歩いている。カバンはいつも、風景とつながっていて、なんとかバランスをとってくれながら、僕らの居場所を作ってくれている。背中に背負うのが楽な人もいるだろう。肩から下げてゆくのが楽な人もいるだろう。

 太陽の光が明るく差している下では、服や靴は隠れようもない。切符を買うために並んでいたり、誰かに「あちらですよ」と言われ指差す方を眺めたり、そんな時間の流れの早さの中では、気持ちが時間よりも遅れがちになってしまう。

 (ふうぅ・・)と缶コーヒーを飲みながら一息つくように、新しい日々には、気持ちの戻れる場所がどこかに必要だ。24時間、まちがいなく進んでしまう時計の確かさのパワーに、カバンだけが、ワンクッション付けてくれる。

 知らない町で、新しいカバンは嬉しい。ふと休む岩のように、その中は心の昔ともつながっている。


vol.4「新しいシャツ」(4/9)

 新しいシャツ。イメージとしては、襟付きの、普通の柄シャツのことだ。Tシャツというのもあるけれど、今回の出番は普通のシャツの方。

 もう前のことだけれど、ある一軒の下町の洋服屋の前を自転車で通った。そのとき、目に入った一枚のシャツ。それは店頭で上半身のマネキンが着ていたものだった。(うっ・・) ブレーキをかけ、Uターンしてもう一度見る。肩のところはすっかり色褪せていて「ここは洋服屋ですよ」と、言ってる看板変わりに店頭に出しているもののようだ。

 売りものではないかもしれない。しかしそのシャツは、僕にひとつの新しいイメージをくれた。そのシャツを着ている自分が想像され、新しい日々と新しい自分の姿が、そこに見えた。

 僕は、なにげなく、その洋服屋に入り、なにげなくマネキンの着ている服が欲しいと言った。あまりにしつこいと変なヤツだと思われそうだからだ。

 「あれですか? あれ、売り物ではないんですよね」「いいです、いいです。とても気に入ったんで、欲しいなぁとか思って・・」お店の人は値段が付けられない様子だったが、1000円で売ってくれた。服を脱がされるマネキン・・。ゴメンよ・・。

 そして僕はそのシャツを手にいれた。少し厚い綿の深緑の長袖シャツだ。その色がなんとも絶妙でいいのだ。黒板の色というか。僕はそのシャツから、すべて新しく始めようと思った。買ってからしばらくは着ないで、そのシャツデビューの日を自分なりに準備した。

 ある日、友達の集まる場所に、僕はそのシャツを着ていった。まるでカッパが、カッパの服を見つけたように、気分にぴったりだった。ボクサーが、手に合うグローブをはめたときのような気持ちだ。

 この世に売られているシャツ、そして町で見かけるシャツのすべての中で、そのシャツは特別に思えた。宝石の原石のようだ。僕はそのシャツから、新しく始めることが出来た。

 そのシャツは、今でも、僕の服掛けの中で、「やり直しのシャツ」と呼ばれている。


vol.5「新しいジーンズ」(4/11)

 はけるズボンがあればいいと、思っていたのに、ある時、僕はジーンズに目覚めてしまった。と、言ってもそれは中学生の頃。中学生と言っても、今ではなくて、もう前の話・・。

 ジーンズには形のブームがあった。 ストレートから始まり、そしてベルボトム(ラッパ)。それからスリムへと人気が移っていった。回りを見れば、誰も彼もがスリムのジーンズだ。「そんなことってあったのか?!」と言う人もいるかもしれない。僕も住んでた町では、そうだったのだ。

 ちょうどその頃、アメリカンフォークミュージックに熱中していた僕は、リーバイスのストレートジーンズが欲しくて欲しくてしかたがなかった。リーバイスは高い。中学生の僕にとっては、信じがたく高いジーンズだ。でもなんとか僕は「501」を買ったのだ。

 「リーバイス501」どう、このジーンズを扱っていいのか、よくわからない。なぜ、チャックではなくてボタン止めなのか、色を落としてもいいものなのか、悪いもなのか、さっぱりとわからない。シーンズと言ったら、自由に気にせず、のびのびとはける所がいいのに・・。

 新しいジーンズ。リーバイス501。僕はシワをのばしながら、きっちりとたたんでしまったり、出したり、はいてみたり、また脱いだり、たたんだり、伸ばしたり、叩いたり・・。とにかくどう扱っていいかわからなかった。生地は厚くゴワゴワして、不思議な感じだ。

 チャックの替わりにボタンを、開け閉めするのが、大変だった。(丈夫なんだろうなぁ・・)とは思っていたけれど、もうひとつ理解できなかった。外に出ても、大事にはくばかりで、汚れることは出来なかった。インディゴブルーは、いつまでも新しくて恥ずかしいので、洗濯だけして色を落とそうとした。

 (落ちたなぁ・・、落ちてないかなぁ・・)。何やってんだろ、俺。

 それでも、リーバイスのストレートは、僕にいろんなことを教えてくれた。新しい日々は、ストレートジーンズと共に、ゆっくりと進んでいった。


vol.6「新しいバイト」(4/13)

 小さい頃から変身願望は、もちろん僕にもあった。

 テレビの中の話では、スタイルが一瞬で変わった。そして徹底的に強くなるのだ。「変身!!」と言うくらいだから、体も変わらなくてはいけないのかもしれない。僕も何か変わりたいときは、まずスタイルから入ってゆくタイプだ。そして後から、気持ちの方が付いて行く。

 でも、どうにも回りが変わらないときは、自分もまた変わりそびれてしまう。僕が、19才のときに入った会社は、とても自由で創作的な会社で、一日僕は冗談を言っていた。そのかわり、毎日残業があり、ずっと会社にいるような感じだった。

 いろいろと勉強したいことが増えて、僕は、短い時間で集中的に働けるアルバイトを探し、青果市場で働くことにした。朝早く、昼過ぎには終わってしまう。あまりにも前の仕事ぶりが遊び感覚だったので、僕は人格を変えて、面接を受けに行った。

 実際に働き出してからの日々も、ずっと真面目真面目で通した。自分でも可笑しいくらいの変わりようだった。「アオキは働き者だなぁ」と、どの八百屋さんにも言われた。

 そうして何年かたったある日のこと、ひとりの八百屋さんに「俺の息子になるか?」と、なにげなく本気で、言われたことがあった。八百屋さんのあととりと言うことだろう。いちおうやんわりと断ったのだけれど、それはそれで嬉しかった。

 (こんな俺だったけ・・)

 ずっとずっとそう思いながらも、市場での日々は続いた。最初の日から、最後の日まで、ずっと真面目な青ちゃんで通したのだった。

 リーバイス501のジーンズの良さがわかってくるのは、それからまた10年ほどしてからだった。


vol.7「新しいノート」(4/14)

 何を始めるにしても、まず新しいノートだ。そして、すべてのノートには、タイトルがある。

 ・・・思えば、気が付いたときには、そこに新しいノートがあったはずだ。小学校の頃、まず初めに作ったものは、工作ではなくて、ノートだったろう。それ以来、新しいノートを作り続けている。そして人はどれくらい一生の間にノート作るだろう。

 どんな子供もノートを作る。哲学的な人もノートを作る。ギャルもまたノートを作る。ツッパリもまたノートを作る。老人だってノートを作る。その人の作ったノートは、とても真面目に、平たく待っている。タイトルを付けたり、名前を書いたり、1ページ目を白紙にしたり、値段をはがしたり・・、それは、まるで銭湯に行くときの手順と似ている。誰も彼もが、だいたい一緒だ。

 そして、いつからだろう。僕が、新しいノートマニアになったのは。まあ、高校生くらいまでは、普通に勉強ノートを作っていたくらいだった。創作・歌詞ノートとかはあったけれど。それからまたずいぶんたって、もう一度、自分でいろいろと勉強するようになってから、オリジナルタイトルのノートを作りだしたのだ。

 まずは「計画帳」これは大事。一番重要だ。あとは、創作系のノートばかり。新しい日々には、そして新しいノートはかかせない。それはそれは、遠い、小学校一年の一日目の、あの気持ちを再現しているのかもしれない。

 イギリスの詩人に、ディラン・トマスという若くして有名になった詩人がいる。彼は、若い頃に受けた詩のインスピレーションを大事にとっておいて、時間をかけて発表していった男だ。その彼の作っていた創作ノートは、ニューヨークのバッファロー市の図書館に所蔵されていることから、通称「バッファロー・ノート」と呼ばれている。

 僕は、すべてのノートタイトルの中で、この「パッファロー・ノート」というタイトルが好きだ。日本だったら「イノシシ・ノート」というところだろうか。

 タイトルを見ただけで、がんばれるノートこそ、最高だと思う。


vol.8「新しいラジカセ」(4/18)

 秋葉原から、ちよっと大きな箱を持って、電車に乗る人たち。それは、パソコンだったり、ラジカセだったり・・。

 なにげなくシートに座ったりしているけれけど、それはずっと待っていた日なのだろう。嬉しい気持ちは不思議なバランスで、そこにあり、しばらく揺られてゆく。揺られてゆく。

 家に着いて、箱を開ける。そして出てくる、メカニックなラジカセ。その時の気分はなんともいえない。これからのライフで重要な存在になるはずのラジカセの登場だ。

 ラジカセから流れてくる音楽。それは生活に色を付けてくれる。音楽をくれる吹き出し口だ。そして、何度も音を見つめるように、ラジカセを見つめる。ひとつのラジカセがやって来る。今までのラジカセは、隣りの部屋とかに行ってしまう。

 部屋での生活の中心になるラジカセには、歴代のラジカセが存在する。初めて買ってもらったラジカセから始まり、買い換えるたびに、大きな存在感を持つ。そのどれも、壊れるまで充分に使いきって、次にバトンを渡す。ああ、今回で何台目(何代目) だろう・・。

 音楽は、日々の生活に流れる。時間の食事のようだ。ラジカセは、使いやすさと耐久力が必要だ。すぐ調子悪くなっては困る。新しいラジカセは責任重大だ。電車の中、揺られながら持って帰るラジカセの箱。そのどれもが、素晴らしくあって欲しい。がっかりするなんてなくていい。


vol.9「新しいマフラー」(4/20)

 マフラーはひとつの不自然さが命だと僕は思う。

 マフラーの話をするときにまず必要なのは、マフラーの存在感についてだ。

 マフラーはひとつのアクセントであり、ダイナミックである方が、似合っている(と、思う)。そしてなるべく、服やズボンと柄が似ない方がいい。巻き方はワイルドなのが一番。

 それは、何か思想のようなのかもしれない。それは、人生のようなのかもしれない。マフラーの持っているバランスは、生きてるという実感を持たせてくれる。その昔、野生に近く暮らしていた人達は、ただ毛皮を体に巻き付けていただけだったろう。

 マフラーの巻き方には、いろいろあるけれど、たぶん一番正しいのは、好きなように巻き付けるということだ。「あぁ、首が寒い!!」とか、言いながら無造作に手につかむのがいい。

 どんなマフラーが、似合うのか、それは予想できない。予想を裏切る方が、きっと似合ってくるはずだからだ。この冬のマフラーというものが決まっているわけではない。たまたま、手に入れたマフラーを巻いてみたら、意外と似合っていた、と言う事はあるだろう。

 最初は、気恥ずかしくて、照れていたマフラーが、そのうちに似合って来るという事は多い。新しいマフラーは、まるで行ったことのない、一本の細道のようだ。

 新しいマフラーは、しばらく巻きつづけてみるのがいい。


vol.10「新しい歌」(4/23)

 どこかの町、どこかの村、どこかの森に、何かを探しに出かけるとき、ストーリー的には、一回迷わなくてはいけない。たまたま寄った、お茶屋にヒントがあったりする。

 それと同じで、ひとつの歌を作るのにも、一度、迷子になって、何かを見つけないといけない。手品がシンプルになるための仕掛けのようだ。「新」と名の付くものは常にその繰り返しで、だいたい二段階に分けて、もの事が進んでゆく。

 新しい歌が、生まれるときは、たいがいどこかの団子のように、似たような歌が、二つ三つと出来る。同じ内容かもしれないが、気にすることはない。うまく作れたり、作れなかったり・・。しかし、ホントに新しい歌は、そこには住んではいない。

 洗濯機の水が渦を巻くように、ひとつの流れが、また流れになって、大きなひとつになろうとする。その渦は、もともと一つの波長があって、みんな飲み込んでしまう。自分では、すっかり新しい歌を作ったつもりでも、またもとの流れに戻ってしまうばかりだ。

 渦の中にできる、また小さな渦のように、何曲か作った歌のどこかのフレーズが、呼ぶ。呼ばれたなら、もう掴んだと一緒だ。そのフレーズについて行くと、もうひとつの新しい歌と出会う。

 たまたま寄った、お茶屋にヒントがあったりするのだ。


vol.11「新しいポスター」(4/26)

 人類は、壁画の時代から、何か壁からパワーをもらっていたのではないか。

 と、そんなおおげさなことではないが、見つめるそこに常にあって欲しいものがある。

 気がついたときには、もう僕はポスターを壁に貼っていた。それは何歳からだろう。まるでもう昔から、そうすることを知ってたように、本能に沿ってポスターを貼ったようだ。

 新しいポスターは、そこから部屋の空気を変えてくれる。まるで空気清浄機のようだ。もう、そのポスターがあれば、この先の日々がパワーに満ちたものになるように思えてくる。明日からの毎日は、そのポスターから生まれてくるようだ。

 ポスターを貼る。とりあえず最高な気分。常にそのポスターがこちらを見ているような気がする。視線で体がしびれるようだ。知らず知らずのうちに顔がそちらを向いている。どこかに出かけて、帰ってくる。そのポスターがあって、自分の部屋という感じがするじゃないか。

 最高な気分は、いつまでも続くと信じてみるけれど、やっぱりどんなパワーのあるポスターを貼っても、いつのまにか見慣れてしまう。それは仕方がない。また新しいポスターを貼るという方法もあるけれど、それでは同じことだ。

 部屋の模様になってしまったポスターは、どうしてと思うくらいに、自然さをかもし出してしまう。(いや、そうじゃないんだ!!)と、心はつぶやく。心はつぶやくけれど、まだポスターはそのままだ。

 ずっとたって、ほんの少しまたずっとだって、それは秋の日の午後4時くらいのことだ。新しかったポスターは、多少色褪せてまま、僕を見ている。ちがう、僕の方が見ているのだ。時間は、そこから生まれ続けている。

 忘れ物は、まだ忘れていない。


vol.12「新しい時計」(4/29)

 新しい時計を、探しているとしたら、いよいよ本気なのだろう。

 その人は、大きなディスカウントの時計屋に入る。そして向かうのは、奥の方にある、バーゲンではない時計売り場の方だ。

 「いらっしゃいませ!!」「はぁ・・」

 その人は、なんとなく新しい時計のイメージはあるのだけれど、はっきりとは決まっていない。どの時計ももうひとつなのだ。そして二階の高級時計のコーナーにも行く。

 「いらっしゃいませ・・」落ち着いた雰囲気の場所の店内で、ガラスとか磨いている店員さん。ひととおり眺めて回る。もともとお金はそんなには無いのだから、すぐに買わないお客とバレてしまう。店員さんは、そのままガラスを磨いている。高級時計も、もうひとつピッタリとくるものは無い。

 帰り道、途中途中にある時計屋さんのショーウインドーを眺めてみる。質屋さんのショーケースも眺めてみる。(なかなか無いものなんだなぁ・・)。 すぐに見つかると思っていた、新しい時計は、幻のようにつかめないもののように思えてくる。

 せっかく、すっかり買うつもりで、出かけたのに、新しい時計は見つからない。次の朝、時計が無いわけではないので、とりあえず、昨日と同じ時計をはめて、バイトに行く。

 (おっかしいなぁ・・。ホントは今朝から、新しい時計をはめてゆくはずだったのに・・・)

 まだこの世には、新しい時計はないようだ。偶然はなかなか二つ重ならない。


vol.13「新しい靴下」(5/3)

 今は2002年。靴下は7足で、1000円の時代だ。

 7足で1000円。色もいろいろある。僕はなるべくお気に入りの色の靴下を何足も買う。それは、一日中歩く仕事をしていて、すぐにかかとに穴があいてしまうからだ。同じ色を多くもっていると、それなりに都合がいい。

 僕の欲しい色の靴下はなかなか無くて、店で見つけるたびに、ついつい買ってしまう。そして気が付いてみれば、仕事先にも自宅にも、まだ履いてない靴下ばかりになってしまった。

 新しい靴下を、履くのは、とても気持ちがいい。どんどん穴も空いてゆくので、どんどん靴下も使ってしまう。靴下が長持ちする人は、そんなには、しょっちゅう、この気分を味わえないだろう・・。

 洗ってある靴下のあるのに、ときどきは、それでも新しい靴下をおろしてしまうときがある。新しい気分で、出かけたいときや、大事なことがあるときだ。それは、みんな同じだろう。

 新しい靴下も、履いてしまえば、だいだい同じだけれど、新しく履くときの感じはなんとも言えなく良い。その気分だけのために、履くと言ってもいいくらいだ。(どうして? 洗った靴下があるのに・・)とは、ぜひ言わないで欲しい。。

 それは、ちょっとしたことだ。そうやって、また同じ色の靴下がストックで増えてしまう。気がついてみれば、洗濯ハンガーには、ズラリと同じ色の靴下ばかりが並んでしまう。(これでいいのか? これでいいのだ・・)

 靴下を無駄にしているとは、思えない。


vol.14「新しいレコード」(5/8)

 最近はレコードも、ほとんどCDになって、大きなCDショップでは、試聴できたり、細かなコメントが付いたりしていて、とても買いやすい。

 僕が東京に出てきてからの約10年は、レコード店回りの日々だった。輸入レコードは、小さな中古レコードの方が揃っていた。今のように、CDの横面が見えるわけではないので、ただひたすらにレコードのジャケットをめくり上げてゆくだけだ。その音がするだけで客どうし会話もない。

 ふと、手と目が止まるジャケットがある。ピンと来るのだ。まったく音はわからない。その人の名前さえも聞いたことがない。しかし、ピンと来たレコードは、買ってしまう。ジャケ買いというやつだ。もちろん欲しいアーティストのレコードも買う。

 家に帰って来て、ピンと来たレコードを聴いてみる。初めてレコードに針を落とすときの気持ちはなんともいえない。だいたい一曲目が一番いいので、それですべてがほぼ決まる。「よし!!」と思えるときは、だいたい5枚に一枚くらいだ。「ヨシ!!」と力強く思えるレコードは8枚に一枚くらい。もちろん「はずれ」のときもある。それはしかたがない。

 しかし、当たりのレコードだったときほど、嬉しいときはない。感動的だ。誰に薦められたわけではなく、自分で見つけたのだ。ピンと来てグー、という感じか。

 はずれだと思ったレコードも悔しいので、何回か聞く。一年後くらいに、(こんなんの買ったっけ・・) と、思いながら、また聞いてみる。すると、意外と良かったりするのだ。それもまた見っけものだ。

 新しいレコードは、輸入中古レコード屋にあった。トントンと音のする店内。そしてピタッと音が止まる。。


vol.15「新しい誓い」(5/11)

 実家の新潟の方にいた頃は、海のそばに住んでいたので、除夜の鐘の頃には、よく海に出かけた。と、言うのも、神社からそのまま、100メートルも歩けば海が見えてしまうからだ。

 冬の夜の海は、なんとも寂しい。しかも白く立つ波がしらが、生き物のように迫ってくる。もちろん誰もいない。海のずっと向こうもやっぱり暗い海で、新年ということもあり、雲と一緒に何かが迫ってくるようにも見える。実際、そうなのかもしれないが・・。

 僕は突堤の方へ歩いてゆく。ずっと先までゆっくりと歩いてゆく。とても危険だ。しかしその危険な感じが、なんとも自分をどこかの聖者のような気分にしてくれる。まるで聖者のように歩いているけれど、じつはまだ、なにを新年に誓うか決めていないのだ。

 突堤はすべりやすい。とても危ないのだ。危ないと、ついつい鼻歌も出てしまう。周りのパワーに負けそうになってしまうからだ。生き物のような雲を遠く目で追いながら、先へ先へと歩いて行く。

 とうとう、もうすぐ突堤の先というところで、徐々にゆっくりと、進んで行く。まるで映画「十戒」のモーセのように・・。神妙に面もちだけれど、まだ実は何を誓おうか、決まっていない。そして突堤の先端まで来たとき、海の方を覗いてみる。ここまではいつもどうりだ。

 そして、新年の誓いを、暗い海に向かって立てるのだ。口が言うままにまかせて、喋ってみる。たいした事を言うわけではない。ここに来たかったというだけなのだ。

 (よし、帰るか!!) そして僕は、そそくさと突堤を引き返して来る。それがまたいい。帰りにまた、明かりと人で賑わっている、神社をチラッと見て家に向かう。それがまた、いい感じだ。


vol.16「新しいジャケット」(5/14)

 僕の求める、新しいシャツや、新しいジャケット、新しいコートはどこにあるのだろう。

 基本的には、気に入ったシャツは、その場ですぐに買うようにしている。そんなことは、一年に2・3回くらいしかない。そして買わなかったときは、必ず後悔する。値札を見てびっくりするときもあるが、迷わず買うようにしている。

 それでも、自分から新しいシャツを探しに努力するときはある。それは新曲のアイデアを探すのと似ている。僕の探しに行くところは、・・

 探しにゆくところは、売れ残りの流れてくる場所だ。と、しか表現できない。下町のバーゲンセールは必ず寄る。今はあるかどうかしらないけれど、池袋の西口には、なぜか安い洋品店が数軒並んでいた。

 普通の洋品店や、デパートの安売りにある商品には、これから古くなる予感のする商品ばかりだ。言葉を変えて言えば、人気のあったアイドルグッツの安売りに似ている。しかし僕の行くところの店には、売れると思って作ったのだけれど、ちょっと地味で目立たなかったアイドルと似ている服がある。

 そこがキーポイントだ。

 売れると信じて大量に作ったのだけれど、余ってしまったのだ。その原因のほとんどは、センスが渋くなりすぎたケースが多い。それなりに高い値段が、値札には付いていたらしい。僕は手に取って、少し遠目に眺めてみる。ヒット性はないけれど、地味ながらも、味が出ている。「これだ!!」


vol.17「新しいギター」(5/16)

 もう、ずっと、新しいギターを探している。正確には、新しい弦楽器だ。ただギターなら、すぐ弾けるので、ギターならいいなと思っているのだ。

 ヨーロッパの人たちは、僕らがバイオリンを弾いているのを見て、違和感を多少おぼえるかもしれない。それと同じでギターも、やはりヨーロッパの匂いがする。

 「ギブソン」社のギターは、大変にセンスのある人がデザインしたのだと思う。ピックガードに鳥の絵を描いてみたり、鬼の怒ったようなイメージのあるヘッドにしてみたり。自由であり、それでいて気持ちがいい。デザイン大賞というものがあるのならば、ぜひギブソン社にあげて欲しい。

 ヨーロッパの「マーチン」に対して、アメリカの「ギブソン」は、全く違う楽器のようにも見える。オモチャで言えば、積木と、マシンガンくらいに違う・・。

 エレキギターの方は自由に、ボディをデザインされているのに、生ギターのほうは、どうにも地味だ。誰がその方がいいと言ったのだろう。同じ楽器なのに、この印象感の差はなんだろう。発想がワンパターンと言うか・・。

 僕は新しいギターを探している、一見して日本のギターとわかる「和」の入ったギターを、特に「和」にこだわってはいない。ギターに見えなくてもかまわない。

 もう、ずっと、新しいギターを探している。


vol.18「新しいウォークマン」(5/19)

 SONYのウォークマンが出来てから、20年以上たった。

 僕は実は、大変なウォークマン好きだ。どこに行くのにも、ウォークマンがないと落ち着かない。今は、MD(ミニディスク)やCDなったけれど、前はもちろんTAPEだった。僕はTAPE 文化で育った一人だ。

 ウォークマンの新作が出るたびに延びてゆく充電池寿命。2時間から6時間へ。そして20時間、40時間へ。その変化は素晴らしかった。機能の方は、そう変化はない。ただ薄くはなっていった。

 ウォークマンは落とすことが多いこともあり、故障しやすい。買ったその日に落としたこともあった。何回か修理に出したあと、(よし、新しいヤツを買うか!!)と、決断するときが来る。それはそれなりに嬉しい。

 電気屋さんに行くたびに、新製品の出ているウォークマン。さて、買うぞ。もつろん最新式のヤツを選ぶ。迷うことはない。充電池の寿命の長さこそが命だ。ありがとう、壊れてしまった、ウォークマン。

 新しいウォークマン。そして使いすぎて壊れたウォークマン。毎日、使っているので、表面の塗装が、はげてしまっている。毎日、フル活動してきたので、ホントお疲れさんという感じだ。

 壊れたウォークマンを、机の引き出しの中にそっと入れる。やって来た日と、去ってゆく日。それは永遠に向けて、充電されたようだ。


vol.19「新しい詩集」(5/22)

 新しく戸口にやって来る、その神さまは、何か大きな袋を抱えている。映画の吹き替えふうに、「ここじゃな」とか言いながら・・。

 もともと家にいた神さまの方は、居間に一緒にみんなと居ながら、空気のように透けていって、いつのまにか去って行ってしまう。交代する神さまどうしが、挨拶をかわすことは、あまりない。

 さて、これは神さまの話題ではなくて、詩集の話。お気に入りの詩集は、いつのまにか、カバンの中で、ボロボロになってしまう。一年、二年ではない。もっと入っていることがある。

 しかし詩集を開いてちゃんと読むわけではなくて、気が向いて思い出し、パラパラとページをめくっては、またすぐカバンにしまってしまう。次は、会うのは半年後か・・。

 詩集には、いろんな読み方がある。本を買っておきながら、一回も読まずに、本棚に置いておく読み方。じっくりと一気に読んで、そのまま本棚に置いておく読み方。

 時々のことだが、ホントに時々、書いてある文字が、燃えてみえるような、詩集と出会うときがある。何度も何度も読んだあと、カバン行きになる詩集だ。カバンにとっても、新しい友となる本だ。長い旅が始まる。

 カバンにやって来る、新しい詩集。一冊が700円の本だとしても、その本は宝石のような、価値を持っている。持ち歩いているうちに、どの本よりもボロボロになってしまう。それはいいことだ。

 しかし、持ち歩いている割には、読むことはめったにない。そこがまた不思議なところだ。


vol.20「新しい民話」(5/25)

 ずっと、歩いていると、ずっと歩いていると、歩いている人になるだろう。

 僕の田舎町には、ひとつの民話があった。「おてるさん」だ。戸口の前に座り込んで、何かくれるまで移動しないという。その人は女性で、頭を丸めていた。そして、よく笑う人だったという。小さい頃その話を聞いて、僕なりのイメージを持った。

 それは、前の話かと思ったら、つい最近のことで、まだいるだろうと言う。僕には、それは民話になるだろうとわかった。そしてそれはひとつのイメージをくれた。

 東京に出て来て、歩いている人を多く出会った。そのどの人も、僕にはすでに完成されたイメージを持っていることがわかった。道を歩いているのだけれど、前でもなく後ろにでもなくただ進んでいるだけなのだ。人は捨てて捨てて捨て続けると、とてもシンプルになる。そして言葉を越えてしまうのだ。

 新しい民話は、ひとつの呼び名の中から生まれてくる。その呼び名は、すべての辞書に載っている


vol.21「新しい朝」(5/28)

 ボブ・ ディランの唄に「New Morning」というのがある。高校時代によく歌った歌だ。

 だから「新しい朝」と言えば、常にボブ・ディランの「New Morning」が僕の中に浮かんでくる。高校時代はよく歌った唄だけれど、東京に出てきてからは、ほとんど歌ったことがない。

 Song「新しい朝」は、新しい朝に住んでいるのだ。

 人にはみんな、それぞれの場面に持っている唄がある。70年代に「あのねのね」という、二人組のコミックバンド(?)があり、彼らのライブアルバムを僕は持っていた。笑い転げてしまうくらいに可笑しいライブだ。そしてそのラストは「パーティーは終わったよ・・」という、静かな歌でしめくくられていた。

 それは、彼ら「あのねのね」だからこそ、味わい深く歌えていた。そして僕の中にSong「パーティーは終わったよ」は、居場所をもって、住むことになった。

 新しい歌を作ろうと、いつも考えている。それはSong「新しい朝」のかからない朝に、きっと聞こえてくるだろう。


vol.22・ラスト・「新しい日々」(5/31)

 小さな頃から、突然に変わることがよくあった。

 僕は、何かにあこがれ出すと、もう次の朝から、その人になりきってしまうのだ。それは実に簡単だ。

 学校に行く、冬なのでストーブのそばに立って、手のひらを当てて暖まる。友達もいる。いつもどうりになにげなく話し出す。しかし僕はすっかりもう、新しい自分になっている。

 なりきることき簡単だ。そしてゆっくりとその役になればいいのだ。それは朝から楽しい。昼も楽しい。夜も楽しい。はじめはどうも自然にできない。しかしやがては、自分のものになってゆく。

 人はだんだん変わるっていうけれど、僕から思えば、それは変わってないということのように思える。新しい何かを、実行するのは、水泳の飛び込みや、熱い湯船につかるときと似ている。ある程度の思い切りが必要だ。

 歌のライブをするときも、常にオール新曲でやりたいと思っている。いままでどんなにたくさんの歌があったとしても、オール新曲でやりたい。自分が変わってしまうことは、何にも怖いことはない。もう戻れなくってもいい。

 「そんなぁ、今まで大事にしてきた歌が、いっぱいあるじゃないかぁ」

 でも、どう答えればいいのだろう。その歌もみんな、そうやって出来た歌ばかりなのだ。。

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ライブ情報

CD「黄色い風、バナナの夢」詳細

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