■ 2015年に読んだ本
  
2015年12月 「文学会議/セサル・アイラ」 (新潮社・単行本)
海外文学は今、本当に読まれなくなっている。そもそも本を読む人が少なく、その稀少な読書好きさえ、新書の実用本か日本の小説しか読まない人が多い。僕もやはりその傾向はある。
 たしかに本書などを読むと、敷居は想像以上に高いと思わざるを得ない。ベストセラーに並ぶような小説と比べて、あまりに違い過ぎるのだ。文章の一つ一つ、言葉の一つ一つを解体し、新たな意味づけをしようという試みがされている。結果、数ページ読んで、これは哲学書かと思ってしまうくらい訳がわからないのだ。
 でも通して読んでしまえば、非常に面白いことがわかる。本作には、表題作「文学会議」と「試練」という2つの中篇が収められている。「文学会議」のほうは、南米に住む作家が集まって開かれる会議に呼ばれた主人公の物語だが、タイトルの予想を裏切り、会議はぜんぜん始まらない。代わりに、主人公である作家が難しい思案にくれており、これを読み進めるのはなかなかに辛い。それでも、海底に眠る財宝を見つけて億万長者になったり、クローン製造器を使った結果思わぬ大災害を引き起こしたりして、妙なスペクタクルもある。不思議な、変な小説だ。
 もう一作の「試練」のほうには、しびれた。これは素晴らしい。太ったマルシアという少女がディスコにおもむき、マオとレーニンという二人のパンク少女に出会う。彼女らとの相当入り組んだ嫌みな会話がたっぷりとあった後、凄まじい展開を見せ、最後に鮮やかに幕を引く。最近読んだ短〜中篇のうちでは、ダントツの面白さだった。僕としては表題作よりこちらのほうを強くお勧めしたい。
2015年12月 「猫鳴り/沼田まほかる」 (双葉社・文庫)
沼田まほかる作品を読むのは4作目(2015年12月現在で、沼田さんの単行本は6冊)で、初めてミステリではない小説だ。タイトルの通り、1匹の猫に関する物語。とはいえ、猫の心情描写はもちろんなく、その猫(モンちゃん)の周囲の人間が猫との触れあいの中でどう生きているのかを描いた作品だ。
 話は三部構成になっており、第一部は捨てられていた仔猫のモンちゃんを見つけた主婦が何度も捨てに行く話。第二部は幼児に殺意を抱くひきこもり少年、最後は年老いたモンちゃんと暮らす初老の男性(第一部の主婦の夫)の視点で描かれる。やはり第三部がクライマックスで、死にゆく猫と男との濃密な生活には、人間同士以上の絆を感じさせる。
 とても読みやすく、エンタメ系の作家では文章力がピカイチだ。ただ、「彼女がその名を知らない鳥たち」でも思ったが、やはりセリフがあまり巧くないのが残念。
昨年読んだ日本の小説ではベストだった本作、文庫化されたのを機に再読した。こねくり回すような文体は、人によっては読みづらいと言われるらしいが、僕にはピンポイントに突き刺さるような感覚で、他の本の何倍もすいすいと読めてしまった。文庫本で470ページほどと決して短くはなく、内容もみっしりと詰まっている。正に読書の喜びをたっぷりと味わわせてくれる作品だ。この文体の完成度、とくに比喩の素晴らしさは、純文学を含めた日本人作家としても飛び抜けているのではないか。もっともっと売れてしかるべき作品、作家だと思う。

本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 日本ファンタジーノベル大賞の歴史は、「和製ファンタジーとは何か?」をさぐる旅でもあった。この真摯かつナイーブな問いかけこそが、(とくに初期においては)良質な作品と作家を輩出しつづける原動力となる。王道ファンタジーは選択されず、新しい可能性への期待からジャンルフリーの受賞作が続いた。しかし、何でもありという懐の深さは安易な作品まで呼び寄せ、レベルの低下を招いた。回を重ねても、いや重ねるたびに前述の問いは深くなった。
”ファンタジーっていったいなんなんだ”
”受賞にはまだふた頑張りも必要”
 選評には叫びに近い言葉が頻出する。審査員に大甘裁定と断じられた第23回、遂に大賞を出せなかった第24回を経た2013年十二月、遂に同賞は休止を余儀なくされる。
 小田雅久仁は、この決定から遡ること4年、『増大派に告ぐ』で2009年度の同賞を獲得した。もちろん通常のファンタジーではなく、「癖があってわかりにくいが、あえてファンタジーと捉えることで本賞の可能性を押し広げられる作品」という評価だった。世界が増大派に浸食される妄想を抱くホームレス青年と、父親から虐待を受ける少年との交流を描いたダークな小説である。既に終焉の兆しを嗅ぎとっていた審査陣において、内に向かう暗い作品が多い、という声が上がり始めたのもこの頃で、同様の危惧はこの受賞作にもあったはずだ。それでも、「普通の小説も上手そう」「受賞後もなにかいろいろ楽しいヘンなことをしてくれそう」といった期待を一身に背負っての受賞でもあった。
 そして2013年、満を持して上梓された第二作がこの、『本にだって雄と雌があります』である。本好きの諸氏で、このタイトルに目をとめない者はいないだろう。本にも雄と雌があり、そこから生まれる幻書がある。いつのまにか蔵書が増えているのはそのせいだ。面白いアイデアだが、本作の魅力はそこに留まらない。一つのアイデアを発端として無限の飛躍が生まれ、果ては南国ボルネオの幻想図書館まで辿り着く。好き放題に仕掛ける文章遊びはむろんやり過ぎであるが、それでも飽かずあきらめず、どこかに面白いことは落ちていないかと貪欲に話を広げまくる姿勢は、動脈から静脈に至る過程で無限の毛細血管が広がり、一つの体を作り上げるにも似た強さと美しさがある。ただ饒舌なだけの与太話、つまりは駄洒落の連続じゃないかとの批判もあるようだが、決してそうではない。受賞作と作風が一変したようでいて、確かに同じ作者だと思えるところがある。ラスト近く、語り部の博が呟く言葉だ。《たった一行の文章を書くのでも、たった一つの言葉を選ぶのでも、それを裏から支えるなんらかの精神がなければならない。いっさいの言葉はなんらかの形で書き記す者の精神に根を張っていなければならない》。こうした真摯な態度こそ、著者自身の秘めた思いだと想像する。このあたり、「言葉は単なる素材だから、辞書で引いたばかりの言葉をどんどん使ってよい」とする奥泉光との対決が見てみたいところだ。
 言葉に対する著者のこだわりは他にもある。関西弁でのやりとりは本書の特徴の一つだが、実は大阪弁と神戸弁の書き分けがなされている。與次郎が戦地で出会う岩淵が使う神戸弁は、全国的には馴染みが薄く、意味を取りづらい面がある。それでも読み手を信じ、岩淵の死に際の叫びを神戸弁で書ききる潔さは、この戦場の場面がそれ単体で戦争文学として傑作である点と併せて指摘しておきたい。
 本にだって雄と雌があります。
 そんなタイトルの小説が存在する世界に、僕らは生きている。だから著者に伝えたい。大丈夫だよ、あの厳しい審査員方も含め、みんなの期待する通りの道を歩んでいるよ、と。
 でも、もすこしたくさん書いてね。
(20字×78行 新聞書評欄)
2015年12月 「増大派に告ぐ/小田雅久仁」 (新潮社・単行本)
「本にだって雄と雌があります」の著者である小田雅久仁氏のデビュー作。というか、この2作しかまだ出版されてはいないのだ。「本にだって〜」はとにかくユーモアと愛情あふれる作品だったのだが、本作はまったく毛色の異なるダークな小説だ。著者自身の経験が投影されているとしか思えないほど、いびつな登場人物たち。そして、「本にだって〜」とやはり同じ著者だと確信できる巧みな比喩も、人間の負の側面を強調するのに主に使われている。これは、相当にひねくれた目で世の中を見ているに違いない(もちろん、いい意味でだが)。
 世の中が“増大派”でよって浸食されている、という妄想を抱く青年と、家庭内暴力を受ける少年との場面が交互に描かれる。彼らが次第に交流を深めていくものの、すさまじいラストが待っている。これはまったく予想もしていなかったので、戸惑った。パトリシア・ハイスミスの小説を読んだ時と同じように、「なんじゃこりゃあ!」と叫びたくなった。この衝撃は、本年随一だった。
2015年12月 「朝霧/北村薫」 (東京創元社・文庫)
「空飛ぶ馬」にはじまる、“円紫と私”シリーズ第5作。3本の短篇が収録されている。どれも、トリックはなかなかに面白いので読ませる。ただ、著者の知識や嗜好がそのまま主人公に現れすぎているきらいがあり、リアリティを欠く。さすがに専門用語や知識を詰めすぎていて、楽しく読むにはそれがノイズになってしまうのだ。ちょっとシリーズ疲労のようなものが出てきたか。
2015年11月 「カンディード/ヴォルテール」 (岩波書店・文庫)
18世紀、知の巨人とも呼ばれた明哲ヴォルテールの作。まずは、200ページそこそこの小説で、波乱に満ちた冒険物語が堪能できるところが素晴らしい。昔のこうした小説は大抵、分厚い上下巻だったりして簡単に手に取りづらいのだが、本作ならすらすらっと読めてしまう。ストーリーはかなり入り組んでいるが難解ではなく、痛快活劇として単純に面白い。ただ、本作はそれに留まらず、著者による多くの風刺、批判などがたっぷりと込められている。最も大きなテーマは「最善説」と呼ばれる当時の思想で、これは「全ての出来事は最善の状態であり、幸せに通じる」という考え方だ。キリスト教的な「苦難は全てその人を強くするための試練である」という考えを発展させたものかもしれない。ヴォルテールは、リスボン大地震などを経験するなかで、最善説に大きな疑問を感じ、本書を執筆したという。登場人物達は不幸自慢をしあえるほど、さんざんな目に遭い、最善説など嘘っぱちだという解釈に近づいていく。他にも、当時の風俗に対する批判、文壇への怨みつらみなどがこっそり潜ませてあり、これは巻末にある膨大な量の訳注を読めばわかる。

さて、本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 秋の行楽シーズン到来に合わせ、十八世紀の哲人が著した本作を、弁当に例えてみよう。蓋を開けたらハンバーグにトンカツに玉子焼き。色とりどりに目も舌も楽しませてくれる弁当が本作の表層だ。主人公カンディードは、恋い慕う令嬢キュネゴンドとの逢い引きを見つかり、城を追い出されてしまう。失楽園のパロディでもある序章が、壮大なる諸国漫遊記のはじまりだ。オランダで旧師パングロスと再会したカンディードは、キュネゴンドが惨殺された顛末を聞く。やがて辿り着いたリスボンでは大地震に巻き込まれ、パングロスは異端審問で絞首刑に処せられる。失意の底でカンディードは死んだはずのキュネゴンド嬢と再会し、希望を見出す。彼女はユダヤ人に囲われる身に堕ちており、激高したカンディードはユダヤ人を殺す。逃げまどう彼は、その後も多彩な人間達と出会いながら、南米を巡り再びヨーロッパへと戻る不思議な旅を続けていく――。
 文庫本で200頁ほどの中篇だが、様々な場所でドラマが起こり、とにかく飽きさせない。ストーリー展開もよく練られており、例えば南米奥地の一場面。逃亡中のカンディードは、自ら殺したイエズス会神父の法衣を着ている。イエズス会を憎む大耳族は、彼の衣装を見るなり捕らえ、釜ゆでにしようとする。そこで従僕が機転をきかし、実はそのイエズス会神父を殺したのがカンディードであり、我々は大耳族の敵の敵、つまりは味方なのだと説明して助かる。このくだりだけで一つの短篇になるほど秀逸なエピソードだ。めくるめく冒険の合間には容赦ない残酷描写、性描写も盛り込まれる。こんな展開が延々と続くわけだから、面白くないはずがない。
 こうして、このハンバーグ美味しいな、トンカツは味噌だよなあと楽しんでいるうち、弁当の底から別の層が顔を出す。本作の主題となる “最善説”だ。このじっくりと味わい深い、サバの味噌煮的な部分が本作の第二層となる。最善説とは、「人生で何が起きようと、全ては幸福へと繋がっている」とする考えだ。哲学者ライプニッツの唱えた概念を作中のパングロスが実践している。純真なカンディードは師の教えを信奉するが、とにかく忌まわしい出来事ばかりに遭遇するなかで、次第に、何が善だ、どこが幸せなのだ、という気持ちになってくる。他の登場人物も軒並み同様で、旅の道中、不幸話に花が咲く。キュネゴンドの付き添い老婆が片方の尻をなくしたエピソードなど、実に読み応えたっぷりなので、是非味わってみてほしい。
 ここで一点、本作全体に通じる奇妙な特徴を挙げたい。通常の小説なら、大事なところは緻密に、そうでないところは端折った書き方となるはずだが、本作ではその原則が通用しない。大事な人の死やカンディードの殺人など、重要と思われる場面が実にさらりと描かれる。いっぽう、どうでもよさそうな会話の場面などにはたっぷりとページが割かれるのだ。これはどういうことだろう。明哲ヴォルテールの意図など評者には知る由もないが、不幸な出来事があまりに容赦なく非合理的に訪れる印象を与え、ひいてはそれが最善説への批判にも繋がっていく、とは言えそうだ。ともあれ、カンディードは次第に最善説への疑念を強くしていくことになる。
 こうしてサバの味噌煮の層も堪能したところで、さらに底から別の階層が見えてくる。巻末の訳注を参照されたい。そこには、並はずれた知識と教養を持つヴォルテールが、諸外国の歴史、文化、芸術、風俗、さらには偏見や私怨、風刺などをたっぷりと忍び込ませているのだ。こうした要素をサンプリング的に組み込むことで小説に深みを与えている。十八世紀にもヒップホップ的手法は存在したのだ! もちろん作品の核ではないから、箸休めの漬け物と思えばいい。
 かくして多階層の“底下げ”弁当小説は完成し、舌鼓がぽーん、ぽーんと鳴り響く。
(20字×80行 レタスクラブ書評欄)
2015年11月 「君の膵臓をたべたい/住野よる」 (双葉社・単行本)
けっこう売れている本のようで、本屋さんではかなり目立つ位置にディスプレイされていた。帯の文句に「読後、きっとこのタイトルに涙する」と大きく書かれているが、僕はまったくそんなことはなかった。ホラー的なタイトルは確かに目を引くけれど、結局は膵臓の難病を抱えた少女との淡い恋を描いた、よくある話だった。途中でいくつか、おっと思う瑞々しい表現はあるけれど、総じて紋切り型の安っぽい文章がつづく。いろいろと仕掛けは施してあるものの、最後にそれが解けたからと言って感動するほどでもない。
想田和弘さんの観察映画「演劇」を見て、初めて平田オリザさんという演劇家を知りました。映画ではその独特な演出法が語られ、さらには演劇を存続させるため政治や教育の場に踏み込んでいくスーパーマンぶりが描かれます。本書「わかりあえないことから」では、主に映画の後半部の内容について言及されており、ざっくり言えば演劇家の立場から解説したコミュニケーション論、というところでしょうか。
 昨今、社会ではしきりにコミュニケーション力の必要性が問われています。でもその割に、「コミュニケーションとは何か」についてちゃんと理解している人はほとんどいないのではないでしょうか。平田氏は、人と人とはそもそもわかりあえないんだということを出発点にし、コミュニケーションとはそんなに難しくないんだ、マナーや礼儀と同様、ほんの少し学べば技術として身につけられるんだと説き、その手段として演劇がいかに有効であるかを訴えます。書いてある内容はかなり広範囲に渡っており、一読しただけではとても把握できないほどです。だからもし本書を読んでわからないと思った人は、二度目を読んでみることを強くお勧めします。僕自身、一読目の感想は今ひとつだったのですが、二回目に読んでびしばし感じるものがありました。

☆本書は、僕が通っている読書会の課題図書にもなりました。これに関し、僕が別のブログに二回、紹介文を載せていますので、そちらへのリンクを貼っておきます。

11月度読書会のおしらせ.わかりあえないことから読書会をはじめよう
11月度読書会が開催されました! 〜 たとえば銀のサモワールでお茶を飲むことの意義について 〜
登場人物がほぼ全て70歳以上のお年寄り、という一風変わった小説。「死を忘れるな」という一言だけを伝えて切る電話が、いろんな人の元にかかっていく。誰かのいたずらなのか、それとも認知症のため、かかってもいない電話を妄想しているのか。深まる謎のなかで、元気なお年寄り達が、いまだ収まらぬ愛欲に溺れ、過去の出来事に縛られながら、たくましく狡猾に生きる様がおもしろ可笑しく描かれる。

こちらも書評講座の課題作品なので、恥ずかしながら、以下に公開する。

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 登場人物はほぼ全員七十歳以上のお年寄りばかり。映画「アウトレイジ」にならうなら、宣伝コピーは「全員、老人」だ。あなたは読者として、彼らの面倒をみなくてはならない。
 チャーミアンはかつて売れっ子だった女流作家だが、近頃は痴呆が進み、夫や家政婦の名前も思い出せない。何度も同じ話をくりかえし、飲んでもいない薬を飲んだと言い張る彼女に、あなたは辛抱して付き合わねばならない。夫のゴドフリーは主導権を握る彼女の陰になり生きてきたが、今は立場が逆転し、彼女の世話をすることで秘かな復讐を遂げている。そんな折あなたは、ゴドフリーの妹レティから奇妙な電話の話を聞く。相手はいつも、「死を忘れるな」とだけ伝えて電話を切るのだという。やがて同じ電話はゴドフリー夫妻をはじめ、多くの人を巻き込んでいく。被害者の中には、捜査担当のモーティマー警部が犯人ではと疑う者もいたが、実は警部もまた同じ電話を受けているのを、あなたは知っている。果たして犯人は誰なのか、そして、告げられる言葉の意味するものは何か。謎解きを軸にあなたは多彩な人々と対面していく。遺産問題を抱え、ゴドフリー家に取り入る家政婦ペティグルー。学問として老人問題を研究するアレック。レティのかつての恋敵であり、今はよき相談相手となったテイラー。彼らの愛憎入り乱れる数十年のドラマは、あなたを悩ませ興奮させることだろう。
 最初は立派に思えたゴドフリーにも秘密はある。お菓子が大好きで隙あらばくすねてしまったり、七十歳を超えた老女に欲情したり。逆に頼りなく思えたチャーミアンは、例の電話に冷静に応対することで、驚くべき変化を遂げていく。彼女が苦労しながら自分でお茶をいれるシーンは、本作の白眉だ。ゴドフリーは「そんなことできるわけがない。夢を見たんだよ」とたしなめる。家政婦も彼に荷担するが、彼女の行動を子細に知っているあなたは、こうやって痴呆が捏造されるのかと憤慨するかもしれない。ところが、チャーミアンの行動の記述自体、彼女の妄想かもしれないのだ。そう考えると誰の言い分が正しいのかは判然とせず、真相は正に「薮の中」だ。もはや何を信じていいのか、あなたにもわからない。
 深刻な話に息継ぎを与えてくれるのは、老人病棟の女性患者たちだ。“グラニー”と呼ばれる彼女たちは、夕食の肉が固いと文句をつけ、ただ騒ぎたいという理由だけで「殺してくれ」と叫ぶ。まったく困ったクソババア達だとあなたは眉を潜めるだろう。ところが、自分達より高齢で症状の重い患者が入ってくれば、「これであたしたちもティーンエイジャーね!」と喜び、年寄りにもオリジナリティが必要だと聞けば、「それじゃパンツを後ろ前にはくことにするわ!」と言い放つグラニーを見ていると、あなたの強ばった頬も緩んでくる。決して暗いことばかりではないと思えてくる。そんな彼女達が臨終の時を迎えるとき、あなたは厳粛な気持ちにさえなるだろう。
 先に「アウトレイジ」を例に出したが、あの手の残虐な映画を見てあなたは不思議に思うかもしれない。激痛に伴う恐怖はわかるとして、常にあなたの中にある血や内臓を見るだけで、強烈な恐怖と嫌悪感を催すのはなぜだろう。誰しも自分の中に忌避すべきものを抱えて生きているのだとすれば、本作で描かれる「老い」や「死」もまた同じものではなかろうか。若いうちなら何をやっても美しく、何をしても許される。ところが若さという皮がはがされてしまえば、中から出てくるのは、愛欲、憎しみ、ねたみ、偽善といった黒々しい汚物ばかり。誰もが臓物のように抱える「老い」を醜く辛辣にポップに描いた本作は、さしずめ血の出ない老人スプラッター小説といったところか。
 死を忘れるな。
 その電話は、今夜にでもあなたの元にかかってくるはずだ。
(20字×80行.新聞書評)
この小説を紹介するのは難しい、というか気が引ける。エロティックで扇情的なシーンが満載だからだ。それでもまだ「マダム・エドワルダ」のほうは、フランス文学特有(と僕が思っている)の退廃的な気怠さ、研ぎ澄まされた詩的表現にあふれており、読んで理解するというより、空気感を味わう、体感するというほうが巧く読めるような気がする。「目玉の話」のほうは、従来「眼球譚」という邦題で読まれてきた作品だ。こちらはもう、エログロ趣味が極限に達していて、その深さで文学的に到達したとされる作品だから、なかなかに手ごわい。終盤に向かってどんどん表現がエスカレートしていき、闘牛場や教会でのシーンには、目を背けたくなりながらも強烈なイメージに惹きつけられずにいられない。恐ろしい小説だ。
2015年10月 「呪文/星野智幸」 (河出書房新社・単行本)
さびれた商店街でトルタ(メキシコ料理のひとつ)の店を営む霧生は、経営に悩んでいた。いっぽう、商店街組合の事務局長・図領は、洋風居酒屋を軌道に乗せており、迷惑客のネット攻撃にも真っ向から対峙し、逆に商店街に客を呼び込むことに成功する。図領の元には人が集まり、やがて未来系と名乗る自警団が発足する頃、商店街に不穏な空気が流れ始めるのを、霧生は感じるのだった――。

星野智幸作品、初読。純文学畑をずっと歩んできた作家だが、本作は完全なる大衆小説、エンターテインメント小説と言っていい。商店街が不気味に狂っていく様子が、読む者を惹きつけて離さない。文章や表現が、純文学作家にしてはやや面白みに欠けるものの、読んで楽しい作品なのは間違いない。
2015年 9月 「車輪の下/ヘルマン・ヘッセ」 (新潮社・文庫)
ほぼ20年ぶりの再読。20代終わりに読んだ作品を、40代終わりにまた読んだことになる。いい作品だけど暗くて重い話だったなあというくらいの感想しか覚えていなかったが、再読して、作品世界の深さに感嘆し、酔いしれた。主人公ハンスが周囲の期待から押しつぶされていく様は、現代の日本に生きる、40代の僕にも充分通じる内容だった。教育批判という感想が一般的だと思うが、僕には父親批判の面を強く感じた。少年にとって最も近く最も影響力を持つはずの父親が、ハンスをまったく助けないばかりか、ハンスの重荷になり、ハンスを追いつめていく旗頭になっている。最近、家族を重たく感じるとか、父親・母親との関係がうまく保てないという声をよく聞くし、そういう本もたくさん出ている。だからこれは非常に現代的なテーマでもある。
 やはり自然描写は素晴らしい。この緻密な描写を書ける小説家が、日本に何人いるだろうか。何度読み直しても新鮮で、新しい発見がある。とくに僕は釣りのシーンが大好きで、ハンスが心から生き生きウキウキしている様子が、最後の展開を考えるにつけ哀しく感じられる。
 とにかく、短い中に様々なエピソードが収められ、学園小説、恋愛小説、家族小説、いろんな読み方ができる。読んでいない方には絶対的にお勧めする作品だし、一度読んだ人ももう一度読んでみるとさらに大きな発見があり、読む喜びをさらに実感できると思う。

※本書を課題図書にした読書会が開かれた関連で、別のブログで3回に分けて解説をおこなっています。
(1)9月度読書会のお知らせ.「車輪の下/ヘッセ」をかる〜くご紹介します
(2)9月度読書会のお知らせ.ブルース・リー先生の言うとおり
(3)9月度読書会が開催されました! 〜あるいはエンマ断罪に関する考察〜
2015年 9月 「車輪の下で/ヘルマン・ヘッセ」 (光文社・文庫)
おそらく現在において、いちばん新しい翻訳。新潮文庫版とはかなり使われている言葉が違う。ただ、新しいから味気ないということはなく、やはり元の言葉の素晴らしさは充分に現れている。初めて読む人にはこの版がお勧めかもしれない。

※詳細の感想はこちら
2015年 9月 「車輪の下/ヘルマン・ヘッセ」 (集英社・文庫)
新潮文庫版を元にしているらしく、翻訳もかなり似ている。

※詳細の感想はこちら
2015年 9月 「デミアン/ヘルマン・ヘッセ」 (新潮社・文庫)
車輪の下」の次に本作を読み、作風のあまりの違いに驚く。ヘッセの作家人生の中で比較的初期に書かれた「車輪の下」に対し、第二次大戦を経た後に書かれた本作では、内面の大きな変化が読みとれる。これまで信じてきた価値観が崩され、自分は本当は何を望んでいるのか、生きる目的は何なのかを深く自己探求する作品となっているのだ。自然描写は抑えられ、心理描写が中心となる。そして自然描写と同じく、心理描写も実に細かい。人間という複雑な生き物の一面が緻密に鋭く切り取られており、短い作品なのに圧倒されて読んだ。これは何度か読まないと把握できない、巨大な作品だ。
ギムナジウムもの、つまり全寮制の学校生活を描いた作品として、比較的新しく書かれた名作。かと思っていたら、今は絶版になっているらしい。僕には約20年前に読んで以来の再読だった。同じくギムナジウムものである「車輪の下/ヘッセ」に比べ、読みやすく読後感も爽やか。(それでも人は死ぬが。)「車輪の下」ではついぞ現れなかった、生徒達を導く教師の存在があるため、未来に希望を見出すことができる。登場する生徒の数が多く、キャラクター分けにやや難があるのと、読みやすいぶん、やや軽い印象は受けるが、僕は好きだ。とくにラストの幕切れが感動的で涙を誘う。ロビン・ウィリアムズ主演の映画も、原作を忠実になぞらえたいい映画だった。
この最高に愉快で素敵で愛おしい小説をどう語ろう。最初のページあたりを読んで顔をしかめた方は、もうほんの少し先まで読んでほしい。すぐに、くすりと笑えるシーンが出てくるから。そして、その後は怒濤のようなギャグが続く。笑いを主体とした出来のいい小説というのはあまりないが、本作は数少ない成功例だろう。
 ジャンルはSFだ。でも難しい用語も概念も出てこない。グルブという名の部下とその上司。二人の宇宙人が地球にやってくる。地球上の人物に姿を変えて街に繰り出すも、グルブが失踪してしまい、上司が彼を捜して歩く。その過程で、地球の慣習を知らない上司が各地で騒動を巻き起こしていく。ただ、彼の行動は、現代人の矛盾をうまく突いている部分もあり、考えさせられもする。そして、だんだんとこの上司が愛おしく、かわいく思えてくるのだ。是非この味わいを多くの人に楽しんでもらいたい。

なお、最近、書評講座に通い始め、その課題として本書を読んだ。書評(ブックレビュー)とは、僕が普段こうして書いている感想文とは異なり、主に新刊書を紹介し、読んでもらうための文章だ。今回、僕の提出したものを恥ずかしながら(というかこのサイトでの感想文からして相当恥ずかしいのだから今さら言うまでもないが)、以下に掲載しようと思う。

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 ただでさえ売れない海外小説を何とか広く紹介したいのだが、本書には困った。書き出しだ。ここが面白くなければ誰も買わない。なのにこの小説はというと、
「着陸地点は六三Ω(Uβ)二八四七六三九四七八三六三九四七三九三七四九二七四九。」
 一体何だ。こんなの誰も読んでくれそうにない。かろうじて2頁目のマルタ・サンチェス(綺麗なオネーちゃん)の写真で興味をつなげたとして、一体何だこれは。小説なのか。日付と時刻に文章が数行。温度と湿度と海の状態が小学生の日記のように繰り返される。そりゃ日記体小説という分野はあるけれど、本作はそんな涼やかなものでもない。舞台は1990年代初頭、オリンピックを間近に控えた混乱のバルセロナ。主人公は肉体を持たない純粋知性体、つまりは宇宙人だ。1個の卵から株式相場を読み解く超絶知能を持つ。形はないが、想像するに灰色のモコモコッとした何かだ。名前がないので仮に宇宙コロ助と呼んでおく。この宇宙コロ助は、人間と接触する時だけ肉体の鎧をまとう。マルタ・サンチェスにもゲイリー・クーパーにもなれるのだ。颯爽と大通りに登場した彼は、即座にバスにはねられタクシーにはねられ、着けていた頭部は道ばたに転がる。体内に取り込んだ地図を頼るばかりに水道工事の穴に落ち、電話工事の穴に落ちる。一体何だコイツは。馬鹿なのか。違う。間抜けなだけだ。間抜けだけど頑張る。いなくなった相棒のグルブを探してけなげな努力を続ける。それでも見つからず、日記に「グルブ消息不明」と綴る日々。
 超絶知能を使えばマンションも家具も楽に手に入る。それでも何かが足りない。女だ。かくして彼も恋をする。でもうまくいかない。女性には贈り物を、やっぱり花と生き物だ。そう考えて、一輪のバラと2ダースのドーベルマンを贈ってしまう彼に勝算はない。
 膨大なデータから割り出した最適なはずの彼の行動は、周囲との軋轢を生む。当たり前だ。現実の世の中は、データで調べがつくような知識だけで成り立っている訳ではない。それがわからないから彼は常に孤独だ。しかし間違ってはいない。彼の行動はむろん珍妙だが、きらりと正しい認識を示すこともある。
 あまりに自然で当たり前の行為は改めて認識されないし、データ化されることもない。根本から間違っていることさえ、僕らは意識せずにやり過ごしてしまう。宇宙コロ助は、おかしいことをおかしいと伝え、世の中を見つめ直す機会を僕らに与えてくれる。だから彼の行動は、笑いと共に批評性を生む。笑いと批評の相性の良さは、様々な文化の中で語られ実践されてきた通りだ。一体何だこれは。意外にみっしり深い話じゃないか。
 やがて宇宙コロ助のもとに謎の手紙が舞い込む。要人宅の排気口からジェームズ・ボンドばりに忍び込み、不思議な老人と巡り会う。一体何だこれは。たいした冒険譚じゃないか。全編通して間接話法で描かれる文体も美しく、会話の手さばきなどうっとりするくらいだ。一体何だこれは。たいした文学じゃないか。こうして、一体何だ、を一体何回繰り返したのかと思う頃、僕らは本作の虜になっている。小説において難題である時間表現を時刻表示と改行であっさり片づける潔さは、安易な開き直りだとそしられるかもしれない。それでも、絶妙な間とリズムが引き起こす笑いは、この形式抜きには成立しなかっただろう。そう考えれば、冒頭に引いた数字の羅列さえ、何か意味ある言葉に見えてくるではないか。
 著者の言う通り、確かに本書は短くて簡単に読める、楽しい本だ。だが同時にすさまじく文学的で現代的で、しかも相当に笑える一冊だ。そして、いま日本に住む我々こそが本書を読むべきだろう。東京オリンピックを控えて浮き足立つ僕らのそばで、秘かに宇宙コロ助が暗躍している。このスタジアムは金がかかりすぎだ、このエンブレムはおかしいじゃないかと、見えない姿で問いかけている。
(想定:新聞書評)
2015年 9月 「11(eleven)/津原泰水」 (河出書房新社・文庫)
前から読みたいと思っていた作家を初読。11の短篇が収められているが、実にバラエティに富んでいる。SFかと思えばホラーもあり、ファンタジーだったり不条理ものだったり、しかも文量も10頁に満たないものから40頁に及ぶものまで、長短おりまぜて配してある。感心するのは、どの物語も独自の世界観に満ちており、文量が多くても少なくても、一編を読んだ後味は長編ひとつを読んだほどの重さを持っていることだ。
 どれも面白いのだが、やはり冒頭の「五色の舟」。語り手を含む5人の不具者たちが舟で暮らし、見せ物興行をして暮らしている。一座で“くだん”という頭が人間で体が牛の怪物を買おうという話になる。“くだん”には未来を正確に予知できる能力があるが、実はさらなる能力があって、一気に話が展開する。「微笑面・改」のおどけたようなホラーも味がある(途中の「触れた!」には思わず吹き出した)し、世界昔話風の「琥珀みがき」、純文学風の「YYとその身幹」、ハードSFの「テルミン嬢」も素晴らしいが、僕は最後の「土の枕」が気に入った。戦時に名前を偽って戦場に赴いた青年の数奇な運命が、わずか20頁足らずで語られる。歴史小説、戦争小説として白眉の出来だろう。
フェルメールの絵は世界に三十数点現存しているが、そのうち33枚を一気に見て回ろうという壮大なお話。ドイツ、オランダ、イギリス、フランス、アメリカと世界に点在するフェルメールを見るためだけの一ヶ月の旅は、フェルメール好きにはたまらない。僕も現在、15作品ほどを見てきたが、全点踏破はまだ遠い。美術評論家でもある著者は、ただ好きで見るばかりではなく、様々な学問的検証を示してくれるため、非常に奥行きのある内容となっている。しかも、通説に惑わされるだけでなく、自ら現物を見て感じたままの感想から判断もする。フェルメール作品が好きな人には、必携の一冊であろう。
2015年 8月 「走れメロス/太宰治」 (新潮社・文庫)
何度目かの再読。短編集として実にバラエティに富んだ作品が並んでいて素晴らしい。僕の大好きな「女生徒」、それから「満願」「駆け込み訴え」などの傑作も収録されている。太宰治のエッセンスのうち、明るい要素を知りたければ本作をお勧めしたい。
 それから今回、表題作「走れメロス」について読書会でじっくりと話し合い、新たな発見があった。ネットで調べると、「走れメロス」の評価は主に2種類で、1つは一般によく言われる“美しい友情物語”という解釈、もう1つは“よく考えるとこれ、すっごく変な話じゃないか”というもの。前者はおもに、教科書に掲載されてそう教えられる影響が強い。おまけに掲載される際には、友情の大切さというテーマを際だたせるためか、ラストでメロスが全裸になるエピソードが抜かれているらしい。そうでなくても普通に読解力のある人が読めば、これが単なる友情話でないのは明らかで、それが後者の解釈を生む。
 2014年にネットで話題になった、メロスは全力で走ってなかったとするレポートがある。ある中学生が、メロスの走った距離と時間から速度を割り出したところ、時速3km程度、ラストスパートでさえせいぜい時速5kmちょっとくらいだとわかった。つまり、大人がゆっくり歩く程度のスピードなのだ。とても興味ぶかいが、他にもメロスの行動を見ていると、大切な友人を自ら人質として差し出すところや、それでいて出先では大切な友人を待たせているとはとても思えないほどだらだら過ごすところ、そしてラストの全裸シーンなど、真面目に書かれたとは思えない箇所がいくつも出てくる。かくして当然、“変な話”という解釈が生まれる。
 それでは、なぜ太宰はこんな明らかにおかしいとわかる小説を書いたのかという疑問が生じるのが当然で、読書会で導き出されたのが第3の解釈だ。つまりこれは、太宰の理想とした世界を描いたのではないか、というもの。素のままの自分をどうしても受け入れられず、道化を演じつづけ、最後は自ら死を選んだ太宰は、飾らない自分を受け入れてくれる世界、何をしようと許してもらえる世界を描きたかったのではないか。そう考えると、本作では実にメロスに都合のよいことばかり起きる。美しい友情が結ばれ、あれほど非道な王がメロスを許し、素っ裸のメロスを少女は恥ずかしがりながらも受け入れる。物語としてまったくおかしくてバランスを欠いた作品だけれど、本当の自分を受け入れてほしい、そのうえで幸せな人生を送りたいという太宰の願望がそこに託されているとすれば、非常に哀しい物語として読むことができる。

※詳細は、ポッドキャストのページで音声ファイルにしてありますので、よろしければどうぞ。
2015年 8月 「夫の宿題/遠藤順子」 (PHP・文庫)
僕の好きな作家・遠藤周作さんの妻・順子さんによる回想記。周作氏が亡くなる数年前、体調が悪くなっていくあたりからのことが細かく書かれている。周作氏の作品は、最近はすこし離れてしまったが学生時代から好きで、かなりの数を読んだ。晩年の大作「深い河」の創作時のエピソードなども本作で紹介されており、そのあたりも興味を惹く。もう一つ、本作の大きな柱は、現代医療に対する問いかけだ。周作氏の治療において、夫妻ともに不満を抱え、もっと患者の心に寄り添った医療はないものかと、周作氏は「心あたたかな病院運動」を始める。氏の死後も夫人が運動を引き継ぎ、ライフワークとされている。
2015年 8月 「ニッポンの書評/豊崎由美」 (光文社・文庫)
僕の大好きな書評家であるトヨザキ社長の語る、書評論。書評の存在意義、主に批評との違いがはっきりと示されており、深く納得する。確かに本書で語られるとおり、通常「書評」と言われているものは「ブックレビュー」と言ったほうがしっくりくる。
 僕にとって痛切だったのは、ネットでの書評(というか、読了本の感想)について。正にこのページのことだ。素人がネットに載せている文章について、豊崎さんは厳しい指摘をされている。確かに僕もこうして読書感想を載せているが、これがいいことなのかどうか、常に疑問を頂きながらやっている。
 かつて金融関連の実用書について、「これは酷い。まったく役に立たない」という内容でかなり辛辣に書き、あとで著者の方からメールを頂いたことがある。要旨は、「あなたの書かれたことはもっともです。ただ、当時は締切が厳しい中、家族の看病などもあって大変だったんです。内容が良くないことは私も認めますが、こうした理由があったのです」というもので、とても丁寧なメールだった。僕はその本については、全ての記述を削除した。
 僕がこうしてネットに載せているのは、豊崎さんおっしゃるところの書評ではなく、しいて言えば(おこがましいけれど)批評に近いものだ。自分の読んだ本について語りたいという思いを文章化したものであり、実生活で語り合う内容と似ている。「こんな面白い本があったよ」とか、「評判だったから読んでみたけど、ぜんぜん大したことなかったよ」など、友達と話すようなことを掲載し、できればそれについていろいろと語り合いたいというのがここに載せている大きな理由だ。また、僕が他の人のブログなどを読むのと同じ理屈で、僕の感想を読んで共感してもらった人が、僕の紹介する別の本を読んでみようか、とも思ってほしい。だからなるべくわかりやすくするため、作品に点数などつけられないとわかっていながらも、「自分はこの本をどう感じたか」を端的に表現する手段として点数をつけている。
2015年 7月 「男をこじらせる前に/湯山玲子」 (KADOKAWA・単行本)
湯山氏の著作を読むのは初めて。テレビにもよく出ていて、ご意見番的にぴしゃりと世相を斬る論客というイメージだったが、ほぼその通りの書きっぷりだった。男性はこうだ、と書かれている部分は腹が立ってきたが、それは半分当たっているという証拠でもある。とはいえ、男と女の違いというのは、世間で言われるほどではないと僕は思っていて、世代論(若い者は云々、年寄りは云々、ゆとり世代は云々、等)も、国籍論(○○人は△△だ、等)も、話として盛り上がるから言っているだけで、つまりは冗談レベルに過ぎない。ジェンダーについては、男はこうあるべき、女はこうあるべきという規範が後天的に叩き込まれることで、類型的な行動になりがちなのだろう。そんななか、男は競争に囚われ、しかもそれに無自覚、というのはけっこう痛い指摘ではあった。
 だからこの本、全てに納得できるわけではないが、考えるきっかけにはなる。現状打破の行動指針として、旅に出よ、一人暮らしをしろ、というのは実際参考になるし、孤独と向き合う大切さや、好きなことをやるのが一番という考え方にも同感できる。
 最も驚かされたのは、娘が離婚して子供を連れて帰ることを、親が歓迎するムードが広がっているというところ。理解ある親のふりをして娘に結婚させ、孫が産まれたら婿などはさっさと切り捨て、娘&孫といつまでも暮らすという選択肢である。こんなグロテスクな話があろうか。親として、娘の幸せな結婚生活などはどうでもいいことなのだろうか。ここに、正に「子供を産む機械」としての女性、「子供を産ませるための機械」としての男性が出現する。
 ただ、こうした現状から著者は未来を悲観しているようだが、僕にはそうは思えない。さすがに人類はもう少し利口で、考え方の揺れ戻しがあるだろうと思う。そう期待する、という意味を含めて。
2015年 7月 「文化系女子という生き方/湯山玲子」 (大和書房・単行本)
男をこじらせる前に」が男性論だったので、対称となる本書も読んでみた。半分は自分史のようになっていて、これを鬱陶しいと思う人がいるかもしれないが、著者の言動の元になるものが確認できて、僕は興味深く読めた。もちろん、極論だと思うところは一杯あって、そこは話のネタ的に楽しむのがよいかと思う。それにしても、本や映画、演劇などかなり通じている人らしく、説得力は感じられる。こういう人は嫌いになってしまいがちだが、話に耳を傾ける価値は大いにある。
沼田さんの小説を読むのはこれが3作目で、僕としてはこれが一番おもしろく読めた。ただ、前半では事件は何も起こらず、主人公・十和子が同棲相手の陣治のことをののしるばかりで、読んでいて嫌になる。そこを過ぎれば少しずつ謎も出てきて興味もふくらんでいく。これはミステリー小説というよりは、ミステリー仕立ての恋愛小説とでもいおうか、はたまた(これは誉めすぎだけれど)現代版「春琴抄」とでもいおうか。甘いラブストーリーを鼻で笑ってしまうような人は、この異様な話は面白く読めると思う。一点指摘するなら、この作家はセリフ部分がいつもイマイチでやや興ざめなのが、惜しい。そして、黒崎が失踪した理由についての仕掛けは、安易に使うとしらけるトリックなので、僕はあまり感心できなかった。
2015年 6月 「斜陽/太宰治」 (新潮社・文庫)
太宰作品で一作あげろ、と言われたらやはりこれ。亡くなる前年に書かれた、これまでの文学人生を集大成した作品と言える。
 主人公のかず子、お母さま、弟の直治、皆がそろって破滅への道を進んでいく。金と権力のあった父親の世話になりっぱなしで、その父親が死んでいなくなればどうして生きればいいかわからない。貴族だかなんだか知らんが、自分で努力しなかった報いだよ、と言いたくなるけれど、人にはそれぞれの事情があり、簡単には片づけられない。つまりはみな懸命に生き、その果てに力尽きて滅んでいくのだ。
 なかでも冒頭から全開になるお母さまの特異なキャラクターが素晴らしい。これをかず子の目から描いているのだが、かず子に言わせれば、「さすがお母さま、お母さまがなさると不作法なものでも貴族らしい品に満ちているわ」と、スプーンを縦にしてスープを飲んだり、ハムを手でつまんで食べたりする様を賞賛する。究極は、お母さまが庭で立ちおしっこをする様さえ、「本当に可愛らしく」「ほんものの貴婦人の最後のひとりなのではなかろうか」と絶賛するから、バカかと思えなくもないが、それくらい強烈な描写だ。
 女語りの美しい文章は中篇の「女生徒」にも通じるが、これには元ネタがあるらしく、愛人だった太田静子の書いた「斜陽日記」に詳しく書かれているらしい。それでも、本作の文学的価値は変わらない。
2015年 6月 「人間失格/太宰治」 (新潮社・文庫)
太宰治は、死の前年に「斜陽」を書き、その後に本作を書いたあと、入水自殺で命を落とす。完成した作品としては最後の作品である。発表当初は遺書かと思われもしたそうだが、その後に草稿が見つかり、何度も推敲の跡が見られたことでフィクションだと判明した経緯があるようだ。ちなみに新潮文庫の太宰作品にはたいてい彼の年譜が載っていて、これがめっぽう面白くて読み込んでしまう。
 僕は本作を読むのは4回目くらいだが、「斜陽」に増して破壊的に陰鬱な作品なのに、読後感はいつもそれほど暗くない。むしろ、中盤あたりはユーモラスでほのぼのとした雰囲気さえ感じられる。どう生きても、人は明るさと暗さの両面を持ち、輝く時もあれば日陰を這い回る時もあるのだと思わせられる。もちろんこの主人公が実際にいたら、決して関わり合いになりたくはない。それでもどこか共感できるところがある。破滅への欲望は、向上心や人生に対する希望の片隅に、そっと寄り添っているのかもしれない。
2015年 6月 「ヴィヨンの妻/太宰治」 (新潮社・文庫)
太宰治の亡くなる前、三年間に書かれた短編を集めたもの。「走れメロス」が書かれた時期のような、明るく奔放で多彩な作品群とは異なり、既に死の影が重くのしかかるような、自虐的な内容が目立つ。文章で金を稼がなければどうしようもない現実、そして書くことといえばもう自分の身を切り売りするしかなく、出てくる人物たちは著者の面影をほぼ全員が備えているようだ。それでも暗いばかりでなく、人情味あふれるユーモアも漂わせ、逆説的に人間賛歌になっているのが、文才なのか性格的な資質なのか。
 この中では、人生相談として奇妙に悲観的な悩みを聞く体(てい)の「トカトントン」に惹かれた。そして、どうしようもない夫婦を描いた表題作にして傑作「ヴィヨンの妻」も、この味わいは見事。ほぼ絶筆となった「桜桃」には、作家太宰治の心情がほぼストレートに描かれている(と、思われる)。面白い小説ばかりではないけれど、やはり興味深い一冊。
2015年 5月 「いま、幸福について語ろう/宮台真司」 (コアマガジン・単行本)
宮台氏と4人のクリエイター(?)達との対談集。タイトルの割に幸福についての言及は薄く、むしろクリエイター論に近い。冒頭の虚淵玄氏(「魔法少女まどかマギカ」の脚本家)との対談がもっとも興味深かった。「まどマギ」を例にとりながら個人と世界を絡めて考える幸福論は、一読に値する。それでも、幸福とはそもそも何なのか、個別の愛を求めて行動するほむらと世界を愛そうとするまどか、二人のどちらが正しいのかというあたり、もう少し踏み込んでほしかった。
 本書でもっとも気になったのは、僅かな事例だけで物事を結論づけているところ。これは宮台氏に限らず、多くの社会学者や一般マスコミにも総じて言えることだ。年代論・世代論・男女論・国家論など、ひとくくりにして語るのは、僕は全て間違いだと思っている。もちろん、ある程度ひとくくりにして考えないことには、そもそも評論も議論も成り立たないのはわかるのだけれど。
 4人の相手との対談も、あまりうまく展開しているようには思えない。相手の発言に対し、宮台氏が「それは、これこれこういうことですね、そして私はこう思って〜」などと続く内容が、なんだか一人よがりで的を射ている感じがせず、対談集独特のドライブ感が味わえない。以前に読んだ「ヤンキー化する日本/斎藤環」のほうが、対談相手の人選も対談の進め方も巧いと思う。
 それにしてもネットでの本書の書評はすくない。あまり売れていないのだろうか。
世界主要都市の上空に突如として宇宙船が現れ、地球は彼らの指揮下に置かれる。技術レベル、知的レベル共に地球人より遙かに勝る彼らはオーバーロードと呼ばれ、直接的な攻撃や強制はおこなわず、巧みな方法で地球人を操っていく。やがて姿を現したオーバーロードに、人々は驚愕する――。
SFというジャンルにこれまでほとんど触れてこなかったのを後悔させてくれる一冊。これは文学的にも非常に深い領域まで描ききった、紛うかたなき大傑作だ。オーバーロードと呼ばれる宇宙人との交流の中で、平和とは何か、幸せとは何かが問われていき、最終的に人々のたどり着く状況には、感嘆とも恐怖ともとれない複雑な心持ちにさせられる。SFでもホラーでもファンタジーでも、優れたフィクションは必ず我々の生きる実社会とリンクしているものだ。大宇宙を舞台にした荒唐無稽なこの物語の中に、僕たちの生きる小世界がすっぽりと収まっている。そして読んだあとには、いろんな人と語り合いたくなるのだ。
2015年 4月 「長い旅の途上/星野道夫」 (文藝春秋・文庫)
「旅をする木」の感想でも書いたとおり、星野道夫さんの写真と文章は大好きだ。本作は、星野さんが亡くなった直後に出版された遺稿集であり、単行本未収録のエッセイが多数収められている。ただ、一冊の中で重複しているものがいくつかあったり、文章がこなれていない作品もあったりなど、「旅をする木」に比べると落ちるのは上記の経緯からして仕方がない。
 僕はこの本を、ドイツを旅している間に読んだ。この年になって海外に行くのには不安がつきまとう。現地で何か起きたらどうしよう。些細なことを考え始めると、不安は恐怖にさえ変わっていく。出発間際の待合いで、冒頭部に収められたシリアとジニーのエピソードに触れた。もう80歳近いこの二人の女性は、今でもマウンテンバイクに乗り、クロスカントリーを楽しむ生活を送っている。星野さんは彼女らと共にアラスカ北極圏の川を旅することになった。厳寒の極地まで飛行機を乗り継ぎ、最後はセスナで未踏の大地に降り立つ。飛行機が去ってしまえば、交通機関は何もなく、人の住む場所まで数百キロも離れている。ここで何かが起きれば即刻死に繋がる場所だ。それでも彼女らは怖れずに行く。二人に比べれば、僕の不安などけし粒のようなものだ。そう思うと少し勇気が出た。
2015年 4月 「ユリゴコロ/沼田まほかる」 (双葉社・文庫)
沼田まほかる作品を読むのは、「九月が永遠に続けば」に続いて2作目。エンタメ系にしては文章に気配りのある作家さんなので、ストーリーを追うだけではなく読む楽しみもしっかり味わわせてくれる。
 のっけから婚約者が失踪したり、母親が事故死を遂げたり、父親の部屋から殺人鬼の手記が出てきたりと不可解な出来事がてんこ盛りで、ぐいぐい読ませる。後半に向けてやや失速するも、最終的には驚きの結末が迎えてくれる。それでも、ミステリというのは謎が解けてしまえば「なあんだ」で尻すぼみになってしまうものだが、本作もその傾向を免れない。特に、メインである殺人鬼の手記の謎が、ほぼ読者の想像どおりの展開となるため、最後のサプライズもさほどの衝撃ではない。ただ、もう少し読んでみたい作家ではある。
2015年 1月 「六の宮の姫君/北村薫」 (東京創元社・文庫)
円紫師匠と“私”シリーズ第4作。ただ、これまでの作品群とはだいぶ趣が異なる。“私”が卒論で芥川龍之介の「六の宮の姫君」について調べていくという内容で、学術的な記述が延々と続くことになる。じつは著者の北村氏が自分の卒論に選んだ題材であり、その実話を元に話が作られているのだ。普通の読者がこれを楽しむことはなかなかに難しい。
ショッキングなタイトルに引かれ手に取ったが、内容は、想像されるニュアンスとは少し異なる。著者は、長年刑務所において、犯罪者を更正させる教育に真摯に取り組んでこられた方だ。更正プログラムの典型は、犯罪者に反省文を書かせるというもので、これは少年院でも同じだし、学校で問題を起こした生徒への対処も同様だが、これが全く効果のないことだと著者は言う。
 たとえばある人が交通事故を起こしたとする。誰かにケガを負わせ、裁判沙汰になったとしよう。大抵の人はこうした状況下では、自分の今後のことが不安でたまらず、被害者の悲しみや憤りにまで考えが及ばない。そんな状態で、「被害者のことを考えろ」「犯した罪の重さを考え、反省しろ」と言われても、表面的な偽善の態度しか出てこず、心からの反省にはつながらない。著者は、自分が交通事故を起こした時の実体験から話を始め、説得力のある論を展開していく。
 つまり、犯罪者に対し、被害者の気持ちを考えさせ、反省させたとしても、出てくるのは偽善的な態度、反省している「ように見える」態度でしかない。そんなことよりもまず、何故その人が罪を犯すに至ったのか、自分の内面を見つめるように促すべきだというのが著者の考えだ。たいてい家族関係や幼少期の体験に問題があり、そこを掘り下げていく中で、自分の抑圧された感情に思い至り、そこを見つめていく過程で、犯した罪の大きさを初めて感じることができ、被害者への同情や罪の意識が芽生えるという。
 文章のプロではないため、表現や論の展開にぎこちない部分はあるものの、非常に独創的で、かつ意義深い提言だと思う。これは犯罪者更正だけではなく、一般家庭での教育、学校教育にも広く応用の効く考え方だろう。
カズオ・イシグロを初めて読んだ。この作品から入ったのは僕にとって正解だったと思う。いろんなことを考えさせられ、読み終えてハイ終わりという作品ではなかった。
 舞台はイギリス。ヘールシャムという寄宿舎らしき場所に子供達がいる。主人公のキャシーは、リーダー的資質を持つ女友達ルース、おっとりした性格の男友達トミーらと共に学校生活を送るが、この世界がどこかおかしいことに気づいている。先生達が「保護官」と呼ばれていたり、毎週健康診断があったり、美術や詩作など、芸術関連の科目に力が注がれていたり。マダムと呼ばれる怖い女性がたびたび訪れては、生徒達の作品から良いものを選んで持ち去っていく。どこかの展示会に出されているという噂だが、真相はわからない。
 いったいこの世界はどうなっているのだろう。そうした謎を追って読み進めるうち、真相は割と早い段階で明らかにされる。つまり、謎解きで引っ張る小説ではないのだ。青春小説でもあり、恋愛小説でもあり、さらにこれを書くとネタバレになるから伏せるが、SF小説でもある。とにかく、抑制の効いた静かなトーンが最後までつづき、文章に酔わされる。そして読み終わったあとに、大きな余韻を胸に残していくのだ。

 なお、著者カズオ・イシグロ氏の興味深いインタビュー記事があったのでご紹介しておく。
 ・カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』 そして村上春樹のこと
なぜ自分がこの本を買ったのか理由を忘れてしまったのだが、やはりこのタイトルに「おっ」と思ったのだろう。「後悔しない、正しい決断とは何か」をメインテーマに、経営学的アプローチに心理学的要素を加えてわかりやすく説明した実用書。全てが納得できるわけではないものの、何かを決断しないといけない時に具体的にどう考えればいいのかという指南書としては、悪い出来ではない。タイトルの意味もまあ納得できる。