■ 1999年に読んだ本
  
5人の調査隊が、遺跡を発掘にやってきた。そこには、大きな台地に1本の煙突岩が立っていた。掘り出された遺跡には絵文字が掘られており、いつも最後は「つぎの岩につづく」と書かれて終わっていた。最後に彼らは−。表題作のほか、SFとも大ホラ話ともつかぬ作品16編を収録。

作者のラファティさんというのは、一風変わった人として知られています。パーティの席では、特に誰としゃべるでもなく会場内をうろうろと徘徊し、挙げ句の果てに酔いつぶれて運ばれる、というような逸話が多いそうです。そして作品はというと、やはり普通のSFからすると異質な内容となっています。表題作の紹介文に惹かれ、その作品から読み始めたのですが、どうも今一つよくわかりませんでした。そこで最初から読み進めてみると、途中からその面白みが少しずつわかってきました。そして今、最後まで読んで感じるのは、これは非常にいい短編集だということです。ただ、わかりやすい作品から入ったほうがいいかと思います。「むかしアラネアで」「金の斑入りの目をもつ男」「夢」「アロイス」なんかがお勧めです。
1999年12月 「ホワイトアウト/真保裕一」 (新潮社・文庫)
貯水量日本最大を誇るダムが、テロリスト達の手に落ちた!雪に閉ざされた冬の奥遠和は、人が踏み込むことのできぬ要塞と化した。人質の、そして亡き友の婚約者の命を救うため、富樫は武器も持たないまま一人、ダムへの侵入を試みる。目の前に立ち塞がるは、執拗なまでに降り続く、雪。息もつかせぬ迫力で描く、アクション・ハードボイルド巨編!

エンターテインメントですねえ。アクションあり、サスペンスあり、謎解きあり、そして涙ありと、よく一冊にこんだけ押し込めたなあと思うほどてんこ盛りの内容、面白さは一級品です。さすが事前取材には定評のある真保さん、しかし取材力だけではなく、やはり物を書く能力が秀でていればこその、この出来映えだと思います。ラストもいいです。泣かせます。前々から評判で気になっていたのが、やっと読むことができました。たぶん誰にでも楽しめる作品だと思います。お勧め!
1999年12月 「六番目の小夜子/恩田陸」 (新潮社・単行本)
その学校には、奇妙な伝統があった。三年に一度、生徒の誰かが「小夜子」となり、定められた「行事」をこなさねばならない。ただし、決してその正体を明かことなく。「小夜子」を言い渡された者は、始業式の日、クラスの教壇に赤い花を生けることで、了解を表す。今年は、六番目の小夜子の年だった。

これを読むまで女性だとは知らなかった、恩田陸氏の初読作品です。第3回日本ファンタジーノベル賞の最終候補となった、氏のデビュー作ですが、この新書版は初出の文庫を大幅改稿されたものになっているようです。以前からネット上でちょくちょく見かけていて、ずっと読みたいと思っていました。何と言っても、設定にそそられるじゃありませんか。
 物語は、小夜子がいったい誰なのか、この行事の意味は何なのか、などの謎を巡り、ミステリー&ホラー仕立てで書かれていますが、基本はやはり学園小説だと思います。久しぶりにこの種の小説に出会い、ミステリーなのに、ある種爽やかな気持ちで読み進めることができました。文量も程々だし、会話文が多くてさくさく読めてしまいます。何より、展開の面白さに本を置くことができなくなります。ただ少し、筋の運び、文章のつながりなど、アラが見える部分もありました。(注)以下、少々ネタバレ気味!マウスでドラッグして表示させて下さいヒロインの友達として登場し続けていた容子が突然全く出てこなくなり、それが謎を解く鍵かと身構えていましたが、また突然出てくる、というのがちょっと...。
1999年12月 「ぼくを探しに/シルヴァスタイン」 (講談社・絵本)
「何かが足りない それでぼくは楽しくない 足りないかけらを探しに行く ころがりながら僕は歌う」
有名な一節で始まる、不思議な物語。求める「足りないかけら」は見つかるのか−。


3月に読んだ「100万回生きたねこ」以来の、絵本です。書店で少し立ち読みした後、どうしても結末が知りたくて購入しました。巻末の解説にある通り、いろんな受け止め方のできる本です。単純に不思議な内容ということもできますが、何かしらの教訓を感じる方もいるかもしれません。(注)以下、少々ネタバレ気味!マウスでドラッグして表示させて下さい僕は、自分にとってこれさえ手に入れば幸せになれる、というものを信じて追い求め、それが実際に手にできた時、最初に思っていたような幸福を感じることはできなかった、そしてまた別の目標に向かっていく、そういうことの象徴として捕らえました。
1999年11月 「買ってはいけない/船瀬俊介 他」 (週間金曜・ムック)
「広告料で成り立つメディアに正当な企業批判はできない」をモットーに、一切の広告を載せない「週間金曜日」。その中でも大人気の連載企画が1冊に集約された。人体に危険な添加物・化学物質などが含まれる一連の「買ってはいけない」商品群には、普段我々の生活の中で慣れ親しんできたモノ達がずらりと顔を揃える。これを読むと、今まで通りの生活はできなくなる!?

 →「『買ってはいけない』は買ってはいけない」の感想へ
「買ってはいけない」は悪意に満ちている−。センセーショナルかつ説得力のある内容でベストセラーとなった同書だが、その実、不的確な実験結果の紹介や意図的にねじ曲げられた情報の提示により、ただただ消費者を不安に陥れるばかりである。ここに「真の情報」を示し、「買ってはいけない」の罪を正す!!

この2冊は、やはり同時に感想を述べた方がいいでしょう。僕は「週間金曜日」は一度も読んだことがなかったのですが、「買ってはいけない」を書店で見かけ、パラパラと立ち読みした内容には少なからず興味を持っていました。その後しばらくして「『買ってはいけない』は買ってはいけない」を見つけた時には思わず笑ってしまいました。
(以下、「買ってはいけない」を「買ない」、「『買ってはいけない』は買ってはいけない」を「買ないはない」と略します。)

 そこで、これら2冊を同時に購入し、1項目ごとに読み比べていきました。結構疲れました。言いたいことは色々あります。まず率直な感想としては、「買ない」の内容も酷いが、「買ないはない」の内容はもっと酷い、ということ。ただし、本当はその評価は正当ではありません。というか、そう言ってしまうと、これら2冊の本と同じことになってしまいます。具体的な商品が並べられ、一つ一つについての記事が書かれている以上、その一つ一つについて内容を吟味するべきです。「買ない」も「買ないはない」も、ここが一番の問題点だと僕は思います。「買ない」では、とにかく余分な添加物はダメ、化学製品はダメ、種々の実験で少しでも疑わしいと思われるのは全てダメ、これらが形を変えて繰り返されるばかりです。一般人の日常生活においてそれらを排除し切れるのか、別の側面で不都合はないのか、などほとんど考慮されていません。「買ないはない」においてはもう、ただただ「買ない」を否定する、その一点張りです。大体、「買ない」を批判するのなら、おかしいと思う部分だけを挙げれば済むはずなのに、ほぼ全ての商品についてその否定意見を載せているところからして間違っています。「買ない」の中にも、本当に危険性の高いものはいくつもあると思うのです。それを、「全ておかしい」ということで、全体の中に埋没させてしまっているのは罪が大きいと思います。また、項目によっては、これで何が批評かと思うものがいくつかあります。特に、佐藤貴彦記者の記事は、ほとんどがライターに対する暴言戯言、読むに耐えられません。ネピアウェットティッシュの項なんかひどいですよ。他の商品についても、やたら「自分のほうが偉いんだぞ」とでも言いたげな文調、子生意気な大学生のようです。

 さて、「買ない」にしても「買ないはない」にしても、いいか悪いかを判断するため、膨大な資料を提示してきます。「買ない」については、「買ないはない」に批判されている通り、『どれだけの量を』『どういうやり方で』『どのくらいの期間』与えた結果なのかを示すべきところ、最後の『どのくらいの期間』の部分が抜けているところが多いのです。これを意図的にそうしたかどうかは別として、確かに、ラットに対してその生涯にも相当するような期間与え続けて出た結果を、あたかも与えた途端に症状が出たように書かれると読む側は勘違いしてしまいます。これは改めるべきところです。それでは、批判した側の「買ないはない」はどうでしょうか。該当する商品を自分で試してみなくて何が論評だと、勇ましく(?)自らの体で実験した結果を報告しています。それが、「一度試しに〜をやってみたが大丈夫だった」「〜を一週間試してみたが何の異常もなかった」とかいって大丈夫と結論づけています。別の箇所では、「買ない」の記述の急性毒性(摂取直後に異常とわかるもの)と慢性毒性(何ヶ月、何年にも渡って摂取し続けた結果異常が発生するもの)との混同をあげつらっておいて、自分達も同じ過ちを犯しています。

 「買ないはない」のもう一つ決定的におかしいと思うのは、ページ右下に表示してある謎の「買ってもいい度」であります。その商品を買っていいかどうかを五つの星印で表示してあります。(ちょうどこの書評と同じです。)しかし、この評価理由が全く釈然としないのです。本文では「大丈夫」との内容で書かれているのに星が少なかったり、またはその逆だったり。これを見た読者に、いったいどうしろと言うのでしょうか?

 あああ、自分で戒めておきながら、やっぱり全否定の評を僕も書いてしまいました。結局、何かを買うか買わないかの判断は、自分でするしかなさそうです。しかし、じゃあそれが可能かというと、ほとんど無理という結果になってしまいます。この2冊を読んだ後、コンビニやなんかで成分表示を見たりするようにはなったのですが、「確かに亜硝酸ナトリウムやグルタミン酸ナトリウムはいっぱい使われているなあ、無着色を売り物にした商品も保存料はたっぷり入ってるなあ」などと思いつつ、やっぱり買ってしまっている状態です。どの本を見てもダメと書いてある商品ならまず買わないのでしょうが、評価が分かれているものについては、「良くわからんが、今までずっと食べてきているからいいか」てな感じになります。すなわち、専門家でない以上、正しい判断などできないということなのです。じゃあどうすればいいのか、僕には答えはわかりませんが、自分達一人一人が持てる知識を総動員して判断していくしかないのでしょう。そういった問題意識を引き起こしてくれた点において、これら2冊は貢献していると言えます。

 もっと言うと、評価が分かれるということは、専門家でさえ「これが絶対だ」と言い切れないからでしょう。要するに、正しいか間違いかの判断はものすごく難しい、ということ。僕が今まで生きてきて最近すごく感じることでもあります。何が正しくて何が間違っているのかということは、考えれば考えるほどわからなくなる、そう思います。僕らが学生の頃、体を鍛えるためにはウサギ飛びをやったり仰向けから腕を頭の後ろに組んで起き上がる腹筋運動をやれと言われたものですが、今ではこれらはヒザや首に負担がかかるということで、やってはいけないものに挙げられています。健康のためにジョギングを、というのもそう、これがいいと言われたものが時間が経ってから見事に否定されることはよくあります。また、国や地域が変わったり時代が変わったりすると、同じことなのに価値が全く逆転することも、よくある話です。戦争の起こっている地域や時代においては、人を殺すことさえも正となるのですから。

 いま書店ではさらに「買ない」関係の本が並んでいます。「文藝春秋」誌上で最初に「買ない」を批評した日垣隆氏の記事をまとめた「『買ってはいけない』は嘘である」や、「買ってはいけない大論争」など。これからもまた同じ類のものが出てくるかもしれません。まあ、多角的に物事を見ることは大切だとは思いますが、こうもいっぱい出てくると、何も信じられなくなりますね。「買ない」の半分ぐらいを部分的に否定して、あと半分ぐらいを後押しするようなのが出てくれば信用してしまいそうですが。でもそれもやっぱり、危険ですね。
 
 そして、最後にこれら2冊の本。一見、相対して論戦を繰り広げているように見えて、僕はこんな仮説を考えてみました。あるA社という食品会社の商品に「Aの素」というのがあった。この商品、昔は飛ぶように売れていたのが、ある時、有害物質が含まれているという噂が流れて以来、とんと売れなくなってしまった。しかし、今更発売中止にしたり、新商品を出すのもはばかられる。「Aの素」は有害だったということを自ら認めることになるからだ。そこで、A社は考えた。まず二つの出版社と懇意になり、一方から「Aの素」を批判する記事を載せた本を売り出す。そして多少話題になったところでもう一つの出版社から、それに対抗するような形の本を出させる。これを読んだバカな読者たちは、「ああ、一時は危ないと騒がれた『Aの素』も、実は大丈夫だったんだ」と認識し、また「Aの素」を買い求めるようになる。大量生産のためやむなく混入させた新たなる毒物の存在にも気付かないままに...。
1999年11月 「新編 風の又三郎/宮沢賢治」 (新潮社・文庫)
谷川近くの小さな村に転校生がやって来た。そいつが通ると風が吹く。おかしな奴だと最初は恐がっていた生徒達も、学校や村の中での遊びを通して交流を深めていく−。表題作のほか、15の短編を収録。

最初は読みにくかったですね。宮沢賢治をちゃんと読むのはこれが初めてでした。詩のような散文のような話が多く、特に勧善懲悪だとか因果応報だとか、言いたいことがはっきりしている作品が少ないのです。これほど独特だとは思いませんでした。しかし読み進むうちだんだんそのリズムに慣れ、「雁の童子」や「フランドン農学校の豚」のようないい作品に触れた今では、やっぱり読んで良かったなと素直に言える気になれます。この2作品のほか、「グスコーブドリの伝記」「虔十公園林」も好きです。ただ、どこがいいのかは非常に書きにくいのです。読みづらいかもしれません(特に大人には)が、頑張って読み進めると次第に引き込まれていきますよ、としか言いようがありません。
利回り10%以上は当たり前!海外に目を向けると、魅力的な金融商品はいくらでも転がっている。そこで、日本にいながらにして、世界中の海外ファンドの中から選りすぐりのものを購入してしまおうと考える人達がいた。前2作「ゴミ投資家のためのビッグバン入門」「ゴミ投資家のための税金天国(タックスヘイヴン)入門」に続く、オフショア投資3部作完結編、ここに登場。

非常にためになり、また実用的な本であります。僕が初めてオフショア投資という言葉を聞いたのは、友人の弟さんで香港の保険会社に勤めている方からでした。その後、リチャード・マイケル・ナッシュ氏著の「日本人のためのオフショア金融センターの知識」を読み、税金のかからないオフショア地域での資産運用というものに非常に興味を持っていました。何しろ、日本では考えられないような高利回りが当たり前の世界ですから。そして本作品ですが、まずオフショアに口座を開くところから、優秀な海外ファンドの選び方、購入の仕方など、実際面に即した書き方がされているため、大変わかりやすく、本当にすぐにでも行動に移ることができます。3部作の最後に当たるのですが、実は前2作は読んでいません。本作品単独でも十分わかりやすいのですが、より深い理解を求めるなら全部読むほうが良いと思います。僕も、いずれそうしようと思っています。
パソコンが大の苦手の作家清水義範と、人に教えられるほどのパソコン上級者である弟の幸範が臨んだ、「ASAHIパソコン」誌でのパソコンエッセイ。弟が出題する難問に、兄が苦闘しながらも答え、最後にはパソコン・マスターになることが目的であったが−。

僕の好きな作家清水義範氏のいつものパスティーシュ小説かと思いきや、実際のパソコン操作に即した兄弟エッセイでした。二泊三日の出張時に持っていく本を忘れ、急いで駅前で適当に買ったので、内容をよく確認しなかったのです。エッセイなので、これを読んでパソコンができるようになることはありません。義範氏の部分は、やはりいつものようなギャグが随所に出てきて楽しめます。幸範氏の部分では、少しパソコン上級者としての語り口が鼻につく箇所もある、といったところでしょうか。
1999年10月 「団欒/乃南アサ」 (新潮社・文庫)
深夜に息子は彼女の死体を車に乗せて帰ってきた。戸惑う家族はそれでも、死体の隠蔽工作で団結する。ごくありふれた平凡な「家族」の仮面の裏に潜むものは何か−。表題作のほか、いずれも家族をテーマにした五つの短編を収録。

乃南アサ氏の、家族に対する冷めた考え方が好きです。最初の作品「ママは何でも知っている」が一番面白かったですね。逆玉の輿として上流家庭に婿入りした男が、最初はその生活におおいに満足していたのだが、夫婦の寝室に平気で出入りする義母や、自分の歯ブラシを勝手に使ってしまう義父、そして妻までもが不可解な行動を繰り返し、それらが全て「家族なんだから」の一言でかたずけられてしまうことに理不尽さを覚えるようになる。ラストの辺りが、うまいな、と思わせます。二作目の「ルール」もいいです。急に潔癖性をあらわにした子供達の意見で、家の中のもの全てに徹底的に手を加えることになるが、父親だけはそれを理解できない。それは、単なる喜劇で終わるのかと思いきや...。
 前にも書きましたが、僕は、盲目的な家族愛主義は大嫌いです。この本の解説にも同じようなことが書いてあって共感が持てます。そもそも、普段はただゴロゴロと過ごすだけ、ただ単に一緒にいるだけの集団に、本物の愛なんてものが育まれるとは思えません。家族は仲良くしなくてはいけない!?これは違うと思うのです。別に家族愛を否定しているのではありません。本当に深い絆で結ばれた家族、それに意義を唱えるつもりは全くありません。しかし、ただ形としてだけの家族、血がつながっているだけの家族、絆なんか何もないのにある振りをしているだけの集団なら、別にそれに捕われることなく、そこから解き放たれて自由に、一人なり別の集団の中なりで生きていけばいいと思うのです。えーそんな、と言う方は、この本か以前に紹介した「心臓を貫かれて」でも読んでみてはどうでしょうか。
1999年10月 「新源氏物語(上)/田辺聖子」 (新潮社・文庫)
世に、光の君ともてはやされる青年がいた。知識・教養・風流全てに申し分なく、加えてその容貌の美しさは他に寄せつけるものを知らない。時は平安、京の都にて、愛と葛藤の物語が繰り広げられる。

光源氏という名の、女たらしアホアホ男の話です。真ん中あたりまでこの本を読んでいる最中、僕は採点として星一つの最低点をつけるつもりでした。いったい、この話のどこが面白いのか、ただの女好きのいい加減な奴が、次々に取っ替え引っ替え女に手を出しまくる物語。口先だけの愛の言葉、そして信じられない行動。意中の女に会いたいがために出てきた町中で、別の女を見つけて、そのままH。さっきまで、会いたさに苦しみのたうっていたんではなかったんかい。その場その場で相手を選び、それを風流だとか、愛だとか称する馬鹿さ加減はどうだ。このどこが名作なのだ、とかなり本気で怒りながら読んでいました。
 その評価が少し変わったのが、源氏が都落ちして須磨に下る辺りから。この描写が実に素晴らしく、それまで読み進めるのが辛かったのが、楽しんで読めるようになりました。まだ幼い東宮が源氏からの別れの手紙を一心に読み、まだ返事が書けないながらも、「しばらく会わないだけでも会いたくなるのに、遠くへ行ってしまったらどんなに寂しいだろう、ということを返事で書いておくれ」と従者に頼むシーンには胸が詰まりました。子供を出してくるとは卑怯な。しかしその後の源氏の行動はまた同じ。京に最愛の若姫を待たせ、彼女への想いをつらつらと書きつづっておきながら、明石の女とねんごろになり、京に戻った後は、その軋轢に苦しむようになる。当たり前やろ。
 ま、そんなことで、結局この評価になりました。男なんてこんなもん、という見方は特に否定はしませんが、それを読み物として読まされても仕方ありません。何かしら、わくわくするような、広義での「楽しい」ものを見せて欲しいから本を読むわけです。この物語は残りあと中巻と下巻があるので、それらを全部通して読めば評価も変わってくるかもしれません。源氏のその後も少し気にはなってきたので、もしかしたら今後読むかもしれません。
1999年 9月 「クリムゾンの迷宮/貴志祐介」 (角川書店・文庫)
しのつく雨の中目覚めた藤木を待っていたのは、記憶の片隅にもない荒れ果てた原風景だった。
 「...ここは...どこだ..。」
奇妙な縞模様の岩山に挟まれた峡谷。雨に濡れ、辺り一面は深紅色(クリムゾン)に彩られていた。手元にはゲーム機が転がっている。画面上に、「火星の迷宮へようこそ」の文字が浮かび上がる。そして、殺らねば殺られる、ゼロサムゲームはスタートした−。


僕の大好きな貴志祐介氏の長編最新作です。買ってはいたのですが、読むのがずっと遅れてしまいました。読み始めると、その設定の面白さにぐいぐい引き込まれていきます。イイ感じです。不可解な謎をいくつか残しながら話は進んでいきます。このあたり、いかにもミステリー系です。途中のハラハラ感もOK。(注)以下、少々ネタバレ気味!マウスでドラッグして表示させて下さいしかし、ラストが...。僕は、あまり納得がいきませんでした。最も大きな謎が抽象的で宙ぶらりんになってしまっている気がします。○○の正体は、暴いて欲しかった。これまでの氏の作品からすると、その辺が今一つかと。それとももしかして、パート2を書くつもりなのかっ???
1999年 9月 「新橋烏森口青春篇/椎名誠」 (新潮社・文庫)
「編集員募集」の言葉に惹かれ訪ねた会社は、奇妙に居心地のいい場所だった。胸ポケットに蛇を飼う専務、深夜に社の屋上でポーカーに興じる若手社員たち、そして地下喫茶の女マイコ、彼らと接する日常生活を、椎名調で描いた私小説。「哀愁の町に霧が降るのだ」「銀座のカラス」と並ぶ椎名誠青春三部作の一編。

主人公として、椎名誠氏自身が実名で登場します。内容も多少の付け加えやデフォルメこそあれ、ほぼ実体験なのでしょう。その波乱の人生が窺えます。読んでいてとてもいい気分になります。毎晩仲間と酒を飲み、ギャンブルに身をやつし、仕事も適当、と、普通なら軽蔑しそうな生活なのですが、なぜか肯定できてしまいます。また、前に読んだ「パタゴニア」でもそうだったのですが、女性に対する心情描写が、全体にいい変化をつけていると思います。椎名作品については旅行記以外にはさほど目を向けていなかったのですが、青春三部作の残り二つもいってみようかなという気持ちになりました。
1999年 8月 「仮面の告白/三島由紀夫」 (新潮社・文庫)
「私」には、周り一般の人間が感じるような普通の感情を持つことは許されないのか−。幼い頃からの記憶を辿ると、いつもそこに何かしら他人とは異質な性質、異質な感情の流れを汲み取ることができた。その最も顕著な特質である男性偏愛、女性に対する性的不能を抱えた「私」の生きる道はどこにあるのか。幼児期から戦争終結後の青年時代まで、著者自身の遍歴とも重なる告白文が綴られる。「・・・人の目に私の演技と映るものが私にとっては本質に還ろうという要求の表われであり、人の目に自然な私と移るものこそ私の演技であるというメカニズムを、このころからおぼろげに私は理解しはじめていた−。」

前にも書きましたが、1995年の夏に始めた「新潮文庫の100冊を全部読もう」キャンペーンで、最も感銘を受けた作家が、外国文学ではドストエフスキー、そして日本文学ではこの三島由紀夫でした。それまで読んでいないということ自体が情けないのですが、初めて三島氏の著書に触れたのは「金閣寺」、そのすさまじいまでの迫力ある文章に圧倒されるばかりでした。日本語というものがこれほど綺麗な、強烈な力のある言葉なのかと再認識させられる体験でした。次に読んだのが「潮騒」であり、「金閣寺」と同じ世界を期待していた僕にとっては、皮肉なまでの淡い恋愛小説で、少し肩透かしを食らわされた思いがしました。そして今回の本作品、三島由紀夫を知るにはまずこれしかない、と読み始めましたが、いやはや難しい。こんな単語があったのかと、辞書を引きながら読み進めることとなってしまいました。ただ、難しい言葉で彩られてはいるものの、中身の本質は案外ありがちなテーマであり、自分は何か他の人達とは決定的に違う、これはいけない、このままでは生きてゆけない、などと思い悩む、しかし実はその姿を告白することは逆説のナルシシズムに他ならない、何故なら、そうでなければ告白などする理由がないから。これは特に10代から20代にかけての、ある種典型的な感じ方であると僕には思え、非常に共感は持てたのですが、他の人はどうなのでしょうか。そして関連して思うのは、これを10代から20代にかけての典型的な感情を題材にした小説とするならば、本作品は読む人の年代によって受け止め方がだいぶ違うだろうということ。例えば、読者がまだ中学生程度なら、このような世界は理解しがたく、ただ気持ち悪いとしか感じられないだろうし、まさに10代〜20代あたりであれば痛いぐらいに身に沁みて、身に沁み過ぎて悩みを大きくするかもしれない、そしてそのような時代を少し過ぎた年代にとってみれば、過ぎ去りし情熱を懐かしくも思い出す、そんなところに落ち着くのではないでしょうか。現在32才の僕としては、さすがにこれを読んで自殺したくなるような気持ちにはならなかったけれども、やはり身につまされる部分はありました。
1999年 7月 「封印された数字/ジョン・ダニング」 (早川書房・文庫)
ジムの元に、差出人不明の封書が届く。中には奇怪な洞窟の写真とスペイン金貨、洞窟にはマルタ十字架の刻印があった。過去の催眠実験の記憶と共に何かが彼を急き立て、コロラドの山中へと導く。謎の数字50,96,12の意味は?そして、写真にある洞窟は見つかるのか−。

導入部ではかなりそそられ、イイ感じでありました。そして、最後まで読んで抱いた感想は...駄作。物語としてなってません。キャラクターもストーリーも全然描けていません。ジョン・ダニングといえば、「死の蔵書」「幻の特装本」でかなり楽しませてくれましたが、いかんせん本作は20年以上前に書かれた彼の小説デビュー作、期待するほうが悪かったのでしょうか。本当に題材は良かったのに、もったいないもんです。
1999年 6月 「龍は眠る/宮部みゆき」 (新潮社・文庫)
嵐の夜に出会った少年は、偶然起こった事故の真相を見事に言い当てた。新聞記者高坂は自分の過去までも見破られ動揺するが、やがて少年ともう一人、同じ能力を持つ青年とを巡って、高坂の周りに不穏な事件が起こり始める−。

4月に読んだ「火車」の印象が良かったので、続けてこの作品に手を出したのですが、個人的にはこちらのほうがより楽しめました。特殊な能力を持つ者の苦悩、というテーマでは、1月に読んだ貴志祐介の「十三番目の人格−ISOLA−」もありましたが、あちらが超能力者自身が主人公なのに対し、本作品は第三者がそれに当たるため、能力を見せる少年達に対する懐疑の念を常に心に持ちながらなお信じざるを得ない事態が次々に発生する、その過程での心理状態の遷移が非常に面白く読みどころでもあります。
 (注)以下、少々ネタバレ気味!マウスでドラッグして表示させて下さいただやはり、ミステリーとして読もうとすると、先の展開が読めてしまう点、その分、どんでん返しやあっと驚くような展開というものが期待できない点などが、不満として挙げられると思います。ただ、この人の作品はそういった要素よりも、先に書いたような登場人物の心理状態や言動などの妙を味わうことにある、そんな読み方をするのが正しいのでは、と思うようになってきました。
1999年 6月 「湖畔亭事件/江戸川乱歩」 (東京創元社・文庫)
長編二作を収録。
「湖畔亭事件」:A湖畔に起こった謎の殺人事件。その一部始終を覗き眼鏡で盗み見している男がいた。真相を知る彼がぽつりぽつりと事の次第を語り出す−。
「一寸法師」:東京の町中を、醜いかたわ者が駆け巡るたび、バラバラになった人間の手や足が発見される。美貌の夫人に殺人の嫌疑がかけられ、上海帰りの明智小五郎が捜査に乗り出す。


久しぶりに江戸川乱歩に手を出してみました。多くの方々と同様、僕も小学生時代には、少年探偵団シリーズなどに夢中になったものです。この二編のうち、「一寸法師」を確か中学生ぐらいの時に読んだのですが、結末の意外さだけが心に残っていて、大人になってからは、いつか読み返したいとずっと思っていました。長編としては、他の有名な作品群に比べると、ちょっと弱いかなと思ってしまいますが、久々の乱歩ワールドを堪能しました。初出時の挿し絵がそのまま収録されているのも雰囲気があります。
1999年 5月 「玩具修理者/小林泰三」 (角川書店・文庫)
彼女はいつもサングラスをかけていた。何故かと問い正すと、彼女は玩具修理者の話を始めた。「ようぐそうとほうとふ」。そう名付けられた男は、独楽でも凧でも竹とんぼでも、ロボットでもテレビゲームでも何でもたちどころに分解し、直してしまう。そして彼女は、あるものを直しに彼の元へ向かった−。第2回ホラー小説大賞短編賞受賞作品。

ニューホラーと呼ばれているのでしょうか、何か御茶漬海苔氏の漫画を読んだような気分になります。森博嗣氏と同様、理系のミステリー系作家という雰囲気プンプンです。ただ、題材は悪くないと思うのですが、結局スプラッター的な恐怖感を煽っていることに過ぎないので、読後感はあまり大したものがありません。
 タイトル作は40ページそこそこの短編で、もう1編「酔歩する男」というSF的短編が収められています。こっちはもう物理学的理論満載なのですが、理論体系が不十分で全然納得がいかず、長い割に実のない作品になっています。
1999年 5月 「バールのようなもの/清水義範」 (文藝春秋・文庫)
ニュース番組でふと耳にした、「バールのようなもの」とは一体何なのか。疑い始めるときりがなく、男は遂に行動を起こすが−。何でもないことを徹底的に究明し茶化す表題作の他、ハイテク製品は超苦手な人や頑固で自分勝手な老人、バカな若者達、そしていかにも小市民的な一家族などをこきおろした、「○○についてどう思いますか」「特別審査員」「旅は道づれ」「善男善女の夜」などのギャグ小説、そして、退職後に見つけた心躍る魅力的な趣味についてのブラックユーモア「秘密倶楽部」、ほのぼのとした語り口で武将木曽義仲を描いた時代小説「山から都へ来た将軍」、ある役者の一人語りで進められる「役者語り」など、その多面性が伺える短編を12編収録。

清水義範という人は、最初はただのギャグ小説家だとばかり思っていたのですが、実に様々な作品を手がけていることがようやくわかってきました。この短編集も、多くはやはりいつもの調子なのですが、ブラックユーモアものである「秘密倶楽部」や、時代小説「山から都へ来た将軍」、そして「役者語り」など、多面に渡る内容と構成になっています。この中でも僕は、「役者語り」に感心させられました。最後にどんでん返しがあり、久しぶりに心を動かされたほどです。それから久しぶりに笑わせてもらったのが「みどりの窓口」。怠惰な係員と身勝手な客との会話がありがちで笑えます。
1999年 5月 「少年/ビートたけし」 (新潮社・文庫)
いじめられっ子の兄弟に、父は望遠鏡を与え、星を見る楽しさを教えてくれた。父は亡くなり、学校でのいじめは続く。バカにした奴らを見返してやるため、兄弟は学校の天体望遠鏡を盗み出すことにした−。兄弟愛を描く「星の巣」をはじめ、思い出話の中で運動会の風景が描かれる「ドテラのチャンピオン」、京都に初めての一人旅に出かけた少年と地元の少女との交流を描く「おかめさん」の、いずれも『少年』を題材にした短編を3本収録。

毎年夏になると、「新潮文庫の百冊」などと称して、主に夏休みの宿題の読書感想文目当てでしょうが、各出版社がお勧めの100冊を選び、それらが書店で紹介されます。1995年の夏、急に思い立って、「この100冊を全部読もう」キャンペーンを始めました。とはいっても、それだけを読んでいる訳でもなく、他のものと織り交ぜながら進めているため、現在やっと半分の50冊を読み終えた程度です。そしてこの本も、その中の1冊。
 ビートたけしという人は、お笑いはもちろん、映画人としても広く才能を認められているけれど、さすがに小説まではどうかなあという懐疑的な気持ちで読み始めたのですが、またこれが意外にも面白かったのです。「ドテラのチャンピオン」はテーマが拡散しすぎて今一つだったのですが、続く「星の巣」での、兄弟の心理描写については唸らされました。細かな喜び方や傷つき方などが生々しくて、知らずに感情移入させられてしまいます。また、最後の「おかめさん」では、中三の一郎は、大人と呼ばれるものに対して大きな憧れと畏怖を持っており、見知らぬ土地で出会うあらゆる人々に対して、「大人とはこういうものなのか」という認識を深めてゆくのですが、その発想のずれ方がリアルで共感を覚えます。すがすがしくも悲しい、心にしみる作品群でした。
1999年 5月 「黒後家蜘蛛の会/アイザック・アシモフ」 (東京創元社・文庫)
毎月一度、金曜の夜に集まる「ブラック・ウィドワーズ」の面々。彼らの楽しみは、単なる会食の席上でのおしゃべりに過ぎなかったが、ゲストの話に耳を傾けるうち、次第に会員同士の推理合戦へと発展していく。しかし、真相を言い当てるのは決まって、給仕のヘンリーであった。現場捜査は何もない、ゲストとの会話のみで構成される傑作短編推理の数々。

タイトルだけで、おどろおどろしいような内容を想像していましたが、ネット上の書評から、そうではなく、純粋な推理ものだとわかり、手に取ってみました。一話一話は本当に短く、30ページ足らずで終わってしまいます。給仕ヘンリーの探偵ぶりはなかなか痛快で、しかも毎回同じ展開となるため、水戸黄門的な快感が味わえます。ただし、やはりアイデアとしては古く単調で、物足りなさを覚えてしまいます。
浅田氏が自らの経験を元に、「正しい犯罪者への道」を我々に語りかける。殺人を犯す場合の鉄則、シャブ中主婦の見分け方、ロス疑惑の三浦和義が真犯人である理由、グリコ森永事件犯人に学ぶプロの手口など、実践的(?)犯罪哲学の数々。

あの「鉄道員(ぽっぽや)」を書いた浅田次郎です。この人は、いったい何者なんでしょうか、顔は確かにスジ者ですが。内容はというと、いやいや、不謹慎ですが、とっても面白かったのです。アブノーマルな世界の話なので興味をそそられることこの上なく、しかも軽いエッセイ風なのですいすいと読めてしまいます。ただし、文中でやたらとプロを気取る箇所が少し鼻につきます。あとそれからもう一つ苦言を呈したいのは、エッセイ風な書き方で実はフィクションを書いている、とうような説明が解説にありましたが、もし本当なら僕はあまり好きではありません。フィクションは作り話であるからこそ、そしてノンフィクションは真実であるからこそ、内容が意味を持つはず。ノンフィクションの前提で読んでいたものが実は嘘かもしれないとしたら、いったいこれをどのように楽しめばいいのでしょうか?フィクションならフィクションと明記すればいいのだし、そうする必要があるのではないかと思います。
1999年 4月 「猫に名前をつけすぎると/阿部昭」 (河出書房新社・文庫)
猫を題材にした小説から、随筆、文学評論等、阿部氏が残した猫に関する文章の数々。

何か、面白くなかった。まず、構成がむちゃくちゃ。作者が残した小説・随筆の中から猫に関連するものを抜き出してあるのだが、年代順にさえも並んでいないため、同じ内容が意味なく何度も出てきたりする。途中で猫から離れて文学評論云々が延々と続いたり、読み終えて最後に、「いったい何が言いたいんじゃい!」と思ってしまった。ただ、猫に対して猫可愛がりをするではなく、その独特の自分流儀な生活を尊重する一歩引いたような接し方が正しい、という考えには、そうなのかもしれないと納得する部分がありました。
1999年 4月 「火車/宮部みゆき」 (新潮社・文庫)
遠縁の青年が持ち込んだ依頼は、行方不明の婚約者を探してほしいとのものだった。本間俊介は休職中の身を利用して捜索に乗り出すが、行方は杳としてしれない。しかし、その中で少しずつ明らかになる彼女の秘密、そして、その凄惨な過去。果たして彼女は見つかるのか。

おんもしろかったー。久しぶりに読み止まらない本でした。この分量も苦にはなりません。(注)以下、少々ネタバレ気味!マウスでドラッグして表示させて下さいただし、最後が尻すぼみの感は否めません。それは、「意外な真実」が全くないから。後半部分ではもう、ある方向に動きだしたストーリーはそのまま枠を外れることはありません、そこがちょっと。僕は途中で怪しいと思った人物がいてずっと注意していたのですが、全然関係ありませんでした。宮部みゆきはこれで2冊目、最初に読んだのは「人質カノン」という短編集で、その時は、何か文章が下手な人、という印象しか残らなかったのですが、その印象が少しだけアップしました。といってもやはり文章は上手いとは思えません。ストーリーテリングという意味では良いのですが、何か日本語の美しい響きやテンポなどが感じられないのです。これは宮部氏だけではなく最近の流行作家全てに感じることですが。ともあれ、別の作品を読んでみようかなと思うぐらいには楽しめました。
1999年 4月 「すべてがFになる/森博嗣」 (講談社・文庫)
現社会から隔離された妃真加島に研究所を構える天才女性工学者、真賀田四季。特別な許可でキャンプに訪れたN大助教授犀川創平とその助手西之園萌絵は、研究所内の完全な密室での殺人現場に出くわす。死体は両手両足を切断され、ウェディングドレスを着せられていた。コンピュータ画面に残された謎の言葉、「すべてがFになる」とは−。

ミステリー系のサイトを読み漁っていると、結構この作者の作品が出てきます。私はこれまで1冊も読んだことがなく、とりあえず手始めにと思い、第1作目の本作品を手にしました。(解説によると、本当の第1作目ではないようですが。)
 そこそこ楽しめた、という感じです。氏の作品はよく理系の小説と言われますが、確かに内容はその通り、コンピュータを知らない人にはちょっと苦しい記述がいくつかあり、文体も何となく理系の人の文章、というのが滲み出ている気がします。(注)以下、少々ネタバレ気味!マウスでドラッグして表示させて下さいまた、冒頭での真賀田四季と萌絵との会話の中で標題の謎が何となく見えてしまい、少し興醒めでした。あの記述はないほうが良かったのでは?ストーリーとあまり関係はないし。あとそれから、萌絵のキャラクターは好きになれません。
1999年 4月 「読め!/浜田雅功」 (光文社・文庫)
ダウンタウンの浜ちゃんが、松ちゃんに続き、エッセイ集を出した。ダウンタウン裏話や家庭のことなど、ファンなら知りたいと思う情報が満載。

ダウンタウンは昔から好きです。それほどテレビ見ない私も、彼らの番組は見ます。その成功は主に松本の才能に支えられてきた感はありますが、今回は浜ちゃんのエッセイ。文庫になっていたのもあって手に取りました。こういう本は、やっぱり覗き見的部分で楽しんでしまえます。一番驚いたのは、通っていた高校があの日生学園だったということ。文章も特に読めないほどではなく、軽く読める1冊です。
1999年 3月 「わらの女/カトリーヌ・アルレー」 (東京創元社・文庫)
億万長者との結婚を夢見るヒルデガルデは、新聞の求人欄に正に夢の通りの記事を見つける。苦心の末、見事その座を手にした彼女だったが、そこには思いもよらない緻密な完全犯罪計画が秘められていた−。

話の大筋は途中から見えてしまうのですが、それでも名作の誉れの通りに楽しめます。
特に、ヒルデガルデが遂に真犯人と対峙するシーンは最高にスリリングで、素晴らしい。ここで印象的なセリフがいくつもありました。

 「いいですか、その年まで何もできなかったらそれは、いつまでたっても建設的なことはできない人間ですよ。」
 「あなたなど、どうなりようもない。あなたには過去も、未来もない。あなたはただ、頭数として生きているだけだ。」
 「それは、ただの言葉ですよ。そして、言葉ってのは、行為の前では、ただ弱さをごまかす手段でしかありません。」

この話を、残酷な犯人に陥れられた可哀相な女性の悲劇、と捉えるのは間違いです。著者が言いたいのは、こういうバカな生き方をしている人はこういう目に遭いますよ、という示唆だと僕は思います。女はバカだ、とは言いませんが、バカな女は多い、という気はします。
また、解説等によれば、この邦題は少しニュアンスが違うらしいのですが、僕は、この作品の雰囲気をよく捉えているのてこれでいいと思っています。
1999年 3月 「殺人鬼/綾辻行人」 (新潮社・文庫)
百物語で楽しく幕を開けたはずのキャンプは、正にその話に出て来る「殺人鬼」によって、凄惨な連続殺人の舞台へと変わってゆく。切り裂かれた腹から内蔵が飛び出し、2本の指が眼球を貫く!!辟易するようなスプラッター・シーンの連続、そして、小説全体に仕掛けられた大トリックとは?

痛い。痛いです。読んでいると、体中がむずむずしてきます。「OUT」は全然平気だった僕も、思わず読み進めるのがためらわれるほどの悲惨なシーンの連続です。と言いながらも、帰省先で二日で読み終えたのですが。「OUT」は死体を切り刻むのに対し、こちらはまだ生きている人間が対象なので、その残酷さと悲惨さは比べ物になりません。そういうの駄目な人には、読むページは全くありません。感想はというと、正に、スプラッター映画を1本見た、という感じ。昔はそのテの映画大好き人間だった僕も、最近は(年のせいか?)それほどでもなくなり、この小説にしても、後に残るものはほとんどなく、ま、機会があればパート2も読むかな、てぐらい。
1999年 3月 「100万回生きたねこ/佐野洋子」 (講談社・絵本)
100万回死に、100万回生まれ変わった猫がいた。しかし、ある日出会った白いメス猫は、彼の自慢話を聞いても、ただ「そう。」と答えるばかり。そして彼らは−。

絵本です。ネットでこの本の存在を知ったのですが、買うのにはちょっと勇気が要りました。たぶん絵本としてはかなり有名なものなのでしょう。(初版は1977年!!)ひねくれ顔からだんだん優しい顔になっていく猫の絵が良いです。話もまた良いです。そして、「殺人鬼」を読んだ後にこういうのを読むのも、また良いです。
1999年 3月 「心臓を貫かれて/マイケル・ギルモア」 (文藝春秋・単行本)
ノンフィクション。1977年1月、アメリカのユタ州で、銃殺による死刑が執行された。処刑された人物は、名前をゲイリー・ギルモアという。前年の夏、二晩続けて二人の青年を殺した彼の背後には、脈々と受け継がれる家族の血塗られた歴史があった。著者である弟のマイケル・ギルモアは綴る。「ここから立ち去りたいと望むなら、僕は自分の知っていることを語らなくてはならない。」

うーむ、重たいです。文量もかなりのものですが、一人の人間がここまでいたぶられ、過酷な人生を歩むということがあり得るのか、そして、如何にしてその悲惨な歴史が伝承されていくのか、ということが真実として語られます。話は、殺人犯であるゲイリーの祖父母の時代までさかのぼります。幼い頃に虐待を受け続けた子供が自分の子供に同じ仕打ちを行い、また次の世代でも同じことが繰り返される、暴力の歴史。途中で何度か幽霊の話が出てきて、その呪いが一家を破滅させるような記述がありますが、これが、暴力が繰り返される歴史の比喩になっているとも言えます。ゲイリーの運命は、その生まれる以前から既に定められていたのだと。彼の短い人生の中で何度かターニング・ポイントとなる出来事が巡ってはくるのですが、その度に結局彼は自分自身でそのチャンスを潰してしまうのです。
 殺人事件に対して、「信じられない」「どうしてこんな残酷なことができるのか」などといつも声高に叫ばれますが、いつも思うのは、その殺人犯と全く同じ状況下にあったとすれば、大抵の人は同じ過ちを犯してしまうのではないか、ということ。別に殺人犯を擁護するつもりはありませんが、罪を犯すことの背景はそれほど単純ではないと思うのです。この本を読んでも、これが殺人を犯す引き金になったと断定できるものはありません。事実、同じような育てられ方をした兄弟達は人を殺さなかったわけですから。
 やたらと家族主義を唱える人は多いですが、僕は大嫌いです。家族というだけの呪縛からこのような物語が生まれることもあるのです。著者のマイケルはそんな家族から逃れるため一人離れて暮らすようになります。それで良かったのだと思います。そしてさらに、完全に家族との絆を断ちきってしまってもよかったのではないか、それができないために彼はいまだに苦しみ続けているのではないか、と。ただ、どちらにしてもつらい決断でしょうが。
※2011年10月の再読の感想はこちら
1999年 3月 「西野流呼吸法/西野皓三」 (講談社・文庫)
バレー演出家であり武道の達人でもある西野皓三氏が考案し広く知られるようになった「西野流呼吸法」について、その歴史と共に呼吸法の詳細が写真付きで紹介される。

遠藤周作さんの随筆や対談集などで、西野流呼吸法のことを知りました。僕は肩こり・腰痛・頭痛持ちの疲れやすい体質なので、健康法的なことがあれば一応調べてみることにしています。まだちゃんと実行していないので何ともいえませんが、呼吸によって気を全身にめぐらせるという考えは感覚的にわかる気がします。
1999年 3月 「羊たちの沈黙/トマス・ハリス」 (新潮社・文庫)
ボルチモアの病院で異常犯罪者レクター博士と会ったFBI訓練生スターリングは、不思議な関係で彼と共鳴し合い、連続皮剥ぎ殺人犯バッファロウ・ビルを追うことになる。次に誘拐されたのは上院議員の娘。スターリングは彼女を助け出すことができるのか?

これは、とてもおもしろいのでしょう。でしょう、と書いたのは、これは訳が悪いような気がするのですが、どうも勢いに乗って読み進むことができなかったのです。翻訳ものが苦手、というのは確かにあるのですが、最近読んだものにはそんなことを感じませんでした。でもこれは...。展開もなかなか面白くて本当ならもっとわくわくして読み進んでもいいようなもんなのですが。
体調が悪かったのかな。
1999年 2月 「幻の女/ウィリアム・アイリッシュ」 (早川書房・文庫)
男は、打ちひしがれた夜にある女に出会う。互いに名前も明かさず、ただ食事を共にしただけの存在であったが、その夜、彼の妻が殺された。自分の身の潔白を証明するためには彼女の証言が必要だが、不思議なことに、その夜出会った誰一人として彼女のことを覚えている人間はいなかった。やがて彼に死刑の宣告が言い渡され、唯一無二の親友が彼を救うために立ち上がる。様々な手がかりが現れてはまた消えてゆく。迫り来る死刑執行の時。”幻の女”は現れるのか−。

「夜は若く、彼も若かった...。」で始まる、サスペンスものの古典的名作。小学生の頃から名前だけは知っている作品でしたが、この年になって初めて読みました。いやーいいです、名作というものは。たぶん内容は多くの人がご存じかと思いますが、現れて来ない幻の女を探すために策を講じる刑事達の前から、証拠なるべき「もの」が次々に消されていく。その捜査方法や過程が斬新で面白く、飽きさせません。最後の謎解きも、一瞬「あれっ」と思いつつ、読み返してみるとなるほどと納得させられます。文庫本450ページとそこそこの分量はあるのに冗長なところがなく、楽しめるエンターテインメントになっていると思います。
1999年 2月 「影法師/遠藤周作」 (新潮社・文庫)
遠藤周作のキリスト教的背景を綴った9編の短編と、2編の人物評論。

「影法師」
表題作。誰からも慕われ尊敬されていた筈が、ふとしたことで信仰を追われる身となったカトリック神父について、作家である自分や自分の母との関係をもとに手紙文形式で語られていく。
−この本を開いたのは、旅先である遠い異国の地、チリはサンチアゴでした。旅行記にも書きましたが、外国で読む遠藤周作、というのは意外なほどよく合うものなんです。町中から少しはずれた静かな場所でページを繰っていると、何となく周りが哀愁漂う雰囲気に変わっていく気がします。確か、アフリカで読んだ時もそうでした。遠藤周作=キリスト教作家と敬遠される方は多いかもしれませんが、僕は全然キリスト教徒でないにもかかわらず、好きです。

「六日間の旅行」
 男は、妻を伴い短い旅に出た。旅先で、自分の両親にゆかりの地や知人を訪ね、改めて彼らの生きてきた意味を考え、今の自分と妻との生活に重ねてみる。キリスト教に生きた強い意志を持つ母と、平凡な生活を望んだ父。結局、男が選んだのも父と同じ生き方だった。
−「影法師」とつながりのある作品。事件らしいものは何も起きず、両親の回想と、知人達との会話だけで構成される。

「もし・・・・・・」
 人が誰かと出会う時、必ずその人生に何らかの痕跡を残し、方向を変えていく。それは果たして「罪」なのか。修道女モニックの運命を変えたのも、ある若い作家とのほんの偶然の出会いだった。
−「影法師」の主題をより明確にし、神父を修道女に変えて、同じようにカトリック信徒として堕ちていく様が描かれる。これを是か非かという前に、カトリック神父や修道女は恋愛をしてはいけない、結婚もできないという考え自体が大きく疑問ではあるのですが、それはさておき、短い中にドラマが組み込まれていて、まとまった作品だと思います。

「なまぬるい春の黄昏」
 夫婦2人と息子とで出かけた小旅行。そのさなか、男は昔入院していた病院の風景や療養中の別荘での何気ない日々の生活を繰り返し思い出す。
−同じ場面が、全く同じ書き方で繰り返され、行を変えることもなく突然時間と場所が変わったりなど、読み始めは少しとまどってしまいました。(誤植かと本気で思いました。)遠藤作品にしては珍しい構成で、実験作のような気持ちで書かれたのでしょうか。やはり過去の病気(結核)のことについて多く書かれています。

「扮装する男」
 退屈を持て余した男は、ほんの悪戯心で老人の変装をし、酒場に出てみた。気をよくした彼は幾度となく町中にその格好で出て行くが、結局心の中に響くのは、「ナニヲ望ンデイルノダ、オ前ハ」という虚しい言葉だけだった。
−楳図かずおの漫画に、「仮面」という似たような主題の作品があります。ちょっとした遊び心で始めたことがすぐにたいして面白いことでもないと気づく、何か人生全てを否定している感じすらありますね。

「雑種の犬」
 拾ってきた犬は、一家の主である彼にだけなついた。妻と息子は雑種であるという理由から、犬を可愛がろうとはしない。彼が昔大連で飼っていた犬も同じ名前で、その頃の暮らしを思うと、簡単に犬を捨てる気にはならない。
−遠藤氏の中で、大連で過ごした少年時代というのは大きな心の引っかかりになっているようで、この作品をはじめ何度となく物語中に出てきます。犬の表情にはいつもどこか哀しげな影を感じる、というのは僕もうなずけます。

「土埃」
 移り住んだ東京郊外の家は、環境は申し分ないが、風の日には土埃がひどく、すぐに家の壁や床が汚された。ある日、家の周りを歩いてみると、古代住居跡や城跡などが近くに残されているのを発見し、そこから吹いてくる土埃を厭う気持ちは少し薄らぐ。
−人が後世に何を残すことができるのか、ということだと思います。自分がある時代に確かに生きたのだという証拠であれば、土埃でさえも尊いのではないか、と。

「道草」
 ヨーロッパからの帰りに、妻の提案でふと立ち寄ったエルサレムだったが、そこにはただ褐色の山と岩、貧しい町が広がっているばかりだった。
−よくある夫婦喧嘩の一幕、という感じでしょうか。夫は偉ぶって妻に文句ばかり言い、妻は手慣れた調子でやり返す。このような夫婦には絶対なりたくないといつも思うのですが。キリスト教徒として訪れたはずのエルサレムには実は何もなく、ゴルゴダの丘なんかもただの観光地と化しています。ここから、遠藤氏のたどり着く最終の場所として、ガンジス川へとつながっていくのではないかと思えます。

「ユリアとよぶ女」
 文禄二年、関白秀吉の時代に小西行長に仕える武士田中与左衛門は、朝鮮の地で、ある貧しい女に出会う。その女の顔は哀しげな諦めの表情に満ち、どんな過酷な運命にも抗わず受け入れていく。遂に秀吉の目にも止まった彼女は城内に呼ばれるが、その時に彼女が示した態度は−。
−素晴らしい!遠藤氏の短編としては一二を争う出来ではないでしょうか。最初は時代小説ということで入りにくかった(時代小説は本当に苦手)のですが、物語の面白さにそれも忘れました。(注)以下、少々ネタバレ気味!マウスでドラッグして表示させて下さい常に諦めの表情を変えず、運命をそのまま受け入れていく彼女が最後に見せる人間的な表情には思わず涙が出そうになります。本当にいい作品です。

「原民喜」
 遠藤氏が出会った、原民喜という作家について、その出会いから別れまでの交流を描く。広島の実家で被爆した後、東京に出てきた原氏は、人とあまり話すこともなく、慎ましやかに作家という職業を続け、遠藤氏がフランスに留学中に鉄道自殺を遂げた。
−ここから2編は小説ではなく、遠藤氏が出会った人物との交流を描いたノンフィクションとなります。本当に恥ずかしながら、原民喜という作家をこれを読むまで知りませんでした。「さらば夏の光よ」に出てくる野呂という青年は、原氏がモデルなのではないかと思います。この後本屋で原民喜の本を探しているのですが、なかなか見つかりません。

「梅崎春生」
 梅崎氏は、原民喜と違って、とらえようのない人物だった。いつも皮肉な言葉で気分を害させられるが、ふいに心ある言葉をかけてきたりする。やがてこの二面性は、彼が酒を飲んでいるかそうでないかに関係していることがわかってくる。
−原民喜を知らなければ、梅崎春生を知っている筈はありません。不思議な人物です。原氏と違ってその著書を探そうとは思いませんが..。
シリーズとなった「日本一心のこもった恋文」パート5となる作品。一般から応募したラブレターから優秀なものを集めたもので、パート1から全て買っています。似たような本は多いのですが、このシリーズが一つ抜けています。が、今回のパート5は物足りない。巻末の内館牧子氏の言葉にもありましたが、表現方法が均一で心に響くものがありませんでした。パート1,2には読んで涙するような作品があったものです。次回に期待、というところです。
1999年 1月 「秘密/東野圭吾」 (文藝春秋・単行本)
長野へ向かうスキーバスの事故で、男は妻を失った。一人助かった娘がようやく口を開いた時、そこからは思いもよらない事実が告げられた−。

この作品、ものすごく評価が高いのですが、はっきりいって僕にはそれほどかなーという感想しか残りませんでした。だって、設定があまりに安っぽく、怠惰な主人公に感情移入もできず、最後の「秘密」もふーん、てな感じ。東野圭吾の作品はどれも一律に評価が高く、いろいろ読んでもみたのですが、いつも外されてしまっています。どうも合わないようです。ファンの方々、すいません。
1999年 1月 「でか足国探検記/椎名誠」 (新潮社・単行本)
椎名誠のパタゴニア旅行記第2弾。プンタアレーナス、ウシュアイア、フォークランド諸島など、氏の2度目となるパタゴニア周辺の旅が、以前訪れた場所についての回想を交えながら独特の文調で語られる。

この月に、僕自身、フォークランド諸島への旅行に出かけました。新書版は正月前に買って少しずつ読んでいたのですが、その後文庫版も出ていることを知り、旅行に持っていくためにそちらも購入しました。前回の旅行記「パタゴニア」は奥さんとの微妙な心の行き違いなども描かれた少し重い感じの作品だったのが、今回のこれは全編楽しく賑やかなものとなっています。ただし、パタゴニア以外の、昔訪れた場所のエピソードがかなりの分量入っていて、その分パタゴニアの記述が少なくなってしまっているのが少し残念でした。(写真説明として、「イワトビペンギン」を「ゼンツーペンギン」と間違えて書かれているのも..。)
1999年 1月 「猿来たりなば/エリザベス・フェラーズ」 (東京創元社・文庫)
ロンドンから離れた田舎町で、誘拐事件発生。しかし駆けつけたトビーとジョージを待っていたのは、誘拐されたのが何とチンパンジーだという事実と、そのチンパンジーの死体だけだった..。二人は気乗りがしないまま捜査を開始するが−。

設定が珍妙で、興味をそそられます。「このミス」で見て買ったのですが、損はなかったです。この僕でも途中で何となく仕掛けがわかってしまう節はありますが、とてもまとまっていて、読了後に「うーん、面白かった」と素直に言える作品です。
由香里には、生まれつきエンパス(人の心を読みとる能力)が備わっていた。幼い頃からそのために苦しんでいた彼女だったが、今はその能力を生かし、心のケアを図るボランティア活動を行っていた。ある日、阪神大震災後の病院で一人の少女と出会い、少女の心の中に複数の人格が同居していることに気づく。そして面会を繰り返し、それぞれの人格がはっきりしてくなか、現れた十三番目の人格に由香里は戦慄した−。

貴志祐介氏の作品を読むのは、「黒い家」「天使の囀り」に続いて3作目ですが、これまた面白く、途中で止まりません。特殊な能力を持った者の苦悩という題材としては、クローネンバーグの映画「デッド・ゾーン」等、何回か描かれていますが、多重人格者と結びつけ、さらにあんな要素もこんな要素も詰め込んで、いい感じに仕上がっています。少しラストが寂しい気もしますが、やっぱり貴志祐介はいい。ファンです。これからも新作は必ず読むと思います。
1999年 1月 「茶色い部屋の謎/清水義範」 (光文社・文庫)
八田興産社長、八田虎造は、自らが集めた名探偵達が集まるパーティーの席で何者かに殺された。死んでいたのは、部屋の色調を全て茶色に統一した書斎であった。出席者の一人である神童天才が事件解決に乗り出すが..。表題作「茶色い部屋の謎」を含む、清水義範作品からミステリーと呼ばれるものを集めた短編集。

清水義範は、長い旅行に出る時は必ず一冊持って行きます。これはフォークランド諸島へ行った時に持って行きました。生活の中での様々なパロディを集めた通常の作品群と少し異なり、ミステリー仕立てになったものということでしたが、本当にミステリーな「トンネル」という作品に驚きました。今まで、清水氏のまじめな(失礼)作品を読んだことはなかったのですが、いい味出しているじゃありませんか。でも本当は、もっと突っ込んで突っ込んで限りなく笑える作品(「冴子」や「人間の風景」など)を望んでいるのですが。