■ 2017年に読んだ本
  
2017年12月 「聖母の贈り物/ウィリアム・トレヴァー」 (国書刊行会・単行本)
アイルランドの作家、ウィリアム・トレヴァーに初挑戦。アイルランドといえば日本人には今ひとつ馴染みが薄いが、イングランドとのたび重なる戦争、支配された歴史による現在も残る確執、アメリカなどに棄民された悲しい歴史などから、民族意識の割合に強い国だという印象があり、この短編集でもそうした雰囲気が微かにただよっている気がした。おもに田舎を舞台にし、人間の本質をあぶり出すような作品群が並び、どれも読み応えがある。頑迷な老女と嫌ったらしい若者との対比を見事に捉えた「こわれた家庭」、オヤジが夢見た不倫の哀しい末路を描く「イエスタデイの恋人たち」、兄弟で出掛けた聖地巡りの旅をおかしく描く「エルサレムに死す」など、バラエティに富んだ習作が並ぶなか、やはり出色なのは三部作でたっぷり長編一本分のボリューム感を味わえる「マティルダのイングランド」だ。一人の女性の視点で、とある裕福な屋敷にまつわる人間ドラマを、ユーモアと郷愁に満ちた文体で綴り、確かな世界が形作られている。評判どおりの素晴らしい短編集だった。
フランス各地で、列車に乗せられたバラバラ死体が発見される。どれも同じ人間の体の一部で、列車は全てヴィオルヌという町の陸橋を通過していたことから、この地に住む者の犯行と思われた。捜査の結果、犯人は夫と暮らす女性で、被害者はこの夫婦と同居していた聾唖者の従姉妹だった。犯人とその夫、行きつけの酒場の主人の訊問から、彼女がなぜ犯行に至ったのかを探っていく――。
 久し振りに読むマルグリット・デュラス。小説ではあるが、実際に起きた事件に材を取っており、ルポルタージュ的に書かれている。デュラス作品にしてはかなりリアル志向で読みやすかった。なにせ、『夏の夜の十時半』や『破壊しに、と彼女はいう』などは、ほとんど理解できないくらいの難解な小説だったので、しばらくデュラスからは遠ざかっていた。本作では、犯人の女性の静かな狂気が、淡々とした会話の中でにじみ出るように現れてくる。冒頭は、テープレコーダーに収められた録音音声を別の場面で別の人が聞いている、というややこしい設定のため、ちょっと混乱するが、その後は一対一の会話がつづき、どんどんのめりこんでいく。
2017年11月 「千の扉/柴崎 友香」 (中央公論新社・単行本)
柴崎友香さんの小説は、前に芥川賞受賞作の『春の庭』を読み、面白いけれど今ひとつぴんと来ないし、それほど強く惹かれないなあという印象を持った。今回読んだのは最新作。そして、今度はとても面白く読めた。
 舞台は戦後すぐ建てられた東京の巨大団地。ここに結婚と同時に引っ越してきた三十代後半の女性・千歳が主人公だ。彼女は夫の祖父から団地での人捜しを頼まれ、その過程でいろんな人と触れあっていく。人との距離感がうまくつかめなかった彼女は、団地での生活で少しずつ変わっていく。
 あらすじを聞くと、ちょっと古めかしい団地小説のように思われそうだが、まったく違う。現代から数年前、数十年前、といくつもの時を超え、様々な時代の様々な人々が描かれる、立体的で壮大な小説だ。異なる時代のいろんなエピソードがしだいに有機的にからみあっていく様は圧巻。こんなに何気ない風景を描きながらこんなすごい世界を構築できるのは、ただものではない。ようやく柴崎友香の凄みの一端を垣間見た気がした。

★本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 団地小説、と言ってしまうと古めかしくて辛気くさいと思われるから、言ったばかりだけど忘れてほしい。確かに舞台は昭和からある団地で、昔気質のじいさんも登場する。だからといってそのじいさんがお決まりの血縁主義で家族の大事さを説くでもなく、人は助け合って生きていくもんだと安いヒューマニズムに堕するでもなく、野に咲く花を見てご覧、と自然主義を押しつけることもない。じいさんには三十五歳で離婚歴のある孫の一俊がいるが、気の合うのはむしろその再婚相手・千歳(ちとせ)のほうだ。この千歳が主な視点人物となり、話は進んでいく。
 一俊と千歳は、怪我をして入院したじいさんに替わり、留守番役として団地に移り住む。入院先でじいさんは千歳に人捜しを依頼する。探してほしいのは団地に住む男で、この男に箱を預けてあるという。箱には何やら、じいさんの若い頃の艶めいた秘密が隠されているらしい。団地は総計三十五棟で住民は七千人。その高層棟に住む高橋という男。捜索は簡単なものではなかったが、千歳は率先して団地内を探し歩く。
 千歳は、何千と並ぶ扉の向こうで人がどんな暮らしをしているのかに興味を持っている。〈わたし、人ってよくわからない。想像しても、自分以外の人の気持ちはわからないし、生きてるってことも、死ぬってことも、どういうことなのか、よくわかってない〉と話す千歳。幼少時の些細なできごとにより、両親から「この子は何を考えているかわからない」とレッテルを貼られ、千歳も気持ちを隠すようになって親子関係はこじれていった。だから何をするにも自信が持てず、自分は普通ではない、普通の人はどうやって生きているのかを知りたい、と強く思っていた。
 一俊と結婚したあとも彼女は、普通の妻とはどういうものかつかめずにいる。普通、子供は絶対に欲しいと思うものだろうか。人に夫を紹介する時、普通ならなんと夫を呼ぶのだろうか。はたから見れば他愛もないことですら、千歳は正解を探って悩んでしまう。
 余談だが評者にも、妻と付き合い始めた時の呼び名に悩んだ記憶がある。○○(苗字)さん、のままではよそよそしい。かといって下の名前で呼ぶのも照れくさい。最初の一ヶ月は会っても呼びかけずに済ませた。さすがにこれはいかんと思い立ち、「今日から△△(下の名前の呼び捨て)でいく!」と宣言。その場で何度も復唱してようやく定着した。もう五十年も昔のこと。今思えば、呼び方なんてどうでもよかった。かくいう私もじいさんだ。
 話を戻そう。数ページ単位の短いエピソードの連続で構成されているのも、本作の大きな特徴だ。千歳視点の現代パートが中心となるが、他にも一俊の子供時代や一俊の母・圭子の結婚前の回想などが挿入される。回想パートで活躍するのはやはりじいさんだ。娘の圭子と食事をする場面では、デリケートな話題であるべき圭子の出生の秘密について、じいさんは物怖じもせずあけすけに語る。〈そんなこと、娘には普通言わないんじゃない?〉と聞かれ、〈普通って、どういうのが普通なんだよ。ほら、さっさと食え〉と、焼いた秋刀魚を差し出すじいさん。そのくせ、自身の若い頃のシーンでは意外に誠実で純情な一面も見せるからあなどれない。
 やがて求婚に関する一俊の告白から、千歳の心境にも大きな変化が訪れる。同時に、じいさんが千歳に頼んだ人捜しの謎も徐々に明かされていく。その合間に、全く主要ではない人物の短い話までが挿入され、どんな人生にも素敵な物語が秘められていることを感じさせてくれる。こうして小さな物語が集まって一つになるさまを団地小説というなら、それこそふさわしい呼び名だろう。
(20字×77行 若者向け雑誌)
いやあ、巧い。とにかく巧い。谷崎潤一郎といえば『春琴抄』『痴人の愛』くらいしか読んだことがなく、やや敷居の高い大純文学作家という印象を持っていた。それが本作では、実に軽やかで読みやすい文章を披露しており、芸達者な一面に驚かされる。読み進めていくと、ほんわかした猫小説・家族小説というベールをかぶった実にドロドロな人間模様が描かれていて、その手法と内容のギャップにも衝撃を受ける。
 出てくる人物は全員、なかなかに食えない人達だ。ちょっと抜けているように思えて実はそんな自分を把握して演じてもいる庄造、その後妻でしっかり者かと思えば遊びほうけているお嬢様の福子、一歩引いたところで庄造や福子を操っている、庄造の母・おりん。そんな中で、前妻の品子だけが、勝手なふるまいをしつつも最終的に救われていくところも、ほっとさせてくれて面白い。
 ラストが中途半端だという意見があるかもしれないが、僕は非常に面白いと思った。猫を中心にして、短い中に、人物達の思惑やドラマを盛り込んである素晴らしい小説だと思う。やはり古典はあなどれない。
地元の東海テレビが制作し、話題になった映画『人生フルーツ』の夫婦二人による書籍。高蔵寺ニュータウンの自然に囲まれた一軒家で暮らす日常を紹介したもの。よくある、割に押しつけがましいエコ至上主義とは違い、「私たちはこうしています」ということだけを淡々と伝えてくれるから非常に好感が持てる。人付き合いが苦手で最低限の交流で済ませていたり、奥様の英子さんは、主婦業がいちばん自分に合っている、と時代に逆行するかのような主張をしているところなども、ありきたりではないリアルさを感じた。年齢を重ねることはそれだけで寂しく辛いものだが、八十代でもなお素敵に生きる二人を見ていると、そんなことなど忘れさせてくれる。二人の暮らしをそっくりそのまま真似るのではなく、これを読んだ人が読んだ人なりの環境や考え方で、自分らしい生活をしていけばよい。そんな優しいメッセージにあふれている。
SFは本当に苦手な分野でほとんど読んでこなかったのだが、これはいかん、と有名作品をちょっとずつ拾っている。『幼年期の終わり』と並んで名高い本作。意外に書かれたのは新しく、1977年に発表されている。
 月面で発見された死体は、五万年前に死亡しているにも関わらず、現代の地球人とほぼ同じ外形、同じ構造を持っていた。五万年前に現代人と同じ文明を持っていたのか、そうなら何故その痕跡が地球上にないのか。あるいは、別の惑星でたまたま地球人と同じように進化したのか、しかしそんな確率は万に一つもない。この死体を巡って、全世界を巻き込む論争が始まる。
 いやはや、SFではあるけれどミステリ的興味でぐいぐい読ませ、最後もミステリ的謎解きで終わる。そしてその間に挟まれる描写は、紛うかたなきハードなSF世界。これは小説として一級品だ。描写についていくのがややしんどいかもしれないが、技術的なところは斜め読みしてもじゅうぶん楽しめると思う。そういえば以前、若い女性が読書会で本書を薦めていた。
2017年10月 「もう生まれたくない/長嶋 有」 (講談社・単行本)
長嶋有お得意の、多元描写による群像劇。とある大学を舞台にし、職員や生徒達の生活が、次々と視点人物を移しながら語られていく。彼らをつなぐのは、X JAPANのTAIJIやスティーブ・ジョブズなど、有名人の死だ。訃報に触れた人々が集まり、語り合い、様々な思いを抱く。人の死とはとかく話題に上りやすいものだ。そして、普段は思いつかないようなことを考えさせられたりもする。おもしろいと言っては不謹慎だが、興味深い。
 本作では、固有名詞がすべて実名で登場し、登場人物たちの奇譚のない意見が披露される。ほとんどは、一般人の何気ない日常生活だ。それでも、ときおりはっとするような言葉が挿入されてきたりして、本当に長嶋有は巧いなあと唸らされる。これだけ読みやすいのに、深い内容を湛えていることに感嘆する。これは現代文学としてかなりの水準ではなかろうか。

★本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 人に本を紹介する言葉の不人気bPは、「難解だ」でも「上下二段600ページ」でもなく、ずばり、「たいした事件は起こらない」だ。これを言うと大抵の人が、だったらいいよっていう雰囲気になる。みんな、派手なドラマを求めているらしい。気持ちはわかる。でも長嶋有ファンの私は、そんなのお構いなしに同じ言葉で本作を薦めたい。
 登場するのは、とある大学の職員や生徒達だ。学内の診療室に勤務する春菜。その元同僚で離婚歴のある美里。清掃員で盗癖を持つ神子(みこ)。XJAPANのTAIJI死去の報に触れた三人は、追悼替わりにと、XJAPANの古いTVゲームをプレイするために集まる。いっぽう、同じく訃報を知った学生の遊里奈にとっては、XJAPANとは単なる昔のバンドであり、訃報に興味を抱いたのも彼女がゴシップ好きだったからに過ぎない。遊里奈たち若者と気さくに付き合う講師の布田は、かつて教え子が自殺したことから教育に意欲をなくし、女生徒達との虚しい関係を続けている。
 長嶋有は、この手の群像劇が本当にうまい。同じ訃報を別の人が違う場所で聞き、全く違う感想を抱いていたり、意外に同じ思いを共有していたり。それぞれが微妙に交錯しつつ視点人物が変わっていく様は実に小気味がよい。取るに足りない日常を退屈せずに読めるのは、人々の微細な心の綾を著者が丁寧にすくい取ってくれるからだ。赤あげて、白あげないで、赤さげない、みたいな心の動きを著者は見逃さず、なるたけ忠実に言語化しようとする。
 TAIJIに限らず、本作では数多くの死者が登場する。様々な死が話題となり、そこで新しい絆が生まれ、それまで考えもしなかったことを考えるようにもなる。登場人物達がスティーブ・ジョブズなど有名人の訃報を語りたがるのは、どんなに身分や環境が違う人とも、死だけは同等で、同じ土俵に立っている気がするからかもしれない。
 神子の母はダイアナ妃が好きで、例の交通事故の翌年に母も交通事故で亡くなった。その頃から彼女は、ペンや栓抜きのようなどうでもいい品を盗むようになった。この盗癖も、理不尽さにおいて死に似ている。彼女が心の中で呟く〈そんなに、なにもかも大事に生きなくてよい。旺盛に生きなくてよい〉という言葉は、死を前にした自分の無力さを癒し、生き辛さを緩和しているかのようだ。
 こうまで多くの死が登場するのに本作が暗い印象にならないのは、死を立てて≠「ないからだ。フィクションで死が扱われる際には、極度に神聖化されるか、重い意味を持たされることが多い。そうでない、もっと軽い℃があっていい。というかそれが日常だ。
 例えば石川県で起きた、いたずらで作った落とし穴で亡くなった夫婦をどう考えればよいのか。遊里奈は、バイト先で話題に出たこの事故について思索を巡らす。どうしたって哀しさと共に滑稽さも含まれるこの死を、もっとフラットに、もっと普通のこととして捉えてあげたい。それがあの夫婦への何よりの追悼になるのではないかと彼女は思うのだ。
 こうして淡々と進んでいる中に、ときおりはっとするほど美しい言葉が挟まれていたりするから、全くこの著者には油断がならない。上記のとおり、固有名詞や現代風俗を恐れなく多用するのも長嶋有作品の特徴だ。おかげで読む者は自分の生活と地続きなリアルさを感じることができる。だからこそ終盤に訪れる理不尽な死には心底驚かされるし、登場人物の成長にも心を動かされる。特に、瀕死の事故に遭った美里と、彼女を迎える元夫の宏。二人の見せる変化にぜひ注目してほしい。そこに本作の小さな答えが潜んでいるはずだ。
 ところで驚きといえば、小説冒頭の一文。
〈空母の中に郵便局がある〉
 ここから、これまで述べてきた内容にどう繋がっていくのか。興味ありませんか?
(20字×80行 ダ・ヴィンチ)
生まれ変わる食事とは、ずばり、グルテンフリーのこと。つまり、小麦を食べないという健康法について書かれた本だと思ってもらっていい。かつてのジョコビッチは試合途中に倒れて棄権するなど、良い選手ではあるのだがあと一歩のところで超一流の仲間入りができずにいた。その様子をテレビで見ていた母国セルビアの医師がジョコビッチに連絡をして言うには、小麦が良くない、とのこと。実家がピザ屋で、小麦粉とは切っても切り離せない食事を続けていた彼は、それでも試しに二週間小麦粉をとらずに様子を見る。すると、どんどん体調が良くなっていったのだ。二週間後に再び小麦粉を食べてみると、体に悪い反応が出てくる。これで彼は小麦粉の害を確信し、その後は食生活を一変させていく。
 僕もパンやパスタなど小麦粉全般が大好きで、毎日のように摂取している。ところが、小麦粉は良くないということをいろんなところで目にし、自分でもなんだか腸の具合が良くない気がして、小麦粉について考え直してみるつもりで、本作を読んでみた。非常に説得力のある内容で、しかも食事の適正は人それぞれだからと、決してこれがベストだとは断言していない。そこにも興味を持った。僕も近いうちに、二週間の小麦粉断ちをやってみようと思う。
2017年 9月 「独学のすすめ/加藤秀俊」 (筑摩書房・文庫)
1975年に出された作品が、2009年に復刻された。読書会の課題本になったので初めて読んでみたら、実に素晴らしい内容で感銘を受けた。
 読書を大ざっぱに分類すれば、自分の考えを強化する系統と、未知なるものに触れる系統に分けられるだろうが、本書は典型的な前者。僕が前々から考え続けてきたことをさらに強く裏打ちしてくれる内容で、「そうそう!」と頷きながら読み進めた。
 元は雑誌のエッセイだったものをまとめてあり、雑多な内容を含むが、一貫しているのはタイトルにある通り、勉強とは自分一人でおこなうものだ、というもの。こうした“独学”をできない人が学校へ行くのだ、という逆転の発想には唸らされる。
 「問題」についての考察も面白い。問題には学校の勉強のように、答えがあるものばかりとは限らず、問題そのものが矛盾していたりもする。世間において遭遇するのは、そうした厄介な問題がほとんどだ。この考察から、では問題解決の基礎訓練をおこなう学校では何を教えればいいのか、という思索につながっていく。
 本書がまた優れているのは、自分の主張を書きながらも、それを絶対だと思わず試行錯誤しているところだ。「〜が良い」と言いつつ、それが全てでもない、と断る。そうした客観的で冷静な視点、バランス感覚に非常に好感をおぼえた。
 1975年に書かれた本のため内容的に古いところもいくつかあるが、大部分において現代にも通じるから、凄いというか人間は進歩しないというか。古いと思われるところも、新版で加筆された項目でしっかり補っていて、実に抜け目がない。あらゆる人に読んでほしい良書だ。
本作は、犬の出てくるほのぼのとしただけの話ではない。犬を通して、アメリカ近代史を語ろうという力強い作品だ。ギヴという善良さの塊のような犬がアメリカを旅し、そこで出会った人々を癒し、力づけてくれる。本来どんな人でも持っているはずの気高い部分を、ギヴが引き出してくれるのだ。そして、ギヴ自身も傷つき、それを周りの者が癒していく。与え、与えられるという美しい図式がそこにある。
 300ページほどの文量で、実に壮大な物語が語られる。省略するところはばっさり省略して書かれており、しっかり書くシーンとの対比が見事。読みやすく、腹にどっしりとしたものが残る小説だ。

★本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 その犬の歩みは、アメリカ近代史をたどる旅だ。犬を通してアメリカが語られ、混乱と悲しみに暮れる人々に慰めが与えられる。
 犬の名はギヴ。会話のなくなった夫婦が犬を通じてなら話せるように、ギヴを通じてたくさんの人たちが、大事なものを与え、与えられる関係になっていく。
 最初の飼い主は、ハンガリー移民のアンナ。身寄りのない犬を育てる彼女と静かに暮らしていたギヴは、ミュージシャン志望の兄弟にさらわれ、遠くダラスの地へ運ばれてしまう。首謀者は兄のジェムで、弟のイアンは心優しく、犬が好きな少年だった。イアンは画家志望のルーシーと出会い、恋に落ちる。彼女はギヴに格別の愛情を注いでくれた。ある日イアンは、父親と共に犬を殺した過去を打ち明けたあと、ギヴをさらってきたことに対し、心からの謝罪をする。話を終えたイアンにギヴは身を預け、イアンの心の傷が自分の傷であるかのように喉の奥から声を出して鳴く。イアンの禊ぎはそこで完了する。
 イアンとルーシーは、新しい生活を始めるため、ギヴを連れてニューオーリンズへと向かう。ところがイアンは途中で行方不明となり、失意のルーシーに追い打ちをかけるように、ハリケーン・カトリーナが襲いかかる。
 その後、ルーシーのもとを離れたギヴは、イラク帰還兵のディーンと出会う。彼は9.11で姉を亡くしたあと、失意のまま軍に志願した。イラクでは戦友を亡くし、自分だけが生き残ったことを恥じていた。ディーンはギヴと出会った意味を考えつつ、前の飼い主のルーシーや、亡くなった戦友の生家を訪ね歩く。犬など飼ったことのないディーンだったが、ギヴと行動を共にするうち、その底なしの善良さに強く惹かれるようになる。ミシシッピ川のほとりで話すシーンは印象的だ。絶対の孤独に沈むディーンを、ただその頬を舐めるだけで、ぼくはここにいるよという思いを伝えるだけで、ギヴは救ってくれる。
 そんなギヴもかつて、大事な飼い主を亡くして打ちひしがれ、食事もとれないことがあった。そんな時には、当時のケンカ相手だった猫のブレットがやはりギヴの顔を舐めてくれた。こうして、孤独なもの全てに友がいることをギヴは教え、教えられていくのだ。
 著者はまた、物語の陰に隠れた人々にも確かな人生を与えてくれる。本の朗読が大好きだった妻を亡くして以来、毎日大声で本を読み続ける小間物屋のボブ。弟をイラクに兵隊で取られた音響技師のストーナー。ディーンと共に戦場で戦い、脳に負った傷を抱えて生き続けるヒューズ二等兵。本作において最大の悪≠ニして登場する、イアンの兄ジェムにさえ、著者はスポットを当てている。ジェムは暴力的な父親から、攻撃犬の訓練相手をさせられるような、虐待まがいの育てられ方をした。そんな彼は、ダラスでケネディ暗殺の狙撃者がいた場所を見て、その小ささに驚く。もっと大きくて壮大なものを期待していたのだ。のちに彼は人を殺して服役することになるのだが、そこへ面会に来たディーンに過去の犯罪を告白してしまうところなど、著者はジェムについて執拗に紙幅を費やしている。アメリカを正確に描くには、光だけではなく闇を描く必要があり、ジェムこそがアメリカの闇の象徴なのだ。
 三百ページ足らずの文量の中に、こうした深い精神性と娯楽性とを両立させた著者の手腕には脱帽する。波瀾万丈の展開において、ラストがややあっけないと思われるかもしれないが、これは著者のギヴに対する優しさと捉えたい。著者の善良さが、これ以上ギヴに重い役割を担わせるのに耐えられなかった。つまり、そういう犬がギヴなのだ。
 傷ついたことのない人などいない。だから本作はアメリカだけの話ではなく、犬好きな人のためだけの小説でもない。ギヴは静かな目であらゆる人に寄り添い、勇気と慰めを与えてくれる。そんな、優しくて力強い作品だ。
(20字×80行 新聞書評)
本を読んだり映画を観たり絵画を鑑賞したりしていると、世界史を学ぶ必要性を痛感する。というか、世界史を知っていたらもっと楽しめるのに、と思えて悔しい。というわけで、わかりやすい教科書をと思い、本作を読んでみた。“手にとるようにわかりやすい”かどうかは別として、入門編としては悪くないと思う。なんとなく知っていた史実や名称などが明確になり、読んでいて本当に楽しかった。これを契機に、似たような本を読んで比較をすると共に、さらに知識を深めたいと思う。こういうものは何度も繰り返して少しずつ頭に焼き付けていかないと、すぐに全部覚えられるものではない。そして、そういう過程がまた本当に楽しいのだ。
2017年 8月 「蒼い時/山口百惠」 (集英社・文庫)
昭和の大歌手・山口百恵が引退直後に出した自伝。前々から読んでみたいと思っていて、ようやく手にとった。芸能活動中の体験、その時の思いなどが、かなり踏み込んだところまで書かれている。文中に書かれている通り、本作はゴーストではなく自身で書いたものだと思う。想像していたよりもクールで意志の強い性格だったようだ。それは、引退後、一切マスコミに姿を現していない現状からして窺える。ただ、デビューから引退までをほぼ時系列に辿った前半部に対し、散文的な思いを綴る後半部は、あまり出来がよくない。結局、僕らの中にあるスキャンダルを好む性質に本書がぴったり合ったというだけのことか。
2017年 8月 「ピンポン/パク・ミンギュ」 (白水社・単行本)
セットでいじめられる中学三年生の〈釘〉と〈モアイ〉。いつものように殴られたあと、原っぱで卓球台を見つける。ピンポンを始めてみると、不思議に心が軽くなり、会話も弾む。新しいラケットを買いにでかけた店で、卓球の達人・セクラテンと出会う二人。世界の歴史は卓球の歴史だ、とセクラテンは語り、過去の戦争や大事件を卓球に絡めて説明してくれる。やがて二人の前に巨大なピンポン球が降りてくる。「卓球界」と呼ばれるそのピンポン球の中で、彼らは人類の存亡を賭けた戦いを強いられることになる――。
 いじめられっ子の逆転物語かと思っていたら、話はどんどんとんでもない方向に転がっていく。この著者の創造力はちょっと凄い。突然挿入される小説内小説がまた面白く、突拍子もない話に思えて実は本筋につながっていたりなど、あなどれない。ぶっ飛びすぎて一度読んだだけでは正直、よく内容が掴めなかった。大筋がわかったうえでもう一度読んでみると、しっかり心に突き刺さってくる。いやはや、これはたいした傑作だ。

★本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 僕は十五歳で、〈釘〉と呼ばれてる。際限なく殴られる姿が、遠くから見ると釘を打ってるように見えるから。いじめられるのに理由なんかない。〈弱っちくて、びくびくしてて、目立たなくて、勉強もできない〉やつは大抵そうなる。一緒に殴られるのはモアイ。無口で、顔がモアイに似てるから。僕らはセットで呼び出され、日課のように殴られる。
〈ほんとに釘だったらよかった〉〈釘だったら、一生に一度殴られれば済む〉。
 いじめの首謀者はチスだ。〈存在自体疑わしいぐらいのワル〉で、高校生でも手を出せない。そのくせ、たまに優しい言葉をくれたりするから、僕は泣いて感激しちゃう。恐るべき才能、まさに人心掌握の怪物だ。
 いつものようにチスに殴られたある日、僕は学校裏の原っぱで卓球台を見つける。試しにモアイと二人で打ってみた。ピン、ポン、ピン、ポン。〈その音は異様にさわやかで、僕らは異様に気持ちが軽くなった〉。二人で新しいラケットを買いに行き、卓球用品店の店長・セクラテンと出会う。彼は、自分のラケットを持つのは自分の意見を持つということだと教えてくれる。僕は家に帰り、買ったばかりのラケットで何度も想像上のサーブを決めてみせる。〈これが僕の意見なんだ〉〈意見を持っても、いいですか?〉
 セクラテンに会ったことで僕の人生は動き出す。彼は卓球の歴史について聞かせてくれる。古代から卓球は決闘に使われるほど危険な競技だった。インカでは重さ4キロの球が使われたり、第二次大戦ではドイツと連合国が艦砲で卓球をしたり。そもそも卓球とは戦争の語源であり、言い換えれば歴史とは〈戦争に見せかけた卓球秘史〉なのだと。
 卓球のラリー中は会話も弾む。意外に博識のモアイは、アメリカで撒かれた殺虫剤が、生物濃縮と食物連鎖で極地のエスキモーまで到達する話をしてくれる。〈誰もが誰かの原因だし、誰かの結果なんだ〉。モアイの言葉は箴言のように心に響く。チスの手下に要求された一○○万ウォンをぽん、と用立ててくれた時もそう。戸惑いつつも内心喜んでいる僕に、〈結局、人間を待ってるのは買収だよ〉と呟くモアイ。こうした言葉が、僕の心を小さく動かしていく。
 モアイに誘われ、僕は「ハレー彗星を待ち望む人々の会」の会合に参加する。二年間電車に乗り続ける人、ゴムバンドで縛った冷たい手でマスターベーションをする人など、なぜ生きているのかわからない人ばかりだ。九ボルトの電池を舐め続ける男は、会の連中をバカにして言う。みんな世間が間違ってると思ってるがそうじゃない。文明や文化、医療など複雑で便利な世の中を作ったのは人類だ。その恩恵にどっぷり浸かりながら、ちょっとコケたからって甘えるな。ハレー彗星が何もかもご破算にしてくれるなんて思うな。電池の男はそう言い残し、感電して死ぬ。
 チスから優しくされた直後に痔の治療の座薬を飲まされたり、チスが消えてほっとしていたら今度は手下の奴に殴られたり、僕らは相変わらずの毎日だ。〈僕らって何?〉〈こんなにしんどいのに、生きていなくちゃいけないのは何でだ?〉。うんざりする僕にセクラテンは、〈世界はいつもジュースポイントなんだ〉と語る。良いことと悪いことはせめぎあい、まだ勝負はついていないのだと。そこへ空からハレー彗星ならぬ巨大なピンポン球「卓球界」が降りてくる。この中で試合をし、勝ったほうが人類を存続させるか否かを決めるのだ。唐突にそんなことを言われても知らないが、僕らに断る権利はない。やがて登場する意外な相手とは誰か、そして僕らは人類を救うことができるのか――。
 こうして、いじめられっ子の自分探しに始まった物語は、読者の想像を遙かに凌いで広がっていく。この壮大な世界に仰天し、戸惑い、なおかつ納得して感動までしてくれたら、登場人物としてこれ以上の喜びはない。
(20字×80行 卓球王国)
2017年 8月 「哲学的な何か、あと科学とか/飲茶」 (二見書房・文庫)
Webで連載されていた頃から面白く読んでいた。内容はほぼWebの記事と同じようだ。哲学や科学を、誰にでもわかるような表現で説明してくれる。だから、哲学や科学になんとなく興味はあるけれど、本格的な本は敷居が高くて、という人にはもってこいだ。特に、量子力学や人間の意志についての項目は素晴らしい。数学は不完全なことを数学的に証明した「不完全性定理」、脳を左脳と右脳に分けるとどうなるかなど、知的好奇心を存分にくすぐってくれる好著。誰にでもお勧めできる一冊。
2017年 8月 「茄子の輝き/滝口悠生」 (新潮社・単行本)
芥川賞作家、滝口悠生氏、初読。非常に気に入った。一言で表せば、「会社小説」というところか。小さな出版社に勤める主人公の男性・市瀬の、会社での些細なできごとが綴られる。お茶くみ当番を決めるだけなのにいろんな意見が出て収集がつかなくなったりなど、あるある話が実にリアルに面白く描かれている。
 市瀬は離婚経験者であり、なぜ妻と別れてしまったのかと悩み続けている。何気ない日常描写の中に彼のそうした思いがにじみ出てくるのも読みどころで、じわりとした面白みを感じる。かと思えば、会社のマドンナ的立場の千絵ちゃんのことをいたく気に入り、何かとアプローチしている。それは恋愛感情ではなく、ただのファン的な感情だ。こうした微妙な心理に分け入り、注意深く書かれているから、事件などはほとんど起こらないのに読ませる。見事な小説だと思う。
2017年 7月 「星の子/今村夏子」 (朝日新聞出版・単行本)
芥川賞候補になり、鉄板と言われながら取れなかった作品。これまで『こちらあみ子』『あひる』と話題作を放ってきた今村夏子が初めて書いた“長い”小説。(とはいっても中編程度だが。)
 小さい頃から病弱で湿疹がひどかったちひろは、とある宗教団体の販売する水により完治する。感激した両親はこの団体の活動にのめりこんでいく。ちひろも小さい頃からこの水を飲み、団体の施設に普通に出入りする生活を送り、何も不思議に思っていなかった。それでも中学に上がる頃には周囲のまなざしに気づき始める。うちの家族は普通じゃないのだろうか。大小の事件を経てちひろの自我は目覚めていく――。
 新興宗教なんていうと、即アウト、という風潮が今の世の中にはある。果たしてどうなんだろう。既存の宗教や習慣にのみ従い、他の人ととにかく同じであろうとするのが本当に正しいのだろうか。そんなことを考えさせてくれる小説だ。ちひろはどっぷり宗教に浸りながらさほど不幸な様子もない。もちろん、この先どうなるかはわからない。最後は両親と三人、宗教団体の施設で星空を見上げるシーンで終わる。これをハッピーエンドととるかバッドエンドととるか。僕は割合ハッピーにとらえている。この先、ちひろは自分の力で自分の道を切り開いていくだろうと思っている。
 『あひる』よりもわかりやすくなった分、文壇での評価は前作のほうが高いようだが、一般の人にはとっつきやすくて今村夏子初体験として最適の一冊だと思う。

★本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 もしもし? やっと繋がったわねあんた、なんでいっつも携帯出ないわけ? 夜は7時までに帰るようにってあれ、覚えてる? 変な友達と付き合ってない? お母さんよく知ってるけど大学なんておかしな人いっぱいいるんだからね。僕達と一緒に素敵なキャンパスライフを送りませんか、なんて廊下で呼び止めてはろくでもない宗教に引きずり込んだりするから、隙を見せちゃ絶対だめ。今日も今村夏子さんの新作読んでたら、急にあんたのこと心配になっちゃってね。だって、正にその宗教が題材の話だからさ。
 主人公の林ちひろは小さい頃から病弱でね。湿疹がひどくて、ご両親は家と病院を駆け回る毎日だったの。それがある日、『金星のめぐみ』っていうお水を塗ってみたら、きれいに治っちゃうのよ。このお水をくれた落合さんって人が、裕福で穏やかな紳士なんだけど、どうにも怪しくってさ。お水に浸したタオルを頭に乗せてるとリンパが活性化されます、子どもを授かった人もいます、なんて話を並べるの。ほんとかよって思うでしょ。だけど娘の病気を治してくれた救世主だから、両親はころっとそれに乗っかっちゃうの。挙げ句、落合さんが主宰する〈教会〉に入信してのめり込んでいくのよ。ちひろも両親の勧めに従って『金星のめぐみ』を飲んだり〈教会〉の行事に出たり、小さい頃からそれが当たり前で育てられて何の疑問も持たなかったのね。とはいえ変な宗教にはまってるなんて噂、すぐに広まっちゃうでしょ。ちひろも小学中学と成長するにつれ、周囲からのまなざしに少しずつ気づいていくの。でもそれが即いじめや不登校につながらないのが子供特有の柔軟さというのか、小学四年生の時に転校してきたなべちゃんって子がいてね。ちひろのことを、「この子あやしい宗教に入ってるよ」って知人に紹介したり、〈教会〉に来る人はみんな騙されてるんだって言ってみたり、妙に意地悪なところがあるのよ。それでも彼女は、ちひろを他の子達と等しく友達として扱ってくれる。和して同ぜず、っていうのかな。こういう子がいたから、ちひろも伸び伸びとやっていけたんだね。でも、やがてその平和が大きく揺るがされる時が来るの。大人の介入よ。それも、思いもよらないところから、固定観念に凝り固まった頭でがつんときつい一撃を喰らわすの。ここで一気にこの小説のテーマが浮かび上がるのね。要は、今まで信じてきた世界が否定された時、人はどう生きるのかってこと。例えばちひろの姉・まさみは、はなから〈教会〉なんて信じてなくて、早々に家を出て行く。〈教会〉に身を捧げてる両親は、いつも揃いの緑のジャージを着て、多少貧乏にはなったけど幸せそうだ。ちひろ自身はどんな選択をするんだろう。あんたはどう? 宗教とかそういうの信じるほう、それともなべちゃんみたいにぜんぶ嘘っぱちだって笑っちゃう? お母さんはどうかな、もしあんたのどうしても治らない病気がそのお水で治ったら、やっぱり信じちゃうかな。〈教会〉にも入っちゃうかな。でもね、例え宗教にどっぷり浸かったとしても、それで一貫の終わりなんてこと全然ないのよ。だって実際にちひろはそのお水で治ったんだし、これまでも普通に暮らしてきたんだからさ。はたからどう見られようと、いいのよそんなこと。だいたい世間なんて、ちょっと普通と違う行動してる人見つけたら、ここぞとばかりに一斉攻撃するでしょ。でもそんなこと言ってたら、みんな同じ服着て同じこと考えて同じ政党に票を入れることになっちゃうよ。そんなのつまんないし危険だし、成長にもつながっていかないよ。だからあんたも人の目とか人の言うこととか気にしちゃだめ。いろんな友達と付き合って、多少怪しく思えても好奇心を持って突き進んでいくくらいの気概を持ちなさいよ。
 え、何? 最初と言うこと違ってる?
 そう?
(20字×80行 蛍雪時代)
直木賞作家の東山彰良氏、初読。これは面白い! 最近読んだエンタテイメント小説の中ではピカイチだ。ただ、中国や台湾を舞台にした小説に慣れない人は、名前や地名でまずつまずくだろう。僕が正にそうで、最初、見たこともない漢字名に、漢字から予想もできないカタカナのフリガナがついているのが難儀でならなかった。一回目に出てくるときはそうしてフリガナが振ってあるが、二回目以降はフリガナがないので、読み方を覚えられず何度も行ったり来たりしてしまう。ただ、主要人物はほぼカタカナのみで表記されているし、漢字表記の場合は自分で適当に読み替えても問題はないのがわかり、途中からは気にならずに読み進めることができた。
 アメリカ、デトロイトで起こった連続少年殺人事件。捕まった犯人はサックマンと呼ばれる台湾人で、彼を弁護するのもまた台湾人だった。二人は遠い昔、台湾で共に遊ぶ仲間同士だったのだ。どうしてサックマンは殺人犯となったのか、手掛かりは台湾での生活にあった。小説は過去の台湾と現在のデトロイトを行き来しつつ、サックマン誕生の謎に迫っていく――。
 とにかく、台湾パートの少年たちがみずみずしく、痛々しい。悪ガキ三人が集まって悪いことばかりを繰り返すが、その裏にはどうにもならない生活苦や家庭事情が潜んでいる。次第に彼らが取り返しのつかない事態へと進んでいく様を見るのは、いたたまれない。途中、大きなサプライズがあるが、それが単なるミステリ的なトリックに留まらず、このドラマをさらに深く重くするために作用しているのが素晴らしい。読み応えのあるミステリを所望する人には、自信を持ってオススメできる一冊。

★本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 一九八四年の台北。ダンスが好きな四人の少年達は、遠く離れたアメリカ・デトロイトに思いを馳せていた。
 ジェイは腕っぷしが強く、喧嘩では異次元の強さを見せる。実の父が家族を捨てて蒸発し、継父からは毎日のように竹笛の簫(しょう)で殴られていた。ダンスの腕前はそこそこで、時に複雑なステップを披露する。
 アガンは、不仲な両親の営む牛肉麺屋で、汗臭く息苦しい毎日を送っていた。太った体でムーンウォークを決めてみせる。
 ダーダーはアガンの弟で、いちばんダンスがうまい。ウィンドミルから逆立ちに移り、そのままバク転をしてポーズを決められる。
 ユンは六つ上の兄を暴漢に殺され、母はそのせいで精神に異常をきたした。治療のため両親は別の場所に移り、残された彼はアガンの家に世話になっている。ダンスはさほど上手ではなく、カクカクしたロボットダンスをどうにか、という程度。
 練習が一段落すると、ジャクソン5やスプリームス、テンプテーションズのレコードを聞く。黒人音楽が彼らのお気に入りだった。
〈いい曲だね〉〈モータウン・サウンドというらしい〉〈モータウン?〉〈アメリカのデトロイトのことをそう呼ぶんだ〉〈モータータウンを縮めてモータウンってわけさ〉〈ターしか縮まってないじゃん〉〈デトロイトか〉〈きっとすげえところなんだろうな〉
 時は下って二○一五年。そのデトロイトで連続殺人犯が捕まる。七人の哀れな子供達を殺し、死体を粗布の袋に入れていたことから、サックマン(袋男)と呼ばれていた。サックマンと台湾の少年達とはどう繋がるのか――。
 当時、共に十三歳だったジェイとユン、アガンは、連れ立って悪さばかりしていた。
〈あのときの、体中の細胞がひとつ残らず発火したような感覚を、ぼくはいまでも思い出すことができる〉――これは、三人でバスケットシューズを盗み出した時のユンの独白だ。盗み自体にさほどの意味はない。家庭に問題を抱え、不満と憎しみを胸に宿す彼らには、発散できる場が必要だっただけだ。
 それでもダンスの練習を始めてからは、状況が好転したように思えた。
〈踊っているかぎり、ぼくは何度でも生きかえることができる〉〈無駄なことに埋没できるのは、この上なく幸せなことだった〉。
 ところが、アガンとダーダーが街を離れることになり、ダンスの練習からも遠ざかっていく。アガン達の両親が離婚し、二人は母親と共に新しい街に移り住むことになったのだ。引越先でアガンは継父の意のままにされる状況を苦々しく思い、飼い慣らされて小奇麗になっていくダーダーに苛立ちを募らせる。
 同じ頃、ユンの元に戻ってきた母親は、執拗に彼に干渉するようになる。帰宅が遅くなると路地で待ち構え、アガンと遊ぶのを禁じ、果てはこの街から出ていきたいとヒステリックにわめき散らす。〈自分の部屋にいるんだか、牢屋に入っているんだかわからなく〉なり、ほどなく彼はアガンの家で過ごした頃を懐かしく思い出すようになる。
 状況が彼らの手にはどうしようもないほど歪んでいった頃、ジェイが入院した。いつもよりさらにひどく継父に殴られたのだ。このときユンの頭に、一つの計画が浮かんだ。
〈いまふりかえると、それはすべての失敗と、すべての後悔が生まれ落ちた輝かしい瞬間だった。とどのつまりぼくたちは十三歳で、ブレイクダンスや万引きの延長線上に、殺人もあった〉。
 こうして一九八四年、ダンスミュージックに始まった台湾とデトロイトとの架け橋は、悲しい連鎖で二○一五年へと引き継がれていく。かつて彼らの憧れたモータウンは廃墟の街と化した。そこには誰が立ち、何を思うのか。全てが明らかになった時、どうしようもないやるせなさと共に、自らの内に沸き上がる不思議な感情を味わうことになるだろう。
(20字×80行 新聞書評欄)
2017年 7月 「春の庭/柴崎友香」 (文藝春秋・単行本)
芥川賞作家の柴崎さん、初読。アパート「ビューパレス サエキV」に住む太郎と他の住人達との交流が描かれる一作。とはいっても単にほのぼのとしたコメディではない。
 タイトルの『春の庭』とは、過去に出版された写真集の名である。写真集には、とある一軒家の中や庭先で撮られた写真が収められていた。あるとき太郎は、アパートの住人の一人が隣に建つ洋館に忍び込もうとするのを目撃する。実はその洋館が『春の庭』の撮影された屋敷だったのだ。やがて、空き家だった洋館に家族が引っ越してきて、太郎や住人は彼らの様子をうかがうようになる。
 どこか変わっているように思えて、理由を探っていくとそう不思議でもない、そしてどこか愛嬌がある住人たち。オフビートな日常系というか、面白い小説だと思えるのだけれど、僕は最後まで乗り切れなかった感じ。ただ、著者の別の作品も読んでみたいとは思った。
2017年 6月 「最愛の子ども/松浦 理英子」 (文藝春秋・単行本)
なかなかに厄介な小説だ。舞台は私立高校の2年生クラス。女生徒の間で、愛玩し愛でる存在の三人がいる。パパ役の日夏(ひなつ)、ママ役の真汐(ましお)、子ども役の空穂(うつほ)。彼女らは〈ファミリー〉と呼ばれ、通常の友情関係を越えた絆で結ばれている。かといってレズビアンではない。友情でも恋愛でもない、彼女ら独自の関係性を探っている。……と書くと、何やら甘く切ない学園青春ものに思われそうだが、そんな単純な小説ではない。キモは語りの人称で、〈わたしたち〉という一人称複数形が用いられているところ。しかも、その記述には大いに嘘や願望が混じっていることが明示されているのだ。だから、〈ファミリー〉の三人の行動や思いは、まるで嘘っぱちの可能性がある。これをどう扱ってよいのか、非常に迷ってしまう。新しい関係性を探る、というようなテーマを強く訴えたいのに、手法がそれに合致していないように思えるのだ。
 物語の発端は、真汐の作文に始まる。世間が作る、型にはまった女子高校生像に強い意義を唱える内容だ。私たちを勝手に規定しないでよ、と主張しているのだが、〈わたしたち〉が描く〈ファミリー〉像だって勝手に規定した虚像に過ぎない。僕はそう受け取ったのだが、どうだろうか。

★本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 玉藻学園高等部二年四組には、〈ファミリー〉と呼ばれる三人の女生徒、真汐(ましお)、日夏(ひなつ)、空穂(うつほ)がいる。真汐は直情的で不器用な性格のため、周囲との軋轢を引き起こす。中等部時代、留学生との交歓会を勝手に抜け出そうとした真汐を、教師の叱責から救ったのが日夏だった。日夏はその場で真汐の顔を叩いて列に戻し、異様な迫力でその場を収める。いっぽう、控えめで目立たない存在だった空穂は、あるときカラオケで驚くべき美声を披露し、注目を浴びる。幼少時より空穂は、母親から虐待まがいの仕打ちを受けてきた。彼女には厳しい現実をユーモラスに伝える資質があり、そこに惹かれた日夏と真汐は、次第に空穂との仲を深めていく。
 クラスの他の女生徒たちはこの〈ファミリー〉を《みんなで鑑賞し愛でるアイドル》と位置づけ、その動向を観察している。〈ファミリー〉は数々のエピソードを重ねながら、通常の友情を超えた絆で結ばれていく。とはいえ、その関係は決してレズビアンではない。例えば日夏は、空穂を愛撫する時の愛おしい気持ちを《小動物を抱いている心地》と表現する。これは正に、小動物を撫でたり頬ずりをして可愛がる人が、そのペットとセックスをしたいわけではないことに通じる。彼女らの心情はもっと繊細かつ複雑で、親密さを深めた先に性愛はない。存分に心情の枝を伸ばし、彼女らなりに新しい関係性を築こうとしているだけだ。しかし、何事も型にはめてしか考えられない大人たちにより、〈ファミリー〉は痛手を被ることとなる。そこには「疑似家族vs本物の家族」という対立がある。決して円満とは言えない家庭に育った三人が、新しい関係性の中で気持ちを満たそうとする行為は、痛々しくも胸を打つ。
 ……と、ここまでが本作の表面上の紹介だ。けれどこの小説は、単なる甘く切ない青春物語では終わらない。読み始めてすぐに感じる居心地の悪さを大事にしてほしい。本作は〈わたしたち〉という曖昧な主語で全編が貫かれている。実体は三人を取り囲む他の女生徒たちだが、具体的に誰なのかは開示されない。さらにあろうことか、〈わたしたち〉が語る言葉には多分に嘘や想像が混じっていることが堂々と表明されている。〈わたしたち〉の希望や都合により、物語は勝手に書き換えられていくのだ。結局〈ファミリー〉の三人は、いいように操られるゲームの駒に過ぎない。
 だから主役は〈ファミリー〉ではない。〈わたしたち〉なのだ。
 彼女らは、世間が自分達を主に性的な好奇の目で見ていることに嫌悪感を抱いている。勝手にわたしたちを規定しないでよ、わたしたちは好きなように生きるのよ。こうした思いを抱く女生徒たちが、〈ファミリー〉を巡る物語を虚実交えながら作り上げた。ここで興味深いのは、当初は「世間が勝手に作り上げた女子高校生像」に反発して始まった物語なのに、それが「〈わたしたち〉が勝手に作り上げた〈ファミリー〉像」として縮小再生産されていることだ。それでもいい、と〈わたしたち〉は言うだろう。〈わたしたち〉は《小さな世界に閉じ込められて粘つく培養液で絡め合わされたまだ何ものでもない生きものの集合体を語るために「わたしたち」という主語を選んでいる》。〈ファミリー〉像に虚構はあっても、集合体としての〈わたしたち〉の思いが、確かにそこに立ち現れているのだ。それは、小説など所詮は虚構だという事実に対する著者の挑戦とも受け取れる。虚構を明示し、それでも虚構によってしか伝えられない世界もあるのだと。
 このように本作は様々な包含関係や対立構造を含み、様々な階層で楽しめる作りになっている。しかも何よりすごいのは、それが楽しく簡単に読める小説になっていることだ。ぜひ、この底の知れなさを味わってほしい。
(20字×80行 新聞書評)
2017年 6月 「人間の大地/サン・テグジュペリ」 (光文社・文庫)
これで4〜5回目の再読となる。今回、この本を課題図書にした読書会に参加するため、手に取った。何度読んでも初めて読むように(僕が忘れっぽいのもあるけれど)、新鮮な驚きに満ちている。今回は、南米かどこかで二人の少女が住む不思議な家に招かれたエピソードなど、細かい部分に興味を惹かれた。読書会では、難解だったという声もいくつか聞かれたが、おおむね好評だった。難解だという意見は、とくに後半の哲学的な記述になるところで、ずっと読み続けてきた僕にはこの部分こそがいちばん好きなところだ。珠玉の言葉にあふれており、一文一文が心に沁みていく心地がする。これからもずっと愛読していく一冊になると思う。
2017年 6月 「鳥/ダフネ・デュ・モーリア」 (東京創元社・文庫)
ヒッチコックの映画『鳥』『レベッカ』『巌窟の野獣』の原作で知られるデュ・モーリア。そんな彼女の傑作短編を集めたのが本作。表題作の「鳥」をはじめ八編が収められており、いずれ劣らぬ名作ばかりだ。僕はヒッチコックの映画は全般にあまりその良さが理解できず、『鳥』もさほどの映画とも思えない。ところがこの原作のほうは本当に薄気味悪くて終末感が漂っており、じわじわとした恐怖を楽しむことができる。山上に建つ不思議な僧院に魅せられた女性が夫とも世間とも離れて暮らすことになる中編「モンテ・ヴェリタ」は、非常にスケールの大きな幻想譚だ。切れ味鋭い私立探偵ものの「動機」、妻を亡くして喜ぶ老人に訪れる悲劇を描いた「林檎の木」など、ジャンルも多彩でそれぞれに違う楽しみを味わわせてくれる。実によく出来た短編集。もっと売れていい作家だと思う。
以前にラジオで紹介されていて、ずっと読みたいと思っていた。映画評論家であり小説家でもある著者デビッド・ギルモアによるノンフィクション。しかも題材は自分と息子の関係だ。
 著者は不登校になった息子に対し、学校に行かなくていいから、一緒に映画を見ることを義務づける。映画を通して人生を学ばせようという魂胆だったが、なかなか思うように息子は理解してくれない。そのうち父親自身も職を失って不安定になり、息子は息子でうまくいかない恋愛に思い悩むようになる。
 親子関係を通して、延々と映画紹介がされる内容かと思ったら、少し違った。映画紹介はあるにはあるのだが、それよりも彼ら二人の関係性の変化、二人にまつわる人生の様々な出来事にかなりの文量が割かれている。そして、カナダと日本との少年にまつわる事情の違いにも驚く。十六歳で煙草も酒も許されており、彼女とのセックスを話題にしたりもする。ドラッグが簡単に手に入る環境にあるから、日本よりも危険な状況に陥りやすい、とは言えるだろう。
 そしてやはりどこの国でも同じなのが、ついつい息子には過干渉になりがちというところ。単純に映画を見せて自らの感想を持たせればよいものを、「この映画ではここが重要だ」「こういうことを学んでほしい」などと講釈をたれるものだから反発されてしまう。息子が一人で学び成長すべきところに、いちいち口をはさみ、嫌がられるのだ。そのくせ、分不相応なレストランに息子を連れていったりする甘やかしぶり。著者はそうしたことに自覚的ではあるものの、やめられない。そういう著者自身、奔放な女性遍歴を重ね、酒や煙草に溺れ、自堕落な生活を送ったりしているものだから、読んでいるほうは、「そりゃ息子もこうなるわな」と思ってしまう。
 それでもこの本は、映画に対する愛情と、息子に対する愛情にあふれている。駄目な父親と駄目な息子、なのに最終的に行き着く先にはほんわりとした幸せが待っている。そう、これは幸せな物語だというべきだろう。
ピカソの絵をちゃんと理解できている人は少ない。世間的な評価は高いけれど、正直どこがいいのかさっぱりわからないという人が大半だと思う。そこで、「本当にピカソの絵は上手いのか」というところに焦点を絞って書かれたのが本作。とはいえ、ピカソを巡る周辺をけっこう普通の美術書のようにたどり、結論もまあ穏やかなところに着地しているので、期待した内容ではなかった。ピカソの絵はやっぱり驚異的に上手い、と著者は書いているのだが、僕ら一般鑑賞者の思う、「なぜ」「どこが」そんなに上手いのか、というところに本書は答えてくれないのだ。
2017年 5月 「その雪と血を/ジョー・ネスボ」 (早川書房・新書)
北欧発のミステリー。ノルウェーのオスロを舞台に、ちょっと冴えない殺し屋のオーラヴの物語が繰り広げられる。殺し屋の一人称で語られるハードボイルドで、普通は格好いい感じになりそうだが、このオーラヴは殺し以外に能がないボンクラだ。その割に人情に厚かったりするので、いろいろうまくいかないことばかり。だから、冷徹な殺し屋なのになんだか親近感が沸いてくる。小説の作りとしては、ストーリー展開に彼の過去の回想や心情がうまく組み込まれており、170ページほどの短い小説なのに、たっぷりとした読後感が得られる。
 ……と、いいところばかり書いたが、僕としてはあまり好きになれない作品だった。なぜだろう。僕にはもう、こうしたミステリー系の小説は必要ではなく、もっと純文学よりの作品を求めているという感じがする。

★本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 翻訳界の重鎮・柴田元幸氏が、ラジオでこんなことを話されていた。
 翻訳とは通常、直訳でよければ直訳で済ませ、余計な手はくわえないことが大原則。けれど、ここぞと思ったところで工夫を凝らすのが効果的な場合もある。もちろんやりすぎは駄目だけれど。
 今回ご紹介する小説にも、こうした翻訳上の工夫が見られる。ずばり、そのタイトルだ。原題は「BLOOD ON SNOW」だから、直訳すれば「雪の上の血」となる。これを訳者の鈴木恵氏は「その雪と血≠」という具合に並列にした。これが物語の雰囲気をうまく言い表している。本作では、並び立つ二者が重要な鍵になるからだ。
 雪と血。まさにその二つから物語は始まる。
 舞台は一九七七年、ノルウェーの首都オスロ。クリスマスを控えた街では、マイナス二十度の寒さが続いている。〈乾いた雪は壁ぎわに吹きつけられ、おれがいま胸と首を撃ったばかりの男の靴のまわりに舞いおりた〉
 主人公は、殺し屋のオーラヴ・ヨハンセン。《漁師》の手下を殺したばかりで、流れる血が足下の雪にしたたり落ちている。《漁師》とは、オスロの闇社会を牛耳る大物の一人。オーラヴは、《漁師》の商売敵であるホフマンから殺しを依頼された。ヘロイン市場で覇権を争うこの二者の諍いに、冴えない殺し屋のオーラヴは巻き込まれていく。いや、「冴えない殺し屋」は言い過ぎだった。殺し屋としての彼は一流だ。その腕を買われてホフマンに雇われたのだから。問題は彼が、殺し以外の犯罪におよそ向いていないところだ。
 〈おれにはできないことが四つある〉。
 過去の失敗談を踏まえて語る言葉を聞けば、彼のボンクラぶりがよくわかる。一つ目は逃走車の運転。スピードは出せるが、目立たずに運転することができずに捕まってしまう。二つ目は強盗。郵便局を襲った際、居合わせた老人がショックで入院したと聞くや、罪悪感にかられて見舞いに行ってしまう。三つ目はドラッグ関係。自分がドラッグに溺れそうになるからだ。四つ目は女がらみの仕事。すぐに女に惚れてしまい、商売を商売として見られなくなる。冒頭のこうした記述が、オーラヴの人となりを紹介しながら、今後の展開への布石ともなっている。巧みな導入だ。
 オーラヴはホフマンから新たな殺人の指令を受ける。相手はホフマン自身の妻コリナだった。不貞を働く妻を殺してくれ。仕事は簡単だし、報酬はいつもの五倍払うから、と。
 〈いい話というやつは、ありえないほどいい話だと、悪い話になることもある〉
 不穏な気配を感じつつ、ホフマンの自宅前に宿をとる。姿を現したコリナを見て彼は衝撃を受ける。〈どこもかしこも美しかった。頬骨の高い顔も、ブリジット・バルドー風の唇も、くしゃくしゃになったつややかなブロンドの髪も〉。つまり速攻で恋に落ちたのだ。オーラヴの運命は、彼女によってねじ曲げられていく。ところが彼にはもう一人、心を寄せる女性がいた。マリアという名の聾唖者で、かつて売春を強要されていたところを救い出し、その後も勤務先を訪ねては近況を確認している。コリナとマリア。オーラヴは、女についても二者を並列させてしまう。
 その後も、現在のできごとに過去の回想や心理が絡み合い、読者はストーリーを追いながら自然とオーラヴに感情移入していく。出来の悪い子ほどかわいい、と言われる通り、殺人しか能のないオーラヴが愛おしく思えてくるだろう。とりわけ、両親にまつわるエピソードは印象的だ。恐怖と暴力で支配しようとする父親。常に虐げられ、それでも他人に尽くすことしか知らない母親。人間にとって根源的なこの二者との関係により、オーラヴの性質は決定づけられたのだ。
 その雪と血を。
 主人公の出来は悪いが、小説の出来は最高だ。
(20字×80行 新聞書評)
2017年 4月 「女のいない男たち/村上春樹」 (文藝春秋・単行本)
3年ぶりくらいの再読。読後感は前回と同じで、村上春樹初心者にはもってこいの一作だと思う。「まえがき」を除く全6本の短編のうち、最初の2編は本当に癖がなく、すいすい読める。コアなファンには物足りないと思われるほどだろう。その後、「独立器官」「シェエラザード」でやや淫猥な幻想風味が加わり、メインとも言える「木野」に続く。村上春樹の最新の長編『騎士団長殺し』は、この「木野」を無駄に長くしたものらしい。それくらい、「木野」は村上春樹のエッセンスが凝縮されていて、すごくいい短編に仕上がっている。女のいない男たちは、どこでどう間違ったのか。「木野」ではそれが明確に示され、主人公の男性に希望の扉を開いてくれるのだ。

★本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 村上春樹の新作が話題になるたび思うんです。本当にそこまで人気があるのかって。だって私の周囲にいるのは全くのアンチか、とりあえず買ったけどまだ読んでないって人ばかり。以前、彼の小説を扱った読書会に参加したことがあって、そこでも聞いてみたんです。みなさん、村上春樹のことはお好きですかって。そしたら十人ほどの参加者のうち、明確にイエスと答えた人は一人もいなかったんですよ。やっぱり! 実は私もそうなんです。初体験の春樹作品は『羊をめぐる冒険』で、これが連作三本目と知らずに手にした私も悪いのだけれど、物語の筋がどうというより、登場人物の態度がどうにも鼻持ちならなくって。例えば主人公と食事をする耳モデルの女性が言うセリフ。〈私は初対面の人に会うと、十分間しゃべってもらうことにするの。そして相手のしゃべった内容とは正反対の観点から相手を捉えることにしているの〉。もう、なんたる傲慢! 私だったら目の前の皿を粉々に叩き割って、席を立っちゃいます。
 そんなわけで二度と読むことはない作家と思っていたのですが、ふとしたきっかけで『蛍・納屋を焼く・その他の短編』を読んでみたところ、驚きました。楽しめたのです! もしかして短編ならいけるのかもと、『中国行きのスロウ・ボート』にも手を出してみました。はたしてこちらも当たりでした。癖のある春樹節も、短い作品なら気にならないというか耐えられるというか、存分にその味わいを楽しめることがわかりました。だから村上春樹を読むならまずは短編、なかでも今回ご紹介する『女のいない男たち』こそ、初心者にはうってつけの一冊です。
 冒頭の二篇は本当に癖のない作品ですので、楽に読み進めていけるでしょう。続く「独立器官」は、何事にも過度な情熱を持たず気楽に生きる医師がモテまくる話。いよいよ春樹節炸裂かと思いきや、そんな彼がただ一度真剣な恋に落ち、ぶざまに身を滅ぼしていく展開には、自然とひきこまれていきます。「シェエラザード」では、奇妙な〈ハウス〉で暮らす羽原の元に訪ねてくる中年女性が、女子校生時代のエピソードを語ります。当時好きだった男子生徒の家に忍び込んでは鉛筆やシャツを盗み、代わりに自分の髪の毛やタンポンを置いて帰るという、淫猥かつ幻想風味にあふれた一編です。
 そして、収録全作品に通じるテーマが語られるのが「木野」。同僚と妻との不倫現場を目撃した木野は、会社を辞め、小さなバーを開きます。やがて店には不吉な現象が起こりはじめ、木野は謎の力を持つ神田という男から遠くへ旅立つよう指示されます。旅先のホテルで彼は、自分が傷つくべき時にちゃんと傷つかなかったこと、それが自分の人生に暗い影を落としていることに気付きます。短いながら、心をえぐりとるように迫ってくる一編です。最後に短く収録された表題作ではいよいよ春樹節が全開になりますが、ここまで読んだ読者には心地よくさえ感じることでしょうし、この癖がやみつきになった人は長編に挑戦してみるのがよいかと思います。
 ということで本作は、村上春樹入門編の役割を十全に果たしてくれる一冊です。同時に、コアなファンには随所に仕組まれた謎解きを楽しめる作りにもなっています。例えば「独立器官」では、お気楽モテモテ医師のたどる顛末を彼の秘書が語りますが、この秘書の話が全て嘘だと解釈すれば、医師の運命もまるで違ってきます。「シェエラザード」に出てくる男子生徒が実は隣で話を聞いている羽原だったとしたら、奇妙な二人の関係や〈ハウス〉の謎も解けますし、「木野」の神田が実は単なる泥棒だとしたら全ての辻褄が合う、など、未読の方がここだけ聞いてもわからないと思いますので、気になる方はどうぞ読んでみて下さい。前述の読書会では正に本作が課題図書だったのですが、こうした謎解き合戦で大いに盛り上がったものでした。
(20字×80行 婦人雑誌)
2017年 3月 「バルタザールの遍歴/佐藤亜紀」 (文春文庫・単行本)
ずっと読みたい読みたいと思っていた佐藤亜紀作品に、ようやく手を出した。これがデビュー作、にして既に作家として完成しているというか大成しているというか。
 主人公の属するヴィスコフスキー家の男子は代々、東方三博士の名(カスパール、メルヒオール、バルタザール)のいずれかを名乗るしきたりだった。冒頭からは重厚な海外リアリズム小説を思わせるけれど、主人公が双子であり、しかも一つの体に二つの霊魂が宿っている、という設定が明かされることで一気に幻想小説の色合いを帯びてくる。洗練された語り口、まったく先が読めない展開。小説の魅力が様々に詰まった作品だ。中盤でややもたつく感じがあるものの、ナチス親衛隊のエックハルトとの対決が始まる後半からふたたび勢いは増し、一気に読ませてくれる。それにしても、本書を正しく理解するには、こちらも相当の知識を要求される。素養のある人ほど楽しめる作りになっているようで、僕の点数はそのまま僕の素養のなさを示している。
2017年 3月 「沈黙/遠藤周作」 (新潮社・文庫)
書評講座の課題本となったため、二十年ぶりくらいで再読。やはり、遠藤周作の小説の中ではトップクラスの面白さだ。純文学ではあるけれど、エンタメ要素もたっぷり詰まっているので、読みやすい。そして、著者が生涯に渡って問い続けたキリスト教への思いが詰まってもいる。テーマはあまり現代的ではないかもしれないが、映画も公開されたこの時期に読むことには意味があると思う。

★本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 遠藤周作は文壇の番場蛮(ばんば・ばん)である。番場蛮とは、一九七○年代にアニメ化された野球漫画『侍ジャイアンツ』の主人公だ。巨大なクジラに父親を殺された番場は、球界一の名声と実力を誇る大球団、いわゆるでっかい奴≠フジャイアンツが大嫌いだった。ところが母親から、「そんなに嫌いだったら、いっそジャイアンツの中に入って、中からその腹を食い破ったらいいじゃない」と説得され、入団を決意する。破天荒な行動を繰り返す番場は周りとの衝突を繰り返すが、やがて次々と魔球を生み出し、ジャイアンツを日本一へと導いていく。
 一方の遠藤周作は、キリスト教徒ではあったが、望んで入信したわけではなかった。幼い頃に両親が離婚し、失意の中でキリスト教に救いを求めた母親から、無理矢理に洗礼を受けさせられたのだ。常に強い信仰心を持ち、それを維持できる者だけが救われるという強者の論理に、遠藤はどうしても馴染めなかった。だったらこの思いを小説にしてみよう。遠藤は、キリスト教徒でありながら、キリスト教への疑問をストレートにぶつける作品を書き始める。それは正に、キリスト教の中にいながら、キリスト教の腹を食い破るような行為だった。
 番場が数々の魔球を生み出したように、遠藤もまた勝負球となる傑作群を世に送り出していく。初期の代表作『海と毒薬』を「ハイジャンプ魔球」とするなら、二番目の「大回転魔球」に相当するのが、この『沈黙』だ。舞台は切支丹弾圧時代。ローマ教会に一つの報告がもたらされる。ポルトガルから派遣されたフェレイラ神父が日本で捕えられ、棄教を誓ったというのだ。司祭と信徒を統率する重鎮のフェレイラが転んだ≠ニはにわかに信じがたい。事の真偽を確かめるため、若き神父のロドリゴは日本へと旅立つ。現地で彼を導いたのは、襤褸(ぼろ)をまとい、見るからに狡猾で信用のおけないキチジローだった。長崎のはずれの村に到着すると、ロドリゴは秘かに信仰を守り続ける信徒達から歓迎を受ける。炭焼き小屋に身を隠し、僅かな祈りを施す日々。フェレイラの行方もつかめぬまま、やがて役人の切支丹狩りがはじまり、逃亡むなしくロドリゴは捕まってしまう。密告したのはキチジローだった。
 ここで重要なのは、遠藤が自分の思いを託したのが、主人公のロドリゴではなくキチジローのほうだということだ。こんなエピソードがある。遠藤が以前、共にキリスト教徒である三浦朱門らと雲仙を旅した時のこと。そこはかつて信徒や司祭たちが拷問を受け、棄教を強要された場所だった。沸き立つ湯を見ながら遠藤が、「ここで踏み絵を前に拷問されたらどれくらい我慢できるだろうか」と尋ねたところ、三浦は「そうだなあ、せいぜい一分くらいかなあ」と答えたという。それを聞いて遠藤は、こいつは信用できる、と思ったらしい。遠藤の頭には常に、自分は拷問に耐えて殉教する側ではなく、拷問に屈して棄教する弱い人間なのだという意識があった。ロドリゴを何度も裏切りつつ、そのたびに赦しを請いに来る弱くて情けない男、キチジロー。彼をこそ、遠藤は描きたかった。そこで不屈の宣教師ロドリゴを対置し、その信念を捨てさせることで、彼も実は我々と同じ弱き者だったのだというところに貶めようとした。だから本作は、遠藤による歪んだ復讐劇≠ニも言える。
 ラスト近く、静かに語りかける声をロドリゴは聞く。それはまるで、『侍ジャイアンツ』の最終回で川上監督が番場に語りかける言葉のように、優しくロドリゴを包んでくれる。遠藤は本作で、キリスト教の腹を食い破ることができたのか。解釈は読んだ者の判断に委ねるが、本書が出版された当時、教会からの強い反発を受け、禁書に等しい扱いを受けたことと、大回転魔球がライバルの眉月光に打たれたことは、客観的事実である。
(20字×80行 「月刊ジャイアンツ」)
2017年 3月 「人間の大地/サン・テグジュペリ」 (光文社・文庫)
新潮文庫版の『人間の土地』は大好きな作品で何度も読み返したものだが、二年前に出版されたこの新訳版を、今回初めて読んでみた。一般に、新訳だから良い出来になるかというと全くそんなことはないのだけれど、本作においては素晴らしい訳に仕上がっている。新潮文庫版は、あの堀口大學訳だから間違いはないが、やや古めかしく思える表現もあったりした。その点、今回の渋谷豊氏訳は、現代語の割に艶のある文体となっており、読みやすさと格調の高さが同居している。ひとつひとつの文章が実に快く、体中に染み渡ってくる感じ。あらためて本作の魅力を再確認することができた。
 本作は航空機パイロットでもあった著者サン・テグジュペリの私小説と言える。飛行機乗りとしての経験、命を賭けた仕事を通じた仲間との触れあいなど、読みどころはたっぷりだ。この小説を読むと、「あなたの好きなものは何ですか?」「あなたのやりたいことは何ですか」と問われている気がして、身が引き締まる思いがする。どんな人にもお勧めしたい、数少ない一冊。
2017年 3月 「五番町夕霧楼/水上勉」 (新潮社・文庫)
遊郭を舞台に、一人の娼妓のはかない運命を美しく綴った名作、などと評されるが、僕にはまったくぴんと来なかった。なにかが始まりそうで始まらないうちに終わってしまった感じ。登場人物の心情がいちいち地の文で説明されてしまうため、書き割りの風景を見ているようで味気ない。登場人物も一様にいい人ばかりで深みがなく、かといって格別に面白いドラマがあるわけでもないから、楽しめる要素がどこにもないことになる。方言(京都弁)で書かれているから生き生きとしたセリフのように思われるのかもしれないが、全然たいしたことはない。言わずもがなだけれど、同じ題材を扱った三島由紀夫の『金閣寺』の素晴らしさには比べるべくもない。
2017年 3月 「ファイナルガール/藤野可織」 (KADOKAWA・文庫)
藤野可織さん、初読。ホラー風味のちょっと不思議な話が収められた短編集、という紹介が一般的だろうが、本作はそんな解釈では済まない、凄い作品集だ。僕も一度読んだだけでは今ひとつピンと来なかったのが、もう一度読み直すことで、かなり楽しめた。共通するのは、何か異常な事態、不条理な事態に置かれた人々の反応を描いているところ。表題作では、連続殺人鬼に狙われ続ける女性が、実はその襲撃を生きる糧にしている。狼に襲撃される「狼」、ストーカーにつきまとわれ続ける「去勢」も、それぞれ普通に考えれば忌み嫌うべき存在に狙われるのに、恐れたり嫌がったりするでもなく、淡々と反応し、「これこそが私達のリアル」だと宣言しているようだ。そう、この短編集で問われているのは、“本物のリアルとは何か”ということだ。
 一番気に入ったのは、「戦争」だ。主人公の女性は、やりたいことは何もなく、親や恋人の死を悲しむことができないのに、たまたま読んだ小説に出てくるサイモンの死には心を傷めている。映画『この世界の片隅に』で、空襲を受けたすずさんが、恐怖を感じるより先にその風景を絵に描いてみたいと切望するような、本物のリアルがそこにある。
 というわけで、久しぶりにぞくぞくする作家に出会えた。これからも追いかけていきたい。

★本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 学校を出て十二年、連続殺人鬼をやっている。昨日も大学生のスキー合宿を襲って皆殺しにしてやったら、みんな必死に怖がってくれた。俺は純粋悪であり、恐怖の存在だ。なのにこの小説に出てくる連続殺人鬼は違う。確かに怖がられているけど、同時に望まれている気もする。なんか調子狂っちゃうな。そう思いつつ、一通り読んで気づいた。この著者って、伝説の藤野先輩だ。学校の面接で志望理由を訊かれ、「虐殺をまぬがれるには殺戮者にまわること、ですやろ?」とやんわりかわした偉大な先輩。我が母校、連続殺人鬼専門学校の、藤野可織先輩だよ。
 表題作「ファイナルガール」なんて先輩にしか書けない。主人公リサは幼い頃に連続殺人事件に巻き込まれ、母親を亡くした。リサは老夫婦に引き取られ、大切に育てられる。十八歳の夏、友達と出かけたキャンプ場に連続殺人鬼が現れ、リサだけが生き残る。それから何度も連続殺人鬼に襲われるが、そのたび彼女一人が生き残る。やがて彼女は気づくのだ。控えめで快活な「いい子」として生きる中で、連続殺人鬼だけが緩慢な日々からリサを救い出してくれることを。リサにとって、連続殺人鬼こそが生きる糧だったのだ。
 同じ主題は「狼」でも描かれる。主人公の男性の元に訪れるのは狼だ。幼い頃には両親が彼を救ってくれたが、いつかは自分が狼を倒すべく体を鍛え、その日を待ち望む。だからやっぱり、狼が彼の生きる道標なのだ。
 学生時代から、藤野先輩の考えは実践的だった。専門学校での連続殺人鬼のイメージなんて貧弱なもので、例えば、相手がどんなに逃げても常に先回りするため、百メートル十秒台の脚力が求められる。だから授業の半分は体力作りだ。そんなカリキュラムを先輩は鼻で笑い飛ばし、「電動バイクでも使うたらよろしいやん」と一蹴した。確かにそのほうがスムーズに移動できる。以来、授業の内容は「電動バイクの乗り方」に変わった。
 先輩が伝えたかったのは、本物のリアルとは何かということだと思う。俺には、生まれた時から純粋な殺人願望があった。それを学校では、ラブロック博士のガイア理論で説明してくれた。地球は一つの生命体として機能しており、地上の人口を一定に保つため、病気と共に一定数の連続殺人鬼が必要だと。そんなの普通じゃないと言われるだろう。でも俺はこの考え方を大事に思っている。紛れもない、これが自分自身だからだ。誰からも押しつけられないリアルだからだ。藤野先輩が書くのもそういうことだ。あの人は、人間というものの解釈を簡単なところで許してくれない。いびつな状況に置かれた人々の、おためごかしではない反応を探っている。その人にとっての切実なリアルは何かを探っている。だから本書を読んで、わからないと済ませるのも、不条理だ心の闇だとわかった振りして済ませるのも駄目だ。芥川賞授賞式の可憐な姿を見て、「藤野は俺の嫁」とか言ってた奴も目を覚ませ。家族や友人って素晴らしいねーとか、生き物の命は同じ重さだねーとか、誰かがどこかで言った言葉に同調するだけじゃ生きる本質を見失う。自分にとってのリアルをたぐり寄せろ。そんな藤野先輩の主張が前面に出たのが「戦争」だ。主人公の女性は現実社会で何ひとつやりたいことがない。彼女は、自分の恋人や両親が死んでも悲しまないのに、たまたま読んだ小説に出てきたサイモンの死には心を傷めている。こんなのおかしい、現実の死を悲しみたいと希求しもがきながら、それでいいとも思っている。恋人の遺品を握りしめながら、サイモンの死を悲しみ続けている。
 こうして人間のリアルを探り続ける先輩は、いつか更なる行動に出るに違いない。だから藤野先輩の本は早めに全部入手しておいたほうがいい。「芥川賞作家による連続殺人!」という見出しが新聞に踊り、彼女の著作全てが発禁になる前に。
(20字×80行 「映画秘宝」)
普及の名作が、また新訳となって発刊された。登場キャラがほぼ全員動物で、彼らが民主的な生活を試みるものの最後は独裁政治へと変わっていく。元はスターリン時代のソ連を糾弾する内容だったのが、時代や地域を越えた普遍性を獲得し、現代日本でもまさに今読まれるべき一冊となっている。国に限らず、会社や身近なグループに置き換えても通用する話だ。読んだ人それぞれが自分なりの解釈をすればいいし、それが目的の作品だといえる。

★本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 ソ連の社会主義を批判した寓話である。そう聞いて、うわー難しそうだし自分には関係ないやーとそっぽを向いたあなた。本書はそんな人にも十分関わりのある本だから戻って来なさい。それから、動物の話に置き換えた社会主義批判だよね、と知ったか顔の君。君もこっちに来て私の話を聞きなさい。
 著者のジョージ・オーウェルが序文案で表明しているとおり、政治的な寓話という解釈に間違いはない。それでも、1945年にイギリスで書かれた小説がいまだ読み継がれ、日本でも数多くの邦訳が出されたすえ、2017年にまた新訳が発刊されるのはどういうわけか。そもそも、社会主義批判の本だよと説明してくれた君は、本当にこの小説を読んだことがあるのかな。それとも、一般的な世評をコピペしているだけなのかな。確かに本書は当時のソ連を忠実になぞらえてはいるが、事情は少々入り組んでいる。
 ここでまったく毛色は異なるが、九十年代に出された『Mr.マリック超魔術の嘘』という本を紹介しよう。当時絶大な人気を誇ったMr.マリックのトリックを暴いた告発本である。同様の指摘は週刊誌等でもなされたが、本書の特徴は、著者のゆうむはじめが本物の超能力研究者だったことだ。著者いわく、マリックのショーを見た観客は、それを手品としてではなく「超常現象」「超能力」として捉える。ところが、マリックの行為は純然たる手品であり、タネがある。すると結局、超能力には全てタネがあり、超能力など全て嘘なのだと結論されてしまう。そこで著者は立ち上がった。本物の超能力≠知ってもらうため、マリックの行う偽物の超能力≠糾弾したのだ。この図式が、本作『動物農場』にも見てとれる。なにせ著者のジョージ・オーウェルは社会主義者である。ところがソ連のおこなっていたのは全体主義・恐怖政治に過ぎなかった。本物の社会主義≠広めるため、偽物の社会主義≠糾弾したい。これがオーウェルの真意だった。
 動物農場で中心となるのは少数のブタである。高い知性を持ち演説に長けたスノーボールと、強引な統率力を駆使するナポレオン。農場主の人間を追い出してからは、スノーボールが中心となって動物たちを率いていく。ナポレオンはそのやり方に悉く異議を唱え、二匹は反目しあう。遂にあるときナポレオンは、秘かに手なずけた犬にスノーボールを襲わせ、彼を追放してしまう。実権を握ったナポレオンは動物たちに無理な労働をさせ、自分は人間と取引をしたり仲間を殺したりなど、かつてスノーボールが制定した戒律を破っていく。動物たちは不満を募らせるものの、反論するたびうまく丸め込まれてしまう。
 当時の読者には、ナポレオンとスノーボールが誰をモデルにしているかは明らかだったろう。そして現代日本に生きる我々も、この動物農場に似た状況を思い浮かべることができそうだ。それはどこかの国だったり、自分の属する会社だったり、家庭だったり。社会主義国家に限らず、人が集団となって誰かがそれを統率する場合、多かれ少なかれ本作に似た経緯を辿る羽目になるものだ。
 それでは、悪いのはナポレオン一人なのか。他の動物たちに罪はないのだろうか。彼の腰巾着として動物たちを丸め込む、ブタのスクウィーラー。「ナポレオンは常に正しい」と思いこみ、作業に精を出すウマのボクサー。集会に遅れてやってきては馬たちの間に潜りこみ、演説も聞かずに喉を鳴らして寝ているネコ(かわいい)。ロバのベンジャミンは高い知性を有するのにシニカルな態度を続け、決して反抗しようとしない。ヒツジ達は教えられた言葉をただ繰り返すのみ。指導者の強権ぶりを非難するばかりではなく、それを無批判に受け入れる民衆の側にも非はあると思えば、本書は誰にとっても身近な話題を扱った作品となる。ここまで強力な普遍性を備えた小説も珍しいだろう。
(20字×80行 TV雑誌)
僕の大好きなドキュメンタリー映画監督、想田和弘氏による映画論。自分の手法を「観察映画」と名付け、その利点や自分の目論見などを詳しく紹介している。観察映画では事前に台本を作らずテーマも決めない。ただ被写体に向けてカメラを回し、そこに何かが起きるのを待ち続ける。このやり方で想田は何本もの作品を世に出し、どれもが高い評価を得ている。これに対し、通常のドキュメンタリーではテーマがあり、それに沿った台本がある。このため、制作者の望むテーマに即したシーンが撮られ、選り分けられてしまう。これでは対象を真に見つめたことにはならず、結果として真実から遠いものができあがる。
 ドキュメンタリー=真実、というのは大嘘で、どう作ってもそこには制作者の意図が入り、バイアスがかかってしまうのだ。そのあたりを心得たうえで、なおかつドキュメンタリーに挑み続ける想田監督の姿勢には、心から敬意を表する。そして、想田監督の映画を見たことがない人は、どうか一本でも見て欲しい。無茶苦茶に面白いから。
ブルックナーとは、19世紀の作曲家ヨーゼフ・アントン・ブルックナーのこと。ワーグナーやマーラーと並ぶ大作曲家らしいが、彼らほどメジャーではない。この小説は、ブルックナーの音楽を愛する31歳の代々木ゆたきと、彼女がコンサートで知り合った、ブルックナー団と称するタケ・ユキ・ポンの男性3人組との交流を描く。
 ブルックナーは、音楽的にも主流から外れているばかりでなく、その人間性の奇矯さでも有名らしい。講師として勤める学校の女生徒にデリカシーなく近づいたせいで、あらぬ噂を立てられるあたりはまだ可愛いが、四十過ぎのくせに結婚相手には十代の少女を望み、これぞと思った女性をノートに書いて調べ上げ、いきなり結婚を迫っては当然のごとく断られ続けるエピソードを知るに至っては、ちょっとこの人、イタすぎるだろうと思ってしまう。それでも、そうした不器用さの中にも意外な真摯さや根性が見えてきて、それが現代に生きるゆたきやタケ・ユキ・ポンにも影響を与えていく。小説も、タケが書いた小説内小説が合間に挟まれたりして、凝った作りになっており、重層的な味わいが楽しめる。

★本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 ヴァーグナーやマーラーと並ぶ後期ロマン派の大作曲家。けれど、〈芸術家として想像される天才らしさからはまるで遠い人〉〈常に迷い、他人からの助言をすぐ信じて楽譜を書き換える(中略)愚図で優柔不断な人〉だった。それが、実在した作曲家ヨーゼフ・アントン・ブルックナーだ。そんなイタい<uルックナーを信奉するファンが、少なからずいるらしい。本作の主人公・代々木ゆたきもその一人だ。いつものように一人でコンサートにでかけた彼女は、自らをブルックナー団と称するタケ、ユキ、ポンの三人と出会う。話しながらわざと大袈裟な身ぶりをしたり、語尾に「〜ですぽ」と付ける彼らを、〈なんでも漫画的にしてリアルな自分の見苦しさをごまかそうとする腐った根性が厭だ〉と嫌悪しながら、彼女は冴えない三人組との交流を始める。
 ゆたきは、タケが自分で書いたというブルックナー評伝から、その奇矯な行動のいくつかを知る。およそモテない外見だったブルックナーは、女心の機微がわからず、デリカシーのかけらもない。教え子の女生徒が恋人と逢い引きしているところを無神経にも大声で話しかけたりするから、教師が生徒にいかがわしい口をきいたと噂を立てられ、危うく教師の職を失いかける。そんなエピソードに、ポンは自身のいじめ体験を絡めて語る。〈ちょっとだけ空気読めない〉〈なんとなくみかけが鈍臭そう〉というだけでいじめの対象になるのは、今も昔も同じだ。だから同じように空気が読めず見た目が冴えず、奇行を繰り返して周囲に疎ましがれながらもそれなりの功績を残したブルックナーに、彼らは心酔する。〈ブルックナーは僕たちの隠れ家って気がすんのかな〉
 数あるエピソードの中で最も強烈なものが嫁帖(よめちょう)≠セ。これは彼が求婚した相手を詳しく綴ったノートだが、その中身が実におぞましい。自分は四十過ぎのおっさんのくせに妻となる女性の条件が二十歳以下、という時点で殴りたくなる。ノートには、その少女が容姿端麗かどうか、音楽の才能があるか、資産があるかなど、多岐に渡る項目が記されている。求婚の際には唐突に「婚約して下さい。すぐに明確な返事を下さい。曖昧な言葉ではわかりません」とまあ非常識極まりないやり方で迫る。しかも、複数の少女に同時進行で求婚しているのだからあきれてしまう。彼の音楽的特徴のひとつとされる3連符+2連符のリズムで、ぱぱぱ、ぱんぱん、ばばば、ばんばん、と張り倒してやりたい。
 ところがエピソードを続けて読んでいくと、彼の洗練されてはいないながらの必死さや根性が見えてきて、少しずつ応援したくなってくる。せっかく気に入ってもらえたヴァーグナーに会う直前に服を派手に汚してしまい、そのままの格好で駆けつけるシーン。献呈を許されたのに、該当の交響曲がニ短調とハ短調のどちらだったか忘れてしまい、〈どうしたらいいのだ、このままでは破滅だ、死んで詫びねばならない。死のう〉とまで思い詰めた挙げ句、〈トランペットの主題で始まるニ短調の方ですね?〉とわざわざ確認したのがヴァーグナーにウケて、〈トランペット君〉と呼ばれるようになる。幼稚で滑稽だけれど、どこか愛らしく思えてくる。
 実はタケは作家志望で、小説を応募し続けている。文章は巧いがストーリーが酷く、それでも飽きず投稿し続けているところはブルックナーを思わせる。ゆたきはその姿を見つつ、自分が簡単に諦めて捨ててきた翻訳家になる夢を思い出す。〈ブルオタでは決してないぞ、ないけれど、奥の方のブルックナーな因子らしいものがちょっとだけ顫えた〉〈駄目な人には同じ駄目な人の必死が胸にくる〉〈タケの下手なあがきはひとごとじゃない〉〈今からでもやれよ、自分〉。そう語るゆたきの言葉は、多くの読者の内にあるブルックナー因子を呼び覚ますことだろう。
(20字×80行 週刊誌)
カナダの刑務所で行われている読書会に参加した著者が、その記録を綴ったルポルタージュ。受刑者たちの読書会ってどうなの? と思ってしまうが、普通に、いや普通以上に興味深い会になっている。受刑者ならではの視点が示されるため、通常の読書会よりよほど濃密な議論が交わされるのだ。
 一ヶ月に一回課題図書が決められ、事前にその本を読んだ受刑者達が集まり、発言をする。一種の読書案内としても楽しめるし、課題図書がどう読まれているのかを知るのも興味深い。そしてさらに本書に深みを与えるのが、著者アン・ウォームズリーの経歴だ。女性ジャーナリストとして活躍する彼女は、かつて自宅前で暴漢に襲われたことがあり、そのトラウマをようやく克服したところだった。知り合いから刑務所の読書会に誘われた時、かつてのトラウマが甦るのではないかと不安だったのだが、何度か通ううち、その内容の素晴らしさに感じ入り、受刑者との距離も縮めていく。彼女を含めた主催者側は、当然、受刑者達の更正を願って本を選び、読書会を開催しているのだが、なかなかストレートにはそれが伝わらない。でもそれが意外な気付きを生み、主催者側も成長していく。
 本当に多層な内容を含む作品だ。本好きなら夢中で読めること間違い無しの良書だと思う。