青木タカオの「ちょっくら・おん・まい・でいず」 今月に戻る
過去ログ「ブクロの頃」日記付き'02.12月〜3月 
参考資料「ブクロ写真」

vol.1「黄色いショルダーバック」(11/28)

 ♪立っていたのは、小平の改札で、ポスターばかりを何度も読み返し・・

 その日、夕方すぎから、僕は黄色いショルダーバックひとつと、ソフトケースに入れたギターを持って、雨の降る東京・小平の改札口そばで友達を待っていた。

  (なかなか来ないなあ・・)

 1980年の1月、19才、もう一度の東京。はじまりのある風景、ゼロの後のゼロ、まだ書かれてない二冊目の大学ノート。

 夜10時過ぎても友達には会えなくて、直接アパートまで、訪ねてみることにしてみた。

 雨。新潟から持って来た傘。その住所の近くまでやって来ても、どうにも友達のアパートを見つけることが出来ない。部屋番号もなく、またそこで迷ってしまった。

 (とりあえず、どこかのドアを叩いてみるか・・)。そして、ノック。

 「はい」。ドアが開くと、そこには、改札で待っていたはずの友達の姿があった。

 「おう、アオキ!! こっちも心配してたっやぁ」

 偶然とか言う、話ではない。雨と心と明かりのシーンだ。真ん中にあった黄色いショルダーバック。

 ドアが開いて、もう一度の物語の時計が回り始めた。カチッ、カチッ、カチッ、カチッ・・。

 コタツがあったかなぁ。ストーブだったかなぁ。鍋があって、お餅を焼いたかなぁ。。

 1ページ目を開くと、いつも雨降っていて、僕はあのドアを叩く。ラッキーは、最初からそこにいてくれた。


vol.2「間に合ってます」(12/1)

 1980年1月、僕は東京の小平にある友達のアパートにいた。

 静かな正月。友達はなにやら鍋物を作っていた。暖かいはんてんを着て、冬の白い日差しが部屋に満ちていた。高校時代の同級生でもある彼と、ポツリポツリと話して、また夜になって・・。

 寝るときになると、友達はコタツを台所に移動して布団を敷いてくれた。

 まだそのころは、黄色い表紙だったアルバイトニュースを枕元に置いて。そうやって、一日、二日、三日。あっという間に夜が巡ってくる。

 ここに来る少し前、僕は新潟の実家から、歩いて東京に向かおうとして家を出た。雪。それは第二の東京への旅立ちのはずだった。ボブ・ディランがニューヨークをヒッチハイクで目指したように、僕もそんな気持ちで、もう一度の東京に着きたかったのだ。

 相当な決意で、家を出たものの、さすがの雪には勝てなかった。野道を進み、畑の穴に落ちたりしながら、歩いていったものの、着ているものすべてが濡れてしまい、山を越えた温泉にたどり着く前に、進めなくなってしまった。

 帰りのバスの床に流れ続けたアノラックからの水の川・・。

 そんな何日間かの後で、特急電車でやって来た東京。あったかい布団。あったかいご飯。

 (こんな生活もいいな・・)

 仕事探しをはじめて、何を思ったのか、小平の商店街の先にあった小さなレコード店に僕は入った。前にレコード店に働いていたこともあってのことだった。

 「すいません、今、店員さんとか募集していないですか?」

 「ああ、間に合ってます」

 髪の長い武田鉄也系のお兄さんが、首をコクリと下げ、やさしく答えてくれた。

 その数日後、僕は池袋近く、目白のデザイン印刷会社の面接を受けていた。


vol.3「佐久間荘7号」(12/4)

 「あなたの感性で仕事をしませんか?」

 たしかそんな見出しの言葉に誘われて、僕は求人誌の中からひとつの印刷の製版会社を選び面接を受けに行った。

 池袋の隣、目白にあったその会社の面接はすぐに採用が決まり、僕はもうその帰りには近くの不動産屋に寄って部屋探しをした。

 何を迷うこともなく、紹介された四畳半のアパートに決めた。豊島区目白5-7-18 佐久間荘7号。一階は中華屋さんで、その横を通り二階へと登ってゆくのだ。

 仕事も決まり部屋も決まった。僕は小平の友達の部屋から、次の日には佐久間荘にやって来た。

 まだ広い四畳半の真ん中に、黄色いショルダーバックとギターを置いてみる。冬の一日としては、今日は暖かい日差しがあり、なんともいえない空白感をかもしだしていた。

 部屋の鍵をポケットに、自分の部屋のドアをしめて、外に出る。下の中華屋さんにも入って挨拶をして、今夜の生活から何が必要なのか考えてみる。

 (布団・・、洗面道具・・、それから・・)

 近くにあった寝具店に入り、布団を買って、また雑貨店を探して歩いてゆく。目白通りは車の流れも多く、常に町に騒音になっている。米やの隣の小さな路地を僕は行ったり来たり・・。

 布団が届くのを待っている間、僕はギターを出して、小さく小さく指弾きで好きな曲を歌ってみた。音が壁にはね返っているのがわかる。一度の東京で作った歌、二曲を歌ってみる。ボブ・ディランの「ウディに捧げる歌」歌ってみる。

 新しい始まりの日々は、こんな白い壁に囲まれた時間の中にあった。何を明日に期待しているわけでもなく、ただぼんやりと一日は夜になってゆく。

 新しい洗面器を持って、初めての銭湯に行ったあと、部屋にいるとドアが叩かれた。

 「青木さーん、青木さーん」「はい!!」

 「下の中華屋だけど、夜は寒いでしょう。ストーブ貸そうか?」

 「あぁ、布団も買ったし大丈夫です」「そう、また何でも言ってね」

 まだ一日は、夜が残っていた。明日からは、忙しい日々がはじまるだろう。


vol.4「古物屋ライフ」(12/7)

 ひとり暮らしのはじまりは、欲しいものでいっぱいだ。

 コタツも必要だし、テレビも必要、目覚まし時計も欲しいし、それから、、

 だんだんと増えてゆく部屋の中のいろいろなもの。それはとても楽しい。さて何のポスターを貼ろうかな。

 勤めだした会社から一分のところにあったアパートの部屋から僕は出てくる。すぐ出た右側には、葬儀屋さん、その前には「さち」という小さな居酒屋さん、交差点のところのお米屋さん、渡ったところにあるパン屋さん、右にずっと歩いてゆくと、よく行くようになった中華屋さん、そしてまた、交差点。そこにある古物屋、信号待ちをして渡るとそこには、セブンイレブンがあった。

 その中で、なんと言っても古物屋が僕にはやっかいだった。セブンイレブンに行くために、信号待ちをするとき、かならず古物屋を眺めてしまうのだ。ガスストーブ。コタツ。テレビ。トースター。三段BOX、こまごまとしたもの、そして店の奥に吊り下げられているギター。

 ・・吊り下げられているギター。

 「おう、いらっしゃい!!」

 「すいません、あのギター・・」

 かならず僕は、古物屋につかまってしまう。そしてまた増えてゆく、いらないもの。

 僕の小さな行動範囲の中に、古物屋があったのは良かったのか悪かったのか?

 古物屋から僕の部屋への物質の移動。僕の人生は古物屋とつながっているようだ。

 そして古物屋は、いつも世界とつながっていた。

 池袋のころ、僕のひとり暮らしと古物屋ライフ。


vol.5「ギターしかないじゃないか」(12/10)

 夕方の5時半に仕事が終われば、それからが始まりだ。

 仕事先で知り合った、同年代のS君と一緒に外に出る。夕方の道。すぐ隣にある古本屋さん、ちょっと歩いた先にある中華屋さん、コンビニエンスでお菓子とジュースを買って、友達と僕の部屋へ。

 僕の部屋にあるものと言えば、ギター、そしてレコードプレイヤーにカセットプレーヤー。何気なくかけるボブ・ディランの歌。そして壁にも貼ってあるディランのポスター。

 S君は僕の弾くギターを聞いてはいつも「うまいねぇ」って言う。その頃には自分の歌もいくつか出来ていたので、僕はこっそりその歌を歌ってみる。

 「それ、誰の歌?」「えっ、おれの歌!! 最近作ったんだよ」

 「今度、アオキくんの歌を入れたテープちょうだいよ、それからボブ・ディラんも・・」「いいよ!!」

 そんなふうに、仕事終わりはS君との時間で過ぎていった。何をしたっていいけれれど、ギターしかないじゃないか。

 古物屋で見つけたギターを買ったり、歌を作ってみたり、レコードを買ったり、テープレコーダーで録音したり、自分のカセットを作ってみたり、ひとり暮らしを始めてから数ヶ月で、すっかりギターライフが定着した。

 あるときのこと、古いカメラを手に入れた僕らは、ボブ・ディランのレコードジャケットと同じように撮って遊んだ。同じようなコートを着て、同じようなシャツを着て、ニューヨークの路地の変わりに、目白の路地を使い。髪型も真似て、ジャケットを撮ってみたのだ。

 ものすごく期待して、ものすごく期待して、その写真のできあがりを楽しみにしていたのだけれど、出来上がった写真ときたら・・。

 大笑いだった。


vol.6「レコード集め」(12/13)

 探し物があった。古いアメリカのフォークソングのレコードを集めることだった。

 国内盤ならもちろん注文すれば手には入る。しかしそれでは限界があった。そう、輸入盤だ。

 5時半に仕事が終わったあと、僕はレコード探しで街へと出かける。新宿、池袋、渋谷、高田馬場、吉祥寺。駅に到着して6時半。それからお店屋さん巡りをする。それがなかなかに忙しい。

 それはみんなそうだとは知っているけれど、ホントに必死だ。特に新宿の西口の輸入レコード屋のある通りは・・。

 遅くまでやってる店はあとまわしにして、早くしまりそうな店から歩いてゆく。歩いてゆくうちに、新しい輸入盤屋を見つけたりする。順序が狂う。。(入るべきか? 入らざるべきか?) そう思っているうちに、もうレコードを見ている自分がいた。

 アメリカには「フォークウエイズ」というメーカーがあり、そこで出しているレコードはたいがい外れることはなかった。1940年〜50年代の録音物を探しての旅。

 「1001フォークソング」という輸入の楽譜集を買って、その中の曲名をだんだんと憶えてきて、輸入盤の裏ジャケットの曲名で判断して、レコードを買う。

 失敗もしたし、みっけものだったレコードもあった。ジャケットで買うなんて怖いことじゃなかった。

 フォークウエイズのレコードには、英語の歌詞が付いていて、僕はよく訳して唄うようになった。特に、ウディ・ガスリーの歌は全曲、訳そうと決めた。

 ぎりぎりまで、レコード屋を回り、そしてまた回り、ラストは牛丼屋さんに入る。

 (今日は大漁だったな・・)

 そして僕の部屋には、どこにもないようなレコードが毎週増えていった。


vol.7「オーディションとか」(12/16)

 若いって、素晴らしいな。

 僕もまた18才になった頃から、デビューの夢を持って、いろいろと自作のテープをレコード会社に送ったりしたのだった。

 考えてみれば、テープを送るなんて簡単なことだ。コンテストにも応募したりすることもまた簡単なことだ。

 簡単だったので、どんどん送ってみたのだ。しかし、いっこうにいい返事は来ない。「お気持ちはわかりますが、プロになるということはあなたが商品になるということです」とか、書かれた手紙をもらったりした。

 もっとも、その頃作っていた歌のテーマは「労務者」とか「難民」とかが多かった。50年代のアメリカンフォークの影響が強かったのだ。

 そんな半オーディションの日々の中、ものはためしと日本テレビの「スター誕生!!」にも、だめもとで応募してあった。スター誕生は地区予選があり、それからまたしぼられて、やっとテレビ予選になる。基本的には、まあ誰でも、一度は唄えるということだ。

 その日曜日、東京の地区予選へとギターを持って出かけて行った。唄おうと思っている唄はボブ・ディランの唄の訳で「労務者とはいえ」という唄。僕はいったい何を考えていたのだろう。

 会場の近くに大きな公園があり、そこの高台で僕は一回唄ってみる。「よし、いけるぞ!!」

 オーディションを受けに来た人は、何百人単位になっていた。嬉しいことに、ひとりひとりに横森良造氏が伴奏を付けてくれていた。

 僕のナンバーは73番。ギターを持って登場すると、横森氏は「どうぞ」と、手を差し出してくれた。そしてがなるように唄った「労務者とはいえ」の唄。みんな二小節くらいで金をチンと鳴らされ、次の人と交代するのだけれど、僕は一番まるまる唄った。

 第一次審査に残れるのは10人に1人。紙が張り出されて、見てみると73番はない・・。落ちた。しかし72番は合格だ。僕の用意してきた楽譜には、72番と書かれてあった。(まちがいかなぁ・・)。僕はよほど言いにゆこうと思ったけれど、やっぱりやめた。

 電車に乗って池袋に帰って来る。町をぐるぐると歩き回り、残された道は、町で唄うしかないなとか強く思って、SEIBUデパートの前に立った。そしてギター出そうとしたら、雨が降ってきてしまった。

 こんなに悲しい気持ちになったのは久し振り・・。

 アパートに帰ってみると、なぜか大家さんが僕が今日「スター誕生!!」のオーディションを受けていたことをを知っていた。

 「青木さん、がんばってね。応援してるから!!」大家さんはそう言う。

 僕は四畳半の部屋に戻って、またギターを弾いてみるだった。


vol.8「公園にて」(12/19)

 アパートで唄うことには、限界がある。

 僕は毎日のように、仕事が終わると、近くの公園まで唄に出かけた。公園の他にどこで唄えばいいのか。声を外に出して唄うのは気持ちがいい。しかし多少は迷惑だったかもしれない。

 公園に並んだ家は、いつも僕がくると雨戸をしめて、僕にメッセージを送っていたようだ。

 友達と出かけては、新曲を唄ったり、ボブ・ディランやウディ・ガスリーの唄を唄ったりした。滑り台やジャングルジムの上で夕暮れ に唄うのは、この上なく気持ちがいい。

 大きな公園ならもっと思い切り歌えるだろう。そう思って、日曜日、僕は池袋の西口の大きな公園にも唄いに出かけた。

 池袋西口公園には、いろんな人がいた。ホームレスの人があちこちで眠っていた。公園にはホームレスの人に仕事を世話しているパンチパーマの親分肌の人がいて、僕のところにもやって来ては、なにげなく仕事にさそっていた。

 唄っているといろんな人がやって来た。つるつる頭の、黒い服を着た50才くらいおじさんは、「俺は昔、ハーモニカの会社に居たんだ」と言った。「ミヤタのハーモニカがいいんだよ」と僕に教えてくれた。そのうちに近くの楽器屋さんから「ミヤタのハーモニカ」を買って来て、なつかしい曲を吹いてくれた。

 また、相当に酔っぱらったおじさんは「ギターを貸せ!!」と言って、僕のギターを抱えたのはいいけれど、指が太すぎてコードが押さえられずにいた。

 白いワイシャツにネクタイをしたおじさんがやって来て「俺は昔、流しをやっていたんだよ」と言って、昔なつかしい唄を何曲か唄ってくれた。

 大きな公園にいるだけで、いろんな人と会えた。それはとても素晴らしい人生勉強だ。1980年の6月くらいから、僕は日曜になると、池袋の西口公園にでかけるようになった。


vol.9「ブクロ前夜」(12/22)

 夕方いつもゆく近くの公園に、ひとりのホームレスのおじさんが向こう側にいた。

 ホームレスのおじさんといっても、カーキ色の大きなバックをひとつ肩から下げて、やさしい感じのおじさんである。そこに住んでいるわけではなく、子供たちの遊ぶのを見るのが好きなようだ。

 ある日のこと、僕は思いきって、おじさんに声をかけ「何か唄いましょうか」と言って、ウディの「豊かなる牧草地」を唄った。途中で雨が降り出して来てしまったけれど、おじさんは最後まで聞いてくれた。

 「ありがとう」。おじさんはそう言って、首をコクリと下げた。そして雨も強くなってきたので、ベンチから歩き出した。僕は追いかけていって「そばでも食べませんか?」と誘った。しかしおじさんは、微笑みながらに首を振って行ってしまった。

 (浮浪者、浮浪者と言うけれど、人それぞれなんだな・・)

 その夜は土曜日で、夜中の「ウィークエンダー」という番組の中、ホームレスの人が通り魔的に人を傷つけたと、怒りの報告をしていた。

 「とんでもねぇ、野郎だ!!」。そしてパネルになっているその顔がアップにされた。

 僕は今日の夕方に知り合った、あのおじさんのことを考えていた。すべてのホームレスの人がそんなふうに思われるのは、なんだかつらい。僕は「労務者とはいえ」という唄を、街で唄いたいと強く思った。そのくらいならきっとできるだろう。

 次の朝になった。日曜日。僕の気持ちは変わらないで、そのままあった。そのままあったので、僕は池袋の街へとギターを持って出かけていった。


vol.10「1980年9月7日、西武前」(12/26)

 駅をひとつだけ乗り、その日曜日、帽子をかぶり、ギターを持って僕は池袋へ向かった。

 午後2時。9月の第一週。1980年。いつもと同じ、西武デパートの前。舗道には人が流れている。歩いてゆく音は僕の心の中まで通してゆく。今は街が大きい。

 僕は悩むことなくスッとデパートの前に座り、ソフトケースからギターを出した。広い舗道り向こうには、靴みがきのおじさんたちが並んでいる。9月初めにしてはまるで夏のようだ。広い空から強い日射しが差している。

 街で唄うことなんて、この2000年なら「ストリート」とも呼ばれ、普通の風景になりつつあるけれど、1980年のときでは、ほとんど誰も歌ってはいなかった。何かよほどのことが、あるように思えるだけだろう。

 座り込み僕は唄いだした。東京に来た日に買った青いシャツと、グレーのコール天のジーンズ。ディランの真似して買った黒い鳥打ち帽。

 いつも公園で歌っているように、憶えているウディの「豊かなる牧草地」から始まり、ディランの「オンリー・ア・ホーボー」を訳した「労務者とはいえ」を、いつもどおりに唄う。道向こうの靴みがきのおじさんたちは、何だろうという表情をしている。唄うことなんて簡単だ。目をつぷって唄えばいい。

 目をつぶって唄える歌はいくらでもあった。

 「♪あーる日、街を歩いていたらー、ひとりのろーむしゃが倒れてたー。どーろのわーきに、あおむけーになり、ひと晩いじょーはそのままらしーい。ろーむしゃーとはいえ、ひとひとりーしぬー。だーれも唄わぬ悲しみのうたーだーれもみーらぬ、そのなきがら、ろーむしゃとはいえ、ひとひとーりしぬー」

 「♪あーんたの町をさーすらって、あーんたの町をさーすらって、知ってるやーつに、誰も会えなかったよー、さまよい歩いてるのにね。さまよーい歩いてるのにねー」

 ずっと目をつぷって歌っていると、強い日射しからか、まぶたの奥が、赤になったり緑になったり七色に変化してゆく。そして初めて拍手が聞こえた。目を開けてみると、ひとりの若そうなおばさんだった。

 「今の歌は、歌詞がとってもいいわ」

 また今度はひとりのお兄さんが、声を掛けてくれた。

 「喫茶店に行こう!!」

 そんなふうに初めて路上の日が過ぎていった。

※写真は、ちょうどその9月7日。たまたま撮ってくれた人がいました。(クリックすると拡大されます)


vol.11「9月14日に知り合った人」(12/29)

 どうも人生というのはこういう風にできているようだ。

 その二週目に知り合った友とは、みんなずっとずっと長いつきあいになった。

 日曜の街で唄い始めた僕は、まるで「綱の切れた船」のように、次の週には朝から池袋の西部の前にいた。

 道向こうには、先週と同じ靴みがきのおじさんたち。流れてゆく人たちの中、ウディの「豊かなる牧草地」から唄いはじめた。

 今週もまた誰の拍手もなかったけれど、しばらく歌っているとひとりの青年が横で聞いていた。

 「なんのためにうたってるん?」

 その青年はいかつい目をしてて、岡林信康が好きだと言う。池袋に住んでて僕と同い年だった。名前は松野君。

 「また来るよ」。彼はそれから毎週来ては、歌ってくれるようになった。

 次は、ひとりのショルダーバックを下げたおじさん風な兄さんが横に座っていた。

 「若いっていいねぇ」そればっかり言う。

 その村上さんさいう兄さんは青森県出身で、文学好き。近くに住んでいて、僕にそれから色んな事を教えてくれた兄さんになった。

 次には二人組の女のコが立ち止まってくれた。

 「ネエ、そのノート貸して、来週返すから!!」と言う。

 そしてノートを渡すと「これ本屋さんで売ろうよ。西武の本屋さんで」って言う。名前は山田さんと新井さん、その二人もそれから毎週寄ってくれるようになった。

 夕方近くには、鼻ヒゲをはやした。二枚目風のお兄さんが聞いててくれた。彼は何気なく嬉しそうに話しかけて来てくれた。そのあととても仲がよくなった「ヒゲのカネマキさん」だ。彼もまた「また来るよ」と言った。

 またしばらくすると、ひとり小柄なおばちゃんが「シシュー」と大きな声を出しながらやって来た。ちょっと外人のような顔立ちをしたとても小柄なそのおばちゃんは、僕の横で詩集を売りはじめた。

 「ウルサーイ!!」そう声をあげたおぱちゃん。

 おばちゃんは、もうここでずっと詩集を売っているのだと言う。今42才で、1968年から池袋に来ているらしい。一冊300円の薄い詩集を売っていた。僕の前に来て歌を聞くと、その目からは涙が流れた(それは日常的なものだった)。僕の歌詞ノーとを見て、詩に曲をつけてくれって言う。

 ・・・そのおばちゃんとは、はるばると長い間の友達となった。おばちゃんは毎日池袋に来ては、夜に詩集を売っていた。おばちゃんとの出会いは僕にとっては大きな出来事だった。

 そしてもうひとり、第二週に知り合った人の中に、アクセサリー売りのジョーさんがいた。

 「俺、ジョーっててんだ。おまえのことは知ってるよ」

  一見すると、ジョーさんは、アイドルの外人さんような顔立ちだった。

 「俺はフォークが好きだけど、お前の歌には魂があるよ」

 そう、言ってくれたジョーさん。それ以来ジョーさんは僕を「アオキ」って呼んだ。

 その日知り合った人とは、みんな長い長いつきあいになった。人生とはこんな風にできているようだ。


vol.12「それからの生活」(1/1)

 池袋に唄いに行くようになってから、ますます歌を作るようになった。

 ずっとレコードで集めているアメリカのフォークソングを訳したり、ボビーやウディの歌を訳したりして、どんどんとレパートリーも増えていった。

 自分の曲も週に二曲ほどいつも出来ていた。池袋で友達が来て、新曲を唄うのがとても嬉しかったのだ。

 「新曲あるよ。今日作ったんだよ」

 日曜の10時くらいに池袋に行く。その前の土曜日の夜はだいたい創作をしている。歌を作り池袋にゆくのだ。やって来る友達。友達もまた新曲を楽しみにしていた。

 朝10時から、夕方の7時頃まで、西武の前で歌っていると、夜にはもう唄い過ぎて声がガラガラになってしまう。ガラガラになった声のまま、みんなと喫茶店へ。最終に近くに帰ってきて、次の朝にはまた仕事へ。

 「オバャヨウギョギャイマズ」

 毎週、月曜日になると声の枯れてる男。

 水曜日くらいから声は元に戻り初め、また日曜日でガラガラになる男。

 仕事が終わると街の輸入盤屋さんまで出かけ、新しいレコードを仕入れては訳詩をする男。

 土曜日は、ほとんど寝ないで歌を作って持ってゆく男。

 池袋に唄い出してからの生活は、すべてのエネルギーを池袋と新曲のために使っていたようだ。

 そして毎日曜日、そのほとんどのレパートリーを唄う。それでも足りないと、いつも想っていた。


vol.13「山さん」(1/4)

 こんなわがまま一杯の生活の中でも、仕事には毎日楽しく通っていた。

 会社はアパートから一分のところにあり、昼休みには部屋まで帰ったりして、会社は生活の続きのようだった。

 職種は、印刷まえの「製版」と呼ばれる作業で、ポスターやチラシを印刷に回すために、写真や文字を組み合わせるというようなもの。カッターや筆を使い、仕事と言っても、まるで設計図のないプラモデルでも作っているみたいだった。

 僕は、ひとりの先輩の下で働いていた。40代の後半くらいだったのかなぁ。名前は山本さん。みんなからは「山さん」と呼ばれていた。

 熊本生まれ。趣味は尺八、サイクリング、絵画にカメラ。書道は三段で、宇宙の論理にも詳しい哲学者だった。仕事に関しても、一流デパートのポスターを任されるなど、名人クラスになっていた。

 山さんは、渋いコートに身を包み、いつも本を片手にやって来る。

 「青木くんのこのヤツだけど・・」「わかった。すぐやりなおし!!」

 僕の起こしたどんなトラブルも解決してくれた。いつものんびりとかまえて、チャランポランなこんな僕をゆっくりと育ててくれたのだ。

 ・・頭の中はいつだって、歌のことばっかり考えていたし。

 仕事はしているけれど、集中はできない僕。それでも、仕事は楽しくてあっという間に夕方になった。かたわらでかかっているFMラジオのそばで、僕は仕事中でも、紙の切れ端に歌詞を書いたりしていた。

 そんな山さんには、今でも、感謝してもしきないくらいお世話になったと思っている。いろんな事に対して、人はどんなふうに対応すべきなのか、教えてくれた。

 そう、山さんは「名人」だったのだ。

 名人だったなぁとつくづくと思うのは、仕事だけではなく、弟子の育て方だ。弟子というのは大げさだなぁ。人にものを伝えたりする方法だ。楽しみながらが大事だということ。

 山さんから教えてもらったことははかりしれない。はるばると時間のたった今でも、それは僕の中に残っている。

 山さんはガムを食べるにしても、チョコを食べるにしても、僕に一枚くれた。そんな山さんだった。


vol.14「オーディオがらくた時代」(1/7)

 四畳半に住んでて、なぜか無用に増えてしまったものがあった。

 それはテープデッキだ。

 上の方にある物置の中には、ごろりとしたテープデッキが数台入っていた。

 1980年代のはじめと言えば、まだまだカセットテープ全盛の時代。テープデッキと言えば、針のVUメーターが、黄色く光りながらふたつ並んでいて、それが僕のオーディオ好きのこころを完全にとらえてしまっていた。

 (どんなに値段が高くてもいいな・・)

 ふらふらと立ち寄った、古道具屋さんで見つける、高級そうなテープデッキ。もとの値段は5万円はしただろう。それは、テープを斜めに裸のまま、差し込むタイプのものだ。並ぶスイッチ類・・。欲しい。どうしても。

 その頃、僕は自宅でよくギターと歌で録音していた。そのとき活躍するのがテープデッキだ。素晴らしいテープデッキは良い音でもとれるだろう。そのテープデッキを使った毎日の生活を考える。それは生活必需品だ。

 「すいません、これください」・・・あーあ、買っちゃった。ちょっとの後悔はある。でも最高に気分。

 しかし、中古のテープデッキはなかなかに当たらない。部屋に帰って、いろいろと試しているとやっぱりどこか調子悪いのだ。

 でも捨てられない、高いテープデッキ。

 押入の中をのぞくと、そこにあった何台ものテープデッキ。一代目、二代目、三代目。。

 その頃の生活の時間にぴったりと沿って、それぞれのテープデッキある。僕の時間の中心には、いつもテープデッキがあった。

 ブクロの頃、押入の中のがらくたテープデッキたち。


vol.15「目白堂」(1/10) 

 「目白堂」この名前を聞いてピンと来る人はどれくらいいるんだろうか。

 僕は18才からの10年間、毎日のように目白堂に通った。

 それは目白駅から歩いて15分の通り沿いにある、ちょっと大きめな古いレコード店だ。

 僕のアパートからすぐそばで、その先の会社との途中にあり、帰り道に寄るのが日課になっていた。

 学校の教室よりもちょっと広いくらいのお店で、かなり昔からやっている感じだった。品のあるおばあさんとおじさんがいつも店番をしていていた。クラシック専門のスペースも用意されていて、すべてのジャンルの品揃えにはまったく文句がない。

 「目白に目白堂あり」そんな言葉が似合いそうな店だった。

 大きなガラス戸を開けて、お店の中に入る。いつものおばさんの品のある「いらっしゃいませ」の声。

 「あのう、すいません、これちょっと試聴していいですか?」「はい、どうぞ・・。ボブ・ディランですね。」

 そんな繰り返しばかり。

 目白堂には、ギターの弦やピックもあり、僕にとっては、日常にかかせない存在だった。そこにあるレコードは、あきることなくよく見ていたし、よくレコードも買った。民族音楽コーナーも良かった。ウディ・ガスリーのレコードだって置いてあった。

 あるときのこと、ふと買ったオーディオ雑誌の漫画のコーナーに、目白堂のことが載っていた。

 ここからすぐ近くにあった、あの漫画家たちの「ときわ荘」のみんなは、ここにしょっちゅう寄っていたというのだ。そして今のおばさんは、その頃はみんなのマドンナだったと言う。

 「まあ、赤塚さんたら、そんなことを・・」

 友達みたいに話すおばさんの若かった頃のイメージ。

 遠い時間と、今も変わらない何か。

 目白に目白堂あり。そんな言葉がホントによく似合う店だ。とても仲のいい初老のふたりがやっていたレコード店。

 僕も10年間、毎日のように目白堂に通った。


vol.16「予備校のみんな」(1/14) 

 また日曜日、僕は西武デパートの前で歌っていた。

 毎週のように増えてゆく友達。そんな中で、ひとつのグループがあった。それは池袋の予備校のみんなだ。年齢的にも僕と同じで、とても親近感が持てた。

 予備校の友達は、そっといつもそばにやって来て、そして空気のように隣に座ってくれた。日曜は予備校も休みなのだろう。僕の歌をいつまでも聞いてくれていた。

 町にいて、声を掛けてくるのは酔っぱらいおじさんや、話好きのおばさん、そしてもの珍しがり屋のお兄さんたち。みんなと話す僕は、いつも路上の歌うたいとしての会話だ。ちょっと陽気で、ちょっとつけっんどん。それは相手もそれを期待して聞いてくるからだ。

 でも予備校のみんなはいつもアイスクリームを買ってきてくれたり、お菓子をくれたり、友達のように僕にやさしかった。それは高校時代の友達の感じとも違う。幼なじみに近いかもしれない。

 みんなそれぞれにいろいろと悩んでいたのだろう。でも、何を悩んでいるかは僕は知らなかった。あまり会話らしい会話もしなかったように思う。ただいつもそこにいて歌を聞いてくれたのだ。特に毎週必ず来てくれた新井さんと山田さんは忘れられない。

 夏の終わりから始まり、そして秋、そして冷たい風の冬。どんな週も毎週、聞きに来てくれて僕はとても嬉しかった。お菓子もおみやげもいっぱいもらった。少しずつ暖かくなってきて、受験の日の帰りにも寄ってくれた。

 そんな春の日と、その笑顔。それからしばらくして、予備校のみんなは池袋から遠くなっていった。 

 すっかり忘れた頃、またひとりづつ会いに来てくれた。その嬉しさと言ったら・・。

 ながいながい時間がたった今でも、あの西武デパートの下、歌いながら予備校のみんなと一緒に座っていた夜は、しみじみと僕の中に残っている。


vol.17「酔っぱらい」(1/18) 

 「うあああ〜!!」

 外で唄っていると、かならず酒をしたたか飲んだみなさんが声を掛けてくる。俗に言うところの酔っぱらいだ。

 「おまえの十八番をやってくれ!!」

 一番言われるのはこの言葉。僕はこの言葉が最高に嫌いだ。

 「そんなの出来ないよ」

 「このお兄さんは、出来ないと言います!!」

 そのうち、酔っぱらいはそばに座り込んでしまう。唄っている途中でもかまわず、何でも話かけてくる。

 「おい、おい、おい!!」

 「おじさん、機嫌がよさそうだね」と、こんなふうに話しかけたら、もう離れてはくれない。

 結局、僕の唄なんてどうでもよくて、ただ話したいだけなのだ。

 そんなのに、つきあってはいられないな。

 「おじさん、ほら、信号が青だよ」

 あまり相手にしてないと、たいがいは二・三曲目で、他に行ってしまう。

 それでも、騒ぎながらそばにいる酔っぱらいもいる。しまいには、自分が来た記念だとか言って、僕の歌詞ノートの最後にメッセージを書いてくれたおじさんもいた。

 『人の酒は飲まないほうがいい』

 僕の歌詞ノートを開くと、最後には、いつもこの言葉が出て来た。


vol.18「吉野家行こうか」(1/21) 

 それは、いつもの唄のある日曜日。友達はやって来て、そして隣に座ってくれた。

 それは、何もない眠るだけの日曜日だったかもしれない。それは、どこかに出かけて来た帰りに池袋に寄ってくれたのかもしれない。

 友達はちょっと向こうから手を振ってくれたり、缶コーヒーを買って来てくれたり、たこ焼きを買ってきてくれたり。友達はひとつの笑顔とポーズを持ってそばに来てくれる。

 唄と夕方は、通りの真ん中の丸時計とともに暮れてゆき、僕は明かりのついた街を見上げている。今日も一日長かった。一日歌い続けて、もうへとへとになってしまった。

 「もう行こうか。。」

 池袋の小さな小さな唄のお祭りも終わり、僕と友達は、ちょっとの時間を過ごそうとどこかへ向かう。

 喫茶店? 1981年の初め、僕は20才で、珈琲一杯の欲望よりも、やっぱりお腹の減りには勝てなかった。そして僕らの味方といえば、牛丼の吉野家だった。

 西武デパートを背に、大通りを越えて、右に入ったところに24時間営業の吉野家の牛丼屋があり、僕らはいつものようにそこに向かった。まだ知り合いも少なかったころの話だ。

 そこは大きな吉野家で、僕らは一杯の牛丼を食べたあと、いつまでもそこで話をした。店員さんは、ときどき熱いお茶を湯飲みで出してくれた。

 僕らは明るい蛍光灯の下で、いつまでも続く話をした。熱いお茶をすすりながらの楽しい時間。

 何時間居たかなぁ。今思うと信じられない。。店員さんにも迷惑だったかもしれない。

 外に出ると、夜道に車がゴーと通り抜け、そして僕らは急いで終電近い西武線と東武線の改札へと向かった。

 「じゃあ、また来週ねー!!」

 そう言って手を振り合い、改札を抜けてゆく。背中にあるギター。終電の西武池袋線。保谷行き。

 吉野家と僕ら。気持ち的には喫茶店のつもりだったのだろう。


vol.19「下板橋の夜」(1/25)

 その夜道。

 帰り道のある夜道。東武東上線の「下板橋」の改札を抜けて、流れ行く人の中のひとりになって、僕もまた降りてゆく。

 池袋で知り合った、ヒゲのカネマキさんのアパートを訪ねてゆくのだ。カネマキさんは23才。僕よりも3つ年上。大学時代はフォークサークルに入っていたという。

 そのカネマキさんのアパートを訪ねて、下板橋にやって来ている。しかし家に電話がないので、直接、アパートの前で待っているしかない。

 コンピューター関係の仕事をしているカネマキさんは、帰ってくる時間が決まっていない。すぐ会えるときもあるけれど、かなり遅くなる時もあった。

 細い遊舗道があり、それに沿ってしばらく歩いて行く。すると紫色の看板で、スナック「さぼうる」という看板が見えてくる。アパートに行くにはそれが目印だ。

 カネマキさんのアパートは古くて大きい。広い階段を登って二階に行き、一番道路沿いの部屋だった。四畳半。僕にしてみたら初めて友達と言える人のアパートだった。

 アパートの窓には洗濯物が干してある。明かりはついてない。

 (まだ帰ってきていないなぁ・・)

 僕は、遊舗道を行ったり来たりして時間をつぶす。それは春だったか、それは秋だったか。いつもそんなには寒くない夜だった。あまりアパートの前にいても怪しまれるので、僕はところどところに移動しながら、カネマキさんの帰りを待った。

 夜8時くらいにやって来てくれればラッキーだ。しかし時には、なかなか帰ってこないときもあった。

 夜はだんだんと遅くなってゆく。この道をやって来るはずの遊歩道の先を僕は見つめている。紫の「さぼうる」の看板が目に映っている。あとは、とても暗い。ときどきは人がそこを出入りしていた。

 (あれぇ、まだ来ないなぁ)

 時計をみれば、もう少しで終電という時間だ。時々は会社に泊まるとも言っていたので、今夜は会えないかもしれない。

 待ちはじめて何時間かたったころ、「さぼうる」の看板の向こうから、ゆっくりとカネマキさんが歩いてくる姿が見えた。その歩き方はとても特徴があるので、すぐにわかる。一歩一歩軽く踏みしめるように、歩いてくるのだ。そしていつも小さなカバンを小脇に抱えている。鼻の下の小さなヒゲも目印だ。

 「おや、アオキくん!!」

 とりあえず一緒にアパートに入ってゆく。あの広い階段・・。部屋に入ると、洗濯物を取り入れるカネマキさん。

 「今日はもう泊まってゆけば・・」

 枕元に置いてある小さなステレオラジカセで、録音して来たテープを聴きながら、布団に入り遅くまで話をする。カネマキさんは何でも、ちょっと理論的に分析しようとする人で、それはそれで、楽しい会話だ。

 会えて良かった・・。アパートの前で友達を待つなんて、今ではなかなかない事だ。


vol.20「詩集売りのおばちゃん」(1/28)

 池袋の西武線を出たところ、JRへ向かう階段のところに、詩集売りのおばちゃんは毎日来ていた。

 おばちゃん。みんなそう呼んでいた。とてもとても小柄で、赤いジャージをはいて、冬ならば、スキー帽をかぷり、マフラーの代わりか白いタオルを首に巻いていた。肩かけの小さな赤いバックをななめに下げて、小さな釣り人用のパイプ椅子を片手に持って、そして詩集と缶カラ。

 そして、タバコが大好きだった。

 ゆっくりゆっくり、西武線の方から歩いて来て、階段の所に夜の8時過ぎくらいから座る。そして「シシュー」と大きな売り声をあげる。

 「おばちゃん、元気?」。階段から登ってくる会社帰りの人が声をかけてゆく。

 「よっ、鈴木!!」。おばちゃんの名前を憶える能力はすごいものがあった。そしてみんな新作の詩集(一冊300円ほど)を、買ってゆく。

 おばちゃんは見た目には、なんだか子供のようにも見える。きけば1968年から池袋で詩集を売っているのだという。1980年で、もう12年ほどだ。知り合った多くの人たちが、声をかける。

 みんなしばらく、おばちゃんの隣に座って話をする。おばちゃんは話ならなんでも聞いてくれる。そしておばちゃんなりに何でも答えてくれる。その答えはいつもパーと明るい。

 「アオキ〜イ」。歩いてくる僕を見つけては、おばちゃんはそう大声で呼ぶ。池袋に出るたびに、おばちゃんのところに必ず寄り、しばらくいろんな話をした。

 「アオキイ、ちょっと、ここにいてね」。そう言って、おばちゃんはトイレに行く。その間は代わりに僕が詩集売りのようになってしまう。「おばちゃん、今、来ますから」

 おばちゃんは実に友達が多かった。隣りに座って、しばらくいれば、必ず知り合いはやって来て友達にもなれた。ときには、誰かが隣に居て、僕がやって来る役になるときもあった。

 おばちゃんは駅員さんとも仲が良かった。「ここで売っちゃ、いけないよ」って、いつも言われるけれど、そんな言葉はなんなく言葉と笑いでかわしてしまう。どんな人とも、おばちゃんなりに話かけることが出来た。

 まるまったノートを一冊、いつも持っていて、大きめの文字で、気がつけば詩を書いていた。

 おばちゃんのそばにいて、そこから見える世界。

 西武池袋線の終電近く、階段を急いで駆け上がってゆく人たち。僕はもう何本か余裕があるので、おばちゃんの隣でまだゆっくりする。そんなシーン。

 そんなシーンが、ずっと続いた。1年、3年、5年、10年。

 僕は西武線の椎名町から、杉並区の高円寺に引っ越しをした。おばちゃんに会えるのも日曜くらいになった。

 平日の夜、池袋にいるときは、必ずおばちゃんのところに寄った。そして隣に座る。そこから見える世界。そして変わらない「シシュー」の声。

 この2003年、おばちゃんは元気でいるだろうか?

 おばちゃんの名前は「永松美樹」、いつか自分のちゃんとした詩集を出したいと言っていた。


vol.21「下の中華やさん」(1/31)

 東京にきてから、いろんなものを初めて食べた。

 僕の住んでいたアパートの一階には、中華やさんがあり、週に何日かは寄ることが多かった。

 好きだったのは、中華丼。

 チキンライスも好きだったなあ。その一階の中華やさん夫婦は、同じアパートの二階に住んでいて、まだ小さなふたごの女の子と一緒に、二部屋分借りていた。

 中華やさんに行くと、いつもふたごの女の子もいて、おかあさんと一緒に、空いているテーブルで遊んでいた。冷蔵庫に張られてある、いっぱいのシール。傍らに積まれている絵本。冷蔵庫のもっと上に、テレビがあり、みんなで見ていた。テレビは中華やさんの主役だ。

 そんないつもの光景。

 友達が部屋に遊びに来ると、一緒にいつも下の中華やさんに入った。それは僕の定番だ。せっかくアパートの一階が中華やなんだもの。その便利さを、実感しないと。

 大変な風邪をひいたとき、下のに中華やさんは、僕のためにお粥を特別に作って部屋まで持ってきてくれた。そのありがたかったこと。アパートの廊下はいつも中華やさん家族の声で、にぎやかだった。そんな僕のアパート。

 中華やさんのメニューもひととおり注文していった。「中華丼」のこの謎のどんぶりも注文してみて、やっとわかった。「天津丼」は、呼び方に自信がなくて、頼むことができなかった。そして「うま煮」というのも何かはわからなかった。

 あるとき、おもいきって「野菜うま煮」を注文してみた。すると、中華やさんは僕に言った。

 「青木さん・・、野菜うま煮は、中華丼と一緒だよ。中華丼にしとく?」「あっ、はい」

 そんな日々が続いて、どんどんと時はすぎ、ふたりの娘さんも中学生になった。僕は相変わらずに、チキンライスとか注文。

 そして「天津丼」は、頼めないままだった。


vol.22「坂本さんの椅子」(2/4)

 そして坂本さんは、帰って来なかった。

 僕が、会社に入ったときには、もう多くの先輩たちがいて、コツコツと机に向かって、カッターとか筆とか使っていた。ポスターとかチラシとかの元を作る作業、レタッチと呼ばれる仕事だ。

 何人かで組んで、大きな仕事をしたり、個人でやってきて、ひとつの仕事をする場合もある。ひょろとした坂本さんは、いつも黒い皮カバンを持って、ちょっと遅れて会社にやって来ていた。

 (坂本さんだ・・) 年は30才代半ばで、横分けの髪はどこか昔の人のようにも見える。ほとんど喋らないで、もくもくと仕事をしていた。そんな坂本さんが、僕の隣の机に引っ越して来た。

 僕が仕事中、時間があって、紙切れに歌詞とか書いていると、「ちょっと見せてみて」と、坂本さんが言う。

 「こんなんじゃ、だめだな青木くん!!」

 坂本さんは妙に芸術に詳しかった。どうやら自分で、何か作品を作っている様子だった。

 あるときのことだ、坂本さんが僕をライブに誘ってくれた。「青木くん、今日空いてる? ライブ行こうよ!!」

 そして出かけたのは、新宿の外れにある地下のライブハウス。その日はアバンギャルドデイだった。それは'80年代最初の起こっていたムーブメントで、出演は「チャンス・オペレーション」「白石民夫」他、ノイズ系の人たちのバンドもあった。

 ライブハウスで見る坂本さんは黒いハンチン帽をかぶり、別人のように見えた。そして黒ずくめの服をまとった若い女性に積極的に声を掛けていた。

 「あの、私ですねえ、こういう音楽好きなんですね」

 (そうか、坂本さんって、それなりに渋いんだな・・)

 ライブが始まると坂本さんは、体をくねくねと動かして踊っていた。

 「青木くんも踊んないとだめだよ」

 その日から坂本さんの印象も変わった。ある日、坂本さんは女性週刊誌に載った「ザ・スターリン」の全裸ライブの記事を見せてくれた。そして、

 「青木くん、これだよこれ。フォークなんて古いんだよ」と、軽く笑った。

 ◇◇◇

 そんな坂本さんは、今度自分の作品の個展を初めてするという。人形とケースを使った作品らしい。

 「苦節33年、やっと発表するときが来た」

 仕事中、時間があると小さな紙切れにイラストを描いて、「ああ、この燃える魂・・」とか、つぶやいていた。

 そして一週間の個展は始まった。坂本さんはその間、仕事を休んでいた。個展はいろんな人と知り合い、大変な評判だったらしい。

 「いやぁ、ホントにやって良かったよ。やっぱり見る人は見るんだな」

 また仕事に戻って来た坂本さんは、どうも仕事が手につかない様子だった。

 「青木くん、俺はもうこうしちゃいられないよ。この燃える芸術魂が・・」

 それからの坂本さんは、どこか変だった。ひとりごとのように、「ああ、、この魂が、、」と、何度もつぶやいていた

 来る日も来る日も悩み抜いたあげく、坂本さんは芸術で独立する決心をした。

 「青木くん、今週で俺、仕事辞めるから・・」そう言っていたけれど、僕は半分は冗談だと思っていた。

 「じゃね、青木くん、がんばれよ」と、僕に言って、いつもどうり、ぼそっとみんなに軽く挨拶をして、坂本さんはその日、会社から帰っていった。

 休み明けに来てみると、坂本さんの机にはもうライトが付いてはいなかった。

 (ホントウだったんだ・・)。僕は昼休み、その椅子にそっと座ってみた。

 僕の机の隣で、ここで考え、苦しんでいた坂本さん。椅子に座ってみたら、なんだか気持ちがわかる気がした。


vol.23「我がファッションタウン」(2/4)

 二十歳すぎの僕の足が月に一度は向かって行った所。そこはファッションの街。

 ファッションの街、上野のアメ横と池袋西口だ。

 渋谷にも新宿にも行ってみる。ある程度の服やズボンは見つかるのだけれど、どうも自分の好みに合うものがない。

 ところが、アメ横と池袋西口には、不思議にもぴったりと好みの合うコートや服が揃っている店が並んでいた。

 僕の足はまずアメ横に向かう。長い道と多くの店。全部を見て回るわけにはいかないけれど、日曜の午後をつぶすには充分だ。でもけっこう同じものも多くて、たいがいあてが外れてしまう。ただ時々は、見たこともないシャツが並んでいたりして僕をびっくりさせてくれた。

 マフラーもいいのがあったなあ・・。

 しかし、僕のフアッションの本命の場所は、池袋西口、地味フアッション街だ。

 そこには、小さな店、ちょっと大きな店も含めて(いったい、これ、どこから仕入れてきだんだろう・・)と思えるものが多かった。それも信じられないくらいに安い。

 「えーっ、1880円?」

 どこか時代が違うようなコートが、店先に並んでいる。アメ横にもないものだ。しかしどの服も僕のハートをぐっとつかんでしまう。

 ジーンズもシャツも、帽子もマフラーもカバンも、見たこともないものが安く揃っていた。この店、その隣の店、その地下の店・・。

 僕は、仕事が5時半に終わってから、池袋西口に出かけてゆく。だんだんと明かりがついている商店街。どの店を覗いても人は入っている様子はない。それでも、平気で入ってゆく。

 「いらっしゃい」の声も聞こえない「いらっしゃい」の店。

 店の奥かオヤジがのっそりと出てくる。僕はかかっているコートを見上げている。

 「エヘン!!」。オヤジの咳。

 「これサイズ、Lありますか?」

 「L?、それ大丈夫だよ、ちょっと大きいから」

 「ホントウ? 着てみていい?」

 みょうに親しく話すのも、礼儀である。

 そして買ってゆく、1880円のコート。失敗したっていいじゃないか。

 部屋に帰って、壁のハンガーにかけてみる。うーん、いい感じだ。


vol.24「コヤマコーヒー」(2/11)

 「ここだよ」

 そう言って、詩集売りのおばちゃんは僕を、池袋駅前の「コヤマコーヒー」に連れてってくれた。

 ちょっとレトロで、オシャレな看板が店先にある、入口の小さな喫茶店。

 中に入ると、両壁に沿うようにテーブルがあり、その先に、ステンレスのおぼんを手にした、ウエイトレスさんが立っている。そのまた奥で迎えてくれるコヤマコーヒーのママさん。

 「いらっしゃいませ!!」と、声がすると、おばちゃんは「ヨゥ!!」と、手をあげる。

 突き当たりの壁から、二階につながる階段があり、そこに落ち着けるスペースがあった。両方の壁には樹木のイラスト。窓から見えるのは、池袋の西武デパートと、駅へと歩く人たち。

 その景色は1980年。

 「よっ、おばちゃん」と、声をかけるのは、先に来ていた常連の村上さんだ。村上さんは青森出身で、茶色の革のショルダーバックをいつもさげていた。文学に詳しくて、ほとんど毎日、池袋で詩集売りのおばちゃんと会っていた。

 「お〜い、むらかみ〜い」「おばちゃんはいつも元気だなあ〜」

 僕とおばちゃんと、村上さん、そしてこのコヤマコーヒー。コヤマコーヒーは池袋でも、もっとも古い喫茶店だと言う。たしか昭和20年代の店だったはずだ。詩人の山之口獏もよく、この喫茶店に通っていたという。それは、きっとこの二階だろう。

 今は1980年。コーヒ一杯240円。昔のままと思われる、レトロな感じのコーヒーカップはちょっと小さめだ。喫茶店に慣れていない僕は、すぐに飲み干してしまう。あとは、水だけのグラス。

 コヤマコーヒーの二階は、昔ながらの景色がとても似合っている。喫茶店の静かなスペース。ここで物を書いたりした人が数多くいただろう。そんな文学的な香りがここには残っている。

 二階はそれほど人は来ないので、僕たちは笑いあい楽しげに話しを続ける。ときどき、水を足しにウエイトレスの人がやって来るだけだ。もうすっかりコーヒーカップはないのに・・。

 友達と知り合うたびに、僕もまたコヤマコーヒーの二階に行った。

 「この喫茶店はとても古いんだよ」

 知ってるような知らないような、そんな僕の言葉も、この店の雰囲気と、一階の奥にいつも居る、ある程度年をとったママさんがそれなりに物語を語っていた。

 コヤマコーヒーのコーヒーカップはちょっとレトロで小さい。それが、この店にはとても似合っていた。水のグラスはちょっと大きなたまごみたいな形で、センスがいい。

 一杯の珈琲。一杯の時間。そして、ひとつの話。

 いつまでもあると信じていた、そんな時間とコヤマコーヒー店。

 この2003年、池袋東口駅前の昔の場所にコヤマコーヒーはない。1993年頃、建物ごと変わり、ビルの地下一階に移ったのだ。

 かなり店は狭く小さくなった。でも、物腰の柔らかい、おばあさんが、そのままに珈琲を出してくれている。


vol.25「村上さん」(2/14)

 「若いものはいつも元気だねぇ。おじさんにはうらやましいよ」

 村上さんは、いつもその言葉が口癖だった。

 僕が池袋で知り合り、そのはじめにとても仲良くなった人の中に、青森出身の村上さんがいた。

 村上さんは、東池袋に住んでいて、ほぼ毎日のように池袋にはやって来ていた。僕が西武の前で歌い出して、何人目かに声をかけてきてくれた人だ。それも、まるでずっと前からの知り合いのように親しげに。

 年は30代後半。背丈はそんなには高くなく、肩には茶色い革のショルダーバック。ジャンパーとかにジーンズをはき、基本的にいつも、タバコをくわえていた。そしてタバコをくわえながらしゃべる東北訛りの言葉。

 西武線で通っていた僕は、夜、地下道へ向かうところにいる、詩集売りのおばちゃんを見つける。そしてほとんどのときは、そのそば に村上さんが立っていた。僕が向かってゆくと、手をあげてくれる村上さん。

 くわえタバコのまま、話続ける村上さん。村上さんは誰がそばにやって来ても、ずっと知り合いだったかのような話ぶりだ。数多くの本を読んでいて、いろんなことを知っていた。

 「それはねえ、そうはいうけれど、まあ、いろいろあるんだよ」

 そして小さくうなずくように笑う村上さん。

 「お茶でも飲みに行こうか」そう、言っていつものコヤマコーヒーに向かう。

 村上さんは、話の中で、ときどき詩のフレーズをの中で引用していた。それは「黒田三郎」という人の詩が多かった。「黒田三郎」は戦後の詩人で、日常の中から現代への批判を静かに歌いあげていった人だ。

 「アモール・ファティ。いったい僕は何度、この言葉を口にしただろう。・・いいねぇ。。」

 そんな村上さんはいつも鞄の中に分厚い本を入れていた。細かい文字の本が多かった。

 あるとき、一冊の本を村上さんは僕にくれた。わざわざお金を出して買ってくれたという。

 「青木君が、ずっとたって、忘れた頃に、思い出したように、いつか読んでくれればいいから」

 やっぱり細かい文字のあつい本だ。「山宣」というタイトル。何か革命家の壮大な物語なのはわかった。

 あれから20年以上たっているけれど、いまだに読んではいない。

 ごめんね、その村上さん。また池袋で会いたいです。


vol.26「夏の一日」(2/17)

 1981年の8月の日曜日、君はどこにいただろうか。

 僕は池袋の歩行者天国で座り込み歌っていた。長い、長い、暑い午後。

 一曲歌い終わり、目を開けてみると、歩行者天国には300人くらいの輪があったりした。

 それは遠い夏の一日。僕の記憶の中の幻のような日々。まだ、今の友達に出会う前の話。

 日曜日、西武の前で歌い初めて次の年の夏。だんだんと人も集まるようになり、舗道の方では狭いので、午後からは僕は大通りの歩行者天国の方に移動していた。

 一年くらい過ぎると、だんだんと自分のスタイルというものも出来てきた。黒の鳥打ち帽子(ハンチン帽)に鳩の羽をひとつ付けて、ズボンは薄茶色のコール天。そして茶色のゴムのサンダル。そしてポリエチレンの小さな水筒。かなり使い込んだようになった歌詞ノート。

 ギターは、安く買ったヤマハの小さめのギター。人工皮革の茶色いビニールケースをしき、その上にあぐらで座る。真横に並べる何本ものハーモニカ。

 午前10時。一曲目は必ず、ウディ・ガスリーの「豊かなる牧草地」を歌う。それからが長い日曜の始まりだ。歌うときはいつも目をつぶって歌う。

 暑い日にはクラクラして、まぶたの内側が七色に変わる。ここはどこ? ここは歩行者天国。

 目をあけてみると、いつのまにか人の輪があった。僕はお得意のナンバーを歌う。一番のお気に入りは、ウディの「デイポーティー」という歌。さすがにどんなに大きな声を出しても足りないくらい。ハーモニカだって、吹きすぎて、すぐ寿命がきてしまう。

 のどだって、すぐに枯れてしまう。一曲ごとに水筒の水を飲む。そしてまた歌う。また歌う。

 歩行者天国の終わるのは、午後6時だったかな。僕は立ち上がって何か歌った。何の曲だったかな。そうだ「グッバイ・ブラザー」というアメリカのフォークソングだ。

 長い、歩行者天国の昼が終わる。僕はヘトヘトで体じゅうの力が無くなってゆくような、疲れ方になっていた。


vol.27「椎名町の鈴木さん(1)」(2/20)

 その日曜日の午前中、僕が西武の前で歌っていると、ひとりのおじさんが、ゆっくりとやってきて、緑のうすっぺらい箱をくれた。

 「あのう・・、わたくし、勝手に写真をとらせていただきました。どうぞ、お納めください」

 うすっぺらい緑の箱を開けてみると、僕が歌っているB5の大きさの写真だった。それも白黒。

 おじさんはぶかぶかの灰色の上下の作業服を着て、二分刈りほどの坊主頭で、メタルフレームのめがねをかけ、サンダル履きだった。しばらくそばで歌を聴いていったあと、「では失礼します」と言って、またゆっくりと去って行った。

 箱を見ると名前が書いてある、鈴木さんというらしい。

 たしかそれから二週間とたたないうちの土曜日の夕方、僕がちょっと離れたの公園まで歌いに出かけていると、向こうから、先日写真をくれたおじさんが、ゆっくりと歩いてくるではないか。

 「おや、おや、これは、、」と、お互いにびっくりして挨拶をすれば、この近くに、おじさんは住んでいるらしい。それも公園のすぐそば。この前とおなじスタイルだった。子供らが遊ぶ、水遊び場の近くでふたり話をした。

 それが鈴木さんとの長いつき合いのはじまりだった。

 「よかったら、部屋に来ませんか?」

 その日だったか、その次のときだったか、僕は公園のすぐそばの鈴木さんのアパートの部屋に連れて行ってもらった。古いアパートの狭い階段を登ったところにある四畳半だった。

 裸電球のある、畳の部屋。小さな茶ぶ台。本棚に並んだ、なんだか分厚い本。そしてなんと言ってもいちばん目を引いたのは、大きな鉄製の足のついた三脚と箱型カメラだ。

 「これは何?」

 鈴木さんは、このカメラを担いで行っては、写真を撮っているという。よく観光地で見かけるような、記念写真屋さんのカメラだ。ここは椎名町。池袋までも歩いては30分以上はかかるだろう。このカメラを担いで、僕を撮ってくれたのだという。それはそれは大変だったろう。

 小さな茶ぶ台の上には、平たい急須があり、何かのまじないのように、ひと振りして、僕にお茶を出してくれた。粉の緑茶だと思う。

 「青木さん、どうぞ」「あっ、いただきます」

 そして飲んでみると、なぜかフラフラっとした。フラフラっとしたそのお茶。

 「よかったら、この梅干しも」「じゃ、いただきます」

 それは僕の家から歩いて5分ほどのところにある、鈴木さんのアパートを初めて訪ねた日だった。それはあのフラフラっとする粉茶を飲んだ初めての日。

 その時、鈴木さんは42歳。僕は20歳だった。


vol.28「椎名町の鈴木さん(2)」(2/23)

 ・・夕方の5時半。ギターを背にアパートを出て、すぐそばの環八へ。環八に出たならば後は、ギターを抱えて歌ってもOKだ。車の音。あまり人の通らない道。そのままに3分ほど歩いて陸橋を越えると、そこにちょっと大きな公園がある。そんな夕方の僕の風景。公園の裏の岩の上に座り、ギターでポロポロと歌う。そしてやがては夕方も終わり、夜になってゆく。

 夜になったら、その公園のすぐそばにある、鈴木おじさんのアパートにいつも訪ねるのだ。

 部屋には電話はなく、下の道から見上げて裸電球が付いていれば、それが部屋にいるしるしだ。

 ドアを叩くと、「ハーイ」と声がする。

「おっ、青木さん!!」。あけてもらったドアにいて、炊事をしていたのがわかる。「まあまあ、どうぞどうぞ」

 午後7時すぎ、鈴木さんとの夜のはじまりだ。小さな茶ぶ台の前に座り、そしていつもの粉茶を出してくれる。約一週間ぶりか、10日ぶりかそんな間隔で、必ず訪ねていた。

 鈴木さんは、何をするのにも大変にゆっくりだった。そして何か鼻歌を歌っている。僕とは20歳以上の差があり、見た目にもおじさんという感じ。どこに出かけるにも、どこに行くにも、ちょっとがにまたでゆっくりと出かけてゆく人だ。

 知り合ったきっかけは池袋で、道で歌う僕の姿を見て、(おっ、これは)と、思ったという。

 鈴木さんの話の中には、いつも自分の心の声を会話に混ぜながら話す。それがなかなかにリアルでいい。

 部屋には大きな立脚の付いてる箱カメラがあり、テーブルには小さなライカのカメラが乗っていた。

 ・・・ライカのカメラ・・。

 鈴木さんと、ライカのカメラのつき合いは長く、その物語は泣けてしまう。

 「青木さんも、ちょっと食べますか? 」。食事中にお邪魔したので、必然的にそうなってしまう。小さなご飯茶碗、そして箸、そして梅干し。

 傍らにあるスチール本棚には分厚い「百姓一揆」についての本が並んでいた。それはシリーズ出ていて、値段も高い。発刊するたびに本屋さんに注文してあるのだという。

 「すずきさん、本が届いてますよ。なーんて言われてね。俺はドキッとしちゃうわけですよ。(こりゃーこまったなぁ)と、思っているとね、本屋さんはね・・」

 柄の長い昔のタバコを吸いながら、そんな話をしてくれる鈴木さん。そして夜は更けてゆく。あっというまに11時とかになってしまう。

 「じゃ、もう行こうかな」「あっ、そうですか」

 アパートの下まで一緒に降りて来てくれて、外灯の下、手を振ってくれる鈴木さん。

 「おやすみなさーい」

 そのまま公園を横ぎり、僕はギターを背に、また環八へ走ってゆく。

 何度往復しただろう。そして今、僕はそのときの鈴木さんの年齢になった。


vol.29「靴磨きのおじさんたち」(2/26)

 僕が歌い出すずっとずっと前から靴磨きのおじさんたちは、そこに座っていた。

 池袋東口の西武線の出口を出てすぐ左、舗道のデパート側ではなく道側の方に、宝くじの店を囲むように5・6人の靴磨きの人たちが並んでいた。どの人も50才代くらいだったと思う。おばさんもひとりいた。

 いつも同じ順番で並び、池袋という大きな街でもあるせいか、そこそこに人も来るようだった。僕は朝の10時に来ていたけれど、靴磨きの人たちともっともっと早かっただろう。そして僕が歌い終わる7時頃でも、まだずっと小さな椅子に座っていた。

 小さな椅子・・。そうだ、みんな小さな椅子に座っていた。やって来るお客さんとも顔なじみである様子で、楽しげに話していることが多かった。いったいいつからここにいるのだろう・・。

 僕は1980年の9月にやって来て、靴磨きのおじさんたちを舗道の向こうに見て、そして歌い出したのだ。それは大変な商売の邪魔になったはずだ。

 しかし僕も若かったせいか、自分の事で精一杯だった。靴磨きのおじさんたちは、どうせ一週か二週のことだろうと思っていただろうに、しかし僕は何年もそこにやって来たのだ。それも大声で歌うために。

 靴磨きのおじさんたちも宝くじのお店の人も、心ではずいぶんと迷惑がっていたはずだけれど、一度だって、うるさいとか場所を動いてくれとは言わなかった。僕と話すことがあると、いつも笑いながら答えてくれた。

 「今日もがんばってるねえ!!」

 '80年から歌い始めて、それから10年後の'90年に入った頃には、靴磨きのおじさんたちは、だんだんといなくなったように記憶している。ちょっと離れたところにいた背の高い靴磨きのおじさんは、'90年以降もそこにいたように思う。そのおじさんは大きく店を広げて、二人組でやっていた。人気もあったように思う。

 その背の高いおじさんは、いつもひょっこりひょっこりと歩く。それがとても印象的だ。'93年を過ぎた頃には、かなりの年になっていたのか、白髪になり、ホントにゆっくりと歩いていた。いつも元気で、耳に残る大きな丸いその声は変わっていなかった。

 この2003年、今はもう、その背の高いおじさんもいないはずだ。池袋の舗道には靴磨きの人たちの姿がない。最近は靴磨き機というのも出てるらしい。

 僕は靴磨きのおじさんたちについては、詳しいことはほとんど何も知らない。長い長い年月の後、もうみんないなくなってしまった。写真だって一枚も残っていない。でも僕の歌っていた場所から見えてた向こう側の景色の中に、靴磨きの人たちは、いつも座っている。


vol.30「三味線づくりの高橋さん」(3/1)

 「おれ、三味線つくってるんよ」

 '81年の2月の日曜日、池袋の西武の前で歌う僕の隣に、ヘッドホーンをしたお兄さんが座り、僕に声をかけてきた。

 「今、聞いてるテープは渡さん。おれ、高橋って言います。25才」

 高橋さんは、埼玉の東松山で三味線づくりの修行をしていて、休みになると池袋経由で出かけていた。音楽は、特に高田渡さんが好きで、自分でも歌い、詩も書いていた。

 「いろいろヒッチハイクで旅もしたよ。今度は沖縄さぁ!!」

 高橋さんの旅は、ヒッチハイクで出かけてゆくのだ。今日は、外人さんと話したくて、街にやってきたのだと言う。

 池袋で、何人もの人ともう出会ったけれど、こんな感じの人は初めてだった。ヒッチハイクといえば、ちょっとアメリカのヒッピー系の人を想像しそうだけれど、彼は実に日本的だった。僕に声をかけたように、彼なりの言葉で、人と出会っているのがよくわかった。

 それは彼の魔法のようだ。

 池袋に来るたびに寄ってくれる高橋さん。僕のところに午前中に来て、今日の予定を話しては、夜にまた寄ってくれた。それから僕は、高橋さんと手紙をやりとりするようになった。あるときは、友達が作ってくれたという自作の詩集もくれた。

 そんな高橋さんと会うたびに、僕はいつも元気づけられていた。

 そしてとうとう高橋さんは、憧れの沖縄に旅立って行き、その先々では僕に葉書を送ってくれた。高橋さんらしい出会いの旅。「竹富島」という歌も出来たらしい。

 「竹富島」   高橋秀雄 1982 

 土はなく 珊瑚の島 のどかな町
 水牛がはたらくよ むちうたれ
 村の人は 真っ黒い どじんみたい
 波の音が 聞こえてくる 竹富島

 夏になると 若い娘らが やって来る
 東京弁の はな唄を うたいながら
 若いプチプチした にぎやかな おじょうさんたち
 村の人は かせぎどき かせぎどき

 のんき気そうな 民宿の おやじさんたち
 芋焼酎 ついでくれて まあのみねえ
 おかみさんは 蛇味線を弾いてくれた
 あの沖縄民謡が とっても良かった

  竹富島の人たち あったかい人たち
  そんな村の人の 苦労なんて 俺にはわからない
              

 やがて高橋さんは、実家のある秩父に帰り「楽山人」と名乗り、陶芸・写真・絵・詩・唄と、幅広く創作を続けていった。でもみんなは「三味線づくりの高橋さん」と、相変わらず呼んでいた。 


vol.31「いろいろな人」(3/4)

 日曜日に、街で歌っていると、いろんな人がやってくる。

 ・・午前中、まだ歌うには本調子でない頃、舗道の向こうから、嬉しそうに手を振りながらいつも来るおじさんがいる。赤羽から来てるって言ってたので、勝手に僕は「赤羽おいちゃん」と呼んでいた。「赤羽おいちゃん」は、最初からまるで昔からの友達にように話かけてくれた。

 「ヨー!!」

 夏になれば、暑い陽を見上げては、「うわーっ、あっついよー!!」と何度も言っていた。背はそんなには高くなく、歩くときにちょっとヨロヨロッとなる赤羽おいちゃん。僕はおいちゃんが笑っていないときを見たことがない。ほんのささいなこでも、赤羽おいちゃんには、笑えるひとつなのだった。

 「じゃあ、ちょっとパチンコにいってくらあ」

 ・・午後の歩行者天国。僕は横断歩道の真ん中で歌っている。いつもの調子で、だんだんと人が集まって来ている。そんないつものシーンの中、突然に自転車がブレーキの音がキーッと鳴ることがある。

 (あっ、カーボーイおじさんだな・・)

 目を開けてみれば、座り歌っている僕ととりまくお客さんの輪の間に、おじさんはきょとんと立っている。よく焼けた裸の上半身に黒のカ革のベスト。カーボーイハットをかぶり、短めの黒ズボン。そして担いでいるのはクラシックギター。

 「オウッ、元気か?」

 自転車のカゴの中には、ウイスキーか焼酎の瓶が見えていて、もうかなり飲んでいる様子だ。(もしかしたらいつも犬もいたかな。。)

 カーボーイおじさんの登場は、馬ではなく自転車。僕の歌なんかよりずっと注目が集まってしまう。

 カーボーイおじさんは地べたに座り込み、ギターをかまえ何か歌おうとする。さらにみんなの注目が集まる。でも、弾こうとすればすればするほど指が追いつかなくて弾けない。

 「あーっ、だめだー!! くそーっ、弾けなーい!!」

 カーボーイおじさんの声がデパートの壁に跳ね返り響く。

 やって来るのは、カーボーイおじさんだけじゃない。踊る前衛芸術家。スローモーションピエロ。他いろいろ・・。

 赤羽おいちゃんは、夜になるとまた僕もところに寄ってくれた。こころなしか帰りはちょっと淋しそう。

 「まいったなぁ、今日は。じゃねー」

 でも次の日曜にはまた、意気揚々とやって来るのだ。


vol.32「日曜には治りますか」(3/7)

 「先生、日曜には治りますか」

 「ああ、大丈夫だよ」「じゃ、よろしくお願いします」

 それは歯医者での話。僕の歯を手術するというので、どうしても日曜に唄いに行きたいので、それまでに治るのならと先生と約束したのだ。

 しかし手術後、二三日してからかなり歯茎が腫れだしてしまった。土曜になってもまだ腫れはひかず、日曜に歌えるが微妙だ。それもふつうの腫れ方ではない。

 日曜の朝になっても、まったく歯茎の腫れはひかず、歌えるという状況ではなかった。そこで僕は考えた。

 (そうだ、テープに歌を入れて持って行こう)

 マイクに向かい最近池袋で唄っているの歌を、腫れた歯茎のまま録音した。調子に乗って日曜の朝からアパートの部屋で唄っていると、ドアを叩かれてしまった。

 「ちょっと青木さん、下の大家ですけど、歌が大きいわよ」

 ・・力が入ったかな。

 僕はマスクをして、ラジオカセットを片手に池袋に向かった。そしていつもの場所に座り込み、すぐ隣にラジカセを置き、そこに服を一枚かけて鳴らした。流れる歌に合わせてギターを弾くのだ。

 まるでマスクの下から唄っているような雰囲気。でもそれはラジカセの音。それでも人が集まってしまった。

 (どうしよう・・)

 僕はマスクをとり、ラジカセが唄っていることを説明した。でも、せっかく集まってくれたので、生で何か一曲唄おうと決めた。

 ものすごく腫れている歯茎。口はほとんど開かなかった。そうやって、その日曜ははじまった。さすがにそれ以上、生で唄うことは出来なかった。

 なぜにそこまでして池袋に唄いにゆくのか。それは、いつも来てくれる友達がいるからだった。

 僕の顔を見た、舗道の向こうの靴磨きのおじさんたちは、「ケンカでもしたのかと思ったよ」と言った。

 そんな日曜日のあと、僕はまた歯医者さんに行った。

 「おやぁ、これはひどいねえ」

 腫れはさらにひどくなっていた。昨日の出来事はもちろん黙っていた。


vol.33「シャッターのおりた西武の前で」(3/13)

 それは2000年を過ぎた今では、どこの街角でもありそうな光景になった。

 (おっ、若者たちがまたギター弾いてるな)と、仕事帰りのサラリーマンの人たちが、足早に眺めてゆくだろう。

 その昔、そういうシーンはたしかにあった。そして'80年最初には、ほとんど見ることはなかった。思い出したように僕は街角で唄い始めて、そしてそんな僕のところに集まってくれてるみんながいた。

 偶然に街で知り合ったみんな。そんな出会いはなんとも普段あるようでない。ほんのちょっとだけの勇気があって、知り合えた仲間なのだ。

 1から生まれた1。それは僕らだけのものだった。

 『シャッターのおりた西武の前で』

 ヒゲのカネマキさんがとなりにいて
 むりやりギターを弾かしたんだ
 シャッターのおりた西武の前で
 右に三人、左に三人
 女のコたちは週刊誌をしいて
 あったかいかっこうをしてた
 あったかすぎるかっこうで

 一歩下がって僕も聞き手に回った
 いつものメンバーがそろってるな
 もう一年、毎週毎週来てくれてるよ
 新井さんも松野君も山田さんもだな
 新井さんは、やっと大学が決まって
 今日、世田谷の方へ引っ越した帰りだって
 帰りに寄ってくれたって

 カメラなんてなかった、でも写したかったんだ
 六人を見ようと、もう一歩下がった
 そこで僕は耳からフィルムを入れて
 ゆっくりまぶたでシャッターを切ったんだ
 思い出せるよ、焼き付いてるんだ
 カネマキさんさえ今はとんと会ってないけど
 待ってようと思うんだ

 シャッターのおりた西武の前で

          「ブクロの頃」 (前半終了)

「ブクロの頃」後半へ


メニューにもどる(地下オン)
今月に戻る

過去ログ2000年[8月・ギター編]  [9月・カバン編]  [10月・田舎編] [11月はじめての東京編] [12月・犬物語編] 2001年[1月・フォーク狂時代] [2月・文房具編]  [3月市場の頃]  [4月チャイナ編] [5月チベット編]  [6月ネパール編] [7月インド編1]  [8月インド編2] [9月インド編3] [10月インド編4] [11月トルコ編] [12月ヨーロッパ編]2002年[1月パリ編]  [2月パリ編・帰国編]  [5月新しい日々]  [6〜7月私の作ったノートたち] [8月〜11月卓球時代]

CD「黄色い風、バナナの夢」詳細

TOP   Jungle