■ 2014年に読んだ本
  
2014年12月 「ゴランノスポン/町田康」 (新潮社・文庫)
町田康さんの作品は、「くっすん大黒」はそこそこ楽しめたものの、「きれぎれ」に至っては僕の手に負えず、もう手に取ることはないと思っていました。それが、読書会の課題本となったことで本作を読んてみたところ、意外にも良かったのです。でもそれには裏があって、前述二作に比べて町田康独特の文体が薄まり、いわば普通寄りの小説になっていたことで、かなり読みやすかったというわけです。
 収録される短篇7つのうち、冒頭の「楠木正成」は町田流歴史小説という感じで、もっとも町田康っぽい作品です。歴史に疎い僕には少し敷居が高かったのですが、流れるようなリズムが心地よくて一気に読めました。それ以外はほぼ現代小説で文章の癖も少なく、また、町田作品にしては珍しくテーマもオチもある作品ばかりで、読みやすい作品が続きます。ただ、コアな町田ファンや純文学ファンには物足りないだろうと思います。そのぶん、町田康の入門書としては最適だといえるでしょう。

☆読書会の感想はこちら(さらに詳しくこの作品のことが書いてあります)
町田康さんと似ているようで、文体としては舞城王太郎さんのほうが格段に読みやすいと思います。ただ、こちらは内容としてなかなかにぶっ飛んだ作品なので、やはり初めて読む人には敷居が高いかもしれません。それでもこの作者は文体と物語の両方に関心のある人なので、エンタメと純文学を行ったり来たりしながら、その両方の読者を魅了し続けているのです。
 本作も、いきなり「愛は祈りだ。僕は祈る」というストレートな投げかけで始まります。続く章では、AZMAと呼ばれる新種の微生物に体を冒されていく少女・智依子とそれを見守る恋人の物語が語られます。ここで一気に引き込まれますが、いきなりこの話は終了してしまい、全く別の世界の、やはり難病に冒された少女・柿緒とその恋人の話になります。その後には、夢を直す男と少年の話やファンタジー小説のような作品が続き、戸惑わされますが、どうやら柿緒とその恋人の話が主軸なのだとわかってきます。そして、作品タイトルの通り、テーマはやはり愛であり、そして愛を物語で表現することだとわかります。とても残酷で美しい物語だと感じました。ただ、舞城作品はいつもそうなのですが、最後には「愛なんだ」というテーマがあまりに単純に提示されて終わり、というところが少し弱い気がしてしまいます。
松浦弥太郎という人を、この本で初めて知りました。アンチも多いようですが、僕は大いに気に入りました。
 読む者の立場によって、大きく印象が変わる本だと思います。僕のような自営業者には身に沁みることがたくさんありましたが、会社勤めをしている人には、自分の収入を自分の手で変えていくというような考え方はなかなか理解しづらいでしょう。それでもこの本には、どんな人にも通じる内容があると思います。
 僕はまず、お金を儲ける儲けないではなく、お金と「仲良くなる」という発想が新鮮で面白いと思いました。何かを購入する時、「この使い方は、“お金さん”が喜ぶだろうか」と問いかけてみる、というやり方は、自分でも実践してみようと思います。
 お金をどうやって得るのかというのは、その人の生き方そのものに関わってきます。したがって、お金論は最終的に、仕事論・人生論までにつながっていきます。本書は、お金とどう向き合い、つきあっていくかということを通して、いかに生きていくのかというところにまで到達します。あまりにさらりと書かれているので、品行方正過ぎて嘘くさい、とか、説教じみているという批判もあるようですが、僕は好きです。
2014年11月 「愛さなくてはいけないふたつのこと/松浦弥太郎」 (PHPエディターズ・グループ・単行本)
ずばり、ふたつのこととは、「恐怖」と「寂しさ」です。このふたつがいかに僕らの日常を蝕み支配するのか、どう付き合っていくのか。人はこのふたつを、存在しないものだとか言って無視したり、ごまかしたりしてしまいがちです。でもそうすると、自分に自信が持てなくなったり、人とうまくやっていけなかったり、常に不安を抱えていたりなど、自分にしっぺ返しが来ます。「恐怖」と「寂しさ」は決してなくならない。だったらしっかりと向き合い、それに対処していこう、そうすれば人生は開けていく。そんなことが本書には書かれています。
 僕は若い時期、加藤諦三さんの本にハマった時期がありますが、同じような読感を与えてくれるのが、松浦さんの著作です。あまりにもさらりと書かれているので、内容が薄いとか断定的なところが鼻につくといった批判はあるようですが、僕はそうは感じませんでした。実にまっとうで、生きる勇気を与えてくれる本だと思います。
新しいお金術」が気に入ったので、続けて読んでいます。本書では、テーマを絞らずに、暮らしの中で著者が考えた生きるヒントのようなものが紹介されています。松浦氏の著作はどれも、読み始めのあたりではあまり乗れないのですが、読む進むうちに納得度が増してきて、最後は好きになる、というパターンが僕は多いです。本書もそうで、なんだか仙人的な、教科書的な生活指導を受けているようで座りが悪いかなあと思いつつ、読み進めていくうちに気持ちよくなってくる。こうした内容を、人生経験が少ないとか浅いと思われる方もいるかもしれませんが、僕はそう思いません。深い内容を簡単な言葉で書くことのほうが難しく、人生経験が必要だと思うからです。ただ、あまりにエッセイ的で対象範囲が広すぎるので、テーマが散逸になるきらいはあります。手元に置いておいて、たまに好きなところを読み返すような読み方がいいのかもしれません。
2014年11月 「象は忘れない/アガサ・クリスティ」 (早川書房・文庫)
以前に読んだ「空飛ぶ馬/北村薫」の解説に、本書のトリックが凄い、ということが書いてあったので、読んでみました。うーん、ストーリー運びのテンポが悪く、謎が解けていけばラストを待たなくてもおおよそ判ってしまうので、あまり楽しめる要素はありませんでした。クリスティ作品は数冊程度しか読んだことはなく、本作はかなり高齢になった頃の作品ですので、もう少し若い頃の別の作品を読んでみたいと思います。
2014年10月 「徘徊タクシー/坂口恭平」 (新潮社・単行本)
活動家として名高く執筆活動も盛んな坂口氏の、初の小説。いつもテーマを明確にし、それに向かってストレートに突き進むスタイルが、この作品にも現れています。伝えたいテーマは、「徘徊老人は狂っているのではなく、彼ら独自の世界を見ているだけだ」というもので、これは著者が他書でも主張する「レイヤー」に通じるものです。ただ、こうしてテーマがあまりに明確すぎる点が小説においては疵になる。僕が思うに、小説とは「いかに伝えたいテーマを隠すか」に腐心すべきものです。
 人は実経験から物事を学び成長していく、このことは多くの人に共感してもらえると思います。実経験においては、誰かから「こうしたほうがいいよ」とアドバイスをもらえたりもしますが、どうでしょう、そうやって明確にアドバイスをもらった時より、何かをおこなうことである結果を得た、その過程において、非言語的に得た経験から学び取ることのほうが多いのではないでしょうか。頭ごなしに説教され、「〜しろ」とか「〜するな」と言われるより、誰かが黙々とおこなっているやり方に感銘を受けるようなことのほうが多くないでしょうか。
 小説は、そうした実世界での経験を、擬似的に体験させる装置だと僕は思います。だから、ストレートにテーマを書いてしまうと、単に説教を受けている気になって頭に入らない。そうではなく、周りの出来事や人々の行動を淡々と描くことで、伝えたいテーマを読者の頭の中で生じさせるようにする。それが読書体験だと思うのです。
 新書などの啓蒙本なら、テーマをできるだけわかりやすく論理的にシンプルに伝えたほうがよい。速射砲のように論理を展開し、多数の事例を引いて中身を濃くしていく。だから坂口氏のノンフィクションは無類に面白いけれども、同じスタンスで小説を書いても同じ興奮は得られません。

 ただ、特筆したい部分はいくつかあります。まず、本書の最大の問題点とされる、「徘徊老人を上辺だけで扱っている。実際はこんな生やさしいものじゃない」という批判ですが、僕もまさにその通りだと思います。ただ僕は、さすがに著者はそのことはある程度(あくまでもある程度ですが)わかったうえで、とりあえずの断言をしたのだと思っています。「断言」とは、著者の別の本でも出てくる言葉ですが、問題について結論を出さずに無責任な態度をとり続けるのではなく、いったんその時点での結論を明確にする。それが議論を生み、次の段階へと進むたたき台となる。そう考えれば、活動家としての著者が生んだ、彼らしい小説だという見方ができます。
 また、徘徊老人とその周囲の人間とは住んでいる世界が違う、という視点で言えば、主人公の母親と主人公の住む世界もまた違っている。母親は息子が安定した職業に就くことが何よりいいという世界に生き、主人公は自分のやりたいままに生きていくことこそ大事だという世界に生きている。こうした断絶は、読者の周りにも無数に存在すると考えれば、各人が持っているそれぞれの世界を尊重すべきという考え方がより普遍性を伴っていきます。

 まあそれでもやはり、単純に小説として考えるなら、もう少し長く、徘徊老人の様子を描き込んだほうがいいとは思います。トキヲの徘徊で心底困ったエピソードがないから、徘徊タクシーの良さも今ひとつ伝わらない。さらには登場人物が多いうえ、短い中にいろんな人物のエピソードが盛り込まれるので、全部の印象が薄くなってしまっています。主人公とその両親、そしてトキヲが自分の祖母、というくらいにまとめたほうが引き締まっていいと思いますが、そういう無難な作品をそもそも書こうとなどしていないのかもしれませんねこの著者は。
2014年10月 「独立国家のつくりかた/坂口恭平」 (講談社・新書)
最近読んだなかでは、もっとも興奮した一冊でした。建築家なのに建築をせず、その割には路上生活者からヒントを得て0円で家を作ったり、絵を描いたり歌を歌ったり、まあとにかくいろんな活動をしている著者が、今度は国家を作ってしまった! こうした経歴を見ると誰もがうさんくさい奴、と思うでしょう。僕もその一人です。カッコつけて適当なことばっかり言いやがって、という気持ちで読み始めたのですが、どんどん面白くて引き込まれてしまいました。
 常識を疑い、直感に従って行動する。そうした活動家は若い人でけっこういますが、著者の場合、結構な素養に裏打ちされたセンスを感じます。だから語ることに説得力がある。とくに、自分のとった態度によって人を引きつけ、人から代わりに何かを得る、著者言うところの「態度経済」という考え方や、とりあえず現状で結果を出すという「断定が大事」という考え方に、強く惹かれました。著者が書籍を出版し、絵を売ったり個展を開いたりするに至る経緯を詳しく紹介されているところも面白い。とっかかりは眉唾で読み始めたのに、最後の3分の1ほどは夢中になって一気に読み終えました。
2014年10月 「千年の祈り/イーユン・リー」 (新潮社・単行本)
さてこの素晴らしい小説をどう語ろう。まず申し上げたいのは、これは僕がかつて読んだうちでも最上の部類に入る短編集だということ。打ちのめされ、ため息をつきながら最後の頁を閉じる。それは、本を読む歓びを最大限に味わわせてくれたことに対する、僕なりの最大の賛辞なのです。
 著者は中国で生まれた生粋の中国人ですが、大学卒業後にアメリカに渡り、そこで創作に目覚め、英語で小説を書くようになります。初めて書いた一編の小説が評判を呼び、デビュー作として出版されたこの短編集が絶賛を浴びることとなります。
 本作には、それぞれ20〜30ページほどの短篇が10作収められています。自身の体験を元にした、中国に生きる人たちの生き方、歴史。そこで生じる希望と絶望、孤独と苦しみが、突き刺さるほどリアルに描かれています。静謐で硬質で、辛辣なのに温かい。突き放しているようで、どこか人間を肯定したいという気持ちがにじみ出ている。33歳という年齢で、ここまで人生の深みを覗くことができるのかと驚くばかりです。
 とても愛おしい本になりました。この先ずっと追いかけたくなる作者となりました。
出だしのあたりはけっこう面白いかと思っていたら、どんどん失速し、ラストは目も当てられないことに。小説すばる新人賞受賞作らしいが、この作品で受賞はないと思う。僕には合わない作品でした。
2014年10月 「秋の花/北村薫」 (東京創元社・文庫)
大人気の「円紫師匠と私」シリーズ第3作。ここにきて初めて殺人事件の謎を追うという、通常のミステリ形式となっています。8年ぶりくらいの再読ですが、前回読んだ時よりも、やや評価は低めになりました。理由は、殺人というテーマが重いせいというより、設計図どおりに書いた印象が強いところ。幼少時からの結びつきの強い二人、彼女らが無情に引き裂かれる運命、秋の花、これまで登場したキャラクター、そういった幾つかの要素がまずあって、それらで物語を作ったものの、寄せ集め以上のものにならなかった、という印象です。文章の魅力も前2作に比べてかなり薄れているように思います。うがって見ると、人気シリーズの最新作を、せがまれて何とか書いたという裏事情が透けてくるような気もします。
 ただ、物語というのは終わらせ方が何より大事なものですが、本作はこの点において非常に優れています。あの最後の展開、そして最後の一行はなかなか書けない。物語のすべてがあそこに集約され、読者は満足のため息をつきながら本を閉じることができます。
2014年 9月 「動物化するポストモダン/東浩紀」 (講談社・新書)
弱いつながり」を読んだのをきっかけに、同著者の別作品も読んでみようと本作を手に取りました。おそらく、東氏の著作群の中でもっとも有名なものではないでしょうか。2001年に出版されたものですので古さは否めませんが、今読んでもオタク論、サブカル論として充分に意義深い作品だと思います。
 「弱いつながり」では広く大衆に読まれることを意識してか、わかりやすい内容と文体になっていましたが、本書のほうはやや難解な印象を受けました。それでも、こちらのほうが本領発揮とばかり、文章に切れがあり、読みごたえがあります。特に、実例を紹介することで難しい概念をわかりやすく伝えている点に驚かされました。ガンダムとエヴァンゲリオンの比較、PCゲームの分析など、アニメ作品やゲームに通じている著者ならではの内容で、非常に面白く読むことができました。ただ、内容をまだしっかり頭に納め切れていないので、また別の著書などにも当たってみたいと思います。
2014年 9月 「マイ・バック・ページ/川本三郎」 (平凡社・単行本)
評論家・川本三郎氏が、朝日新聞の雑誌記者だった1960年代を振り返るエッセイ。全共闘や反戦デモ華やかなりし頃の思い出語りは、雑誌記者の立場で得た貴重な体験談を含め、独特の憂いを帯びていきます。そしてクライマックスは、著者が巻き込まれ、最終的には逮捕されるまでに至った過激派テロ事件。この顛末が詳しく語られます。
 僕がなぜこの本を読んだかというと、鈴木志保さんという大好きな漫画家がいて、その作品の中に登場する「そらをせんそうで汚す国 そっからきたコーラにしがみつく みかん色したヒッピーちゃん それがどうしようもない俺たち」という歌の正体を知りたかったからです。反戦歌で、はっぴいえんどが歌った曲らしいとはわかったものの、どうもそれ以上判然としません。本書の中でも、中津川フォークジャンボリーではっぴいえんどが歌った、としか書いてありませんでした。
 さて、僕は1960〜1970年代というのは何故かとても好きで、この時代を描いた小説や邦画なども大好きです。本作もそうした雰囲気に溢れていて、どっぷり時代感に浸って読みました。ただ、逮捕に至る経緯において、著者の考え方や行動にはあまり共感できませんでした。川本氏は、赤衛軍を名乗る男を取材するなかで、彼に荷担し犯罪に協力したかどで捕まります。著者は、ジャーナリストとしてのモラルとして、「取材源の秘匿」という言葉を繰り返し、警察の捜査に協力することを拒み続けます。主に思想犯において、取材で得た情報は警察にさえも漏らさないのがモラルだと主張するのです。ただ、取材した男が犯したのは自衛官の殺人という犯罪であり、これは思想犯には当たりません。殺された方の遺族の立場にたってみれば、一刻も早く犯人を見つけるため、捜査に協力すべきだというのは明らかです。ここでジャーナリストのモラルなどを持ち出すのは、やはり青臭いセンチメンタリズムだと言わざるをえないでしょう。
2014年 8月 「弱いつながり/東浩紀」 (幻冬舎・単行本)
いい本や映画は、「いい答え」をくれるのではなく、「いい問いかけ」をしてくれる。そうした意味で、本書はとてもいい本だと思います。(従って、内容そのものに同意できるかどうかはまた別問題となります。)
 ネットに縛られ、グーグルの検索では検索予想にしばられる。そんな中で、自分の人生をかけがえのないものとして深めていくためには、新しい検索ワードを探さねばならない、その有効な手段は旅に出ることだ、というのが著者の主張です。旅に出ると、自分一人では決して思いつかない出来事に出会い、新しい検索ワードが見つかる。こうした出会いを著者はノイズと名付け、ネットの生活を充実させるためにリアル世界でのノイズが必要だと説きます。
 表層をなぞるだけの観光客を、「それでもいいじゃないか。観光だけでも得るものはたくさんある」とする主張にはおおむね賛同します。被災地支援のための活動を「福島第一原発観光地化計画」と名付けているのも、不謹慎だという人がいるかもしれませんが、僕はこれでいいと思います。
 ただ、ノイズというのは、旅行でなくたっていくらでも転がっています。誰かとの会話の中や、ふと点けたテレビの中や、読んだ本や見た映画や、どんなものにだって新しい言葉、新しい概念は転がっているはずで、それを見つけるアンテナがあるかどうかのほうが重要だと言えます。ただ、旅行(とくに海外)には特別にたくさんのノイズがあり、しかもノイズをしっかり前向きに捉えようという気分が高まっているせいもあって、最高の機会ではあります。僕も海外旅行は大好きで、これまでの渡航経験が自分というものを形作るたくさんの要素をもたらしてくれたと思っています。
2014年 8月 「葛飾発アメリカ行き/落合信彦」 (集英社・単行本)
落合氏の著作は、翻訳ものは読んだことがありますが、エッセイは初めてでした。映画ばかり見ていた少年がやがてアメリカに渡り、ビジネスを起こして成功する。アメリカンドリームを日本人が成し遂げてしまった例がここにあります。まあ男らしいというか男くさいというか、バイタリティに溢れた人なんだろうなと思います。
 とにかく、見た映画の量がとてつもなくて、間違いなく映画によって出来ている人ですね。本書では、自分の人生と絡めてたくさんの映画が紹介されています。それらを一つ一つ読んでいくのはとても楽しいものでした。
 アメリカでオイル産業で大もうけしたり、エリザベス・テーラーと友達だったり、マフィアとも交流があったり、まあ驚くようなエピソードもいっぱい出てきます。
 熱い人なんだろうな、近くにいると少しうざったいかもしれないけれど。
本が好きな人すべてにお勧めしたい、愛すべき作品です。
 本にも雄と雌があり、そうなると子供も生まれる。買った覚えのない本があったら、そうして生まれ出た「幻書」かもしれない。蔵書家の祖父、深井與次郎(ふかい・よじろう)から聞く不思議な話を、孫の博が綴るという形式。ファンタジー小説でもあり、ユーモア小説でもあり、家族愛小説でもあります。また、與次郎が戦地で過ごす場面などはハードな戦争文学にもなっています。語り口と文体は変幻自在かつセンスに溢れ、しっかり笑えてしっかり感動もできる。本好きには溜まらない内容で、小説を読む歓びを存分に味わわせてくれます。改行の少ないみっしりとした見た目と、こねくり回すような文体にやや取っつきにくさを感じるかもしれませんが、しばらく読んでいけば、世界にどっぷり浸ることができると思います。
 著者の小田氏は日本ファンタジーノベル大賞の受賞によりデビューし、これがまだ二作目ですが、すごい才能が出てきたと思います。この賞はいい作家を多く出してきた優良な賞だったのに、2013年度を持って休止することとなってしまい、非常に残念です。
2014年 7月 「心にナイフをしのばせて/奥野修司」 (文藝春秋・文庫)
貴重な本です。思い知らされること、気づかされることが幾つも詰まっています。今後、少年法の是非を語るうえで、外すことはできない一冊になると思います。著者は、先月読んだ「ねじれた絆」と同じ、奥野修司氏です。長期に渡る綿密な取材が信条の奥野氏ですが、こちらも執念の一冊といえるでしょう。

1969年の春、横浜で高校生が同級生を刺し殺す事件が発生します。かの酒鬼薔薇事件の起きる30年近く前のことです。犯人はすぐに捕まりますが、少年法の適用を受け、少年院に数年送られただけで社会に復帰します。いっぽう、被害者の家族にはその後数十年に渡る地獄の日々が待っていました。精神錯乱におちいる母、実直すぎて悲しみを表に出せず、最後には病に倒れる父、壊れた家族の中で両親に反抗し、自傷行為を続ける妹。事件のことを家族で話すことはなかったといいます。あまりにも悲しすぎて、思い出すことさえ嫌なのです。
 加害者からは謝罪の言葉は一切なく、連絡さえほとんどない状態でした。裁判で、月々2万円の慰謝料を30年間支払うことが命じられるも、やがて送金も途絶えます。あとは梨のつぶてです。被害者家族は細々と喫茶店を経営しますが、生活費にも事欠く苦しい日々が続きます。

本書は、著者が被害者の家族から聞き取った内容を、家族の方本人が話すという形式でつづられています。主な語り手は妹さん、そしてお母さんです。妹さんは、両親が何かにつけ兄と自分を比較することに深く傷つきます。そしてたった一人残された子供としての期待を背負わされることに反抗し、両親のいうことを聞かなくなっていきます。同時に、兄が死んで自分だけが生きていることを罪のように思うのです。これでは、妹さんの人生は無いに等しいでしょう。ただ事件の重みに耐えながら毎日を凌いでいるだけ。辛い、と一言で言えないほどの壮絶さです。

さて、加害者の少年Aがその後、どうなったか。執拗な取材をつづけ、著者はついに突き止め、会うことに成功します。なんと彼は弁護士になっていました。自分の事務所を構え、そこそこの収入もあるようです。つまり彼は少年法が示すところの”更正”を成し遂げたのです。しかし、あらためて被害者への謝罪を要求されるや、金を支払うという方向に話を向け、挙げ句は事務所を畳んでどこかへ消えてしまいます。これが”更正”した人のすることでしょうか。

僕は、少年犯罪者について、更正をうながすことは間違っていないと思うけれど、人一人を殺したことの償いは一生をかけてもさせるべきだと思っています。社会に素性をさらすようなことでないことは確かですが、どういう形がいいのか答えは見えません。それでも、本書を読んで現在の少年法に大きな間違いがあることはわかります。
 加害者の少年への恨みはあるか、著者が被害者家族に問いかけたところ、意外にも「それはない」というような答えが返ってきます。これは決して「もう恨んでいない」ということではありません。加害者への恨みをいったん考え始めたら自分が狂ってしまう、さらに底のない地獄へ堕ちてしまうという恐怖があるのです。これこそ、僕ら未経験者が決して知り得ない、真実の苦しみなのでしょう。
年間3万人が自殺する国、日本。この現状を打破すべく、NHKディレクターの職を捨ててNPO法人ライフリンクを立ち上げたのが、清水康之氏です。一方の上田紀行氏は、文化人類学者の立場から様々な提言を世に投げかけ続ける活動家で、本書は二人の対談集となっています。
 僕は、自殺に関してなされる提言については、いつも違和感を覚えます。「自殺をなくそう」という意図はいいのですが、それが「自殺はいけないことだ」「自殺をした人は、本当はそうすべきではなかった」という意味を強くしていき、常に、自殺者が悪者扱いされているような気がするからです。たしかに自殺は悲しい。遺族にとっても悲劇です。それでも、自殺する人はたいてい、真面目でがんばり屋で責任感が強く、それゆえに先を見越して考えすぎて、がんばってがんばってがんばり抜いた末に力尽きて死んでいきます。だから僕は強く訴えたいのです。
”自殺した人を悪く言うのはよそうよ! かわいそうだよ!”と。

 自殺者の多さを嘆き、それを何とかしようと呼びかける人は、「自分はそうならない側」から発言することが多いように感じます。だから、「自殺するような弱い人間は〜」という論調にどうしてもなってしまうし、「自殺する人をなんとかして“あげよう”」という、上から見たような言い方、考え方になりがちです。でもそんなもんじゃないんです。人間なんて、ちょっとした要因が重なれば、すぐに自殺予備軍に入ってしまいます。自殺をなくすには、つきつめれば根性論のような話ではなく、自分が自殺しそうになったらどういう助けが必要で有効なのかという、もっと具体的な方策が必要です。

 僕は上記の理由から、本書もそうした論調の書物なのかと身構えて読み始めました。しかし、ライフリンク代表の清水さんは、実にしっかり足下を見て、かつ客観的に物事を捉えられる人でしたので、僕のこうした危惧を踏まえた上で活動をされていました。ですので、どう自殺を未然に防いでいくのか、とても具体的な方策が示されています。これはとても有用なことです。
 また、いろんな有益な情報も本書から得ることができました。自殺者が3万人ならば、残される遺族の数は12〜15万人にも及びます。遺族の苦しみは、自殺の後から始まります。遺族は常に悲しみと共に、自分が彼らを救えなかったことや力になれなかったことを激しく悔い、無力感を感じながら一生を送るのです。これは凄まじい”罰”です。すこしでも、「楽しい」「嬉しい」「美味しい」などのプラスの感情を抱いた途端、「こんな自分がそんな幸せを感じていいのか」という思いに責めさいなまれるのです。生き地獄です。他にも、経済的理由を苦に自殺した父親がいたとして、その子供たちは、「自分を高校に行かせるためにお父さんは死んだんだ」などと思うようになったりします。考えただけでも耐えられない苦しみです。

 清水氏は、ディレクター時代に自殺に関する番組を手がけます。そこでは、遺族の実名を出し、かつ顔を見せた上での放送を考えたようです。これには、出演者の周囲から猛反対の声があがりました。「そんなことをして、この子の人生がどうなるのか考えているのか。あなたにその責任がとれるのか」と。
 もっともな話ですが、それに清水氏はきっぱりと答えます。「仮名で、かつモザイクをかけた映像では、自殺遺族は世間に顔向けできないということを強調する結果になってしまう。この子の人生の責任なんて、取れるわけがない。この子の人生の責任は、この子自身にしかとれない。だから、この子自身が嫌だというのなら無理強いはしない。でも、この子が自分の人生をなんとかしたいと思うのなら、僕は自分のできるかぎりのことをしたい」と。この清水氏の考え方には、深く感銘を受けました。

 本書の中間あたりで、人は何故自殺をするのか、どうやってそれを防いでいくのかが語られますが、このパートはちょっと弱い印象を受けます。なぜなら、自殺の原因は様々であり、その対処法もまったく異なるからです。ここでは主に、働き過ぎといじめという2点に絞って紹介されています。働き過ぎについては一つ、なるほどと思う記述がありました。90年代終わりの経済不況において、リストラされたような「負け組」の自殺が増えた。ところがその後、減った人員で運営していく間に個人にかかる負担が増え、「勝ち組」だった人にもまた自殺者が増えてきた。つまり、(この言い方の是非はおいておくとして)「負け組」「勝ち組」のどちらも落ちていく社会なのだという指摘には唸らされました。
 いっぽう僕としては、自殺の要因の大きな一つに健康不安をあげてほしかった。大きな病気にかかれば、働けなくなる上に、治療に莫大なお金がかかる。しかもそれがずっと長く、死ぬまで続くかもしれない。お金だけではなく、家族の介護も必要になる。つまり、「自分が生きていることで、この先たくさんの人に迷惑をかけ続ける」という状況に立ったとき、責任感の強い人ほど最後に必ず自殺に行き着いてしまう。そんな気が強くしています。

 僕は、「絶対に自殺してはいけない社会」よりも、「頑張った末に最後に自殺も許される社会」のほうが、結果として自殺者は減るように思っています。なぜかと問われると答えられないけれど、自殺はいけない、そんなこと絶対にしちゃいけない、という考え方自体が多くの人を苦しめ、死に追いやっているように思うのです。
2014年 7月 「空飛ぶ馬/北村薫」 (東京創元社・文庫)
人が死なず、身の回りの些細な謎を巡って話が展開する、「日常系ミステリ」の元祖的作品。10年以上ぶりに再読しましたが、やはり面白いです。(前回の書評はこちら
 連作短編集という形式で、収録される五つの作品が独立した短篇ミステリであると同時に、全体として女子大生の“私”の成長譚ともなっています。まだ何者でもない時期における、大人とは何か、女とは何か、果たして自分はイケてるのかどうなのかという疑問、焦り、恐れなど、複雑な感情がよく表現されています。とくに、真ん中の一編「胡桃の中の鳥」における、正ちゃん、江美ちゃんとの仲良し三人組とのエピソードには、そうした入り組んだ感情がにじみ出ています。同年代の友人というのは、仲良しであると同時にライバルでもある。10個の比較項目があったら6勝4敗くらいでいたいのでは、と僕など思ってしまいますが、つまらない会話の中にもそうした駆け引きに似たやりとりが発生します。“私”のように本や落語や映画が好きな人は、「それが自分の居場所」とばかり、ますます意地になってそれにのめり込むようになる。“私”の、ちょっとリアルさからかけ離れた知識や行動様式には、自分が得点を稼げる部分を必死に求め探している、けなげで痛々しい姿が透けて見えます。
 大学生のあるあるネタなども混ぜながら、”私”は様々な出来事を経験していきます。人間の持つ暗くいやらしい部分に触れるたび彼女は、「世の中にはそういうこともあるんだ」という認識とともに、「自分の中にもそうしたおぞましさのかけらが潜んでいるのでは」と恐怖します。しかし、それはやがて正しい自己批判、自己認識に結びついていきます。人の人生が自分を好きになるための旅だとするなら、その意味で確かに彼女は成長したのでしょう。
 “私”と円紫師匠との微妙な関係も読みどころの一つです。僕みたいに擦れた読み手からすると、円紫は彼女のことを確実に「女」として性的な目で見ているに違いない、あわよくば何とかしてやろう、でも自分の地位を考えると下手なことはできない、という思いを抱いているに違いない、などと勘ぐってしまいます。(だって彼はいつも二人きりで会おうとするじゃありませんか。下心がないとは言わせませんよ。)いっぽう、“私”のほうは円紫に対し、恋愛感情に近いものを抱いているのは誰が見ても明白でしょう。この二人の危うい関係性を思うからこそ、「赤頭巾」のような作品がまた深く心に沁みていきます。
 また、一文学作品としての出来もなかなかのものです。文章に綾があり、かつスマートなため、読んでいるだけでいい心地にさせてくれます。さりげない伏線の置き方も絶妙で、小説や演劇、草花についての豊富なウンチクには、筆者の底知れない知識を感じると共に、作品としての深さにもなっています。とくに、落語に詳しければさらに楽しめるでしょう。日常系、あるいはゆるふわ系ミステリとくくられることは多いですが、同じ系統に分類されている小説群の中でも図抜けており、他の若い書き手には決して書き得ない作品です。
2014年 7月 「夜の蝉/北村薫」 (東京創元社・文庫)
デビュー作「空飛ぶ馬」に続く、“私”と円紫シリーズ第2弾。こちらも数年ぶりの再読です。(前回の書評はこちら
 前回読んだ時には、やや衝撃が薄れ、「空飛ぶ馬」のほうが面白かったかなあという感想だったのが、今回は違いました。今となっては、本作のほうがさらにパワーアップし、こちらのほうが好きと言えるほどです。
 前作は5篇だったのに対し、本作では3篇が収録されています。それぞれ、“私”とその周辺の人々との関係について話が設定されています。一作目の「朧夜の底」では親友・正ちゃん、そして“私”がほのかな恋心を寄せる男性も登場します。二作目の「六月の花嫁」では、もう一人の親友・江美ちゃんが大活躍し、最後の「夜の蝉」ではお姉さんとの描写が胸を打ちます。僕は「六月の花嫁」が特に素晴らしいと思いました。ものすごく凝った構成で話は二転三転し、最後にたどり着くオチには心温まります。シリーズ中、出色の出来映えだと思います。
「犯罪(僕の感想はこちら)」「罪悪」と続いた短編集のあとに出された、著者初めての長編です。

舞台はドイツ。財界の大物マイヤーがイタリア人のコリーニによって惨殺された。コリーニはその場で自首し、拘留される。弁護士ライネンが彼の弁護を任されるが、コリーニは動機について固く口を閉ざす。ライネンは被害者が自分の知り合いだったことを知り、弁護に迷いを持つ。公判がはじまるものの、コリーニの有罪は明白だった。ライネンは小さな手がかりから、真相に近づいていく。

犯人は最初からわかっていて、その動機を巡るミステリー部分、そして法廷劇の面白さを備えています。とはいえ、かなり静かな物語です。派手な展開やものすごく意外な真相を期待する向きには、物足りなさを感じるでしょう。また、翻訳があまり良くなくて、文学としての楽しみもやや薄い気がします。それでも、最後に明かされる謎、それにまつわる歴史と悲劇には胸を打たれます。
2014年 6月 「ねじれた絆/奥野修司」 (文藝春秋・文庫)
是枝裕和監督の映画「そして父になる」の元となった作品です。沖縄で1971年に発生した赤ちゃん取り違え事件について、当事者家族を17年に渡って取材し続けた、渾身のルポルタージュとなっています。今年の3月に映画を観て以来、こうした事件に興味を持ち、本作を読んでみました。そもそも赤ちゃん取り違えなどという、”馬鹿馬鹿しくてあり得ない”事件がなぜ起きたのか。当事者家族がどうやってそれを知り、その後どう対処したのか。

 僕が先に想像した限りでは、取り違えたままの状態でその後も生きていくケースが半分くらいはあるのかなあと思っていたのですが、発覚したほぼ全てのケースにおいて、子供は実の親の元に戻されるのだそうです。生まれて間もない時期ならまだしも、本書の場合、6歳まで育てて完全に情が移った状況で、ある日突然、親子が引き裂かれ、見たこともない実の我が子を育てることになる。これはいろんな意味で悲劇です。本書に登場する互いの両親も、深く傷つき、そして悩みます。実の親子に戻すべきなのか、育ての親子のままでいるのがいいのか。病院側は戻すことを勧めますし、親戚知人に相談しても、やはり血の繋がった親子のほうが後で面倒なことにならなくていい、と言われます。6歳になるまで、あらん限りの愛情を尽くした、自分の命よりも大切な子供を、そう簡単に手放すことなどできません。いっぽうで、自分達の血を分けた、自分達にそっくりな子供を見捨ててもおけない。どっちがいいか、答えなど出るはずがないでしょう。それでもやがて、子供を元に戻す方向で物事が進み、後戻りできなくなっていきます。最初は週末だけ子供を交換し、慣れてきたところで完全に切り替える。

 病院の説明だと、子供は対応が早いから、最初は嫌がってもすぐに慣れるよ、ということでした。しかし、そんな簡単にことが進もうはずがありません。子供にとって親はもちろん育ての親のほうですから、「本当の両親はこっちなんだよ」と言われても理解できるはずはなく、戸惑ってしまいます。親のほうはなんとか自分を好きになってもらいたくて、厳しく叱ることもできず、子育てにだんだんと支障がでてきます。ここで今回のケースが特殊だったのは、一方の両親にかなり問題があった点です。お母さんがかなりの遊び好きで、子育てなどお構いなく深夜まで遊び歩いている。お父さんはそんな妻を憂いながらも、なんと妻の姉と関係を結び、子供まで作ってしまうのです。挙げ句、一つの家の中に全員が住むことになる。子供からすれば、家に帰ると、父親、母親、伯母、お父さんと伯母の間にできた弟がいるという異常な状況なわけです。子供は当然のごとく、育ての親を頼るようになります。この育ての親、特にお母さんのほうがかなりしっかりとした教育方針を持っている人で、猫可愛がりすることもなく、実の子と育ての子、それぞれに深い愛情を注ぎます。

 まあどちらを向いても悲劇しかない状況です。混乱を極めた状況のなかで、子供たちはどう成長していったのか。ぜひ本書を読んでみてください。もちろんこれは一つのケースでしかなく、正解など出るはずはありませんが。
2014年 6月 「炭水化物が人類を滅ぼす/夏井睦」 (光文社・単行本)
「糖質制限からみた生命の科学」というサブタイトル、そのままの本です。炭水化物をとらない糖質制限ダイエットを始めた著者がその有効性を感じ、そもそも人間が炭水化物を食べ始めた起源はどこなのか、壮大な歴史をひもといてみせてくれます。よくここまで風呂敷を広げたなと感心します。やや衒学的(知識のひけらかし)な印象を受けますが。
 僕は47歳になるまでほぼずっと体重40kg台をキープしてきた痩せ型人間なので、ダイエットには全く興味がありません。というか、どうやったらもう少し太れるのかを探っているくらいです。それでも、健康には大いに興味があるので、炭水化物を摂ることによる体のだるさ、食後の眠気などが改善されるという点において、本書には非常に興味がありました。
 著者のように、炭水化物をゼロにするという意見には賛成はできません。ただ、読み終えて僕が得た結論は、現代人はやはり炭水化物を摂りすぎだろうから、今よりも摂取量を減らしたほうがいいのでは、といったところです。著者が本書の中で科学的証拠として出している事実のいくつかは、僕が調べてみると違っているところがありました。例えば、胃滞留時間は炭水化物が一番長い、人間の腸は肉食動物の腸に近い、などについては、全く逆のデータが出てきました。また、すぐにブドウ糖に変化する砂糖と、ゆっくり消化されて糖になる炭水化物は分けて考えるべきだと思いますし、炭水化物以外は何をどう食べてもいいという点には、健康管理の面から異論を唱えます。
 いっぽう、糖分や炭水化物を中毒のように食べてしまうことは僕も身につまされます。また、医学者でありながら医学界や糖尿病学会を真正面から批判している姿勢は立派だと思いますし、好感が持てます。
2014年 5月 「風の歌を聴け/村上春樹」 (講談社・文庫)
最新作「女のいない男たち」を読むにあたり、先にこちらを読んでみました。というのも、以前に「羊をめぐる冒険」を読んで村上春樹節にうんざりした覚えがあり、それはシリーズ3作目を先に読んだせいだと思ったからです。なるべく冷静にニュートラルに、と思って読み始めたところ、けっこう楽しく読むことができました。もちろん、どこが面白いのかを説明することは難しいのですが、散文詩的に見える文章を読むうちに、なんとなくの世界観が体に染みてきて、そこに漂う無常観、人とのコミュニケーションのできなさ、などのテーマらしきものが浮かび上がってきます。
2014年 5月 「女のいない男たち/村上春樹」 (文藝春秋・単行本)
女と男に関する短編集。最初の数編は、なんだかイマイチでした。本作を読む前に「風の歌を聴け」を読んだのですが、そちらが春樹節全開であったのに対し、本作はとても普通の、誰にでも書けるようなわかりやすい小説だと思ったのです。説明が多く、文体は一本調子で比喩も平凡、話もありきたりの感じでした。それが、「シェエラザード」でややミステリ趣向も加わって面白くなり、「木野」でさらに興味が増し、最後の表題作で一気に本書の評価が高まりました。

なにか衝撃的な悲しい事実に直面したとき、自分を傷つけないために人は自分の心を閉ざします。たしかにそれで傷は浅くなるかもしれないが、そうした人生を続けていくと、本当に楽しいことや幸せを感じる心も失われていく。だから、傷つく時には”ちゃんと”傷つくほうがいい。そのほうが実り多い人生になるのではないか、そういったテーマを僕は感じました。そうしてもう一度読み返してみると、テーマを示す言葉がいくつも出てきます。

もうひとつ、これは本書のテーマとは離れた遊びの部分ですが、「独立器官」と「シェエラザード」について、以下のような考察(深読み)をしてみました。けっこう当たっている気がするのですが、いかがでしょう。

「独立器官」
渡会医師の最期については、彼の秘書、後藤から語られますが、この後藤の話が嘘だったとしたらどうでしょう。後藤は渡会を敬愛していました。ゲイである彼が恋愛感情を持っていたと考えるのが自然でしょう。渡会の女性関係について、それが遊びのうちは良かったが、本気でのめりこむ関係には耐えられなかった。秘書なら食べ物に細工したりすることもできたでしょうから、何らかの形で後藤が渡会を死に追いやることも可能なはずです。
もうひとつ別の考え、それは後藤の嫉妬の相手が、語り部である谷村だったということ。こちらのほうが性向からすると正しいかもしれません。渡会が谷村と仲良くなっていくことに嫉妬を感じ、二人を会わせないようにするため、渡会が死んだことにする。テニスラケットは、後藤から谷村へのせめてもの償いだったのかもしれません。

「シェエラザード」
シェエラザードが高校生の頃に忍び込んだ家の男の子、彼が羽原だったとしたらどうでしょう。シェエラザードが最後に語らずに終わった話のつづき、それは、男の子と再会し、さらに彼の母親も絡む展開になるらしいのですが、それが、「再開した男の子とやがて結婚した。しかし彼女はふとしたきっかけで浮気をしてしまい、決定的な場面を夫(羽原)にみつかってしまう。彼はショックのあまり記憶を失ってしまい、施設(ハウス)に収容される。反省したシェエラザードは改心し、夫の記憶を取り戻すため、昔の話を彼に聞かせる」
――どうでしょう? こう考えれば、「ハウス」という施設の謎、シェエラザードが彼の世話をし、体まで与え、奇妙な話をする理由、前世を羽原に聞いて彼が思い出せないと言った時に落胆する理由、などが解けていきます。
女のいない男たち」からの流れで、本作を再読してみました。(前回の感想

前に読んだ時も、春樹作品にしては楽しめたかなあという感想を持ちましたが、今回はさらに深く楽しめたと思います。冒頭作の「蛍」は、「ノルウェイの森」の元になる短篇で、春樹節炸裂です。一見無意味で無関係に思われるできごとが散文的に描写される中で、テーマ的なものがぼんやり浮かび上がる。そして実は、テーマは割と明確に明かされていたりします。本作ではゴシック体で目立つようにさえ書かれています。「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」というのがそれです。

「めくらやなぎと眠る女」も春樹らしい一作。”僕”がいとこの少年と病院に行くだけの話。大きなドラマは起こりませんが、読んでいると、風景や心情が鮮やかに目の前に広がっていきます。この、小説世界に身を浸す感覚、これこそが小説を読む醍醐味です。
 その意味で、「踊る小人」を楽しめたのが、今回の一番大きな収穫でした。”僕”は象工場で働いていて、生きている象を加工して新しい象を作っている。夢の中で小人が出てきて踊りませんかと僕を誘う。そういう話が延々とつづき、前回はこれが苦痛でした。読んでいても、さっぱり意味がわからない。でも、ひとつひとつの意味を考えても仕方がないのです。考えるのではなく、感じるしかない。そう割り切って臨んだら、とても面白く読めました。
2014年 5月 「地方にこもる若者たち/阿部真大」 (朝日新聞出版・新書)
社会学というのは、突き詰めてしまえば印象論になる。「こういう人をよく見かける、だから世の中はこうである」というのは科学的とは全く言えない。そこで唯一使える科学の道具が統計学なわけだが、その使い方がまた難しい。ものすごく小さな標本から全体を結論づけるというのは、もっとも陥りやすい罠であり、本書の「現在篇」は見事にこの穴に落ちている。倉敷市で数十人におこなった(あまり出来がいいとは言えない)アンケートの結果から、「日本の若者は〜」などと言われたら、みんな怒り出すだろう。ただ、商店街の人間関係を「ノイズ」と称し、そこからの脱却を図ったのはモータライゼーションだったというのは面白い指摘だ。
 おそらく歴史篇でのJポップとの絡みが著者の得意とするところらしく、熱と説得力を感じる。語られるアーティストのうち、僕のよく知っているのはミスチルくらいだが、果たして彼らが音楽で伝えようとしていたのは、こんなに一言で片づけられるものだろうか。良いアーティストほど、いろんな形でいろんな考え方を表現していると思うのだが。
 未来篇では、KYをキーワードに、会社の上司が「むしろKYになれ」などと諭す複雑さを語るところが面白い。「ヤンキー」や「ギャル」というキーワードも登場し、前に読んだ「ヤンキー化する日本」との関連も興味深かった。
2014年 4月 「映画欠席裁判/町山智浩/柳下毅一郎」 (文藝春秋・単行本)
映画評論家、町山氏と、翻訳家でやはり映画に詳しい柳下氏との、映画に関する対談、というか駄話集です。期待したほどには面白さはなかったかな。
2014年 4月 「夏の流れ/丸山健二」 (講談社・文庫)
1970年代に芥川賞を受賞した著者のデビュー作。死刑執行官である主人公の日常を淡々と描いた作品です。”人を殺す仕事”に就く者の心理とはいかなるものなのか。不謹慎ではありますが、興味を持ってしまうのが人の常というものでしょう。ただ、この著者の文章は、なぜだか頭にすんなり入っていかないんですね。芥川賞の選考においてもかなり意見が割れたようです。その後の作品をみると、芥川賞作家というよりは、直木賞作家という感じがしますね。
2014年 4月 「ヤンキー化する日本/斎藤環」 (KADOKAWA・新書)
精神科医が書いた日本論。日本人は誰でも心にヤンキー性を持っているのではないか、というのが著者の主張です。ただしヤンキー性とは暴力性や不良性を指すでのはなく、もっと表層的なファッションや行動様式、思考様式のことであり、そうなると政治家だって建築物だってヤンキー性で語られることになります。本書はこのヤンキー性について、様々なインタビューをこころみた対談集です。6人の方が登場しますが、この人選、および対談の進め方が素晴らしいですね。ただ、ここにある内容は、筆者の前著「世界が土曜の夜の夢なら」を元にして書かれているため、先にそちらを読んでから本書を読んだほうが断然わかりやすいと思います。
2014年 4月 「世界が土曜の夜の夢なら/斎藤環」 (角川書店・単行本)
なにか幻想的できれいなタイトルですが、日本人の心に潜むヤンキー性について論じられた本です。天皇陛下即位二十周年記念式典で、EXILEが歌と踊りを披露したことに違和感を覚え、天皇陛下とヤンキー性の親和性の高さを思い始めるところから話はスタートします。ヤンキー性を指すキーワードを並べると、バッドセンスな美学、気合いとノリ、絆、ポエム、などが挙げられます。こうしたキーワードを元に、様々な思索の旅が展開されていきます。これはなかなか面白いですよ。先にこちらを読んでから、次作「ヤンキー化する日本」に進むことをお勧めします。
いまや外食ではなく、「家めし」の時代だというのが著者の主張です。本書で紹介される家庭料理に関する考え方には、おおむね共感できます。世間の常識や「最近よく言われていること」に流されず、自分なりの「うまい料理」を考え、実践している、その姿勢は素晴らしいと思います。献立を考える際に、味付けの種類でバランスをとる、という考えにはおおむね共感できますし、紹介されているレシピでも、チャーハン、天ぷらの料理法は参考になりました。ただ、ある部分では化学調味料を揶揄しながら、別の箇所では容認していたりして、やや一貫性に欠けるきらいがあるように思いました。極端な物言いにも、気にかかる箇所がいくつかありました。
「有機だから安全」「有機だから美味しい」「自然に任せるのが一番」「虫がつくのは美味しい証拠」など、有機農法について挙げられる利点の一つ一つについて、本当にやってみたらどうだったのかという回答を示しています。これは非常に実践的で新しい試みだと思いますし、「有機野菜はいいって聞くけど、ホントのところはどうなの?」という疑問にしっかり答えを出してくれます。理論にやや納得できない部分はあるものの、画期的な書物であることに疑いはありません。
2014年 3月 「赤と黒(上)/スタンダール」 (新潮社・文庫)
いやあ、なかなか読むのに骨が折れました。フランス文学の心理小説という分野は、「クレーブの奥方」や「危険な関係」など、とても面白いものが多いので、本作も期待して読み始めました。が、どうにも主人公ジュリヤンのいい加減な性格に我慢がならず、面白みを感じることができませんでした。ストーリー的にも、これは現代人の我々が読んで面白いと思えるものなのでしょうか? 名作とされていることが不思議なのは、「源氏物語」と同様です。
2014年 3月 「赤と黒(下)/スタンダール」 (新潮社・文庫)
2014年 3月 「海と毒薬/遠藤周作」 (新潮社・文庫)
はるか昔に一度読んだきりで、細かい展開はほぼ忘れてしまっていましたが、その衝撃だけは体の中にありました。昔は大好きだった遠藤周作を最近いくつか読み直してみると、前ほどには感動できず、文学的にもやや疑問を感じることがありました。その点、本作は遠藤周作を再評価するに十分な内容でした。暗くじめじめとした読感は、自分の若い頃を思い起こさせ、「ああこれこれ、遠藤文学を読む感触はこれなんだよ〜」と懐かしく思い出しました。

戦時中、九州大学で実際に起きた人体実験を元にしたフィクションです。戦争という状況であれば、人が人を殺してもいいのか、人体実験ならば医学の役に立つから人を殺してもいいのか。主人公の医学生、勝呂は苦悩します。そして、本書を読む者もまた同じく苦悩し続けるのです。
2014年 3月 「発酵道/寺田啓佐」 (スタジオK・単行本)
4年ほど前に読んだものの再読です。その時には家の近くで著者の講演会が開かれ、参加しました。とても楽しい会で、お人柄にも感心させられたのですが、それから数年後、残念ながらお亡くなりになりました。
前回の感想

とにかくこの本、酒造りについて書いてあるのみならず、人生とは何ぞやという問題にまで到達した名著です。発酵という自然現象を人体、果ては人生にまで敷衍させる展開が素晴らしいです。
ずっと昔に読んだものの再読です。読んでみて「あれっ?」と思いました。以前に読んだ時にはかなり面白く、いろんな人に本書を薦めてきたのですが、今回は、あまり面白さを感じられなかったのです。SFとしてもエンタテインメントとしても、なんだか中途半端。ご都合主義が前面に出ていて、主人公の考え方にもまったく賛同できず。ドタバタとサスペンスの混じった展開は面白くはあるけれどなんだかなあ……という感じ。
25歳の若さでなくなった著者が残したブログを編集、構成したものです。僕は著者や本書のことをまったく知らず、読書会で紹介されて読みました。よくある「ブログ本」のイメージで、なんだか軽い読み物かなあと読んでみたら、これはすごい掘り出し物でした。著者の感性、文章力、そしてなにより若いのに卓越したバランス感覚に感心させられ、文章に引き込まれていきます。バランス感覚とは例えば、真面目なこととと不真面目なこと、文系と体育会系、論理と感情、孤独意識と仲間意識、都会礼賛と田舎礼賛、などなど、どちらに偏ることもなく、自分の頭で考え、判断し、行動する。彼女は、何かに夢中になっても決して盲進せず、客観的視点を持ち続けられる人です。そこから紡ぎ出される文章には、押しつけがましさはありません。そして、そんな彼女でさえ、若さと自由を持て余していることも興味深いです。
 本書を読みながら、以前に読んだ「二十歳の原点」を思い出していました。こちらの著者、高野悦子さんも同年代ですが、バランス感覚を保ち得ず、自ら命を落とす道を選んでしまいます。そうした対比も興味深く思いました。
2014年 2月 「二十歳の原点/高野悦子」 (新潮社・文庫)
えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる」を読んだあと、やはりこちらを再読せずにいられませんでした。
前回の感想
この時代の大学生にとって、自らのポリシーを持たないことは何よりの恥だったようで、それを気にしないようにしながら、けっきょく絶えきれずに自殺をしてしまった著者。物事を深くまじめに考えることはいつの時代でも美徳だと思いますが、バランス感覚を失って突き進んでしまうとこうした結果になるのでしょうか。
映画の見方がわかる本」の続編。80年代のアメリカにおける、主にカルト映画の解説が紹介されています。「ビデオドローム」「ブレードランナー」あたりの解説がとくに素晴らしく、これを読んでから再見すると、わかりづらい映画もすらすらと理解できることうけあいです。
2014年 1月 「人に強くなる極意/佐藤優」 (青春出版社・新書)
これは、二十代くらいの若い人、とくにサラリーマン向けの書物だと思います。佐藤氏については、ラジオでお話を拝聴したことが何度かあって、理路整然とわかりやすいお話をされる人だという印象がありました。今回、初めて著作を読んでみたのですが、グローバルな経験が豊富な割に、断定的な考え方をされるんだなあと思いました。たとえば、「ロシア人は〜である」「年寄りは〜である」のように、ひとくくりにして語る手法で、僕はいつもこうした物言いには反感を覚えてしまいます。

ただ、まえがきにある通り、具体的で実行可能なものを目指した点は素晴らしいと思います。たとえば怒りの感情がわき上がった時にどうすればいいか、具体的な対処法が提案されています。

ちなみに、僕はこれを読んで、昔のドラマの「ふぞろいの林檎たち」を思い出しました。このドラマには、本書で書かれていることが全部出てきます。本当に全部出てきます。
2014年 1月 「ひらいて/綿矢りさ」 (新潮社・単行本)
先に読んだ「人に強くなる極意/佐藤優」の中で、「怒らない」というテーマの話の参考図書として紹介されており、手に取りました。佐藤さんはかなりお勧めとのことでしたが、僕にはちょっと首を傾げる内容でした。

綿矢さんの作品は、「インストール」「蹴りたい背中」の2作を読んだことがあります。みずみずしい文体、女性特有の嫌らしさがうまく表現できている点など、おもしろく読むことができました。ところが本作、しばらく読んでみてびっくりしました。「綿矢さん、こんなに小説下手だったっけ?」と。地の文もセリフもとにかく説明調で、わかりやすい文章の割には読み進めるのが億劫になってしまう。文章表現にも、特筆すべきものは見当たりません。なんだか小説というものを考えすぎて、開き直って素直に書いてみたけど単なる稚拙な作品になってしまった、という感じです。正直、著者のこの年齢になってまだこうした青春小説にこだわるのも、先が見えないなあと思ってしまいます。