青木タカオの「ちょっくら・おん・まい・でいず」  今月に戻る
過去ログ「わが田舎町、好きだった所30選」日記付き'00.10月

「はじまりはいつもテトラポット」10/1

 僕の実家は新潟県の海沿いの真ん中、柏崎という小さな町である。そして僕の家からも、歩いてすぐの所に海があった。

 と言うか、家のすぐ裏が川で、海にそのままつながっていた。川沿いには道があり、僕は何かあると、その川沿いの道を歩き海へ出た。海へ出ると、そこには並んだテトラポットがあり、波がバチャバチャやっていた。

 もう気付いたときには、僕はそのテトラポットに座っていた。いつからだろう? まずテトラポットに座って、何か考えるのだ。今住んで居る、ここ東京には、あの波打ぎわのテトラポットはない。

 海に夕焼けが落ちてゆく。少し暗くなった所で僕はやっと、閉まりかけの商店街に向かう。はじまりはいつもテトラポット。さあ、ゆこう。わが田舎町、好きだった所30選。9/30 雨、雨のなか、イランのアリさんを送るパーティーへ出かける。僕が音響。今日はお店は大繁盛。いつものお客さんが普通に食事をしている。それでも「今日はパーティーですから」と言うことで、僕らの歌やアリさんの歌や踊りで盛り上がった。アリさんが日本からいなくなるなんて、淋しすぎる。アリさんの恋愛話をまた聞きたいな。イランであったらよろしくと。

「エレベーターの中の隠しもの」10/2

 僕が小学生のころ、画期的な乗り物といえば、やっぱりエレベーターだった。それも、大きな呉服屋さんにたったひとつあったのだ。

 まあ、これでも町っ子だった僕は、放課後といえば、大きなお店で遊んでばかりいた。その呉服屋さんの上の階に、たしか300円均一のお店があって、そこに僕らはしょっちゅう行っていた。その300円均一のお店の話しはまたあとでしようと思うけれど、そこに行くために、いつもエレベーターを使っていたのだ。

 「おい、変な気持ちがすんでぁー」「ほんとだおぇ」そうやってヘナヘナ人間の真似をどれだけしただろう。各階のボタンを押して騒ぐのは、どこでも一緒。ほんといい迷惑小僧たちだったね。

 そのエレベーターの中の下の方には、非常用と書かれた、小さなドアが付いていた。ある時、友達と恐る恐る開けると、中には、黒い受話器が入っていた。

 「おい、何かかくそうぜ」「何がいいかなぁ」「とりあえず、このペェッツ(PETS・首が倒れる例のお菓子)でも入れとこうぜ」(PETSの本体ではなく、お菓子ひと粒の方)「ぜぇったい、秘密だからなぁ」

 そうやって、僕らはこっそりPETSひと粒を、そのボックスの中に隠したのだ。あれは小学3年の頃かなぁ。しばらくは、どきどきしながら、その秘密のPETSひと粒があるかどうか、確認したりした。そのタイミングのむずかしいことと言ったら。

 それから2年たって、急に思い出して、非常用ボックスを開けてみたら、まだ秘密のPETSひと粒はそこにあった。その頃はもう小学校の高学年。もう2年前のことは、遠い昔のようだった。(へぇー、まだあるんだぁ)

さて、それからまた2年くらいたって、僕も中学生になっていた。PETSのひと粒のことはちょっとは憶えていて、ある時、一瞬だったけど、ボックスを開けて、PETSがあるか確かめたのだ。

 (あったぁ・・)僕は信じられない気持ちでいっばいだった。友達に伝えようと思ったけれど、大人ぶってた頃でもあり、結局言わなかった。

 それからは一度もそのボックスはのぞいてはいない。時々、乗ることはあったけど、(あるかなぁ)と思うだけだった。僕は信じる、まだもし、あのエレベーターが、今も変わっていないのなら、きっとPETSはあのボックスにあるはずだ。そう信じてはみるけれど、ほんとにあったら、どうしよう。10/1 東京ステーションギャラリーに「マックス・エルンスト展」を観に行く。今日が最終日。美術館には、よく行ったなぁ。僕は、美術館に来る人に会えるのも、楽しみで、いつも行く。二十歳くらいの頃、絵を勉強している友達が多かった。美術館に行くと、いつもその頃を思い出します。泣きそうな思い出ばっかりです。

「嘘のようなほんとの話、水族館がそこにあった・1・」10/3

 僕の実家から歩いて1分の所に、その昔、水族館があった。柏崎水族館だ。ペンキ色の水色。薄緑。そして黄色。ヒラヒラと揺れる、セルロイドの夏飾り。看板には「柏崎水族館」の文字。

 僕が気付いた時には、もうそこに、水族館はあった。神社の並び、訪ねてくる人々。売店。アイスクリームのボックス。ガム。お姉さん。水族館の中は薄暗い。透明緑の水槽。

 コーラアイスキャンディという10円の2本付いたアイスバーが売店にあった。夏。僕はアイスボックスを開けて、覗き込んでいる。「これ10円?」僕はポケットから小銭を出した。おっと1円ばっかり。でも10円くらいはあるだろう。1枚2枚っ。あれっ光る金色5円玉がないぞ。僕は売店のお姉さんの前で1円玉を数え出した。

 その頃は数えるという事が、大変だったんだろうか、1円玉を数えてみると9枚しかない。10円のコーラアイスを買うには、1円足りない。ポケットというポケットを(ふたつくらいしかないが・・)探してみるけどない。1円足りないのだ。

 「お姉さん、1円足りないよ」何度かぞえても9枚しかない。そこでひらめいた。(1円くらい落ちているだろう)僕は広場の所や神社の回りを1円玉を探して歩いた。しかしなかなか見つからない。お姉さんが僕に声をかけた。

 「いいよ9円で」僕にとっては初めてのまけてもらう経験である。しかし僕はまだ若かかった。「だめだよう。アイスは10円だもん」たしか友はお金を貸してくれなかったのだ。まじめな僕は、コーラアイスキャンディが食べたいばかりに、なんとか1円を探した。しかしない。1円が落ちていない。

 お姉さんは何度か僕に声をかけた。9円でいいよって。しかし僕には、それは悪いことのように思えた。結局、僕はアイスを買わなかった。ああ、なんてバカ。次の日、僕はちゃんと10円持って、コーラの2本付きアイスキャンディーバーを買った。もうお姉さんは何も言わなかった。やっと買ったアイスキャンディーバー。

 それは2本付いているので、うまく半分にわけなくてはいけない。でもたしか僕はその日失敗したのだ。なぜだろう? よく憶えている。僕の水族館の一番の思い出はなぜかこの1円足りなかった話。そして2本にわけるのを失敗して悔しかったこと。あの売店のお姉さんに会いたいなぁ。10/2 今日からバイト始め。ずっとMDにて、地下のライブの時の録音を行き帰りに聞く。もうちょっと、唄がうまくなりたいなぁ。新曲の「夕暮れの向こうに〜」の唄を自分でくちずさむ。久々に気に入った唄が出来て嬉しい。もう今年はこの唄を作ったので。ALL OK。

「水族館がそこにあった・2・」10/4

 売店の店先の上の方には、バネが頭に付いているタコの揺れるやつが飾られていた。大きいタコ、小さいタコ。そのタコは僕の思い出の中で、とってもいい感じで今も揺れている。

 僕の家のすぐそばにあった柏崎水族館。入場料はいくらだったかなぁ。しょっちゅう入っていたから、そんなに高くはなかったのだろう。中はいつも薄暗い。水槽、ネオンテトラ。そうそう大きな海亀のはく製? があった。それはとっても印象的。丸いプールのような水槽、そこには魚がいたような、いなかったような・・。

 そして水族館は僕らにとっては、夏のアイスキャンディが買える所でもあった。いや、それがメインだった。あとはあの海亀かなぁ。水族館には、たしかおじいさんの館長がいた。なにかお菓子をもらったような、もらわなかったような・・。

 ずっとずっと、水族館は不思議にもそこにあったけれど、僕が小4の頃、閉館してしまった。ある時、いつもの水族館はもう開かなくなった。売店のさびたシャッター。ふきさらしの窓から、中を覗いてみた。からっぽの水槽。魚たちは何処にいった。それにしても気になるのは、あの海亀のこと。

 事務所の横の窓がこわれていて、そこから、事務所には忍び込めた。中は荒らされていた。電話器が残っていて、友達と受話器をあげたら、なんとまだ音がしていた。(おぃ、つながってるぜ) 変な気分。結局、水族館の中には入れなかった。また、窓から覗きこむ日々。

 どうしても、窓から奥が見えなくて、海亀の姿はわからなかった。そしてそのうち解体工事がはじまり、水族館はサラチになった。あの海亀のはく製は、あったのか、なかったのか。そんな気持ちが残ったまま、水族館はサラチになった。

 さて、話は戻って、揺れるタコのボンボンのこと。部屋の天井でいつも揺れていた。定期的に水族館で買っては飾っていた、あのタコのボンボン。なんだか、とっても家族全員のお気に入りだった。最後の一個も揺れてゆれて、海亀も揺れてゆれて、いつのまにか水族館と一緒に消えてしまった。今もどこかに売っているのだろうか? 10/3 今日、柴犬の子犬を見た。僕にじゃれて来たのだ。まだ、3ケ月くらいかなぁ。無邪気でかわいい。ほかの子犬もそうなんだろうけど、なんだかさ。僕は柴犬は吠えるので、いまひとつ好きになれないでいたけど、なんだか底知れぬ、魅力があることが直感でわかった。あの子犬のころの人なつっこさ。今風にいえば「ムッチャ、かわいいですぅ」

「そんな木の上の男」10/5

 この世にはいろんな王様がいる。エジプトの王。パチンコの王。野球の王。そして新潟の小さな田舎町にも、その昔、木の上の王がいた。

 その日、男は小高い丘の木の上に登り、二股に別れている枝のところに、板を釘で打ち付けた。それは人の高さで三人分だった。下からは見えない。それを知っているのは、男とその他の数人だけだった。飲み物があった。黄金色の楕円チュウチュウジュースだ。食べ物があった。なぞの幾何学絵文字SPINだ。本があった。横にはKCと書かれていた。

 その木には初め、誰かがつけた小さな板があった。それはあまりに小さく、サルが作ったようだった。しかしそこから眺める景色の良さといったら、ジャングルジムの比ではない。男はその板の隣にもっとしっかりとした板を作った。そこに腰掛けた瞬間から、男は木の上の王になった。誰も文句をいう人はいなかった。

 王様は夕暮れになるとそこに座り、考え事をした。王はチュウチュウジュースが好きだった。風に木は揺れる。まるでやって来る人生のように。王は静かに目を閉じた。もう腹も減ったのだ。厚さ約3センチの王様の椅子は本当、丈夫だった。数年たって、王が忘れた頃にもまだ王の椅子はあった。

 そんな木の上の男は、卓球に夢中になった。もう一度、世界は、グリーンと赤と白で彩られ、王冠の代わりにハチマキをその額に巻いた。時はピンポンのスピードのように、ダイナミックに早く過ぎていった。そんなある日、ふと、部活帰りに丘のそばに来ると、懐かしき、王の椅子のある木は切られていた。

 いや、その木だけではない、一面に木は切られいた。21対16 ゲームセット。もう王の眺めていた夕焼けはない。そして夕焼けが眺めていた王の椅子もない。風が二度と王の木を揺らす事はない。ひろびろと夕焼けはここまで来ている。王様はただの中学生の卓球少年になってしまった。そしてもう少年は王の椅子のある木に登る事はなかった。(当たり前か) 10/4 昨日、朝、マフラーをしている女性をたて続けに二人も見る。マフラー。ああマフラーを最初にしめたかったのに、まだまだ早いと思っていたのに、10月半ばが、境界線だと思っていたのに。今年はそれも11月にずれ込むって思っていたのに。甘かった。きっとうんと寒ーいところから、通ってるんだ。きっとそうだ。

「図書館のサスケ」10/6

 図書館のサスケ。図書館のサスケはとっても忙しかった。

 サスケは7人に変身して、それぞれの家にいた。僕の家にいた事もある。分厚いマンガ本。アズキ色の布の背表紙。1巻から7巻。図書館のサスケ争奪合戦はいつのまにか始まっていた。

 その前からもちろん図書館はあった。もっぱら僕の借りる本は、いつも不思議本。心霊手術の写真にはビックラこいた。いろんなびっくりすることが世界にはあった。僕の世界なんて狭い。本町1丁目から3丁目くらいなもの。

 学校の図書室の本は背表紙が古過ぎて、目を凝らさないとよくわからなかった。ふるーい本ばっかりだった。僕は江戸川乱歩のシリーズ専門の小僧だった。ときどきは他の本も借りた。ほんと時々。

 そんな僕らが、市の図書館に毎日のように通うようになったのは、サスケの豪華本が入荷してからだ。とても僕らが買えるような本ではなかった。まさに「すげぇー」本だった。僕もその争奪戦に参加してしまったのだ。次から次にサスケは知り合いに予約貸しされ、めったなことでは自分の所には来なかった。特に第7巻は幻と呼ばれていた。

 いったいサスケの何がそんなに僕らをひきつけたのか? それはあの本の分厚さだったと思う。5cmくらいあったもの。それにあのあずき色の布の背表紙かな。中身はもちろん名作だったし。

 もちろん図書館に行く度にサスケがあるわけではないので、僕はなにかしら、不思議本を借りてきた。おかげで、不思議については詳しくなった。それにしても心霊手術にはびっくりした。僕の中の衝撃度、ナンバー1だった。

 さてサスケ。ある時、僕が第3巻かなんか持ってて、一緒に並んでいる列の先に第7巻を持っている、同学年の男がいた。その彼とは、話をしたことはない。でもよく知っていた。その彼は「しん君」と呼ばれ、学年一番、お金持ち(?)だったのだ。その列にはしん君の仲間が一緒にいて、なにやら 楽しそうにしていた。

 僕はバカだった。僕はそのサスケの魅力に負けて、その彼に、自分のサスケとの交換をしに行き、ちょっと悩んだすえ、こう声をかけてしまった。「しんくーん、そのサスケの本・・」そしたら、一緒にいた彼らにこう言われたのだ。「こいつ、しん君だってよ。」

 大失敗だった。この青チャとしたことが。なぜ俺は、あんなことを言ったのだ。帰り道、ずっと後悔し続けた。その思いは今も、忘れられない。それは、図書館のサスケが僕に教えてくれたものだ。いつかお礼をいわなくてはならない。 10/5 ときどきとても、無性にチキンライスが食べたくなる日がある。もうその日は昼から、自分がおかしい。なにがなんでも、チキンライスを食べないとだめな気がしてくる。そしてかならず、食べる。その理由はわからない。その日を、チキンライスの日と名付けよう。みなさんにもチキンライスの日ってありますか?

「公園になったプール」10/7

 秋風が誰もいないプールに吹いている。夏の盛りの頃はお兄さんたちが、水球に燃えて賑わっていた。今ここを訪ねるのは小学生の僕くらいなもの。

 ここは市営のプールではない。どこかの高校か、会社か、役所かわからないけど、一般の人は入れないのだ。でも、夏が過ぎれば、管理人はいなくなり、忍び込み放題。僕は小さかった頃、ここに来るのが好きだった。9月いっぱい位はまだ水が張ってあったと思う。

 夏。お兄さんたちが、水球をやっていた。僕は時々のぞいては、その異常な盛り上がり方に驚いていた。秋、誰もいないプールに来て、へりに座ると、夏のお兄さんたちの声や姿が、よみがえってくる。でも今は誰もいないプール。ここを訪ねてくるのは僕と、そして舞いとぶ赤トンボくらいなもの。

 ここは町なかではない。人どうりがあるわけではない。ちょっと遠くで車の音がするくらいだ。第三のコース、アキくん。僕は飛び込み台の上に腰掛ける。

 僕はそこが好きだった。冬、冷たくて白い太陽。学校のノートをやぶって、なんか書こうよ。まったく忘れられている、冬のプール。第三のコース、アキくん。

 ある年、そのプールは公園に変わり、あの水球のお兄さんたちは、幻となった。思い出は土に埋まり、あの水色はどこにもない。さて、あの頃の夢を見たら、ちょっと足をのばして、このプールに来てみよう。あの赤トンボもきっと来ているだろう。10/6 今日、ちょっとシャレた陶器の湯のみのセットを買った。カバンには入らないので、紙袋のまま、手に持って友達のライブに出かけた。ライブは終わり、ちょっとお茶を飲んで、電車に乗り高円寺に帰って来た。駅の階段のところで、紙袋がない事に気付いた。(やっちゃった)それにしてもどこに置き忘れたのか、記憶がまったくない。自分のいたところ、ひとつひとつ訪ねてゆく。ない。結局、置いてあったのは、ライブハウスの座っていた、椅子の下。これじゃまったく忘れているわけだ。俺、自分が心配だよ。

「体育館の絵はドンキホーテ」10/8

 小学校の体育館、なんと言っても印象的だったのは、ステージの斜上にあった、大きな絵だ。全国共通、そこに大きな絵があるかは知らないが・・。

 入学式のとき、僕はその絵のことしか考えていなかった。(なんだろうあれは?)くるくる回る風車に突撃している、馬に乗った全身銀色のヨロイの男。まったく理解できなかったけど、その絵はそこにあった。

 その絵はいつもそこにあった。まったく理解できないまま。毎日の体育館での、遊びのとき、学年集会のとき、全校集会のとき、その銀色の人は風車に挑んでいた。

 もうひとつ学校には体育館があって(西運動場)そっちの絵はアラジンの絵だった。それはすぐわかった。校長先生の顔なんか見ててもおもしろくないので、僕はいつもいつも絵を眺めていた。細かい所まで。いつも小さな発見でいっぱいだった。

 小学校の時とっても絵が好きで、絵のことなら、なんでも興味があった。僕は毎日、毎日、その銀色の人を眺め続けていたけど、とうとう卒業式の日まで、理解できなかった。さて、卒業。その絵ともお別れだった。先生も友達もその絵について、教えてくれた人はいなかった。なぜ、入学式のとき、校長先生は説明してくれなかったのか。なぞの風車と銀色の人。

 理解はできなかったけれど、僕はその絵が好きだった。なんだか激しいタッチで描かれていて、なにかえたいの知れないパワーを感じていた。中学になって、その絵と再会することは、何回かあった。僕にとっては、一番古い、友なのかもしれない。

 ずっーとたって、僕が25才の頃、ドンキホーテの話をエッセイで知って、(ああ・・)とわかった。あの絵はドンキホーテだったのだ。有名すぎたのかもしれないれど、僕はその時、知ったのだ。僕の最初のクレッションはやっと解決した。

 田舎に帰った時、もう一度、あの絵を訪ねようと、小学校に寄ってみた。でももう体育館は改築され、絵はもうなかった。学校のどこかにあるかもと、勝手に小学校の中を歩き回ってみたけれど、見つけることはできなかった。ドンキホーテははずされたのだ。

「校長先生、このドンキホーテの絵どうしましょうか? 」「うーん、物語りの性質からいっても、教育上、このような人になっては困るので、取ってしまいましょう」そう言ったかどうかは知らないが、もう絵はどこにもない。でもハッキリと憶えている。

「アオキ先生、このドンキホーテの絵どうしましょうか?」「うーん、物語りの性質からいっても、教育上、大変にすばらしいので、このまま飾っておきましょう」10/7 みんなも小学校の頃、体育館に大きな絵が飾られていましたか? ぜひ何の絵だったか教えて下さい。今日、ゴミ置き場にて、ふるーいソニーのラジオを拾う。木製のヤツ。家に帰ってつけてみると大丈夫。たぶん昭和40年代のラジオ。今日は一日つけてました。ラジオの音っていいね。全然邪魔にならない。いつか見に来てください。

「本町書店」10/9

 大雪の日もあった。雨やみぞれの日も。でもそれがここ新潟では当たり前だったから、本町通りはアノラックのおばさんや、コート姿の頬の赤い中高生、そしてもちろん鼻水の子供ッコも長靴の音をたてて、行ったり来たり。

 どんなに雪が降ったって、学校の帰り道、本屋さんには行かなくっちゃね。誰が決めたわけではないけれど、僕はそこに立っていた。本町通りのはずれにある、小さな本屋さん。ひと回りしたって、すぐ回れちゃう。でも、僕にとっては、家から一番近い、情報収集の場所。

 ギターの本もバイクの本も同じ所にあったので、僕は長い事、毎日同じ所に立ってたわけだ。そうそう本屋に寄ると、知識が増えてゆくよね。それに冬、帰り道、どこかの店に寄らないと寒くて寒くて・・。もちろん自動ドアではないさ。ギター雑誌はいっぱい買った。毎日、チェックも忘れなかった。

 帰り道、もうちょっと大きな本屋さんはあった。そこにも寄っては来る。でも雑誌はいつもの本屋で買わなくっちゃね。とっても厳しーいオヤジさんと、とっても優しーいお姉さんが交代に、正面で立っていた。右と左には、新着の本が積まれ、ガラス戸には注文用紙がテープで貼られていた。毎日立ち読みをする代わり、僕はできるだけそこで本を買った。

 その本屋のオヤジさんは、特に恐くはないのだけれど、あまり笑わなかった。厳しーい表情というより、何かの彫像のようだった。そうあのジャコメッティの・・。

 僕はよく、フォークの楽譜集を注文した。それも、新譜のやつではない。それもメジャーなシンガーでもない。東京の問屋から取り寄せるらしいのだが、ほとんどないことが多かった。けれどどうしても欲しい楽譜(加川良と歌おう)の本があって、なんども続けて注文を、あのオヤジさんにした。

 「すいません、どーしても欲しいんです。お願いします」「そうですか、でも東京にもないものはないですよ」「でも、どうしても・・」半年がかりの注文だった。あんまりたずねるとしつこいので、2ケ月に一度くらい「あのぉ、加川良と歌おうって本、注文したんですけど、まだ入ってませんか?」と尋ねる。すると、オヤジさんはいつもそっけなく「入ってない」と答えるのだった。

 ある時のこと、また恐る恐る本の事を尋ねると「入ってない」と答えられた。でもそのあと「ちょっと待って」といって、僕を引き止めた。「もしかしたら今日入ってきたかも・・」って言う。「これは私の勘だ」って言う。そしてオヤジさんは、今日届いた、ダンボールをほどいて、上から本を見ていった。僕自身、その本がどんな表紙なのか知らない。そしてオヤジさんが言った。「やっぱりあったぁ」みれば、もう角が少し丸くなっている、新書とはとても思えない本だった。「これでしょ」表紙で加川良が笑っている。「はい、これです。これ」

 いつもは冷静なオヤジさんが、なぜか「勘が当たった。俺はすごい」って何度も言って嬉しそうだった。ホントにホントだったようだ。長年、本屋さんをやっていると、こうゆう事もあるのだろう。たしか冬のニ月の雪の日のこと。僕は中学三年生。

 その本町通りのはずれにあった本屋さんは今もある。帰郷の度にいつも寄ってみる。でも前のような賑わいはない。本の数もぐーんと少なくなっている。さびた看板。児童用のくるくる回る黄色い絵本さしにも本がない。あのおじさんも、お姉さんもいない。でも、あの日と同じ所に立ってみる。そこは今、婦人用の本のコーナーだ。料理の本でも、眺めてみよう。

 そして、それから何か一冊買う。「ありがとうございました」の声が残る。手動のサッシ戸のガラガラ音を聞いて店の外に出ると、いつも泣きそうになってしまうのだ。10/8 今日もまた忘れもの三昧。友達に「新しい事を憶えるからだよ」とか言われてしまう。届けもの約束を忘れフロ屋へ。友達に頼まれた、テープの録音ボタンを押し忘れる。定期が切れているのに、また自動改札を通る。失敗と思ってキップを買って入れたのに、そのキップをとり忘れる。夕方ラーメンを食べた事を忘れ、夜もラーメンを食べる。

「川沿いはいつもそこにあった」10/10

 川沿いはいつもそこにあった。さあ、行こう、散歩道はいつだって家からつながっている。

 そろそろ僕の飼っていた犬も登場する。と言っても、家の裏口から。畑を通り抜け、海近くの川沿いへ。それはいつもの散歩のコース。夕暮れ近くがいいね。そう海の突堤の先のあたり。

 ガリガリガリこれは何の音? それはあの犬が、川下へ下りる時、石でできた川横のほら、ななめに続いている石垣を、爪でブレーキをかけながら滑り下りてゆく音さ。川沿いを走ろうよ。俺もお前もそこが好きだ。

 ひと休みの場所はもちろん、橋の下。橋の下って不思議な所さ。魚も休んでいるんだ。川のそばに座って、小石をポチョンと投げてみる。それを目で追うおまえ。ポチョン。落ちたね。

 ほら、行こう。もうすぐ海だ。知ってますか、こっからは全速力タイムなんです。綱なんて、放しちゃいますよ。行っておいで。僕も走るけど、ゆっくり歩いたりもする。お前は全速力で行ったり来たり。いいのさ、それで。

 5時15分? きっと5時15分。夕焼け時間のここの今。テトラポットによりかかり、僕は夕焼けに胸をさらしてみる。今日もあの子のことばかり。(ふぅー) おいで、俺んちの犬。俺はあの子が好きなんだよ。なぁ、俺んちの犬。もう帰ろう。

 そんなある日の学校帰り、ふと空を見ると、信じられないような金色の夕暮れ空だった。僕は走って家に帰り、犬をつれて、川の土手沿いに来た。あんな空はいまだってきのうだって、その日しか見た事がない。雲は低く、金色でうねっていた。そこにいた人はみんな空を見ていた。

 犬はよくわかんなかったみたいだけど、ちゃんと一緒に見た。もちろんむりやり顔を空に向けてね。でもそれでよかった。それ以来、川沿いは少し金色になった。10/9 雨だったね。一本ある傘を大谷夫婦に貸したら、しばらくしてまた戻って来た。「青木さん、出かけらんないじゃん、傘買って来たよ」ちょっとお茶を飲んで、外にでると雨があがっていた。でもなんだか、傘持って歩く。「なんで傘持ってのかね?」「いやぁ、せっかく買ったし」可笑しかったです。 

「誰もいない万年筆屋」10/11

 なぜかはわからない。僕は小学校の頃から、万年筆とボールペンが大好きだった。

 「リーダーズ・ダイジェスト」という小さな本を兄貴が毎月、買っていて、そのページの中に、いっぱい万年筆の広告があり、なんだか全部憶えてしまって、いつも欲しいなと思っていた。

 外国製の渋いメーカーのやつは、なかなか普通の文房具屋さんには置いていない。でも、商店街に一軒だけ、ちいさな店だったけど、その専門店があった。ショーケースの中には、ズラリと並んでいる。欲しい外国のメーカーのやつだってなんだってある。なんだってあるんだけど、店にはいつも誰もいない。お客さんも見た事がない。

 学校の帰り道、僕はいつもその店の前を通る。おもうぞんぶん、眺めてみたい。広告に載っていた本物がそこにはあるのだ。でも、店に入る一歩が踏み出せない。誰もいない不思議な店だ。

 でも、お金があれば、恐いものなしだ。僕は買うものを決めて、店に入った。「ごめんください! !」するとテレビの音が聞こえる部屋の奥から、一人のおばさんが出て来た。「いらっしゃいませ」・・もう白髪の目立つ、そのおばさんは、とってもしゃれたメガネをかけていた。会った瞬間、目がとってもキレイだと思った。

 「あのう、CROSSのボールペン、見せてもらえますか?」「これね・・」書き味を試す。さすがだ。僕は迷わず買った。「ちょっと、いろいろ見ていってもいいですか?」「いいですよ」奥ではテレビの音が聞こえている。ほんとはずっと見ていたいのだけれど、なんだか不思議な空気が流れるので、5分位でやめて店を出た。

 それから、ちょくちょく僕はその誰もいない万年筆屋さんに寄った。いつも奥から出て来る、目のきれいなおばさん。とっても優しくて、なんでも気楽に答えてくれて、高い万年筆も見せてくれた。替えのインク、ひとつ買うだけなのに、かならず何か一本見せてもらった。

 高校を卒業するまでに、何本か、僕はその店で、他ではちょっとないメーカーのボールペンや万年筆を買った。見るだけじやなくて、ちゃんと一本買いに行く時の幸せ。あのおばさんの前で、こう言うのだ。「これ、ください」そのあと、インクを選ぶときの嬉しいことといったら・・。

 きっと、僕はあのおばさんの目にホレていたのだ。目にホレるって、 変な話・・。何度会っても、すいこまれるような気持ちがした。万年筆とどう関係があるのかはわからない。でも、そのショーケースの持っているときめきと、とってもそっくり。

 その万年筆屋さんは、商店街の中でも地味だった。いつも開いていて、いつも誰もいない店だった。でも、僕は商店街のどの店よりも、静かなその店にひきつけられていた。

10/10 今日はとっても悲しい気持ち。コーラを飲んでも、おいしくない。ずっと大通りを自転車で行く。昼間会った、柴犬は僕にじゃれまくっていた。犬の事を思い出したのだ。

「300円ショップはなぜかセルロイドの匂い」10/12

 僕らの行くところといったら、本屋におもちゃ屋、そしてとりあえずデパートの上の階にある、あの300円均一の売り場には行かなくっちゃね。

 そこはなんだか、いつもセルロイドの匂い。さぁ、僕らがやって来ました。まさに常連。それも、ちゃんと買うお客さん。今で言う、100円ショップと似てるよね。まあ、ほとんど同じなんだけど、ちがう事は、お客さんがほとんどいなかったって事。

 それでも、そこは僕らにとっては心休まる天国のようなところ。だって買えるんだぜ。そうそう、僕らは今、小学3年生。300円なら、なんとかね。おっ、新作が出ているよ。僕らの厳しい目がチェックをする。うーん。

 どこからかやって来た、その物たち。どれも山積みにされている。額付きのカガミ、お風呂用品、アイデア物、バンビの温度計、えんぴつセット、壁掛けの飾り物・・。どれを見ても、なんか変。でもどれも、ちょっとだけ高そう。

 ときどきは本当に買った。でかい物。小さい物。「アオキィー、なに買ったんだよぅー」「えぇ、これ? 見る?」それは得体の知れない置物。「バカじゃねえの」「いいんだよ、300円だし。でもよく見ろよ、これ5000円くれぇするぜ」

 300円均一の店は、行く度に、なにかしら僕らを驚かしてくれた。どこからかやって来る、山積みの品物。欲しい物なら必ず買った。変なキーホルダーとかね。学校の友達が言う「それ、どこで買ったの?」「え、ヒミツ。」そう秘密は300円均一の店にあった。

 そこは、いつもなんだかセルロイドの匂い。山積みの品物の中をゆっくりと歩く。ほら、また届いている。10/11 もう、持っている黒のジーンズのすべてのヒザが切れてしまった。思えば、最後に買ったのも3年くらい前、でもジーンズって意外と高いんだよね。とても今のこの財布の中身では買えそうにない。それでもヒザの穴は毎日大きくなってゆく。高円寺ひざ割れ男、登場。

「けんの山」10/13

 それは「剣の山」なのか「県の山」なのか正式な名前は知らない。30分もあれば登れてしまう小さな山だ。でも、僕にとっては、家から一番近くて、何度も何度も登った山だ。幼稚園、小学、中学、高校、それから・・。

 僕の家の裏には、川や海はあったけど、山はなかった。だから「山に行くぞ、けんの山に」と言われると、僕の中の山のイメージがそこに集中した。まるで、おとぎ話の中に出て来る山の名前のように「けんのやま」が思えた。ざくざくざく、山道を登ってゆく。そんなに高くはなかったけれど、ちゃんと頂上もあった。

 あれは小学2年のとき、クラスで一番仲のよかった友達と、けんの山に行く約束をした。もちろん二人きりで。僕は山がどんなに良かったか、何度も友達に言っていた。「あおきくんとけんの山にいっていい?」友達のお母さんはいいと言ったが、お父さんはダメと言った。そして僕と友達はけんの山にゆくことがひとつの夢になった。

 その友達はスポーツが得意で、僕は絵が得意だった。いつも帰り道は、スポーツがいいか、絵がいいかの話ばかりしていた。どんなに話しても、ぶつかるだけだった。友達の住んでいたコンクリートアパートの階段に二人で座り、スポーツか絵かのテーマを話し合った。来る日も来る日も。

 そして僕らはどんどん仲が悪くなった。仲が悪くなったけど、いつも一緒には帰る。けんの山に行く事をお父さんが許してくれて、とうとう行く日も決まった。でも僕らはスポーツと絵のことで、決別していた時だった。

 今日はけんの山に行くぞという日、友達のお母さんが「親戚の家に行かないか?」と言い出した。友達はアパートの階段のところに座り、さんざん悩んで、こう言ったのだ。「あおきくんとけんの山に行く!」

 僕らは歩いて行った。虫カゴを肩から下げて。僕らは登って行った、二人きりでわくわくしながら。友達は言う「虫はどこにいるの?」僕が前に来たときは、いろいろ捕まえたのに、その日はあまりとれなかった。虫カゴはまだ空。でも、途中でセミのぬけがらを見つけ、すごく嬉しかった。僕も友達も。

 帰り、友達はちょっと淋しそうだった。もっと期待していたのだった。アパートの玄関の所で僕はきいた。「やっぱり親戚の家に行った方がよかった?」「ううん、セミのぬけがらもあったし、あおきくんと、けんの山にいってよかった」そう言って、虫カゴの中をのぞいた。

 さて、僕らのスポーツと絵の話は、それからもずっと続いた。やがて冬。アノラック姿の僕ら。そのまま、雪は渦を巻いて、また春になり、友達は陸上の選手になった。学年で一番早かった。僕は図工がずっと得意だった。何枚も賞状をもらった。もう僕らは言い合うことはなかった。でもけんの山に行ったことは僕も友達も忘れなかっただろう。

 僕はそれからも、何度もけんの山に登った。いつも思い出すのは、小学2年の時のこと。同じ山道を登ってゆく。それから頂上と思われる、平たい所に出るのだ。一年、一年、僕は自分をつれて行った。何度もおとぎ話の一ページ目に戻るように。またここから、下りていこう。

 高校を卒業して、東京に出てくるちょっと前、僕はバイクに乗り、思い出のけんの山に登りに行った。変わってない山道。しかし、途中で、なんと立ち入り禁止の柵が作ってあるではないか。そんなバカな。何が立ち入り禁止だ。ここは僕の大事な思い出の場所なのだ。そんなものは無視してその先を歩いて行くと、僕はがく然とした。全部、山が崩され、平たい平地になっていたのだ。大きなショベルカーがそこにあった。

 いったい何を作ろうって言うんだろう。けんの山の「け」をとってどうするんだ? 僕の思い出はショベルカーで、崩されてしまった。そのショベルカーは自分が何をしたのか、わかっていない。町なかにあった、たったひとつの山だったのに。ね。10/12 最近11時45分になると、ついつい布団のところに行ってしまう。押し入れから布団を出してる途中で、眠ってしまうのだ。それが三日くらい続いた。まともに布団は敷かれてはいない。今日も11時45分が恐い。まるで、ドラキュラが夜明けに箱に戻るみたいな気持ち。ああ、ドラキュラの気持ちはこんなだったかも。

「国道8号線」10/14

 泣くんだったら、国道8号線だね。そこは車ばっかりだし、本町通りからも少し遠い。泣きたいときは、ただ歩くのがいい。ときどきは人とすれちがったって、その人はただ(ああ、泣いてるんだな)って思うだけだ。

 国道8号線はいい。あのでかいトラックは遠くまでゆく。何か知らない物語の向こうから来て、また向こうへ走ってゆく。俺の悲しさなんて知らないさ。でもそのくらいでちょうどいい。おまえもどこかに行くんだし、俺だってどこかにゆく。

 国道8号線はいい。ちょっと横に入れば、そこにはハスの葉っぱの田んぼ? がある。座ろうぜ、ほら何か、いるよ。カエルってばかだよ。あはは。なにがぷうーだ。ハスの葉っぱって元気だよ。俺はあの緑が好きだ。あの緑になりたいな。

 国道8号線はいい。雨の日と、アノラックと、6時過ぎのテールランプと、鼻水が似合っている。歩道橋を長靴で登ろうよ。かばんの中のビニールの縄跳び、ポケットの中のすっぱいキャンディ。そこらでするオシッコ。ラーメン屋の丸時計。さあ、もう帰ろうか。

 またいつもの道に戻って来る。橋を渡れば、もう俺の家も近い。歩き疲れたよ。今日は晴れ、今日は雨、今日は泣きべっその日。もう、俺の家も近い。10/13 ここ一週間、なんだか犬と、気が合っちゃっている。どの犬もとてもいとしい。みんなはどう? 吠えてる犬もいとしい。「犬にボリュームはない」そんな言葉を考えました。そうそう今日スピッツを見た。真っ白でね、ふわふわで、懐かしかった。じっと見ちゃった。飼い主いたけど。

「Kの中の卓球男」10/15

 僕は中学生の時、卓球に燃え狂った。まるで、梶原一騎の原作のマンガのように、日々ドラマチックだった。もちろんクラブは卓球部。

 僕らのとき、新潟の上越地区はなぜか全国のトップレベルだった。個人でも一位、二位と、強いやつがいて、僕らもその影響か、卓球部はパワー全開だった。たぶん異常な盛り上がりかただったと思う。僕らの中学もそこそこ強かった。柏崎第一中学校。エールはこうだ。「いっちゅーーーーーう、ファイト、オゥ、ファイト、オゥ、ファイト、オゥ、アリガトウゴザイマシタ」

 朝は早くから、学校に行って、朝練の鬼だった。朝7時よりもっと早く練習したかった。これは内緒の話だけど、体育用具室の小さな窓のカギを開けておいて、学校に朝6時ごろ来て、忍びこんで、練習した事もあった。ドキドキしたよ。本当。

 柏崎には、第六中まであった。今思うと、学校に「第〜中」って付けるなんて最低だよね。僕らは第一中だったので、第〜中という数字にコンプレックスはなかった。意外とユニフォームもオシャレだったんだよね。都会っ子ではないけれど、町なかっ子だった。それに強かったしね。「おぃ、一中のやつらだぜ・・」

 僕が中一で卓球部に入ったとき、先輩が特製の青のジャージのジャンパーを着ていた。その胸のところに7cmくらいのKの文字が入っていて、そのKの文字の中に、スマッシュを決める卓球男が、フェルトで縫い付けられていた。その卓球男はオレンジ色。それを発見したとき、まずこう思ったのだ(カッコイイー)

 そんなセンスのいいユニフォームジャンパーは見た事がなかった。それは僕ら一中卓球部の誇りだった。町なか中学のカッコヨサだった。(俺もあのジャンパーが欲しいよ) 僕はまだ一年で卓球部の補欠。早く、レギュラーになって、あのジャンパーを着たいな。Kの中の卓球男をこの胸に付けたいよ。

 町の真ん中にあったスポーツ用品屋さん。そこは僕ら一中の特約店でもあった。学校の部活帰り、何人もの友達と、迷わずそのスポーツ用品店に入る。店の中、行く先はバラバラ、そばにいってなんだかんだって聞くのが楽しかったな。その店には、50才くらいのおばさんの店長さんがいて、僕らの話をいろいろ聞いて応援してくれた。

 そのおばさんの店長さんは、とっても優しかった。部活でどんなに疲れても、そのおばさんに会うと元気が出た。試合の前と後は必ず、報告した。「俺ら一中、がんばったんだけど、三位だったよ」そのおばさんの店長さんは、先輩の先輩のことまでよーく知っていた。「一中の剣道部はね、むかーしから、強かったんだよー」昔って、いったい、いつのことだろう。

 やがて、僕らもレギュラーになるときが来た。地区予選、そして本大会と大事な試合ばかり。そして僕らは、あのKの文字の付いた、ユニフォームジャンパーのことを思い出していた。先輩に話をきくと、もう3年くらい前に、いつものスポーツ店で特別注文で作って、その時レギュラーだったみんなに配ったと言う。

 二年になり、レギュラーになった僕らはどうしても欲しくて、いつものスポーツ店にききにいった。するとあのおばさんが言う「ああ、あれね、あれ私がひとつひとつ全部作ったのよ。でももう、型紙もなくなっちゃったから、できないねぇ」「えー!!」

 「どうしても、どうしても、あのジャンパーを着て、試合に出たいんだけど、なんとかならないかなぁ」「うーん、じゃあ、見本を一枚持ってきてくれたら、私が作ってあげるよ」僕らは先輩のところに行って、なんとかジャンパーを借りた。その先輩たった一人が、一年の時、レギュラーになって、Kの卓球男のジャンパーをもらっていたのだ。

 おばさんは言う。「そうそうこれこれ、でもすこし時間はかかるよ。ぜーんぶ、作り直しだからね」大事な試合まで、たしかあと10日くらいだった。「じゃあ、なんとか作っておくよ」「よろしく、お願いします」そして何度がたずねるとまだだよって言う。試合の前日に僕らはジャンパーを受け取りにいった。

 「出来てるよ」おばさんは店の奥から、ジャンパーを抱えて来た。(やったぁー。これこれ、ちゃんとKの文字の中にオレンジ色の卓球スマッシュ男が入っている) 俺達は感動した。そしておばさんが言った。「おばさん、きのう徹夜しちゃったよ。試合明日でしょ、がんばってね」おばさんが言うには、あのKの文字の中に人を入れるのは、とっても難しかった作業らしい。

 さて、僕らはその最高のジャンパーを着て、試合に望んだ。絶対、勝てると思った。Kのイニシャルの中の卓球スマッシュ男ジャンパー。「よおーし、一本!!」俺達はまるで、劇画マンガのようにドラマチックに勝っていった。10/14今日、友達と車で善福寺公園に行って来ました。友達のライブリハのつきあいで。ひーさびさに、夕暮れまで、野ッパラに寝て、空とか眺めてました。そのあと、「国道8号線」を書きました。

「公会堂の岩山、異次元トンネル」10/16

 トンネルを抜けると、そこはひょうたん池だった。

 と言っても、5メートル位のね。「公会堂」と呼ばれる、近所にあった建物の敷地に、なぜか岩山があり、てっぺんまでトンネルで抜けられた。もちろんそんなに、長くはない。100歩も歩けばもう、てっぺんのひょうたん池に着いた。

 本町通りの外れにあった、その公会堂はなぜか、ローマ建築のような立派な柱が、ドーンと入り口に5本くらい立っていた。建物も立派だった。おまけに、その大きな人工と思われる岩山。その下には、これまた立派な人工の池が作られていた。たぶんその岩山のてっぺんから、滝のように、水が流れて来る予定だったのだろう。しかし普段は僕らの、野生児ごっこに利用されていた。ま・る・で・猿山のように。

 そこにあった、ひっそりとした20メートル位のトンネル。岩山の中を抜けてゆくのだ。まるで、タイムトンネルのよう。あの光りの向こうには、きっと何かある。うー、まぶしい。ここはどこだ、 いつの時代? ここはいつもの、ひょうたん池さ。

 すべてがおおげさで、リアルな建築の中で、そのひょうたん池だけが、ずっこけだった。なぜ、こんなところにひょうたん池が。その昔、ローマの貴族たちは、ひょうたん池を愛したのか。トンネルを抜けると、あるなんて、変すぎる。

 でもね、そのひょうたん池は、プラモデルやおもちゃの船を浮かべるには、最適な場所だった。そのひょうたん池のまわりで、僕らは熱中した、バックグランドミュージック付きで、戦艦大和がゆく。でかいでかい大和が、ひょうたん池を・・。そして水面ギリギリの僕の顔。

 岩山の忍者ごっこも最高だった。俺達は全員、猿飛佐助のよう。そして公会堂は謎のタイムトンネル付き。昼でも真ん中には蛍光灯が付いていた。どこからかしみてくる、天井からの水滴の水。ああ、あの光りの向こうには、何かある。そう、そこはずっこけひょうたん池。

 僕は、そのトンネルの中を歩く度に、異次元に行くような錯角をおぼえた。どんなに、岩山の猿飛佐助になっていても、そこを通る度に、気持ちがクラクラした。ゆっくりゆっくり歩くのだ。水滴が落ちる音がする、ポタンポタンポタン・・ひぇー。

 ひょうたん池のあるてっぺんからは、町も見えたし、海だってよーく見えた。そのてっぺんから下に降りれる、細くて、危ない鉄階段があったなぁ。公会堂は変な所だった。今でいう、アトラクションの世界だった。

 そのトンネルを友達と一緒に抜けるとき、かならず変な声を出した。それはすべてエコー付き。よく叫んだりもした。足音も響いた。そして、ひょうたん池の所にいれば、友達が変な顔をして、トンネルを走って抜けて来る。「青ちゃーん、出たー」何が出たって言うんだろう。一緒についてゆくと、「わっ」とか言う。バカナ、バカナ、遊び。

 僕は不思議に思ってはいなかった。そこにははじめから、ローマの柱が並び立っていた。僕は不思議に思ってはいなかった。なぜ、ここに大きな人工の岩山があるのかなんて。すべてはじめから、そこにあった。あのトンネルもあのひょうたん池も。

 その公会堂のローマ風の柱は今もある。あの岩山もトンネルも今もある。ただ惜しいことに、トンネルを抜けた向こうのひょうたん池はカナシイカナ、セメント池になってしまった。そこだけが、違っている。10/15 今日はいろいろあった。渋谷に行ったり、ファミリー・レストランのはしごをしたり。ビール飲んだり。コーヒー飲んだり、味噌汁すすったりと。なんか食べ歩きツァーみたい。それでもまだ、友人は僕に言う「青木さん、お腹のほうは・・」おいおい、ついさっき食べたのは、いったい何だったんだ。そんな一日でした。

「メガネのおやじとスポーツセンター」10/17

 さて僕らが小学5年の頃、天国がもうひとつ増えた。それはそれは立派なスポーツセンターだ。そこにはなんでもあった。卓球台だって、温水プールだって。

 「おぇ、スポーツセンターに行こうぜ」・・ああ「スポーツセンター」と言う言葉の響きの新鮮さ。まるで、新しい人生の始まりのようだ。俺達は坂道を抜け、自転車で乗り付ける。でかいよ、ほんとに。卓球台のあるフロアにゆく。まだ新しいニスの匂い。トランポリン男が、向こうで跳ね上がっている。パシャーン、バシャーン。

 「さあ、やるか」ひと汗をかいたなら、一階の休憩室へゆく。並んでいるジュースの自動販売機。ひろいよ。高校生なんかもみんないた。飲むのは、もちろんコーラだぜ。タオルなんか、首に巻いてね。大きな窓から入る光がまぶしいよ。新しい土曜日の午後。最高だね。

 中学に入る頃には、僕らにとってスポーツセンターは、夜の必殺卓球練習場になっていた。そこに、たしか火曜と木曜に、メガネをかけたおやじが卓球場にやって来て、俺達に、こう言うのだ「勝負しようぜ。」

 そのおやじはブカブカの白い短パンをはいていた。シューズはもちろん卓球シューズ。ラケットはシェークハンド。そしてお得意の言葉はいつも「よし、来い!」だ。汗をかいてくると、黒ぶちの(サイドは銀)メガネが下がってくる。そして、持ち上げながらまた言うのだ。「よし、来い!」

 俺達はみんな、そのおやじにあきれていた。 この渋い卓球熱中少年団の秘密練習の夜に、いつもいつもやって来て、毎回、相手をしてくれって言う。そしていつも負けるくせに「なかなかやるねぇ」とか言う。おまけに「今度は木曜日に来るから」とか言い残してゆく。俺達はよく、そのおやじの真似をして遊んだ。

 スポーツセンターはたしか9時に終わった。丸時計を気にしながら、俺達は卓球に集中した。トランポリンの男はいつもいつも、跳ねていた。そして9時、友達にきくのだ「明日も来る?」「おう、もちろん」

 そして次の夜も、俺達は卓球場に現われる。燃える、燃える卓球の鬼。そんな時、しばらくすると、ギィーと扉が開いて、タオルを首にした、あのメガネのおやじも必ず現われるのだ。「勝負しようぜ・・」

 今、思い出せば、あのおやじさんは、ほんとに真剣だった。ときどきは素晴らしいスマッシュが決まった。(ちょっとフォームは変だったけど・・) 今、思い出せば、卓球の鬼だった。 10/16 帰ってくると、入り口の洗濯機の上に黒白の猫がいる。初めて。最近、僕にニャアニャアと鳴いて来るし、なんか用でもあるの? と優しく、手を伸ばしてみると、ヒャアーとか言って、爪を立てる。猫って難しいね。

「いくたよろずに「じゃっ」と言おう」10/18

 社会科の時間に先生が、腕組みをしながら、僕らに小学校の頃、よくこう言った。

 「おめえら、知ってっけぇ、ほら、すぐそこに、あんねかてぇ、いくたよろずの墓。いくたよろずてやのおー、百姓一揆のときの有名な人だでがぁ。よーくの、おぼえとがんとのぉ。」

 生田万の墓が、小学校のすぐ隣にあった。墓といっても、ただ、道ばたに、石が立ってて、そこに生田万と彫られているだけだ。よーく見ないとわからない。でも立て看板があり、そこにながなが何か書いてあった。僕らはいつもそこを通り、グランドに行ったり、野球場に行ったり。そしてそれが生田万の墓だと知るまで、6年かかった。

 「おぇ、先生がさぁー、よく言ってたさぁー、いくたよろずっちゃー、ここのことっけのぉー? へえー、ほんとだっやぁ、生田万って、書いてあってがあー」やっと先生の話と場所が一致した。

 生田万は国学者で、天保の飢饉の時、大塩平八郎の乱に影響され、越後柏崎で同志と乱を起こしたが、敗死したという。僕は社会科の授業のとき、大塩平八郎の乱や、一揆の話になぜか、こころ奪われた。かっこいいというより、俺もやりそうだなっとか勝手に思っていた。どう言うか、波長が合うというか。

 新潟県のヒーローと言えば、まずジャイアイト馬場とかが浮かんでくるけど、生田万も僕の中で、目立たないながらも、ヒーローになった。友達と一緒に、その前を通る。ほとんどは忘れてしまうけれど、目に止まったときは、軽く心で「じゃ!」と言った。だって、こんなに学校の近くにあるのに、みんな、ほとんど気付かないんだもの。

 町なかにあった、いろんな歴史的な物。僕はこっそり全部好きだった。立て看板を読んでは、目をつぶりイメージした。友達は「何やってんだよー」っていつも言う。そして僕はかるく手を、ひたいナナメにして、「じゃ!」って言って去る。

 どうしても、それは「じゃ!」でなくてはならない。「じゃあ」では知り合いみたいだし、「では」では生意気そうだし、やっぱり「じゃ!」が一番、あいさつに似合っている。だって現代っ子だもん。

 柏崎に帰ると、もちろんいろいろと歩く。あっちに行ったりこっちに行ったり。そのコースの途中、学校のそばも通る。特別、前に立って、拝んだりすることはないが、あの日のように僕は、いつも、いくたよろずに「じゃ!」って言う。10/17 寒い。緑亀もとうとう冬眠してしまった。19日のグッドマンは秋の歌いっぱい歌おうと思っているのに、これじゃ冬じゃないか。そうそう19日は千田佳生(ペダルスチールギター)も出る事になりました。楽しみ。 

「野外ステージのラッパの天使」10/19

 野外ステージの入り口には、ラッパの天使がいた。僕らはその下を通り、部活のシゴキをした。丸い芝生を先輩の号令でねずみのように走って回る。ちょっと向こうではカップルが寝転んでいる。ステージではお姉さんたちが並んで、ミュージックダンスの練習。僕らは泣きそうになりながら、また行ったり来たり。

 野外ステージはいろんな響き。町じゅうに貼られた、ロックコンサートの手書きのポスター。年一回のプロレスの特設リング。原発反対集会。それらのポスターの右下には野外ステージの文字。野外ステージはいろんな響き。

 でもほとんどの毎日は、そこはのんびりとした丸い芝生の寝転び場だった。ギターを持った男が架空のコンサートをやっている。それは、あの日の僕のこと。やってくる散歩の犬。やってくるカップル。やってくるどこかの小学生。やってくるの運動部のシゴキ野郎たち。丸い芝生はちょっとナナメに傾斜していた。そこは、いつもうたたねのベット。

 野外ステージは海のそばにあった。ステージの屋根のふちはスカイブルーに塗られていた。そして、壁はクリーム色。そうそう一度僕は学校の昼休み、屋根の上に登って降りられなくなった。始まる午後の授業。野外ステージ、一人ぼっち。いや、ラッパの天使もいたから、二人ぼっちか。僕は屋根の上を行ったり来たり。覚悟をきめて飛び下りたあの午後、もうすっかり授業は始まっていた。

 野外ステージは海のそばにあった。ステージの屋根のふちはスカイブルーに塗られていた。そして、壁はクリーム色・・。あけっぴろげの空、寝転び天国。眠たいまぶたに映る、オレンジやグリーン。潮の香りとかすかな波の音。夏の午後のここらあたりに、ぐっすりと眠りに落ちてる僕がいる。

 入り口にあるラッパの天使は、2メートル位の台の上にあり、僕らはいつも見上げていた。見上げると、天使は、どんな日も空に向かってラッパを吹いていた。僕達が忘れても、僕達が思い出しても。10/18 吉野屋の牛丼はここ1・2年のあいだに、うまくなったような気がするんだけど、僕だけ? ここ何日間か、ついつい食べてしまっている。吉野屋には、何があるんだろう? 何度も飽きた、牛丼なのに。不思議だ。

「半畳の部屋」10/20

 僕は紙に書いて、そっと授業中、前の机のあいつに渡した。「おい、なんだよこれ?」「これが俺の部屋の完成図だよ。」

 それは、押し入れを利用した、僕の考えた半畳の部屋だった。(半畳と言っても、足の半分は押し入れに入るので、もうちょっと広いのだが・・) 自分の勉強部屋を持っていなかった僕は、部屋の一部を利用して、自分のスペースを作る計画をした。中途半端な仕切りの付いた、押し入れがちょうどあったのだ。

 僕の考えた半畳の部屋、それは、パイロットの機長室のイメージ。回りを取り囲むように、ラジオやテープレコーダーがある。多目的に使えるテーブル。もちろん、勉強机でもあったし、その下に足を伸ばせば、横にもなれる。半畳の部屋、素晴らしき私の天国。

 休み時間、友達は、僕の書いた部屋の図を見て質問をする。「これ、何?」こまかすぎて、よくわからないって言う。僕はいちいち説明する。それは完璧な説明だ。物から物への手順の流れ、そこにあって欲しいものがそこにある完璧さ。僕はその半畳の部屋の完成図を、授業中書き続け、前の席のあいつに渡した。「できたよ・・」そうそうこれは中2のときの話。

 その完成図には、これから買う予定のラジオとかも、もう書かれていた。すべてが、そろっているわけではなかった。しかし着々と部屋作りはすすめられていった。明りにはこだわったね、ななめから照る感じがカッコイイんだ。あと、教科書、ノート置き場。右の壁はもちろん、本棚になっていた。鉛筆立て、カセット置き場、すべて使いやすいように並べた。半畳の部屋、素晴らしき私の基地。

 僕はその完成図を、喜んで、こっそり、秘密に、みんなに見せたので、意外と学年で話題になった。「青木、おめえ、半畳の部屋に住んでんだってぇ」「よく知ってるねぇ、すげぇカッコイイんだよー」

 半畳の部屋は、ほぼ出来上がり、僕は家に帰るとそこで勉強した。カチャ、テープレコーダーのプレイボタンを押す。岡林信康のテープ。押し入れの中は音が反響していいわぁ。お気に入りのペン立て、お気に入りのシャーペン。お気に入りの時計、なんでも手が届く。嬉しい。あとは、あのスペースにソニーのラジオが来るだけだ。

 それからしばらくして、僕はソニーのラジオを予定どおり買って、そのスペースに置いた。ピッタリだ。だって測って買ったからね。音が鳴る。オールナイトニッポンのテーマ。♪チャラチャ・・。僕の半畳の部屋は完成した。パイロットもこういう気分なんだろうか? 僕は友達を呼んだ。そして友達は、僕の半畳の部屋を見て、こう言った。

 「ホントだったんだぁー」

 そして半年くらいたったころ、兄きが東京に行き、僕は部屋をもらった。さらば、半畳の部屋。さらば、僕の楽園・・。今だって、あの半畳の部屋にいつだって座りたい。明りをつけ、カセットを出し、プレイを押し、小さなカガミをチラッと見て、それから・・10/19 今日は荻窪グッドマンライブ。山下、千田、青木。いろんな組み合わせのセッションをする。千ちゃんは山下に会えて嬉しそう。ステージの二人、千ちゃん「久しぶりだなぁー」とか言う。まるで今逢ったみたいに。次回は12/14です。次は新曲また持っていこう。

「パン屋のアンチャン、そしてあの学校前の店」10/21

 自転車で走ってゆく。低い町並み、ひろーい空、電柱と電線。あれが僕の小学校。さびしいグランド。自転車はもっとゆく。あれが僕の高校。学校前の店はひろい通りの向こう。外にはり出したベンチ、集まっている、学生達。

 僕が高校生のとき、お昼と言えば、前の店屋にゆくか、出売りで来ていたパン屋さんで買うかだった。入学した頃のお昼休み、一階の廊下にゆくと、みんなが集まっていた。(すごい人だ、何だろう?) 後ろから、のぞくと、それは白い帽子を後ろ前にかぶっているパン屋さん。木の箱の中にはパン。すごいスピードで売れてゆく。木の箱は、重ねられていた。

 「へぇー、パン屋が来るんだぁ」僕も買いたかったが、その人の渦の中に入ってゆく勇気がなかった。ちょっとそのへんの店にはないようなパンだった。今で言うところの惣菜パン。お腹の減った僕らにはたまらない匂いだった。あっというまに、全部売り切れてしまう。

 パンを買いそびれた僕らは、学校前の店にゆく。そこには、おばさんがいた。カップラーメン。店の中のテーブル。テーブルの上のお湯ポット。壁に貼られているポスター。そして椅子に座る。それは学校前の店の風景。それはひとつの完成した館。

 昼休み、学校に来るパン屋さん。そのうち僕もなんとかパンを買えるようになっていった。さっと行って、さっと買う。それがコツだった。もういくらになるかまで計算して、小銭を手のひらに持っておくのだ。さっとお金を渡し、さっと引き上げる。これがカッコイイ。パン屋のアンチャンも手際がいい。スピード感あふれるパン買いの日々。

 ある午後のこと、学校前の店にいつものように行くと、奥から、おばさんではなく、あのパン屋のアンチャンが出てきた。「あれぇー」あの、パン屋のアンチャンはここから来ていたのだ。なんだか変な気分。そのアンチャンの頬はいつも赤い。「どうもぅ」

 学校の昼休み、三年間、買い続けた、惣菜パン。ああ、サラダミニロールはうまかったなぁ。そして午後は、学校前の店での生活。あの店でしか売っていなかった、ジャンボサイダー。透明なビン。よーく飲んだなぁ、いつもいつも。冷えたジュースケースの右端にサイダーはあった。メーカーは不明。でもOKさ。

 そこはいつもカップラーメンの匂い。コーラのポスター。テーブルのさびた足。置かれている少年マンガ。きっとどこでも一緒だろう。高校野球の甲子園大会のように、いつだって主役は、学校のみんなだ。店の入り口は大きく開いている。でもそこは出口ではない。みんなテーブルに座ったまま、カップラーメンをすすりながら、そのまま消えてしまう。

 自転車は走ってゆく、おととしの夏、去年の春。いつだって走ってゆく。学校のそばを通り、また学校前の店が見えて来る。小学校の前、中学校の前、そこで集まっているみんな達。それから高校の前へ。おや、今日は誰もいない。久しぶりに入ってみよう。

 「ごめんください」「はーい」奥から出てきたのは、あの時のパン屋のアンチャンだ。あれから何年たっただろう。今でも頬が赤い。僕はパンをひとつふたつ買った。ジュースケースにはまだ、あのサイダーがあった。でもどうしても、「これっ」て言えなかった。

 僕はなにげなく、店に入り、なにげなく店を出た。あのアンチャンはすべてがわかっているようだった。憶えているのか。いやそんなばかな。あれから10年はたっている。店を出て、僕はパンをかじりながら自転車で走っていった。ああ、あのサイダーが飲みたかったよ。10/20 今日また安服を買った。1000円。今月にはいって三枚目だ。ことしは服をずっと買わなかった。と言うか、気に入ったやつがなかったのだ。でもいっきに、三枚増。値段は全部1000円。嬉しい。きっと新服で会えるでしょう。いーい感じです。

「アベック道路」10/22

 その海岸沿いに続く、少し広い道路は、アベック道路と呼ばれていた。アベック道路からはいつだって、砂浜に降りれた。誰だって、僕だって、犬コロだって。

 海岸通りはアベック道路。学校ではそれが正式名だった。アベックって今、死語なのかなぁ。それは男女のカップルのこと。でも海岸はそんなにロマンチックではなかったと思う。夏以外はほとんど誰もいない。ほら、さびしい小学生が、歩いている。あれは小学校の頃の僕。「さあ、砂浜に降りようよ、今日はボロボロなんだ」

 なんだかそれは、不思議な、僕だけの帰り道のルートだった。小学校、中学校、高校と全部、海岸通りのそばにあり、その道をずっと歩いてゆくと、家に着けた。そんな一本道。ひとりぼっちになりたいときは、ここを歩いた。海岸沿い、アベック道路。晴れの日もよし、雨の日もよし。

 ときどきは波が大荒れに荒れた。今では信じられないけれど、一度、道路まで大きな波がきて、ずぶぬれになった。海岸まで30メートルはあったのに。後にも先にも、そんな大きな波は一度きり。ざぶーん。ギャー。ホントの話。でも荒れてる海に会いたい日はあった。吹き付ける潮風、目なんて開けられなくても。

 ときどきはとっても良く晴れていた。佐渡ヶ島がはっきりと海の向こうに見えた。海岸沿い、右にうすーく映っているのは、観音岬と、その先にあった灯台。左を振り向けば、深緑の米山。その昔、芭蕉さんもここを歩いたはず。そして僕だって歩く。

 砂浜の波打ち際には、いろんな物語りが到着する。もちろん貝もある。貝を探して歩いてゆく帰り道。小学生の僕、中学生の僕、高校生の僕、そして今の僕。足跡があるよ。ふーん、あれはいつの僕だろう?

 悩みの日。学校から海岸沿いのアベック道路へ、そして僕の家まで歩く間に、ひとつの答えがいつも浮かんだ。そこには海があった。砂浜とボートがあった。傘を砂にくってたてて歩く。長靴が砂に埋まって、歩きにくい。でも、そんなことはいい、今日は悩みの日。

 海岸沿いのアベック道路にゆくと、今でも、僕の胸の中の小さなプラスチックの歯車が、かみあってカタカタと回り出す。頬の隣には大きな海。ここを歩くカップルになんてめったに会わない。そんなアベック道路。僕の足は自然と歩き出す。ただ行って帰って来るのだ。海がただそこにあるように。10/21 朝、モーニング。千田との別れ、もう喋ることも無くなってしまう。疲れてしまった。そのあと、夜中まで横になってしまう。でも新曲がまた生まれそう。

「レコード店・名曲堂」10/23

 月末になると、僕はいつも嬉しかった。ポケットの中には名曲堂の注文票。小遣いはみんなレコードになった。かまうもんか、歌ライフいずベター。

 いったい何枚、僕はレコードを注文したんだろう。中2から高3までに、5・60枚くらいかなぁ。いつもいつも、同じお姉さんに注文した。「あのー、すいません」と言っただけで、お姉さんは注文帳を開いた。

 中学の時、同級生と一緒になって集めたのは、日本のマイナーフォークのレコード。お互いに違うレコードを月末に一枚づつ注文して、僕らはそろえていった。毎月の注文、ポケットの中の一枚の紙、日付けが待ちどうしい。

 レコードの届く日、雨が降ろうと雪が降ろうと、学校帰り、名曲堂に飛んでいった。「あのー、すいません」「あーあーあー、届いてますよ」そして、注文棚から、お姉さんはレコードを持って来てくれる。ああ、何度も雑誌で見た、本物のでかいジャケット。

 そして家に帰って、針を落として聞く。じーん。体の震える思い。そして次の日の朝、学校の友達に報告。「すげえ、よかったよ!!」時には、たまーに、いまひとつのときもある。「うーん、すっげぇ、渋いアルバムかも」そんなアルバムは良く聞こえるまで、何度も聞いた。だって、いいレコードになって欲しいもの。

 高校になっても、まだ月末のレコード注文は続いた。僕はボブ・ディランにのめり込んでて、全アルバムを一枚一枚、注文していった。嵐のような、感動の月末の日々。そしてひと月、そのアルバムを聞き続けるのだ。ポケットの中には、注文票があった。あのお姉さんってきれいな字を書くんだよね。「ボブ・ディラン グレーテストヒット第二集」・・

 結局、東京に出て来る寸前まで、僕は名曲堂で注文し続けた。店員さんはもちろん何人かいたけれど、いつもあのお姉さんにだった。最後の一枚はなんだったかなぁ。僕はレコードの事ばかりに集中してて、他の話はしなかった。「どうも」の一言もいわないで、こっちに来てしまった。

 そして時々の帰郷。もうレコードを買う機会はなかったけど、時々はギターの弦とか買いに名曲堂に寄った。他の店員さんはもういなくなったけれど、あのお姉さんは店の奥で、いつも座っていた。何年もたって、すっかり変わったように自分では思っているのに、何か買おうとすると、あのお姉さんが来てくれた。

 (やっぱり、わかっているのかなぁ・・あったりまえだよ、アオキくん。) 10/22 今日は部屋の片付け「ちょっくら〜」書くようになってから、部屋が片付かない。どんどん荒れてゆく。これではやがて・・ 今、部屋片付けの大計画ねってます。夜、池袋に歌いにいって、酔ったおじさんとなぜか話す。俺は社長だって言う。ホントに社長さんみたい。

「神社の木は、まだ残っている」10/24

 いったいどのくらい、記憶は記憶してるんだろう。その神社にある松の木に、僕はよーく登った。

 誰にだってきっと、よく遊んだ神社がある。そこにある、いろんな変なもの。それはそこにあって、だだの印のようなもの。かくれんぼの時に、隠れるものでしか、ないのかもしれない。

 石碑があった。狛犬がいた。水の飲める四角い石。木の境内。それはいつも椅子がわり。組み立てオモチャの部品が見える。そばの手すりはまるで鉄棒。さい銭箱の向こうの格子のガラス戸。その向こうに見えたいろんなもの。よーくのぞいた。もちろん誰もいないのに、誰もいないってことの不思議。

 僕らの町内の子供らは、その神社が遊び場だった。適当な公園があったなら、公園だったかもしれない。神社で遊ぶって、今考えると限界があったように思う。それでも、そこから生まれた子供のように、走りまわって遊んだ。

 そう、そこに生えていた松の木に、僕らはよく登った。木の曲がりようが、その松の木の名前。「あの木」それは「あの木」なのだ。小さかった頃、松の木はみんな大きかった。いつもいつも見上げていた。よく、プロペラ飛行機が引っ掛かった。その度にえっちら登ったものさ。あの木に、この木に。

 一年に何回かは、神社の中にも、もちろん入った。だいたい町内の子供会は、その神社の中でやっていた。神社の中って好きだったなぁ。ちょっと恐くてね。絵とかあったし。でも、そう言うところがとても好きだった。石碑も近くにあった。今思っても、そこはこわーい。でも、好きだった場所。

 その神社で、もう遊ばなくなっても、犬の散歩で神社にはいつも寄った。境内に犬とふたりで座る幸せ。しばらくはぼーとして、僕は小さかった頃を思い出す。そこからはいつも松の木が見えて、一本一本が、生き物のように(?)僕に語りかけて来た。「おれたちは日本の伝統的な松だぜ・・」

 東京に出てきて10年くらいは、僕はその松の木の一本一本をよく憶えていた。神社に散歩に行くと、その一本一本が、懐かしい、ふるーい親戚のおじさんのように思えた。その木の曲がり方の個性。「ああ、おまえかぁ・・」そうやって話しかけたりもしていた。「こんなに低かったっけなぁ」

 何年たっても何年たっても、その松の木の曲がり方は変わらなかった。登りやすかった松、登りにくかった松。松おじさん達は、一人ひとりそのままの姿で、僕を待っててくれた。神社、石碑、そして松の木。そのトライアングル。

 しばらくはよーく松の木の形を憶えていたのに、今では、すっかり忘れてしまった。あんなに懐かしかった、松おじさん達は、ただの曲がった松の木になった。そこに登ったことだけは憶えている。でもただそれだけだ。

 はじめからある神社、そして、はじめからある松の木。そうだ、手で触ってみよう。たしかに僕のいた声がする。今は、そうやって思い出すしかない。10/23 帰りの電車の中、信じられないほど、きちんとした人を見る。身なりはラフで、ヒゲとかはやしているんだけれど、することが細かい。座り方から、バックの持ち方から、我道流なのだ。隣の人と触れるのも、我慢できないらしい。見ていて、僕は気が遠くなった。

「あの海っ子はどこに行った」10/25

 僕の、住んでた町の近くには三つの海岸があった。鯨波海岸は一番大きくて有名。次が番神海岸、ここは岩だらけのワイルドな海岸。そして柏崎海岸。そこは地味な砂浜の海。そこが僕の海岸。

 最後に海水パンツをはいたのは、どのくらい前だろう。まずプールで泳ぐ機会がない。夏、海に行ってもいいんだけれど、意外と水が冷たくて、そのステップが乗り越えられない。ああ、僕はホントに海っ子だったんだろうか・・

 夏まえになると、僕らは初泳ぎにいつも出かけた。6月の終わり頃だと思う。ちょっと暑くて、天気のいい日「今日は泳ぐぜ」と言って、友達三人くらいで、自転車で海に行った。まだ、波はすこし荒れている。裸になると寒い。風が冷たい。握りこぶしを作り、鳥肌をたてて、海に向かうのだ。ザブーン。「ひぇー、つめてー」

 たいがいは僕が先に行った。なにしろ言い出しっぺだからね。友達にまず自分がファイトを見せないと。頬を震わしながら帰って来る。「オ ヨ イ ダ ゼ」・・友達はまだ、嫌そーな顔。腹のへんが震えてくる。何やってんだ俺。

 まだ確かに、泳ぐには絶対早い。でも初泳ぎの記録は誰にも渡せない。なかなか渋っていた友達は、急に、バスタオルを肩から外すと、「ワー!」と叫びながら、海に向かってゆく。バシャーン。ギャオー。トワー。友達は海を泳ぎまくる。そして、砂浜にかけ戻って来て、今度は、突堤のところから、キックジャンプして、海に飛び込む。ジョワーン。ビィヨー。

 見ていた僕らも、負けてはいない。すぐさま、波に向かって突進する。約8分の、海岸暴れまくりショー。そして限界。「モウ、イコウゼ」なぜか着替えている時は、空手家になってしまう。スタイル付きの雄叫び。本当に寒いのだ。

 そして僕らはまだ寒い海岸を、自転車で後にする。あったかーい物なんて、どこにも売っていない。震える声のまま、「じゃあ、明日な」と言って別れる。おーい、さむいよー。

 次の日、学校で僕らは会う。昨日の出来事が、まるでなかったかのように。「おう・・」他の友達にも、昨日の海初泳ぎを自慢してみる。その友達は言う「さむくなかった?」初泳ぎの事はそんなに学年で話題になることはなかった。でも、僕らはどーしても、初泳ぎしないと、気がすまなかった。

 そんな海っ子だったのに、最近は水が冷たいって言う。誰が? 僕が・・。ある夏、久しぶりに一人で、同じ海岸に、泳ぎに行った。ボートの横に服を丸めて、しろっちい肌で、少し泳いでは、すぐに上がってきた。写真でも撮るか。10/24 今日、図書館で「人の名前が出てこなくなったら読む本」というのを借りて来る。そう昨日も、傘をコンビニに忘れて来たし、明日が、バイト代が入る日なのに、間違えて、朝からウキウキしてるし・・もう、日々、戦いです。

「祭りに行くなら、ひとり」10/26

 お祭り。祭りに行くならひとりがいいね。その日はやっぱり、舞い上がってしまうほど、特別に嬉しかったもの。

 僕の町では、6月に「えんま市」という大きなお祭りと、7月下旬に盆踊りの流しがあった。本町通りに、どこまでも続く出店。たこやき屋、綿菓子、りんご飴、お面、焼きとうもろこし、十徳ナイフ、そして見せ物小屋・・他。その風景は、どこの町でも変わらないだろう。

 町なかに見えてくる、並び立つ出店。人のざわめき。ゆっくりと音を立てて、擦りながら歩いてゆくサンダルの音。手をつないでいる、浴衣姿の小さな女の子。帰り道のみんなだ。僕は、お祭りに向かって歩いてゆく。ポケットのこずかいを確かめながら。今年は、割れちゃった水のみ鳥を買わなくっちゃね。

 なぜだろう、お祭りの日は、友達と行った記憶があまりない。いつも一人で、ふらふらと歩いていた気がする。見知らぬ人達、そのやり慣れたしぐさ。こっそりと眺める。何か買うってわけじゃなく、そっとのぞいては感動して、去ってゆく。それはどうしても、そっとのぞかなくてはいけない。だから、ひとりがいい。

 ほんと小さかった頃は、お金もなかったし、おやじ、おふくろと行って、ねだりながら何か買ってもらった。そうそう、りんご飴。りんご飴って今、なくなったなぁ。あれ、歯にくっ付くと、詰めたものがとれちゃうんだよね。失敗すると。それが原因かなぁ。僕は、味よりも何よりも、あの色と重さが好きだった。あれを買ってもらわないと、気がすまなかった。

 盆踊りのときもなんだか、うきうきして出かけた。聞こえてくるのは、小さい頃からよく聞いた民謡。今で言うカラオケに合わせて、歌っているのだ。それは何とも、遠くから聞こえてくる、薄っぺらい音。歌い、こぶしをまわす声が、空一杯、雲よりもずっと低く響いていた。(やってる、やってるよ)

 いつも、その歌う小さなステージのところの前に座って、次々に歌い変わる、人をながめていた。その歌に合わせて、みんなが盆踊りを踊るのだ。マイクを次の人に手渡ししてゆく。男の人、おじさん、それから、おばあさんへ・・。

 僕の町では、米山甚句・三階節・佐渡おけさ・と踊りがあった。レコードも出ていて、おふくろがよく家でかけていた。そのレコードの中で歌っているのは、女性で、僕の耳にはその歌声で残っていたし、どこにいっても、その女性の歌が流れていた。歌がうまかった。子供ごころにもそれはわかった。

 毎年、その盆踊りの時のステージに、その人は来ていた。もうおばあさんだった。ある時、おふくろが、「ほら、いつもレコードできいている人だよ」って教えてくれた。声量のあるおじさんが、ひとしきり歌ったあと、おじさんはマイクをおばあさんに渡す。そして歌い始めるのだ。まったくレコードと同じ声。まるで、レコードを聞いてるみたい。

 どう言葉で、伝えたらいいのかわからないほど、僕はその時、おばあさんの歌がうまいと思った。どんなにその前のおじさんが、声量があって、こぶしが効いてても、ぜんぜんちがう味わいがあった。その時、その瞬間、本町通りの盆踊りが、ひとつの波の中にあるように、きれいにととのったように見えたのを憶えている。その不思議さ・・

 そんなふうに、僕はお祭りを、そっとながめているのが好きだった。祭りには、ひとりで行くのがいいね。それは今も変わらない。10/25 今日、初めてはいったラーメン屋で、ふつうの辛さというのを注文したら、ひどく辛かった。となりのおやじが「辛め」って注文したら、まっかっかのラーメンが出て来た。普通のチェーン店なのに・・。となりのおやじは一口ごとに、「ウーッ」といって唸る。そんなに、からいの? 解る気がしました。

「パンク直しの自転車屋さん」10/27

 つい先日、自転車のパンクを修理した。それもはじめての所で。

 「じゃあ、そこに座ってて!」「はい」そして小さな木の椅子に座る。流れてゆく、沈黙の時間。それは今も昔も変わらない。いつまでたっても、僕は小学生のまま。自転車屋のおじさんは、いつまでも年上のおじさん。

 それにしても、古い自転車屋さんて、なぜ油の染みたくろーいイメージなんだろう。どこもそうだ。あふれかえっている自転車の部品。そして真ん中に逆さにされてる修理中の自転車。僕の田舎の家の近くにも、そんな自転車屋さんがあった。

 小2くらいから、自転車に乗り始めて、どこか故障する度に、その自転車さんに持っていった。「あーっ」おんぼろの僕の自転車を見て、おじさんはため息をつく。それでも、数年に一度は新しい自転車を買った。もちろんピカピカだ。もちろん嬉しい。「大事に乗るんだぞ」そう言われても、どう大事に乗っていいか解らない。

 そういえば、僕の自転車の乗り方はむちゃくちゃだった。砂ぼこり舞う土道の、高い坂から、いっきに降りて来て、大転倒。おお擦り傷。オキシドールの地獄を味わった事もある。ちょっと広い道だと、いつもいつも、手放しで乗っていた。そのうち、転び方も上手くなっていった。

 おっと、これは自転車の話ではなくて、自転車屋さんの話だった。新しい自転車が届く。おじさんは「大事に乗るんだぞ」っていう。でも、いろんな所をぶつけては、持ってゆく。「あーっ」でもおじさんは、それ以上なにも言わない。だまって、黙々と、直してくれるのだ。むりやり、部品を曲げる時のおじさんの顔。「よし、出来た!」

 みんなもそうだろうけど、あの、修理をしているのを眺めている時間って、奇妙で不思議だ。学校の保健室で、腕を足のケガの手当てをされてるのを見ているのとも違う。自分は全く痛くないのに、自転車の痛みを感じるよね。特に、タイヤのチューブが、出てくると、まるで、手術でもされているような気分になってしまう。

 そしてまた、スタンドをパーンと上げて、直った自転車に乗って、ボロボロの日々に向かった。また、坂道から、転げ落ちるバカ小学生。ほんと懲りた事がない。田舎にいた頃、僕にとって、自転車は、なくてはならないものだった。点から点へ、超スピードで急いだ。どんな細い道も、ガタガタの砂利道も、ちょっとした階段も、なんだってどこだって自転車で抜けて行った。

 ホント、今思うと、それはむちゃくちゃ。でもきっと、どこの子供も一緒だろう。もちろん、田舎に帰ったときは、やっぱり自転車に乗り、自転車屋さんの前を通って、町へ出かける。もう、おじいさんになった、あのおじさんが、店の前に立っている。ふるぼけたシーンが、ゆっくり過ぎてゆく。

 僕は思う。自転車屋さんはまるで、ちぎれそうな映画のフィルムを、ちゃんとつないで、なんども映写機にかけてくれたようなものだなって。10/26 今月のちょっくら〜も、あと少し。なんだか、ひと月、ひと月が、充実しきってて、大変です。田舎の思い出の場所といっても、みんなそんなには、変わらないような、気がしています。これは不思議な事です。

「畑にあった、いちぢくの木の下で」10/28

 そのいちぢくの木の下には、座るのにちょうどいい細長いコンクリートが、縦にいくつか置かれてあった。

 そこは、僕の家の裏にあった、ちいさな畑。夕方、おふくろが、その畑で、何かしら作っていた。そのそばで僕は、小さかった頃、いつもコンクリートの椅子に座り、実が成る頃は、お腹が減ればいちぢくを食べた。

 その細長いコンクリートはちょうど、ななめに重ねて立て掛けられていて、座って、足をぶらぶらさせるのに、ちょうど良かった。ほんとに最高の椅子。後ろには枝があって、よっかかれた。夕方ひまになると、僕はその椅子に座りに行った。夏には蝉が鳴いて、蚊や、ぶよにさされる。それでもそこが良かった。

 いちぢくの葉っぱって、なんだかザラザラしてて、形も、大きな手みたいだし、不思議な存在感があるよね。たまたまそこに、いちぢくの木があって、たまたまそこにコンクリートの椅子があったのか、それはわからない。ただ僕の記憶の限りの、小さかった頃から、僕はそこに座っていた。そこから、僕の記憶は始まっている。

 いぢぢくの葉に囲まれながら、僕は何をしてたんだろう? まったく記憶がない。おふくろと何か話していたのかな。それとも、ただ畑仕事を見てたのかな。思い出せない。目の前になすが成っていた。日が暮れると、かあちゃんと家に戻り、そして夕ごはん。

 そうだ、思い出した。僕は小学3年まで、学校の友達があまりいなかったのだ。まったく地味な子供だった。それが、小3でなぜか、元気が爆発してしまう。学校帰りは友達とバカの限りをつくした。クラスいちのはしゃぎっ子になった。たぶん、いちぢくの木に毎日座っていたのは、その前の事だろう。

 小3からの僕は、まったく変わっていない。友達は僕のことを「青ちゃん!」と呼んだ。その響きの中の僕は今のままだ。ずっと毎日、遊んで、腕くんで考えて、走ったり、そこらで寝たり、あっというまに、いつも夕暮れになって、ちくしょうと思いながら、眠たくなってしまう。

 僕が、あのいちぢくの木の下に座っていた時、だんだんと日が暮れてゆくあいだじゅう、僕はじっとしていた。お腹がへれば、いちぢくを食べた。そのコンクリートの椅子が、世界中のどこよりも好きだったのだ。10/27 昨日、外から帰って来る時、頭がひさびさに割れそうなくらい(オーバーか?)痛かった。一年を通して、ほとんど病気なしなので、これはやばいなって思う。これは凄い熱が出てるなと、家に帰ってから、体温計ではかれば、36.1度。あれぇー。なんにもできずに横になって、5時間熟睡。心は思う。(目が覚めた時、頭痛が直っているといいのに)と・・。そして目が覚めると、すっかり直っていたのでした。あれぇー。

「田舎帰り、そしていつもの川沿いの道」10/29

 また今年もここを歩く。夜中の川沿い、もちろん誰もいない。坂道のうえ、家の明りがポツポツ見えている。それは、いつも同じ景色。すぐそばに星でも出ているよう。今は夏、川は静かでゆっくりだ。

 こうして、田舎まで、はるばる帰ってくると、まるで新幹線は、心の向こうとこちらを通すチューブみたいさ。シンプルによくわかるんだ、いつも気になっている事が。こうして何年、同じ気持ちでここを歩いているんだろうね。

 まるで、ここから見える景色は、宮沢賢治の童話のよう。ずっと歩いてそしてまた帰って来るだけだけど、何か、物語りの中を歩いているような気がする。挿し絵はいつも、川沿いと夜空。

 去年の夏も、ここにきて、同じことを考えていた。おととしの夏だってそうだ。ありったけの嬉しかった事、淋しかった事を思い巡りながら、川沿いにそって、僕はこの風景に報告しながら、ひとつづつ平たくする。

 ゆっくりと回るコマが、まるで止まったように見えてくるように、シンプルな一行になったら、胸のノートにあたらしく書いてみる。川沿いをちょっと先まで、行って帰ってきて、僕はもう一回、川のそばに座る。

 ゆらゆらと揺れる、家の明かり。ながーい時間と、またここの場所。僕はそっと、一行だけを胸にもって、静かな夜道を戻ってゆく。新しいマッチ箱ひとつの気持ちになって。10/28 友達に誘われ、阿佐ヶ谷ジャズストリートのイベントに出かける。商店街の店には、それぞれ貼り紙がしてあった。ジャズ&和菓子、ジャズ&洋品。ジャズ&金物。あれれ? でも途中で、逆に読む事を知る。和菓子&ジャズ。これならわかるなぁ。

「勉強堂」10/30

 さて、勉強堂の話をする時が来た。それは家から一番近くて、何でも置いてあった小さなお店。ホント何でも置いたあったのだ。そして僕はなんでもそこでツケで買った。

 ポケットに10円もなくたって、勉強堂に行けば、ツケで買えた。一応は、文房具を買うという約束だった。月末になると玄関に届けられる請求書。僕はいつも、その金額を見ては血の気が引いた。中身は(ガム・チョコ・万年筆・プラモデル・etc)と言った具合だ。また怒られるのだ。

 勉強堂は、老夫婦が二人でやっていた。おじいさんは、黒ぶちメガネをかけて、いつもハンチン帽をかぶっていた。そしてエプロン姿のおばさん。僕が通い始めた頃は、もうちょっと若かったかなぁ。おじいさんは、よいよいっと奥の部屋から、よっこらしょと腰をあげて、出てきた。

 そこには何でもあった。それに服の直しも専門だった。左のガラスケースの中には、シャンプー、ヘヤートニック、ハンドクリーム他。右の棚には、お菓子類、プラモデル他。天井には吊るされている、袋等。小さな小さなお店なのに、無いものはなかった。もちろん文房具は揃っていた。

 僕は、毎日、勉強堂まで走って行く。そこにあるものは、だいだい憶えていた。下敷きの種類。筆箱の種類。せっけんから、チョコレートまで。木の物置き台に品物を置く。その隣には、ガラスケースに入った万年筆・・。なぜかときどきは、ついつい万年筆を買ってしまった。月末に怒られる覚悟で。心はいつも(ああ、買っちゃった・・)と思う。そんなバカ買いの連続だった。

 中学時代、ヘヤリキッドやヘヤトニックも買った。僕の知ってる限り、そこにずっと置いてあったものだ。300円。それは、使い始めの試し買いってやつだ。だいたい、失敗に終わる。すごい匂い。でも懲りないで、その日の内に、他の種類のやつも買ったりした。へんな客。でも大丈夫。

 思い出せば、僕は勉強堂で、次々と無駄な物を買っていた気がする。それもぜーんぶ、月末払いのツケで。もちろん自分では払わない。おふくろには怒られたけれど、勉強堂のおじいさんとおばさんは何にも言わなかった。誰が考えても変な買い方でもね。それは僕が東京に出て来るまでの、高三まで続いた。

 そして、10年くらいして、勉強堂のメガネのおじいさんはなくなっていた。ずっと知らなくてね、ぴっくり。そのあとお店は、おばさんがひとりでやっていたけど、そのうち閉めてしまった。建て直しのされていない木の家の陽射しよけには、勉強堂と書かれていたけれど、この前帰ったら、もうサラチになっていた。

 東京に帰って来て、僕は夢を見た。サラチになった勉強堂の隣に、また勉強堂ができた夢だ。それは古い木の家のまま。さっそくお店に入った。そして出てきたのは、まだ若いいつものおばさん。わたしは妹だって言う。僕は嬉しくなって何か買おうと、選ぼうとするのだけれど、店に置いてあるものが、なにもかも全部古い品物なのだ。僕はどれを買っていいかわからなくなって、やっとの思いで、50円の赤いボールペンを二本買ったのだった。

 あの勉強堂は僕の中で、いつまでも消えてはいない。あのおじいさんもおばさんも、ずっと変わらない。知っているんだよ。家から、全速力でかけてけば、いつだってお店がそこに見えてくるってね。10/29 ちゃんと書けただろうか。勉強堂のことは、最後に書こうと思っていました。誰にでも、そんなお店があるんだろうなぁ。僕にもあってよかった。

「おいで、ワンちゃん、また海だ。」10/31

 一人よりも、ふたり。ふたりよりも、一緒のワンちゃん。

 なーんてね。でも、時には自分のわがままで、好きなところに行きたいもの。

 僕は、何かあると、いつも飼ってた犬と海っペリに出かけた。砂浜にある、堤防や、テトラポットに。でも犬のテトラポット登りは、大変そう。ツルツル、ガリガリ、ズズズズズー。

 そこは、座るにはとっても不安定。でもかまわない。犬は尾っぽを振っていたし、僕らにとっては、昔から特等席。ここへ来なくっちゃ、俺達じゃないよな。

 でっかい夕日が、友だちだなんて言わないけれど、ずっと眺めていると、何か誓いたくなってしまう。それは、小さな事。それは、大きな事。それは、中くらいの事。

 海に張り出している、突堤の先まで行って、僕は誓いの先っぽを踏んでくる。走っては行かない。ゆっくりと歩く。まるで映画「十戒」のときのモーセのように。途中、海草ですべって歩きにくい。テコテコとついて来る、ワンちゃんのおまえ。さあ、また誓いの時だ。

 やっぱりね、誓いはここでなくっちゃ。突堤の先の約束。おい、ワンちゃんよ。俺は今日から変わるよ。ホント、本当なんだ。大丈夫、ぜったい、まちがいない、これは約束だから・・。何? おまえ震えてんの?

 わかった、わかった。もうOK、OK。さあ海岸通りを、もうちょっと歩いて、大回りで家に帰ろうか。10/30 どうもひと月、ありがとうございました。田舎編は今日で、おしまいです。なにか、書き残した事も、きっとあるんだろうけど、とりあえず、満足です。ひと月まえが、遠い昔のように思えます。変な、旅。ぜひ感想等、掲示板に書いていって下さい。ひき続き、好きだった所話も募集中です。さて、来月は「はじめての東京、はじめて話30」です。('00.10/31青木)

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