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過去ログ「フォーク狂時代」日記付き'01.1月

「深夜ラジオのダイヤルノイズ」1/1

 「♪イチ・ニー・ヨン・マルー・ニッポンホウソウ!!」

 ここは新潟。夜も遅く、勉強机に両肘を立てて、僕はラジオのダイヤルを微妙にゆっくりと合わせる。波のようなノイズの間から、聞こえているのは、ヒット曲の"白い冬"。ラジオの位置を変えたり、高い所に置いたりしてみる。(だめだやっぱりダイヤルかぁ・・) ああ、そのうちに歌が終わってしまう。

 電波の入りのいい夜は、とても嬉しい。ノイズゼロの日もある。丸いふくらんだ声。(おい、なんだか入りが良すぎるよ) 心はそうつぶやいてみる。しかし、かならずそれは裏切られてしまうのだ。結局、また深夜の、親指ダイヤル合戦・・。

 ラジオでは、短いナレーション付きで、いろんなフォークヒットのCMがしょっちゅう流れていた。それは「〜の〜、今、ふたたび・・」とか言うように始り、そして、あっという間に歌がフェードアウトしてゆく。

 そのうち、CMで流れてる歌が最後までかかったりすると、(意外といいじゃん!!) と、くやしいけれど、そう思ってしまう。次の日学校に行き、歌の話になると「えー、あの歌知らないのぉー?」という事になる。

 フォーク狂時代。フォークヒット曲は、ラジオの中にあった。それは同時に、僕にとって、深夜の電波ノイズとの戦いを意味していた。(もっとよく入るのではないか?) と、さっきもダイヤルを合わせたばかりなのに、歌の間、どうしても、また合わせてしまうのだった。12/31 大晦日。朝、大谷家と モーニングを食べる。大晦日のモーニングはなんだか爽やかでいい。来年の事を話す。また今日も、ながい一日になりそう。富山から千田も訪ねて来る。やっぱり千田が来ると、年の暮れって気がするなぁ。

「モナリザな拓郎ポスター」1/2

 拓郎は嫌いだって言う友達に、学校で会った事がなかった。みんなもよく拓郎を歌っていて、レコードを買わなくても、すっかり僕もおぼえてしまった。

 どんなに振っても、また振れるサイコロ。拓郎の歌には、あきさせない何かがあった。気付いたときには、もう吉田拓郎はビックスターだった。'74年、僕は中学1年生。

 その頃、拓郎のLPレコード『元気です。』はすでに名盤と言われていた。例の白黒で、横顔の写っている印象的なジャケットだ。『元気です。』このタイトルがいいよなぁ。いかにも名盤って感じだ。

 たぶんその頃に一緒に撮られた写真で、拓郎が、ジーンズのポケットに手を入れている、やっぱり白黒のポスターがあった。まるでそれは僕には、構図のせいもあるかもしれないが、名画モナリザのように見えた。震えるほど、カッコいいモナリザ。

 いや、それはカッコいいと言うより、川の流れのような豊かさがあった。あの拓郎スマイルの向こうに、生ギターの音色とあのメロディーがちゃんと響いていて、見ていると吸い込まれそうになる、不思議なポスターだ。

 ちょっと離れた大きな町の、デパートのエスカレーターに乗ったときの事、その途中にある正面の壁に、例の拓郎スマイルの白黒のポスターが一枚だけ貼ってあった。何度も見たポスターだったけれど、その時ばかりは、拓郎の存在感の強さに圧倒された。

 僕はその時、モナリザのような拓郎のポスターに、永遠の一瞬を感じた。楽器屋さんには、フォークギターが大量に並び、行くところ行くところ、フォークの空気で満ちていた。そう、朝起きて眠る時まで、ずっと。1/1 今日は千田佳生との愛の一日。雑煮を食べ、トランプをして、ダイヤモンドゲームをして・・。夜遅く、千ちゃんは、インターネットで、今日やっている風呂屋を探して、行こうって言う。

「クリーム色のカセットテープ」1/3

  「消すべきか、残すべきか、それが問題だ!!」そんなカセットテープは、僕らにとって革命的だった。

 僕が中学生になる頃、カセット文化は、ほぼ定着して、ラジカセも売り出された。手軽に録音して聞く、その素晴らしさは、僕らの音楽ライフをすっかり変えてしまうパワーがあった。

 と言っても、まだまだカセットテープレコーダーは、ぜいたく品。僕も中学2年の時やっと買ってもらった。その嬉しかった事・・。カセットテープそのものも、僕らには高かった。30分テープで300円、60分で600円もした。そんななか、安いカセットが売られていた。

 それは、ラベルが直接貼られていた、クリーム色のカセットテープ。三本セットだった。60分テープのラベルがオレンジ色、90分テープが青色。そして、そのラベルの上に書いた、フォークシンガーの名前たち。

 ラベルの張り替えが出来ないのも、クリーム色カセットテープの特徴だった。だんだん手垢で、ラベルが汚れてゆくのも、同じく特徴だった。そしてもうひとつ、長く聞いていると音がフニャフニャになりやすいのも、特徴だった。

 さて、フォークの話。カセットテープ文化と、フォークブームは、一緒に盛り上がっていったような気がするのだ。ラジオ番組の中の歌をうまく録音して、何度も聞ける喜び。(1番の途中からとかね)。今だったら、新しいカセットに次々と入れてゆくのだろうけど、よく失敗して、消してしまったりした。その哀しかったこと・・。

 それから、ずいぶんとお世話になる、カセットテープ。そのはじまりにあった、あの10本くらいのテープ。そのうちの8本くらいは、クリーム色だったのだ。きっと全国の中学生もみんなそうだったろう。そこに書かれていた、フォークシンガーの名前たち。カチャ!! 何度も聞いたよ。でもそれがよかったんだ。

  勉強机の隣、ラジカセの小さな窓で、小さな歯車が回る。そして歌。「さて、次は何を聞こうかな?」僕はクリーム色のカセットの中から、また選ぶのだった。1/2 見るつもりはなかったのに、宮本武蔵の10時間ドラマを見てしまう。7年くらい前にもやってるんだよね。ちがうバージョンだけど。そうか今、マンガでブームなのか・・。「佐々木小次郎、破れたり!!」。言ってみたいねぇ。

「明星のSONG BOOK」1/4

 (歌詞はすっかりおぼえちゃったよ。でも、どんなにながめても、曲がわからないんだよね・・)

 僕は中学生。そこにあったのは、少し古い明星のSONG BOOK。僕が小学生の頃、兄キが買っていたものだ。'70年から'73年頃のSONG BOOK 。フオーク特集ページの中の、ギターコード付き歌詞。タイトルだけは知っているんだけどなぁ。

 ラジオではとても流れそうにない歌ばかり。もうヒットフォークと呼ぶには時がたっていた。しかし歌詞はわかる。ギターコードもわかる。僕はギターを弾きながら、イメージで歌ってみる。そんな毎日・・。それは吉と出た。

 おかげで、いつのまにか、古いヒットフォークに詳しくなってしまった。明星というメジャーなSONG BOOKのわりには、マイナーなフォークが、特集で詳しく載っていた。アーティスト紹介も写真付き。ああ、それは僕にとって教科書だったのだ。

 「もちろん知ってるよ!!」僕は聞いたことのない歌でも、知ってるつもりになっていた。僕はマイナーフォークという世界に、ちょっとずつ足を踏み入れていた。そして実際の歌を聞いたときの感動。プラス、ショック。(こんな歌だったとは・・)

 僕が勝手にイメージで作った歌は、少しは似ていたり、ぜんぜん違っていたり・・。「俺の方がいいじゃん」そう思えた歌もあったが、時間とともにいつも考えは逆転した。そんなくり返しが、いま思うと、とっても勉強になったようだ。先生!!

 家にあった明星のSONG BOOK 。'68年から'72年頃までのフォークヒット特集。そのひとつひとつのタイトルが僕を呼ぶ。「俺たちはヒットしたんだぜー」と。1/3 今日は一日、ホームページ作りをする。休みも今日までだ。22日から連続で用があって、出かける事になった。そして飲み会。風呂屋で体重を測ると、なんと4キロも太っていた。きゃー。

「ギターの弦の煮込みかた」1/5

 その日、僕は、台所で鍋一杯にお湯を湧かして、古くなった弦をシャラシャラとお湯に入れて、ぐつぐつと煮はじめた。

 昔、バナナが高かったって話は有名だけれど、フォークブームだった70年代、ギターの弦は今より、高級品というイメージがあった。と言うか、中学生でお金のなかった僕には、一本一本が貴重だったのだ。

 毎日毎日、ギターを弾いていたけれど、それでももっと弾きたかった。学校の昼休み、家に帰って、歌って戻ってきたりもした。当然、弦もしょっちゅう切れた。5弦なんて切れると、気が遠くなる思いだった。また、こづかいが・・。

 新品のセット弦に替えるなんて、よほどの事だった。それでも、年に一度か二度は、新しいセット弦を張った。ジャボーン。その輝くような弦の響き。嬉しくって僕は、ジャカスカ弾く。するとプツッと弦が切れる。(おーい、今日張ったばかりなのに・・)

 そしてしかたなく古い弦を張る。(これじゃ、意味がないよう)。そのうち一本また一本と切れて、新旧の弦が混ざってしまう。そんな、そんなギターの日々だった。1弦とか2弦は、切れた所をうまくラジオペンチでもとのように直して、また使うようになった。これでずいぶん助かった。

 ある尊敬するフォークシンガーが、雑誌のインタビューの中で、「弦をお湯で煮ると、新品みたいに復活するって言いますよね」と答えていた。(これだ!!) 僕は、願いを込めて、古くなった弦を鍋で煮てみたのだった。学校の友達にも、「今夜やるぜ」って言ってあった。

 ぐつぐつぐつぐつ。なんだか、錬金術師の気分。「もう、そろそろいいかなぁ」僕はドライヤーで弦を乾かし、用意してあったギターに張ってみた。結果は・・ 。んー、それなりにってところでしょうか。後にも先にも、その一回だけ。

 フォークブームだったあの頃、毎日のように弦が切れた。まあ、それだけ弾いていたって事だろうけどね。僕は今でも、古い弦をゴミとして捨てられない。友達の、張り替えた古い弦さえも、もらってしまう。弦をゴミ箱に捨てるくらいなら、あの頃の僕にあげたいよ。1/4 今日から仕事始め。また町歩きの日々。もう日本中がお昼だっていうのに、「寝ているところを起こされた」と、いろいろ言われる。結局、事前に、来る時を約束して、その時間に起きてるようにしてもらうと言う事になる。そんなぁ。

「フォーク自由曲」1/6

 全国的に、学校には、合唱コンクールがあったはずだ。そして、全国的に課題曲と自由曲もあったはずだ。課題曲。味があったね。歌い込むほどに好きになってゆくという不思議。さすが課題曲!!

 そして自由曲。これは各クラスで、自由に選べた(もちろんか)。 時はフォークブームのど真ん中、たいがいは、フォークコーラスグループの歌が選ばれた。一応僕も、渋いフォークの歌をリクエストしてみたけれど・・。「青木君の、リクエストがいいと思う人、手を挙げて下さーい」し〜ん。「あれえー」

 "お決まり"という歌もあった。しかしそれを歌うのは、ちょっと照れるよねえ。でも結局、その歌になっちゃうんだよなぁ。「"翼をください"がいいと思います」「えー、またそれぇ?」「でもやっぱりみんなが知ってる歌がいいと思います」。黒板に書かれる、二つ三つの歌。有名すぎるよう。

 でも、合唱コンクールは不思議なパワーを持っていた。とくに、あまりやる気のない僕までも、つい学校の帰り道とかで、歌の練習とかしてしまった。(俺、何やってるんだ?) 別に反対派と言うわけではないのだが、メジャーな歌を心から歌うなんてほとんどなかったのだ。

 「他のクラスでは、ギターとか弾くらしいぜ」。発表の当日、それは現実として、目の前で行われた。そのクラスのとき、ギターをもった奴が、二人とか三人、ステージの端に出てジャカジャカと弾くのだった。曲は「さらば青春」だった。ギターがそれなりに弾けた僕には、悔しくて悔しくて・・。理由はない。ただ悔しいのだ。

 「青木、おめぇーも弾けよー」「俺だって弾きてえよ。でも今からじゃ遅い!!」学校のステージで見る、生ギターの表板の木の色が、まぶしいほど光って見えた。僕は、その日、家に帰ってから、狂ったようにギターを弾いた。

 合唱コンクール。自由曲はもちろんフォーク。いちばん困るのが、同じ歌を選んでしまったときだ。なぜみんなもっといろいろ豊かに思いきって自由にのびのびと、選ばなかったんだろう? それはフォーク七不思議のひとつだ。1/5 最近、どうも後ろ姿恐怖症だ。恐怖症というより、期待症だ。なんかさぁ、女のコがね。みんなカワイク思えちゃって。ちょっともう、どうしたらいいのか。後ろ姿って不思議だ。まあ、いい事だね。

「傘がない・絶唱」1/7

 なんど歌っても、自分で感動してしまう歌がある。

 中1の頃、兄キが井上陽水の歌をずっと聞いていたので、いつのまにか僕もおぼえてしまった。ギターをこっそり借りて、陽水のSONG BOOK を見ながら、弾き語りの練習。その中にあった歌「傘がない」

 陽水自身も昔、「"傘がない"を越える歌がなかなか作れない」って言っていた。そのダイナミックな構成。「♪都会では〜 チャンチャチャチャン 自殺する〜チャンチャチャチャン 若者が〜 =省略= いかな〜くちゃ。 君に〜」そう歌いながら、いつのまにか、歌にのめり込んでいる自分がいた。

 ある時、テレビのオーディション番組「スター誕生!!」で、ギターを持った青年が、「傘がない」を歌った。 「♪都会では〜」彼は残念にも落ちてしまったが、その姿が僕の中に強烈に残った。カガミに向かい歌ってみる。なかなかね、むずかしいんだよね。あの、サビに入る時の、力の抜き方が。「♪いかな〜くちゃあ 君に〜」

 学校の帰り道、突然に雨が降ってくる。冬の日、アノラックの帽子の内側で、僕は「傘がない」を歌う。それは条件反射のようだ。「♪つ〜めた〜い雨が、今日はこ〜ころにしい〜みる」ここがまた難しいんですよ。

 なんど歌っても、自分で感動してしまう歌がある。一番、大事なのが、や〜ぱり歌い出しだよね。そしてラストの声を伸ばすところ。「それは〜 い〜い ことだろ〜〜〜う。 ジャンジャジャジャン」1/6 今日は不思議な日だ。明日も休み、あさっても休み。ずっと長かった正月休みの続きは、まるでオマケのよう。濃縮休日還元ジュースのよう。いい時間が流れている。

「ヤングギターそして新譜ジャーナル」1/8

 三大フォーク雑誌といえば、「ヤングギター」「gut's」「新譜ジャーナル」だったと、個人的には思っているが、雪多い新潟の小さな町の小さな本屋さんの話だから、ホントのところは、ちょっとわからない。それにしても、いかにもって言う雑誌名だなぁ。

 '73年頃の話、「ヤングギター」は最初からあった。ギターを愛する若者向けの雑誌で(当たり前か)、やってくる大フォークブーム前も後も、一貫して、ギターを中心に内容が作られていた。表紙をめくると、そこにあるカラーグラビア。みんなギターを弾いている写真。「拓郎」「岡林」「かぐや姫」「RCサクセション」「古井戸」・・。白黒グラビアに登場してくるのは、渋いシンガーソングライター達。「加川良」「友部」「三上寛」・・。いい写真が多かったなぁ。

 ギター弾きの雑誌「ヤングギター」はヤングと言っても、20才以上の若者がターゲットだったようだ。しかしフォークブームは爆発的になり、ギター初心者用の雑誌「gut's」が'74年頃に出た。ガッツはポップな総合フォーク雑誌だった。なんと言っても革命的だったのは、ギターコードの押さえ方の イラストが、誰でも押さえられそうな、太指まんまるイラストになっていた事だ。ページにも色がいろいろ使われていて、なんだか楽しい感じ。創刊2・3号でもう、「ガッツ買った?」と言えばフォークファンには通じるようになった。「gut's」・・。つい買っちゃうんだよねぇ、これが。

 そしてその隣りに「新譜ジャーナル」がそっとあった。毎月特集で、ひとりのシンガーがとりあげられていた。インタビュー、写真、他、記事も豊富。'73年の頃の新譜ジャーナルは、大変に渋いフォーク雑誌で、ヤングギターよりも、歌い手そのものが中心だったようだ。なにげない「かぐや姫」の白黒写真が、表紙だったりして、まるでジャケットのよう。それが '75年頃に一新して、今で言う「オリコン」のような、フォークニュースいっぱいの雑誌に大変身してしまった。「新譜ジャーナル」の名前どおりになったわけだね。僕は変身する前の「新譜ジャーナル」のちょっとマイナーな感じが、雑誌の中で一番好きだったなぁ。

 この2000年、古いフォーク雑誌を置いてあるお店に、ときどき出会うことがある。写っている写真がみんな若くて、ひとつの時代を感じるには充分なインパクトだ。(きっと、どの時代の雑誌もそうなんだろうなぁ)。 そして、個人的にひとつだけ、フォーク雑誌を選ぶとすれば・・。

 選ぶとすれば、あの'73年の頃の「新譜ジャーナル」だなぁ。「新譜ジャーナル」の始まりはフォークだったかは不明だ。しかし'73 年の頃は、ちょっとマイナーな空気のある、メジャーなフォーク雑誌だった。表紙を飾る、ひとりのアーティスト。それはフォークシンガーたちの憧れだったかもしれない。「ヤングギター」はギターがメイン。「gut's」は楽しさ。「新譜ジャーナル」は歌が中心だった。どの雑誌も、記事をおぼえるくらい読んだ読んだ。ああ、フォーク狂時代。

 「新譜ジャーナル」はいつなくなったのだろうか。その雑誌名を言葉にしてみると、たしかに、フォークの響きがある。1/7 夜、東京は初雪になった。傘もなく、ぷらぷらと散歩に出かける。白い道。懐かしい新潟の感じ。向こうからやって来る人の事を想う。

「旅のはじまり」1/9

 僕にとって縁とは、レコードの円のことだったかもしれない・・。

 中ニになって、懐かしい友とまたクラスが一緒になった。フォークの話をしてて、東京に行ったお兄さんが置いていった、岡林信康のLPが家にあるって言う。岡林の事は、明星のSONG BOOKで知っていた。「貸してよ!!」

 LP「見る前に跳べ」は、のぼーっとした顔が半分に大きくに写っているジャケットだった。そして一曲目。出だしは、はるばるとしたサウンド。それは、よくも悪くも、懐かしい音だった。「感動」という言葉があるなら、その漢字のふた文字になってやって来たLPだった。

 「愛する人へ」「おまわりさんに捧げる歌」「私達の望むものは」「自由への長い旅」・・。そのメッセージのはっきりとした歌に、僕は今までにないしっくり感を感じていた。それまで僕は、陽水・他、流行りのフォークをみんなと同じように聞いていた。中ニの僕は、まだ若くて純だった。シンプルなメッセージの岡林の歌に、心から、完全にシャベルですくわれてしまった。

 次の日、レコードを貸してくれた友に僕は言った。「すげえー、いいよ!! 岡林」。僕たちは13才。その日から、何が変わったかって、人生が激変したのだ。時は'74年。岡林のLPは'70年の作品。それから僕たち二人の、時代さかのぼり探検の旅がはじまるのだった。

 友達のお兄さんは、岡林の第ニ集の「見る前に跳べ」のLPしか置いていかなかった。「じゃあ、アオキ、第三集買えよ。俺、第一集を買うから」。それから毎月、僕と友達は、一枚づつ古いフォークのLPを注文して、買うことになるのだった。

 学校には、古いフォークのファンなんていなかった。それは、僕と友達、ふたりだけの旅だった。友達のお兄さんが残していった、あの一枚のLPから始まった、LPレコード注文の旅。そして、歌を作り始めたのも、この頃。ふといふとい道を、最初に作ってくれた、Hey .Mr.O、心から感謝しているよ。

 まだ、みんな身長が伸び続けている年令だった。そして、毎月買い続けた古いフォークのLPは、血となり肉なって、僕を大きくしてくれたのだった。1/8 今日は成人の日でお休み。とっても得した気分。夜8時頃には、暇になってしまう。マルちゃんのカップワンタンめんを、ひさーしぶりに食べる。今昔物語の本を読んでみる。

「ギターなき、ギター野郎」1/10

 「今日、ギター弾きにいってもいい?」

 一番ギターの弾きたかった中二のとき、僕はギターを持っていなかった。中一のとき、兄キのギターを時々借りては、なんとか弾けるようになって、幸せだったのに、兄キもギターも東京に行ってしまった。ギターのないギター好きの苦しさ。かー、両手がつらい・・。

 僕はよく、友達の家に遊びに行ってギターを弾いた。レパートリーは兄キの影響で陽水がほとんど。ひととおり弾いて帰って来る。家に居るときは、しかたなく、六玉そろばんをピックで弾いたりした。さあ、Fの練習。意外と気分が乗ると、弾いてるみたいなんだよね。さあ、フィンガーピッキングの練習。はい5弦、3弦、2弦・・。

 ギターが欲しい。僕の目はギターのカタログに集中した。そして雑誌のギター採点表のチェック。テレビ番組のギターと音色の聞き分け。楽器屋さんに寄っては、試し弾きの日々。今度はギターメーカーのヒストリーを暗記。図書館で、ギターに関する本の読みあさり。でも、ギターは持ってなかったんです。

 そのうちほとんどの国内メーカーのギターについて、いろいろ語れるようになり、それについて書かれた文章はみんな記憶にインプットされ、すぐ喋れるようになった。ラインマーカーを使っての勉強。ギターノート作り。何やってんの俺? テレビのフォーク番組での、ギター音色チェックもまた、僕に確信を持たせた。 ギターもないのに、ギターに詳しくなっちゃって。哀し〜い。

 もう耳が、ギターばかになってしまった。脳細胞の1/3は、きっとギターの情報で埋まっていただろう。学校の机にフレットと弦を書いてみたりして、弾いてみるけど、音なんて鳴らないじゃないか!!

 いや、僕の頭の中では、確かにギターの音色が鳴っていた。(C・F・Em・Dm・Gーー、C・G・Cーー。)1/9 友達と一緒に秋葉原のマニアショップ巡りをする。マニアとは何かを友達は僕に、教えてくれる。友の答えはこうだ。「青木さんはマニアじゃない ! !」あーあ、良かった。

「白い紙飛行機一派」1/11

 「22才の別れ」一派もいた。

  ※チャーン チャララ チャララ チャララ チャー チャーラーラー。この聞き慣れたリードギターのイントロ。もちろん「22才の別れ」。なぜかみんな二人組だった。ときには三人組になっていた。しかし一人では、なぜかこの歌はやらない。

 そして「22才の別れ」は、スリーフィンガーピッキングができるぜって言う、ステータスの歌だった。そして、リードギターもできるぜって言う証明の歌でもあった。ここは中学校の時の発表会。二人組が登場しては、かならずこの歌をやっていた。※くりかえし

 くやしかったけれど、僕はインチキスリーフィンガーしかできなかった。ましてリードギターなんてとんでもなかった。(うまいなぁー)と心で思ってはいたが、友達には「また、あの歌やってるよ」とか言った。そのくせ家では真似したりしてね。

 ある土曜日の放課後、教室の廊下を歩いてゆくと、他のクラスから、数人でギターをジャンジャカ弾いて歌っているのが、聞こえてきた。「♪しろーいかみひこーおきー、ひろーいそらをゆーらありゆらり・・」それは井上陽水の「紙飛行機」だ。

 カポ2のAm、そしてGのくりかえし。紙飛行機に感情移入してゆくその歌詞。♪きーみいはー プロぺーラーをしらないーのかあ・・。僕は空いてる窓から、そっと教室をのぞいてみた。(あーあ、あいつらだぁ) その三人は、最近ギターを買った、仲良しもて男三人組だった。ギターもちょっと高めのヤツだ。

 三人そろっての、合わせストローク奏法。「♪かぜがふいてきたーあよ かぜにのれようまあく・・」もてる男ってのは、なんだか声も声量があるんだよね。それも歌がうまい。音痴じゃない。白い紙飛行機は、教室をゆっくりと飛び回る。完全に歌に入り込んでいる。僕はそこを抜けトイレへ行く。

 トイレから戻って来ても、まだ白い紙飛行機は、彼らの回りをまわっている。いよいよ歌もピークだ。「♪つよいあめもかぜーえも わらいながらうけーえて・・」歌声はもっと大きくなる。白い紙飛行機はどうなってしまうんだ。

 教室の陽水たち。白い紙飛行機を歌い出したら、もう誰にも止められない。だってストロークの風で「白い紙飛行機」は飛び続けるのだ。「♪きーみいは あしーたまあでとびーたーいのかぁ・・」 1/10 年明けにバイトがはじまって一週間。もう生活のリズムがまたボロボロになってしまっている。あっというまに12時になって悔しいよー。ああ、また年末休みが来ないかなぁ。

「中庭での説教ばなし」1/12

 「昼休み、アオキは中庭に来なさい!!」クラスの朝礼が終わってから、学級担任の先生が僕に言った。

 (いったい、何だろう?) 中学3年の、たしか秋の事だった。柔らかい陽が差している学校の中庭のベンチに行くと、そこには仲のいい友達も呼び出されていた。「あれぇ、おまえも? 何だろうね」そして先生がやって来た。「おまたせ!!」

 「ちょっとききたいんだが、青木、おまえ将来の事をどう思っているんだ?」急に何をきかれるかとおもえば、そんな事だった。実は、そのちょっと前、"将来なりたいもの"と言うアンケートに僕は「フォークシンガー」と書いたのだった。気の合う友もまた「フォークシンガー」と書いていたらしい。

 「フォークシンガーっていうのはなんだ?」先生はきく。そして僕は答える。「うーん、自分の歌を作って、自分で歌ってゆく人です!!」「でもな、青木、人生はいいかげんじゃだめだ。フォークシンガーなんて書いたのは、お前らだけだぞ」そして僕は答える。「いいかげんじゃないから、歌を作るんですよ。先生!!」

 「青木なぁ、歌をうたうなら、それなりに勉強もしなくちゃならないし、大変だぞう!!」「それをしないのがぁ、フォークシンガーのいいところですよ」。結局、先生は最後に、「しっかりと、自分の人生は考えるように!!」と僕らに言った。(もーう、大丈夫だってぇ・・)

 「じゃあ!!」先生は、中庭から職員室に戻っていった。ベンチに残っている僕ら。「まいっちゃうねぇ」友達と僕は、せっかくの昼休みを損した気分でいっぱい。「もーう、わかってないんだよねぇ」友達のほうは、半分冗談のつもりで書いたっていう。僕は100パーセント本気だった。それにしても、他のみんなは何て書いたのかなぁ・・。

 他のみんなは何て書いていたのかなぁ? まったく想像がつかなかった。将来なりたいもの。小6の時は、競輪の選手だった。その時みんなは、ハチャメチャな事を書いていたのに、この三年でみんな変わったようだった。

  あの昼休み、先生は何が言いたかったのだろう? よく考えると、もうその時、僕はフォークシンガーだったような気がする。話が合わないわけだよね。1/11 バイトで大きな会社のアルミ木戸の鍵を借りて開けたものの、閉まらなくなってしまった。もう建物がゆがんでしまっているのだ。悪戦苦闘の20分。全身の力を使って、むりやり閉める。まだまだ仕事は残っていたが、まったく力が入らない。ぬけがらのような午後、夕方、夜・・。ほんの1 ミリの戦いで。

「へんな唄いれただろう物語」1/13

 テレビの熱血野球漫画「巨人の星」では、ときどきストーリーとは関係なく、ずっと昔の野球選手を回想する時があった。それはいつも「〜〜物語」と言うタイトルで、流れの中に、はさまれていた。今日は、そんな感じで僕も書いてみよう。フォーク特別編「へんな唄いれただろう物語」

 まだ僕の家が古い木造だった頃、冬、木の雨戸は風が吹く度にガタガタと鳴り、外は夜9時ともなれば、誰も歩いていない。街灯はまだ白い傘に電球で、ふかあい夜の底に吸い込まれるようについている。

 '71年。ここは兄キの勉強部屋。レコードが鳴っているが、じっと黙っている。そう、買ってきた、はじめてのカセットテープレコーダーに録音しているのだ。スピーカーのそばに置いた、縁が銀色の重たいテープレコーダー。「ゼッタイにしゃべるなよ!!」

 一本しかないカセットテープへの録音。スイッチONで、ゆっくりと回るカセットの丸い黒。巻き戻しを待ってる間の不思議な時間。その頃、まだまだカセットテープレコーダーを持っている家は少なかった。録音する事の難しさといったら・・。

 買ってすぐ、近所に住んでる兄キの同級生が、「おぅ、二日間、テープレコーダーを貸してくれっや」って言ってきた。「月曜日もってくっからのう」そう言って、夜に機械を抱えていった。そして月曜日の夕方、僕がひとりで家に居ると、約束どおり返しにきた。「兄キにのう、ありがとうってのお、言ってくれっや」「うん」

 買ったばかりのテープレコーダーだったので、二日間でも、ずいぶん長いように思えた。兄キが帰って来て、テープを再生すると、なんだか妙な唄が入っていた。もちろん声だけだ。「♪こーんやのよーぎいしゃでぇー、たびだつおーれだが、あてなどなーいけど、どーにかなぁーるさぁー」なんだか、寒々とした夜に、ほんとに夜汽車に乗って行くような気がした。

 一曲まるまるアカペラと言うのは、ながーく感じるものだ。「へんな唄、いれてぇ」と、兄キはそう言っていた。おじさんくさかったのだ。僕も一緒に聞いていたけど、うまく歌いあげられていて、(いいなぁ)と心では思っていた。そのうちおぼえてしまった。「♪どーにかーなぁるさぁー」

 後日、兄キとその友達が、その事について話していた。「なんだよう、あの唄。おめぇーの作った唄だかっや?」「あの唄はのう、へぇけっこうヒットした唄だてえ、知らんけえ?」「ほーう、そっけえ、おめっちゃあ、おもしい声してんのう、だーれが歌ってるのかと思ったっや !!」

 僕はずーとその唄と声が忘れられなかった。もちろん、かまやつひろしのヒット曲だ。あれから30年もたっているけれど、田舎でその人に会うと、どうしてもその唄と声を昨日のように思い出してしまう。本人もまたおっとりした人なのだ。今でも、おぼえているかなぁ?

 僕も友達から今度、テープレコーダーを借りたら、「♪どーにかーなあるさぁー」をアカペラで入れて返そうかな。1/12 やっと明日から土日だ。なんだかものすごく嬉しい。正月休みが長すぎて、体が(休みがいいよ)って言っているのだ。この土日、なんでもできるような気がして来る。新曲作らないとね。

「時の過ぎゆくままに・・」1/14

 '70年代真ん中、フォークブームは歌謡曲の方まで、押しよせていった。布施明の「シクラメンのかおり」はレコード大賞も取った。テレビでマーチンD45(最高級ギター)を堂々と、毎回弾いていた。悔しかったけれど、見ちゃったんだよね。でも、それはプロの歌い手が、フォークを選んだっていう印象だった。

 同じ頃のこと、沢田研二の歌った「時の過ぎゆくままに」の方は、歌謡曲でありながら、なぜかアコースティックギターがぴったりとはまる歌だった。僕はこの歌を、あの頃の、アコースティック歌謡曲の一曲に選びたいな。

 テレビ放送の歌のバックでは、長髪の人が座りながら、「ギルド」のサンバーストのギターを、ストロークで弾いていた。もうそれが、かっこよくて、かっこよくて。一緒にリードギターの人もいたと思うんだけど、例のイントロもばっちり決まっていた。楽曲も素晴らしかったし、ジャンルを完全に越えていた。

 フォーク雑誌の中にも、「時の過ぎゆくままに」は楽譜付きで紹介されていた。Emで始まるのだ。歌謡曲には珍しく、シンプルなコードで作られていて、意外にもすぐに弾けた。これが自分でも不思議で、すっかり気分は沢田研二。いつもはどろんどろんのフォークを弾いているので、歌う喜びがそこにはあり、とても新鮮だった。

 この歌のギターの弾き方のコツは、一定のストロークを波にように、うねるように、軽く弾くことだ。ホント信じられないけれど、あのギルドのサンバーストのギターは、サウンドにぴったり。時の流れという、あるようなないような存在が、音色とストロークで表現されていた。

 「♪あなたはーもーおー、つかれてーしまいー、いきてることさえー、いやだとないーたあー」歌詞は大人の世界だった。沢田研二が歌うから、かっこいいのかもしれない。「♪とーきーのーすぎゆくままーにー、このみをまかせえー、おとことおんなが、ただよいながらあー」

 最後まで歌いあげたときの充実感は、何なんだろう。作品の良さなんだろうなぁ。一番印象的な、イントロのリードギターはもちろん一人では弾けないので、口で言うのだ。「♪チャ、チャララ、チャララー、チャ、チャララ、チャララー」しびれちゃうよね。本当。

 「時のすぎゆくままに」を部屋で、ギターで歌った人は多いはずだ。歌っている自分を、カガミでチラッと見た人も多いはずだ。中三の僕はスポーツ刈り。ああ、いっときだけのジュリー気分。「♪とーきーのーすぎゆくままーにー」の「♪ままーに」の所が、キーポイントでした。1/13 ここ最近、古いフォークの歌ばっかり聞いていたら、世の中が、フォークとミックスされてしまった。電車に乗っても変だ。歩いていても変だ。すっかり中学時代の気持ちが戻って来ている。なんにも好い事もないのにウキウキしてきてしまう。変だ。

「ものひとつのドア」1/15

 見ると聞くでは、もちろん違うものだ。フォーク雑誌に載っている、一回も聞いた事もない、いっぱいのアーティストの名前と、そして写真。僕と友達は、ぜったい良いと信じて、URCレーベルのレコードを毎月、注文し続けた。

 岡林信康のレコードをひととおり買ったあと、続いてマイナー界の巨人たちを、一枚ずつ選んでいった。聞いたことはないけれど、欲しいいっぱいのレコード。でも僕と友達とで買えるのは、毎月一枚ずつだけだ。中二の後半は、出会いの連続だった。「よし、三上寛を買うぞ!!」「じゃあ、俺は"五つの赤い風船"だ」そして、テープに録音しあって、ひと月のあいだ聞き続けるのだ。

 「すげえいいよ!!」たいがいはそう言って、友だちに報告をした。岡林に育てられた、僕らのURCフォーク魂が呼んでいるようだった。でも、最新フォークヒットだって、まんべんなくもちろん聞いていた(と言うかラジオで流れていたからね)。 そんな、毎月注文したURCのLPレコード の中に"加川良"の「親愛なるQ に捧ぐ」があった。

 一曲目「♪なんにもーしらーない、おひとよしのぼくわあー・・」ではじまる、そのフレーズ。なんとも懐かしい感じで、歌い方のほうも、わら半紙のような、ざらついた、自分の声で告白的に歌っていた。心に響くように、ちゃんと伝わってくる。岡林ももちろん大好きだったけれど、なんだかとてもポップに思えてきてしまった。加川良の声の響きは、アコースティックギターそのもののようだった。

 僕は、もうひとつのドアが、ぎぃぃーと開くのを感じた。大事な事は、自分を見つけることだったのだ。ひとつの同じ言葉でも、豊かに伝えることはできる。なーんてね。すっかり感心&感動してしまったのだ。それは、また新しい旅のはじまり。

 そして僕らはどんどん、もっとマイナーな道を一直線に、僕らなりに探究していった。 1/14 夜、池袋まで電車でゆく。日曜の夜、11時過ぎの山手線は、独特の空気があるなぁ。結婚式の帰りの人達とか、疲れて無言のカップルとかね。それはずーと変わってない日曜の夜の山手線の空気だ。これが総武線だと、ちがうんだよね。

「ベスト30歌謡曲」1/16

 「今週の第一位!!」と言うと、みんなはどんな番組を思い出すだろう? テレビの歌番組、ザ・ベストテンを思い出す人は多いだろう。でも、僕の中では、'72年頃に始まった、「ベスト30歌謡曲」というテレビの歌番組の印象もまた強い。

 新潟では、テレビチャンネルが少なく、僕は毎週「ベスト30歌謡曲」を一番の楽しみにして、待っていた。小5か小6の頃だ。見はじめたとき、たしか拓郎の「旅の宿」が6位くらいで、チェリッシュ(バンドだった頃)の、「なのにあなたは京都にゆくの」も10位くらいに入っていた記憶がある。司会はもちろんキンキン(愛川欽也)。

 ニューミュージックという言葉が広まる前、シンガーソングライターは、フォークと呼ばれていた。フォーク、そして歌謡曲。今ではJ-POPと呼ばれ、その境はほとんどなくなっているが、その頃はまだ、フォークと歌謡曲とは別のものという印象があった。僕は「ベスト30歌謡曲」のランキングをながめながら、もちろんフォークの応援をしていたのだ。

 スタジオ内を駆け回って、写真付きの大きな順位パネルを、10位ごとにひっくり返してゆくキンキン。その中にフォークが入っているだけで、どんな歌であれ、誇らしい気持ちになった。フォークのジャンルにこだわっているような僕なのに、ヒットするフォークの曲はみんな好きなようだ。

 「ベスト30歌謡曲」の楽しみは、フォークの順位だけでなく、実際スタジオで、歌ってくれるフォークの人が多かった。いつも(無理だろうなぁ・・)と、こころの中で思いながら見る。すると、なぜか登場して、歌ってくれる。初めて見るその姿。もう、テレビに釘づけになってしまう。

 「神田川」が第一位になったとき、たしか「かぐや姫」がスタジオで歌った。フォークの歌が第一位になったのも嬉しかったれど、本物を見れたのも嬉しい。ビデオはまだその頃はなかったので、今もしっかりと僕の目の中に残っている。吉田拓郎とかまやつひろしも「シンシア」を歌いに来てくれた。それは奇跡のようだった。

 歌謡曲に対してのフォーク。「ベスト30歌謡曲」の中にフォークが入っていると、なんだか自分たちの代表として、頑張ってくれているように思えていた。どの歌も好きだった。みんな友達だった。

 そしてニューミュージックと呼ばれる頃になると、スター扱いになる人も出てくるのだった。1/15 東京の町の中、いろんなところが凍っていた。バケツの中のホースが、丸い氷とともにくっ付いていて、もちあげてみたら、なんだかあの大阪万博の「太陽の塔」みたいで、おかしかった。

「国産フォークギターの城」1/17

 '70年代、楽器屋さんには、生ギターがずらりと並んでいた。

 「マーチン」「ギブソン」プロの歌い手の使うギターはもちろん高い。僕らの買うギターは、もちろん安い。僕は中学のとき、ありったけのギターのメーカーに、「カタログを送って下さい」とハガキに書いて送った。そして集まったギターカタログの山。

 '74年頃、国産のギターには、ある程度、相場というものがあった。それはそれは、輸入ギターの値段に比べたら、小さな値段の差だった。でも僕らにとっては、大きな大きな、違いだったのだ。2000円や5000円の差で、どれだけグレードが変わっていったことか・・。

 「F」と言うのは、ボディの小さなフォークタイプをあらわし、「W」はボディの大きなウエスタンタイプをあらわしていた。今もその表記は変わらないが、どちらの名前も、おかしな感じではある。フォークタイプの方がもちろん少し安い。値段が高くなると、ギターのふちどりに白い「セル」というものが付くのだった。

 F-150 (一万五千円)。どこのメーカーでもここから始っていた。セルなし。意外とこのギターを持っている人は多かった。「兄キが買ったんだよ」と言う人が、なぜか多い。フォークブームの始まりの頃、よく売れたのではないか。

 W-180 (一万八千円)。ウエスタンタイプの一番安いヤツ。セルなし。糸巻きが安いのが付いている。これは買う人があまりいない。それは、その次にW-20とかW-22が出ているからだ。このギターを選ぶ人は、「とりあえず一番安くてかっこいいのを」と言って買ってしまうのだろう。

 W-20、W-22、(二万円、二万ニ千円)。初心者はだいたいこの二つの値段から選んでいた。ボディには白セル。糸巻きもひとつグレードアップ。やっぱりボディに白セルの力は強い。「俺はギターを買った!!」と言う言葉にふさわしいタイプだ。いちばん安いヤツからひとつ上と言うのも、効いている。音もそのぶんちょっといい。

 W-25 (二万五千円)。 W-20とほぼ同じだか、音の方は、かなり良くなる。(その"かなり"と言うのが微妙) 同じ音質ながら音に伸びが出ていた。W-25はすごく買い得だったのに、なぜか買う人は少なかった。僕は友達にはこのW-25を薦めていた。糸巻きもまたひとつグレードアップだ。

 W-30 (三万円)。一番はじめにこのギターを買う人は、きっと「せっかくだから、損をしないものを」と言って、選んだのではないかなぁ。音に厚みが出てくる。ネック(持つ所)まで、白セルが来る。音はW-20に比べると、格段に良かった。W-20とかを持ってる友達が、このへんのギターを弾くと、音の違いにショックを受けるんだよね。

 W-40 (四万円)。ここは、とりあえずひとつのくぎり。ヘッドまで白セルが来る事がほとんど。表面板が、合板ではなく単板になるケースが多い。音は、単板により、まろやかな繊細さと、どーんとした響きも出ていた。たいがい、二台目のギターはこの辺で、落ち着いていた。一応、憧れのギターであり、高校になって、バイトでお金をためて買うというイメージがあるなぁ。

 W-60 (六万円)。ここからが別格のシリーズ。手工製になり、糸巻きもまたひとつグレードアップすることがほとんど。「本物の響き・・」と言うキャッチフレーズが似合っていた。このへんが国産ギターで一番、音と値段のバランスがとれていたようだった。

 W-80 (八万円)。どのメーカーでも、自信作というギターを作っていた。たいがいはこのW-80のギターだった。八万円。この値段は、国産高級ギターのイメージをひとりじめにしていた。どのメーカーのカタログにも、代表のギターに選ばれていた。中学、高校生では、あまり持っていない。憧れは憧れのままだったのかも知れない。そしてW-100以上は、国産の最高級ギターと呼ばれていた。

 現在、その頃にあったギターメーカーは、ぐーんと少なくなった。それも国産ではなく、東南アジアや韓国製がほとんど。値段と白セルの関係もなくなった。そうそう、エレアコに変わって来たんだよね。そして割り引き天国・・。

 '70年代、楽器屋さんには、生ギターがずらり並んでいた。2000円、5000円の違いで、腕を組み悩んでいる、学校帰りの中学生の姿は、フォークブームを代表するシーンのようだ。1/16 札幌から、友達が泊まりに来た。「この前来たの去年だったっけ」って言ったら、「一昨年だよ」と言われてしまう。一年も記憶が飛んでいたのだ。♪こーんなことは、いままでなかった・・

「まね唄作り」1/18

 ギターのなかった中2の時、フォークのLPをいっぱい買った。ギターは弾けたのに、ギターのなかった、あの1年間・・。その苦しさと言ったら辛い限り。そして中三のとき、やっと買ったフォークギター。同時にそれは、まね唄作りの始まりでもあった。

 赤いビニール革のノートの表紙に「Song Book」と書いて、さて1ページ目。この一年の間、聞き続けた唄が、いろいろと甦ってくる。まね唄を作ることには、何も悩まなかった。僕は楽しく書いていった。

 その頃よく聞いていたのは、関西フォーク系だったので、歌詞で自分の事を「オイラ」と表現した。そのなんとも自然なこと・・。まず、好きな歌のタイトルと似たタイトルを考える。そしてそのメロディーをくちずさみながら書いてゆく。それはもう、なりきりSONGと言うか・・。

 岡林の「自由への長い旅」と言うタイトルなら、それがなぜか「明日への遠い道」になってしまう。加川良の「ゼニの効用力について」は、「ゼニ&札」と言うタイトル。もう、つぎつぎと、まね唄はそうやって出来ていった。

 授業中、ひまになると(常にひまだったが・・)、いらない紙に、まね唄の歌詞を書いていった。大好きな唄と似た歌詞だから、それはそれはすぐに出来た。今見れば、なんとも恥ずかしいが、その頃は、同じような歌詞に思えたのだ。一時間にひとつはすぐ出来た。つまり、ひまな授業が、一日に四時間あれば、歌詞も四つ出来たのだった。

 フォーク友達が、うしろの席に居たときは、出来た歌詞を授業中そっと渡していた。「何の唄が元だかわかる?」。友達は、しばらくして僕に歌詞の紙を返してくれる。ひっくり返すと、いつもイラストが書いてあった。原爆頭の男がギターを弾いている。「これ、なに?」「頭脳警察のパンタだよ!!」その頭の髪の大きさは、どんどん大きくなっていった。

 ある夏の日の授業中のこと、理科実験室がなにかで、「コカ・コーラの唄」の歌詞を切れっぱなしの紙に書いたのだが、落として来てしまった。次の日、廊下で喋ったこともない他のクラスの女の子から、「これ、忘れもの・・」と言って渡された。よく言う"顔から火がでる状態"だった。もうそのクラスのみんなに、歌詞の紙は回されていたのだ。そのクラスの友達が、「あの歌詞よかったよ」とか言う。このときはまいったなぁ・・。

 学校から家に帰るとすぐ、歌詞にメロディーをギターで付ける。次々にすぐ付けられた。なんとなく元唄とそっくりだけれど、なんとなく唄にはなった。そして、赤いビニール革のSong Bookに書いてゆく。あっと言うまに、一冊がうまってしまう。

 そのうち、さすがにボツ歌詞も出るようになったが、どんどん「まね唄」は生まれていった。そしてなぜか、Song Bookは赤い表紙のノートブックでないと、いけなかった。「Song Book1」「Song Book2」「Song Book3」・・。僕のまね唄作り。1/17 急に冷え込んだせいか、足のカカトにあかぎれがつぎつぎ発生。もう痛いのなんのって・・。つま先で歩く。どうしてあんなに痛いんだろう? まあ、二三日すれば、痛くはなくなるが・・。 誰か、あかぎれ対処法を教えてくださいな。

「ニューミュージックとは何ぞや?」1/19

 おかしな言葉を発明したものだった。さて、ニューミュージックとは何ぞや? フォークと呼ぶには、フォークではなく、歌謡曲と呼ぶには、歌謡曲ではない。'74年頃から、それがニューミージックと呼ばれ出していた。

 もちろん、はじめは「ニューミュージック」と呼ばれるべき歌のムーブメントがあったのだろう。特に東芝EMIの、ユーミン、ハイ・ファイ・セットの流れは、フォークと呼ぶには、とってもオシャレで、ニューミュージックと呼ぶにふさわしかった。

 フォークは主に、生ギター引き語りのイメージがあったのに、そのうちフォークの方までニューミュージックという言葉が、押し寄せて来て、シンガー・ソング・ライターはみんなニューミュージックと呼ばれるようになっていった。僕もレコード店にいたことがあるけれど、ジャンルわけに困るんだろうね。「これってフォークじゃないよなぁ」

 僕が中三になった'75年頃は、シンガー・ソング・ライターパワーは花ざかりだった。どんどんヒットチャートに登場してくるようになっていた。バンド系も全部、ニューミュージックのジャンルに入っていた。そのうち、はっきりフォークはフォークで、「これはフォークだね」と言う言葉をもらうようになった。なぜか、ちょっとだけ暗いイメージを含んで・・。

 生ギターふたり組なのに、 レコードではなぜか、ポップスのアレンジになっているなんて、当たり前だった。はじめから、ラジオや、ヒットするのを予想していたような感じがするものもある。今、聞き直すと、ちょっと恥ずかしくなるような、歌謡曲風アレンジ。でもその頃は、それで自然だった。ニューミュージックの特徴は、きっと、妙に聞きやすいというところにあるように思う。

 「フォーク」。フォークと言う言葉もきっと、旅をしてきたのだろうね。はじめは純粋に、大衆の歌で始まって、そのうち、生ギターを使えばみんなフォークと呼ばれたのかもしれない。「あれはフォークじゃない!!」「フォークっていうのはな・・」いつの時代にも、ジャンル分け議論はある話だ。

 いろいろ書いてきたけれど、いつしかニューミュージックと言う言葉も消えてしまった。「俺は、ニューミュージックじゃない!!」と誰かが言い出したのだろう。そうそう上条恒彦が歌っていた、テレビ「木枯らし紋次郎」のテーマソング「誰かが風のなかで」なんて、ジャンルミックスだものね。あれは「歌」と呼ぶしかない。1/18 渋谷アピアに、アコーディオンのオランのライブを聞きにゆく。歌いはじめた瞬間に、僕の方の新曲のイメージがやって来る。こんなふうに歌がやって来る事が多い。理由はわからないけど、楽だなぁって自分でも思う。でもイメージを形にするのは、大変。

録音狂時代・1「なーんか違う」1/20

 「ああ、エコーがあればなぁ・・」

 自分の歌を録音して聞く。そのなんとも素晴らしいこと。中三のとき自分のギターを持ってから、毎日ように録音をした。いや、録音しないと、気が済まなかったのだ。それは、ひとつの喜びだった。録音したものを聞く。「ダメダ、コリャ!!」そしてまた録音。

 その初期は、ヒットフォークの録音からはじまる。フォーク雑誌にある歌える歌は、ぜーんぶ録音する。まずは、本人パターン。それから自分パターン。そして変化系。しかし何度録音しても、レコードのようには聞こえない。

 「やっぱり、エコーがないんだよね。エコーさえあれば、きっと、ぜったい・・」テープレコーダーを、タンスの上に置いて録音してみる。なーんかちがう。「やっぱり風呂場だ!!」風呂場といえばエコーだ。風呂釜に片足をかけ、録音。再生。「なんかちがう!! 」

 「やっぱりマイクを使わないからだ」原因は絶対それだと思った。僕は安い800円くらいのマイクを手に入れ、また録音する。しかし結果はもっとひどくなるばかり。「やっぱり安いマイクのせいだ」そんな録音狂時代、初期。

 中期に入ると、コピー譜の忠実再生時代がやって来る。好きな弾き語りシンガーのSONG BOOKを買って練習して、ギターテクニックをそのまま、録音するのだ。これは時間がかかる。かならず途中で失敗する。巻き戻しボタン。ストーップ。録音。その繰り返しだ。半日かがりでの1曲の録音。そして何度も何度も聞く。寝る前に聞く。朝起きて聞く。

 録音用の"何でもテープ"というのが、何本かあった。繰り返し使うテープだ。ダビングなんてできなかったあの頃、ベストテイクをよく消してしまった。失敗が続くと、両面おなじ歌ばかり。「あれー、どれがよかったんだっけなぁ」巻き戻し、ストップ、再生。「これだ!!」そして聞いてゆくと、「あー、失敗したー。ガッチャ!!」とか入っているのだった。1/19 郵便局の前、午後7時50分。8時が郵便収集の最後。切手の自動販売機で切手を買うが出てこない。しかし文句を言っていたら、間に合わない。財布の中の小銭では、切手が全部買えない。いつもはあるはずのポケットの小銭はなぜか100円玉がない。そして使えない一万円札しかない。そして近くにコンビニはない。とりあえず、80円一枚、50円一枚買う。しかしなぜか50円切手をどこかになくしてしまう。ああ、ポケットに100円あれば・・。しかたがない。夜間窓口に列んで切手を買おう。あと8時まで3分もない。僕の前のおばさんが、ながーい話をしている。年賀ハガキで海外に出したいって言う。一度終わったのに、また話をしている。そしてやっと切手を僕は買えた。買えたけれど、もうポストを開いて局の人が集めていた。結局僕は間に合ったのだが、出したあとで、貼る切手の金額をまちがえていた事に気付いた。

「くやしいけれど拓郎」1/21

 拓郎のファンは多かった。僕もヒット曲は知っていたし、友達がギターでいろいろ弾いてくれた。家に遊びに行くと、アルバムがかかっていたりして、自然と歌もおぼえてしまった。いいなぁと思っていたけれど、あまりに好きな人が多くて、素直に僕は、好きだとは言えなくなっていた。

 ある友達は、一番のレパートリーが「マーク2」と言う歌だった。「♪さよならーがーいえないでー、どこまーでもーあるいたあーねえー」Emがばっちり決まっている歌だ。「♪としおいーた、おとこがー、かわのーながれをーみつめて、・・」その印象的な最後のフレーズ。また他の友達は、「落陽」ばっかり歌っていた。「♪しぼったばかりのをー、ゆうひのあーかがあー、すいへいせんからー・・」「♪あのじいさんときたらあー・・」ギターフレーズは、ジャン・ジャ・ジャン・ジャ・ジャンジャジャン・・。

 僕もSONG BOOKでよく拓郎を歌ってみた。「♪おかあーにのぼってげかいをー、みるうとー、みしらぬせかいが、そこーにああるうー、ひとはー・・」いいなぁ。「♪ひとつのりんごをー、きみがふたつにきるー・・」これもいい。知ってる歌は、どの歌もよかった。(まあ、拓郎だしなぁ・・) とか思って勝手に納得していた。

 あるとき拓郎ファンの友達が教室で、僕にギターで歌ってくれた。「♪にんげんなんてー、ララララララララー、にんげんなんて・・」有名な歌だとは知らなかった僕はなにげなく聞いていた。その帰り道、友達は言う、「えっ、"人間なんて"にアオキ、感動しない?」「あああ、そうだね」「なにそれ!! あの歌はなぁ、すげえんだよ!!」

 素直に拓郎の歌を「いいね」って言えなかった僕だったけれど、かまやつひろしと歌った「シンシア」だけは、自分からコピーして何度も歌った。「♪なつかしいーひとやーまちをーたずーねてー、きしゃをーおりてーみいてもー・・シンシアーふぅふぅ、きみのこえがー」

 拓郎の歌は、歌い出しが今思っても、どれもいい。メロディーと歌詞がぴったりだ。僕が好きだった歌は、友達が歌ってくれた「ともだち」と言う歌だ。「♪やるーせない、おもいをむーねに、とーもーだちは、さーりーまあしたー・・」

 僕は今でも、そこまでしか歌えない。でも「ともだち」と言うフレーズがこころに浮かぶとき、この歌が出てくる。たった一行しか知らないのに、こんなに歌心をくれるなんて、くやしいけれど拓郎。1/20 ひさーしぶりの土曜のOFF。一日予定がないなんて、なんて幸せだろう。朝は夢をちゃんと見た。昼は昼寝をした。手紙も書いた。雪も降った。

「器楽クラブ」1/22

 オイッシャ、オイッシャ。俺たちは堂々とギターを学校に持って来る。今日は金曜日。クラブの授業がある日。ハードケースはグレイトな持ち物だ。弾くんだぜもちろん。「器楽クラブ」だもの。

 中学の時、部活動の方は卓球部だった。それとは別に週に一回「クラブ」の授業があった。「器楽クラブ」もちろん本来は、いろんな楽器を持ち寄り、そして演奏する目的だったはずだ。しかし、それは同時に、ギターを学校に持って来てもよいと言うことにもなりえたのだ。

 中3の時、僕と友達は「器楽クラブ」を選んだ。あの威張っていた先輩たちもいない。やっぱりね、ギターと言えば、アオキが登場しないと・・。ギターを学校で弾きたいと、そう思っているのは僕だけではなかった。フォークブームのせいもあって「器楽クラブ」は大人気だった。

 金曜日の朝、黒いギターケースを持って、家を出る。もちろん重い。重いけれど、それは(大事なギターが入ってますよー)ということなのだ。商店街を抜けてゆく。友達にも会う。小学生にも会う。同学年の女子にも会う。路地を曲がってゆく。朝、登校の時、ギターを持ってゆく不思議。ああ、たった一時間のために。

 そして学校に着く。教室の後ろの隅にハードケースを置く。これがまたカッコいいのだ。昼休みは、音楽室に行って、友達に日頃のテクニックを披露。「すげーよ、アオキー!!」。さて、午後の5限はそう「クラブ」の時間だ。「器楽クラブ」はホント自由そのもののクラブだった。年に二回「発表会」があり、そこで練習の成果をみんなの前で、演奏するだけなのだ。

 年二回の発表会。僕と友達は何をやろうか考えた。普通ではつまらない。やっぱりカッコよく決めたいよね。一週間くらい前から打ち合わせをして、そして練習。僕らは岡林の「絶望的前衛」という歌を選んだ。「♪わたしはまえなんてむいてあるいたーことがないー」という内容の歌詞だった。希望を歌った唄なんだけどね。

 僕らの出番が近づいてくる。「キラキラ星」を演奏する、女子たちもいた。「22才の別れ」を歌なしでやる後輩もいた。さて出番。ギター二本で登場。すると「しぶいよう」と誰かの声がする。「タイトルは絶望的前衛です」そこまではよかった。

 しかし、歌のキーが低すぎて、もごもごと歌って終わってしまった。大失敗!! 初めてちゃんと歌ったのに、キーが低すぎた。これじゃあ、ほんとに"絶望的前衛"じゃないかぁー。くやしかったなぁ。ギターは、ばっちりだったのに・・。1/21 渋谷アピアにて、ネットの友達と待ち合わせ。探せるか心配。僕を見つけてくれるといいなぁ。初めて会う人。ライブとかでも、電車でも、初めての人がほとんどなのになぁ。不思議な気持ち。

「LP100枚分のヒットフォーク」1/23

 中学の終わり頃だった。ふらっと楽器屋に寄ると、楽譜コーナーの左下の方に「LP100枚分のヒットフォーク」と言う分厚い本が、A・B巻で置かれてあった。表紙には重ねられているLPの写真。(きっと100枚!!)

 (おい、これは何だ!! ) さっそく開いてみると、あふれるばかりのヒットフォークが、コード付きで載っているのだった。それも、三分の一はギター用タブ譜付きで・・。陽水・拓郎・かぐや姫・岡林・NSP・他、ビックアーティストは、今までに出たLPが全部タブ譜になっていた。(うわー、買わなきゃ) 一冊2500円。

 2500円と言えば、LP1枚分の値段だった。LP1枚分の値段で50枚分のヒットフォークが弾けるとは・・。何人かで一緒に作ったらしく、手書きの歌詞の部分が、いろんな人の文字になっていた。それは、この本の内容の濃さを物語っていた。

 ほとんどのフォークヒットは、その本の中に書かれてあった。ちゃぶだいの横、勉強机の横、コタツの上、常にそのA・B巻の分厚い二冊は、ギターとともに一緒にあった。拓郎が歌いたくなれば拓郎のページ。岡林なら岡林のページ。懐かしいフォークヒットなら、懐かしいフォークヒットのページ。目次で引いて、さっと出す。そして歌う。まるでフオーク辞書だ。

 努力と汗の結晶のような、あの「LP100枚分のヒットフォーク」の本。よく出したなぁーと思う。僕は本当にお世話になった。どのくらいお世話になっているかは、言葉では言えないくらいだ。ただひとつ、おおきな欠点がその本にはあった。それは、分厚すぎて、すぐ本の背が割れてしまうのだ。今では、A巻もB巻もボロボロになってしまった。ページをつなぎ合わせるのは、ちょっとしたパズル。

 きっと言い出しっぺがいたのだろう。フォークブームの中、売れて売れてしかたがなくなると思ったはずだ。本が完成したときは、「やったー!!」と飲み明かしただろう。夢に満ちた夜だったにちがいない。ありがとう。今も本は机のそばにあります。苦労ばなしを聞きたいな。その夜はおごらせてもらうよ。1/22 いっぱいの事が重なって、時間がパンクしてしまう。徹夜の予定が、横になったら、まぶたがなまりのように、開かない。地球が回っている。体が磁石になっているよー。ふとんにペタ。

「なりたかった人」1/24

 なりたかった人は、LPジャケットの中にいた。

 僕は、小さな町じゅうを回って、LPと同じウエスタンシャツを探した。でも結局ない。で、とりあえず似たようなウエスタンシャツを手に入れた。着てみる。それはもう東京、吉祥寺気分。

 次はストレートジーンズだ。時代はアイビールック全盛。みんなスリムばっかり。ストレートジーンズは芋っぽい印象が、少なくとも僕の回りにはあった。しかし、レコードジャケットの中のその人がはくと、実に自然でかっこいいのだ。ホントは Leeが欲しかったけれど、とりあえずボブソンで我慢した。

 ウエスタンシャツ、ストレートジーンズときたら、やっぱり、茶色のブーツだよね。運動靴じゃサマにならない。僕は、「一生ものだから!!」とおねだりをして、なんとか茶色いブーツを買ってもらった。ひと足ごとにかっこいいオレ。いや、まだまだ。

 問題はベルトだった。その人がレコードジャケットの中でしているベルトは、太い茶色のベルトだ。そしてその同じ止める金具が、どこにもないのだった。60キロも離れた隣の大きな町まで、探しに行ったけれどなかった。まあ、いいか。太い革の茶色いベルトでよしとしよう。

 あとは髪型だ。その人は真ん中わけで、肩よりも長く伸ばしていた。これは時間がかかった。時間がかかったけれど、そのとおりに僕も伸ばした。もう完璧に近い。その人は、壁によりかかり、まぶたをしかめて遠くを眺めている姿が似合っていた。僕も真似してやってみる。良い感じだ。

 それにしても僕は、なぜにそこまで、なりたかった人のファツションを真似したのだろう? そこには、その人の愛している空気があったからだ。僕も同じ空気を吸いたかった。

 高校一年の遠足の日、学校に私服で来ていい事になった。僕は好きなそのフォークシンガーとそっくりな格好で学校に行った。ウエスタンファッションの男はもちろん僕だけだった。ストレートのジーンズに革のブーツ。青木君、渋いよ。レコードジャケットと同じように、両方の手を半分だけ前のポケットに入れてみる。

 そして、少ししかめた目で遠くを眺めてみた。何を眺めていたのだろう? きっとそれは、さわやかに晴れていた、秋晴れの空だったにちがいない。1/23 帰りの電車で、座っていると、ふたりの背広を着た、役員風のオヤジが、僕の頭の上で、最近の社員のなっとらん話をずっと喋っていた。そういう事は話したっていいんだけれど、僕の頭の上だけは、やめていただきたい。よろしく!!

「架空コンサート、深夜1時」1/25

 ライブコンサートのレコードは、ビデオではなかった。

 でも、中ジャケの数枚の写真は、じゅうぶんにイメージの中で、映像になってくれた。架空コンサート、深夜1時。僕は、コタツの隣に立ち、大勢の拍手を聞く。ワー、ワー、ワー。

 「ありがとうー!!」僕は、もちろん僕だったり、レコードの中の誰かだったり・・。ギターをジャラーンとひと弾き。一曲目だ。タータラ、タータラ、タータラ、タータラ・・とストローク。「♪おーよぐさかなのむれにー、いーしをなげてみた・・」この夜は、"かぐや姫"だったようだ。

 テレビのある部屋。蛍光灯のヒモが、もちろんマイク替わり。壁ぎわに置いてある、カガミの角度がむずかしいんだよねえー。「♪おきててもー、なんにもいいことないみたーいー。うたえないじゃーないかようー!!」なぜか、急に拓郎になってる。そんなことは知らない。これは架空コンサートなのだ。

 コタツの横を通り、階段の途中に置いた、テープレコーダーの録音スイッチをそっと入れる。録音は意識してはいけない。さあ、さてさて、うまく録れるかな。本番は始まる。見えないベーシスト、見えないドラマーのみなさん。よろしくお願いします。

 ときには、"五つの赤い風船"のように、ひとりで、グループ全員にもなったりした。見えないコーラスと歌う。さすがにグループはむずかしいね。「♪おー、いーまーもむかーしもー、かわらないはずなのにー・・これがぼくらのみーちーなのかー」観衆の歌声も聞こえてくる。「もういっかーい。♪おー、いーまーもむかーしもー・・」

 鳴り止まない拍手が聞こえている。そのままの気分で、僕はゆっくりコタツの横を通り、階段のテープレコーダーのスイッチを止める。「よし!!」コタツの真ん中に置いて、再生。サッシ戸の外は、まっくら。雪の残りが白く写っている。もう2時じゃないかー。1/24 よしだたくろうの中古CD を探しに、いろいろと回る。おい、どうしたんだ。どの店にも、一枚もない。いまブームなのか。結局、新品を買ってしまう。こんなにすんなりと聞けるなんて、うそみたい。

「学校の朝」1/26

 「すげぇ、いい歌みつけたよ!! 昨日ラジオ聞いた?」

 僕は中学生。おんなじクラスのフォークファンの友達に、朝に話す歌の話。と言っても、友達は聞いていないのだから、説明がむずかしい。「んー、冬がなんとかって歌。うたっているのはねー、なんか野菜の名前」「どんな歌だよ?」「なんかねえ、ギターが、かっこよくジャーン、ジャーンって最初に入るんだよう」・・。

 古い唄を偶然にも聞いたときも、感動の朝だった。「おい、聞いたよ。泉谷の"春夏秋冬"のオリジナルのやつ。いやぁー、いいよ、あれ」「へえー、ライブ盤とはちがうんだ?」「すげえ、地味なんだけど、感動するの。あれは名作だね」「へぇー、誰かLPもってないかなぁ・・」

 また、こんな朝もある。「俺、今日、高山厳のLP注文するよ。あの"おかあさん"って唄、俺すげえ好き」(高山厳はこの頃、ピアノ弾き語りシンガーソングライターだった)。 「今月はねえ、俺は"古井戸ライブ"を買ってみようかな。なんかいいような気がするんだよね」学校帰り、レコード屋で一緒に見る、「古井戸」のコーナー。

 テレビの音楽番組の話も、多かったなぁ。「昨日見た? 海援隊。"母に捧げるバラード" 歌ってたね」「見た、見た。あの髪、すごいね。それにしてもあの唄いいねえ。気に入っちゃったよ」

 学校の朝、それは、小さなフォーク旅の、発見報告だった。夕方には、また、発見の旅がはじまる。本屋に寄り、レコード屋に寄り、楽器屋に寄り、家に着いたらギター三昧。テレビを見て、ラジオを聞く。「きんちゃんのー、どーんといってみよう」「コッキーポップ!!」「フォークビレッジ」「オールナイトニッポーン」ああ、今日も収穫がいっぱいだよ。フォーク毎日の毎日フォーク。1/25 今日、子供にバイト中に、「おじさん、がんばって!!」とか言われてしまう。よくある話だとは思うけれど、いったいおじさんて、いくつからなんだろう? ぜんぜん自分では、おじさんなんて思っていないので、僕はどうしたらいいんだ。

「ルーツもどりの旅」1/27

 僕の大好きなシンガーはみんなハーモニカを吹いていた。そしてボブ・ディランに影響受けているって言う。(そうかぁー)とは思っていたけれど、ディランの唄を聞くチャンスがなかった。

 そんなある日、階段を登り、二階の部屋に入ろうとしたとき、かけっぱなしのラジオから、唄が流れていた。しわがれた声、そしてハーモニカ。僕は、一度もボブ・ディランを聞いたことはなかったけれど、ぜったいそうだと思った。そうだと思って僕は聞いた。(ほんとにそうか?)

 ほんとにそうだった。それから何年かたった高校1年の終わり、朝、FMでディラン特集をやっていて、僕は学校に行く前、ギリギリまで聞いていった。その中の「ミスター・タンブリンマン」が、耳に残ってしまった。

 (やっぱり、あのラジオはディランだったんだ) そんな事よりも、「ミスター・タンブリンマン」のリフレーンのフレーズが、頭の中で鳴り続けていた。「♪ヘーイ、ミスター、タンブリンマーン、プレイ、ア、ソーング、フォー、ミー・・」それは、歌い方のせいもあるだろうけど、ほんと、メロディーと言葉の響きが、イメージをふくらませていた。

 「よし、帰りにレコード屋で、ボブ・ディランを買おう」みぞれまじりの日だった。僕はとりあえず、「グレーテストヒッツ」買った。だって「ミスター・タンブリンマン」と「風に吹かれて」が入っていたのだ。家に帰って聞く。悪いわけがない。だって、「グレーテストヒッツ」なのだもの。

 好きなシンガーたちが、影響を受け、好きだって言う気持ちがよくわかった。好きなシンガーたちは、この感じを出したかったんだなと思った。はじめは弾き語りの唄が、いいなぁと思い、A面ばかり聞いていた。なんというか、英語なので何言っているかわからないのに、伝えたい何かが伝わってくるのだった。

 一日目、二日目、三日目とずっと聞き続けて、今まで聞いてきた、フォークとちがう感覚が動きだした。イメージで歌詞を聞き、メッセージを直感で受け取る。それにもましてディランの良かった所は、いいまわしがメロディーとぴったりで気持ちいいのだ。岡林信康もクニャクニャって歌っていたけれど、さすがに日本語では無理があるんだなって思えた。

 レコードには「36年間のディランのあらましの記録」という、細かい年表が付いていて、なかなか感動的だった。僕はディランのレコードを全部を集めることに決めた。日本のフォーク野郎は、一日で、ディランのファンになってしまった。

 「じゃあ、日本のフォークは? 」・・もちろん大好きだった。でも、高校に入ってからは、自分の歌をいっぱい作っていて、聞くよりも、作る方が楽しくなっていた。創作のためならなんだって、取り入れようという気持ちでいっぱい。みんなが歌い出したように、僕も歌いたかった。もちろん、ギター三昧の毎日。

 中学の時のフォーク友達と、バイクに乗って、60キロ離れた大きな町へツーリングに行った。僕は大きなレコード店で、ボブ・ディランのフォークアルバムの「フリーホイリーン」を見つけて買った。ディランとスーズが、腕を組んで冬のニューヨークの町を歩いてゆくジャケットだ。有名な歌がいっぱい入っていた。

 僕の大好きなシンガーたちも、みんなこうして買っていったのだろうなぁ。また60キロの道をバイクで戻って来る僕。運んでいるのは、'63年作品、名盤「フリーホイリーン」。ルーツもどりの旅。まだまだフォーク狂時代は続くのであった。1/26 町を歩いていて、おじいさんが見た事もないような、ステキな毛糸の帽子をかぶっていた。ショック。どこで手に入れたんだろう。僕には似合わないかもしれないけれど、見た事もないと言うところが、いいのだった。ある所にはあるんだねえ。

録音狂時代・2「歌テープ製作所」1/28

 中3になった頃から、自分の歌や、大好きなシンガーたちの歌を入れたオリジナルカセットを、次々と作った。

 カセットテープは本当に便利だ。忘れそうになる歌もテープに入れておけば、ばっちりってワケだ。カセットテープは本当に便利。英語のLPも日本語で入れれば、まるで日本語盤みたい。もう、いいところだらけ。

 やっぱりね、ある程度、歌がたまったら、録音しておかないとね。そしてギター奏法が決まったら、録音しておかないとね。新しい歌い方を、発明したら、ろくお・・・。一学期で一本ずつ、オリジナルカセットは増えていった。大好きなLPの自分の歌演奏テープもよく作った。

 「じゃあ、今日は、アオキタカオのLPでも聞くかな!!」そう言って僕は、有名シンガーたちと一緒にしてあるカセットテープの中から、「アオキタカオ」というのを選び、テープレコーダーを再生した。流れてくる自分の歌。「お、なかなかいいじゃないか、このシンガーは、特に曲がいいよね」とか言ってみる。そしてついつい最後まで聞いてしまうのだ。「感動しました!!」

 夜になるとこうだ。あらかじめ自分のテープを入れてある、ラジカセをなにげなく机の上に置く。そしてライトをいつもどうりにつけて、低音カットのラジオ音質にして、なにげなくそっとプレイを押してみる。(うーん、だめだ!! ぜんぜんうまくラジオのように聞こえない) くやしい、せっかく完璧に録音したつもりだったのに・・。

 (なにがわるいんだ) そして次の日からの探究録音は続く。そんな日々の中、一年に一本は、自分のオリジナルLP レコードカセット編を作った。この作業はなかなかに大掛りだ。ギター演奏法の決定。間奏・イントロ決め。ハーモニカの練習。アルバムタイトル決定。マイク選び、録音場所。(やっぱり一曲一曲、ちがう雰囲気を作らないとね )。さて、本番。

 ちょっと高いカセットテープを買ってきて、一曲目から録音してゆく。(やった、オッケー) 続いて二曲目。(んー、まちがえた) 巻き戻し。再度録音。そんな繰り返し。一番困ったのが、もう一度、同じ歌を、同じ所に録音するときだった。これは大変。メモリーカウンターをながめながら、録音してゆくむずかしさ。

 やがて完成する、オリジナルLPカセット編。そして「青木タカオ、誰々を歌う」シリーズ。それは今も残っている。1/27 がんこおやじのやっている、ラーメン屋に入る。(もしかしたら・・) 財布に、千円もないかもしれなかったのだ。(いやあ、あるはずなぁ・・。でももしなかったら・・こわいよう) さて、自分の財布にかけてみる。開けてみると・・。千円札が一枚。(ラッキー) 今年の運をずいぶんとつかってしまいました。

「時代は変る」1/29

 学生時代は、一年一年が本当に長く感じるものだ。どんな時間が流れているんだろうと思う。三年前のことと言ったら、もう遠い昔のようだ。そのとき聞いていたレコードもヒット曲も、古く感じてしまうのは、僕が学生だったからだろうか? それとも、本当にめまぐるしく、ブームが変わっていったのかもしれない。

 高校2年になってから、僕は洋楽のレコードをいっぱい買った。ボブ・ディランを中心にして、多くの洋楽ミュージシャンに興味をもつようになり、ちょっとずつではあったが、詳しくなっていった。ラジオのFENのトップ40を毎週聞くのが、なかなか楽しかった。だんだんディスコブームがやってくるのが、僕にもわかった。

 思い出したように、前に聞いていたLPを聞きたいと思って、レコードを探すときがある。でもなかなか見つからない。レコードジャケットの背の部分っていうのは、いつのまにかボロボロになるものだった。「これなんのレコードだっけ? あれえ加川 良の"親愛なるQに捧ぐ"じゃないか」そしてレコードをかけようとすると、薄いペラペラのレコード袋がなく、直接ジャケットにレコードが入っている。(なくしたままにしてあったんだなぁ) そしてかけてみる。ノイズがすごい。よほどひどい聞き方をしたんだろうね。

 流れて来る聞き慣れた歌。 (懐かしいなぁ・・。昔よくきいたよ!!) 昔といっても、まだ三年くらい前なのだが・・。こんなにひどいノイズで聞いていたのにはびっくり。(ずいぶんのめりこんだよなぁ・・) ながいながい旅がそこにあったように思う。時代は、確かに変わった。「陽水・拓郎・かぐや姫」の時代は終わり、フォークはニュー・ミュージックと呼ばれ、荒井由実やハイ・ファイ・セット、のオシャレ路線が好まれていった。

 思えば、弾き語りのシンガーたちは、みんなバンドのアルバムを作るようになった。ギター1本のレコードなんて、まず出さないものね。きっともう「フォーク」って言う響きが、古くなってしまったのだ。だって、ベイ・シティ・ローラーズの人気はすごかったもの。そして今は、サタディ・ナイト・フィーバーだもの。

 時代は変る。僕の学生時代が、時間を長く感じさせたのか? それとも、本当にいろいろと目まぐるしく変わったのか。それは今もわからない。ただ、中学の時あれだけ聞いていた、フォークの歌がどれも、古く懐かしく思えてしまうのだった。あいかわらず、家ではギター1本で、弾き語りをやっているのにおかしな話だった。1/28 今日は、原稿書き。いつも最近はこうして、キーボードを打っているので、うまく文が書けない。これはまずいなぁ。修正ぺン様様だった。

「さあ、もういっぺん」1/30

 マイク真木が歌った「バラが咲いた」が、日本のフォークソングのヒット曲の第一号だと言う。「♪ばーらがさいたー、ばーらがさいたー、まっかなばーらがー・・」僕もそう思う。ギターに合わせて、みんなで歌える唄。'66年の歌「バラが咲いた」は、今でも歌い継がれている。それは、いっぽんのちゃんとした道のよう。

 アメリカのフォークブームは'60年代のはじめ頃。日本は日本で、独自のフォークの道を歩んで行ったのだと思う。ギターでみんなで歌う唄から、ギター弾き語りへ。そして、ニュー・ミュージックと呼ばれる、オリジナルを歌うというジャンルへ変わっていったようだ。それぞれの時代に、それぞれに人気シンガーがいた。

 '78年。僕は、ボブ・マレーの唄を部屋で大きくかけて、レゲエに合わせてひとりで踊っていた。ずっと聞いていたのは、ボブ・ディランとか、その頃、人気上昇中だった、ブルース・スプリングスティーンとか・・。エレキギターも通販で買ったりして、すっかり気分は、ロック少年だった。テレビでは、アリスや松山千春が人気で、(フオークもかわったなぁ・・)と心で思っていた。

 長渕剛が、ヒット曲「順子」を、生ギター弾き語りで歌ったりしているのを見ると、(なんだか、懐かしい事やっているなぁ)と思えるほど、ギター1本弾き語りっていうのは、珍しい気がした。僕の中では、'78年のときにはすでに、フォークブームは終わったなっていう意識があった。フォーク。フォークはもう一度、生まれ変わって、純粋に「弾き語り」と呼ばれるべきだった。

 まだ癖なのか、毎月「ヤングギター」を僕は買っていた。そしてある月「今月の新譜」のコーナーに、一般のアルバムレビューに混じって、大きく推薦盤として、豊田勇造の自主制作盤「さあ、もういっぺん」が載せられていた。詳しい内容は記憶にないのだけれど、とても、ほめてあったように思う。その頃、自分でレコードを作るっていうのは、すごいことだなって思っていた。そのうえ、こうして、一般のアルバムに混じって、推薦盤になるなんて・・。

 すっかりロックに夢中だった僕だったけれど、そのアルバム「さあ、もういっぺん」に関しては、すごくフォークの未来を感じた。歌っている人も知らないし、声も聞いたことはないけれど、タイトルに、ブームにとらわれないだけの強い力があった。「さあ、もういっぺん」とは、よくつけたタイトルだ。ひとりでも、何かをやろうという気構えがいい。自主制作というのも戦っている感じがした。

 (まだまだフォークは死んでいないな)と、僕は「さあ、もういっぺん」のLPのタイトルに、本当のフォークのはじまりを感じた。ぜったいに良いアルバムだと信じた。僕の個人的な気持ちだが、本当のフォークの記念すべき1枚目っていうのは、この「さあ、もういっぺん」ではないかと思う。

 それから三年後、東京に出てきて、町で知り合いなったひとりの人が、「青木君に聞かせたいシンガーがいるんだよ」と言って渡してくれたカセットテープには「豊田勇造」と書かれていた。家に帰って聞くと、期待は裏切らなかった。裏切らないどころか、僕のフォークライフの新しいはじまりになったのだった。11/29 この二日間、一日2時間くらいしか、眠っていない。ずっと原稿書き、他。でもなぜか元気。パフォーマンスで使う、仕掛けがぜんぜんうまくいかない。なにかいいアイデアはないものか。ひらめくのを待つ。

「誕生日とケーキとフォーク」1/31

 ずっと毎日、フォークのことを書いていたら、いつのまにか、フォーク熱が出て、CDを何枚も思い出して買ってしまった。20年以上前のアルバムだけれど、今、もう一度聞くと、作品として聞けて、なかなかに良いのであった。

 「へえー、こんなに良かったんだね」聞き慣れているせいなのか、すごく自然に楽しめた。そんなある日、僕の誕生日が来て、友達二人がケーキを買って、お祝いに来てくれた。「あれこれ、NSPじゃん」「そう、いまフォークのエッセイ書いててね、思い出して買っちゃった」「かけようよ、NSPってよーく聞いたもの」

 そして、コーヒーを入れて、お祝いのケーキを食べる。かかっているNSPの唄は、誕生日にぴったりの唄に思えた。なんというか、やさしい気持ちになってゆくというか、空気が、ほがらかになるというか・・。

 「なんだか、中学のときのお誕生会みたいね」「ほんとだ。時間が完全に戻っているよ」「この唄知ってる、知ってる。よく歌ったよー。懐かしいー」。僕は思った。こんなにもフォークが似合う場所があるんだなって・・。誕生日とケーキとフォーク。この三つは、なんだか似ている。と言うか、とってもいい三角形になっている。

 言葉が、大事に語られてゆく。そして、生ギターの響き。フォークは、やさしい、手作りの響きがある。誕生日にこれ以上に似合う、音楽はないかもしれない。それとも、中学時代に聞いていた音楽が似合うのかどっちかだ。あらゆる音楽は、きっと落ち着ける所があるんだな。

 今、聞き直してみると、フォークと呼ばれた時代の歌たちは、おぼえやすくて、シンプルで、こころに届く歌が多いように思う。世代というものもあるんだろうけどね。もう一度、どの歌もヒットするような気がしてくる。僕は、誕生日のケーキを食べながら、あるひとつの事を考えていた。

 フォークの時代のアルバムを全部集めた、CD屋が出来ないかなって事だ。そこに行けば、フォークの時代のアルパムは全部ある。ないものはない。それも全部新品だ。廃盤もある。そんな「フォークCD屋」だ。そこでかかっている歌は、なぜかみんな良く聞こえる。そして来たお客さんは、みんなこう言うのだ。「これ、いいすっね。あのう、このアルバムもらえますか」と・・。

 そんな事を考えながら、また僕はケーキの前にいた。友達は言う。「今聞くと、なんだかみんないいねぇ」そうなんだよ。僕の言いたかった事は。1/30 地下紅白の日。なんだかヘトヘトになってしまった。でも無事終わって、幸せでいっぱい。ひと月、フォークの話に付き合ってくれてどうも。今月も発見の多いひと月でした。フォークのアルバムを5枚も買ってしまいました。このフォーク熱はしばらく続きそうです。来月のテーマは「拝啓、文房具様」です。お楽しみに。

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