■ 2006年に読んだ本
  
著者は21歳のとき、不治の病である心臓僧坊弁逸脱症と診断されました。医師に見放された彼はとある医師を訪ね、通常の医学とはまったく異なる方法により、ついに完治するに至りました。手術をせず薬もまったく使わない、自然療法によってです。この出来事により彼は、あらゆる自然療法を探求し、それを紹介することを使命と感じるようになりました。

 この手の本は巷に大量に出回っています。嘘の情報もたくさんあります。専門家でない我々がその真偽を確かめるのは容易ではありません。僕が本書をほぼ全面的に信頼する理由は、著者が20年間にわたり全米50州と世界各地を訪れ、500万マイル以上の旅をする中で、健康や医療に携わる数千人の専門家・関係者や、薬や手術で治らない病気を自然療法で治した経験を持つ数万人の人々の話を聞き、独自の理論を形づくってきたという点です。これは、先に読んだ「西式健康法」にも通じます。また、西式健康法と同様、人間には本来自然治癒力がそなわっており、適正な生活を送っていれば病気にはかからず、たとえかかったとしても生活を正すことで医薬品なしで治すことができる、と著者は言います。本当に生きる勇気が湧いてきます。
「西式健康法入門」読書感想 2007年11月

 著者は病気の治療や健康維持の基本を、@体内毒素の忌避・排出、A栄養摂取、B電磁波の忌避、C精神的ストレスの軽減、の4つにおいています。このために何を実行すればよいのかが、きわめて具体的に書かれています。
 なかでも大きな要素は食生活です。有害な食材は世の中に数多くあります。添加物まみれの加工食品、農薬や化学肥料漬けの野菜、化学飼料漬けの肉、等々。
 それでも何より体に毒なのは、医薬品だといいます。薬は、症状を抑える点でのみ有効であって、病気の原因を取り除くものではありません。しかも必ず副作用があり、それが新たな病気を引き起こすのです。著者は、業界関係者は上記の事実を百も承知の上で金儲けのために売り続けている、と糾弾します。医薬品を売り、そのために病気になってまた新しい薬が売れる。確かにそのサイクルを続けていれば売り上げは飛躍的に上がるでしょうね。恐ろしい話です。

 本書では、病気の治療や健康維持のための具体的な方法が数多く紹介されています。ただ、それらの方法が何故有効なのかという点については文量の都合上、割愛されています。これを不満に思い、不信感を抱く読者もいるかもしれません。それでも僕は本書を通読してみた感触から、信用します。著者は、本書で述べているすべての内容について、「現時点では私はこう判断する。でもそれはまた新しいデータにより覆されるかもしれない。だからここで述べたすべてのことがらは、最後に『…であると信じている』『…であると思われる』というフレーズがついているものと思ってほしい」という見解を述べています。そして、最終的には一人一人が自分の健康のために何が最適かを見いださなくてはいけない、と。僕はこの考え方にも賛同します。
2006年12月 「病気にならない生き方/新谷弘実」 (サンマーク出版・単行本)
最近読んだ「西式健康法入門」、「病気にならない人は知っている」に本書を含めた3冊が、僕のこれからの生活に大切な指針を与えてくれる書物となりました。
 本書の著者はアメリカと日本で活躍する現役のお医者さんであり、世界で初めて内視鏡によるポリープ切除を成功させた方でもあります。彼はこれまでに30万例以上の胃腸を内視鏡で診察し、その膨大な臨床結果から、一つの結論を導き出します。すなわち、“健康な人の胃腸は美しく、不健康な人の胃腸は美しくない”。診療の際には食歴と生活習慣に関するアンケートを患者に実施し、胃腸の美しさと食歴・生活習慣の間にはっきりとした関連があることが判明したのです。僕はこの点において、本書の信憑性を高く評価しています。

 本書におけるキーワードは、「エンザイム」です。エンザイムとは酵素のことであり、体内で作用する様々なエンザイムは、その元となる「ミラクル・エンザイム」から作られるというのが著者の独自理論です。このミラクル・エンザイムを消耗させないことが健康な生活にとって不可欠である、と著者はいいます。このための具体的な方法がいくつも紹介されています。
 内容は、「病気にならない人は知っている」とかなり共通している部分があります。薬が毒であること、植物性の食品を多く摂ること、食べ過ぎず便通をよくすること、などなど。通常の食の常識とは食い違う部分もありますが、やはり実際の胃腸を診て判断しているという点で、著者の主張はおおいに信頼できます。

 最終章あたりでは、精神論に大きく傾いていきますが、それもまたうなずける内容です。本書の内容をすべて実践するのは難しいですが、できる範囲から今はじめています。
2006年12月 「原本 西式健康読本/西勝造」 (農山漁文化協会・全集)
この11月に読んだ「西式健康法入門」(「読書感想 2007年11月 以下、「〜入門」と略)の元となる本です。西医学の創始者である西勝造氏が世に発表したのとほぼ同じ内容であり、これを元に、内容を現代式にあらためたものが、「〜入門」です。したがって、「〜入門」のほうを読めば事足りるのでは、と思いきや微妙に内容が違っていることもあり、こちらも読んでみてよかったと思います。何より、巻頭にある「解題わが家の健康づくりと西式」と題された文章だけでも読む価値があります。これは、作家である早乙女勝元氏が、いかに西式健康法が有効であるかを説いたもので、西式との出会いから親子二代にわたって西式を実践しておられる現在までの様子が克明に描かれています。
現実に直面する問題を解決するため、すがる思いで購入した一冊でした。ただし僕の場合、腰痛ではなく背中の痛みです。ずっと以前に雑記に書いたとおり、骨盤矯正に通ったことがあります。(2003年7/16の雑記参照) 効果はてきめん、感激してしばらく通い続けましたが、しばらくしていつの間にか行かなくなっていました。

 その後も背中の痛みはなくなることはなく、今回体調を崩したのを期に、久しぶりに行ってみました。今度は思ったほど効果を実感することはありませんでしたが、精神的に追いつめられていたこともあって、しばらく頼ってみようと思いました。この整体院で使用しているのが、バラコンバンドと呼ばれるゴムチューブであり、今回紹介しているこの本は、そのバラコンバンドを生み出した五味先生の著書です。様々な病気の原因を骨盤の位置の狂いによるものとし、その矯正のために考案されたのが、バラコンバンドです。太さや形状の異なるものがいくつかあり、これらをいろんな風に体に巻いたり、巻いた状態で体操をしたりすることで、病気を治していきます。本書ではその方法が、図とともにわかりやすく説明されています。

 この書評を書いているのは2007年4月です。本書を読んでからずっとバラコンバンドの使用と整体院通いは続けています。今では、背中の痛みはほとんど感じないまでになりました。他にもいろんな健康法を行っているので断定はできませんが、やはり本書の意義は大きいと思います。

 なお、本書の類は点数評価が通常の書評と異なり、書物としての“面白さ”ではなく自分にとっての有用性によるものであることをお許しください。
2006年11月 「西式健康法入門/西会本部」 (河出書房新社・単行本)
前述の「腰痛 自分で治すバンドの本」と同様、崩した体調をなんとかしたいと切望していた時に出会った一冊です。有用な情報がないかとネットをさまよったすえ、「西式健康法」なるものに出会い、その極意をまとめた本書を購入しました。繰り返しますが、満点という評価は自分にとってそれだけ有意義なものだったという意味合いであり、書物としての客観評価ではありません。

 本書に出会えたこと、というよりも西式健康法に出会えたことを、心から幸運に思います。本書読了後、掲載されている健康法のいくつかを実践し続け、本当に心身の健康が回復しました。
 西式健康法とは、西勝造氏により昭和2年に発表された、まったく独自の医学理論です。西氏は少年時代から体が弱く、二十歳まで生きられないだろうと医者に言われていました。当時の医学から見放された西氏は、自分自身で生きるすべを見つけるしかありませんでした。世界中の医学書を読みあさり、7万3000にものぼる文献の裏付けを経て独自の理論を編み出しました。

 僕もこれまでの病院通いにおいて、現代医学に対して強い不信感を抱いてきました。臓器別に診療科が分かれていて、自分でどの科にかかるか決めないといけないこと、本来相互に連絡し合っている各臓器を別々に診ることの不条理さ、それで診療はというと結局、投薬のみになること。しかも、薬というのは症状をおさえるのが目的であって、病気の根本原因を治すものではないことがわかってくると、医学そのものが幼稚にさえ思えてきます。

 西式健康法とは単なる健康増進の方法論ではなく、医学です。西医学では薬は使いません。病気の治療はおもに食事療法と体操です。食事についての特徴は、とにかく栄養を摂りすぎないことを重視します。まずは朝食はとらない。昼夕の食事も、生野菜を中心とし、腹八分におさえる。さらには時折断食をする。
 体操では、自律神経を整え、血流をよくし、体の歪みを取る。そうした基本の体操が何種類かあります。寝る時には、ふかふかの敷き布団ではなく、固い床面に寝て、枕も硬枕(こうちん)と呼ばれる木製の固いものを使います。
 これらの要素を、僕は順番に実行してみました。もともと朝食はほとんど食べなかったので、朝食抜きはすぐに実行できました。昼夕の食事も、なんとか腹八分でおさえるようにしました。起床時と就寝前に、決められた4種類の体操をおこなうようになりました。硬枕を購入し、絨毯に直接薄いパッドを敷いた上に寝るようにしました。
 まずは、お腹の調子がすごく良くなりました。それまでは一週間に一度くらいは必ずお腹を壊していたのが、まったくなくなりました。次に、背中の痛みがどんどんなくなっていきました。精神的にも安定し、生きる気力が沸いてくるのを感じるようになりました。

 本書評を書いているのは、読了後5ヶ月ほど経ったあとですが、今でも健康法の実践は続いています。驚くことに、毎年煩わされている花粉症が、今年はほとんど発症していません。また、最近、妻がインフルエンザにかかったのですが、本書で紹介されていたカラシ湿布療法をおこなったところ、たちどころに症状が快方に向かいました。上記以外にも、まだ実践していない体操や療法があり、いずれやってみたいと思っています。

 年を取ると、どうしても病気に対する不安が強くなります。どんな怖い病気にかかるとも知れず、しかも年齢と共にその確率は高くなります。どんなに予防したとしても、病気にかかるかからないは運次第だと思うと、目の前が暗くなる気がしていました。
 西医学のすごいところは、これを実践していればどんな難病も克服できる、そもそも病気にかからなくなる、と言い切っているところです。けっきょく病気を治すのは薬ではなく、人間の本来持っている自然治癒力なのです。このことを本書で読んでから、病気に対する不安が薄れていくのを感じました。

 西医学に基づいた治療をおこなっている病院が、全国にいくつかあります。その代表例は大阪にある甲田医院です。院長の甲田光雄先生は西医学の実践者として、多数の著書がある有名人です。この病院は、現代の難病とされる病気を数知れず治してきた実績を持ち、今では全国から診療に訪れる人が後を絶たないと聞きます。

■参考リンク集
西式健康法通信(西会公式サイト)
病気よさらば!自然派・超健康法の極意(西式健康法が詳しく紹介されています)
山田健康センター(硬枕等、西式健康法関連商品の販売。僕もここで買いました)
2006年11月 「秋の花/北村薫」 (文藝春秋・文庫)
円紫さんと≪私≫シリーズ第三弾。前二作が連作短編集だったのに対し、初めての長編であり、しかも初めて人の死が描かれています。かといってそれほど雰囲気は変わらず、正ちゃんも含め、いつものメンバーがいつものやりとりに花を咲かせます。一つの謎をずっと引っ張っている感じがあり、すこし中だるみがするものの、本シリーズファンならば安心して楽しめる一冊です。
ホームズもの短編集第三弾。前作で宿敵モリアーティ教授とともに滝に落ちたホームズがよみがえる「空家の冒険」を筆頭に、なぜかナポレオン像が次々と壊されていく「六つのナポレオン」、「金縁の鼻眼鏡」等の代表作が並びます。僕は、自転車に乗った美女が何者かにねらわれる「美しき自転車乗り」が気に入りました。いっぽう、暗号ものとして名高い「踊る人形」はそれほどでもなく、ポーの「黄金虫」のほうが格段に上だと思いました。
2006年10月 「99.9%は仮説/竹内薫」 (光文社・新書)
今年の夏頃にかなり売れていた本です。タイトルと、店頭で拾い読みした印象とで購入に至りました。結果、僕の好みにぴったりくる内容でした。

 冒頭から驚かされます。飛行機が飛ぶしくみは、実は完全には解明されていない、というのです。それじゃあどうやって飛んでいるのかというと、「理屈はよくわからないけど、こうやったら飛んだからそうしている」というのが現実の航空業界だということらしいのです。
 さらには、正式な理論だとされていたものが、あとになって否定される、という例が物理学の分野を中心に紹介されていきます。もともと物理学とは、現象から理論を引き出す帰納法的手法が主流の学問です。実験結果を見てなにかの法則性を導き出し、それをさらなる実験で確認し、理論として定着させる。ただし実験には誤差が必ず含まれているため、それを理論の間違いとするのか実験精度のせいにするのかで扱いが違ってくるわけで、いったん理論として定着されたものがあとになって間違いだとわかる、なんてことは歴史上絶え間なくあるわけです。だから、どんな理論だって仮説にすぎない。あとからくつがえる可能性はいくらでもあるわけですから。
 物理学にくらべ、正確無比で反論の余地がないとされる数学でさえ、その可能性は存在します。非ユークリッド幾何学やゲーデルショックなど、過去に数学界を揺るがす事件はいくつも存在します。

 本書では、ほかにも医学、天文学、生物学、哲学など広範囲から例を拾い、世の中で常識とされていることが、いかにあやふやなものなのかを説明します。ついこの間、冥王星が矮惑星に格下げされましたが、その背景となる話も紹介されていて、非常にタイムリーで興味深く読みました。
 とにかく読みやすくて、知的興奮をおぼえる本です。
2006年10月 「シンプル・プラン/スコット・スミス」 (扶桑ミステリー・文庫)
ごく普通の人間が、ちょっとしたきっかけで道を狂わされていく。その過程を見事に描いたミステリーとして名高い作品です。パトリシア・ハイスミスあたりが好きな人にはたまらなく魅力的な内容だと思います。とにかく描写が細かくて、そのあたりはスティーブン・キングを彷彿とさせます。ただ、いかんせん内容が地味で、なおかつ気が滅入るお話です。心が元気な時に読むことをお勧めします。
三上章さんの名著「象は鼻が長い」(読書感想はこちら)で展開されていた主語不要論を、さらに追求した作品です。本作の内容にも、深く感銘を受けました。著者はカナダのケベック州、モントリオールの大学で日本語を教えていらっしゃる、いわば現場の教育者であり、正にその職場において長年煩わされてきた日本語の主語の問題について、三上論をベースとした独自の解釈を展開されています。

 著者はまず、英語やフランス語文法の理論を日本語にあてはめていることに諸悪の根元がある、と指摘します。僕はここでまず目から鱗が落ちたのですが、英語やフランス語は、主語によって動詞の形が変わります。英語では“三単現のs”程度で済みますが、フランス語になると、一人称から三人称まで、さらに単数か複数かで動詞が変化します。つまり、主語が確定しないかぎり、動詞の形が決まらない。このため、英仏語には、主語は不可欠な訳です。
 いっぽう、日本語ではそのような動詞の活用はありません。だから、ひとつの文に主語など必要はない。著者いわく、日本語の基本文には、S+VだのS+V+Oだのはまったく不要で、ただ述語だけがあればよいといいます。つまりは、「赤ん坊だ」等の名詞文、「愛らしい」等の形容詞文、「泣いた」等の動詞文、この3種類だけです。これに、「誰が」「何を」「何に」等が文に付加されるが、それらはすべて同レベルの補語として扱う。こうして考えると、日本語の構造は本当にすっきり理解できます。

 本作の成果は、主語不要論に留まりません。自動詞と他動詞について述べられた第5章がさらに素晴らしいのです。この部分はすこし専門的になりますが、自動詞/他動詞を使役/受動などと絡めて論ずる内容はダイナミックで、説得力があります。
 そう、本作は、内容の良さにくわえ、著者の熱い語り口にも特徴があります。とらえ方がやや一面的なところはありますが、著者の暮らすカナダケベック州と日本とを比較し、英仏語と日本語を比較し、日本と日本語の現状を嘆きながら、日本語教師としての情熱を本作に注ぎ込んでいます。
だいぶ以前に読んだ作品ですが、「ソフィーの世界」で哲学に触れた勢いに乗り、再読してみました。こちらも、古代ギリシャから現代に至る哲学史を、概観的に、というよりは何人かの哲学者についてそこそこ深く探求しながら紹介しているものです。「ソフィー」をかたわらに置き、同じ人物が登場すると両方を読み比べたりもしました。

 さすがに「ソフィー」よりも内容は深いですね。ただし、著者が前書きで示したとおり、難解だとされる哲学をなんとか理解しやすいものにしようという意図で書かれているため、入門書としては出来のいいものに仕上がっていると思います。
 反面、内容が浅いとか、重要な哲学者が割愛されている、という評価もあるようですが、一般向けに書かれた書物ゆえ、ある程度の短さでなければ用をなさないでしょうから、仕方ない面はあると思います。
 さらにもう一つ、本書の特徴と言えるのは、著者自身の個人的見解が強く反映されているという点です。端的に言えば、自分が認めていない哲学者についてはかなり辛辣なことを書いています。デカルト、サルトル、ニーチェ、ウィトゲンシュタインあたりについては、彼らを好きな人からすれば噴飯ものの記述があります。デカルトの有名な言葉、「我思う、ゆえに我あり」などは、完全に否定されています。

 僕は、これを読んでさらに興味を持った人物についてより深く探っていく、というのがこの本の有益な使い方であると思います。僕はとくに、ヘーゲル、ハイデッガー、ニーチェあたりが気になりました。
 ヘーゲルについては、「弁証法」という有名な理論があります。ある物事について、それと矛盾する出来事を取り上げ、それらを融合させることによって最終的な真理を得る、というような感じですが、僕はそれ以外に、「意識が変われば、対象も変わる」という彼の言葉に強く惹かれました。つまり、世界を認識するのは自分の意識であり、自分がどう捉えるかによって対象は違ったものとなる、ということです。対象を「知る」ということは、対象そのものを直接に知るわけではない。対象について貯えられた自分の「知」と向き合う、ということである。したがって、自分の中にどういう蓄えがあるのかによって、何かと向き合った時の印象がまるで違ったものになる。そういう考え方です。

 ハイデッガーは、実存主義者です。彼が解き明かそうとするのは、「存在」とは何かという問題です。彼は、人間がすべての事物の意味を開示していく、といいます。そして自分自身の存在の意味も追求していく。しかし怠惰な人間はそんな面倒くさいことはやろうとしない。それは心の中に大きな不安を持っているからだ、と彼は指摘します。この不安とはつまり、死のことです。だから、死を意識し、死と向き合って生きることで、本当に実存的な、有意義な人生を送ることができる、と彼は主張します。

 ニーチェについては、じつは理論的にはそれほど惹かれるところはなかったのですが、その派手な生き方に興味を覚えました。人間としてなかなか魅力的なキャラクターのような気がします。とはいっても、彼の著書はひどく難解らしいので、なかなか手は出せませんが。
2006年 9月 「パラドックス!/林晋・編著」 (日本評論社・単行本)
パラドックスとは、一見正しそうに見えて間違っているもの、それから、間違っているように見えて正しいもの、この両方を指します。本作では、古今東西、さまざまなパラドックスが紹介され、その謎について語られます。

 全部で12篇のパラドックスが登場しますが、それぞれ別の著者が執筆を担当しており、内容の方向性、難易度にかなりばらつきがみられます。僕はいちおう理系の大学を卒業した身ではありますが、3分の1ほどは理解しづらいものでした。バナッハ・タルスキのパラドックスに至っては、何を言おうとしているのかほとんどわかりません。こういう本はやはり一人の著者がすべてを執筆しないと、まとまりに欠け、どういった読者を想定しているのかがあいまいになってしまいます。

 そんな中でもおもしろかったのは、アキレスのパラドックス、セイント・ピータースバーグのパラドックス、ぬきうちテストのパラドックスです。とくにアキレスのパラドックスについては、過去に別の解説本を読んだことがあるのですが、今回これを読んでかなりすっきりと頭に納めることができました。これら3つについては、誰にもわかりやすいものだと思いますので、いずれまた雑記ででも紹介してみたいと思います。
2006年 9月 「博士の愛した数式/小川洋子」 (新潮社・文庫)
うーん、これが第1回本屋大賞受賞作、本屋さんがその年一番売りたいと思った作品、ですか……。ベストセラーだったからではなく、数学を文学で描くという点に惹かれて手にとってみたのですが、期待は裏切られました。
(ここから先は、ファンの方には不愉快な内容となるかもしれません。ご了承ください。)

 本作の主題の一つとして、数学の美しさの紹介、という点が挙げられます。このため、数学に関する様々な記述がなされているのですが、そのいずれもが、さほど取り立てて感動させられる内容ではなく、押しつけがましささえ感じられます。さらに大きな欠点は、こうした数学に関する記述が、本編内容とほとんどリンクしていない、すなわち、博士が心から数学を愛しており、それが主人公親子の興味をひいた、ということを表しているに過ぎないということ。つまりは何でもよいわけです。たとえば「eπi+1=0」という数式は、別に他の式だってなんだって構わないわけです。
 数学が美しいものだという主張は僕も否定しません。ただ、それを正確に表現し、読者に納得させるように書くのは至難の業だと思います。著者はいくつかの数学書に触れ、そこに感動を覚えて本作のヒントを得たのでしょうが、大衆小説の中にこのような形で“ちょろっと”出してくるやり方ではなにも伝わらないと思います。

 いくつかの設定にも首を傾げます。80分間しか記憶が保たないということが、この小説でほとんど生きていません。要するに、服にメモを貼り付けたおかしな人、という表現をするための設定でしかなく、記憶がなくなることで物語の筋に影響が出ることもなく、80分という数値の意味もありません。それどころか、80分しか記憶が保たないならばこうはならないだろう、という矛盾(それほど深刻ではないにせよ)のほうが気になってしまいます。

 阪神タイガースとの関連も、説得力に欠けます。これは著者が阪神ファンであり、たまたま江夏の背番号に数学的意味を見いだしたというだけで出てきたアイデアのような気がします。博士が阪神ファンだというなら、彼の生活の中でそうした描写があるべきです。阪神ファンであることが物語と密接に融合していないから、数字の意味合いさえ同様にあれば、Jリーグでもバレーボールでも、なんにだって置き換え可能です。

 それから、前に読んだ「薬指の標本」の感想でも似たことを書いたのですが、この著者は肝心なところで「描写」ではなく、「説明」をしてしまいます。たとえば、博士が純粋で優しい人だ、ということを表現したい場合には、その行動や身なりを描写することで読む人の頭の中にイメージを構築すべきところ、単純に、「彼は心の底から純粋で、やさしい人だった」などのように書いてしまう。(これは、実際の文章ではありませんが)

 また、本作の通底概念である「人に対する優しさ」のあり方は、あまりにも一面的・通俗的であり、思索のかけらもうかがえません。主人公は、人に何かをしてあげることが必ず良いことだと信じて疑わない。詮索好きでおせっかいで、この人が現実世界で近くにいたら、僕には耐えられません。
 とにかくこの物語中、どこをとっても、なんのひっかかりもない平易な文章がつづき、そして内容もその通りに平明です。「薬指の〜」にあった幻想的な雰囲気も感じられません。挿入されるエピソードや細かい設定なども、一般読者が簡単に想像し得る範囲をまったく超えていません。それがいいとおっしゃる方もいるかもしれませんが、読書の意味とは読む前と後とでどんなに些細でもいいから自分の内世界が変化することのはずであり、だとしたらこの本を読む価値はゼロとなってしまいます。
素晴らしい評論でした。樋口一葉の作品に込められた真意が、これを読むとひざを打ちたくなるほどに納得できます。今年の3月に「にごりえ・たけくらべ」を読んだとき、いかに自分が内容を理解していなかったのかがよくわかりました。

 本作でとりあげられるのは、「たけくらべ」「にごりえ」「わかれ道」「大つごもり」「十三夜」の5作品です。そのうちとくに「たけくらべ」に重点を置いて、作品に込められた意味が説き明かされていきます。僕はこの「たけくらべ」の良さがいまひとつ理解できないでいたのですが、光の筋が射すように作品世界が見通せるようになりました。

 著者の田中優子さんは江戸文化の専門家らしく、一葉作品についても江戸文化の視点から読み解く必要のあることを指摘します。引用される資料や文献の種類は豊富で、様々な面から一葉作品に迫る筆致には迫力を感じます。にもかかわらず、江戸のことなんて何も知らない僕にとっても、本当にわかりやすく書かれており、高度な内容を平易な文章で書くという技が実現されています。

 あえて難点を挙げるとするなら、遊廓や売春宿をあまりにも美化し、持ち上げすぎている気はします。これらの職に就く女性たちが性を売り物にしているという特殊性については、ほとんど語られていません。それから、社会における女性の立場の低さについては著者自身感じるところが多いらしく、ときおり話が脱線しすぎて自分のことを語り出してしまう点は、気持ちはわかるもののやや興醒めに思えてしまいます。
 ただ、これらを差し引いても、本書は偉大な一冊です。このあともう一度、「にごりえ・たけくらべ」を読んでみたいと思っています。

 とくに感銘を受けた文章を、以下に引用しておきます。

・お力は(そして一葉は)、あらゆるものを見つめ、受け入れ、しかしその結果、その全身は世界を拒絶し、うめきながら「個」を生み出しているように見える。
・お金に困ったとき、あなたはどうするか。(中略)なんであろうと仕事をして稼ぐ。(中略)人に援助してもらい、自分の生き方は曲げない。(中略)結婚など、世間に求められる順当な方法で生活力を得る。選択肢はいくつもある。こう並べてみると、お金の得かたは生き方そのものなのだ、ということがわかる。
・じつに、幸せは似たり寄ったりだが、不幸は百人百様だ。どのような身分、階層であろうと、どのような人間であろうと、男であろうと女であろうと、憂いの種をもっている。それが、十三夜の月の下に見えてくるのである。
2006年 8月 「新解さんの謎/赤瀬川原平」 (文藝春秋・文庫)
「新解さん」とは、新明解国語辞典のことです。かなり有名な話ですが、この辞書の語句説明は他の辞書とはまったく異なる独自性を持っており、根強いファンがいます。通常、辞書というのは万人に理解され、また反論のないようにするため無難で一律的な表現になりがちですが、この辞書だけは誤解されようが反論されようが自分の意志を貫き通す姿勢があります。女性蔑視とも取れるほど女性に厳しい面があるかと思えば、妙にロマンチックになってみたり、魚がうまい魚がうまいと連呼してみたり。とにかく不思議な辞書なのです。

 著者の赤瀬川さんは、知人からこの辞書についての説明を受けるうち、どんどんその魅力にとりつかれていったようです。本書は、様々な語句についてのこの辞書の説明を引きながら、そのおかしさを並べていきます。
 ただ、期待したほどの内容ではなく、浅いなあ、というのが正直な感想でした。語句ごとの探求が浅い。写真やイラストを多用しての表現がこれまた浅い。たとえばネットで散見される、「これおもしれー」的書き込みとそう大差ないレベルであって、書籍としてまとめるならもう少し追求をしてほしかった。たとえば、辞書中の語句の文例に面白いものがたくさんあるとして紹介されているのですが、これはほとんどが既存小説からの引用であり、それくらい少し調べればわかりそうなものです。それに気づかずに所見を述べている部分は、読んでいると恥ずかしささえ感じます。

 また、文量もすくなく、表題作は前半140ページほどのみで、残りは別のエッセイとなっています。このエッセイについても、パロディなのか本気なのか狙いたい路線がはっきりせず、なにかひねりが足りない気がして今ひとつ楽しめませんでした。

 僕が期待していたのは、「新明解国語辞典を読む」というサイトがあったからでした。こちらのほうが、語句についての言及・調査は深く、読んでいると声を出して笑ってしまうほどです。僕としてはこちらのほうをお勧めします。
本作も、一昔前のベストセラーです。哲学について書かれた600ページを越す長編だというのに、それだけ多くの人に好んで読まれたというのはすごいですね。すこし前に読んだ某ベストセラー作と違い、こちらは中身も充実しています。

 内容の大半を占めるのは、古代ギリシアにはじまる哲学史の紹介です。これが、“ある少女のもとに届く不思議な手紙”という仕掛けを通して描かれていきます。難解とされる哲学が、やさしい言葉で万人に理解できるように記述されていることがまず素晴らしいですね。哲学の先生が少女に語りかけるというアイデアはしかし、わかりやすく伝えるというだけでは済まず、物語全体に仕組まれたからくりと共に、実に意外な方向へと読む者を導いてくれます。
 363ページの「ビャルクリ」の項からの展開には驚きました。<注意!!以下は、完全にネタバレです。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>これはただ単に物語の入れ子構造が面白いという事実に留まりません。ソフィーやアルベルトが少佐の書いた物語の登場人物であり、彼らの運命は少佐の掌中に握られている。彼らはそれに気づき、それでも必死で自分達の自由を求め、よりよく生きようと試みる。その姿は、我々人間が神の意志で生まれ生かされている、それでも一所懸命に生きていくという様(さま)と見事に重なっていく。つまり、本作で語られている内容が、登場人物によって実践されている。この構造がなによりも素晴らしくて、本を読みながら感動を覚えました。

 ただ、小説として読んだ場合、技巧的にうまくない箇所がいくつか目立ちます。まず、ソフィーのキャラクターが、とくに後半、著者の意図に反して可愛げがなくなってしまっている点。さらに、アルベルトとの問答のうち、性に関する話題において15歳の少女にしては不自然なやりとりがあります。そして、ラストの締めくくり方もそれまでの盛り上げ方に比べて物足りず、尻すぼみになっています。

 それでも本作は読む値する作品です。哲学の概略を把握したいと思っていらっしゃる方には最適ですし、この本を読んでからさらに深くそれぞれの哲学者たちを追ってみるというきっかけにもなり得ます。
医療関係の別の本を買おうとamazonで注文をしたところ、この本が届きました。amazonの手違いかと思い、記録を探っていると、どうやら最初から僕の操作が間違っていたようでした。返品処理もできたのですが、ぱらぱらと見てみるとなかなか興味深い内容でしたので、何かの縁だろうと思い、返品せずにそのまま読むことにしました。

 結果としては、返さずに良かったと思っています。本書は「自然治癒力を高める連続講座」と題された一連のシリーズ本の一冊です。この副題が示すとおり、内容は代替医療、つまり日本で行われている主流の西洋医学ではなく、別の手段で病気を治そうというアプローチについて書かれています。漢方・整体・呼吸法など、様々な分野のエキスパートが文章を寄せています。
 本書の中には、うなずける点がいくつもありました。なにより、人間の体には生来備わった治癒力があり、病気を治すのはその力なのだという根本的な考え方を僕も指示します。たとえば薬によって症状を治そうとすると、人体の自然治癒力がどんどんなくなっていく。退化の原理で、外部からの助けを借りれば借りるほどその人自身が持っている機能が衰退していく。薬は毒だ、という言い方がありますが、これは、薬に副作用があるという意味ではなく、薬の存在そのものに根本的に人体を弱める要素があるということなのです。

 体を温めること、鼻呼吸をすること、種々の臓器は互いに影響し合っていること。たくさんの大事なことが書かれていますが、とくに有用だと思ったのは、呼吸法です。人間の生活は緊張と弛緩の繰り返しであり、その象徴が呼吸である、すなわち吸うのが緊張で、吐くのが弛緩です。これがうまくいくかいかないかで体調に大きく影響するとのことでした。
 以前に読んだ西野流呼吸法の本で、丹田を中心に据える呼吸法を知り、自分でやってみてかなりの効果を感じました。本書には、他にもいろんな呼吸法が紹介されており、実践してみるとやはり効果があるように思いました。

 ただ、本書のなかには、ちょっと受け入れがたい内容も含まれています。内臓すべてが大事だという考え方はわかるのですが、それが、「心は脳にあるのではなく、内臓にある」となるとちょっと行き過ぎだと思いますし、呼吸法の中で、根元的宇宙エネルギーがどうのという話になるとついていけなくなり、宗教的色合いさえ帯びてきてしまいます。そのあたりをうまく取捨選択しながら読む必要はあります。
2006年 7月 「野菊の墓/伊藤左千夫」 (新潮社・文庫)
「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン73冊目。約3年ぶりぐらいでこのキャンペーン作品の登場です。忘れていた訳ではないのですが、気づけばすっかり期間が空いてしまいました。100冊読破はいったいいつになることやら。

松田聖子、山口百恵というスターが演じたことでタイトルはよく知っていたのですが、小説を読むのは初めてでした。これはいいですね。すごく文体が美しいとか表現が秀逸ということはなく、時折あらっと思うような文章が出てきたりもするのですが、明治という時代を思わせる言葉遣いがなんとも心地よく耳に響きます。解説には、この小説技巧についてはっきりと「下手くそ」と書かれてあったりするのですが、僕はそこまでは感じませんでした。ある一定レベルの教養を持つ者が書いた文章であり、現代作家に比べたらはるかに高水準だと思います。

 表題作は、著者自身が朗読の際に何度も泣いたという逸話があるようですが、僕も小説を読んで久しぶりに涙しました。そして、どのような時代においても、どのような状況においても、自分が思う通りに生きるべきだという教訓を感じました。

 表題作以外にも三作品が収められています。こちらはぐっと趣がことなり、実験小説の感触もある心理小説「浜菊」、エッセイ風の掌編「姪子」「守の家」など、なかなかにバリエーションがあって楽しめました。
2006年 6月 「狂骨の夢/京極夏彦」 (講談社・文庫)
京極堂の憑き物落としシリーズ、第3弾。初出のノベルス版に300枚以上の加筆をおこなったという文庫版のほうを読みました。

 毎回、読書の楽しさを満喫させてくれる京極作品ですが、今回の作品は前2作に比べると面白みに欠けた気がします。
 読む楽しみを奪いはしないと思うので書いておくと、今回のテーマはずばり心理学です。しかもフロイトの精神分析です。考えてみれば、幻覚や幻聴などは、京極堂シリーズに登場する妖怪連中と実に相性がいい。これまでの作品にも、その方面の内容は少なからず(しかもわりあい重要な意味合いで)使われてきましたが、本作では堂々と中心に座っています。
 そして、道具としての中心は、髑髏(どくろ)。至るところで出現する髑髏をめぐり、様々な人々や謎が絡みに絡んで物語は展開します。ただ、いざ真相がわかってみると、意外にショボかったりするわけです。<注意!!以下は、完全にネタバレです。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>なぜ神人たちが髑髏を追い求めたかという理由が、ただそれを信仰していたからというのは謎としてはあまりにつまらない。さらに、賢造が民江に連続殺人をさせた理由が、実験をしたかったから、というのもいただけない。これは、どうしても作者が動機を考え出せない場合、いちばん手近にたどりつく考えです。だからこそ浅い。

 全体を通して、なにか急いで書いたという印象がぬぐえません。あるいは、さすがに3作目にしてネタが切れたか。筋の練り方が弱く、さらには文章の練り方も弱い気がします。
 いつもはその長さがまったく気にならない京極作品ですが、今回はさすがにへこたれそうになりました。なにせ、シリーズキャラクターが最初に登場するのが260ページ目ですから。
2006年 5月 「バカの壁/養老孟司」 (新潮社・新書)
別にベストセラーだからという理由でけなすつもりはありませんが、何故あれほど売れたのかやはり納得はできない内容でした。
 出だしはけっこう面白そうなことが書いてあるのです。「常識」と「雑学」とは違う、現実的に何かが「わかる」というのはそう簡単な話ではない、客観的事実などは存在しない、などなど、思わずうなずかされる主張が連続して出てくるので、期待を持たせてくれます。

 ところが、情報に対する人間の行動をy=axという方程式で表すあたりからおかしくなっていきます。数学が苦手な人にもわかりやすくするためなのでしょうが、この数式ではあまりに簡略化がされすぎて、ものの例えに使うには乱暴過ぎます。
 さらに、個性重視の風潮への批判も、情報は不変で人間が変化するという指摘も、なんだか中途半端で、問題提起だけして追求する前に次の話題へと移ってしまう。このあたりでこの本の特徴が見えてきました。とにかく、思慮不足、このひとことで片づくと言い切って差し支えないでしょう。

 ところでこの本が売れたのはタイトルに負う面が大きいと思いますが、けっきょく「バカの壁」という言葉の意味は、「バカな人が作る、バカげた壁」ということのようですね。たとえばバカな人はどんなに素晴らしい出来事に出会っても、無関心という名の壁を作ってそれを吸収できない、という感じ。もちろんこれだけではなく、いくつか別の例も出てきます。
 ただこの言葉がこの本全体のテーマとしてふさわしいかどうかは微妙なところです。もともと本作は著者が口述したものを別の編集者が文章化したものですので、とにかく内容が散漫で、読み終えて振り返ったら何もなかった、という印象ですね。
2006年 4月 「牧歌/遠藤周作」 (新潮社・文庫)
遠藤周作氏の、海外紀行エッセイ集。大きく二部に分かれており、前半は1950年、戦後初の海外留学生としてフランスに渡った頃のもので、後半がその後何度か訪れた異国の紀行文という構成になっています。内容は、氏が生涯をかけて追い続けた小説「テレーズ・デスケルウ」の舞台であるフランスのランド地方から、信仰上最後にたどりついたインドのベナレスまで、ほぼ20年という長いスパンに渡るものです。

 前半を読むと、遠藤氏の小説家として、あるいはキリスト教徒として、また人間としての苦悩は既にごく若いうちから心の中にあったのだということがわかります。留学直後から氏は、人や人生というものにとかく悲観的な見方をします。人間の心の卑しい面にばかり目を向けようとする姿勢が文章によく表れていて、それは留学先のリヨンの気候・生活が厳しいものであったことや黄色人種に対する差別的扱いを受けたことを原因とすることはできますが、物事のとらえ方の傾向は氏がもっと小さかった頃に既に形作られていた気がします。いくら生活が厳しいとはいえ、20代の若さならばそんなことより海外で生活するという高揚感のほうが勝ると思うのですが、そういうウキウキした感情は文中から微塵も感じられません。逆に、若さゆえの盲進ぶりが考え方の面に強く表れているような気がします。
 氏は少年時代を満州で過ごし、不仲な両親のもとで孤独な日々を送ったすえ、帰国と同時に両親の離婚を経験します。留学前の遠藤氏の心持ちはわかりませんが、あまり乗り気でなかったのかもしれません。留学先で、ひとつ嫌な出来事に出くわすたび、それを普遍的な位置まで拡大させてしまう。たとえば嫌な人間が一人いると、すべての人間は嫌な奴だ、となってしまう。そんなに簡単に物事を決めつけてしまわなくても、と思うことが多々ありました。若さゆえそうした傾向が顕著に表れるのかもしれませんが、読んでいて痛々しくなることが多くありました。

 後半部分においては、留学後数年を経てすこし肩の力が抜けたというか、文章に余裕が窺えるようになります。それでも遠藤氏の人間や人生を見つめる目に大きな変化はなく、留学先のリヨンや、自身のキリスト教信仰において重要なイスラエル、ポルトガルなどを巡る旅が続きます。

 先に氏の小説をいくつか読み、その内容と照らし合わせてみると興味深い点は多いですが、この作品単体だけで読むのはすこし辛いかなという気がします。遠藤周作ファン用の一冊ですね、これは。
2006年 3月 「にごりえ・たけくらべ/樋口一葉」 (新潮社・文庫)
僕の好きな文芸評論家の渡辺直己さんが以前、“谷崎潤一郎の「春琴抄」と並び、日本語で書かれた最高の文章だ”と紹介されており、触発されて買ったはいいものの、長い間ベッドの脇に積まれたままになっていました。擬古文体と呼ばれるわざと古文調の表現で書かれた文章は、まるで高校の古文の授業を受けているようで、冒頭を読み始めた時点で手強さに尻込みしてしまいました。ネット上でも、読もうと挑戦したが挫折した、という感想がたくさんありました。

 それでも、体調の良さそうな時にいざ、と読み始めてみると、冒頭におさめられた「にごりえ」の最初の二ページほどを読んでこれはすごい、と膝を正しました。銘酒屋(酒場という看板をあげながら実体は売春窟)を舞台に、トップスターのお力と年増のお高という二人が客引きをする場面で幕が開くのですが、その場の雰囲気が直接頭に入力されるような感触を味わいました。映像、音、匂い、空気感などがまとめて襲ってくる感じ。マルグリット・デュラスの「夏の夜の10時半」(感想はこちら)を読んだ時の衝撃と同質のものでした。

 以降読み進めていくと、文体に慣れないため時間はかかりますが、なかなかに味わい深い文章で、とくに「にごりえ」についてはクライマックスの急展開もあって読み応えがありました。
 なにぶん言葉が難解なため多くの注釈(時には1ページに数カ所)が別ページにまとめてありますが、これをいちいち引きながら読んでいたのでは文章のリズムに乗れませんので、わからない言葉があってもなるべくそのまま読み進めるようにしました。このせいか、「たけくらべ」については、世間の評判ほどの面白さを感じるには至りませんでした。なにせ話が淡々としていることと、言葉や文章の意味がとりわけわかりにくかったのが大きな理由でしょう。美登利と信如との恋物語のはずが、美登利は幼なじみの別の男の子と妙な雰囲気になってみたりしてなかなかストレートに描かれないのも、話にのめりこむ妨げとなっていたように思います。

 上記の他、六作の短編が収録されていますが、この中では「大つごもり」がもっともわかりやすく、素直に感動できる作品となっています。これ以外の作品は、描写のすばらしさはなんとなく理解できるけれども、話が始まってなんだかごそごそしているうちに急に幕が下ろされて終わり、という感じの作品が多く、エッセイ的な手触りを感じさせます。これに対して「大つごもり」は、起承転結、最後の展開が非常にわかりやすく、O・ヘンリーの作品かと思うほどで、これ一作だけ他の作品群から浮いて見えます。

 この一冊を、まがりなりにも一度読み通したことで、大きな読書経験をしたように思います。現代文では味わえない古文調独特の表現が、ツボにはまるとなんとも心地よく耳に、というか心に響きます。現代訳版も出ているようですが、僕としてはやはり原文で読まれることをお勧めします。
2006年 2月 「邪馬台国はどこですか?/鯨統一郎」 (東京創元社・文庫)
邪馬台国は、九州でも関西でもなく、東北にあったのだ――!
 突拍子もない仮定をかかげながら緻密に歴史をひもとき、最後には無理矢理結論づけてしまう技に魅せられる。異形の歴史ミステリー、とでも紹介できるでしょうか。文句なく面白い一冊です。ブッダは悟りなんか開いておらず妻の浮気に悩んでいた、聖徳太子と推古天皇は同一人物だった、などなど、他にもトンデモ暴論な歴史解釈は続きますが、どれもがちゃんとした史実に基づいた説明がなされ、歴史にうとい僕なんかは、ひょっとしたら真相はこうなのかもしれない、とまで思ってしまいます。
 おそらく詳しい人からすれば穴があるでしょうし、都合のいい史実だけを抜き出して並べているだけという気もします。実際、合計6篇収録されているうちの最後の2本については、僕もちょっとそれは飛躍しすぎだろうと思う部分もあります。一般的に認められている想定については疑問を投げかける割に、自分の推論については深い洞察をせずに済ませているのも気になります。それでもとにかく面白い。ここは黙って素直にだまされようではありませんか。サクサク読めて、なんとなくその気になって歴史に興味を持ったりして、知的興奮を味わえる一冊だと思います。僕は実際、山川の歴史の教科書を買って読んでみたくなりました。
NHK週間ブックレビューで激賞されているのを見て急に読みたくなり、急いで買ってきたもののそこで失速し、1年後にようやく読むことができました。冬の寒い日に読みたかったので、一度シーズンを外してしまうと次の冬が来るまで待たねばならなかったのです。NHK以外でもかなり紹介されたらしく、昨年かなり売れたという話を聞きました。

 現在の小説はたいてい、ミステリーの形式を採っています。つまり、なにがしかの謎が提示され、登場人物はそれを追い、読者もまたそれを追って読み進めていく。本を読む喜びが知らなかったものを知る喜びであるなら、推理小説に限らず、どうしてもこの形になってしまう。

 しかし、そうではない小説だってあるのです。もちろん、この作品にもいくつかの謎があり、それを知ろうとして読むという方法はあります。しかし、読み終えて感じるのは、謎が解かれた喜びではなく、ここに描かれた世界をかいま見ることができたという喜びなのです。ストーリーは無いに等しく、ただただ静かな世界が物語の中に存在している。それを感じることができればいいのだと思います。

 ポイントは、少年の行動の無目的性にあると思います。彼は、店に売っているトビを買いたいとつねづね思っている割に、そのための積極的な行動をとろうとはしません。養老院の仕事に精を出すわけでもなく、管理人から与えられた新しい“仕事”についても、それほど強く嫌がるでもなく乗り気になるでもなく、ただ淡々と時間は流れ、その中で行為がなされていく。
 後半、かなりの文量の割かれた犬と郊外に出掛けるシーンにおいても、その目的を遂げるための行動よりは、そこで発生した些末なできごとが次々と描かれ、それをつなげていくうちにいつの間にか時間が流れている。

 不思議な読後感でした。ちょっと僕には苦手な作品かな、という気もしましたが、この静かな静かな世界を感じることはできたと思います。ただ、本書の書評でよく語られる、生と死についての洞察という意味合いが、僕にはあまり感じられませんでした。作品中にそうした記述はあるのですが、読み終わったあと、そのことについては不思議と心に残っていないのです。

 最後に書いておきたいのは、訳文のすばらしさです。訳者はまだ若い女性ですが、作品世界を見事に再現した日本語だと思います。
 この作品は冬の寒い夜、できれば雪の降っている日に読むのがやはりふさわしいと思います。雪の降る音が心の中に鳴りますよ。
2006年 1月 「天使/遠藤周作」 (角川書店・文庫)
10年以上前に読んだものを再読しました。遠藤作品でなにか軽いものをと思い内容をすっかり忘れていた本作を選んだわけですが、やはり心に残らないのには理由があって、どれも軽く読めてちょっとした哀切やユーモアを感じさせるものの強く訴えて迫り来る内容ではありませんでした。かろうじて「変装者」「女の心」あたりに著者がくりかえし表現しているテーマがうかがえ、「初恋」「クワッ、クワッ先生行伏記」に著者自身の幼児体験である満州での生活が描かれていて興味を引きはするものの、もともと同じテーマを同じ内容で他作に描く作者であるとは知りながら、さすがに食傷の感は否めません。
短編の名手とされ、以前に読んだ「ミステリーのおきて102条/阿刀田高」でも絶賛されていたスレッサー。懐かしのテレビ番組「ヒッチコック劇場」で数多く映像化されたうちから17篇を選んで収録された小品集です。
 たしかに面白い。最後のオチににやりとさせられ、同時に登場人物の性格や舞台背景が明らかになる。謎が単なるパズルで終わらず、謎の解明と共に人生が見えてくる、その仕掛けには脱帽です。
 とくに印象深かったのは、「金は天下の回りもの」「ペンフレンド」「気に入った売り家」「親切なウエイトレス」「付け値」「処刑の日」あたり。とりわけ最後に収録されている「処刑の日」は、死刑判決を勝ち得た検事の側の心理を描くという点だけでも興味深く、全体を引き締めてくれる好篇だと思います。

 ただこれは好みの問題でしょうが、僕にはそうした仕掛けの面白さは、読書の喜びとはすこし異質なもののように感じました。ネタに古さを感じたり途中で展開が読める作品もあります。なんにせよ短くて軽くて、読み終わったあとに自分の中の何も変わることはない。もちろんそれは求めるものが違うせいだとは思いますが。
現代文学の旗手、阿部和重をようやく読むことができました。好みです! 気に入りました。なんといっても文章の密度が濃い。改行をほとんど使わずまさに1ページ内の文字の密度が濃いことに由来はするのでしょうが、それにしても同じく東京を舞台に暴力世界を描いた石田衣良となんと違うことか。
 本作の成功により「J文学」なるものが生まれたらしいのですが、たしかに純文学に位置づけてしまうのももったいないでしょうし、かといって凡百のエンタテインメント小説と並べられるのもシャクにさわります。謎解き冒険小説、ハードボイルドといったエンタテインメント小説の体をとりながら、文学的価値は抜群に高いと思います。
 簡潔にして硬質な文体は、一見対象を的確に表現し得ているかに見えて実は一定の不確実性を常に湛えており、話がどう展開するのか一瞬先も読めず、微妙なバランスの上に読者は最後まで立たされ続けます。小説という想像世界のなかでなおかつ今書かれていることが現実なのか仮想世界なのか決断しきれない。このあたりは村上龍の作品を思い出させます。
 <注意!!以下は、ネタバレです。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>物語の後半に入り、イノウエが実は自分自身だった、というあたりで読者は大きな方向転換を強いられるでしょう。単なるハードボイルドなどではなく、神経症的、あるいはオカルト的な要素をはらんでいることに戸惑うかもしれません。続けて読んでいくとさらにまたそれが二転三転とひっくり返される。ラストの解釈は難しいところでしょう。単純に考えれば、やはりイノウエやカヤマは主人公の分身だったと言えるのかもしれませんが、ここまで読んできた読者にとって、最後の記述が真実なのかさえあやふやになっています。

 とにかくパワフルな一編です。退屈だからと純文学を敬遠している人も、これならば読みやすく興味も惹かれるのではないでしょうか。