青木タカオの「ちょっくら・おん・まい・でいず」  今月に戻る
過去ログ「僕の犬物語30」日記付き'00.12月

「僕の中のタロウ」12/1

 気付いた時にはもう、裏に犬がいた。

 犬の名前はタロウ。タロウは、クリーム色の毛のフサフサとした、ちょっと大きめな犬だった。レトリバーよりふたまわり小さく、あんなに賢そうではなかった。

 僕はまだ、3才位だった。でも、あまり犬と遊んだ記憶はない。(と言うか、他の記憶もないのだが・・)家の裏で、クリーム色の毛のフサフサした大きなものが、わっさわっさと動いていた。そして吠えた。タロウは僕の家族がはじめて飼った犬のはずだ。(確かめてはいないが、名前がタロウだから)

 耳がたれていて、口が大きく、とても落ち着きがなかったように思う。ナベのめしを急いで食べていた。まだ小さい僕に飛びついて、じゃれていた。家族が「タロウ、タロウ」と呼んでいた。そんな記憶しかない。

 ある時、家に遊びに来た、おじさんが、タロウをとても気に入ったらしかった。タロウは雑種ではなく、猟犬なんだと言う。猟のとき使うので、タロウをもらいたいと言う。そのおじさんは、田舎に住んでいた。よほど説得されたのだろう。タロウはその家にもらわれてゆくことになった。

 その日曜日、車が僕の家の前に止まった。長靴のおじさんが、タロウをもらいにやって来たのだ。タロウは、車に乗せられた。家族みんなで、車を見送った。タロウは、車の後ろのガラスの所に前足をかけ、バタバタとやっていた。やがて、車は出た。タロウよ、さようなら。僕はよくわからなかったが、とても淋しかった。タロウの吠えない、家の裏。

 それからしばらくして、おふくろとオヤジが、タロウのことを話してくれた。タロウは向こうの家で、すごく元気に猟犬として、がんばっているという。僕は、その姿を想像した。僕の中のタロウはそんな思い出の中に住んでいる。11/30 今日は、疲れて一日眠っていた。夜、遅くなって、起きていようと思ったが、また眠ってしまった。眠り人だった。12年位前のパソコンの本を拾う。今は進化したなぁーとつくづく思った。DOSの意味がやっとわかった。

「ようこそ僕等の朝の家族」12/2

 それはステキなお客さんだった。

 あれは、大晦日をすぎた夜中の1時すぎ、父ちゃんが、なにか裏の台所で、僕らを呼んでいた。

 「おぇ、犬がいるっやぁ!! 来てみろってがぁ」僕と兄きと母ちゃんで裏に行くと、まだ小さい犬が、嬉しそうにシッポを振っていた。「あれまあ、どうしたこんでらぁ」時刻は、もう1月1日。そして今年は犬年だったのだ。

 僕はほんとに嬉しかった。犬というだけで、なぜか心がうきうきした。「ねえ、飼おうてがぁ」母ちゃんは、犬は吠えるから嫌だって言う。でも、父ちゃんも兄ちゃんも僕も、飼うことにもう決めていた。だって、犬年のお客さんだもの。

 ・・・今でもハッキリと、その時の夜は憶えている。テレビでは、犬年だって言っていた。そして父ちゃんの声。裏へ行くと、暗闇の中、犬の目が光っていた。外は寒い。そしてやって来た犬。嬉しそうに、無いシッポ(なぜか切れていた)を振っていた。僕らはほんとに嬉しくて、何度もだっこした・・。

 結局、犬年だということで、母ちゃんも、その犬を飼うことをいいよって言ってくれた。全身、薄い茶色の犬で、胸の所に白い模様が付いていた。メス。もちろん雑種だ。名前は、兄きの案で「かんたろう」ということになった。以前に飼っていた「タロウ」に「かん」を付けたんだという。「かんたろう!!」という名前が、もう朝には響いていた。

 僕はその頃、土佐犬の出てくるマンガを毎週、読んでいて、かんたろうは土佐犬ではないかと心の中で思っていた。それは、そのマンガに出てくる土佐犬の胸に白く「大」と文字があって、かんたろうの胸にも白く「大」の文字が浮き出ているように見えたからだ。それに短い尻尾も、土佐犬ではないかと思わせた。

 かんたろうとの日々が始った。僕は犬がいるだけで嬉しかった。心のどこかで、土佐犬になると信じていたけれど、大きくなっても、普通の犬のままだった。おとなしい犬だった。ながーい間、飼った。かんたろうはメスだったので、そう、子犬を生んでくれた。あれは何年目のことだったろう・・。12/1 今日はバイト先の忘年会。ちゃんこ鍋を食べる。次々につがれて、限度を越えてしまった。でも、酔ったりはしない。会社の先輩ばかりの中だもの。たぶんそれが良くなかったのだろう。頭がガンガンになる。そういえば、僕には、忘年会になると、誰が、好きな人に電話する癖があった。その事を思い出すだけで、なんとなく、時間がもつのだった。

「町が小さくなった話」12/3

 その時、町がギューンと小さくなった。

 僕が小学校にあがったばかりの頃、学校へ行く途中、何度も同じ犬に追いかけられた。家を出て、百メートルもしないうちに、その犬に見つかってしまう。その時はもう大変。僕はとにかく走った。商店街をずっとずっと。その犬もずっと追いかけてくる。

 今では、あまりそういう話もきかなくなったが、僕の小さい頃は、犬と言えば、追いかけてくるものだった。僕はまるで漫画のシーンのように走った。本町1丁目から3丁目まで一直線に。それはまさに商店街の通りだった。「恐怖」・・。そんな言葉がぴったりだ。全速力で走ったその時、町がギューンと小さくなった。

 僕は犬が好きだったのに、どうして、あんな恐怖にさらされたのだろう? 他にも人はいっぱい歩いているのに、なぜいつも僕だったんだろう? 答えは簡単。友達はいつも言った。「アオキ。おめぇ、走っからだっやぁ」そう、そのとうり。僕は走ってしまったのだ。でも、いつも条件反射的にそうなってしまう。

 ちょうど町の真ん中に、大きな交差点があり、そこを渡ると、犬は来なかった。僕は赤信号で渡り、犬は渡らない。まあ、そんなところだった。一年の間に、三回位追いかけられた。普通にいつものように、学校に登校していると、犬が現れる。また恐怖のはじまり・・。

 おかげで、走るのが早くなったかもしれない。僕は走った。商店街の中を、一人で必死だった。誰も助けてはくれなかった。途中で、友達とも会った。でも何もしてくれなかった。僕は風物詩になりかけていたのか? あんなに恐かったのに、誰一人何もしてくれなかった。

 あんなに遠くまで、あの犬は来て、ちゃんと帰れたのだろうか? トコトコと商店街をまた歩いていったのだろうか。まあ、一直線だしね。帰れるかぁ。もしかしたら、あの犬は、僕と遊んでいたのかもしれない。

 一気にここまで、書いてみましたが、僕のあの時の感じが、伝わったでしょうか? それにしても、犬に追いかけられている人って、見た事がない。これは不思議なことだ・・。12/2 今日はホームページ作りの一日。隣にテレビがあり、ときどきつけてみる。前にも書いたけれど、突然に画面が映らなくなってしまうのだ。これはよくない。ほんとによくない。近くのリサイクル屋にゆくと、'83年頃の テレビが平気で7・8千円で売っている。これもよくない。

「チビ登場」12/4

 あれは、何年目のことだったろう。かんたろう(メス)が子犬を5匹生んだのだ。かんたろうのお腹が大きかったなんて、まったく知らなかった。そして僕の家には、薄茶色のまんまるの子犬が一匹だけ残った。目と鼻の先だけが黒いのだ。(当たり前か・・)

 名前は付けなかったけれど、いつのまにか「チビ」と呼ぶようになった。チビ。ころころっとしていたなら、「コロ」だったかもしれない。チビは、まるでぬいぐるみのようなワンちゃんだった。床一面に、新聞紙を敷いて、そこで遊ばせておいた。クンクンとなく。キャンキャンと吠える。

 昼間は、仕事と学校で、家には誰もいなくなり、チビは一人で待っている。そして僕らが帰ってくると、ほんと嬉しそうにする。当たりまえの事だけど、あの喜びようは、表現しがたい。尻尾を振る。小さい尻尾・・。チビのいる生活。チビのいる朝、昼、夜。

 「チビ」、小さいから「チビ」。何度呼んでも、大きくなんてならない。チビは家族のアイドルだった。親父も、おふくろも、兄きも僕も、チビが好きだった。チビは全部の愛を受け入れたって、まだ可愛い。でも犬二匹はとても飼えないので、チビは知り合いにもらわれてゆく事になった。ちょうど三ヶ月目のころ。

 それは、しかたのないことだし、僕らもそれはそれで嬉しかった。ちゃんとした名前をもらって、その家の家族となるのだ。元気な元気なチビ、行っておいで。ひろーい散歩道。ひろーい空。いっぱいの時間。

 ふつうに見送って、チビはちゃんと、もらわれていった。そして次の日、予想もしない気持ちを味わうのだった。学校から帰ってくると、もう家にはチビはいない。扉を開ければ、ただ新聞紙が敷いてあるだけだ。チビのいない夕方。いや、ちょっと遠くにチビはいる。親父が、さみしくって泣いていた。かんたろうは、もっと淋しかったかもしれない。チビのくれた明るい日々・・。

 チビはいなくなった。でも、愛犬かんたろうがいた。また、かんたろうとの毎日が戻って来た・・。12/3 高円寺の商店街を歩いていると、向こうから、ひとりの老人が来た。その老人(じいさん)の着ていたシャツの良かった事。もう嫉妬するくらい僕の好きな柄なのだ。くやしい。あの老人が憎い。どこで見つけたんだろう。本人はぜんぜん気付いていない。どんなにその服が僕に似合うかを・・。               

「学校の犬」12/5

 小学校の登下校のときいつも、毛のふさふさとした、一匹のクリーム色のワンちゃんが、学校のそばの道に現れては、僕らとじゃれて遊んだ。

 どこの犬かはわからない。首輪も鎖もなかった。ということは放し飼い? それはわからない。たぶん野良だったのだろう。みんなは、「学校の犬」って呼んでいた。だって、名前というものが、なかったんだもの・・。

 学校の犬は、僕らの列んで歩く間に入っては、はしゃぎまくった。いつもいつも道の真ん中で待っていた。そのはしゃぎようから、あだ名が「ばか犬」と、あだ名が付いた。もちろんばかじゃない。ただ、いつも嬉しすぎるのだ。

 誰かは、給食の残りのパンをあげていたのかもしれない。それは僕らだったかもしれない。忘れちゃった・・。学校の犬は、もちろん誰からも愛されていた。先生も生徒も、あと誰? 用務員さん? 恐かった人もいたかもしれないれど・・。あの犬は学校との道と一体化していた。

 昼休み、僕らは中庭にいる。どこからか入って来た、学校の犬。「おー、こいこいこい」犬はふさふさな尻尾を振る。「おまえ、どっから来た?」きいてみても、教えてはくれない。真近で見るその犬は、意外と大きい。なぜかおとなしくって変。「お手 !!」とか言ってみるけれど、それは僕が手を出しているだけの光景。

 そんな毎日が、どれくらい続いただろう。学校の犬は、何年間か、うろちょろしていた。それが、ある時いなくなったのだ。まあ、犬のことだからね。どこかに行ったんだろうって、みんな思っていた。「また、やって来るさ」とも思っていた。

 ある日の放課後の事。そう僕は小学校6年生。いつものように、教室でワーワー騒いでいると、担当の先生が、僕と友達を手招きで呼んだ。先生と僕とは、今で言う「ダチ」だったのだ。

 「アオキィ。おまえに頼みがあるっや」「なんだてぇ?」「ほらさぁ、学校に犬がいたてがぁ。それがさぁ、学校の縁の下で、しんだんだっやぁ」「えぇー!! おれさぁ、そんなんひろってくんのやだてぇがぁ」「ばか!! もうひろたてがぁ。ただのう、毛がいっぺぇのう、縁の下にあるんだてがあ。それのう、ひろてきてくれっやぁ」「そんならいいやぁ」

 僕らは、まるで探検気分で、学校の床下にもぐって行った。学校の犬らしいなぁとか思いながら・・。クリーム色の毛を、両手いっぱい友達と拾って来た。そして、この話を僕はいつか、ずっとあとで話そうと思った。12/4 久し振りの、ほんとの久し振りに、古い友人と電話で話した。その人は僕の声が変わったという。お店で、僕のテープがかかっていて、僕だと知らないで、いいなぁと思って、たずねたら、僕だったという。たしかに変わったかもしれない。というか、あの頃、歌っていたのは、もうひとりの僕のようだ。真似しろって言われても、きっとできない。また変わりたいなぁ。

「こんな出会いと陽の光り」12/6

 ずっと飼っていた犬は、散歩の途中で逃げてしまって、それきり帰って来なかった。犬のいない生活も慣れれば普通になってしまう。僕は中学のクラブ活動に没頭していた。

 あれは中2の時だ。先輩につれられて、いつもの丸広場まで、トレーニングに出かけた。少し傾斜した場所に、芝生が敷きつめてあり、カップルや、学校帰りのみんなや、他の部員の人達もトレーニングに来ていた。明るい陽射し。あれは春だったか、秋だったか、芝生の上には、のんびり屋さんで、いっぱいだった。

 そんな中、厳しくつらいシゴキをしに来た僕ら。天気もいい。絶好のトレーニング日和だった。目にまぶしい芝生。そうだあれは7月だ。かけ声とともに、走り出す僕ら。丸広場の芝生の上を丸く走ってゆく。そこに、みんなとじゃれあっている一匹の小さなワンチャンがいた。

 その子犬は芝生の上を追っかけあっていた。こげ茶色で、足の先と尻尾の先、そして首の回りだけが白かった。みんなに囲まれて楽しそう。僕はすぐに駆け寄りたかったけれど、まだ厳しいトレーニング中だったのだ。でも、どうしても気になってしまう。僕らをつれて来た先輩も、子犬に気付いて、だっこしたりしている。そんなぁ。

 僕はきっと誰かが、つれて来た子犬だろうと思っていた。だって、昨日までいなかったもの。シゴキの終わる頃、みんなにまじって僕も一緒に遊んだ。首輪がない。きけば、ここにいたんだと言う。まだ小さい。どこかで飼い主は探しているかも知れない。それとも、陽が暮れたら、自分の家に帰るのか・・。

 部活も終わり、まだ陽のある頃、僕はもう一度、丸広場に行った。あのワンちゃんに会いたかったのだ。広場に行くと、今度は知らないカップルとじゃれあっていた。ワンちゃんは、元気だ。僕の飼ったことのある、茶色一色の犬とは違い、ちょっとポップだ。雑種と呼ぶには、オシャレな感じ。

 やがてカップルはそこを後にした。ずっと、近くで待っていた僕。呼べば、ひょこひょこした足どりで、そばに来てくれる。僕は久し振りに、子犬と遊んだ。先っぽの白い尻尾が、振れている。(おまえはどこからきたの?) 尻尾は何も答えなかった。そして僕は「おいで」と言った。

 その公園を子犬と一緒に出て歩いて行った。一キロ半の道だ。細い路地を抜け海岸沿いへ。民宿。誰もいない信号機。海岸公園。釣り具屋さん。そしてやっと家が見えて来た。

 あの公園からはるばると遠く、一緒に来たおまえ。あの陽の光りの下、どこへ行ってもよかったのだろう。そして、玄関のドア。その日から、時間は一日も戻っていない。12/5 いつも持ち歩いている、録音できるICレコーダーが、壊れてしまい、修理に出した。それで、仕方がなく、手のひらにボールペンで、メモしておいてのに、夜になってみると、何を書いたのか、わからない。まるでパズルのよう。じっと手を見る・・。

「名前はリオ」12/7

 「かあちゃん、今日から、犬かうてがあー」

 玄関から僕は、そう大声で言った。「まあー、犬ひろうてきたでがあ、かあちゃんやだてえ」そう言われても、ぜったい飼うのだ。ここからどこに行けっていうんだぁ。なぁ。  

 玄関で、ずっと遊ぶ。さて、名前を考えないとね。また玄関でずっと遊ぶ。こげ茶色の子犬。足の先と尻尾の先、そして首の回りが白い。前の犬とは全然ちがうタイプ。日本的って言うより、西洋的だ。僕の知ってる犬といえば、うす茶色一色とかばっかりだものなぁ。なんか変だよ。でも、カワイイ。

 次の一日、僕は名前をずっと考えていた。でもピンと来る名前がない。どうしても、和製の名前が似合わなかったのだ。そして家に帰って来て、また、犬と遊び三昧。早く、名前を決めないと・・。僕はその頃、フォークシンガーの加川 良の大ファンだった。本当は「良」と付けたかった。

 そしてアイデアがわいた。「リオだ。リオにしよう!!」その時だ。テレビの中の漫画の男が、「リオ!!」って言った。信じられない話だが、その時のテレビ漫画に登場した、外人の名前が、たまたま「リオ」だったのだ。決定。僕ははじめて名前を呼んでみる。「リオ!!」

 かあちゃんが帰って来た。犬の名前は「リオ」だと告げた。「なに? りゅうーお?」全然ピンと来ないようだった。でも、その犬はもう「リオ」だった。まちがいなかった。変な名前だ。でもいい。テレビの男もそう言ったのだ。なぁ、リオ。

 子犬リオとの毎日は、かっての、僕のワンちゃんライフとはぜんぜんちがったものだった。なぜだろう? 前なら、家にいた犬って感じだったけど、今度は、友達という感じなのだ。リオって呼ぶだけで、嬉しそうに、もだえまくっていた。そういう犬だったのだろう。あの、はじめて見た、丸公園のままだった。

 毎日、学校から帰って来ると、リオはずっと待っていた様子だった。部屋にあげたりして、一緒に遊ぶ。僕はギターを弾いていた。リオは、いつもそばにいた。散歩はホント楽しかった。犬のような、友達のような・・。

 子犬で飼いはじめて、一年以上たったのに、リオはそんなに大きくならなかった。柴犬より、ちょっと小さいくらい。大きくない耳も、半分立って、それきりだった。夜はよく、僕の布団の上で眠った。勉強机で、試験勉強しているときも、椅子の下で丸くなっていた。12/6 バイト中、歌手の尾崎紀世彦の事を思っていた。先日、ナツメロ番組で見たのだ。現代っ子がみたら、どう思うんだろうね。尾崎紀世彦の歌い方とか・・。ずっと「また逢う日まで」を歌っているけど、まだ逢えないでいるんだろうか? あれから30年。僕は思った。そろそろ続編の歌をもらったらどうだろうかとね。

「冬の夜話」12/8

 新潟はもちろん、いっぱいの雪が降った。そして僕の家の裏庭に、白い雪の山ができた。舞う吹雪。ちょっとだけ開いているドア。そのドアに体をはさむように、犬がおすわりをしている。

 (さむくないのかなぁ・・) 僕はいつもそう思っていた。僕の家は、台所とフロとトイレが裏の方にあったので、そのたびに、飼ってる犬(リオ)に会う事になった。リオは、外に体を向けている。外は雪。でも、顔だけいつも、こっちを見ているのだ。その姿の変だったこと・・。

 犬は何を見ていたのだろう。吹雪きのぐるぐるか? 雪が降るたびに、いつもそうしていた。ゆきやこんこんの歌のフレーズに「犬は喜び、庭かけまわり・・」ってあるけれど、犬は雪が好きなんだろうか・・。それにしても、あの、顔だけ振り返っているリオの姿が、僕の目に深く残っている。妙な気持ちがする。

 冬が来ると、もちろん寒いので、たいがいは家に上げて、犬はコタツ暮しだった。僕が学校に行っている間、リオは裏に居た。そりゃ、寒いさ・・。帰ってくると、まっ先に犬の所に行って、足を拭いて家に上げる。大人になっても、小さな犬だったリオは、全速力でコタツに向かう。コタツ命なのだ。

 一度入ると、なかなか出てこない。チラッと中をのぞくと、赤外線に照らされて、はしで丸まっている。目をキョロってさせる。「リオ!」って名前を呼んでも出て来ない。よほど体が冷えていたのか・・。やがて息をハアハアさせて、リオはコタツからはい出してくる。ハアハア息をしてペタンとへたりこむ。もうあとは落ち着いたものだ。いつもどうりのリオ君になる。(そうそうリオはオスだったんです)

 僕は小学校の時から、冬はコタツで眠るくせがあった。というか眠ってしまうのだ。リオが来てからの冬の夜は、コタツライフだった。柱時計がコチコチ鳴っている。外の吹雪きの音。僕は勉強したり、ギターを弾いたり、本を読んだり・・。毎日の長い夜と、リオ君とのコタツ。リオ君は、コタツ掛けのはしっこで丸くなって眠った。

 カップラーメンも良く食べた。夜食ってヤツね。僕が食べていると、リオも一緒になって、目で追う。「わかった、わかった。あげるよ」犬も夜食? そんなふうに、冬の夜はふけて行った。それにしても、こんなに寒がりのおまえが、どうして吹雪を見ていたんだろう? その謎は解けていない。12/7 バイト帰りに、秋葉原に寄って、電話器を修理に出して来る。いつも、修理完了しましたって、留守電に入れてくれるのだけど、さて、受け付けのお姉さんは、何て言うかなぁ? 楽しみにしてると、「ご連絡は・・。オハガキですよね!!」よく気がついてくれました。100点。その帰り、ふと通りかかった、中華屋さんの、シュウケースの中に、2100円の文字がチラッと見えて、(うそー)とか思いながら、引き返すと、ほんとに、小さな皿のチンジャオロースウが、2100円だった。餃子は500円。ラーメン600円なのに・・。高いんだね。はじめて知りました。

「さがしまわった、三週間」12/9

 (明日はきっと帰ってくるさ・・)

 あれは、リオを飼いはじめて、三ヶ月目のとき。綱を放しても、いつも戻って来ていたのに、その夜は、とうとう帰って来なかった。ちょっとの不安もあったけれど、明日は、ひょいと裏に現れるような気がしていた。そうやって、また次の日・・。

 僕は、外に探しに出かけた。いつもの散歩道。そして家の近くの、ほとんどの道を。さまよっているとしたら、もっと遠くに行っていると思うので、僕もまた、歩き回った。学校から帰って来て、すぐ探しに出かけた。日曜日は、ほぼ一日歩き回った。

 犬の吠える声がすれば、そこへ行った。塀からのぞいて、確かめる。ちがう・・。向こうから、犬の散歩で歩いてくる人がいる。もしかしたら・・っと思う。きっと、どこかにいるはずなのだ。

 夜は夜で、なんだか、いつものように帰って来るんじゃないかと、もの音ひとつで、裏の戸を開けたりした。真夜中、とうとう僕は、念力を送るようになった。(かえっておいで・・かえっておいで・・)と。きっとつながるような気がした。僕もまだ14才で、パワーがあった。(こめかみに力・・)

 一週間、そして、また一週間。まだ見つからない。僕はとうとう、犬探しの歌も作ってしまった。ハートを込めて歌ってみる。届かないものか・・。夜はいつも、裏の戸を開けて眠った。そしてまた、一週間。僕は、毎日歩いていた。リオ・・。

 その朝、僕は、学校に遅刻する時間に起きてしまった。もうすぐ、授業が始ってしまう。僕は、急いでかばんをとり、家を出た。ものすごく近道をして、全速力で走らないとだめだった。普段はぜったいに、行かない道をつかって、学校に走って行った。

 走り続けてるまま、その普段は行かない細道をゆくと、ある一軒の扉が、急に開いて、僕の目の前に犬のリオが現れた。そのタイミングは、ぴったり中のぴったり。「リオ!!」僕は追いかけた。もう学校どころではない。でもリオは逃げる。そんなぁ。僕は追いかける。(どっかに行かないでくれぇー) そして、やっと、思い出してくれたのだ。

 やっと、リオは僕の腕に戻って来た。そのまま、手を放してもついては来ただろう。でも僕は心配で、だっこしたまま、そのまま家に向かった。三週間の間に、リオはすこし重たくなっていた。あの家で、飼われていたのかもしれない。でも、僕にはどうしても寄れなかった。すまない・・。

 リオは帰って来た。奇跡のようだった。もう学校の一時間目はとっくに始まっていた。僕はとりあえず、リオを家に置いて、また全速力で学校まで走った。もう、嬉しくって仕方がなかった。うそのような、ほんとうの気持ち。12/8 夜、和歌山から、ベースのカッキーが東京に来た。富山から、和歌山に仕事の研修に行っていたのだ。高円寺の駅の改札で、手を振る。「東京は寒いッすね!!」って言う。そして、あったかいラーメン。そしてビール。カッキーは、メガネを新しくしていた。「アオキさん、何か気付きませんか?」と言う。「まさか、メガネのこと?」カッキーは嬉しそうだ。よーく似合っていた。

「犬毎日の毎日」12/10

 それを、どうゆう性格と呼べばいいんだろう。あいつには、ひとつの個性があった。ちょっと怖がりなのだ。散歩で、他の犬と会っても、吠えたことがない。いつも、顔を合わせないように、さっと避けてゆくのだ。でもそのぶん、愛しい犬でもあった。

 散歩。散歩はいつも、川沿いを歩いていって、海に出た。そこには、テトラポットが列んでいて、座って海を見るのが日課だった。悲しいとき、辛いとき、嬉しいとき、いつでも僕はリオと海岸に行った。海には、何かあるような気がする。犬も海を見ていた。

 川沿いの道もまた、好きだった。そこでは思いきり走る。川べりに降りてみる。そこは、小さなジャングル気分。歩きにくく、飛び越えも多かった。ある時のこと、毛が泥だらけになっている一匹の犬が、なぜか、川べりの草むらの中にいて、通りかかったリオに吠えていた。いつもなら、逃げてゆくリオなのだか、僕を引っ張り、どうしても気になる様子なのだ。

 僕は土手の上に座り、リオをはなした。すると、川べりの草むらの中に走っていった。しかし、そのどろんこ犬は、逆にもっと吠えてしまった。何度か、それでも近ずこうとするリオ。でもだめ・・。すると、リオは、自分の体を川泥にこすり付け、どろんこになって、また会いにゆくのだった。それでも吠えられると、もっとリオは体に川泥を付けて、チャレンジしていた。

 (あんなリオ、初めてだなぁ・・) 結局、その犬は、吠えまくって終わった。どろだらけになって、戻って来たリオ。(ばかなヤツだなぁ) 僕は犬のドラマを感じた。そんなふうに、リオが犬に近ずいて行ったのは、後にも先にも、この時だけ。

 リオは、柴犬より、少し小さい位の犬だったので、よく家の中に上げて遊んだ。僕の勉強部屋は二階。リオは、階段を登り降りしていた。登るときは、まだいいのだけれど、降りてくるときの格好は、なんとも変だった。カクンカクンカクンと、一段ずつ、すべってくる。その時の表情もまた、可笑しかった。

 よく、かくれんぼもして遊んだ。僕はどこかで、息を殺して待つ。そしてかけてくるリオ。僕がいなくて不思議そうにしている。僕はタンスの上。リオは、パッと僕を見上げて発見するのだった。どこにこっそり隠れても、すぐばれてしまった。どうも、視線を感じているとしか思えなかった。

 犬小屋は家の中の一番後ろにあり、トイレに起きると、犬に会う事になった。どんな夜中に起きても、リオはおすわりで待っていた。闇の中、反射する目玉。僕はいつも犬のところに行って、ひと撫でして帰って来る。飼っている犬は、きっと、みんな愛しいのだろう。それが犬ってものかもしれない。僕とリオの日々は、高校を卒業して、東京に出てくるまで、ずっと続いた。12/9 原宿のクレヨンハウスの地下にて、カッキーと、バイキング形式・食べ放題のランチに入った。満員。僕も列ぶ。サバのチーズグラタンが、とっても美味しそうだった。しかし僕の直前で終わった。そして、すこし進んだところで、追加された。でも、列の逆には戻れない。二回目。またずっと列んで、そのグラタンを取ろうと思っていた。「また、直前になくなったりして。 アハハ」しかし、そのとうり、僕のふたり前で、終わってしまった。くやしい。僕は、残ったカスを少しだけすくった。

「その昔、オートロックのない頃」12/11

 もう前のことだけど、千葉の九十九里の方を歩いたとき、大きな敷地の家がつづく道で、放し飼いの犬に、(それは門の中なので、危なくはない) 多く吠えられた。

 昔の旅人はこうだったろうか・・。家から次の家まで、飼い犬に吠えられ、バトンタッチで、次の家の犬に今度は吠えられるのだ。とにかく何処に行っても、ワンワンと吠えられた。何か特別の匂いでも、僕が出しているかのように。

 頭がいいなぁと思ったのは、次の家に来たら、ちゃんともう吠えないで、犬は帰ってゆくのだ。あの吠え方の中にはきっと、「コイツはよそ者だ、気おつけろ!!」のメッセージが入っていたんじゃないかな。そしてまた伝えてゆく。よそ者は結局、その村に居られなくなる。それを犬は、わかっていたのだろうか?

 太古の昔、僕らの家と村を、守っていたのは、たぶん犬だったのだろうね。なわばりの中をかけまわる犬。そして犬同士の伝言。いったいいつから、犬をつなぐようになったのだろう。見えないひとつのひろーい輪の中、ぐっすりとどこかで眠る犬。そしてどこにでも行く。自分で散歩にゆく。

 いろんな家財道具。そして大事なもの。もっとも泥棒はいなかったのかもしれないが、鍵のない時代、犬は駆け回ってがんばっていたような気がする。番犬・・。今、番犬と言うと、玄関でおすわりをしている姿を、思い浮かべるけれど、もっと忙しかったかもしれない。

 オートロックマンションを、よく僕は、訪ねる用がある。部屋番号を押しながら、ふと、いつも思うのだった・・。その昔の家々を守っていたのは、犬じゃないかってね。遠い日、旅人はどうやって、犬のなかを抜けて行ったのだろう。12/11 財布に行き帰りの電車賃だけ入れて、池袋に僕は行った。自動販売機の前で、もしかしたら、お金があるかなっと思って、財布を出した。出した瞬間に、銀色の丸い物が、自販機の下に転げていった。う!! 最悪・・。財布の中を確かめてみる。銀色が二枚。50円か、100円か、それが問題だ!!・・・ホッ。

「な〜んだと言った犬」12/12

 僕はバイトで、下町の家々を回ることが多い。路地のちょっと奥まった所にある、その家に向かって歩いてゆくと、一匹の犬が吠えている。いやーな予感。どうも綱が付いていないようだ。本気か・・。

 本気だ。それも、吠えまくっている。僕は、大声で家の人を呼ぶ。奥の座敷から、ゆっくりと歩いて出てきたのは、帽子を被った、モモヒキ色の服で決めたオヤジさんだった。「コラ!! 何吠えてんだ」

 オヤジさんの声も大きい。犬もずっと吠えている。僕は言う。「あのぉ、すいません。そっちの奥に行きたいんですけど・・」オヤジさんは犬に大声で、話しかける。「ほら、ちゃんと匂いかいでこい。あんちゃんも、こっちにきな!!」そう言われても、犬も僕も困ってしまう。

 でも、通り抜けないと仕事にならないので、僕は犬の横を歩いて行った。オヤジさんは、むりやり犬を僕のそばに来させた。「匂いかいだか? このアンチャン、大丈夫だからな!!」ウギュ。犬はただ嫌がっているばかり。僕はなんとか通り抜けて、その家を後にした。

 僕が去った後も、その犬はまだ吠えていた。僕はこころの中で思っていた。(あのオヤジが変わっているんだよね。犬を放し飼いにしちゃってさ。みんないい迷惑だよ) 僕は、二、三軒先の家の前をもう、歩いていた。多少の音をたてながら・・。その音に反応したのだろう。さっきの犬は、吠えるのをやめなかった。

 (ただのバカ犬じゃないの? ) そう思っていたときだ。家と家の間の隙間を通り、さっきの犬が、やって来たのだ。(うっそー) 。そして、僕の姿を確認したとたん、さっと向きを変え、また戻って行ったのだ。それは淡々とした足取りだった。もう吠えたりはしなかった。

 僕には忘れられない。隙間を抜けてやって来たあの犬が、僕だと確認した瞬間のあの犬の表情を・・。たしかに犬が、(な〜んだ、おまえか)って言ったのだ。あのオヤジ、なかなかやるなぁ。12/11 最近、物を探している事が多い。今日もホチキスが見つからなかった。どこに置いたのだろう。20分探すが、まだ見つからない。これは無駄な時間だ。部屋をもうちょっとシンプルにしないとね。ああ、40時間欲しい。

「空中浮遊する犬を見た」12/13

 自転車で通りかかったとき、僕は一瞬だけど、信じられないものを見た。吠えながら犬が浮いていたのだ・・。

 「おい、ちょっと待て」僕はすぐさま自転車で、逆戻りして確かめた。ちょっと向こうの路地の、突き当たりの家の壁にところで、確かに犬が吠えながら、浮き上がっているのだ。

 (あれれれ・・) もう少し近づいて、よーく見ると、階段の手すりに、綱が付いていた。しかし、何度見ても、やっぱり浮いているように見えるのだ。僕はもっと、目をこらして眺めた。何か秘密があるはずなのだ。

 その犬の後ろには壁があった。そして犬は、1メートル以上は軽く、壁に沿って円を描いて浮くのだ。(すげえー)。 それもスローモーション。どんな超能力をつかっているんだろう・・。まだ理解できない。何が起こっているんだ・・。

 「そうか!!」それは職人技に近かった。犬は、スピードをつけて、壁に沿うように地面を蹴りあげ、上手くポンポーンと、壁の途中を蹴って、ふわりと浮かぶのだ。そして犬はじっと動かないで、空中に留まる。それを何回も繰りかえしているのだ。

 階段の手擦りの途中に綱が付いているので、犬は高く舞い上がる。空気はまるで、柔らかい水のよう。うまく磁石のような空間を、あの犬はつかまえ、自分のものにしたのだろう。何か芸をしているようにも見える。目立とうとしているようにも見える。いちばん遠くまで飛ぼうとしているようにも見える。

 どの角度から見ても完璧な、空中浮遊だった。その技は見る者を圧倒した。何か極めていた・・。

 大正時代の詩人、大手拓次の詩に「舞い上がる犬」というのがあるのだけれど、僕はその詩を思い出していた。舞い上がる犬よ。あんまり無理すんなよ。12/12 昨日、新しいタッチパネル式しかない券売機のところで、おじいさんが、切符を買えないでいた。「お先にどうぞ」老人は横にずれた。次々と買ってゆく、列んでいる人達。(おい、なんとかしてやれよ) 僕には、ああやって、老人を横にして、次々と、切符を買っていける人の気持ちがわからない。

「自転車かごの柴犬君」12/14

 青果市場でバイトをずっとしていた頃、お昼すぎ、もう店を閉めようかとみんなしている時に、いつも自転車で、ゆらゆらとやってくるメガネのおじさんがいた。

 仲介の人たちと八百屋さんで、朝はごったかえしていた道も、がらりとして、お昼すぎには自転車も通れる。のんびりとした空気。そんな中、そのおじさんは、自転車のかごに柴犬を入れて、やって来るのだ。

 「ヨオ、元気?」キッと自転車を止めると、おじさんは、柴犬もひょいと地面におろしてあげる。「岡チャーン、桃ある?」「あいよー」もう閉めてしまった店を少しだけあけて、桃選びをする。「んー、これでいいや。これでいいよな、ジロウちゃん」(その柴犬の名前は、たしかジロウだった)

 ジロウちゃんは、目を細めて、すくっと立っている。その毛は手入れがゆき届いている。吠えるとかいうレベルではない。こんなにも、犬はおとなしくなるのかなって思えるほどである。あちこち動いたりしない。おすわりもしない。ただ目を細めてじっとしているのだ。

 そのおじさんは、もう50才くらいで、いつも白いシャツに、腰上まであげたグレーのスラックスをはいていた。そして黒いふちのメガネ。もう半分白髪だった。いつもいつも、犬に話しかけていた。

 「ジロウちゃん、 ジロウちゃん」ジロウちゃんは、時々はその腕に抱かれていた。汚れのひとつもない白い胸毛。僕より何倍もきれいだ。「ジロウちゃん、いこ」ジロウちゃんはひょいとまた、腕に抱かれ、自転車のかごに入る。「どうもねー」そしてゆらゆらと次の店へ。

 あのおじさんと柴犬のジロウちゃんは、のんびりとした時間が似合っていた。ゆっくりとした自転車のスピード。カゴの中のおすわり。キーッとなるブレーキの音。僕はバイトの仕事をしながら、そっと毎日、そばで眺めていた。僕のワンちやんライフとは、また違う世界があった。人と犬はあそこまでゆけると知った。可愛いんだろうなぁ。12/13 今日、床屋さんの入り口のところに貼り紙で「70才以上の方、特別サービス、男性3000円。女性3800円」と書かれてあった。えっ。今、床屋っていくらなの? 僕はいつも、1200円とかの店だけど、一般はカット代金はいくらになっているのだろう? まさか、3500円くらい。それにしても、おじいさんなんて、みんな、短い髪のカットだろうに。3000円って高いなぁ。100円ショップで、30個買えちゃうよ。

「がんこ犬」12/15

 吠えまくる犬がいる。それも強力に・・。

 まるで吠えることが命であるかのようだ。吠え過ぎて、そのワンちゃんは、ほほの毛が逆立っている。体の色もシンプルな茶色一色だ。人が通るたびに吠える。空き地の奥から、全身で吠える。強いも弱いもない。ひとつの声、ひとつのトーン。

 がんこ犬。あのパワーはどこからやってくるのだろうか? 僕の知る限り、ここ10年は吠え続けている。はじめの頃は、(バカ犬だなぁ)とか思っていた。そして五年目くらいから、(わかった、わかった。わかったから・・)と思うようになった。今では、哀愁さえ、感じるようになってしまった。この道にあの犬がいないと淋しいのだ。

 僕はその犬のそばを、通って歩かなければならなかった。綱がついているので、ぎりぎりに歩いても平気だ。しかしこの犬の飼い主は、誰なんだろう? と思っていた。ある時、どうしても、通ることができなくなって、近所の人にどこの犬なのか、たずねた。「あの家だよ」その空地から、少し離れて立っている小さな長家の一軒だった。「あぁ、そーう」僕はそこのおじさんの事をよく知っていた。

 その犬にもまして、がんこな感じのおやじさんなのだ。体格も大きい。髪の毛はない。いつもステテコ姿だ。きっとあんまり吠えるんで、空地に追いやられているのだろう。僕は声をかけた。「あのう、すいません、ここ通れないんですけど」そのおやじさんはゆっくりと吠えてる犬に近寄っていった。

 「おっ、どうした? おい。さいきんパワーがねぇじゃねえか!! もっと吠えろどうした!! 元気がねえぞ!!」(そうか・・、10年も吠えていると、犬もパワーダウンするんだなぁ・・) そして僕はそれ以上に、そのおやじさんの言葉に、打たれてしまった。

 気付かなかったけど、吠え方に、力がなくなってきているのだろう。おやじさんの言葉は、限りなくやさしく思えた。犬はまだ吠えている。でもわかっている様子で、おやじさんにつれられて、トコトコと歩いていった。がんこ犬は、もう年なのかもしれない。おやじさんの中にきゅーんと吸い込まれてゆくようだった。12/14 今日はグッドマンライブ。冬の歌を何曲も歌う。ライブではじめて歌う唄ばかり。はじめてのお客さんとかもいて、はじめてづくし。ずっと歌っているみたいに聞こえるのかなぁ。山下君、よかったなぁ。久々に「鏡と煙」を聞く。「ブリキのホテル」も良かった。

「とりあえず、タロウ」12/16

 外回りの仕事をしていると、数多くの犬と会わなくてはいけない。そして犬のそばを抜けて行かなくてはならない。いろんな知恵を自分なりに考えた。友達もまた教えてくれた。

 その1・「ハウス!!」って言ってみること・・。僕が田舎にいた頃は、「ハウス」という呼びかけはなかった。たぶんここ20年くらいの話だろう。でもこれは効果ゼロ・・。

 その2・お尻を向けて近付いてゆくこと・・。ある日、友達が、テレビの情報番組で見たって言う。「どうも仲間だと思うらしいんすよ、ホントっすよ」僕は、その日、さっそく実験してみた。しかし、前より吠えるばかり。やり方か?・・

 その3・とりあえず、大きな音を出す・・。それはタイミングが難しい。なにげなく吠えているそばに近寄っていって、金属の棒とかで、大きな音を鳴らすのだ。一瞬、キョトンとする犬。その一秒後には、大吠えになってしまうが、その一瞬を狙って、通り抜けるのだ。これは、かなり効くが、ちょっと恐い。

 その4・その犬の名前を、急に呼んでみる・・。ある時だ、ずっと吠えている柴犬がいて、(その犬は「コウタロウ」と言う名前だった) 僕はアイデアを出して、「コウタロウ」と呼んでみた。すると、一瞬、吠えやんだのだ。犬は、意味がわからなかったんだろう。これはけっこう効く。

 その5・肉を投げる・・。泥棒がやるやり方って、本に書いてあったなぁ・・。

 その6・これはまだ、実験中の事なんですが、とりあえず「タロウ!!」と呼んでみる・・。ある時、僕は思いました。それぞれの犬は、遠い昔の(いつの時代かはわからないが・・)過去にぜったい一度は「タロウ」と呼ばれていて、その名前を聞いた瞬間、なぜか深い気持ちになって、唖然としてしまうのではないかということ・・。

 そして僕は、吠えている犬に、たっぷりの自信を持って、「タロウ」と呼んでみました。反応は・・。ちょっと言えませんが。ふと上を見上げると、飼い主のおばさんが、窓から不思議そうにながめていました。(あのう、これには、ちょっと深い訳が・・)

 もっといろいろあるんだと思います。ムツゴロウさんのように、「おー、よしよし」と言って、噛まれながらだっこするとか・・。でも、へんなことしていると、なおさら怪しくなったりしてね。いい方法はないものか。「お尻から近ずく」の話を聞いたときは、「これだ」と思ったんだけどなぁ。12/15 調子の悪い日は、いろいろと調子悪い。牛丼屋に入った。機械で、チケットを買ったら、前の人がお釣ボタンを押してなくて、50円のお釣りのはずが、前の人と一緒になって300円で、出てしまう・・。いいよもう。キムチ牛丼を頼んだのに、なぜか弁当で出来てくる。「あのお、店内なんですけど・・」まあ、いいか。お茶でも飲むか。(グエー!! 熱湯じゃーん) 調子わりーよー。 

「クロとブラック」12/17

 まるでそれは、なにかテレビマンガのシリーズのようだった。繁華街に近い、ホテル街の裏にある路地に、放し飼いにされていた、大きな黒い犬、二匹。

 こんな大きな犬の放し飼いというのも、信じられないのだが、その近くにある大きなふたつの犬小屋には、なぐり書きで、「クロ」と「ブラック」と書かれてあった。二匹とも、黒い大きな犬だ。いったいどっちがクロで、どっちがブラックなのか・・。

 道に置かれている、箱のような大きな犬小屋。そして「クロ」と「ブラック」の黒い文字。それはインクが垂れてしまっている。あたりをうろついている二匹の黒犬。タッタタッタ並び歩いている。恐い。どうやってそこを通ればいいのかわからない。

 たぶん大丈夫なんだろう。たぶん吠えないんだろう。たぶん仲がいいんだろう・・。そう信じて歩くしかないのだが、ちょっと勇気がなくって、どうしても通り抜けられず、一本となりの道を歩いた。犬がいないときもあった。どこに出かけているのか。遠い自主散歩に行っているのか。

 主はいったい誰なのだろう。なんとなく想像はつくのだが・・。それにしても大胆な、ネーミングだ。夜はどうしているんだろう? ちゃんと繋いであるのかな? 二匹の黒犬と、夜中に会うなんて、恐い、恐すぎる・・。

 でも僕は、彼らを見かけるたびに、なぜか、はるばるとした、ひろーい気持ちになった。自由に闊歩するクロとブラック。大きな犬小屋から、広がっている、青空の空気。どっちかがクロ、どっちかがブラック。ひとつの童話のようだ。

 その、クロとブラックは、いつのまにかいなくなった。12/16 午前10時。ボブ・ディランのチケット予約で、チケットぴあに電話をする。自動入力の電話で。自動アナウンスなのだが、これが早い。ちゃんとペンを持ってでないと、予約できない。なにかのゲームでもやってるみたい。10時発売。10時3分にはつながった。さて、武道館のどのへんの席だろう。たぶん二階の手前真ん中なんだよね。いつもそうだもの・・。

「飼い主と犬」12/18

 飼ってる犬は主人に似るって言うけど、顔まで似ている犬を、僕は知っている。それはもうびっくりするほど。

 性格が似てくるってよく言うけれど、顔まで似てくるってあるのだろうか? 僕はその家をよく訪ねた。ワンちゃんはまるで、本当の家族のようだった。お母さんも、その娘さんも、ワンちゃんも同じ顔・・。

 外歩きの仕事のため、数多くのワンちゃんと、その飼い主に会う機会が多い。総体的に考えると、やっぱり飼い主とワンちゃんは似ているように思う。なぜだろう? 吠えまくっているワンちゃんの飼い主は、やっぱり吠えている。

 しかし、そうでないときもある。ものすごくやさしい人なのに、ワンちゃんは吠えまくりということも多い。そんな人は、かならず話かけている。「いいの、お兄さんはお仕事。わかった? 」わかるわけないよ。こんな調子じゃ、だめだよ。それは僕だってわかる。

 不思議なのは、さっきまであんなに吠えていた同じワンちゃんと、散歩ですれ違うときだ。(あれえー、さっきはあんなに吠えていたのに、大人しいじゃん。それに俺のこともう、忘れちゃってるだね )あんなに吠えていた同じ犬とはとても思えない。

 飼い主にとってワンちゃんは、みんなカワイイのだろうか? 僕はずっと、(カワイイんだろうな)とそう思ってきた。でもどうなんだろう? 僕には全然わからない。吠えまくる犬を飼ったことがない。僕はいつも、飼い主の言葉を聞いてみる。怒ったって、ほら吠えているじゃないか・・。

 飼い主はどうして、吠えてる犬を抱きしめてやらないんだろう? いつも、そう思う。12/17 朝、電話がかかってくる。「あのぉ、ひろみですけど。」僕はその声の主は知らない。「まちがい電話だと思うんですけど」「え、青木君でしょ。ひろみです。」(え、ひろみ・・。そういえば、僕が最初に書いた短編小説の主人公はひろみちゃんだったけど・・)「たしかに、青木ですけど、何番におかけですか?」「XXXX-XXXXです」「あぁ、ひとつちがってますね」「失礼しました」(そうかあ、ほとんど同じ番号に青木っているんだな。それも僕と声が似ている・・) みなさん、こういう事もあるんですね。

「柴犬への遠い道」12/19

 僕はまだ、柴犬とちゃんと話したことがない・・。

 話どころか、何度か、噛まれてしまっている。主人は「噛みつかないよ」って言ったのに・・。「あら、ホントに噛んだのね」とか言っていた。柴犬は本気だ。

 僕にとって柴犬は、謎の犬だ。飼ったことが一度でもあれば、何かプラスになる事でも、さっと言えるんだろうけど、外ではいつも吠えられてばかり。柴犬の心には、あのキャンキャン声にはさまれて、なんだか触れることさえできない。

 と、言うか恐いのだ。こんなによく吠えるのに、これだけの人気。しばけん・・。その響きの中にある、数々のドラマチックな物語り。ここ掘れワンワンと言ったのも、柴犬だったろう。桃太郎についてったのも、柴犬だったろう。なにか底知れないものをいつも感じる。

 ある時のこと。いつも玄関先で、きゃんきゃん吠えている柴犬がいた。飼い主はおばあさんだった。その日、なぜか犬は居ない。僕は用があり、扉をあけてもらった。するとそこにいたのは、いつも吠えていた柴犬君。「お、元気?」

 家の中で、柴犬は大人しい。ひと声も吠えない。まるで(お客さん、ようこそ)と言う表情なのだ。「あら、こんにちは」「今日、犬、おとなしいすね」なでる勇気はなかったが、僕は顔を寄せてみた。「元気?」柴犬君に反応はない。まあ、いざとなれば、さっと身を引けば、犬は綱で来れないだろう。

 おばあさんが、家の奥に行っているあいだ、僕は柴犬君に話かけてみた。初めての経験だ。(それにしても、こんなに顔を寄せていいのかなぁ) 僕はすっかり、外に犬が逃げないように、綱が付いていて、戸を開けているんだと思っていた。しかし、その首輪をみると、あれ、どこにも綱が付いていないではないか・・。(えー)

 外と家での、この変わりよう。柴犬の本質は、ここにあるのか。ある工場を訪ねたときは。細かくて柔らかいハッポウスチロールのつまった段ボール箱の中で、気持ち良さそうに丸くなって眠っていた。(おとなしくて、可愛いんだなぁ・・)

 昨日は、まだ小さい柴犬を、散歩させている小学生の女の子に会った。他の友達にも、じゃれて遊んでいた。ちらっと通りかかりに、僕は眺めただけだったけど、その動きはきびきびして、人なつっこく、信じられないほど、可愛いかった。

 僕は柴犬が恐い。そこには、もう一本の道が、遠くまでつながっている。その向こうには、桃太郎や花咲か爺さんが、まだ色鮮やかに、見えている。いろんな話がききたいな。ワンッて吠えてくれ。12/18 その大通り沿いにある、立ち食いそば屋さんは(椅子はあるのだが・・)とっても広い。入り口には、たくさんの揚げ立てがガラスケースに並んでいる。おばさんが二人、世間話をしている。そしてラジオ。特に美味しいというわけではないのだろうけど、いつも人でいっぱいだ。僕もついつい寄ってしまう。なぜだろう。微妙なバランスが、うまくいっているんだろうなぁ。

「道の真ん中にいた黒い犬」12/20

 知り合いと、道ですれちがうということは、よくあることだけど、知ってるワンちゃんとすれちがうというのは、奇妙な気持ちがする。僕もそうだけど、そのワンちゃんも一人でどこかに行く途中なのだ。

 その黒くて中くらいのワンちゃんは、いつも、道の真ん中で休んでいた。やって来る車はどちらかに避けて通って行った。眉毛と胸の所が薄茶色だった。のんびりのんびり動いていた。そう、そしてまったくの放し飼いだった。

 僕はそのワンちゃんに会うのが、楽しみで楽しみでしかたがなかった。どんなに近寄っても、なに動くというわけではない。僕は話しかけてみる。ちょっと考え中というふうで、不思議な空気を持った犬だ。そして、なんでも知っているようなのだ。「ワン」なんて吠えやしない。

 家はもちろんあった。たいがいはその近くにいたけれど、どこにもいないときもあった。それはしょっちゅうだ。(どこかにいってるんだなあ・・)とは思っていた。

 ある時、いつもの場所から、1キロくらい離れたところで、僕はそのワンちゃんとすれちがった。向こうからやって来るのは、たしかにそのワンちゃんだ。鋪道を人の列の中に混じり、一緒に歩いている。自分がどこに向かっているのか、ちゃんと知っているかのようだ。

 すれちがい、僕は振り返る。横断歩道で、あのワンちゃんは、信号を見てたような、見てなかったような・・。(毎日、こうしてるんだな) あの犬のことは、みんなが知っているようだ。変わった犬というより、まるでその姿は、町の人になっていた。

 あのワンちゃんが、道の真ん中に、ドテンと丸く横になる。それはまるで、この町に体を横たえているようだ。ちょっとそこまで行って来る姿は、町内会のおじさんのよう。タッタカタッタカ歩いてゆくその姿を見て、ある時、僕はそばにいた人にたずねた。

 「あのワンちゃん、よく迷子になんないね」「ああ、あの犬、ずっと歩いているんだよ。毎日毎日。へんな犬だよ」僕はそのうち、なんとなくわかるようになった。きっといろんな用事があるんだろうってね。12/19 昨日見た弾き語りのライブ。初めて聞くシンガー。はじめの数曲はそうでもなかったのだけれど、だんだんと味が出てきて、内容の濃い50分になった。久し振りに、人間というものを感じた。僕もあんなライブがしたいなぁ。しているのかぁ。それは自分ではわからない。

「僕の考察、吠える犬の不思議」12/21

 もう10年も、同じ下町を仕事で歩いていると、小さかった犬は、もちろん大きくなる。

 そこで会った、いっぱいのワンちゃん達。吠える犬になるワンちゃんもいる。もう吠えてるワンちゃんもいる。吠えるワンちゃんには、いくつかのパターンがあるように思った。

 まず一番高い確立は、近所に犬を飼っている家が多いと言う事。その路地に行くと、次々に犬が吠え出す。特に隣の家で飼っていたりすると、だめだね。でもこれはわかるような気がする。野生が呼ぶんだろうなぁ。これはしょうがない。

 ある一匹の子犬が、道で、新しく飼われていた。近所のみんなが、取り囲んで、ホント人気者だ。見知らぬ僕にもじゃれてくる。僕は、さぞかし人なつっこいワンちゃんになるだろうなと、楽しみにしていた。でも一年たってみると、ちょっとした事でも吠えまくる犬になってしまったのだ。

 ほかにも、そういうワンちゃんを知っていたので、なんだか僕は淋しくなってしまった。今日もそのワンちゃんにあった。もちろん吠え続けている。その家のおばさんに僕はきいた。

 「よーく、吠えるねえ、ずっと吠えてんの?」「いや、知らない人にだけだよ」「え、近所に人には吠えないんだ?」「吠えない、吠えない」「へぇー、そっか」普段はとってもやさしいワンちゃんらしい、でもよそ者の僕にはその姿を見ることができない。いつもは町内の犬になっているのだろう。

 異常な怖がりの犬もいる。僕の姿がもう見えないのに、ずっと吠え続ける犬だ。それも30分くらい吠え続ける。何かに知らせているというより、条件反射的に感情が高ぶったというふうなのだ。見えない相手に吠える犬ってなんかせつないね。

 それにしても、レトリバーや、ハスキー犬は吠えないなぁ。不思議な犬だ。まるで人をわかっているみたい。柴犬もよく吠えるけれど、それが柴犬らしくて、可愛い所だろう。そして小型犬ね。あのキャンキャン声を聞くと、あきらめに近い感情になる。本能を感じるなぁ。

 僕の考察、吠える犬の不思議。個人的には、やっぱり子犬の頃の「過保護的、ワンちやん愛し」にも少し関係があると思う。ワンちゃんはワンちゃんらしく(?)、適当に、ほっときながら育てるといいんじゃないかなぁ・・。それとも、遺伝的なものかなぁ。スピッツの例もあるしなぁ。

 もっとも僕は、住んでるこの町では、あまり吠えられていない。それはきっとよそ者ではないからだ。12/20 バイト帰りの電車のシートで、老人が前に立つ。ああ、僕は若者じゃないかもしれないじゃないか。もしかしたら一日中、必死で町を歩き続けていたかもしれないじゃないか。まあ、僕は昔風の格好で、人が良さそうかもしれないけれど・・。僕の前に立つ老人よ、もしかしたら、そうかもしれないじゃないか。 

「レトリバーと子供たち」12/22

 日本の土地を、ゴールデン・レトリバーがゆっくりと歩いてゆく。その柔らかくて優しい瞳が、ひとつの道を作った。

 あれは、'89年の話、ある一軒の玄関を開けたら、そこに茶色くて、少し大きな子犬がいた。ぜんぜん怖がる様子もなく、他の子犬とは違っていた。犬好きだった僕は、その吸引力的魅力に、すぐ反応してしまった。

 しっぽを嬉しそうに振ってくれている。なんと言うか、落ち着いた波長があると言うか、一緒にいて、すぐ自分が、吸い込まれてゆくのがわかった。おっとりしてて、やさしさが形になっているようなのだ。

 僕はそこに奇跡でも見ているような気がしたのだ。犬は吠えるものだという観念が壊れてしまった。あたらしい生き物が、そこにいるようだった。その子犬はそう、ゴールデン・レトリバー。

 その二・三年後には、町なかのいたるところで、レトリバーを見かけるようになった。「この犬、大丈夫よ」って、奥さんが言う。ほんと大丈夫なのだ。コリーも大きくて、落ち着いた犬だったけど、それとはまた違う人なつっこさが、レトリバーにはあった。

 一番僕が驚いたのは、近所の公園で、子供たちとレトリバーが、一緒に遊んでいる姿を見たときだった。そのレトリバーは、常に放し飼いで、表のバイク屋と裏の公園をつねに行ったり来たりしていた。公園で、いつも子供たちとレトリバーは遊んでいた。いや、あの姿は、子供たちを楽しませていたと言う感じだった。

 何かをくわえて、公園の中をあっちに行ったり、こっちに行ったり。子供たちはその後ろを追いかける。まだみんな幼稚園くらいだ。きゃっきゃと声が聞こえている。そこを通りすぎる僕。(あんな犬、日本にはいなかったよなぁ・・)

 バイク屋と公園の間の道を通って、僕はいつもコンビニに行った。むこうから、しっぽを揺らしながら、タッタタッタと裸足で歩いて来るレトリバー。僕のことはまったく気にせずに、そのまますれちがう。声をかけてもいいのだけれど、恐れ多くてかけられなかった。

 なんだか、犬として、レトリバーとして、自分の役割をわかっているようだった。僕らのほうが、なんだか育てられているみたいだ。レトリバーが日本にやって来て、僕は犬の印象が変わったと思う。ほんとに、こころから優しい犬のようだ。多くの子供たちが、友達になった。

 町なかを散歩して行くレトリバーの姿。ちょっとしゃれた洋風の、喫茶店が良く似合うけど、もうそろそろ、正月の掛け軸に、子供と遊ぶレトリバーの姿が描かれるかもしれない。 12/21 バイト先から、駅までの間の交差点にあった、「バッタ屋」という名前の安売り店が、店を閉めてから5年位たった。僕は毎日のように、寄っては楽しんでいた。(この品物、どこから仕入れたんだろう)と思われるものが、あったのだ。そのバッタ屋が、今日、復活した。これは嬉しい。もう最高な気分。

「神秘・小型犬」12/23

 そこにはもうひとつの大国があるようだ。

 僕は小型犬を飼った事がない。それにあまり遊んだ事もない。だから僕にとって小型犬は、いつも神秘に満ちている。

 前に住んでいたアパートの下の大家さんは、今では珍しいチンを飼っていた。家賃を払いに訪ねる度に、ワンちゃんはだっこされ、僕と顔と顔があった。吠えたりはしなかったけれど、仲良くもなれなかった。いつもいつも大家さんの腕の中にいた。

 小型犬はよく吠える。マンションのドアの前を歩いてゆくと、次々と吠えられてしまう。それはもう見事だ。僕がよそ者だからだろうか? 他の住人には吠えないのだろうか? それとも僕の歩き方が変なのか?

 用事があって、ドアが開くならば、その吠え方はいっそう強まる。しかし不思議なことに、玄関の板敷きからこちらにはやって来ないのだ。一度だけ、ドアの隙間から、外に出ようとした事があって、あわてて僕がドアを閉めたら、そのドアに少し足が引っかかって、ワンちゃんはキャーンと鳴いた。

 「おお、どしたの? 痛かった? そっかお兄ちゃんにいじめられたか。ひどい人だね。おお、痛い痛い」

 僕の用件の方は完全に無視されてしまった。その時の印象が、かなり強く僕の中に残っていて、小型犬=とっても可愛がられている。と言う図式がなんだか出来てしまった。もちろんそれは偏見だ。僕の知らない時の、ワンちゃんの生活についてはまったく知らない。ひじょうに厳しくしているかもしれない。

 小型犬はよく吠える。それは別に犬のせいでもないし、吠える理由もある。だから、吠える事に関しては、おかしくはない。ただ、もうちょっと、わかってくれてもいいかなって思うのだ。でも、これは仕方がないかもしれない。体の小さな犬は、その鳴き声の大きさで、相手を威嚇するしかないものね。柴犬だってそうだ。

 ステキなお姉さんが、パピヨンという種類のワンちゃんを素敵に散歩させていた。野生という感じがまったくしない。僕はつくづくこういう飼い方もあるんだなって思った。それは幸せ感の差でもあるようだ。

 ある時、ワンルーム( 可笑しいね)マンションの部屋に用があり、名前を僕は呼んだ。するとドアの中から、ワンちゃんが、「ワン!!」とひと声吠えたのだ。もう一回名前を呼んでみる。またひと声、「ワン!!」と聞こえる。僕は可笑しくなって、「〜さんですか? あのう・・」と言葉を交わしてみた。「ワン!! ワーン!!」

 「えーとですねぇ・・」その会話は妙に可笑しかった。ワンちゃんの、それは御留守番。それは、ドアの向こうの神秘の響き。12/22 町じゅうで、クリスマスソングが流れている。何年か前までは、しつこいなと思っていたけれど、今年はなぜか歌が染みてくる。特に風呂屋で聞く、クリスマスソングはいい。桶の音が響く中、メロディーが、体を洗うリズムと呼応する。まるで、湯舟に入れる、バスクリンみたいな感じ。洋風ノスタルジー。

「インド、あのおじさんとその犬」12/24

 インドの北、リシケシという町を、冬に、僕はトボトボと歩いていた。

 そこは宗教色の強い町で、インド中の修行僧が、ひと休みをするためにやって来ると言う。冬というせいもあったのだろう。どこへ行っても寒々とした空気があって、ゆっくりとした時間と風景がひろがっていた。でもそれはリシケシを旅している時の、僕の気持ちの方だったかもしれない。

 僕の居たちょうどその時、女神さまの小さなお祭りをやっていて、人々が集まっていた。でもにぎやかな感じはしない。これも冬のせいだろうか? 祈りを捧げている女性の姿が印象的だった。

 その寺院の回りの道には、ぼろぼろな人達が、集まり座っていた。どの人も土緑色の布を巻いているだけの姿だ。目の前に置かれている、アルミ製のお皿。土地柄という事もあるのだろう。どの人もやっぱり静かに寒さに耐えているというふうなのだ。

 ある一人のおじさんと一匹の犬が、そこに座っていた。おじさんと呼ぶには、あまりにも疲れた感じ。一緒にいた、茶色の犬君は、そのそばで丸くなって休んでいた。まるでそれは、つづく長い長い時間の中の、変わらない一瞬のように見えた。

 ベナレスのガンジス河沿いにいた犬たちは殺伐としていた。どの犬も噛まれた傷がついていて、見ていてかわいそうだった。インドでは、そんな犬の印象がある。ずっと旅をしてきたけれど、犬を飼っている人に、会ったような会わなかったような。

 そのおじさんのそばにいたワンちゃんは、すっと起き上がり、何かをしに、ちょっと離れた所にのそのそと歩いてゆき、またゆっくりとおじさんの所に戻って来て、くにゃんとへたりこんだ。それはまるで、夢の中のシーンのようだった。

 世界のどこかではなくて、ここに居てくれるワンちゃんがいる。綱がなくてもどこかに行かないのだ。そのおじさんのライフにぴったりと寄り添って、同じ風景の中にいる。おじさんにとっては、親友であり、自分そのものであるのかもしれない・・。

 冷たい風も吹いていた。その町は町全体が、止まった時間の中にあるようだった。あのおじさんもあのワンちゃんも、ひとつの絵本の話のようだ。あのワンちゃんはそこにいるだろう。時計の真ん中にうずくまるように。 12/23 ひと足お先に、クリスマスケーキとか食べてしまう。今年で何回目のクリスマスだろう。クリスマスノートでも作る習慣ってないのかなぁ。

「風呂屋のオヤジさんの犬話し」12/25

 僕はただ、ひと言ちょっときいただけだった。

 そのお風呂屋さんには、裏口にいつも、元気のいいワンちゃんがいた。お風呂屋さんの犬って、僕の知ってる限りだと、みんな本当に、よく吠えていた。なぜだろう? 裏が広いからかなぁ。そしてどの犬も仕事してるって感じだった。「俺は風呂屋の犬だ!!」と言わんばかりに。

 そのお風呂屋さんのワンちゃんも、精一杯吠えて、がんばっていた。それも放し飼いなので、裏から訪ねるときは、事前に電話をして、ワンちゃんをつないでおいてもらうのだ。その日、電話をすると、「もう犬はいないから、大丈夫だよ」って言う。

 いつも吠えてた犬が、居なくなるのは淋しい。それに、そのワンちゃんはとっても、可愛がられていたのもよく知っていた。でも、ほんの二ヶ月前には元気で走り回っていたのにどうしたのだろう? 僕は一応おやじさんに「犬どうしちゃったんですか?」ときいた。

 すると風呂屋のおやじさんは、「ほんと可愛い犬だったよ・・」と、飼い始めの時からのいろんなエピソードをまじえて、話し始めたのだった。(しまった!!こりゃ長いぞ) 僕は嫌な予感がした。しかしもう遅かった。おやじさんは、もう思い出モードに入ってしまっている。何度も何度も、その話をしている様だった。

 おやじさんは話してくれた。そのワンちゃんがどんなに可愛いかったか。一所懸命にがんばってくれたことを。ときどきは逃げたけれど、ちゃんと帰ってくる利口な犬だったこと。でもみんなは、その利口さに焼きもちを焼いて、いじわるだったと言う。ついひと月前の事、踏み切りの向こうの商店街に行ってしまって、そこで、車に跳ねられたと言う。知らない町に、なぜ行ったんだろうって言う。

 もう話が始ってから10分以上たっていた。風呂屋の娘さんが、降りて来て一緒に聞いてくれた。壮大なドラマだった。そうとうに可愛かったのだろう。おやじさんはリアルに、また悲しくなっていた。僕には先を急ぐ用もあったけれど、どうしても最後まで聞くしかなかった。いや、聞きたかったのだ。

 「本当に可愛い犬だったよ!!」話はひととおり終わった。おやじさんが、どんなにそのワンちゃんを愛していたかよくわかった。僕は、「それじゃあ」と言って、また裏口の方へ向かった。そこには20メートルほどの庭道があった。いつもその道を歩くあいだ、吠えられていたのだ。

 僕には、もうすぐ小さなワンちゃんが、ここにやって来る姿が見えるようだった。12/24 オープンしたばかりの、まぐろ丼屋さんに、ついフラフラと入ってしまう。480円というランチの値段にひかれたのだ。中に入ると、おばあさんが一人で、あっちこっちと動いていた。僕はテーブル席に座った。しかしメニューもない。注文も取りに来ない。そのおばあさんはシッチャカメッチャカになっていた。忙しくて、外のランチメニューの看板も中に忘れていたのだ。しかたなく、丼とビールを注文。おばあさんは常に怒られている。「今、考え中 !!」って答えるのだ。席に着いて30分たって、やっとマグロ丼が来た。大変な騒ぎ・・。でも美味しかったので、妙な気分でした。「今、考え中!!」

「接近恐怖の犬」12/26

 もの凄く吠えているのに、近寄ると、嬉しそうに尾っぽを振っているワンちゃんがいる。

 あれは「こっちこい!!」って吠えているのだろうか? 近くに寄ると身悶えして、くるくる回ったりする。そのたまらない気持ちから、吠えているようだ。

 僕はいつも道でワンちゃんと会ったら、たいがい声をかけるようにしている。とっても嬉しそうにしているワンちゃんと会ったときは、近寄って手とか伸ばしてみる。小さい頃からそうだったので、その時も、さっと腕を出したのだった。

 ガブ!! その黒い犬に僕は手をかまれてしまった。信じられない失敗だった。よくみれば、犬の回りに人が近寄れないように、囲いがしてある。これは近寄ると危険と言うことだろうか? 僕はその日以来すっかり自信をなくしてしまった。

 僕は悲しかった。たった一回噛まれただけで、ワンちゃんが信じられなくなってしまっているのだ。その不安がワンちゃんにも伝わってしまうような気がした。どうやってこの不安を乗り越えようか?

 でも、そのうち大丈夫なワンちゃんとだめそうなワンちゃんが、なんとなくわかるようになってきて、だめそうなワンちゃんには、手なんて出さないようになった。手を出すから威嚇しようとするのだろう。

 ワンちゃんがそこにいる。なんだか呼んでるような気がして、「おい!!」って声をかけてみる。そして嬉しそうにしてたら一歩近ずいて見るのだ。そのとき犬の表情が一瞬、警戒の色に変わったら、もう無理。という感じだ。一転、吠えられてしまう。

 ワンちゃんの顔色が変わるのに、むりやり近づいてゆくから、なおさらだめなんだよねぇ。そうしたら、「じゃあねー」と言って、笑顔で手でも振ってしまうのがいい。接近恐怖の犬っているんだよね、きっと・・。

 あの動物大国のムツゴロウさんは、どんな動物にでも、近寄ってって抱きしめてしまう。それは本当か? 僕も同じように、そばでやってみたいな。「いったい、何がちがうんだぁ!!」12/25 今日は新宿に「たま」のコンサートに行く。僕はあんな大きなステージに立ったことがない。大きなステージに何度も立つようになれば(まあ夢だけど)、ホールでのコンサートも違って見えてくるんだろうなぁ。あれだけの人数を楽しませるって、さすがだなぁ。

「アート的、ワンちゃん」12/27

 高校生の頃、飼ってた犬を家の中に置いたままで、学校から帰ってくると、玄関にあった靴を片方づつコタツの所に持ってきていた。

 「なにやってんの? おまえ」何度も玄関を行ったり来たりして、運んだその姿が、目に浮かんだ。まあ、それは、どんな形であれ、ワンちゃんの作品なんだろうなって思えた。

 それは下町の、ある一軒の家の庭を訪ねたときの事だ。おばさんは「犬がいるけど、大丈夫だから!!」って言う。僕は右横の細長い庭の方に入った。「あれぇ」そこに広がっていた光景は、まるでメキシコのどこかの土地のよう。

 いたる所に掘られていた、芸術的な、なめらかな穴。穴というより、つらなる山々の景色のようだ。ちょっと向こうに見えるワンちゃんの犬小屋。掘った土はどこに行ったのかは謎だが、一瞬見れば、芸術作品のようだった。

 「犬が掘ったのよ」と、おばさんが言う。そして犬小屋から、ちょっと小さめな黒いワンちゃんがちょこんと、顔を出した。「おまえかぁ」まるで(掘りつかれたよ)と言わんばかりの表情。もう、その犬はおじいさんで、目もほとんど見えないと言う。

 小屋から出てきた、ワンちゃんは、ぶるぶるっとして、よろよろっとして、こっちへ来る。もう「ワン!!」とも吠えない。「がんばったねぇ」それは本当にみごとな、大地創作だった。一昼夜では絶対にできないだろう。ぜひアート評論家のみなさんに一度見てもらいたい。

 「これは、すばらしい。ひとつひとつの盛り上がりや穴にも、細かな、神経がゆき届いている」登録カードに書れている、そのワンちゃんの名前。そして評価は「限りなく自然の作った創作に近い」と言われるだろう・・。

 アート的、ワンちゃん。その作品は、大胆でいつも、ひたすらだ。なにか、ひとつの完成された姿にそれは近い。強い意志を感じる。途中で投げ出したりしないだろう。犬の中にはそんな川の流れのような、パワーがあるようだ。12/27 新宿に手帖を買いに行った。いつもそこで、同じ手帖をもの10年も買い続けているのだ。しかし、なぜか今回はない。そこは大きな文具屋さんだ。ここになかったらどこに行けばいいのか? よーく探すと、その種類が一冊だけ残っていた。(う、売り切れたんだ・・) 僕は新宿の文具屋を巡り歩いた。本屋さんも寄った。しかし無い。ショック・・。落ち込みながら、高円寺に帰って来て、いつもの文具屋さんに行くと、欲しい手帖が、みごとにあった。「欲しいものは、高円寺にある!!」なんだか来年もうまくゆくような気がした。

「おまえの話をしよう」12/28

 おまえはひとつのなつかしい不思議の心のようだ。それは、最新型のテレビが映している、遠い昔のホームドラマ。小さな頃使っていた、筆入れの中の消しゴムの白さ。夕焼けのひとすくいを閉じ込めた缶詰め。野っぱらの途中に置き忘れてきた虫取り網。

 あの下町の路地の真ん中で、おまえと初めて会った。それは、もう10年前だ。目と耳の回りが茶色で、胴体にも大きな茶色の柄。道に放し飼いだったけど、とっても賢そうで、優しそう。車が来ればゆっくりと端に寄って待っていた。そう、おまえはそんなワンちゃんだった。

 なんだろう? おまえの持ってるあの安心感は。ぜったいに大丈夫って思える不思議。飼い主は、あの可愛いおばさんだ。おまえと同じ波長を持ってるような、まるでワンちゃんみたいな、あのおばさんだ。話すたびに僕は思ったよ。(この人あっての、おまえなんだなぁ)って。

 それから、もうひとつ知ってるよ。おまえを散歩させている、あのおじいさんの事。あの人、いったいどうしちゃったんだろうね。一日じゅう怒っていて。いつもちょっぴりお酒が入っていた。ずっとずっと、散歩の間じゅうおまえに怒っていたね。僕はよく知ってるよ。

 ずっとずっと、怒られても、おまえはいつも同じ瞳だ。言葉を背中で聞いているようだ。どうして、ずっとずっと、おまえを怒っているのだろうね。そういう人なんだろう。きっと誰かと話したいんだよ。さびしいんだろうね。

 おまえは、道の子供たちにもなんだか優しい。一緒に遊ぶわけではないんだけど、なんだか、やって来る車のこととか気にしている様子だ。尻尾を振ったりするわけではないおまえ。でも子供たちの真ん中に立って、そこにいつもいる。

 あれから10年たって、おまえは、最近ずっと犬小屋にいる。あの道を通るたびにのぞいて見ては、あいさつをしてみる。おまえに瞳に会いたいんだよ。昼間の柔らかい陽射しのように、この道にいて、みんなの足音を明るく響かせてくれる。おまえももう、おじいさんになったのかい? 12/27 昭和30年代の柱時計が、僕の部屋にはある。もう4年目だ。ふと気が付けばいつも、柱時計も見るのだ。一日に何回見るだろう? その度に懐かしい気持ちになるのは、好い事だね。

「ちょこんといる犬」12/29

 いつもその家を訪ねると、光の入る広い和室から、一匹のワンちゃんが玄関まで来て、ワンワンと吠える。その向こうには、小柄なおじいさんが、ちょこんとテーブルに座っている。

 ワンちゃんは年老いた小さなプードルで、両方の目が(たぶん白内障だろう)、もうほとんど見えない様子だった。小柄のおじいさんはゆっくりと、腰を上げて、玄関まで来るのだ。

 ふた部屋をひとつにつなげて使っている広い部屋を、ワンちゃんは小さく吠えながら、何度も部屋を行ったり来たりする。それは、ゆっくりのような、早いような、不思議なスピードだ。

 おじいさんの部屋はとてもきれいに片付けられていて、シンプルな暮らしぶりのようだった。ワンちやんにとっては、じゅうぶんに走り回れるスペースだ。テレビが付いていたことはない。いつもいつもそうだ。僕の知る限り、ここ十年は変わっていない。

 昼、おじいさんとワンちゃんは、散歩に行くのか用事があるのか、道でよくすれちがう。ゆっくりゆっくり歩いているおじいさん。目がほとんど見えていないと思われるワンちゃんも、ちょこちょこと一緒に歩いている。気が付けばどこかでひと休みをして、ひと息ついている。それはほんと、"ちょこん"と言う表現がぴったりだ。

 あのおじいさんも、あのワンちゃんもなんだか、車の流れが多いこの町では、ちがう時間の中を歩いているようだ。さっき僕と会ったばかりなのに、おじいさんは、すれちがっても気がつかないことが多い。何か常にワンちゃんと話しているような、いないような・・。

 ワンちゃんとおじいさんの間には、ひとつの童話が、いつもあるようだ。それはまるで、とってもおいしいサンドイッチのように。12/28 なんだか今日は本を7冊も買ってしまった。図書館からも10冊借りているし。でも読んでる。そう、昨日、荻窪の古本屋に寄ったら、なんと詩集の初版本とか(サイン入り)、お茶の水で、7・8千円位するような本が、400円とか600円で売られていた。ここの本屋は、知らんのか? ついつい4冊も買ってしまう。買う人がいないって言うのはわかる気がするんだけど、あんまりだ。

「柴犬君との散歩」12/30

 一年振りに実家に帰ったとき、そこに柴犬君がいた。

 ずっとずっと、知り合うことのなかった柴犬君。僕にとっては、苦手中の苦手のワンちゃんだ。案の定、吠えまくっている。でも、それでこそおまえだよ。

 さて、さーて。おまえは消えたりはしないし、ちょっとだけでも友達になりたいな。たぶん僕の人生の中で、一番吠えてくれたワンちゃんだろう。散歩に行こう、散歩にね。

 僕は柴犬君と、憧れの散歩に出かけた。信じられない気持ちだ。行こう。新しい扉を開こうよ。でもホントはおまえがこわいのさ。

 海岸沿いを久し振りに、ワンちゃんと一緒に歩いてゆく。ここは思い出もいっぱいだ。あれから、20年たった。僕は毎日ここに来ていたのだ。

 なんだかとっても不思議な気持ちさ。こうして柴犬と散歩をしているなんて。生きているおとぎ話と歩いているようだよ。おまえの中にある、シンプルで名作な昔話たち。僕はそれが好きなのか、好きじゃないのか? 自分でもわからない。

 僕はとっても雑種のワンちゃんを愛していた。このひろいひろい海のように、つながる何かを感じていた。でもそれは僕の中の、ひとつの憧れでしかなかったのかもしれない。

 散歩から帰って来る。おまえは、ガラス戸に影を映して、小さくしっかりと立っている。ひとつの心が見えるようだ。ちょこちょこよく動く。こっちに行ったり、あっちに行ったり・・。

 おまえはとっても可愛いよ。いろんな動作が、おまえらしくってね。そして自分で考えて、自分なりに行動してるんだね。

 柴犬君と、打ちとけるには、もうちょっとだけ時間はかかりそうだ。でも一緒の道をまた散歩に行こう。12/29 今日、中古の楽器屋に寄って、生ギターの試し弾きをする。それは98000円のギブソンのギターだったけど、僕は安いギターが欲しくて、それを弾いたわけではなかった。「まあ、この値段ですから、音もこんなもんスヨ」ギターを選びにゆく若者よ、がんばれ。
「リオのくれたもの」12/31

 なんだか小鳥のような声が、鍋から聞こえていた。

 冬。ここは新潟の実家。家族みんなで、すき焼き鍋をしている。その湯気の中からなぜか、鈴のような、小鳥の鳴き声のような音が、聞こえている。その音を聞きながら、僕はワンちゃん「リオ」の事を思い出していた。

 いま実家で飼っている柴犬君は、飯どきなのに吠えたりしない。ドックフードの食事だからだろうか? 僕がここにいて、リオを飼っていた頃は、犬は、飯どきと言えば、おすわりをして待っていた。いつもいつも待っていたのだ。

 どんなに夜中に起きても、リオは暗闇の中で、おすわりをしていた。ふたつの目が光る。僕はリオのところに行って、ちょっとだけなでてくる。どんなときでもそうだった。不思議に思うほど、もうおすわりをしているのだ。

 高校を卒業して、東京に出てきて、僕は一年間、リオに会わなかった。久し振りに帰った時のあの喜び様は忘れられない。たしか冬。リオは家じゅうを駆け回って喜んだ。僕だって嬉しかった。田舎に帰るたびに、こうしてリオに会えるは、なんとも楽しいこと。

 今度は8月にまた、帰郷した。リオに会いたかったのだ。僕は家に着いて、すぐ裏の戸をあけ「リオ!!」と呼びながら、会いにいった。しかし、そこには、おすわりをしていたリオの姿はなかった。おふくろが言う。「リオは死んだんだっや」僕はショックだった。

 リオは前回、帰って来てから二ヶ月後に亡くなったと言う。ちょうど、その日僕は、リオの夢を見た。向こうからやって来るリオを抱きしめるのだけれど、抱きしめると、砂のように、崩れてしまう夢。本当の話だ。その日にリオは亡くなっていた。

 僕はすっかり力が抜けてしまい、しばらくは笑えなかった。そして、あれからもう20年。「ミスター、ボージャングルス」と言う唄の中の歌詞にも、「20年たっても、その犬のことが忘れられない」というフレーズが出てくるけれど、けっして大げさではない話だ。

 鍋の湯気の中から、相変わらず小鳥の声のような音が聞こえている。ほんのつかの間だったけれど、リオをことを、ひと巡り思い返してみた。また新しい話が始れば、古い話になってしまう事はわかっている。でも僕は今度いつ、ワンちゃんを飼うんだろう?

 リオが亡くなって20年たったけれど、僕は犬がいなくて淋しいと、今でもあまり思わないのだ。12/30 ひと月、ワンちゃんの話とつきあってくれて有難う。たぶんまだまだ話は続きがあるんだと思います。さて、来月は、「フォーク狂時代」です。どれだけ思い出せるか心配なんですが。夜、大谷たちと飲み会。帰りには、なぜかケーキ屋で、ケーキを買う。高円寺には、12時すぎまでやってるケーキ屋さんが、並んであるのです。来年から、大晦日イブにケーキ食べるようにならないかなぁ。いいのに。

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