青木タカオの「ちょっくら・おん・まい・でいず」  今月に戻る
過去ログ「パリ編」日記付き'02.1月

「パリ到着」1/1

 ひと眠りすれば、朝にはパリなのに、目をつぶるとどんどん思い出が湧いてくるのだった。

 あまりに、その量が多いので、まるで自分の頭が盛り上がっているようにも思えた。(パリか・・。)そうもうすぐパリに着くのだ。この旅の目的は、アジアからパリに行くことだった。その昔の人々が、そうやってフランスに着いたように僕もしてみたかったのだ。

 中国、チベット、ネパール、インド、トルコ、ヨーロッパ、バルセロナ。そしてラストのパリへ。いろんなトラブルもあったけれど、こうしてやって来られて、僕は幸せ者だ。夏の盛り、中国、西安のあの蒸し暑い街の道・・。南インド、ケーララの船旅・・。たっぷりとある思い出は、何人もの僕がいるよう。

 8時48分に着くと信じていたのに、7時48分にパリに到着して、あわてて荷物を持ってホームに降りた。こころの準備もなにもない。夏時間ということだったのだろうか。とにかくパリに着いたのだ。おもわず日本語で「うれしいー!!」を連発してしまった。駅を出ればパリ。すれ違う人もパリ。そこはみんなパリ。

 歩いてゆくとセーヌ河が見えてきて、僕は財布の中から、詩人の金子光晴の写真のコピーを出してみた。パリに来たかった理由のほとんどは彼のせいで、同じように旅をしてみたいと思ったのだ。「みっちゃん、セーヌ河だよ」さてさて、これからどんなパリがやって来るのか。

 まずは、安宿さがし。情報は地元の人の方がよく知っているので、僕はフランス語で、ポリスの人に尋ねたりしてみた。しかし発音が難しい。うまく伝わらない。あきらめて、インドで旅人に教えてもらった安宿へ向かった。その安宿には名物おばあさんがいるという。

 ホテルのレセプションに行くと、日本語で「おはよう」と言ってくれた。そして、振り返ると、目の青いおばあさんが椅子に座っていて「なんでもきいてください」と英語で僕に言った。インドで聞いていたおばあさんだ。そこはホントに古い古いホテルだった。12/31 大晦日。夜、年越しライブを終えて、富山の千田佳生が訪ねてくる。ここ毎年、千田との年越しなので、トランプをしたりしてやっと年越しの実感が出る。今日になって、やっと実感が出た。

「始まりの始まり」1/2

 「プリーズ・アスク・ミー・サム・クレッション」

 ブルーの瞳の、そのおばあさんは、ホテルのレセプションのそばで椅子に座ってた。インドにいたとき、旅人から、このホテルとおばあさんの話を聞いていたので、リアルに感じる。そのおばあさんは不思議な不思議なおばあさんなんだという。

 オシャレな服できめた、そのおばあさんは、僕の話にひとつひとつ驚いてくれていた。旅人なんていくらでも出会うだろうに、なんて素敵な人なんだろう。そのおばあさんは、パリの安いホテルを点々としているらしい。

 なんだかいい雰囲気で、その古い安ホテルに僕は決めた。部屋は三階になったのだけれど、なんとも暗い階段を登っていった。鍵をもらった部屋は、ベリーバットで、ドアの鍵もチープ、部屋もペンキの跡が目立ち、なんと窓には鍵がないのだった。

 長い長い時間と、古い古い繰り返しがここにはあるのだろう。やっと落ち着いたパリのホテルだけれど、この古さには想像を超えるものがあった。せまい階段。すれちがう旅人。ほんとにここから僕のパリ生活が始まるのかな。

 外に出てパリの街をフラフラと歩いてみた。パリにはいろんな人種の人がいるのだと知った。街角で絵を描いている人もいる。こんな姿に会いたかったのだ。ホテルにまた戻るととてもとても眠くなった。どうしてこんなに眠いのだろう。

 まだパリというお菓子をちょっとかじっただけだ。始まりの始まりはこんなものだろう。1/1 今日はトランプと将棋の一日。将棋なんて、何十年ぶりにやってみた。その駒のひとつひとつのイメージに懐かしさを感じた。変わらないものがこんなところにもあった。

「月下の一群」1/3

 なんだか、いろんなことがうまくいっていた。

 不安だった飛行機のチケットについて、バッチリ確認をしたあと、その嬉しさついでに、ガイドブックにも書いてあった「東京堂書店」に寄ってみた。

 そこは、そんなには大きくはない書店だったけれど、このパリで日本の新刊本も文庫本も売っていた。入ってみてびっくり。欲しいと思う本が何でもあるのだ。8ヶ月振りに見る、いろんな雑誌。若い女のコのグラビアが恐くて見られない・・。

 文庫本のコーナーには、いろんな詩の本が揃っていて、僕の目が丸くなるのがよくわかった。欲しいと思う本ばかりだった。長い列車移動の夜、とても読みたかった詩の本がある。そして、その中にフランス訳詩集の「月下の一群」があった。

 「月下の一群」は大正時代、堀口大學によるフランス詩の訳詩集で、たいへんに有名な本。僕はその文庫本を持ってこなくて大失敗したと思っていたのだ。しかしこの東京堂書店の目の前にその本はある。どうしていいのかわからないほど嬉しい。

 手に取って値段をみると、単純に日本円の10分の1のフランになっていた。600円が60Fに。約1500円くらいになってしまうのだった。高い。今の僕には5日分の食費だ。しかし悩むことはない。そのまま、手にとってレジに持っていった。

 帰り道、いろんなベンチに座り「月下の一群」を広げた。セーヌ河の橋の上に立って、アポリネールの「ミラボー橋」を読んでみた。

 一冊のフランス詩集を手に入れて、僕はこれ以上の幸せはなかった。これからの三ヶ月間。この一冊でなんとかなりそうだ。他は何もいらないとも思えた。1/2 富山の千田と将棋にはまってしまった。コンビニエンスストアーで買った、マグネットのペラペラな将棋の駒はどうもピンと来ない。初売りのオモチャ屋で、ちゃんとした木の将棋盤と駒を買う。駒を打つたびに音がする。この音がなくてやっぱり将棋とは言えないよなぁ。

「お金がたりない・・」1/4

 パリいちオシャレな通りと言われる、シャンゼリゼ通りを歩いていたら、急に自分のお金のことが不安になってしまった。

 だいたいの予算だけは立ててあるけれど、どのくらい余裕があるのがわからない。もしかしたら・・。

 ホテルの部屋に帰り、これから使うべきお金を計算してみた。なんと、パリでの食費が、一日300円と出てしまった。それもそれでギリギリだ。

 (お金がたりない・・) どうしてこんなに使ってしまったのか。もうちょっとバルセロナで切りつめていたら、楽だったろうに。ヨーロッパはお金がかかるなぁ。今や1Fや2Fが、僕にとって大きなお金の存在になった。あと1万円あったら、どんなに生活が楽だったろう。

 今回の旅で持ってきたお金が、今や1万円が勝負になってしまった。ヨーロッパであっというまに消えたお金。そしてこのあとの三ヶ月、これらのほとんどが、宿代で消えてしまう。トラブルひとつあったらアウトだ。なんとかやってゆけるだろうか。

 外に出て、フランスの詩集「月下の一群」を、ベンチに座って読む。パリについて書かれた詩も多く、日本にいた頃はピンと来なかったのに、旅に出て自分が変わったのか、今ではとても身近に感じられる。実際にパリに来たせいもあるだろう。

 ふと思いだしてみれば、一年前の今頃、旅に出ようかどうしようかとても悩んでいた。そして今、無事にパリに着いているじゃないか。日本に一年いたとしても、そんなには変わらなかっただろう。お金はなくなったけれど、いろいろなラッキーに感謝しよう。1/3 やっと部屋で一人になり、一日眠ってしまった。夜おきてみると、テレビで大食いのラーメン選手権をやっていた。おもわず僕もラーメンを食べに行った。

「ひとつのベンチ」1/5

 お金が足りないのは、もうわかったことなので、なるべく安く、栄養のある食事を考えた。

 菜食主義。そうだ、この旅の間でも、野菜しか食べない人と多く会った。野菜だけでも大丈夫だろう。インド・リシケシのコテッジでは西洋の旅人が、おいしそうににんじんをかじっているのを見た。(にんじんかぁ・・)

 とりあえず、八百屋にて、やさいセットのパックを買ってきた。ベットの上に並べる、たまねぎやにんじん・・。(私は菜食主義だ。菜食主義だ。と心に暗示をかけてみる。ああ、野菜ってきれいだなぁ・・)

 とにかく極力、お金のかからない生活をしてゆこう。パリの街に出かけてみる。日曜日、ルーブル美術館は無料になるので、とても嬉しい。ルーブル美術館は広すぎるので、何度でも来られて楽しめるだろう。途中のソファーに座っていると、いろんな国々の人々が通りかかり、それもまた良い。

 外に出れば、そこはセーヌ河が見えていて、また散歩をする。ポケットの中にある「月下の一群」の詩集。いたるところに座り、また本を広げる。セーヌ河沿いはいいな、のんびりとしているカップルたちが時間を作っている。

 モンパルナスの方に安い宿があると聞いたので、そのまま散歩ついでに探しに行った。あるある。二・三軒、めぼしい宿が見つかる。すぐ近くに大きなリュクサンブール公園があるので、少し寄ってみた。広い公園のどこにいってもベンチがあり、また僕は座り、ポケットから本を出してみた。

 詩の一編の中には、リュクサンブール公園をうたったものもあり、何回も読んでみた。たしかにここなのだ。今日は何回どこかに座り、本を広げただろう。僕には、パリが大きなひとつのベンチのように思えた。1/4 今日からバイトはじめ。もうちょっと休んでいたかったけれど、また今年の日々がはじまってしまった。まだ今年の誓いというものを誓っていない。と、いうかすっかり忘れている。 

「日記の毎日」1/6

 僕の一日のスケジュールと言えば、ほとんど日記を書くことだった。

 二ヶ月前、ギリシャのホテルで、ゴミと一緒に捨てられた、三ヶ月分の日記。それも旅に出た最初の頃の日記だ。毎日毎日、時間をかけ書き続けた全部イラスト入りの日記。僕はこのパリで、ひとつひとつ思い出しながら、もう一度書こうと決めてあった。

 そう心で決めてあっものの、実際に書き始めてみると、これが意外と大変な作業だった。思い出しながら書いてゆくので時間がかかる。その上にイラスト。そして昨日のパリの日記もまた書かなくてはいけないのだ。

 なんだかんだとやっていると、一日に7時間くらい日記にかかってしまう。あとは、外の散歩に出てまた帰ってくる毎日だ。これでいいのかなと思うけれど、書かなくては僕の気持ちが満足できない。しかしずっと日記を書き続けるというのも、精神的に疲れる。持久戦になる感じだ。

 今日はぜいたくをして、4.5Fもする、ミネラルウォーターを買ってしまった。どうして買ったのか自分でもわからない。ついつい手が伸びたのだ。飲んでみるとさすがにうまい。ひと口ごとに「うまい!!」と言ってしまった。そしてまた日記書きの時間が過ぎる。

 楽しみといえば、そう散歩に出かけること。遠出するというわけではない。ただ近くをひと回りしてくるだけだ。なんだか、もう他の街に移動することもないので、僕の「旅」は終わったような気がしてくる。いろんなランチのメニューが目に入ってくる。しかし眺めていると、お腹がキューンと痛くなってしまう。

 また僕はホテルに戻って、机に向かい日記を書き続けた。1/5 土曜日。そして明日は日曜。なんとなく月曜日からが今年の初めのよう。なんとか部屋を片づけようと思う。 

「オペラ座の階段」1/7

 ルーブル美術館を抜けた通りを行くと、その道の先にはオペラ座が見えていた。

 オペラ座の見えるオペラ通り。ここはなんともパリらしい道だ。オペラ座の着いたら、いつも僕はその登る階段のところに座り、そこでひと休みするのが毎日の日課になっていた。賑わいの中、のんびりするのはいい。

 このパリにいても、鳩たちは相変わらず、集まっててはエサを求めていた。鳩たちにもお国柄というものがあるのだろうか。姿の特徴を探してみるが、どうにもわからない。鳩たちはどこに行っても鳩たちなんだな。

 通りゆく人たちを眺めているのも、またあきることがなかった。パリには色んな人種の人たちがいて、不思議だ。あるときのこと、あたりじゅうに響く声で、「ワオッ!!」と叫ぶ、ふたつの声が聞こえた。気付けば僕の座るオペラ座の階段のすぐそばで、黒人の男性同士が抱き合っていた。

 ふたりには、忘れられない思い出があるのだろう。どのくらい偶然だったかはわからないが、想像は広がってくる。僕は彼らの抱きしめあう姿を見てて、それでよいと思えた。なぜ僕らはあんなふうに出来ないのだろう。喜びが時間を裂く響きを聞いた気がした。1/6 原宿、渋谷と出かける。しかし原宿は服屋が多い。多すぎる。探してる店が見つからない。あまり来たことがなかったので、前がどうだったか思いだせない。

「缶詰勝負」1/8

 ここ数日、食べても食べても、お腹が減ってしまう。

 食べると言っても、それはフランスパンと、生にんじん、そしてたまねぎだ。わかったことは満腹感と、食べた量は比例しないということ・・。

 一日の栄養分として、何が必要かを考えた結果、魚と野菜が摂れていれば、大丈夫だと結論が出た。にんじん、たまねぎを生で食べ続けるのは、やっぱり限界がある。でも、野菜はなんとか摂っておかないとならないだろう。

 大きなスーパーマーケットに行き、野菜の缶詰を目をこらして探してみた。でも、どれも値段が高い。その中で、大きくて安い4.5フランの缶詰がひとつだけあった。しかしどんな味かは、食べてみないとわからない。

 ホテルに帰って、机に置いて缶切りで開けてみる。もしこれが食べられれば、野菜の問題はなくなるだろう。スプーン一杯はとても小さいけれど、今の僕にとっては大きな一杯だ。さて勝負。缶詰勝負だ。

 酸っぱい味はピクルスだった。いろんな野菜が入っているけれど、見たことのないものもある。しかし美味しい。食べられる。バッチリだ。嬉しい。嬉しいじゃないか。

 今日いちばんのビックニュースは、何といっても、缶詰勝負に勝ったことだった。1/7 バイトが大変に忙しく、陽が昇るまえに家を出て、陽が暮れたあとまで外でバイト。体がもたない。太陽より働き者のような気が・・。そんなことはないな。

「芸術橋」1/9

 セーヌ河には数多くの橋があり、それぞれに名前を持ち味わいがある。

 一番有名なのは、なんと言っても、ポン・ヌフの橋だろう。ヌフとは9番目という事で、「9番目の橋」という名前だ。パリの橋の中でも一番古く、それでいて頑丈でデザインも洒落ている。この橋は僕もすぐ憶えた。

 そして「ミラボー橋」かな。アポリネールの詩にある橋だ。これも有名だ。まだ訪ねてはいないけれど、夕暮れにその上に立ってみたい。

 セーヌ河沿いは、散歩をするにはとてもよくて、僕も歩いていると、高い笛の音がピューピュラと聞こえてきた。それはなんとも自由さに満ちている音色で、その音色に誘われるまま探してゆくと、そばの橋から聞こえてきた。

 (あぁ・・)一瞬ため息が出るほどの、のんびりとした橋の景色がそこにはあった。その橋は木の板が敷かれ、車が通るわけではなく、みんな橋のすみに座りこんでひなたぼっこで話していた。その中に笛を幸せそうに吹いている男も見えていた。

 とてもシンプルなその橋の向こうには、そのままルーブル美術館につながっていて、またこちら側には、年代の古そうな建物がそびえ見えていた。車が通らないということは、ひとつの広場になっていて、その真ん中にはいくつもベンチが並んでいる。

 「いい橋だなぁ・・」おもわずそう声が出てしまった。そして笛吹きの音色がなんとも似合っていた。僕はこんな場所を探していたんだ。そのベンチに座り、いつものように「月下の一群」の詩集を出して読んでみる。落ち着いて読めてとてもいい。

 ホテルに帰り、さっきの木の橋について調べてみた。名前は「ポン・デ・ザール」(Pont des Arts)で、直訳で「芸術橋」。ルーブル美術館につながっているからだろうか。そして200年もそこにあるという。

 「芸術橋」・・。そこには何かがありそうだ。僕はそこに毎日寄ろうと決めた。1/8 友達へのプレゼントをあげるのだけれど、包むものがない。意外とプレゼント用の袋とか、ありそうでない。日々やっぱり袋は大事にとっておくべきだなぁ。文具店で買った包装紙の筒を包んでくれた包装紙が良かったので、その包装紙をまた特別にもらってくる。変でした。 

「アフリカの人達」1/10

 うす暗い階段をのぼり、部屋に入ってゆく。このホテルはどのくらい古いのか、ちょっとわからないくらいに古いホテルだ。

 部屋のドアのしまりももうひとつだったけれど、宿代が安いので泊まっていた。すれちがうツーリストもみんな節約旅行をしているのがよくわかった。でも自分の部屋があるのは、休息の場所であり、冬の駅のベンチで寝るよりはずっといい。

 僕の泊まっていた部屋は三階で、ある夜、下の部屋から音量は小さかったがアフリカのタイコの音が聞こえてきた。しかしここはホテルなので、いくら小さいといってもよくその音はよく響いていた。

 夕方、街に散歩に出たとき、アフリカの太鼓叩きの大道芸人たちがいたが、たぶんその一団だろう。彼らもまた、安いこのホテルに宿をとっているのだ。

 もう夜の10時は回ろうとしているが、タイコの音はどんどんその大きくなっていった。ひとりではない。何人かでセッションをしている様子だ。昼間は昼間で、ずっと外でセッションをしているだろうに・・。何か練習でもしているのだろうか・・。いや・・。

 僕には、その音がホントに太鼓のセッションを楽しんでいるように聞こえた。それは、このパリに来て、アフリカの地を懐かしんでいるようだ。

 そろそろホテルを変えようとは思っている。でも、こんな夜中のセッションを聞けるのも、このホテルならではのことだろう。1/9 大変に疲れていて、バイトから帰ってきて、すぐに眠ってしまった。そして目が覚めると、もう朝・・。と思ったら、まだ夜の10時だった。でも何していいかわからず、また眠ってしまった。そして今度こそ朝。

「ホテルの引越」1/11

 生野菜を持ち込んだりしているうちに、ホテルのフロントの兄さんにすっかり目を付けられてしまった。

 ある時は、窓に干してある靴を見つけられて怒られたし、どうも調子が悪い。ここは安いけれど、そろそろ宿を変えようと思う。

 学生街のカルチェラタンの方の宿を見つけに行く。二ヶ月以上の滞在が出来て、安くていい部屋・・。なかなかないとは思ったけれど、意外にあって、すぐに決めてしまった。

 前の宿の部屋の二倍の広さで8畳くらい。ダブルベットに、机が二つもあり、洋服ダンスや洗面所もある。これで64F(約1600円)なのだ。それもドアの鍵もホントのホテル風(?)で、受付を通らずに部屋に行けるし、まるでアパートを借りるようだ。

 いい。最高に近い。いままでの生活は何だったんだろう。それにお金は二ヶ月後でよいと言う。それにはびっくりした。人のよさそうなおばさんが、とても仲良くなれそうな気がした。引越も終わり、部屋に落ち着いてみると、これからのパリライフがバラ色に思えてきてしまった。

 落ち着いたところで、みんなにエアメールを出そうと、ポストオフィスに出かけた。そして机に座り、4時間かけてみんなに手紙を書く。このホテルの住所をつけて・・。もしかしたら手紙が来るかもしれない。

 また、いつものようにフランスパンを買って来て、そしてバターのつもりのマーガリン。そして何品かの食べ物。広い机に並べて、フォークとスプーンで、ちゃんと食事をしてみる。まるで、ここはひとつのレストランのようだ。いや、ここもひとつのレストラン。

 充実の日々がやって来たようだった。1/10 今週はバイトが大変に忙しく、朝早くから歩いていたら、とうとう木曜日の夜には足が棒のようになってしまった。よく考えれば、そうなるのは当然だろう。バイトだと思うからこれだけもってるのだ。

「サクレクール寺院」1/12

 道に迷いながら、パリ中心から少し離れたモンマルトルの方へ歩いていった。

 パリの道は斜めになっていて、すぐ道に迷ってしまう。しかし、サクレクール寺院は丘の上にあり、なんとか無事に到着した。サクレクール寺院は、白いモスクの様な寺院で、青い空にとてもはえて美しい。その下は芝生の広場になっていて、みんな寝転んで休んでいた。

 いったいここはどこなんだろうと思えるほど、幸せの時間が流れていた。そうだ、アジアの旅のときは、こうして毎日のように寝転んで休んでいたのだ。ヨーロッパの旅はせわしなく続いた。見上げると白いサクレクール寺院は、世界で一番美しい寺院のように見えた。

 通りの方へ戻ると、そこにはスーパーマーケットや、衣料のバーゲンをやってる店もあり、とても庶民的な場所だった。ここにくるとパリの中心が、オモチャのように思えてくる。モンマルトルには生活の匂いが満ちていた。

 ふと寄った、ディスカウントストアーには、信じがたいほど安い値札が付けられていて、びっくりしてしまった。電池もラジオも何もかも安い。これはいい。ぜひここを利用しよう。特に僕のこころをひいたのが、携帯用のラジオだ。(ああ・・、ラジオのある暮らしかぁ・・)

 そんな小さな夢をみながら、また道を行くと、そこは大きな歓楽街になっていた。大きい。ホントに大きい。声を次々に声を掛けられてしまう。久し振りに日本語でも、声を掛けられた。呼び込みの日本語でも、なんだか今はとても懐かしい。

 通りの向こうには小さな風車が見えていて、それが有名な「ムーラン・ルージュ」であることを知った。1/11 マンションのインタホーンを押したのだけれど、待っても返事がない。返事がないので、隣りに行ってると、さっきの部屋のドアが、あいておじいさんが出てきて、何か怒っている。呼ばれてみると、インタホーンが鳴ったとき、俺は手が離せなかったのだという。そしてやっと出てみると、答えてくれない。どうしたと思ってドアをあければ誰もいない、まるでイタズラじゃないか!! 激怒している。もうまったく。

「ルーブル美術館」1/13

 お金はなくても、楽しみはそれなりにあるものだ。

 パリのルーブル美術館は日曜日には自由に開放されていた。

 東京にいたらそれは、考えられないことだ。本来、絵も多くの人々に観てもらってこそ、価値があるのかもしれない。とにかくお金のない僕にとって、日曜日はルーブル美術館の一日となった。

 ルーブル美術館はほんとうに広い。歩いても歩いても、まだ続く展示の部屋。一日あっても見きれるというものでもないので、何度も来て、楽しもう。

 ルーブル美術館といえば、「モナリザ」そして「ミロのヴィーナス」「サモトラケのニケ」の彫刻・・。数えればきりがない。その中でも、初めて訪れたときに誰でもがその立ち姿に引き込まれてしまうのは、「ミロのヴィーナス」だろう。

 続く廊下の途中に、その専用の展示室があるのだけれど、何度見ても、異空間の時間に包まれてしまう。不思議な像だ。遠くの方からも、小さく見えたりして、本物を見る実感があった。

 とにかく日曜日になると無料になるので、何度も来られると思うと、あせることもなくのんびりとできる。モナリザのある大きな展示室の入口のソファーに座っていると、いろんな国の人達がやって来る。インド人が妙に懐かしい。

 パリに来ている自由旅行者が、日曜日にルーブル美術館に来ている可能性は高い。ひと月でも、日曜日おきにここに座っていれば、会える可能性は高いだろう。実際、僕は毎週ここに座っているのだ。1/12 昨日の今日も同じライブハウスに、友達を聞きにゆく。ライブハウスの人が「君はえらい!!」と言っていた。そんなものかなぁ。

「夜のパリ」1/14

 僕のいた4月、パリの夜は遅くまで明るい。

 よく考えたら、二週間もパリにいて、一度も夜、散歩に出かけたことがなかった。まず驚いたのは、人々の表情が生き生きとしていることだ。ビストロと呼ばれる大衆レストランはどこもいっぱいで、カフェで人々はのんびりと話している。

 スーパーマーケット近くの細い路地のところで、大道芸人のシャンソンの歌うたいのカップルを見た。街角にいてあまりシャンソンを聴く機会はなかったのだけれど、なんて品のある歌なんだろう。その二人は有名な歌を歌っているらしくて、サビのところではみんな口ずさんでいた。

 (いいじゃないか・・) シャンソンはとても愛されているように思えた。またどんどん歩いてゆくと、いたるところで大道芸をやっていた。みんな50人くらい集めている。一曲ごとの拍手。歌い手たちもやりがいがあるだろうなぁ。

 路地を抜けてセーヌ河沿いに出ると、空が今まさに暮れようとしていた。深いブルー。こんなにも空はきれいになものだったのか。やがて付き始める街灯たち。夜になって初めてわかることだけれど、街の街灯は灯りがついてみて、その良さ見えてきた。ただ単に、明るくするだけではなくて、とても芸術的でオシャレなのだ。

 セーヌ河の橋の下を、遊覧船のパトー・ムーシュが、光りのかたまりになって通り過ぎてゆく。夜のパリがこんなに美しいとは思わなかった。ひょいと振り返ると、まんまるのお月さまがノートルダム寺院の斜め上に出ていた。まるで絵葉書だった。1/13 今、墨田区はバーゲンセール中だ。ちょっと友達と寄り道をしたら、次々と安い店が現れ、袋いっぱいに服を買ってしまった。ものすごく安いのだ。友達はあきれていた。いつもそうだと思ったのかなぁ。

「ライトを探して20キロ」1/15

 ホテルの部屋の明かりが暗かったので、コンセント付のライトが欲しいと思った。

 さて、出かけてみよう。何軒も何軒も安そうな店で、ライトを探して歩いてみたけれど、どうもいいヤツがない。結局、またモンマルトルの安売り店のある方まで歩いてしまった。

 先日、見かけた安売り店に入ると、買いたいと思っていた、小さなラジオがあり、ついつい買ってしまった。49F(約1250円) と安い。(あーあ、買っちゃったよ) 大出費になったけれど、何か暮らしが変わりそうな予感がする。

 ライトの方はなかなか見つからず、とうとうノミの市の方まで行ってしまった。ノミの市に店を出している人達は、ひと癖もふた癖もありそうだった。それぞれの店で勝手にいろんな音楽を流しているのがいい。背広が10F(250円)とは安かった。

 そしてやっとのこと、思いどおりのライトを見つけることができた。たぶん工事用だろう。コードが5Mもあり、バッチリだ。39F。今日は大出費の一日となった。よく歩いたなぁ。

 ホテルの部屋に着いて、ライトを付け、ラジオを鳴らしてみる。ラジオからはいろんな音楽が聞こえてくる。インド音楽が泣きそうなくらい懐かしい。あぁ、シャンソンが聴きたいな。ダイヤルを合わせてシャンソンを探してみる。でもアメリカンはロックは似合わない。

 部屋から聞こえる歌はいい。そしてついつい手は、アメリカンロックを探してしまう・・。

 今日はいっぱい歩いた。20km以上は歩いただろう。ライトとラジオのある暮らしがやって来た。1/14 成人の日。かと言って、どこにでかけるわけではないのだけれど。僕が20才のとき、外で歌っていて、晴れ着の女性がお金を置いていった。人生はいろいろだと感じた。

「橋の笛吹き」1/16

 いつも行くポン・デ・ザールの木の橋には、ひとりの笛吹きのおじさんがいた。

 もともとこの橋を見つけたのも、その笛の音に誘われたからだ。小さな笛をピロピローと吹いているそのおじさんは、髭をたくわえていて、黒い服にサングラスをかけていた。

 その笛の音はとても豊かな感情がこもっていて、聞いていると引き込まれてしまう。実際どのくらいうまいのかはわからないが、僕はたいへんにうまいと思えた。それは自由の響きを持っていた。

 そばには絵描きのおじさんもいて、とても仲がいい様子だった。絵描きのおじさんはお酒好きで、鼻が赤い。いつもいるので同じ絵を描いているような気もするが・・。変なおじさんだ。

 それでもこのポン・デ・ザールの木の橋ではとても似合っていた。車が通らないせいもあり、みんな日向ぼっこをして、笛の音も気持ちがいい。

 ある夕方。ひとりの若い女性が、橋の上でフルートを吹いていた。僕はあまり気にとめずに本を読んでいたら、急に感情のあるいい音になったので、見てみると、いつも笛吹きのおじさんが一曲教えるように、彼女に吹いていたのだった。(ああ、何か教えてるんだな・・)

 大道芸の人が大道芸の人に、何か教えるなんて珍しいなぁとか思っていると、おじさんは、笛を片手に手を振り橋から行ってしまった。それはさわやかさと優しさに満ちて見えた。

 笛吹きのおじさんは実際、うまいのか、どうなのか僕にはわからなかった。しかしその笛の音はみんなを振り向かせていた。1/15 今日バイトで、突然にお客さんが家からいなくなって困ってしまった。しばらく待っていると、インスタントコーヒーの瓶をふたつ抱えてきて、僕に飲んでくださいと言う。見たことのないインスタントコーヒーなので、たぶんもらいものだろう。ありがとうと受け取ったものの、僕もふたを開ける勇気がなく、どうしようかなと思う。誰かにあげようかな。

「800$の両替」1/17

 緊急事態だった。

 ガイドブックに書いてあったパリいち両替レートの良い銀行を、毎日のようにのぞいていたら、昨日から今日にかけて、1$0.04フラン上がっていたのだ。0.04フラン違うといえば、100$で4フラン違うということだ。これは大きい。

 今や1フラン・2フランが僕にとっては大きな存在だ。4フランあれば、日本にエア・メールが出せたし、20フランあれば、日本の文庫本が一冊買えたのだ。

 さて、いくら両替したらいいものだろう。今日は今までで一番高いレート。持ってるお金全部でもいい。僕はどうしようか悩んだ。しかしトラベラーズ・チェックから、現金に直したら管理が大変だ。しかし、ここが勝負だろう。

 僕は、持ち金のほとんどを両替することにした。800$の両替だ。意を決して銀行に入ってゆく。800$なんて、銀行の人にしたら小さなお金かもしれないけれど、僕にとっては全財産だ。今日が高レートだとは銀行の人も知っているだろう。明日には下がってしまうかもしれない。

 800$で32フランの得。やった!! 僕は大きな仕事を終えたような気分だった。さて32フランで何かひとつ贅沢しようかな。ああ嬉しい。持ち金全部の両替。これは大変な勇気がいる。我ながら自分に惚れた一日だった。1/16 チョーヤの梅酒をなぜか買ってしまう。毎日チビチビ飲むのもいいなと思ったのだ。しかし今までそれは実行されたことはない。一日か二日で全部飲んでしまうのだ。夜、案の定、部屋で酔っ払ってしまった。いつもそうだ・・。

「♪サマータイム」1/18

 夕食どきのサンジェルマン地区は、レストランでにぎわい、いたるところで人の輪ができる。のぞいてみれば、それは大道芸。

 その人の輪を探して、僕はいつも散歩に出かけた。毎日のことだと、唄っている人もだいたい憶えてしまう。しかし聞いている人たちは、いつも新鮮な気持ちで盛り上がっている。50人くらい集まっているのが丁度よい。だんだんと唄っている方もまた、自然と盛り上がってゆく。

 大道芸と言っても、大変にうまい人も多い。そしてもうひとつだと思える人もいる。しかしみんなどの人も、帽子で、投げ銭を集めにくる。それは、自分たちの芸に対する誇りでもあり、大道芸人のしるしでもあるようだ。

 スペインでもそうだったけれど、人が一番集まったときに、唄われるお得意のナンバーがどの人にもあるようだ。たいがいその後で、帽子が回ってくる。ある時、のぞいたその輪の中では、バンドとひとりの小柄な男性が唄っていた。

 ノーマイクなので、声が通らないといけない。50人くらいの人の輪の中で、小柄な彼は、アクションを付けながら名曲の「サマータイム」を唄い出した。♪サマタ〜イム・・。ブルース風なその曲は、名曲中の名曲で、いろんな人に唄われていが、彼もまた今、唄っている。

 お腹の底から声が出るとはこのことと思えるように、響いてくるその声。渋く両手でアクションを決めて「サマータイム」を唄う。みごとに空気をつかんでいる。うまい。惚れ惚れするくらいにうまい。彼のボーカルも良いが、曲もまた素晴らしい。有名すぎる歌なのに、こんなに新鮮だなんて・・。

 僕は感動してしまった。ホントに良かったのだ。ノーマイクということもあったのだろう。その帰り道、セーヌ河ぞいを歩きながら、僕も「サマータイム」を真似して唄っていた。1/17 そば屋にとても入りたいと、最近思っていて、やっと今日入れた。立ち食いにくらべて値段は高い。しかし、そのぶん急いで食べられない。そば屋の時間が流れる。

「最大の楽しみ」1/19

 今日も一日、食べることを考えてしまった。

 毎日、ちゃんと食事は摂っているのだけれど、さすがに300円暮らしは、限界がある。ぜいたくゼロ・・。街を歩いていても、集中力がない。ホテルに帰って早く、水が飲みたいとか思ってしまう。本能が精神に訴えているようだ。

 どんなに水を飲んでも、フランスパンを食べても、満腹感にはほど遠く、街をお腹をすかして歩いていると、犬の気持ちがわかるような気がしてくる。夕食に、野菜とか食べてしまうともう、何もない。時間までガマンガマン・・。

 やっと夕方が来て、やっと食事の時間がくる。それは何と言っても僕の最大の楽しみになった。たったひとつの野菜のピクルスの缶詰。どうしてこんなにうまいのだろう。

 どうしてこんなにうまいんだろう・・。嬉しいけれどせつない。もう感覚が麻痺してきているようだ。これでいいわけがなかった。1/18 中野駅前の古い立ち食いそばやさんの名前が「赤い風船」と言うのだけれど、その書体から見てもかなり古そうなイメージだ。どういう言われがあるのだろうか。もうそれだけで味がある・・。

「傘がない」1/20

 (あれ、傘がない・・)

 スーパーマーケットで買い物をしているとき、レジに並んでいる女性の後姿に気をとられていた。ここパリに居て、その姿はとても懐かしい人に似ていた。結婚して、今頃はこうしてスーパーのレジに並んでいるのだろう。そんなことを、ふと思いながらナイロン袋に詰めていると、傘がないことに気がついた。

 その傘はお気に入りの小さな折りたたみ傘で、もう5年使っていた。そしてこの旅の間も大活躍していたのだった。どこに置いて来たのか、記憶がない。いちばん可能性があるのがこのスーパーの中だった。

 あちこち探しながら、僕は思い出していた。そういえば昨日、公園のベンチに座り、しみじみ傘を眺めていたのだ。そんなことは初めて。それがどうということではないが、こころにスキを作ってしまったのかもしれない。

 今日歩いた道をもう一度、探してみるけれどどこにもない。そして探しながら、僕はひとつのことを考えていた。それは、傘をなくすことはそんなに淋しいことではないのでないかと思えてきたのだ。きっと拾った人が、また雨の日にさしてくれるだろう。傘なんてよくなくすもののはずだ。

 しかし、あのスーパーでなくなった可能性は高い。もしかしたら誰かがひろって、お店の人に渡してくれたかもしれない。明日、きいてみよう。その夜僕はフランス語を並べて、なんとか文章を作ってみた。

 次の日、スーパーに行き、店長さんにフランス語で「私は昨日、傘をなくしました。それは小さな茶色い傘です」と喋ってみたけれど、うまく伝わらない。店長さんは僕の持っていた紙を奪い取り、奥に探しに行ってくれた。手を横に振りながら戻ってきた店長さん。やっぱりなかったのだ。1/19 友達は自分で作ったCDが、自分の誕生日に届くのだと言っていた。「自分からのプレゼントのようだよ」と言う友達。確かにその通りだった。

「太田君の手紙」1/21

 その日、ホテルに帰ると、待ちに待っていた太田君の手紙が着いていた。

 太田君とは、インドのニューデリーのドミトリーで会った友達で、パリで落ち着いたら、お互い手紙を出す約束をして送ってあったのだ。

 いやぁ、嬉しい。こんなに手紙が嬉しいのもかと思えた。パリに着いてから、ほとんど旅人とも話していないし、懐かしい気持ちでいっぱいだ。部屋に入ってからゆっくり読もうと思ったけれど、我慢できなくて、途中で開けてしまった。

 アエログラムという、一枚だけでできた手紙には、インドで別れてからのことがびっしりと書いてあった。久し振りにきく、長期旅行者の言葉と話・・。

 博多在中の太田君はインドのあとバンコク、そして東京に着いたという。インドのニューデリーの安宿で会った人とバンコク、そして東京でも会ったらしい。地球は狭いなぁ。東京に着いたときは、まったくお金がなく、運送屋で一週間働きヒッチハイクで、博多まで帰ったという。

 お金を使い果たして、日本に帰るなんて、いかにも太田君らしい。そしてヒッチハイクだなんて・・。東京に10日間いて、東京がとても気に入ったので、今年の6月には、東京に引越しを決めたという。「青木君とまた東京で会えそうです」と書かれている。

 ああ、太田君のすることは、どこにいてもダイナミックで、まるでドラマみたいだ。インドにニューデリーの安宿で、僕の東京話に感動して、そして住んでみたいと言っていた彼。どうやら、そうなりそうな予感。太田君の旅はどこにいても続いているのだ。1/20 友達の新作CDをずっと聞いている。聞いているうちに、自分もNEWCDが作りたくなってきて、いろいろと歌出しとかしてみる。自分のCDとか聞いてみる。

「マティスの絵」1/22

 パリの現代美術館のポンピドーセンターも、ルーブル美術館と同じで日曜日には入場無料になった。これは大変に良いことだ。

 ポンピドーセンターはなんとも変わった建物で、透明な外壁の中を赤いパイプのようなエスカレーターが続いている。はじめは美術館らしくないなと思っていたけれど、何度か来てるうちにひとつのアートに見えてきた。その建物の前は大きな広場になっていて、日曜には大道芸の人たちがみんなを楽しませている。

 さて、ポンピドーセンター。その赤い筒のようなエスカレーターをのぼってゆくと、いくつかの部屋があり、ピカソの部屋、マティスの部屋、カンデンスキーの部屋というように、それぞれに展示されていた。有名な絵もあり、これも無料で見られるなんてなんてぜいたくなんだろう。

 小さい頃から親しんできた画家の作品を実際に見るのはとても嬉しい。各部屋の作品は定期的に変えられている様子で、それもありがたい。ピカソはもちろん有名だったけれど、マティスも同じくらい現代美術の代表的な扱いを受けていた。

 マティスの絵はもちろん知っていたけれど、シンプルすぎて、いつも、もうひとつよく理解できなかった。何度か通っているうちに、その中の、窓に向かってただバヨリンを弾いている絵が、とても印象に残った。

 その週、またマティスの部屋を訪れると、なんと確かにその絵から音楽が聞こえてくる気がしたのだった。それはそれは僕にとって初めての体験で、驚きだった。 そう思ってくると、他の絵もそれなりに見えてくる。(そうか、そうか・・)

 マティスの絵の紹介の本でも、その絵は地味な一枚で、日本に居たらたぶん出会っていなかっただろう。そして画集にあったとしても、同じ経験ができたかどうか・・。実際にここに来ないとだめだったろう。その一枚のバヨリンを弾いている絵は僕の人生さえも変えてしまう力を持っていた。1/21 誕生日。小さなお祝いをしてもらう。高校三年のとき、クラスに同じ誕生日の人が僕を含めて三人いた。三人とも同じ星座で、同じ星占いを見ると思ったら可笑しかった。でもその二人とも他人とは思えないほど、懐かしさを感じた。

「ガラクタドラムおやじ」1/23

 日曜日のポンピドーセンター前。多くの人達がのんびりと歩き、休み、寝そべっている。

 その広場では、多くの大道芸の人達が、日曜の午後の時間を楽しませてくれていた。ポンピドーセンターの美術館を見てきた後、僕もいつもぼんやりとそこに座って時間を過ごした。

 午前中からがんばって用意をしている、いつも来る大道芸のヘルメットのおやじがいた。そのおやじは小柄なアフリカ系で、ガハハハと大声で笑う。いろんなガラクタを吊り下げたドラムセットを作り上げ、20メートルくらい幅を使って大道芸をする。たぶんここでは名物おやじになっているのだろう。

 ドラムセットは作ってあるのだけれど、なかなかに大道芸を始めない。僕は最初、どんな芸をするんだろうとずっと待っていた。お昼のちょっと前ぐらいに、ヘルメットのおやじが大声を上げながらガニマタに歩いてドラムに近づいて来た。(アイツだ・・)

 鍋や、フライパン、空き缶と紐で吊し、やたらめったら叩き、大声を出す。それはまるで動物のよう。吊してあるものの中にバナナがあり、最後にバナナを叩くと、遠く飛びそれが可笑しい。だんだんと人が集まり出すと、見ている人もむりやり参加させるのだった。

 ヘルメットのおやじは大声を出すので、それがポンピドーセンターの、ガラス張り壁に反響して、それが日曜の昼ののんびりさを伝えていた。はじめは芸のない、ただのガラクタ叩きのおやじだと思っていたけれど、その思い切りのいい叩き方に快感があり、だんだんとひきこまれていった。

 いや、ひきこまれるどころか感動するくらいに面白い。ただ叩いてるだけだけれども・・。ダイナミックに芸だ。それはここポンピドーセンターの前の大広場だから似合っているのだろう。

 他にもいろんな大道芸の人達がいた。その中には、60フラン集まったら芸をするとか言うおじさんもいた。1/22 IC レコーダーを秋葉原にて、買う。それはもう発売中止になっていて、免税店でひとつだけ売れ残っていた。僕がこれが欲しいというと、「もうこれ現物だけだよ」と言う。知っている。知っていますよ。売れ残りにも福がある。

「ノートルダムの犬ちゃん」1/24

 相変わらずのパリでの毎日は、日記書きと散歩だった。

 モンマルトルの安売り店で買ったラジオは大成功で、部屋にいてずっと音楽を聴いていられるのは、日々の生活をに豊かにしてくれた。

 パリのラジオは20局くらい受信できて、いろんな音楽が選べた。単三電池三本で、何日も何日も聞いていられた。もしカセットテープだったら、4時間くらいなものだったろう。ラジオ万歳だ。

 どんなに散歩してもまだ時間はあり、なおかつ一人なので、本を読んでいると、言葉が生き物ののようにも友達のようにも思えてくる。普段は考えないような、バカなことも頭に浮かんでくるようになった。

 毎日いろいろと歩いてみたので、好きな広場やベンチも見つかった。そのひとつにノートルダム寺院の前の広場があった。ぼんやりとそこに座り、人々を眺めたり詩集を読んだりして午後を過ごした。

 ある日のこと、一緒のベンチに座っていたおばさんの連れてきていたワンちゃんとなぜか目と目があってしまった。ずっと話し相手もいなっかったせいもあるのだろう、僕にはそのワンちゃんが他人のように思えなかった。どうしてこんなにいとしいのだろう。

 こんな気持ちの経験も初めてだ。詩の読み過ぎなのか、孤独感からなのか、暇すぎるのか。それとも自分が変なのか・・。

 ワンちゃんはこれだけ人がいるのに、通りかかるワンちゃんにだけ反応して鼻をクーンと鳴らしていた。そんなことにさえ、感動している自分がいた。1/23 ハンバーガー屋さんにて、少しだけ話をする。なんてことはない風呂の話。遠い遠い時間がハンバーガー屋と重なる。外に出ると、新潟の冬のように寒かった。

「そこにあった名前」1/25

 足はまた、パリの東京堂書店へと、向かっていた。

 フランス詩の日本語訳詩集「月下の一群」の文庫本一冊あれば、もう充分だと思っていたけれど、どうにも他の詩集も欲しくなってしまう。東京堂書店で、チラッと読んでみると、どれも良く思えてしまった。

 まるで、その本を買うと人生が変わってしまうような、良いことがいっぱいあるような、そんな予感がしてくるのだ。こころの中の声が(買え買うんだ・・)と声がする。

 持ち金が厳しいのはわかっているのだけれど、どうしても欲しい。その本があるとないとでは、何もかも違ってくるような気がする。気がつけば、レジに持っている自分がいた。(あぁ、買っちゃったよ・・)

 今回、買ったのは詩人の谷川俊太郎により編集された、愛をテーマにした訳詩集だった。内容が濃く、イラストも付いていて僕はのめりこんで読んでしまった。当たりまえだが詩集は何度も読めるところがいい。

 その中の一編の長い訳詩、ルイ・アルゴンの詩の一編が、僕の目をとらえて離さなかった。訳された言葉も良かったけれど、詩の内容もテーマもわかりやすく、深くこころに残った。

 そして、ふとその訳詩者の小さな名前をみると、そこには「金子光晴」とか書かれていた。金子光晴は僕にとって、この旅に出るきっかけになった人で、こうしてパリに来たのも彼への憧れからなのだった。

 その訳詩が読みやすかったせいもあるだろう。しかし僕のこころをとらえたことは確かだ。東京堂書店には、光晴がパリ生活を書いた「眠れパリ」が置いてあり、明日にでも買ってしまいそうだった。1/24 花粉症には「甜茶」がいいよと、友達が教えてくれた。そうかもうすぐ花粉症の季節なのか。約三ヶ月も鼻グズの生活が続くなんて・・、ぜひ国家予算でなんとかして欲しい。

「長い夜」1/26

 泊まっているホテルのレセプションのところに、日本語の本が何冊かあるのを見つけてしまった。

 (やった!!) とにかく日本語に飢えていたので、僕にとっては、天からのプレゼントのよう。何の本でも読みたかった。僕は一冊づつ、借りていった。

 その中の一冊に「聖書物語」という本があった。内容は旧約聖書を小学生でもわかるように、簡単にわかりやすく書いたものだった。旧約聖書の内容はちょっとは知っていたけれど、アダムとかイプとか、十戒とかくらいなものだった。

 その日の夕方ちかくから読み始めて、なんだかとても集中して読んでしまった。この世のはじめからの物語だ。どの小さな話もおもしろい。こんなに旧約聖書はおもしろかったのか・・。

 夜は更けていった。本の中に入り込んでしまった僕は、今がいつなのか一瞬わからなくなるほどだった。ほんの何ページかの物語でさえも、たいへんに感動してしまう。教訓がある。こんなに集中して本を読んだことは今まで一度もないだろう。

 じっくり読んでいったせいもあるのだろう。やがて朝になってしまった。まだ読み終わるにはもう少し。なんて、なんて長かった夜なのだろう。地球の誕生からはじまり、そして多くの物語があった・・。

 読み終えたとき、僕にはその小さな文庫本が、世界一の名作に思えていた・・。1/25 バイトをしていて、二ヶ月前の今日、休んだことを知る。そう二ヶ月前の今日、二度目のパリへと旅だったのだ。あれから二ヶ月がたった。つい昨日のように思い出せる。そうか二ヶ月か。

「リュクサンブール公園の男」1/27

 だんだん夜が眠れなくなってきてしまった。

 パリの来てひと月、いままでの旅の日々とは違い、まったく変化というものがない。日記を書き散歩もしてみるけれど、あの中国やインドでの毎日が遠く遠く思えてくる。パリに憧れて来てはみたけれど、これが僕も求めていたものだろうか? もし東南アジアに向かっていたら、充実の旅は続いていただろう。

 お金がないというのは、こんなにも旅を変えるものかと思う。自分では、大丈夫のつもりでいたけれど、実際お腹がずっとすいていると、何をするにもパワーが出ないということもわかった。これで読む詩集がなかったとしたら、どうなっているのだろうか。想像もつかない。

 パリの町を歩いていると、ひとつの感情が自分の中に生まれてくるのがわかった。それは、ハートが砕けないだろうかという感情だ。あまりに変化がないからなのだ。ハートが砕けるとはどういうことなのかは自分でもわからない。ただ、この毎日がもったいないと思うのだ。

 自分は今、誰なんだろう?

 ホテルの先にある、大きなリュクサンブール公園のベンチに座っていると、まるで自分がここに居ないような気がしている。まるでパリをさまよっている日本人の幽霊のようだ。あと二ヶ月、自分はここでやっていけるのだろうか? この先に生活が想像もつかなかった。1/26 銀座にギャラリーを見に行く。ギャラリーには不思議な時間が流れている。その絵を描くための時間と見る時間の短さのギャップをどうしていいか、いつもわからない。通り過ぎるには、もったいのだ。

「受けまくってた人」1/28

 今日は土曜、サンミッシェル通りにも、多く大道芸の人が現れる。

 人気があるのだろう、大変な人だかりがあり、ちょっとのぞくと金髪の若者が一輪車をそばに何かやっていた。

 そのお兄さんは、いろんな芸をする。そのどれもがそうたいしたことはないのだけれど、話術で人を笑わしていた。「ライターはありますか?」ときき、お客さんが投げるとポケットに入れる。そして次は「ソニーのウォークマンはありますか?」ときく。可笑しい・・。

 お客さんを四人並べて、隣りの人の頬にキスをさせてゆく。そして最後の彼はこともあろうに唇にキス・・。一輪車に乗り込むとき、いかにも自分のモノが大きくて邪魔だというように、大げさな仕草をする。

 そして高い一輪車に乗り、プラスチックのボーリングのピンを一本ずつ受け取ってゆく。「ヤーッ」とか大きな声を出す。そして三本目から芸になるのかなと思っていると、その一本だけ受け取り、持っていた二本を地面に落とした。そしてお客さんに一本拾わせる。その後、また同じお客さんに、もう一本もまた拾えと言う。

 パリの人もツーリストもバカ笑いしていた。彼はまだ22才くらいの若者。人柄もあるのだろう。バルセロナのピエロたちが、あれだけがんばっても出来なかったことを、彼は簡単にやっていた。大道芸には芸や年齢は関係ないなと思えた。1/27 今日は、ライブステージの後ろに張る布描きをしていた。墨汁で描いてゆくのだけれど、失敗して、裸足の足の裏に付いてしまった。しかし、洗っても洗っても、墨汁が落ちない。しわの中に入ってしまった。入れ墨もこんな感じなのだろうか?

「オー・ソレ・ミオおやじ」1/29

 ひとつのボーカルグループが道で人を100人くらい集めている。するとどこからか、ひとりおじさんの大声が聞こえてきた。ボーカルグループには悪いが、僕はそちらに行かせてもらった。

 そこではひとりのおじさんが、たったひとりで顔を赤くしながらもカンツォーネを唄っていた。なんと200人くらい集まっていて、おじさんもハッスル中だ。

 メガネをかけたそのおじさんは、唄うとき、手を前で結び背のびしながら唄う。それも顔を真っ赤にしながら・・。一曲ごとに大きな拍手をもらう。そのおじさんにはお金は関係ないようだった。そしてみんなもそれがわかっている様子。

 そのうちおじさんはひとりの女のコを、目の前に連れてきて、有名な「オー・ソレ・ミオ」を唄い出した。女のコは照れ続けている。モーションをつけて唄うそのおじさんの姿は、みんなに大受けだった。僕もまた少しだけお金を出してしまった。

 そして路地裏にゆくと、いつもの火吹きおやじが、道で火を吹いていた。芸はたったそれだけだ。今日はお客を全部、他にとられているみたい。哀愁ある声で、それでも「メルシー」と答えていた。1/28 ミニコミ地下会議の原稿書き。いつも明日の午前中までに、いろいろと仕上げなくてはいけない。アイデアはないけれど必ず出来ている。いつもそうなのでいつも可笑しい。

「自分の声」1/30

 せっかく憧れのパリに着いたのだから、一枚くらい写真があってもいいなと思っていた。

 お気に入りのボン・デ・ザールの橋で、ぜひ撮ってもらいたかった。橋のベンチに座り、カメラを下げている日本の旅行者に声をかけようと思った。しかしこれがなかなか思うように、声がかれられない。みんな観光に夢中で、驚きそうでだめだった。

 ずっと、橋のルーブル美術館側を自分が見ているのが可笑しい。いつまでも待てるなんて、よほど暇なのだろう。こんな時間がここにある。

 待っていてそして何日かしたとき、橋の手前で、一眼レフのカメラを下げた二人組の日本の人とすれ違い「日本の方ですか?」と声をかけ、そして写真を一枚撮って欲しいとお願いした。そう、ポン・デ・ザールの橋の上で。

 写真を撮ってくれる彼はとても信じられる人で、僕の旅の話も聞いてくれた。その時、久し振りに人と話している自分の声がどうも変なのだ。(あれ? こんな声だったかな・・) 独り言と、実際に話す声とは違うことに気付いた。

 ひとつのカメラでは心配だというので、二台のカメラで何枚も撮ってくれた。僕は「月下の一群」の文庫本を手に持って、写してもらった。ありがたい。本当に。

 住所も渡して、写真代も払おうとしたら、「お金はいりません。そのかわり気を付けて旅を続けてくださいね」心配してくれた。とてもいい人だった。

 それにしても僕は、何か違う次元に住んでいるような気がしてきた。あの話をしているときの自分は、自分だったのか、そうじゃなかったのか・・。

 写真を一枚撮ってもらい、僕は大きな仕事を終えたような気がしていた。いつ日本に帰っても、もういいなと思えていた。1/29 ミニコミ会議のコピーに行く。寝ていないせいもあるけれど、大変に疲れている。明日はもっと疲れるだろう。疲れながらも休んでいるようだ。

「カレンダー」1/31

 それは遠く遠く長い日々に、僕には思えた。

 約三ヶ月間のパリ。もうお金もなく、ぎりぎりの生活で続けてきたけれど、さすがにいろいろと自分がおかしくなってきてしまった。

 なくした日記をもう一度書き上げることが毎日の日課で、その机のそばに帰国までのカレンダーを自分で作って、黒丸で消していった。

 だんだんと消えてゆくカレンダーを何度も眺めては、帰国を楽しみにするようになってしまうと、友達の夢ばかり見るようになり、すでに心は日本に帰っているのがわかった。

 日記を書いて、散歩に出る。その変化のない繰り返しばかりで、いいわけがなく、だんだんと自分で自分を笑わすようになってしまった。

 洋服ダンスを開けると、そこには大きなカガミがあり、ひとりおどけてみるのだった。なぜ自分がそうしているのかもよくわからない。人間には、笑うという行為が必要なのだろう。

 毎日が長いような短いような・・。僕はいつのまにか頭にハチマキをするようになった。まるで受験生のよう。それが今の自分に似合っていると思えたのだ。そんな気分だったのだ。

 パリの町をハチマキをして散歩していると、なぜか拍手をもらったりした。1/30 地下ライブの日「キャンペーン大特集」会場についてからあたふたと用意をして、なんとか開演に間に合わせた。そのわりには地味でめだだなかった。

メニューにもどる(地下オン)

過去ログ(ギター編) (カバン編) (田舎編) (はじめての東京編)  (犬物語り編)  (フォーク編)

(文房具編)  (市場のバイト編) (4月チャイナ編)  (5月チベット編)  (6月ネパール編)  (7月インド編1) (8月インド編2) (9月インド編3)  (10月インド編4) (11月トルコ編) (12月ヨーロッパ編)

ライブ情報

CD「黄色い風、バナナの夢」詳細

TOP   Jungle