■ 2005年に読んだ本
  
2005年12月 「家族狩り/天童荒太」 (新潮社・単行本)
昨年に文庫化された際、大幅修正どころか、原文の文章を一文たりとも使わないという徹底ぶりで話題になった作品です。僕はなぜかオリジナル版を読みたくなり、古本屋さんで入手してきました。

 書かれているテーマは非常に興味深く、万人に共通するものでしょう。親が子を虐待し、子が親へ暴力をふるう。その中での「家族」のあり方とは何か。これは、著者が一貫して書き続けているテーマであり、おそらくご自身の体験が強く影響しているのだと思います。
 ただ本作で、著者は結局なにが伝えたかったのか。家族はやはり愛し合うべきだ、なのか、家族というものはよくわからない、なのか、現実の家族の実体を見よ、なのか。そこがはっきりしないから、読み終えたあと、戸惑いと居心地の悪さを感じてしまいます。
 僕の個人的意見としては、遊子が終盤に発した考え方に惹かれます。つまり、家族は絶対的なものではない、良い家族もあれば悪い家族もある、家族で幸せを得られない人は別の共同体でそれを見つければいい、家族に狂信的に縛られることはないではないか、というもの。このあたりをもっとクローズアップしてもらえれば興味深かったのですが、とくに深く言及されることはありませんでした。著者はこの意見を、単に否定的な意味あいで登場させただけなのかもしれません。

 本作は、天童氏にとってデビュー以来2作目となる長編であり、そのせいか、粗がかなり目立ちます。これは「永遠の仔」でも言われることですが、話を作り込み過ぎているきらいがあります。いたるところから、作り物臭さがぷんぷんと臭ってきます。
 理由の一つは、説明過剰な文章です。登場人物の心理をそのまま書いてしまっているから深みがない。とくにセリフの前後でそれが目立ちます。たとえば、“彼は、自分を恥ずかしく思いながら、なんとかこの思いを伝えたいと考え、祈るような気持ちで「そうしようよ」とつぶやいた”、というような表現がいくつも出てきます。誰々がこう考え、そのためにこういう行動をした、ということを如実に書いてしまって、読者の想像が膨らむ余地がない。この小説は、複数の人物の内面を描く多元描写形式であり、多元描写自体は悪くないと思うのですが、いかんせん、全員の内面があまりにあからさまに書かれているせいで、謎めいた部分がなくなり、小説を読む面白さが減ってしまう。
 さらに別の理由は、登場人物が多くストーリーもそれなりに起伏があるのにもかかわらず、設定が陳腐であるということ。話の合間に、いろんな人物の過去の経歴がはさまれていくのですが、これがあまりにも安っぽいのです。登場人物をもうすこし減らして、それぞれの経歴をもっとしっかり作り込んだほうがいいと思います。
 さらにもう一つは、ストーリーのご都合主義的な面。登場人物たちをあまりに使い回し過ぎなのです。AがBと知り合いで、いくつかの事件が起きるとする。そこへAのもう一人の知り合いCが現れ、Cがたまたま就職した先にBがいた、みたいな感じ。そりゃちょっとあり得ないだろう、と思うような展開がいくつかありました。話に起伏をつけるために無理矢理いろんな出来事を起こしている気がして、醒めてしまいました。

 なんだかかなり手ひどい感想になってしまいました。それでも、以上で書いたようなことが文庫化されてどう変更されているのか、興味があります。いずれまた文庫本のほうも読んでみたいと思っています。
2005年12月 「エンデュアランス号/キャロライン・アレグザンダー」 (ソニーマガジンズ・単行本)
1900年代初頭という、スコット、アムンゼンらの活躍した極地冒険華やかなりし時代。サー・アーネスト・シャクルトンもまた、南極大陸横断に挑戦した。試みは失敗に終わり、エンデュアランス号は氷山のはざまで崩壊する。しかしシャクルトンは、わずかな装備と食糧をたよりに、過酷な条件のもとで一人の死者も出さず生還する。そのリーダーシップは大きな賞賛を浴びることとなった。本書は、同行したカメラマンによる現地の写真、さらには各船員の日記を中心とした資料により再現された文章とで成る。

 近年、シャクルトン人気が復活し、たくさんの書籍や映画、テレビドラマなどが制作されています。僕はアイマックスシアターで初めてその名を知りました。さらに素晴らしかったのがテレビドラマであり、ケネス・ブラナー演じるシャクルトン、それから、写真家のハーレーが魅力的に描かれており、その写真の実物を見てみたいものだと思っていました。
 そこへこの本が出版されました。元の値段が高くてなかなか手が出せずにいたのですが、たまたま出くわしたブックオフのセールで、幸運にも500円で入手できました。

 なにより、写真の迫力に打たれます。90年も昔の、ここまで過酷な冒険の記録が、静止画像という形で鮮やかに残されていることに感動を覚えます。モノクロームならではの生々しさは、氷と雪の温度さえ宿しているかのようです。
 いっぽう文章のほうは、客観性を重視するためか、淡々としたものに終始します。テレビドラマでクローズアップして描かれたシーンも、本書ではさらりと通り過ぎていきます。駄文ではありませんが、魅力には欠けます。いっそのこと、写真をメインにして文章はキャプション程度で済ませたほうがいい出来になったかもしれません。
2005年12月 「愛人 ラマン/マルグリット・デュラス」 (河出書房新社・文庫)
このように難解な小説が過去にベストセラーになったとは驚きです。人生の盛りを過ぎた頃、若かりし自分を振り返る――、とあらすじは簡単なのですが、小説技法的にかなりぶっとんだ作品です。描かれる時間は行ったり来たりを繰り返し、一人称と三人称が入り乱れ、書いていることは互いに矛盾し合う。こんな複雑な構成なのに、それぞれの場面の空気や主人公の感情がいつのまにか頭の中に入っている、そんな不思議な読感を与えてくれます。今回の☆印は、読んで感じた面白さという意味ではなく、この技法のすごさに敬意を表した点数になっています。

 本作は、デュラス自身の自伝的作品と銘打たれていますが、じっさい、どこまでが事実なのか判然としません。ありていに言えば、事実を元にした小説、ということで、あまりノンフィクション的な意味合いを追い求めることには意味がないと思います。どっぷりとこの創作世界に浸れればそれでいいのでしょう。
 ただ、デュラスの他の作品を読んでいるかいないかでは、ずいぶん印象が変わると思います。題材は、一人の少女とその家族、とくに母親との関係、というものですが、「太平洋の防波堤」(感想はこちら)でも同じ題材が描かれていますので、僕はこちらを読んでいたことで、本作に対する取り組み方や理解の程度が違ったことと思います。そういった意味で、訳者が本作と他の作品との関連について述べた解説は、たいへん意義深いものだと言えます。
2005年11月 「危険な関係(上)/ラクロ」 (新潮社・文庫)
1782年に出版されて大ベストセラーになり、以降、映画化も繰り返された名作です。
 ひとことで言いましょう。大傑作です。こんな複雑な物語を、こんなに巧みに、かつ面白く構成した作者に敬意を表したい。恋愛文学作品として、あるいは心理小説として、これを読まずしていったい何を読むのか、昨今のベストセラー小説なんて一冊も読まなくていいから、本作を読んでほしい。僕はそう世の中に強く訴えたい。

 書簡体小説と呼ばれる、手紙のやりとりだけで成り立つ作品です。差出人と宛先人は一定ではなく、いろんな人がいろんな人に向けて書いた手紙、それが集合体として一つの大きなドラマを生み出しています。書簡体というのは、発表当時は流行のスタイルだったそうですが、今ではあまり見かけません。手紙を読むことでストーリーが展開する、僕にとってこれは新鮮な驚きでした。
 内容はとくに難解ではないのですが、回りくどい言い回しに苦労させられることは多かったです。そこさえクリアできれば、策略と恋愛模様とが渦巻くめくるめく世界に酔いしれること間違いなしです。

 <注意!!以下、ネタバレ気味です。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>解説にも書いてある通り、メルトゥイユ侯爵夫人の行く末がとってつけたようなものになっているのが、すこしばかり不満ですね。どうしても勧善懲悪にしなければならない時代背景でもあったんでしょうか。これがパトリシア・ハイスミスかカトリーヌ・アルレーだったら、メルトゥイユだけは悠々と逃げ延びるラストになったでしょう。
 僕はこの話、やっぱり馬鹿な者は損をする、だから人は賢く生きなければいけない、というテーマで読みました。セシルもトゥールヴェルもヴォランジュ夫人もダンスニーも、要するに賢くなかったからこんな結果になったのだと思うのです。メルトゥイユやヴァルモンは確かに悪人ではあるけれど、人生に確固たる目的を持ち、自分の頭で物事を考え、行動する、その姿勢には強く惹かれます。


 「クレーヴの奥方」を読んだ時にも思いましたが、この時代における上流社会の腐敗ぶりはひどいですね。結婚していても恋人を持つのが当たり前、それが確固たる“たしなみ”のように描かれているのにはあきれます。手紙の文面にもその馬鹿馬鹿しさはあふれていて、ある女性に唯一の愛を訴えておきながら、別の女性にも「あなただけを愛している」なんて書いたりする。
 貞操観念の強い人間も登場しますが、こちらはこちらで、恋だの愛だのと、ただの言葉遊びに終始する、別の意味での馬鹿馬鹿しい文面。これだけ中身のない、しかも本人は崇高なものだと信じて疑わない文面をリアルに再現してみせた、作者の力量に感服します。
 僕はこの小説で、恋愛のドキドキ感とか切なさ、美しさは全く感じませんでした。だからやはりこれは恋愛小説ではなく、心理小説なのだと思います。たとえば、AがBに対して何かの行動を起こす。それをCが見てDに手紙で書く。でもAの本心は別にあって、真相をAがDに打ち明ける、というような展開が延々と続きます。一つのできごとが微妙にずれながらいろんな人に影響を及ぼしていく、それが実に緻密に描かれていて、ドラマが形づくられていくのです。

 本作品を読んでみようと思われる方に、一つアドバイスがあります。前述のように手紙文だけで構成される作品ですので、導入部分で何のことやらわからずにつまずくことがあります。僕の読んだ新潮文庫版では、通常の文庫本とは逆に、解説が作品より前、つまり上巻の冒頭に置かれています。ここで、読み始めるにあたって簡単な解説が必要、としてあらすじが書かれているのは親切だと思うのですが、勢いあまって最後のオチまで書いてしまっています。僕としては、物語の初期設定を把握しているだけで十分だと思いますので、この解説は先に読まないほうがいいと思います。代わりに僕が以下にまとめておきますので、こちらを参考になさってください。

・とりあえずの主要人物は、メルトゥイユ侯爵夫人、ヴァルモン子爵、トゥールヴェル法院長夫人、セシル・ヴォランジュの4人。
・メルトゥイユと関係のあったジェルクールという男が、彼女を棄てて別の女に走った。この女の元の相手が、ヴァルモン。このためメルトゥイユとヴァルモンは結託して復讐を企てる。
・ジェルクールが新たに結婚相手として選んだセシル・ヴォランジュを、ヴァルモンに誘惑させ、結婚を破談にさせようというのが、メルトゥイユの考え。
・物語は、セシルが修道院時代の友人だったソフィ・カルネーという少女に出した手紙で幕を開ける。この時ヴァルモンは、伯母の家に滞在中。
2005年11月 「危険な関係(下)/ラクロ」 (新潮社・文庫)
同上
2005年 9月 「蛇淫/中上健次」 (角川書店・文庫)
以前、初めて中上作品の「岬」を読んだ時の感想として、文章の持つパワーという意味で三島由紀夫との類似性を僕は生意気にも書きました。(2002年9月「岬」の感想) 本作においてもその暴力的な文章の力を堪能することになりましたが、読み終えてみて感じたのは、三島由紀夫はあくまでも文学畑の中心にいて、文学で何かを仕掛けようと考えているのに対し、中上健次という人は、伝えたいただ一つのことが強く体の中にあって、その吐き出し口としてたまたま文学という手段を選んだのだろう、ということでした。(もちろんこれは、両作家の作品をほんの数作読んだだけの感想に過ぎません)

まず、著者の特徴である文体に目を向けてみましょう。本短編集の最後に収録されている「荒神」から、一部を引用します。

 歩いた。体が、弾機そのものだ、と彼は思った。体が、言うことをきかないのだ。唾が胃の方から這いあがってくる。吐いた。

作品の一部を切り取っただけなのでわかりづらいかもしれませんが、伝えたい思いが文体を生む、ということを想起させてくれます。動詞一つだけの文の連続など、プロの作家は普通書きません。逆に、だらだらと長い文章のほうが純文学界では主流です。それでも中上健次の場合、文学的な斬新さをねらったというようなものではなく、これが別に文学として認められなくても構わない、というほどの動機の強さがうかがえます。

本作は六篇からなる短編集であり、全て南紀、つまり著者の故郷周辺が舞台となっています。これまで、「岬」「十九歳の地図」、そして本作と読んだわけですが、どの作品においても主人公の造形と舞台設定は似通っています。おもに労働者階級の荒くれ者が、土地や家族や親類縁者、さらには自分自身に対してさえの憎悪を抱きつつ、すべての無法な行為を受容していく。底辺に流れる思想は簡単に理解できるものではなく、そこに生身の人間が持つ不可解性が現れていて、読む者がひきつけられるのだという気がします。全ての作品のモチーフはほぼ同じなのに、こんなに感想が書きにくいというのがその証拠とも言えるでしょう。ちなみに、「枯木灘」(未読)においても同じモチーフが集大成として描かれているらしく、やはりこの人の伝えたいことは一つなのかと思えてきます。

表題作の「蛇淫」は、長谷川和彦監督の映画「青春の殺人者」の原作です。映画は原作の舞台を借りつつ、独自の展開を見せます。こちらも大変な名作でしたので、強くお勧めしておきます。
2005年 9月 「風の国・ペンギンの島/水口博也」 (アップフロンブックス・単行本)
フォークランド諸島、サウスジョージア島、そして南極。最果ての地と呼ばれるこれらの地域へ、著者の水口氏は毎年のように訪れてらっしゃるようです。本書は、写真と文章がちょうど半々くらいでたっぷり詰まっていて、見ごたえ、読みごたえ共にじゅうぶんです。
 僕は、自分が行ったことのあるフォークランドにやはり興味が向きました。スタンレー、ボランティアポイント、それからシーライオン島についてもたくさんの写真と文章が載っています。水口氏はシーライオン島をずいぶん気に入ってらっしゃるとのことで、嬉しくなってしまいました。

写真は本当に美しく、かつ迫力があります。ペンギンを中心として、生き物たちの姿を生々しく、また可愛らしく伝えてくれます。文章のほうも、多少大仰で真っ当すぎる面があるものの、素直な感動が表現されています。実際あれだけの風景を目にしたなら、言葉はついてこられなくなるのはしかたのないことだと思います。

水口さんのサイトには、驚くほど美しい写真がたくさん載っていますので、紹介しておきます。
●水口博也のホームページ
本作を読み終えて思ったこと――“なんちゅう作品じゃあー!”
……とまあ、叫びたくなったものです。特にラスト。「ふくろうの叫び」と同様、読み終えた時のなんともいえない感じは、ちょっと言葉では伝えられません。

ハイスミス作品の一般的な評価として、次にどんな展開が待っているのだろう、とわくわくさせることて読者を引っ張っていく、ということがよく言われますが、2作を読んだ限りの僕の感想はちょっと違います。読んでいる最中は、けっこう地味な作品だなあ、と思うのです。それで途中、退屈になるとは言わないまでも、読み進むのが遅くなることがある。それでもラストに向けての吸引力はすさまじく、読み終えたあとは、いやー凄かった、という感想が残る。

あまり内容をばらしたくないのですが、すこしだけ紹介しておくと――口うるさく、話すとすぐに喧嘩になってしまう妻を持つ、平凡な男にまつわる物語、とでも言っておきます。冒頭部分から意外な展開があるので、そのあたりは書きません。是非一読をお勧めします。
2005年 7月 「象は鼻が長い/三上章」 (くろしお出版・単行本)
1960年代に出版されたこの作品をどうしても欲しくて、古本屋で見つけた時には声をあげてしまいました。日本語文法についての名著として名高い本書は、やはりその評価に違わない、素晴らしい中身を備えていました。

本書の内容は、そのタイトルに端的に現れています。「象は鼻が長い」、という簡単な文章において、さて主語はどれでしょうか、という問題です。「象は」なのか、「鼻が」なのか。やはり「〜は」がついているから「象は」かなあ、でも「長い」のは象ではなくて鼻のほうだし……、と悩まれる方が大半だと思います。

著者の三上氏は、学校で習わされている「主語」だの「主述関係」だのをばっさり切り捨て、「主語廃止論」を唱えています。日本語に主語などない、という乱暴な主張ではありません。ある行為に対して何者がそれを行ったのか、という意味での主格の存在は認めたうえで、日本語を主語と述語等に分けて文法を理解するやり方を否定しているのです。

最も問題となるのは、一般に主語を表す助詞として一括でくくられる、「〜は」の用法です。たとえば、以下にいくつか文章を並べてみます。本書9ページからの引用ですが、見やすいよう、カタカナ表記はひらがな表記に改めてあります。

(a)象は、鼻が長い。
(b)父は、この本を買ってくれました。
(c)日本は、温泉が多い。
(d)この本は、父が買ってくれました。
(e)昨日は、大風が吹いた。
(f)カキ料理は、広島が本場です。

上記中、太字部分がいわゆる「主語」だと学校では教わります。しかしそれぞれの文章において、太字部分の役割には明確な違いがあります。わかりやすくするため、すべての文章の最後に「〜ということ」を付加し、題目のような形態に書き替えてみると、次のようになります。

(a’)象の鼻が長い ということ
(b’)父がこの本を買ってくれた ということ
(c’)日本に温泉が多い ということ
(d’)この本を父が買ってくれた ということ
(e’)昨日大風が吹いた ということ
(f’)広島がカキ料理の本場である ということ

先述の文で「〜は」となっていた部分が、「〜の」「〜が」「〜に」「〜を」「(助詞なし)」等に変化しています。つまり、「〜は」の役割は2つあって、1つは、「〜の」「〜が」「〜に」「〜を」の代替、さらにはその語句の強調です。たとえば(c")や(d")において、「日本に」や「この本を」は、文章の中で順番を変えることができます。そうした語句の助詞を「〜は」に変え、さらに文頭に持ってくることで、その語句を文章の中心に据える。(b)(b")のように「〜が」の代わりになる場合は、行為のおこない手、いわゆる「主語」のような役割となりますが、決してそればかりではない、ということがわかると思います。

本書では、さらに詳しく「〜は」について見ていきます。ちょっと学術書っぽい雰囲気があり、さらに古い本のためカタカナ表記が混ざったりしていて読みにくいのですが、内容はものすごく面白いです。日本語に興味のある方(というとほとんどの日本人が当てはまってしまいそうですが)には、必読の書だとも言えます。本書を熟読した上で、これまでの考えを改めるなり、いや自分はこう思う、などの反論を唱えるなりすることは、非常に有益なことだと思います。ちなみに僕は、著者の意見に全面賛同します。いやまあ、とにかく開眼させられました。
2005年 6月 「悪魔の飽食 第三部/森村誠一」 (角川書店・文庫)
衝撃だったのは結局、第一部だけでした。「続・〜」の内容に落胆させられ、この第三部においては、もはや何のために書かれたのか、目的さえよくわかりません。金儲けのために出版されたと言われてもしかたのない作品でしょう。

「続・〜」を出版後、写真の一部に誤用があったことが発覚し、絶版となった件は、以前の感想欄に書いたとおりです。本作品は、誤用当時の経緯と、ちょうど重なった現地への取材旅行記とが主な内容になっています。取材において新しい発見はほとんどなく、現地で731部隊に関わった中国人のことも描かれてはいますが、僕の心には何も響きませんでした。
2005年 5月 「ダフニスとクロエー/ロンゴス」 (岩波書店・文庫)
なんと、紀元2〜3世紀に書かれたという物語。僕がこれまでに読んだなかで最古の小説だと思います。エーゲ海に浮かぶレスボス島という島で、牧童の男女が交わす恋の物語。恋愛のなんたるかを知らず、互いに思いの表現にとまどうという、実にかわいらしい内容です。まあ、刺激が少ないと言えばそれまでですが、なかなかこういう世界もいいものです。含蓄に満ちた日本語訳も美しくて素晴らしい。性描写なども出てくるのですが、あくまでも清潔なものであって、いやらしい感じはまったくありません。

文庫サイズで167ページ、しかも1ページの文字量も少なめなので、あっという間に読めます。物語のスピードは意外に速くて、二人が戦争で引き裂かれたり、いろんな人間がたくらみをしかけてきたりしますが、そのたびにあっけないくらい簡単に問題は解決していきます。とくに後半40ページくらいはめまぐるしく話が展開して、ラストを迎えます。なかなかストーリー性に富んでいて、昔から物語とはこういうものだったんだなあと思い知らされました。ギリシャ/ローマ神話の神々についての記述が多く、こういう時は神話に通じていればさらに面白いだろうなあと思いました。

ところでこの本を知ったのは、遠藤周作の「恋愛とは何か」という作品でした。本作を読み終えてからこちらも読み返してみましたが、なかなか興味深かったですね。
2005年 4月 「タマや/金井美恵子」 (河出書房新社・文庫)
うーん、やっぱりすごい作家だ、この人は。
 話自体はさしておもしろくもないのです。主人公の夏之のまわりに、元ポルノ男優でハーフという知人や父親違いの兄弟が集まってきて、なぜか一緒に暮らしていく、といういかにも純文学にありそうな設定とキャラクター。しかも最後までたいした事件は起きない。文体的には、「〜だが」「〜して」等のつなぎの言葉を介して、ひとつの文がなかなか途切れずに続いていくという点、それから会話がカギカッコで区切られずに地の文の中に紛れ込んでしまっているという点などが特徴として挙げられます。僕は途中までこの小説を、あまり楽しむことができませんでした。しかしある時、主人公を含め5〜6人が一部屋で集まっているシーンで、各自がとりとめもなくしゃべっているその雰囲気がストレートに頭の中に飛び込んできたのです。小説世界が、僕の頭の中でほぼ完璧に(もちろんそれは「僕なりの」世界ではありますが)構築されたわけです。これをやるために、文体や表現を駆使してこの小説が作られたんだと思うと、小説という表現形態そのものに対する挑戦とさえ思えます。作家たるものこうあるべし、というところでしょうか。
2005年 4月 「完全犯罪捜査マニュアル/小野一光」 (太田出版・単行本)
刑事事件が発生した場合、警察の捜査はどのような手順で行われるのかということが、実例に則して紹介してあります。詳細資料をはさみながらも、それほど専門分野に傾くことはなく、かといって事件の数奇性を暴くといった切り口にも欠けるため、中途半端な内容になっています。犯罪捜査の表面をさらっと知りたい人にはお勧め。なお、タイトルの意味は「完全犯罪・捜査マニュアル」ではなく、「完全・犯罪捜査マニュアル」です。完全犯罪とはそれほど関係ありません。
2005年 3月 「ふくろうの叫び/パトリシア・ハイスミス」 (河出書房新社・文庫)
ふとしたことで女性の部屋を盗み見した男の顛末を描いた作品。古典ミステリー界の重鎮、ハイスミスに初挑戦です。良質なエンターテインメントとは読者の予想を常に裏切ることだと言わんばかりに、話はどんどんと思わぬ方向に流れていきます。この展開はすごい。あまりいいとは思えない訳文のせいか淡々としすぎる文章のせいか、読んでいる最中は面白さはそれほどでもないなと思っていたのですが、読み終えてみれば評価は高くなりました。こんな薄気味悪いラスト、僕は知りません。<注意!!以下、ネタバレ気味です。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>最後のセリフは本作のテーマをよく言い表しています。それは、さんざんふりまわされてきた主人公から作者にむけて、「もういいかげんにしてくれよ」と叫んでいる言葉のように聞こえました。こんな小説があるんですね。感服しました。
2005年 3月 「蹴りたい背中/綿矢りさ」 (河出書房新社・単行本)
史上最年少で芥川賞を受賞、といっときどこでも耳にしたフレーズで話題になりまくった本作。僕は常々、主人公に感情移入できなくても面白い作品は面白いと思っています。映画でたとえるなら、「レイジング・ブル」とか「その男ゾルバ」などに出てくる、無教養で粗野な男。彼らの行動の真意はまったく理解できないしもちろん実際にそういう男が身近にいたなら避けるだろうけど、僕はこれらの映画をとても楽しむことができました。それは、こういうどうしようもない男が本当にそこにいるのだという確かな存在を感じることができたからです。共感できずとも、リアルな世界がそこに広がっているなら、それを見る、あるいは読むことで楽しむことはできる。そう思います。

 さて、その意味で本作品。共感できるかというとやはり年齢も性別も違う身でありますからそこは難しく、ただ、人間の感情というのはそんな簡単に一方に寄ってしまうことはなく、中途半端な位置でぶらぶらしているものだという点だけは共感できます。にな川との関係を安易な方向に導かないのは評価できる点でしょう。文体自体は前作よりおとなしめになっていて、時々ぐっとくるフレーズに驚かされる程度。僕が首をひねるのは、人物や舞台の設定があまりに貧困な点です。とくに、絹代。かつては仲良しだった彼女が、高校では別の“グループ”に入り、ハツと距離を作った。その状態や過程がいかにも作り物めいていて面白くない。それからオリチャンの造型もコンサートの描写もまったくいただけない。“背中を蹴りたい”というのは確かにハツの中途半端な心情を見事に表したキーワードだとは思いますが、ハツという屈折した女子高生と、オタクの男、そして蹴りたい背中。このイメージが先にあって、それに合わせて作品世界をむりやり付け足したという感じがどうしてもしてしまいます。
2005年 2月 「インストール/綿矢りさ」 (河出書房新社・単行本)
10代で芥川賞を受賞した作家のデビュー作。物語自体はたいしたものではないのですが、ときどき面白い文章が出てきて、はっとさせられます。文法を破りぎみなのも、ちゃんと本を読んで文法もこなせる人が遊びでそうしていることがうかがえます。読点(「、」のこと)でリズムをつけるということが意識的になされていて、たとえばセリフのカギカッコの最後を読点で終わらせるなど、なかなか効果的だと思います。そして、粉飾も卑下も戯画化もせず自信過剰にもならない、まったく素の自分を書き写しているという生々しさ。これを表現するのは並大抵ではありません。

 ただ、いかんせん面白さにも深みにも欠けます。文学作品として正当に評価されるには値しますが、これ一作をそう持ち上げることもないでしょう。
 次作の芥川賞受賞作「蹴りたい背中」は、本作より格段にうまくなっているらしいので、たしかめてみようと思います。
2005年 2月 「ウィルス・パニック/藤田紘一郎」 (数研出版・単行本)
監修の藤田氏は、自分のお腹の中に回虫を飼っていることで有名な医学博士。「笑うカイチュウ」などの著書で有名です。人々があまりにも潔癖性になり、抗菌グッズなどがはやったせいで有益な微生物まで殺してしまい、感染症にかかるケースが増えたという主張を聞いて、以前読んだ「共生の意味論」を思い出しました。そしたらなんのことはない、その藤田氏の著書だったのです。

 僕はウィルスそのものの生態について知りたくてこの本を借りてきたのですが、ちょっとその趣旨からは外れていました。SARS、BSE、エボラ出血熱、O157など、様々な種類の感染症について、その原因や症状、発症の歴史的な経緯などがわかりやすく紹介されています。細菌とウィルスとの違い、インフルエンザと風邪との違いなどにも言及されており、我々が抱くであろう疑問に親切に答えてくれます。近年に発生した感染症について網羅されているので、一通りの知識を得たい人にはもってこいの解説書だと思います。
2005年 2月 「新版 続・悪魔の飽食/森村誠一」 (角川書店・文庫)
細菌兵器の極秘開発を行ったとされる731部隊の謎を暴いたベストセラー、「悪魔の飽食」の続編です。光文社から出された初版のほうは、写真の誤用が発覚して絶版となり、のちに写真を大幅にカットしたこの新版が、角川文庫から刊行されました。

 本作品で描かれるのは、大きく分けて以下の2つ。1つ目は、終戦直後、部隊の要人達がいかに逃げ延びたかということ。とくに、部隊長であった石井四郎がどのように戦犯を逃れ、生き延び得たのか。じつは彼は米国と取引をしたのです。細菌兵器に関する実験結果をすべてアメリカに引き渡す代わりに、戦犯を免れたのでした。
 アメリカは石井隊長に何度か尋問をします。その記録がいくつか残っており、本書で紹介されます。これが本書の後半を占める、2つ目の要素です。

 戦後の部隊処理と要人の脱出については、想像の範囲を越すものではありませんでした。また石井隊長らの尋問結果については、かなり資料的な意味合いが強く、こちらもまた読み応えという意味では不満が多い。本作にはさらに続編があって、そちらでは朝鮮戦争と731部隊との関わりが紹介されているらしいので、また読んでみようと思っています。

 なお、巻末に、本書の改稿に協力された大学教授による解説が載っていますが、本書や著者についての解説はほとんどなく、自分の知識に沿って731部隊について延々と書かれています。これは本来、本文の中に含めるべき内容であり、著者に対して失礼な行為だと思います。
2005年 2月 「ステーシー/大槻ケンヂ」 (角川書店・文庫)
「筋肉少女帯」のボーカル、役者、作家、と幅広い才能を誇示する大槻氏の作品。「筋肉少女帯」は一時期、けっこう好きで聞いていたことがあります。アルバム1枚程度ですが。

 ステーシーというのは、少女のゾンビのことです。近未来、なぜか17歳前後の少女が謎の死を遂げ、ステーシーとなって甦る。ステーシーを再び殺すには体を165以上の肉片になるまで切り刻まねばならないという設定。

 読んでみて感じたのは、けっこうちゃんと小説の体を成しているなあという素直な賞賛です。情景描写はきっちりとされているし、文法的におかしなところもありません。たしかに過激なスプラッターシーンはありますが、最終的には人間の優しさに立ち戻らせることで救いを与えていて、どんなシーンにおいても生理的嫌悪感が薄らいでいます。

 ただそのぶん、インパクトは薄いのは否めません。ステーシーの出現とその後について、最終的に理に落ちるしかけになっており、それがなんともまとまりすぎている気がします。そして、著者のメッセージも明確で、明確すぎるため驚きはない。著者も解説者も、本作を不条理な問題作のように扱っていますが、文学において不条理ものやスプラッターものは他にいくらでも良作があり、それらに比べて小粒である本作をそこまで持ち上げるのはちょっと恥ずかしいです。

 それでも文章のなかに、ときおりおやっと思わせるフレーズがあったり、セリフにも面白いのがいくつかありました。才能のある作家だと思います。
2005年 2月 「阿修羅ガール/舞城王太郎」 (新潮社・文庫)
「煙か土か食い物」で、個人的に大ブレイクした舞城王太郎。本作は、純文学系新人賞では芥川賞に継ぐ権威と言われる三島賞を受賞しました。エンターテインメント系の出身でありながらこの賞を獲るというのもすごいですが、中身はもっとぶっとんでいます。

 主人公の女子高生による一人称語り、というのが本作最大の見どころでしょう。ら抜き言葉など言うに及ばず、今どきの女の子がしゃべる言葉そのままが文字にされている感じで、さらには文字の大きさやフォントを変えてみたりなど、文体的挑戦に追い打ちをかけており、これを不遜だとして受け付けない人がいるかもしれません。(現に三島賞委員の宮本輝氏はそうだったらしいです。)
 第二部に入ると、物語はさらに迷走をきわめ、いったいどこへ連れて行かれるのだろうと不安にさえなります。唐突に話は飛び、そしてまた戻ってくる。唯一、第二部の「森」が真っ当なホラーという印象を受けますが、そこをストレートにホラーとして解釈するのは本作の正しい読み方ではないと思います。
 <注意!!以下、ネタバレ気味です。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>そして、それだけ途中でややこしい構成と表現方法をとりながら、最後にはなんのひねりもなしに「愛なんだ」というありきたりな人情話で結ぶ展開は、「煙か〜」とまったく同じです。これは舞城氏の作風と言っていいのかもしれません。

 個人的には、かなりエンターテインメントよりの作品だと思います。ただそうすると、物語自体の魅力には乏しく感じますし、甘ったるいラストにも今ひとつ不満が残ってしまいます。
2005年 1月 「蛇と虹/ウェイド・デイヴィス」 (草思社・単行本)
蛇と虹、とはヴードゥー教における二大神のこと。本書は、民族植物学者である著者が、人をゾンビに変える秘薬を求めてハイチに潜入し、やがてゾンビ現象の奥にひそむハイチ国家の秘密にまで迫るという渾身のノンフィクション傑作です。

 ゾンビは実在する、という一見トンデモ理論が展開されるようですが、じつはちゃんとした科学読本です。ゾンビとは死者が蘇ったものではなく、ある薬によって仮死状態にされ、墓に埋められたのちに仮死状態が解ける、という解釈がなされています。著者は大学の要請を受け、このゾンビ薬が外科手術などの麻酔薬として有効なのではないかという仮説のもとハイチに潜入し、その製法や材料などから、フグの毒と同じ成分を持つ毒薬だということをつきとめます。さらに著者は、ハイチ社会の裏側にある秘密結社の存在をつきとめ、結社のメンバーに接近をこころみるのです。

 ゾンビを科学的に解き明かしていく過程は、科学的かつ伝奇ロマン的でもあり、かなり知的興奮をかきたてられます。ただ、たぶんに学術書としての側面を含んでいるため、少々読みづらくもあります。ハイチ社会の歴史と現状を紹介するのにもかなりの文面が割かれており、それも読み進む妨げになりました。ただ、ハイチという国についての知識はかなり身につきます。

 後半になり、話がゾンビ薬の解明から秘密結社への接触という展開を見せるあたりから、著者の情熱は感じるんだけれどこちらの興味がついていかない格好になってきます。前半だけならもっといい点数を付けられたと思うのですが。