■ 2004年に読んだ本
  
ハイチの赴任先で殺された男がゾンビとなってよみがえり、自分を殺した人々に復讐を遂げるという話。わちゃー、こりゃ、お子様向けのヒーローものなみの幼稚さです。設定は面白そうなのに、いざ読んでみると子供が思いついたようなストーリー、会話。とてもまともに読めません。いい所を探して書きたいのだけど、これはちょっと無理です、すみません。
2004年12月 「ジャンビー/H・S・ホワイトヘッド」 (国書刊行会・単行本)
西インド諸島を主な舞台とし、現地での奇怪な風習に基づく怪奇譚を集めた短編集。表題作によれば、ジャンビーというのは「ゾンビ」とはすこし違い、目に見えない精霊のようなものらしいです。このほか、黒人男が小屋の中で何者かにねらわれるスリリングな「カシアス」、館に忽然とあらわれた牛の謎を追う「黒い獣」など、佳作が続きます。いくぶん古めかしいものの格調あふれる文体、描写が実に怪奇ムードを盛り上げてくれます。エンターテインメントだからと言ってストーリーさえ面白ければいい、ということでは決してないのです。
 後半のダメダメSF作品の「わな」や、超絶的に退屈な「月時計」などでだれますが、ほのぼのファンタジーの「お茶の葉」で見事にしめくくってくれます。図書館で見つけた古い作品ですが、かなりの掘り出し物でした。作者は、あのラヴクラフトと同世代で互いに影響をあたえあって創作に励んでいたという、かなりの大物のようです。
原因不明のまま人は死に、吸血鬼となって甦る。地球上にたった一人残されたロバートの、孤独な戦いが始まった−。

 偉大なる大傑作。思わず、ひさしぶりの星5つをつけてしまいました。
 まずは、一切の説明はなく、なぜかただ一人ロバートが生き残ったという状況から物語は始まります。彼の日常生活が実に細かく描写され、物語世界を緻密に構築していきます。さらに、ロバートの二転三転する心理描写が極上で、心理小説としても興味深く読めます。現代ホラー作家の大御所、スティーブン・キングが本作を近代ホラーの手本と捕らえているらしいのですが、徹底して書き込まれた文章に、それもうなずけます。初版発売は1977年なのに、古さをまったく感じさせません。

 さて、物語の前半はじつに淡々と過ぎていきます。ロバートの生活、それからなぜ吸血鬼が生まれたのか、どうやったら撲滅できるのかというロバートの研究が紹介されます。まあ、研究は遅々として進まないわけですが。
 後半になってようやく大きな展開が訪れ、ここから一気にラストへとなだれこんでいきます。どうやってこの話にオチをつけるのだろうと思っていたら、非常に僕好みのラストになっていて感動しました。つまり、<注意!!以下、ネタバレ気味です。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>真理は一つではない、ノーマルかアブノーマルかの差は単に多数派か少数派かの違いにすぎない、見方を変えれば正義と悪は逆転する、というメッセージです。ちなみに、読んでみれば明白ですが、藤子・F・不二雄氏の短編「流血鬼」は、本作へのオマージュです。
2004年11月 「ゾンビ映画大事典/伊藤美和・編」 (洋泉社・単行本)
古今東西のあらゆるゾンビ映画について語り尽くされた本。とある理由からゾンビについて調べようと思い立ち、なにより先に手に取ったのがこの本でした。圧倒的なボリュームを誇り、日本で公開されたものはもちろん、海外でしか手に入らないようなビデオまでありとあらゆるゾンビ映画が紹介されています。

 日本におけるゾンビ映画のはしりといえば、1978年に公開された「ゾンビ」(ジョージ・A・ロメロ監督)になるでしょう。僕も小学生の頃に封切りを見に行きました。ただ、歴史上で最も偉大なる足跡といえば、同監督が1968年に発表した「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」に遡ります。この映画の登場により、新たな、そして現在にまで通じるゾンビ像が誕生しました。
 ゾンビというのはもともと南米にあったヴードゥー教による死者再生から来ており、「ゾンビ」や「ナイト・オブ〜」以前にもそうしたゾンビ映画はいくつか作られていました。しかし、「ナイト・オブ〜」によって、<理由は明確ではないが何故だか死者がよみがえり><人を襲って肉を食い><襲われた人もやがてゾンビになる>、という設定が根付くことになりました。

 この本ではそうした歴史を踏まえ、1930年代の黎明期から2002年の近作まで、どこから掘り起こしてきたのかと思われるほと膨大な作品が紹介されています。資料価値の高さとしては他に例を見ません。これ一冊でゾンビものが全て語り尽くせると言い切ることができます。
ゾンビ映画の先駆けとなったジョージ・A・ロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」に捧げられたアンソロジー。明確な理由もなく死者が起きあがり、人を襲う世界。スティーブン・キングやマキャモンといった大御所から無名の新人までが同設定のもとで作品を披露し合います。

 ゾンビ小説ばかりを集めた短編集としては、これがほぼ唯一にして最高のものでしょう。作品ごとのレベル差は少なく、どれも楽しむことができます。以下、とくに気に入った作品を挙げておきます。ちなみに、評判のいい「キャデラック砂漠の奥地にて、死者たちと戯るの記/ジョー・R・ランズデール」は、僕には幼稚なヒーロー物としか思えませんでした。

始末屋/フィリップ・ナットマン…政府の傭兵コルヴィーノの活躍。<以下ネタバレ>実は彼がゾンビであるという設定がなにより面白い。
地獄のレストランにて、悲しき最後の逢瀬/エドワード・ブライアント…ウェイトレスとして働くマーサと保安官代理ボビーとの恋物語。驚愕のラストに戦慄。
選択/グレン・ヴェイジー…ゾンビのはびこる世界で、何が正で何が悪なのか、苦悩する青年。ストーリー性に富み、読み応えがあって考えさせられる作品。
レス・ザン・ゾンビ/ダグラス・E・ウィンター…「レス・ザン・ゼロ」のパロディ。パンク調の文体が心地よい。夏来健次氏の訳は上下巻通じて首を傾げる部分も多かったが、このような作品でこそ真価を発揮できる気がする。
パヴロフの犬のように/スティーヴン・R・ボイエット…外部から隔離された世界での群像劇。B級活劇中編としてしっかり楽しめる。
聖ジェリー教団VSウォームボーイ/デイヴィッド・J・ショウ…ゾンビを操り人肉を喰らうことが神の意志なのだと信じて疑わない教祖。これも設定の妙味で読ませる。
わたしを食べて/ロバート・R・マキャモン…ホラー界の大御所の掌編。ゾンビ世界における、美しいラブストーリー。
同上
映画「ゾンビ」のノベライズ。映画がかなり忠実に文章化されているが、訳があまり良くない。また、誤字脱字がかなり残っていて読む気をそがれる。映画以上に得られるものをと考えて読み始めたが、けっきょくそれは得られなかった。あとがきでのキャスティングの話、実はピーターとフランが自殺するという別バージョンのラストが用意されていた、ショッピングモールの舞台がペンシルバニア州のモンローヴィル・モールである、などという情報のほうが興味深い。
2004年10月 「煙か土か食い物/舞城王太郎」 (講談社・新書)
これはもう、大傑作! 諸手をあげておすすめです。ノワール小説、パンク小説と書評で紹介されるたび、僕にはあまり合わない作品だろうなと思っていました。とくに海外ものについては、ジム・トンプソンの「内なる殺人者」はぜんぜん楽しめなかったし、ジェイムズ・エルロイなど、ぱらぱらとめくってみただけで、これは駄目だ、と思いました。

 しかし、著者の舞城氏はエンターテインメント小説の本作でデビューしたのち、純文学系で権威のある三島由紀夫賞まで獲ってしまいます。巷の評判はすさまじく、以前に読んだ「文学賞メッタ斬り!」でもやはり大絶賛されていたので、これは読まねば、と腰を上げました。

 一人称のマシンガントーク。読点をほとんど入れず、福井なまりを交えた独特の語り口。美しい日本語というものとはほど遠い、汚い若者言葉の羅列。こんなにスピード感があってイケイケで、読んでいて楽しくなる文章にはお目にかかったことはありません。
 それでも、むちゃくちゃに書かれているわけではない。僕はこれ、文学的価値はすごく高いと思います。どこかの書評で、ただ口汚く書いているだけじゃないかというのがありましたが、とんでもない。これは、真似しようと思ってもけっしてできない、僕は読みながらあぜんとすることが何度もあって、どうやったらこんな文章が書けるんだろうとうらやましく思えてしかたありませんでした。

 物語のしかけも最高で、適度に謎を散りばめ、適度に謎解きをしながら話は進んでいきます。「心臓を貫かれて」を彷彿とさせる、暴力でいろどられた家系。舞台設定もたまりません。ただ、ミステリ小説そのものをおちょくっているようなところもあって、最終的な謎解きについては異議を唱える人もいるでしょう。でも僕は気になりませんでした。逆に気になったのは、あまりにも人情話的な要素が全面に出てくるところでしょうか。でもそれがまたこの著者の特徴と言えるのかもしれません。

 ああ、こうやって紹介しても、とてもこの作品を伝えることはできません。
 とにかく、読んでみてください。読者を著しく選ぶ作品だろうと思いますけど。
ガイア仮説というのは、遠藤周作さんのエッセイで知った言葉でした。「ガイア」とは地球のこと。地球がひとつの生命体として機能しているのではないか、という説です。大気の成分や海水の塩分濃度などがほぼ一定に保たれているのは何故か。これまでの45億年の歴史の中で様々な大変動があったのに、地球は生き延びてきた。そこには、なにか緻密なコントロールシステムが隠されているのではないか、といった疑問が、様々な証拠とともに提示されていきます。

 僕は、カーソンの「沈黙の春」に代表されるような環境論が、じつのところ好きではありません。人間が環境を汚している、我々がこの地球を救わなければいけない、という類のものです。
 まず、人間が作ったものを「人工物」として「自然」と分けている。これがおかしい。人間も他の動物と同様、地上で自然発生したものであり、どんな建造物だって基本的には鳥の巣やアリ塚と変わりありません。動物の巣には驚くほど巧妙な構造をしているものがあります。
 また、人間が化合して作ったものを「化学物質」と呼んで嫌う傾向がありますが、どんな物質だって化学式を持つ立派な「化学物質」です。化学物質だから危険だ、として一律に排除しようとするのは、一昔前にベストセラーになった「買ってはいけない」の劣悪な論法です。
 だいたい、「きれいなもの」と「きたないもの」とを定義・区別することができるのでしょうか。あくまでもそれは“現状の人間や動植物にとって”、きれいなのかきたないのかという区別に過ぎず、「害虫」「害獣」などという定義と同じです。

 本書の中に好例が出てきます。今から15億年ほど前、大気の大汚染があったという話です。
 大気中に、ひとつの物質が混入し、地上にいた多くの生き物は耐えられず、地中深くや他の動物の体内に逃げ込みました。この「物質」とは、酸素のことです。当時の生物は嫌気性生物と呼ばれ、酸素のある環境では生きていかれなかったのです。その後、酸素という猛毒で“汚された”地上は、その猛毒を利用して生きる好気性生物の登場に支配されていきます。
 つまり、現在さかんに言われているように「きたない」「汚れてしまった」環境においても、それに生き物は対応していくのだということです。僕はこの考え方に賛同します。人間という種は滅びるかもしれません。でもそのおかげで、人間よりも賢い生き物が誕生する可能性もあります。僕はそれでいいと思います。かつて地上を支配した恐竜が滅び、そのおかげで人間が今の地位を築くことができたとも言えるわけですから。

 本書の中で述べられている考え方の基本は、人間がなにをしようとも、ガイアの調整機能で地球は守られる、というものです。もちろん、だから好き勝手にやっていいというわけではなく、ある一定の節度は守られるべきでしょう。それでも著者は、核爆発でさえ大丈夫だろうと言います。
 ただ、本書の内容のほとんどは、いくつかの例から著者が類推したものであり、理論とまでは言えません。(ですから「仮説」としてあり、続く著書「ガイアの時代」でもうすこし理論的に紹介されているようです。)また、後半のまとめのあたりでは無難な環境論に引き戻されてしまっていて、すこし不満が残ります。さらに、巻末に翻訳者による反論めいたものも収められていて、これがまた酷い内容でした。

 過去、地球がものすごい放射線や紫外線にさらされた時代がありました。氷河期も経験しました。それでも地球は滅びもせず、今に至っています。この地球を、人間がどうにかしよう、どうにかできると考えることのほうが僕は傲慢で浅はかなことだと思います。
2004年10月 「青い小さな葡萄/遠藤周作」 (講談社・文庫)
昭和31年に発表された、遠藤周作氏の初長編作品。デビュー作には作家の全てが詰まっている、とはよく言われますが、デビュー作ではないにせよ、本作品にもやはり遠藤氏が生涯問い続けたテーマのほとんどが含まれています。黄色人と白人という人種問題、戦争の加害者と被害者、善と悪、神の救済と沈黙、リヨンという町での実体験。遠藤氏は、まず語るべきものが明確にあって小説を書くタイプの作家であるといえます。自分の中のどうしても拭いきれない心の叫びを、小説を書くことで昇華する。ただし、小説技法としてみれば本作には粗が目立つ気がします。書きたいテーマを並べ、単に説明でつないでいる。これは面白いことに、氏の最後の純文学長編となった「深い河」でもみられた傾向です。内なる情念の強さが小説という枠に合わなかったのかもしれません。
国内外のホラー小説・ホラー映画を、歴史とともに紹介した一冊。この一冊の中にこれまでのホラーの系譜がすべて含まれており、非常に有用だと言えます。前半が国内作品、後半が海外作品、と分かれていて、それぞれに作りが違っています。国内編のほうは、7人の方が別々にエッセイを書き、それを並べたという感じで、ちょっと統制がとれていないところがあります。内容に重複がみられるし、それぞれの内容のレベルもまちまちです。この中では、北原尚彦氏の書かれたSFホラー編、および怪獣小説概観がどちらも情報量が多くて素晴らしいと思います。
 いっぽう海外編は、基本的に一人の手によって書かれているため、整理が行き届いて一貫した内容になっています。ただ、1960年代の小説、同・映画、1970年代の小説、同・映画……という具合に交互に紹介されているのが読みづらくて苦労しました。

 この手のガイド本は、どうしても歴史に沿って遙か昔の作品から紹介する形式になりがちですが、僕はもっと別のやり方があっていいと思います。なにしろ、こうした本を手にするのは主にその分野について初心者なわけであり(詳しい人ならそんなガイドブックがなくても勝手に読んでいる)、なによりわかりやすいところから始めるのが得策だと思うのです。それを20世紀初めの作品とかがまず出てきたらそこでイヤになってしまうことでしょう。ベストセラーになった作品など、多くの人に身近なものから初めて、そこから話を広げていくような作りが有効な気がするのですが、どうでしょうか。

 最後に、巻末に「パラサイト・イブ」の作者、瀬名秀明さんのインタビューが載っていて、ずっと昔のドラえもんの主題歌を「すたこらさっさのドラえもん」と歌っていますが、「ほいきたさっさのドラえもん」が正解です(笑)。
2004年10月 「ホラー映画の魅力/小中千昭」 (岩波書店・新書)
副題にある「ファンダメンタル・ホラー」とはつまり、観客に「怖い」という感情を喚起させる本来の意味でのホラー映画のことらしいです。たしかにホラー映画と一口に言っても、なかなか区切りが難しいものです。幽霊や化け物が出てくるからといって必ずしも怖いとはかぎらない。「アダムス・ファミリー」みたいなコメディがあれば、「ゴースト」みたいなファンタジーもあります。また、「死霊のはらわた」などのスプラッター作品を「すでに笑いの域まで達している」とする世評は的確だと言えますし、「悪魔のいけにえ」などは超自然現象は出てこず、単なる殺人鬼の話ですからサスペンスとどう違うのかということにもなります。

 そんな中でまず、本当の「怖さ」とはいかなるものかということが、実例となる作品を紹介しながら解説されていきます。たとえば、画面にいきなり死体が現れたり、手がぬっと伸びてきたりというのは「おどろき」ではあっても「怖さ」とは違う。スプラッター映画や怪物映画さえファンダメンタル・ホラーではない、と著者は言います。

 その後、自身がホラー作品に携わるようになる経緯が紹介され、その中で得たホラー理論がまとめてあります。本書のキモはここです。これ以外の部分は、面白くはありますがいかんせん探求が浅く、「小中理論」と名付けられたこの5章・6章だけ読めばこの本はいいとさえ思います。脚本家としての舞台裏を堂々と公開してしまう勇気は称えるべきものですし、実践で得てきた充実の内容もすばらしい。

 ただ、(内容として必然ではないのに)映画のネタバレをやっている箇所があって、これはいただけません。27ページから始まる、映画「家」(ダン・カーティス監督)について語られるところで、ラストのオチが書いてあります。また、116ページにも、映画「ミッドナイト・クロス」(ブライアン・デ・パルマ監督)のラストについての言及があります。これらの映画を楽しみたいという方は、この部分は読まないことをお勧めします。
2004年 9月 「悪魔の飽食/森村誠一」 (光文社・新書)
こんな昔のベストセラー、しかも近年は話題にさえ上らない作品を読んでみました。たまに耳にする「マルタ」や「731部隊」という言葉を聞いてもまったく理解できなかったので、これはもしかして基礎的な素養なのでは、と危惧する気持ちもあったのです。

 旧日本軍が満州でおこなっていた細菌兵器の開発、そのための人体実験の数々は、本書によって広く世に知られることになります。書かれている内容は救いようのないほど陰惨で、人のしわざとは信じられない。こんなエグいベストセラーは他にないでしょう。
 本書についてはその真偽がかなり論議を呼んだようです。もっとも疑わしい点は、本書が元隊員の証言をそのまま事実として紹介しているところにあります。つまり、インタビューを受けた人が嘘をついていたり、記憶違いで事実に反することを話しているというのはじゅうぶん考えられることであって、そのために別ルートで得た証拠等を示すべきなのに、それがなされていない。事実、本書の後に出た「続・悪魔の飽食」で使われた写真の一部がまったく関係ないものであったことが判明し、著者の森村氏および共同制作者は手ひどい糾弾を受けることになります。

 それでも、書かれている内容すべてが間違っているわけではありません。現に裁判の結果、731部隊の存在と細菌兵器の開発、人体実験を行ったことなどは公然の事実とされました。ただ、書かれている具体的なエピソードのどれが本当でどれが嘘なのか、結局完全な判定はつかないまま今に至ります。巷では本作はいわゆる「トンデモ本」だという認識ができあがってしまっている気がします。個人的には、7割方は事実だろうと想像していますが。
2004年 9月 「私の愛した小説/遠藤周作」 (新潮社・文庫)
遠藤周作さんが生涯愛し続け、「私はこの本しか読まなかった」とまで言わしめたのが、モーリヤックの「テレーズ・デスケルウ」でした。本書はその「テレーズ・デスケルウ」が遠藤氏をどう揺さぶり続けてきたのかを明かし、さらに宗教やユングの神話的心理学を引き合いに出してこの小説の構造にメスを入れていきます。難しい内容が遠藤さんらしいわかりやすい言葉で説明されていて、理解の助けとなります。ただ、「テレーズ・デスケルウ」自体わかりにくい小説であり、そのわかりにくい小説についての探求ですから、遠藤さんやモーリヤックに興味のない方にとってはあまりおもしろい本ではないかもしれません。なお、小説「テレーズ・デスケルウ」自体も遠藤さんの訳で併録されています。
こういったアンソロジーに手を出すのは珍しいのですが、なかなか楽しめました。とくに、「箱/冲方丁」「プロセルピナ/飛鳥部勝則」「參/浅暮三文」「枷/平山夢明」「DECO-CHIN/中島らも」あたりが気に入りました。平山夢明さんは以前「メルキオールの惨劇」というぶっとんだ小説を読んだことがありますが、今作品もなかなかにすごい。かなりのスプラッターなので苦手な人には厳しいかもしれませんが。それから中島らもさんの作品は、これが遺作です。脱稿の三日後に亡くなったそうです。これも異様なエネルギーにあふれた作品です。
2004年 7月 「河童が覗いたインド/妹尾河童」 (新潮社・文庫)
2003年のインド旅行以来、ずっと読もうと思っていた本です。内容の半分ほどが説明入りのスケッチになっていて、すべて著者本人が現地で描かれたものだというのがすごい。インド(とくにムガール帝国)の歴史についても概略が触れられてあり、インド入門書としても最適。ただ、紹介されているホテルはすべて高級ホテルばかりなので、サバイバル的な旅をされる方にはその点において不満は感じるかもしれません。インド旅行関連書として、椎名誠さんの「インドでわしも考えた」に並ぶ良書。
2004年 7月 「魔女狩りと悪魔学/上山安敏・牟田和男」 (人文書院・単行本)
訳あって、魔女狩りについての本を図書館で借り、読みあさりました。本書はそれらの中で最初に読んだものですが、従来の魔女狩り論をすこし批判するような新解釈が書かれています。とはいえ、魔女狩りについての概略の歴史がていねいに紹介されており、独自解釈についてもその理由をきちんと踏まえているので、非常に好感が持てます。中世の時代、魔女や魔法使いは医者とともに社会に役立つ人であったこと、凶作や災害の原因として魔女が生贄にされたこと、キリスト教の異端者を撲滅するため、説教師がなかばエンタテインメント的に魔女について伝えたこと、魔女を否定することは神を否定することにつながるため、安易に魔女は存在しないという意見が出せなかったことなど、魔女狩りの背景にひそんでいる様々な要因を知りました。
こちらは女性である著者が魔女狩りを男女論、とくに制度的・立場的にそれを扱うジェンダー論として展開しています。男性は家の外で力仕事、女性はそれ以外の仕事を担うという立場から、女性には病治し・呪術使いなどの職業が多かった。そして災害・病気などの邪悪なものについて、それら立場の弱い女性に原因を求めた。また、女は性欲過剰だから悪魔崇拝にひきこまれてしまう、という考えもあったようです。ただ、すこし論旨の展開が強引にすぎるところが目につきました。なんでもかんでもジェンダーに結びつけている気がするのは、僕が男性だからでしょうか。
2004年 7月 「魔女狩り/ジャン・ミシェル・サルマン」 (東京創元社・全集)
ごく一般的な魔女狩りの歴史について、豊富な図案を中心に紹介する本。読みやすくて入門書としてはよくできていると思います。ただ、上の「魔女狩りと悪魔学」を読んだあとのため、すこし物足りなく感じました。
魔女狩りというとヨーロッパという印象が強いですが、じつは大西洋をわたってアメリカまで広がっていたのでした。ニューイングランドというアメリカ西端にある地方のセイラムという町で、規模は小さいけれども魔女狩り騒ぎは起きました。ただ、こちらの現象には特徴があります。それは、10代の少女達が主人公だったということです。少女達は集団になり、「あの人は魔女だ。いまあの人の肩に悪魔が座っている」などという証言をくりかえし、それを法廷が鵜呑みにして、たくさんの人が処刑されていきました。非常にばからしくて腹立たしい事件だったと思います。絞首刑が実施された何年後かになって、少女たちは「あれは嘘の証言だった」と告白したのです!
 アメリカにおいては、魔女狩りというとこの事件を指すことが多いようです。小説化・劇化も多くなされていて、アーサー・ミラーの「るつぼ」という戯曲や、ウィノナ・ライダーが主演した「クルーシブル」などの映画が有名です。
キングのホラー作品を読むのはこれがはじめてでした。流行作家というイメージで、シドニィ・シェルダンと同系列のように思っていましたが、とんでもありませんでした。
 なんと美しく、緻密な描写なのだろうと、ずっと感心しながら読んでいました。ほんの些細なことでさえ完璧に世界を構築しないと気が済まないとでもいうように、各場面が詳細につづられています。エンターテインメント小説はとかく説明ばかりで筋を追いがちですが、本作品はまったく違います。描写を積み重ねていくことで物語が生まれる。しかも本作品については、物語もすばらしい。クリストファー・ウォーケン主演の映画も大好きですが、小説版もかなりのおすすめです。
同上
2004年 7月 「姉飼/遠藤徹」 (角川書店・文庫)
僕の好きな貴志祐介さんを輩出した日本ホラー小説大賞受賞作を含む短編集です。受賞した表題作は傑作との誉れも高く期待して読んでみたのですが、今ひとつピンと来ませんでした。串刺しにされた<姉>という存在は不気味で描写もすごいのですが、ただそれだけの作品、としか言いようがないような。しかも、似たような先行作品と比べて描写が卓越しているとも言いがたい。ただ、併録されている「妹の島」は良かった。これは長編にして読みたいほど舞台設定・キャラクターともに優れた作品です。
2004年 5月 「硝子のハンマー/貴志祐介」 (角川書店・単行本)
完全警護のビルの社長室で殺人が起きた。カメラと警備員による二重監視のフロアには外からは誰ももぐりこめず、隣の部屋にいた専務が容疑者とされる。女弁護士と防犯コンサルタントのコンビが、密室トリックに挑む!

大好きな貴志祐介さんの、ほんとに、ほんと〜〜〜に待ちわびた新作です。前作「青の炎」からなんと4年半ですよ。読む前から期待が高まります。
 ホラー小説でデビューし、前作でミステリーに傾倒して今回は本格ミステリ、しかも王道の密室ものです。のっけから殺人事件が起こって探偵役が登場する、ガッチガチの本格です。話の焦点は、誰が、どうやって殺害を行ったのかに絞られ、探偵とコンビを組む女弁護士との推理合戦が繰り広げられます。

 僕が本格ミステリをそれほど好まないという理由もあるのですが、本作品については、他の貴志作品に比べると印象の弱さは否めませんでした。たしかに、絶対不可能な状況でいかに殺人が行われたのかという謎をめぐるやりとりは魅力的で読ませます。ただ、それは単なるパズルであり、小説を読む喜びは薄く、味気なく思えてしまいます。
 本作には、犯罪解明に必要な専門知識がこれでもかとばかりにちりばめられています。防犯・介護・電気機器に関する記述など、綿密な取材と膨大な資料により書かれたことが伝わってきます。貴志氏の作品の形容として「描写の緻密さ」が挙げられることが多いのですが、描写が緻密というよりは、情報の詰め込み方がすごい、と言ったほうが妥当でしょう。しかし、確かにいろんな情報が詰め込まれているものの、それほど練られずに単に並べただけという感じがします。いろんなことを知って、はあそうですか、とは思うのだけれど、それだけ。説明なく使われている専門用語もあったりして、物や状況がよくわからない箇所もいくつかありました。説明のための記述がどうもうまく機能していないところがあります。

 本作は、前半が探偵役の視点から見た事件の究明、後半が犯人の視点から見た真相、という構成になっています。これには賛否両論あるようですが、僕はどちらかというと否定派ですね。トリックと真犯人の解明が後半部で徐々になされていくためインパクトに欠けてしまっています。さらに、殺人の動機を説明するために犯人の半生がつづられるのですが、どうも説明に終始してしまってリアリティがありません。また、前半部において視点人物がころころと切り替わるのにも違和感を感じました。

 トリックについては、さすがに驚かされました。<注意!!以下、完全にネタバレです。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>ただ、ここも専門用語や状況の説明が不十分なため、犯人が窓ガラスを具体的にどういう感じに工作したのか、よくわからないままでした。
 そして、タイトル。本作は最初、「見えない扉」に改題されたはずですが、結局はこれに落ち着いたのですね。苦渋の選択だったことでしょう。このタイトルはネタバレぎりぎりですからね。ところで、窓ガラスに付いた血痕が捜査で見つからないというのは、ちょっと不自然に思えてしまいました。


 最後にもうひとつ。読点(「、」のこと)はもうすこし減らしてもいいんじゃないかと思います。文章のリズムが途切れてしまっています。
2004年 5月 「陰獣/江戸川乱歩」 (春陽堂・文庫)
作家の”わたし”は、博物館で知り合った美貌の夫人小山田静子から相談をもちかけられる。以前の恋人だった男が復讐をくわだてている、助けてほしい、と。男とは、新進作家の大江春泥だった―。乱歩中編の最高傑作とされる表題作のほか、短編三作を含む。

表題作はずっと以前に読んだことがあり、ずいぶん面白かった覚えがあるのですが、内容はほとんど忘れていました。今回、完成度の高い短編作品を読みたいと再読にいたりました。
 ちょっと構えて読み過ぎたせいか、最後のどんでん返しにはそれほど驚嘆しませんでした。<注意!!以下、ネタバレ気味です。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>この”犯人”が実は犯人でなかった証拠が見つかったとか、なんらかの思い違いにあとから気が付いたとか、そういうことがあればまだ可能性を感じて、最後にぞぞっ、となったかもしれません。それにしても乱歩はこういう具合に、いったん解決された事件が、じつはこういう見方もできたのではないか、しかし今となってはもうわからない、というラストで終わる作品が多いですね。「一寸法師」とか、本作品集の中の「盗難」とか。
 でも、この古めかしい、それでいて非常に読みやすい文体は、じつに心地よく体にしみますね。この文章に触れるだけでも、乱歩作品を読む価値はあります。怪奇趣味全開の「踊る一寸法師」が一番心に残りました。やっぱり乱歩はこうでなくては。
日本近代から現代にかけ、突如としてわきおこった「こっくりさん」ブーム、そして「千里眼」論争。科学の進歩のはざまで人心に分け入り、世間を揺り動かした心霊学の末路はいかに。

古本屋で、タイトルに惹かれて購入した作品です。僕が小学生の頃も、いっときはやりましたね、「こっくりさん」は。「エンゼルさん」ならたたりがない、なんていういい加減な噂もありました。僕も一回ぐらいはやったような気もします。
 中学生から高校生にかけては、つのだじろう氏の「恐怖新聞」や「うしろの百太郎」なんかを好んで読みました。これらの作品の中で作者は、心霊現象というのは確かに存在するんだ、と強く説きます。そんな話のいくつかで、千里眼(つまり、透視)を行う御船千鶴子さんと長尾郁子さん、心霊に関する研究を行っていた学者の福来博士の名前を知りました。彼女らの透視実験は当時、世間の大いなる注目を集め、しかし実験はインチキだと言われたりして、二人とも非業の死を遂げます。鈴木光司さんのベストセラー「リング」に出てきた貞子の母親のモデルとなったのが、御船千鶴子さんだと言われており、「リング」と対比させて読むのも楽しいと思います。
 とにかく、膨大な資料を漁りながら近代の心霊学の歴史をまとめあげた力作だと思います。資料的価値も非常に高く、なにかの折に読み返すことになりそうです。
2004年 5月 「チェッカーズ/高杢禎彦」 (新潮社・単行本)
絶大な人気とともに80年代を駆け抜けたスーパーグループ、チェッカーズ。ボーカルの一人を務め、2002年にガンを宣告された高杢氏が、グループ結成から解散までのいきさつを明かす。

チェッカーズ、好きだったんですよ。今でもカラオケでよく唄います。「涙のリクエスト」や「星屑のステージ」など初期のヒット曲は芹澤廣明氏による作曲だったのですが、いつしかメンバーオリジナル曲ばかりが発売されるようになっていきます。僕はそれがずっと不思議だったのですが、この本を読んでそのあたりの経緯がよくわかりました。まあよくある、オリジナル志向というやつですね。

 本書は序盤、ガンとの闘病生活がつづられ、それが一段落ついたところであらためて幼なじみだった藤井郁弥とのエピソードからチェッカーズ結成、そして解散へと話はつながっていきます。どんなバンドやグループにおいても、所詮人間関係で行方が決まってしまうことがほとんどだと思います。まあいろいろあったようですが、なんかチンピラ的な考えと行動ばかりで滅入ってしまいました。
2004年 4月 「量子力学のからくり/山田克哉」 (講談社・新書)
見ようとすると消えてしまう電子の「幽霊波」とはどんなものか。光は粒子なのか波なのか?そもそも波ってなんだろう?― 量子力学がいかに奇々怪々なものかを説明する一冊。

2月に「理性のゆらぎ/青山圭秀」を読んで以来、そこで軽い話題として差しはさまれていた量子力学に興味を持ち、図書館で解説本を借りてきました。それが本書と次で紹介する「Aha!量子力学がわかった!」(以下、「〜わかった」と略)の2冊です。
 量子力学は大学で習いましたが、ほとんど全く理解できませんでした。それでも、光は粒子と波という両方の性質を持つ、原子の中の電子の位置は確率的にしかわからない、などという不可思議な話は時々耳にします。そうした謎を一度ちゃんと勉強してみたいとずっと思っていました。

 結論から言うと、なんとなく少しだけわかったかなあという程度ですね。本書と「〜わかった」は、最初交互にすこしずつ読み進めていたのですが、数式が満載の「〜わかった」に比べてこちらは文章で説明してある部分が多く、その書き方もわかりやすかったので、とりあえずこちらを先に読むことにしました。
 それでも途中で数式はでてきます。さらに、後半になるとどんどん話の範囲が広がって収拾がつかなくなっています。
 この手の解説本で重要なことは、とにかく不要な言葉を省くことだと思います。言葉を連ねるほどに、どこが大事な部分なのかわからなくなる。さらに、わかりづらい言い回しを使わないこと。その点でこの著者は、わかりやすい内容をこころがけているのは伝わってくるものの、文章が今ひとつうまくないため理解を阻んでいる気がします。
 たとえば、「光は、ある時は波として振る舞い、ある時は粒子として振る舞う」というような記述があります。こう聞くとどうしても我々は、光の”つぶ”が、ある時は波のようにゆらゆらと揺れて動き、またある時は空間に静止しているような印象を抱いてしまいますが、僕の理解するかぎりそういうことではまったくありません。要するに、実験をしてみると時には粒子と同じような実験結果を見せ、また別の実験においては波と同じような実験結果を見せるということ。つまり光は、通常かんがえるような粒子でも波でもない、まったく別のよくわからないモノだ、というのが一番正解に近い表現だと思います。

 基本的にはいい本だとは思うのですが、こういう細かい文章表現に気配りが足らないのがもったいない。また、数式の説明はほとんど省かれているので、深い理解をするには物足りないでしょう。ただそのわりに、「〜わかった」では触れられていない電子のスピンの問題などが含まれており、「〜わかった」と両方読めば、うまくお互いが補完するかたちになると思います。
2004年 4月 「Aha! 量子力学がわかった!/一石賢」 (日本実出版社・単行本)
量子力学の解説書といえば、数式ばかりの難解なものか、数式を使わないかわりに哲学的な記述になってやはりわかりづらい本かの、いずれかばかり。適度に数式を織り込み、自分で計算しながら量子力学を理解するための指南書!

「量子力学のからくり」(以下、「〜からくり」と略)にくらべ、こちらは数式満載です。適度に数式も盛り込んだほうが理解しやすいという著者の意図はよく伝わってきます。たしかに、あるていど数学や物理の知識がある人には実際に数式の展開を示したほうがわかりやすく興味もわくでしょう。著者の主張は妥当だと思います。とくに、波動関数を逆からたどって波動方程式をみちびくあたりは他の本では見られず、具体的でわかりやすい。シュレーディンガーの難解な波動方程式がいったい何を表すのか、これを解くとどうなるのかというのは僕も大学時代に思ったものです。

 ただしやはり、数学・物理に疎い人にとって、この本を読み通すのは困難なことでしょう。出てくるのは大学の数学ですから、僕も遠い記憶をたどりつつがんばりましたが、完全な理解にはほど遠かった。さらに、適度に数式を盛り込むとうたってあるわりに、数式の間違いが非常に多い! しかも、「……それで結果、こういう式になるのです」というような大事な箇所でまったく違う数式が書いてあったりするのです。これはまったく駄目です。命取りです。
 大学の数学に触れたことのない人には、「〜からくり」を勧めます。それでも、「〜からくり」のほうにも書いたとおり、これら2冊はお互いに補い合う内容になっていますので、両方を読んだほうが理解はしやすいでしょう。

 それにしても、「原子の中の電子の位置は確率的にしかわからない」ということがなぜ、「観測するまではあらゆる状態が重なり合っている」という論理に発展するのかが、あいかわらずわかりません。電子は、観測者がいようがいまいがなんらかの状態になっていて、それを人間が正確には把握できない、というだけのことに思えてならないのです。
夫に毒を盛り殺害を謀ったテレーズ。父親らの努力により釈放された彼女を、家族は冷たく迎える。自らの裡にたぎる不可解な衝動に身を任せ生きる女の人生とは。

ちょうど昨年の今頃、アフリカのタンザニアで読んだ本で、その時はあまりよく理解することができませんでした。これはその時の新潮文庫版(杉捷夫訳)ではなく、最近になって出された遠藤周作氏翻訳版です。遠藤氏が生涯愛読した作品であり、新潮文庫版との違いも確かめるため、今回はこちらを読んでみました。遠藤氏自身の小説と同様に読みやすい文体になっており、二回目ということも奏功したのか前回よりも作品にのめりこむことができました。星印の評価も上がっています。新潮文庫版はすこし文体が古めかしいですからね。

 上に書いたようなあらすじを読むと波瀾万丈の物語のように思われるかもしれませんが、実際は淡々とした文章の続く小説です。話はテレーズが免訴になって裁判所から帰るシーンからはじまります。物語の半分以上が彼女の回想で占められており、毒を盛るシーンも直接的に書かれていないため、文脈から読者が読みとらねばならない内容が多くあります。ここが読みづらく難解な部分でもありますが、同時に読むたびに新しい発見があり、いつまでも読み続けることができる点なのでしょう。

(参考:杉捷夫訳版「テレーズ・デスケイルゥ」の感想 2003年4月
「直木賞や芥川賞だからって面白い作品とはかぎらない」「この賞の受賞作には当たりが多い」「この賞のこの選考委員はダメだ」「など、文壇を敵に回すのもいとわず、数々の文学賞の実態を斬って斬って斬りまくる!

日本には文学賞と名のつく賞が大小合わせて500ほどはあるそうです。文学評論家および幾多の文学賞の予備選考委員としてご活躍のお二人が、それらの受賞作や賞の背景、選考委員などを、ホントにこんなこと言っちゃってだいじょうぶなのと心配になるくらいにばっさり斬り捨てています。直木賞は新人賞だという位置づけながら実態は中堅作家に対する慰労賞であるとか、江戸川乱歩賞受賞なら安心して読めるかというとそうでもないとか、ファンタジーノベル大賞は世界文学に通じるほどの名作を生んでいる、などなど、各賞の実態がつぎつぎと明らかにされるさまは痛快であり、非常に興味深くもあります。ただすこし、品のない口調にげんなりさせられる部分もあるのですが。

 作品や選考委員への苦言も遠慮がなく、芥川賞選考委員の宮本輝氏や渡辺淳一氏、五木寛之氏などにおいてはこてんぱんに叩かれています。要するに、偉いと思われている作家でさえちゃんと小説を読めない人は多いし、褒めちぎられている受賞作にもつまらないものはある、というごく真っ当なことがストレートに書かれているということですね。

 それにしてもお二人の読書量と知識量には驚嘆させられます。こんだけ本読んでたらさぞかし楽しいだろうなあと思ってしまいました。ただの文句と、それなりに本を読める人の述べる感想とではさすがに重みが違いますからね。ところどころ爆笑できる部分もあって僕は大いに楽しめましたし、今後読む作品を選ぶ参考にもなりました。
ウエストゲートパークで知り合ったリカが、連続首締め魔に殺された。マコトはストリートギャングをまとめるタカシたちと手を組み、真相解明に乗り出す―。第36回オール読物推理小説新人賞受賞の表題作ほか、3作の短編を収録。

読みはじめは文体にとまどい、正直言って好感は持てませんでした。普通なら忌避するべき体言止めが乱発され、読みにくいことこのうえありません。主人公マコトのキザな言い回しも鼻につきます。いきがった少年がわかったようなふりで話す物語、そう感じていました。
 それでも表題作を読み通すと、まずミステリーとしての切れの良さに驚きます。そして、池袋を徘徊する主人公たちのキャラクターや街の空気がじんわりと体にしみこんでいるのがわかります。やられたなと思いました。さすがに新人賞を獲っただけのことはあります。
 ただ、やはりこの文章は好きになれません。体言止めでリズムを作っているのは評価できる点ですが、一歩間違えると陳腐でかっこわるいものになります。収録作は連作短編なのですが、結局はおとぎ話のような物語ばかりで、なぜか達観した主人公の行動、それからご都合主義のストーリー。収録作のなかでは、「オアシスの恋人」では、それら悪い部分が出てしまっています。やはり表題作が一番おもしろいと思いますが、ここでもマサとシュンというキャラクターがほとんど描かれていないのが不満です。
2004年 3月 「薬指の標本/小川洋子」 (新潮社・単行本)
事故で薬指を失った彼女は、町中で見つけた標本室で働きはじめる。そこではきのこからオペラグラス、楽譜にいたるまで様々な物が標本にされ、保存されていた―。表題作のほか一編を収録。

小川洋子さん、初読。たしか新聞の書評で興味を持ったのだと思うのですが、10年ほど前のメモになぜかこの作品名が書いてあるのを見つけ、このたび図書館で借りてきて読んでみました。
 ネットで調べてもけっこう評判の高い作品ではあったのに、あまり乗り切れませんでした。どうも設定や展開がわざとらしく、作り物めいている気がしたのです。用意された素材が練られないまま提示されているうえ、透明感があると評される文章も、読みやすくはありますがじつは常套句が多用されていて、「イカニモ幻想文学」に終始しています。とくに二作目の「六角形の小部屋」については、せっかくの描写のあとを説明が追補するため、言い訳が書き連ねられている印象でした。
 作者の頭の中には、こういう不思議な物語はこうあるべきだという見本ががっちりできあがっているんじゃないかと思います。それに近づけるためにいろんな細工をほどこしている。言い方は悪いですが、「これぐらい書いとけば幻想的でしょ?」って言われてる気がしたのです。
2004年 3月 「都市伝説セピア/朱川湊人」 (文藝春秋・文庫)
自らの手で都市伝説を作りだし、その主人公になりたい。男は茶色のコートをはおり、サングラスをかけた”フクロウ男”になりすました―。オール読物推理小説新人賞受賞作「フクロウ男」を含む五編を収録。

派手だった芥川賞の影に隠れ、直木賞候補になった短編集です。「フクロウ男」は、もろ江戸川乱歩を意識した作品です。独白体で、おどろおどろしい世界が繰り広げられる。昭和中期あたりのノスタルジーを漂わせつつ、インターネットの普及した現代を描くという試みという図式なのでしょうが、ちょっと筆足らずでいまひとつのめり込めませんでした。最後のオチも物語にマッチしているとは思えず、蛇足に感じます。続けて読んだ「アイスマン」にも言えることですが、読者を引っ張っていくべき謎めいた描写を明白に書きすぎてしまうきらいがあって、話の底を浅くしている気がします。
 それでも、ちょうど僕の世代が子供だった頃の風景が共通して出てくるため、いくつか話を読んでいくにつれ、だんだんとその世界に引っ張られていきます。少年時代の友人との切ない別れを描く「昨日公園」が一番気に入りました。
アメリカの美しい田舎町スノーフィールドを訪れたジェニーとリサの姉妹。しかし、500人の住民たちはみな姿を消していた。やがて見つかる惨殺死体。ありえない光景に立ちすくむ二人に、”太古からの敵”が忍び寄る。

とある本の中で、書評家の中条省平氏が推薦されていました。たしかに描写の迫力はすごいものがありますが、ちょっと今どきこのストーリーではいただけませんね。前半、人気のない町で姉妹が得体の知れない敵に恐れおののくというあたりはスリリングで、かなり引き込まれます。ただ、その”敵”の正体があまりに陳腐というか子供の発想そのままで、最初に誰もが想像するイメージの領域を一歩も出ません。”敵”の退治法もまさに思っていた通りで、途中から現場に入るフライト博士もほとんど意味をなしていません。<注意!!以下、完全にネタバレです。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>何ものも入り込めない密室で殺人があった、まるで自由に形を変えられるような怪物が小さなすき間から入りこんだみたいだ、って思ってたら正にそれが真相なのですから笑ってしまいます。また、結局フライト博士が現場に来た意味なく死んでしまうのも何とも……。ちょっと、怪物の能力を広げすぎて収集がつかなくなった感じがします。
 ホラーというより、SFの範疇に入る作品だと思います。うーん、あまり僕には合わない作品かも。クーンツの作品の中でも、けっこう評価の高いものなんですが。
同上
2004年 2月 「理性のゆらぎ/青山圭秀」 (幻冬舎・文庫)
科学者でありながら科学で割り切れない領域に魅せられ、インドへと旅立つ著者。奇跡の人・サイババとの出会いが、彼の心に大きな衝撃を与える。

90年代はじめに出版された本書からサイババブームが起こり、2000年に「裸のサイババ」(著:パンタ笛吹)が出版されると今度はサイババ排斥が叫ばれました。当時の僕はそれらのすべてに興味がなく、騒動の顛末がどうだったのかは本書を読み終えたあとネットで知ることとなりました。サイババブームはオウムの地下鉄サリン事件で終わりを告げたのかなと思っていたのですが、思わぬ大事になっていたのですね。

 本書の論旨は明快です。著者は医学および理学で学位を持つ科学者であり、科学を追究してきたからこそ、その実情や限界がわかる。人の脳や心の動きについては、ほとんどがいまだ謎に包まれており、解かれるきざしは見えない。この世には現代科学で説明しきれない現象が確かに存在する。現に、物理学の世界においてはニュートン力学から量子力学、さらに相対性理論と、常識とされるものがつぎつぎと覆っていったではないか。科学は万能ではないのだ――。

 記述内容が時間的に行き来したり、体験と持論が入り交じる部分など、構成に難はありますが、概して読みやすい文章でひきこまれます。とくに、科学の現状をわかりやすく紹介することにおいて優れています。ただ、肝心の超常現象の論証は甘く、結局は、「こういうことがあった。これが嘘だとすると、多くのことで説明がつかない。だから正しいのだ」という論理ばかりです。著者も述べているように、もともと科学とは違い、主観的に納得するしかない事柄を書物で多くの人に伝えようというのですから、おのずと無理があります。ならばもう、「こういうことがあった。証明はできないが私は信じます」という立場を取るしかない。もちろん基本的に著者はこの立場を保持していますが、それでもしばしば読者になんとか伝えようとして無理な論理を展開させてしまっています。

 科学は客観で宗教は主観だと決めつけるのは誤りだ、科学もまた「信じる」ことの域を脱していない、とする著者の主張はうなずけます。たしかに、地球が丸いことや、物質が原子で構成されていることなどを私たちは自分で見たわけではありません。誰かが言ったことをいわば鵜呑みにしているだけであり、しばしばその科学はくつがえります。
 僕も、この世のすべてが現代科学で説明できるとは思っていません。一見して不可思議な現象でも、嘘だと言い切ることのできないものもあるでしょう。ただそれらの証明は難しく、結局は信じる信じないの話に帰結してしまいます。本書に対抗する形で出版された「裸のサイババ/パンタ笛吹」には、サイババの行う奇跡の種明かしや、サイババが行ってきた悪行が書き連ねてあるそうです。だいぶサイババをはじめとするインドの魅力に惹かれつつあったので、僕にはショックでした。それでも、「裸の〜」のほうに嘘が書かれているのかもしれず、真相はやはりいつまでも藪の中です。