■ 2007年に読んだ本
  
2007年12月 「七人のおば/パット・マガー」 (東京創元社・文庫)
ミステリーのオールタイムベストテンなどで必ず顔を出す作品。これは面白かったですね。安楽椅子探偵ものの傑作、という評判が高いのですが、僕はミステリというより人間ドラマとしての興味を大きくそそられました。

 主人公サリーには七人のおばがいます。ある日彼女は友人から、七人のうち誰かが自分の夫を殺し、自らも自殺をしたという手紙を受け取る。サリーはおば達と暮らした日々の回想を夫のピーターに語り、犯人を捜そうとする、という内容です。この七人のおばが、揃いも揃ってろくでなしなのです。一家をしきり、対面を重んじるあまりに家族に無理な人生を強いるクララ。偏屈なテッシー。自己中心的なアグネス。アル中のイーディス。男性恐怖症のモリー。奔放に生き、自分の姉の夫さえ寝取るドリス。甘やかされて育ち、金銭感覚ゼロのジュディ。この個性あふれる七人が入り交じり、どろどろとしたドラマが形作られていきます。最初は七人がなかなか覚えられませんでしたが、巻頭に家系図と説明が載っていますので、ちょこちょこ見ながら読んでいました。いつのまにかどっぷりストーリーにはまり、七人のおば達がしっかり頭に住み着いていました。

 途中の展開が素晴らしかったのに対し、明かされた真相の衝撃はそれほどでもありませんでした。誰が誰を殺したのか、ということが最初から謎として挙げられていますが、よく考えればそれは“謎”でもなんでもないのです。サリーかピーターが誰かに聞いたり新聞を見たりすれば解けるものを、適当な理由をつけてそうしないために、本作が謎解きミステリーとしての体裁をなんとか保っている。ミステリー仕立てにするために、ちょっと無理がある気がしますね。
 それでも本作はお勧めです。姉妹どうしの憎悪あふれる、なんともいえない(いい意味で)いや〜なドラマがお好きな人、たとえばパトリシア・ハイスミスが好きな方なんかは気に入ると思います。
2007年12月 「ぶたぶた/矢崎存美」 (徳間書店・文庫)
5〜6年ほど前、ミステリー系書評サイトでかなり話題に上った本です。とにかくぶたぶたの魅力にめろめろになったという書評が多くありました。ぶたぶたとは、ぶたのぬいぐるみのことです。そのぬいぐるみが、普通に動いてしゃべるばかりか、サラリーマン、タクシーの運転手、フランス料理店のシェフなど、さまざまな職種につき、仕事をしているのです。
 たしかに発想は面白いですし、ぶたぶたの存在の理由づけをあえてせず、人間と一緒に普通に生活しているという描き方もいいでしょう。ただ、ネタの掘り下げと表現力に乏しいと思います。短編がいくつか収録されており、主人公は編ごとに違っています。話が変わるたび、主人公がぶたぶたの存在に驚くところからはじまるのが、同じことの繰り返しなのです。ところどころはさまるギャグもたいして笑えず、なにより文章の稚拙な点が目立ちました。
 もうひとつ言いたいのは、表紙や挿絵に出てくる、ぶたぶたの絵です。文中に出てくるそのままの姿が絵として描かれているのですが、読書にとってこんなに邪魔になるものはないと僕は思います。文章を読むことでそこに描かれている世界を頭の中に構築する、それが読書という作業です。だから読む人によってその世界はまったく異なりますし、どう構築するかということが読む喜びであるはずです。なのに、それを絵として表現してしまったらもう、構築する必要はありません。ピンクの豚で足の先が茶色くて耳が立っている、そうしたぶたの絵が描かれてしまっている以上、それに固定されてしまいます。低い年齢層向けの書物なら仕方ないかなあとも思いますが。しかも、いかにもCGで描きましたというおざなりな絵なのが、さらに哀しみを誘います。
2007年11月 「四つの署名/コナン・ドイル」 (新潮社・文庫)
ホームズもの長編第二作。子供の頃に読んだ記憶はあるのですが、内容はまったく覚えていませんでした。
 「緋色の研究」と続けて読んだわけですが、ホームズものは短編のほうが出来がいい気がしますね。ぱーっと鮮やかな推理を披露し、引き締まった好編にするには、短編の文量のほうが合っている気がします。長編でじっくり腰を据えて読んでみると、トリックというトリックもなく、冒険譚としても弱い感じがします。ともあれ、ワトスン先生おめでとう、といったところでしょうか。
「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン78冊目。いやはや、これはライトノベルというやつですかね。女子高校生の内面を等身大に描いたという点で、そうした年代の方には楽しめるのかもしれませんが、僕には無理でした。等身大とはいっても、少女コミックなどで描かれる、お星様の流れるような甘い世界の絵空事。どこにもリアル感はありません。
2007年10月 「螢川・泥の河/宮本輝」 (新潮社・文庫)
「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン77冊目。宮本輝氏の作品は、むかしはけっこう好きでよく読んでいたのに、最近はとんとご無沙汰でした。芥川賞受賞作の「螢川」、太宰治賞受賞作の「泥の河」が併禄されています。(なぜか収録順は「泥の河」「螢川」の順になっています)

 どちらも自身の経験に基づく、私小説的な意味合いが濃い作品のようです。そして、方言で構成される会話、川のほとりに住む者たちを描いている点でも似通っています。
 「泥の河」はむかし映画化されましたね。「遊びに来たんかー」「遊びに来たんやろー」という台詞の予告編を今でも思い出します。ていねいな描写により、舞台となる街の風景がじんわりと浮かび上がってきます。宮本輝氏の作品はだいたいがこのように、じんわりとなんかいい、という不思議な読感を味わわせてくれます。久しぶりにその感覚を堪能しました。
2007年10月 「成人病の真実/近藤誠」 (文藝春秋・文庫)
「患者よ、がんと闘うな」で話題となった近藤誠氏の著書です。
 かなり衝撃的な内容です。現在日本中でおこなわれている定期検診、およびそれに伴う再検査のやり方に、根本的に異議を唱えています。

 一般的には、高血圧や高コレステロール、糖尿病などの生活習慣病について、早期に発見をし、治療をおこなうことが勧められています。しかし、近藤氏はそれに警鐘を鳴らします。無症状であれば、検査で異常値が出たからといって、すぐに治療をしなくてもよい場合がほとんどだといいます。がん検診や脳ドックなども同様で、ポリープや腫瘍がみつかったとしても、そのまま放置して大丈夫な場合がほとんどだというのです。

 著者は上記の事柄を、綿密なデータにしたがって解説してみせます。国内外の実験データを参照し、たとえば高コレステロールだと診断された人とそうでない人の生存率を比べたり、がんが発見された患者において、積極的な治療をおこなった人と放置して様子を見た人の生存率を比べたりしています。結果、医者が治療を勧める場合でも、べつにその治療をおこなわなくても結果はそれほど変わらないことが示されます。あるいは、治療をおこなったほうが結果が悪くなることさえあります。

 本書を読んで、投薬治療・手術などの医療行為の危険性を強く感じました。医者は病気を治すことなんてまったくできないのではないかとさえ思います。
 薬というのは強烈な毒物にもなります。インフルエンザ脳症が完全な薬害であったことも、本書を読めばよくわかります。おそろしい話です。
 手術の害も同様です。投薬や手術というのは、患者にダメージを与えるものなのです。投薬や手術をおこなうからこそ、体力を奪われ、死んでいくのではないかと思えるほどです。

 今年の4月に読んだ「医療崩壊 〜『立ち去り型サボタージュ』とは何か〜」などとは好対照な内容です。だからこそ、こうした本を多く読み、幅広く、偏らない考え方をすることが重要だと感じました。
 本書を読んで、健康診断に関する認識が変わりました。そして、いろんな人にこの本を読んでほしいと思います。とくに、子供を持つ人にとって、重要なことがたくさん書いてあります。
2007年 9月 「不安な童話/恩田陸」 (新潮社・文庫)
恩田さんの作品を読むのは、ずっと以前の「六番目の小夜子」に続いて、2作目です。割と最近の作品なのかと思っていたら、書かれたのは1994年と意外に古いものでした。そのせいか、まだまだ小説にこなれていない部分が多く見られます。言葉に対する意識が薄いのか、文章の“研ぎ方”が甘い箇所がたくさんあります。表現にも展開にも、2時間ドラマ級の安っぽさが目につきます。キャラクター造形もあまり巧いとはいえません。

 それでも、起伏に富んだストーリーはなかなか面白かったです。読み始めてしばらくの頃は、上記の理由により、もう恩田作品は読むことはないかなあと考えていましたが、読み終えたあとは、もう少し読んでみてもいいかな、という具合に変わっていました。
 亡くなった女流画家の展覧会に赴いた万由子は、彼女が死んだ時と同じ光景を見る。画家の死因は他殺だった。画家の息子である青年から万由子は、自分がその画家の生まれ変わりだと告げられる。画家には遺言があり、遺された四枚の絵を、指定した人物に渡してほしいという。万由子はその青年とともに、四人の人物のもとを順番に訪れていく。
 次から次へと魅惑的な謎が提示され、どんどん読み進めていきます。久しぶりに、本を置く手をとめたくなる感覚を味わいました。
 <注意!!以下は、ネタバレ気味です。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>万由子の超現実的能力を描きながら、事件の真相は現実世界で論理的に解決されるのにも、好感を持ちました。骨組みは本格ミステリで、味付けとしてホラー・ファンタジー系の要素を付け加えているという感じ。これはちょうど、京極夏彦作品の榎木津の存在とほぼ同じですね。

 ただ、最後の謎解きのところで、ちょっと見逃せない点がありました。関係者を集めて真相を語るというのは、いかにも本格ミステリの真骨頂ですが、<注意!!以下は、完全にネタバレです。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>画家を殺したのが高槻秒だったことは、絶対にみんなの前で公表すべきことではなかったと思います。さらに万佐子に対する配慮にも欠けている気がします。この部分ですこし、しらけてしまいました。
2007年 9月 「1リットルの涙/木藤亜矢」 (エフエー出版・単行本)
脊髄小脳変性症という難病に冒された少女の日記でつづられる、ドキュメンタリーです。
 こうした書評を書くことにさえ抵抗を感じるほどの内容でした。あまりにも重く、辛い内容です。
 障害に関することは、なかなか簡単に口にできるものではありません。ただ僕は、彼女について、“理解できる”とか“共感できる”などとは、口にするつもりはありません。彼女の本当の辛さは、彼女と同じ立場になってみなければ決してわかるはずがないからです。それでも、自分自身の立場において学べることはあります。この本を読む前と読んだ後とで、自分が確実に変化したことを感じます。彼女の願いのひとつであった、人の役に立つという点からすれば、僕を含めかぎりなくたくさんの人の役に立っているのは確実なことです。せめてそのことだけでも彼女に伝えられたらと思います。

 彼女は15歳で発病し、以後、徐々に体の自由が奪われていきます。歩行や食事、会話にすこしずつ苦労を覚えるようになり、やがてつかまり立ちさえ困難になり、最後には日常生活のすべてを誰かに手伝ってもらわなければ生きていけないまでになります。
 できないことを悔やむより、できることを伸ばす。障害を持った人に対し、そうした励ましの言葉があります。確かに真理でしょう。しかし彼女の場合、その“できること”がどんどんなくなっていくのです。だから、いったん気持ちの整理がついたとしても、また崩れていく。その繰り返しです。この辛さは、とても言葉に尽くせるものではないでしょう。
 それを見守る家族も、同じほどの辛さを味わっていることと思います。とくに、母親である潮香さんの苦労は、人としての限度をとっくに超えています。それでもいつでも母親としての役割をじゅうぶんに果たしています。心から尊敬します。

 ひとつ書いておきたいのは、彼女の文章のうまさです。これは、とても十代の少女が書いたものとは思えません。小説的なセンスが伺えます。文章のうまさという点、それから、亡くなる前に書かれた少女の文章、という点で、以前に読んだ「二十歳の原点/高野悦子」(2000年5月の書評)を思い出しました。(こちらの場合は死因が自殺であり、生きたくても生きることができなかった木藤さんと並べるのはおこがましい、と憤慨される方もいらっしゃるかもしれません。書評の域を外れてしまうので、自殺についての僕の考え方はここでは述べません。)

 いっぽう、本書を題材にしたドラマや映画が作られているようですが、僕はあまり見ようという気にはなりません。ドキュメンタリーという性質上、本物なのは文章だけであって、そこから派生したものはもう、本来の存在を離れた別のものになっているからです。木藤亜矢さんに触れたいのであれば、本書を読むしかないと思います。

 なお、文庫版には、亜矢さんの亡くなる前後の様子が、母親の潮香さんの手による文章で追加されています。
同上
2007年 9月 「走れメロス/太宰治」 (新潮社・文庫)
「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン76冊目。
 素晴らしいです! これぞ日本文学、と見知らぬ誰かに自慢したくなる内容です。
 巻末の解説(太宰治の人生と作品とが丁寧に述べられている好編)にある通り、この短編集は、冒頭の「ダス・ゲマイネ」のみが活動初期の作品であり、他はすべて中期の作品になります。以下、作品ごとに感想を述べます。

 「走れメロス」 小中学校の教科書に必ず出てくるので、有名ですね。もちろんこれはこれで素晴らしいのですが、太宰治にしてはあまりにも明るく前向きな話なので戸惑ってしまい、なにか裏に隠された暗いテーマがあるのでは、と勘ぐってしまいますが、もちろんそんなことはありません。

 「ダス・ゲマイネ」 昭和初期、目的を失い自堕落に生きる若者たちが繰り広げる、青春劇。実験的な作品で、文体にエネルギーがあふれています。読み始めてすぐに、やけに読点(「、」のこと)が多いな、と思いました。これは、本短編集を通じてうかがえる特徴です。普通は読点を使いすぎると文章がブツブツと途切れてしまいテンポが悪くなりますが、太宰治の場合、それが独特のリズムを生み出し、読者を惹きつけます。
 登場人物の行動は、思惑ありそでなさそうなところにリアリズムがみなぎっています。ラストの唐突な事件にも驚かされます。

 「満願」 わずか、たったの3ページの作品。なのに、読後に感じるこのすがすがしさはどうでしょう! これぞ文学ですね。参りました。

 「女生徒」 本短編集で、もっとも気に入った作品です。驚愕に胸震え、ため息がもれました。本作だけなら評価は満点です。男性作家が書いた若い女性の一人称文体で、これほど完成度の高いものを他に知りません。女性作家でさえここまでは書けないでしょう。歌舞伎の女形は女性以上に女性らしい、という言葉を思い出します。これを読むと、舞城王太郎もまだまだ手ぬるいという気がしますし、綿矢りさなどの“奔放だ”とされる文体も、所詮は子供だましだと思えてしまいます。

 「駈込み訴え」 「女生徒」の次に気に入った作品です。ある男の告白文ですが、めまぐるしく移り変わる心情が、大迫力の文章で表現されます。圧倒的な文章力です。「ある男」が誰なのかはすぐにわかりますが、あえてここでは伏せておきます。タイトルや、出だしの文章などから想像する人物像からはかけ離れていて、そこも読む面白みの一つだと思います。

 「富嶽百景」「東京八景」「帰去来」「故郷」 これらはすべて、太宰本人の体験そのものであり、登場人物の名前なども、そのまま出てきます。面白さという面では、他の作品群には劣りますが、なかなかに味わい深いものばかりです。太宰治の略歴を知るにも好都合だと言えます。
今年の3月に紹介した「うおつか流 台所リストラ術」(2007年3月の感想)の続編です。前著が料理法の具体的な実践案内だったのに対し、本著では、どういう食事法が何故よいのかという、理論的な方面に重きが置かれています。
 前著では、やたらに「安く」食費を抑えることが主張されていました。ですので、安くてうまい料理は作れるけれども、さて健康面で考えるとどうなのかなあと思っていました。でも、本著を読めば、魚柄氏の提唱する料理法がいかに健康のことを大事に考えたやり方なのかがよくわかります。

 かなりの書籍・文献を読破され、その知識をもとに、本当に体にいい食事とはどういうものなのか、それを追求した結果がわかりやすく記されています。僕がとくに感銘を受けたのは、「健康は目的ではなく手段」という部分です。健康になってそれで終わり、ではなく、健康な体を使ってさて何をするのかが大事なのだ、ということです。言い換えれば、やりたいことを思う存分やり、充実した人生を送るために、健康な体が必要だということです。西医学実践者である医師の甲田光雄先生も同じことをおっしゃっています。本書の魚柄氏は、健康のため健康のため、と闇雲に健康食品や健康法に手を出すだけの人たちを批判しています。

 ほかにも、読み進むたびに大きくうなずける箇所がいくつも出てきました。そして、理論を元にした具体的な食生活の注意点も、いくつか書かれています。本書と前出の「台所リストラ術」、2冊を手元に置いて、これからの食生活を実践していきたいと思います。
2007年 9月 「いのちのハードル/木藤潮香」 (幻冬舎・文庫)
上で紹介している、「1リットルの涙」を書いた木藤亜矢さんのお母さんによる手記です。壮絶な闘病生活を送った亜矢さんに、正にぴったりと寄り添うようにして生きたお母さん。日々の時間を秒単位で管理し、一秒でも多く自分の娘に費やせる時間を作り、それを実行し続けた、そのエネルギーには感服します。人間の限界とは途方もないところにあるんだと実感させられます。
 「1リットルの涙」のほうではほとんど語られなかった、亜矢さんのお父さんについても描かれています。お父さんは直接亜矢さんのお世話をするというよりは、亜矢さんにかかりっきりのお母さんに代わり、家の中の仕事を引き受けておられたのだということがわかりました。とくに、亜矢さんが亡くなる直前、嫁ぐという仕立てで看取ってあげたいというお母さんの提案を快く受け入れるあたりに、夫婦の絆を強く感じました。
2007年 8月 「99%の誘拐/岡嶋二人」 (徳間書店・文庫)
1988年の作品で、文庫化されたのもかなり前のことですが、2005年版「この文庫がすごい」で一位を獲得し、爆発的に売れた作品です。売れ行きどおり、各所でかなりの評判を博しています。
 はっきりと言います。面白くなかったー。
 ハイテクを駆使した誘拐もの、かつ倒叙ミステリ(犯人が最初からわかっていて、犯人側から描かれる作品)です。コンピュータをはじめ電子機器をフルに活用した誘拐劇で、たしかに他の誘拐ものとは一線を画しているとは言えるでしょう。
 使用されている機械が古い、という指摘は数多くされています。コンピュータはフロッピーで動かすDOSだし、電話回線との接続に音響カプラを使ったりする。確かに圧倒的に古いのですが、この作品の欠点はそうした“古さ”によるものではありません。

 まず電子機器類を使った仕掛けについてですが、リアリティを逸脱している点がいくつか見られます。(本作がSFであれば話は別ですが。)犯人がコンピュータを遠隔操作する方法については詳細が描かれませんし、誘拐された子供の家族とコンピュータとが話しているように見える仕掛けにも、無理があるように思います。
 頭脳明晰な犯人による緻密な計画、という設定の割には、なんだか間抜けな仕掛けが多く、ちょっとした想定外の出来事ですぐに失敗してしまうだろうと思う箇所がいくつもありました。終盤、ダイヤモンドを受け取るまでの部分でも、もうすこし慎重によく考えた行動を取ったらいいのに、と思ってしまいます。
 だいたい、登場人物全員にリアリティがありません。慎吾も間宮も馬場も、ほとんどキャラクター性がないため、どこにも感情移入できず、ただ単に事件が発生しているということに過ぎません。それゆえ、警察と犯人のやりとりの妙についても、あまり楽しむことができませんでした。

 また、最近のミステリー作品で何度も同じことを書きますが、文章の魅力に乏しいのも大きな難点のひとつです。どうにも説明過多が目につきますし、表現が稚拙だなあと思うこともしばしばでした。
2007年 8月 「出すと病気は必ず治る/石原結實」 (三笠書房・単行本)
著者は、最近の健康ブームで名を馳せているお医者さんの一人です。これまで読んできた健康関連の本で散見された、「入れる」より「出す」ことが重要、という理論がここでも繰り返されます。病気の原因は体にたまった老廃物・毒素であり、便や尿、汗などによりこれを排出することが健康への手がかりになる、と説きます。

 印象的な言葉がいくつかありました。現代医学が治そうとしているのは、病気の「結果」の部分である、というのもそのひとつです。発熱や痛みなどの症状は、人間の体が病気を治そうとする反応なのであり、これをおさえようとしても意味がないどころか、逆効果でしかない。著者によれば、血栓も内出血も体の正常反応だといいます。さらには、ガンでさえ体を守る防衛反応らしいのです。老廃物や毒素で全身が悪くなるのを防ぐため、有毒物を一カ所に集め、そこで処理するために生み出されるのがガン細胞だ、というのが著者の理論です。なかなか豪華な言い方ですが、うなずける部分もあります。

 出すための食事法についても詳しく紹介されています。ここで、歯の構成によって摂るべき食品の種類を定義づけているのが面白いと思いました。人間は、肉や魚を食べるための犬歯が歯全体の12.5%を占めている、だから食事中の動物性食品も、これと同じ割合にすべきだ、というのです。これはなかなか説得力があるではありませんか。
 具体的な食事の内容や食べ方については、他の類書と共通する部分が多いです。玄米を中心とし、先に述べたように動物食を12.5%程度におさえること、よく噛んで腹八分におさえること、朝食はジュース程度にすること、などなど。断食も提案されていて、石原先生は人参ジュースだけを飲んで過ごす断食を実践され、多くの結果を残されています。

 こうして得るところの多い一冊ではあったのですが、ただ一点、僕が疑問に思うのが、著者の水に関する考え方です。これは他の健康本と一線を画する点でもあります。普通、水は人体を構成する基本要素なので、食事前後や寝る前などをのぞき、積極的にとりましょう、ということが勧められています。ところが石原先生は、水のたまり過ぎもよくない、水も積極的に出さなくてはならない、として、過度の水分補給を戒めます。ただ、水の害について書かれた部分については、どうも説得力が薄い気がするのです。また、一日に2リットルや3リットルも飲むことは確かにどうかとは思いますが、摂取量がゼロでは当然いけないわけで、それじゃあどのぐらいが適当な摂取量なのか、ということが明確にされていません。これについては、著者の新作、「『水分の摂りすぎ』は今すぐやめなさい」も読んで理解を深めようと思います。とりあえず僕は今までどおり、積極的に水を摂る生活をつづけるつもりです。
2007年 8月 「ガラスの麒麟/加納朋子」 (講談社・文庫)
ミステリー系の書評でたびたび紹介され、「このミステリーがすごい」などでもランクインしていたりして、気になっていた加納氏、初読です。とくに本作品は連作ミステリとして、また日常ミステリとして、随所で傑作との評価を目にします。さてその真価やいかに、と読み始めましたが……。
 とある女子校を中心にした世界の中で殺人事件が起こり、次々と語り部が交代していくうちに様々な別の事件が語られ、また最初の事件へと戻っていく。その構成については、面白みがないではありません。ただ、ひとつひとつの事件の謎が魅力に欠け、探偵役である養護教諭の推理は、「こういうこともあり得た」という範囲でしかないため、それぞれの短編はあまり印象に残らず、長編としてとらえても世評ほどの感動は得られませんでした。

 人間の心を単純にとらえすぎている部分についても、違和感を感じました。女子高生の心情を巧みにとらえた作品、という評価もあるようですが、僕には疑問です。なんだかけっきょくみんないい人で、愛が大事、というおきまりのパターンから抜け出せていない。まあそれならそれで文章で読ませてくれればいいのだけれど、そちらはもっといただけない。はっきり言って、文章がつたないのです。小説作法にしても、お世辞にも上手とは言えません。ミステリ系の作家に多い、描写を説明でなぞる文章の多いこと。とくに、「悲しい」とか「嬉しい」という心情をそのまま文章にするのは、まったくいただけません。それから、随所で出てくる比喩もあまり出来がいいとは言えず、20年前からあるような手あかのついた表現を平気で使います。さらにこの著者は会話文にまったくセンスが感じられません。また、ユーモアのセンスも。なにやら北村薫氏と並んで評価されているようですが、文学的には大人と子供ほどの落差があります。

 これはここで書くことではないかもしれませんが、ネットを徘徊していると、同作品に対する似たような評価がすごく多いことに驚かされます。批評までも横に習えをしているのか、自分自身の素直な評価ではなく、多くの人が下している評価をそのまま自分にも適用し、さらにそのことにすら気づいていない人が多いのではないか、という危惧を持ちました。
2007年 8月 「マクロビオティック [入門編]/久司道夫」 (東洋経新報社・単行本)
いまや時代をリードするキーワードとも言える「マクロビオティック」。様々な流派があるようですが、こちらは本家本元である久司道夫氏の著書です。「入門編」との位置づけどおり、何も知らない人が読むには最適のマクロビオティック書だと思います。適度にすくない文量で読みやすく、それでいてポイントははずしていません。これだけ読んでも、その日から食事内容や生活内容を変えることも可能です。

 やはり他の健康本と同じ内容が多いのですが、ひとつ大きな違いがありました。玄米野菜食を中心とするのはいいのですが、野菜を食べるときにはなるべく火を通したほうがいい、というのが著者の考えです。僕がこれまで読んだ本では、だいたいのところ、野菜は生に近いほうがよい、との主張が多かったので、これは迷ってしまいます。
 マクロビオティックの中で、「一物全体」という考え方があります。食べ物はなるべく丸ごと食べるほうがいい、というものですが、これは、食べ物というのは、その全体で栄養のバランスが取れていることが多い、という考えに基づいています。野菜なども、なるべく加工をせず丸ごと食べるほうがいいのだとすれば、火にかけて本来の姿から遠ざけるようなことも避けるべきなのではないかという気もします。このあたりはもう少し勉強を進める必要がありそうです。

 ただ、前掲の「出すと病気は必ず治る」において、水のとりかたに疑問を感じていましたが、その答えのようなものが本書にありました。水は多からず少なからずがいい、というのです。つまり、水分補給がゼロではまずいけれど、多すぎてもいけない。夏の暑い日と冬のあまり体を動かさない日とでは、おのずから必要な水分量は変わってくる。個人によっても変わってくる。目安は、のどが乾いたと思ったら飲むこと。のどが乾いてもいないのに、やたらがぶがぶ飲むのは問題だ、とありました。
 考えてみれば当たり前のことなのですが、健康に気を配り始めた最初の頃に読んだ本に、水分はなるべくたくさんとること、とあったせいで、とにかく時間ごとにきっちり飲むようにしていたのですが、これからはすこしやり方を変えていこうと思います。
2007年 8月 「キッドナップ・ツアー/角田光代」 (新潮社・文庫)
直木賞作家、角田氏、初読。小学五年生の少女、ハルがユウカイされた。犯人はなんと、おとうさん! つながりそうでつながらない、奇妙な二人の“逃避行”はつづく――。
 これは児童文学ですね。書きようによっては大人にも読める小説になりうるとは思いますが、僕にはあまり受け入れられる要素はありませんでした。

 これはすごく大事なことですが、日常の淡々とした風景を描いてなお心に残る小説というのは、非常に難しい分野だと思うのです。ほんとにただの日常を描くだけなら、誰だって書けます。もちろん本作は、父親が娘を誘拐するという非日常な設定ですが、内容は海へ行ったり山へ行ったりスーパーへ行ったりと、ありきたりの日常です。
 物語が進んでいくのに、少女は成長せず、駄目な父親は駄目なままで、二人の結びつきが深くなることもない。これらは作者が意図的にそうしていることであり、たしかにそれで予定調和は避けられているかもしれませんが、ただそれだけのことです。小説としての深みに通じてはいかない。

 挿絵が出てくるのも、児童文学だなあと思わせる要素のひとつです。物語の筋と直接関係のないイメージイラストなどではなく、小説の内容がそのまま絵として提示される挿絵です。「私の目の黒いうちは、挿絵など絶対にいれさせない」と言ったのは、フローベールだったでしょうか。小説とは、文章によって頭の中に物語を構築するものであり、読者それぞれで、それまでの人生経験や置かれた状況により構築される内容は違ってくる。それこそが小説の醍醐味のはずです。それを挿絵によって限定してしまうのは、小説の命を奪う行為になりかねません。挿絵があるというのは、対象とされている読者の年齢層がかなり低く設定されているということだと思います。
2007年 8月 「緋色の研究/コナン・ドイル」 (新潮社・文庫)
一連のシャーロック・ホームズものの、記念すべき第一作です。ワトスンとホームズがいかにして出会い、一緒に住むようになったのか、ワトスンのホームズに対する印象はどうだったのか。じつは本作を読むのはこれが初めてでしたので、シリーズもののファンとしては、これらの点において非常に興味深く読むことができました。
 いっぽう、内容そのものとしてはどうかというと、まず本作は、というかホームズものの多くにあてはまる気はしますが、読者にすべての材料を提示し、誰が犯人かを予測させる、いわゆる本格推理小説ではありません。ホームズが、なんかこしょこしょっと調べて推理して、最後に謎が明かされる。なにせ犯人は<注意!!以下は、ネタバレ気味です。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>これまでどこにも登場しなかった人物なのです。
 大きく二部構成に分かれており、後半は犯人がどうして犯罪を犯すに至ったのかが詳細に描かれます。全体に言えることですが、ちょっとした描写がじつに巧みで引き込まれます。これは原文と訳の両方がいいからでしょうね。昨今のミステリーでは、取って付けたようなアイデア不足・技量不足の描写が氾濫していますが、その点では重厚かつ技量あふれる文章に魅了されます。ストーリーとしてはまあ、無難なところでしょうか。
 初版が出たのが1953年で、1995年に大幅な改訂がなされています。訳者の延原謙氏はすでに他界されており、その嗣子である展氏が、訳に手を加えたようです。外国語表現の統一や、あまりにも古く難解な表現を改めたらしいのですが、それでも古き良き言葉遣い・表現はきっちりと残されており、バランスのとれた訳になっていると思います。
2007年 7月 「利己的な遺伝子/リチャード・ドーキンス」 (紀伊國書店・単行本)
大著です。発表当時、生物学界を揺るがせたと言われています。90年代はじめから、エンターテインメント小説を中心に“遺伝子もの”が流行した時期がありました。なんでもかんでも遺伝子のせいでかたづける作品が多かったように思います。それらの多くが、本書から題材を得たものだといっても過言ではない気がします。

 遺伝子とは本来、自己の存続のみを目的に利己的に行動するものである、というのが著者の主張です。遺伝子の利己的な行動の目的はただひとつ、可能なかぎり永続的に自分の複製を存続させることです。
 ある生物が持つ遺伝子はその子へ、さらにその孫へと受け継がれていきます。遺伝子にとって、誰の体の中にあるのかというのはさほどの意味を持ちません。誰かの体の中で、自分の複製が生き続けていればそれでいい。そうした戦略を持って生物個体を操っているのです。この本の中で、生物個体(たとえば、まさに私たちのような人間一人一人)は、遺伝子のための「生存機械」、あるいは「乗り物」と表現されています。そう、生命の主体は、一人一人の生物個体ではなく、ひとつひとつの遺伝子だというのです。

 たとえば親が子に対しておこなうような、生物個体がときにみせる献身的な利他的態度も、じつは遺伝子の観点からすれば利己的な行動に過ぎないことが明かされます。
 有性生殖をおこなう動物の場合、ふつう、子は親の遺伝子の半分ずつを共有しています。親の一遺伝子の視点からすると、その遺伝子が子に存在する確率は2分の1です。このさき子供をもうける予定のない親は、自分がいくら生きながらえてもその体の中の遺伝子はそれ以上に存続はせず、親の死と共に途絶えます。いっぽう、子の中に存在する遺伝子はさらにその先、子孫を残す可能性があるとすれば、ずっと永続的に繁栄していく道が開けます。親の体の中にいる遺伝子は、「この親の命を救うよりも、子の命を救うほうが自分が存続するには都合がいい」と判断し、自分の「乗り物」である親に対し、危険を顧みずに子の命を守ろうとする行動をとるように操るのです。

 著者の主張は、べつに奇異なものではありません。よってたつ理論は、ダーウィンの進化論です。適者生存の法則を、利己的な遺伝子という観点から説明をしているのです。
 進化論においては、先述したような、生物の利他的な行動がうまく説明できませんでした。この難問を非常に明快に解き明かした点で、本書は喝采をもって迎えられたのです。
 アリの社会構造なども、利他的な現象の典型です。女王アリ一匹だけが自分の子孫を残すことができ、それ以外のすべての働きアリは一生を女王アリのために費やし、自分の子孫は残せない。それじゃ何のために働きアリは生きているのだろう、という大きな疑問が出てくるわけです。これについて、著者は明快に解答を示します。
 働きアリもまた女王から生まれた子供ですから、働きアリと女王の生む子供アリとは、兄弟姉妹の関係にあります。働きアリの体の中にいる遺伝子からすれば、女王の子供の体の中に自分の複製がいる確率は高いわけです。生物個体からすれば何の益もない利他的行動に見えても、遺伝子の観点からすれば、自分の複製を存続させるのに有効な利己的な手だてをとっていることになるのです。

 こうして生物個体はすべて、利己的な目的を持った遺伝子に操られていることになります。このような考え方を嫌う人も多いようですが、僕はたいへん興味深く読みました。前半部分は専門的な内容が多くてなかなか読みづらかったのですが、後半に入って様々な生物の例が紹介されることで一気に読みやすくなりました。ラスト近辺では、さらに進んだ議論が展開されます。たとえば、ある生物の体内の遺伝子が他の生き物を操ることもできる、というようなぶっとんだ内容です。しかし、ちゃんと読み進めていくと説得力はあるのです。

 ただ、けっして読みやすい本ではありません。著者は、なるべく専門的にならないよう留意したと述懐していて、確かにそうした努力は見えるのですが、やはり本書は専門書というくくりに入れたほうがしっくりきます。たとえば講談社ブルーバックスのようなわかりやすさはありません。これは翻訳のまずさにも原因はあります。4人の共同作業での訳のようですが、内容を正確に伝えようという意図なのか、直訳調なのが非常に読みづらく、同じ文章を何回か読み返してみてようやく意味がわかり、それだったら自分ならこういう風に書くのに、と思う箇所がいくつもありました。

 とにかく知的興奮を呼び起こしてくれる、非常に熱い本です。難しくて理解できなかった部分もまだたくさんあるので、是非もう一度頭から読み返してみたいものです。
2007年 7月 「愛/マルグリット・デュラス」 (河出書房新社・文庫)
「太平洋の防波堤」(感想はこちら)を読んで感激して以来、ブックオフで探しては購入し、読み続けているデュラス作品ですが、ちょっと息切れがしてきました。「太平洋の防波堤」「モデラート・カンタービレ」等の初期作品にくらべ、後年の作品はどんどん抽象性を増していき、普通の小説とはあまりにも違う形態に、どう評価すればよいものかわからなくなってきました。もちろんこれは僕の読解力の問題なのでしょうが、嘘を書いてもしかたないので、自分の感じたままの評価とします。

 舞台は、「S・タラ」と呼ばれる海辺の町。ここに、「旅人」と呼ばれる男、狂った女、機械的に同じペースで延々と歩き続ける男、などの名前のない人物が登場します。みんながどこかおかしく、会話もかみ合いません。これは小説というより、詩と解釈したほうが理解しやすいかもしれません。この作品から何を読み取り、どう楽しんだらいいのか、僕にはよくわかりませんでした。
2007年 6月 「合成洗剤 恐怖の生体実験/坂下栄」 (メタモル出版・単行本)
石けんと合成洗剤については、過去に様々な議論がなされてきました。僕はこれまでそうした議論にはほとんど興味はなく、あまり疑問もなく合成洗剤を使用してきました。しかし、昨年来健康に気を配るようになってからは、やはり洗剤についても留意し、なるべく石けんを使うようにしています。

 本書では、合成洗剤がいかに危険であるかが、様々な実験を通して述べられていきます。すこしセンセーショナルに過ぎる印象はありますが、理論的にはうなずける内容がほとんどです。人間の体は脂質で保護されていますが、界面活性剤は脂質を溶かして体内に入り込むから危険、という意見には納得できます。そして、石けんに比べて合成洗剤は分解しにくい、という点からは、昔、台所洗剤で手を洗った時に感じた違和感を思い出しました。小さい頃、何気なく台所洗剤で手を洗ったことがあって、石けんに比べていつまでもヌルヌルが取れず、何でだろうと疑問に思ったことがあったのでした。

 合成洗剤についての歴史も興味深かったです。ABS系からLAS系へと変遷し、最近では天然素材系がもてはやされています。しかし、天然素材から作り出したところで、石油から作られるのと同じ合成界面活性剤が出来上がるのなら、まったく意味はないわけです。このあたりのカラクリもよくわかりました。
 本書では語られませんが、石けんのデメリットというのももちろん、あるようです。ただ、それらを総合的に判断するとやはり、石けんを使うのが一番ということに僕の中では落ち着きそうです。
2007年 6月 「体温免疫力で病気は治る/安保徹」 (ナツメ社・単行本)
体調不良は、すべて低体温が原因だった――。
 人間にはもともと免疫という防衛システムが備わっていて、免疫が正常に機能している限り、けっして病気にはなりません。したがって、いかに免疫システムを正常に保つかが健康な生活を送るためのカギとなります。
 免疫システムにとって重要なのは、体温を高く保つことと、自律神経のバランスをとることが挙げられています。この二点は別々の要素ではなく、互いに深く関係しあっています。そこで、日々の生活の中で注意するべき事項がいくつか挙げられています。

 読み進めていくと、これまで僕が読んできた健康関連の書物との共通点がいくつも出てきます。まずは食事ですが、玄米菜食中心とし、旬の野菜をとること、素材を丸ごと全部食べることなどが挙げられています。塩分のとりすぎよりも砂糖のとりすぎに注意するというのも、他書と共通しています。糖類を単糖類・二糖類・多糖類とに分け、単糖類、それから砂糖などの二糖類は分解が早くて急激に血糖値をあげるかわり、また急激に下げることになるから良くないとする理由づけも、本書で再確認することができました。

 シャワーよりも浴槽につかること、早く寝てしっかり睡眠をとること、ストレスをためないこと、電磁波に注意すること、薬はなるべく飲まないこと、なども挙げられています。ここで、ストレスに関する記述に興味をひかれました。
 ストレスの種類が時代と共に変わってきた、と著者は言います。貧しかった時代には、過酷な環境を生き抜くための重労働、飢え、暑さ、寒さなどの肉体的ストレスが主でした。高度経済成長時代に入ると、出世や受験など人との競争、人間関係がストレスの主役となりました。そして現代は、“イメージ”がストレスの主役になっていると著者は指摘します。
 ストレス性疾病の例として、過敏性腸症候群があります。学校や会社に行こうとするとお腹が痛くなる病気です。これは、「この先一週間、どんなイヤな目に遭うのだろう」と自分が勝手に作ったイメージにストレスを感じているのです。そうでなくても将来に不安を抱えて生きている人は多いものです。肉体的ストレスでもなく、実際に経験している人間関係でもなく、これから先起こるかもしれないことを見越した“イメージ”がストレスを生んでいるのです。
 近代の歴史は、肉体的ストレスの軽減を追求してきた歴史と言えます。いかに楽に移動するか、いかに家事を楽にするか、いかに暑さ寒さをしのぐか。これらをひとつひとつ実現してきた今、人間が得たものは、傷つきやすい心と体でした。「ストレスのない社会を追究してきたら、ストレスに過敏な社会になってしまった」という著者の言葉は、僕の胸に突き刺さりました。

 著者は新潟大学大学院医学部教授であり、医学的な記述にも信頼がもてます。自律神経と白血球の関係についてもたいへん勉強になりました。交感神経が優位になると、白血球のうち顆粒球が増えます。顆粒球は外部から入ってきた細菌などを退治するためのものです。いっぽう副交感神経が優位になると、今度はリンパ球が増えます。こちらはウイルスなど小さな敵や、体内で発生した不要物の処理にあたります。活発に行動して交感神経が優位の状態にある時は、外部からの侵入に対処し、のんびり体を休めたり食事をしたりして副交感神経が優位の時には、食べ物と共に入ってきたり消化の過程で生じる不要物を処理するよう、体がうまく働いているのです。
 アトピーや花粉症などのアレルギー反応についても、免疫システムの不具合としてわかりやすく説明されていました。それから、がんの治療法として、体温を上げて対処する温熱療法が紹介されていました。
 この前読んだ甲田光雄先生の少食健康法についても少し触れられています。こちらは安保先生の理論とは食い違うのですが、これをあからさまに否定するのではなく、こういう意見もあるのだと真摯に受け止めている姿勢に好感が持てます。

 さらにこの本は、僕がこれまで健康関連の書物を読んでいて常に頭にあった疑問について、光明を与えてくれました。どの書物にも共通しているのですが、体を保護しようとする側面と体を鍛えようとする側面がないまぜになっている気がするのです。つまり、「○○は体の負担になる。だからやめよう」という面があれば、「△△は体の負担になる。だからこそ体を鍛えるため、このまま続けよう」という面もある。ここで迷ってしまいます。体を過保護に扱うのがいいのかスパルタ式に育てるのがいいのか、わからなくなってしまうのです。僕が今信じて続けている西式健康法についてもそれが言えます。
 この点に関して本書は、「少しのストレスをおそれない」という章でうまく説明しています。たとえば磁気ネックレスは、体に磁場という負荷をかけることで血流の増加をうながします。この点で磁気ネックレスは体に良いものなのですが、体の弱っている人がつけるとかえって体調を崩すことがあります。これは、健康な人なら体にかかった負荷をはねのける力がありますが、体力がない人はそれができないためです。同じ磁気ネックレスをつけていても、体調が良くなる人がいれば悪くなる人もいるのです。

 また、別の例として、漢方薬の効き方が挙げられています。漢方薬も要するに負荷をかけることにより交感神経を刺激し、自然治癒をうながしているのです。だからやはり漢方薬で治る人もいれば余計に悪くする人もいます。
 つまりはバランスなのだ、ということを深く認識しました。体に負荷をかけることと、体をいたわること、どちらも大事であり、それらをバランスよく取り入れていくことが大事なのだと思います。あたかも、本書で何度も語られた交感神経と副交感神経が、一方だけが優位に立ち続けるのではなく、場合に応じてそれぞれが優位に立ったり弱まったりするのと同じように。
 著者の安保先生は、普段は食や睡眠などに気をつけているものの、たまに大酒を飲んだり遅くまで起きていたりすることをわざとやっているそうです。もちろんストレス発散の意味合いもあるでしょうが、たまに体に負荷を与えることも必要、との認識からそうしているのだそうです。非常に面白いやり方だと思います。
1972年、全国民をテレビの前に釘付けにした、「あさま山荘」事件が起きました。当時僕は5歳でしたから生の記憶はありませんが、折に触れ流れる映像、とくに「プロジェクトX」でのそれにはいたく興味をそそられたものでした。著者は当時の警視庁に所属し、本事件では警備幕僚長として活躍された方で、ここ数年はテレビでもよくお見かけします。

 文章を本業とする方ではないので、少々読みづらい面はあります。事実だけを淡々とつなげていくほうが緊迫感が出るのに、自分の見解や、センスがあるとは思えないジョークがはさまり、文章の密度が薄れています。ちょっと文章が得意な人が趣味で書いた本、と言うと悪く言い過ぎになりますが、まあそんなところです。赤軍派との抗争を原点からたどる意味合いのためか、あさま山荘以前の経緯にかなり紙面が割かれ、なかなか本題に入っていかないのももどかしく思いました。

 それでも、当時の警察側の混乱がいかにひどいものだったか、雰囲気がよく伝わってきます。長野県警は地元としての意地から、“よそ者”の警視庁を信用せず、自分たちに任せろと主張する。しかたなくその通りにさせると、経験不足が露呈して失敗する。いっぽう上層部の人間は現地におもむくでもなく、楽な場所から無理な注文を出す。これでは現場で指揮をとる役はたまったものではなかったでしょう。著者の佐々氏は、多少ワンマンで頑固一徹な感じはありますが、そういう性格でないと務まらない仕事だったと思います。
 そして、冬の軽井沢という極寒の状況も、捜査陣を悩ませる大きな要因となったのでした。隊員に配られる弁当が現場につく頃には凍って食べられなかった、というエピソードなどを読んでも、犯人以外にも敵は多く存在するのだということがよくわかります。

 終盤に近づくにつれ、シリアスな場面が出てきます。とくに、隊員が撃たれ、亡くなるシーンや、強行突破で山荘内に突入し、ついに犯人を逮捕するシーン、逮捕後に関係者達が男泣きするシーンなどは、読んでいて胸が痛くなりました。

 最後に、読みながら非常に憤りを覚えたことがあります。それは、マスコミという“害悪”です。なんであれだけ捜査の邪魔をしなければならないのか、また警察側はなぜそれを甘んじて受けなければならないのか、理解できません。人命救助のために警察は救出活動を行っているのです。視聴者に真実を伝えることは確かに重要ではありますが、報道機関がすべてストップしても、別に社会的な損害はないはずです。なんで警察があんなにマスコミにおもねる必要があるのでしょう。報道協定なんてまったく不要だと思います。目に余る行動については、裁判を起こしてもいいとさえ感じます。
2007年 5月 「足首ポンプ健康法/西万次郎」 (メタモル出版・新書)
著者の西万二郎氏は、西医学の創始者である西勝造氏の孫にあたり、西医学の実践と普及に努めてらっしゃいます。ここで紹介される「足首ポンプ健康法」とは、正式名を「上下運動」といい、同じく西医学の実践者である稲垣多美作氏により考案されました。やり方は簡単で、直径6〜10cm程度の丸太の上に、足首を打ちつけるだけです。寝転がったり足を投げ出して座った体勢でおこなえます。これだけでいろんな病気が治る、というと眉唾ものだと思われるかもしれません。ただ、西医学を知り、その延長線上で考えられた手法であるとなると、説得力が違います。

 僕は実際、この健康法を実践しています。効果はてきめんで、寝る前におこなうと、本当に寝付きがよくなり、眠りも深くなります。やるとすぐに血流がよくなり、体が温かくなるのが実感できます。手首を同じように打ちつけることもでき、こちらは腕や上半身の血流がよくなります。
 僕の妻にもすこぶる好評で、百円ショップで買ってきた丸太を使い、二人して毎日、ぽんぽんと足首を打ちつけています。
軽い、かる〜い本ですね。狐狸庵とは作家遠藤周作氏、マンボウとは同じく作家の北杜夫氏のこと。私生活から仲の良いお二人による、ごくかる〜い対談集であり、それ以外の何物でもありません。遠藤氏のエッセイには、軽いながらも味わい深い内容が含まれていて好きなのですが、そういう感触さえこの本にはありません。仲のいいことはわかりましたので、それはどこか他でやってください、という感じですね。
2007年 5月 「ペテン師と空気男/江戸川乱歩」 (春陽堂・文庫)
表題作である中編は、空気男という存在が特異で面白いですね。乱歩の既存作品から想像するに、“空気男”と聞くと不気味な印象を受けますが、これがまったく逆で、特徴も存在感もない気弱な男なのです。この空気男の語りで話が進んでいきます。ペテン師はとにかく人を騙すことが大好きで、何の得にもならないことを人前でしでかし、それを生きがいにしている人物です。彼ら二人が電車の中で不思議な出会いをし、奇妙な交遊がはじまります。ラストの展開が急すぎて尻すぼみな感じがあるのが残念ですが、おおむね楽しめる作品です。
 そのほか、ミステリー仕立ての「堀越捜査一課長殿」「妻に失恋した男」、怪奇仕立ての「防空壕」「指」など、佳作ぞろいの中短編が楽しめます。
2007年 4月 「深夜特急4/沢木耕太郎」 (新潮社・文庫)
人気シリーズの第4弾。安定して楽しむことのできる作品ですね。今回の旅は、ようやく出発予定地だったインドのデリーに到着した著者が、インドを離れ、パキスタン、アフガニスタンを経てイランにまでたどり着く道行きです。
 デリーは意外なほどあっさりと描かれ、すぐにアムリトサルへと出発します。アムリトサルはシーク教の総本山です。このあたりを読みながら僕は、インドで入院した時にお医者さんがターバンを巻いたシーク教徒だったことを思い出しました。
 さらに思い出すのは、テレビドラマ版の同作です。大沢たかお氏主演で、現代風のアレンジが施され、原作とは微妙な違いがあります。どこが同じでどこが違うか、比較しながら読むのも楽しいものでした。
 最後にたどりつくイランのイスファハンという街は、テレビで見ると本当に美しいところでした。機会があれば訪れてみたい場所の一つですが、なかなか行ける場所ではないですね。

 本シリーズを読んでいていつも思うのですが、沢木さんの旅に対する向き合い方がすごく好きです。こうした貧乏旅行を続けているとどうしても、旅の目的を見失いがちです。そして、いかに安く済ませるか、いかにたくさんの国を訪れるかだけに日々を費やしてしまい、そこにのみ価値を見いだすようになる。沢木さんもそうした成り行きを経験しつつ、それを客観的にとらえて修正していきます。完璧に考え方を固定してしまわず、いつも悩みつつ、それでも前向きに、その場その場での身の振り方を決めていく。その過程が如実に文章に表現されていて、共感を覚えます。

 巻末に、文化人類学者兼批評家である今福龍太氏との対談が掲載されています。今福氏のことはまったく知りませんが、いかにも批評家然とした言い回しがなんとなく空回りしていて、沢木さんとの会話がかみ合っていない気がします。
医療崩壊――最近、各所で目にする言葉です。産科医・小児科医の数が激減し、開業医が増えている。理由は、医療行為において、医師側の責任が理不尽なまでにおしつけられるようになったことにあります。

 手術その他により患者が死亡したり甚大な被害を被った場合、医師や看護士が刑事告発されることが多くなりました。有罪になれば即犯罪者、そうでなくとも厳しい尋問にさらされ、著しく疲弊することになります。悪意があったり怠慢な医療をほどこす医師も中にはいるでしょうが、大半は真摯な姿勢で医療に臨んでいるはずです。なのに、ミスをすれば刑事告発される。これはたまったものではありません。犯罪者となるような危険はできるだけ避けようと思うのは当然です。自然、職を辞めるか、開業医へと転向することになります。

 僕は数年来、臓器別診療と投薬・手術中心の現代医療に疑問を持ち続けてきました。医者を非難しているのではありません。要は医療そのものの抱える問題です。
 もともと医療には限界があるのです。本書を読んでそのことをまず再認識し、さらに理解を深めました。著者は虎ノ門病院に勤務する、現役の泌尿器科勤務医です。現代医学に関する著者の主張をまとめると、以下のようになります。

・医療には限界があるだけでなく、それ自体“危険”なものである。
・検査を含む多くの医療行為は、身体に対する侵襲(ダメージ)をともなう。
・現代医学は、体におこっていることをおおまかに想像する程度の能力しかない。
・人体は個人によって状況が大きく異なる。同じ医療行為を行ってもその結果は確率的に分散する。たとえば、望んだ最良の結果が50%の確率で起こり、30%はほぼ良好な結果、15%があまり良くない結果、5%が悪い結果、という具合にである。結果がどうなるかは事前に予想できるものではない。最良の結果を望んでおこなった医療が最悪の結果となる場合もあり、これは決して避けられない。
・医師側からみた上記の主張に対し、一般国民からみた見解は大きく異なります。安全・安心神話がはびこり、病気になっても医者が適切な医療をほどこせば必ず治る、治らなかったりましてや悪くなったりすれば医者の責任だ、となる。こうなると、長く続けていればどんな医師でも犯罪者となってしまいます。


 裁判においては、被害者救済が大前提としてあるため、どうしても医師側に不利な判決が出やすくなります。ましてや裁判官は医療に対して無知であり、行われた医療が適切であったかどうかを判断する能力はありません。
 判決を医師側に不利に傾けている原因は他にもあります。裁判では「社会通念上の判断」が引き合いに出されることが多く、世論に大きく左右されます。世論を構成する大きな影響力を持つのがマスコミです。マスコミこそが冷静なる情報収集とそれによる判断をおこなうべきなのに、あくまでも患者側の意見のみに耳を傾け、感情論的に医師側を非難します。かくして医師や看護士に刑が下ることになります。

 もちろん医療サイドにも落ち度がある、医療ミスを防ぐための手だてを怠っている面はある、と著者は言います。ただし、こうした手だてには、コストがかかるのです。現在、とくに大病院の勤務医や看護士は、過酷な労働を強いられています。医療費が増えない状況の中では、医療従事者の注意に頼るしかなく、とうにそれは限界を超えています。「人の命がかかっているのだから」というのは単なる言葉にすぎず、毎日の過酷な労働の中で、コストをかけずにミスをゼロにすることは至難の業です。頻発する医療事故は確かに問題ではあるけれど、それらをすべて医療従事者の努力で解決するのは不可能です。

 本書では、医師側からみた上記の状況が、叫びにも似た筆致で述べられています。それでいて、医療サイドの問題も含め、努めて冷静に、今後の方法論が述べられています。本書で提示されている解決策が有効なのかは僕にはわかりませんが、医療事故を医師や看護士の落ち度として裁くことには大きな問題があることはわかります。

 著者の主張に反論するわけではありませんが、患者が医師を敵対視することになる要因を二つ、書いておきたいと思います。
 一つは医師の態度について。著者は、医療従事者の大半が、人の生命を守るという真摯な目的を追求しており、ごくまれに怠惰であったり技術が未熟だったりする者がいる、という認識をしています。僕の経験から判断すると、医師や看護士の半数にはそうした正義感はあまり見られず、日々の業務として淡々とこなしており、さらに医者の一割程度にはあきらかに傲慢な態度が感じられます。もちろん、過酷な労働条件の中でやむをえずそうなってしまった経緯はあるとは思いますが。
 こうした医師に対応する患者は、いつもどこか不満をかかえがちであり、そこへ来て医療ミスによる死亡や甚大な被害があった場合、不満が爆発して怒りが一気に医師に向けられることは、わからないでもありません。
 もう一つは、体が健康な時に考えることと、実際自分が病気になったり身内が病気になったりした時に考えることには、大きなギャップがあるという点です。著者にはおそらくそうした経験がないように思えますが、これは非常に大きな要素です。自分の体が苦痛にさらされたり、辛そうな身内を見たりする者は、もう正常な判断ができなくなっています。それはどんな人間でも大差はなく、これを非難することは僕には難しいです。

 本書にはほかにも、薬害エイズ問題、諸外国の医療の実態など、非常に興味深い内容が多く含まれています。医療の抱える問題は、人間の根本をなす問題でもあり、解決はたやすいことではありません。それでもとにかく、日本の医療界の直面する危機を鋭く指摘した名著であることは間違いありません。
ブローティガンを読むのは、「ロンメル進軍感想」「アメリカの鱒釣り感想」につづき3作目ですが、またしてもてごわい作品でした。小説におきまりのストーリー展開を望むとしたら、本作はまったく理解不能となるでしょう。
 文章は何の変哲もないのに、内容が自分の中で消化されていかない。そのもどかしさをずっと感じながら読んでいた気がします。
 とても静かな物語なのに、めまぐるしく場面が展開している印象があります。読む驚きの連続とでもいうのでしょうか。動物がとつぜん喋りだし、部屋の中には川が流れ、人が埋葬される。西瓜糖の世界は、静寂と喧噪、正常と異常とが混じり合い、あやういバランスを保ちながら存在します。静かで平和な世界のすぐそばで、影のように常に死のにおいがする。本作は1960年代のアメリカで書かれたものですが、作者の目には、当時の世相がこのように映っていたのでしょうか。静かな場所で、もう一度読み返してみたい作品です。

 巻末に、訳者である藤本和子さんの文章が掲載されています。ブローティガン作品の味わいは、やはりこの人の翻訳に負うところが大きいと思います。短いですがとても素晴らしい文章です。
もう10年以上前に読んだ本の再読です。最近は料理に凝っているせいで、余計に面白く感じました。というか、料理に凝っているせいで再読しようと思い立った訳ですが。

 本書には、「ひとり ひとつき9000円」というサブタイトルが付いています。とにかく徹底的に食費を安くあげるための方法が列挙されています。ただ、単に安く済ませるだけでは粗悪な食材を買うことになりますが、そうではありません。いい食材をいかに安く、いかに効率的に調理するか、著者が主張するところの「清貧健康美食」の方法が書かれているのです。

 この清貧健康美食のためには、いくつかのポイントがあります。まずは食材として、乾物を積極的に使います。鰹節、煮干し、昆布などの定番はもちろん、ひじき、するめ、ホタテ、椎茸、キクラゲ、各種豆類、海苔などなど、数十種類の乾物がその使用法とともに紹介されています。
 もうひとつの大きなポイントは調理法にあります。名付けて「保温調理」。これは最近、シャトルシェフという名で売っている鍋の理屈です。煮込み料理において素材に味がしみこむのは、温度が下がっていく過程だそうです。そこで、長時間煮込むのではなく、いったん沸騰させてしばらく煮たら火を止め、できる限りゆっくりと温度を下げていきます。これで、ガス代を節約しながらおいしい料理ができあがる、という寸法です。このため、鍋を発砲スチロールの箱に入れて保温します。わが家でもこの保温調理を駆使していますが、煮込む時間が半分でおいしい料理ができあがります。

 さらにもうひとつ、ここがすごいのですが、著者は加工品はいっさい買いません。自分で作ったほうが安くておいしいものができるからだそうです。うどん、ラーメン、チーズ、ハム、豆腐など、いろんな物を独自の方法で作り、それらがすべて激安ででき、さらに売っているどの商品よりも美味しいというのですから驚きです。

 ちょっとした料理のコツなんかもたくさん紹介されていて、油を使わない野菜炒め、酒粕まんじゅうなど、実際に試してみました。食費が月9000円、とまではいきませんが、安くておいしくて健康的な食生活がかなり実践できるようになりました。そこまで切りつめる必要はなくても、普段の料理を作るうえでヒントになることがたくさん書いてあります。
2007年 2月 「後宮小説/酒見賢一」 (新潮社・文庫)
第一回ファンタジーノベル大賞受賞作。本作を称えるレビューはいたるところで散見されます。どんなにすごいんだろう、とずっと読みたかった作品ですが、僕にはやはりファンタジーは向いていないのかもしれません。たしかに面白いとは思うのですが、皆さんがおっしゃるように熱狂的に支持したくなるほどではなかったのです。

 舞台は中国を模した架空の国「素乾」。この国にまつわる歴史書が何冊かあって、筆者がそれをもとに注釈を交えながら物語を紡ぐ、という体裁をとっています。この構成が本書における第一の特徴であり、リアリティを増すのに効果を発揮しています。「後宮」とは、王に仕える宮女たちが夜のお相手をするための手ほどきを学ぶ場所であり、なかなかにセクシャルなシーンも出てきたりします。ただ、総じてさわやかに描かれているため、嫌みはありません。主人公は銀河という名のまだ十代なかばの少女で、天衣無縫な彼女がいかにして後宮で最高位にまで上りつめたか、その過程で出会う様々な人物とのドラマを交えながら物語が進んでいきます。

 本作はアニメ化されて人気を博したようですが、なるほど、確かに現代アニメを見ているような読感ですね。その意味でもなんだか乗り切れませんでした。
2007年 2月 「破戒/島崎藤村」 (新潮社・文庫)
「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン75冊目。ようやく4分の3まで来ました。島崎藤村を読むのはこれが初めてでしたが、名作の誉れどおり、読み応えのある作品でした。

 部落出身の教員である主人公は、「身分を隠せ」と父からきつく戒められます。おなじく部落出身の運動家に傾倒し、正義感と父の戒めとの間での葛藤を抱えながら、ついに戒めを破るまでの心の成り行きが、みごとに描き出されています。

 読み始めると、純文学にしてはいささか疑問を感じる表現につまずきます。通常はあまり歓迎されない体言止め(名詞や代名詞で文が終わる形態)や、メモ書きかと思われるような、文の途中で乱暴に切れるような文章が頻出します。なんだ意外に悪文なのかな、などと思いつつ読み進めてみると、これが実に味わい深い文章だと気づきます。
 ストーリーの起伏に乏しいという点で読みづらさは多少あるかもしれませんが、なにしろ主人公丑松の二転三転する心理状況をたくみに表現し、最後は山が崩れるかのごとく自分の素性を明かしてしまう、この迫力はすごいものです。<<注意!!以下は、ネタバレ気味です。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>教壇に崩れ落ちながら、涙にむせて許しを請う姿には、読みながら涙を誘われます。

 僕が読んだのは新潮文庫128刷版で、本文は414ページまでなのですが、この後に延々80ページほどにもわたる注解・解説が掲載されています。本書は、差別を扱う作品としてのさだめか、やはり各所で問題書として挙げられ、絶版になったり、大幅な改稿を強いられたりという歴史をたどっています。改稿においては、やはりこの手の修正によくある話で、表現がごまかされて確かに差別的意味合いは薄れているものの、主題が歪められたり、文章の力が損なわれたりすることになったようです。この128刷は、元の形がほぼ再現された版ということで、これを読むことができて本当によかったと思っています。
2007年 2月 「家庭でできる食の安全術/増尾清」 (祥伝社・単行本)
残留農薬、添加物、環境ホルモン、遺伝子組み換えなど、ふだん口にする食品には、様々な危険が潜んでいます。本書では、できる限り安全な食品をとるための銘柄・成分表示の見方、下ごしらえの仕方などが食品の種類に応じて詳しく書かれています。また、こうした危険物質を中和させるために活性酸素が体内で発生しますが、この活性酸素がまた体にダメージを与えるため、活性酸素を打ち消す抗酸化物質が必要となってきます。このためのレシピが多数紹介されています。

 下ごしらえの仕方などは、実践するにはかなりの手間を必要としますし、食品の栄養素までも失われてしまうようなやり方なので、疑問が残ります。やはり購入する段階で食材を厳選し、必要最低限の下ごしらえでいただく、というのが最適な気がします。僕も今、なるべくそうした方法をとるようにしています。
 119〜120ページに、食品添加物の中でとくに気をつけたいものが載っています。これは参考になると思います。
相互リンクして頂いている「毒りお缶」のりおさんが高い評価をされていて興味を持ち、いつかは読んでみたいと思っていました。
 著者は、小売業者に対するコンサルトをおこなう会社の創業者です。商店やレストラン、銀行などにおいて、顧客の行動を徹底的に観察し、統計的手法によりそれを分析し、改善提案を出す。やり方は原始的とも言える方法で、ある客が入り口から入って何秒で最初の商品を手にとり、何秒で買う物を決め、何秒で支払いを済ませて出て行くか、その間にどういう行動をとったか、などをメモにとり、カメラ、ビデオに収める。これを何百人となくくりかえす訳です。つまり、顧客のニーズに合わせた商品の陳列や販売促進をおこなうにあたり、誰もが思いつきながらその手間の膨大さに誰もやろうとしなかったことを、愚直に実現した訳です。

 やり方が原始的とは書いたものの、そこから得られる見解には、興味深いものが数多くあります。本書の副題に「ショッピングの科学」とありますが、まさにこれは行動科学、あるいは人間工学に近いものだと思います。
 人は、店の入り口でどう考え、どう振る舞うのか。店内でどう動くのか。それらをきちんと把握することで初めて、店内配置が決まります。また、顧客の年齢や性別によって店内での行動にも店側に望むことにも違いがあり、それらに配慮する必要もあります。

 これはマーケティングに似てはいますが、実態はかなり違います。主にアンケートに頼っているマーケティングに比べ、およそこちらの方が実態に近いと言えるでしょう。ただ、どこが悪いのかを言い当てることはたやすいですが、どうすれば良くなるのかを考えて実践することはそう簡単ではありません。店の中では様々な要素が絡み合い、ある点を改善しようとすると別の難点が発生するということはよくあります。局所的に問題を解決しても、全体として問題の数が減っていなければ意味はありません。
 単純な例としては、たとえば入り口近くにスペースを広く取ったほうがいい、という調査結果が出たとして、その通りに実践してたしかにそこに置いてある商品が売れたとしても、スペースを広げたために別の商品を置くスペースが狭くなり、店全体の売り上げは変わらなかった、などというケースがあります。あとは、待ち行列を減らすためにはレジの位置はこちらのほうがいい、と言われても別の理由でレジの位置が変えられない場合もあるでしょう。
 ただ、著者の経営する会社は、どこが悪いのかを指摘するだけでなく、具体的な改善提案をおこなっているのが、たとえば批評家などの仕事とは異なる点です。そうして売り上げを伸ばした実績の話が多数紹介されています。小売業を営む人には、かなり参考になる点が多いのではないかと思います。
2007年 1月 「そのクスリを飲む前に/吉田均」 (東京新出版局・単行本)
著者は開業医であり、タイトルからして、薬の効能を紹介する本だと思っていました。医者からもらう薬にはどんな効果があるのか、危険はないのか等の知識を得たいと思って購入したのですが、本書の内容は違っていました。

 述べられているのはずばり、「医薬分業のススメ」です。最近、薬の院外処方をおこなう病院が増え、患者から不満の声があがっているようです。僕も当初は、これまで病院でもらえてたのに何故わざわざよその薬局へ行かなければならないのか、今ひとつよくわかりませんでした。その疑問に、本書は鮮やかに答えてくれます。

 まず冒頭から驚かされたのが、「医者は必ずしも薬の専門家ではない」という言葉です。薬には必ず効能と副作用があり、他の薬との飲み合わせでの副作用もある。医者は、それらをすべて把握して処方しているわけではなく、患者が思うよりその知識は低いというのです。
 医療保険で扱える薬は約1万3000品目あるのに対し、医学部での薬理学の授業は数十時間程度。講義の内容は入門程度のもので、副作用の種類やメカニズム、対処法などを系統立てて学ぶことは一度もなかったと著者は言います。教育現場においては、医学と薬学が完全に分離していて、医学生が薬学部の授業を受けることなどないそうです。臨床医学の授業においても、「医者は診断の専門家」ということを教えられ、薬物治療はほんのさわり程度でしかない。卒後研修になって初めて、先輩の医者をまねることで薬の処方術を学ぶ、というのが実態だそうです。これでは薬の副作用・飲み合わせの危険性などの知識が深まるはずはありません。

 だからといって、医者はもっと薬について学ぶべきだ、ということではありません。「診断の専門家」になるだけでも相当の知識・技術を身につける必要があります。さらに、実際の医療現場で働くようになれば、山のような患者一人一人について病気を診断し、治療方針を決め、薬を選択し処方するだけで手一杯であり、さらに薬の調剤、服薬指導、副作用のチェックなどまで求められるのはあまりに負担が大きすぎます。このために、「医」と「薬」の機能を二つに分けようというが筆者の主張です。そうすることで医者は診断に十分なエネルギーを注げるようになるのです。

 それでも、医薬分業に反対する声は多くあります。医者側からも、患者との信頼関係が崩れる、二度手間になり患者負担が増える、等の意見が根強いようです。
 本書では、薬の副作用による事故が多数紹介されています。薬と食べ物との組み合わせでも副作用は起こり得ます。そうした事故を防ぐためには、医薬分業は不可欠であると著者は言います。こうした主張を、僕は正当だと思います。

 医者が薬を手放したくないもう一つの理由は、薬の販売がもうかるから、という本音もあるようです。この点についても、もし医薬分業が進めば、もうけるためにたくさんの薬を出すということが防げることになります。だいたい今の医者は簡単に大量の薬を出しすぎです。どれだけ多くの薬を処方しても医者のもうけは変わらないとなれば、自然と必要最小量に抑えられていくでしょう。

 ただ、単純に院外処方にすれば済む、という問題ではありません。薬剤師が医者の処方箋に従って機械的に調合するだけでは、ほとんど何も変わらないからです。ここで薬剤師の技量が問われます。医者の処方箋を見て、@投与量が多すぎないか、A年齢にあった量か、B他院の薬との重複がないか、C飲み合わせが悪くないか、D服薬方法に問題はないか、等々、様々なチェックをおこないます。もし問題がみつかれば担当医に連絡(「疑義照会」という)をし、処方の変更を依頼する、という手順になります。つまり、薬のプロである薬剤師が診断のプロである医者の援護をおこなうことで、初めて医薬分業に意味が出てくるのです。

 ここからのプロセスが難しい、と僕は思います。多くの社会問題に言えることですが、問題点を指摘するのは簡単だけれど、それを解決することは困難を極めます。上に書いた医者と薬剤師の連携は理想であり、実現すれば確かに意義深いでしょうが、そう簡単には進まないでしょう。
 僕には、薬剤師の疑義照会に対し、素直に応じる医者は少ないように感じます。薬剤師からの指摘を、「俺の処方に文句があるのか」ととらえ、受け付けようとしない傲慢な医者の姿が目に浮かびます。それどころか、連絡の電話にさえ出ないのでは、とも思います。悪気はなくとも、そんな暇さえないほど忙しい医者も多いでしょう。

 逆に、薬剤師側が医者に遠慮をして疑義照会をおこなわないというケースも考えられます。もともと、病院と薬局との癒着は昔から少なからずあったようです。病院が特定の薬局を専属にして患者を紹介し、リベートをもらうという行為です。今ではこれは禁じられていますが、病院が薬局を紹介することはまだ続いています。
 僕も経験がありますが、病院で薬局のリストをもらって、「ここに行って下さい」と指示されることがあります。また、処方箋を薬局にファックスで送る病院もありますが、厳密にはこれらはすべて違法です。患者は、病院でもらった処方箋を、好きな薬局で調剤してもらえるのです。
 この際、自分のかかりつけの薬局を持つのがよい、と著者は言います。前述した薬剤師によるチェックのうち、薬の重複や飲み合わせをチェックするためには、その患者が他にどのような薬を飲んでいるかを薬局側が把握している必要があるからです。過去に飲んだ薬で副作用があったことなども、本人は忘れていても薬剤師が覚えていて対処してくれる、ということもあります。
 この点についても、確かにそのメリットは納得できますが、逆に病院と薬局がつながっていることでのメリットもあります。それは、保険で扱う約1万3000品目の薬を、すべての薬局が常備しているわけではないということです。大きな薬局でさえせいぜい2000品目ほどらしいのですが、ひとつの病院の専属だと使われる薬は限られているため、これでも間に合います。しかし、どんな病院からの処方箋にも対応しようとすると膨大な費用がかかってしまい、現実的ではありません。したがって、処方箋を持っていっても、該当する薬が薬局にない、という事態が生じてしまいます。

 けっきょく医薬分業は、賢い医者、賢い薬剤師、賢い患者、この三つがそろって初めて機能するシステムだと思います。今のままでは、単なる表面的な改革に終わってしまいそうです。
 それはさておき本書は、医薬分業の基本について実例を交えてわかりやすく書かれた好著です。
2007年 1月 「海馬/池谷裕二・糸井重里」 (新潮社・文庫)
「海馬」というのは、脳の中で記憶を司る部位のこと。ただ、記憶を留めておく部位ではなく、五感で収集した情報がそこを通ることでしかるべき位置に納められる、そのための情報整理をおこなう場所です。この海馬を研究してらっしゃる池谷氏と、コピーライターの糸井氏との間でかわされる、脳に関するたいへん興味深い対談集です。

 人間の脳にはいかに可能性が秘められているか、また、脳がいかに自分に都合のいいように事実を歪めるかなど、池谷さんの口から科学的根拠とともに語られる内容はとても面白く、、さらに糸井氏の絶妙な合いの手により話が深まっていく過程は、知的興奮をかきたてられます。

 脳の細胞は生涯減り続け、増えることはないと言われている中で、海馬の神経細胞は増え続けていくという話も面白かったです。また、脳は全体の2%ほどしか使われていない、というようなことはよく聞きますが、それなら脳を100%使えばすごいことができるのかというと、どうやらそうではないらしいんですね。脳細胞は、常にどんどん死んでいます。体全体をつかさどる脳細胞がもし100%を使い切っていたとしたら、常にどこかがおかしくなる、という状況が生まれます。脳には大きな無駄があるのです。「無駄」を言い換えるなら「余力」、あるいは「危機回避能力」となるでしょうか。つまり、脳細胞がどんどん死んでいっても大丈夫なように、あるいは、急に大きな処理能力を求められても対処できるように、普段は全能力を使い切らない仕組みになっているんですね。これには感心させられました。
2007年 1月 「ふたり/赤川次郎」 (新潮社・文庫)
「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン74冊目。赤川次郎氏の作品を読むのは初めてかもしれません。
 高校生と中学生の姉妹の物語です。十七歳で亡くなった姉の声が妹の頭の中で聞こえるようになり、そこから二人の“共同生活”がはじまります。

 まあとにかく、軽いですね。姉が死ぬシーンからして、こんなんでいいのって思うぐらい軽い。文章には何ら文学的意味は見出せず、内容も、妹の頭に聞こえる姉の声という設定から想定される範囲をまったく超えていません。大人が読むにはちょっと辛い内容かなあ。
著者の渡辺正氏は、西医学研究所所長でいらっしゃいます。西医学は、以前に読んだ「西式健康法入門」(感想はこちら)で詳しく紹介されています。本書のほうは西医学の特徴である朝食抜きと断食を中心に、よりわかりやすく書かれています。西医学について、現代科学で得られたデータなどが追加されていますが、いずれも理論を実証するための裏付け程度のもので、「西式健康法入門」を読んだあとでは得られるものは多くはありませんでした。だからと言って悪い本ではなく、西医学の一般向け入門書としてはいい出来だと思います。
大阪にある甲田医院の甲田光雄先生は、西医学を実践する医学者としてもっとも有名な方です。「断食博士」の異名をとり、西医学の中でも断食にポイントをおいて患者さんを治療してらっしゃいます。実際、全国から患者さんが訪れ、数々の難病を治された実績があります。
 本書は、医学ジャーナリストの東氏により、甲田式の健康法がまとめられたものです。西医学をほぼ伝承しながら、水の飲み方などに独自の理論がみられます。その他、自分で断食をおこなうやり方などが詳しく紹介されています。
2007年 1月 「「砂糖は太る」の誤解/高田明和」 (講談社・新書)
うーん、この本の信憑性は、僕には何とも言えませんね。著者は、「世間では砂糖は有害だという常識がまかり通っているが、まったくそんなことはないのだ」と主張しています。その理由としてたとえば、砂糖だって小麦粉だってお米だって、分解されれば最終的にはブドウ糖になるのだから、砂糖だけが悪いなんてことはない、とおっしゃっています。僕がこれまで読んできた健康書には、砂糖は二糖類ですぐにブドウ糖に分解され、急激に血糖値を上げるのがよくない、と書いてありました。血糖値が急激に上がると体内でインシュリンが分泌され、また急激に下げられる、これが体によくない。だからおだやかに消化吸収される黒糖などの多糖類を摂ったほうがよい、という主張でした。この点に関しては、本書では何も言及されていません。

 ただ、本書の内容でうなずける点もあります。たとえば、味は舌が判断しているのではなく、脳が判断している、という点。おいしいと感じるということはすなわち、体がそれをほしがっている証拠であり、甘いものがおいしいと思うなら思うだけ摂ればいい、ということです。これには僕も納得する部分があります。

 とにかく、食品・健康関連の理論にはいくつも異なる主張があって、どれが正しいのか判断するのは難しいですね。ただ、こうした反論を読むことは悪くはないと思います。