2002年 7月の雑記
 
 
2002. 7/1(月) 嘆き
あああ。終わってしまった、ワールドカップ。いそいそと事前予想などを書いていた頃が懐かしい。あの頃にはポルトガルやアルゼンチンやスペイン、いっぱい夢があったのに。それにしても選手の皆さんは、本当にお疲れ様でした。

 個人的に今大会を振り返るなら、90年イタリア大会と並ぶ冴えない大会だったと言わざるを得ない。強豪チームが次々と敗れていき、わくわくする対戦カードが少なかったのは大きいだろう。審判のレベルについても取り沙汰され、後味の悪い試合もたくさんあった。

 とりあえず、ヨーロッパの過密日程をなんとかしてもらわなくては。各国リーグの日程を調整しあい、チャンピオンズリーグやUEFAカップの試合数を減らす。今のままでは、選手たちの疲労が著しい。FIFA会長が言ったワールドカップの質の低下というのはまぎれもない事実だ。1986年大会のような素晴らしいサッカーの復活を期待する。


 
2002. 7/3(水) 夜中に霊を見る
ひさしぶりにつのだじろうの漫画など見たのがいけなかった。なぜか突然に読みたくなり、コミックを入れてある本棚の奥の列から「うしろの百太郎」を引っぱり出した。
 僕が高校生の頃に買った本なので、もうページも黄色がかっているが、中身は色褪せていない。つのだ氏の作品は、これと「恐怖新聞」がずば抜けた傑作で、その後に発表された作品群は今ひとつぱっとしない。とにかくこの2作は、物語性に富んでいて面白いのだ。

 霊魂の存在を信じるか、と聞かれたら、Yesと答える。科学で解明されないことなどこの世には無数にあるのだし、その科学においてでさえ次々に新しい事実が発見される世の中だ。アインシュタインの登場以前に、時間は遅くなったり速くなったりするということを、誰が予想できただろうか。
 人が死ねば何もかもが無になってしまう、というのも感覚的にピンと来ない。エネルギーで科学を語ることこそ懐古主義になってしまうが、一瞬で何もかもなくなってしまう、ということのほうが僕には理解しづらい。
 学生の頃には、その手の本をよく読んでいた。同じ興味を持つ友人たちが周りにいた影響もあって、つのだ氏の漫画に出てくる守護霊との交信などを、懸命に試したりした。

 ネットでも、霊を見たという類の話はよく聞く。ちょっと前にも、僕がよくお邪魔するサイトの日記に心霊体験が書いてあった。僕には、霊を見たとか音を聞いたとかいう体験は全くない。怖いからそれでもいいが、ちょっと見てみたい気もする。そんな気持ちが引き金になったのかもしれない。

 二三日前。深夜2時頃のことである。珍しく早めに床に就き、12時過ぎには浅い眠りに陥った。半覚醒のような状態だったろう。ふいに何かが覆い被さるような感触に気付いた。目を開けなくてはいけない、と思った。が、体は言うことを聞かず、まぶたは重くて開かない。
 金縛りには遭ったことがある。ただ僕の場合は、体が疲れていたことが原因なのはわかっていた。夢の中で走ることがうまくできないように、半覚醒の状態で体を動かすことが困難になるのだろうと思った。しかし今回は何か違う。必死で目を開けようと試みると、少しずつだが視界が開けてきた。よし、もうすこし。もうすこし。
 ベッドの右手背後には、隣の部屋へ通じる襖が開けてある。向こう側は闇だ。その闇に浮かび上がるように、白い顔が見えた。丹下段平のような、おじいさんの顔だった。
 ついに!ついに僕も霊を見た!
 正直、怖かった。でも嬉しかった。はじめての僕の心霊体験だ、という感激さえあった。
 これがもし守護霊なら、じっと見ていれば怖さはなくなるという。勇気を出して、見てみた。徐々に輪郭がはっきりとしてくる。ぼやけたままだった頭の中も覚醒してきた。そして、その先にあったものは……。

 ベッドサイドに置かれたテーブル替わりの小さなボックス。上にはナイトスタンドと、未読のままの本が十冊ほど積まれてある。手前には小さな目覚まし時計。積まれた本を横から見るとガタガタとした輪郭が形作られ、人間の横顔に見えなくもない。目覚まし時計の丸い文字盤が、目だった。確かにやたらと目ばかり大きい変な顔だなとは感じていた。

 やったー、霊を見たー、と本気で思っていた自分に、頑張れ、とエールを送りたくなった夜。


 
2002. 7/4(木) あれから
猫はかなりの距離を移動していた。とある昼間、いつものベンチからすこし離れたところで寝そべり、帰宅途中の小学生達に周りを囲まれているのを見た。同じ日の夕方、餌をポケットに入れてその場所に出向くが猫はおらず、道沿いに歩きながら探しても見つからない。今日はだめかとあきらめ、そのまま日暮れ時の散歩替わりにと、道の先へずんずん足を延ばす。
 歩きながらもう周りを見回すのもやめた頃、そこに猫がいた。昼間見た場所から500メートル以上離れたところで寝そべっていた。一瞬違う猫かとも思ったが、近寄ると僕の顔を覗き込み、細くすり切れそうないつもの声で鳴く。抱き上げて段差の腰掛けやすい場所に移動して座る。
 聞いた話だと、猫の移動範囲というのは意外に狭く、せいぜい200メートル程度だったと記憶している。なのに、とても元気とは思えないこの猫が、1日のうちにどうしてこれほどの距離を歩くのか。ここに来るまでには車の多い通りをいくつも横切らなければいけないというのに。
 餌をやるとまたすごい勢いで食べ尽くす。終わるとひざの上に乗りかかり、口のまわりを舐め回したあと、顔を洗っている。
 ここは道路とはいっても遊歩道である。静かな住宅街のど真ん中を突っ切る車道の中央に、幅3メートルほどで造られた綺麗な舗装路だ。車道は片側一車線ずつで狭いため、それほど車は通らない。あちこちに花壇のように植え込みがしてあるので見た目もよく、多くの人が好んでここを歩く。夕暮れ時には下校途中の小学生も多い。猫を膝に乗せた僕は一人、その花壇の段差に座っている。

 そばでひとしきり大きな声をあげていた小学校一年生くらいの男の子が、お姉ちゃんらしき女の子から離れると、僕に近寄り無言で猫の頭を撫でた。小さくて不器用な手が猫の頭を何度か往復すると、また何も言わず走っていく。そのくせ、帰ったのかと思いきや離れたところでこちらをじっと見つめている。
 耐えきれなくなったのか、男の子はまた近寄ってきて、猫の頭の同じところを撫でながら、今度は僕に口を開いた。
「この猫、どこで拾った?」
 僕は、
「拾ってないよ。いつもこの辺にいるの、この猫」
 と答える。彼は撫でていた手を止めると、僕の膝の上から猫を抱え上げ、隣に座った。抱き方が悪いため猫は無理な体勢を強いられ、居心地が悪そうである。
「近くに住んでるの?」
 また聞いてきた。
「猫のこと?」
 と聞くと、男の子は首を振り、僕を指さす。
「ううん、もちょっと遠いとこ」
 断片的にしか言葉が出てこない。これでは、男の子と言語レベルが変わらない。子供と話すのは嫌いではないが、苦手だ。慣れていないので、子供と話す時の自分の姿がうまくイメージできないのだ。

 変な抱き方のままさらに持ち替えたりするので、猫は全身が毛羽立ってきている。人なつこい猫だったが、遂に我慢しかねたようだ。鳴きながら身をよじり、男の子の手から逃れようとする。
 下に降ろしても逃げないよと僕が教えてあげたので、いったん猫を放し、彼は僕の隣に腰を下ろした。再び断片的に言葉を交わしながら、男の子がこの近くのマンションに住んでいて、犬を2匹飼っていること、だからもう猫は飼えないことなどを知り、僕はここから道沿いにしばらく歩いたところに住んでいること、猫もそのあたりから歩いてきたことなどを教えた。
 猫はしばらく足下で座り込んでいたが、そのうちふらふらと歩いて離れていった。しばらく見送ったあと、男の子は猫のところに駆け寄ると、抱き上げて戻ってきた。抱いていると嫌がるので下に降ろすと、また離れていく。行き先は、僕の帰る方向だ。猫を追いかけつつ、僕もそろそろ帰ることにする。男の子が「帰るの」と聞くので「うん」と答えると、彼も「ばいばい」と言ってあっさり離れていく。
 しばらく猫と一緒に歩いた。しかし、最初の場所まで戻るつもりでもなさそうで、途中で座り込み、うなあん、と鳴く。何度か頭を撫で、別れた。少し歩いて振り返ると、同じ場所で通り過ぎる人に向かって鳴いているのが見えた。猫が嫌いな人が多いのか、あまり相手にもせずに通り過ぎていく人ばかりのようだ。

 もう、四五日ほど経ったろうか。
 あれから、猫を見ない。


 
2002. 7/7(日) かまいたちの夜
パソコンやネットの世界に疎いとは思っていないが、2ちゃんねるなどを覗かないため、いわゆるネットスラングの知識は乏しい。萌えとか厨房とかマンセーなど、知ったのはどれも最近のこと。そして先週知った言葉は、「縦読み」。

 水曜日に、「かまいたちの夜」というドラマが放送された。同名タイトルのゲームがあり、スーパーファミコンやプレイステーション用として販売されている。このパート2が7月に発売されるのだが、タイアップとして事前にドラマが作られた。
 ゲームは、サウンドノベルというジャンルに属する。おもに画面上に表示される言葉を読み進めることでゲームが進行する。途中に出てくる選択肢の選び方でストーリーが変化し、様々なエンディングが用意されている。画面上には文字のほか、内容を示す静止画が描かれ、さらにBGMや効果音がゲームを盛り上げる。チュンソフトというメーカーが切り開いた新分野のゲームである。
 僕はこのシリーズのファンで、第一弾の「弟切草」とともに、この「かまいたちの夜」は好んでプレイした。「弟切草」はホラー、「かまいたちの夜」はサスペンス・ミステリーと、どちらもこの形態のゲームにぴったりの題材で、ストーリーもしっかりしている。「かまいたちの夜」の脚本を書いたのは、人気ミステリー作家の我孫子武丸氏である。

 あまり期待せず見たドラマは、意外にもいい感じで始まった。ネットで知り合った「かまいたちの夜」のファン達がオフ会で集まり、ゲームでモデルになったペンションを訪れる。ペンションは携帯も通じないほど山奥にあり、ひどい嵐で下山できないなか、集まった人々がゲームと似たような状況で殺されていく。犯人はこの中にいる……。
 なかなか雰囲気のある、良い展開である。主演の二人を藤原竜也と内山理名が演じたが、藤原竜也は好きな役者だ。内山理名のほうはあまり好きではないが、このドラマでは悪くなかった。
 面白いじゃないか― その評価が変わりはじめたのは、中盤に差し掛かったあたりのこと。ある夫婦の秘密が明らかにされる。そこから急に展開がバタバタし始めた。唐突に回想シーンが挿入されたりして、なんだなんだと思ううちに、ストーリーが思わぬ方向に走り出す。そして、エンディング。

 ……ひどい。ゲームの世界がぶち壊しだ。前半で期待を持たされただけに、とても受け入れられる終わり方ではなかった。何より、謎の解明がほとんどされていないのだ。ゲームファンなら、このドラマには怒っているだろうな、とネットで感想を拾ってみた。
 TBSの公式サイトは賛否両論、しかもそれほどひどい否定意見は書かれていない。たぶんそういうのは削除されてしまうのだろうと思い、ファンサイトを覗いてみると、あるわあるわ誹謗中傷の嵐。そんな記事の中で、「縦読み」という言葉を知る。
 『公式サイトの投稿記事は、縦読みしなさい』と書いてあって、最初は、「飛ばし読み」という意味かと思った。大した内容じゃないから、飛ばし読みで充分だ、ということだと。それでも気になり、ネット用語を紹介するサイトなどを回って、ようやく理解した。
 記事の頭の文字を縦に読んでいくと、別の文が現れる。かまいたち公式サイトで試してみると、「おもんない」「中むラにあ山れ」(中村氏は、チュンソフトの社長)などが出てきた。なるほど、否定意見が削除されてしまうBBSなどにおいて、密かにそれを忍び込ませる時に使うわけか。最初に掲げたスラングの類はどれも好きではないが、あまりにもひどいドラマを見た後だけあって、こうしたやり方を妙に寛容に受け止めてしまった。


 
2002. 7/8(月) Fields of Gold
初めてネットでCDを買う。これまで利用しなかったのは単純に、必要性が感じられなかっただけ。CDは中古で済ませる場合が多く、近くに店はいくらでもある。
 2月にフィギュアスケートファンになって以来、ずっと探し続けても見つからないCDがあった。ひとつはマドンナのマキシシングル、「ドント・クライ・フォー・ミー・アルゼンチーナ」。映画「エビータ」で流れていた曲で、日本の村主選手がエキシビションで使っていた。ただし、サントラなどに収録されているバージョンと違い、アップテンポにアレンジされているもの。
 もう一つは、エヴァ・キャシディという女性歌手の「Songbird」というアルバム。ミシェル・クワン選手がやはりエキシビションで使った「Fieldsof Gold」という曲が収録されている。

 エヴァ・キャシディという歌手は、日本ではほとんど知られていないようだ。1996年に33歳の若さで亡くなり、死後に注目されて2001年イギリスでNo.1に輝いたアルバムが、この「Songbird」である。amazonで視聴をしてみると他の曲もなかなか良さそうだったが、実際手元に届いて聞いてみると、実にしっとりとしたいいアルバムだった。
 「Fields of Gold」はもともと、有名な男性シンガーStingの曲である。全部がそうなのかわからないが、このアルバムには他にも、別のアーティストが歌った曲が含まれている。それでもこの人の個性は圧倒的だ。
 柔らかくて強烈な、突き抜けるような歌声。「Fields of Gold」を聞いていると、夕焼けの広野に一人っきりで取り残されたような風景が目の前に広がる。3曲目の「AutumnLeaves」では、1年半前に両親と旅行した時に歩いた、パリの枯れ葉並木を思い出した。

 もちろん今も、そのアルバムを聴きながらこれを書いている。


 
2002. 7/10(水) 最大の空虚と最大の罪
もっとも空虚なのは、論争だ。物事の善し悪しなど、結局個人個人の好みでしかない。Aさんはリンゴが好き、Bさんはミカンが好き。それで済んでいるはずのところを、人はリンゴを好きであるべきかミカンを好きであるべきかについて、AさんとBさんが争う。論争なんてたいていそんなものだ。

 もっとも大きな罪は、干渉だ。他人にしてあげられることなど、本当はそんなにはない。本人でも出来ることを取り上げて勝手にやってしまったり、望んでもないことを押しつけたり。「大きなお世話」になっていることに気付かず、一人で悦に入っている。

 ビデオで「ふぞろいの林檎たち3」を見ている。僕らの年代だとTVドラマの最高峰としてこのシリーズを挙げる人は多いだろう。パート3は、パート1や2から制作スタッフが大きく変わり、奇態な演出が加わり始める。前作までは好きだったがパート3は受け付けない、という人もいるらしい。気持ちはよくわかるが、個人的にはぎりぎりOKの線である。ただし、パート4は完全にアウトだ。
 全シリーズ中、このパート3が一番キツい内容だという印象がある。キツい、というのは登場人物たちが厳しい事態に遭う、という意味だが、仲手川の仕事でのトラブルや綾子との不倫、岩田の離婚、実の部長騒動やまた不倫など、立て続けにキツい展開が続く。もちろん1や2にもそういう内容はあるが、僕には最も3のキツさが記憶にある。受け入れられない人は、この展開があまりにも非現実的だと感じるからかもしれない。
 シリーズの特色とも言えるエキセントリックな演出は、本作でも健在だ。第1話のオープニングからしてのけぞる。最近のドラマにあるような定型のオープニングの常識からは全く外れている。スタッフテロップが表示される画面、背景は真っ黒で何秒間も音がない、なんてことはとても考えつかない。サザンオールスターズの曲の使い方、セリフ回しなどは、このシリーズのらしさを保ちつつ新鮮味も加味されている。ストーリー展開や伏線の張り方なども、いちいち感心しながら見てしまう。
 そんななかで思ったのは、全登場人物の中で一番のあかんたれは、やっぱり岩田だなあ、ということ。
 本作の大きなテーマとして、30代の目から見た大人像とはいかなるものか、ということがある。普通に考えれば、社会人として一番の大人といえば岩田ということになるだろう。だが、こうしてドラマの視聴者として神の視点で見つめてみると、岩田が一番駄目な行動をしていることに気付く。そこで思いついたのが、最初に書いた二つのこと。この二つの点において、僕の中で岩田は決定的に駄目なヤツだ。


 
2002. 7/13(土) スーパー・スター
風呂上がりにテレビを付けると、BSの番組でエルビス・プレスリーが歌っていた。アコースティックギター1本で円形の舞台の上にあがっている。演奏陣はサブギターや簡単なパーカッションだけだ。仲間達と軽口を交わし、談笑しながら唐突に曲が始まるや、神懸かり的な歌声でパフォーマンスを繰り広げはじめた。

 僕はもちろん、リアルタイムで聴いたことがあるほど年をとってはいない。テレビで歌う姿を見ることさえ、極めて稀なことだ。よくこんなに綺麗な映像が残っていたなあと感心するほど、画面はさながらMTVのアンプラグド・ライブのように見える。どれくらいの運の良さでその会場に入れたか知らないが、観客達はみな彼の姿に見惚れ、幸せの極みで心ここにあらずといった風だ。気持ちはわかる。この放送を知らずに見始めた僕も、チャンネルを変えることができなくなってしまった。そして今、番組を見ながらこれを書いている。歌っていても、つまらない話をしている時も、常に非凡な輝きを失うことがない。これが時代を動かしたスーパースターの勇姿なのだ、と思う。
 彼のライブでは、歌を聴きながら失神するファンが続出したとか。あれなら、しかたがない。


 
2002. 7/15(月) C.S.I.ふたたび
5/13の雑記に書いた「CSI 科学捜査班」で、もうひとつ心に残るセリフがあった。殺人現場の捜査中、主任グリッソムがウォーリックに話すシーン。

グリッソム:「ある人が、トイレの中でもがいている蜘蛛を見つけた。次の朝もその次の朝も、その蜘蛛は便器の中で暴れていた。一週間ほどたったある日、彼は蜘蛛を助けようと思った。つまみだして、トイレの床に置いた。そのあと、どうなったと思う?」
ウォーリック:「死んだんですか?」
グ:「ああ。腹を上に向けてな。何故だ?」
ウ:「……さあ」
グ:「自分の意志を蜘蛛に押しつけたからだ」

 ……捜査に直接関わる話ではない。でも、こうして時折挿入される無関係なようで示唆に富んだ会話のやりとりが、このドラマの魅力の一つでもある。


 
2002. 7/16(火) 積年の痛み
ベランダから身を乗り出し、一人でも多くの耳に届くよう声を限りに叫びたい。
「骨盤矯正は、いいぞおぉーーっ!!!」

 肩凝り・背中の痛み・慢性的な倦怠感の類いとは、十年来のつきあいである。マッサージに整体、針灸など、当然のごとく一通りは試した。脳波を取り、脳のMRIも体験した。心療内科のような所へも一度ならず通った。結果、主たる原因は判明せず、症状が改善されることもなかった。ストレスによる精神的疲労が一番の原因だと至るところで言われ、自分自身もそう思っていた。

 会社を辞め、ほぼ1年が過ぎた。今、ストレスと言えるようなものは何もない。それなのに、症状は一向に改善しない。朝起きると体がだるく、一日中頭がぼんやりとはっきりしない。ひどい時には頭痛にさいなまれるが、そうでなくとも能動的に何かをやろうという気力が湧かない。
 電話帳で、骨盤矯正・脊椎矯正のページを調べた。前から興味があったが、遂に行くことに決めた。近所でいくつか候補を見つけ出し、ネットでも情報を調べ、とある診療所に出向いた。

 「骨盤矯正道場」という、名前だけ聞くとビビってしまいそうになる看板が大きく掲げてある。中は普通の家庭の居間のような雰囲気だ。最初に事務員のような方から問診を受け、同じく初診の女性と一緒に、簡単な説明を聞く。話は主に治療器具の使い方で、ここではゴムホースのようなものと、太いゴムバンドを使用する。ホース状の器具はこれでひざや足、あるいは全身を縛るように巻いて固定し、体の歪みを取る。バンド状の器具はちょうどチャンピオンベルトのように腰の周りに巻き、骨盤を正しい位置に固定する。ここで治療をしてもらったあと、これらの器具を自宅で使用し、治してもらった体が元に戻らないようにするという。全身にゴムを巻かれた姿は滑稽で、その女性と目を合わせるとお互いに笑ってしまう。

 説明が終わると先生が現れ、治療がはじまる。五十前後の女性の先生で、先程の問診表を見ながら、優しい声で僕の体の悪いところを次々と指摘していく。両肩が前に出っ張っていること、右の骨盤が下がっていること、右の肩がやや下がり、かつねじれていること、などなど。そして、こういう体の各所のゆがみを是正しようと全身がバラバラに調整しあい、そのせいでいつも疲れていて眠りも浅いのだ、という指摘。目が悪いのもそれが原因らしい。このあたりは、僕が自分の体から感じていたものとあまりにもぴったりしていて、感心してしまった。
 指摘を受けたあと、いよいよ矯正にとりかかる。歪みの根本原因は、骨盤にある。そこを正せば、全ての歪みは取れるという。
 矯正するとはいっても、たぶんやりかたは診療所によって様々だろう。テレビなどで見かけるようにバキバキと音を出し、痛みを伴う所もある。しかし、この先生は違った。横になった僕の足や腰、肩などを、軽く自分の手足を使って押したり引いたりするだけ。ほとんど全くといっていいくらい、痛みはない。それどころか、こんな軽くて効くのかなと危惧するほど、力も入れていないようだ。治療中、肩の高さや骨盤の位置を自分の手で確認させられる。最初は左右ちぐはぐだったものが、治療が進むにつれ、どんどんバランスが取れてくる。すごい、と思った。

 20分ほどで治療は終わる。かなり体が楽になった気がした。しばらく背中を温める器具の上で横になり、その日は帰った。
 驚くほどの効果を感じたのは、2回目の治療の時だ。最初の治療時は、楽にはなったがすぐ元に戻ってしまった。今度は最初に腰を動かす機械にしばらく乗ったあと、助手である男の先生に治療を受ける。みるみるうちに体が楽になっていくのがわかった。そして最後に、この前の先生からも治療を受ける。帰宅中も帰宅後もずっと調子はよく、夜もそこそこぐっすりと眠ることができた。

 これが、先週のこと。しばらく一週間に一度ぐらいのペースで通うつもり。最近もずっと好調で、眠りも深い気がする。寝起きが悪いのは相変わらずだけれど。


 
2002. 7/21(日) 成績評価と業績評価
小学校時代の成績表は、「あゆみ」という名前だった。これが全国一律なのかは知らないが、とあるサイトでこの「あゆみ」の名を目にした。今もこの名称が残っていることに驚いた。しかし中身は、単純に教科ごとに◎○△の三段階だった僕らの子供時代から、大きく様変わりしていた。

 各教科ごとに細かい評価項目が設定されている。例えば国語なら、「国語に対する関心を深め,進んで表現したり理解しようとするなど,意欲的に学習へ取り組む」・「語句,語い,文法,漢字等,言語に関して必要な事項を理解し,知識を身につけ,活用する」などの数項目(※)に分かれ、これらの項目ごとに三段階の評価がなされる。成績表にはこういった項目が総数20〜30個ほどずらりと並ぶ。

 思い出したことがある。前に勤めていた会社の業績評価システムだ。従来からの、上司が主観的に(いわば、なんとなく好みで)評価を下すやり方だと、どうしても、アピールのうまい人、明るくてウケのいい人が良い評価を得ることになる。これを変えていこうという試みだった。
 評価は大きく「知識」「技術」「企画力」「指導力」などに分かれ、さらにそれらの大項目ごとに細かい評価項目が設定されている。「業務に必要な知識を有する」「問題点を上司と話し合いながら解決できる」などの決められた各項目ごとに、◎○△のような評価をつけていくわけである。とあるコンサルタント会社主導のもとに造られたシステムだ。書くまでもないが、先の成績表と笑ってしまうほど意味合いは同じだ。

 要するに、より客観的かつ多角的に判断を下そう、ということだろう。成績表において、教科ごとに◎○△をつけるだけでは個々人の特性を表すことができない、もっと掘り下げた評価をしましょう、それから、テストで同じような点数を取っている生徒間で評価が異なるのは納得されない、評価を下した基準を詳しく生徒や父兄に伝えましょう。おそらくそういう趣旨なのだろう。
 理念には、おおいに賛同できる。しかし、実現するのは簡単なことではない。そのサイトの管理人の方は子供たちが持ち帰った成績表を見て、「何が何だかわからない」と書かれていた。同じく数年前、僕の会社にこの業績評価システムが導入された時、全社員が戸惑った。上司たちは揃って、「どうしたらいいのかよくわからない」「こんなもので人事評価などできない」、とこぼしていた。

 疑問は大きくわけて二つある。まず、細かく分けられた項目の内容が妥当であるのか、ということ。先述した例で言えば、「国語に対する関心を深め〜意欲的に学習へ取り組む」・「語句,語い〜を身につけ,活用する」などの項目が、「国語」という教科の評価を必要かつ充分に表現しているのかという点。もう一つは、それらの細かい評価を生徒一人一人について本当に判断できるのか、という問題。現時点では、どちらもクリアされているとは言い難い気がする。
 結局、このシステムを有効にするためには、評価する側の多大なるスキルと労力が必要になるのだ。たぶん、「あゆみ」での評価システムもどこかのコンサルタント会社が作り上げたものなのだろう。一番戸惑っているのは、システムを実行し、評価をつけている先生方に違いない。

 今はまだシステムが導入されたばかりで慣れていない、もっと時間が経って成熟していけばシステムも機能する、という見方もあるかもしれない。だが、僕はそうは思わない。どだい、一枚の成績表で生徒の能力を表すことに無理があるのだ。だからどれだけあの成績表をいじくり回してみても変わらない。むしろ今の状態なら、昔の単純な三段階評価のほうがよっぽどわかりやすい。そして、先生が文章で書いてくれたコメントを読む。読んだら成績表はどこかにしまい、さあご飯でも食べましょう、となる。この程度に成績表を考えられれば理想的だ。そうならないのは、その後に続く高校や大学、そして社会で学歴が重視されることが変わらないからだが、それについてはまた改めて書くことにする。
 
 (※)ほんの一例。実際のものとは異なる。


 
2002. 7/25(木) 円周率
円周率が3になる! という衝撃を与えた新学習指導要領が、今年の4月から施行された。僕自身、小中学生との触れ合いがない環境にいるため真偽の判断もつかず鵜呑みにしていたが、例の円周率3騒動というのは完全なデマだったようだ。

 発端は、とあるワイドショー番組だったらしい。文部科学省から発表された新学習指導要領の文中に、小学5年生の算数について書かれた、以下の二つの文章がある。(以下、(A)(B)という項目は、僕が便宜上付与した記号である。)

(A)1/10の位までの小数の計算を取り扱うものとする。
(B)円周率としては3.14を用いるが、目的に応じて3を用いて処理できるよう配慮するものとする。

 この二文のうち、恐らく項目(B)の文章から件の番組は、「今後、小学校の教育では、円周率は3として扱う」という解釈で放送したらしい。これが大変な反響を呼び、事の真偽が至るところで議論された。僕も試しに、「新学習指導要領,円周率,3」をキーにgoogleで検索してみたが、驚くほど多くのサイトでこの問題が言及されていた。各サイトでの結論も様々で、およそ以下の三つに分かれていた。

(1)円周率は、従来どおり3.14である。
(2)円周率は、3.1である。
(3)円周率は、3である。

 第(1)説を唱える人の多くは、新指導要領の上記項目(B)が、現在の指導要領にも存在することを主張している。そう、「円周率としては3.14を用いるが、目的に応じて3を用いて処理できるよう配慮するものとする」という項目は、今回あらたに付け加えられた訳でもなんでもない、昔からあったものだ。これを初めて見たかのように取り上げて報道したワイドショーの稚拙さは言うまでもない。しかしこの場合、指導要領の(A)との整合が取れないため、円周率は3.14だと言い切るのは難しいはずだ。
 第(2)説を唱える人は、指導要領の(A)の規定を絶対だとみなしたのであろう。逆に第(3)説は、(B)の規定、しかもその後半部分に重きを置いて解釈したものと言える。

  僕の素直な感想は、「文章の解釈によって、どうとでも取れる」というものだ。恐らくこの指導要領を作成した人が言いたかったのは、「普通の小数計算は1/10の位までを扱うが、円周率についてだけはその基準を外して特別に3.14として扱う。ただし、およその面積を見積もる場合においては3として計算することもある」というような内容だろう。文部科学省の公式サイトにも、後にそういった説明文書が載せられている。言葉というのは所詮あいまいなものだが、学習指導要領の書き方には、最初にもう少し配慮が必要だったように思う。

 ここまで調べれば、当然気になることがある。既に配られたはずの小学校5年生の教科書で、実際にどういう具合になっているのか、だ。ネットで調べた限り、教科書には、「円周の長さが直径の長さの何倍になっているかを表す数を円周率といい、ふつうは3.14を使います」などという記述がなされ、3.14を使った計算問題も載せられているようだ。ただし、計算問題には電卓を使って計算すべし、という意味の電卓マークが付いているらしい。

 それにしても大騒ぎになったものだ。問題の捉え方も人により様々である。そんな中で面白い記述をしているサイトを見た。
 円周率が3とか3.1になることを非難している人の多くが、とにかく円周率は3.14でなくては困る、と盲信しているのではないか、という指摘だった。ご存じの通り、円周率とは3.141592…と永遠に続く無理数である。円周率が3だとか3.1だとか言うことが間違いであるのと同じように、「円周率は3.14である」というのも、本来は間違いである。すなわち、3分の1とは0.3ではなく0.33だ、と言っているのに等しい。計算の精度の問題というより、なにか円周率サンテンイチヨン神話のようなものがあるのでは、という話である。非常に興味深く読ませてもらった。


 
2002. 7/26(金) ダコタ・ファニング
ずっとはまっているWOWOWの海外ドラマ、「C.S.I.科学捜査班」。今は毎週火曜日の本放送のほか、金曜の深夜に、第1話から五話ずつまとめて再放送している。これをビデオに取り、ほぼ毎日のように見るCSI漬けの日々。
 WOWOWで同じ番組を何度もリピート放送することを良く言わない人もいる。視聴料を取りながら再放送で枠を埋めるとは何事だ、と。でも僕は、リピート大賛成派だ。楽しみにしていた番組を見損ねた時のショックは大きいものだ。WOWOWだと、海外ドラマはたいてい一週間以内の再放送が固定で組んであるし、映画もほとんどが1カ月以内にリピートされる。「C.S.I.」もワールドカップ期間中に何度かビデオに取り損ねたが、今回の再放送のおかげで、見逃していた分の穴埋めをすることができた。

 「惨劇の家」という回があった。深夜に一家が惨殺され、二人の姉妹が生き残る。容疑者は、生き残ったうちの姉のボーイフレンド。妹はまだ小さく、6〜7歳といったところ。話は二転三転し、毎度のごとく素晴らしい内容で幕を閉じる。
 ただ今回、内容とは別に、感心したことがある。妹役の女の子の演技だ。ほとんど喋ることはなく、心を閉ざしているが、捜査班の女性と接するうちに少しずつ心を開いていく。この演技が、すごかったのだ。整った顔立ちも目を引き、これは凄い女優になると思っていたら、すでにそうなりつつあった。
 子役の名前は、ダコタ・ファニング。今公開中の映画「アイ・アム・サム」に出演している。ネットで検索すると、可愛くて演技も巧い、とどこでも大人気を博している。映画はあまり見に行かないたちだが、ちょうど近くのシネコンでやっているので、レイトショーを見に行こうかと思う。


 
2002. 7/28(日) ガイアという仮説
久しぶりに映画を観た。通常の映画館ではなく、催事場のホールにて。作品は、「地球交響曲〜ガイアシンフォニー〜」という。

 ガイア理論、というものがある。地球を一つの大きな生命体としてとらえる考え方である。イギリスの生物学者、J・ラブロック博士が提唱した。
 大気中の酸素の成分量や海水の塩の濃度などは、長い年月にわたって常に一定に保たれている。これは、地球全体に大きな制御機構があって、バランスが保たれているのだ―。このガイア理論から、「地球交響曲〜ガイアシンフォニー〜」は生まれた。
 この映画を、単に「地球を守ろう」というキャンペーン的なドキュメンタリーだと紹介したくはない。そこには、希有な人生を歩んだ6人の方の人生を通した、深淵で示唆に富んだメッセージが秘められている。その内容を文章で表すのは難しい。以下に、映画に登場した中から3人の偉人たちとその言葉を紹介したい。

■野澤重雄
植物学者。水と養分を与えるだけで、1本のトマトの木から1万数千個の実をつけるハイポニカ法を考案。
「植物の種には、生きるための全ての要素が含まれている。限界を作っているのは、土などの環境だ。これを取り除いてやれば、大いなる力をもって生長していく。『神』とは、自然の、この高度なメカニズムの実態である」

■ラインホルト・メスナー
登山家。事故により足の指6本を失いながら、世界でただ一人、単独で世界の8000メートル級の全14山を制した。
「生命力は自分が所有しているというものではなく、私たちの周囲に無限に存在し、渦巻いているものだ。それをスムーズに体に取り入れ、またスムーズに出していく。人間はいわば、生命力の通り道のようなものだ」
「人間は、スピリット(魂)・マインド(理知)・ボディー(肉体)の3要素から成る。人間はそれらのうち一番弱い要素を基準に生きざるを得ない」

■ダフニー・シェルドリック
動物保護活動家。象牙密猟者に親を殺された象の赤ちゃんを育て、野生に還す活動を30年以上続けている。
「象は、その大きな体を維持するため、1日300ポンドもの植物を食べる。自然破壊のように思えるがそうではない。象は食べたものの60%をそのまま排泄するため、お腹に入った種がそのまま100マイルも遠くに運ばれ、そこで森や草原に再生していく」
「メス象のエレナは生まれて初めて仲間の死体を見たとき、死体から象牙だけを取り外そうとした。エレナは象牙がもたらす悲劇を知っていたのだ」


 
2002. 7/30(火) 非サイクロン方式
掃除機を買うのだ。
 誰がなんと言おうと。

 大学進学で名古屋に出てきて17年。三度の引っ越しを経験し、その間に数え切れないほどの家具や家電製品を買ってきた。だが、いまだにたった二つだけ、大学入学当初から使い続けているものがある。掃除機と、アイロンだ。
 ずっと使い続けていた物のうちには炊飯器もあったが、去年の夏、ついに壊れた。今回の掃除機は、壊れもせず、ちゃんと動き続けている。しかし、絨毯のゴミをあまり吸い込まなくなり、掃除の後かがみこんでみると少しも綺麗になっていないのを見つけ、がっかりするようなことが多くなった。特別、物持ちのいい方ではない。17年も使ったら、もういいだろう、買い換えても。そう自分に言い聞かす。

 何を買うにもたいてい、入念に研究してみないと気が済まない。今回も、近くの大型家電店に出向き、カタログを集めるところから始める。どんなものがあるか、ほとんど知識はない。
 カタログに目を通し、更にネットでも調べる。
 最近のトレンドは、サイクロン方式、排気レス、紙パックレス、の三つだ。サイクロン方式とは、吸い込んだゴミと空気を高速でかき回して分離させ、ゴミがたまっても吸い込みパワーが落ちず、排気も綺麗になる、というもの。排気レスとは、後部の排気口をなくし、排気の一部を吸い込みパワーに変換し、残りの排気も車輪のあたりからソフトに排出する仕組み。紙パックレスは文字通り、紙パックをなくして、ゴミ受けからゴミを捨てるタイプのものだ。サイクロン方式はたいてい、排気レスと紙パックレスを兼ね備えている。
 最初、このサイクロン方式が気に入った。最近のトレンド機能を備え、デザインもいい。そういえばここ数年、外国製のメカニカルな形をした掃除機が売れているそうで、サイクロン方式は、日本製でも、同じように未来的なデザインで一致している。

 だが、ほとんど機種まで決めかけた頃、ネットであまりよろしくない情報を得る。サイクロン方式は吸い込みのパワーが足りない。紙パックがないのでいちいちゴミ受けをはずしてゴミを捨て、さらに中身を水洗いする必要があるので面倒。さらにゴミセンサー部が繊細で、少しゴミがたまっただけで反応してしまう、などなど。
 吸い込みパワーの弱さは、数値でも証明されている。「吸い込み仕事率」という指標があり、強力な掃除機はこれが570Wほどの値になる。しかし、サイクロン方式だと、最大でも400Wほどで、機構上どうしてもこの程度にしかならないらしい。
 紙パックの問題は、盲点だった。紙パックレスと聞いて目新しさに飛びついたが、よく考えてみれば、そのほうが余計に面倒だということがわかる。コストが多少かかっても、一発ポイで捨てられる紙パックのあるタイプのほうが、僕には合っている。

 結局サイクロン方式はやめ、吸い込みパワーを基準に、3台ほどの候補に絞った。サイクロンのような最新機能がない分、値段も安い。店頭価格でだいたい1万6千円〜2万円ほどである。これがサイクロンだと、2万5千円ぐらいにはなってしまう。
 近くにある2軒の家電店には候補機の全部は揃っていないので、近々大須まで出向こうと思っている。そして、しばらくやっていない掃除を、新しい掃除機で楽しむのだ。

 

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