■ 2000年に読んだ本
  
「九マイルもの道を歩くのは容易じゃない。ましてや雨の中となるとなおさらだ。」たったこれだけの言葉から、考えられるだけの論理展開を行い、遂には殺人事件さえ暴かれる。有名な表題作を含む、ニッキイ教授シリーズの短編集。

本格推理ものの名作として名高い本作品、そういうのをあまり読んでいない僕は、こうやって少しずつそういうのにも手を出しているのです。この作品も、名作の評判通り、楽しむことができました。ただいかんせん、古さというのは否定できません。特に最近の、二転三転するストーリーに慣れ、常に、より新しいモノを生み出して行かねばならない現代においては、拍子抜けするぐらいにあっけない話が多いのです。大体、短編とは言っても、最近こんなに短い話はありえないでしょう。それから、ニッキイ教授の「推理」ですが、針に糸を通すような緻密な推理、という感じではなく、「こういうケースもあり得る」という程度のもので、今一つ納得いかない部分があります。そして、そのニッキイ教授のキャラクターも好きになれず、作品の評価もその程度になってしまいました。
 なお、表題作よりも、「おしゃべり湯沸かし」と「梯子の上の男」の2作品が素晴らしいと思いました。
2000年12月 「哀歌/遠藤周作」 (講談社・文庫)
不本意ながらの洗礼。侘びしい療養生活。病院で鳴く鳥。手術。父への反抗心から決めた妻。親族との確執−。哀しみをたたえた人生の中で、常に懐疑心を抱きながらも捨てきれなかった思い。「沈黙」へと続く、遠藤周作キリスト教文学の一つの到達点が、ここにある。

よくできた短編集だ、と思います。名作「沈黙」の直前に書かれたものらしく、キリスト教と共に生きてきた作者の思いが、小編の中にちりばめられています。あとがきで作者自身が書いているように、数年ごとに純文学長編を書き、その間の期間は、その長編に向けた同じテーマの短編を連ねてゆく、という指針通りの作品集となっています。この中の作品の多くは、作者自身の生い立ちと経験に基づいて書かれています。少年時代に大連に住み、そこで親が離婚して帰国し、本意でないながら洗礼を受けてキリスト教徒となる。また、結核を煩い、三度におよぶ大手術と長い療養生活。全て遠藤氏が実際に経験し、そこで感じた「生きることの哀しみ」というべきものが、作品の中で語られていきます。
 何しろ、作品の並びが絶妙ですね。一作目の「再発」で、旅行中に持病の結核が再発することから始まり、病院でのできごと、それから過去の少年時代の回想、妻に対する気持ちなどが重ねられていき、最後の「私のもの」で、一つの結実を得る。もう、素晴らしい!この短編集で、遠藤氏が言わんとしてきたことが少しわかったような気がします。長年読んできた氏の作品群の集大成がここにあります。
2000年12月 「西城秀樹のおかげです/森奈津子」 (イーストプレス・文庫)
ウィルスによる疫病で人類はほぼ全滅した。新宿の町中で、最後に残された早乙女千絵とジャネットは、自分達の生き延びた理由を探る。ヒントはなんと、西城秀樹の往年のヒット曲、「YOUNG MAN」に隠されていた!

これは、SFという設定を借りたエロ小説集ではないでしょうか。ま、そう言ってしまうと身も蓋もないわけで、結構楽しめます。笑えます。表題作もなかなかですが、ご主人に奉仕したくてたまらないアンドロイドの登場する「哀愁の女主人、情熱の女奴隷」が最高におかしくて、好きです。そして何より、このタイトルのインパクトで決まりでしょう。
2000年11月 「松下竜一その仕事 豆腐屋の四季/松下竜一」 (河出書房新社・単行本)
自分達の生活の、何も飾らない、ありのままを書いてみよう。小さな平凡な豆腐屋の、過ぎゆく一年の日々を文と歌で綴ってみよう。それが始まりだった。どうしようもない貧しさ、兄弟間の諍い、妻と老父との暮らし、豆腐屋として生きゆくことのつらさ、侘びしさ−。名もない生活歌人の生(なま)の人生がここにある。

友人にこの本を紹介され、初めて「松下竜一」という名を知りました。貧しい生活の中で、それが生きる支えとなったのでしょう、新聞の歌壇に投稿した様々な短歌と共に、日々の生活がそこに記されています。豆腐屋として働き、か弱い妻と老父の3人の暮らしを立てていく。語られるその様子は、こういう生活をしている人がいるのだ、ということを知り得たことだけでも収穫でした。短歌については、正直、それほどいいと思うのはありませんでしたが、古き良き日本語が多く出てきて、勉強になります。ただこの人は、20代〜30代あたりの生活、ということでは苦労されたかもしれませんが、兄弟関係も最終的にはうまくいき、思いを寄せた人とは結ばれて夫婦となり、短歌や文章では世に認められ、と、相対的にはそこそこ恵まれた人生を送っている、と言えるのではないでしょうか。ただそれにしても、あの豆腐屋の生活は僕には絶対無理ですね。哀しすぎます。
2000年11月 「ナイフ/重松清」 (新潮社・文庫)
ある日突然、ハブが始まった。誰からも無視される。目が合うと顔をそむけられ、すれ違う時には大袈裟な仕種で身をかわされる。毎日送られる封筒には、自殺した中高生の記事。教室で沸き起こる「死ね死ね」コール。そして、ノートや教科書にも「死ね」の落書き−。目を背けたくなる現実。いじめを題材にした短編集。

ずっと読みたいと思っていた重松清氏、初読です。一連の、いじめを題材に取った作品群のうち、最も直接的に描かれた作品をと思い、これを選びました。
 この本の中で出てくるいじめが真実であるのなら、あまりにも酷い話です。「そこまでやったらやりすぎだろう」というようなことが、最初から遠慮なしに登場してきます。大体、「死ね死ねコール」なんてやられたら、本当に死んじゃいますよ。それに、クラスメートの前で強制的にオナニーさせられたり・・・。考えられないことです。どうしたら人が傷つくのかを日々創造し実行しているのです。
 小説の出来映えとしては、ちょっと弱いかなという気はします。題材そのものが難しいこともあります。安易な結末は避けなければいけないだろうし、問題提起だけでは物語にならないし。いじめの実態を紹介する、いじめる人間といじめられる人間の不条理な心理を描く、という点では素晴らしいと思います。でもそれを最終的にどこに帰着させるのか、これが難しい。その点では、ほんの少しの安堵感で終わる「キャッチボール日和」が一番いいと思いますね。ただ、読んでいて新鮮な驚きのようなものは正直、ありませんでした。当たり前のことが当たり前に書かれている、といった感じでしょうか。偉そうですが。
 いじめは無くならない、そう思います。端的に言えば、それはどこにでもあるからです。どこにでも発生しうるからです。そして、いじめる人間が絶対悪なのではなく、いつでも誰でもいじめる側に回れるからです。今後も、世の至る所でいじめが行われ、時に死者が出ることもあるでしょう。悲しいけど、そういうものだと思います。そういう世界でなんとかどうにか生きていくより他にないのだと思います。
2000年11月 「私の嫌いな10の言葉/中島義道」 (新潮社・文庫)
「相手の気持ちを考えろよ」「ひとりで生きてるんじゃないからな」「おまえのためを思って行ってるんだぞ」−。善良で、もののわかった人達の押しつけてくる、これらの常套句。うわべだけの融和を求め、個人固有の生き方・考え方を許さない言葉の暴力の数々。そしてこれらの言葉は皆、美徳と捕らえられているのだ!

これはまた、いかにも賛否両論別れそうな作品でありますね。実際、ネット上の書評を見てもそうなっています。痛快だ、とべた褒めしているか、こんな最悪最低の本はない、と切り捨てているかのどちらか。僕は前者の部類です。面白かったですね。もちろん、全部が全部、ほめられたもんではない。読み始めて最初のうちは、何か文句ばっかりでいただけないなあと、良いイメージは無かったのですが、読み進むうちにだんだん興味を引かれていきました。
 今の日本はやはりちょっとどうかなと思うほどの全体主義がはびこっています。とにかく周りの人に合わせること、明るく楽しく振る舞うこと、助け合いの精神を持つこと、などが半強制的に押しつけられ、理不尽に思うことは多々あります。酒を飲めること、なんてのが相変わらず礼賛されることに憤りを覚えたりします。僕はほとんど飲めない質ですが、会社に入り、飲み会の席で酒を強要されることはしょっちゅうありました。最初は無理して飲んでいたのですが、ある時、急にばからしくなり、やめてしまいました。酒を断ると、相手が怒り出す時がある。これが僕には理解できない。僕が酒を飲まないことが一体その人にどんな迷惑をかけるのか、全く理解できない。あからさまに怒りはしなくとも、憮然としたり、拍子抜けしたようにそばから離れていく人もいる。さらに言うと、僕は生まれてこのかた、大勢での食事や飲み会などを楽しいと思ったことはない。恐らく、一度も。それを理解できない人がたくさんいる。飲み会を断ると、「そんな、遠慮しないで」とか言われる。遠慮しているのではない。行きたくないから行きたくないと言っているだけだ。それがわからない。「人はみな、酒が好きである」「人はみな、飲み会が好きである」などと信じて疑うことがないのだ。
 この本の中にもそういった、多くの人々がなぜか信じて疑わない、正しいと思ってやり過ごすが作者には虫酸が走るほどの嫌悪感を抱かせる事例がいくつも紹介される。例えば、「京のぶぶづけ」。京都の一流料亭のおかみに取材を申し込んだところ、丁寧かつきっぱりと断られた。残念に思ったが仕方ないのでそのままにしておくと、後で別のルートから情報が入り、そのおかみさんがたいそう怒っていると聞かされた。京都では、そういった申し出はまず一回目は断るのが礼儀だ、という。そしてそれでもどうしても、と再度申し込む。これもルール。そしてまた断る。最後にもう一回手紙か電話でお願いしたところで、それじゃあこんな私でも良かったら、ということで承諾する、と。それが京都での礼儀であるんだと。これを作者は、ネジ曲がった言語文化、野蛮な習慣だと吐き捨てます。これは僕も同じようなことを思っていました。自分達で勝手に閉鎖的な取り決めを作っておいて、それを知らない人間には教えもせずに切り捨てる。全く野蛮であり、排他的なくだらない習慣だと思います。
 などなど、いろいろと共感させられる部分があって、うなずきながら読んでいました。とにかく、多くの人の意見に盲従し、自分で考えるということをしない、そういう人を徹底的に軽蔑している。その姿勢が好きです。それが行き過ぎてただのガミガミおやじになっていたり、自分も同じじゃないかということをやっていたりする、というのはありますが。
2000年11月 「砂の女/阿部公房」 (新潮社・文庫)
昆虫採集に出掛けた男は、海辺にある女の家で一夜を明かす。家は、奇妙なことに砂地に深く掘られた穴の底に建っている。目を覚ますと、地上へつながる梯子は消えていた。女は何も語らない。男の、砂との闘いが始まった。

’95新潮文庫の100冊を全部読もうキャンペーン59冊目。安部公房といえば、普通は純文学でくくられるのでしょうか。大変奇妙な物語です。超自然的とは言いませんが、異常なシチュエーション。海辺に、屋根の高さより遙かに深く掘られた穴。その中に人が住み、毎日崩れ落ちる砂を掻いて暮らしている。村人達の陰謀で閉じ込められる男。現代社会ではあり得ないことのようですが、かといって非科学的なわけでもありません。
 話の中で特徴的なのは、やたらと比喩の多いことです。しかもそれらの多くが、うーむと唸らされるほど的確で面白い。そして、この話全体が、何かの比喩になっている。「砂」という存在が絶妙です。一粒一粒はもろくはかない。決まった形さえ持たず、常に流動している。そしてその流れゆく様こそ、砂の本質である、と。これが、人が生きていくことの比喩として描かれている、そんな気がします。一粒一粒を見てはいけない。細部にこだわるのではなく、全体を見よ、そんな感じでしょうか。今一つわかったようなわからないような感じではありますが。
 もう、すっかり気に入ってしまいました。哲学的な要素に加え、穴の底から果たして逃げおおせるのかというサスペンス的な楽しみもあります。大声にも反応しない村人たちは不気味で、全体を覆う雰囲気もたまりません。本屋に行くたび、次はどれを読もうかと考える作家になりました。
2000年11月 「深夜特急1/沢木耕太郎」 (新潮社・文庫)
デリーからロンドンまで、乗り合いバスで行く!自分でもよくわからないままそう決めた作者は、香港の安宿から旅をスタートさせる。そこでは、毎日が祭りだった。町にはいつも熱気が溢れ、身を任せるだけで日々が過ぎていく。やがて疲れた体を休めるためマカオへと移るが、そこに待っていたのは..。

’95新潮文庫の100冊を全部読もうキャンペーン60冊目。遂にここまで来た。作品は、テレビでもやっていて好きだった、「深夜特急」。有名な「デリーからロンドンまで乗り合いバスで」というやつの、1冊目。主に描かれるのがアジアで、アジアに興味のない僕は、前はそれほど読みたいとは思わない作品でした。しかし、テレビでそれを見てから、少しずつ興味が湧いてきていたのです。今回読んだのは、全部で6冊あるうちの1冊目。ハイライトはやはり、マカオのばくちでしょう。「大小(タイスウ)」と呼ばれる、サイコロ3個を使った丁半博打の一種で、それがどのように行われるのか、そして店がどうやって客から金を巻き上げ、賢い客はどうやって店から金を引き出すのか。そういった辺りが事細かにサスペンスフルに書かれていて、ばくちに興味のない僕でも引き込まれます。ただ、町の風景なんかで印象に残ったところはないですね。テレビからすると、もう少し進んだあたりで、夕陽のきれいなところなんかが出てくるはずなのですが。
2000年10月 「新編 銀河鉄道の夜/宮沢賢治」 (新潮社・文庫)
星祭りの夜、母親に飲ませる牛乳を貰いに家を出たジョバンニは、誰もいない野原で夜空を見上げるうち、いつの間にか銀河を走る列車の中に立っているのに気付く。すぐ前には友だちのカムパネルラもいる。停車場では、なぜか哀しい境遇の人達が列車に乗り込んでくるのだった−。
 表題作のほか、十三の短編を収録。


久々の、’95新潮文庫の100冊を全部読もうキャンペーン(自分で勝手にやっているだけ)で読んだ作品です。これで58冊目。読破はまだまだ遠いようです。
 1年前ぐらいに読んだ「新編風の又三郎」と同様、童話という形式で非常に読みづらく、苦労しました。ミステリーなんかを読んでいると、最後にどんでん返しがあるかと身構えるのが癖になっており、そこで普通に何もなく終わったりすると、「えっ?これで終わり?」っていう感じになってしまいます。そんな話がいくつかありました。正直、よくわからないんですよ。何回か読み返すのがいいのかもしれませんが、そういう気にもなれそうにありません。
 ただ、最後の「ビジタリアン大祭」は非常に面白かった。ビジタリアンとはベジタリアンのことなのですが、菜食主義者の集まる祭りの中で、非ベジタリアンたちの一派と論争が繰り広げられる話です。科学、生物学、宗教などを総動員して語られる論理は非常に明快で面白く、宮沢賢治氏の知識の豊富さが窺えます。彼自身もベジタリアンだったらしく、結局はベジタリアン側の論理を支持するような展開になってしまうのですが、僕にはどうにも非ベジタリアン側の意見のほうが正しく思えてしまいます。
 ベジタリアンには、要らぬ病気を予防するためにそれを行う「予防派」と、殺生をせぬための「同情派」に分かれる、ということなのですが、この「同情派」というのが何とも偽善的でいやなのです。よくある「〜を救え」運動などもそうですが、結局対象とされるのは、人が適当な基準(かわいいとか、人の役に立つ、などの理由)で選んだ動物だけです。見た目に気持ち悪いものや、人に害を加えるものについては実に平気で殺し、そうでなくとも人が生きていくうえで間接的にいろいろな動物を殺しておきながら、局所的に動物を救ったからというだけで何か偉大なことをしたような顔をしているのがばからしいのです。まあ、そうしたいという人を止めるつもりはありませんが、あなたもそうしなさいと強制されたりすると、心底腹が立ってしまいます。

 ・・・あまりいい感想を持てないのは、体調の良くない中で読んだせいかな。
2000年10月 「星降り山荘の殺人/倉知淳」 (講談社・文庫)
リゾート地開発協力の名目で、傲慢社長岩岸に呼ばれ集められた人々。顔ぶれは、スターウォッチャーと称する気障男星園を中心に、売れっ子小説家草吹、UFO研究家嵯峨島など、多彩かつ個性的な面々だった。都心から離れた雪の山荘で一夜を過ごした翌朝、岩岸の他殺死体が発見される。外は猛吹雪、町へ下りるルートは閉ざされた。犯人はこの中にいる−。

ネット上で、その結末の意外性をほめる書評を数多く見かけ、じゃあ挑戦してみようかという気になったのです。以前に読んだ「殺人鬼/綾辻行人」「ハサミ男/殊能将之」などでコロリとだまされてしまった経験から、慎重に慎重に、読み進めました。そしてその結果。やりました!犯人当てはズバリ的中しました!素直に嬉しい!
 この作品でまず目を引くのは、文中に、作者からのコメントのような形式で、「ここで探偵役登場」とか、「一夜明け、死体が発見される」などという記述がはさまれることです。あくまでもフェアに、という本格物の精神を貫いた結果なのでしょう。よくある形式なのかもしれませんが、僕には初めてで、新鮮でした。
 結末をアンフェアでないかという方もいらっしゃるかもしれませんが、僕は全くそんなことを感じません。<注意!!以下、完全にネタバレです。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。> まず、作者からのナレーションが怪しい、と目をつけました。そこで、毎回そこを注意して読んでいました。まず最初に、「・・語り部登場。彼は犯人ではありえない」とあり、その名前は記述されていません。この章で登場するのは、明らかに主人公と見られる杉下と、その友達、それから杉下の会社の社長などです。次の章では、「探偵役登場。彼も犯人ではない」との記述。この章では、星園、それから麻子が登場します。途中まで読んだあとにこの当たりを読み返し、これだ、と思いました。探偵役が星園ではなく、麻子だったとしたら、犯人は星園だろう。ラストが近付くにつれ、その思いを強くしました。きっと最後に星園が犯人当てをして杉下を指名し、その後から真の探偵役である麻子が、星園を犯人と指摘するに違いない。その筋書きはものの見事に的中しました。
 ただ、犯人断定の方法に関してはどうも今一つピンときませんでした。こういう可能性もある、こういう風には恐らく行動しないだろう、といった推測の域を出ず、論理的にコイツが犯人だ、と断定できる要因は少なかったように思います。加えて、これは最近の作家でよく思うことですが、文学的な表現にあまりにも乏しいのではないか、ということです。風景や心情描写が陳腐でおそまつに思えます。もちろん、読みやすさという面ではこれでもいいかもしれませんが、これではミステリーが一段低い分野のように語られるのは仕方ないか、と納得してしまいそうになります。
秋深く、真紅のバラが咲いた朝、老女は遠く離れた孫娘に向かって話しかける。折に触れ食い違い、いがみ合い、心の触れ合わぬまま、別れてしまったことを悔やみながら−。

年老いた女性が孫娘に宛てた手紙、という形式で文章が綴られます。何気ないけれども、決して軽くはない言葉の数々。何より僕が気に入ったのは、物事は複雑に絡み合っている、目の前に現れてくることを単純に捕らえてはいけない、という姿勢です。特に、人と人との関わり合いの中で、言葉や態度は、その意志や感情とどんどん離れてゆく。そのもどかしさ。後悔。人の心というのは不思議なものだと、つくづく思います。
 最初は、年寄りの説教のように耳に障るかと思っていたのですが、実に自然に受け止めることができました。友だちから借りて読んだのですが、常に手許に置いておきたい一冊ですね。
2000年 9月 「プチ哲学/佐藤雅彦」 (マガジンハウス・文庫)
気軽に楽しく、そして気に入ったらちょっとだけ深く考えてみる、をモットーに描かれたイラスト&文章集。「ポリンキー」「バザールでござーる」などのヒットCMを手掛け、ゲームソフト「IQ」も大ヒットさせた奇才佐藤氏が、日常に転がる「ちょっとした哲学」を語る。

これも友だちから借りて読みました。いや、この人の活躍ぶりはとてつもないですね。とにかくその範囲が凄い。絵から文章、音楽、ゲーム。あの「だんご三兄弟」を手掛けたのも、この人です。しかし、この本からは、意外に普通っぽさを感じました。巻末に、僕の好きな漫画家中川いさみ氏との対談があるのですが、なんか、やけにハッスル(死語)するがんばりおじさん、という印象を受けました。その対談の中にも、普通であることの大切さが語られます。ここで言う「普通」とは、当たり前に物事に好奇心を持ち、当たり前にその感じたことを表現する、ということなのでしょうね。とすれば、僕等はどれほどに濁ってしまっているのかということを考えさせられます。世間で活躍している方々というのは、要するにありのままの自分を保っている人、ということなのではないでしょうか。
なぜ人は悩むのか、どうやったら自分の望む生き方ができるのか−。簡単な言葉で説く、生きるヒントの数々。

僕の好きな加藤諦三さんの新刊を、久しぶりに読みました。この人の本は、だんだん柔らかになっている気がします。前は、「〜しなければいけない」という表現だったのが、「〜したほうがいいよ」と変わってきている、と言うような。
 この本は、1ページの文字数が極端に少なく、散文エッセイのようになっていて、速ければ30分ほどで読めてしまいます。大きくのめり込む、という感じではありませんが、いくつも、心に響く言葉がありました。

「あなたの五感から生まれた夢を大切にしなさい」
「自信は楽しさがともなわないとつかない」
「大人の虚勢は、人を見返すための虚勢だから」
「自分の偉大さを人に見せようとしているかぎり、人は自分の偉大さに気がつくことはない」
「傷ついたら、自分を回復させてくれる人を探すこと」
「ろくに準備もしないですべてに優越しようとするのは、おそろしいほどの劣等感からである」
2000年 9月 「ユーモア小説集/遠藤周作」 (講談社・文庫)
ノミより小さな体になり、好きな娘の体の中に潜り込んだ医者の山里。任務は、彼女の肺と胃の間に出来たガン細胞を取り除くことだった。手術は順調に終わるが、帰り道に迷ってしまう。山里らの辿り着いたのは−。「初春夢の宝船」ほか、テレビドラマの主役として活躍するチンパンジーと、リヨンのうら寂しい公園に繋がれていた猿との対比を描く、「アルバイト学生」など、12の短編を収録。

遠藤氏得意の、人間の哀しさ・おかしさを題材にした短編集です。重いテーマのものはなく、サクサクと読んでしまいました。だからといって軽薄なわけでもありません。遠藤氏の、人間に対する一種の諦念、そしてそれを見つめる何ともいえないやさしさがあふれています。氏の著した作品のほとんどに見られるテーマです。
 軽く読むには最適の1冊でしょう。これ、実は恐らく昔に一度読んだことがあると思います。僕には、遠藤氏の文章がものすごく合っているようです。体にすいすいとしみ込むように、文章が頭に入っていきます。
2000年 9月 「謎とき『罪と罰』/江川卓」 (新潮社・全集)
1865年、退廃の町ペテルブルグを舞台に描かれたドストエフスキーの代表作「罪と罰」は、その重厚な内容により、全世界のあらゆる読者を虜にしてきた。元より多面的な要素を含むこの作品は、ある時は社会小説、またある時は哲学書、そしてまた上質なサスペンス小説としても、充分に楽しむことができる。
 日本語訳者として貢献した江川氏はしかし、それだけの評価に満足してはいなかった。独自の調査・見解により、ここに型破りの「罪と罰」研究書を著す!


最初に言っておきます。「えがわすぐる」では、ありません。ロシア文学者の「えがわたく」氏です。
 「新潮文庫の100冊を全部読もう」キャンペーンの一環として、数年前に「罪と罰」を初めて読み通し、その素晴らしさを体感しました。自分のオールタイムベストを挙げるなら、恐らくベストスリーに入るだろう作品です。当時は、サスペンス的要素と哲学的要素が絶妙にミックスされたところが非常に面白いと思いました。しかし、この作品はそればかりではありません。ストーリー展開から、登場人物の名前の付け方、場所の選び方、細かな描写など、全てが緻密な計算のもとに成り立っているのです。本研究書では、それらの一つ一つが、調査結果とそれによる考察を加えて書いてあります。その内容には驚かされました。ところどころ、考え過ぎではないかと思われるような箇所もありますが、基本的には納得させられることばかりで、「おおーっ!なるほど!そういうことだったのか。いやはや確かに」という感激の連続でした。特に、登場人物全てを、その意味から日本語訳化してしまうところなんかはもう脱帽です。素晴らしく知的な遊びと言えるでしょう。「罪と罰」を気に入った方には、とにかくお勧めの一冊です。

最後に、「罪と罰」本編の感想を少し。

 印象に残っているのは特に上巻のほうで、まずは、276ページあたりの、町中でザミョートフに出会い、自ら不利になるような話をまくしたてるシーン。異様なテンションの高さでしゃべり続けるラスコーリニコフ。自分の言葉に自身を制しきれず、次第に興奮を増していく姿には鬼気迫るものを感じます。最高にスリリングなシーンです。それから、451ページ、ラスコーリニコフがポルフィーリィのもとを訪れ、互いの犯罪論を闘わせるシーン。ラスコーリニコフの持論、人を「凡人」と「非凡人」とに分け、少数の「非凡人」は、法律や倫理を踏み越えてでも大多数の「凡人」を駆逐し、自分の思想を実行できる..。うーむ、実にわかりやすい。そしてもう一つの持論、一つの微細な罪悪は百の善行に償われる、これもわかりやすい。たぶん翻訳もいいのでしょう。吸い込まれるように読み進めてしまったのを覚えています。
 上巻の最後のページ。眠るラスコーリニコフのもとに現れた意外な人物。もう最高のつなぎです。わくわくさせられます。
 しかし、下巻の印象が薄いのです。ソーニャとのやりとりなど、あまり記憶がありません。体調があまり良くないなか読んでいたせいでしょうか。よくあることです。しかし、最後にソーニャの愛に目覚め罰を受ける決心をする、というような部分が今一つ納得できなかったのは覚えています。特に上巻にあった、一見不条理に見える中での論理展開というようなものに非常に共感を持っていたので、ラストの予定調和的な終わり方が面白くなかったのかもしれません。もっと不条理な展開でも良かったのでは、(例えば、ソーニャの愛を感じながらも犯罪を重ねてしまう、というような)と思います。同じ「不条理」でも、フランス文学のカミュやサガンなんかよりよっぽどわかりやすいと思います。
 それからもう一つ、読んだ当時には、サルトルの実存主義(といっても本1冊読んだ程度でおこがましいのですが)に通じる部分を感じたのですが、今となってはどのあたりか思い出せません。
2000年 8月 「共生の生態学/栗原康」 (岩波書店・新書)
ウシに代表される反芻動物の胃は「ルーメン」と呼ばれ、細菌や原生動物などの様々な微生物が集まり、互いに影響を及ぼし合うことでバランスを取り、それが引いてはウシそのものにも利益をもたらすという、相利共生の場となっている。自然が作り出すこの絶妙な生態系はいったいどのようにして作られるのか。また、人間がそれらに介入することで失われてしまったバランスを取り戻すにはどうすればよいのか−。

「共生」ということに興味を持ち、先月の「共生の意味論」に引き続いての科学書です。こちらはさらに学術的になり、前書よりも理解するのに苦しみました。著者は、地球が誕生してからこれまでの間に長い時間をかけて作られた生態系のバランスを人間がことごとく壊してきた、これを人間の手で元に戻さなければならない、それにはどうすればよいのか、という形で話を進めていきます。
 ただ僕は、「共生」ということには興味は持つのですが、著者の言う、人間が壊したものを人間が直していかなければいけない、といういわゆるエコテクノロジーという考えには賛同しかねます。まず、「自然」と「人工」が反対語のように扱われることに納得がいきません。人間も、他の動物と同じようにこの地球上で生まれた、ほんの少しだけ知能の高い動物に過ぎません。即ち、地球が生み出した他のもの、海や山や川や生物と同様、「自然に」生まれ出たものだと思います。人間が作る優れた建造物は、アリ塚と意味的には何の変わりもありません。これを何か特別なもののように受け止め、人間が、周りの自然を取り戻そうだとか、地球を大切にしようとかいうのは、奢りのように思えてなりません。
 今のままいけば、人間は滅びるかもしれません。しかし、地球が人間に滅ぼされることはないでしょう。それにもしそうなったとしても、地球が人間を生み出したのだから、結局地球自身がそれを導いたことになるはずです。僕は、子孫のために〜を残そう、とか、〜の動物を救おうだとかいうのも嫌いです。人間は、滅びてはいけないのでしょうか。これまで、地球上には実に様々な動物の種が生まれ、絶滅していきました。例えば恐竜の絶滅がなければ、人間は生まれて来なかったかもしれません。そこで昔に戻って、恐竜の絶滅を救おう、ということになるでしょうか。今の人間という種が滅び、次にもっと平和な社会を築くことのできる新人類が現れるかもしれません。それなら、滅びたほうがいいということにならないでしょうか。
 僕は、僕等はつまり、思うように生きていけばいいと思うのです。地球を救おうなんて大それたことを考えることなく。それは、怠け者の論理なのでしょうか。
2000年 8月 「姑獲鳥の夏/京極夏彦」 (講談社・文庫)
だらだら坂を登りきったところに、古本屋「京極堂」はある。店主はそこで、売り物であるはずの書物を読み、一日を過ごす。ある日、友人である文筆家関口が相談事を持ちかけた。雑司ヶ谷にある医院で、婿養子が密室から消え、妻は二十カ月も身籠もったままであるという。店主、京極堂は驚くこともなく言い放つ。−この世には不思議なことなど何もないのだよ−。

「前から読みたいと思っていた京極夏彦氏に、ようやく手がつけられました。遠泳大会に出掛ける当日、実は別の本を求めて近くの本屋に寄ったのですがあいにくそれはなく、別の物を物色している時に目に入り、文庫本600ページを越える分厚さに躊躇しながらも買ってしまいました。新幹線の中で読み始め、すぐにその世界にはまってしまいました。冒頭から、物語の筋はそっちのけで、探偵役である京極堂の蘊蓄話が続きます。これが少し苦痛だという評もあるようですが、僕にはこの部分がたまりませんでした。うんうん、そうそうと大いに同感しながら読み進めました。そして、ようやく事件現場に話は流れ、その全貌が見えてきます。もう読み止まりません。無茶苦茶面白いです。
<注意!!以下、完全にネタバレです。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。> 読む前は、この人が書いた一連の妖怪ものの内容がわからず、本当に妖怪の話なのか、妖怪に題材を借りたミステリーなのか、気になっていました。個人的には後者が好みだったのです。そして、その希望は叶いました。超自然的な要素があるのかないのかが大きな分かれ道だと思います。ホラーや怪談は好きですが、妖怪話にはあまりそそられません。

 死体が見えない、という仕掛け。賛否両論あるようですが、僕にはOKです。充分あり得ることだと思います。それは、そこまでの京極堂の話からして、そうです。そして、そのリアリティを出すために、あれだけの分量を割いて、京極堂にしゃべらせたのでしょう。見事です。ただの蘊蓄ではなかったのです。こういう組み立て、大好きです。

 ただ、無頭児については、予測がついてしまいました。これ、手塚治の「ブラック・ジャック」にありました。蛙のような子供、というところで、もしや、と思っていたら、的中でした。


 傑作です。しかもこれが処女作とは!!今更ながらではありますが、この人の作品をこれから追いかけてみようかと思っています。
2000年 7月 「さむけ/ロス・マクドナルド」 (早川書房・文庫)
私立探偵リュウ・アーチャーの元に、一人の青年が訪れた。新婚旅行中に、新妻のドリーが失踪してしまったという。フロントの目撃談を手がかりに捜査を開始するが、やがて彼女は、精神錯乱の状態で発見される。友人の死を目撃したとの告白に駆け付けると、そこには美貌の女教師の死体が転がっていた。当然のごとく疑われるドリーだったが、彼女の過去にはもう一つの殺人事件が影を潜めていた。複雑な人間関係を、アーチャーの冷徹な頭脳が読み解く!

例によって翻訳物が苦手な上に、ハードボイルドがまた更に苦手ではあるのですが、何とか読み終えることができました。未だに、ハードボイルドの定義が良く理解できないでいます。もちろん、こういったカテゴリー決めに明確な線引きはできないのはわかりますが、好きな人には感覚的にその範囲が理解できるのでしょう。何とか僕も理解したいとは思うのですが。
 聞くところ、ハードボイルドとは言っても、この人の作品はチャンドラーやハメットと違い、派手なアクションなんかもなく、展開も地味だそうです。確かに、女性とのロマンスもありませんし、話のほとんどはアーチャーが人と会って話を聞くことに終始します。登場人物も多くて、僕にはちょっと制限範囲いっぱいいっぱいでした。
 ただ、ラストの真相。これには参った!参りました。よくこんなこと考えつくなあ。これで話全体に一本の筋が通ります。脱帽です。
2000年 7月 「笑う山崎/花村満月」 (祥伝社・文庫)
東京のベッドタウンとして栄える地方都市を牛耳る山崎は、関西系暴力団から送られた目付役であった。体の線は細い、優男の山崎はしかし、冷たく固い意志を武器に、刃向かう者には究極の暴力を、また、従う者には究極の愛を与える。その理不尽で常軌を逸した行動体系は、不思議なカリスマ性を持ち、関わる人間を惹きつけずにおかなかった−。

吐き気を催すほどの暴力が描かれているのに、この山崎に惹かれる部分を感じる自分がいます。ヤクザ礼賛の小説や映画は、本当に腐るほどありますが、なぜこれほど魅力的に思えるのでしょうか。世間一般で言われているような幸せを否定している点には、大いに共感を覚えます。ただし、ここで描かれるような暴力を肯定するつもりは全くありません。その暴力の一方で、妻や娘を愛する姿は、正に理不尽としかいいようがありません。人間とはつまりこのように不可解なものなのだということが、作者がこの作品でまず言いたいことなのかもしれません。
 この本は、持ち歩いて、主に食事しながら読んでいたのですが、食事中に読むには適した小説ではありませんでした。気持ち悪くなります。
2000年 7月 「さだまさし全一冊/さだまさし」 (TOKYO F出版・ムック)
右から開けば、さだまさしの自分史、左から開けば、ディスコグラフィー等さだまさしに関する全データが見られる、超豪華特製本。「全一冊」の名の通り、これを読めばさだまさしの全てがわかる!

昔っからのさだまさしファンである僕は、書店でこれを見つけた時、3000円近い値段に関わらず、迷わずに購入しました。400ページの半分が、祖父母の歴史から語られるさだまさしのこれまでの軌跡が、自身の筆で紹介されています。ただ、ほとんどの話はこれまで、他の本やトークなどで聞いたものばかりで、そちらはあまり新鮮味がありませんでした。そして、残り半分が、アルバム・シングルをはじめとしてこれまでに発表された本、ビデオなど、ありとあらゆるデータが紹介されています。ディスコグラフィーなんかは意外に他では探せないので重宝します。行ったコンサートも全て紹介されていて、大学時代に僕が唯一行ったものも、恐らくこの日だろうと推測できました。未発表曲の中の一つ、テレビ番組「らくごのご」で紹介されたという、「オホーツクはるかなり」が聞きたい!!
2000年 7月 「共生の意味論/藤田紘一郎」 (講談社・新書)
人はこれまで、清潔・潔癖を求め、ウイルスや寄生虫を駆逐してきた。それらは人に利益をもたらす反面、アレルギーや別の感染症を引き起こすことにもなった。著者は語る。人の体内に潜む微少な生物たちは、一概に利害を断定できないような複雑なしくみで人体と「共生」しているのだ。その鎖をむやみに断ち切ってはいけない。異物を排除するのではなく、それらとうまく共生することが必要だ−と。

これ、面白いですよ。微生物というのは、不思議ですね。あんなに小さく、構造も単純なのに、行動は複雑で実に理にかなっている。この本の中で、人の体に侵入した細菌などが、いかにうまく免疫機能をかいくぐってゆくのかが述べられていますが、見事と言うほかありません。そうやって入り込んだ細菌は、確かに人に危害を及ぼすこともあるけれど、時には人を守ってくれるような振る舞いを見せることもある。例えば、フィラリアにかかると、様々な症状を引き起こして苦しむことになりますが、一方ではマラリアの感染を抑制している、なんてことがあるわけです。それから、ここ数十年で急激に患者数の増加した花粉症やアトピーなどのアレルギー症について、その原因がなんと、人の体内から回虫がいなくなったからだ、ということも書かれています。データを元にしたかなり説得力のある話で、唸らされました。
 確かに、何が良いのか悪いのかというのは、一概に判断はできません。そして、私達の周りには無数の微少な生物が群生しており、それらを完全に駆除してしまうことは不可能です。これらとうまく共生していく道を探るべきだという作者の意見には、おおいに賛同させられます。もともと、回虫なんてそれほど人に大きな害を及ぼすこともなかったろうに、「気持ち悪い」というような理由だけで排除されてきました。その意味も知らずに。愚かなことです。同様の理由で僕は、人が見てかわいいと思うような動物だけを保護しようとする「〜を救え」運動みたいなものにも、賛同しかねるのです。
2000年 6月 「死の匂い/カトリーヌ・アルレー」 (東京創元社・文庫)
父親を死の病から救った美貌の青年医師と結婚したステラには、幸せが待っているはずだった。しかし、億万長者の娘と貧乏医師との生活には、もとより死の匂いが立ちこめていた。「わらの女」の著者、カトリーヌ・アルレー処女作。

「悪女書き」として有名なカトリーヌ・アルレー、読むのは「わらの女」に続いて2作目です。書店で見かけるのはたいてい「わらの女」1作ぐらいですが、実は発表作は意外に多く、その中からあらすじを読んで買うことに決めたのが、偶然にも処女作でした。<注意!!以下、完全にネタバレです。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>はじまりの辺りは設定の面白さに引き込まれたのですが、すぐに単調な筋に飽きてしまいました。とにかく、ステラが寝たきりになってから、展開が何もないのです。残り200ページ近くがだらだらと過ぎていきます。隠された真相が何かあるのかなと期待はあったのですが、最後まで何もありませんでした。ちょっと期待外れでしたね。次、別の作品に手を出してみることにします。
2000年 6月 「そして扉が閉ざされた/岡嶋二人」 (講談社・文庫)
不可解な事故死を遂げた三田咲子。当時別荘に居合わせた四人の男女は、何者かの手によって、シェルターの中に閉じ込められてしまう。そして、部屋の壁には「お前たちが殺した」の文字−。四人はここから脱出できるのか。そして、事故の真相は?

面白い設定ですよねえ。よく考えつくものだと思います。物語の舞台は、回想シーン以外は全てシェルターの中だけです。シェルターからの脱出を試みながらも事件の真相の解明に努め、わずかな手がかり、そして以前の記憶などを辿りながら、徐々に真相が明らかにされていきます。
 「クラインの壺」に続く岡嶋二人さんの作品でしたが、前にも思ったのが、登場人物に感情移入しづらいことでした。特に恋愛感情を描く部分がどうも...。主人公の、どうもちゃらちゃらした感じと偉そうな性格が好きになれなかったのです。
 それから、願わくば、もう少し文学的な表現もあっていいのではないかと思いました。何か論文を読んでいるような気がして、叙情的な描写なんかがもう少しあれば、もっともっと読書の楽しみを味わうことができるのに、と。
 でも、話の面白さは確かですよ。
「警察庁」と「警視庁」、「起訴」と「告訴」、「留置所」と「拘置所」、テレビや小説ではよく耳にするこれらの言葉の違いは何なのか。また、弁護士に依頼するといったいいくらかかるのか、死刑・無期懲役の執行の実態は、など、犯罪捜査に絡む基礎事項についてわかりやすく書かれた解説書。

とてもとてもためになりました。特にミステリーなどを読んでいると、大体の意味はわかるのだがまぎらわしい言葉がよく出てきて、この正確な意味を知りたい、と思うことがよくあります。また、犯罪が発生してから、捜査、そして裁判などの一連の流れを知りたいと常々思っていて、今回この本でかなりのことが理解できました。とにかく、起訴は検察しかできないことや、警視庁が東京都の警察組織であること、無期懲役といっても大抵の場合、20年足らずで出所できることなど、無知な僕には新鮮な驚きとも言える収穫が山のようにありました。これから何度も折に触れ読み返す、事典のような存在になりそうです。
2000年 5月 「へんな虫はすごい虫/安富和男」 (講談社・新書)
メスに頭を食いちぎられても交尾を続けるカマキリ、高さ5メートルの巣に完全冷房設備を備えるシロアリ、夕方5時46分に正確に鳴くセミ。世の中には、信じられない性質・行動様式を持つ虫がいる。農学博士安富和男氏が紹介する、実に”へんてこ”な虫たちの数々−。たかが昆虫、とばかにするなかれ。

色んな昆虫達の生態を紹介する豆知識集的な本であり、軽く読むには最適です。久しぶりにこの手の本に手を出しました。昆虫のあの小さな体の中には、実に様々な不思議な性質が潜んでいるのに感心します。この分野に興味を持ったのは、以前に読んだ、貴志祐介氏の「天使の囀り」からでした。そこには、何とかという線虫が、カタツムリからアリ、最後には羊に寄生するという一生が遺伝子にプログラミングされていて、実に巧みに行動する話が書かれており、非常に興味を持ちました。昆虫の脳など、人間に比べれば小さく下等なものですが、その行動は、脳によってではなく遺伝子によって操作されている、ということらしいのです。この本の中にも、驚くような生存機能や防御機能を持った昆虫が登場します。もう少しこの分野を探ってみたい気にさせられます。
私たち人間の体は実に60兆個にも上る細胞で構成されている。それぞれの細胞は有機的に絡み合いながら、分裂・増殖を繰り返すが、最近になって、細胞がプログラム的に<自殺>を行うことがわかってきた。この細胞死=アポトーシスの秘密を探る。

講談社ブルーバックス連続です。書店で急にこの手の科学入門書が読みたくなり、まとめ買いして読んでいます。前掲の「へんな虫はすごい虫」で、世界中の奇妙で驚くべき特性を持った虫の話を読みましたが、今回の主役は人間です。人間の細胞が自殺する、このテーマには妙に惹き付けられました。例えば、受精卵から人間が形作られる過程において、指が形成されるプロセスがあります。最初、手はおおざっぱな肉の塊なのですが、指の間にあたる部分の細胞が死んで排除されることにより、指の形ができるというのです。逆に、この細胞死がうまくいかなければうまく指が離れず、水かきのついたような指になってしまいます。
 このような話が紹介されていて面白いのですが、少々中身は難しいですね。途中もう、専門用語のオンパレードになり、読むスピードが衰えてしまいました。専門書ではなく入門書として位置づけるのであれば、言葉はもっと平易なもので良かったのではと思います。
2000年 5月 「忌まわしい匣/牧野修」 (集英社・単行本)
幸福感漲る生活を送る恭子の前に、ある朝、男が現れた。彼は自らを「忌まわしい匣」と名乗り、恭子に「聞く女」を命ずる。やがて、テレビのブラウン管の中から生首が現れ、忌まわしい物語を語り始めた−。

面白い!!ホラーを読みたいと思いつき、この本を選んだことを幸運に思います。うーむ、現代のホラーはこんな具合だったのかと感心してしまいました。紹介したように、全編を貫く設定はあるにはあるのですが、基本的にはそれぞれが独立した物語を集めた短編集です。そのどれもがレベルが高く、またバラエティに富んでいて、作者の知識の深さを感じます。特に、呪術だとか電波系など、サブカルチャー的な要素が満載で、難解な用語が並んでいるため少し読みづらいところもありますが、いやその完成度は見事。僕も、最初はとっつきにくかったのですが、4作品目の「グノーシス心中」あたりから、これはちょっとすごいぞと身を乗り出すように世界に入り込んでいきました。少し手の込んだスプラッターが読みたいのであれば、もうこれで決まりです。
2000年 5月 「二十歳の原点/高野悦子」 (新潮社・文庫)
鉄道自殺を図り、二十歳の若さで命を落とした大学生、高野悦子。美貌と明るさとを兼ね備えた彼女は、ごく普通の女子大生であった。死ぬ直前の半年間、大学紛争の中に自己を確立しようと苦悩する姿が、はかなくも激しい文章で綴られる。
 「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。」


ちょっとがつんとやられた感じがします。大学紛争、安保闘争の時代というのは、僕等の世代の人間にとっては実感というものは全くないのですが、これまで見聞きしてきた本や映像や人の話などから、何となく雰囲気だけは自分なりに想像していて、その訳の分からないエネルギーというものを強く感じます。何かやらなければいけないという切迫感、とにかく自分の主張を持ち、それに従って行動することを強制される時代。戦争にも似たファシズム、そして哀しさを感じます。これらは、今の時代の若者に欠けている、とはよく言われることですが、僕はそうは思いません。全て時代の要請であり、この時代の人々が今の人より格段に主体性があったと結論づけるのは早計だと思います。
 ただ、生きているうえでどうしてもぶち当たらなければならないアイデンティティーの確立という問題に、早急に答えを出す必要があるという点において、この時代の人々は生きづらい面を抱えていたという気はします。自己の確立、などに答えは見いだせるのでしょうか。少なくとも僕は、33年という人生を生きてきた僕には、まだその答えのかけらすら見つかっていないように思います。そのために苦悩し、道が開けたように思えてまた壁にぶつかる、そんなことの繰り返し。自殺しようと思ったこと、そんなことぐらい何度もあります、僕にだって。そこで本当に死んでしまう人、踏み止まる人、強い人、弱い人。どれだけ違うものでしょう。いきがってみたところで、人間なんて爆弾一個で吹っ飛んで終わりです。数十年も生きれば、老いぼれてヨイヨイのおじいちゃんおばあちゃんです。どういう道筋を選んだとて、やはり生きるということは哀しい、そう思えてなりません。
「お受験戦争が生んだ悲劇」として記憶に新しい、若山春奈ちゃん殺害事件。当時二歳だった春奈ちゃんは、幼稚園受験で繋がりのあった山田みつ子被告に殺され、実家の裏庭に埋められた。「自分の大切にしているものを傷つけられることの悲しみを一生背負わせたかった」と語る被告の言葉は、犯行の意図がその母親に向けられたものであることを物語っていた。
−何故殺したのか−。この一点に的を絞り、取材を重ねた筆者が、この事件を解き明かす!


書店でこの本を手にした時、それほどの内容は期待していませんでした。1ページの分量が極めて少なく(字がめちゃくちゃ大きい!)、どうせまた事件に便乗しただけの本だろうと思い、ただ、この事件の背景を正確に知りたいという興味から、購入に至りました。結果は・・・意外に良かったなというところですね。裏表紙に筆者の近景が紹介され、その写真からも胡散臭さが漂っているのですが、それもこの本に対する評価を最初に下げる要因であったと思います。ところどころ日本語がおかしくて、おやっと思う部分もあるにはありましたが。
 事件の背景はよくわかりました。お受験というものの現状も、わかったような気がします。これを読んで、そのばかばかしさを嘆く向きが増えればいいとは思いますが、たぶん、現状はあまり変わらないんでしょうね。少し諦観ではありますが、そう感じます。
 最後に載せられた、子供たちによる今事件の感想が印象的でした。
2000年 5月 「ぼっけえ、きょうてえ/岩井志麻子」 (角川書店・文庫)
「旦那さん、結構きょうてえ話が好きなんじゃろう。・・・そんなら話そうか。」女郎屋の妾が、眠れぬ客に語る身の上話。そして、話が終わると−。

「ぼっけえ、きょうてえ」とは、岡山弁で、「とても、こわい」という意味。考えてみればストレートなタイトルですが、内容は今では珍しい、古典的な怪談話です。岡山出身の作者によって岡山弁で書かれているため、おどろおどろしい雰囲気を醸し出しています。短い作品ですが、よくまとまっていると思います。本には四編の短編作が収録されており、タイトル作は第6回日本ホラー小説大賞を受賞しました。これ以外の3作品はこの本出版のために書き下ろされたせいか、題材はいいものの、完成度で少し劣るように思いました。
2000年 4月 「共生虫/村上龍」 (講談社・文庫)
ウエハラは、中学2年の時に学校に行かなくなり、その後八年間誰とも話すことない「引きこもり」の生活を送っている。パソコンを始め、偶然見つけたサカガミヨシコのサイトから、ウエハラはインターネットの世界にはまりこんでゆく。

たくさんのテーマがこの本の中で語られます。まずは、引きこもりという現象。最近の凶悪犯罪の加害者によく見られる傾向で、人との交流を持たず、自分だけの世界にはまり込むことの危険性。それから、ネット社会が生み出す新たな種類の犯罪。匿名の、顔が見えない世界の中で、人と人との争いはより陰湿になり、攻撃的になっていく。そして、共生虫をモチーフにした、ある特定の個の優位性。人は、他人の上に立ち、彼らを導くことのできる種と、そうでない種とに分かれる。前者は、その目的であれば人を殺す事さえも許されるという、選民思想。「罪と罰」にあるラスコーリニコフの考えです。これらのテーマが錯綜して語られます。しかし、やはり大風呂敷を広げ過ぎて、語り切れていない感じがします。無目的な人々に対する非難など、ところどころ、強く共感する部分はあるのですが、全体として見るとどうも中途半端に終わっている気がしてなりません。
 以前、フジテレビの朝のワイドショーで、司会の方が「引きこもりっていけないことなの?」という質問をしていました。正に僕もその疑問を抱いています。引きこもりがいけない、というのは本人がそのためにつらいからであって、他人に迷惑が及ぶからということでは決してないと思うのです。引きこもりの人間が犯罪を犯すケースが増えている、とよく耳にしますが、本当にそうでしょうか。ほんの数件の犯罪を並べたたけで、そういう傾向がある、と判断しているようにしか僕には思えません。日本のマスコミによくあることです。ショッキングな事件が起きた後、何か一つの事由を見つけてそれを声高に叫び立て、犯罪の理由付けにしてしまう。名古屋に初めて訪れた人が、その初めての日に僕に言いました。「名古屋の地下鉄って酷いよなあ。ドアが開いて、中の人が降りる前に乗り込んで来るんだぜ」と。僕は、バカかと思いました。「名古屋の人は〜」なんていうことを、たった1日の、ほんの数回の出来事で決めてしまうのでしょうか。引きこもりに対する感想も、これと同じことが言えると思います。
 それから、ネット社会、パソコン社会に対する危惧。これも本当に最近よく耳にしますね。僕は、道具の使い方の問題だと思っています。インターネットWEBは、一昔前では考えられなかったほど便利なものです。メールもそう。パソコンも随分進化しました。もはや真のマルチメディア時代が訪れたように思います。それによる危険は、確かにあるでしょう。ただそれは、包丁は、料理を作ることもできるが、人を刺し殺すこともできる、ということだと思うのです。包丁を正しく使う人は、ネット社会においても正しい対処ができるでしょう。いつの世でも、どこに住んでいても、行いの悪い人が、様々な道具を使って悪事を働くということであって、道具そのものに罪はない、そう考えます。
 もう一つ、この本で行われている試み、それはインターネットとの融合です。本の記述の中で、検索サイトにアクセスしていろんなサイトの内容が出てくる場面がありますが、実際にそのようなサイトが作られています。裏サイトもあります。ただ、そこにアクセスしてはみたのですが、別にどうということはありませんでした。本にあるサイトが実際に存在する、ということの驚きだけ、いわゆる「出オチ」で終わってしまっています。この辺りも、これからもう少し突き詰めていかないと、メディア融合というのもこの程度か、で終わってしまいます。僕はそれほど期待してはいませんが。
生まれつきの精神遅滞者であるチャーリィ。養護学校へ通う彼はある日、手術で頭が良くなる話を聞かされる。訪れた大学の研究室には、迷路を解くネズミのアルジャーノンがいた。やがて手術を受けたチャーリイは常人を超える知能を身につけるが、周りの反応は予想外のものだった−。

なんか、翻訳ものに対する苦手意識が高まったような気がします。この作品、どこでも評判は高く、悪く書いてある書評を読んだことはありません。しかし僕は、読んでいる最中も、読み終えた後も、特筆するような感動は受けませんでした。どうも話が自分の心の中に入っていかないのです。<注意!!以下、少々ネタバレ気味です。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>断片的なエピソード、例えば、いずれ自分も入ることになるかもしれない施設を訪れるシーンや、家族と再会するシーン、段々と元に戻っていくラストなど、所々で感じ入ることはあるにはあるのですが。でも正直、この本を読んで、後に残っているものは何もありません。
2000年 3月 「永遠の仔(上)/天童荒太」 (幻冬舎・単行本)
それぞれの傷を心に抱え、小児病棟での日々を過ごす三人の少年達、モウル、ジラフ、優希。退院の日、社会への扉を開くための儀式として、三人は罪を犯す。共有の秘密を抱えたまま大人になった三人は、十七年の歳月を経て再会するが、幼い日に受けた傷は彼らに更なる苦悩の道を指し示す。果たしてそこに、生きる術は、救いはあるのか−。

読み終えて本を置いた後、しばらくうつむいて目を閉じ、動き出すことが出来ませんでした。そして、この内容の重さを受け止めようとしました。本を手にしてから約1カ月間、僕の読むのが遅いのもあるのですが、この間、主人公たちと共に生きた、そんな確かな感触さえ残っているように思います。重い内容です。一口にかたづけることのできない、様々な問題がこの本の中に詰め込まれています。
 一部の評論などで、冗長である、とか、子供の会話にリアリティがないなどと言う批判があり、直木賞を逃したのもそのあたりが原因と言われています。ただ僕は、そういった批判に僅かながら同調しつつも、高得点を付けました。これから読む作品が、全てなにか卑小なものに思えてきそうで、少し不安に感じているぐらいですので。
 さて、実社会でもそうだと思うのですが、人と人との対立において何よりやっかいなこと、それは、本当に悪い人間などいない、ということに集約されると思います。別に性善説を唱えたいわけではありません。この本の中では、子供を虐待する親が出てきます。虐待を見て見ぬ振りをする親が出てきます。それじゃあ親がただ悪いのかというと、突き詰めればその親もまた、周りの人間から抑圧を受けたり、虐げられてきた体験があり、その心の傷が自分の子供に向けられている、そこからすれば、一概に親を責めることはできないということになります。完全なる「悪」であるなら、単純に否定し、憎めばいい。それが叶わない。ましてその対象が自分の親であるならば、なおのこと。憎むべきその相手は、自分が最も受け入れて欲しいと願う相手でもあるのです。子供の心には葛藤が生じます。そして、その小さな胸では抑えられるはずもなく、やがて大きな傷となり、その後の人生に大きな影を落とすのです。
<注意!!以下、少々ネタバレ気味です。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>
同じ問題は、世の中、どこにでもあることなのだと思います。罪を憎んで人を憎まず、とは良く言った言葉だとは思いますが、現実にそれにどう立ち向かっていくのか。一度、心に傷を受けた者は、二度と平穏な人生を送ることができないのか。この本の中に、その明瞭な答えは書かれていません。ただ、その答えがもしかしたら存在するかもしれない、という可能性だけを残して結末を迎えます。

 途中、何度も泣けるシーンが出てきます。浅田次郎の「鉄道員」などでは少しも泣けなかったのですが、この本の中には、不覚にも思わず涙が出てしまうシーンがいくつもあります。嵐の日に裏山で三人が過去を告白し合う場面。ジラフが、田舎から訪ねてきた養父母と共にホテルのラウンジで交わす言葉。土産にもらった讃岐うどんを握りしめながら、「俺はあなたたちに似たかったですよ・・・。」と漏らし、涙ぐむ。それから、優希の病院の患者である岸川夫人が、今の夫にこれまでの人生を告白した際、彼から「そうかあ、大変だったねえ、ご苦労様でした」という言葉を受ける場面。双海病院での運動会。みな、読み返す度に同じように泣けてしまいます。


とにかく、この本に出会えて良かったという気がします。天童荒太、凄い作家ですね。次は「家族狩り」を読んでみようと思っています。
2000年 3月 「永遠の仔(下)/天童荒太」 (幻冬舎・単行本)
同上
2000年 3月 「空飛ぶ馬/北村薫」 (文藝春秋・文庫)
何気ない日常生活の中にも、それぞれに秘められた謎がある。普通の女子大生である”私”と、落語家春桜亭円紫との出会いも、そんなミステリーの一つだったのかもしれない。二人の回りに起きる、些細であるが不可解な出来事を描く、連作短編集。

アイディアの勝利ですね。殺人事件も何も起こらないのに、こんなに面白い作品が書けるというのは、新鮮な驚きでした。女子大生の実態というのはわかりませんが、実に”ありそうな”人物像が良く描かれていて、楽しく読むことができます。しかし何と言っても、ミステリーとしての核となる、魅力的な謎というものがしっかりと作られていて、読み終わってみると本当に身の回りにありそうなことなのに、読み進める途中、ワクワクして止まりません。僕は、四話目の「赤頭巾」が一番好きです。あとは、「砂糖合戦」もなかなか。カナダ旅行の幕開けを鮮やかに飾ってくれた作品でした。お勧めです。
カナダのセントローレンス湾に浮かぶ小さな島、マドレーヌ島。そこには毎年、2月の終わりから3月頭にかけて、タテゴトアザラシの赤ちゃん達が流氷に乗ってやって来る。写真家小原玲氏による、可愛い赤ちゃんアザラシの写真と、堀田あけみ氏による文章で構成される、フォト・ストーリー。

この本を見る度、悲しい気持ちになってしまいます。内容がどうのということではありません。これもカナダ旅行時に読んだものですが、実は正に、ここに載っているタテゴトアザラシの赤ちゃんを見るためにカナダのマドレーヌ島に渡ったのです。しかし、今年は暖冬の影響で氷が溶けてしまい、ツアーが終了していました。僕が日本を発ったその日に終了が決定されたそうです。苦労して行き着いた空港で係の人からそのことを告げられました。
 この本に出てくるアザラシは本当に可愛いのです。あの白いふわふわのやつに、是非会いたかった、今は無念の気持ちでいっぱいです。その意味で、この本は僕の心の傷です。現地で、ここにある写真を撮った小原玲氏にもお会いしたのですが、そういう状況で、満足にお話をすることもできませんでした。
2000年 3月 「月が言い訳をしてる/CHAGE」 (幻冬舎・文庫)
日本最強のデュオCHAGE&ASKAの一方であり、自ら率いるユニットMULTIMAXの一員でもあるCHAGEが放つ、初エッセイ集。中学高校時代の思い出から、ASKAとの出会い、仕事に関する考えなど、「皆と同じ目線に立って、肩を叩き合って笑える関係でいたい」と語る姿そのままが文章で表される。

CHAGE&ASKAは、デビューした頃からのファンです。以前にも二人を描いた「10年の複雑」や、ASKAのエッセイ「インタビュー」など読みましたが、今回は珍しい、CHAGEのエッセイ。文章からは、気取らない普通の人といった雰囲気が滲み出ています。ハードカバーで出たものはもっと写真がいっぱい載っていて「写真集」といったイメージが強かった気がするのですが、今回の文庫版はほぼエッセイ集となっています。ファンなら読んで損はないでしょう。そうでない方は、ピンとこないかもしれません。
2000年 3月 「戦時下動物活用法/清水義範」 (新潮社・文庫)
普段はペットとして可愛がられている動物たちを、戦時においても何か有効活用できないか。犬には背に竹槍をつけて竹槍犬とし、猫にはワイヤレスマイクを仕掛けて盗聴猫とする、など奇想天外な提案が出される表題作ほか、短編10作を収録。

いまだに「パスティーシュ小説」というものの意味が良くわかりませんが、清水義範の一連の作品はそう呼ばれています。僕は単に「ギャグ小説」と思っているのですが。本作もそういったギャグ小説満載です。有名な特急列車や在来線が登場人物となる「ダイヤの花見」、男が服を買う時の気持ちを描く「服を買う」などが面白く、旅先で含み笑いをしてしまいました。ただ、全体としてもパワーが今一つかと。これは、読んだ時の僕の体調のせいかもしれませんが。
2000年 3月 「夫婦の一日/遠藤周作」 (新潮社・文庫)
今の自分は本当の自分ではないのか。妻と接する時、いい夫であるためのマスクをつけ、受賞パーティーでは作り笑顔を回りに向ける、その心の裏に潜む黒い影。自分の正体は、もっと嫌らしくもっと醜いものではないのか−。
人間の心の奥底を探る短編集。


旅先で必ず手にする、遠藤周作氏の作品。今回のカナダ旅行でも例に漏れず、この作品を読みました。解説にもある通り、この後、長編「スキャンダル」へとつながる短編が三つほど収録されています。不惑と呼ばれる年齢をとうに越した主人公が苦悩する姿こそ、人間のありのままの姿といえるのかもしれません。
カナダで今回訪れた町は、どこも日本人でいっぱいでした。従って、これまでのように異国情緒を味わいながら、というわけにいかなかったのが残念です。点数も、その辺りが加味されてしまっています。
2000年 3月 「死神/篠田節子」 (文藝春秋・文庫)
今日も福祉事務所には、人生につまづき疲れた、様々な人間達が現れる。対するベテランケースワーカー陣も、つい深入りをするうち、彼らの生活の深淵を覗き込むはめになる。果たして、「弱者」はどちらなのか−。連作短編集。

ネット上の書評では比較的どこでも評判の良い篠田氏、初読です。作者自身がいくばくかの期間勤務した市の福祉事務所が舞台になっています。ここで作者が言いたかったのは、解説にもある通り、明らかに堕落へと向かう選択を自ら犯してしまう人間の不条理さ、そして、社会的弱者と言われる人々とそうでない人々との境界の脆さ、ということだと思います。が、個人的感想としては、前者のテーマはいいと思うのですが、後者については、あまり良く伝わってきませんでした。「花道」では、ケースワーカーである女性が、生活に困った友達の世話をするうち、自分の夫を寝取られそうになるくだりが出てきます。がしかし、結局は大事に至らず、特に心乱れることもなく話は終わってしまいます。強く生きているはずの人達も、一歩間違えば保護を求めに来る側の立場に置かれるかもしれない、ということが、どうも実感として描かれていない、やはり人間を強者と弱者に分けて考えている作者の考えが見えてしまっている気がするのです。
2000年 2月 「青の炎/貴志祐介」 (角川書店・単行本)
17歳の高校生、櫛森秀一。母と妹、三人で暮らす家庭に、ある日「異物」が侵入し、その幸せは壊れた。曾根隆司、母の別れた元夫だ。家族の安全と幸福を取り戻すため、秀一はこの異物の“強制終了”を企てる。心に荒ぶる青の炎をたぎらせ、秀一は、海沿いの道を疾駆する。

僕の大好きな貴志祐介氏の五作目となる長編です。氏の初の倒叙物ということでわくわくしながら読み進めました。今回の登場人物はこれまでで最も若い17歳。この少年の、犯罪に揺れ動く心理状況を中心に話が進んでいきます。犯行への準備は周到でよく描かれています。青春物の匂いも十分。健気なヒロインも登場します。ただ、他のサイトでも書かれていましたが、どうも書き込み不足、というか、なにか焦って無理に出版した、という内幕が見えてきそうな気がするのです。引用文がやたらと多用されていて、これで文量を水増ししているのでは、と勘ぐってしまいます。極みは、2カ所ほど明らかな誤植があったことでしょうか。この手の本は、出版されるまでに何度も厳しい校正が行われるはずで、単純な誤字脱字の類が見られることはまずあり得ません。そして更に、言葉として練られていない、陳腐な表現が多いように思うのです。明らかに現代版「罪と罰」を目指したと僕は思っているのですが、あの狂気の物語に迫ることには、少し無理があったと思います。しかし、しかしですよ、この読後感は...。
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悲しいよ、これは。切なすぎます。ラスト、こうなるだろうと予測はついていたのですが、読み終わった後、どうにもやり切れない気持ちになってしまいました。もう一度始めのほう、秀一がロードレーサーで走るシーンを読み直して、胸が詰まりました。そして、何故か不謹慎な気がして、読み直すのをやめてしまいました。何より悲しいのは、曾根隆司が結局、本当に末期ガンであったという事実。つまり、秀一が手を下さなくとも、いずれ曾根は「終了」していた、秀一のあれほど苦しんだ末の行為が全くの無駄だとわかってしまった。もう引き返せない。残るは死のみ。
 秀一の行為を正とするのはあまりに短絡的でかつ感情的ですが、言えるのは、秀一は、どこにでもいる普通の、真面目な少年だということ。周到な殺人計画も、その目的があればこそのことで、単純に、おかしいとか、狂っていると片づけるべきではないと思います。僕は、「秘密」の平介には共感できませんでしたが、この秀一には共感できます。だって、やったことはどうであれ、家族を守るため、まっすぐに能動的に行動したのですから。
 結局これ、上に書いたような欠点は認めながら、ものすごく心に残る作品になると思います。
2000年 2月 「クラインの壺/岡嶋二人」 (新潮社・文庫)
奇跡のバーチャルリアリティ・システム、KLEIN2。ゲームの原作者である上杉彰彦は、アルバイトの高石梨紗と共に、テスト要員として仮想現実の世界に足を踏み入れる。上杉はその完璧に構築された虚構世界に驚愕と興奮を覚える。−しかし、何かがおかしい。テストを重ねるうち、上杉は、次第にこのプロジェクトそのものに疑問を抱き始める。

面白い!傑作です。このネタを使えばいくつか話は作れるとは思いますが、ここまで面白くするのは簡単ではないでしょう。岡嶋二人さん初読ですが、気に入りました。会話文が多くて読みやすいのもありますが、次々と展開してゆくストーリーに、読み止めることができず、遅読の僕も一気に読み切ってしまいました。このところ、ネットや本で評判のものを選んでは読んでいるのですが、さすがに外れはありませんね。逆に言うと、自分で選ぶ眼力をつけなければとも思いますが。
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CIAが出てきたのはちょっと余分かなあ、という気がします。話を大きくするための手段だとしても、陳腐に思えてしまいます。そこまでやらずとも、あるメーカーの陰謀という程度で十分ではないかと。

 時折出てくる、「戻れ」の声が効果的ですね。あれがいいアクセントになっていて、ワクワク度が一気に増します。最後のまとめ方も悪くないと思います。ちなみに僕はやはり、上杉は仮構世界側にいるのだと思います。ラスト近く、笹森貴美子やケネスがネタばらしをするシーンがありますが、まだゲームを終えていない梨紗のいる前でそれを行うことは考えられません。そして、全ての陰謀を隠し、上杉がそれを信じた段階でまた現実に引き戻されるのだと予想します。ただそれだと、日にちが合わないためにすぐばれてしまう、という難点はあるかもしれません。現実側にもどる際、事故か何かで数日間眠っていた、という設定で目覚めさせれば、辻褄は合うでしょうか。それにしてもこのラストの薄寒さはどうでしょう。乃南アサ氏の「暗鬼」を思い出しました。

 しかし主人公、最初は梨紗が好きで、次に七美に気が移り、最後にはまた梨紗にキスしたりと、なかなかブイブイいわせてくれるじゃありませんか。ま、男なんてそんなもんかもしれませんけどね。
神戸連続児童殺傷事件の犯人「酒鬼薔薇聖斗」の父母が綴る、悔恨の手記。「少年A」の生い立ちから、逮捕前後の挙動、少年鑑別所や医療少年院で見せた態度など、16年の軌跡がここに明らかにされる。

少年犯罪としては史上稀にみる残虐さで、未だ人々の心に痕跡を留める、あの「酒鬼薔薇聖斗」事件。本書は昨年4月に刊行され、ベストセラーになりました。この犯人の素顔を知りたい、その気持ちは万人の胸にあったのでしょう。もちろんその中には、ただの覗き見好きな連中も多数含まれるのでしょうが。しかしこの本の中には、その冒頭で書かれているような「真実」は存在しません。「少年A」とごく普通に接してきた両親が、ある日突然、自分達の息子が逮捕され、驚き戸惑い、悲しみのなか途方に暮れる、その姿があるばかりです。逮捕後に少年Aが話した、その異常ぶりを示す言葉の数々には驚かされますが、じゃあそれは一体いつどこで培われてきたものなのか、その問いに答えは見つかっていないようです。
 本書における文章量は、ほぼ2対1の割合で母親の分が多くなっています。当時マスコミからも、母親からの虐待、愛のない仕打ちなどが少年Aを犯罪に駆り立てたのだとする意見が多く出され、この母子の関係は注目されるところでした。しかし、文面からは、特にきびしいという訳でもない、ごく一般的な母親像しか浮かび上がってはきませんでした。本人の書いたものなので信憑性には乏しいのですが、たぶん記述内容に偽りはないと思います。ただ気になったのは、この母親がとにかく、少年Aを「普通に」育ててきた、育てようとしてきた、と繰り返している点です。ここで、そもそも「普通」とはいったい何なのか、という疑問が生じます。結論から言うと、「普通」なんてものはどこにもない、あるのはただ具体的な個々人だけだ、僕はそう思っています。我が子に対し、「普通に」振る舞うよう仕向け、それを躾と称して諭したり叱ったりすることが、少年Aに対して彼自身ではないものを押しつけてきた、そういう気がしてなりません。
 さらに言うと、それではこの母親の中にある「普通」とはいったい何なのか、文章から受けた印象では、母親自身の、人生に対する指標や目的意識、夢、そういったものは感じ取れませんでした。僕は、似たような女性達が、結婚して子供を持つことが夢だと語る姿を不気味に感じることがあります。いったい、その子供に何を教えるのか、自分自身の中にすら道標をもたぬ者が子供をどう導いていくのか、首を傾げるばかりです。この母親がそうだとは言い切れませんが、大きく外れてはいないという気がします。
 もう一つ、これは両親に対する弁護になりますが、同じ育てられ方をしても、全ての子供が同じ道を歩むことにはならないということ。親が子供に与える影響は絶大なものですが、子供が受ける干渉というのは、親からだけではないのです。友達やその両親、学校の先生、その他の知り合い、テレビ、本、等々様々な影響因子が世の中にはゴロゴロと転がっています。これらの複雑な組み合わせがその人間を形成していくと思います。(これは、シリアル・キラー,サイコパスなどと呼ばれる殺人者達が先天的に生まれることはない、という希望も含めてなのですが...。)従って、親のみが子供を導きうる、子供が道に外れた行動を起こせばそれは全て親の責任だ、とする意見には異論を唱えます。親の与える影響は、その子にとって、ある一部に過ぎないのだということです。
 個人主義の発達したアメリカでは、本書のように殺人者の親兄弟が周りから非難されることはなく、普通に暮らしてゆくことができるそうです。僕もその考えに賛成ですが、日本ではそうはいかないでしょうね。本書を、殺された土師淳君や山下彩花さんの両親が見たらどう思われるでしょうか..。恐らく、憤慨極まりないものだと思います。何しろ、(本書執筆時点では)謝罪に出向くこともせず、ただ言い訳がましい言葉が連綿と綴られているだけ。これから家族共々どう生きていくのかの問いに、お前らの生きていく道などない、死んでお詫びをしたらどうだ、そう思われるに違いないでしょう。ただ、この平和とされる時代においてさえ、私達が幸せと感じる生活は、薄い氷の上に成り立っているものなのだと強く感じます。簡単なことでその幸せは崩れ、それまで考えもしなかったような状況を前に立ち尽くすことになりかねません。自分自身が堕ちていくことさえ、簡単なものです。「普通なもの」と「普通でないもの」との境など、考えるよりずっと近しいところにあると思います。
2000年 1月 「ハサミ男/殊能将之」 (講談社・文庫)
残忍な犯行手口により、世間を震撼させるシリアル・キラー、「ハサミ男」。しかし、第3の犠牲者となるはずの少女は、そのハサミ男の目の前で何者かに殺された。喉元にハサミを突き立てる、ハサミ男特有のやり方で。もちろん、犯人は自分ではない。警察の捜査と平行し、ハサミ男は独自の追跡を開始する。

めちゃくちゃに面白かったよー。タイトルとメフィスト賞受賞作ということからして何となくキワモノっぽく考えていたのですが、いや実によくできた推理ものになっています。シリアルキラーでありながら自殺願望も持つ倒錯した主人公はなかなか新鮮であり、随所におおっと思わせる事実が発覚して次へ次へと引き込まれてしまいます。特に、被害者の告別式でその父親が出てくる辺りから、もうぐっと面白みが増してきます。「医師」の存在もうまくできていて、数多く出てくる引用が嫌味なく仕上がっています。とにかく、注意深く読むことをお勧めします。思わぬところで作者の罠に引っかかってしまいますので。でも、騙される快感もいいものですよ。
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この真犯人は中盤で僕も怪しいなと思った時はあった(現場に出向かないことなどで)のですが、ハンバーガー屋で登場した場面と目黒西署で登場した場面を読み返し、外見が違うじゃないかと一蹴してしまいました。でも後でもう一度読み返すと、外見の違いはただ服の違いだけでした。あと疑ってたのは出版社の岡島部長ぐらいですかね。結末で真相がわかる場面では、もう読み返し読み返しで内容を確かめましたが、もうほんと、アッパレですね。やや強引かなというのもありますが、素直に脱帽したほうが良さそうです。

それからもう一つ、僕は、I巡査は最後に殺されると思っていました。あの後、二人はどうなるのでしょうか...。
2000年 1月 「白夜行/東野圭吾」 (文藝春秋・単行本)
建設途上で放置された廃ビルの中で、男性の絞殺死体が発見された。見つけたのはビル内を遊び場としていた小学生、殺されたのは近所にある質屋の主人だった。質屋の名簿から容疑者の女性が浮かび上がったが、彼女にはアリバイがあった。容疑はやがてその情夫に向けられるが、男は交通事故死を遂げ、その後を追うように女はガス事故で世を去った。世間では、オイルショックの兆しが見え、読売巨人軍がセリーグで9連覇を達成していた。一連の事件は単なる序章に過ぎなかった−。

多くの書評において、紹介しにくい作品と書かれているのが納得できました。確かに、あらすじを紹介することも、主人公が誰なのかさえ、書いてしまうと興味をそがれることになりかねません。上に書いたのは、ほんの頭の部分で、本筋はここからスタートするのです。
 東野圭吾氏の作品では、これまでで一番気に入りました。読み始めるとなかなか本を置くことができません。読む楽しみを十分に与えてくれる本でした。こういう作品に出会うと、感謝したくなります。
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ラストで何か独白的なものがあるかとも思っていましたが、こうきましたか。最終的には女の冷酷さが上回るということなのでしょうか。このラストといい、全体の仕掛けといい、宮部みゆきの「火車」を彷彿とさせます。主人公二人を、彼ら自身ではなく第三者の視点からのみ描くことによって、その得体のしれない不気味さ、冷酷さを表現しようとした手法は非常に実験的でありかつ斬新、ほぼ成功したといってよいでしょう。ただしそれにより、深い内面描写ができないという当然の結果となり、読後感が少し寂しい気もしますが、それも、彼らが互いに一度ずつ告白する「白夜」についての考察が全てを物語っているとすれば納得できてしまいます。

 ただ、随所に挿入される風俗的な描写は、とってつけた風なところもあってイマイチかな、と。でも、本当、面白いですねえ。読書の醍醐味ですよねえ。僕は、桐原亮司のイメージとして、ずっと俳優の藤原竜也を思い浮かべていました。映像化されるとしたら、彼にやってほしいものです。はまると思うのですが。雪穂役はあまり浮かびませんねえ。若かりし頃の鈴木保奈美、ぐらいでしょうか。
2000年 1月 「パラサイト・イヴ/瀬名秀明」 (角川書店・文庫)
大学の薬学講座に籍を置く永島利明。その妻聖美が交通事故で死に、秘かに妻の肝細胞を保存し培養を行っていた利明は、尋常ではないスピードで増殖し続ける細胞に喜々とするが、作業を手伝う修士生の浅倉は、そこに不気味な予感を抱いていた−。第2回日本ホラー大賞を受賞した、バイオ・ホラーの先駆け的作品。

ミトコンドリアのお話です。細胞の中のミトコンドリアの役割は、エネルギーを産出すること、だそうです。(中学ぐらいで習ったのかな、忘れた。)その昔、ミトコンドリアは一つの独立した生命体であったのが何かの拍子に細胞の中に入り込み、そのまま住み着いた。いわばイソギンチャクとクマノミのような共生関係となったのですが、ミトコンドリアは核の言いなりになってひたすらエネルギーを作り続けなくちゃならない。ミトコンドリアにすれば、気分悪いわけです。いつまでもいつまでもこんなことばっかり、ええ加減しんどいっちゅうねん、てなもんです。だいたい俺のこのややこしい名前はどうやねん、ということです。そこで反乱が起こるわけです。今度はわしが上に立って核を、ひいては人間を操ったろうやないかえ、と。そういう話です。
 しかし、一見むちゃくちゃな作り話になりかねないところを、科学的、論理的な記述で説明づけ、何とかぎりぎりの線でリアリティを保っています。この作品以降バイオ・ホラーというジャンルが確立された、とはよく聞く話ですが、実際その分野の作品となると、僕は他には鈴木光司しか知りません。やはり、説得力のある作品を書こうとすると、その道の専門家でないと無理、ということになるのでしょう。ただ、それでも所々破綻していてさすがにオイオイと言いたくなる箇所も見受けられましたが。特に後半のエログロでぐっちょんぐっちょんなとこらへん、別にそこでエロにする必要もないじゃあないの、と思えるシーンがあって失笑気味になります。それから、会話文があんまりうまくないというか、少しサブいところもありました。そいでついでに言うと、あの専門用語のオンパレードは...。巻末に、ページに沿った形の用語解説があることに読んでから気が付き、悔しい思いをしました。巻頭で紹介してくれよお...。
2000年 1月 「頼子のために/法月綸太郎」 (新潮社・文庫)
「頼子のために。」亡き娘の敵討ちを遂げた父親は手記にそう書き残し、自らも服毒自殺を図った。しかし、手記の内容に疑問を抱いた法月綸太郎は、独自の捜査を開始する−。

法月綸太郎作品、初読です。ネット上で割とよく出てくる作品で、設定にもそそられて購入しました。娘を殺された父親が、その犯人を探し出し、自分の手で制裁を加えた後に自殺を図る、それが冒頭で手記として描かれており、それを見た名探偵法月綸太郎が手記の記述の矛盾に気付き、真相の究明に乗り出す...。うーむ、ワクワクするではありませんか!
 そして内容はというと、なかなかのドロドロぶりです。読み終わった後には何とも複雑な感情が残ります。意外な真相、という意味でも十分です。ただ少し、リアリティがないように感じました。(もちろん、小説としてのリアリティ、という意味ですが。)特に台詞においてですが、このやりとりはどうも...というところがいくつか。そして、物語の流れるリズムが今一つかと。これは広義のミステリ全般で思うのですが、もっと日本語の美しさを楽しみたい、思うのです。巻末の解説文の中で、謎解きやトリックなどのミステリ的な部分と、小説としての面白さ豊かさとで、どちらが大切かという評論が書かれていますが、僕としてはやはり、基本的には後者の立場を取りたいと思います。最近こそ、「あほみたいにミステリばっかり読む」と称していますが、これまで、自分が面白そうだと思った作品はミステリであろうがなかろうが手を出してきたし、それはこれから先も変わらないだろうと思っています。そして、そういった作品の中の一つとしてミステリが含まれている、そういうことだと思います。