宮島杓子の発祥

寛政の頃(1800年頃)宮島の神泉寺の僧「誓真」が、宮島の弁財天信仰と結びつけた縁起物として 弁財天が持つ琵琶の形の美しさから杓子(杓文字)を思いつき御山の神木を使って作る事を島の人々に教えた。
これがいわゆる「宮島杓子」の始まりと言われ、当時杓子はその名をとって「誓真杓子」と呼ばれていました。
この神木の「杓子」でご飯をいただけば福運を招くと言う誓真上人の高徳とともに宮島杓子は広く知られるようになりました。
「誓真といえる道心者、かつて種々の器物を作りし、木杓子尤も多し、今も続いて作るものあり」*『芸藩通志』より

宮島杓子の遍歴

「誓真杓子」を原型として「撥型の杓子」が天保年間(1830~1844)に藤屋源助によって作り始められる。これが、現在の杓子の型の原型となる。
また、サイズにつては「大黒杓子」と呼ばれる杓子・幅2寸7部(8.18cm)長さ7寸(21.21cm)・が嘉永年間(1848~1854)に古島屋鶴蔵によって作られる。
ここに、「宮島杓子」の最も一般的な型と大きさができたのではないか。現在では、様々な「型」と大きさの物がある。

誓真杓子

誓真杓子
誓真さんは、常日頃から島内にこれといった産業がないのを気にかけていました。
宮島の弁財天信仰と結びつけた縁起物として弁財天が持つ琵琶の形に似た飯杓子(杓文字)を思いつき、自ら御山の松でこれを作り、 島民に作り方を教えました。 その形状の優雅さや細工の巧妙さで好評を博するところとなります。こうして育まれてきた杓子は、その名をとって「誓真杓子」と呼ばれています。 誓真さんの人柄や功績と共に200年以上の時を経て今日まで大切に受け継がれてきたのが、宮島の杓子なのです。

大隈重信

大隈重信は、1917年に宮島に立ち寄り演説をしています。演説後に長さ2.7mの大杓子を寄贈したそうです。その際に次のように語ったそうです。
「縁起のいいのを非常に喜んでいる。杓子は物をすくい取る。即ち積極的である。進取的である。吾々は世界に渡り、 こういう具合にすくい取らねばならぬ。
しかし、それは泥棒するのではない。世界の思想なり、富なり、知識なりをすくい取っていこうというのである。我国民は杓子主義でいかねば駄目である。 而して厳島は杓子の根源である。…
然し模倣は決して模倣で終わるべきでない。模倣極まって創作時代は生ず。此意味に於いて今日須く彼に模倣して多く努めて学ぶ所がなければならぬ…

杓子になぞらえて世界の知識をすくい取ると言う事の大切さを話したと言う事です。

本杓子

100年以上に渡って黙々とこの地において木杓子を作り続けています。「宮島杓子」発祥で 「誓真といえる道心者、かつて種々の器物を作りし、木杓子尤も多し、今も続いて作るものあり」*『芸藩通志』より*とあります。
真面目に「誓真」さんが伝え残してくれた木杓子を作り続け。そして、「宮島杓子」の変遷で「撥型」「大黒杓子」と 先人の知恵を受け継ぎ守り、100年以上にわたる積み重ねから。倉本ならではの「本杓子」を作り出しました。 今では、モダンな「顔」(すくいの部分)の形状が斜めになった「斜」。クラシックな持ち手「首」の部分を細くした「細」。ネオクラシカルな「顔」の曲率を強くし「首」を細くした「曲」 など材種も7種とバリエーションが増えてきました。
日常使いでの心休まる一品。
倉本は、「誓真」さんの思いに感謝し今もなお「杓子」を作り続けています。

縁起

*宮島杓子の発祥から・・
その起源は、寛政年間の頃、誓真という寺の僧が、ある夜、弁財天の夢を見て、琵琶の美しい曲線から杓子を考案。 弥山の神木で杓子をつくることを島の人々に教え、始まったと言われています。 この杓子でご飯をいただけば福運を招くと言われています。
*形状・型から・・
「杓子」はバチ型の柄の形状から「末広がりで縁起が良い」と言われます。
*諸説あるなか・・
明治時代に入り、日清・日露戦争が勃発しましたが、その際には「飯取る=敵を召し取る」という語呂のもと、縁起物としてより一層、有名になりました。
大隈重信の言葉の通り「すくいとる」として色々なものを取れると縁起が良いとされています。

この様に発祥の時点で「宮島杓子」の縁起の良さはありますが、その後いろいろな時・所で縁起の良さを言われてきました。不思議なものです。ひとえに 誓真さんの多くの人を思う気持ちが、今もなお「縁起」をもたらしてくれているものと感謝の念にたえません。

杓子呼び名

杓子呼び名の図

通常「倉本」で杓子のそれぞれの部分を呼ぶ時に使われている「呼び名」