■ 2003年に読んだ本
  
1976年、自ら死刑執行を求めて世界中の注目を浴びた、ゲイリー・ギルモア。彼の仮釈放から殺人、裁判、そして処刑にいたるまでの経緯を、膨大なインタビューから再構成した大作。

数年前、「心臓を貫かれて」(1999年3月の読了本)を読んだあとに書店で見つけ、たぶんすぐに入手できなくなるだろうからと思い、買っておいた本でした。なぜか今年の夏に読もうと思い立ち、半年ほどの時間をかけて読み終えることができました。
 「心臓を貫かれて」では弟の立場から描かれた殺人者ゲイリー・ギルモアを、本作では、第三者によるインタビューを元にした小説形式で描いていきます。ページ数からもわかる通り、とにかく膨大な量の読み物です。しかも、複数の目から見たギルモアの姿を描きたいためか、あるいは”記録”という側面を重視するためか、とにかく登場人物が多く、視点もそのたびに転々とします。数えたわけではありませんが、登場人物は200人以上はいると思います。

 物語は、種々の犯行で服役していたギルモアが仮釈放となった1976年4月9日から、殺人を犯して死刑が執行される翌年1月17日までに限定されています。登場人物の中でもっとも意味深いのは、やはり恋人ニコールでしょう。二人の間に交わされた手紙がそのまま掲載されるなど、ときには彼らのラブストーリーなのかと思わせるほどです。彼女はまだ二十歳そこそこの年齢でありながら、結婚と離婚を繰り返す奔放な人生を歩んでいました。なぜかゲイリーは彼女に強烈に惹かれ、死ぬ直前まで彼女のことを思い続けます。
 叔父のヴァーンとその娘ブレンダ、そしてゲイリーとニコールを中心にすえた前半部分は、割合にすんなりと読むことができます。殺人に至るまでのゲイリーの行動、それに伴う周りの対応などはとても興味深いものです。しかし、ゲイリーが逮捕されて以降、弁護士や検事の視点が入ってきて、後半は一気に散漫になってしまいます。いくらなんでも、ゲイリーを取材した新聞記者の心情までたっぷり記述するのはやりすぎでしょう。作品中に何度か、各人のインタビューをそのまま掲載した部分があるのですが、その形式のほうが読みやすいのでは、と思いました。

 最後に、邦訳について。読んでいて気になったのですが、文体が何度か明らかに変わる箇所があるのです。ある章では誤字脱字が頻出し、次の章でそれがなくなったかと思えば、また次の章では言い回しが稚拙だったり。たぶんこれは複数の人間が訳しているのでは、と疑念を持っていましたが、巻末の訳者あとがきを読み、僕の推測が当たっていたことを知りました。
 訳者は映画の字幕制作のプロであり、本は数冊てがけた程度らしく、自身が講師をしていた外語学院の卒業生を雇ってこの本の翻訳を完成させたということでした。なんと出版社からは、この大著を5カ月で訳してほしいと依頼されていたのです! 出版界にはよくある話なのかもしれませんが、もう少しちゃんと時間をかけて作られていたなら、と思ってしまいました。
同上
2003年12月 「人間失格/太宰治」 (新潮社・文庫)
人になじめず、意に反して道化を演じる男。自殺未遂を繰り返し、今はもう廃人同様に生きていくしかない男。自殺の直前に書き上げられた、太宰文学の総決算。

「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン72冊目。

 10年ほど前に読んだのですが、内容をすっかり忘れてしまい、再読となりました。
 「恥の多い生涯を送って来ました」で始まる、有名な作品です。主人公の男は、主に日本人的な慎み深さや遠回しな表現から来る言動をまったく理解できず、さりとてそれに強硬にあらがうこともできない。残った手段はただおどけてみせることだけであり、そういう演技をすることしか生き抜く術を知らなかった。
 現在の心理学では、このあたりのことはだいぶ解明されてきていると思います。それでも、この時代にはまだ受け容れられ難く、著者自身の苦悩がストレートに表現されているのでしょう。ちょっと読むと、望んではいない割に女にはもてる、といういけ好かない男に思えますが、僕には非常に共感を覚える作品でした。
 ただこれは、同じ時代に生きた人々の感じ方とはまるで異なっているのでしょう。僕はこの作品を読み、感心はしたけど感動はなかった。巻末に、太宰研究家である奥野健男氏の熱い解説が載っています。彼は、太宰作品を毎回発表時に読んで感銘を受け、さらに、自殺を経て発表された本作品を読む、というリアルタイムでの体験には、後年になって僕らが読むのとはまったく異なる、特別な感情が働いていたことと思います。
2003年11月 「坂の途中で/さだまさし」 (PHP・単行本)
欠点から人を理解すれば、どんな時でもストレスなく、明るく元気に生きられる―。”さだ流”人生論の数々をおさめたエッセイ集。

いつもの語り口で、安心して読めるエッセイです。まあ、とくに大きな感動があるわけでもないと言ってしまえばそれまでですが、それは僕がこれまでに、さだ氏の文章を数限りなく読んできたゆえのことでしょう。ただ、名曲「まほろば」の誕生したいきさつについての話は、非常に興味深いものでした。
 いつも明るく元気で、いろんなことに好奇心を持って生きている。好奇心が、生きる上での全ての行動の源泉だという考えには、大きくうなずくことができます。そして、好奇心から手がけた物事にたいしてこだわりを持って臨み、さらにそのなかからさらに新たな好奇心が生まれていく。僕の理想とする生き方です。中学時代から聞き続けているさだ氏の音楽活動を通して、こうした価値観が形成されていったのだと感じています。
2003年10月 「脳男/首藤瓜於」 (講談社・文庫)
爆弾犯の隠れ家で、共犯者として捕まった鈴木一郎。精神鑑定を依頼された精神科の女医は、彼の言動に疑問を持ち、職場を離れて調査をはじめる。やがて彼女は、鈴木が生まれつき感情というものを持たない特殊な人間であることを知る。

ミステリー系の賞としては最も格式があるとされる、江戸川乱歩賞受賞作です。しかも、近年は乱歩賞も不作で、そんな中でも出来が良いと批評家連にも評判の作品です。
 なのに……

 正直、なぜこの作品が賞を獲るほどに評価されるのか、わかりません。ネットで調べてみた評価も総じて高い。でも僕は、冒頭数ページを読んだだけで、ああまたこれか、という落胆を感じました。最近のミステリー小説を読んだ時にここで書いている感想はいつも同じのような気がします。
 本作において、この著者オリジナルの文章というのはひとつもありません。すべてどこかで読んだようなありきたりの表現をつなげているだけです。この人はいったい何のために小説を書いているのだろう、と思わざるを得ません。長い長い説明調の文章と、合間に、とってつけたようにはさまった描写。展開は無理矢理で、さらにセリフがまたクサいのなんの。もう、はっきり言い切ってしまいたい。これは、感情を持たない男が犯罪を繰り返す謎、という設定だけが秀逸で、あとはなんにもない小説だ、と。(あ、言っちゃった)
2003年10月 「杳子・妻隠/古井由吉」 (新潮社・文庫)
主人公の<彼>は、神経を病んだ女子大生”杳子”と出会い、奇妙に息苦しい逢瀬を繰り返す―。1970年の芥川受賞作「杳子」と、都会で暮らす夫婦の生活を決定的に閉ざされた視点で描く「妻隠」を含む。

圧倒的な日本語の威力にひれ伏してしまった近作「夜明けの家」に比べ、初期の作品であるからかまだいくぶん読みやすくはあるものの、さすがに現代文学を支えるとまで言われる才能はただものではありません。とにかく冒頭、主人公の男と杳子との出会いの場面が素晴らしい。互いに神経を病んだ者同士が、お互いの眼から見た風景を語り合い、それが時間の推移も人称も超えて描写される。最初の章は一気に読むべきです。じつはとある講習会で、本作についての解説を聞き、そのすごさをさらに理解することができました。神経症を患う杳子を男が治してやろうとするが、そのたびに杳子の病状は悪化していく。それが、執拗な描写で描かれ、描写されればされるほど、杳子の異常さが浮き彫りにされていく。これほどキャラの立っている作品はなかなか見あたりません。
 いっぽう、二作目の「妻隠」のほうはそれよりも通俗的な印象で、読みやすい作品でもあります。物語は、都会のアパートにひっそりと暮らす夫婦のことが、アパートからほとんど外に出ることもなく語られる、それだけです。なのに小説として成り立っているすごさ。いささか粘着質な描写は中上健次を思わせます。こちらもおすすめです。
 しかし、この人の作品を読みこなすには、まだまだこちらの能力が足りない。そんな気にさせられました。
ホテルに集まった4人の狂人たち。暗喩に満ちたテニスコート、食堂、森。心情描写を徹底的に排除し、会話と風景だけで構成された小説舞台。作者は言う。「この小説には十通りの読み方がある」と。

こんな小説、読んだことありません。とにかく、ストーリーという概念は全く存在しないと言っていいでしょう。ホテルという舞台があり、そこには食堂やテニスコートや長椅子や森があり、4人の男女がいる。彼らの会話に脈絡はなく、日は過ぎ去っていくが、何の進展も展開もない。
 解説を読むと、著者のデュラスは、文飾を拒否し、文章の第一素材性を狙った、と書いてあります。すなわち、文章がただ素材として書かれているだけで、そこにいかなる意味も著者が与えない。素材を”解釈”して意味を付けるのは読者の作業だ、ということでしょうか。なんか、この書評を書いている間にも、だんだん読み返してみたくなってきました。底知れなさを感じますね。ただ、今の時点で高得点を付けるほどに僕が理解しきれていないのも事実です。
2003年 9月 「この人の閾(いき)/保坂和志」 (新潮社・文庫)
時間つぶしで思いがけず時間があき、<ぼく>は、元先輩だった女性を訪ねる−。芥川賞受賞の表題作をはじめ、事件は何も起こらない日常のなかで生きる人間を描いた短編四作を収録。

保坂和志さん、初読。これはなんというのか、ほんとに、なあ〜んにも事件は起きません。心を揺さぶられる何事も起きません。なのに、読み終わったあと、ああいいなあ、小説っていいなあ、読書って楽しいなあ、という素直な感想が湧きあがってきます。

 出てくる主人公はすべて、<ぼく>という、作者と同年代の青年であり、その<ぼく>が誰かと会ってだらだらと話をする、ということに物語は終始します。登場人物は、多くて三人。交わされる会話のなかで、すこしずつ彼らの生き方、考え方がにじみ出てきます。
 保坂さんの文体は、一文がなかなか途切れず長々とつづく、ということで有名です。金井美恵子さんなどにも同じ傾向があります。これが、最初はふざけているように感じるし、けっして美文とも言えないのでとっつきにくかったのですが、慣れていくとものすごい心地よさを感じるようになります。
 最近、ある講習会で保坂さんご自身のお話をうかがう機会がありました。そこで、いっけんだらしなく書かれたような文章でも、すごく緻密に考えられ、推敲を重ねられたものだということを知りました。また、思考を途切れさせないように一文を長く書いている、ということも聞きました。
 小説は説明ではなく描写だ、とはよく言われますが、たしかに、本作品集でも描写の力というのはすごいなあ、と思います。さらっと読めてしまうところでも、さらっと読めるようにするためにすごく考えて書かれています。

 四作のなかでは、「夏の終わりの林の中」が一番気に入りました。目黒にある「自然教育園」という場所を訪れた男女が、ただ歩いて会話をする、というだけの話です。なのに心の中に鮮やかに風景や二人の姿が残り、「この小説、好き!」とはっきり言い切れるのです。この感触は去年、マルグリット・デュラスの「太平洋の防波堤」を読んだ時と同じものです。
 音楽に例えるなら、派手なメロディーで、聞いてすぐにいいと思える曲は飽きるのも早いけれど、最初は地味だと思っていた曲が、聞くたびにいいと思えるようになりいつまでも楽しめる。保坂さんの小説はそういう小説だという気がします。
2003年 9月 「凍える島/近藤史恵」 (東京創元社・文庫)
喫茶店のなじみ客たちが集まり、でかけた島で起こる、連続殺人。ミステリーの典型舞台である「絶海孤島もの」を、愛憎うごめく恋愛模様で今様にアレンジした作品。第4回鮎川哲也賞受賞作。

綾辻行人さんの「十角館の殺人」と同様、クリスティーの名作「そして誰もいなくなった」のオマージュとなる作品。外部との接触を閉ざされた世界で起こる、連続殺人。必ず犯人はこの中にいる、というやつです。
 最初に起こる密室殺人、第二の殺人、ともになかなか不可能的な状況で引き起こされ、こんな大胆な状況にしちゃって大丈夫かな、と思い、同時にそれが吸引力となって、作品に引き込まれていきました。読んでいる最中は、とても楽しかった。
 ミステリーの面白さというのは、手品を見てそのタネを知りたいという思いと同じだと思います。そしてやはり、手品のタネと同様、わかってしまったら他愛もない、ということが多い。本作の密室の謎はまさにこれで、解明されるとなあんだという印象でした。さらに、トリックと呼べるものはそれぐらいで、あとの殺人の方法についてはおざなりなものだったと思います。また、<注意!!以下、完全にネタバレです。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>個人的には日本刀の血痕の謎だけは見当がついていて、そこからすると犯人は鳥呼しかありえないな、と思っていて、真相はあまり衝撃的ではありませんでした。ただそこに、いったんあやめが罪を認める、という仕掛けが入っている点で、なんとかオリジナリティが保たれています。
 それから僕は、本作を絶海孤島ものに仕立てた椋の行動、すなわちボートの鍵を海に投げ捨てるという理不尽な行動に、なんとしても理由付けがしてほしかった。それがない限り、あまりにも無理矢理で、間抜けな作品にも思えてしまう。それが非常に残念でした。

 全体として、完成度は今一歩、という気がします。ただ、ミステリーを土台にした恋愛小説、という評価はうなずけるものです。とくに、<注意!!以下、完全にネタバレです。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>いったんあやめが罪を認めて、最後にそれがひっくり返るあたりは、なかなかおもしろい趣向だと思いました。この部分を読んだ人はみな、「アクロイド殺人事件」ものかと思い、以前のページを見直したことでしょう。
[A]→[B]、という図で英文の謎は解ける―。 従来の英語教育にはなかった切り口で、英語理解への扉を開く。

誰しもが抱いている日本の英語教育への疑問、そして、猫が出てくる本という意味も含めて、ずっと気になっていた本でした。著者は、英語の勉強の基本はとにかく英文を「読む」ことだ、と言い切ります。読むことから全ては始まる、ヒアリングの能力さえ、読むことで培われるのだと。そして、学校教育がリーディングと文法という二分したやり方で行われることや、英会話教室において、簡単な常套句をいくつか教えて英語が話せるようになったと思わせるやり方などを批判しています。
 僕もずっと、中学・高校での英語の授業が「リーダー」と「グラマー」に分かれていることが不思議でした。おなじ英語なのにどうしてそうやって分けるんだろう、現にリーダーの授業でも文法のことは勉強するというのに、と思っていました。そして、中学でたっぷり文法を教わったあと、高校でもさらにグラマーの授業があると知って、英語にはそれほどまでに習わなければいけない文法があるんだろうか、と驚きました。
 学校では、本当に日常的に使われるものと、ほとんど使われないものとが分け隔てなく教えられます。このため、すべてが「覚えなくちゃいけないこと」になってしまい、英語が途方もなく大変な障害に思えてしまいます。本書では、いわゆる「S(主語)・V(述語)・O(目的語)」の構文が英文の70〜80%を占めている、とし、それを徹底的にマスターすることが英語上達の近道、と書かれています。
 さらに本書では、難しい文法用語はいっさい出てきません。たしかに英語に限らず日本の教育では、どこか、簡単なことでもわざと難しく言い表されたりするところはあります。非常にくだらない習慣です。なるべく平易な言葉で説明をしていこうとする本書の試みは評価できると思います。
 長い文章でも基本構造はほぼみな同じであって、それ以外は化粧に過ぎない、文がどこで切れるかを見極めることが大事だ、というのは、僕も学生時代、うっすらと感じていたことではありました。それから、ずっと疑問だった「a」と「the」の違いや、「in」「on」「at」等の前置詞の使い分けなどについては、短い文章で非常に素晴らしい解説がなされています。これは必読です。

 これから英語をはじめようという人にはうってつけの本だと思います。高評価の割に星の数がすくないのは、僕が学生時代に英語をそれなりに勉強してきたこともあって、この本から新たに得た情報は自分についてはそれほど多くはなかった、という理由からです。でも、この本を読んだあと、英語の原書でも読んでみようかなという気になってきますね。現にそうやってこの本を読んだことで開眼し、原書を読み始めた方もいらっしゃるようです。
2003年 8月 「お葬式/瀬川ことび」 (角川書店・文庫)
夫の葬儀は先祖伝来のやり方で、と主張する母。やがて親族が集まり、葬儀は始まった―。 第6回日本ホラー小説大賞短編部門佳作受賞の表題作ほか、四編を収録。

僕の大好きな作家貴志祐介氏がデビューするきっかけとなった日本ホラー小説大賞。第6回の大賞は岩井志麻子氏の「ぼっけえ、きょうてえ」でしたが、本表題作は短編部門で佳作となった作品です。
 読了後にネットで調べたかぎりでは、「青春ホラー小説」だの「さわやかホラー小説」だのともてはやされていますが、僕はぜんぜん感心しませんでした。怖さが感じられないからホラーではない、という点ではありません。もともとホラーには(とくにスプラッター小説や映画などに見られるように)笑いの要素が含まれています。青春ホラー小説が誕生するのは大歓迎なのです。が、それにしても、その方向性においての作品の面白さは当然要求されるわけで、本書にはそれが感じられない。以下、作品ごとに。

お葬式 女子高生の今風のしゃべりという体裁がとられている割には、使い古された言い回しが臆面もなく出てくる。ネタは途中でバレバレなので描写が命のはずなのに、まったく新鮮さは感じられない。
ホテルエクセレントの怪談 主題かと思っていた対象を途中ではずれ、意外な方向にストーリーが展開する、という狙いらしい。せめて清水義範くらい笑わせてくれれば、と思うが、それもなし。
十二月のゾンビ ネットでは最も評判がよい作品。ネタは悪くない。しかし、ブラックユーモアのセンスが圧倒的に足りない。
萩の寺 僕としては、本書中で一番評価できる作品。こういう無難な怪談が書けるのなら、その路線で長編を書いたほうがいい作品ができる気がする。
心地よくざわめくところ 悪くはない、と思う。短編集の最後に持ってくるのにもふさわしい。ただ、わかりやすい言葉で書くという手段で、楽に小説を書いてしまっている点がいただけない。本書全般を通じて言いたいのは、軽薄な人間を描くというのと軽薄な文章を書くというのは、まったく違うことだ、ということ。
作家と画家の姉妹の住む部屋に、ある日とつぜん迷い込んできたトラ猫の「トラー」。毅然たる純文学作家が意外な猫バカっぷりを発揮する、全編猫への偏愛にあふれたエッセイ集。

昨年から自分の中でブームが続いている、金井美恵子氏。小説では独自の文体を駆使し、他の追随を許さないかと思えるほど圧倒的な才能を見せつける作者ですが、このエッセイについてはあまりそんな風には感じませんでした。まったく偏愛としか言えないくらいの可愛がりぶりは、他の同じようなエッセイ集と比べてとくべつ際だっているわけでもありません。それに、気になったのが、「〜だが、〜」という言い回しが非常に多いという点。このせいで文章に変化が乏しく、美しくもありません。ひどい時には、「〜だが、〜だが、〜」という風に一つの文章で連続して出てきます。彼女のような天才には通常の文章ルールなど当てはめられないというのはわかりますが、やはり今回は、文章にも内容にもあまり魅力を感じることはできませんでした。
2003年 6月 「夜の記憶/トマス・H・クック」 (文藝春秋・文庫)
ミステリー作家ポールは、50年前の少女殺人事件の解明を請け負う。謎の真相に迫るうち、自身の暗い過去に追いつめられていく。

とある読書サイトで激賞されていたのを受け、読んでみました。少年時代に姉を目の前で殺され、大人になってからは作家としてミステリー小説を書く主人公のポール。過去の凄惨な記憶を自身の小説の引用と絡めて表現するというのはとても巧い仕掛けだと感じました。
 いっぽう、この手のミステリーにありがちな、説明しすぎという印象も各所で感じました。たとえば、「彼は〜をした、それは〜だったからだ」という具合に、行動の動機づけを全部説明してしまう。行動だけを書けばその裏の心理は透けて見えるはずなのに、そしてその心理は読む人によって多少のずれがあり、それが味わいを深めることになるはずなのに。本作は431ページとなかなか長い作品ですが、そうした余分な部分を除けば、3分の2くらいの長さでおさまるような気がします。

 ミステリーとしての出来映えは、というと……
 謎は大きく分けて二つ。50年前の少女殺人事件の犯人と動機。それから、ポールの姉の殺人事件の真相。前者は、<注意!!以下、少々ネタバレ気味です。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>動機づけに関しては最後に唐突に付け加えられた感があり、あまり物語になじんだ内容とも思えません。さらに犯人に関しては、謎の解明が近づくにつれ、これだけは避けてくれよと思った人がやはりそうでした。
 いっぽう後者に関しては、まさに意外でかつ納得できるショッキングな真相でした。これはお見事ですね。うすら寒くなること請け合いです。
2003年 6月 「深夜の弁明/清水義範」 (講談社・文庫)
どうしても原稿の書けない小説家が編集者に宛てた手紙とは―。日常にあふれる些細な出来事を徹底的に”おちょくる”、著者お得意の作品群。

大好きな清水氏の作品ですが、正直ちょっと飽きてきました。さすがに同じパターンの笑いが多く、先もだいたい読めてしまうのです。「岬の旅人」のようなミステリータッチの変化球も含まれていますが、いかんせん弱い。それに、改行を多用したり文法的にもむちゃくちゃな素人の文章を茶化すという体裁で、自分の作品を安易に作っているような気がしてしまいます。
 それでも、新聞の投書欄の論争を描いた「コップの中の論戦」、文章講座の講師が生徒の作品に翻弄される「三流コピーライター養成講座」には、爆笑させられました。
2003年 6月 「『深い河』をさぐる/遠藤周作」 (文藝春秋・文庫)
遠藤氏が「深い河」を書くきっかけとなったインド的人生観・宗教観を題材に、医者・科学者・俳優などさまざまな分野で活躍する人々とおこなった対談集。

「深い河」の文庫本を持ってインドに行き、舞台となったヴァーラーナスィを訪ねた僕は、帰国後もインドに関する文献にいくつか目を通しているところです。本作は、タイトルから想像するほど、「深い河」自体についての言及はありません。おもに、遠藤氏がインドを訪問して感じたことについて、いつもの好奇心から、各界の学者などに事の真偽を確かめてみようという狙いで対談がなされています。

 相手に選ばれたのは、9人。冒頭の本木雅弘氏とのやりとりは他愛もない話に終始しますが、つづく理学博士であり医学博士でもある青山圭秀氏とはサイババの奇跡について、哲学者カール・ベッカー氏とは死後の世界について、心理療法士である笠原敏雄氏とは前世の記憶について、それぞれ現代科学の常識を超えた現象についての議論が展開されていきます。遠藤氏は、以前からこうした超自然現象のようなものに強い興味を持っていて、いろんなことを知りたい聞きたいという、子供のような好奇心が伺えます。しかし対する相手の姿勢には違いがあり、学者という立場から不穏当な発言は控えたいという意志からか、断定的な表現を避けたり、遠藤氏の意見に異論を唱えたりすることもあって、それもなかなか面白く読むことができました。
 たとえば、高分子物理学の専門家である石川光男氏が、「分子が多数集まると、少数でいる時と違った性質を持つ」という発言をすると、遠藤氏がすかさず、「それは、分子の”意志”というものですか?」などと聞く。答える石川氏は、「意志という感覚は、科学の世界にはちょっとなじみません」と一蹴する。また、遠藤氏が、「科学も、宗教や文学と適応してもよいのでは」という旨の発言をすると、石川氏は、「それははっきり言えます。適合しません」と斬って捨てたりします。
 逆に、画家の横尾忠則氏が話すUFO話には遠藤先生、少々困り気味で、横尾氏が、「私はUFOと交信をしています。宇宙人とコンタクトを取り、天使の波動を受けながら絵を描いているのです」といった話を延々と続けるそばで、「はぁ。はぁ」と、あっけにとられたように相づちを打つばかり。このあたりの噛み合わなさについつい笑ってしまいました。
2003年 6月 「放送禁止歌/森達也」 (知恵の森・文庫)
差別助長・過激な性表現などの理由により「放送禁止」のレッテルを貼られ、いつの間にか世間から姿を消していく歌がある。1999年5月、その制度に真っ向から立ち向かうドキュメンタリー番組「放送禁止歌〜唄っているのは誰? 規制するのは誰?」が放送された。制作ディレクター自身が語る、「放送禁止」の内実とは?

書店で見つけ、衝動買いしてしまいました。卑俗な覗き見的好奇心があったことは否めません。ところが、内容はひどく真面目で、意欲的で、放送禁止歌というものの実態にかなり迫ったものだと感じました。
 実は僕自身もかつて、放送に携わるような仕事をした経験があり、放送禁止用語が使われていないかなど、放送前の番組をチェックする業務に関わることもありました。そのせいで、すこしは実情に通じているという意識は持っています。
 「放送禁止」というのは多くの場合正しい表現ではなく、実情は「放送自粛」です。なにか”やばそうな”言葉や表現に出会った時、過去の事例を参考に放送してもよいかどうかを判断し、不適当と判断すれば、言葉や表現を変えるなり、再放送番組であれば放送そのものを取りやめたりということになります。民放においては、民放連製作の「放送基準解説書」という明文化された規律があるにはありますが、書かれているのは「放送内容は、放送時刻に応じて視聴者の生活状態を考慮し、不快な感じを与えないようにする。」などといった抽象表現であり、さらに、それに基づいたいくつかの事例が掲げられている程度です。本書で紹介されているとおり、1983年までは「要注意歌謡曲」という一覧表があったようですが、現在はその指定は廃止されています。具体的にどういった言葉が放送禁止なのかは、各放送局がそれぞれに判断している、ということになると思います。

 放送禁止とされる理由として、部落差別に触れるから、というものがあります。しかし著者が部落解放同盟に取材をすると、言葉が使われていること自体が良くないのではない、言葉の意味を正しく理解し肯定的に扱うなら、それを糾弾するようなことはない、という話を聞きます。そして著者は、数々の放送事例に当たりその当事者に話を聞くうち、奇妙な事実に遭遇します。
 本来は”放送禁止”であるはずの曲が何度か放送されているということがありました。これが部落解放同盟で話を聞いた、「言葉の真の意味を理解し、覚悟を持って臨んだ番組」なのだろうと身構えると、実はそうではない。番組の担当ディレクターはそれが放送禁止であることさえ認識しておらず、さらに、番組放送後もなんら問題になることもなかった、というのです。
 この事実を知り、著者は頭を抱えます。いったい、問題の本質はどこにあるのだろう、と。何がいけないのか。誰が規制をしているのか。

 毎日、無数に生産されるテレビ番組において、その内容が放送に適しているかどうかの判断を制作者サイドに求めるのには、現状では無理がある気がします。これまでうやむやに処理されてきたぶん、ノウハウが正しく伝えられているとも思えません。
 数々のインタビューを重ねたすえ、著者がたどりついた現状認識、「いまや規制する側が、自らが規制の主体だという意識すら失っている」というのは真理だと思います。「規制する側」とは、言うまでもなく放送局のことです。ただ、それじゃあその現状認識をふまえて、これからどうしていったらいいのかということには、著者も明確な答えは出せず、センチメンタルな希望を書くにとどまっています。

 途中ではさまれる、アメリカの放送現場との比較について書かれた、デーブ・スペクター氏との対談も、とても面白い。とにかく、非常に興味深い作品でありました。
2003年 6月 「小春日和/金井美恵子」 (河出書房新社・文庫)
小説家の叔母宅に居候することになった女子大生の桃子。口うるさい母、離婚して同性の愛人と暮らす父、クラスでただ一人気の合う花子などの面々に囲まれ、少女の日常はつづく。

金井美恵子の文はなかなか途切れない、とはよく聞きますが、それを実感させられる小説でした。初期作品集「愛の生活|森のメリュジーヌ」で見られた思索的文章とは大きく異なります。それが、20年という年月の間で変遷した結果なのか、作品ごとにこうまで文体が違うのかはよく知りません。とにかく本作は読みやすく、通俗的です。それでも、いかに何の変哲もない日常をこれだけ魅力的に描けるかという典型だと思います。見事です。名人芸です。

 主人公の桃子は、少々ハスに構えたいけ好かないヤツで、最初はそれが鼻について不愉快に思えることもありました。それでも、読みやすさのためか、どんどん読み進めてしまいます。
 また、物語の中で、おばが小説やエッセイを書いた、というくだりになると、続けてそのおばの作品が掲載される、という仕掛けも含まれています。このおばの作品がさらに、物語中の桃子やその周辺の人々とのやりとりでおばがヒントを得た、ということがわかる作りになっていて、全くすごいなあと感心してしまいました。
 やっぱり天才だ、この人は。
ホームズが探偵を志すきっかけになった「グロリア・スコット号」、開業後最初の事件である「マスグレーヴ家の儀式」、そして、宿敵モリアーティ教授と格闘のすえ滝壺に落ちて”命を落とす”という「最後の事件」を含む、ホームズ第2短編集。

小学生ぐらいにはよく読んでいたホームズ物。大人になり新潮文庫の100冊を全部読もうキャンペーンで「シャーロック・ホームズの冒険」を読み、久しぶりの再会を果たしました。軽い読み物として、大人が読むにも最適でした。いつか読もうと思っていた、本作がその続編となる第2短編集です。

 一編が30ページほどの作品ばかりで、時に唐突にラストを迎えるような印象も受けますが、おおむね質は高く、楽しむことができます。中でもとくに、波瀾万丈の冒険譚である「グロリア・スコット号」が面白かった。50ページと最長の「海軍条約文書事件」も読みごたえたっぷりです。
 ただ、第一期の最後を飾る「最後の事件」、これはちょっと子供だましかなと感じました。宿敵モリアーティ教授という人が唐突に出現して対決するのですが、具体的な記述がほとんどないのです。たとえば、「強大な悪の組織を陰で操る教授を、幾多の苦難のすえ見つけ出し、ついにこの地で最後の対決を迎えた」というあらすじのような描写が、まさにそのまま書いてあるだけなのです。悪の組織がどういうものなのか、どうやって相手を追いつめ、また逃げられたのかという説明はまったくありません。

 著者のドイル氏は、これでいちおうホームズ物語は終わりにしたかったらしいのですが、読者の強い要望にこたえ、再登場させることになります。ついつい僕は、「ドラえもん」6巻の「さようならドラえもん」の回を思い出してしまいました。
不条理な情熱にさいなまれ、テレーズは夫の毒殺を図る。テレーズの孤独はいったい何によって癒されるのか。

僕の大好きな作家遠藤周作氏が生涯愛しつづけ、「わたしはずっと、この小説しか読んでこなかった」と言わしめた作品。氏の小説やエッセイの中にたびたび登場し、最近読んだ「深い河」にも主人公の内面を語る題材として用いられています。
 しかし、これは手強かった。翻訳の文体も固くいかにも純文学的であり、なかなかすんなりとは頭に入っていきません。フランス文学特有の、人間の不条理を描く内容も、理解するのは困難です。遠藤周作氏が訳した別版を買ってきたので、今度はそちらで挑戦してみようと思います。

(参考:遠藤周作訳版「テレーズ・デスケルウ」の感想 2004年4月
2003年 4月 「ナポレオン狂/阿刀田高」 (講談社・文庫)
ナポレオン蒐集狂の富豪の前に、田舎から出てきたという一人の男が現れた。二人の出会いはやがて思わぬ結果をもたらす―。表題作のほか、短編13作を収録。

短編の名手と謳われる阿刀田氏の、ミステリー短編としては初めて読んだ作品集でした。表題作は、確かに面白いのですが、オチにいたる伏線がないので感動は薄かった。僕は、第32回日本推理作家協会賞受賞作の「来訪者」が気に入りました。昔の恩にかこつけ頻繁に自宅を訪れる家政婦を、主婦の目から描いた作品です。全編に渡って趣向が凝らされていて、ラストは圧巻、切れ味抜群です。
 全作品を通して感じたのは、やはりミステリー小説の常として、文章の巧さ、艶といったものがあまりないということです。とくに、性的描写についてはいただけません。まあこれには好みもあるでしょうけれど。
2003年 4月 「インドでわしも考えた/椎名誠」 (集英社・文庫)
出ました、いつもの椎名誠的インド体験行。大志や哲学志向などなくとも、インドは人に何かを与えてくれるものだ。

インドに旅行するにあたり持っていったうちの一冊です。大好きな椎名誠さんの文体は、インドにとてもよく合っていると思いました。とくに、不可解なるインド人たちの振る舞いについては、実際に彼らの姿を目にしてから読むと、おかしさ倍増です。それにしても、僭越ながらおなじくインドを旅し、旅行記なるものを書いている身ではありますが、この椎名さんの書いた自由気ままで面白い文章に比べ、自分の文章のなんとつまらないことか、と旅の途中に嘆かわしく思えてしまったのでした。
2003年 4月 「深夜特急3/沢木耕太郎」 (新潮社・文庫)
計画などなにもない体当たり式紀行、第3弾にしてようやく出発予定地であるインドを訪れることに。この熱い国は、果たして彼を受け入れてくれるのだろうか。

大好きなシリーズであり、今回のインド行にちょうどいいので持って行きました。デリー到着早々タクシー運転手とのやりとりに疲れ果て、ホテルに寝っ転がって読み始めました。実際のインドの地にはじめて足を踏み入れ、そのさなかで読んだこの作品は、僕に大いなる興奮を与えてくれたものでした。書かれた年代は20年近く前になるため、物価水準は違いますが、旅行者と現地人とのトラブルは、今とほとんど変わらないようです。
 途中、著者はいったんネパールに入ってから、またインドへと戻ってきます。カトマンズの章だけは、現地から送った手紙という体裁になっていて、他と違ってですます調で書かれています。雰囲気がその部分だけすこし違っていて、なかなか面白い試みだと思いました。
2003年 4月 「母なるもの/遠藤周作」 (新潮社・文庫)
西洋の考え方は、自分の身の丈には合わない―。日本人の精神性に根ざした”母なるもの”を求め描いた作品群。

旅には必ず持っていく遠藤氏の作品。今回のアフリカ&インド旅行には、既読の「深い河」と本作という、二作を持っていきました。9年前にアフリカを訪れた時には、「何でもない話」という短編集を読んでいたものでした。
 遠藤氏の作品には、氏の実際の体験をほぼそのまま描いたようなものが多くあります。私小説というより、エッセイ・紀行文といった色合いが強いと言えましょう。大げさな言い回しなどいっさいなく、淡々とした記述が続きますが、その中に彼の孤独がふかく根ざしているのがうかがえます。厳格な信仰を強要する西洋のキリスト教徒たちや、逆にまったく信仰などには興味をしめさない浅薄な若者たち、そして自分の妻にたいしてさえも、自分とは相容れない存在と感じ、やりきれなさを抱き続けているのです。
 「母なるもの」とは、西洋の厳格な思想を”父なる”宗教とするなら、自分にはもっと何もかもを包み癒してくれる母なる宗教・生き方があるのではないか、という考えです。けっきょくこうした切なる思いが、各地を探し歩いた結果インドにたどり着き、「深い河」を書く源泉となっていったのでしょう。
2003年 3月 「ボヴァリー夫人/フローベール」 (新潮社・文庫)
美貌の人妻エマが凡庸な夫に嫌悪を感じ、人道はずれた恋にあこがれ生き、破滅に至る道すじ。

リアリズム文学の原点と称される作品。冒頭からそれはもう、たたみかけるような詳細描写の嵐でおなかいっぱい。あたかも写真かビデオを見ながら画面の隅々まで語らねば気が済まないかというほどの書きっぷりに、ははー、恐れ入りましたー、という気持ちになります。内容は、手荒く分類すれば「悪女もの」ということになりましょうか。夫がある身ながら不倫の恋を追い続け、淫蕩をくりかえしたあげく破滅の一途をたどる。ただ、そこは女心の不可思議さからか、最初の恋人レオンに対してはみずから誘いをかけながらも途中で理由なくそっぽを向いてしまい、レオンはわけわからず彼女のもとを去っていったりします。まああとで再会して結ばれるのですが。
 いっぽう、日々の生活に埋もれなんらの夢も趣味さえも持たない愚鈍な夫、シャルル。かわいそうだけど僕には、エマに愛想をつかされても仕方はないだろうという気がします。エマとシャルルとの求めるものの違いは、二人でオペラを見に行くシーンに極まります。華やかな舞台に酔いしれたいと願う妻に対し、全く芝居の内容を解せない夫。そのすき間を忍び込むようにレオンが現れ、エマとの再会を果たします。このシーンは見事です。
 ほかには、有名な農事共進会の場面。参事官の美辞麗句で飾り立てたつまらない演説がスピーカーから響くなかを、二人目の恋人ロドルフがエマに愛の言葉をささやく。デュラスの「モデラート・カンタービレ」を思わせる演出で、これも名シーンだと思います。

 ただ、やはり全体的に読みづらいのは確か。あまりに詳細な描写に、頭に思い描くのに手一杯で、なかなか読み進めません。それほど劇的にことが進む訳でもなく、大半が淡々とした調子なのも辛いところ。叙述をする視点となる人物がころころと変わるのも、読み慣れていないととまどうかも。ストーリー的にも古さは否めません。
子供の宿題を身代わりにすることになった父は、テレビ番組を題材に小説を書く。既存の物語構造を徹底的にコケにした、異色作品群。

大塚英志氏いわく、高橋源一郎という人は物語の構築ができないことを自分で認識し、それが個性となっている、のだそうです。たしかに本作は、「Dr.スランプ」や「サザエさん」などを題材にしてはいますが、ストーリーなどまったくお構いなし、好き放題むちゃくちゃ書いてみたという感じになっています。清水義範氏の作品とすこし似ている気がしますが、この人の作品はパスティーシュとは呼ばれないのでしょうか。ただし、本作に比べれば清水氏の作品のほうがよっぽど論理的でわかりやすいです。
 文章的には難しい語彙や言い回しはなく、小学生でも読めそうなものです。ただあまりにも荒唐無稽に過ぎてなんのことやらわかりません。そんな中から何か味がわき出てくる、それがこの作者の魅力なのかなあと、真ん中あたりに収録された「いつか同時代カンガルーになる日まで」を読んで思い始めました。この作品が一番好きです。
2003年 3月 「自分症候群/さだまさし」 (新潮社・文庫)
さだまさし氏が、小説に初挑戦し、歌でもおなじみの人情節を披露する。過去に発表されたアルバムのライナー・ノーツから選りすぐられた作品集。

さだまさし氏については、音楽はもちろん、その文章のうまさにも定評があり、僕も大好きです。ただし、小説がおもしろいかどうかは別問題。まあとくに下手ではないけれど、といった印象ですね。やはりエッセイ部分が面白かったです。温かい気持ちにさせてくれます。
2003年 3月 「動機/横山秀夫」 (文藝春秋・文庫)
厳重管理の警察署内から、警察手帳三十冊が盗まれた。意外な犯人、さらに犯行の動機とは?! 表題作を含め、四つの短編を収録。

ああ、これもか―。読み終わった直後に浮かんだのは、そんな感想でした。ミステリー系の小説で評価の高い作品は、だいたいにおいて文章に魅力がない。そしてそのせいで物語にリアリティが感じられない。本作も、そうした作品の典型例でした。
 表題作については、確かに真相を知ってへえーとは思いましたが、ただそれだけでした。他の作品については、それすらも感じられない。なんであんなに評価が高いんでしょうか。同作者の他の作品を読んでみる気には、あまりなれません。
2003年 1月 「日本の川を旅する/野田知佑」 (新潮社・文庫)
エコロジーのためでも健康管理のためでもなく、ただ単純に楽しいからパドルを漕ぐ。カヌー一隻、日本国中どこまでも。

「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン71冊目。
 日本の河川というのはどんどん汚くなっていて、のんびり川遊びのできる環境は確実に失われているようです。カヌー(カヤック)は以前からやってみたいと思っているのですが、静かな湖などを漕ぐならまだしもこの本にあるように川下りをしようとするなら、相応の知識と経験、さらにアウトドアサバイバル的なこともこなさなければならないと知りました。
 「旅」という雑誌に連載された記事をまとめたものであり、川を下って岸辺にテントを張ると村の人が集まってきて云々、というお決まりのパターンが続くので、途中で少々だれてしまいます。ただ文章は巧いので、景色の描写などもバリエーションが豊富で美しく、読みごたえがあります。自然破壊への嘆きや人生観などはあまり真面目に読んでいると突っ込みどころはたくさんあります。汚水公害を批判するなら人の生活でどれくらいの汚水が発生してしまうのか、そしてどうしたら日常の範囲でそれを防げるのかまで追求するべきだし、子供を川に近づけない大人達を批判するなら川遊びが確率的に低いながらも確実に死に至る被害を生むことがある点まで言及して述べるべきだと思います。しかしこの本はそうした目的で書かれた作品ではないので、そのあたりはおおらかに楽しめばよいのでしょう。
 巻末の解説は、僕の大好きな椎名誠さんでした。この解説文を読んで、本書の評価が少し上がりました。
2003年 1月 「心のことばノート/ひろはまかずとし」 (河出書房新社・単行本)
数々の職歴を経たのち詩画作家という現在に至った道のりを、自らふりかえり綴ったエッセイ集。

ある人の紹介で、ひろはまかずとしさんという方の作品を知りました。それは僕には人生におけるひとつの明確な出会いのように思えました。愛知県蒲郡市にあるギャラリー「彗星倶楽部」でこの本を手に取り、さらに詩画が中心の一冊と、ポストカードを何枚か買いました。
 ひろはまさんの作品の中心となるのが、「詩画」と呼ばれる、短い詩とイラストを会わせた絵です。ものすごくざっくりと言ってしまえば、326氏や相田みつを氏の作るものと似ています。この人の作品を見たとき、人のためでも世のためでもなく、ただ自らのために心地良くがんばればそれでいいというメッセージに強く共感を覚え、今の自分の立場と重ね合わせて思うことしきりでした。
 作品にはいくつかのテーマがあり、全ての作品に共感できるわけではないのですが、何より自分をいたわり、大事にし、好きなように生きていいんだよという考え方が好きです。ポストカードもそういった内容のものを選び、今パソコン卓の前に置いて毎日ながめています。
 こうした作品を作られる人の内面やこれまでの境遇などを知りたいと思い、この本を読みました。若い頃は不良とは言わないまでも、ずいぶんと”やんちゃ”な少年だったようです。高校の卒業式をさぼってそのまま家出をしてしまい、その後も強引に住み込みで働いたり、数々の職業を経験され、本当に好きなように自分の道を決めて生きてこられたようです。本作を「文章作品」として見ると、詩画そのもののインパクトにはかなわない部分もありますが、こういう人はこういう風に考え生きているのだということがわかる貴重な本です。はにかみながらも思った通りにずばりと言ってのける姿勢も好感が持てます。
クリークからクリークへとアメリカ中を旅して歩く「アメリカの鱒釣り」とは何者なのか―。短いエピソードの繰り返しで綴られるブローティガン独自の世界。

「小説」にジャンル分けされてはいますが、抽象的で不可思議な言葉の羅列に終始し、詩集といったほうがぴったりきます。数ページほどの短い文章は単発的で、ストーリーなどは特にありません。「アメリカの鱒釣り」と称する人物に関わるエピソードが延々と繰り返されるだけです。しかも、夢で見た話を聞かされているような荒唐無稽な話ばかり。なんとなく印象が似ているボリス・ヴィアンの「赤い草」でさえ、本作に比べれば数倍わかりやすい。これを読んで内容や著者のメッセージを即座に理解するのは至難の業でしょう。僕の大好きな漫画家、鈴木志保さんが好んで読んだと言われるブローティガンは、鈴木志保さんの漫画を凌駕する難敵でした。
 とりあえず読後に僕の受けた印象を、箇条書きにしておきます。
 ・無目的であること
 ・乾いていること
 ・深刻な状況でもとぼけてみせること
 ・最悪の状況においてもユーモアは存在しうること
 ・文章における自由を獲得すること
2003年 1月 「深夜特急2/沢木耕太郎」 (新潮社・文庫)
デリーからロンドンまで乗り合いバスの旅、というはずが寄り道ばかりで出発地までなかなかたどりつけない。熱狂の香港・マカオを後にした<私>は、バンコクからマレー半島を南下しながら、違和感を感じはじめる。

2年ほど前に読んだ一作目からの続き、前作では香港・マカオで熱狂する夜の街がきらびやかに描かれました。いっぽう本作では対称的に、バンコクからマレーシア、シンガポールと経てもなお、<私>の心は醒めたままです。記述も淡々として、途中で出会う人々との交流もどこか投げやりになっています。この”謎”は、終盤で解けます。
 旅の醍醐味は、危険をかえりみず、事前になにも調べずに行って現地の人と交流し、できるかぎり安い宿を見つける。そうした固定観念が嫌みに思えることがありますが、おおむね、楽しんで読むことができます。アジアに興味がある人なら、わくわくしながら読むことができるでしょう。現地で食べる食事はいかにもおいしそうです。