青木タカオの「ちょっくら・おん・まい・でいず」  今月に戻る
過去ログ「トルコ編」日記付き'01.11月

「バックひとつでの到着」11/1

 飛行機と僕はイスタンブールに着いたけれど、荷物はやっぱり着いていなかった。

 バックひとつでの到着。旅の第二部は、なんとも軽々として、スタートした。インドにいたせいもあってか、今はそれも身軽でいいなと思えるようになっていた。

 市街にて、どのバスに乗っていいかわからなくて、みんなに尋ねていると、一人の青年がキップを買ってくれ、バスの番号まで教えてくれた。そしてバスの中では、僕に席をゆずってくれる人もいた。トルコの人達は親切とは聞いていたけれど、それは本当のようだ。

 イスタンブールでは、安くて評判のいい宿にチェックインをして、僕はすぐ、飛行機会社のオフィス探しに、バスで出かけることにした。外に出て見えてくるのは、ピンク色のモスクのアヤ・ソフィア。なんともイスラム圏に来た実感が湧いてくる風景だ。

 イスタンブールはバスが数多く走っていて、まだ初日なので、うまくわからない。番号を知らないと、だめなようだ。結局、また何人もの人に、きく事になってしまった。なんとかバスに乗り込めて、僕が地図ばかり眺めていたら、ひとりの人に声を掛けられた。

 彼は僕の行く先を聞き、そしてそのバス停で降りる人をバスの中で探してくれて、僕を頼んでくれた。そのやさしそうにメガネのおじさんは、僕に「ついてってあげますよ。私のそばにいなさい」と言ってくれるのだ。

 もう半年、旅をしているけれど、こんなに親切にされたことは、今までになかった。トルコ・イスタンブール。イスラムの街。見えているムスク。新しい旅の一日目。またいろんな出会いがありそうな予感がする。10/31 グループサウンズの「PYG」のCDを、昨日からずっと聞いている。「花・太陽・雨」は、何度聞いてもいい。この歌を知らない人がいるなんてと思う。CMに使われないかなぁ。

「トルコの若者」11/2

 イスタンブール一日目。宿の大きな広間には、応接用の椅子が並んでいて、そこで日本のみんなとも友達になった。

 一緒に食事にゆく初めてのトルコレストラン。初めてのトルコ料理。トルコ料理は手がこんでいていいなぁ。インドにはなかった本物のコカコーラも久し振りに飲んでみる。やっぱり本物はうまい。インドでは、同じような名前の「カンパコーラ」が売られていた。

 友達はイスタンブールにもうけっこう滞在していて、夜になって、ビリヤードをしに行こうと言う。そこは、不良の集まるところらしい。

 今は二月。さすがに寒い。ポケットに手を入れ、そびえ見えている、アヤソフィアのムスクの前のひろい広場を、友達と早足で抜けてゆく。ライトアップされているアヤソフィアに見られているようだ。

 友達と行った、そこは、遊び場と言う感じで、ビリヤードや、トランプといったものが行われていた。そこに来ているのは、イスタンブールの不良たちと、友達は言ってたけれど。たしかにそういうふうに見えないでもない。でもまあ、ちょっとカッコつけているだけのようにも見えた。

 トランプをしているテーブルに僕も入れてもらった。一緒になったトルコの青年は、きみどり色のセーターを着て、よく喋り、よく笑う青年だった。ちょっと大人ぶっているようだ。 ニコニコしながら、なんども「サムライ・サムライ」と言っていた。

 その青年の楽しみ方は、インドとも中国の青年ともちがう。なんというか、軽いのだ。僕にはわかった。それぞれの国には、それぞれのノリがあり、そのノリに合わせてゆくと、すっと入っていけるという事が・・。

 ビリヤードにも、生まれてはじめて挑戦してみた。そこにいた青年は、とてもダンディーな不良という感じで、初めての僕にいろいろと、ていねいに指導してくれた。そんな不良っているかなぁ。僕は、ちょっとだけ、ホントちょっとだけ、トルコの若者に近づけた気がした。11/1今日は、大谷氏のライブ。遠い富山からやって来て、あたふたとリハをして、そして本番だ。それは、遠くからで大変なようで、たいへんに意味あることだ。僕もそんな場所が欲しい。たぶん日々の生活から変わるだろう。

「鬼になった日」11/3

 その帰り道、僕は鬼のようだった。

 大事な旅の荷物が、イスタンブールの空港に着いていなかったので、僕は言われた通り、飛行機会社のオフィスへと、バゲッジミッシングカードを、持っていった。

 いろいろと文句もいうつもりで言ったのに、オフィスの男は「アンド・ゼン?」(それから?)と言ってのけたのだ。

 「ここに来てもインフォメーションはない。バゲッジがあれば、連絡するし、もし見つからなければ、お金を払うだけだ。バゲッジがなくなったのは、私の責任ではない」そう言って、新聞をまた読み出したのだ。それも、クスッと笑って・・。

 話しても、何も変わらないので、僕はそのまま。オフィスを後にした。帰り道、僕は鬼のような顔をしていた。この旅一番の怒りに燃えていた。ちょっと笑顔には戻れそうにはない。

 どうしても、腹の虫が治まらなかったので、僕はその足で、空港へと向かった。ロストバゲッジコーナーの人に電話してもらおうと思ったのだ。今日の受付の人は大変に親切な人で、いろいろと心配してくれて、バゲッジが見つかったら、すぐホテルの方のまで電話しますと言ってくれた。

 そう言われると、怒りの方もおさまってきて、落ち着いた心で空港を出ることができた。それにしても、なぜ僕がこんなに腹を立てなければいけないのか。

 宿に戻ると、広間では旅人たちが待っていて、いろんな話で盛り上がっていた。僕は何事もなかったかのように、そこに座った。11/2 朝、富山の友達と一緒に、駅まで向かう。彼は毎週のように富山から東京に来ている。それにくらべて僕は富山を、もう5年以上訪ねていない。彼はえらいなぁ。

「作った人は誰もいない」11/4

 旅に出て、もう六ヶ月。イスタンブールからは旅の第二部のようだ。僕は、モスクの写るポストカードを買い、日本の友達に送ることにした。11枚。「ここまで来ましたよ」というには、モスクはぴったりの風景だ。

 インドの寺院もなかなか印象的だったけれど、ここイスタンブールの街に見えている二つの大きなモスク「アヤソフィア」と「ブルーモスク」は、今なお、新鮮さに満ちていて、何度見てもため息の出るほど、素晴らしい。

 日本の友達も、ポストカードを見て、この気持ちがうまく伝わるといいなぁ。まだほんの一日や二日しか、イスタンブールに居ないけれど、僕はモスクの持つ神秘的に空気と、その形に心を奪われてしまっていた。霧の中に浮かぶ時、その姿はいっそうはっきりと見えてくるようだ。

 「ブルーモスク」と「アヤソフィア」。それは、イスタンブールの街の中にあり、ちょうどいいバランスを作っていた。「ブルーモスク」は勇壮で男性的なイメージがあり、「アヤソフィア」の方は、ピンク色というせいもあり、とても女性的だ。このふたつのモスクが、呼応しあっていて、イスタンブールの街が、いっそうエキゾチックに思えてくる。

 街を歩く。ぼんやりと浮かぶモスクの姿。朝もよし。夕方もよし。夜もライトアップされて、いっそう存在感にある。こんなに常に、街に溶け込める建築物はそうないだろう。僕は、モスクのもつパワーに圧倒されつつ、このモスクを作った人は、もうどこにもいないのだなと実感していた。

 作られて約400年。モスクはこの街にあり続けて、毎日、その姿を見せているけれど、もう作った人はだれもいない。僕は、何かを残すことの意味を実感していた。11/3 富山の友達とモーニングを食べる。なぜか僕たちには、居酒屋とモーニングがよく似合う。夜の話。朝の話。

「戻った来たバック」11/5

 朝、出かけようとすると、「バックが空港に届いてますよ」と宿の人が教えてくれた。

 すっかりもう見つからないとあきらめていた、旅のほとんどの荷物。イスタンブールに着かないで、いったいどこに行っていたのだろう。僕は嬉しい気持ちで、空港まで、バックを受け取りに出かけた。

 そこにある見慣れた青いバックパックは、その真ん中の部分に「AOKI」と書かれている。たしかに僕のものだ。あの東京の下宿で、油性インキで書いた文字だ。チベットの山を一緒に越えてきたバックだ。

 「おかえり」・・。

 荷物を背負ってみると、とても軽い。あんなにいつも重たかったのになぁ。背負っているうちに、だんだん嬉しくなってくる。まるで背負ってないように軽い。嬉しいと重さも感じなくなるのか。

 戻ってきた僕のバック。背中の後ろのバックは、僕の一部だったのだ。11/4 友達に会いに、お祭りに向かう。昨日は雨だったせいもあり、すごい人だ。結局、友達を二時間ほど見失う。さがせどさがせど会えないのだ。やっと会えた友達が僕に言う。「おう、ずっとさがしてたんだよ」会うためには、さがさない方がいいのかな。

「ガラタ橋のサバサンド」11/6

 「いやぁ、寒い・・」

 イスタンブールのガラタ橋。ここに来ると体の芯まで、冷えるようだ。その入口の橋の下で、小さな船に揺られながら、防寒着のおじさんが、煮た魚を、半分に切ったロシア風のパンに挟んで売っていた。実にそれは美味しそう。

 (これが名物のサバサンドかぁ・・) あたりには、香ばしい匂い。僕もひとつ買ってみよう。震えながら橋の下で食べるサバサンド。なんとも言えず、哀愁があるなぁ。

 サバサンドをかじっていると、すぐ隣りに、見たことのある人が、一緒にサバサンドを食べていた。トルコの男性はみんな同じに見えるから、いったい誰だったろう。

 「ハロー!!」そうだ、思い出した。イスタンブール空港からの初めてのバスで、最初に声を掛けてくれたイランの男性だ。彼もまた名物のサバサンドに引き寄せられたのか。この広いイスタンブールでまた会えるなんて。

 彼は、よほどこの寒さが身に沁みるのか、大げさすぎる防寒着を着ていた。今、イスタンブールは一年で一番寒い時期なのだろう。街じゅうの人たちが、同じ気持ちで歩いているようだ。少し街をスケッチしてみよう。

 大きな鼻を真っ赤にして歩いてゆくコート姿のおじさん。腕を組んでゆく二人のおばさん。髪の短い少年が、両方のポケットに手をつっこんで、路地を横切ってゆく。坂道を息を切らしてかけあがってゆく、アノラックの少年・・。

 よく耳まですっぽり隠れる帽子をかぶっているけれど、その意味がやっとわかった。あれは耳の穴が痛いのだ。11/5 日記をちゃんとつけようと、いつも思っている。しかし、後回しになり、結局、たまってしまう。たまってしまうと、走り書きのようになり、いいかげんになってしまう。そしてまた、ちゃんとつけようと誓う・・。

「トルコ語を使おう」11/7

 その無愛想なおじさんから、オレンジジュースを買ってお金を渡すと、僕の顔をのぞき「ジャポンヤ!!」と言った。

 僕が「イエース」と答えると、おじさんは「カーラテ、カラーテ」と言いながら、変な手の動きをして「ヤァー」と声を上げた。

 トルコの人は、無愛想のようにみえても、みんなフレンドリーのようだ。僕はもっとトルコ語を使おうと決めた。

 その朝。僕は、大事な日記をホテルのフロントに預けて、約ひと月のトルコ国内への旅に出た。「プロミス」。またイスタンブールに戻ってはくるけれど、それは先の話だ。六ヶ月分の日記。よろしくお願いします。

 最初の移動は船になった。トルコの旅の客船はとても快適で、まるで豪華客船のようだ。小さなひょうたん型のグラスを皿に乗せて、ボーイがチャイを運んでゆく。それは船の風景にとても似合っていて、旅の始まりを感じる。

  ヤロバの港から、バスで一時間。最初の街、ブルサへと向かった。バスもまた快適。トルコは旅人にとってとても移動しやすいようだ。タクシー乗り場にてちょっとトルコ語を使ってみたら、みごとに通じたので僕は「安いホテルはどこですか?」と、トルコ語を作ってみた。

 「ウジュズ・ホテル・ネレデ?」

 誰にきいてもちゃんと通じるので、嬉しくなってしまう。おかげでガイドブックにもない、いいホテルを見つけることができた。一泊260円。やっぱりこうでなくっちゃ。トルコ語を使おう。11/6 定食屋にゆくと、いつもは自慢のビーフカレーだったのに、突然にチキンカレーに変わっていた。狂牛病の影響だろう。食べてみると、なにか物足りない。ビーフカレーって美味しかったんだなぁ。

「ロカンタのおじさん」11/8

 ブルサの街をひとり歩いてゆく。トルコはやっぱりヨーロッパに近いんだな。ステキなベンチがあったり、街灯がオシャレだったり・・。

 「ロカンタ」と書かれているのは食堂だ。ガラス張りの食堂。そこから見えている、アルミ製の並ぶ四角い食べ物入れ。今日のメニューの種類がすぐわかる。これは楽だ。

 「ビル・タバック・イスティヨルム!!」(これを一皿下さい) そう言うだけですべてオーケー。インドのときよりもいろいろ選べて豊かな食事だ。トルコ料理ということなんだろうな。

 小さな坂道。そこに並ぶ店々。夕方の飯どきは、人が行きかい賑わいがある。どこか遠くのこの街でも、変わらない風景があり。僕もその中に溶けてゆく。

 ちょっとぶらりとその坂道を歩いてゆくと、蝶ネクタイをした、半袖ワイシャツ姿の蝶ネクタイのおじさんが、食堂の店から道に飛び出してきた。

 「ジャポンヤ!!」そう言って、嬉しそうにしているロカンタのおじさん。

 おじさんは、片手を見せて「ジャポン」と言い、もう一つの手を見せて「トゥルキィシュ」と言い、そして自分で自分の手で握手ほした。「トルキィシュ、ジャポン。フレーンド!!」そう言って僕を見る。そう言うと、また同じことを繰り返した。

 「トルキィシュ、ジャポン。フレーンド!!」「イエース、イエス!!」。ガイドブックにもトルコの人は親日的だと書いてかったけれど、どうもホントのようだ。丸顔で、薄くなっている髪をぴっちりと分けていたロカンタのおじさんは、とてもひょうきんで、まるで何かのコメディフィルムのようなシーンだった。

 夜になり、ふと見上げると、坂道の上にポツリポツリと明かりが光っていた。よく見ると、それは山の斜面に付いている明かりだ。なんとも幻想的な風景で、まるで童話の世界に入り込んだよう。見上げたときのこの感動を日本の友達に見せてあげたいなぁ。ここブルサに住む人たちには、いつものことなんだろう。11/7 今月は、アルバイトでの仕事の量が、特別に増えて、そのぶんとても忙しく、体力もヘトヘトで、次ぎの日には復活できない。毎日、疲れがたまってゆく。朝から疲れているって厳しいなぁ。

「デラックスバス」11/9

 トルコのバスは、とてもデラックスだ。まるで快適さを、競っているかのよう。

 見た目のデラックスではあるけれど、乗り心地もいい。ゆったりとした椅子に座っていると、それぞれのパスの世話係の兄さんが、、香水はいかがですか?とやって来る。

 最初は何かと思ったけれど、みんな手のひらを出しているので、僕も真似をしてみたのだ。香水サービス。よくわからないけれど・・。

 世話係の兄さんは、とてもいい青年だ。僕を日本人だとわかると、トルコ語で精一杯話してくる。言葉はわからなくても、目と目で通じ合うととはこのことだとわかった。お互いがそう思っているだけかもしれないけれど、とても仲良しになった気がした。

 「新聞はどうですか?」と回ってくる。ドリンクが配られる。お菓子も配られる。至れり尽くせりだ。トルコでは、客をもてなすということは、とても自然なことなんだな。

 ふたりのトラフィックポリスが乗ってきて、僕を見つけて両脇の席に座った。彼らは、つたない英語で僕にいろいろと話かけてくる。僕も根気強く聞いていたせいもあるけれど、ちゃんと意思は伝わった。実際、これだけの英語で充分なんだな。

 一緒に話していて、思えたことは、トルコの人は素直なんだなと言うこと。まるで少年の肌のようなハートを感じた。11/8 送っているメールが、この一週間届いてないことが、わかった。「えーっ!!」何回か電話で話したときに、どうも話が合わないなとは思っていた。メールが届いていないととてもショックだ。それがわかった。

「ふたりの子供のくれたもの」11/10

 ベルガマの街なかを抜けて、どんどん歩いてゆくと、中世の雰囲気のある家々が見えてきた。

 その路地に入ってゆくと、それぞれの思い思いの色で、壁を塗ってあり、それだけで、どこか現代ではないようだ。そこで出会うおじさんやおばさんは、とても質素な服装をしていて、トルコに暮らす人という感じだ。

 僕は、丘の上にあるという遺跡を探して、ふたりの子供に声をかけた。ふたりの子供は僕を案内してくれるという仕草を見せて一緒について来ようとしてくれた。

 そのときだ。後ろの方で、母親が大きな声でふたりを呼んだ。その声はたいへん力強く、僕は、ふたりにバイバイの仕草をして、もういいよって声をかけた。そして僕ひとりで歩き出すと、しばらくしてふたりの子供がまた追いかけて来た。

 (だめだってぇ・・) そう思いながら、またバイバイをすると、ふたりは僕に小さな細長い色の付いた紙を差し出した。よく見るとそれは、僕の旅のガイドブックの背の部分のとれたものだった。この子供には、これが僕の落とした物に思えたのだろう。それはふたりのくれたもの・・。

 僕は知ってる限りのトルコ語でサヨナラを言ったのだけれど、ふたりの子供はまだ付いて来ようとする。後ろではまだ母親が呼んでいる。向こうから馬車が通り過ぎて、そのまま僕は振り向くと、ふたりの子供は馬車に乗っていて、僕に手を振っていた。

 それはまるで永遠のようなシーンだった。サヨナラ。そしてありがとう。僕の手の中には、色付きの紙くずがひとつ残っていた。11/9 ときどき寄るラーメン屋さんには、青とうがらしがいつも擦ってあり、それが入れるのが楽しみだった。しかし今日寄ると、粉末の瓶になっていた。振りかけてみると、味がちがう。これでいいのか?

「グッドナイト・グッドジャーニー」11/11

 ここトルコの小さな町でも、映画は大変な娯楽になっていて、多くの人達が、集まっていた。

 「ナイト・ナース」そのタイトルからして、ちょっとエッチそうだ。僕はどのくらいトルコでは、表現が自由なのか、一度観てみようと、僕もまた映画館まで出かけた。そしてひとりの若者と知り合った。

 映画の方はイタリアのコメデイーで、ポスターのイメージとはまったく違っていた。でもまあ、それも良いのかな。席が隣りになって、知り合った若者は、「ハリー」という青年。彼は英語が少しできて、僕に話しかけてくれた。

 普通は、映画がはじまったら、静かになるのかなと思うけれど、ハリーは、30分以上、ずっと話かけてくれた。それもまったく映画の内容はとは別の話。

 最初は友情を大事にしたいので、聞いていたけれど、さすがに、ずっととなると聞いてられないので、「私は映画を観にきたんです」と言ってしまう。彼は「エクス・キューズ」と謝り、それきり彼は黙ってしまった。

 映画が終わっても会話はなし、僕も悪気があって言ったわけではなかったのだが、彼は気にしてしまったようだ。ハリーは今20才で、モーターバイクが好きで、アメリカや西洋のポップスに興味があるという。僕のみるところ、ハリーは一応、この町の不良のようだった。 

 映画館の外に出ると、とても寒い。ハリーはモーターバイクで、僕を宿まで送ってくれるという。後ろに乗ると、彼は猛スピードで、バイクを走らせた。勢いよく角を曲がり、とても恐かった。

 ホテルの前に到着。映画の途中から僕は冷たくしたのにもかかわらず、彼は別れ際に、握手を求めてきた。

 「グッドナイト・グットジャーニー!!」

 それは彼のこころからの言葉で、僕は胸を打たれてしまった。本当にやさしくされたのは僕のほうだったのだ。11/10 友達は今日ファクシミリを買って、僕のところにはるばる第一号のフックスを送ってきてくれた。すぐに電話での確認。「おーい届いたよー」自分でもびっくりしている様子。べつに同じ町の家でも、同じように届くのだろうけどね。

「シューズ買い」11/12

 トルコに入ってからは、急ぎ足の移動になっていて、またバスに僕は揺られている。今日はイズミール行きのバスだ。

 隣りの席になった青年と知り合いになり、彼は日本のツーリストにもらったという写真を見せてくれた。そしてそのときの話も。彼はいろんなツーリストと友達になるのが趣味のようだ。よく日本のことも知っていて驚いてしまった。

 イズミールの町に着き、彼は安くて良い宿を一緒に探してくれ、とても助かった。そのかわりひとつ買い物に付き合って欲しいという。

 一緒に入るスポーツ用品店。彼はバスケットの選手で、欲しいのはスポーツシューズだ。並ぶシューズの前に立つと、店員さんが、ようこそいらっしゃいという風に現れ、彼もまたそれに答えるように、よろしくと言っているようだ。

 まるで人が変わったかのように、彼は店員さんはシューズ選びを始めた。トルコでは、シューズを買うときは、何よりもはきこごちが優先するらしい。一足一足、紐をちゃんと結び、そしてしっかりと履いてみていた。まるで店員さんは、靴選びの職人さんのよう。

 日本だったら「まあ、そのうち足も慣れて来るかな」と思って、最初からは、そんなに履きこごちに、こだわらないだろうに・・。彼らは集中力と言ったら、まるで僕の事を忘れているかのようだ。

 一時間。そして二時間、僕はいちおう彼の買い物が終わるのを待ってみた。そんなにシューズ選びにかかるものだろうか。時間の感覚がなくなっているのだろうか。外は寒い。(まあここまで待ったんだから、最後まで待つか・・)

 それからまた30分くらいしてから、彼とその店員さんは、一緒に腕を組んで店から出てきて、そのままどこかに行ってしまった。たぶん食事に出かけたのだろう。

 待っていた僕のことは、ちゃんと知っていたはずなのに・・。もうこれ以上は待てない。僕はサヨナラを言わずに、彼と別れた。そんなことはこの旅で初めてだ。

 それとも、トルコでシューズを買うというのは、こういう事なのだろうか。そうかもしれない。彼の名前はチハーン。11/11 今、新曲創作期間に入っている。なんとかこの三日・四日で5曲仕上げたいのだ。できるかなぁ。アイデアはあるので、あとはどう集中するかだなぁ。

「一本道のタクシー」11/13

 エフェスの遺跡を見るために、セルチュクまでのバスに乗ろうと、長距離のバス停に行くと、日曜のせいか、誰も待っていない。そして切符売りのおじさんもいない。

 さて、どうしよう。考えていても仕方がないので、僕は一本道を歩いて行くにした。歩いていてもどうにもなるというわけではないのだけれど・・。

 朝から4kmくらい歩いてみる。さすがに疲れてくる。そのうち運よく、一台のタクシーが後ろから通かかったので、僕は呼び止めた、エフェス行きの長距離バス停を知ってると言う。これはラッキーだ。僕は救われた思いで、タクシーに乗ってす行った。

 トルコの道は、まっすぐで、同じように樹が並び続いている。きっとトルコの人はきちんとしたものが好きなんだな。それとも国の政策? その昔、ここはこんなふうだったろうか?

 タクシーは一本道をけっこう進み、長距離バス停まで、乗せていってくれた。ありがとう、とても助かった。お金を払おうとすると、運ちゃんは「お金はいらない」という。「一本道だから、どうせ走ってきたんだ」と言う。なるほど。気持ちはわかるなぁ。

 僕はお礼に、日本の五円玉を五枚、手のひらに乗せて差し出した。すると、おじさんは、2枚だけ受け取って、あとはいらないと言った。 

 ここはトルコ。そして、一本道のタクシー。1/12 喫茶店、中野のクラシックに寄る。ここに初めて来たのは、15年くらい前かなぁ。そのときと、変わったところもあるけれど、変わらないものもある。飾ってある絵の色づかいが、新鮮さをかもし出している。古くさくならないのはきっとそのせいだと思えた。

「懐かしい文字、懐かしい人」11/14

 (ローマ字って歴史が古いんだな・・)

 石に刻まれているその文字は現代のローマ字と一緒だ。もちろん読める。僕はその文字のひとつひとつが感動的してしまった。

 エフェスの遺跡は、ローマ帝国のヘレニズム時代の遺跡。ここトルコのイスラム文化に中にあるのもどこか不思議だけれれど、紀元前3〜4世紀の話なのでしかたがない。

 円形劇場では、その昔、いろんな催し物があったのだろう。僕もまた椅子の座り、そこであった出来事を再現してみる。歓声が聞こえてくる。歌声が響いてくる。

 広い遺跡を歩いてる途中で、日本人の学生の数人に出会い、一緒に見て回った。みんな、東京から来たというわけではなく、海外旅行には、それぞれの思いがあると知った。そしてくったくなく僕を仲間に入れてくれた。

 京都から来たという、ひとりの女のコが一緒にいて、彼女はとても表情が豊かだった。照れたり、はにかんだり、むくれたり、どの表情にも味があって、僕には、とても懐かしく思えた。

 旅に出てから、多くのツーリストにも会ったけれど、そういえば、彼女のような表情の人とはあまり出会えなかったなぁ。みんな活発な女性という感じだった。彼女はこころに想う人によく似ていた。

 それは小さなことだけれど、僕は、ちょっとだけせつない想いをもらった。しばらく一緒に歩いたあと、「ではまた、さようなら」ということで別れ、またひとりしばらく見て回り、3kmほどの道を歩いて宿に向かった。

 (表情が見られて嬉しかった。きっともう会うことはないのだろうなぁ・・) そんなことを思いながら、宿に着くと、さっきの学生さんたちもいたのだった。11/13 ちょっと遠くに、引越した友達の家から歩いて帰ってくる。いったいどのくらい時間がかかっているのか、なぜかわからない。わからないしくみになっているのかもしれない。

「遠くのここにあるもの」11/15

 パムッカレ。ここには自然にできた大きなキノコのような石灰棚が、重なるように続いている。

 光りの具合で、それはうすいブルーに見えていて、なおかつそれが温泉になっているという。なんとも不思議な光景のある場所だ。

 ありったけの厚着をして、冬のトルコの野道を僕は登ってゆく。この先には紀元前2世紀の頃の遺跡があり、道に両脇には、石がごろごろしていた。

 畑と山の続いているここは、インドにいたときよりも日本に近いような気がする。ひとり寒々とした道を歩いてゆく。どうして人がこんなに居ないんだろう。石はもともと古いのかもしれないが、座ってみるととても不思議な気持ちがしてくる。

 旅に出て、もう半年以上。こんな景色の中にいることもなかったなぁ。ここしばらくはずっと急ぎ足の旅だった。もしかしたら遺跡かもしれない石の上に腰掛けて、頬に手をつけて日本の友達のことを思い出した。

 この広い風景の中、僕の体の回りには、何人もの友達の想いが包んでいるのがわかった。それは形のないものだけれど、常に僕のこころを暖めてくれている。どんなに離れていても、実際はこんなに近いのだな。

 世界中どこに行っても、僕は淋しくないような気がした。11/14 明日までに新曲を三曲仕上げなくてはいけない。歌詞の方は、書き直せるとしても、まだメロディーが途中だ。きついなぁ。テープを常に録音しながら、唄ってゆく。いいフレーズが生まれるのだけれど、録音場所が続いていて、うまく探せない。

「羊飼いの青年」11/16

 石コロだらけの遺跡に寄ってきた、その帰り、野道を歩いていると、一匹の大きな犬が近づいて来た。

 「うわっ!!」

 恐すぎる。どうしたらいいのか? それも僕に近寄り、噛みつこうとしている。すると、その後ろから、クリーム色の毛皮の大きなポンチョのような服を着た青年が、歩いて来た。

 彼が犬を叱りつけると、やっと僕から離れてくれた。小さな皮製の物入れを首から下げて、細長い枝を片手に持っていた。その青年は羊飼いだったのだ。初めて見る本物の羊飼い。彼がピーと口笛を鳴らすと、何百頭という羊が集まって来た。

 その頬は赤く、立ち姿は自然に生きてる人そのものだった。僕を見ると、彼が言う。「ジャポンヤ?」

 「イェース、エベット!!」それにしても大きな黄色い毛皮の服だ。このくらい目立たないとだめなのかもしれない。長年のトルコの知恵なのだろう。もっといろいろ話したかったのだけれど、大きな犬が恐くて、あまり近づけなかった。その青年の純朴そうだったこと。その表情のいい笑顔だったこと。 

 街に戻ると、辺りは暗くなっていた。歩いているとあまりにも寒い。

 暗い道に一軒の大きなチャイハネが見えて来た。その窓ガラスは暖房のせいでくもっている。人が集まり見えてて、なんだか楽しそうだ。僕はその日、初めてチャイハネのドアを開けてみた。つづく・・11/15 6時過ぎに帰って来て、7時半までに、新曲3曲の歌詞を作り仕上げ、歌の構成を決め、そしてスタジオに入り、キーを決めて、一時間で三曲録音する。夜9時。すべての行程を終えて、新曲3曲のデモTAPEは、完成していた。さすがに疲れたぁ。

「はじめてのチャイハネ」11/17

 僕は、チャイハネのドアを初めて開けた。その明かりは、寒い夜道にひときわ目立ち、人々の賑わう声で満ちていた。

 (ははぁ・・) そこは、チャイだけを飲む場所というよりも、トルコの男たちの、遊び場所なのだ。タバコをくゆらしながら、トランプをしている人。碁のようなゲームをしている人。もちろん、チャイを飲んで話している人たちがほとんどだ。

 僕は適当なテーブルに座った。この空間と時間は町内会の男達の集まりのよう。女性はいない。ここ界隈の男達がみんな来ているのではないかと思えるほどだ。それにしても、なんとも楽しそうだなぁ。

 さて、注文。ふと見る隣りの男は、とても小さなカップで、黒いものを飲んでいた。(あっ、これが噂のトルココーヒーか!!) そのオヤジさんに、コーヒーか確かめてみると、 (おまえには飲めないよ。やめときな) みたいなジェスチャーをしたのだった。

 まずはチャイを飲もう。おっ、何かちがう色のチャイを飲んでいる人がいる。きいてみると、アップルティーだと言う。それだ!! 初めて飲む、アップルティー。うぅ、のどに沁みるほど、うまい。

 チャイハネのボーイは、小さなチャイグラスを、いくつも皿に乗せて、そして人の間を抜け運んでゆく。それがなんともかっこいいのだった。僕は調子に乗って、次にトルココーヒを注文した。来た来た来た・・。ほんとにこれは小さい。

 飲んでると、底にドロッとしたものが溜まっていた。これは、どうするべきなのか。飲めるのか・・。隣りのオヤジが、飲めないよって仕草をしている。みんな僕を見つけると、ニコッとしてくれる。ここは田舎なので、田舎の人の好いオヤジたちという感じだ。

 若い人も、年をとった人も一緒にトランプを楽しんでいて、本当にいい雰囲気の夜だ。はじめてのチャイハネ。僕はこんな場所に来たかったのだ。11/16 パスカスルズ、マンダラ2でのライブ、僕はいつものビデオ撮り。歌のない楽曲をこんなに何回も聞いたことは今までにないだろうなぁ。こうして、実際ライブを観ながら、何回も聞いてると、歌のように思えてくるから不思議だ。もともとどこかに歌詞がついているようだ。

「その朝」11/18

 その朝、宿のレストランで食事をしていると、入口のドアが開いて、ひとりの日本の女のコが入ってきた。

 (あれっ!!) その彼女は、僕のよく知っている人とそっくりなのだった。そのまままっすぐに僕の方に歩いて来る。

 「今日、一緒についてっていいですか?」「えええ・・、かまいませんよ」

 彼女は今20才で、短大の卒業旅行で来たのだという。でも英語もトルコ語もできないので、うまく旅ができないでいるらしい。その話し方も、しぐさもまたそっくりなのだった。驚くなぁ。どうしたらいいんだろう。

 いろいろ一緒に、外を歩き、また野道を行き、旅の話をしてみる。僕にしてみたら、まるで話慣れた人のよう。今日会ったばかりなのに、もうずっと友達であったようだ。不思議のようで不思議ではない時間。でも僕には少し胸が痛い・・。

 道の途中で知り合った日本の学生さん二人も誘い、昨日のチャイハネにみんなで出かけた。僕は昨日一度来ているので、なんとも得意にいろいろと注文もできた。「アップルティーってうまいんだよう」

 僕がいろいろとトルコ語をつかい、おじさんたちとも親しくしているので、みんなびっくりしていた。彼女も含め、学生さんのふたりもとてもここを気に入っていた。

 そのまま、宿に戻ると、外人さんたちが、なんだかパーティーをやっていて、とても賑わった雰囲気。僕たちもそこに座り、しばらく話したり笑ったり・・。「私、なんだかもう眠たい・・」と、夜行バスで来たという彼女は、自分の部屋に戻って行った。

 宿のパーティーはまだまだ続く。ギターを出して唄い踊っている外人さんたち。トルコの強いお酒「ラク」を、ふるまわれ、顔が火照ってきた。今夜は久し振りに、酔いたい気分だった。11/17 今日はバイトがおやすみ。激しく疲れていて、まったく起きられない。頭痛が続く。三度くらい目をつぶっていたら、もう夕方だ。早くこの頭痛を治さないと。で、また眠る。これは眠れという事なのだと硬く信じた。

「親しみのターキーおじさん」11/19

 少し大きな街から、田舎町へバスでの移動。その途中の景色は、生きた大地の息づかいが聞こえてくるようだ。

 田舎町のコンヤへ向かう途中、バスの窓から、青い湖が山のそばに見えた。湖の真上には、雲がすぐ近くを流れ、その雲に湖の深緑色が反射して映っていた。太陽の姿はくっきりとその雲の後ろに見え、まるで白いお盆のよう。そして雲の隙間のかかると、ギラギラと強い光りを見せていた。そして白いいくつもの光の筋が湖にさし流れていた。

 まるでその風景は、地球誕生という感じで、この世のものとは思えないくらいに生命力にあふれていた。昔の人々はきっと、大地は生きていると、かたく信じたことだろう。

 7時間バスに乗り「コンヤ」に到着した。ミニバスに乗って、市街の中心まで行くとき、よくわからない僕をトルコの人は親切に迎え入れてくれた。そして、ツーリストインフォメーションまで、一緒についてきてくれて、本当に助かった。ホテルの受付の人も「安いホテルを探している」って言ったら、1000トルコリラも負けてくれた。

 外を歩いてみると、みんな親しそうに声をかけてきてくれる。トルコもちょっと田舎にくると、みんな人なつっこくて、田舎のいいおじさんという感じだ。

 そうこうしていると、日が暮れてしまい。また、明日ということになった。町も暮れてしまうのだった。宿にもどり、僕はとてもゆっくりした。あまりに時間があるので、いろんな国の言葉を勉強したりした。11/18 偶然に友達と会う。まえもって知ってて、来たのかと思ったら、たまたま通りかかったと言う。「青木さん、変わってないね」って言う。「そっちだって変わってないよ」きっとその気が付かない変化が、変わったところなのだ。

「アラビア文字」11/20

 コンヤの町には、イスラム神秘主義のメブラーナの博物館があり、とりあえず訪ねてみた。

 そこはひとつのモスクが全部博物館になっていて、美しいタイルが壁一面に張られていた。はじめは何気なく眺めていたのだけれど、ここにきてアラビアの文字が目にいっきに入って来た。

 ひとつの壁に書かれたアラビアの文字は、大きさもいろいろで、ひとつの文字は2メートルほどもある。その文字の合間を埋めるように、小さなイスラムの文字が書かれている。

 まるで日本の書道にも通じるようなセンスがあり、それ以上にデザイン的で、気品ある美しさに満ちていた。それぞれの文字には意味があるのだろう。その意味も含めて、壁が文字で埋められていて、まるで絵のようだ。そして深緑がとてもよく似合う文字だ。

 アラビアの文字には、流れるような勢いがあり、それは生きているように、壁に存在していた。僕はその壁に前に立って、すっかり文字に圧倒されてしまった。

 いちど、見えて来た文字の流れは、水のように迫ってきて、あとは好きになるだけだった。遠目に見てみると、ひとつの模様にように見えて来てそれもいい。博物館を出る頃にはすっかりアラビア文字に魅了されてしまっていた。

 自分でもどうしたのか、さっぱりとわからない。ただアラビア文字が、一枚の壁を飾るには、世界で一番、優れていると思えたのだ。外に出て、町を歩くと、目に入って来るアラビアの文字が、なんだか身近に感じてくる。

 メブラーナの博物館に寄って良かった。あの壁に会わなかったら、いつまでもただの文字として見ていただろう。あの時の感動は今もまだ続いている。11/19 もうすぐフランスに行くので少しずつ、言葉の勉強をしようと思う。小さなノートを買って、それにまとめようと思う。そのノート選びがまた時間がかかってしまう。変だ。

「トゥルキエ・ギュゼール」11/21

 いい言葉を僕は教わった。それは「ギュゼール(とても良い)」だ。

 ジェスチャーは片手の指を上に向けてすぼめてみせるだけ。トルコの人はみんなこの言葉が大好きだ。

 トルコの言葉は日本語と並びがほとんど同じで、読み方もローマ字に直され発音もわかりやすい。それに、みんな親しく話かけてくれるので、僕はどんどんトルコ語を憶えられる。単語を憶えれば、憶えただけ使えて嬉しい。

 言葉に困った時も、とにかく「ギュゼール」は役にたつ。美味しいもの。いいムスク。人。町。もう全部「ギュゼール」と表現してみると、「そのとおりだ。そのとおりだ」という顔で、うなずいてくれる。

 なんだか毎日、トルコ語を憶えていったら、どんどん話せるようになって、お店の兄さんと40分くらい、トルコ語を話をしてしまうのだ。そのときに出てくるチャイは美味しい。何も買わなくても、素敵な気分でサヨナラが言えるのは素晴らしい。ちなみに「さよなら」は「アラスマルドゥック」

 次の町、ネブシェヒールに行きのミニバスが来るまでの2時間半。その間、チケット屋の兄さんとずっとトルコ語で話をした。このときもどうやって2時間以上もトルコ語を話したのか自分でもよくわからない。

 普通の僕がこれだけ話せるのだから、よほど、日本語に近いのだろう。中国でもインドでも、現地の言葉はあまり喋れなかった。でもこうしてその国の言葉を使ってみるとその嬉しさは、何倍も違う。もう一歩近づけたような気がしてくるのだった。

 でもよく考えてみると、自分の方でゆっくりと話している時間の方がほとんどなのだった。トルコの人はあいずち上手なのかもしれない。きっとそうだ。11/20 毎日が寝不足で、どうにもならない。憶えることもいっぱいで、あまりに時間がない。目をつぶったが最後、次は朝になっている。フランスのためにステキな服を買いたいな。

「ムスタファとの出会い」11/22

 有名な石灰遺跡のカッパドキアにゆくための手前の町、ネブシェヒールにミニバスは着いた。

 冬。たぶん今は一番に寒いときかもしれない。小さな商店街に入るまえにある集まり所の広場で、男たちは肩をすくめて並び立って、なにやら話ている。

 「コンニチワア」

 少し汚れた革のジャケットを着たひとりの男が、狭い路地の真ん中に立って、僕に声を掛けた。背のそんなに高くない彼は、おじさんと呼ぶにはもうちょっと若いようだ。彼は「ナニカタベマショウ」と僕を誘った。

 一緒に歩いてゆく、小さな商店街。ある一軒の食堂のドアを彼は開けた。するとみんなが、彼に手を挙げた。小さなテーブルに座り、彼は適当に注文して、食べろ食べろと言う。そしてカゴに出てくるパンは、どれだけ食べてもいいのだと知った。

「ニホンゴ。トルコゴ。オソワール。」そう彼は言う。ちぎった小さな紙に僕の言葉をメモしながら、日本語を僕から教わっていた。僕の方も彼から知りたかったトルコ語を教えてもらった。

 どのくらいたっただろう。三時間以上も二人で話していた。その間、何杯でもチャイは出てきた。そして次々に友達が声を掛けてきていた。彼はここでは人気もののようだ。チャイは彼のおごりだったのか、ただだったのかはわからない。

 彼の名前は「ムスタファ」そして僕のことを「アオーキ」と呼ぶ。その目ふちに出来ているしわは、人生を楽しんできた男の味が出ていた。また会おうと、彼は抱きしめそして握手をする。

 いい夜だった。はじめて友達と呼べるトルコの男の人に会えた気がした。彼の名前は「ムスタファ」。人生おじさんだ。11/21 友達からフランス語会話のCDを借りて聞いてみる。日本語と交互に入っているので。感情が伝わってくる。一緒に自分も真似してみる。うまく話せるかな。

「アルカダッシュ(友達)」11/23

 その町には商店街がひとつしかなかった。

 どこに出かけるにも、何を食べるにも、そのひとつの商店街を歩くしかない。夕方まえ、また道を歩いていると、そこに、毎日食堂で会っているムスタファの姿も見えた。

 ムスタファはどの人とも仲がよく。食堂では人気者なのはわかっていた。それは彼の性格にもよるのだろう。親しそうに道で友達と話していた。商店街の向こうに行くには、そのそばを通るしかない。そしたらムスタファは僕に声を掛けるだろう。

 僕はその場の話を続けて欲しいので、ムスタファに見つからないように、そっと道の端を歩いて通り過ぎようとした。するとムスタファは、そんな僕を見つけて、さっと目の前に立って、「コンチワ・アオーキ・ゴハンタベマショウ」と言った。彼はすべてわかっているいたようなのだ。

 そしてまた訪れる、いつもの食堂。トルコ語で「ロカンタシィ」。また今日も日本語とトルコ語の勉強だ。ムスタファは熱心にひとつひとつをメモしていた。「イチ・ニイ・サン・ヨン・ゴウ・・・」彼は、トルコ語でそれを書き写す。僕は日本語で、トルコ語を書き写す。

 ムスタファの顔は、なんとも味があり、その少し汚れた皮のジャケットのように、人生の日々が感じられた。彼のうなずくその顔は、つらい事、悲しい事、嬉しい事を、そのまま受け入れてきた顔だ。日本の哀愁おじさんのようだ。その目の深いしわが、言葉を話しているようだ。

 僕にはわかっていた。ムスタファは、僕との友情を大切にしているのだ。トルコ語で友達は「アルカダッシュ」。ふたりで言葉を憶えよう決めたことを実行しているのだ。それは、友達として、そしてトルコの人として・・。

 また食べ放題のパンとチャイを飲んだあと、店を出ようとレジに寄ると、そこのマスターが僕に「ムスタファは変わった奴なんだょ・・」と言った。いったい何が変わっているのかは、よくわからないけれど、そう思われているらしい。

 ムスタファに会ってると、なんだかとても懐かしい友に会っているような気がしてくる。こんなに愛しいのはなぜなんだろうかと思った。11/22 頭が、もうすぐ出かけるフランスの事でいっぱいだ。言葉を憶えようと思っているのに、まだ憶えまで入っていない。あと二日でなんとか、しなくてはいけない。どうやって憶えようか。そんなことばかり考えている。そんな時間があったら・・

「カッパドキア観光」11/24

 今日は観光の一日になった。

 トルコで有名な観光地である、ここカッパドキア。タケノコのような岩の続く場所だ。そして地下都市がここにはあると言う。

 人ひとり入れるくらいの地下都市があり。それが僕の興味を大変引いた。ここトルコでキリスト教が迫害されていた時代。人々は、地下都市を造り、何千、何万という人達が地下都市の中で暮らしていたと言う。それは、本当か? と思ってしまうほど、現実離れした洞穴が続いていた。

 人の誰もいない洞窟の地下都市を説明してくれるガイドさん。当時の人の気持ちになって僕も歩いてみるけれど、どうもピンとこない。洞窟の中を歩き回る僕ら。出会いすれ違う。こんにちわ。こんにちは。こんな感じの場所だったのかなぁ。

 次はギョレメにある、キノコ岩の続く場所に寄った。ここはもう何回もガイドブックで観た景色だ。実際に来てみると、そのままなので可笑しい。一緒だった大学生とともに写真を何枚も撮ったりした。今日はそんな一日だ。

 さあ、またネブシェヒールの町に戻ろう。この後は首都アンカラに寄って、イスタンブールに戻ろう。トルコ一周の旅も終わりだ。あっという間だったかもしれない。また今夜も、いつもの食堂に行こう。そしてムスタファに会おう。そんな旅が僕には似合っている。11/23 夜、富山の大谷と待ち合わせをして、飲み会をする。最初は男だけの2時間。それもまた良し。女性陣が来る。それもまた良し。最後に何か美味しいもの食べて来て遅れた、とっちゃんも来る。それもまた良し。

「さよならムスタファ」11/25

 僕はいつも行く、ネブシェヒールのレストランにて、ムスタファを待っていた。

 もう明日には、ここを出てアンカラに行ってしまう。どうしても今夜は、ムスタファに会いたい。ぜったいここに来るはずだ。僕はゆっくりと食事をしながら、ドア側を向いて座っていた。

 外はとても寒い。まるで吹雪くようだ。このレストランは暖かく、賑わいの声で満ちている。やがて、例の黄色い皮のジャケットを着たムスタファの姿が、入口に見えた。 ムスタファは、とても懐かしそうに、店の中を見回している。この時間のために、一日を生きているかのようだ。そして、僕の姿を見つけると、ゆっくりと靴で床を踏みながらこちらに近づいて来る。

 「アオーキ、ゲンキデスカア」

 今夜のムスタファは、哀愁のある顔と言うよりも、とても苦労人に見えた。昼は何か働いているのだろうか? また今夜も、日本語とトルコ語の勉強をするつもりで、ポケットから、もうしわくちゃになっているメモの紙を出して、さあ勉強だと言わんばかりの顔をする。

 仕事で疲れてもしも帰って来ているのなら、これから勉強というのは厳しいことだろう。でも教えあおうと二人で約束したのを守っているのだ。でもたしかにお互い、いろいろと知ることが出来た。僕の方がトルコ語をよく憶えて、ムスタファの方はメモばかり見ていた。

 こんなふうにしてもう何日目だろう。ムスタファは人気者なので、次々とみんなに声を掛けられている。もっと違う時間が本当は毎晩流れているのかもしれない。チャイを飲みながら、こうしてまた一時間、二時間・・。

 僕は明日には、アンカラに行ってしまう。だから今夜で、最後なのだ。僕はトルコ語でそのことを伝え、そしてアンカラ行きのバスのチケットを、ムスタファに見せた。「ほんとうかい?」そんなふうに明るく言ってくれると思ったのに、ムスタファはとても沈んだ表情になった。

 「アオーキ・・」もうムスタファの目はとても淋しそうだ。もちろん僕だってそうだ。でも先をそろそろ急がなくてはならないのだ。その日はいつもよりも遅くまで、レストランにいた。そして最後くらいは僕がムスタファに飯代をおごろうと思ったのだ。しかしそれはできなかった。ムスタファの方が、おごってくれたのだ。

 「ムスタ・・」そう声をかけようとしたとき、彼は思いきり僕を抱きしめたのだった。そして伸びかけたあご髭を、ジョリジョリと僕の頬にこすりつけた。さよなら、ムスタファ。

 外は凍えるように寒い。ひとつの別れのあと、宿に戻ると大きなストーブが今夜も焚かれていてあたたかい。そこにいるおじさんとトルコ語で夜話をする。いいおじさんだ。アルカダッシュ(友達)こそ、トルコの人の底に流れているもののようだ。

 僕はストーブの炎に目を向けながら、ずっと ムスタファの事を想っていた。11/24 明日はいよいよフランス行きの日。今日中にいろいろと用意しなくてはいけない。マフラーや帽子を買いに商店街へ出かけたりしたのだけれど、思うようなものがない。結局、時間がなくて適当なやつを買ってしまう。いつもこうだ。

「アンカラの淋しい夜」11/26

 まだ寒い朝の7時半。僕はアンカラ行きのバスを待っていた。

 ここネブシェヒールはいろんな事があった。特にムスタファ。あんたのことは忘れられないだろう。

 約4時間のバスで着いた、アンカラ。さすがに首都だけあって、大きな街だ。大きいけれど、どこか寒々とした感じがする。ここに観光客は来てるのだろうか。しばらく歩いて、マップを見せながら、安いホテルを探していった。

 その古そうなホテルにあり、きけばなぜか高い。どうしようか迷っていると、受付の男は言った。

 「パシュポート!!」男が言うには、泊めるがどうかは、自分が決めるという。こんなふうに言われたのは、この旅で初めてだ。なぜだ。こいつは本当にホテルマンか?

 20分くらい、トルコ語で半分ケンカにような、やりとりしたあと、他を探すのも面倒なので、そこの宿を決める。英語が通じないなんて、やっぱりあいつはホテルマンではないのか。それともこの宿にはツーリストは泊まらないのか?

 ひとりの人によって、ひとつの街の印象を決めてはいけない。それは知っている。しかしその後で入った食堂でも、対応は冷たく、なんだかアンカラに来て、まだいい事がない。ネブシェヒールのあの食堂が懐かしい。どうしてこうまで違うのだろう。

 気分を直そうと、チャイハネに寄ってみたのたけれど、そこのお兄さんがまた愛想が悪かった。偶然とはいえ、この街はどうなっているのだろう。単に都会ということなのだろうか。ぜんぜん街が見えて来ない。寒さがいっそう身に沁みてくる。

 宿に戻っても、ひとりぼっちの気持ちでいっぱいだった。トルコに入ってからずっと、ふれあいのある旅が続いていたので、いっそうそう思えるのかもしれない。アンカラの淋しい夜。こんな夜も久し振り。もう一日、ここにいていろいろと観てみようと思った。11/25 さて、フランスに旅立ちの日。11時間の飛行機のあとパリ到着。歓楽街にあるホテルに泊まることになる。今回は、フランス語をなるべく使おうと、決めていたのでホテルのフロント。食料品店。サンドイッチ屋と、憶えたての言葉を使ってみたら、通じたので嬉しくなる。15年振りのパリの変わっていないように見える。

「少年のくれたもの」11/27

 アンカラから8時間。バスはやっとイスタンブールに着いた。

 街の中心まで行こうと、乗り合いバスに乗ったものの、失敗して反対行きのバスに乗ってしまった。しかしそれは大失敗だった。街に行ったら、お金を両替しようと思っていたのに、財布の中には、100トルコリラしかないじゃないか。

 でもトルコの人たちはみんな優しいから、きっと事情をわかってくれて、街までバスに乗せてくれるだろう。案の定、「オッケー・オッケー」と言われ、僕は市街行きの乗り合いバスに乗り込んだ。

 すっかり安心していたのに、街まであと7キロの所で降ろされてしまった。なんだよ、あーあ。後は歩いて行くしかないか。荷物は重たいし大変だ。僕はマップを出して、街の中心までの道をみんなにたずねた。

 二人の少年にやっぱり、道をたずねたとき、僕の事情をわかったのか、ちょっと待ってれと言って、街の中心の行くバスのチケットを自費で買って来てくれた。信じられないけれど本当だ。そして僕はバスに乗ることができた。

 重たい荷物と空の財布。僕はあの二人の少年のやさしさを忘れてはいけない。11/26 小雨のパリ。隣り街まで出かけ、傘を買おうと探すのだけれど、これがない。パリの街のどこに傘が売っているのか。だいたい傘をささないのか。ホントにそう思えた。日が暮れた頃、思い出のポン・デ・ザールの橋を訪ねた。木で出来たその橋は、15年の間、いくつも床がつぎはぎになっていた。ここで色んな物語があったことだろう。

「イスタンブールの日々」11/28

 もう一回やって来た、イスタンブールでの日々は、いろんな旅人との出会いの日々にもなった。

 ここインタンブールはアジアの入口でもあり、ヨーロッからアジアに向かう旅人と、アジアから来た旅人とか出会う場所にもなっていた。この先のアテネは格安チケットがあることで有名で、そこからアフリカに向かう人もいた。そしてアフリカから来たという旅人にも何人か出会った。

 アフリカから来たという旅人は、今までに出会った人たちとは、また違う雰囲気を持っていた。みんなとっても静かなのだ。その話もスケールが違っていた。砂漠のバス停で、来るか来ないかわからないバスを何日も待ったり、風土病にかかったりと、淡々と語られると僕の旅なんて、こっぱみじんになってしまうようだった。「青木さんもアフリカに行きなよ」と何度も言われてしまった。

 実際、ここイスタンブールで、旅先を変える人も多かった。もうアテネから帰ろうと思っていた自転車野郎は、チケットをキャンセルして、そのままアフリカに向かうことにした。また、インドの話をいろいろと聞いて、インドに向かう人もいた。イスタンブールの出会いは旅を変えさせる人がすれちがうようだ。

 もう一回のイスタンブール。トルコ語がけっこう使えるようになっていた僕は、バザールに行っても、ノミの市に行っても、以前に比べてずっと楽しい。ハマム(トルコ式風呂)で、男のマッサージを受けながらの会話も楽しい。彼らは、10円玉や5円玉を持ってきて「これはどの位の価値があるか?」ときいた。返答に困ってしまう。

 ガラタ橋に寄ったり、ブルーモスクやアヤソフィアのモスクに寄ったり、塔に登ったり、飾り窓の通りを見学したり、カレーを作ったりと、イスタンブールの日々は、毎日が充実していた。

 トルコのバザールで買い物をしていて、わかったのだけれど、トルコの人たちは、お店で選びかねていても、別にせかしたりしないし、買わないで出て行っても嫌な顔はしない。「今、考え中」って言えば「もちろん当然だ」とうなずいて答えてくれた。

 一ヶ月目にして、そんなトルコが大好きになっている自分がいるのだった。11/27 フランス・レンヌへの移動。レンヌはとても古い町で、歩いていると時代や歴史というものが感じられた。しかしガイドブックでは、2ページほどで終わっている。旅は来てみるものだなぁ。

「Tenjinという男」11/29

 「テンジン」そう呼ばれていた男がいた。僕と同じ'86年に旅を続けた仲間だ。

 イスタンブールのホテル「モラ」に、もう一度着いたとき、自炊組を作って、みんなで一緒に夕食を食べていたみんながいた。その中心でいろいろとがんばっていたのは長期旅行のテンジンだった。なぜそう呼ばれているのかはわからない。23才にはとて見えないほど落ち着いていた。

 彼はアジアから来てインドにはまり、そして戦争の中近東を抜けて、ここイスタンブールに来ていた。彼は2年以上の旅行計画で、このあとアフリカに渡る予定だという。

 全身黒ずくめの服に、トレードマークの細い黒縁の丸メガネに黒いハンチン帽。どこか大正時代の匂いのする、スタイルで、旅を続けていた。肩には一眼レフのカメラ。その撮った写真を見せてもらったが、なかなかに味があった。中近東の子供達が印象的だった。

 「よし、今日はコロッケだ」彼、テンジンは炊事場でたたかっている。僕もタマネギを剥いたり。お米をといだり・・。がんばって作った夕食の美味しいこと。僕は食事の後に歌をうたった。この旅でよくうたった「コパー・ケトル」だ。テンジンは大変にその歌を気に入ったようすだった。

 テンジンはとても行動的で、リーダーシップがあり、みんなの相談相手になり、旅の情報も多く持っていた。それに何と言っても、旅する心に満ちていた。いろんな出来事を感動的に語るその表情は、豊かでうらやましいほどだった。

 僕は年上なのに、いろんなことが同じように出来なかった。別にそれは、恥ずかしいことではないけれど、彼のようにはなれない自分がいた。僕には僕なりの旅をしてきたつもりだったけれど、テンジンのパワーには、かなわなかった。

 ある日のこと、二人で一緒にブルーモスクを訪ねてみた。観光の人達はあまりいなくて、まるで僕らのために、ブルーモスクが待っていたよう。テンジンは、モスクの中で、正座をして目をつぶっていた。精神的な男でもあった。

 モスクの上の方に登り、そこの張り出した窓に二人でいたとき、テンジンは「アオキさん、動かないでちょっとそこにいて」と言った。なんだろうと思ったら、彼は手すりの上に登り、僕をつっかえ棒にして、写真を撮った。少しまちがえば下に落ちてしまう場所だった。

 テンジンはランボー詩集を持ってて、それは自分のバイブルだと言っていた。アフリカに向かったのは、ランボーが好きだったせいもあるのだろう。僕の旅立ちの日、彼は「コパー・ケトル」の歌詞を書いて欲しいと言った。僕の旅はまた始まり、彼は「モラ」にまだ残った。

 人生には運・不運があり、彼はその後、アフリカのマップの上に消えた。24才の日本のランボーはどんな星を見たのだろう。その日記の終わりちかく、コパーケトルをうたったと書かれていたらしい。僕の肩に乗った、あの重さが今も忘れられない。11/28 フランス・レンヌでの、バスカルズのライブ。初ツアー。そして初海外ライブ。その一曲目の響きには特別なものがあった。何かの扉を開けたような感じだ。このあともツアーは続くだろう。でも、この一曲目の響きは、きっと一回きりだったろう。

「ありがとうトゥルキヤ」11/30

 いよいよ僕も、ここイスタンブールを旅立つ日が近づいて来た。

 三人部屋に居たのだけれど、その中にひとりのお坊さんがいて、大変に仲良くなった。おじさんだと呼ぶにはまだ若く、小柄で、丸くて、つやつやしててメガネをかけている。お坊さんは、インドに一生住みたいと思っているほどインドが好きで、今回の旅行は、インドにやっと行けた旅行だったのだと言う。

 その夜は朝の四時まで二人で話をした。お坊さんは、21才の時インドに来て、それから7年居たのだという。大学に入り、三年で学ぶべきことは学び、あとの四年は友達作りをしたのだと言う。インドの言葉もペラペラで、インド人になって、どこまでも旅も出来たらしい。

 夏はホントに暑く、その暑さを知らなければ、本当のインドの姿はわからないらしい。そしてお坊さんの話してくれた出来事の面白かった事!! 日本に帰って来てから、7年たったのだけれど、そのあいだインドのことが一日も忘れられなかったという。そして今回、願いがかなってインドに行けたのだという。

 お坊さんは、できることなら一生、インドに住みたいらしい。その想いは言葉で言えないくらい強いそうだ。でもまた日本に帰ってしまう。僕とお坊さんは大変に気があった。旅に出て、こんなに仲良くなれた人も初めてくらいだ。

 ここインタンブールは、格安チケットの買えるアテネにとても近い。アテネから帰ろうとする人たちが、ここまでちょっと足を伸ばす人が多い。ここで出会う旅人は、旅先を帰る人も多い。アテネからアフリカへも向かえるのだ。もう帰ろうと決めていたのに、インドに向かう人もいる。

 そんな思い出多いイスタンブールを僕も、後にしてしまう。ありがとう、トゥルキア。さよならブルー・モスク、そしてアヤ・ソフィア。僕のこの先の旅はヨーロッパだ。あと5ヶ月間。食費は一日、300円くらいの予定なのだ。つらい毎日になるだろう。

 朝、ホテル「モラ」の前。僕を見送ってくれる6人。テンジンさん、そしてお坊さん、そして仲良くなった友達。では行ってくるよ。僕のヨーロッパはどんなヨーロッパだろう。しかしこのとき、僕はお坊さんと同じように、インドに心を奪われていた自分にまだ気がつかなかったのだ。11/29 レンヌよりパリに戻る。ランチにパリのインド人街に行き、カレーを食べる。ここパリにいても、インド人はインド人でまったく変わっていない。人なつっこく、冗談が好きだ。とても懐かしくなってしまう。雨のパリ。今日は観光の予定だったのに、すべて キャンセルになってしまった。

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