■ 2002年に読んだ本
  
2002年12月 「楢山節考/深沢七郎」 (新潮社・文庫)
年老いた者が楢山へ捨てられることも、亭主が死んで三日を経ない女が再婚するのも、村では”自然”なことだった。おりんはすすんで山へ入る準備を整え、元気な姿が恥ずかしい、と自らの歯を石で叩き折る。表題作のほか、三篇を収録。

もし小説家を目指す人がいるなら、これは必ず読まねばならない作品でしょう。悲しい場面を「悲しい」という言葉で表現してはいけない、描写によって悲しみを読者に喚起させねばならないということを思い知らされる作品です。
 巻末の素晴らしい解説により、作者の深沢氏が徹底したアンチ・ヒューマニストであったことを知りました。人間を含め、全ての素材を”物”として扱う。心理描写など全く必要ない、という考えだったようです。映画化された表題作は観ていないのですが、作品のテーマからして姥捨てにやられる老母と息子との悲哀を描いた作品だという先入観がありました。確かにそういった面はあるのですが、読んでいてもっともつよく感じたのは、閉鎖社会における特徴的な生活の断片です。食料が極端に乏しいため、盗みを働いた者は村中で家捜しをされ全ての食べ物を取り上げられてしまう。娯楽がすくなく、祭りに精を出し、日常の様々な思いを歌にする。なにより、主人公のおりんが自分が山へ捨てられることを尊い慣習として受け入れ、楽しみにその準備をしている姿が特徴的に描かれています。話は淡々とすすみ、最後にすこしハプニング的なことも起こりますがそれもすんなりと処理され、静かに話は終わります。それでも、読み終えたあと、おりんの住んだ村の自然やそこに住む人々の様子が頭に焼きついてしまっています。
 併録の「東京のプリンスたち」も素晴らしい。「楢山節考」とはまったく異なる舞台、東京で暮らす若者たちの風俗がテーマです。これといった事件も起こらず、ともに音楽好きである幾人かの青年の視点から見た生活を描いています。中上健二の作品とすこし似ていますが、あれほどの悲痛さはありません。日常の何気ない様子がたとえようもなくリアルに迫ってきます。傑作だと思います。
 上記2作に比べ、巻頭の「月のアペニン山」は、面白いけれどちょっと実験的で弱い気がします。サスペンスの練習のために書いたという著者の言葉通り、妻と二人で暮らす生活の中で起こる怪異は、単純だけれどとても不気味に映ります。最後に意外な真相が明かされるというのも確かにサスペンス風ではありますが、今の時代においてはありきたりなオチに思えました。
アリスに魅せられた著者は、テキストに呑み込ませた兎の姿を時折表面化させては尻尾を振って逃げていく。「愛の時間」は、ハンプティ・ダンプティの呟きにより幕を開ける。

『一日のはじまりがはじまる』。この無謀で自信にあふれた書き出し!
 またひとつ、巨大な作家に出会ってしまった。文壇での評価からある程度の期待はしていたのですが、それを凌ぐほどの素晴らしい「出会い」でした。
 本短編集では、初期作品が発表順に並べられています。19歳の時に書かれた処女作「愛の生活」から読み始めた時、僕はたぶんこの人の文体に慣れていなかったのでしょう。非凡に感覚的な文章ではあるけれど、あまり好みではないな、と僭越にも思ってしまったのです。とくに、その次に出てくる「夢の生活」においてはほとんどストーリーらしきものはなく、一人の少女の夢想の中で文章が紡がれていき、とても読みづらく感じました。

 僕の中での評価が一変したのは、「兎」からです。散歩中に兎の着ぐるみを着た少女に出会い、追いかけていくと落とし穴にはまった、という「不思議の国のアリス」そのままのオープニングではじまります。しかし、その後にはとんでもない展開が待っているのです。ストーリー仕立てになっているのも僕には受け入れやすく、しかも凡手が書くとありふれたホラーにでもなりそうなところを、芸術の域に触れさせる手腕は奇跡的です。
 つづく「母子像」。ほんの7ページほどの作品なのですが、これもストーリー性が高くて読みやすい。「兎」とおなじく、立て続けに起こる展開もオチも改めて考えると予想の範囲内ではあるのですが、それでも鮮やかに読者の脳裏に焼き付くのは、切れ味鋭い刃物のような文章のせいでしょう。同様に、「アカシア騎士団」もよくできた傑作だと思います。

 金井美恵子氏の文章をごく一部だけいくつか読んだことはあったのです。句読点がすくなく、やたら一文が長くてそれがすこし読みづらいなあ、というのが印象でした。本短編集に収められている作品群はそれらとは書かれた年代が異なるせいか、文体はかなり違うものでした。
 この作者は、物語を書くということに否定的なのか、作家である主人公がたびたび登場しては、小説を書くことを放棄するような記述が見られます。書くことに苦悩しながら書かざるをえない、生まれながらの業を持つ作家、一人の天才の姿がそこに見受けられます。

 なお、今月の二作はどちらも4点という自己評価ですが、これは僕の読解力の浅さから来るものであり、作品としてみればどちらも満点に近い出来映えであることに異存はありません。
2002年12月 「『深い河』創作日記/遠藤周作」 (講談社・文庫)
『小説、未だ手につかず、怠慢恥じるのみ―』。大作家遠藤周作にしても、これほどの迷い、スランプと闘う内面があったのだ。70歳という高齢で病に倒れながらも書き上げた『深い河』。最後の純文学長編執筆の裏にこめられた執念とは。

既に『深い河』は買ってあるのです。でも、大好きな遠藤周作氏の最後の長編なのだからすぐに読み終わってしまいたくない、じっくり時を見定めて読みはじめたい、と取ってあります。
 書店に行くたび『私の愛した小説』という作品を探しているのですが見つからず、同じ遠藤作品で目についたのがこれでした。瞬間、創作において、遠藤氏のような方はどんな形で立ち向かわれるのだろうという興味がむくむくと湧き、衝動的に購入していました。

 それにしても、これだけの高齢でよくこれほどに仕事をこなされていたなあ、と感嘆します。本作以外にも様々な執筆をこなし、講演やパーティーで日本全国を毎日のように飛び回る。70歳近い、衰弱していく体に鞭打ちながら、なんとかこの作品を仕上げたい、仕上げねば、という焦り。日記にはとにかく、今日も書けない、こんな書き方では駄目だ、という悲鳴があふれています。完成された本を手にされたのは病床でした。人生の最後に集大成とも言える作品を書き上げることができた喜びはいかほどのものだったでしょう。
 僕もこのあと、『深い河』に取りかかることにします。
2002年12月 「深い河/遠藤周作」 (講談社・文庫)
妻を失った磯部、神父となった友人を馬鹿にしながら追い続ける美津子、戦友の死に立ち会った木口、鳥に救われた沼田。それぞれがそれぞれの人生を背負い、ガンジス河へと向かっていく。

期待が大き過ぎたのでしょうか。大好きな遠藤周作で、何年も読むのが惜しくてとっておいた作品は、自分の中で熟成し過ぎたのでしょうか。氏の最後の純文学大作であり、これまでのご自身の人生全てで探求を続けてきたテーマの集大成がここにあります。それでも、一小説として捉えた場合、僕はこの点数をつけざるを得ませんでした。
 病と闘いながら、どうしてもこの作品を仕上げねばならない焦りは当然のごとく大きなものであったでしょう。題材をいくつか用意しながら、ただそれを陳列するに終わった、そんな気がします。書かれている言葉が、正にその言葉としての意味しか持たないため、小説としての深さが感じられないのです。ストーリーもぎくしゃくしていて、作者が言いたいことを伝えるために登場人物が用意されたという感じで、生き生きとした存在感が伝わってきません。

 ただ、これを書きながら思ったのですが、先に読んだ創作日記にはあまり触れられていなかったものの、著者はこの作品が自分の書く最後の長編になるという強い自覚があったことと思います。これまでの自分の人生で思ったことたどり着いたことをなるべくこの作品に収めたい、正確な形で世の人に伝えたいという思いは、小説的な高みを目指そうとするとどうしても物事をストレートに表現することができなくなるため、本作のような「含みをなるべく持たせない」書き方にならざるをえなかったのではないかと想像します。また、そう考えると、本作に多くの人物が登場し、それぞれの視点から描かれる三人称多元描写という手法を用いたのは、それぞれの人物が遠藤氏の分身だからだということが伺えます。事実、沼田が病室で鳥を飼う話など、自身の実体験に基づくエピソードなども盛り込まれています。彼らが様々な人生を歩みながら最終的にインドのガンジス河にたどり着くことが、遠藤周作という作家が大連で幼少時代を過ごし、両親の離婚を経験し、キリスト教徒でありながらヨーロッパ的合理主義にどうしても馴染めず、人間の弱さを認め、弱さを持ちながらも人は救われるのかという問いを常に問いかけながら最後にたどり着いたのがヒンズー教の国インドだった、ということの象徴として書かれているのだと思います。

 神とは何か、救いとは何か。その問いを読者とともになぞったのが、元神学生だった大津でした。日本でも、リヨンの神学校でも、イスラエルの修道院でも、彼は迫害を受けます。そして最後にインドのガンジス河のほとりにある町に流れ着きます。彼の下宿先のシーンで、マハトマ・ガンジーの言葉として、次のような言葉がでてきます。

「私はヒンズー教徒として本能的にすべての宗教が多かれ少なかれ真実であると思う。すべての宗教は同じ神から発している。しかしどの宗教も不完全である。なぜならそれらは不完全な人間によって我々に伝えられてきたからだ」
「さまざまな宗教があるが、それらはみな同一の地点に集まり通ずる様々な道である。同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異なった道をたどろうとかまわないではないか」


 そして母なる河ガンジスは、あらゆる罪を犯した人々を平等に受け入れ、生も死も隔てず、静かに流れていきます。

 最後に、本題からは逸れますが、リヨンで美津子と大津が邂逅を遂げ、ソーヌ河のほとりで話をするシーンがあります。昨年訪れた時に見た美しい風景が僕の頭に浮かびました。
2002年11月 「生活の設計/佐川光晴」 (新潮社・単行本)
出版社を辞め屠殺場で働きはじめたことに、さしたる理由はなかった。世間がとやかく言うのは放っておいたとして、それにしても何故自分はここで働いているのだろう? 2000年新潮新人賞受賞作。

全くの私小説ではないようなのですが、実際に屠殺場で働いた実体験が大きな要素を占める作品です。描かれているのは、職業差別を糾弾するなどという固い話ではなく、人の行動には常に大きな目的意識があるわけでもないということ、そして、周りからせっつかれる中で淡々と過ごしながら行き当たった真理です。前者については、突然屠殺場という突飛な職場で働きはじめたことに周囲は驚くけれど、本人はいたってクールなもので、汗かきだったから、そして共働きに適していたから、という理由を並べます。縁故者や知人たちから受ける反応に男は、憤りというよりも、とまどいを感じています。このあたりが性格からなのでしょうが訥々として面白く、作品全体を包むトーンになっています。何故屠殺場で働くのか自分でもわからない、なんでだろうかなあ、なんていつもぼんやりと彼は考えています。そんな彼に対し妻の両親や友人は、何故そんな仕事をしているんだ、辞めてしまえと詰め寄ります。ああなんかめんどくさいなあ、それにしても本当にオレってなんでこの仕事やってんだろう、という自問がラスト近くまで続きます。

 ただ、著者はとくに文学畑を歩いてきたわけではないようで、文章は読みやすくていいのですが、大学時代の友人とのやりとりの場面などで急にトーンが変わって作為が目立つようになります。自分の知っていることには饒舌であっても、フィクションを作ることには慣れていない気がします。男がついに突き止めた真理、というのもあまりピンと来ませんでした。もっといい書き方があった気がします。特にいただけないのは、ラストの締め方。ずっと書いてきた最後が<<以下、少々ネタバレ気味です。読みたい方はマウスでドラッグしてお読み下さい>全世界のプロレタリアよ、団結せよ!っていう、あれはないだろうと思います。
2002年11月 「十九歳の地図/中上健次」 (河出書房新社・文庫)
ぼくは物理のノートに書いた地図上に、気に入らない奴らの居場所を書きつける。いったいぼくは何のためにここにいるのだろう、希望などどこにもない−。抑圧されつづける負のエネルギーをぶつけた表題作のほか、処女作「一番はじめの出来事」など四作を収めた初期短編集。

「岬」でたたきのめされた中上健次にまた挑戦です。初期の傑作として知られる表題作は、19歳の少年から見た世間に対する憎しみを描いた作品です。予備校生である主人公は、新聞店に住み込みで働き、周りの人々が繰り広げるいかにも自堕落な行動を横目で見ながら、自分の居場所も突き止められず苛立つ日々を送ります。やり場無く奇態な行動を繰り返す少年から負のエネルギーがほとばしる、といったところなのですが、「岬」で味わったような圧倒的なパワーと比べると、どこか物足りなさが残ってしまいます。主人公の行動は、結局は実体的なものはほとんどなく、ただ脅迫電話をしたり夢想するだけに終わっています。物語性に乏しいのも、印象が薄かった原因の一つでしょう。
 僕は、四作の中では、「蝸牛」が一番心に残りました。子連れの中年女のヒモとして暮らす男の物語ですが、表題作に比べてストーリー性があり、その筋に従って複雑な人間関係が影響してくるという「岬」の構造が見られるからです。義足の兄や不具の男など、要素的にも「岬」と似通ったものが登場し、ラストの衝撃も同様です。
 また、最後に収録されている「補陀落」では、「岬」の人間関係がほぼそのまま登場し、姉の独白的文体に終始しています。「岬」を読んだ後では、これも印象的な作品でありました。

 ところで尾崎豊氏の「十七歳の地図」は、この題名をもじって付けられたものなんでしょうか?
2002年11月 「夏の夜の10時半/マルグリット・デュラス」 (河出書房新社・文庫)
スペインへ向かう旅の途上でマリアは、夫のピエール、そして彼の若い愛人クレールとともにホテルの廊下で一夜を明かす。嵐のさなか、マリアは殺人犯ロドリゴ・パエストラの姿を見出す。

9月以来、一カ月に一冊ずつ読んでいるデュラス。本作は前2作ほど有名ではありませんが、映画化もされており、評価は決して劣るものではありません。それでも僕にはちょっと、しんどかった。
 複雑な小説だ、というのが率直な感想です。といっても筋がこんがらがっている訳ではなく、ただ何気ないように過ぎていくストーリーの中でいくつかすごいなと思わせる描写があり、深淵な何かを予感させるものの自分がそれを消化しきれていないもどかしさをおぼえる、そんなところでしょうか。
 デュラスの作品に共通するとおり、本作も、単純に筋だけを追ってしまったらその魅力は全く理解できません。ふつう小説というのはミステリーものに限らず、何かしらの<謎>が読者を誘導するものですが、本作においては、謎だと思われるものが次々と簡単に明かされていき、話の柱になりません。巻尾の解説にあるとおり、本作は三人称形式で書かれてはいるものの、ほぼ主人公のマリアの心情がそのままに描かれた一人称形態と言えます。マリアは半分アル中とも思えるほどに常に酒を飲み、狂気の一歩手前の理不尽な言動を繰り返します。夫とその愛人とがいつか結ばれることを予期しながら、それを積極的にはばむでもなくあきらめるでもない、このあたりの描き方がデュラスならではの、陳腐な恋愛小説と決して相容れない独自の小説形態を生んでいるのだろうと思います。

 ところで最後にひとつ言いたいこと。本作の冒頭のかっこよさは半端じゃありません! 読み始めると同時に目の前に稲妻が光り、まわりに嵐が吹き始め、雑踏のカフェから人の叫び声やざわめきが聞こえ始めます。暴力的に視覚的聴覚的イメージが提示され、映画を見ている感覚におちいります。こんなにスタイリッシュで素晴らしいオープニングは僕は経験したことがありませんでした。
2002年10月 「最悪/奥田英朗」 (講談社・文庫)
小さな町工場の経営に苦しむ信次郎、やくざに追われる与太者の和也、セクハラに悩む銀行員のみどり。もがけばもがくほど、事態は望まぬ方向へと墜ちていく。

あまり純文学やらエンターテインメントやらって分けて考えたくはないのですが、こういった作品を読むと、ああこれが大衆文学・通俗文学なんだなあと納得してしまいます。確かに一気に読めるし、ハラハラもしますよ。でも、終わってみればただのこけおどしというかテクニックというか、まるで典型的な日本のテレビドラマを見るようでした。
 ストーリー的には、とくに町工場社長の信次郎が追いつめられていく様は秀逸だと思いました。日常的な出来事の範囲でこれだけ悲惨な成り行きはなかなか書けるものではありません。対して、与太者の和也が犯す犯罪のほうは作り物めいていてあまり面白くありません。また、銀行員のみどりに至っては、強姦まがいの目に遭い同僚がホテルに入るのを偶然目撃したりと展開がクサすぎます。
 筆力がないとは言いません。しかし、情景描写なんてありきたりでとってつけたものだし、ただ平易で読みやすいというだけで、文章を読むこと自体の喜びを味わわせてくれるものでは決してありません。
 読みながら終始僕は、いやあな感じを味わい続けました。物語の悲惨さが伝わってくる部分も確かにあるのですが、それよりも、堕ちていくさまを描くためだけに登場人物が設定され、作者の思うままにいたぶられている気がしたのです。そりゃ作者は好きなようにいくらだって悲惨な状況に追い込んでいくことは可能ですよ。でもそこに小説としての深みがなければ感動することはできません。薄っぺらで、小説に対する志の低さをどうしても感じざるをえませんでした。
有産階級の夫人アンヌ・デバレードは、息子のピアノレッスンから帰る途中のカフェで殺人現場を目にする。翌日、現場を再訪した彼女は一人の男と出会い、不思議な熱情にかられていく。

「太平洋の防波堤」で虜になったデュラス、早くも二作目を読んでみました。これまた唸らされる作品でした。何がすごいのかは説明しづらいのですが。

 短い作品です。150ページ足らずでしかもページ内の行間が大きくとってあるため、すぐに読めてしまいます。難しい言い回しや比喩なども全くありません。
 出てくる場面は、ピアノレッスンの風景がすこしと、あとはほとんどがカフェでのアンヌと男の会話で占められています。この会話が非常に特徴的なのです。
 カフェで起きた男女の殺人について、とりとめのない風で会話は始まります。男は、「ぼくはなにも知らないんです」と言いながらも、なぜか詳しく事件の背景を語ります。やがて男は、アンヌやアンヌの住んでいる邸宅の話をはじめ、しかもそれは微に入り細にわたる内容なのですが、アンヌは気にすることもなく男の話に合わせ、自分のことを話します。普通なら、なんでそこでそんな話をはさむんだよ、という展開になるはずなのに、全くならない。殺人現場の男女の話題とアンヌに関する話題とが入り乱れ、しかも会話をしている二人はそれを全くとがめることがなく、延々とやりとりは続いていくのです。とても不思議で不気味な会話であり、途中までは、どうなってるんだろうこれは、という興味でうながされ、読み続けました。
 途中から、なんとなく二人の背景や思惑などが見え隠れしはじめます。一つ所に定まらない心理のやりとりが行われているのがわかってきます。小説としてはとても実験的な試みであり、難しい技巧だと思いますが、見事に成功しています。

 物語の合間で差し挟まれるなにげない描写も、全て計算されているかのように効果的に頭にしみついていきます。タイトルの「モデラート・カンタービレ」というのは「普通の速さで歌うように」という音楽用語であり、ピアノレッスンの場面で出てきます。これが、物語全体の暗喩にもなっています。息子やカフェの女主人の言動なども、はっきりとした意味合いは明かされないけれども印象的で、物語の中にぴたりとおさまっています。

 この物語のすばらしさは、こうして説明してもたぶんわかってもらえないでしょう。僕もいろいろと書きながら、本当は作品に流れる言語化できないなんともいえない雰囲気に、最も強くひかれているんだということを自覚しています。
 是非ともこの文章にじかに触れてみてほしいと思います。
2002年10月 「オペラ・オペラシオネル/蓮實重彦」 (河出書房新社・単行本)
「類似とは、よく似たもの同士が決定的に異なる存在だという事実の否定しがたい証言としてしか意味をもたない」 
<小説の物語性>に真っ向から挑み、従来からの概念を打ち破るべく放たれた小説。


間接話法(会話文がカギ括弧の中に収められず、地の文の中に組み入れられている形式)で書かれた作品の模範として紹介されていて手に取ったのですが……。
 僕は正直言ってどうこの小説を評価していいのかわかりません。一人の男が巨大なホールで夜を明かすシーンで物語は幕を開けます。その後男はある女と出会い、女の打ち明け話やホールを出たあとの男の描写の中で、同じような光景がすこしずつ形を変えながら何度も繰り返されていきます。そしてそれらの類似性についてはぼかされたまま最後のシーンまで引っ張られます。不思議な感覚です。いったいこの男のいる世界はどういう構造になっていて読んでいる僕はどういう理解をすればいいのか、よくわかりません。

 最初は、SFなのかなと思いました。村上龍氏の「五分後の世界」と同じような肌触りも感じました。しかし、それらとは全く違う種類の小説です。
 付録として添付された解説文には、「表象される側の世界がひとつに結像しないように、言説の行使によってある種の攪乱を仕組」んであるのだと、書かれてあります。僕はこの説明文を、次のように解釈しました。読者は常に物語の世界に入り込もうとする。すなわち、そこに書かれた言葉の羅列から自分なりの世界を構築するのだが、この小説はそれを許さず、この作品はこういう世界なんだなと頭の中に構築しかけた途端にそれをわざと崩し、常に明確なイメージを与えない。
 なんとなくわかるような気はします。確かにそう言われてみればなるほどなあとは思います。しかし感心はするけれども、それがどうしたというのでしょう。この作品を読んで、面白かったかと聞かれるともろ手をあげてそうでしたとは答えにくいし、かといって面白くなかったわけでもない。僕が理解するにはまだ読書体験が少なすぎるといったところでしょうか。

 ちなみに著者は元東大学長です。
2002年10月 「幽(かすか)/松浦寿輝」 (講談社・単行本)
大病を経験し、妻とも別れた男は、同僚から借り受けた古家にひっそりと住んでいた。家は、現世と冥府とを隔てる境界だった―。表題作のほか、短編三作を収録。

芥川賞作家の書いた、「いかにもブンガク」的作品集。まあ、こういったグダグダ自堕落に生きていながらやたら女にもてる話を僕が大嫌いなのもありますが、例えば表題作。超自然的な要素を含みながらぼんやりと奇妙な感覚を味わわせるのが狙いなのでしょう。それにしては、タイトルの「幽(かす)か」とか「幽(かそ)けき」などを堂々と文中に並べてしまうのはダサすぎです。だいたいにおいて説明文が多いため、日ごとに間取りが変化してしまうという不思議な家の存在があまり伝わってきません。
 他の作品も、作品が書けずに困った挙げ句アイデアだけを並べただけ、といった「ふるえる水滴の奏でるカデンツァ」や、ちょっと都会の裏通り的なことを書いてみましたという「シャンチーの宵」など、期待外れの作品ばかり。そんな中で、冒頭の「無縁」だけ、少しおっと思いました。<以下、完全にネタバレです。読みたい方はマウスでドラッグしてお読み下さい>ナイフで刺す、という描写や、古代の種の発芽のため魚の頭を転がすエピソードなどが最後の殺人につながっていく伏線の張り方が巧いなあと感心します。しかし結局はラストの意外性、そのショッキングさが頼りの作品なのであって、考えてみれば死体の養分で植物が育つというアイデアも似たようなのをよく見ることからすればこれもたいした作品ではないという結論になってしまいます。
2002年10月 「アドルフ/コンスタン」 (新潮社・文庫)
才気と地位に恵まれたアドルフは伯爵の妾であるエレノールと出会い恋に落ちるが、自らの弱気と優柔不断が果ては自分を追いつめることになっていく。今から二百年ちかく前に書かれた、恋愛心理小説の元祖。

人の心というのはかくも移ろいやすく、いったん定めた決意や覚悟などがいかに頼りない心持ちに過ぎないかが馬鹿馬鹿しいほどにリアルに描かれた良作だと思います。はたから見ればアドルフの行動は正にちゃらんぽらんで唾棄すべきものです。エレノールに狙いを定め苦労して口説き落とした先からはやその関係をうとみ尻込みを始める。その後は延々、決別を言い出そうと決心しながら彼女の哀願にあって改心し、真剣に愛し尽くそうと心に誓って別れた夜にまた愛情の重みにうんざりする、といった繰り返しで全くもってはっきりしないダメ男です。この事実をまっすぐにとらえ、小説的な虚飾をいっさい取り払った簡潔なストーリーでばっさりと斬り捨てた作者の潔さに感服します。
 アドルフの人物紹介の前にまず内気な父親を設定し、その遺伝として受け継がれた気弱な性格に加え、人に認められたいという大いなる欲望を持ちながらそれが叶えられないことで更に内に引き込むといった倒錯した性情を印象づける導入部からして興味深い。そこに、アドルフと似た性格を持つ娘エレノールを登場させ、二人が結ばれるまでのやりとりやその後の一連の事情のなかで、互いの気持ちのむらのせいで常に安定を得ることのできない悲劇が展開されていく。単純なストーリーの中に奥深い人間心理のやりとりがあります。

 翻訳の素晴らしさもきわだっています。時代を感じさせる重々しい言葉遣いや言い回しを多用しながらも全く読みづらさを感じさせません。こういう日本語を書ける人はだんだん少なくなっていくのだろうなと嘆きたくなります。

 最後に、本作の主題からは外れるかもしれませんが、ラスト近く、これが恋愛の真理ではないかと読んでいてはっとさせられる部分がありました。<以下、少々ネタバレ気味です。読みたい方はマウスでドラッグしてお読み下さい>エレノールは死の床でアドルフに最後の願いとして自分の所有する手紙を焼き捨ててほしいと頼みます。決して読むことなく焼いてほしい、と。つまり、恋愛とはそうした虚飾、すなわち互いに見せる部分と見せない部分をうまく使い分けながら行うものなのだと感じたのです。他愛ないシーンなのですが、これまでの二人の成り行きを見てきただけにいっそう強くそうした感想が湧いたのだと思います。
時は十六世紀なかば、アンリ二世統治下のフランス。栄華と色道のはびこる宮廷で、美貌の紳士ヌムール公に心ひかれていくクレーヴ夫人。その完成度から、フランス恋愛心理小説最初の達成と言われる作品。

★あまりの登場人物の多さに、人物相関図を作りました。→ここ
★また、より綺麗に印刷・加工できるよう、元のWORDファイルも用意しました。→ここ
★上記画像・WORDファイルは、ご自由に使って頂いて結構です。

 
★人物相関図の作成にあたり、「Turn around the World!!」というサイトを参考にさせて頂きました。西洋史や系図が大好きというアイシェさんのサイトです。今回リンクのお願いをしたところ、快く了承して頂きました。下記リンクでTOPページに飛びますので、左側メニューの『〜私的メモ〜』内『うんちく』に入り、更に『「クレーヴの奥方」を読む』をクリックすると見られます。ここに、ささいな登場人物までほぼ全てが網羅された表が掲載されており、このサイトに出会わなければ、上記の人物相関表は決して出来ることはなかったでしょう。
■Turn around the World!!


 素晴らしい!
 おもしろい!
 フランスばんざい!

 読み始めにおいて、これ苦手かも、と危惧していたのが読み終えた今となっては嘘のようです。冒頭5ページほどの間に次から次へと登場人物が出てきて、姻戚関係もこんがらがってしまったので、自分で人物相関図を作ってみたのです。とあるサイトで、この作品の登場人物が表にまとめてあるのを見つけ、それを元にして、更にフランス王朝の系譜が詳細に書かれているサイトも見ながら作り上げました。A4でプリントアウトしたその表を片時も離さず、少しでもわからなくなるとそれを見て確認する、という読み方はとても有用で楽しいものでした。

 夫ある身のクレーヴ夫人は宮廷一の人気を誇るヌムール公に言い寄られるものの、貞操観念を母親から叩き込まれたゆえ決してそれに応じようとしません。それでも彼女は、愚直なまでの思いを寄せてくれる夫のクレーヴ公をどうしても愛することができず、次第に心はヌムール公に惹かれていきます。ささいなことからめまぐるしく変化する心のうちが余すところなく描かれていて、これこそ心理小説とはやされるのも大きくうなずけます。
 それにしても宮廷人というのは、これほどまでに節操のないものなのか。王や王妃をはじめとして、妻や夫を持ちながらとっかえひっかえ愛人を幾人もこしらえる様には全くあきれるばかりです。だからこそクレーヴ夫人の行動が浮き上がってくるのでしょうが、とにかく、各人がそれぞれの思いを抱きながら立ち振る舞い、それが様々に絡み合っていくつものドラマが生まれていきます。

 僕は、後半においてのクレーヴ公が可哀相でなりませんでした。途中までは登場シーンも少なく、何となく鈍感でまぬけな印象を持っていたのですが、<以下、少々ネタバレ気味です。読みたい方はマウスでドラッグしてお読み下さい>ヌムール公への思いをどうしていいのかわからなくなったクレーヴ夫人が思い余って自分の夫にそれを打ち明けるというとんでもない行動に出てから、俄然クレーヴ公に興味が湧いてきました。彼はいったんは妻のことを許しながらそれでも妻の行動が気になってしょうがないため密かに見張りをつけ、ヌムール公とのやりとりを知ってしまい、それがもとで心労のために亡くなってしまいます。最後に彼は夫人に向かい、自分が死んでもあなたが私のことを懐かしんでいるのだとせめて思わせてください、そして、あなたがヌムール公に抱いているのと同じ感情を私にも持っているのだと、せめて思わせてください、と言いながら死んでいきます。このセリフには胸がつまります。

 他にも、気になったキャラクターとして、皇太子妃があげられます。若くて綺麗な彼女は誰からも愛され、その立場を利用して今どきの若いお嬢さん的にかしましく立ち回ります。結局ひどくいいことも悪いこともしなかったけれど、心に残ります。それから意外に悪人のシャルトル候。自分が愛人から受け取った手紙を落とした時の彼の行動は信じられませんでした。
 とにかく、ころころと変化する人間真理が見事に描かれ、小説的な仕掛けも見事にほどこされ、宮廷の優雅な生活も描かれ、最後のページまで胸躍らせてくれるこの小説、こんな素晴らしい小説が300年以上も前に書かれていたとは信じがたいことです。
2002年10月 「夜明けの家/古井由吉」 (講談社・文庫)
池の畔で見た死にかけの鴉から、急患で病院に運ばれた日のこと、若かった日に出会った老人とのふれあいなどへと、思いは巡っていく。表題作を含め、十二篇の短編からなる作品集。

まことに手強かった。読み進めるのに、おびただしいエネルギーと時間が必要でした。この凄い日本語はなんなのだろう、とは感じながら、それを自分の内に取り込むにはあまりにも僕の読書能力は拙かった。激烈なほどに豊かな語彙と表現力の前に、ただただ立ちつくすばかりでした。

 一篇が20ページほどの短い話ばかりです。内容はどれも似通っていて、物語手法にも共通点が多く見られます。まず挙げられるのが、複雑な時間構成でしょう。ある時のことを回想しながらまたそこから何年か時間が遡ったり経過したりと、いったい今これはどの時点での記述なのだろうと混乱することがよくありました。
 テーマとしていつも提示されるのは人の生き死にのこと、そして、やたらと出てくるのは人の通夜や葬式に参列するシーンと病院での出来事ですが、これは恐らく自分の体験にもとづくものなのでしょう。これらの要素から成る話は当然のごとく静謐な印象を受けますが、不思議なことにあまり暗さは感じられません。絶望という瞬間を越えた向こうにある潔さ、とでも言うような落ち着きが見受けられます。

 言葉の組み合わせ方しだいでこんな表現ができるんだ、という発見がいくつもありました。小説においてはストーリーなんかよりも描写が命なのだ、ということを思い知らされることもありました。これらをうまく頭に押し込められない自分をもどかしく思います。いつかまた読み返して、素直に感動できるようになりたいものだと思います。
目覚めると、見知らぬ公園のベンチに寝ていた。記憶は失われ、自分が誰なのかさえわからない。転がり込むように一人の女性と暮らし始めるうち、過去の恐ろしい記憶が蘇る。

「占星術殺人事件」で割と好印象を持った島田荘司氏の著作中、人気の高さでは一二を争う作品です。記憶喪失の男が、だんだんと過去の陰惨な記憶を取り戻していく、というミステリにはおあつらえ向きのスリルたっぷりの展開を楽しむ……予定だったのですけれど。
 「占星術〜」を読んだとき、とくに文章に不満はありませんでした。しかし本作品については、ちょっと目に余るものが多すぎます。小説には説明と描写という二大要素があるというのはよく知られることですが、とにかく説明ばっかりなのです。一人称形式の一番良くない部分が出てしまっています。主人公の<俺>が、これこれはこういうことだ、そしてこれがこうなってああなって、と延々説明を続けてくれます。小説世界に浸るどころの話ではありません。
 また、とくに序盤あたりの展開があまりにも退屈で、良子と横浜へ行ったエピソードなどどこかで何か展開があるものと期待して読み進めたのですが結局何もなく、ただ二人の生活の楽しさを描きたかったらしいとわかった時には、あの期待感を返してくれと言いたくなりました。謎の提示の仕方も、段々とベールがはがれていく、というものではなく、ある時点で急にぽーんぽーんと急展開をみせるといった風で、とまどってしまいます。
 あとがきを読んで、これは著者の処女作であると知りました。しかしそれを全面加筆した<改訂完全版>のはずで、どこをどう改訂したのか、初版と比べてみたい気持ちでいっぱいです。

 最終的に解明される謎にはなるほどと膝を打つ部分がないことはないのです。ラストはちょっとだけウルッときたりしました。ですから総合評価は少し加算されています。読んでいる途中の気分としては、星半個分ほど少ないぐらいでした。
2002年 9月 「トリツカレ男/いしいしんじ」 (ビリケン出版・文庫)
ジュゼッペはとにかく何にでもとりつかれてしまう、『トリツカレ男』。オペラにとりつかれてどこでも大声で歌ったり、三段跳びにとりつかれて世界記録を出したり。そんなトリツカレ男が、もし一人の女の子にとりつかれてしまったら……。誰もが純真な気持ちになれる、ファンタジー・ラブ・ストーリー。

最初から最後までどこをとっても作り物の世界なのに、皮肉なしに読めてしまう、大人のための童話です。読み終えたとき、好きな女の子にクリスマスプレゼントとしてあげたい、そう思いました。

 文体にまず惹かれます。ジュゼッペはさ、トリツカレ男なんだ、それでね〜、っていう感じの、優しいお兄さんのような語り口で、どこまでも純粋な物語として物語が紡がれていきます。ある種、谷崎潤一郎ばりの、描写も説明もセリフも一緒くたにしてしまった形。それでいて、読んでいる方の頭の中には情景がくっきりと浮かび上がる。冬の窓辺の美しさなんてもう、温度がじかに感じられるぐらいですよ、本当に。
 とりわけ、少女ペチカの口から語られる、タタン先生の言葉に胸が熱くなりました。(原文の通りではありません)

この冬、氷の上で私たちが身をもって学んだ、三つの大切なこと。
そのいち。氷の上の私たちは、いつかきっと転ぶ。
そのに。転ぶまではひたすら懸命に前へ前へとすべる。ブレーキなんてなしに。
そのさん。転ぶとき、転ぶその瞬間には、自分にとって、いちばん大事なひとのことを思う。そのひとの名を呼ぶ。そうすれば転んでも大けがはしない。そうして転ぶことはけしてむだなことじゃない。
2002年 9月 「事件のカンヅメ/村野薫」 (新潮社・文庫)
誘拐・放火・ハイジャックなど、世間を賑わす犯罪の裏に隠された犯人の心理とは―。近年に発生した事件を分析し、検証する一冊。

旅先ででも読むかと古本屋で気軽に購入した本でした。テレビのワイドショーをそのまま文章に直したものと言い切ってよいでしょう。次から次へと犯罪話が出てくるので、読み進めるのは簡単です。ただ、たくさんの事件が前後定まりなく紹介されて混乱するので、もっと一つの事件に集中した書き方のほうがいいと思います。
 紹介された事件の中では、誘拐犯人とのやりとりに新聞の求人欄や尋ね人欄を使う話が面白かったです。
2002年 9月 「MISSING/本多孝好」 (双葉社・文庫)
自殺を助けてくれた少年に、男はぽつりぽつり過去の記憶を語り出す。短い話の中から、少年は意外な真実を指摘する―。小説推理新人賞受賞作「眠りの海」を含む、MISSING-失われたもの- をテーマにした短編集。

「このミステリーがすごい!2000年度版」で10位にランクインし、ずっと読みたいと思っていました。ミステリーなのに透明感があって純文学風だとも評価され、期待していました。が……
 正直、期待外れに終わってしまいました。これを純文学風だと言ったら、純文関係の人が揃って罵倒を浴びせてくるでしょう。島田荘司と同じく、説明ばかりの文章。筋の運び方がどうにもぎこちなくて入り込めず、たまに挟まれるユーモア(らしきもの)にもセンスは感じられません。ただなんとなく意味ありげな書き方がしてあるだけで「透明感がある」はないでしょう、と言いたくなります。村上春樹に似ているという指摘もあり、それはたぶん4作目の「瑠璃」あたりの文章から言われているのだと思いますが、とんでもない!村上春樹の文章は、もっとクールで繊細でよく考えられています。比べるにも及ばない。いかにもちょっと真似してみました、というあざとさしか、僕はこの作品から感じることはできませんでした。
辛口で知られる両批評家が、現代作家たちの作品について引用をもとにその長所短所を分析していく。両氏の痛快対談も収録。

著者の一人である渡部直己さんのお話をお伺いする機会があり、内容がとても面白かったので本作の購入に至りました。両氏によると、吉本ばななでさえ「まあまあの作家」となり、辻仁成・新井素子・司馬遼太郎・林真理子などはもう、けちょんけちょんにけなされてしまいます。村上春樹や村上龍でさえ、たいしていいようには書かれていません。勧められているのは、やはり谷崎潤一郎、夏目漱石、太宰治、三島由紀夫といったビッグネーム、そして現代作家の中では中上健次、金井美恵子、古井由吉といったあたりです。とくに僕はこの近代三作家の作品をただの一つも読んだことがないので、この本で紹介されている作品を是非いくつか読んでみたいと思いました。

 ところで、渡部さんもたいがい口は悪いのですが、すが氏(本来は、糸ヘンに圭、という一文字)はさらに上手の辛口を披露されます。渡部さんがいろいろ言いながらも作家や作家志望の人に対する助言を与えているのに対し、すが氏はそういった発言も見当たりません。更に片仮名言葉をやたら使うので、正直この人の言っていることは半分もわかりませんでした。
2002年 9月 「二十四の瞳/壺井栄」 (新潮社・文庫)
瀬戸内海べりの小さな分教場に赴任した「おなご先生」と子供たちの交流。しかし背後には戦争の暗い影が息を潜めていたのだ。

「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン70冊目。遂に七割達成です。
 有名な小説で小学生の時ぐらいに読む人は多いと思いますが、僕はこの年で初読です。先生と生徒の交流を描く、というあらすじは知っていましたが、そういった先入観で読むとちょっとおやっと思ってしまうでしょう。物語の根底に流れるのは、反戦意識とそれに基づく人の生き死にに関する、結構暗いテーマです。ただ、描き方のトーンが明るくユーモアに溢れているため、読んでいて陰鬱になるようなことはありません。

 ちょっと気になったのは、割合にせわしないスピードで話が進んでいくこと。分教場の1年生の担任になったら怪我が原因で本校の担任に変わり、次には病気が原因で学校をやめ、また十何年後かに教壇に戻ってくる。各時代ごとのできごとがあまり描き切られないまま時間がぽんぽんと過ぎていく感じがして、すこし消化不良感を覚えます。もう少しゆっくりと、同じメンバーでのエピソードを読みたかった気がします。
 また、説明的にすぎ、リズムがそがれてしまっているような箇所も見受けられます。それでも、子供らの話す温かい方言を聞いていると心は和みます。僕の出身地に近いしゃべり方なのでなおさらです。

 印象に残ったシーンがふたつ。一つは、分教場を去る前に最後に訪れた先生が、悲しむ生徒たちに向かい、最後にこの時間だけ一緒に勉強してそれでお別れにしましょう、と言うシーン。なだめる先生とそれに明るくしたがおうとする生徒たちの姿が胸にしみます。
 それから、松江のお母さんが亡くなるシーン。この物語の中では異質なシーンだけに、その迫力はちょっとすごいものがあります。
複数の名前を持つことの効用、ブスがモテる法、医者の選び方、科学と宗教の関係―。軽重織り交ぜた深い知識をもとに、『周作塾』と名を打ち若者達に呼びかけるメッセージ。

1984年から3年間、「ペントハウス」とい男性向け雑誌に連載されたエッセイをまとめたものです。使われているネタは時代を感じさせますが、流れている精神に古さはありません。いつもの遠藤節がここでも十分に発揮されています。他のエッセイ集で読んだ話も多いですけれど。

 ただ、他のエッセイ集と比べて、ちょっと引っ掛かる嫌みな点も見受けられます。後半に出てくる、マナーに関する蘊蓄のあたりなのですが、僕は全てにうなずくことはできませんでした。マナーや常識というのは時代や場所に合わせて変化していくものですが、なかなか悪しき習慣が消えずに残っているものもあり、マナーだと信じてやっていることが実は人の迷惑になっていることも多いのです。本当にそれが人のためになるのかを考えて行動することが大切なのであって、闇雲に「これはマナーだからこうしなさい」と押しつけられるほど迷惑なことはありません。
 会社勤めを経験してもいない作者が、会社生活上のマナーを語るのもいただけない。周りを見ていて思うところはあるのでしょうが、これこそ『マナー違反』であると思います。

 ただ、そういった点は措いたとして、なるほどと思わせる部分もたくさんあります。名前を二つか三つ持って自分の違う面を引き出す、毎日自分の夢を唱える、鏡に向かって笑顔の練習をする、などは実践してみようかと思う提案です。
 それから遠藤氏のエッセイを読んでいつも思うのですが、多彩な知識が紹介されているため、こちらも様々なことを知り、興味を持つことができます。今回も、「谷間の百合/バルザック」「テレーズ・デスケイルゥ/モーリヤック」「赤と黒/スタンダール」といった小説や、カミーユ・クローデルという彫刻家に興味を惹かれました。こうやって自分の世界が広がっていくのは本当に素晴らしいことだと思います。
 気に入らない点も書きましたが、読みやすくて実はためになる、奥の深いエッセイです。すらすらと短時間で読めますので、軽く面白いものをと探している人にはうってつけの本でしょう。
2002年 9月 「トラちゃん/群ようこ」 (集英社・文庫)
キジトラ猫のトラちゃんをはじめ、金魚に文鳥にインコにハツカネズミにと、一家がともに暮らした愛すべき動物たちとの交流を描いたエッセイ。

この家はすごいですね。これほどまでにたくさんの違う種類の動物を同時に飼うことが可能なんだとびっくりしてしまいました。動物は眺めているだけのうちはそれは可愛いものですが、実際に家で飼うとなると、それだけで済まないことがたくさんでてきます。餌やりはまだしも、トイレの始末、においの処理、抜け落ちた毛の掃除などなどを、毎日続けていかなくてはいけないのですから。
 それにしても群さんの家庭で際だっているのは、爆裂お母さんの存在でしょう。無類の動物好きといおうか、飼えるかどうか判断する前に可愛いからもらってきてしまう姿を、子供達は半分あきれ顔で見ています。それでも結局は家族みんなが動物好きなのでついつい世話を焼いてしまうのです。弟さんのキャラクターなんかもうまく描かれていると思います。
 読んでいて時折、これって創作が入っているんじゃないのー、と首を傾げる記述がいくつかあってちょっとだけ興をそがれることがありましたが、とにかく明るくて楽しい一冊です。
2002年 9月 「岬/中上健次」 (文藝春秋・文庫)
秋幸は海辺の町で、人間たちの生きゆくさまを見つめる。種違いの姉たち、自分を生ませた本当の父、ともに働く人夫たち。斬りつけるような激しい文体で業の渦巻く世界を描いた表題作と、他に三つの短編を収める。

 中上健次、初読。
 殴られました、文章に。こんなに文章の持つパワーを感じさせられたのは、三島由紀夫の「金閣寺」を読んで以来でした。内にあふれる叫びのような思いを紙にぶつけることで書き上げられた作品なのだと思います。作品世界が作者の心の中そのものである、それほどまでにストレートな心情が伝わってきます。

 僕は短編集であっても頭から読んでいくのが普通なのですが、表題作は最後に収められていて、そこにたどりつくまでに読み疲れてしまうのが嫌だったので、まず最初に「岬」を読みました。
 読み始めでまず、つまずきます。冒頭10ページぐらいで怒濤のように登場人物が出てくるのです。主人公の秋幸、姉夫婦、義兄の妹夫婦に兄夫婦、秋幸のもう一人の姉、秋幸の母、土方の労働者たち。さらに秋幸は姉たちとは父親が違う私生児で、母は今はまた別の男と結婚して子をもうけ、秋幸を生ませた男は別の女にも子供を作らせていて……と、もう人間関係が入り組んでいて、それを頭の中で整理するだけで時間がかかります。しかし、それはすぐに慣れました。決してわかりやすくは書かれていないのですが、あれを、きっちりわかりやすくと考えて書いたらもう、作品は死んでしまうでしょう。
 文体としては、短い文章がスタッカートで機関銃のように続きます。純文学においては、なぜか読点が少なく長々と続く文章の評価が高いように思うのですが、この作品は正反対です。しかも普通、「〜した。〜した。〜した。」と「た」が続くのを嫌って変化をつけることが好まれますが、この作者はそれをいとわず、平気で「た」を続けます。それでも違和感なく文章を読むことができ、逆に特長にもなっています。遠藤周作氏あたりにも見られる、同じ描写を何度か繰り返しながら変化させていく技法も効果的に使われていると思いました。

 「岬」にもそのあとに読んだ併録の作品にも、基本的には同じようなテーマが流れています。肉親との関係における、自分の中に潜む愛や憎しみへの衝動にとまどう姿。そして、そんな自分を含め、人間が生きていることの意味とは何か。それを主人公は激しく自分に問いかけるのです。
 「火宅」は「岬」と同じ設定内で「岬」に先立つ話となっています。この作品で技法的に目を引くのが、主人公である「彼」の現在の出来事と、彼が生まれる前の彼の兄を視点に据えた出来事とが折り重なって描かれている点。「彼の兄は〜」という描写が続いたあと途切れることなく「彼は〜」と突然現在の出来事を挟んだりします。これも最初は戸惑いますが、読み終えてみると、その出来映えの素晴らしさに感服します。

 みっしりと中身の詰まった文章は、読んでいて少し疲れてしまうほどです。さらさらと読み飛ばすことができないのです。読むのが速い人でも、この人の作品にはいつもより時間がかかることと思います。内容の重さという点でも、暇つぶしに読む作品ではないでしょう。世代をわたって業が受け継がれるという内容は、「心臓を貫かれて/マイケル・ギルモア」を思い起こさせます。
 とにかく僕にとって、久しぶりに衝撃を受けた作品でした。「岬」「火宅」に比べ、「黄金比の朝」「浄徳寺ツアー」のインパクトがすこし弱かったので4点にしましたが、先の二作品だけなら文句なく5点です。
2002年 9月 「太平洋の防波堤/マルグリット・デュラス」 (河出書房新社・文庫)
母親が築いた防波堤は、一夜のうちに崩れ去った。何をやっても、うまくいったためしはなかった。娘が自らの美貌で手に入れたダイヤモンドを売るため、親子三人は都会へ出る。仏領インドシナの貧しい平原での暮らしを支えていたのは、どんな時でも失わないわずかな”希望”という光だった。

映画化された「愛人」で有名なデュラスの、その「愛人」と舞台や設定を共にする作品。入植先のインドシナで、母親が貯めた金で手に入れた土地が実は高潮にさらされる不毛の地であり、そこに防波堤を築いたが蟹にやられて決壊してしまうエピソードなど、半分以上がデュラス自身の体験にもとづく内容のようです。

 小説とはストーリーではなくその語り口が全てなのだ、ということを実感させてくれる作品です。べつに劇的なことが起こるわけでも、謎を提示して読者をひっぱっていくわけでもありません。事実、読んでいる途中で退屈になることもしばしばでした。なのに何となく次が気になって読み進め、気がついたら作品世界にどっぷり浸っている。そして読み終わったとき、書かれた内容や筋よりも、親子三人の姿や彼らの暮らしたバンガローや町の強烈な印象だけが鮮やかに残っている、という感触。感想が書きにくいという点では、「赤い草/ボリス・ヴィアン」と似ているかもしれません。あちらは幻想的でこの作品のほうは現実的という、舞台の違いはありますが。
 また、これはテクニックとして意図的に書かれたのかわかりませんが、「つかみ」の巧みさを感じました。母親の来し方、とくに防波堤の一件をまず紹介し、興味を抱かせます。そして、ラムの酒場で母親と息子のジョゼフが狂ったように笑いこけながら会話をするシーン、さらには母親が娘をはげしく殴りつけるシーンで、僕は完璧に「つかまれ」ました。この勢いで、中盤以降の起伏の少ないストーリーも読み続けていくことができます。

 翻訳も素晴らしいと思います。なにしろ、訳文特有の読みづらさが全くないため、訳文を読んでいるという感じが全然しないのです。豊富な語彙を用いて、この淡々とした物語を単調にさせていません。

 この作品を、今の年齢で読めたことを幸運に思います。10年前の僕なら、読んでもなんのことやらわからなかったような気がします。
2002年 8月 「羊をめぐる冒険(上)/村上春樹」 (講談社・文庫)
妻と別れ付き合いはじめたガールフレンドは、美しい耳の持ち主だった。やがて、不思議な黒服の男に聞かされた話から、<羊>をめぐる冒険が始まる。

俗に「ダブル村上」と称され、いや実は二人の作風は全く違うんだともいわれる評価を耳に、村上春樹初読を試みました。この作品を読んだ限り、僕はやはり龍氏と似た匂いを感じました。ただ、こちらの方が筋立てがわかりやすく、次に何が来るんだろうという期待感で読ませてくれます。おかげで上下巻を一週間足らずで読み終えることができました。が……

 龍氏と似ている、と感じたのは、登場人物の超人ぶりです。主人公は、能動的に何かを行うタイプではありません。常に漂うのは、「人生なんてこんなもの」という諦観です。だから何が起こっても動じない。はじめからそんなことはわかっていたよ、と言いながらタバコでもふかしている。なのに勘はやけに鋭く、人との会話も巧みで、スマートに女性をくどき、国を動かす大人物の前で緊張もせず、脅しも怖れず、タイムリミットを前にしてひとかけらの焦りも感じない。
 ガールフレンドの女性も同じ。何に対しても、臆するようなところがない。他の登場人物たちもみな会話はスタイリッシュで隙がなく、凡庸さは見当たらない。そんな人々ばかりが住む世界。

 人生に期待しないからこそ何が起こっても驚かないのだ、というはすごく理想論だと思うのです。そういう見かけを気取っていても、全く希望を抱かない人というのはいません。もしそうなら無気力で何もできない。それがこの作品の人物たちは、ちゃんと生活している。その中で降りかかる厄介事を静観していられるのは、自分自身を強く信じるところがないとありえないことだと思います。たぶんこの主人公たちは、どんなひどい拷問にさえ耐えうることでしょう。だから僕は彼らにリアルさを感じることができず、共感を抱くことができないのです。
 筋が面白いというのは、疑問の余地はありません。休む暇なく新しい展開が出てきて、話がひろがっていく。なのに僕には、主人公が「冒険」をしているとは、思えないのです。ただ周りに起こる出来事に身を任せていたらいつの間にか北国の牧場まで来ていた、という感じ。

 僕は実生活において、大したことはできない癖に口ばかりうまくて世の中を渡っていく奴を、いっぱい見てきました。そんな人たちに対する嫌悪感が、この主人公やガールフレンドとシンクロするのだと思います。例えば、主人公と最初に食事をした時の、ガールフレンドの言葉。傲慢の極みです。もし僕が実際にこういうことを言われたら、目の前の皿を粉々に砕きたくなることでしょう。

「私は初対面の人に会うと、十分間しゃべってもらうことにするの。そして相手のしゃべった内容とは正反対の観点から相手を捉えることにしているの」

 なお、この作品は、「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」という二作品の、続編にあたります。僕は普通、シリーズものは順番に読むタチなのですが、ネットで村上春樹入門としてちょうどいいという意見がいくつかあり、何よりあらすじの面白さに惹かれて手にしてしまいました。順番にこれらを読み進めれば、もう少し違った感想になったかもしれません。主人公の言動や、<鼠>の運命に心を動かされたかもしれません。
2002年 8月 「羊をめぐる冒険(下)/村上春樹」 (講談社・文庫)
同上
2002年 8月 「赤い草/ボリス・ヴィアン」 (早川書房・単行本)
みんな、擦り切れていくんだ−。ウルフは記憶を再生除去する機械に乗り、過去の記憶を反すうするたびに思う。自分の人生には、いいことなど一つもなかったのだ、と。

読んだことのない人に、少しでも作品に対する興味を喚起させたいと考えて、いつも簡単なあらすじを上のように書いています。しかし、この作品についてほど、あらすじを書くのが無意味だと思ったことはありませんでした。ここではストーリーなど、あってないようなものです。

 とにかく、読みづらい本ではあります。それも、わかりにくい比喩で往生するぐらいならいいのですが、物語世界全体からして理不尽な構成なのです。犬は平気でしゃべるし、ウアピティという訳のわからない生物が出てくるし、裸にした男女を吹き矢で吹いて遊ぶような娯楽が街の中にあったり、それらの謎が意味深長なのに、全く解明されていきません。恐らく、ほとんどの描写に比喩的な意味はないのでしょう。作者が頭に描いたイメージがそのまま投影されているだけだと思います。したがって、現実世界なのかファンタジーなのかホラーなのか、そういった区別をするのさえナンセンスなのでしょう。
 もともと僕は、文学者が「研究」と称して、過去の作品に無理矢理意味をつけているのを、ほとんど信用していません。意味など、付けようと思えばいくらでも付けられます。「そういう風にもとれる」ぐらいのレベルの解釈を偉そうにぶっている解説を読むと、あほらしくなってきます。

 僕はこういった、詩的で不条理な小説は得意ではないのですが、この作品についてはひどく惹かれてしまいました。ただ、感想は形にしづらいのです。
 主人公のウルフは、助手と共に作った記憶忘却機の中に入ります。そこには別世界が待っていて(このような書き方も、全然本作品に合っていないのですが)、審判を下す人物の質問に答える形式で、ウルフは過去の自分について語ります。家族との関係、少年時代のこと、宗教との出会い、青年期の性生活と結婚、社会人としての自分、等々。結局いつでもウルフは、ただ擦り切れてごまかしてきただけだった。ひとつひとつそれらを確認していく悲しみ、そして最後に彼が取る選択。静かに心に沁みて、離れません。
 僕がこの主人公に共感するのは、その苦悩する姿です。不条理な人生を前に、結局こんなもんさと開き直り、無感動に生きていけるのは、明らかに「強さ」です。いっぽうこのウルフは、開き直ることができず、状況を打破することもできずただ苦悩して擦り切れていく。その弱さに、共感できるリアルさを感じ取ることができるのです。

 この作品で僕は、大好きな鈴木志保氏の漫画「船を建てる」を読んだ時と同じ感触を味わいました。あの何とはなしのやるせなさ、終末感。なにせ「船を建てる」には、ヴィアンの「北京の秋」をモチーフに描かれてる話もあるのですから、当たり前といえば当たり前です。
 次はその「北京の秋」を読んでみたいと思っています。
2002年 8月 「坊っちゃん/夏目漱石」 (新潮社・文庫)
江戸っ子気質の奔放教師が赴任したのは、四国の片田舎にある中学校。”赤シャツ”教頭や”野だいこ”教師との、完全なる善悪構造。果たして、正義は勝つのか?!

「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン69冊目。七割達成まであと1冊と迫りました。

 夏目漱石の小説というのは、書かれた時代の古さにも関わらず、本当に読みやすいなあと感心します。もちろん一つ一つの単語や事象が現代にそぐわないことはどうしてもありますが、それにしても読みやすい。いまだに売れている理由がよくわかります。

 さて、いわゆる江戸っ子気質の、言ってしまえば偏見たっぷりの言動をする主人公が、赴いた先の田舎の中学校で繰り広げる一騒動の物語です。「こころ」や「それから」のようなドラマ性は含まれず、心に大きく響くようなことはないのですが、飄々と爽やかな読感を楽しむ作品だと思います。登場人物のキャラクター付けも本作の秀逸なところで、短い物語の中で生き生きと絡み合い、息づいているのが感じられます。
2002年 8月 「春琴抄/谷崎潤一郎」 (新潮社・文庫)
類い希なる美貌を持ちながら盲人ゆえの気難しさから、無軌道な驕慢ぶりで周囲の手を煩わせる春琴。幼い頃から「手曳き」として仕えた佐助との間に、不可思議な愛憎関係が芽生える。

脱帽。すごい作品です、これは。こんなに短いのに、どうしてこんなに素晴らしい小説が書けるのでしょう。

 物語は、「鵙(もず)屋春琴伝」という小冊子を語り手が紹介するという、少し突き放した視点から語られます。春琴とはこういう人物であった、そしてこういう出来事がおこった、という感じに。また、文章は独自の形式で、一章の間に改行はひとつもなく、句点(「。」のこと)さえ省かれている場所が多くて、読みにくいことこの上ない。さらに、旧文語調で書かれた「鵙屋春琴伝」からの抜粋が挟まったりするため、最初は閉口して本を置きかけました。
 が、読み進むにつれ、そんな思いは吹っ飛びます。この非常識な文体から、何とも言えないリズムが生まれてくるのです。少し前に読んだ同氏の「文章讀本」に、文法的な整合性に必ずしも重点を置いていない姿勢が書かれていますが、正にそれが実証されています。

 読みはじめる前に僕は、この作品に対する偏見、というか思いこみを持っていました。本作品の裏表紙のあらすじや他でみかける紹介文などを読んでも、佐助の献身ぶりが強調して書かれ、春琴の性情についてはあまり触れられていないため、勝手に春琴という女性は清らかな聖女なのだろう、と思っていました。山口百恵さんが昔映画で演じたことからも、そんな印象がありました。
 ところが実際には、春琴の傲慢で凶暴たること、驚くほどです。弟子や使用人達を、人ではなく道具のように扱います。平気で口汚く罵るわ、三味線のバチで殴るわ、またそれを一片たりとも謝ったり反省したりするところがない。聖女どころか悪女と言われてもおかしくありません。
 佐助との間柄に至っては更に酷いもので、まさにしもべ扱いです。しかし、稽古の送り迎えの役だけでなく、食事や入浴などほぼ全ての生活の用を任されていた佐助との間には、それゆえの倒錯した関係が築かれていったのでしょう。春琴の佐助に対する非道ぶりは度を超えています。春琴はトイレの後も手を洗わない、なぜならトイレで手を使う用事は全て佐助が済ませるから、というエピソードは衝撃的でした。

 物語が進むにつれ、文章の美しさも一段と際だってきます。ここで一つ一つ例を挙げるのは長くなりますのでやめますが、とくにラストにかけて盛り上がり収束するあたりの言葉選びの巧みさなど、是非その感触を味わってほしいと思います。

 後年、春琴は賊に寝込みを襲われ、顔にひどい傷を負います。変わり果てた容貌を見てくれるなと懇願する春琴に対し、自分で両目を潰した佐助は、もう大丈夫です、これで何も見えなくなりましたから、と春琴に告げるのです。それでも二人は生涯師弟関係・主従関係を貫き、遂に結婚の契りを交わすことはありませんでした。
 この二人の異常な関係を恋愛と呼べるのか。答えの一つはラストで簡単に明かされるのですが、それだけで二人の関係を表すことはできないでしょう。とにかく常人には理解不能な関係なのです。
 ただ、よくわからない小説、というのでは決してありません。男女の関係というのはかくもよくわからないものなのだ、ということがよくわかる小説です。
 解説にあった次の言葉が、この小説をとてもうまく表現していると思いました。

「主従でもあり師弟でもあり相弟子でもあり、かつ実際上の夫婦でもあったひとくみの男女の、異様な至福に慄(ふる)える人生の悲劇である」
49歳でピストル自殺を遂げた著者による、詩集。ほんの短い言葉の中にこそ、真実はある―。

総じて僕は詩というものが苦手です。何か含みのある言葉だけを並べて悦に入っているようなものが、ほとんどだからです。少しおっと思ったのは、「智恵子抄/高村光太郎」と「厄除け詩集/井伏鱒二」ぐらいでしょうか。
 それでもこのブローティガンだけは、是非一度読んでみたいとずっと思っていました。僕の大好きな漫画家鈴木志保さんが大いに影響を受けたというのを聞いたからです。鈴木さんの著作「船を建てる」でモチーフやセリフに使われているものがこの詩集にないか探しながら読んでいたのですが、今のところ見つけられていません。
 一篇ずつは本当に短くて、読んでいくと、世の中に対する何とはなしの諦観、倦怠感、そして見え隠れする、女性に対する思い、などが心に残ります。まるで広い荒野に一人で取り残されたような気分になります。今度は「アメリカの鱒釣り」など、小説のほうのブローティガン作品を読んでみたいと思います。
2002年 7月 「黒い聖母と悪魔の謎/馬杉宗夫」 (講談社・新書)
聖堂に立つ奇怪な悪魔像、不吉に黒く塗られた聖母像や目隠しをされた女性像、葉っぱ人間―。西ヨーロッパに点在する、これら図像の謎を解明する。

タイトルからはまがまがしいような内容が想像されますが、実際は、素人にもわかりやすく書かれた美術解説本です。ヨーロッパに存在する、一見不可思議に思える図像について、おもにキリスト教美術という観点から解説が加えられています。内容には少し性急で納得しかねる部分もありますが、知的好奇心をくすぐられるため、面白く読み進めることができました。だって、不吉な色であるはずの黒で塗られた聖母像、大聖堂に立つ目隠しされた女性像、顔を葉っぱで覆われた葉人間像なんて聞いたら、どういうことなんだろうと思うじゃないですか。
 ノートルダム寺院のガーゴイル像や、クリュニー美術館のユニコーンのタペスリーなど、僕の大好きなパリの話が出てくるのも楽しかった。タペスリーについては、去年現地で買ってきたポストカードがあったので見比べながら読んでいました。
2002年 7月 「内なる殺人者/ジム・トンプスン」 (河出書房新社・単行本)
アメリカの片田舎に住む保安官補ルー・フォードは、心に巣くう暗黒の炎にまかせ、次々と殺人を繰り返していく。

やっぱりだめです。僕には、この手の小説を面白いと感じるセンスはないようです。人間の魂の暗黒面というテーマには大いにそそられるのですが、いざ読んでみると、全く世界に入り込めず、ただ文字を追うだけで終わってしまう。
 小説では、全てを書き尽くさずにヒントになる文章だけを与えて、ああ、これはこういうことだったのか、とわからせる手法が多く取られますが、翻訳ものはこれがわかりにくいんですよね。日本の小説だと大体ぴんとくるんですけれど。
 という訳で、すごく評価の高い作品なのですが、僕には、ある人がなんだかわからない理由で何人かを殺す様が描かれているんだなあという感想が残っただけで、人間の暗黒面に驚愕したり、わくわくしたりぞくぞくしたり、ということはありませんでした。
2002年 7月 「28のショック/生島治郎」 (出版芸術社・単行本)
SF・ミステリー・ハードボイルドなど、短編の名手による、奇妙な味わいを持つ28篇を収録。

とあるところで評価されていた、「暗い海暗い声」というショートショートを読むために購入しました。直木賞作家で文章が巧いという評判もありますが、古い作品が多いからでしょうか、僕にはあまりそうは思いませんでした。ストーリー的にも古く、ほぼ全ての作品についてオチが途中でわかってしまいます。「ハードボイルド」として紹介されている「東京二○六五」という作品も、全然ハードボイルドではありません。本短編集のなかで最も長い作品ですが、この人物が実はロボットだった、という展開が全ての、子供向けにもならない内容です。ただ、最後の「頭の中の昏い唄」という作品だけは、いい味を出していました。オチは頂けませんが。
2002年 6月 「文章讀本/谷崎潤一郎」 (中央公論新社・文庫)
文章とは何か、文章の要素・文章の上達法とは―。多彩な引用を引きながら、丁寧な解説で未だに手引き書として実用に供される一冊。

文章技能に関する本は時々読むのですが、これまでで一番気に入りました。なにぶん昔に書かれた本なので、参考になるのかという疑問が読む前にはありました。しかし、良い本は時代を超えますね。さすがに古さを感じる部分もいくつかあり、特に、参考例として古文ばかりを引き合いに出されるのには読みづらくて難渋しましたが、書いてある理念そのものはごく正当でわかりやすく、現代にも立派に通用する内容が詰まっています。

 著者はまず、文章上達法というのは論理的に説明しようとしても限界がある、それは多分に感覚的なもので最終的には良い手本を多く読むことに尽きる、と断ったあと、それでもなるたけわかりやすい言葉で出来る限りの説明を試みています。まずこの精神に感服します。
 一つ驚いたのは、文章を書く上での注意点として、主語と述語との呼応や修飾関係の明確化などがよく挙げられますが、この本ではそれらに重点が置かれていないことです。日本語に明確な文法などない、文法的に正確なのが必ずしも名文ではない、実は誰も正確に使ってなどいない、と著者はたたみかけます。僕は理系的思考のためか、文法には結構気を遣い、意味が別にとられるような場合は一意になるように書き直すなど、よくやります。この考えにはちょっとびっくりしました。それでも、作家である著者の意見には説得力があります。

 さらに本書の特徴は、後半に出てくる次の一文に集約されています。曰く、「この読本は始めから終わりまで、ほとんど含蓄の一事を説いているのだと申してもよいのであります」と。ここでいう「含蓄」とは、物事をあまりはっきりと書いてしまうのではなく、ある程度ぼかすことによって広がりや味わいを出すことです。ここで著者は自分の作品「愛すればこそ」の例を引いています。このタイトルを外国語に翻訳する場合、「私は」とか、「彼女は」とか、あるいは「人々は」とかいう主語をつけなければならない。でもこのタイトルは、そういった主語をあえて限定しないことで深みを出している、主語を入れてしまうと明瞭にはなるが限定されて狭い意味になってしまう、と述べています。とてもわかりやすくて、うなずいてしまいます。

 読本というと敬遠されがちですが、活字が大きいためか、すいすいと読むことができます。遅読の僕が言うのだから確かです。巻末にある、吉行淳之介氏の解説も興味深い。本書の内容に同意しながら、自分の異見も述べています。
 実用書として何度も見返す一冊になりそうです。重要な箇所が太字で印刷されているのも非常に見やすく、実用書として優れています。この感想を書くにあたっても、この太字にはずいぶん助けられました。
2002年 6月 「斧/ドナルド・E・ウェストレイク」 (文藝春秋・文庫)
 製紙会社をリストラされたバーク・デヴォアは、次の就職口を勝ち取るために架空の会社の募集広告を出し、同じ境遇で自分のライバルとなる相手を一人ずつ殺していく。
 彼は思う。目的の前に手段は正当化されるのだと。


設定が非常に面白いと思いました。殺人の動機が経済的に立ち行かなくなった状況を打破するためというのはよくありますが、そのために架空の募集広告を出し、送られた履歴書を元に自分と同じ技能を持つ(=自分が次の就職をするためのライバルとなる)人間を選び出し、一人ずつ殺していくというのは非凡です。ただ、その先が少し単調だと感じました。殺人の方法は毎回違うのですが、相手の住所に行って殺す、を繰り返すだけです。途中に、書評などで作者特有と言われるブラックユーモアがあったり、息子が事件を起こしたりするハプニングもあるのですが、筋を大きく揺らすほどのものではありません。
 どうも僕には翻訳ものは、ガツンと来ないんですよね。もちろん相性の問題だと思うのですが。
2002年 6月 「ノラや/内田百閨v (中央公論新社・文庫)
 一年半かわいがった野良猫のノラが、ある春の日にいなくなった。涙にくれ探索に手を尽くす百關謳カとその周囲のさまを、哀れにもおかしく描く。

名文家として知られる内田百闔≠フ、有名な猫エッセイです。あるところで文章のお手本として紹介されていたので、読んでみました。なるほど、断片的な文の連続のようでいて詰まるところがなく、飄々としたなかにも温かさが感じられる、名句調です。昭和三十年代当たりの旧文体なのでそのまま活用はできませんが、エッセンスをくみ取ることはできたような気がします。
 しかしその名文調も、途中から様子が変わっていきます。ノラが失踪したあとの出来事は日記形式で綴られますが、だいぶうろたえていらっしゃったことと、著者自身が辛くて見返すことができず、充分な推敲が行われなかったこともあり、筆はぶれています。
 とにかくノラがいなくなって以来、百關謳カは泣きっぱなしです。失踪から1カ月が経ち半年が経ちしても、回りの心配もよそにノラを思い出しては泣く毎日。同情的に読みながらも最後の方ではユーモラスに感じられるほどでした。
 ノラがいなくなった後を継ぐように内田家にはクルツという新しい猫が居着くようになり、話題もこのクルツの方へと流れていきます。クルツは5年数ヶ月で病死するのですが、いまわの際が描かれるシーンには、涙を誘われます。「私はいわゆる猫好きではない。ただノラという猫とクルツという猫、この二匹が可愛くて堪らない」という著者の言葉が心に沁みます。
2002年 5月 「どくとるマンボウ航海記/北杜夫」 (新潮社・文庫)
船医として漁業調査船に乗り込んだ著者による、実体験記。1950年代の異国の様子が、青春色豊かに綴られる。

「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン67冊目。
 肩の力を抜いて、思い切り楽しめる作品でした。いわゆる名所紹介の旅行記ではなく、さりとて小難しい理論を展開するでもなく、凪いだ海面をゆくこの船から見た景色のように、のんびりとした乗船生活の日常が描かれています。旅行記というより、エッセイに近い読感ですね。
 北杜夫氏は、僕の好きな遠藤周作氏と友人関係にある作家です。遠藤氏のエッセイなどに北氏のことがよく登場しています。初読だったのですが、遠藤氏と似た文体で、文章がすんなり体になじむような心地よさを感じました。やっぱり僕はこういう文章が好きですね、多少古くさいと言われようが。今度は、巻末に紹介されていた「夜と霧の隅で」を読んでみたいと思います。
2002年 5月 「魍魎の匣/京極夏彦」 (講談社・文庫)
無骨な刑事、木場の目の前で起きた少女転落事故。小説家関口は雑誌記者の鳥口と共にバラバラ事件の謎を追い、榎木津は遺産相続に絡む誘拐事件の解明を依頼される。彼らの前に不気味に横たわる箱館。そして京極堂の介入により、憑き物が姿を現す!

とりあえず、ページ数をご覧ください。1048ページですよ。文庫本なのに、寝転がって片手に持って読むのが苦痛なくらい重たいのです。しかも933円って、これで文庫本の値段ですかっ(笑)。
 しかし、遅読の僕でも苦になりませんでした。この圧倒的なエンターテインメントぶりはどうでしょう。しかも、この人の書く文章は僕の肌によく合っていて、すいすいと読み進めることができるのです。
 出だしから、不思議な文章で幕が開きます。帰省途中の男が、電車の中で不思議な箱を持った青年に会う。箱の中には、綺麗な少女の人形がぴったりと収まって入っていた。彼が感心していると、その人形は微笑み、小さな声をあげる―。というような内容が、旧仮名遣いで3ページほど。それから本格的な物語が始まります。最初は二人の美少女の描写で、一瞬、ティーン向け恋愛小説のような雰囲気が漂いますが、その先はもう怒濤の京極節です。
 京極堂の蘊蓄は、今回も健在です。前作「姑獲鳥の夏」よりは抑えめではありますが。そして僕は、そこで語られる人間観や世界観に、強く共感を覚え、それがこの作者の作品を指示する理由の一つになっています。人の幸せは客観的に計れるものではない、本人が幸せと思うならどんな環境でもそれは幸せなのだ、というところや、科学は手段であって目的ではないというところなど、いちいち深くうなずきながら読んでいました。
 長い物語の中で、さすがに少しだれかけてしまうところを、大きな展開でまた読者を引き込む仕掛けがしてあるのも巧いですね。◆以下、ネタバレ!◆僕は、加菜子が消えるシーンと、久保のバラバラ死体が発見される所の印象が強かったです。
 御筥様との対決がクライマックスかと思いきや、まだまだ先がありましたね。箱館自体が人間の体の一部だった、とは驚きでした。少し超常っぽいですが、ちゃんとリアリズムを感じさせるように書いてあるので、違和感はありません。
 解き明かされる幾つかの謎の中で、なにより僕は、久保がバラバラ殺人(実際には殺人とは呼べないのですが)に至った動機に、一番の衝撃を受けました。本記述の合間に書かれている、あの文章。何かな何だろうと思っていると、それが久保の書いた小説だったとわかる。ああそうだったのかと思っていると更にその先がある。その小説は実話で、箱に入った少女を見たことで久保の内なる欲望に火がつき、犯罪に至ったのだと。これには唸りましたね。
 逆に、最後の最後に明かされる、陽子と美馬坂との関係、これはちょっと溜めが長すぎてさすがにわかってしまいました。
作品全体に言えることですが、先の展開が読める部分がいくつかありました。もう少しコンパクトにしても良かったような気もします。
 でも傑作ですよ、これは。◆以下、ネタバレ!◆内容からして、現代版「孤島の鬼」という感じですね。だいぶ毛色は違いますが。
2002年 5月 「夏の庭 -The Friends-/湯本香樹実」 (新潮社・文庫)
人は死んだらどうなるのだろう―。友人の言葉にかり出され、おじいさんの見張りを始めた少年たち。老人の不可解な行動にとまどいながらも、いつしか言葉を交わし、部屋に上がり込むようになる。

なんと読後感のさわやかな作品なのでしょう!あとがきに、著者がこの作品を描く動機になった御自分の祖父との逸話を紹介していますが、正にその「こういうことが書きたい」という思いがじんわりと伝わってきます。
 ラスト手前までは短いエピソードの連続で、さくさくと読めるのですがそれほど心に重く残ることもなく、物足りない感じがしていました。しかし、最後に少年が、老人と過ごした夏の日々を思い返し、自分たちがいかに重要なことを学んだかを認識する。ここでこれまでの小さなエピソードの累積が生きてきます。実にさわやかで温かい感動が胸を包みます。
 この作品、もしおじいちゃんに思い入れのある人が読んだら、号泣ものでしょうね。ネットでもそういう感想を見かけました。
 「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン68冊目。
2002年 4月 「五分後の世界/村上龍」 (幻冬舎・文庫)
気付くと小田切は、戦場に向かう列の中を歩いていた。そして、唐突に始まる戦闘。いつ果てるともない砲火のなか、この世界の構造を少しずつ理解していく小田切―。

村上龍氏が、自身最高作と評する作品です。が、僕にはこの作品をどう評価したらいいのか、はっきりまだつかみ切れていません。ただ、氏の作品はこれで4作ほど読みましたが、その特徴だけはつかめてきました。極端な世界を描くことで、現実世界の問題点を提起し、警鐘を鳴らそうとしている、というようなことでしょうか。
 でも、言いたいことはわかるのですが、どうも僕の心にはガツンと来ないんですよ。今作品においても、若者が髪を染めたりだらしない格好をすること、やたらとアルファベット数文字に言葉を略すこと、敬語を使うことの無意味さ、などをその世界を通じて指摘しています。けれども、どこかベタな感じがしてしまい、なるほどと素直にうなずけません。
 いっぽう、戦闘シーンの迫力たるや、それは凄いものです。解説でも述べられている通り、いつまで続くのかというほどしつこく克明に描かれています。特に、ラスト付近の村での描写が僕は一番良かったと思います。前半から中盤にかけ、SFチックな印象を受けるのですが、ラストが最も生々しく、情景もリアルに浮かんできます。
キクとハシは、コインロッカーに捨てられた。破壊的な衝動を裡に秘めながら、二人は育っていく。やがてキクはワニと暮らす少女アネモネと出会い、ハシは才能を見出されて音楽の道へと進む。二人を待ち受けるダチュラとは何か―。

感想とは、全て主観的なものです。本を読んで僕がどう感じようと、基本的にはそれは僕の中だけで成り立つ話です。それを前提に書きたいのですが……この本を読んで僕は、世間で言われているほどの感銘やショックは受けませんでした。氏の作品を読んでいつも感じるのは、あまりに作り物めいていて話に入っていきづらいこと、比喩が多く言い方が遠回しな割に肝心な部分ではベタな表現が多いこと、句点(「。」のこと)が読点(「、」のこと)に置き換えられたりする、スピード感があってとげとげしい文章がどうしても好きになれないこと、などです。ただでさえ読むのが遅い僕ですが、いつもより多く時間がかかってしまいました。問題意識の部分では共感できるのに、いざそれが小説という形になると、どうにも違和感を感じて仕方がありません。
 この小説、皆はどうやって読んでいるのでしょうか。キクとハシ、この二人に自分を同化させることは普通、難しいでしょう。二人の特異性がこの物語を引っ張る原動力となり、エネルギーを産み出しているのですから。それならやはり、ものすごいスピードで展開するストーリーに、次に何が来るのかという期待で読み進めるのでしょうか。
 僕はまず、ハシの描き方に疑問を感じます。いつもは自信のないはずの彼が、突然歌い始めたり、歌手になってからはニヴァやバンドのメンバーに自信たっぷりな態度をとったりするのは、どうなんでしょう。その不可思議さも作品の魅力だとするのは安易な捉え方だと思います。そこになにがしかの妥当性がないなら、意味がありません。ただ無茶苦茶に書けばいいというなら誰だってできるのですから。
 それから、やたらと出てくる「性器が〜」という言い回し。必要性があまり感じられず、こういう書き方で物語の特異性だとか暴力的なイメージなどを表現しようというなら、あまりに安っぽ過ぎます。
 ところどころ、おおすごい、と思って話に引きずり込まれそうにはなるんですよ。ハシを探しに東京に来たキクが、ホテルの部屋で養母が死んでいるのに気づき、その部屋のドアから娼婦が足をくねくねと出して見せるシーン、これなど、すごく印象に残っています。でもそれが続かないんですよね。たぶんもう、この人の作品を読むことはない気がします。
 本を読んだあとには、それが楽しい話であれ悲しい話であれ、なんらかの充足感が得られると思うし、それを望んで読むのだと思います。この作品を読んで、僕にはそれが感じられず、この本を読むために費やした時間がもったいなくなり、どうしようもなく腹がたって、本を二冊とも壁に投げつけてしまいました(比喩ではなく本当に)。これもダチュラのしわざでしょうか。
同上
2002年 3月 「そして粛清の扉を/黒武洋」 (新潮社・単行本)
冴えない中年女教師近藤亜矢子は、卒業式の前日、教壇に立つなり生徒に言い放つ。「……あなた達は、人質です。」 ―かくして粛清の扉は開かれ、凄惨なる復讐劇が始まった。

昨年、第1回ホラーサスペンス大賞を授賞した作品です。「バトル・ロワイヤル」と並ぶ問題作として、かなり話題になっていました。僕は「バトル〜」を読んでいないのですが、両方読んだ方に言わせると、本作は大量殺戮を殺す側から描いたもの、「バトル〜」は、殺される側から描いたものということで、題材が似てはいるが主たるテーマは違っているようです。
 さて、読み始め、かなり戸惑ってしまいました。ネットでも多く指摘されている通り、表記の上で読みづらさを感じたからです。ひとつは、「もう1度」「1つ1つ」など、漢数字が算用数字になっている点、もう一つは「〜し乍ら」「漸く」など、日常的にはあまり使われない漢字表記が使われている点、それから、「〜するように」で済むところがやたらと「〜するみたいに」となっている点、などです。ただ、これらも慣れれば読めないことはなし、何より、二転三転する展開、あっと驚かされるアイデアの連続で、読み手を飽きさせません。
 表記の問題と同時に、本作が取り沙汰される理由として、内容の過激さが挙げられます。ただ僕はそれらの意見には、言うほどの内容なのかなあと首を傾げてしまいます。
 しょせんエンターテインメントじゃないか、と思うのです。これを問題作だとしたら、ほとんどのミステリー小説は問題作になってしまいます。人間として最も忌避すべき「殺人」をテーマとして扱い、人々を面白がらせているという点では、何ら変わりませんから。全て、読んだ人の受け止め方に寄るものだと思います。僕はこれを読んで、かなり楽しめました。でも、それを真似しようとか、現実に同じような殺人を行う人を庇護しようとかいう気は全くありません。それだけのこと。
 とにかく、斬新なアイデアが詰め込まれている所に感心します。確かに、殺人の動機が弱いとか、場面の描写が弱いとか、キャラクターの書き分けができていないなどの短所はあると思います。でも、読み終わって素直に、「あー面白かった」と言える作品でした。
2002年 3月 「注文の多い料理店/宮沢賢治」 (新潮社・文庫)
イーハトーブ界で起こるふしぎなふしぎなお話。著者が生前に発表した唯一の作品集「注文の多い料理店」全編を含む童話集。

「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーンも、66冊目。まだまだ終わりません。さて、100冊のうち3冊もの作品を含む宮沢賢治。これが最後に読む作品となりました。とにかく、好きな方には申し訳ないのですが、僕にはどこが面白いのかよくわからない、というのが実感です。なんのことやらわからないまますとんと終わってしまう話の数々。雰囲気を楽しむこともままならず、含蓄があるのかどうかもわからない。うーむ、どうにも苦手です。
 ただ、「土神ときつね」「なめとこ山の熊」の二篇については、そこそこ楽しめました。
2002年 3月 「グルーム/ジャン・ヴォートラン」 (文藝春秋・文庫)
12歳の少年を演じることで、歪んだ世間から身を隠す青年、ハイム。幻想と現実とのはざまで、翻弄される人たち。狂っているのは誰なのか―。文春文庫パルプ・ノワールシリーズの一冊。

帯にある「この世はクソだ。壊せ」というキャッチが、迫力たっぷりです。翻訳もの苦手の僕が、割とすいすいと読み進められました。主人公ハイムと、女刑事サラの一人称で話は語られます。ハイムは自宅にアルゴンキンホテルという架空の世界を構築し、独白の中で出てくる人物も、実在の人間もいれば実は人形だったりもして、ハイムの空想なのか現実なのかはっきりしないまま物語は進んでいきます。これは不思議な感覚です。
 ただ、読み進むには進むのですが……。どうもやはり、名詞がぶつ切れで繰り返される書き方や、馴染みのない小物の描写に慣れないせいか、主人公の狂気のようなものがうまく伝わってきませんでした。個人的には、もっと徹底してグロな部分を描いて欲しかったような気がします。
 特に、「このクソ野郎」など、暴力的な衝動を汚い言葉で表現してあるのが、ちょっと違うと思いました。静かな狂気というのは普通のしゃべり方で何気ない仕種をする中に滲み出るようなものだと思います。
大ヒット映画に題材を取った「指輪物語」や、エポック社のシリーズなど、日本においても普及の兆しのあるボードゲーム。主な生産国であるドイツでの変遷を追いながら、249種類のゲームを一挙に紹介する!

ボードゲームファンにとっては、貴重な一冊ですね。これまでこの手の本は数えるほどしか出版されていませんから。著者の安田氏は、Webなどでもゲームの最新事情を紹介されており、ボードゲーム界に多大な貢献をされています。
 今回、エポック社から日本語版のゲームが5種類発売されるのに伴い、それらのゲームの紹介記事が半分以上を占めています。どれも安心して楽しめるゲームばかりです。ちょっとルールに踏み込みすぎているため、初心者には後半のゲーム歴を追った紹介記事の方が楽しめるかもしれません。あと惜しむらくは、写真の質が良くないこと。やはり、綺麗なカラー写真をたくさん載せる方が目につきやすく、遊びたい気持ちもぐっと強まると思います。
2002年 2月 「恋愛中毒/山本文緒」 (角川書店・文庫)
夫と別れ、弁当屋で働く私の前に現れた、創路功二郎。どうしようもない男との、どうしようもない恋愛。わかっていながらも私は、これからもそれを続けていくのだろう。

直木賞作家、山本文緒氏の出世作。何年か前の「このミステリーがすごい」にもランクインしていました。
 恋は盲目とはいいますが、そんな女の愚かしさ、恐ろしさが、読み進むにつれてじわじわとよくわかっていきます。どっぷりとはまってしまいました、この作品には。それからこの主人公のこと、割と好きです。小説に出てくる女性って、妙に冷めてて達観して偉そうなのが鼻につくようなことが多いのだけれど、この人には、それがない。しかも、それが最後には……。確かにこれ、単なる恋愛小説ではなくてミステリしてます。ちょっと表現が陳腐だったりセリフがいかにも的な部分はありますが、ものすごく楽しめる小説です。そして、ためにも(?)なります。
 それから、どうしようもないいい加減な男として出てくる、芸能人の創路功二郎。僕は読みながらずっと、大リーグの新庄選手の顔が浮かんでいました。年齢はちょっと違うけど。
プロレス発祥以来、狷介に秘匿され続けた真実。新日本プロレスのレフェリーとして通算二万試合を裁いた著者が、その大いなるタブーを公開する!

久しぶりに一日で一気読みしてしまいました。看板に偽りなし、ですね。帯に書かれた扇情的な数々のコピーに見合うだけの事実が、この本の中にはあります。衝撃の内容です。ネット上で検索してみると、この本にダメージを受けたプロレスファンで溢れています。
 僕も、同世代の男子達の例に漏れず、学生時代はプロレスの世界にどっぷりはまっていました。ただ、社会人になる頃から次第に興味は醒め、格闘技の方へと関心は移っていき、今ではほとんど見ることはなくなりました。本作を読んでそれほどショックを受けなかったのはそういう理由からだと思います。学生時代にこれを読んでいたらと思うと、ちょっと恐ろしくなるほどです。
 僕には、この本に対する評価がまだ定まりません。これを公開して良かったのか悪かったのか。著者は文中で、プロレスを愛するがこそ、これからの発展を願ってこれを発表した、と書いています。たぶんその言葉に嘘はないのでしょう。新日本プロレスとの間に様々な確執はあったようですが、その復讐が目的とするなら、この本はあまりに危険すぎます。
 著者の主張は、ざっくりと言ってしまえばプロレスの完全なるショー化ということだと思います。全てを公開し、その上でエンターテインメントとして楽しめばよい。その方が客も喜び、プロレス界が活性化される、と。しかしこれはどうなんでしょう。少なくとも僕らの子供時代にはそういった楽しみ方ではなく、これは真剣勝負であり、単純に誰が強いのかを競い合っていると思って見ていました。もちろん、成長するに従い段々と内実が見えてきますが、それでもどこか真剣勝負の部分もあるのではないかという幻想を抱き、そのショー的要素からできるだけ目を背けてきたところはあります。それが、こうまで明らかにされて、どうするのか。少なくとも、僕らが子供の頃に感じていたようにはもう、楽しむことはできません。僕は大学一年の時から日記をつけているのですが、その頃の日記に、プロレスのことが書いてあります。IWGPタッグリーグ戦で、藤波辰巳が猪木から初めてスリーカウントを取った、感動した、と僕は書いています。
 ただ、著者の主張する通り、これまで通りの幻想を保ちながら続けていくことにも限界がきているのは事実です。これだけネット社会が進んだ今となっては、ケッフェイと呼ばれるような秘匿が守れるはずはないのです。試合前にその結果を入手することさえできるかもしれません。それでも、真剣勝負を装わなければいけないレスラーやプロレス関係者達の苦悩。そして、真剣勝負が前提としてある限り浴びせられる、「八百長」という誹り。そういった後ろめたさを感じながら興行を続けていくのは、誰にとっても得策ではないのかもしれません。
 今のところ、プロレスマスコミには、この本は黙殺されているようです。いつのまにか忘れ去られ、また同じような世界が続いていく可能性もあります。でもそれならば、僕がまたプロレスに興味を取り戻すことはないでしょう。
2002年 2月 「嗤う伊右衛門/京極夏彦」 (角川書店・文庫)
疱瘡を患い、醜く顔の崩れたお岩は、娘を不憫に思う父・民谷又左右衛門の手により、生真面目だけが取り柄の浪人・伊右衛門と結ばれる。共に暮らし始める二人の周りに、不穏な輩が徘徊する。全く新しい人物像を創り出した、京極版四谷怪談。

本当に文章が巧いですね、この人は。本作は時代物ということで少々読みづらくはあったのですが、独特の言い回し・表現方法が、作品にとてもよく合っていたと思います。七五調・五七調でテンポよく語られる文体にも感心してしまいます。この文章は、ちょっと他の作家には書けないでしょうね。
 さて、内容はというと、これまた素晴らしいものなのです。<注意!!以下、ネタバレです。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>しかし、正直、普通僕らのよく知っている四谷怪談からこれだけかけ離れているとは思っていませんでした。何しろ、醜くとも気位高く、正と思う道を突き進む、強い女性、岩。そして、無愛想ながら最後には悪を討つヒーロー伊右衛門。釣り合いが取れぬといったんは別れたはずの二人が、ラストでの凄惨な大立ち回りのあとに結ばれる。こんな展開、全く予想もできませんでした。格好良すぎです、伊右衛門さん。
 ミステリ的にも、本当によくできています。最後に明らかにされる、秘密の数々。伊右衛門が夜中に子供を連れて釣りにでかける理由を知った時には、唸ってしまいました。ただひとつ、岩が宅悦を殺す動機が今一つ理解できないのですが、この作品に流れる大きなテーマとして、人の心の不可解さというのがあるとすれば、これも納得できるのかもしれません。
「ビールを飲むなら、これ」と多彩な銘柄の中で決めていた男だったが、いざ他のビールと飲み比べてみて、本当に違いがわかるのか。試した彼は愕然とする―。表題作ほか、11篇を収録。

「イエスタデイ」(2001年11月の書評参照)が割と良かったので、パリにあった日本書籍を扱う本屋で、購入しました。清水氏の作品では、たたみかけるようなギャグ小説が大好きなのですが、その意味では割とおとなしい作品が、ここには並べてあります。それでも内容は多彩で、生活の中で出てくるちょっとした喜劇を描く「猫の額」「家内安全」、少年時代の懐かしさを柔らかく表現した「青空の季節」「空白の頃」、意外なミステリーである「雨」「ブラッド・ゾーン」などなど。ノリは、「イエスタデイズ」に近いものがありました。
2002年 1月 「13階段/高野和明」 (講談社・単行本)
期限は、三ヶ月。それまでの間に、死刑囚が無罪であると証明すること。難題を引き受けた刑務官と仮釈放中の青年のコンビが、10年前の事件の謎に挑む。

第47回江戸川乱歩賞受賞作です。去年の「このミス」第8位という堂々たる称号をもらい、どの書評を見ても褒めてあります。読んでみた感想は、うーん、正直、それほどかなあ、という感じ。確かに、設定は面白く、死刑制度の矛盾や苦悩なども描かれており、最後の入り組んだ真相も巧いなあと思いました。
 まず気になったのが、視点がころころと切り替わる点。刑務官と仮釈放の青年、それから検事などが短く入れ替わるため、ちょっと興醒めしてしまうのです。それから、地の文やセリフがあまり巧くない、というのか。もうぐいぐい引き込まれて、という感じにはなりませんでした。
 それでも、死刑に対する著者の考えには、賛同できます。死刑廃止の声が根強い中、死刑を肯定している部分、そしてなおかつ、刑務官の人生に多大な影を残してしまうことに対する批判などは、痛烈に胸に迫ってきます。
2002年 1月 「白い人・黄色い人/遠藤周作」 (講談社・文庫)
美しいものと醜いもの、白い肌を持つものと黒い肌を持つもの。キリスト教は、その全てに等しく救いを与えうるのか―。遠藤周作文学の基本を成す初期作品集。

この本は、大学時代に友達に借りたままのものです。去年、パリそしてリヨンに行く時、手持ちの遠藤氏の作品をめくり、リヨンについて書かれた作品を探しては読み直していました。しかし、この作品はほとんどがリヨンに関するものであり、この一冊だけは現地に持って行くことにしたのです。
 深い内容です。そこらへんにあるベストセラーなんかには太刀打ちできない内容が、この作品の中にはあります。リヨンでの留学時に感じた、白人と黄色人との、どうにも破ることのできない大きな壁。美しきものと醜いものとを隔てる壁。読み終えたあと、それらが深く心に沁みるのを感じます。
 なお、2001年12月の書評に書いた「最後の殉教者」と同様、この作品の巻末の解説も、素晴らしい内容です。
2002年 1月 「黒い仏/殊能将之」 (講談社・新書)
元慶元年、遣唐使円載が密かに持ち帰ったという秘宝を探すため、調査に乗り出した名探偵石動戯作(いするぎ・ぎさく)。やがて石動は、福岡市内のアパートで起こった殺人事件を追う刑事と巡り合う。

「ハサミ男」で華々しいデビューを飾った殊能氏の三作目に当たります。去年の「このミス」では高評価を受けていましたが、ネット上の書評などではあまり良く書かれていません。なんか本格ミステリの掟破り的なことがされているようで、一体どういうことだろうと興味を持ち、購入しました。
 読み始めは、元慶元年だの円載だの天台宗だのと、日本史関連に疎い僕にはちょっとしんどいのかなと思いましたが、結局、その辺の知識は皆無でも全く問題はありませんでした。そして、石動の視点と殺人事件を追う刑事の視点が繰り返され、これから物語が佳境に入ろうか、という所で不思議な中断があり、そこから話がややこしい方向へ流れていきます。そして、ラスト。
 <注意!!以下、少々ネタバレ気味です。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>確かにこれは、本格ミステリの王道からは外れていますね。ミステリファンが怒るのも無理はないかもしれません。それでも、僕にはそこそこ楽しめました。星慧と夢求の攻防が尻切れのまま終わっているのが不満ですが、このあとに続く作品への序章だとしたら、これでいいのかもしれません。
 それにしてもこの人の文章はいいですね。京極夏彦ほど堅苦しくなく、かといって平凡でもない。キャラクターの動きも実にスムーズでリアルです。最近のミステリーでは、読んでいる最中でなんか白々としてしまうことが多いのですが、この人の作品ではそんなことは全く感じられません。多彩な知識と文章力。音楽ネタやクトゥルー神話はわかりませんが、石動とアントニオの会話はセンスに溢れ、物語の隙間が上手に埋められていきます。
 お気に入りの作家になりつつありますね。次は、「美濃牛」かな。順序が逆だけど。
2002年 1月 「蟲/坂東眞砂子」 (角川書店・文庫)
夫が持ち帰った、小さな石の器。古代の土器を思わせるその表面には、「常世蟲」という文字が彫られていた。その日から、平凡な主婦だっためぐみの周囲に不可解な現象が続発する。

第一回日本ホラー小説大賞で佳作に選ばれた作品。著者のデビュー作ということで、設定はそそられるのですが、リアリティが感じられないというか、描写不足というか。人物の動きや筋の運びがぎくしゃくしていて、作り物という感じがどうしても先に立ってしまい、世界に入りづらいのです。さらに、途中同じことの繰り返しで話が進んでいかず、間延びしてしまっています。説明過多な描写も如何なものか。書くことと書かないことの区別をつける必要があると思いました。
 <注意!!以下、少々ネタバレ気味です。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>それから、ラストも、よくわからない。結局、「蟲」とは何だったのか。祖母や秦河勝やカヤの立場も謎です。この世に飛び立った蛾は、何の象徴なのでしょうか。簡単に善悪をつけることはないと思いますが、これでは読み終えた者が消化不足になってしまいます。