青木タカオの「ちょっくら・おん・まい・でいず」  今月に戻る
過去ログ「インド編・アジャンタの誓い」日記付き'01.10月


「ジャイサールメールヘ向かう列車」10/1

 列車は砂漠の街、ジャイサルメールヘと向かっていた。パキスタンの近く、そこは城壁に囲まれ、ラクダの住む砂漠につながっているのだ。

 砂漠の街とはどんなものだろう。どれだけ夜は冷えるだろう。ジャイプールから出会っているラジャスターン州の男たちは、みんなダイナミックでおとぼけで、誇り高く、僕は大変に気に入っていた。さて、乗り継いで来た列車の最後。とうとう次は、ジャイサルメールに着く。

 向かい合っている長いシートに座り、僕も一緒に話に参加する。何を言っているのか分からないが、とにかく楽しいのだ。何の話だろうと思っていると、英語でちよっとだけ説明してくれる。

 ひとりの典型的なラジャスターンスタイルのおじさんが窓際に座っていた。原色の黄色いターバンを頭のぐるぐる巻きにして、刺繍のはいった布を体マントのように羽織っている。僕は、よく知らなかったのだけれど、そのおじさんはどうも口臭がひどいらしいのだった。

 みんなで話していると、急に窓を開けて、全員で鼻をつまんで悶えていた。何だろうと思っていたけれど、そのおじさんが少し喋ったのだった。窓を開けると冷たい風が入ってくる。そのおじさんはまた口を閉じる。そしてまた何かひと言しゃべると、みんなまた悶えるのだった。

 英語の話せる青年が「バット・スメール」と僕に言う。他のみんなも インドの言葉で何か言ってくる。きっと「おまえは臭くないのか?」と言っているのだろう。僕には、その臭いはわからなかった。けれど、そのおじさんがひと言しゃべるたびに、その窓開けの大騒ぎは続いた。

 まるでコントか何か見ているようだった。実に可笑しかった。ラジャスターンの人達は、笑うことが好きなようだ。そして列車は、どんどんジャイサルメールに近づいて行った。9/30 機会があり、アフリカの木琴のバラフォンの演奏を聴いた。実に豊かな楽器だ。演奏してくれた曲は、どれも死者を送る曲だと言っていた。しかし、まったく暗くなく、逆に生きる力に満ちていた。 自分たちもその曲で送り、自分もまた送られてゆく。そんな繰り返しの繰り返し。

「砂漠の中の小さな街」10/2

 タール砂漠の真ん中、ジャイサルメールの街にとうとう列車は着いた。もうこの先に駅はない。駅を降りると、宿の客引きが、ジープと一緒に待っていた。

 ジープは、草がチヨボチョボと生えている砂ぼこり立つ道を走って行く。古い城跡もあって、実に雰囲気のある街だ。宿の回りに出てみてもなにもない。さすがにインドもここまで来ると、現代文明から遠いような気がしてくる。ビルはどこにもなく、牛やラクダやヤギやロバが通り行く。

 どの家も、ひっそりとしていて、人々はなにやらやっている。俗世間から離れた、時間がここにはあるようだ。一軒のレストラン(?) を見つけた。そこは屋上にあり、住んでる家の中を通り抜け、50センチほどのはしごを登って、屋上に行くのだった。

 街一番の商店街に寄ってみると、砂漠の真ん中なのにいろんなお店があって驚いてしまった。でもどのお店もケバケバしていなく、商売に一所懸命というふうではなく、楽しんでいるという感じだ。ラジャスターン独特の原色の服をみんな着ていて、民族の街に来た実感が湧いて来る。

 古い城の中を登ってみると、まだそこには人が暮らしていて、奇妙な気持ちになった。何千年も変わらない時間がここにはあるようだ。と言うか時間がないようだ。城の上に立ってみると、ジャイサルメールの砂漠の街が一望に見る事ができた。

 薄茶色い四角い家々。小さな街だった。旅に出る前に見てきた写真集そのもので、きっとここから撮ったに違いない。日本で見たときは、とてもこんなところには行けないなと思っていたけれど、実際に来てみると、生活にあふれ、なに困ることはないようだ。10/1 バイト始めなのに、今日から雨。月の初めはどうして雨になるんだろう。そう思っているのは僕だけだろうか。ぜひ誰か統計をとって欲しい。

「忘れられないハロー」10/3

 時間のないような城跡を出たあと、宿のある方向へ、なんとなく歩いていった。

 ときどき草の生えている土色の長くて細い一本道。自分の靴音だけが、聞こえてくるほど、回りからの音がない。日本のどこかの田舎に来ているような気持ちにもなってくる。

 しぱらく歩いてゆくと、後ろの方から「ハロー」と女性の声がした。振り返ってみると、メタルのいっぱい付いた壺を頭に乗せた、現地の娘さんが僕に声にかけたのだ。

 「ハロー」僕もそう答えてみる。彼女は原色のインドの服を着ている。頭に壺を乗せているために、首がうまく動かせないのだ。ひとつの道でふたりきりとはいえ、ただただ微笑むしかない。

 僕はその娘さんの表情の中にひとつの明るさを見た。砂漠に爽やかに吹いている風のようだった。しぱらく一緒に歩いてみるけれど、僕はどうすればいいの?

  砂漠の街、ジャイサルメールの一日目は、忘れられないハローから始まった。10/2 なんだすごくバイトが忙しい。めいっぱい動きまわっている。朝の9時から4時半まで、ぐるぐると道を行く。やっとバイトが終わると、なんだろう。力が抜けるのかな。まっすぐ歩けなくなるのだった。

「屋上の音楽隊」10/4

 僕は持ってきたギターを、宿の馬鹿息子に見つけられてしまった。

 「ホー!! ギタール!!」そう言って、僕のギターを勝手にケースから出して、もうひとり友達を呼んで、一緒に歌い出した。歌うし言っても、まったくのインチキだ。メチャクチャにギターをかき鳴らして、そして何か大声で歌い出した。

 きっと物まねをしているのだろう。その姿は、ちょっと本当の馬鹿者のようだ。しかし本人たちは実に楽しそうで、なりきっているのがよくわかった。ふたりとも、こんな楽しいことないという感じだ。あきれて見ていたけれど、イメージだけはよくわかった。

 そんな事のあった夕方。宿の息子が、ジャイサルメールの楽団を呼んでくれると言う。^(へぇー)とか思って半信半疑だったけれど、夜も9時になった頃、屋上に楽団が来ているという。

 やって来た6人の楽団員。まだ小さな男の子から老人までいる。しかし聞きに来たのは、僕と友達の二人きりだった。楽団の方も(あれれ・・)と言う感じなのだろう。なかなか演奏を始めないで、たっていたタバコとか吸っていた。いつまでもこうしていても同じなので、砂漠の楽団は、演奏を始めた。

 さすがに砂漠の夜は冷たい風が吹く。でも夜空には星がキラキラ。彼らはみんなオレンジ色のターバンをしている。それは、ひとつの演奏というよりも、かき鳴らし、叩きめぐり、声を張り上げると言うものだった。力で歌っていると言うふうだ。手拍子だけを叩いているおじさんもいる。

 木の小さな板を二枚、片手に持った少年は、それをカチカチとうまくカスタネットのように鳴らしていた。すごく早さで、鳴らしていた。少年は得意そうだ。独特のノリだ。僕の目の前までやって来ては、その少年は木の板鳴らしリズムを打つ。どうですか? と言ってるようだ。その瞳がライトに照らされて、時々なまめかしく光る。

 なかなかお客さんが増えなくって、彼らはひと休みをしては、せつない顔をしていた。でも、一度演奏を始めると、寒さを吹き飛ばすように、ノリまくって演奏を続けた。ラジャスターンの音楽は、とても正直だと思えた。そして半馬鹿なパワーで満ちていた。10/3 パスポートを取りに行く。以前に取ったのがもう15年前だ。あのときはとても緊張した。しかし今のパスポートセンターはとても明るい。すぐとれてしまった。もうちょっと写真は本人を確認して欲しかったなぁ。

「はじまりはじまり」10/5

 二泊三日の砂漠のキャメルツアーのために、友達と二人、ジープで砂漠の真ん中まで行った。

 そこは砂いちめんの場所で、夢にまで見た砂漠の景色だ。(来たー!!) なんだか嬉しくなってしまう。今日から二泊三日で、ラクダに乗り、旅をしてくるのだ。

 一緒にラクダに乗ってくれるという男が、ほったて小屋で待っていて、紹介された。一見して、面白い奴だとわかった。 チョビヒゲをはやしている、ハッサムと言う男。細長い枝を手に持って、薄茶色の服を着ていた。そしてハンサムのイサカ。僕らは意気投合するのに、時間はかからなかった。

 ハッサムはあぐらをかいて、ポータブルラジオをその腕の真ん中に置いて、ダイヤルを回してミュージックを選ぶと、まるでこの世の天国であるかのようにラジオと一緒に声を上げて歌っている。可笑しい。こんな使い方もあるのだ。

 「チャイを飲むか?」ときかれたので、「イエース」と答えると、そこからちょっと遠くに見える男に、ハッサムは手を振った。しばらくすると、その男は砂ぼこりを立てながら、やかんと、チャイセットを持ってこちらに向かって走って来た。本人は一生懸命走っているのだろうけれど、なにしろ砂なので、うまく走れないのだ。

 「ハロー」ちょっと背の低いそのチャイ屋は、とっても嬉しそうだ。そしてグラスにチャイをつぐと、またおもいきり走って戻ってゆく。このグラスはどうするんだろう。

 夕方になる頃、僕らは、結局チャイ屋のところまで行き、みんなで座った。砂漠に暮れてゆく夕日は、まるでお日様が砂の海に落ちてゆくようだ。ハッサムは「ジャィサルメールの街のレストランは大きくて立派だけれど、ここのレストランはボロ小屋でこんなに小さい。それでも同じレストランだ」と言った。みんなで大笑いした。

 また新しいツーリストが到着すると、チャイ屋のおじさんは、砂の上をやかんを持って走ってゆくのだった。10/4 バイトが忙しくて忙しくてふらふらになってしまう。自分でもどうにかなってしまうようだ。もっと早く、バイトに出かければよいのだけれど、遅れてしまう。仕事前に食事をしてしまう。また今日もぎりぎりだ。

「トミーチャパティー」10/6

 夜7時すぎ、日も暮れるともう明かりもなくなり、枝木を燃やしてみんなで暖まった。

 オレンジ色の光が目にまぶしい。あたりの真っ暗。だんだん星がはっきりと輝き始める。

 ハッサムははジャガイモを皮付きのまま切り、タマネギを切り、今夜の飯を作っている。たき火の回りには人々が集まり(と言っても6人くらい) 冗談を言いあっている。とてもいい雰囲気だ。 やっぱりここまで良かったとしみじみ思った。

  トミーと言う小さな犬を、ハッサムは飼っていて、トミーのために、小さなチャパティーをハッサムは特別に焼いてあげていた。チャパティーとは、薄くて丸いパンみたいなものだ。ハッサムは「トミーチャパティ、トミーチャパティ」と言っては、ひとりで大笑いしていた。

 ここまで街を離れると、本当、犬も友達という感じになってしまう。みんなでたき火を囲んで笑い合う。何千年も前からここでは、こんな風景が繰り返されて来たんだと思う。そして今も何も変わってないなんて・・。

 8時にもなるとすることも無くなって、もう寝る用意をする。ハッサムは砂の上に直接、毛布を敷いて、僕らはその上に寝袋を広げて入った。夜空では星が信じられないほど輝やき、天の川もちゃんと見える。

 僕がいつまでも星に見入っていたら、ハッサムはすぐにグーグー眠ってしまった。明日からはいよいよ、ラクダの旅が始まるのだ。10/5 今日、バイトでずっと怒り続けるおばさんと会った。大家さんに話を聞けば、調子が悪いだと言う。最近はとても元気になって、人と話せるようになったんですよ。と嬉しそうだった。

「星空とラクダと夜明けの歌」10/7

 星空の下で眠った砂漠の夜、いくつものハッキリとした夢を見た。

 砂漠の夜は急に冷える。寝袋を持ってきて本当によかった。冷たい空気を吸うとハッキリとした夢を見るんだとも知った・・。夜明け前、ばんやりと見ていたら、目の前をラクダがゆっくりと横切って行った。

 ラクダの伸びた首がのそーと現れ、その後ろにはブルー星空が見えていて、なんとも神秘的な空間だった。ああ、ラクダと星空はなんて似合うんだろう。ラクダはなんて神秘的な動物なんだろう。

 夜が明けて、また枝木を集めて、たき火をする。その暖かさが体中に沁みてくる。イサカはせっせとラクダの世話をする。ハッサムはまた朝食の準備をする。どうもそういう役割のようだ。熱いチャイを一杯飲んだ後、僕らにはとうとうラクダに乗ることになった。

 ラクダはいっきに後ろ足の方から立つ。前につんのめりそうになる。とても危ない。あぶないけれど心がウキウキしてくる。さて出発だ。ラクダ二頭。僕と友達と、イサカとハッサム。それぞれのラクダにひとりずつ一緒に乗る。僕は、大人しいイサカのラクダに乗ることになった。

 ハッサムの歌に合わせての、キャメルサファリのスタート。イサカのラクダの方が少しゆっくりらしくて、ハッサムのラクダは後ろにいる。ハッサムは大声で歌う。そして知っている日本語の「コレガ〜」「ナンナンデスカ〜」「ラクダーラクダー」の言葉を繰り返して僕らに向かって叫ぶ。その可笑しいこと、可笑しいこと・・。本当にお腹の底が笑った。

 途中の民家にて、ひと休みとなった。一時間もラクダに乗っていたら、股の間がとても痛くなってしまった。これは意外と大変な旅かもしれない。ラクダは水飲み場で、ゴクゴクといつまでも水を飲んでいた。10/6 新宿の紀伊国屋書店に行き、フランス・パリの本をいろいろと見てくる。いい本が見つかった。通路の真ん中で、一組の男女が熱心に本に見入っていて、他のみんなが通れない。二人の新婚旅行で行くと思われる宿を探していた。二人は幸せそうだった。

「写真騒ぎと野生のラクダ」10/8

 砂漠の真ん中にも、ときおり民家が続いていて、そこでラクダは休み、水をいつまでも飲んでいた。

 土色レンガの家を、ともだちと一緒にのぞいてみると、そこには手作りの棚があり、なんとも味があり、宝石のようなイメージを僕らに与えてくれた。友達はカメラを取り出して「写真を撮ろうかな」とひとこと言った。

 するとその家のおやじが「ちょっと待ってくれ」と言って、あたりの家じゅうの人たちを全員集めて来たのだ。そして、その棚を中心にして、みんなで取り囲みながら写真を撮ることになった。

 そして写真を送ってくれと言うのだけれど、その後が大変だった。送り先の住所を10人かがりでああでもない、こうでもないと言っているのだ。何やっているんだろうと思っていたけれど、ここまできっと郵便屋は来ないのかもしれない。それとも住所がないのか・・。

 ラクダは食事だとか言って、四角い大きなキャラメルのようなものをもらっていた。口ほ左右に動かして、美味しそうに食べるラクダ君。キャラメルとキャメル。言葉が似てるなぁ。この関係はなんだろう。何かありそうだ。

 民家に別れを告げて、僕らはまたラクダに乗って、砂漠を横切って行く。今は冬なのでそんなに熱くはないけれど、これが真夏だったらホントに暑いのだろう。

 僕らが食事のために、日陰のある所で休んでいると、ちょっと向こうで、二頭の肌の少し黒いラクダがタッタカタッタカ横切って行った。ハッサムに「あれは?」とたずねると、「ワイルド・キャメルだ」って言う。

 野生のラクダだ。二頭はとても仲が良さそう。背の低い木から木を見つけては移動してゆく。あんな大きな生き物が野生で生きてるなんて、なんだか信じられない。二頭の足どりはとても軽い。こんな風景を見ていると、街での生活がこっぱみじんに思えてきてしまう。ラクダたちは、何万年もそうしてきたのだろう。

 またラクダの旅は続く。進むラクダのお尻っていうのは、リズム感があってなんだか可笑しい。歩きのプロだと実感した。10/7 明日も休みの前の日曜日。今日はなんだか一日がポッカリと空いてしまった。一日、横になり眠っては起きて、眠っては起きた。何もしなかった。

「砂漠のウイスキー」10/9

 「ウーッ、デザルト・ウイスキー、デザルト・ウイスキー!!」

 ラクダ案内人のハッサムが、なんだか楽しそうに、ずっとそう言っている。途中の民家で、ビンに入ったウイスキーを、こっそりと、そしてもらって来た。今夜はこれで盛り上がろうというのだろう。

 夕方になり、今夜の場所に落ち着き、夕食になる。いつもどおり、ハッサムが野菜カレーの準備をして、イサカが、パンのチャパティをこねていた。今夜は特別に砂漠ウイスキーをみんなで飲んだ。友達とハッサムは馬鹿がのりうつったように、踊りまくっている。

 もうひとりのラクダドライバーの「イサカ」は、とても優しくてもの静かだ。自分はイスラム教徒だと言う。いつもおどけているようなハッサムと一緒で、この旅はバランスがとれているのかもしれない。僕はそんな大人しいイサカも大好きだった。踊るハッサムを見て、イサカもまた嬉しそう。

 今夜も砂漠の真ん中に、毛布を敷いて、寝袋に入って横になった。多少酔っていたせいもあり、すぐに眠りに落ちてしまった。目が覚めるとまだ夜中の三時。夜空が星でうまっている。こんなに星で満ちた夜空を見たのは生まれて初めてだ。

 天の川が二本。地平線から登って、そして地平線までつながっている。それも驚きだった。オリオン座がだんだんと傾いてゆくのが分かった。小さい頃から知っている星座を探してみる。なつかしいなぁ。

 よく「星の数ほどある」と言う慣用句を使うけれど、僕はただ単に「数えるのに大変な」という事だと思っていた。しかしそうではなくて「数えることは不可能なくらい」という意味だったのだ。ああ、この星空を東京の友達に見せてあげたい。

 だんだんと青く夜が明けてくる。結局、朝までもう一度は、眠れなかった。少し遠くの方から、ラクダがこっちに歩いてくるのが見える。夜に出かけ、朝に帰ってきたのだった。10/8 祭日。三連休の三日目。友達の絵本展に行った帰り、ウッド感覚で作られたそば屋さんに入る。まだ若いお兄さんがやっているお店だった。ずっと初期のビートルズが流れていたけれど、とても新鮮だった。ビートルズと日本そば。

「イサカとハッサム」10/10

 僕にとっては、ちょっとした大問題だった。

 ラクダドライバーのイサカは、ムスリムで、お酒は飲まないし馬鹿さわぎもしない。そして結婚している。あまり英語の得意ではなく「サンキュー」の事を「タンキョー!!」と大きな声で言う。ラクダの世話をとてもよくしている。僕はそんなイサカが好きだ。

 一方、ラクダに揺られながら、いつも歌をうたっているハッサムは、とても陽気で、なんとも遊び人。常に冗談を言ってて、アルコールが入れば踊りまくる。人なつっこく、笑顔に味のある砂漠の男だ。僕はそんなハッサムも好きだ。

 二人ともラクダドライバーで、僕と友達はどちらかのラクダに一緒に乗って、砂漠を横切って行った。イサカのラクダの方が軽やかに進む。イサカは軽く笑いながら「ズィス・キャメル、グット・キャメル。ザット・キャメル、イズ、ドンキーキャメル」と何度も言う。たしかにハッサムのラクダは、すぐ疲れてしまう。

 ハッサムはハッサムで、イサカの事を「カリカーマン」だと僕に言う。カリカーマンとは、真面目で、まったく遊ばない男の事だと言う。これは宗教上の問題なのか。ハッサムは、いつでも歌をうたい、ラジオを抱えては、首を振りながらノッている。

 僕には、どちらが幸せなんだろうかと考えた。どちらが幸せという問題ではないな。イサカの言ってることもハッサムの言ってることもよくわかる。それは人生のいたる場面にある選択だ。この砂漠のラクダサファリの旅は、そのことを考える旅のようだ。

 ラクダは必ず帰ってくる。イサカのラクダもハッサムのラクダも。そして僕らは行く。いつも静かに微笑んでいるイサカと、歌を唄い続けているハッサム。それはちょうどいいバランスで、旅の楽しさを教えてくれていた。10/9 朝一番で、ヤクルトを20本ももらってしまう。それもあさってが賞味期限。どうすればいいの。一日で6本も飲んでしまう。一年で一回くらいしか飲まないのになぁ。極端だなぁ。

「町のライフと砂漠のライフ」10/11

 いつもおどけている、ラクダドライバーのハッサムが、旅の途中で、何回かこう言っていた。

 「町には町のライフがあり、砂漠には砂漠のライフがある」と・・。たき火を囲んで、馬鹿踊りとかやっていると、ホントにそう思う。ハッサムは砂漠のライフの中にいるのだ。きっとどこかの町に行っても、また戻ってくるだろう。

 僕らのラクダサファリの旅も、ひと回りして、だんだんとその終わりに近づいていった。だんだんと、ジャイサルメールの古城の城壁が、そびえ見えて来た。その城壁を見ているとなんだか昔の人々気持ちがわかるようだった。

 二日間だけののラクダの旅だったけれど、お尻がとても痛くなった。そして無事に帰って宿に戻ってこれた。僕にとっては印象深い二日間。なんといっても、ラクダドライバーのイサカとハッサムが、僕らを楽しませてくれたのだ。

 ちょっと待っていると、前のほったて小屋のチャイ屋さんに、呼ばれて僕と友達は入っていった。そこでは、イサカとハッサムが、静かにチャを飲んでいた。宿からお金をきっともらったのだろう。あんなに馬鹿騒ぎしていた、ハッサムは、町に入ってからずっと大人しいままだ。

 ハッサムはとても淋しそうだ。町と砂漠はディフェレントライフだって、言っていた気持ちがわかるようだ。あの砂漠での日々は、本当だったのだろうか。まちがいなく本当だ。

 なんだか不思議な時間を過ごしたあと、イサカとハッサムは、また砂漠に戻って行った。淋しさの残る最後だったけれど、もうちょっとしたら、ハッサムは、あの子犬のトミーに会えて、元気にしているだろう。

 そういえば、ハッサムは、ひとつの話をしてくれた。ある一人のジャパニーズボーイとパキスタンの国境まで、ラクダに乗って、10日間、一緒の旅をしたと言う。一緒に寝て、起きて、そして食事をしたと言う。それはそれは楽しかったらしい。

 別れの日が来て、またハッサムは10日間、ラクダに乗ってオイオイ泣きながら帰って来たのだと言う。それはもう2年も前の話だけれど、ハッサムは昨日にように、その話を語るのだ。

 (イサカとハッサム・・。今だって、いつだって二人は僕の中に住んでいるよ)10/10 どしゃぶりの一日。もう唄うしかない。雨の中、唄う。どんなに唄っても雨は上がらない。好きな歌がある。

「リシケシの町」10/12

 列車は北インドの上の方、に向かっていた。今は冬なので、もう充分に寒い。

 僕も今はいっぱいに着こんでいる。チベットで買った、ウールのセーターは本当に助かっている。高かったけれど、あの時おもいきって買ってよかった。 列車を降りて、30キロ離れた、リシケシ行きのバスに乗った。

 リシケシは、その昔、ビートルズが来て、修行をしたということでも有名な町で、ちょっと山に行くと修行道場があったりして、町にはサドゥと呼ばれる、オレンジ色の布を巻いているヒンドゥーの修行僧たちが、多くいるという所なのだ。

 バスはリシケシに到着した。そこからまた30分ほど歩いて、泊まろうと思っているコテッジへ歩いて行った。どんどん自然あふれる景色になってくる。こんなところに宿なんてあるのだろうかか。小屋に着くと、頬かむりにダウンのチョッキを来た背の高いおじさんが出て来た。

 「どこ小屋がいい?」広い場所には、点々と小屋があり、それぞれに宿になっていた。僕もそのひとつの小屋を借りた。それも普通の宿代でなのだ。自分専用の部屋をもらえるなんて、なんてぜいたくなんだろう。

 小屋に案内され、そこに荷物を降ろした。冷え冷えとした空気の中、またここででの日々が始まる。こんなに静かな始まりの場所も初めてだ。ちょっと落ち着いたところで、町の方へ出かけてみた。

 橋を渡り、そして見えてくる、ポツリポツリとした店。すれちがうオレンジ布をまとったサドゥ。なんだかいままでの騒がしかったインドでの毎日が嘘のようだ。ここリシケシには、誰も騒がしくしているいないようだ。

 僕は一軒の食堂に入った。細長いレストランだ。リシケシのレストランには肉がなく、べジタブルの料理だと言う。店のマスターが、「ハロー」と柔らかい声で、あいさつをしてくれる。僕もまた柔らかく答える。

 ここでは、ゆっくりが当たり前のようだ。10/11 ライブも近いので、新曲を作ろうとがんばってみる。メロディーと歌詞も出てくるのだけれど、疲れがたまっていて、すぐ横になってしまう。横になると歌が出来るような気がしてくる。結局寝てしまう。

「幸せの時間」10/13

 昨日の夜はぜんぜん眠れなかった。犬の事を思い出したり、これからの事を思ったり。今は一月だが、七月には帰国する。不安も多い。でも六ヶ月間、いろんな事もあったなぁ。

 ここリシケシでは、小さな小屋の宿になった。子犬たちが放し飼いにされ、森のような景色の中だ。時間はのんびり過ぎて、朝も遅く起きて、何度も昼寝をしたりして、あっというまに夕方になってしまう。

 重い腰を上げて、リシケシの町に散歩に行く。大通りではなくて、裏道のバザールを歩いた。ちゃんといろんなお店がそろっていて、ここで暮らしてゆくのに不自由はないだろう。日本だったらもっとさびれた感じになるだろうに、インドのみんなは自分たちの土地を愛する気持ちが強いようだ。

 一軒のチャイ屋さんを見つけた。そんなに広くない店内は、薄いブルーで塗られていて、椅子も テーブルもブルーの細工がされていて、どこかイスラム風な感じだった。こんなチャイ屋さんは初めて。出てきたスイートのお菓子も大変に美味しく、チャイもうまかった。お店の人も親切で、文句なしのお店だった。

 路地に入って見つけた店。そこにいる自分。僕は旅に出て何度めかの幸せに満ちた時間を感じていた。ひとりだけで、こんな気分でチャイを飲むのは嬉しく、そして辛い。なんだかぜいたくな気がしてくるのだ。一緒に顔を見合わせる人がいないのは淋しい。

 帰り道、いつももレストランに行く途中で、町が停電になってしまった。レストランをのぞいてみると、ろうそくがそれぞれのテーブルにともされていた。ゆっくりと運ばれてくる食事。なんとも静かな世界。僕はまたまた幸せになってしまった。

 宿の小屋に戻ったあと、ギターを持ち出して、月の出ている中、唄ってみる。かわいい宿の犬たちがじゃれてくる。僕は「上を向いて歩こう」を唄う。今夜はそんな気分なのだ。10/12 最近、ずっと、日本のグループ「ソウル・フラワー・ユニオン」のTAPEを聞いている。最初は(なんじゃこりゃ)と思ったけれど、聞いているうちに、耳になじんで来た。いい歌が多い。ライブを見たいグループだ。

「みんなのそれぞれ」10/14

 自分だけの小屋があるのは、ホントにいい。

 ベットに寝袋をしいて、眠りたいだけ眠り、ギターを壁に立てかけて、物思いにふける。今は冬なので、外の景色もとても寒々としていている。

 リシケシには、ヒンドゥー教の聖地でもあり、バラナシに流れていたガンジス河もここでは、また清い流れを見せている。そしてここでは修行僧のサドゥが多くやって来て、ほどこしを受けて暮らしてもゆけるという。

 橋の上で、オレンジ色の布をまとったサドゥとゆっくりとすれちがったりすると、なんともしみじみとしてくる。またここリシケシでは、修行のためのダラムシャラーと呼ばれるお寺の施設も多くあり、そこに安く泊まれたりするらしい。

 どこに行っても静かなリシケシの町をうろついて宿に帰ってくると、ちょっと離れた外の場所で、ひとりの外人さんが、にんじんをかじっていた。とても美味しいという顔をしている。(そうか、生にんじんだけでも生きてゆけるのかもしれないな・・)

 彼はベジタリアンなのだろう。宿では、瞑想とかしているのかもしれない。リシケシのレストランには肉のメニューはないと言う。

 宿の小屋にいると、今までの旅とちがっていて、言葉がない。ずっと話さないで毎日が夜になるようだ。宿の壁には、印象的なヒンドゥーのイラストが壁にある。僕はずっとここに居たような気もしてくる。

 外にあるトイレに行くたびに、宿の子犬たちが足下にじゃれてくる。そんなささいなぬくもりも、今はとても暖かい。10/13 土曜日になると、どうにも体が動かなくなってしまう。何かやろうとすると、集中力がなくなってしまう。きっと人生には、こういう日がセットになっているのだ。

「リシケシの小さな祭り」10/15

 今日、リシケシではお祭りをやっているようだ。子供らはそれぞれに風船を持ち、笛かなんかを鳴らしている。

 ずっとその列に沿って歩いてゆくと、ヒンドゥーの女神さまが飾り付けられている場所に出た。たぶん今日のお祭りのメインのひとつだろう。それは人形ではあるけれど、とても美しくて神聖さに満ちていた。

 その女神さまの前でひとりの女性がたてひざになり、じっと見つめながら静かに祈っている。女性はその人形を女神さまと疑っていない様子だった。僕はその姿にひかれ、少し離れたところで眺めていた。祈っている姿は見ていてそれだけで美しい。

 冷たく張りつめたような空気の中、いつまでも見つめていると、急にその女性が崩れて、体を伏せるようにして、今度は祈りだした。その崩れ落ちる瞬間がとても胸に痛かった。彼女にとっては祈るべきなにかがあり、女神さまを信じる心は現実なのだ。

 河原に行くと、みんな草の中に花と火の種を入れて、船のようにして川に流している。そして僕は思った。この空気の中には、酸素と二酸化炭素と、水素とチリと、あとはよくわからないが、そして願いがあるのだと知った。10/14 ライブのためのリハ。二時間なので、時間が足りないと言えば足りないのだけれど、どうしても一曲ごとに世間話をしてしまう。人はずっと集中は出来ないし、アイデアには偶然が必要なのだ。なるべく音楽から遠い話がいい。

「犬のいる人生」10/16

 冬の風の吹く、リシケシの小さな祭りの、賑わいのちょっとこちらの道では、さまざまの人たちが、そこで暮らしていた。

 その光景は、淡々として、淋しさを超えて、静かな時間が流れていた。今は冬なので、どの人も、布を何枚も巻き付け、寒さに耐えていた。

 そんな中にひとりのおじさんが、ワンちゃんと一緒に、道に座っていた。ワンちゃんは、おじさんに寄り添い、あごを付けて、丸まっている。そして、おじさんの言葉に反応して、起きあがり、何かを取りにいっているように見えた。おじさんとワンちゃんはひとつのようだった。

 人生が、どこにあっても、そこにワンちゃんはいてくれて、そばに寄り添ってくれている。それは長い歴史の続きの場面にあり、人と犬の深いつながりを感じる。自由な足があるのだから、どこに行ってもいいのだけれど、そこにいるワンちゃん。

 それは、飼い主とワンちゃんという感じではなく、友達と言ったほうが近いような気がした。どんな人生にも、友達はいる。あのおじさんの毎日は、ワンちゃんとの日々で、淋しさもそれで半分になり、寒さも半分に感じるのだろう。

 おじさんには家もなく、寒さをしのぐ暖房もない。しかし何か、それが不幸せという条件ではないだろう。そばにワンちゃんのいるライフは、とても童話的で、愛に満ちている。こんなふうに人生は出来ているようだ。たとえ百科辞典に、そう書いてなくっても。10/15 久し振りに唄う友達のライブを聞きにゆく。ほんの40分くらいだったけれど、僕には長い長い40分に思えた。200キロくらい、行って帰ってきたようだ。

「ズボンの破れる日」10/17

 明日には、リシケシを出るという日、旅の間はき続けていたズボンのひざが破れた。

 次に行く、ニュー・デリーの後、僕はインドを出ようと思っているので、実際のインドでの移動はこれが最後になる。ズボンの方も、破れるときという時期を知っているようだ。

 旅に出て、五ヶ月、インドに入って三ヶ月半、いろいろな事があった。思い起こせば、一本の映画のように、つながったフイルムのようによみがえってくる。ヒザの破れたスボンが、もうインドも終わりだよって言っている。

 宿に戻って、僕はその夜は、子犬とじゃれて遊んだ。子犬って、いとしいな。ギターを外に持ち出して、さよならの歌を歌ってみる。リシケシとそして、旅のひとつの終わりのために。

 次の日、荷物を背負って、リシケシの町を駅へと歩いてゆけば、多くのみんなに「ハロー」と声を掛けられた。駅に向かっているので、僕がリシケシを出るということを知っているのだろうか。その「ハロー」の響きには、始まりの予感があった。

 インドでは、最後の寝台になる列車に乗り、今夜は早めに、横になった。夜は冷えるので、寝袋に入った。顔まで、紐でしぼって、さあ、ラストの場所、ニューデリーへ向かおう。インドでの日々をいろいろと思い出して、なかなか眠れない。

 ニューデリーに着いたら、きっともう、インドでの旅は終わっているのだろう。そう思うと、きっと今夜が、インドの旅の最後のようだ。目をつぶると、次々に風景が浮かび、ちょっと眠ったら、もう朝になってしまった。10/16 昨日は遅くまで、友だちと、飲んでいた。おかげで、今日はハードな一日になってしまった。そして明日は、自分のライブ。会社に有休制度があるように、一日を40時間くらいに伸ばせないものだろうか。

「子供の馬車使い」10/18

 さあ、ニュー・デリー。駅前に出ると、タンガーと呼ばれる馬の車が、乗り客を待っていた。

 馬車と言うのは、インドに入ってから初めてだった。そのどれかに乗って、宿のある場所まで行こう。声をかけてくる馬車使いの中に、ひとりの子供がいるのがわかった。

 それは、10才くらいの男の子で、まったく他の、馬車使いと同じように待っていた。そしてよく見ると、その少年の馬だけが、ひとまわり小さいのだ。

 僕はいろんな意味で、その少年が気に入ったので、その馬車に乗ることにした。しかし座ったままになってしまった。人が集まるのでは出発はしないのだ。やがて、何人かの人が集まり、その子供の馬車使いは出発した。

 馬はパッカパッカとひずめを鳴らしてゆく、その音は本当にパッカパッカなのだ。大きな大きな交差点を曲がってゆく、彼は掛け声を掛けて、馬を走らせる。その声は勇ましく、とても子供とは思えない。後ろの席で揺られていると、なんだか急に不思議な気持ちになった。

 馬車使いの彼は、まだ10才くらいなのに、もう一人前で、僕らはその彼に命を預けているのだ。 こんなことがインドには、ある。同席になったインド人は、普通にしている。子供の馬車に揺られながら、甘かった自分の事が恥ずかしかった。

 (ああ、負けっぱなしだなぁ・・) インドの働いている子供は強い。彼が大人になるとき、馬も大きくなるのだろう。10/17 雨。雨だけれど、急がないと間に合わない。でも長靴は走れない。外歩きの仕事は、長靴に弱い。疲れが二倍になる。あたふたしながら、ライブハウスへ。やっと落ち着いて、お茶を飲む。ふーっ。オールOKだ。さて、やるか。

「ハニー・ゲスト・ハウス」10/19

 ニュー・デリーの「ハニー・ゲスト・ハウス」のドミトリー(大部屋)には、9人の日本人のツーリストが、待っていた。 

 馬車を降りて、ラストの宿を探して歩いてゆき、いい宿を探していた。ニュー・デリーは、都会の持ってる何でもありの雰囲気があり、あきないで歩いてゆける。何軒か、安宿を回ったあと、「ハニー・ゲスト・ハウス」のドミトリーに宿を取った。

 そこで待っていた、9人にツーリストたち。そのどの人も長期旅行の人であり、ここから、パスキタンに行こうという人。そしてヨーロッパから、中近東を抜けて来た人。タイから、インドに遊びに来た人。ブータンに寄ってきたという人。さまざまな旅人が集まっていた。

 僕もまた、その中のひとりに混じり、すんなりと話に入ってゆく。このドミトリーにもう長くいる人もいる。飛行機のチケット待ちをしている人もいる。ここニュー・デリーは、旅の出会いの場所だ。来る人と行く人が、ここで集まってくる。

 インドの最後に着いた宿は、長旅のみんなと、大きな渦のような話が待っていた。みんなそれぞれであり、個性的で、その表情はとても明るい。

 ここで僕もまた、続きの旅を待つひとりになった。そしてひとりひとりが、旅そのもののようだ。それぞれのベットの上は、旅慣れたシンプルな物の置かれようになっている。コンチワ、ヨロシク。0/18 今日たまたま入った、オリジナル料理の店で、ひとりのまだ若い、髪の薄くなったサラリーマンの人が、ネクタイをゆるめながら、今夜のディナーを食べている。ひと口ひと口に、うなずきながら食べているその姿は、大変に幸せそうだった。

「200ヶ国の嫁さん探し」10/20

 そんなニュー・デリーの宿の大部屋で、みんなと話していると、いつも細かくうなずいているおじさんの旅行者がいた。

 そのおじさんはあごヒゲを生やして、いつもにこにことしている。富山県から来ていて、「わしゃー、わしゃー」と言う。ホントに聞き上手で、いつも話を面白い方に進めてくれる。

 ふと気付けば、おじさんは灰色の靴下、灰色のズボン、灰色のセーター、そして灰色のカバン。、おじさんの身に付けているものは全部、灰色なのだった。「これがいちばん目立たなくていいんじゃよー」と嬉しそうに言う。

 一緒にいて、何日目かのこと、そのおじさんは自分の話をはじめてくれた。その話の感動的だったこと・・。おもわず聞き惚れてしまった。

 おじさんは、この世界中のどこかに、自分にぴったりのお嫁さんがいるはずだと信じているという。そして、世界200国を全部回ろうと決めたというのだ。その話を聞いていると夢があり、たしかにそんなような気がしてくるのだった。

 「こんなわしと、ぴったりの嫁さんが、きっとどこかにいるはずなんじゃ。わがワイフを求めての旅じゃよ」

 もうどのくらいの国を回ったのだろう。トラックの運転手で半年働いて、いつも半年旅に出ているという。そしてここ宿にはもう三週間いるという。おもしろい人だ。いつのまにかそこにいて、すっと、話に入ってくる。

 その笑顔の真上、ベットの上には、グレーの靴下が、何足も並んで干されている。10/19 とても気に入ってる日本のグループの歌をコピーして、歌ってみた。その元はロックなのだが、自分が唄うとどうしてもフォークになってしまって、イメージが伝わらない。俺はやっぱり根がフォークなのか・・。

「自転車の彼」10/21

 広島から来たという、その青年は、ブルーの縞々のTシャツを着て、入口のそばの自分のベットに腰掛け、なんだかんだといつも話していた。

 青年と言っても、25才くらいで、ちょっと見ると、まじめな好青年という感じだ。目が細く、いつも嬉しそうに喋る。彼は、もう半年以上旅を続けていて、なんとヨーロッパも中近東の24ヶ国を自転車で回ってきたらしい。

 彼の話はなんともワイルドだった。自転車も日本から送ってもらったのだという。なにしろ「自転車で回ったほうが面白いと思ったから」と簡単に言うその動機が、良かった。どこの国に行っても、その調子で、楽しんで来たらしくて、大変だったことも、どのくらい大変だったのか想像つかないのだった。

 「ほんと大変だったんだから!!」そう顔を真ん中によせながら、話す彼。そしてヨーロッパのみんなの話がとても面白かった。「ないしろねえー、ほら向こうの人って、あんまり、はだかとか気にしないから、もーう、まいっちゃったよ。胸とかね、ボンボーンとかいう感じでねぇー・・」そんな風に話す彼。いいなぁ。

 そんな彼は、インドに入ってから本を日本に送ったのだけれど、郵便局に100Rs多く、払うことになってしまったという。文句を言ったのだけれど、聞いてもらえなくて、すっかりインドが嫌いになってしまった。「もう、ゆるせんよー」

 彼の怒りはまったくおさまらず、ネパールに行くことに決めたらしい。彼は誰にでも怒り、誰にでもやさしい。「おたくはどーすんの?」よくそうぶっきらぼうに言っていて、その響きがなんとも可笑しかった。10/20 夜、大きな焼き鳥屋にて、飲んで食べる。もう終わりかけだったので、店員の兄さんたちも接客がいいかげんだ。あまりにひどい。おれたちは物扱いの様だ。疲れすぎているのだろう。これも焼き鳥屋のいいところかと思った。

「話好きの彼」10/22

 大部屋のドミトリー。とにかく彼の話はおもしろかった。

 彼はちょっとだけ鼻ひげを生やし、どこかのサラリーマンのよう。もう何度も長期旅行に出ているようには、見えない。しかし、その話は、どれも起承転結があり、小さな話でも、ストーリーが出来ていて、なんとも引き込まれてしまう。

 今はこうして、旅をしているけれど、彼は数多くの職業を経験していて、学習教材の販売員時代の話がとくに面白かった。彼に言わせると、営業にはコツがあるのだという。そして、なかなか折れないお客さんを、ここ一番で、落とす方法があるという。それは、秘密だが・・。

 大部屋のドミトリーで彼が話だすと、空間が出来上がり、ひとつのドラマを聞いているような感じになってしまう。彼はジェスチャーや、会話や、質問をまじえて、話を続けてゆく。そしてかならず素晴らしい落ちにたどり着くのだった。

 旅に出て、彼みたいなタイプの人に会ったのは、初めてだった。彼は誰の名前もすぐに憶えて、しっかりと名前を呼んでくれるのだ。それは、なんだかどこか営業マンのようだ。しかし、その顔はいつも半分笑っている。

 誰かが、なにかアイデアを出すと、「行きましょう!!」と言って、みんなを誘うのだった。失敗しても、それもまたおもしろ可笑しく、帰ってきてから話にしてしまう。

 そうそう、彼の旅での冒険話がまた、おもしろいのだった。10/21 友達のライブ演奏を聴きにゆこうと思ったのだけれど、開演時間がわからなくて、あきらめてしまった。しかし夜、たまたまその町で、偶然に出会い、ストリートで演奏をする。とても嬉しかった。双六のアタリのようだった。

「おまえ杉並区から来ただろう」10/23

 「メシ食いにゆこうよ」ドミトリーの僕らは、ニュー・デリーの裏道へと出かけてゆく。ニュー・デリーには、ナショナルミュージアムとトラベル関係のお店に用があるくらいで、楽しみといえば、食事をすることだ。

 長期旅行の僕らは、のんびりとバザールを歩いてゆく。いままでの旅の疲れをここで癒しているようだ。ここを離れたらまた、ハードな旅が始まることを知っている。ひと休みのそんな気分で話歩くのは、とても楽しい。

 バザールを歩いていると、同じような日本の旅行者たちとすれ違うことが多い。それぞれの宿での仲間なのだ。ある日歩いてゆくと、ひとりの若い坊さんを中心にして、話してくる日本の仲間がいた。

 「ヤァ!!」僕らは一緒に食事をすることになる。その若いオレンジの袈裟を来た坊さんは、インドに修行に来ているという。そして僕をみるなり、「おまえは杉並区から来ただろう!!」と言ったのだ。

 僕はびっくりしてしまった。当たっていた。そのときはちょうどきれいな服を着ていて、どう見ても、インド風・杉並区ファッションではなかったのだ。「姿をかえても隠せない!!」と坊さんは言う。

 その坊さんは、とてもエネルギーがあり、なんでも直感的に言い切る変な人だ。それも、確信を突いてくる。そして俗心にあふれている坊さんなのだ。僕らはすっかり、その坊さんのペースにはまってしまった。食事も楽しかった。

 宿に帰ってきて、僕は友達と、さっきの坊さんについて話した。「いゃぁ、面白い坊主だね」と僕が言うと、友達は「あいつは、とんでもないエロ坊主だ」と言った。実はこっそり、僕らと一緒にいた女性にいろいろ誘っていたというのだ。ぜんぜん気付かなかった。

  (あの坊さんは、どうして坊さんになりたいのだろうか?) また、きっと明日もバザールで会えるのです。10/22 明日は火曜日だけれども、たまたま休みで、今日はとてもうきうきしていている。ずっと夜中まで起きているつもでいたのに、失敗して11時頃眠ってしまった。今夜、誰かはいい夜だったにちがいない。

「チケット・トラブル連休」10/24

 デイスカウント・チケットを買うのも、なかなかに大変だった。

 本当は、インドから陸路で、トルコへ向かうはずだったが、イランとイラクが戦争をしていたので、飛行機で、イスタンブールへ飛ぶことになった。

 トラブル・エージェントを訪ねると、気前のいいオヤジが、待っていて、いろいろと世話をしてくれた。チケットセンターに行ったら、明日の夜には乗れるという。急に決まってしまい、いろいろと忙しくなりそうだ。

 しかし、その飛行機は結局だめで、月曜日の飛行機は、モスクワ経由で99パーセントで大丈夫だと言う。しかたがないので、その飛行機に決めて、また待つことになり、すっかり気が抜けてしまった。

 エージェントのおじさんとオート・リクシャーに乗り、銀行に行ったり、チケットセンターに行ったり、インカム・タックスを払いに行ったり、書類を書いたりと、2時間もいろいろ付き合ってくれた、おじさんは本当にやさしい。

 そして月曜日。すっかり心の準備もして、ひとりでチケットセンターに行くと、今夜のフライトはダメになったと言う。99パーセント大丈夫だって言ったのに、これだものなぁ。それに、エージェントの人と一緒に来たときは、とても親切だったのに、僕ひとりで来たら、まったく態度がちがう。それに、お昼だからと言って、1時間もまた、待たされてしまった。

 もう、乗れるがどうかわからないのは嫌なので、確実に乗れる便を予約することにした。来週の月曜日。結局、あと一週間、ニュー・デリーに居ることになって しまった。帰り道。僕は自分に角が生えているのがわかった。みんなこうして、ニュー・デリーで待っているんだな。

 ディスカウント・チケットを買うのも、なかなかに大変だ。あと、一週間、ここで何していようか。10/23 ADSLへの変更の件でNTTより、説明の電話が、かかってくる。東北訛りの女性だったが、まるきり、原稿用紙を棒読みしているだけなのだ。新人なのだろう。それとも、東北訛りは、そう聞こえるのか。専門用語を平気で、使っている。変だよ。 

「そんなドミーの日々」10/25

 さて、一週間も時間が出来てしまったので、僕は何をしようか考えてしまう。暇なので、ギターのフレットを押さえる、カポタストを作ることにした。

 歯ブラシの柄を、7センチくらいに切り、そして靴のゴムを扱っているところを探して、職人にカットしてもらい、みごとにカポを作ったりして、一日が、過ぎていった。なにしろホントする事がないのだ。

 近くのお菓子屋に寄ったら、そこには日本の源氏パイそっくりなお菓子があり、源氏パイの由来についてみんなで、話あった。なぜ、なぜ源氏バイがインドにあるのか? 西洋から渡ってアジアに来たのか? 日本の誰かが伝えたのか? そんなことをひとつひとつ食べながら話したりした。

 宿のドミーにいるひとりの青年が、何を思ったか急に、「俺は自転車で、北インドを回るんだ」と言い出した。そして、どこかでインド製の自転車を、手に入れて来るという。ヨーロッパを自転車で回った彼の影響だろうか。みんなは「無茶だよう」と言っていたけれど、本人は本気のようだ。いつそんな気分になったのだろう。

 夕方の5時ともなれば、みんなドミトリーに戻って来ていて、なんだか可笑しかった。みんな町ですることがなくて、帰ってきてしまうのだ。ずっと旅をしてきたけれど、こんなドミーは初めてだ。

 夜が始まると、ドミーはお話の時間になる。毎日が何かテーマになり、遅くまで話し込む。みんな個性的な奴らなので、誰の話もおもしろい。そんなドミーの毎日は僕らをとても近い存在にしてくれた。

 なんだか、漂流してここに着いたような時間が、このドミーにはあった。10/24 今日で、今月のバイトが終わり。なんだか晴れ晴れした気分だ。いろいろとやりたい事があるけれど、どれだけできるかなぁ。ノートに何ページも書いてみる。いつもそうだけれど。

「それぞれの旅だち」10/26 

 「いやぁ、まいりましたよ・・」

 街歩きから帰ってきた、26才の旅人はそう言った。明日やっと、インドから日本に飛ぶという日に、街で、パスポートをスラれてしまったのだ。

 彼は軽く笑いながら「気を抜いちゃったなぁ・・。スラれるときって、こういうものだよ」と言った。彼は年のわりにはすごく落ち着いていて、僕は少し憧れていたのだ。とても悔しそう。しかし、なんとかパスポートは再発行され、日本には帰れるという。

 自転車で、北インドを回ると言い出した彼が旅立つと言う。外に出てみると、きれいなインド製の自転車が置かれていた。しかしバックがむりやり後ろにくくりつけてあり、すぐ斜めに傾いてしまうのだった。「おい、大丈夫かよ・・」心配はしてみるけれど、彼は「まあ、なんとかなるでしょう」と言って出発してしまった。ヨロヨロと進んでゆく、インド製の自転車。

 そして、ヨーロッパを自転車で一回りしてきた彼も、ドミーを後にして行った。彼はとにかくインドではなく、ネパールに行きたいという。彼と会ったとき、そして今では、まったく印象も違い、親近感に満ちている。「では、ネパールで会いましょう」と僕に言ったけれど、僕はヨーロッパに行くし、どうやってネパールで会うのか。

 二週間一緒にいた、話好きの彼もまた、ドミーを出てゆく事になった。彼とは本当に仲良くなった。僕の話が面白いとも言ってくれた。別れ際に「アオキタカオさん、さようなら」とフルネームで僕の名前を言って、ドミーを出ていった。ほんとによく話をした彼だった。

 その彼がドミーから、出て行って、僕がとうとうこのドミーで長老になってしまった。若い新しい旅人との、入れ替わり。「情報交換しましょう」とか言って、旅の話なんかしているけれど、昨日までのドミーの空気はどこにもない。

 僕は、こころの行き場がなくなってしまい、屋上に行き、一人でギターを弾いた。。10/25 来月、フランスにいく予定もあり、お金がいるのだけれど、なんと来月、特別収入が、かなり入ることになった。なんとラッキーな。人生ってうまく出来てるとしか思えない。

「さよならインディア」10/27

 とうとう、インドを後にする日が来てしまった。

 ネパールから入って、四ヶ月間。ひととおり回ってきた、印度亜大陸。思い出もたっぷりで、今日をどうやって過ごそうか・・。大部屋のドミトリーでは、仲良くなったみんなも旅立ってしまい、若い旅人たちに入れ替わっていた。

 きのうまでのドミーの空気はもうどこにもない。偶然に流れ着いた長期旅行のみんなが作っていた毎日の連続ドラマは終わってしまったようだ。残された僕もここを出てゆく。最終回はもう終わっている。

 なんだか、今日で最後というのに、これと言って、どこかに出かけようという気が起こってこない。宿のベットに横になって、時間がただ過ぎてゆく。しかしやっぱり、もう明日には来られないと思うインドの街に出かけて、僕はのんびりと歩いてみる。

 チャイとラッシーとヤシの実ジュース。インドに入ってから知った、このみっつを僕はもう一度、ちゃんと味わってゆこう。ラッシーを飲んでみる。バラナシで飲んだヤツはホントに美味しかった。あのラッシー屋のあんちゃんは元気か?

 ヤシの実ジュースを飲んでみる。 目をつぶってみると、南インドの風景が見えてくる。港町プリーの浜道バザールが見えてくる。なんだかもう飲めないかと思うと、とても淋しい。だからしっかり味わっておこう。

 とうとう、出発の時間がやって来た。たまたま空港に行く、ドミーの友達と一緒になった。バスはニュー・デリーの街を抜けてゆく。そこは高速道路のようで、もうすっかりインドの旅が終わった事を教えてくれていた。

 空港に着いて、飛行機の待ち合わせをしている間、ドミーの友達と話しながら、僕はなんだか、とても嬉しくなってしまった。それは、予定通りにインドを回れたことと、存分に楽しめた充実感からだった。

 まだ搭乗までは時間は少しある。なんだか微笑みすぎて、頬が痛い。僕はインドの第一学期卒業証書を、もらったような気持ちがしていた。10/26 友達が古いカメラを持って来て、いろいろ撮っていた。まだ一度も現像した事がないのだと言う。古いカメラはまた現代をのぞいている。撮れているといいなぁ。

「ここがモスクワ」10/28

 そして飛行機は、インドを飛び立っていった。「ナマステ・・」僕は、窓から見えている印度亜大陸に向かい、手を合わせ、あいさつをしてみた。

 さて、これからは旅の第二部という感じだ。モスクワ経由で、トルコのイスタンブールに到着する。聞いた話では、冬のモスクワは寒いと言う。マイナス20度くらいになってるとか言う。チベットで買ったセーターだけが、今の僕の助けだ。

 飛行機の乗り換えで、数時間、ロビーでのんびりとする。ひとつのソファーには、いろんな国籍の人がいて、とてもインターナショナルな気分になってしまう。いままでずっとアジアだったので、どう自分を作っていいのかわからない。僕は僕らしくしていれば、いいのだろう。

 飛行機またモスクワへ向かった。僕のななめ後ろには、ヒゲを生やしたラテン系のおじさんがいて、すぐ友達になれた。彼は常に冗談を言っていて、今まであったことのないタイプの人だった。隣りの席には、フィンランドから来たという青年がいて、自分はロックミュージシャンだと言う。

 モスクワ到着。今夜はここで一泊で、やさしそうなイギリスの青年と同室になった。僕にタバコをすすめてくれたのだけれど、「ノン・スモーク」と答えると、彼は入口の方まで離れて、タバコに火を付けていた。「気にしないで下さい」と僕に言う。なんだかいままで、ヨーロッパの人に持っていたいろいろな偏見が、すっと消えたような気がした。

 市内観光に行くたい人はバスに乗ってくださいと言う。モスクワ無料観光バス。外は雪が降っている。都会ではあるけれど、寒々とした景色だ。少し黄色の混じったブルーのビルディング。大きな鉄骨が転がっていたりして、その印象は冷たい。色鮮やかなクレムリンの建物が見えて来る。

 毛皮の帽子をかぶった、トラックの運転手が、雪のちらつく道をいっぱいの荷物を載せて、バスを追い越していった。そのシーンは本当に寒々としていた。10/27 夜、ラーメン屋に友達と入ると、'70年頃の歌が次々と有線で流れていた。曲名が思い出せないでいたけれど、きっと、目の前のマスターはどの曲も知っていただろう。

「風景とラジオメロディ」10/29

 モスクワの冬、今ここは、マイナス何度なんだろう?

 僕はひとり、モスクワのトランジットホテルの窓の白いカーテンを開けてみた。そこは、空港の近くだというのに、どこかの山すそのようで、細くて白い、背の高い樹が、ずらりと並んで見えていた。

 その景色は、よくお菓子のパッケージで見るようなイメージそのもので、外の気温の冷え方が、目に見えてわかるようだった。

 (これが、ソビエトかぁ・・) こんな景色の中で生活してゆくってどんなだろう。そこには、広々と続いている大地と、何か「1」からの始まりを感じた。ちょっとやそっとでは変わらないものがあるようだ。

 テーブルの上には、ラジオがあり、モスクワの放送が流れていた。異国の地で聞く、異国の言葉。番組の合間に入る、テーマのようなミュージックは、ホントに淋しそう。淋しそうなのだけれど、この土地には、なんてぴったりとくる音楽なんだろうと思えた。

 僕はいままで、ロシア民謡の独特のメロディがよく理解できなかった。淋しいメロディーというものが、淋しい気持ちになるものだと思っていたけれど、この風景の続く国土には、よく似合っていて、逆にとても落ち着いてくる。

 そう思った瞬間に、窓の外の寒々とした景色が、ひとつのメロディのように思えてきた。もし、このトランジットホテルに泊まらなかったら、僕はずっと気付かないでいただろう。10/28 今年一年分の写真を整理する。あと二か月しかないけれど、僕にはこれからいろんなことがあるような気がしてくる。きっとあるだろう。

「バゲッジ・トラブル」10/30

 トルコのイスタンブールへ向かう途中の、モスクワでの一泊。実はそのとき、ひとつのトラブルが起きていた。飛行機に乗せていた。僕の荷物を受けとれなかったのだ。

 旅でおぼえたインディア英語で、いろいろと言ってみたけれど、逆にすごい早さの英語で、答えられて、お手上げになってしまった。まるで (何、この人。英語も使えないで!! )と、その表情が答えていた。トランジットのホテルに行けとだけ言って、去ってしまった。

 なぜ僕はバックが、モスクワに無いのだろう。それは困る。他の人はみんな受け取っているのに、なぜ。トランジットのホテルの方でも、問い合わせてみるけれど、「今は別の仕事をやっているので、10時すぎに受け付ける」と言う。僕は一人泣きそうになってしまった。

 同じホテルには、インド人も数人いて、今となっては、あの人なつっこさが懐かしい。あれだけうるさいなぁと、ずっと思ってきたけれど、冷たくされるよりは、ずっといい。インドを離れてみて、その良さが見えてくるなんて・・。

 夜また、航空会社の受付に行くと、さっきの人ではなく、メガネをかけたやさしそうな、お姉さんと変わってた。すこしふくよか彼女は、僕のことを「ハロー、ミスター」と呼ぶ。今日のバゲッジ・トラブルについて話すと、とても同情してくれた。

 そして僕は、バゲッジが無くなったことについて、紙に一筆書いて下さいとお願いした。メガネのお姉さんは、こころよく引き受けてくれた。どこにでもやさしい人はいるものだ。さあ、明日に掛けてみるか。心配で、今夜は眠れないかもしれないけれど。10/29 いろいろとやりたいこともあったのだけれど、その三分の一も、出来ていない。夜も寝ているけれど、ぜんぜん寝ているような気がしない。でも、ぜったいいびきをかいていたことは、直感でわかる。やっぱり一日30時間ほしいな。

「バックひとつでの旅立ち」10/31

 明日には、もうイスタンブールに僕はいる。

 荷物はまだ見つからないけれど、今日の夜は今日の夜で、一日だけのものだろう。トランジットで寄った一日だけのモスクワ。またここに来られる日は、ないかもしれない。

 モスクワ観光バスで、街をひとまわりしたあと、ここトランジットホテルで一泊。実にいろんな国の人達がいて、インターナショナルな感じだ。きっと僕もそのひとりなのだろうけれど・・。

 ホテルの部屋へ、戻る途中のエレベーターの中で、一組のアフリカ系の親子と一緒になった。お母さんと小さな息子。子供がエレベーターの中で騒いでしまい、お母さんが僕に微笑んだ。それは本当にくったくのない笑顔で、いままで旅であったことのない気持ちだ。アフリカかぁ・・。

 食堂では、フランス人の男性と同じテーブルになった。あたりまえかもしれないが、ナイフとフォークの使い方がホントにうまい。バックパッカーの旅人ではないフランスの人と会うのは初めてだ。しぐさにも余裕があり、どこか人生の達人のようだ。

 ヨーロッパを回ったあと、パリに三ヶ月いようと思っているので、訪ねるのが楽しみになった。僕なんてホントに子供のよう。アジアからヨーロッパへの旅の変化に自分はついてゆけるだろうか。もう新しい旅は始まっている。

 荷物の出てこない不安から、あまりぐっすりと眠れなかったが、モスクワの夜は明け、さて勝負のときとなった。ああ、荷物よ出てきておくれ・・。

 朝一番、空港のオフィスにて、昨日書いてもらった一筆入りの紙を見せると、すぐに意思が通じて、一緒に地下のバゲッジ置き場に行くことになった。しかし探せど、僕の荷物はない。「イスタンブールに必ず着いているので、ノープロブレムですよ」と、オフィスの人は言う。

 そう信じてみるしかない。そう信じてみたけれど、インタンブールに、僕の荷物は着いてはいなかった。旅の第二部は、小さなバックひとつから始まった。身軽すぎて、まったく落ち着かない気分だ。でもしかたがない。さあ、いこうか・・。こういうこともあるだろう。10/30 インド編は今日で終わりです。ちょうど四ヶ月目。旅のエッセイもちょうど、四ヶ月かかりました。時間のつながりも一緒でいい感じだ。メニューにもどる(地下オン)

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CD「黄色い風、バナナの夢」詳細

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